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ドイツ語における時制意味分析試論(IV)--過去形, または物語ることについて(その3)---香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

ドイツ語における時制意味分析試論(Ⅳ)

一過去形,または物語ることについて(その3)−

湯 浅 英 男 目 次 0序 1過去形の本質 11 現在完了形との一・般的な意味論的区分 12過去形:目撃した出来事を語る時制 13過去形回想という話者の”mOdus“を担う時制 2 物語る行為 21物語る行為と時間・語り手・世界 22物語る行為と過去形の意味(以上,本誌第23号) 3物語の虚構性と過去形 31 KHamburgerの「物語の過去形」 32問題点とその解決のための試み 321従来の批判 322物語の虚構性と語り手の語用論的前提 32。3「物語の過去形」と時間意識の二重性(以上,本誌第24号) 4発話の戦略としての過去形(以下,本号) 41慣用化した娩曲的用法 42 戦略化した娩曲的用法

5結 び

4.発話の戦略としての過去形 4.1..慣用化した娩曲的用法

第4葦においては,相手に対する発話戦略上の手段としての過去形について

考察する。H‖BrIinkmann(S。349)は「丁寧さという理由から現在形の代わりに

過去形を使用することも,またひとつの時制転換(Tempusiibertragung)を意

(2)

味している」と述べ,幾つかの例を挙げている。まずそれを紹介する(以下, 例文の番号は筆者による)。

(1)(訪ねてきた人が言うのに)

Ich wollte dich abholen

(ばくは君を連れて行くつもりだったのだが。、) (2)(人と出会い尋ねられて)

Wie war dochIhr Namel?

(あなたは一り体どなた様でしたか。)

(3)(ポ・−・イが尋ねるのに)

Werbekam den Schweinebraten∼

(どなたがロ、−スト・ポ、−クを御注文なさいましたか。)

(4)(車掌が尋ねて)

Werwar hier noch ohne Fahrschein?

(まだ切符をお持ちでなかった方は。) これらはすべて現在形で述べられてもよい文であるがどれも過去形が用いら

れている。そして上記のような慣用的な言い回しにおいてほ,過去形の使用が

「丁寧さ(H甜ichkeit)」を生み出していることは否定できない。Brinkmann(S

348)は「現在形の過去形への転換ほ(状況から解放されている書きことば以外

でほ),相手が関与している具体的な状況の”指示領域(Zeigfeld)“から,言語だ

けによって構成される”回想領域(Er・innerungsfeld)“への転換を意味してい

る」と述べた上で,さらにその「回想領域」と発話行為における「丁寧さ」と

の関わりについて次のように指摘する(S.349)。「確かにこれらすべての場合に

は,回想(Erinner・ung)が作用している。しかしWunderlich(これはHermann

Wunderlichのこと。筆者注。)とKlugeほ,とりわけ現在形での問いかけ(と

wollen)を包摂する直接的な参加(dasdir・ekteEngagement)を避けることが重

要であるということを正しく見て取った。過去形でもって言われる事柄は,ここ

と今(das Hier undJetzt)との関連からは解放されているのである。」つまり

(3)

「ここと今」との関連あるいは直接的な関与を避けることが,「丁寧さ」という ひとつの言語行為の様式を生み出していると言える。 ところで,DieterWunderlich(S”139f..)は過去形を用いた(1)∼(4)のような慣 用表現に対して,Brinkmannとほ別の解釈を行っている。そこでは上記の(2)と 同じ例文の他に,次のような例が挙げられている。(以下では,Wunder’lichの 例文における文頭の小文字を大文字に改めた。)

(5)Siebekamendochdiepommesfrites?

(ボンフリを御注文なさいましたか。) (6)Wererhieltdas Bierl? (どなたがビールを御注文なさいましたか。)

(7)Wowar dasGulasch?

(グ・−ラ ッシュはどなた様でしたか。) DieterWunderlichほ,これらの例文に対して「独特な省略変形(idiosynkra− tischeEllipsentransformationen)」が採用されなければならないとし,たとえ ば(6)については2つの解釈を提示する。 (8)Wer・bestellteeinBierl?IchhabehiereinBier.Werer・haltdasBierl?

=⇒WerIerhielt das Bier?

(9)Werwollte,daB er ein Biererhalt?Ichhabehierdas Bier.=〉Wer

er五ielt das Bier?

(8)の変形では,最初の文における過去形のメルクマールが3番目の文と混交 (kontaminier’en)する。また(9)の変形では,「最初の文の主文における過去形の

メルクマールが埋め込まれた文と混交する。と同時に,2番目の文の定冠詞も 埋め込まれた文と混交する。」さらに(7)に対しても,Wunderlichほ(1O)のような 変形を考えている。

(4)

(1O)Wositztderjenige,dereinGulaschhabenwollte?Ichhabehierdas Gulasch.⇒Wo war das Gulasch?

しかしながらWunderlich自身も,「ここで求められている根底にある文連鎖や 過程を正確に提示することほ,疑いもなくむずかしいことである」とし,その 理由をこれらの文の「状況拘束性(diesituativeGebundenheit)」に求めている。 このことはここで示した言語現象を説明するためにほ,発話の状況・前後関係 12) を考慮しなければならないと主張していることにもなる。 だがわれわれほここで,本来過去形という時制に意味論上,上記のような例 文を許容する余地があることを示しておきたい。つまり,文の意味ほmodus/ dictumという2層から成り立ち,時制は話者の心的態度の発現であるとみなす ならば,(1)∼(7)もそれはど奇異な例には思われないのである。たとえば拙論 (19飢,S.58)のモデルを用いて(6)を分析すれば(il)/(1カとなる。 (11)〔ICH−ERINNERE・MICH−〔wererhalt−dasBier〕〕

modus

dictum

modus 3‖配 ICH−ERINNERE・MICH dictum [wererhalt・dasBier] このような構造においては,dictumで表現される事態と現実界の出来事が, 発話の瞬間において,過去形の意味であるmodusによってつながれることにな る。しかしその際,mOdusはdictumの時間を一・面的・固定的に規定しているわ けではない。つまり過去形のmOdusである「回想」においては,′。<gぶ(J。は

(5)

行為時,fsは発話時)の関係が−・般的であると言えるが,かといってf。>㍍(た とえば(3)(5)(6))や,′。=′s(たとえば(2)(4)。ただしこの場合のf。ほ状態の存在 13) する時間といえる。)を完全に排除することもできない。なぜなら過去形におい てほ,時間関係の呈示自体があくまで「回想」という記者の心の持ち方・有り 様に付随する副次的機能にすぎないからである(拙論1983a,S.66参照)。とも かく,時制には単純にJの fsの客観的時間関係の表現としてほ割り切れない側 14) 面があり,またそのことが時制の創造的機能を成り立たせているとも言える。 4.2.戦略化した娩曲的用法 4.1∴で扱った過去形は,現在形と交替可能という点でかなり慣用的な特殊な 例と言えるかもしれない。しかし,過去形を用いた椀曲的用法ほ単にそうした 場合にだけ限られるものではない。本来現在完了形が予想される箇所に過去形 を使用することによって,話老は現在完了形と過去形の文体上の偏差を会話の 中でのひとつの戦略として利用することもできる。まずそのような具体例とし て,授業で用いたW.シュヌレの短篇「シュミット氏が引き受けた事件(Ein Fallftir Herrn Schmidt)」の−・節を取り上げてみる。(授業では読み易く書き 改められた橋相良孝編,『シュヌレ=ふたつの喪篇』,朝日出版社版,1980を用

いたが,ここでの引用はReclam版,1979に従う。また以下の例文中の下線は

筆者による。) 例6

”Wir・Sindn左mlichsehrinSorgeumihn,mtlssenSiewissen。“

Ja,SagteHerrSchmidt,daswisseer.BertramseieinFliicht・

1ingskind−‘?

”Nanu“,SagteFranzSchurek,”WOherwissenSie’ndas?“

”IchsahseineSchuhe“,SagteHerT・Schmidt;”haternocheinPaar

auBer・denenim Flur・?“ ”Wiesollich’ndaswissen“,SagteFranzSchurek. (SchnurT−e,S.3f.) 例6は小説の書き出しに近い箇所で,私立探偵のシュミット氏が依頼主の

(6)

シューレック氏宅へ赴き,依頼内容を聞く場面である。その際,シュ・−レック 氏は,ベルトラムが難民の子であるという事実をシ、ユ・ミット氏が知っているこ とに驚く。そこでシュ・−・レック氏は,「どうしてそんなことを御存知なのですか」 と尋ねる。その時にシュミット氏が答えたのが,下線部の「私は彼の靴を見た のです」という言葉である。しかし本来ここでは過去形ではなく,現在完了形 が使用されるべきである。というのも,「靴を見た」という過去の事実が「私は 今,ベルトラムが難民の子であるということを知っている」という現在の事態 に対する説明・理由づけとしての価値をもっているからである(現在完了形を 15) 使用する理由については,拙論1983a,S.58参照)。同様の状況で正しく(とい うよりは,むしろ慣用に従って)現在完了形を用いている場面が,丁度例6の 直前の会話の中にある。 例7

”EshandeltsichumBertram“,SagteFranzSchurek

”Aha“,maChteHerrSchmidt

”EristnまmlichseitfiinfTagenverschwunden“,SagteFrauSchurek

(SchnurT・e,S‖3) つまりここでは下線部の「5日前からあの子はいなくなってしまっている」 という言葉が,「ベルトラムのことが問題となっている」という現在の事態に対 して説明的な役割を果たしている。それ故に現在完了形が使用される。それで ほなぜ,例6においては過去形が使用されたのであろう。それはシュミット氏 が,玄関の靴を見たという自らの行為を幾らか後ろめたく思っているからでは ないであろうか。例6の最後にあるシュ、−レック氏の「そんなこと知っている 訳がないでしょう」という言葉や,例6にはないがさらに後に続く「何だって まあ,あんなやつをよこしやがったんだ./」,「あれほちょっとばかり仕事に熱 心すぎるとは思わないか?」(日本語訳は橋村編,S,38f■‖の脚注参照)という言 葉からわかるように,シュミット氏の「私ほ彼の靴を見たのです」という発言 は彼に対する否定的評価を生みかねない慎重を要するものだったのである。し

(7)

たがって,シュ・ミット氏は現在完了形ではなく過去形で,言い換えれば「指示

領域」でほなく「回想領域」(HBrIinkmann)で,あるいはJETZT−ICHの視角

からではなくDAMALS−ICHの視角(拙論1983a,S.60参照)から過去の事実

を述べることによって,過去の行為と発話している今の自分との心理的距離を 最大限拡げ,その行為に対する消極的関与,後ろめたさ,あるいは時によって 責任回避の姿勢までをも表明しているのである。 このような過去形の文体的あるいは発話における戦略的特質については..ー.

TrierやW…Klugeも触れているので,ここでその主だった点を紹介しておき

たい。 J.Tr’ier(以下,S.13f参照)ほ,現在完了形と過去形がそれぞれもっている 「現在との関係(Gegenwartsbezogenheit)」と「現在からの解放(Gegenwarts− ge16stheit)」という対立的特徴を−▲歩進め,道徳的(moralisch)な角度からこの 2時制を把握している。その中で過去形を「不安から解除される,あらゆる責

任から放免される時制(Tempus der Enほngstigung,des Entlastetseins von

aller Verantwortung)」とする。そしてこのような過去形の特質を悪用した例 として,たとえば窃盗をほたらいた老が裁判所で尋問された際,自らの犯行を 深刻に受けとめている場合にほ現在完了形で,Ja,ichhab’sgenommen(はい, 私ほそれを・盗みました)と言うのに対し,もし盗みに対し自分が責任を負うこ とを望まないような場合にほ,同じ「盗んだ」という場合でも,Ja,ichnahm

das Geldと過去形を使うと言う(浜川,S160も参照)。さらにTr・ierはW

Klugeの学位論文での見解を紹介する意味もあってであろう,Klugeが扱った W.ベルゲングリューンの「最後の騎兵大尉(Derletzte Rittmeister)」の一・場 面をそのような過去形の例として挙げている。それは司令官のシュクーペソホ イザーが,過去の秘密を知っている年老いたジプシーに向けてピストルを発射 し(弾はそれる),その直後に自らの行為を正当化するために当然予想される現 在完了形を避け,「非常に奇妙な過去形(einsehrmerkwiirdigesImper・fekt)」

(J‖Trier・)で,Ichscho6aufeineWildkatzeimGarIten(私は庭の山猫を撃っ

16〕

たのです)と言う場面である。Trierはこの箇所について,1961年にKlugeが

ミコLンスター・大学へ提出した学位論文「新高ドイツ語における現在完了形と過

(8)

去形(PerfektundPrateritumimNeuhochdeutschen)」での分析を評価し,

次のようにこの過去形を解釈する。「(Klugeによれば)過去形ほ軽視する(ver−

harmlosen),つまり出来事を,まじめな現在完了形で言い表す必要のないほど

軽微な(1eicht),かけ離れた(fern),影響力のない(folgenlos)ものとして叙述す

る。現在完了形の告白的性格(Bekenntnischarakter)と責任の重さ(Verant・

WOrtungSSChwere)は隠蔽する目的には避けられる。」 Tr■ierの指摘からも明らかなようにり過去形には責任逃れのニュアンスが読

みとれる。しかしこれが1人称以外を主語にして用いられた場合には,責任を

免除することに・もなる。またこれらの過去形の特質ほ,現在完了形がもつ責任

を負ったり,追求したりするニュアンスと対をなす。そこでこのような両時制

の心理的特徴を(1劫にまとめてみた。 (1湖 (時 制) 現在完了形 過 去 形 章任を確認する/負う 票任を回避する 人 称 過去の行為の 事実性に対して 人 貿任を確認する/ 称 免除する 一応両時制の心理的側面を対立させてみたが,話者(あるいは書き手)は必 ずしもこのような周辺的な意味を考慮して意図的に時制を選択しているという わけでほない。むしろ意図しないまま時制を選択していることの方が多いかも しれない。実際Klugeがベルゲングリューソに対し自分の考えを説明した際, 彼の答えは次のようなものであったという。「現在完了形と過去形の配分は偶然 的なものではない。そしてたとえ私はそのような考え(つまりKlugeの述べた 考え)に意識的に導かれたわけではなかったにしろ,それほ私の創作上の意図 と−・致する。」(Trier.,S‖15) ところで(13)で示されたような過去形(及び現在完了形)の文体上あるいは発

(9)

話戦略上の意味を多少なりとも知っているならば,小説内の言葉のやりとりに あっても,話者の微妙な心理的陰影を読みとることが可能であろう。その例は すでにシュヌレやベルゲングリューンの小説で示されている通りであるが,最 後にTh.マンの「魔の山」からもひとつ具体例を付け加えておきたい。 例8

≫(・・‥‥‥うDaB dugewartethast,Wardummunduner・1aubtAberdu

bistmirnichtb6se,WeilduumsonstgeWartethastl?≪

≫Nun,eS War・etWaS hart,Clawdia,auCh ftir einen Menschen von

phlegmatischenLeidenschaften,−hartfiirmichundhar・tvOndir,daB

dumitihmzusammenkamst,dennnattirlichwuBtestdudurchBehrens,

daBichhierwarundaufdichwartete”Aberichsagtedirja,daBich

SienuralseineTr’aumnaChtau仔asse,dieunsrIige,unddaBichdirdeirle

Fr−eiheit zugeStehe‥ SchlieBlich habeich ja nicht umsonst geWartet,

denn du bist wieder da,Wir sitzen beieinander wie damals,(…・・”).≪ (Mann,S小828) これほ/、ソス・カストルプとクラウディア・ショー・シヤの間でかわされた会 話である。/、ソス・カストルプはショーシヤ夫人に恋愛感情を抱いており,彼 女が再びサナトリウムに帰って来るのを待ちわびていた。しかし,彼女はこと もあろうにピー・クー・ペーペルコルソというオランダ人を連れだって戻ってき たのである。例8に至る前のやりとりで,/、ンス・カストルプは頑固なはど ショ・一シャ夫人をdu(恋人同志等で用いる2人称)で呼びながら,いかに愛す る婦人を心待ちしていたかを述べるが,他方ショ、−シヤ夫人は彼をSie(丁寧だ が,それゆえいくらか疎遠な感じを生じさせる2人称)で呼び,自分には期待 させた覚えも待たせた責任もないと言ってつき離す。しかしノ、ンス・カストル プが難解な哲学的議論を其剣にした後で,シ/ヨーシヤ夫人はやっと気持を和ら

げ,≫DubisteinnarTischerPhilosoph≪とほじめて彼をduで呼ぶのである

(余談だが,このようなdu/Sieの使い分けは2人の問の心理的距離を読みと

(10)

る上では重要である)。 そこで例8の会話になるが,ここで特に興味をひくのはハンス・カストルプ

の言葉である。つまり最初のNunからdeineFreiheitzugesteheまで,過去の

出来事や事態に対して現在完了形ではなくすべて過去形が用いられている。こ れは副文内の動詞が多く,現在完了形を用いると副文内が繁雑に.なるという事 情もあるかもしれない。しかし過去形の使用の中に,「怒っていない?」という ショーシヤ夫人の問いに対するノ、ソス・カストルプの答えを読みとることがで きないであろうか。そこでは,彼女がオうソダ人と同伴で帰って釆たという事 実や,自分が心待ちしているということを彼女がべ・−レンスを通して知ってい

たという事実−いわば,これらほ彼女に対する非難の根拠になる−をすべ

て回想のかなたに押しやり,彼女の不愉快な行動をあまり追求しないでおこう,言 い換えれば彼女せ許してあげようという姿勢が窺われる。他方,次のichsagte dir−。iaの過去形には,「自分たちの夜が夢の夜のことだと考えているし,また君 にも自由を認めている」という内容を,たとえ言ったことほ事実だとしても, 本来ほあ亨り断定的にほ言いたぐない,むしろ言うのを保留しておきたいとい うニュアンスがこめられている。そしてこのような婦人に対する微妙な心の蔦 藤を断ち切り,待ったことほ決して無駄でほなかったのだという自ら得心した 境地を表明したのが,下線部のSChlieBlichで始まる現在完了形の文(及びそれ に続く現在形の文)なのである。 ここまでわれわれは過去形と現在完了形の対立を前提として,過去形の選択 という事実に話者のある発話戦略上の意図を読み取ろうと努力してきた。だが こうした試み.に対しては,両時制の対立が危機的な現在にあっては(たとえば Tr−ier,S‖26f.には,この文法的な対立が,規則のない混乱状況や全く勝手気ま まな使用に取って替えられることへの苛立ちが述べられている),あまりに窓意 的な解釈に落ち入っているのではないかという批判が予想される。しかしその ような批判に対しては,D.Bolinger(中右訳,S.XVI)の言葉を借りて,「構造 についても,目に見える形が違えば,そこには意味上の違いがある」と主張す る他ない。ただ,その主張はBolingerも言うとおり「事例研究を通して証明」 されなければならないことは言を待たないであろう。

(11)

5ル 結 び 試論(ⅠⅠ)∼(ⅠⅤ)においてほ,「過去形,またほ物語ることについて」という副 題のもと,過去形が卒む種々の問題を取り上げ,考察を行った。第1葦におい ては現在完了形と対比させた形で過去形の本質を探り,第2章でほ物語る行為 と過去形の関わりについて調べた(第1・2章は「その1」,1983a)。舞3章で ほ,虚構的な物語で使用される過去形に関し,諸説を検討しながらその時間的 意味を考え(「その2」,1983b),第4章では日常会話の中で碗曲的に,あるい ほ戦略的に用いられた場合の過去形について触れた(「その3」,本稿)。そして これらの考察の過程においては,従来の過去形に対する諸見解が−・体過去形の どのような意味論的・語用論的側面に焦点をあてているかを見極めながら,過 去形がもつ多義性・創造性を明らかにしたつもりである。だが,この拙稿がす べての研究をカバ・−しているとほ残念ながら言えない。たとえば第4章で一・部

触れたD‖Wunderlich(1970)や注12のA。Steube(1980)のような論理学を駆

使した時制分析は,現在のわれわれの手にはあまると言わざるをえない。だが われわれの究棲的な目標は,−Bolinger(S.295f“)の言葉を再び借りるならば 一過去形の使用に閲し,「状況というものをとっさに作り上げ,その状況に見 合った会話を想像し,判断を下し,そして最後は,取捨選択するということ」 を繰り返しつつ,その「構文の真の限界がどこにあるのかを発見」することに ある。したがってそのためにほ,従来の研究を網羅することを将来の課題とし つつも,現在においてはドイツ語の可能な限りの資料を汲みつくす努力をまず 第一のこととしなければならないであろう。 最後に,われわれの目ざす,文(発話)を文として把握しながら構文上の機 能の限界を見極めるという分析方法を背後から支えてくれるであろうWilhelm

VOn Humboldtの言語観を,カーゲィ語研究の序説の中から紹介し,過去形に

17) ついてひとまず筆をおきたい。 「言語自体は作品(エルゴソ)ではなく,活動(ェネルゲイア)である。それ ゆえに,言語の真の定義(Definition)ほ発生的なもの(eine genetische)でしか ありえない。つまり言語は,調音された音声を思考の表現として可能にさせる,

(12)

永遠に繰り返される精神の作業なのである。直接的に,そして厳密に取るなら ば,これほその都度の発話の定義である。しかしながら,其の,そして本来の

意味においてほ,このような発話の総体(dieTotalitatdiesesSprechens)こそ

をいわば言語(dieSprache)とみなすことができる。なぜなら,われわれがおよ そ言語と名付けるのを常としている,語と規則の散乱した混沌の中には,発話 によって産み出された個別的なものだけが存在しているにすぎないし,しかも それほ決して完全なものではなく,そこから生きた発話の様式(die Art des lebendigenSprechens)を認識し,生きた言語の其の姿を示すためには,また新 たな作業を必要とするからである。まさに最も崇高な,そして最も洗練された

ものほ,あの分割された要素において認識されるのではなく,ただ(このこと ほそれだけ一層,本来の言語はそれを現実に産み出す行為の中にあるというこ

とを証明することになるのだが),結合した発話の中において(in der ver・bun− denen Rede)のみ知覚されたり,予感されたりしうるのである。言語の生きた

実体(dielebendigeWesenheitderSprache)に迫ろうとするすべての研究にお

いてほトただそのような発話のみを,絶えず其の,第⊥・のこととして考えなけ ればならない。語や規則への分解ほ,科学的分析の命のかよわぬ粗悪作業(ein totesMachwerk)にすぎないのである。」(Humboldt,S.36f”) 注 本稿における注・例は「その1」(1983a),「その2」(1983b)からの通し番号とする。 12)Wunderlich(S139)は同じような変形を要する過去形として,次のような未来時に関す る例も挙げている。 WasgabeselgentlichimTheater? −Mor’gengabesdenFaust /明日,劇場では一体何があったかなあ。 (竺㌫ 日はファウストだったよ。 またASteube(S177)はこうした例一彼女の挙げた例は本文の(2)(3)と同じ文(ihr NameとなっているのはIhrNameの誤植と思われる),及びWannbeganndochmor・gen dieVorstellung?(明日,上演はいつ始まるのだった?)−−せ「保険の過去形(Versiche rungspr.註teritum)」と呼び,次のような「ひとつの儀礼上の決まり文句(eine H8flichkeits・

(13)

aoskel)」を告知していると考える。 EntschuldigenSie,daBichnocheinmalfrage.Ichverga6,a)「wieSieheiBen,b) WerdenSchweinebratenbekommt,C)wannmorgendieVoTStellungbeginnt 私がもう一度質問することを,どうかお許し下さい。a)あなたがどなた様なの か,b)どなたがp・−・スいポー・クを御注文なさっているのか,C)明日,上演が いつ始まるのか,私ほ忘れてしまいました。 彼女にとっては「保険の過去形ほ発話状況(Redekonstellation)によって制約された,時間 的意味(Tempusbedeutung)をもたない形態論上の形式である」。(蛇足ながらわれわれに とっては,保険の過去形によって含意される意味内容の中で,なぜichvergaBであってich habevergessenではないのかということも,本文42との関連で興味がある。) 13)例として挙げなかった(1)と(7)の文についてもf。=′sとf。>㍍与こそれぞれ分類できな いこともないが,いくらか説明が必要である。たとえば例文(1)を㍍=りsとし,≠。を状態の 存在する時間と考えても,この場合の「状態」は現実界の状態ではなく,Ichwi11…という 話法の助動詞によって表現される話者の心的状態を意味することになろう。また例文(7)に ついても,丁寧さを抜き去った普通の言い方としてWoistdasGulasch?を想定すること ができるが,この場合の現在形”ist“は発話の状況からして現在の状態を意味しているとは 言えない。つまりグーラッシュはまだどこのテーブルにも置かれていないのであるから, ”ist“は現在ではなく,むしろ近接した未来の状態を意味すると考えられる。(2)や(4)と同じ ”Sein“を使用していても,この場合ほ意味内容の上では′。=んではなくfα>㍍を内包す ることになる。(言うまでもないことだが,たとえば㍍>′sは,行為時一時に状態時 −が発話時より時間的に後であることを示す。) 14)この節でほ日本語訳に際し,過去時以外で用いられるドイツ語の過去形に対しても「−し た」という日本語を当てたが(多少の意訳は行ってはいるが),日本語文として必ずしも奇 異にほ響かないように思われる。というのも,日本語でも時間的には現在とほとんど同じで あるにも拘らず,丁寧な表現に対しては「∼した」という過去の形式を用いることがあるか らである。このような場合の「−した」と「∼する」の対立を,三上(S22(汀)ほ「儀礼的 な問いとただの問い」という主観的対立として捉え説明している(三上は「∼した」と「−す る」に対し他にも4つの意味論的対立を考える)。彼が挙げるそのような主観的対立の例を 紹介すると(S.226り, 油絵ヲオ描キニナリマシタネ? 油絵ヲオ描キニナリマスネ? オ名前ハ何トオッシャイマシタ? オ名前ハ何トオッシャイマス? アナタ′、ドナタデシタカ? アナタハ誰デスカ?

(14)

三上は「相手を既に知っているという気持ちを表すことが敬意になる」と言い,さらにこう した現象は「疑問文乃至疑問文に準じるものに限るようである」と述べる。この点もドイツ 語使用老の言語意識とかなり近いと言えるかもしれない(ドイツ語においても,例文(1)を除 けばすべて疑問文である)。またこのような儀礼表現に関する対立の元となった「想起と主 張」という対立,つまり「或る命題の成立自身には過去とか現在とかの時間的区別はなくて

も,その命題の認識の時日の区別がテンスにあらわれるもの」(S225,傍点は三上)も,日

独両語に共通して観察されるであろう。次の三上の単純過去の例は「既定の予定を想起した

言方」であるが(S226,傍点・傍線共に三上),これを注12におけるWunderlichのWas gabeshh?及びSteubeのWannbeganndoch?というドイツ語の例と比較されたい。 −一明日,ゴ都合/\ドゥデス? −一朗日ハダメデス。 明日ハ研究会がアリマシタ。 15)現在完了形を使用する状況を,話老の心理に即して幾らか公式的に言えば次のようにな る。つまり,話老が心理的に下記の「…」のような現状把捉をした上で,『−シタ』に相当 する過去の行為・事態を実際に発話・表現しようとする際,過去形ではなく現在完了形を使 用する。 「今,∼デアル。ナゼナラ,『∼シタ』カラデ7ル。」 16.)IchschoL3aufeineWildkatzeほ,WKlugeの論文(1965)のタイトルにもなっている。 その論文(S82)の中で彼ほこの過去形を分析し,「たぶん彼(シュタ、−ベンホイザー)ほ, その発砲をほとんど忘れさられた取るに足らぬこと(NebensまChlichkeit),すっかり片付い たこと(abgetaneSache)とみなし,軽視するそぶりでもってそのことを見過ごそうとした のである」と説明している。 17)ここで引用した箇所ほ「言語の形式(FormderSprachen)」という標題に続く有名な一節。 邦訳では,最近出版された亀山健吉訳(1984,S73fこれほ序説の全訳)で,あるいは戦後 まもなく出た岡田隆平訳(1948,S84f序説の抄訳)で読むことができる。しかしここでは 拙訳を試みた。 引 用 文 献 「その1」(1983a),「その2」(1983b)の引用文献に記したものは省略する。但し「その1」 と「その2」自体についてほ挙げておく。 Bolinger,D:『意味と形』中右実訳,こびあん書房1981. 浜川祥枝『現代ドイツ語一初級から中級へ−』,白水社1975。 Humboldt,WV:SchriftenzurSprache,hr−SgVOnMichaelB6hler,Stuttgart1973 『言語と人間』岡田隆平訳,創元社1948. 『言語と精神−カグィ語研究序説』亀山健吉訳,法政大学出版局1984.. 三上章『現代語法序説』,くろしお出版1972.

(15)

Schnurre,W∴EinFallftir HerrnSchmidt,Erzまhlungen,Stuttgart1979 『シュヌレ=ふたつの短篇』橋相良孝編,朝日出版社1980(1980年度版の奥付でほシュ ヌーレとなっているが,誤植と思われるのでシ/ェヌレとしておいた). Steube,A:TemporaleBedeutungimDeutschen,Berlin1980(StudiagrammaticaXX) Trier,J:UnsicherheitenimheutigenDeutsch,in:Sprachnorm,Sprachp貝ege,Sprach− krritikJahrbuchdesInstitutsftirdeutscheSprache1966/67,Dtisseldorf1968,S11−27 (SprachederGegenwart2)

Wunderlich,D:Tempusund Zeitreferenzim Deutschen,Mtinchen1970(Linguistische Reibe5)

湯浅英男二「ドイソ語における時制意味分析試論(ⅠⅠ)一過去形,または物語ることについて (その1)−」(『香川大学一・般教育研究』第23号,1983a,S49−73)

「ドイツ語における時制意味分析試論(ⅠⅠⅠ)一過去形,または物語ることについて(その 2)一」(『香川大学¶、般教育研究』第24号,1983b,S77−97)

参照

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