はじめに アメリカ合衆国(以下,アメリカと略記する)において,1970 年代までに環境保護政策 が確立するが,1970 年代末以降,それへの反発が強まり反環境主義も著しく強まった。本 稿では,1970 年代末の反環境主義の台頭,レーガン政権時や共和党が連邦議会両院で多数 派を形成した第 104 議会(1995-96 年)を中心に「反環境主義の台頭と展開」を扱う。 まず,アメリカにおける環境保護主義の確立について簡潔に述べておく。19 世紀末に起 源をもつ自然保護運動と都市公害防止運動とが,1960 年代に合流し 1970 年代までに多くの 環境立法が制定され,環境保護主義が確立したのである1)。 自然保護主義はとくに西部の広大な大自然を,企業などの乱開発から守ろうとするもので あった。当時は,連邦政府が水・森林・鉱物・放牧地などを資源と捉え,それらを保全しつ つ経済活動に利用しようとする資源保全主義が強かった。しかし,1950 年代から自然保護 主義が勢いを増し,国有林のなかに設定された,材木生産としては利用せず,そのまま保存 する「原生地(ウィルダネス)区域」をさらに拡大する「1964 年原生地保存法(Wilderness Act)」を制定するのに成功した。ここに資源保全主義とは異なる自然保護主義が明確に台 頭したのである2)。 他方,都市公害防止運動は主に東部や中西部の工業都市において鉄鋼,化学工業のような 新産業によって水質汚染,下水衛生,廃棄物,そして煤煙など公害問題が拡大し,これらに 対処しようとしたものである。この社会運動の働きかけによって,1912 年に連邦政府内に 「公衆衛生局」が新設された。しかし,これによって公衆衛生専門家の地位が高くなり,こ の社会運動は弱まっていった3)。第 2 次大戦後,ロサンゼルス市などで自動車排ガスによる 大気汚染が発生し,社会問題となった。大気汚染ばかりではなく水質汚染,産業廃棄物など も加わり,1970 年代から連邦政府が大気汚染をはじめとする公害規制に乗り出し,実効性 を求める強制力のある規制を行うようになった4)。 こうして,経済活動を厳しく規制をされるようになった諸産業に危機感が生じ,反環境主 義の動きが活発になるのである5)。この反環境主義の台頭から検討を始めよう。
小 林 健 一
米国における反環境主義の台頭と展開
― レーガン政権期と第 104 議会 ―第 1 節 環境保護政策への反発 「よもぎの反乱」 1970 年代までに自然保護政策が強化されたが,それは各分野に大きな影響を及ぼした 「1964 年原生地保存法」の制定を契機としていた。たとえば,同法の原則を河川に適用した のが「1968 年原生・景勝河川法」であった。これは景勝に優れた河川地域は開発せず,そ れらを原生のままで保存しようというものであり,水資源や鉱物資源の開発を制限しようと する意図が含まれていた6)。 「原生地保存法」は 1970 年代初期には農務省森林局に大きな影響を及ぼすようになった。 自然保護派は同法を厳格に解釈し,森林局が必ずしも同法を厳格に実行していないと攻撃し た。森林局はこの攻撃に機先を制しようとして,1971 年に「道なき森林地の評価プログラ ム」に着手した。「道なき森林地」は「原生地保存法」が拡大を求める原生地の候補地であ ろうからであった。73 年にこの評価プロジェクトは終了し,その調査結果は「道なき森林 地」はすべてで 5,600 万エーカーであり,そのうち,1,100 万エーカーを原生林として保存 することを検討する,というものであった。これには世論から多くの批判が寄せられ,原生 林として保存することを検討すべき森林地は 1,230 万エーカーに増やされた7)。 鉱業事業者も「原生地保存法」の影響を受けた。というのは,鉱業事業者が「原生地保存 法」の指定する区域で鉱物採掘するには道路を作らなければならないからである。放牧事業 者も「原生地保存法」の延長線上の「1976 年連邦土地政策・管理法(Federal Land Policy and Management Act)の影響を大きく受けた。同法は内務省土地管理局にそれが所有する 土地に「原生地保存法」を適用することを命じ,土地管理局はその土地を調査のうえ,一部 に原生地保存区域を設定することになった。こうして放牧地の利用料は相当上昇することに なり,これが西部諸州による「よもぎの反乱(Sagebrush Rebellion)」を引き起こしたので ある8)。 「よもぎの反乱」とは,ネバダ州など西部の諸州が 1970 年代末に連邦公有地の西部諸州へ の移管を要求する法律を制定するなど,それまでの西部の広大な連邦所有・管理を否定する 運動であった。「1964 年原生地保存法」や「1976 年連邦土地政策・管理法」の制定によって, 土地管理局や森林局の原生林保存政策が拡張した。そのため西部の主要産業であった林業, 鉱物採掘業,放牧業などが脅威を感じ,「よもぎの反乱」運動へと繫がったのである9)。 このような状況において,カリフォルニア州副知事であったハーマーが,1978 年に超保 守派のゴールドウォーター上院議員(アリゾナ州選出)と会談し,「よもぎの反乱」を準備 する組織,州権同等化推進連盟(League for the Advancement of States Equal Rights)を 結成することになった。又,アイダホ州では同様の組織,「よもぎの反乱準備委員会(Sage brush Rebellion, Inc.)」が形成された。さらに,同様の組織,公有地問題協議会(Public
Land Council)も 組 織 さ れ,そ の 会 長 は ネ バ ダ 州 の 州 議 会 議 員 デ ー ン・ロ ー ズ(Dean Rhoads)であった10)。 ローズ州議員は 1979 年に,ネバダ州の連邦公有地の歴史を紹介し,土地管理局の所有地 を同州へ移管する州法を推進し制定した。同年に,西部諸州の連邦議員たちによって公聴会 が開催され,全国家畜協会,全国ウール生産者協会など西部利害を代表するような団体やネ バダ州のローズ州議員の意見が表明された。1980 年には,西部各州では「よもぎの反乱」 のための州法制定の嵐が吹きまくり,ワイオミング州,ユタ州,そしてニューメキシコ州に おいて,ネバダ州の「よもぎの反乱」法と同様の連邦所有地の州政府への移管を要求した州 法を制定した。アリゾナ州では州知事の拒否を乗り越えての州法の制定を勝ち取った。「よ もぎの反乱」法はこれら 5 つの州において制定されたのである11)。 しかし,ワシントン州では同様の州法が制定されたが住民投票で否決され,モンタナ州, アイダホ州,そしてオレゴン州で「よもぎの反乱」州法は否決された。カルフォルニア州で は同様の州法が可決されたが,ブラウン州知事によって拒否された。コロラド州では州知事 が同様の州法の推進を停止させ,制定させなかった。こうして,これら 6 州では「よもぎの 反乱」州法の制定には至らなかった。「よもぎの反乱」州法への支持は,放牧業者の強力な ロビー活動が存在する州で強かった。放牧業者が地方議員になっていることが多く,いくつ かの事例では放牧業者が地方議員の 3 分の 1 を占めていた。12)。 ところで,「よもぎの反乱」運動の背景は,(東部の)自然保護主義者たちが(西部の)公 有地の問題を理解していないことを西部人が恨んでいることにある。また,アメリカ人は政 府の抑制から経済的自由を保証されるべきであるという,アメリカ「独立革命」のアナロジ ーで語られることが多い。アメリカの経済的生活への政府統制の軽減を要求したように, 「よもぎの反乱」運動者は彼らの土地を自由に利用することを追求した。さらに,彼らは連 邦公有地の西部諸州への移管,そしてそれは経済的活動を刺激するだろうと主張した。経済 成長を達成する手段として政府規制を減少させるという保守的要求と並んで,反乱運動は実 践的に「ニュー・ライト」のイデオロギーを表していたのである13)。 大気汚染防止法をめぐる攻防 1970 年 12 月にニクソン大統領によって署名された「大気汚染防止改正法」は,最初の, 最も大規模な汚染防止法であった。同法は新しい環境規制の時代の開始のシグナルとなった。 というのは,厳しい達成期限(1975-76 年)の設定,非妥協的な達成基準(排ガスを 90% 削減する)の設定は,本当に環境保護を守るためなら必要な要件であった14)。ようやく実 効性のある厳しい環境規制を行う規制基準が含まれるようになったのである。そのため, 1970 年代以降,規制を受ける諸産業から多くの抵抗や反発を受けることになった。 1970 年大気汚染防止法による規制政策の特徴は,第 1 に,EPA(環境保護庁,Environ
mental Protection Agency, 以下,EPA と略記する)が全国統一の 6 つの汚染物質,つまり, 一酸化炭素,地上レベルのオゾン,鉛,酸化窒素,PM,二酸化硫黄についてそれぞれ大気 質基準(濃度基準, National Ambient Air Quality Standards, NAAQS)を定め,条件が異 なっている地域に関わらずに,全国的な達成を目指したことである。第 2 に,自動車などに ついては 1975 年新車モデルから排出量基準を順守させるが,その際,その規制基準はそれ までより 90% 削減するような非常に厳しいものであった。第 3 に,新たに建設される工場 や発電所についても,技術ベースに基づいた新規排出源排出基準(New Source Performance Standards, NSPS)を設定し順守を義務づけた。第 4 に,各州は異なった経済構造,地理, 汚染排出源を有していることを理解し,各州は全国統一の全国大気質基準を達成できるよう に,州実施計画を作成することになっていた15)。 ここでは,工場・発電所の排出規制について取り上げる。1971 年に EPA は 6 つの汚染物 質に関して全国大気質基準を公表し,1972 年には各州が EPA に州実施計画を提出した。 1970 年法は明らかに全国大気質基準アプローチを好み,全国統一排出基準アプローチを退 けたのである。つまり,1970 年法は各州が全国大気質基準を達成する方法を決めることを 許したのである。同法の 110 条は,州実施計画は全国大気質基準を達成と維持を保証する, 排出量制限,それ達成するタイムテーブルなどを含んでいなければならないと規定した16)。 州実施計画は州により異なるであろうから,いろいろな問題がでてくるのであるが,その ひとつに拡散(dispersion)という問題が持ち上がった。この拡散とは工場・発電所の煙突 を高くして汚染物質を遠くまで拡散させることであり,また,もう一つの方法は,大気質の 状態に応じて汚染物質の排出量を変化させること(これを, Intermittent Control System, ICS と呼ぶ)であった。ICS は大気質の状態に応じて,特定の工場・発電所の操業を停めた り動かしたりすることによって,排出量を変化させることである。EPA は石炭発電所が 1970 年法を順守するには,高硫黄石炭から低硫黄石炭に燃料転換するか,スクラバーと呼 ばれる脱硫酸設備を設置するかであるべきであると想定していた。しかし,それらはコスト がかかるため,関連産業界では拡散を望む声が高かった。1973 年 10 月に石油危機が勃発す ると,ますます拡散を支持する勢力が増大した17)。 1972 年に各州は EPA に州実施計画を提出し審査を受けた。EPA はネバダ州の州実施計 画が ICS を認めているのでそれを拒否したが,煙突を高くして拡散させることを認めてい たジョージア州の州実施計画を承認した。すると,環境保護団体の自然資源防衛協議会 (Natural Resources Defense Council. NRDC)は 1972 年 6 月に,EPA がジョージア州の州 実施計画が高煙突を無制限に認めたとして提訴した。当時のニクソン政権はとくに石油危機 以降,コストがかからない拡散を認める方針をとった。1974 年の NRDC 判決は公害防止の ための技術が見つからない,あるいは不可能な場合にのみ,EPA は拡散を認めることがで きるとした。つまり,拡散は条件付きでのみ認められたのである。他方,関連業界のケネコ
ット・コッパー社からは ICS への制限を緩和すべきであるという趣旨の提訴があった。こ の 1975 年ケネコット・コッパー社判決は,連続的防止が技術的に不可能であるときだけで なく,経済的に不可能な場合にのみ,EPA は ICS を認めることができるというものであっ た18)。 つまり,裁判所判決は条件付きで拡散も ICS も認めたが,かなりの制約を課したことに なる。そこで,産業界の不満は強かった。フォード政権の連邦エネルギー庁(のちのエネル ギー省)は,石炭発電所について 1985 年まで ICS を認めてほしいと EPA に要請し,EPA もそれを承認した。結局,1977 年に大気汚染防止法は改正され,煙突に関する条項,123 条 は,特定の精錬所や発電所を例外として,「近隣地域において汚染物質の過度の集中を招か ないような煙突の高さ」が望ましいと規定した。1977 年改正法は EPA に 1978 年 2 月まで に「規制」を公表するよう命じていたが,EPA が規制を公表したのは 1982 年だった19)。 環境保護主義者たちは煙突の高さを制限し,総排出量を制限すべきであると主張した。 NRDC は同法改正の趣旨は排出源に高煙突やその他の拡散技術を使って,排出削減を逃れ ることを阻止することであると述べた。反対に,産業界はこの 123 条を「煙突を高くするこ とによって,地域の大気汚染問題を解決する権利」として解釈した。カーター政権は石炭発 電所の多い中西部の電力会社が排出削減をしなければならないと考え,高煙突を制限する方 向に進んでいった。しかし,レーガン政権になると急に方向性が逆転し,あらゆる排出源は 煙突の高さを 2.5 倍にすることができるようになった20)。 こうして「1970 年大気汚染防止法」などによる非妥協的な厳しい環境規制が実施された ため,産業界の抵抗が強くなり,裁判所への提訴,関連省庁への働きかけなどが活発に行わ れるようなったのである。 第 2 節 レーガン政権の反環境主義 レーガン政権の発足 1970 年代末の反環境主義が高まる中で,レーガン政権が発足した。レーガンは「大きな 政府」をアメリカ経済停滞の原因と見なし,「大きな政府」の徹底的な見直しを追求し,環 境立法と規制は再検討され,必要であれば,そのコストを正当化するほどの利益を確保する ため改革されるべきであると主張した。「われわれは環境保護が,無成長政策と縮小経済を 覆い隠すものにならないよう宣言する」21)。また,エネルギー政策については,「われわれ は全国のエネルギー供給を積極的に増加させ,市場において最大限可能な選択と自由を回復 することを約束する」22)と 1980 年の共和党の綱領に述べられている。 大統領選挙戦のなかで,レーガンは「大気汚染防止(改正)法」を間違った優先順位と過 剰規制の典型であるとし,大統領に就任したら,アメリカ経済の規制緩和政策における最重
要なものとして真っ先に(再)改正すると述べた23)。同時にレーガンは 3 分の 2 の鉱物資 源が広大な連邦公有地に埋蔵されていて,連邦公有地が石油,ガス産業の発展を押しとどめ ていると信じていた24)。 レーガン大統領は,連邦公有地の管理運営の権限をもつ内務長官にコロラド州で活躍して いた反環境主義の法律家,ジェイムズ・ワットを任命し,環境保護長官には同じくコロラド 州議会で反環境主義の活動をしていた議員,アン・ゴーサッチ(Ann Gorsuch)を任命した。 また,レーガンは大統領就任後間もない 1981 年 2 月,行政命令 12291 号に署名をした。こ の行政命令はあらゆる新しい連邦規制は,採択される前にコスト・ベネフィット分析にかけ られるべきであると義務付けた。この行政命令は,経済的効率性が新しい規制やそれらの修 正を評価する際のベースにならなければならない,と述べた。この行政命令の司令塔となっ たのが,行政管理予算局(Office of Management and Budget)であった25)。こうして,レ
ーガンの反環境主義の「革命」が始まったのである。 連邦公有地における開発推進 レーガン政権は連邦公有地の管理について,第 1 に,原生地あるいは準原生地を石油・ガ ス・リースに開放すること,第 2 に,原生地に指定されつつある連邦公有地を,指定から解 除することに集中する方針であった26)。ところで,連邦公有地とは資源の保護管理のため に,連邦政府がアメリカ全土の約 22 億エーカーのうちの約 28% にあたる約 6 億エーカーを 所有・管理している。それらは,とくに内務省の土地管理局,国立公園局,魚類野生生物局, そして農務省森林局などが所有・管理している。 レーガン政権のもとで,ワット内務長官が前例無視の異常なまでの連邦公有地内の開発を 推進した。たとえば,イェーツ石油会社事件が起きているが,それは連邦公有地での石油・ ガス事業開発に関するものであった。1982 年 11 月,ニューメキシコ州東部ビターレイク野 生生物生息地と指定された原生地において,イェーツ石油会社が石油・ガスの採掘を行った が,地元環境グループが抗議し紛争となった。この地域はかつて,連邦政府が民間所有者と ニューメキシコ州から買い取り,ビターレイク国立野生生物生息地として指定した。その際, 同州は鉱物採掘権を保留し,土地所有権は連邦政府にあるが鉱物採掘権は同州がもっていた。 1972 年にニューメキシコ州はイェーツ石油会社に,その地域のなかで石油・ガス採掘リー スを許可したが,その後,その地域は原生地に指定された。リースの条件は 10 年以内,つ まり,1982 年 11 月 1 日までに採掘作業を開始することであった。同社はリース権が切れる のを恐れ,1982 年 9 月にニューメキシコ州に採掘作業開始を申請し,さらに,内務省魚類 野生生物局と土地管理局に通行権を申請した27)。 こうした状況において,内務省は本来ならば,開発予定地が原生地に指定されているので, イェーツ石油会社のリース権を無効にするか,原生地として指定されていない連邦公有地の
石油・ガス・リース権と交換すべきであった。ところが,内務省は 1982 年 10 月にイェーツ 石油会社に掘削開始を許可する書簡を出していた。そこで,同社は 1982 年 11 月に掘削作業 を開始したが,地元環境グループから抗議を受けたのだった。それにもかかわらず,同社は 掘削を続け,地下 2,800 フィートまで掘り進んだ。同社は 1983 年 2 月に天然ガスの採掘に 成功したのである。しかし,天然ガスの市況悪化により投資採算がとれず,この採掘事業は 停止されることになった28)。 イェーツ石油会社と内務省土地管理局は協議により,この採掘事業の停止を確認した。こ の事件は,レーガン政権が原生地に指定されている地域にもかかわらず,石油・ガス開発事 業を強行した事例である。また,アイダホ州,ワイオミング州,モンタナ州でも同様の連邦 公有地において石油・ガス開発事業が推進されたが,環境保護グループによって提訴され停 止に追い込まれた29)。 次に,連邦所有地である国有林における木材販売について述べる。国有林の管理は農務省 森林局の管轄であるが,レーガン政権はその担当者として農務副長官として,ジョン・クロ ーウェルを任命していた。クローウェルは木材大手企業のルイジアナ・パシフィック社の副 社長であった人物であり,国有林の管理運営に多大の影響力をもつことになった。レーガン 政権発足後,国有林の予算はレクリエーション関連予算が減額され,木材生産・販売関連予 算が増額された。これは国有林の役割の中心が,木材の生産・販売にあるという考えの表れ であった。ところが,国有林へのハイキング訪問者は 1970 年代に 99% も増え,1,230 万人 になっていた30)。国有林にたいする市民の期待とレーガン政権の政策は食い違っていたの である。 レーガン政権は国有林において木材生産・販売を重視したが,その最初の 3 年間に,国有 林で販売された立木と,実際に木材会社によって伐採された木材のギャップは拡大した。こ れは立木が販売契約された時期と,実際に伐採する時期が異なっており,後者の時期の木材 市況が悪化したからである。「ダグラスもみ」は 1,000 ボードフィート当たり 450 ドルだっ たが,不況後は 80 ドルに値下がりした。国有林の立木を購入契約した木材会社は,値下が りした後では,伐採するインセンティブを失った。国有林の規則では,伐採され国有林から 運び出されないと,木材会社はアメリカ政府に支払いをする必要はなかった。木材会社は伐 採と運び出しを 5 年間猶予してほしいと救済を要求した。ルイジアナ・パシフィック社は 2 億 1,250 万ドルに相当する 15 億ボードフィートの木材を購入契約したが,もし,政府が支 払い猶予を与えなければ,年間 400 万ドルを政府に支払わなければならなかった31)。 このような状況に直面しているのに,クローウェル農務副長官は 1984 年に,前年より多 くの 116 億ボードフィートの立木を販売しようと計画した。その結果,木材生産・販売予算 が森林局の予算の半分以上を占め,リクリエーションその他の予算の 7 倍にも達した。コロ ラド州の 3 つの国有林では,5 年間に木材生産にかける費用の 35% しか売り上げがなかっ
た。にもかかわらず,クローウェル副長官は補助金を削減するどころか,補助金を増やすこ とになる木材生産を推進した32)。 連邦所有地の売却計画 レーガン政権は広大な連邦公有地の土地を一部販売することを推進し,1982 年に売却計 画を公表した。ワット内務長官は連邦公有地の 5% に相当する 3,700 万エーカーの土地を売 却する予定だが,この土地はミシガン州の面積に相当し,ニューイングランド地方より若干 小さい面積であると述べた。広大な公有地の販売は当時の連邦政府の財政赤字を補塡でき, 連邦予算案は 1983 年に始まる 5 年間に 170 億ドルの収入増を予想していた。これは西部地 方が連邦政府への敵対心を長年抱いてきたこと,とくに連邦政府が西部の巨大な土地所有者 となって,西部自身がその土地を自由に活用できないことへの苛立ちから生じていた33)。 ウォーレス・ステグナー(Wallace Stegner)によれば,「よもぎの反乱」は西部地域のエ リートの,政治的・経済的寡占の声であった。レーガン大統領が 3 億 4000 万エーカーの連 邦公有地を管理する内務省土地管理局の局長にロバート・バッフォードを任命したが,彼は 典型的なエリートであった。彼はコロラド州西部の連邦公有地 3.2 万エーカーの放牧地の利 用許可を持つ放牧業者であり,25 万ドルの土地をもち,10 万ドルから 25 万ドル相当の価値 の家畜を所有し,セントラル・コロラド銀行の 10 万ドルから 25 万ドル相当の価値の持ち株 を所有し,5 万ドルから 10 万ドルの価値を持つ石油・ガスの利権をもっていた34)。 レーガン政権の連邦公有地の売却が成功すれば,バッフォードのような裕福な放牧業者が 広大な土地を購入し彼らの事業を拡張することになろう。また,連邦公有地での民間企業へ の制約のゆえに,利益を挙げられなかった鉱業企業などがより一層の利益を挙げられるよう になる。連邦公有地の売却は,こうした民間企業などの利害への協力であったのである35)。 大統領の行政命令によって「資産評価委員会」が設置されたが,それは公有地販売のルー ルを決めることなく,公式の説明をすることもなく,しかも,州政府や自治体の代表に相談 することもなかった。「資産評価委員会」は関係各省庁に第 1 次割り当てを行い,たとえば 内務省土地管理局は 440 万エーカーの売却を目標とし,農務省森林局は 1 億 4000 万エーカ ーの所有地の売却検討を行うと公表した。「資産評価委員会」は 1982 年 7 月,307 件の土地 売却リストを提示し,最高値をつけた入札者に売却すると公表した36)。 このように実際に連邦公有地の売却が始まると,レーガン政権を支持する連邦議員たちも, 自分たちの選出州の国有林が売却されることに反対し始めた。また,アリゾナ,コロラド, アイダホ,モンタナ,ニューメキシコ,ノースダコタ,サウスダコタ,ユタ,そしてワイオ ミング州と多くの西部諸州の知事たちも,連邦公有地の売却に反対を声明した37)。こうし て,レーガン政権の公有地売却の計画は,実際には,ほとんど実現しなかったのである。
有害廃棄物問題
次いで,レーガン政権の有害廃棄物(disposal of hazardous wastes)問題への対処につ いて述べる。有害廃棄物の最大の脅威は,有害な化学物質が地中に染み入り,地下水に入る ことである。一度,有害化学物質が地下水に入ると,洗浄は全く困難になる。こうした問題 のために,「1976 年資源保全・回復法(Resource Conservation and Recovery Act)」が制 定されていたが,同法のもとで EPA は有害廃棄物を指定しリストアップし,その発生から 廃棄処分までの経路を把握し,廃棄物の貯蔵,処理,そしてその処分の基準を定めている。 各州はこの連邦基準を順守すべく,有害廃棄物の規制に乗り出すことになっている38)。 この有害廃棄物問題において,ベストの対処のしかたはリサイクルする,燃やす,量を減 らす,有害度を減らすことである。こうした技術へ投資している先進企業もあるが,これら は埋め立てするより,50% から 100% コストが高いのである。そのため,あらゆる種類の 有害廃棄物の 80% は地下処分になっていた。しかし,地下処分は問題が多い。たとえば, モンサント社,デュポン社などの最大手企業が所有するニュージャージー州にある 4 つの最 新式の地下埋め立て処分場が建設されたが,開設後数か月後に液体内容物が漏れ出した39)。 この問題の事例として,コロラド州デンヴァー市のローリィ有害廃棄物処分場を中心に見 てゆこう。1966 年にデンヴァー市は市街地から 15 キロ離れた農村地域に 2,680 エーカーの ローリィごみ処分場を開設した。家庭のごみ,病院の廃棄物,工業の有害廃棄物などが運び 込まれ,廃棄物の量は 1977 年には 1,000 万ガロンに膨張した。このころまでには,近隣の 住民が健康被害を訴え,コロラド州の公衆衛生局もその安全性に懸念をもつようになっ た40)。 デンヴァー市はローリィごみ処分場問題を軽減するために,専門企業に助力を求めた。そ れがイリノイ州に本社(ウェイスト・マネジメント社)をもつ,ケミカル・ウェイスト・マ ネジメント社(Chemical Waste Management, CWM)であった。この CWM は住民の健康 と環境を守れるよう同ごみ処分場に最新の設備を建設することになった。デンヴァー市は CWM と契約をし,1980 年 8 月から CWM は廃棄物を受け取ることになった41)。結果はど うなるのであろうか。 ローリィごみ処分場での CWM の新施設建設計画にたいして,住民たちは懸念を感じ, 1980 年 11 月にはその建設計画を再検討することになった。CWM の新施設では,液状の廃 棄物の入ったドラム缶が埋められつつあり,コロラド州公衆衛生局はできるだけその建設を 早く停止するよう申し入れた。液状の廃棄物の入ったドラム缶を埋めて処分するのは, EPA の規制によって禁止されていたからである。1980 年 12 月に CWM 幹部は翌年 11 月ま でに,ドラム缶に入れる前に液体廃棄物を固形化させる中間施設を完成させると答えた。し かし,CWM は実行しなかったのである。CWM は液体廃棄物の入ったドラム缶を 13,000 本 も埋め続け,固形化のための施設は建設しなかった。コロラド州公衆衛生局は固形化施設を
要求し続けた。CWM は無視し,EPA は何もしなかった42)。 おそらく,CWM はレーガン政権下の EPA は,液状の廃棄物の入ったドラム缶の地下処 分を禁止しないと踏んでいたのだろう。1981 年夏には,規制緩和は最高潮に達しており, 有害廃棄物処理産業はこの禁止を撤廃するか,緩和することを EPA と協議し始めた。1981 年 11 月の協議のなかで,ウェイスト・マネジメント社幹部は,処分場の 25% までなら液体 廃棄物のドラム缶埋め立てを EPA が認めるよう要請した。EPA は 10% なら譲歩できると いう立場を示した43)。 1982 年 1 月,CWM 幹部は実際には液体廃棄物ドラム缶を埋め立てていながら,EPA に 埋め立ての許可を要請した。翌月,環境保護長官はそれに許可を与えたのである。CWM は 4 週間にわたって液体廃棄物ドラム缶 1,434 本を埋め立てた。議会,メディア,そして市民 の抗議の前に,環境保護長官は再び禁止とし,同年 4 月に CWM はようやく固形化施設の 建設を開始した44)。 他方,CWM が建設した 3 つの巨大な乾燥させた池を利用した貯蔵施設も,トラブルを起 こしていた。これら乾燥池は液体廃棄物を貯蔵していたが,サッカー場ほどの面積で 10 フ ィートほどの深さを持っていた。この第 2 乾燥池において,液体廃棄物の漏れ出しがあった が,CWM は EPA や州公衆衛生局に報告せず,14 ヶ月も隠していた。1981 年 11 月,州公 衆衛生局からの視察によって,漏れ出しがあったのではないかという疑念が持ち上がっ た45)。 CWM は漏れ出しはなかったと主張したが,同社内部にはこの乾燥池への液体廃棄物処分 について述べられていない社外用の黒い報告書と,液体廃棄物処分に触れている社内用の黄 色い報告書があることが判明した。こうしてこの事件は新聞に報じられ,CWM の秘匿問題, それを見逃した EPA の問題点が明らかとなり,CWM の親会社,ウェイスト・マネジメン ト社も新聞の集中砲火を浴びた。EPA 幹部の一部が辞任し,CWM は 1983 年中期に,ロー リィごみ処分場の運営を断念し,閉鎖することに同意した。市民運動はそれ以上を要求し, 漏れ出した廃棄物の洗浄を要求した46)。 レーガン政権の規制緩和路線で,ごみ処分場の安全性はデンヴァー市だけでなく,全国的 にも問題になっていた。たとえば,サウスカロライナ州チェロー(Cheraw)でもごみ処理 場が水道源の近くに立地することになり,住民に衝撃を与えていた。ノースカロライナ州の アンソン郡では,前述のウェイスト・マネジメント社の子会社がごみ処分場を建設すること になったが,その窪みは地下水からわずか 7 フィートしか離れていなかった。どちらのごみ 処分場も水源に近く,有害化学物質が水源に染み出すのではないか,と住民たちは強く懸念 を持った。市民の反対は強く,ウェイスト・マネジメント社の子会社は,1983 年 4 月にご み処分場の建設を断念した47)。こうして,EPA の規制緩和路線は,結局は,市民の反対に よって挫折したのである。
酸性雨対策をめぐる議会の動向 レーガン政権の強引な反環境主義の展開のなかでも,次第に,連邦議会などが対策に乗り 出すことになった大気汚染問題があった。それは 1970 年代末から注目を集めてきた「酸性 雨問題」であった。「酸性雨問題」とは石炭発電所から排出される二酸化硫黄(SO2)と自 動車などから排出される酸化窒素(NOx)が大気中で化学反応し硫酸となって,降雨など で湖や河川に沈殿して魚類などに被害を与えることである。これにたいする対策は 1990 年 までに大いなる前進があり,「1990 年大気汚染防止改正法」に結実し,新たな環境政策を切 り開くものとなる。 この問題が明瞭となる一契機は,1978 年 10 月にカナダ政府とアメリカ政府が,汚染物質 の長距離の移動に関する共同研究調査について合意したことであった。1979 年に第 1 回の 調査結果の報告が,1980 年に第 2 回の調査報告がなされた。この第 2 回報告書が酸性雨と その影響に関する最初の包括的な記述となった48)。それ以降,カナダは酸性雨対策を進め, 1984 年には同国の排出する SO2を 50% 削減するプログラムを開始した。この問題は国際的 にも注目を集め,各国が対策を取り始めるようになった49)。 1980 年はアメリカではカーター政権の末期であり,その環境保護長官(D. コステル)が アメリカにおいて排出された SO2が長距離移動してカナダで被害を起こしているため,大 気汚染防止改正法の 115 条に基づいて州実施計画の修正に着手しようとした。しかし,レー ガン政権の環境保護長官(A. ゴーザック)は調査が不十分として,州実施計画の修正に乗 り出そうとはしなかったし,レーガン政権の歴代の環境保護長官はいずれも酸性雨対策に乗 り出さなかった50)。 しかし,連邦議会では酸性雨対策は優先度の高い課題となった。1981-82 年の第 97 議会, 1983-84 年の第 98 議会では,酸性雨関連公聴会が被害を受ける地域の議員たち,産業関係 者,環境主義者,多数の科学者たちが多数の法案のメリット,デメリットを巡って論争した。 1982 年,1984 年に委員長がロバート・スタフォード議員(共和党,ベルモント州選出)で ある上院環境・公共事業委員会は,酸性雨対策を含んだ「大気汚染防止法」の改正法案を報 告している。同じ時期,ヘンリー・ワクスマン(民主党,カリフォルニア州選出)が委員長 の下院の健康・環境小委員会は成功しなかったが,同様の法案を作ろうとした51)。 上院の環境・公共事業委員会の作成した法案は,アメリカ東部の酸性物質の沈殿の大いな る削減を意図しており,10 年以内にアメリカ東部の二酸化硫黄排出量を年間 800 万トン削 減することを要求していた。これを達成するには,排出量が発電量 100 万 BTU 当たり 1.2 ポンドを超える発電所,つまり,発電単位当たりの排出量の多い発電所の規制を焦点とする と主張した。主に中西部とアパラチア諸州の石炭発電所の規制が,重要な施策となろうとし ていた。アメリカではとくにニューイングランドなど北東部(カナダ東部も)において酸性 雨被害が著しくなった。それは中西部とアパラチア諸州の発電所が高硫黄石炭を使うからで
あり,SO2は大気中を長距離移動して,ニューイングランドなど北東部(カナダ東部も)に 降雨となって被害をもたらしているからである。酸性雨論争の焦点は,アメリカが既存の 「大気汚染防止改正法」を超えて SO2などの排出規制を強化するかどうかであった52)。 規制強化の推進者たちは,主に,北東部諸州選出の議員たちであり,科学的証拠は十分に 多く,酸性物質が沈殿すると森林や農作物に被害をもたらし,ニューヨーク州アディロンダ ック山地の数百の湖水にはもはや魚類は住めなくなっており,アメリカ東部も同様の危機に 直面している,と主張した。彼らは北東部の酸性雨被害は,中西部とアパラチア諸州の石炭 発電所からの SO2と NOx の排出を大いに削減することによってのみ軽減されるであろう, と主張した53)。 規制強化の反対者たちは,主に,工業地帯の中西部やアパラチア諸州選出の議員たちであ り,次のように主張した。推進派の法案における削減コストは膨大であり,削減義務は不公 平であり,その目的を達成することはできないであろう。推進派の法案が制定されれば,イ リノイ,インディアナ,オハイオ,ペンシルバニア,ケンタッキー,そしてウェストバージ ニア州という高硫黄石炭産地において,雇用喪失は 4.2 万人から 5.7 万人に達するであろ う54)。 要するに,決定的問題は遠隔地である中西部における SO2の排出と,北東部での酸性物 質の堆積による酸性雨被害の関係であった55)。上院の環境・公共事業委員会の作成した法 案は 800 万トンの削減を要求していたが,この法案における規制方法がのちの「1990 年大 気汚染防止改正法」の第 4 部の出発点となった。1989 年にブッシュ(シニア)大統領が公 表した原案では 1980 年をベースとして 1,000 万トンの削減を要求し,さらに新たに,1995 年からの「キャップ・アンド・トレード制度」,つまり,排出権取引を導入するのである56)。 レーガン政権下でも,環境政策の一部は前進をしてきたのである。 第 3 節 共和党主導の第 104 議会 規制改革法案と環境予算削減 1994 年の中間選挙において共和党が圧勝し,下院で 52 議席を新たに獲得し上院で 8 議席 を増加させ,共和党は両院で過半数を超えたのであった。ここ十数年来,連邦議会において 環境政策をめぐって推進・反対両派の勢力が伯仲し,新たな環境規制立法を制定できなくな っていた。共和党が両院で過半数を超えたこの第 104 議会(1995-96 年)において,環境政 策の「行き詰まり」が打開される可能性が出てきたのである。この時,連邦議会を主導した のは,ジョージア州選出の下院議長ニュート・ギングリッチであった。彼の主導のもとに下 院共和党は,「大気汚染防止改正法」,「水質汚染防止改正法」,「絶滅危惧種保護法(Endan gered Species Act of 1973)」,そして「スーパーファンド法(Superfund Act は通称,正式に
は Comprehensive Environmental Response, Compensation, and Liability Act of 1980,で ある)」など主要な環境規制法を改正しようとしたのである57)。 ところが,「スーパーファンド法」の改正は関連委員会において不活発で,その試みは撤 回された。「水質汚染防止改正法」の改正法案は下院を通過したが,上院には送られなかっ た。「絶滅危惧種保護法」も無傷でそのままであり,「大気汚染防止改正法」も本質的に変化 がなかった。このように,主要な環境立法のほぼすべてが共和党保守派の攻撃に耐えて生き 残った。共和党保守派の努力は共和党穏健派の抵抗やクリントン大統領の拒否権発動,そし て世論の反対によって失敗に終わったのである58)。 そこで,共和党保守派は 2 つの道を進めていった。第 1 は規制機関にコスト・ベネフィッ ト分析を義務付けるなどの一般的な規制改革法を追求することであった。第 2 は環境予算削 減を追求したり,予算関連法案に補足条項を付け加え,自ら追求したい政策を実現すること であった59)。 まず,規制改革法案であるが,環境規制法の規制能力を弱めようとする法律であった。下 院において検討された法案のひとつは,1 億ドル以上の経済的インパクトがあると推定され た新規制を実施しようとするときには,各規制機関にコスト・ベネフィット分析を義務付け た。この規制改革法案は下院を通過したが,上院法案との調整ができず,制定されなかった。 下院幹部はより穏健な上院共和党とホワイトハウスに,共和党保守派の政策を受け入れさせ ようとして,予算法案の審議プロセスを利用しようとした。1995 年の天然資源,土地管理, 水資源,レクリエーション関係の予算が 9.3% 削減された。しかし,環境政策予算の削減は 1995 年だけであり,96 年,97 年,98 年と同予算は増加し,99 年にはクリントン政権発足 時よりも多くなったのである。共和党革命に際しても,環境政策は強靱であることが証明さ れた。ただし,共和党保守派は予算関連法案に補足条項を付け加え,自らが望む諸政策を追 求したのである60)。 北西部国有林における木材増産 第 104 議会における共和党保守派の財政均衡にむけての第一歩は,1995 年にすでに決め られていた予算の取り消しを行ったことである。それが「1995 年予算取り消し法(Rescis sions Act)」であり,同法は 1995 年予算から総額 163 億ドル相当を取り消した。取り消し た予算は,スーパーファンド法関連洗浄,魚類野生生物局の絶滅危惧種保護,国立公園局や 土地管理局の事業など,主に環境政策関係の事業予算であった。しかも,この予算取り消し 法には,木材増産のための補足条項が付け加えられていた61)。 この補足条項は「西部の危機に瀕した森林における木材生産の強化」を主張したもので, その背景は 1990 年代初期の西部の山火事であり,森林火災による木材資源の枯渇の可能性 が示唆されていた。この補足条項は農務省森林局の木材生産管理政策の「失敗」を指摘する
ことによって説得力をもっていた。しかし,この補足条項の真の目的は,さまざまな制約の 多い国有林など連邦所有地における木材の増産を狙ったものであった62)。 この補足条項には説明をしておかなければならない背景がある。それは,農務省森林局の 木材生産と絶滅危惧種の保護のバランスに関する政策問題であった。とくにオレゴン州やワ シントン州などの北西部の国有林などに生息するマダラフクロウが,1990 年に内務省魚類 野生生物局によって絶滅危惧種に指定された。そうすると,北西部の国有林での木材生産に 大きな制約が課せられ,北西部地域における木材生産は 80% 近く減少することになり,森 林局は苦しい立場に追い込まれた。そこで,連邦議会は内務省予算法 318 条に,オレゴン州 やワシントン州の 13 の国有林,オレゴン州の内務省土地管理局の所有地での木材伐採を認 める「北西部木材妥協規定」を組み入れていた。つまり,マダラフクロウの生息地であって も,例外的に木材伐採を認めるということであった63)。 ところが,クリントン政権が発足した 1993 年にオレゴン州で森林サミットが開催され, 利害関係者が集まり,「絶滅危惧種保護」と「木材生産」とのバランスを図るため協議した。 そこで,ワシントン州,オレゴン州,そしてカリフォルニア州の 2 億 4500 万エーカーの森 林地(19 の国有林と土地管理局の 7 つの所有地)の管理法が提案され,森林局と土地管理 局が合意に達した。これが「北西部森林計画」であり,木材生産は年に 11 億ボードフィー トと決められた64)。 このような事情が存在したところに,補足条項を付け加えた「予算取り消し法」が成立し たのである。それによって,木材生産を推進する勢力は,この「北西部森林計画」の年 11 億ボードフィートを超えて生産が可能になったと解釈した。この補足条項に基づいて行われ た北西部国有林などの木材伐採は,論争を引き起こした。この補足条項を付け加えた「予算 取り消し法」が成立した 1995 年 7 月から 96 年 12 月までに,実際には 46 億ボードフィート が生産されたが,森林局の予測を 12 億ボードフィート超えていたという。したがって,共 和党の推進した補足条項は,北西部国有林などでの木材増産を実現したが,「絶滅危惧種保 護」という点では大きな問題を残したのである65)。 アラスカ連邦所有地の石油・ガス生産 1995 年予算関連法案に関して,共和党保守派はアラスカ州の連邦所有地での財政収入と なる石油・ガス採掘事業を認めることを追求した。そこで,予算関連法にそれを含めたので ある。その連邦所有地は,内務省魚類野生生物局が管理する北極圏国立野生生物生息地 (Arctic National Wildlife Refuge, ANWR)であったため,環境保護派から強い反対が巻き
起こった66)。
このアラスカ連邦保護地での石油・ガス採掘事業についての経緯は以下の通りである。こ の北極圏国立野生生物生息地はアラスカ州北東部の沿岸に面した 1,900 万エーカーからなる
地域であり,その沿岸部 150 万エーカーほどが,石油・ガス採掘の可能性が高いとされてい た。この沿岸部は平野であり,トナカイ,シロクマ,オオカミなどの生息地である。この生 息地と隣接するカナダの 2 つの国立公園は,国際的な公園として扱うよう提案されてきた。 つまり,この地域における問題は,石油・ガス採掘の可能性と大自然の保護の対立である。 連邦議会はこの地域の石油・ガス開発を行うべきか,それとも永遠に残すべきか,という対 立を抱え込んだ67)。 この地域が北極圏国立野生生物生息地に指定されたのは,1980 年の「アラスカ国家利益 土地保全法」によるもので,平地と丘陵地が含まれていた。同法によって,多くの地域は保 護地として扱われたが,沿岸部平野はそうではなく,開発の余地ありということであった。 連邦議会は沿岸部平野を開発するか保護するかの決定を留保し,同法 1002 条は沿岸部平野 の調査を命じていた(したがって,沿岸部平野は「1002 条地域」と呼ばれる)。同法 1003 条は,同生息地での石油・ガスの採掘は認めておらず,議会が新たに法律を制定しないと, 石油・ガスのリースなどはできないとしている68)。しかし,1987 年に内務省が報告書で, 民間リースによる石油採掘を可能とする勧告を出した。アラスカにおける石油・ガス採掘事 業からは 13 億ドルの利益が見込まれ,財政均衡に寄与すると期待されていたからである。 1991 年のエネルギー法案は ANWR に関しては,石油・ガスの採掘を認める条項を含むこ とに失敗していた。したがって,第 104 議会では以前の対立が再開されることなったのであ る69)。 アラスカ州選出の連邦上院議員マーコウスキー(Frank Murkowski)は上院エネルギー 資源委員会委員長であり,同州選出の下院議員ヤング(Don Young)は下院資源委員会の リーダーであった。そうした事情もあって,下院の資源委員会でも,上院のエネルギー資源 委員会でも,連邦所有地で石油・ガス生産を認める「アラスカ条項」が,予算関連法案のな かで承認された。クリントン大統領は拒否権発動の構えを見せたが,下院で「アラスカ条 項」を含んだまま可決された。上院では,「アラスカ条項」を否決しようとした動きもあっ たが,「アラスカ条項」を含んだ予算法案が成立してしまったのである。クリントン大統領 は 1995 年 12 月にこの予算法案に拒否権を発動した70)。こうして,共和党保守派が推進し たアラスカ連邦所有地での石油・ガス採掘事業は頓挫したのである。 結びに代えて 1970 年代末の「反環境主義」の台頭は,それまでに,実効性を追求する厳しい環境保護 立法が制定され,産業界がそれらを順守するには多大のコストが掛かるようになったことに よって生じた。反環境主義の攻撃は連邦所有地の管理運営に向けられ,1979 年から西部諸 州における「よもぎの反乱」が起き,連邦所有地の西部諸州への譲渡を主張した。他方,反 環境主義は大気汚染防止法などの実施への抵抗となって表れた。
こうした中でレーガン政権が発足したが,同政権による環境保護政策への攻撃も,連邦所 有地の管理運営と大気汚染防止法などへの規制に向けられた。連邦所有地の管理については, 原生地に指定された土地での,民間企業の石油・ガスの開発を許可し,国有林での木材生 産・販売を促進した。続いて,連邦所有地の民間企業への売却を計画した。他方,汚染規制 に関しては,たとえば,有害廃棄物については,都市ごみ処理の問題では,ドラム缶に入れ た有害液体廃棄物の地中処分を許可し,市民の反発を招いた71)。 1990 年代において共和党保守派が支配的となった第 104 議会でも,反環境主義が吹き荒 れた。この動きはクリントン政権下で絶滅危惧生物を保護するため課せられていた北西部の 国有林の材木生産への制限を緩和し,木材増産に成功した。また,開発を禁止されているア ラスカ州の北極国立野生生物生育地において,石油・ガスの生産を推進しようとした。 このように,レーガン政権や第 104 議会は,強烈な反環境主義の政策を押し進めた。しか し,強引な反環境主義は市民の支持を受けることはできず,ほとんどの施策が途中で停止し た。レーガン政権,第 104 議会の反環境主義は,その後の京都議定書離脱宣言や今日に至る までの根強い反環境主義に引き継がれている。他方,環境保護運動にも課題が多い。1970 年代からの環境政策の多くは指令・統制型であり,たとえば,環境税や排出権取引のような, 合理的で,柔軟な政策に変えてゆく必要があろう72)。また,連邦レベルでは実現の難しい 政策分野であれば,州政府や自治体政府が実施し,市民にその成果を見てもらうことも重要 である73)。さらに,環境被害を受けるマイノリティの環境保護運動にも注目すべきであろ う74)。 注 1 )アメリカの環境保護運動が自然保護運動と都市公害防止運動という 2 つの異なった運動に起源 をもっていることを明確に記述したのは, Robert Gottlieb, Forcing the Spring: The Transfor-mation of the American Environmental Movement, Washington, D. C.: Inland Press, 1994, ch. 1-2, である。
2 )Craig W. Allin, The Politics of Wilderness Preservation, Fairbank, Alaska, University of Alaska Press, 2008, p. 267.
3 )Gottlieb, op. cit., pp. 94-7.
4 )James E. Krier and Edmund Ursin, Pollution & Policy: A Case Essay on California and Fed-eral Experience with Motor Vehicle and Air Pollution, 1940-1975, Berkeley, Los Angeles and London, University of California Press, 1977, など参照。
5 )Jacqueline V. Switzer, Green Backlash: The History and Politics of Environmental Opposi-tion in the U.S., Boulder and London, Lynne Rienner Publishers, Inc., 1997, ch. 4, を参照。 6 )William L. Graf, Wilderness Preservation and the Sagebrush Rebellions, Savage, Bowman &
Littlefield Publishers, Inc., 1990, p. 214. 7 )Ibid., pp. 217-8.
8 )Ibid., pp. 220-1.「よもぎの反乱」に言及している邦語文献に,久末弥生『アメリカの国立公園 法―協調と紛争の一世紀―』北海道大学出版会,2011 年,103 頁がある。なお,よもぎはネバ ダ州の州花である。 9 )Ibid., p. 225. 10)Ibid., p. 226. 11)Ibid., pp. 227-30. 12)Ibid., p. 230.
13)C. Brant Short, Ronald Reagan and the Public Lands: Americaʼs Conservation Debate, 1979-1984, College Station, Texas A & M University Press, 1989, pp. 20, 4.
14)Judith A. Layzer, Open for Business: Conservativesʼ Opposition to Environmental Regulation, Cambridge, MA and London, England, The MIT Press, 2014, pp. 35-6.
15)Christopher M. Klyza and David J. Sousa, American Environmental Policy : Beyond Grid-lock, Updated and Expanded Edition, Cambridge, MA. and London, England, 2013, p. 124. こ の文献では 1970 年以前に建設された古い工場・発電所については 1977 年以前は原則として規 制されなかったと記述されているが,Bruce A. Ackerman & William T. Hassler, Clean Coal/ Dirty Air, New Haven and London, Yale University Press, 1981, ch. 1,では新しい工場・発 電所が EPA の規制基準によって規制されたのにたいし,古い工場・発電所は各州によって規 制されたように記述されている。
16)R. Shep Melnick, Regulation and the Courts: The Case of the Clean Air Act, Washington D.C.: The Brookings Institution,1983, pp. 115-6.
17)Ibid., pp. 113, 116-7. 18)Ibid., pp. 123-4, 130-5. 19)Ibid., pp. 137, 46. 20)Ibid., pp. 147-8.
21)Norman J. Vig and Michael E. Kraft, eds., Environmental Policy in the 1980s: Reaganʼs New Agenda, Washington, D. C., Congressional Quarterly Inc., 1984, p. 37.
22)Ibid. 23)Ibid., p. 228.
24)Jonathan Lash et al., A Season of Spoils: The Story of the Reagan Administrationʼs Attack on the Environment, New York, Pantheon Books, 1984, pp. 232-3.
25)V. Kerry Smith, ed., Environmental Policy under Reaganʼs Executive Order: The Role of Benefit -Cost Analysis, Chapel Hill and London, The University of North Carolina Press, 1984, pp. 4-5.
26)Lash et al., op. cit., p. 235. 27)Lash et al., op. cit., p. 219. 28)Lash et al., op. cit., p. 220. 29)Lash et al., op. cit., p. 235. 30)Lash et al., op. cit., pp. 240-2. 31)Lash et al., op. cit., p. 242. 32)Lash et al., op. cit., pp. 241-3.
33)Lash et al., op. cit., pp. 258-60. 34)Lash et al., op. cit., pp. 260-1. 35)Lash et al., op. cit., p. 262. 36)Lash et al., op. cit., pp. 259, 62. 37)Lash et al., op. cit., pp. 262-3. 38)Lash et al., op. cit., pp. 102-3. 39)Lash et al., op. cit., pp. 105-6. 40)Lash et al., op. cit., pp. 113-4. 41)Lash et al., op. cit., p. 115. 42)Lash et al., op. cit., pp. 115-8. 43)Lash et al., op. cit., p. 118. 44)Lash et al., op. cit., pp. 120-1. 45)Lash et al., op. cit., pp. 122-3. 46)Lash et al., op. cit., pp. 124-8. 47)Lash et al., op. cit., pp. 111-2
48)Bruce A. Forster, The Acid Rain Debate: Science and Special Interests in Policy Formation, Ames, Iowa State University Press, 1993, p. 3.
49)Ibid., p. 4. 50)Ibid., p. 5.
51)Yanarella, Ernest J. and Randal H. Ihara, The Acid Rain Debate: Scientific, Economic, and Political Dimensions, Boulder and London, Westview Press, Inc., 1985, pp. 3-4.
52)Ibid., p. 4. 53)Ibid., pp. 4-5. なお,電力会社が 1980 年におけるアメリカの SO2排出量の 62% を占めており, 同時点での NOx の排出量については運輸部門が第 1 位で 45% を,次いで,電力会社が第 2 位で 29% を占めていた(Ibid., p. 11)。 54)Ibid., pp. 5-6. 55)Ibid., p. 11.
56)Forster, op. cit., p. 151.
57)Klyza and Sousa, op. cit., p. 50. 「絶滅危惧種保護法」 については Shannon Petersen, Acting for Endangered Species: The Statutory Ark, Lawrence, Kansas, University Press of Kansas, 2002, を参照。「スーパーファンド法」は有害化学関連廃棄物の洗浄のために,関連業界に資金提供 を義務付けた環境規制法であり,Harold C. Barnett, Toxic Debts and the Superfund Dilemma, University of North Carolina Press, 1994, に詳しい。
58)Klyza and Sousa, op. cit., pp. 50-1. 59)Klyza and Sousa, op. cit., p. 51. 60)Klyza and Sousa, op. cit., pp. 51-4. 61)Klyza and Sousa, op. cit., p. 66. 62)Klyza and Sousa, op. cit., p. 66.
63)Klyza and Sousa, op. cit., p. 67; 大田伊久雄『アメリカ国有林管理の史的展開』京都大学学術出 版会,2000 年,280 頁。
64)Klyza and Sousa, op. cit., pp. 67-8. 65)Klyza and Sousa, op. cit., pp. 70-4. 66)Klyza and Sousa, op. cit., pp. 54-5.
67)M. Lynne Corn, “Arctic National Wildlife Refuge: Legislative Issues,” Oct. 2002, Congression al Research Service Report, pp. 1-2.
68)Ibid., p. 2.
69)Klyza and Sousa, op. cit., pp. 55-6. 70)Klyza and Sousa, op. cit., p. 56.
71)ただし,大気汚染問題については,70 年代末から明らかになってきた酸性雨問題が大きく登 場し,中西部の石炭発電所から排出される二酸化硫黄が大気中で長距離移動し,アメリカ北東 部やカナダ東部に降雨となって酸性雨被害をもたらした。これは連邦議会で論争となり, 「1990 年大気汚染防止改正法」に結実するのである。
72)Donald E. Kettl, ed., Environmental Governance: A Report on the Next Generation of Envi-ronmental Policy, Washington, D.C., Brookings Institution Press, 2002.
73)DeWett John, Civic Environmentalism: Alternatives to Regulation in States and Communi-ties, Washington, D.C., CQ Press, 1994.
74)Gottlieb, op. cit.