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The Cambridge English School : Cambridge大学英文学科(学部)の人間と研究をめぐって : (2) 'Q'登場

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(1)

The Cambridge English SchOol

Cambridge大

学英文学科

(学

)の

人間 と研究 をめ ぐって―

(2)

tQ'登

英米文学教室 岡

―なぜ

Q'か

?一

なぜくQ'1こ とeir Arthur Quiller cOuchを ここで取 り上げるのだろうか。Cambridge English School

(ケンプ リッジ大学英文科(英文学部))2の人間 と研究 をめ ぐっての私の研究の一環 として,くQ'は同

英文科の実質的な初代欽定教授

(Killg Edward VH PrOfessor)で

ぁるため

,当

時の英文科 を代表

するex officio(職権上

)の

人物 として(Q'を取 り上 げた ことが第一の理由である。 しか しそれ以外 の理由 もある。

(Q'は

79歳の誕生 日を迎 えた時(1943年

),半

ば冗談

,半

ば回 りの人々の意識 を代弁 したかたちで,

自らの ことを《a period piece,but yet not a museum piece"3と 言 ったが

,そ

れか ら50年近 い歳月が

たつている。英文学研究の著 しい発展 をみている昨今 にあって

,50年

近い歳月 とい うものは

,偉

大 な学者 をも忘却 の彼方へ突 き放す力 というものを持 っている。 現在では

Cambridgeに

あって も, tQ'は ほとん ど語 られな くなってきている。遠 く離れた 日本 においては,〔

Q'は

「時代物」以上 の古 さとなっているか も知 れない。(Q'は多 くの著作 を著 したが

,そ

の多 くの ものは絶版 となってお り, 現在で も版 を重ねてい るものはそれほど多 くない。それゆえ歴史的遺産 としてのみ〔Q'を 取 り上 げる ならいざしらず

,現

代 の 日本英文学研究 にインパ ク トを与 える存在 として現代 的意義 を聞 うことに なると

,(Q'の

存在 に疑間 とす る方々 も多いのではなかろうか。そう自認 したく

Q'の

79歳の誕生 日の 約20年前 に

,即

,時

代 も激 しく変わ り

,Cambridgeの

英文学研究 も著 しく進展 していった1920年 代にあって

,tQ'自

身及 び彼の愛弟子 Basil Willeyが 既 に,

The truth is thatく Q'Outl

ed his own wOrld,which―

tO adOpt a remark Of his own―

was

really dead by about 1925,though this was not generany known at the tilne.4

と言っている。この とき既 にくQ'は 過去の人間 となっていたのであろうか。しか し〔

Q'の

著作及 び人 間 としての生 き方 を考察 してみると,(Q'は 文学研究の過度の専門化 にたい して

,現

代 に も通 じる貴 重な警鐘 を鳴 らしていた と思われてな らない。20年代

,30年

代 にあって

,(Q'は

良 い意味のデ ィレッ タン トの研究 を目指 していたのではなかろうか。(Q'のこの基本的な態度 は現代 において こそ忘れて はな らない もの と思われ る。これ こそ〔Q'を取 り上 げた本質的 な理由である。以下項 目別 に分 けて, (Q'の 生涯

,小

,批

評 。研究

,評

価等について考察 をしたい。 明 俊

(2)

岡村俊 明:The Cambridge English School

第一章

tQ'5(sir Arthur Quillttr―

couch)の

生涯

この章ではF Brittain(Cambridge大 学

Jesus Collegeの

フェロウ

)著

4カ

物γ

O%″

″γ

クθ

4Bケ

昭拓

妙力″α′駒タカ げ

0(Cambridge University Press,1947)を

もとに

Q'の

生涯について

考察したい。

Jonathan cOuchは Cornwall州

POlperroの 開業医であ り

,妻

Janeと

の間に男

5人 ,女

1人

の6

人の子供 をもうけた。その長男がここで取 り扱 うArthur Thomas Quiller cOuch(1889年 まではQuiller

Couchと

ハィフォンを付 けていなかったが

)で

ある。彼 は1863年11月21日に出生 した。男の子の う

3人

は父 と同 じく医者 となるが,(Q'は 早 くか ら文学の才能があ り

,兄

弟 とは違 う方向 に進 むこと

となった。

学齢期 になると,〔

Q'は

新設のパブ リック・ スクールである

Newton Abbot Collegeに

入学 し,

7年

間そこに在学す る。(Q'の友人である

Walter Shaw Sparrowに

よれば

,そ

の学校 は

tNe、vton was not at an snobbish, but her atmOsphere was like that of one of the very

private schools which are called public;indeed,she was a ttιιυ public school,and eager to

make a name in sports,games,scholarship,and professions'7

ヽ であった。 その学校 で彼 は貧欲 にギ リシア語

,ラ

テン語 を学 んだ。 また《was never in a hurry and

never ill―tempered."8と 後年のtQ'の特質 となった ものが既 にこの時代 に形成 されていた ことが分か

る。その後,く

Q'は

奨学金 を得 るためBristolにあるパ ブ リック・スクールの名門Clifton Collegeに

転校 し

,2年

間在学す る。在学中に詩 を書 き

,校

友誌 7狗9C′

"ο

%に

度々発表 した。また

Athensを

テーマ とした詩で は特別表彰 (《sch001 prize")を受 けた。卒業後 (1882年

)奨

学金 を得て

,OXford

大学Trinity Collegeに 入学Ь専攻 は古典学(ClasSiCS)である。〔

Q'は

学生時代 に広 く読書 をし

,機

知 とユーモアに富んだ会話 を楽 しみ,良き友人 を作 ることがで きた。また彼 はT力ι

aヵ

z Mttα

2励ι

の編集業務 を手伝 う。その雑誌 に度々寄稿 した ことが,〔

Q'の

在学中の特記事項 であろうか。ともか

くくQ'は 学問ばか りでな く

,ス

ポーツに も熱心で

,ボ

ー ト部 に も所属 (《Trinity first boat")し ,

大いに活躍 していた。この ように,スポーツに も学問にも励 む とい う態度 をくQ'1ま終生持 ち続 けた と

いえよう。1886年 〔

Q'は

卒業試験 を受 けた。結果 は

,予

想 に反 して第二級 (Second Class)の 成績 だ

ったことは

,彼

に とって大 きな失望だった。 このためTrinity Collegeの 講師 (lecturer)と はなっ

たが

,彼

が望んでいた フェロゥになれる見込みは将来 ともない と判断 したようである。 このため, そ Q'は Virgilゃ

Aristophanesの

講義をしつつも,創作 に力をいれ初め,1887年最初の小説 つθα″Z2η ` 買θ誘 の出版 にこぎつけ

,そ

の書評が出る頃には

,学

究生活 を断念 し

,創

作家 として立 ってゆ く決心 をした。 (Q'は 1887年

LondOnに

転居す る。作家 として名声 を得 るには

Londonが

最 も適 した場所だ と判断 したからであろう。しかしガヽ説家 として食 っていくのは勿論容易ではない。そのため彼は出版社Cassell's

と契約 を結び数多 くの文 を寄稿 した。 この頃(Q'は

Louisa Amelia Hicksに

出会 い

,1889年

には

Comwall州

Foweyの

教会で彼女 と結婚 した。(Q'の25歳の時である。この結婚 はく

Q'に

とって終生

大 きな意味 を持 った。妻 Louisaも さることなが ら,彼女が住 んでいた

Foweyが

Q'に

決定的な意味

(3)

鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 39巻 第

1号

(1988)

閑静な

Foweyに

転居す るか らである。

OXfOrd大

学時代 の友人 によれば,《a nervOus fear of crowds

amountillg even to shrinking from crossing the street"9ほ どにネ申経衰弱 になってお り

,London

には住 めな くなっていた といえる。 また

Cambridge大

学教授 となってか らも,そ

Q'は

長期休暇が始 まるとす ぐ

Foweyへ

と帰 り

,Foweyで

も種 々の公務 についていたか らである。

Foweyで

は港 と海 を見下 ろす高台のT力ι lrpυι

2ぃ

う家 に一家 は長年住 む こととなった。

Fowey

に住み初 めてく

Q'の

健康 も徐々に回復 してゆ く。転居 して最初の

7年

間に雑誌 勁 ι ttι》ιγに定期 的に寄稿 し,それ らをまとめて

4肋

ι%蕨熔 妨

C妨

″た物 として出版 した り,また多 くの小説 を書 き, 本の編集 に関係 した りもした。冒院 とヒューマー を特色 とす る小説や性格 を見事 に描 き出す小説 を 書いてゆ く。この頃の彼 の関心 は

,仕

,創

,批

評 のほかにボー トや ヨッ トな どであった。〔

Q'は

Ц

Fowey Yacht Club"の

メンバー とな り

,後

にはクラブの会長 となった。

1901年か ら12年のあいだの12年間 はく

Q'に

とって最 も実 り多い年月であった といえよう。その期間 に出版 された ものには

,勁

Oヵ

蒻 B9θ力 げ

D留

燃カ ル 駕ら7物ゼ

Oヵ

蒻 B9ο乃 げ 賜 ぬ 及 び 勁 ι

aヵ

″ ちbθヵげ 7'じ力物 η 脆 欝ι等がある。特 に7物ι

a力

〃 るboヵ げ う昭燃カ ル 終つは出版

当初か ら評判が良 く,文 学者 としての〔

Q'の

名声 を確立 した もの と言える。彼 はこの期間 に他 に13編 の小説 を書 き,子 供向 けの本の編集等 にたず さわ った。以前に書 いた(1899年 )子供 向 けの 打港カカια′ 免 燃 力

%説

滋鞍 α

%と

ともに,(Q'の子供 に対す る関心の強 さはその後 も続 いてゆ く。この種 の仕 事 ばか りでな く,(Q'は

Fowey及

びCornwallサ11の教育界 などで も多 くの貢献 を した。政界進出に対 す る友人 の忠告 もあったが,く

Q'は

あ くまで文芸活動 を中心に据 えた。自分の性格 にあった最 も良い 生 き方は文学だ との自覚があった と思われる。そ うい うく

Q'の

文学

,教

,政

治活動への貢献 に対 し て

,1910年

George Vに

よ り

Knightの

称号 を授与 された。この ことはtQ'の種々 の貢献が

,特

文学関係の仕事が世間で十分 に認 め られた とい うことを意味す る。そんな頃

Cambridge大

学の英文

科 にとって重要 な出来事があった。1910年に

,Sir Harold Harmsworthは

Cambridge大

学 に20,000

ポン ド寄贈 し

,そ

のため英文学欽定教授職が創設 された ことである。初代教授 は

Cambridge大

Trinity Collegeの フェロゥであった有名 な古典学研究者 Arthur Verrallが 選 ばれたが

,彼

は病身

のため

1年

後 に死去 し

,そ

のため後任探 しが始 まった。1911年その後任 として

,幾

多の候補者の中

か らSir Arthur Quiller cOuchが 選 ばれたのであ る。 この人事 は

Cambridgeの

人達 を少 なか らず

驚かせた。なぜな らく

Q'は

著名人ではあったが,着 実で厳密な研究活動 を積 んだ著名 な学者 ではなか

ったか らであ り,また〔

Q'の

専門は古典学であったか らである。その教授 ポス トは Herbert Grierson

が有力 となっていた。彼 は 」

Ohn Donneの

著作 の校訂 を終 え

,厳

密な本文校訂 を基盤 とした学者 。

批評家 として有名であったか らである。 この間の事情 をTillyardは次のように述べている。

Asquith,then Prime Wrinister,had decided that he was the man fOr that chair.The matter 、vas as good as settled,when Llyoyd George got busy and said they ought to make a party appointinent,Quiller― Couch had been keeping Liberahs■ l going in CornwaH for rnany years

and Lloyd George knew Tん

ι

O物

の″

BOθ

9/

五カ

g励

レ杉終ι

. Asquith yiclded to Lloyd

George's pressure,and Quiller― Couch was Offered the chair.10

当時の首相 Asquithが 先行 して決めたが

,彼

は Lloyd Georgeの 意を体 して決定 したようである。

このようにして

Q'は 教授職の申し出を受 けたのである。

(Q'は

Cambridge大

(4)

岡村俊明:The Cambridge English School (Q'は 実作者 としての経験 と幅広 い読書 に支 え られた文学 愛好者 としての態度 を決 して失 わず,そ れ を文学研究 の領 域 に持 ち込 んだので ある。 また英文学研 究 に古典学 を も重視 したの は

,学

生 時代 に 古典学 を専攻 し

,古

典 学 こそ優 れ た学 問 との認 識 ばか りで な く

,特

Cambridge大

学 教 授 として, 古典学 の素養が周 囲か らも期待 されていた ことに もよる。 の ちに

F.R.LeavisHな

どに よ り,く

Q'は

古典学 を過度 に重視 してい る とい う批判 を受 けるが

,当

時 として は自然 な研 究 態度 で あ った とい う べ きであ る。む しろ,〔

Q'は

古典学 に対 して硬直 した意 見 を持 たず

,自

由な批判 を許 す 土 壌 を作 った ことで記憶 され て もよい。Tlllyardは

/ 1n this lnatter Of liberalsm Q gave a genuine lead.Indeed the rest of us were in this sirnply

reinforcing what Q had been preaching ever since he was professor.

ly own brand of

hberahsm grew out ofrny disappointment with the kind of Classics l had been subiected tO

as an undergraduate,with the lack there of any freedo■l to have opinions on classical literature.Remembering this disappointment still vivdly l was a whole― hearted supporter

of Q's general way of thinking,12

と述べ てい るよ うに,そ

Q'は

《liberalism"を 持論 としてお り

,そ

の伝統 は今 も

Cambridge Englishの

大 きい特色 とな ってい る。 (Q'が

Cambridge大

学 英文学教 授 に就 任 して

,家

族 は

Cambridgeに

移 り住 む こ とに な ったが

,長

期休暇 には

Foweyに

帰 り

,そ

の まま家族 は

Foweyに

定住 す る こととな った た め,【Q'はフ ェ ロ ゥと

な った Jesus Collegeで 宿泊 と食事 をす る こととな り

,長

期 休暇 にはい るや

,家

族 が 待 つ

Foweyに

そそ くさ と帰 って行 った。この ような生活 を81才 で死去 す るまで続 ける。これ に対 してTillyardは

次 の よ うに書 いて い る。

Q's home was in Fowey in Cornwan and he spent mOst of the year there, coming into

residence at Cambridge about a fortnight after the beginning of Fun Term and leaving about a week before the end. He once went so far as to cut the final meeting of Tripos

examiners when the lists are ceremoniously signed,and in substition for his presence posted

his signature on a piece of stamp―

edgingi an act which provoked a new university

ordinance rulhng that every exanliner shall be present at the signing of the lists.13

これ は相 当 に厳 しい評価 とい うべ きであ ろ う。ManSfield Forbesの 伝記作者Hugh Carey14ゃ

,M.

C.BradbrOOk15も 同 じ主 旨の事 を述 べ て い る。 こうい う非 難 はあったが

,教

授就 任後 の研 究・ 批評 活動 は まこ とに活発 となる。(Q'は最初 に (1916年

)0%肋

θ

4カ

げ フレ笏チケタぽ を出版 す る。 これ は 大 学 の講義 録 をほ とん どその まま出版 した ものであ る。1920年 に出版 す る

0%肋

94舟

R%励

昭 と ともに

,こ

れ は研 究者・批評家 としての(Q'を最 もよ く表 し

,こ

の両書 によって

Cambridge English

の一 つの伝統 を築 いた ものである。 この両書 につ いて は後 ほ ど詳 し く述べ たい。

Cambridge大

学教 授 として

,大

学 にお ける行 政 面 で【

Q'が

果 た した仕事 は どの よ うな もの で あ っ たのか。 Brittainは 非常 に好意 的だが

,同

じ英文科 の講 師 (lecturer)で あったTillyardの評 価 は次 の通 りで あ る。

(5)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 39巻 第

1号 (1988) 17

And when it cOmes to his Office as ProfessOr― ―an Office not purely sOcial― I cannot pretend

that he held it with unbroken diligence.16

結局

,(Q'は

教 授 として果 たすべ き役割 を十分 に果 た してい ない とい う意味 に とって良 か ろ う。それ

に もかかわ らず

,(Q'が

全然行政 に無関心 であった とは私 には思 えない。

Cambridge Englishの

この 当時 の 目標 は英語独 自の

Triposを

成立 させ る こ とで あ り,(Q'も その努力 は していた。(Q'はア ング

ロ・ サ ク ソン語教 授

H.A/f.Chadwickと

ともに

,Modern Languages Triposの

一 セ ク シ ョンで あ った英語 を

,次

の よ うな観点 か ら改正す るこ とを望 んだ。

They felt that the English syHabus needed widening and modernizing,that Enghsh should

be mOre of a humane study than it had been,and that candidates shOuld also be to sit for an exanlinatiOn in literature without being forced(at they then were)to be exa■ lined also

in phi1010gy.17

1918年 に この案 は

,Cambridge大

学評 議会 を通過 し

,英

語 は English TripOsと して独 自に認定 され る こととなった。 この改正 の重要 な点 は次 の四つで あ る。一 つは語学 の必修 を全廃 した こと

,二

つ は語学 の代 わ りに文化 。文明史 を導入 し

,古

代 研 究 (early studies)の オ リエ ンテー シ ョンを設 け た こ と

,三

つ は「中世 」が 占め る割合 を極 めて少 な くした こと

,四

つ は近代 英文学研 究 を古代 英語 か ら遠 ざけ

,そ

れ を ヨー ロ ッパ大陸

,特

に古代 ギ リシア・ローマ研究 と深 く関連 づ けた こ とで あ ると8 こうい う改正 に対 して,〔

Q'が

著作 等 を通 じて常々主張 していた二 つの主要 な点一文化・文明史 導入 及 び英文学研 究 を古代 ギ リシア・ローマ研究 と関連 させた こと― は,〔Q'が 貢献 した もの とい え よ う。 English TripOs制 定 で ほ っ と一 息ついた ものの

,そ

の翌年(Q'に個人 的不幸 が襲 った。1919年息 子 のBevilの死 去 で あ る。このためtQ'は家族 の絆 を一層 強 く感 じ

,辞

職 を真 剣 に考 えた。しか し辞 職 は思 い とどま り

,ま

す ます 多 くの仕事 を引 き受 け

,そ

れ に よって苦脳 を紛 らわ そ う とした。従 っ て

,こ

の ころの著作活動 は

,250巻

に及 ぶT力ικグΥ

`多

留彰%盗 げ

L滋

紹蕨

%の

編 集 責 任 の仕 事 及 び 」

.D.WilsOnと

共 同 で

T修

餌勿 罰励 姿″α

%の

編 集 と多彩 を極 め る。

Shakespeareに

対 す る

関心 は この ころが最 も旺盛 で,〔

Q'は

1921年 British Empire Shakespeare Societyの

Cambridge支

部 設立 に指導 的役割 も果 た した。

English TripOsをさ らに改正す る動 きがでて きた。この改正 で (1926年

)く

Q'が

強 く主 張 した

English Moralists"が

English TripOsの

一科 目 として認 め られ た。(Q'に

つ いて は手厳 しい批 判 を加 え る Tillyardも その意義 を次 の よ うに強調 してい る。

But the real surprise was the paper on the English foransts. It、vas a success from the beginning, and for t、 vO main reasons.First it turned out that a substantial number of

undergraduates were,in their third year,at the exact point Of intellectual development for

Hobbes Or Locke or Berkeley or Benthaln tO make the maximum impact.MOreover,it was

a relief to them tO turn from pure literature to、 vriters M/ho,thOugh men of letters also,

were prirnarily thinkers. Secondly, lve had in Basil

lriney a teacher who was more

interested in the substance of the MOransts paper than in any other part of the English syllabus.One can say thatヽ lrilley made the Moralists paper and that the A/10ralists paper

(6)

岡村俊明:The Cambridge English School

made hirn.He at once became indispensable to the Enghsh staff,and it、 vas only a matter of a vacancy for hiln soon to become a University Lecturer.In saying this l do not forget

Q.If Willey made the paper in one sense,without Q it would nOt have been begotten.Q's

most tangible service to the Cambridge Engnsh sch。 。l was in being the only begetter of the paper on the Engnsh A/1。 raHsts.And when you consider the scanty support he enioyed and

the great opposition he suffered,that service was no mean thing.19

今 日に至 る も《English Moralists"は

Cambridge English Schoolで

生 きてい る。

English Tripos改正 前後

,(Q'は

出版 活動 にお い て も多忙 を極 め る。1923年 か ら33年 の間 にく

Q'が

出版 した もの は

,二

冊 の研 究書

,一

冊 の散 文 の ア ン ソロジー

,三

冊 の子供 向 け聖書 のア ンソロジー, 彼 自信 の小 説30巻 の改訂版 の出版 及 び友人・ 知 己等 の 出版 物 に対 す る数 多 い序 文 の執 筆 で あ る。 こ の時期 だ けで普 通 の人々 の10倍 に も及 ぶ仕事量 を こな して い る とい えよう。上 に述べ た研 究書 の一 っ はC力″ 燃

D″

膨%sα%プ Ottογ レ7じ力方α

%sで ,こ

れ は彼 が大 学 の講義録 に基 づ いて出版 した もの で ある。この よ うに出版 を念頭 において講義 を して,三度 と同 じ内容 の講義 を しないのがそ

Q'の

特色 である。散文 の ア ンソロジー とは1925年 出版 の T力ι

O"″

βθθ力 げ

D悠

胎力

D餐

ゼで あ る。 この ころ彼 の視 力 は急速 に衰 えて多 くの書物 を読 む ことが困難 になってきたため,く

Q'は

Newham College

出身の

Winifred Hutchinsonの

援助 を まって この ア ン ソロジー の仕事 を押 し進 めた。これ は散 文 の ア ンソロジー と して は決定版 とな り

,今

日に至 る も版 を重 ねてい る。彼 はア ン ソロジー に は深 い関 心 を示 し

,同

じ頃 に (1924年

)Cambridge大

学 か ら能 ι Cttεオ0兜%そ BカルとTんι

L妨

″C力 'を ,兜η

`

Bカルを出版 した。 宗教 の新 しい教授細 目に基 づ いて編 集 され た もので

,Cambridge州

の学校 の授 業 に使 用 され た もの で あ る。〔

Q'は

絶 えず子供 に強 い関心 を示 していたが

,こ

れ は注 目に値 す る。既 述 した児童用文学全集 勁 ικ抱荼

T%岱

クル

sげ

L滋

紹蕨陀 に して も

,主

要研究書である 助 ι

4ガ

げ レ笏″箔 及 びT力ι

4オ

げ 買ια肋軽 にして も

,子

供 を文学 に導入 させ る方法 に彼 は関心 を持 って いたのである。 1933年頃になる とさしものtQ'に も衰 えが 目だって来 るようになる。「ひどくもうろ くした」(は

Iam

a certifiable old man nOw.")20と 自ら述べ るが

,そ

の《certifiable"と は単 なる冗談以上の意味 を持 っている。そのため,1933年 には30年間勤めていた

COrnwall州

の教育委員 (The COrnwall Educational

Committee)の

職 を辞任 し,また同 じく同州の参事会員 (alderman)の 地位 も辞任 した。しか し

Fowey

では地安判事 (magiStrate)の 任務 は引続 き勤 めた。1937年には

,驚

くことに

,(Q'が

Foweyの

(mayor Of Fowey)に

選出されたのである。 これに対 して伝記作者Brittainは何等 コメン トを

加 えていない。これ は二つの理由によ り私 には驚 きである。一つは

,(Q'の

体力の衰 えが 目だって き てお り

,し

か も1937年 とは74才という高齢であること。二つは

,Cambridge大

学教授 を勤 め

,遠

く 離れた

Foweyの

市長 を兼務することである。非難 はあった とはいえ

,重

要な職務 を兼務 で きるほど 良 くも悪 くも牧歌的な時代 であったのであろうか。 tQ'は いつ まで市長 の職務 を続 けていたのか,Brittainの 伝記 を見 る限 り分か らないが,と もか く 〔 Q'の 健康 は持 ち こた えたようで

,彼

は79才になって もまだ現役の教授であ り続 けた。その年の誕生

日には

,老

齢 を相 当に意識 して,《 a period piece,but not yet a museum― piece"加 と半 ば自嘲混 じ

りにく

Q'は

言 っている。

(Q'が1943年 80才の誕生 日を迎 えた ときには

,彼

は「文学界の長老」

(《doyen Of English men Of letterぎり22と して

,新

,雑

誌等で各界か ら賛辞 を送 られた。そ して翌1944年

,(Q'は

Cambridgeで

(7)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 39巻 第

1号 (1988) 19

死去 した。その日の

Q'の 生活は次のようである。

朝食後,妻に手紙 を書 いた。結婚生活54年とい うもの離れている間欠か さず書 いていた ものである。そ れか ら他の手紙 を書 き,それ か ら昼食 まで研究 を続 けたぞ 不 断 の生 活 とは まった く変わ らないものである。(Q'は死 後 も多 くの人 々 に記 憶 され るだ ろうと Brittain は次 の よ うに述 べ て い る。 訳 出 して引用 した い。 彼 を個人的に知 っている人 は,個性に富んだ人,ユーモアを欠かさない人

,話

上手な人,客をもてなす 名人,難 儀 している人々を助 ける人 として彼を思い出すことだろう。もっと広い世間の人々は,「小説家 と して,批評家 として,選集編者 として人々の心の中に英文学に対する生 き生 きとした愛情の炎をともした」 見事で,簡 素な散文の書 き手 として彼の事を思い出すだろう。また彼は偉大なコーンウォールの人間 とし て記憶 されることだろうで

第二章

!Q'の

小説

(酌

e Asどor9た

わg打たと

ory o「

Troy Town)に

ついて

(Q'の 創作活動 は多彩 を極 める。

Oxfordを

去 り

,Londonに

出て創作活動 に力 をいれ始 めた経緯 は 既述 した。彼 は出版者Cassel'sに文章 を寄稿 しなが ら

,最

初の小説Dια″ノ隆効

`買

ο溌 を書 き上 げ, 1887年にそれを出版す る。翌年にも第二作を出版す る。それが ここで取 り上 げる 動 ι4s力ηた励悠 助 ヮ げ Tηノ 拘 ωηでぁる (以下 Tηノ 駒 ″

%と

略記)。 父親の死後

,父

の残 した借財の返済 を した り

,肉

親 を扶養 しなが ら

,(Q'は

次々 と小説 を書 き続 け

,文

章 を雑誌 に寄稿す る。

Cambridge大

学教授 に就任す る1912年までに

,彼

は19の作品 を発表 していることか らも

,

この頃の多作ぶ りが理 解 され よう。作品 と出版年度 は以下の通 りである。 1887年

αプ フ,イα

%`買

θ誘 1888年

a修

4sヵ%蓉ヵゲΥ 打,sヵη げ

T鞭

ノ 駒 ″

%

1890年

a修

影 ″%″″ 砂 クγ 1891年

T力

ι Bttι 脆 力物ηs 18964F Iα 1899年

T力

ιS//ヵ げ 肋 盗 1902年

a修

脆sヵθ淋 1903年 T/2ι ■力ι%励密 げ Я″ヮ Rιυ房 1904年 Яθオ

4協

力 1905年 説 励けを 抱 響 1906年

カカ

%Gttd力

″婉らTんι

Mり

ο″げ T里ノ 1907年 島 たθηスカ兜琥 騒り ο

/1導

ク紀α笏 1909年

Tttι

rtι

da

1919年 を,力 Gθο″」″ Aり励ケ 1911年

B陶

滅ιγ勁 ぉ 1912年 打た鯵ηα%″ Fry%力ι%,α 駒 ″ げ

(8)

岡村俊 明 :The Cambridge English School

1915年 肱 秒 翌協η,Rttι ηぬナ 1918年 局 ι 脆 能 〃

このように多 くの小 説 の中か ら特 に

T脅

ノ 駒 ″

%を

選 んで考察 したい理 由 は,そ の 出版

1年

後 にtQ'

Miss Louisa Amelia Hicksと

Foweyの

教 会 で結 婚 す るが

,ま

もな く彼 は過 労 か ら極度 の神経

衰弱 とな り,ついに

Londonか

Foweyに

転 居 し

,Foweyが

彼 の永住 の地 とな り,そ して この

Fowey

をモデル に して

T脅

ノ T9″η を書 き上 げたか らで あ る。また数多 い彼 の作 品 は絶版 とな ったが,こ の 多ヮ 駒 ω

%は J.M Dent出

版 社 100周 年 を記念 して出版 された作 品 ともな った。従 って

,彼

の人 と な りを含 めて創作 の特 質 を考 える際の格好 の材料 とな ろう。

多ヮ T9″225の粗 筋 を追 いなが らコメ ン トを加 えて ゆ きた い。

小説 の舞 台 は

TrOy Townで

,中 心人物 は

Admiral Buzza一

(Buzza海

軍 将 官 とその妻Emily, 二 人 の 娘

SOphia,Jane,Calypsoと

息 子

Sam)と

海 軍 将 官 の二 人 の 妹

Limpenny(PriSCillaと

Lavinia)であ る。煉瓦運 びの

Caleb,Calebが

仕 え る隠 遁志願者

Fogo,税

官吏 に して詩 人

MOgridge

は脇役 とで も言 えよ うか。

この河ヽ説 は《Any news tonightl"で始 まる。場所 は

Limpennyの

客間。客 は兄

Buzza夫

妻, そ し て牧師。彼 らは トランプ遊 び を楽 しみなが ら

,話

題 を捜 して い る。退屈 な田舎 町 の退 屈 な人 々 とい う印象 で あ る。 そんな彼 らが 日頃考 えてい る こ とは《

Cumeelfo"で

あ る。

Yet we were vastly genteel, We even had our shibboleth, a verdict to be passed before

anything could hope for toleration in Troy.The word to be pronounded、

vas(CUWIEELFO',

and an that was not Cumeelfo was Anathema.

So often did l hear this word from A/fiss Lilnpenny's lip that l grew in tilne to clothe it with awful:neaning.It rneant to lne,as nearly as l can explain,(All things Sanctioned by the Principles of the Great Exhibition Of 1851',and included as tiFne Went on― (p.10)

ここに書 かれた《

Cumeelfo"は

明 白な よ うで

,な

ん と も曖味である。 それ は「1851年の大 英博 覧会 の 諸原理 に よって容認 され

,時

の推移 とともに包含 され るすべての もの」 と定義 され るが

,な

ん とも はっ き りしない。 ともか く

,大

英 帝国の繁栄 と人類 の進 歩 を意味す る ものの よ うで あ る し

,大

英帝 国の正 当的 な ものの考 え方及 び人 々 を意 味 す るよ うで もあ る。

彼 らが会話 を楽 しん で い る とき,「 あず まや」(ば

the BOwer")に

借 主が見 つ か った とい うニ ュー

スが飛 び込 んで くる。借主 は貴族 で あ る

The Honourable Goodwyn Sandys夫

妻 で あ る。 このエ ュースに一 同 は沸 き立 つ。 その兄 が

Sinkport男

爵 で あ る こ とが 聯申士録 」を調 べ て分 か ったか らで もあ る。

その翌 日に彼 らは到着 す る ことになってお り,そ の ため次の 日は早朝か ら

Troyの

町 は騒 然 とな っ た。

Next mOrning,almost before the sun was up,an Troy、 vas in possession of the news,and in Troy an that is personal has a pubhc interest.It is this local spirit that marks off the

(9)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第39巻 第

1号 (1988) 21

上の表現か ら,運命共同体 とでも言 うべ き

Troyの

町 とその人々のあ りさまがよ く理解 され る。海軍 将官

Buzzaは

着飾 り,ボタン穴 に花 も差 し,汽車の駅 に出迎えに行 く。しかし,到着 した人 は

Goodwyn―

Sandys夫

妻ではな く,こ の町を隠遁の場 と決 めてや って きた

Fogoで

あった。人々か ら離れて住み たい と思 っていた

Fogoに

とっては,この町の この ような騒 ぎは心外 なことであった。しか し面 目を 失 ったのは海軍将官であるというべ きである。彼 は赤面す る。 この困難な状況に解決 を与 えたのが 市民の発 した

What day es etP'

(Fust of April'(p.20)

であ り

,結

局 4月 馬鹿 ということで決着 をみた。深刻 な状況 はこのような軽 口で緩和 されている。

Goodwyn Sandys夫

妻 はその日に,誰にも迎 えられずに馬車で到着 した。同 じ日に

Goodwyn Sandys

夫妻 と

Fogoと

ぃ う異 なった階級

,性

格の人々が なに一つ事件の起 こらない

Troyの

町 に到着す る。 封照 をなす ものの提示 と意外 な進展 という手法の導入 は

,Goodwyn Sandys夫

妻 に対 す る(または HCtmeelfo"に 対 する

)盲

目的な尊敬 を示す

TrOyの

人々の愚かな態度 を明 らかに している作者特有 の手法 というべ きであろう。 これか らはこの二組 の人々 を巻 き込 んで話が進展 して行 く。 海軍将官は帰宅す るや恥辱のあ まりす ぐ床 につ く。 その ときの表現

The Admiral undressed,and,hirnself a warming― pan of rage,plunged between the sheets. It was a wonder the bed― dothes were not on fire.(p.25)

,意

識的におお ぎょうに書 かれてお り

,軽

国の表現 と共 に作者の ヒューマーのセ ンスが現れてい る

,と

見 るべ きであろう。 一方,隠遁 を求めてこの町にきた

Fogoが

適当な住処 をさが しもとめていると港で煉瓦運びの

Caleb

に出会 う。二人 は意気投合 し,そのため

Calebは

Fogoに

仕 えることに決め,以 後彼 は主人思 いの召 使 としての面 目を遣憾 な く発揮す る。二人 は住 むべ き場所 を

,TrOyの

町か ら離れた ところに見 つけ ようとす る。彼 らが 目を付 けた家 は《Kit's House"(「子猫の家」

)で

ある。木立 に囲 まれ

,幽

霊屋敷 とい う異名 もついてい る空 き家である。ハ ンセ ン病患者が住んだ ところとも伝 えられている。 その 患者 にある乙女が恋 をして

,二

人 はそこに隠れて

,幸

せに暮 らした という話 も伝わ っている。 その 家 とその周辺 について

Calebは

次のように述べ る。

`'Tes a luvly spot,as yOu said,sir,MI MOggridge dOwn atthe custOms― ―he's poet,as lnaybe

you know―

has written a nlint O'verses about this'ere place,t(Natur"',he says;―一

Natur'has'ere assoomed her so■ est garb; 'Ere would l live an'die

―which l caHs a very touchin'sentiment,an'五ke what they says in a nigger sOng.'(p.31)

方言 を交 えなが ら語 る

Calebの

自然描写 は

,ま

ことに生 き生 きとしてお り

,牧

歌的な

,現

実遊離 と

も思 えるこの場所 にずっ しりとした現実感 を与 えてお り

,し

か もこの港町に対す る語 り手の強 い愛

(10)

岡村俊明:The Cambridge English School

うと思っている

Tamsinに

出会 う。彼 らは暖かい兄弟愛 にあふれている。

次は

,散

歩 に出かける

Goodwn Sandys夫

妻 に話が移 る。屋根 に上がって望遠鏡で彼 らを盗み見

している人がいる。

Limpennyで

ある。しか し彼女以外 に も望遠鏡 を持 った人が現れ る。その現れ方

はコミカルに描かれている。

Slowly,very siowly,the rival telescope was tilted up against the harbour―

wan,very SIOwly

it rose in air.Then came a pair of hands― ―of blue cuffs――and then―the cril■son face of

Admiral Buzza soared into view,hke the child's head in Maど うι肋,(p.45)

先ほどの失敗 に も懲 りず現れいでたのは海軍将官

Buzzaで

ある。彼の顔 は 〃πιι肋 に登場する子供

の顔 御ねιうι励

4幕 1場

の洞窟の中の亡霊の子供 と思われる)と比較されている。ともかく

,Shakespeare

をはじめ として

,WOrdsworth,Coleridgeゃ

古代 ギ リシア・ローマの文学に対する言及が 目につ く。

その

Buzzaは

今度 は屋根 か ら落 ちるのだ。彼 は威厳 を取 り繕 って

,し

か も失策 をす る男 として構か

れている。 それで も

Buzzaは

Goodwyn Sandys夫

妻 を正々堂々 と訪問す ることを決心す る。彼 は

娘たちを引 き連れて

,月

曜 日の朝訪聞す る。

Again the great rnan was in fun dress. Behind hirn in lndian file advanced Sophia,Jane,

Calypso... (p 51)

少 し大 げさな表現であろう。こういう時 は

,一

種のベ イ ソスが予想 され る。即 ち

,盛

装 を した

BuzZa

と二人の娘 たち とは対照的に

,訪

間を受 ける側 の主人 は朝起 きたばか りで

,髭

を剃 っていたのであ る。彼 は訪問客の声 を聞いて,弟J刀を滑 らせ顔 を切 って しまった。そんな時 にも

Buzzaは

まことに きちん とした訪間の意図を告 げる。 ここで盛装 した人 と不意 を食 らった朝起 きたばか りの人 との対 照 とその出会いが描かれている。

Buzzaは

Troyの

町で は選 りす ぐった最上 の人々 との認識があ り, その範 ちゅうで行動すべ きだ という強い観念 を持 っている。最後 に

Buzzaは

,

By the way,how is Lord Sinkport?I really forget to ask.Quite wen?I ani so glad.(p 57)

と言 う。質問 をし

,あ

いずちか何かを受 けて

,彼

は納得 したのであろう。 このなんの変哲 もない上

の引用が実 はやがて重大な意味を持つに至る。というのは Lord Sinkportの 実弟であるはずの

Goodwyn―

Sandysは

実 は偽者 なのである。 この ことは後 ほ どはつきりす る。

BuZZaは

今度《Kit's House"を 訪問する。貴族 であれ誰 であれ新 しい住人 に対 して訪間 をす ること

は義務 と考 えているか らである。川沿いの饂Kiピ

s House"へ

は船 に乗 って訪間 しなけれ ばな らない。

彼 は今度 も二人娘 を連 れて堂々 と行 く。Janeと

Calpsoに

はオールを持たせ

,Calpsoは

へ さきに乗

,彼

は提督 らしく三角帽 をかぶっている。既 に何度か見 て きたように彼が堂々 と威儀 を整 えて行

動すると何 かそれ を打 ち消す ような事が起 る。間が悪 い ことにその 日は生Kitζ House"の 洗濯 日であ

った。召使 となった

Calebは

主人

Fogoと

ともに下着 を洗 っていた。その時の表現 は面 白い。

At the sound W【 r Fogo raised his spectacles and blandly stared through them at the

(11)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第39巻 第

1号

(1988)

hand franticaHy、 vaving them back,his ieft grasping a pair of― (OhI Miss LilnpennyI)

tHiP You must go back.Go away,I ten'eeP'he gesticulated.

tWhat on―

'

Go awayi no femeles anOwed here.Off with'ee this momentt'Put dOwn those―

s,Sir'yelled the Admiral。 (p.59)

下着 な どの言葉 は注意深 く省略 されてい る。 デ ィセ ンシイ に反 す るか らであ ろ う。 これ を見 て

,娘

二人 を連 れていた

Buzzaは

驚 き

,そ

の はず みにボー トか ら落 ち る。また もへ まを しでか したのだ。 なん とか家 にた ど り着 いたが

,Buzzaは

妻 に無

Troy has laughed at me again.Put me tO bed."

(p.67)と

し ょげ きって

,

また も床 につ く始 末 だ。 な にか を威風 堂々 とや ろ うとして

,失

敗 す る とい うパ ター ンは彼 にい つ も付 きまとって い る。 しか もその こ との詳細 は父親 を弁護 す る立場 にあ る息子

Samが

,弁護 ど ころかパ ブで言 い広 めた ものだか ら,そ れ は

Troyの

町 中の峰 とな る。

Buzza

一家 は実 に個性 あ る人 間 と言 えよ う。それほ ど事件 のないのんび りとした町で もあ ることも分か る。

Buzzaは

その後約 一週 間 悶々 としていた。その間の様 子 は繰 り返 しの多 い文体 を用 いて描 かれてい る。

On Tuesday he was strallgely softened and quieti but

On Wednesday he recovered,and began to buny his wife as fiercely as ever

On Thursday he broke the bell― rope again ,,

On Friday._.

On Saturday....

On Sunday....

On Monday....(p 68)

こうい う手法 は こ こ以外 で も見 られ る

(p.70)。

作 者特有 の手法 と言 うべ きで あ ろ う。 一方

,牧

歌 的 な

,な

に一 つ変化 のな さそ うな この町 に も変化が起 き初 めてい る こ とが了解 され る。

税 関吏で詩人 の

Moggridgeは

詩 を書 き

,そ

れ を

Buzzaの

長 女

Sophiaに

歌 って も ら う。

Limpenny

も牧師 も彼 女 と一緒 に歌 う。歌声 と笑 い声 と幸福 で そ こは一杯 になった。

Moggridgeは

まだ分 か ら な いよ うだが,Soplliaは

Moggridgeに

強 く引かれ た よ うであ る。人 間関係 の幸福 な変 化 が起 こ り初 め たのだ。

しか しこうい う幸福 な出来事 ばか りで な く

,不

幸 な結末 を予想 させ る もの も見 られ る。

TrOyの

町 の人々 は ピクニ ックに出か けることにな り,そ こで

Fogoは Goodwn― Sandysの

妻Geraldineと あ る男 の話 を立 聞 き して しまった。幸福 そ うにみ える上流 階級夫人 も夫 を憎悪 してい る とい うのだ。 彼 女 はあ る男 に「 あなたが好 きよ。女′性は行 動 が好 きなの。私 にち ょっ とした ことを して ち ょうだ い。

Jと

せ まって い る。tOne small service"は 何 か とい えば,

Really,unless you kill the AdH ral next tilne he rnakes a pun,I do nOt know thatjust now l need such a servicer'(p. 118)

(12)

岡村俊 明:The Cambridge English School

の牧歌的な

Troyの

町に も危険な要素が入 り込 み

,

この小説 は波乱含み となった。

一方

,Fogoは

双子の兄弟 (Paulと Petre)の 妹の魅力 にます ます引かれ始 める。川で泳 いでいた

彼がぶ とした手違 いか ら服 も着れず

,そ

のため悪寒が走 り

,風

邪 をひきそうになった時

,双

子の妹

Tamsinに

親切 に面倒 を見て もらう。 その時

,彼

tShe is quite beautiful,but― '(p.127)

と漏 らし

,そ

の言葉 を聞いた

TamSinを

激怒 させ る。言われなかった言葉 こそ下賤 な彼女 を侮蔑す

る言葉 だ と彼女 は推察 したか らである。階級意識

,差

別 と被差別の構図が浮かび上が っている。 そ

の ように激怒 した

TamSinに

も兄 は優 しく諭 してや る。

(As for hatin',′ramsinデ he Said gravely.〔 'tain't right.Us shud love our neighbours,Scriptur'

saysi an'I reckon that includes tenants。 '(p. 130)

実 に素朴で愛情 に満 ちた人間が ここに描かれている。

一方

,Geraldineの

不審 な行動 は

Samに

対 して も向けられる。彼女 は Captain's Cabinを 見たい と言い

,Samに

案内 させ

,根

堀葉堀尋ねる。潮が どこまで満ちて来 るとか

,持

ち主が時々 ここにや

つて来 るとか。彼女 は夫 を愛せな くなったか ら

Samに

一緒 に逃 げて くれないか とい う。Geraldine

,S.T.Coleredgeの

働 燃 力う房 に登場する邪悪 な魔女 と同 じ名前であるが

,作

者 はその特性 を Geraldineの 創造の際 に注 ぎこんだ とも言 えよう。その彼女がば

Bower"に

か えって来 る と,夫 は夫でI'rn sick to death of an this,Iny dear― ofくthe Cause",of Brady,of these people,of rnyself,'

(p.139)

という状態である。不幸な出来事 は不可避 と思われ る。

Fogoは

Captain's Cabinへ 行 き

,そ

こで茶箱 を見つけ

,そ

れを運んでいるとき誤 って落 として し まう。爆音 とともにそれは爆発 した。そこに火薬 が詰 められていたのだ。教会 に集 まっていた人々

はょうゃ く

Goodwyn Sandys夫

妻の不審 な行動 に気がつ き

,tBoWer'へ

駆 けつけた。そ こはもぬけ

のか ら一彼 らは Captain's Cabinに 火薬 をし掛 け

,急

ぎ逃亡 した後だった。

Tamsinは Fogoの

安否 を気づかい駆 とすつける。

Fogoは

うめいている。意識 は もうろうとして彼 は

TanSinに

プロポーズをする。 しか し

,同

時 に Geraldineの 名 も日にす るものだか ら彼女 として

本気にす る気 にはなれない。医者 を呼び

Calebも

彼 の介抱 に精 を出す。

一方,新聞を取 り読みながら朝食をとっていた海軍将官 Buzzaは 驚きのあまり新聞を落 とす。そ

の新聞には次のような記事があった。

ANOTHER DYNAMITE PLOT!

A WHOLE TOWN DECEIVED― EXTRAORDINARY PROCEEDINGS

ESCAPE OF THE SUSPECTED PERSONS

(13)

鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第39巻 第

1号 (1988) 25

The existence of another of these atrocious conspiracies ailned at the security of our pubhc buildings and the safety of peaceful citizens,has been brought to light by certain recent occurrences at the romantic little seaport town Of irroy.We have reason to believe that the suspicions Of the poHce have been fOr some tiFne arOused;and it is to their unaccountable dilatoriness we owe it that the conspirators have for the time made good their escape,and still continue to rlaenace our lives and property.It appears that some rnonths back a couple, giving the names of the]■

OnOurable Mr and lrs Goodwn―

Sandys― ―(p.204)

The HonOurble Mr alld Mrs Goodwyn―

Sandysと

は真 っ赤 な嘘で

,実

は火薬犯人 で あ ったのだ。

Moggridgeも

Samも

だ まされていた ことも半J明 す る。一方

,Fogoは

熱 に浮 か され ていたが

,Tamsin

の介抱 もあって快復 に向かい

,そ

して さめて最初 に

Tamsinを

見 る。 (When l a、

voke again,'he went on,tshe was seated in the windoⅥ らknitting.I lay for a long while watching her― ―indeed, this is my first irnpression― ―before l made any siと 郵1. The

sunshine―it was morninttfen on her head as she bent over her needles,and emphasized

that pecuhar b100m of gold which(you may have nOticed)her brown iocks possess Her

lashes,too, as they drooped upon a cheek pale(as l could perceive)beyond its wont,had

a glimmer of the same golden tint。

(p208)

最 も感動 的 な一瞬 と言 えよう。狂気 の

King Learが

眠 りか らさめて最愛 の娘COrdeliaを見 た ときの 感動― そ うい う一 瞬 と言 えようか。兄のPeterと

Paulが

室 内に入 ってきて話 し合 う。

Tamsinは Fogo

の《She is quite beautiful,but―

"の

意 味す る ところを

,階

級 問題 に根 ざした軽蔑 と取 って いたが

,

彼 を許 してや り

,Geraldineに

誘惑 されて うわ ご とで彼 女の名 を口に した ことも許 す気 持 ち とな り,

結局

,Tamsinと Fogoの

二人 は結婚 す る。結婚 した二人 は

,旅

行 に

Londonへ

,ま

た ヨー ロ ッパ大 陸へ出か ける。 しか し

Troyの

町 の世 論 は この結婚 に対 して好意 的で はなか った。

Limpennyは

《If

we were all to marry beneath us,pray where should we stopl"(p.221)と

い うこ とで

,身

の下 の もの と結婚 す る ことに納得 で きないで いた。しか し彼 らが

3年

間不在 の後

TrOyに

帰 って きた ときにとま,

Mr and

【rs Fogo have been called upon by the Cumeelfo.(p.221)

となった。二人 は

TrOyの

町 の人 々 に認知 され た とい うことであ る。

Goodwyn Sandys夫

妻 は逃亡 して行方知れず。警察 もまだ彼 らを逮捕 していないよつである。し

か し彼 らのダイナマイ ト

,そ

の時限装置 は回収 された。

Mr Moggridgeは ,知

らなか った とはいえ,

火薬騒動 に荷担 した ということで役所 を辞任 し

,Admiral Buzzaの

長女

Sophiaと

結婚 し

,保

守系

の新聞 を編集す ることになる。

Buzzaの

一人息子

Samも

,Geraldineと の関係 か ら無罪 とは言 えな

いわ けだが

,TrOyを

去 り大学へ進学する。そ して

Troyは

元の静かな町に返 る。この間の時間 の経

過 は約ニ ケ月であった。

(14)

岡村俊明:The Cambridge English School

(MOggridge)及

び煉瓦運 びの男

(Caleb)で

ある。 そ うい う

Troyの

町の人々 を中心 にして

,そ

にやって きた貴族

Goodwyn― Sandysと

Fogoを

巻 き込 んで この小説 は進展 してゆき,火薬爆発 を契

機 として

,波

乱含 みの展開 となるが

,結

末 はハ ッピー・ エ ン ドに近い もの となる。何 も起 こらない

町に事件が起 こ り

,後

はまた静寂な町に返 った と言 うことである。

小説が展開 して行 く場所 は

,BuzZa一

家 と隣の妹 の家,《Ki♂s House",《

Bower'と

教会 とその町 の駅及 び頓Kit's House"へ 通 じる川や港であ り

,

ともか く

TrOyの

町の外への移動 はない。

このように考 えると

,小

説の材料 は

Jane Austenふ

うな設定 に少 し変化がある くらいの ものであ

ると言 えよう。結局,この河ヽ説の面 白さは特色ある人物 の倉U造にある。その中でも

Fogoに

仕 える Caleb

が群 を抜 いて面 白い。彼 は

Sam weller(Dickensが

作 り出 した 司溌″ぢθ力

Fり

つ密 の忠僕 な召使)に

似ているといえよう。彼 は隠遁者が住む格好 の家 をさがす ことか ら

,料

,洗

濯な どの仕事や熱病

にうなされている

Fogoの

介抱 に至 るまで,日々主人 のために誠心誠意尽 くす。二人が交わす次 の会

話 に注 目しよう。

Are you dissatisfied with the place or the wagesr tThat's et,sir一 the wages.'

(If they are too low― 一'

rΓhey bain'ti they be a darned sight too high.' WIr Fogo leant back in his chair.

Too highl'he gasped.(p. 132)

その ように仕 えていなが ら

Calebは

給与が「高す ぎる」 と不平 を言 うのだ。賃金関係 で結 ばれてい

る普通の主従でない。 また彼が用いる方言及 び比喩 は格段 に面 白い。 くAre you comfortableP'

rΓhank'ee,sir,gettin' on nicely Just a bit Wttan― Fridayish to begin wi', but as corrat as

Crocker's mare.

(What did you sayP'

Figger o'speech agen,sir,that's al.'(p.41)

それ を聞いている

Fogoな

らず とも

Calebの

比喩 はわれわれには容易に理解で きない。慣用的に使

われている比喩ではな くて

,自

分勝手に作 り

,

しか も正確 な作 り方でないか らなお さら理解 が困難

なのである。それは

,〃

%力

4L7o4う

θ%サ ハリ滅ね

gに

登場す る無学 な警察

Dogberryの

言葉 の誤用

Malapropismを

思わせ るものである。ともか く

,素

朴で無学で忠義いちずな男 に

,こ

の ように方言 や誤用 を使 わせてい る。 こういう人間を作 り出 した作者の才能 はきわめて非凡である とい えよう。

Calebの

他 に出色 な人物 と言えば

,神

を信 じる純朴 で

,敬

けんな双子の兄弟 Paterと

Paul,そ

して

家父長的威厳 を取 り繕 お うとして失敗 を繰 り返 している

Buzzaの

人物創造 といえよう。

この小説の手法の一つは

,類

似物 または対照物 を次々 と提示 していることである。 それ によ り,

予想 された結末 とは異 なるどんでんがえしを準備 す る。即 ち

,内

実を熟知せず外面 だ けで判 断す る

多 くの人々の反応 を提示することにより

,作

者 は人々の愚かさを摘出 しているといえよう。具体的

(15)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 39巻 第

1号

(1988)

になる家 (上流階級のは

The BOweゴ

'とハ ンセン病患者が住んでいた《

Kit's House")を

際だって対

照的にさせ

,そ

れ らを巻 き込 んで発展する多 くの出来事 を通 じて

,外

面だけで判断する人々の反応 を鮮やかに示 している といえよう。 第二の特色 は

,風

景描写の妙であろう。既 に説明 を加 えたが

,Troyの

町の正確 な描写 は

,い

たる ところに見 られ

,そ

のため現実か ら遊離 しかねない話の進展 に現実感 を添える働 きをし

,か

つ第一 の特色である人間の リア リテイを補強する働 きを持つ。 第二の特色 は

,異

質 な要素の導入 によって

,Troyの

町の本来の幸福感 を再認識 させた ことであろ

う。

TrOyの

町 は《beautiful little town"(p.28)であ り,ま《why,the very heart of the picturesque

is here.What mOre can you wantP"(p.28)で

あ り

,

またThis is one Of the loveliest spots I

have 100ked upon."(p.28)と

もいう幸福 に満ちた町であった。(Q'は

そこに根底か ら覆す要素 を 導入す ることによって

,町

の人々 は日常の幸福感 を厳 しく認識 し

,元

の幸福 な町に返 ることに無上 の喜びを感 じるのである。騒音 にか き乱 された後

,元

の静寂 に返 った世界 は

,同

じ静寂で も異 なっ た意味 を持つ。 こういう手法 を通 じて

,tQ'が

伝 えているもの は

,人

間の リア リテイ

,日

常的な幸福 の意味

,人

間 の暖か さ

,誠

実 さ

,汚

れなさであろう。羅列 してみればなん とも平凡で陳腐な ものであ り

,ま

た現

代の優れた小説にはあまり見られない要素でもある。なお現代における

(Q'の

小説の評価については

別な章で考えてみたい。

第三章

Q'の

批評 。研究等について

(Q'の 文芸批評 における活動 は驚 くべ きものがある と言えよう。学生にも説 き自らも誇 りにしてい た ものは

,デ

ィレッタン トとしての「批評眼」であ り

,そ

れを強力な武器 として数多 くの書物 の編 さん

,監

修の仕事 に励 んだ。19o8年か ら1912年にか けて

,彼

自身が選 び

,序

文 を付 けて33巻に も及 ぶ 膨″θチ

Dて

燃力

C施

ね を出版 した。 また1920年には

,有

名 な出版社

J.M.Dent社

の依頼 を受 け て

,同

社 よりT力ικゲη

gs`多

勿磁η奮 げ

L滋

紹蕨能 を彼が総監修者 とな り出版 した。 このシリー ズは彼の生存中に250巻も発行 されて

,子

供向けの文学 シ リーズ としては多大の好評 を博 した。高度

に学問的編集の仕事 としては

,J.D.Wilsonと

共編で出版 した7乃ι川勿 働%う方殆ιE湧ウ涜

o%sげ

肋ι レリカ

sげ

説 誘ιψια花 であろう。 これは1921年よ り1931年にかけて

Cambridge大

学出版局 よ り出版 された。(Q'は「序文

Jを

担当 し

,Wilsonが

本文校訂及 び注解 を担当 して きたが,く

Q'の

視力 悪化のため

,Wilsonが

単独で

,後

には数人の協力 を得て完成 した ものである。tQ'の序文 は次の作品

_aヵ

ι `形 婢 奮ち〕Fιηノ レ物盗 げ

N転

ぬοЪ `島 υο Gゼ

%滋

物ι

%げ

脆 陶ηら 〕イι体%兜 ヵ/Лイι終劣宅 Cοttιヵ げEγγ

O名

Lθクι

`Lα

うοttγ `Lο dち ノ〃クι力

4カ

αbθクサ肋 蒻 悠 〃法 物 吻 ιγ

N迫

`D%α

物 脆 πЙリガ げ 残ヮ蒻θ

84s]陶

クL力ι乳 駒%歩η

gげ

筋ιS力陀牲 4〃 そ,う,〃 例珍α歩

%ゐ フレ杉鬼 級秘″力諷螂

,4'7が

%″

/`駒

診―に及ぶ。 これ らは喜劇及びロマンス劇である。(Q'は本文校訂 に ついては心要以上 に言及せず

,共

編集者

Wilsonに

その仕事 を任せている。原典(SOurce)に ついて 詳 しく言及する ところもあるが,「シェィクスピァが 自分の 目的に合致するように改作 した という事

実を知 るだけで十分」(ltWe concern ourselves Only with the fact that Shakespeare took it tO convert it to his Own use.")26と

,そ

れ以上詮索 しない ことがQ'の 批評の特色 で もある。 しか し

歴史的視点 を毛嫌 いするわけではな く

,効

ι″

7肋

α%チ

9/脆

η″ιでは

,現

代の

Shylock観

,「

(16)

岡村俊明:The Cambridge English School 人観を詳 しく述べ

,現

代 のユダヤ人観 との著 しい相違 を歴史的に解明 している。 この シ リーズは好 評 を博 し

,特

に20世紀 シェイクスピア本文校訂学の先駆者的存在 となった

JD.Wilsonの

名声 を高 か らしめたが

,(Q'の

存在 も忘れてはな らない といえよう。 このシ リーズではく

Q'は

喜劇 。ロマンス劇のみを担当 したが

,Shakespeareの

悲劇・歴史劇 に関す る彼の研究 もある。(Q'は1918年に 該 滋鞍 α々

`レ

b力 物α%sカカ を出版 し

,そ

の中で,〕Fαあ♂励 ゃ 鳳躍 形チ論

rFa%?yrrrゃ

Falstaff論

,即

,喜

劇・歴史劇論 も書 いていた。 この研究書 でく

Q'が

特 に意識 したの は

,A.C.Bradleyの

S力αttψια陀

,%∽

(1904)で

はなか ろうか。tQ' は Bradleyを 褒 めたたえなが らも

,完

全 に同調 はで きなかった。なぜな ら

,Bradleyが

概 ね無視 し た もの

,即

,当

時の舞台

,観

客等 を〔

Q'は

あ りの まま再現 しようと試みているか らである。歴史学 派 といって も良いが

,

もちろん緩やかな意味のそれであ り

,ロ

マ ン主義批評 と画然 と一線 を引いた

歴史学批評家

E.E.Stoll(4カ

α勿″

4疵

ルι tt S力粉力をψια陀

,1933)ゃ Cambridgeの

同僚

E.M.W.

T11lyard(7物 ι

'力

αうガ協

%レ

b河″司θ励宅

1943)と

は異 なる。舞台

,観

,登

場人物等 について

の歴史的考察が行 き過 ぎるとぐ

Q'は

その作業 を中断 して しまう。最終的には,《 artist dies into his work and in that survives."28と ぃぅ態度である。「歴史学的」 と「審美的」の両者 に対す る(Q'の 間合いの取 り方が絶妙であると言 える。 1918年にS紡″ね 滋

L滋

紹滅 もtQ'は出版 してい る。 これ は '吻 ι 財″″

` C肱

Q Tttι

巳赦 う生弘 Rιク″″

,Tル

η物容

L滋

助″ ル物を妨 所収の論文や王立科学研究所

(The Royal

lnstitution of London)の 講演論文等を集めて一冊の研究書 としたものである。ここでは詩人論(Donne,

Herbert, Vaughan, Traherne, Crashaw, Meredith, Hardy, Coleridge, Arnold, Swinburne,

Reade),言

葉の定義 (《ClaSSiCal",《

Romantic")及

び英文学の特定 のテーマ (愛国主義等

)と

,じ

つに多岐 にわたっている。この研究書の特色の一つは(Q'の古典学の素養 を感 じさせ ることである。

Ц

The Commerce of Thought"の

論文では

,学

問の隆盛 を古代の交易ルー トとも関連 させ なが ら,

古代 ローマ時代 の歴史 。経済・ 思想・ 芸術 を多角的 に論 じているか らである。他 の特色 としては,

優れた形而上学詩人論が見 られることである。歴史 に残 る形而上学論 と言 えば

,H.J.C.Grierson

の 」Ohla Donneの テキス ト(1912年

)及

び ″笏砂妙

M能

′均 万ε

S

α%ブ Fbι

ttsげ

26肋

ι%″ι%減

働 η筋ヮ

(1921)及

び Griersonに 呼応 して書かれた To S.Eliotの 《

MetaphysicaI Poets"(1921)

であろう。Griersonは

,長

い年月顧 み られなかった形而上学詩人 の著作 を厳密 に本文校訂 をしたテ

キス トを出版 した ことで著名であ り,Eliotは形而上学詩人 の再評価 を劇的にな した ことで知 られて

いる。tQ'の論文 は

,Griersonゃ

Eliotほ ど劇的なインパ ク トを与 えはしなかったが,【

Q'の

形而上

学詩人 に対する関心及 びその出版 は1918年とい う早 い時期 だった ことに注 目しなければな らない。

Griersonの テキス ト出版 よ り後ではあるが

,M9拗

秒♂ゲια

J助

力θ

Sお

よび《A/1etaphysical Poets''の

発表 よ り早 い時期 なのである。形而上学詩人 は

Dryden,Pope,JohnsOn及

び C01eridgeに よって過

小評価 され

,そ

うい う低い評価が普通であった当時 において

,(Q'は

And truly he[Donne]Was a

great man; yes, and is one of the greatest figures in Enghsh literature . . ."29と 党Δrミ三τセゝる。

Donneに

対する〔

Q'の

評価 はどこにあるのか と言えば,その独特の リズムにたい してであった。それ

は英詩の「活気のないJ(《effete")30リ ズム と「ペ トラルカ的文体」(《Petrach in― English")31を う

ち破った といえる一 そ うく

Q'は

主張 した。当時 としては卓見 と言 うべ きではなか ろうか。 次に〔

Q'の

研究書の中で優れた ものをい くつか選 び詳 しく紹介 したい。 既述 した

'笏

S滋

と″ 紹励能 (1918)所収の論文 に 《Ballads"が あるが

,ま

ず これ を取 り上 げたい。

(17)

鳥取大学教育学部研 究報告 人文 。社会科学 第 39巻 第

1号 (1988) 29

Q'は

最初バ ラッ ド(ballads―歌謡)の作者 について考 える。集 まった大勢の人々がバ ラ ッ ドを作 っ たということは芸術の性格からして考 えがたい。その他大勢 という人々ではなく,吟遊詩人(《minstrels") が作 ったのではなかろうか。彼 らは町か ら町へ渡 り歩 き

,バ

ラッドを作 り

,そ

して歌 った職業詩人 だ とkQ'は考 えてい る。彼 らは弟子 を残 さなかった。なぜ なら

,印

刷術の普及のため

,そ

の職業 は衰 えて しまったか らである。では

,300年

も前のバ ラッ ドがなぜ現在 も残 っているのだろ うか。それに たい して

,(Q'は

Whence in the worid would anyone expect tO recover them[ballads], Save frOn

descendants of those simple f01kヵ

/Whom they were written and from whom they have

been trans■littedP32

と反問 し,事実上 それに答 えている。そ してバ ラッ ドの作者 を問題 とす るよ り,「人々のために」(《for

the people")書かれたバ ラッ ドの特質 にこそ注 目しなければな らない。その特質 を強調す るものは

,

逆説的だが,「個人的 な特色 を忌避す る」(《avoidance of the self consciOus personal touch")33と

いうバ ラッ ドの基調である,と く

Q'は

考 えている。だか ら優れたバ ラッドは作者不詳

,没

個性 となる

のである。 そ して伝達性 と没個性の関係 について〔

Q'は

次のように述べている。

. it is not only that the mOre a banad suffers wear and change the mOre it remains the same thing:it is that the rnOre it wears,the rnOre it takes that paradoxically sharp impress,

the ilnpress of iコnpersonality.34

もう一つの特色 は「動 きの異常な までの速 さ」(《eXtraOrdinary rapidity of mOvement")35で ぁ

る。例 えば《Sir Patrick Spens"で は

,

とく

Q'は

考 えている

,Dunfermlineの

風景か ら始 まって

,ノ

ールウエイエ及 びその宮廷の描写 と次々 と場面が移 って行 く。 このような速い転換が一つの様式に

までなっている,と (Q'は述べている。ある語 りか ら別 な語 りへのギャップをこうい う転換で埋 めて

いる。

もう一つのバ ラッドの特色 として,ぐ

Q'は

「四つの線」を主張 した。地図上の二 つの線及 び制作年

代の二つの線 の ことである。前者の線 は Newcastle On―

Tyneか

らSt Bee's Headの 線。有名 なバ

ラッドのほ とん どはこの地域で作 られている。特 に戦のバ ラッド(例えば

,0ル

物 うク物

,効

0笏

路 κ励%ο妨 肱泌乞Fr9ろう″ハリぅ協 ヵ物力 駒 ルγ励 肋σ脆 ″Dο励 紐″

)の

ほとん どすべては

England

とScotlandの 国境近 くで作 られている。しか し最上級のバ ラッドの題材 は戦争ではな く,ま た制作 地域 は二つの川

(Tweed川

とTeviotナ││)の上流近辺で作 られた ものである。次 に二 つの制作年代 上の線 とは1350年 と1550年のことである。 この時期 にバ ラッドは生 まれ

,栄

,そ

して衰退 した。 しか し

Wyatt,Surrey,Lylyの

時代 になると

,新

しい個性的な詩が流行 し

,バ

ラ ッ ドの没個性 を駆 逐 した といえよう。ェ リザベス朝では次のようなバ ラッドの改作が流行 した。次 に引用す るのは元 のバ ラッ ドである。 く

As ye came frOnl the h01y land

Of Walsingham,

(18)

岡村俊明:The Camb dge English School

By the way as you came?'

tIIow shan l know your true love,

That have met lltany a one

As l came froni the holy land,

That have come,that have goneP'

(She is neither、vhite nor brown, But as the heavens fair; There is none hath her from divine,

In the earth or the airデ

これ が次 の よ うに改作 され る。

Know that Love is a careless child, And forgets promise past; He is blind,he is deaf when he list,

And in faith never fast,

His desire is a dureless content And a trustless ioy;

He is won with a world of despair

And is lost with a toy

But true love is a durable fire ln the mind ever burning,

Never sick,never old,never dead,

Frorn itself never burning.36

これ にた い してく

Q'は

,

You see how far we are getting from the simplicity of the first stanzasP But worse,far

worse, is to come.37

と述べている。改作 に際 して

,道

徳 と洗練性が前面 に出て きて

,バ

ラッドの生命た る純朴性 を損ね

ているのである。 このバ ラッ ド論 を〔

Q'は

次の ように締 め くくっている。

参照

Outline

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