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2007年4月

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2007 年度 修士論文

トリプルミッションモデルから見た

日本陸上競技界発展構造の解明

Study on the Structure of the Development of

Japanese Athletics

-Case of Triple Mission Model-

早稲田大学 大学院スポーツ科学研究科

スポーツ科学専攻 スポーツビジネス研究領域

5006A036−5

佐藤 峻一

SATO, Shunichi

研究指導教員: 平田 竹男 教授

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目次 第1章 序章 1 1.1 世界における陸上競技の商業化 3 1.2 日本における陸上競技の概観と日本陸連 5 1.3 トリプルミッションモデルとは 6 1.4 研究目的 7 第2章 研究手法 7 2.1 研究方法 11 2.2 資料収集方法 11 第3章 結果 日本陸上競技界におけるトリプルミッションの変遷 11 3.1 五輪成績 11 3.1.1 入賞点数 17 3.1.2 出場選手数 21 3.2 高校生陸上競技人口 22 3.3 日本陸連収入 25 3.4 トリプルミッションの推移 28 第4章 考察1 トリプルミッションの推移の背景 29 4.1 市場の拡大による勝利の進展 29 4.1.1 中央競技団体の収入増と強化資金増加の関連性 31 4.1.2 ナショナルチームの発足 31 4.1.3 強化合宿と海外への視点 33 4.2 市場拡大の背景と課題 33 4.2.1 日本陸連による大会主催と収入内訳 35 4.2.2 主催大会におけるテレビ中継 36 4.2.3 スポンサーとの関係 38 4.3 高校生人口の減少における背景と課題 41 第5章 考察2 更なる日本陸上競技界の発展に向けて 41 5.1 日本陸連による新たな強化策 41 5.2 現状の普及策と今後の展望 43 5.2.1 民間クラブと日本陸連による普及策 43 5.2.2 国内リーグ発足へ 45 5.2.3 登録システムの充実と拡大の急務 46 第6章 結論 49 謝辞 51 参考文献 52

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第1章 序章

1.1 世界における陸上競技の商業化

陸上競技は、世界において古くから行なわれている伝統的な競技である。初の近代オリン ピック競技大会(以下、五輪)の開催となった1896 年のアテネ五輪では9競技が行われた が、陸上競技はそのうちの1つであり、以来長きにわたって五輪の主要競技としてその役割 を担ってきた。五輪においては国際オリンピック委員会(以下、IOC)が獲得した放映権 料は異なる比率で各国際競技団体に分配されるが、2000 年5月1日の朝日新聞朝刊によれ ば、2000 年のシドニー五輪において陸上競技は全 28 競技中唯一となる第一ランクに位置し、 国際陸上競技連盟(以下、国際陸連)はおよそ1766 万 8000 ドル(約 18 億 7000 万円、当 時)の分配金を得ており、第二ランクに位置し816 万 8000 万ドルを得たサッカーや水泳の およそ二倍であった。 また、水泳では 1973 年から、自転車に至っては 1893 年から開催されるなど、各々の競 技で独自の世界選手権が行われていた一方で1970 年代までは五輪にその世界戦を委ねてい た国際陸連であったが、1978 年の国際陸連サンファン総会で世界陸上競技選手権大会(以 下、世界陸上)を開催することを決め、1983 年に第1回大会がフィンランドのヘルシンキ で参加150 カ国、出場 1300 選手を超える規模で行われた。杉山(2003)によれば同大会は 「135 カ国にテレビ中継され、日本では 150 万ドル(推定)でテレビ朝日が放送権を獲得し た」という。 以降4年毎に世界陸上は実施され、1991 年には第3回大会が東京で開催された。同大会 は1987 年の第2回大会に引き続き日本テレビ放送網が放映を担当し、ホストブロードキャ ストとして、世界131 カ国に対して放送を行った(2007 年7月 22 日朝日新聞朝刊)。 世界陸上は1993 年からは隔年で開催されるようになったが、この背景について日本経済 新聞は、「『高レベルの競技会に参加する機会を増やす』というのが表向きの最大の理由だっ た。が、IAAF(国際陸上競技連盟)が巨額のスポンサー料や放映権料をあてこんで決断し たのは明らか」と述べている(1993 年3月9日朝刊)。そして、こうした国際陸連の収入額 の増加から、選手からの希望を受けて、1997 年のアテネ大会からは世界陸上において賞金 制が取られることとなった。同年からは日本のテレビ局(東京放送=TBS)が国際陸連の オフィシャルパートナーとなり、オフィシャルブロードキャストとして、世界へ向けた放映 権を獲得した。その後も世界陸上は発展を見せ、2007 年の大阪大会は参加 203 ヶ国、2000 名を超える選手が出場して行なわれており、選手数こそ五輪には及ばないものの、参加国数 においてはスポーツの世界大会としては随一の多さを誇っている。 また、先述のように世界陸上でも賞金制が定着するなど、他のアマチュアスポーツに先駆 けて、陸上競技ではプロ化の動きが急速に起こってきた。 毎年欧州を中心に開催される国際陸連主催のグランプリ・シリーズは 1985 年から賞金大 会として実施され、特に毎年6月から9月に欧州6都市を転戦する、陸上競技界最高峰のゴ

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ールデンリーグ(全6試合)は1998 年から開催されているが、個人種目に全勝した選手に は各試合の賞金と別にボーナスとして、百万ドル相当の金の延べ棒が分け与えられている (2003 年8月 27 日日本経済新聞夕刊)。 さらに、2時間を越える時間で競われるマラソン大会においては、選手の着けるゼッケン や沿道で振られる旗、選手の横を走る伴走車など多くのメディア露出が期待されるために多 くのスポンサーがつく。2003 年にはING社が世界の主要マラソン 16 レースを対象とした ランキング制度を導入し、1位から10 位までに賞金総額 170 万ドルを与えると発表(2003 年11 月5日朝日新聞朝刊)すると、2006 年からは「BIG5」と呼ばれる5大マラソン主 催者が「ワールド・マラソン・メジャーズ」を新設した。ボストン、ロンドン、ベルリン、 シカゴ、ニューヨークシティーに世界陸上、五輪を加えた大会をツアー化し、総合ポイント で優勝者を決め、総合優勝者には個々の大会の賞金とは別に賞金 50 万ドルを贈るという (2006 年4月 18 日朝日新聞朝刊)。 かつては世界全体においてアマチュアの流れを強く引き継いできた陸上競技界であった が、このような賞金大会とプロ選手の誕生という流れから、2001 年には国際陸連が International Amateur Athletics Federations から 「アマチュア」という表記を削除し International Association of Athletics Federations へと同連盟の名称を変更した(2001 年8月2日朝日新聞夕刊)。 こうした急速なプロ化を推進したのが前国際陸連会長のプリモ・ネビオロだった。ネビオ ロはイタリア陸上競技連盟会長から1981 年に国際陸連会長に就任すると、1983 年からは夏 季五輪国際競技団体連合の会長になり、1992 年にはIOC委員にも就任した。1999 年に死 去するまでの会長としての 19 年間、賞金や出場料、CM出演などを認め、サマランチIO C前会長と競うようにプロ化を進めた(1999 年 11 月8日朝日新聞朝刊)。1983 年まで国際 陸連が世界陸上を実施できていなかったことについて「大規模な大会を組織、運営する力と 財源についての自信が国際陸連になかったことも、世界選手権の実施に踏み切れなかった理 由の一つかもしれない」と青木半治・日本陸上競技連盟(以下、日本陸連)名誉会長が1998 年に出版された著作の中で述べているように、ネビオロによる陸上競技の商業化の推進が、 現在も続く国際陸連、そして陸上競技界全体の拡大に結びついていると言えよう。 また、特に1982 年に国際陸連が競技者に対して出場料を支払うことを許可したことは、 アマチュアリズムについての考え方を根本的に変更するものだった。青木(1998)によれば、 「当時、欧米では有力競技者が多額の出場料を裏金として受け取っていることが公然の秘密 になっていた」のを、この出場料支払いの許可によって、選手に支払われた出場料は各国陸 上競技連盟が管理する『競技者基金』に信託され、その選手が競技生活を終了するときに渡 されると規定され、かつ選手の広告出演料やスポンサーの寄付金、スポーツ用品メーカーと の契約料も競技者基金に繰り入れることが可能になった。 このような陸上競技の人気や規模の大きさは、本章冒頭で挙げた五輪における放映権料の 分配にも大きな影響を与えていた。IOCによる放映権料の各競技団体への配分は1992 年

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のバルセロナ五輪までは全競技で均等だった。しかし、ネビオロが「五輪に対する貢献度が 違うのに、なぜ同じなのか。陸上競技は高視聴率で入場券収入も多い。貢献に見合うだけの 配分を受けていない」(2000 年5月1日朝日新聞朝刊)と意見し、1996 年のアトランタ五 輪から格付けが行われるようになったという。 また、国際陸連は2001 年に、2009 年までの自らが主催する大会に関する、全世界での放 映権やスポンサー権、ライセンス販売権といった全てのマーケティング権を電通に対して販 売 す る と 、2007 年 8 月 27 日 に 契 約 を 更 新 し 、 2019 年 ま で に 延 長 し て い る (http://www.dentsu.co.jp/news/release/2007/pdf/2007057-0827.pdf)。 アマチュアの祭典として行われてきた五輪も、キラニン卿の意向によって1974 年のIO C総会でその憲章から「アマチュア」の文字が削られ、「IF(国際競技団体)の規則範囲 内において選手の金銭授受ができるよう、アマチュア規則の改正」(原田,2004)が行われ た。そして、五輪へのプロ選手の出場も現在においては当然の状況となったが、IOCに先 駆けるスピードで、世界における陸上競技は商業化の道を歩んできたと言えるだろう。

1.2 日本における陸上競技の概観と日本陸連

また、日本においても陸上競技はマラソンや駅伝を中心に人気が高い。例えば株式会社イ ンフォプラントが提供する、生活情報マーケティングデータサービスが実施した2004 年の アテネ五輪に関する調査によれば、同五輪の大会前調査で「関心のある競技・イベント」(複 数回答可)という質問に対して、陸上競技は柔道(41.0%)、バレーボール(39.9%)、サッ カー(39.5%)に次いで4位(37.9%)であり、「もっとも活躍を期待している選手」(1人) には谷亮子(19.2%)、北島康介(13.4%)に次いで男子ハンマー投の日本代表だった室伏 広治が3位(7.8%)に入っていた。大会後の調査でも「アテネ五輪の態度、コメントなど で好感度を抱いた日本人メダリスト」の1位に女子マラソンで金メダルを獲得した野口みず きが31.8%で1位に入っていた。 また、1956 年の 32 回大会以来毎年1月2・3日に行われ、2008 年で第 84 回大会を迎 えた東京箱根間往復大学駅伝競走(通称「箱根駅伝」)は1987 年から日本テレビ放送網が放 送を開始し、ほぼ毎年20%超の視聴率を記録している(2008 年の視聴率は1月2日が 25.4%、 3日 27.7%。※関東地区 http://www.videor.co.jp/data/ratedata/program/04hakone.htm より)。 「見る」関心のみならず、「する」関心も高く、月刊「ランナーズ」などを発行するラン ナーズ社によると、2007 年に国内各地で開催されるマラソンなどランニング大会は約 1500 に上るという(2007 年1月 29 日日本経済新聞朝刊)。 また、その競技歴史も古い。1912 年、日本は第5回の五輪(ストックホルム五輪)にお いて初めて選手団を派遣したが、そのとき派遣された2選手は、いずれも陸上競技の選手で あった。その後も 1928 年のアムステルダム五輪で織田幹雄が日本人、そしてアジア人とし ても全競技を通じて初となる金メダルを獲得し(男子三段跳)、また、同五輪では初めて陸

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上競技で女子種目が採用され、人見絹枝が800mで織田と同じく全競技を通じて日本女子選 手で初のメダルとなる銀メダルを獲得し、陸上競技は戦前の日本スポーツを牽引した。 また、現在においても陸上競技の強化は日本オリンピック委員会(以下、JOC)でも重 要視されており、JOCが毎年制定している五輪強化指定選手においても、2007 年度、陸 上競技からは全競技中で最多、全強化指定選手の約 15%に当たる 249 選手が選出されてい る(強化指定選手は全35 競技 1579 選手。http://www.joc.or.jp/goldplan/people/index.html より)。2004 年のアテネ五輪を見ても、全競技を合わせた日本選手団は 312 選手であったが、 うち陸上競技から派遣されたのは39 選手と、五輪種目全 28 競技の中で最も多い選手派遣数 であった(http://www.joc.or.jp/athens/teamformation.html)。 また、2000 年のシドニー五輪では高橋尚子が五輪における陸上競技では戦後初、かつ女 性初の金メダルを女子マラソンで獲得し、野球・柔道・相撲以外のスポーツ選手では 2008 年現在でも史上唯一人である国民栄誉賞を受賞するなど、日本において陸上競技は五輪競技 の中心となっているといえよう。 さて、日本の陸上競技界を統括する中央競技団体である日本陸連は1925 年に全日本陸上 競技連盟として発足した。第二次世界大戦で中断していた組織は1945 年に復活し、翌 1946 年には初めての規約が完成した。その後 1971 年に財団法人化を果たし、現在も公益法人と して活動している。なお、河野謙三・青木半治はそれぞれ日本陸連の会長を務めた後、管轄 上にある日本体育協会の会長にも選出されている。 日本においても陸上競技はアマチュアの流れを強く引き継いできていたが、1977 年、日 本陸連はアマチュア規則を改正し、各種大会において選手が着用するナンバーカードに広告 を掲載することを承認した。そして翌1978 年には国立競技場で日本・アメリカ・西ドイツ・ イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・ソ連を迎えて、8カ国対抗陸上競技大会を「デ サント陸上」として主催した。「テレプランニング・インターナショナル」というプロモー ターが中心となってスポンサーから運営資金を集めて行った同大会は「日本初の冠スポーツ イベント」(広瀬,1994)と言われ、テレビ朝日が放送を行い、冠料は「当時としては破格 の2億円」(同)だったという(1984 年の第4回大会まで開催)。 これを機に、日本においても陸上競技では多くの冠大会が行われるようになり、冠大会に 関しては、大会名にスポンサーの名前を冠する見返りに多額の協賛金が入ることから、国税 庁では収益事業の「興業」に当たると判断し、1982 年度より収益に課税することとなった (1981 年 12 月3日日本経済新聞朝刊)。 また、2003 年から日本陸連は連盟のシンボルマークやマスコットマークを新たに設定し、 キャラクタービジネスを始めた(2002 年 11 月 28 日朝日新聞朝刊)。シンボルマークや「ア スリー」というキャラクターをウェアなどに使うことを認可し、使用料を得る仕組みである。 なお、先に挙げた陸上競技界の国際的なプロ化の流れを受けて、2002 年3月に日本陸連 理事会評議員会において日本陸連も国際陸連と同様にその英語表記を改め、”Amateur”の文 字を削除するという名称の変更が承認されている。

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中央競技団体の役割として高橋(1999)は「競技団体のマネジメントのゴールは、より多 くの人に競技に親しみを覚えてもらい、競技に参加したり、競技を観戦してもらうことであ る。つまり、多くの人を競技に参与させるには、競技への社会化を進めるための個別の事業 戦略が必要になる」と述べており、日本陸連に対しては自国選手が世界大会において好成績 を挙げることや、それを可能にする選手強化のための財政基盤を確保することのみならず、 陸上競技をより多くの人に親しんでもらうための普及側面での活動も求められる。 日本陸連の普及への取り組みの一例を挙げると、1996 年からは 1958 年以降国立競技場を 中心に東京周辺で開催してきた日本選手権を他地域でも開催することとした(1996 年は大 阪・長居陸上競技場での開催)。これによって例えば1998 年には九州では 45 年ぶりの開催 となる熊本県で大会を行うなど、地方においても日本最高峰の大会を見られる機会を設けて いる。 加えて、新たな普及事業として2006 年 11 月からは「キッズアスリート・プロジェクト 『夢 の陸上キャラバン隊』」を主催している。同プロジェクトは陸上競技各競技カテゴリーの日 本トップクラスの選手数名が小学校に出向き、デモンストレーション、レッスン、児童との 対決など陸上競技の触れ合いイベントを行うもので、2007 年9月までの 11 ヶ月間で全国8 地域8会場において開催している。2008 年度以降も毎年日本の各地域1都市ずつをメドに 開催していく予定で、澤木啓祐・日本陸連専務理事も「今後も力を入れていきたい。児童を 指導する専門家の協力を仰ぎたい」(2007 年7月 23 日朝日新聞朝刊)との方針を明らかに するなど、小学生に陸上競技の楽しさを伝えることを目的とした陸上競技の普及活動として、 定着を目指している。

1.3 トリプルミッションモデルとは

平田、中村(2006)は、スポーツビジネスにおける成功要因として、「スポーツを通じて 社会を豊かにする」という理念のもとで「勝利」「普及」「市場」の3要素がお互いに影響し 合い、拡大することが不可欠であるとして、これをトリプルミッションモデルと名付けてい る(図1)。

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理 念

勝 利

市 場

普 及

図1 トリプルミッションモデル図 (『トップスポーツビジネスの最前線─スポーツライテングから放映権ビジネスまで』 より筆者作成) スポーツビジネスにおいては、「営利」ばかりでなく、そのスポーツで「勝つこと(勝利)」 も求められる。むしろ、「営利」よりも「勝利」が優先されると言っても過言ではない。勝 つために、あるいはよりよい記録を達成するために一生懸命になっている姿を見せて感動を 与えることが観衆を魅了する大きな要素である。この「勝利」が競技の知名度や関心を上げ、 競技者や指導者、観戦者、視聴者といった「普及」に繋がり、結果としてその競技に関わる 「収入」が増える、すなわち「市場」が拡大することで、「勝利」に向けた投資を可能とす る。あるいは、「市場」が拡大することで「普及」への投資が可能となり、若年層の競技者 の増加など、裾野の広がりが「勝利」に繋がる場合もある。つまり、競技界の更なる発展を 考える上で、「勝利」「普及」「市場」の3つのミッションが影響し合い、伸長・拡大するこ とが健全な姿と言える。

1.4 研究目的

1.1で世界における陸上競技の商業化を見るとともに、1.2で日本における陸上競技 の進展を簡単に見てきた。1.3ではそれらを受けてトリプルミッションモデルを紹介した。 さて、日本国内における陸上競技に関する既存研究を見ると『陸上競技選手における競技 成績の達成確率を用いた競技力特性の評価』(国土ら,1991)、『競技力向上のためのスポー ツライフマネジメント:陸上競技長距離走選手の場合』(河合ら,1996)など、その先行研 究の多くはバイオメカニクス、食事、フィジカルに関する研究であり、動体解析、トレーニ ング方法の実践例など競技力向上を目的とした分析がなされている。 また、トリプルミッションの3要素いずれかについて言及した既存研究は、『登録競技者 数と東北インターカレッジ出場者数の推移─東北学生競技連盟について─』(藤井,2002)、

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『第20 回全国小学生陸上競技交流大会参加選手の実態報告』(小野ら,2005)など、「強化」 「普及」をそれぞれ単一的に述べたものが存在するのみで、とくに「市場」に関する研究は 少なく、かつ「勝利」「普及」「市場」全ての観点から述べた論文はない。 日本の陸上競技界を更に発展させていくことを考えるにあたって、1.3で述べたトリプ ルミッションモデルの観点から日本の陸上競技界の進展を研究することは、過去の歴史をま とめ、課題を抽出するという観点からも必要であると考えられる。 そこで、本研究においては日本における陸上競技の「勝利」「普及」「市場」それぞれの現 在までの推移を明らかにすることを目的とする。また、どのような背景によって上記3要素 が推移してきたのかを明らかにするとともに、現在抱えている課題を抽出する。そして、現 状の課題に即し、今後はどのような施策が望まれるのかを考察し、日本陸上競技界の更なる 発展のためのプラン作成の一助とすることを目的とする。

第2章 研究手法

2.1 研究方法

第3章では1.3で挙げたトリプルミッションモデルの観点から、3要素それぞれで日本 陸上競技界がどのような歩みをしてきたのか、検証を行なう。 3要素共通の検証期間は、1984 年以降、2004 年までとする。これは、五輪が本格的な商 業化を迎えたのが1984 年のロサンゼルス五輪で、それ以降スポーツビジネスが世界に広ま っていったためであり、それ以降の変化を見ることが、陸上競技におけるトリプルミッショ ンの変遷を検証する上で最も適当であると考えたためである。 また、各要素の進展をより効果的に比較するために、1984 年から 2004 年以外の期間にお いても、各要素の推移を見ることとする。各要素の比較期間は後述する。 各要素の指標は以下のとおりとする。 「勝利」には五輪における陸上競技の日本選手団の成績を置く。 成績を数値化する指標としては、入賞(1位∼8位が該当)を点数化することによって行 なう。この点数化における順位得点は国民体育大会(以下、国体)や学生対校選手権大会(= インターカレッジ。以下、インカレ)などで都道府県間や学校間の順位を付ける際に用いら れる採点方法と同じく、1位を8点、2位を7点、3位を6点、4位を5点、5位を4点、 6位を3点、7位を2点、8位を1点として計上する。 また、陸上競技は短距離(100m・200m・400m ※()内は現在五輪で行われている種 目。以下同)や中距離(800m・1500m)、長距離(5000m・10000m)、そしてハードル種 目(110mハードル[110mH]/100mハードル[100mH]、400mハードル[400mH]、3000m 障害走[3000mSC])、リレー種目(4×100mリレー[4×100mR]・4×400mリレー[4 ×400mR])からなるトラック競技、跳躍種目(走高跳・棒高跳・走幅跳・三段跳)と投て き種目(砲丸投・円盤投・ハンマー投・やり投)からなるフィールド競技、複数の種目で競

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われる混成競技(十種競技・七種競技)、競歩(20km 競歩[20kmW]・50km 競歩[50kmW])、 マラソンという 15 を超える種目の総称である。従って、一概に「陸上競技の強化が進んで いる」とくくり分けすることは短絡的である。 そのため、1984 年以降の成績を見るうえで、どの競技で強化が進んでいるのかをより詳 細に検証していくために、先に3要素で統一の検証期間として挙げた 1984 年以降 2004 年 までに加えて、日本が初めて出場した 1912 年以降 1980 年までの各五輪における競技成績 についても同様に点数化し、比較することとする。 加えて、五輪や世界陸上には国際陸連が定めた参加標準記録があり、1種目につき1カ国 最大3人が出場できるレベルの高いAと1人のみのBがあり、更に標準記録を突破していて もその選手の派遣の可否は世界における競技レベルにも委ねられるとともに、JOCから与 えられる競技毎の派遣枠も、その競技レベルによって限られている。現に、アテネ五輪にお いては参加枠をふまえ、前年の世界ランキング40 位台までの選出としたという(2004 年6 月15 日朝日新聞朝刊)。そこで、競技カテゴリー毎の「勝利」の達成をみるために、種目ご との入賞点数、出場選手数の推移を見ることとする。 なお、1980 年のモスクワ五輪まではIOCによって各競技・種目とも決勝における1位 から6位までが入賞と定義されていたが、1984 年のロサンゼルス五輪からは1位から8位 までが入賞と変更されている。そこで、本稿においては1912 年のストックホルム五輪から 1980 年のモスクワ五輪までについては7位・8位も入賞とし、加点するものとする。但し、 1912 年から 1980 年までは一部の種目で決勝進出が6位までとなっていることがあるが、そ のような場合には7位・8位に該当する選手については加算しないものとし、決勝種目にお いて7位・8位という順位が記録されている選手についてのみ加算する。 なお、リレー種目における出場選手数については選手数としての4ではなく、出場国とし ての1とし、かつ補欠選手や選ばれながら欠場した選手は計上せず、あくまで出場した選手 のみを合計するものとする。 なお、五輪における陸上競技の日本選手団の結果(出場選手・競技結果)の収集にあたっ ては、JOCの公式ホームページ(http://www.joc.or.jp/)内に設置された、「オリンピック 歴代日本代表選手全記録」(http://www.joc.or.jp/database/index.html)から引用を行う。 「普及」には全国高等学校体育連盟(以下、高体連)が集計している、高体連への陸上競 技登録人員数を置く。この登録人員数のデータは毎年5月から6月にかけて各都道府県の高 等学校体育連盟を通じて高体連が集計しているもので、8月に高体連における集計を終え、 9月に公表している。なお、回収が遅れる県などがあり、若干のばらつきはあるものの、同 じ時期・基準で調査を行われてきている。また、同年度での事後調査は行っていない。 高校生人数を普及の指標として取り上げたのは、陸上競技人口の実態をより正確に測るた めである。長積(2007)は、「わが国の競技スポーツ人口を把握することは、競技者の定義、 また数多く存在する競技会への出場者の把握などから考えても容易ではない」とした上で、 各中央競技団体が公表する登録者またはチーム数を紹介し、「競技団体の登録者は、競技会

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への出場資格を有するもの、すでに競技の第一線から退くものや、競技会の制約上、大会に 参加できないような人も含まれることが推測される。さらに登録者すべてが勝利や競技力の 向上を第一義的に志向しているとは限らない」と述べている。 また、スポーツ白書(2006)にも「スポーツの『競技人口を正確に把握することはきわめ て難しい。競技の特性や競技団体・競技者がおかれた環境の違いなどから、競技人口の定義 や集計方法が団体によって一様でないためである。中央競技団体やその傘下の団体が主催す る大会では、登録料を払うことが大会参加の条件となる場合が多く、こうして登録される競 技会参加者の数を競技人口とみるのが一般的だが、市民スポーツイベントの中で行われる各 競技の大会など、競技団体が参加者の氏名やその数を把握できないのも少なくない」と記載 がなされている。 この例に照らし合わせてみると、日本陸連が取りまとめている、小学生から一般までを含 めた日本陸連への登録選手数においては、例えばジョギング・マラソンを競技としてではな く趣味として楽しむ人々の多くは、登録費がかかることや登録システムの問題から手間がか かることもあって、この登録制度には加入していない。 このため、調査方法が一貫して行なわれ、従って数字の大きなぶれもない高校生世代の人 数を把握することによって、高校生という一定の世代のみではあるが、より正確な陸上競技 人口の基準を採用することができる。 また、陸上競技においては高校生世代のトップ選手層が年を重ねてそのまま日本のトップ 層となることが多いことも、高校生の登録数を引用する理由である。高校に入ってから専門 ブロックが確立される傾向が強いことから日本のトップ層は高校生世代においてもトップ 層であったというケースが多く、日本陸連の強化委員長である高野進も「五輪選手の12 歳 から 15 歳頃を見てみると、全員が全員、その頃からチャンピオンだったというわけではあ りません。むしろジュニア期(日本陸上競技界においては16 歳以上 20 歳未満のことを指す ※筆者注)の王者が将来にわたって日本の一線級で活躍する確率はそれほど高くないのが現 実です」と2007 年に出版された著書の中で述べている。 以上のような理由から、本研究では高体連への陸上競技登録人員数を使用することによっ て、陸上競技の普及の実態を測るものとする。 また、登録人員数をより客観的にとらえるために、文部科学省が調査・集計している高等 学校の生徒数の推移を引用することによって、高校の全生徒における登録者比率を算出する。 登録者比率(%)の算出方法は(高体連陸上競技登録人員)÷(高校生生徒数)×100 であ る。 なお、2004 年以降、近年の陸上競技人口の推移を見るために、2005 年から 2007 年まで の登録人員についても重ねて調査することで、比較を行う。 「市場」には日本陸連の収入額を置く。検証期間は先に挙げた 1984 年から 2004 年に加 え、2005 年・2006 年の収入についても言及するものとする。これは、2004 年以降の市場 の拡大について検証を行うためである。2003 年から 2006 年の収入については日本陸連が公

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式ホームページ(http://www.rikuren.or.jp/)において公開している収支決算書記載の収入 額を用い、それ以前の収入については日本陸連に保存されている各年の収支決算書記載の収 入額を用いた。 日本陸上競技界の市場として日本陸連の収入額を用いた理由としては、日本陸連は中央競 技団体として日本の陸上競技界を統括しており(図2)、中央組織としての拡大が即ちその 競技の規模の拡大を示す指標として適当と考えたためである。

日本陸連

中体連

協力団

定通制

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都道府県

陸上競技協会

地域

陸上競技協会

実業団

学連

高体連

図2 日本陸上競技界組織図 (『人気スポーツのビジネス戦略図』を参考に筆者作成) そして、個別に見た3要素の規模を数値で表し、可視化することによって、日本陸上競技 界における「勝利」「普及」「市場」の3要素の変遷と、年ごとの当時の背景を見る。なお、 この可視化については1984 年から、夏期五輪開催の4年ごとに 2004 年までを行い、「勝利」 には五輪入賞点数、「普及」には高体連陸上競技登録人員数、「市場」には日本陸連の収入を 置くものとする。また、数値化にあたっては1984 年の各要素の値を 100 として、各年度の 各項目の数値を相対化することで、三辺をそれぞれ三要素とした三角形内における面積によ って示すとともに、折れ線グラフ上で表す。 第4章では1つ目の考察として、第3章で見る2004 年までの日本陸上競技界における「勝 利」「普及」「市場」それぞれの推移の背景や関連性を明らかにするとともに、課題を抽出す る。 第5章では2つ目の考察として、2004 年以降の日本陸上競技界における「勝利」「普及」 「市場」に関わる動きを明らかにするとともに、今後日本陸上競技界において3要素のさら

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なる拡大を達成するために、現状に即し、どのような施策が理想と考えられるのか考察する。

2.2 資料収集方法

「勝利」「普及」「市場」の3要素の指標となる資料の収集方法は2.1で挙げたが、それ 以外にも日本陸上競技界の歴史をまとめるため、資料収集を行う。 文献収集にあたっては、以下の方法を用いる。 1)新聞記事:聞蔵Ⅱビジュアル(朝日新聞オンラインデータベース)と日経テレコン21 (日経新聞オンラインデータベース)から網羅的に陸上競技に関する新聞記事を収集し、特 にトリプルミッションモデルの3要素に関する記述を抜粋する。 2)その他文献:陸上競技関連の文献・書籍・WEB 上の記事を収集し、特にトリプルミ ッションモデルの3要素に関する記述を抜粋する。

第3章 結果 日本陸上競技界におけるトリプルミッションの変遷

それでは以下、トリプルミッションモデルの各要素の変遷を個別に見ていく。

3.1 五輪成績

まず、歴代五輪における日本選手団の成績を見る(図3)。

3.1.1 入賞点数

0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 1912年 1916年 1920年 1924年 1928年 1932年 1936年 1940年 1944年 1948年 1952年 1956年 1960年 1964年 1968年 1972年 1976年 1980年 1984年 1988年 1992年 1996年 2000年 2004年 年度(年) 点数 ( 点 ) 0 5 10 15 20 25 入賞 数( 人) 点数 入賞者数 図3 五輪陸上競技点数・入賞者数

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※1 1932 年には正規の入賞(1∼6位)の他に男子走高跳7位、男子やり投8位、女子 走高跳8位、女子円盤投7位、女子やり投8位、男子マラソン7位を含む。 ※2 1956 年には正規の入賞(1∼6位)の他に男子三段跳7位を含む。 ※3 1964 年には正規の入賞(1∼6位)の他に女子やり投7位、男子マラソン8位を含 む。 ※4 1972 年には正規の入賞(1∼6位)の他に男子ハンマー投8位を含む。 ※5 1976 年には正規の入賞(1∼6位)の他に男子 10000m7位、男子棒高跳8位を含 む。 図3は日本が初出場した 1912 年から 2004 年までの五輪における日本選手団の陸上競技 の入賞を点数化したものを、日本人の入賞者数とともに図示したものである。なお、1916 年は第一次世界大戦の、1940 年・1944 年は第二次世界大戦の影響で五輪が開催されていな い。また、第二次世界大戦後初開催となった1948 年は日本の出場は認められず、1980 年は 東西冷戦の影響で日本はボイコットをしており出場していない。 図3を俯瞰すると、第二次世界大戦前に開催された 1936 年のベルリン五輪で、日本の陸 上競技はこれまで一番多くの入賞者数、点数を挙げていることが分かる。また、2番目は1932 年のロサンゼルス五輪であり、戦後は1992 年までは戦前と比べて少ない。 それでは、まずは戦前の五輪における競技結果について見ていくこととする。

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表1 種目別入賞点数 ※1 1932 年には正規の入賞(1∼6位)の他に男子走高跳7位、男子やり投8位、女子 走高跳8位、女子円盤投7位、女子やり投8位、男子マラソン7位を含む。 ※2 1956 年には正規の入賞(1∼6位)の他に男子三段跳7位を含む。 ※3 1964 年には正規の入賞(1∼6位)の他に女子やり投7位、男子マラソン8位を含 む。 ※4 1972 年には正規の入賞(1∼6位)の他に男子ハンマー投8位を含む。 ※5 1976 年には正規の入賞(1∼6位)の他に男子 10000m7位、男子棒高跳8位を含 む。

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表1は各五輪での入賞を競技カテゴリーごとに点数化したものである。1912 年のストッ クホルム五輪において初めて五輪に選手団を派遣した日本であったが、本稿の冒頭でも記し たように、初めての派遣選手は陸上競技の2選手であった。代表となったのは三島弥彦・金 栗四三で、結果は三島が男子100m・男子 200mともに一次予選敗退、男子 400mは準決勝 で棄権であり、金栗もまた男子マラソンで途中棄権だった。第一次世界大戦のために開催さ れなかった1916 年を経て、1920 年は 12 選手を送りこんだ日本だったが、またも入賞はな らなかった。 陸上競技界で初めての入賞者は1924 年のパリ五輪、男子三段跳に出場した織田幹雄が6 位となった。織田は続く1928 年のアムステルダム五輪では日本陸上競技界、そして日本人 選手全体でも初のメダルとなる、金メダルを獲得した。また、南部忠平も同種目で4位に入 った。この男子三段跳では1932 年のロサンゼルス五輪でも南部が金メダル、大島鎌吉が銅 メダルを獲得したのに続き、1936 年のベルリン五輪でも田島直人が金メダル、原田正雄が 銀メダル、大島が6位に入り、戦前日本のお家芸として定着した。 また、1928 年のアムステルダム五輪では女子でも陸上競技が初めて行なわれ、女子選手 として日本からは唯一出場した人見絹枝が800mで銀メダルを獲得しており、日本全体でも 女性で最初のメダリストとなっている。 日本の陸上競技は戦前、主に跳躍種目での活躍が目立ち、上記の他にも1928 年のアムス テルダム五輪では木村一夫が男子棒高跳、中沢米太郎が男子走高跳でそれぞれ6位に入賞、 1932 年のロサンゼルス五輪では男子棒高跳で西田修平が銀メダル、南部が男子走幅跳で銅 メダル、望月倭夫が男子棒高跳で5位、田島が男子走幅跳で6位、木村一夫が男子走高跳で 6位に入っている。更に、現在まで最も入賞者数の多かった 1936 年のベルリン五輪では西 田が銀メダル、大江季雄が男子棒高跳で銅メダル、田島が男子走幅跳で銅メダル、矢田喜美 雄が男子走高跳で5位、安達清が男子棒高跳で6位、朝隈善郎・田中弘が男子走高跳で6位 に入っている。このように、戦前の39 の入賞(1位から6位のみ計上)のうち過半数の 22 が跳躍種目であった。 次に、戦後初めて出場した 1952 年以降の入賞点数、入賞者数を見ると、1964 年・1984 年を除き、ここ4大会が最も良い成績を挙げていることが分かる。 戦後、跳躍種目での入賞は1984 年ロサンゼルス五輪で臼井淳一が男子走幅跳で7位、1992 年のバルセロナ五輪で佐藤恵が女子走高跳で7位に入った(女子の跳躍種目では日本人初の 入賞)のみでメダル獲得はなく、近年は入賞さえ果せていないのが現状である。戦前の跳躍 種目ではアメリカ・デンマーク・スウェーデンなどがメダルの中心にいたが、戦後は棒高跳 においては欧州諸国が、走幅跳・三段跳においては旧ソビエト連邦、南米諸国が台頭してき た影響もあって、戦後の日本の陸上競技では跳躍種目での活躍が目立たなくなってきた。特 に三段跳に至っては 1960 年のローマ五輪で初参加の 1924 年パリ五輪以来、初めて入賞な しに終わると、以降は諸外国の台頭に敗れ、入賞を果たしていない。

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この三段跳の競技力の衰退について佐々木(1996)は、「かつて日本の織田、南部、田島 らが三段跳びで世界記録を更新し続けた頃は、3つの跳躍距離の比率は6:4:5(40:26.7: 33.3)がよいといわれていた。現代のスピードを利用した三段跳びでは、ホップとジャンプ が同様の距離、ステップはやや短い距離、つまり、35:30:35 の比率がよいとされている」 とその距離の比率の違いを述べるとともに、近代五輪の前半の技術は「脚の屈伸力を中心と しての、いわゆる地面をたたきつけて跳んでいくもの」、現在の技術は「スピードとバネを 生かし、ジャンプを大きく跳ぶこと」として、その競技特性の変化を挙げている。 それでは、どのような種目で戦後の日本は台頭していったのだろうか。 表1を再見すると、マラソン、男子リレーで点数が継続的に記録されていることが見て取 れる。マラソン種目においては1928 年のアムステルダム五輪で山田兼松、津田晴一郎がそ れぞれ男子マラソンで4位・6位に入って入賞を遂げ、戦前から「マラソン・ニッポン」が 頭角を出し始めていた。なお、1936 年に男子マラソンで金メダルを獲得した孫基禎、銅メ ダルを獲得した南昇竜はともに当時日本の植民地支配下にあった朝鮮半島出身の選手であ った。 戦後に入っても1956 年のメルボルン五輪で川島義明が5位に入ると、1964 年の東京五輪 で円谷幸吉が銅メダル、1968 年のメキシコシティー五輪で君原健二が銀メダルとメダル獲 得が続き、君原は1972 年のミュンヘン五輪でも5位に入賞し、3大会連続で日本は入賞を 果たした。その後、1984 年ロサンゼルス五輪での宗猛、1988 年ソウル五輪での中山竹通の 4位入賞を経て、1992 年のバルセロナ五輪で森下広一が日本勢6大会ぶりの銀メダルを獲 得、中山が4位、谷口浩美も8位に入賞し、日本男子は初めて出場3選手全てが入賞を果た した。続く2大会は入賞なしで終わっていたが、2004 年のアテネ五輪では油谷繁が5位、 諏訪利成が6位に入り、日本の男子マラソンは復調の兆しを見せている。 また、1984 年から開催されるようになった女子マラソンでの活躍は日本の陸上競技界に おける勝利の飛躍を象徴するものとなっている。同種目では有森裕子が1992 年のバルセロ ナ五輪で銀メダルを獲得し、1928 年のアムステルダム五輪での人見絹枝以来のメダル獲得 を果たすと、続く1996 年のアトランタ五輪でも銅メダルを獲得した。そして、2000 年のシ ドニー五輪では高橋尚子が金メダルを獲得した。これは日本陸上競技界において女子で初の 金メダル獲得になるとともに、男子を合わせた日本の陸上競技界全体でも1936 年の孫・田 島以来64 年ぶりの金メダル獲得となった。また、2004 年のアテネ五輪では野口みずきが高 橋に続いて金メダルを獲得し、日本女子マラソンは1992 年から4大会連続でメダルを獲得 している。その他、1992 年のバルセロナ五輪では山下佐知子が4位に入賞、2000 年のシド ニー五輪では山口衛里が7位に入賞、2004 年のアテネ五輪では5位に土佐礼子、7位に坂 本直子が入り、先の野口と合わせて、日本は1992 年のバルセロナ五輪の男子に次いで女子 でも初めて出場3選手全てが入賞を遂げた。 男子4×100mR では 2000 年シドニー大会において同種目で五輪 60 年ぶりの入賞となる 6位に入ったのに続いて、2004 年アテネ大会では4位入賞を果たし、リレー種目に限れば

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五輪で過去最高の成績となった。同大会での日本チームは男子4×400mR でも4位に入り、 リレー両種目での入賞は1932 年のロサンゼルス五輪以来 72 年ぶりだった。また、2007 年 の世界陸上大阪大会においても日本の4×100mR チームはそれまで日本自身が持っていた アジア記録(38 秒 31)を0秒1更新する 38 秒 21 を予選で記録すると、決勝では更に記録 を塗り替える38 秒 03 を出して5位に入賞している。 短距離・ハードルの個人種目では 1932 年ロサンゼルス五輪の男子 100mで吉岡隆徳が6 位に入って日本人トラック競技初の決勝進出を果たして以来、五輪では久しく入賞がなかっ た。しかし、1992 年のバルセロナ五輪で高野進が男子 400mで 60 年ぶりに決勝進出を遂げ た(8位)。これは前年 1991 年の世界陸上東京大会での7位入賞に続くもので、1970 年代 後半までは「最も世界が遠い種目の一つ」(高野)と考えられていた種目での快挙となった。 また、その後も1996 年のアトランタ五輪で朝原宣治が男子 100mで 1968 年の飯島秀雄以来 28 年ぶりに準決勝に進むと、伊東浩司も男子 200mで同種目日本人初の準決勝に進出した。 伊東は 1998 年のバンコクアジア大会の男子 100mでアジア人では初めての9秒台に肉薄す る10 秒 00(アジア新記録)を出して 28 年ぶりに同種目でのアジア大会日本人チャンピオ ンとなると、2000 年のシドニー五輪では男子 100m・200mでともに準決勝に進出した。な お、同五輪では末續慎吾も男子200mで準決勝に進出している。 更に、世界陸上では2001 年のエドモントン大会で為末大が 400mHで男子のトラック種 目では五輪を合わせても日本人初のメダルとなる銅メダルを獲得した。その後も、2003 年 のパリ大会では末續慎吾が200mで五輪を合わせても短距離種目初の銅メダルを獲得し、為 末は2005 年のヘルシンキ大会でも銅メダルを獲得した。このように、短距離の総合力とし て測られるリレー種目で五輪4大会連続入賞を遂げていることと合わせ、短距離界において も日本は世界レベルに近づいてきていると言えよう。 その他の種目でも男子ハンマー投において 1968 年のメキシコ五輪で菅原武男が4位に入 り、投てき種目での日本人初入賞を遂げると、1972 年のミュンヘン五輪では室伏重信が8 位入賞、そしてその系譜を継いだ室伏広治が2004 年のアテネ五輪で日本男子 68 年ぶり、投 てき種目では日本人史上初の金メダルを獲得している。 マラソン以外にも女子長距離の活躍も目立ち、1996 年のアトランタ五輪は 5000m・ 10000m で合わせて3人が入賞している。特に 10000mでの千葉真子(5位)、川上優子(7 位)の2人の入賞は、日本初のトラック種目での一種目複数入賞でもあり、1988 年のソウ ル五輪で初めて女子10000mが開催され、松野明美が日本新記録をマークしながら予選落ち をしていたことを考えると、日本女子長距離陣も力を伸ばしてきていると言えよう。 戦後を中心に歴史上、マラソンに勝利の大部分を担っていた日本陸上競技界だったが、こ のように、男子短距離を中心に、多くの種目で世界との差は縮まってきているものと考えら れる。「マラソンが男女とも、世界の舞台で堂々と戦っているのに対し、短、中距離の力は 落ちる。レベルの低いものにスポンサーはつかず、マスコミも注目しない。『駆けっこ貴族』 は生まれず、その種目は沈滞という図式となる」(1994 年6月 11 日日本経済新聞夕刊)、「マ

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ラソンを特別視するのは、五輪や世界選手権、国際的な大会で、日本人が優勝あるいはメダ ルが狙える陸上競技の種目は、男子では今のところマラソンだけだからだ」(1997 年 12 月 23 日朝日新聞朝刊)と言われた時代から、躍進を遂げていると言えるだろう。

3.1.2 出場選手数

以上、入賞点数と入賞者数から日本陸上競技界の「勝利」を見てきた。しかし、入賞者の 点数のみを見たのでは点数の和自体が少なく、一部のメダリストの成績によって点数が大き く変動してしまう。そこで、ここまで見てきた入賞についての項目だけではなく、以降出場 者数の推移を見る。先に述べたように陸上競技には各大会に「標準記録」が設けられており、 これを突破していないと各国際大会には出場できないため、何名の選手を派遣できたかが、 国の総合力の1つの指標になるためである。 0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 1912年 1916年 1920年 1924年 1928年 1932年 1936年 1940年 1944年 1948年 1952年 1956年 1960年 1964年 1968年 1972年 1976年 1980年 1984年 1988年 1992年 1996年 2000年 2004年 年度(年) 点 数 (点 )・人 数 ( 人 ) 0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 点 数 (点 )・人 数 ( 人 ) 点数 選手計 男子 女子 図4 五輪における陸上競技出場選手数 (注)1980 年のモスクワ五輪は日本がボイコットをしたため実際には出場はしていないが、 派遣される選手は決定していたため、選手数については選手決定時の数字を用いる。 図4は、先に述べてきた五輪における入賞点数に加え、出場選手数を棒グラフ上で示すと ともに、男子・女子の出場選手数をそれぞれ折れ線グラフで示したものである。 まず、第二次世界大戦前から見ると、1912 年には4人(実際の出場選手数は2人である が、2人で合計4種目に出場したため、「4人」と数える。以下同様に実人数ではなく、種 目別に出場した人数の総和を「X人」とする)だった選手数が、1916 年大会の中止を経て、 1920 年には 17 人に増加している。1924 年はほぼ横ばいだったが、1928 年からは 23 人、 43 人、51 人と増加の一途を辿っている。ただし、1928 年からは女子種目が誕生したが、日

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本からの女子選手の派遣人数は1928 年から順に2人、10 人、7人と、男子が派遣人数を増 やす一方で女子では減少も見られていることに留意したい。 次に、第二次世界大戦後を見る。まず、出場選手の合計を見ると、1964 年の東京五輪に おいて、日本はこれまでで最も多い出場選手数を記録していることが分かる。これは日本開 催の五輪であったため、開催国枠として出場選手枠が増加していたためである。しかし、こ の1964 年を除いて、1952 年から 1984 年までは出場選手数の合計はほぼ横ばいとなってい る。 数の増加が見られるようになったのは戦後最少だった 1976 年からで、以降 2000 年まで 出場選手数は右肩上がりに増加していた。特に女子選手の増加は男子と比べて大きく、男子 の出場者数がほぼ横ばいだった1988 年から 1996 年にかけても増加を見せると、2000 年の 減少を除いて 2004 年まで増加を見せ、2004 年は過去最多だった 1964 年の 13 人に並んで いる。 それでは、日本の選手数、特に女子選手の出場数増加の要因となった種目は何だったのだ ろうか。

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表2 種目別出場選手数(男子) ※1 種目は2004 年アテネ五輪において実施された 24 種目と、過去に日本人が出場した1 種目(五種競技)のみ。 ※2 1980 年は実際には日本選手団は出場していないが、出場選手は決まっていたため、 その決定時の数字を用いた。 ※3 「─」部はその種目が行われなかったことを示す。

(22)

表3 種目別出場選手数(女子) ※1 種目は2004 年アテネ五輪において実施された 22 種目と、過去に日本人が出場した5 種目のみ。 ※2 1980 年は実際には日本選手団は出場していないが、出場選手は決まっていたため、 その決定時の数字を用いた。 ※3 「─」部はその種目が行われなかったことを示す。 表2・3は過去の五輪における種目ごとの出場選手数を示したものである。まず、表2を 見ると、男子では短距離種目、障害種目、競歩種目において、1984 年以降を中心に出場選 手数が増加している。短距離種目については、先にリレー種目における近年の入賞傾向につ いて述べたが、個人種目についても先に挙げたように高野が1991 年世界陸上東京大会で7 位入賞、翌1992 年のバルセロナ五輪でも決勝進出を果たし、その高野の東海大学の後輩で ある伊東が1998 年に 100mのアジア記録を更新する 10 秒 00 を記録し、2007 年7月のアジ

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ア選手権においてナイジェリア出身で、カタール国籍のサミュエル・フランシスが9秒 99 を記録するまで、約9年間にわたりアジア記録を保持した。また近年特に200mでは高野・ 伊東と同じく東海大学出身の末續の活躍の他、高平慎士が2006 年のドーハアジア大会で銅 メダルを獲得するなど、層の厚さも出てきている。実際、高野も「私が世界で7位に入った 1991 年の世界陸上東京大会、8位に入賞した 1992 年のバルセロナ五輪の頃というのは『マ ラソン日本』から『陸上競技日本』に変わりつつある時代でした」と著書(『走れ!ニッポ ン人 一億三千万総アスリート計画』)の中で述べており、マラソンのみの偏重は見られな い。 また、競歩でも1972 年以降の4大会、20kmW・50kmWともに出場選手は0人であった のが、1988 年に計3人の出場選手を輩出すると、1992 年以降4大会で 13 人の出場を果た している。一方で中距離種目では 1968 年以降出場選手はなく、砲丸投・円盤投では 1964 年の東京五輪以降出場選手はいない。そして、かつて戦前を中心に日本が隆盛を誇った三段 跳でも1976 年のモントリオール五輪以降は1人もしくは0人の出場に留まっている。 次に、表3から女子の出場選手数を見ると、1984 年からは女子においても長距離種目・ マラソンが実施されるようになり、先に挙げた有森・高橋・野口がメダルを獲得したマラソ ンの他、5000m・10000mの各種目に出場選手が誕生している。 また、2004 年のアテネ五輪においては過去何大会か続けて出場のなかった女子のフィー ルド種目においても出場選手がうまれた。走幅跳は7大会ぶり、砲丸投は 10 大会ぶり、棒 高跳は初めての女子代表選手の選出だった。フィールド種目以外にも、杉森美保が 10 大会 ぶりに女子 800mでの日本代表選手となると、2008 年に開催が予定されている北京五輪に おいても丹野麻美が400mにおいて参加標準B記録を突破している。 このように、先に挙げた長距離種目だけではない、幅広い範囲での女子の強化が進んでい るものと考えられる。特に中距離種目・跳躍種目での五輪出場は近年果たせていなかったも のであり、女子選手の幅広い成績の躍進が見て取れた。

3.2 高校生陸上競技人口

次に、普及をみる。1984 年以降 2007 年までの高体連への陸上競技登録人員と、陸上競技 登録人員の高校生比率の推移を図示したのが図5である。

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0

20,000

40,000

60,000

80,000

100,000

120,000

140,000

160,000

19

84

19

86

19

88

19

90

19

92

19

94

19

96

19

98

20

00

20

02

20

04

20

06

年度(年)

人数

0.00%

0.50%

1.00%

1.50%

2.00%

2.50%

3.00%

3.50%

4.00%

4.50%

5.00%

比率

陸上

登録

人員

比率

図5 陸上競技高体連登録人員 図5から、1980 年代に増加傾向にあった高校生世代の陸上競技登録人員は、1990 年を頂 点に、2006 年まで漸次減っていることが読み取れる。1990 年におよそ 14 万人だった高校 生の陸上競技登録人員は、1994 年には約 13 万人、1997 年には約 11 万人、2000 年には 10 万人を切っている。 ただし、近年は減少にも下げ止まりの傾向が見られている。小子化の影響もあって、高校 生世代の人口も減っていることを加味すると、比率が下がっている一方ではないことからも 分かるように、登録人員の減少割合は高校生生徒数のそれよりも小さい。1984 年は約 10 万 9790 人、2007 年は 8 万 9010 人と、登録人員数自体は約2万人の減少となっているが、登 録者比率で見ると、1984 年に 2.24%であったのが 2007 年には 2.61%と、約 1.2 倍に増加 している。

3.3 日本陸連収入

次に、図6で日本陸連の収入総額の推移を見る。

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0

500

1,000

1,500

2,000

2,500

3,000

1984

1986

1988

1990

1992

1994

1996

1998

2000

2002

2004

2006

年度(年)

:100万

)

収入額

図6 日本陸連収入 1984 年に約 4.3 億円であった日本陸連の収入は、以降 1987 年までは3億∼5億円台のま ま推移していた。しかし、1988 年に前年比約 150%増となる7億円の収入を記録すると、 1991 年には約 11.1 億円となり、1995 年には前年比約 190%増となる約 19.5 億円にまで増 加した。 その後も増加傾向は続き、1997 年には約 23.1 億円、1998 年には約 24.3 億円に達した。 以降、上下動は大きいものの、2004 年以降はほぼ 25 億円に近い収入額を保ち、2006 年は 過去最高の約25.3 億円の収入を得ている。 なお、この収入額の規模については、高橋(1999)がJOCの 1996 年の調査を引用して 「競技団体の財政的な資源として年間の財政規模を比較すると、(社)日本武術太極拳連盟 の 1600 万円から、最大で、(財)日本サッカー協会の 56 億 9000 万円、平均で5億 1000 万円である」と述べており、1995 年の約 20 億円は各競技団体の平均と比べて大きいと言え る。 日本陸連が公開している決算書によると、日本陸連の収入の内訳は、2006 年度の分類で は「基本財産運用収入」、「登録料受入収入」、「分担金収入」、「寄付金収入」、「JOC委託金 収入」、「スポーツ振興委託金収入」、「日本体育協会委託金収入」、「スポーツくじ助成金収入」、 「復活プロジェクト助成金収入」、「事業収入」、「その他事業収入」、「その他収入」、そして 「繰入金収入」となっている。 このうち、2006 年度においては「事業収入」が約 55%、「寄付金収入」が約 18%、「その 他収入」が約14%、そして「助成金収入」・「繰入金収入」がそれぞれ約4%、「その他事業 収入」が約3%、「基本財産運用収入」・「登録料受入収入」がそれぞれ約1%である。最も 多い「事業収入」は約9割が「協賛金」で、その他多い順に「肖像権料」(約 2.5%)「放送

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権料」「入場料」などが続く。 このうち協賛金について櫻井孝次前日本陸連専務理事は2004 年 10 月 22 日に早稲田大学 において行った講演の中で「陸連がいろいろな大会を行うときに協力してくれるスポンサー (からの出資)」(『トップスポーツビジネスの最前線―勝利と収益を生む戦略』より)と述 べ、寄付金については「スポーツウェアなどメーカーと契約するということ(で得る資金)」 (同上)と定義している。 なお、支出については、2004 年では事業費が約7億円で約 52%、選手強化費が約3億円 で約22%を占めている。

(27)

3.4 トリプルミッションの推移

それでは以降、トリプルミッションモデル図(以下、TMM図)の推移を夏季五輪開催年 ごと(4年ごと)に見る。 0 200 400 600入賞点数 収入額 登録人員 0 200 400 600入賞点数 収入額 登録人員 図7−1 1984 年のTMM図 図7−2 1988 年のTMM図 0 200 400 600入賞点数 収入額 登録人員 0 200 400 600入賞点数 収入額 登録人員 図7−3 1992 年のTMM図 図7−4 1996 年のTMM図 0 200 400 600入賞点数 収入額 登録人員 0 200 400 600入賞点数 収入額 登録人員 図7−5 2000 年のTMM図 図7−6 2004 年のTMM図

(28)

0

100

200

300

400

500

600

1984年

1988年

1992年

1996年

2000年

2004年

年度(年)

指標(

点)

入賞点数

収入額

登録人員

図8 トリプルミッションモデル各項目の推移 (注)目盛の数値は1984 年の数値を 100 としたもの 1984 年は 1980 年のモスクワ五輪ボイコット後、日本としては初の五輪出場年となった。 結果は男子マラソンで宗猛が4位に入ったのが最高で、以下男子やり投で吉田雅美が5位に 入った他は、男子走幅跳、男子10000mでそれぞれ7位入賞と、入賞数は合計4で、戦後6 回目の出場にして最多となった。また、日本陸連の収入額で見ると、一般会計が前年より8000 万円増加している。なお、日本陸連はこの前年からアシックス、この年にはサントリーとの スポンサー契約を結んでいる。また、同年の高校生の登録人員は10 万 9790 人であった。 1983 年は 1982 年の109.7%、1984 年は 1983 年の105.5%の人数と、両年ともに前年比 で増加していた。 1988 年はソウル五輪が開かれた年で、男子マラソンで中山竹通が5位に入賞したのみで、 入賞点数は5に留まり、後述する男子マラソンの「ナショナルチーム」結成などの強化策が 採られることとなった。この年には国際千葉駅伝が開始され、日本陸連の収入は前年比では 約1.5 億円の増収となった。1984 年からの4年間には新たに全国小学生陸上競技交流大会、 千葉国際クロスカントリーが開始されたことに加え、アシックスとサントリーとのスポンサ ー契約も引き続き行われたこともあり、4年前と比べて約3億円の収入増となっている。高 校生の登録人員は、1988 年は 13 万 6642 人であり、1987 年(13 万 3672 人)の 102.2%で あった。1984 年から 1985 年へは前年比 113.6%に増加しており、1982 年から 2004 年の間 で最も増加率が高かった。また、1986 年は 1985 年の 100.8%、1987 年は 1986 年の 106.4% だった。なお、1988 年は 1984 年の 124.5%の登録人員となっていた。 1992 年はバルセロナ五輪が開催された年であるが、この前年には東京で第3回世界陸上 が開かれ、その強化策が受け継がれたことも影響して、森下広一・有森裕子が男子マラソン・

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女子マラソンでそれぞれ1968 年以来6大会ぶりのメダルとなる銀メダルを獲得するなど、 入賞数は8と、戦後では1984 年のロサンゼルス五輪を上回る数となった。内訳としては男 子マラソンが2・4・8位と3人全てが入賞、女子マラソンでも2・4位となった。また、 佐藤恵が女子走高跳で日本人初の入賞(7位)、高野が男子400mで日本人短距離種目 60 年 ぶりの決勝進出(8位)、男子4×100mR も 60 年ぶりの入賞(6位)を果たし、今までに 見られなかった種目での活躍も目立った。日本陸連の収入は、この年は世界陸上東京大会が 行われたことで増収となっていた前年と比べては約 2.5 億円の減収となったが、翌 1993 年 には 1991 年とほぼ同じ約 11 億 3000 万円の収入を得た。また、1989 年からは日本選手権 に対して東京海上日動が、スーパー陸上に対して TOTO がそれぞれスポンサードを開始し たこともあって、4年前と比べて約2億円収入が増加している。また、高校生の登録人員数 においても、前年と比べて人数は約 1000 人の減少となったが、登録人数比では過去最高の 2.65%であり、翌 1993 年は 2000 人の減少となったが、比率は 2.72%に伸びている。1988 年から1989 年では 102.2%、1989 年から 1990 年では 100.2%に増えていたが、1990 年か ら1991 年では 99.5%となっており、1991 年をもって人数自体の増加は終わっている。1991 年から1992 年にかけても 99.4%に落ちており、1992 年の人数は 1988 年の 101.2%だった。 1996 年はアトランタ五輪が開催され、有森裕子が2大会連続メダルとなる銅メダルを獲 得したのが唯一のメダル獲得となった。また、1980 年から採用されていた女子の長距離種 目で、5000mで4位入賞、10000mで5・7位入賞が生まれた他、男子4×400mR が 64 年 ぶりに決勝進出(5位)を果たした。日本陸連の収入は史上初めて収入額が20 億円を超え、 4年前の約2倍となっている。なお、この年の5月からはIAAF グランプリ大阪大会(以下、 大阪GP)が開催されている。高校生の登録人員数では 1994 年以来毎年 5000 人を超える規 模での減少が起こっており、1996 年は前年比で約 7000 人の減少であった。年別の減少率を 前年比で見ると、1992 年から 1993 年が 98.5%、1993 年から 1994 年が 95.4%、1994 年か ら1995 年が 95.6%、1995 年から 1996 年が 94.5%であり、1992 年と 1996 年とを比べる と約84.9%に減少していた。 2000 年はシドニー五輪の開催年で、入賞点数こそ前年を下回ったが、女子マラソンの高 橋尚子が日本陸上界にとって 64 年ぶりとなる金メダルを獲得した。また、この年は男子4 ×100mR でも2大会ぶりの入賞(6位)を果たし、この大会から世界陸上と合わせて6大 会続けて入賞を続けている。また、高岡寿成が男子の長距離種目では 1984 年以来の入賞を 10000mで果たした(7位)。日本陸連の収入においては、前年より約5億円多い 19.2 億円 の収入となった。加えて、過去4年間を見ると1997 年からはTBSが世界陸上の中継を始 めたのに加え、1998 年度(1999 年2月)には群馬で世界室内陸上競技選手権大会が開かれ、 ている。ただし、4年前の 1996 年と比べるとほぼ1億円の減収であった。高校生の登録人 員では、前年比は97.8%であったが、1982 年以来 10 万人を切る、9万 9910 人だった。特 に1996 年からのこの4年間は前年比で 93.4%(1996 年→1997 年)、97.5%(1997 年→1998 年)、95.4%(1998 年→1999 年)、97.8%(1999 年→2000 年)と推移しており、1996 年と

参照

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