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保険契約と19世紀ドイツ私法学史-香川大学学術情報リポジトリ

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保険契約と19世紀ドイツ私法学史

岩 Ⅰい はじめに。ⅠⅠり保険契約法学説史と保険史の関連。III19世■紀以前の ドイツ保険立法一時にALR。ⅠⅤ.19世紀前半のドイツ保険立.法−一件 にCode civilとABGB。Ⅴ・ADHGBかe,BGBまで。VI・パンデクテ 的保険契約観。(i)Windscheidの保険契約=射倖契約論。(ii)その系譜。 (iii)Gluckの保険契約論。(iv)19世紀前半迄の保険契約モデル。ⅤⅠⅠ−保 険契約=射倖契約観の成立。(i)賭博保険とMalssの被保険利益論。(ii) 射倖契約概念の範疇化と普通法学。Ⅴ王甘「ドイツ私法」による保険契約 ・射停契約論の展開。(i)Eichhom,Rundeの説明。(ii)Wilda,Bese・ 1eIらによる保険の射倖契約性否認。(iii)ロマニストの保険契約=射倖 契約論維持。(iv)ギ−ルケ虹おける射停契約論の余韻。ⅠⅩ一19世紀後 半の生保論争による本質論深化。(i)Staudinger紅よる生保本賀論争開 始と損害保険説の推移。(ii)Endemannの損保定額保険説。(iii)貯蓄性 注目とTh61の射停的消費貸借(生保非保険)説。Ⅹ相互保険関係の管 見。ⅩⅠ‖ おわりに。 Ⅰ 私ほ.相互保険研究の過程で,従来の保険起源論の中でも時に「相互保険ゲル マン起源説」紅顔問を抱いた。それは同時に保険法の基礎理論としての「保険 団体論」に.対する疑問とつながるものであった。このためドイツ保険史研究に. 関心を抱き,その一つとして文献収集の未完了に因り発表が遅れているが, 「17・18世紀ドイツ保険思想史」(保険学雑誌収載予定)に取凍み,その後も 同じ志向紅よる研究を進めてきた。保険学プロパ・−・の分野では既に保険学的ド イツチ・エ・イデオロギ・「退治がかなり進行しているが,保険法学ほ,商法学−・ 般にと同様に,その科学性確立匿まず科学的学説史研究を必要とする段階であ

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保険契約と19世紀ドイツ私法学史 ■・■・・J39一▲ り,そ・のためにほ従来の法制史学と異賀な私法史学の成果・方法を保険法学に も具体化させねばならない。この間題意識から生れた連作の1が本稿である。 すなわち19世紀末迄のドイツ保険法学史における最中心論争点紅焦点を合せ た保険本質論であり,その故紅対象め囁囲のみならず視角も限られている。時 代区分からすれぼ「ドイツ保険法学の父」ェ−レ∵/ベルクを除外するのは重大 た欠映というべきだが,その意義からして,彼の学説を独立して扱う後稿に 萎れ 本稿でほ敢えて省略する。 Ⅱ 私法的保険関係の正しい概念規定について多数の基本的にも細部的にも相対

ドイツ保険法における私法史学的方法を意識した研究者ほ,法史学老を欝−・我とする西

独保険学会副会長WilhelEbel(ゲッチンゲン大教授)であり,保険法基礎理論の史的叙 述において■私の問題意識に応えるドイツの少くとも最近の唯一・の労作は,彼の”Gl批ksve rtragund VeISicherung“Zur GeschichtederrechtstheoIischen Erfassung desVeIS・

icherungsveIh去Itnisses,in:ZVermss,1962,Bd.51,S.70ff.であった。彼の保険制

虎視を示す労作は,Das Versicherungswesen alsgeistesgeschichtliche Erscheinung, in:■折針.SAグ・cカ,1959,Bdり48,§277ff.である。本稿ほエペルに教えられ所大であった。

ただしエペルの1962年論文の究局目的は,そのことを明示していないけれども,ViktoI

Weidner,Zur Problematik Privater und6ffentlicherDaseinsvorsorge,in:ZVers Ⅳ≠s.s.1961,Bd.50,S141の論旨に対する批判であった。グワイトナァ論文(未完)は, DaseinsvoISO【ge概念の沿革およびその民法理論への導入過程について啓示される所大で あるが,、97貢の大論文ながら,文化人類学的方法によって,Daseinsvorsoge概念であら ゆる社会制度を統一・体系化しようとした「偉大な愚作」であり,イエリソグ「法における 目的」の生物学的・機械論的主張の現代的再生といえる0モペル論文は間接ながら峻げん

に,DaseinsvorsorgeとDaseirlSfiirsorgeの混合を戒め,私保険制度と社会保障を手軽

統一把握することに猛反対し,市民社会の自己賓任原則実現機構としての私保険契約を毘

讃する。このグワイトナーをそれと名指さずに猛非難する箇所を結論としたいために,Ebel はこの大論文を書いた感さえする。この感覚とこのドイツ人らしい手口からみてエペルほ 徹底したか−ルド・リベラストのゲッチンゲン人らしい。グワイトナ」一についてほ「保険 業法の理論−1(生保文化研究所報収蔵予定)で論じよう9

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J96β 香川大学経済学部 研究年報 3 −九昭一 立した見解が存在するり。このことほ周知の事実であるが,ドイツ法ではそれ が特に著しい2)。そこでの基本対立点の1は,あらゆる保険部門を含んだ統一・ 定義が・−・般に可能であるか否か,である3)。特に損害保険・人保険統一−−・定義否 定論ほ,わが商法629・673条,ドイツ1908年5月3日保険契約法(ⅤVG)1 条4)によって,支持されているかのようであるS)。しかし今日一■・般に認められ るように,法的定義がそれぞれの法律の技術目的・適用領域を超えた基準的作 用もしくは学問的拘束性を帯びる,ということを認めるにせよ,上記法条の定 義規定・そのものが法的定義といえるかまた普遍的妥当性ある定義といえるか ほ,なお問題として残る6)。この点の解明に最も役立つのほ,保険契約法制定 迄のドイツ法に.おける保険概念学説史である。 保険契約法と・−・般市民法たる債権法の関係紅も,同一見地からの考察が望ま れる7)。しかし現実には,フランス法を除けぼ,保険法学から債権法一一・般理論 への接近はあっても,民法理論からの保険契約理論接近は稀である8)。民法の 債権各論における法典型はここでもな.お驚くべき影響力を民法教科書の素材限 定に二及ぼしている。それ故に,保険契約法理の成立過程において,往時の私法 1)参照,大森,『保険賂藍!,昭和32年,33ぺL−・ジ以下。同.『保険契約の法的構造j,昭和 27年,第1−5,8葦。 2)Vglh Briick・M81ler,Komm.z.VVG.,8t Aufl.,Anmr2,44u・45zu§1. 3)エ−レンベルクの統一・定義不能説麿ついてほ,参只軋 小島昌太郎,『保険本質論』, 大正14年,182ぺ−・ジ。 4)§1VVG(保険契約の内容):「(1項)損害保険においては保険者が,保険事故発 生後,保険契約者に,それ紅因って生じた財産税害を契約の基準紅従って支払う義務を 負う。生命保険および傷害保険ならびに他の種類の人保険に・おいては,保険者が保険事 故発生後,約定金額の−・時金もしくほ定期金を支払うか,もしくほその他約定の給付を 行う義務を負う。 (第2項)保険契約者ほ約定した保険契約を払込まねはならない。相互保険企業に.お いて払込む拠出金(Beitr畠ge)も本法にいう保険料(Pr云mie)とみなされる」。 5)松本蒸治,『保険法』,大正4年,20ぺ−・ジ。 6)石井照久,転■商法朋召和28年,19ぺ一一汐。 7)Wい Ebel,aa小0.,S・54. 8)たとえば,於保不二雄,用i桁総論』,昭和34年,24−25ぺ・−ジ。

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保険契約と19世紀ドイツ私法学史 ーJ4ユー 学説がどのように.寄与したか,この学説史的反省ほ今日も示唆疎いものがあ ろう9)。 現在の時点で保険史の基調は既知のこととされ,その二つの根が通常論じら れる10)。それほ「ダルマソ的ギルドの規約による危険共同化と定額保険料と交 換の投機的危険引翠」1りである。後者の概念的・歴史的原型ほ海上保険であ り,ユ4世紀このかた地中海沿岸に出現した。相互扶助的ギルドは貨幣経済現象 とともに.苦から存在した。 この点について今日の史的説明にほ次の2点が確認される。 保険制度の端緒をなるべく古く遡らせようとする試みは,今日なおかなりの 保険教科書に継承され、ローマの海上貸借・冒険貸借(foenus nauticum; pecunia trajectitia)が海上保険の原形式とみなされる12)。しかし,後述する とおり,19世紀ロマエステンは海上貸借と保険をはっきり根本的紅区別した。 当時,ロー・マ時代の世俗著作家−−リグィクス,ス・ェ・トンおよびキケローーか ら13),海の危険に対する保険がロ−・マ人の許で独立の取引として存在したこと を示唆するとみられる箇所が,探し求められた−4)。ローマにおいて海上貸借と 別箇に海上保険の存在したことを最初に主張したのは,フーゴ・グロチ・クス15) 9)この学説研究自体を目的とするのでないが,その検討の精緻さ故に,こ.の問題にお いても示唆豊かなのは.,大森,『構造』;同『統・構造』,昭和31年1,4茸。 10)その最近の代表例ほ,WeIne工MallI,戯咋/滋ゐγ〟粥g≠〝成一βⅤ♂㌢流血椚用郎Ⅷγgく‘毎/才, Berlin1951,SS.39q66.その批判ほ,参照,水島一也,『近代保険論』,昭和36年, 第1部序説,3−10ペー汐。同,「近代保険の系譜と歴史的性格」,『加藤記念保険学論 集皿 昭和32年,221ぺ−汐以下。 11)OlV.Gierke,Deuisches Privairechi,BdりⅢ,Leipzig1917,S・795. 12)この説の当否およびこれらの制度の海上保険への移行紅ついて−の検討は,Vgl・Mab王■, α.αい0.,S.48ff 13)Livius.Iibハ23c44;Iib・25c3JSuetonIib.5c18;Ciceroeplad fam・Ⅱ17り 14)これらの内容とその解釈把/ついて一は,Cf.C..F.Trennerry,The OriginandEarly Histor.yqf’znsuranceincludingiheConiractqf−Bottomr.y,London1926,pp・108− 124;Endemann,後出,SL298ff.;Gliick,S。201ff一;加藤由作訳『レアツ欧洲海上保 険法史』,昭和19年,80−98ページ。 15)GIOtius,かβブ〟γgみβJJ壷■飢㌧如戒ざ,Paris1625,Iib・Ⅱc12・・一・又正雄訳,欝2巻532 ぺ−ジ琵34(昭和25年)。

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香川大学経済学部 研究年報 3 ⊥963 ーJ42−− であり,サムエル・プープエンドルフがその説を継承した16)。しかし・そ・の後の 本格的な研究が上記キケロらからの引用箇所を綿密に検討した結果,この問題 ほ1800年頃既に解決ずみとみなしてよい17)。16世紀に成立したassecuI・atioな いしassecurantiaの語を知らないロ・−マ人が保険契約の概念を知らなかった ことは確実とみなされざるをえない18)。 第2に.,保険史にゲルマン的・中世的扶助ギルドを引入れることは,拒否さ れねはならない19)。エーペルも,このゲルマン的相互扶助機構が,その構成員 に訴求可能な権利として給付請求権を与えた時にのみ,其の保険施設といえ る,という見解である20)。しかし中世における大多数のギルド,教団,抗夫組 合にさような権利請求権は存在しなかった。そもそも,躍災者や被害者に主体 的権利を認める考え方はゲルマン・中世法の基本極道に・矛盾する。病気の職 人,焼け出された村人に与えられた救援ほ封建共同体構成員の血縁擬制的救助 義務の反別効にすぎなかった。この法的思考形式ほ近代になって始めて変っ た。まず,1591年以降醸造業者100名毎のいわゆるハムブルク火災組合(Feu−

erkontrakte)l−1676年大火後合同してGeneralfeuerkasseキなったpが

其の相互保険施設である。そして古いレーユレスゲィヒ・ホルスタインの諸火災 ギルドもjl),近代になって始めて真の保険性を体得した。 さらにここで注意すべき点は,19世紀末迄の法文献がこの古い仲間的ギルド に殆ど注意しておらず,従ってその法的性格峰当時の保険関係の定義確立にお いて顧りみられなかった,ことである。18世紀の諸保険的金庫に関する当時の 文献内容は本質的にカメラリスト的性格を帯び2∠),カメラリスト的企画とその

16)Pu董endorf,De如e haturae eigentium,Amsterdam1688lなお前掲拙稿(保険 学雑誌掲赦予定)参照。 17)Gluck,後出,S215,237ffこ.れに反するトレネニイの説は誤ちである。 18)この2語を専門苔で初めて用いたのは,PetrusSanterna,TractldealSSeCuraiion− ibus,Venetis1584l 19)水島,前掲苔,第7茸2,126ぺ−ジ以下参照。

20)Ebel,DieHamburgerFeuerkontrakie,Weimar1936,S40if・

21)HelmeI,か≠βC♂5Cカicゐ′βdβ′Pγよγ’α′e〝ダβ〟♂′’机汁ィS云cカβ′’〟〝g∠乃dβ花肋㌢g〃g′沼βγ〝

Schle.swig und Holsiein,2Bde.,Berlin1925′26. 22)掛稿「1‘7・18世紀ド保険思想史_L㌢保険学難点丑褐磯予定。

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保険契約と19世紀ドイツ私法学史 一一ユ17.?・一一− 批判から成って.いる。始めてギルドと諸団体を保険史に引き入れたのは純歴史 的研究であるが,そのさい前近代法的な扶助ギルドと真の保険との区別が無視 された。もちろん,その代表はオ・ットォ・フォン・ギ−ルケの多様なドイツ団 体法史であり23〉,ただ彼ほこれらギルドを彼の団体理論の根継ぎに利用したに すぎず,保険史的関心から採り上げたのでほなかった24)。当時の現行法に合せ た19世紀法文献ほ殆ど新い、近代的大企業の相互会社のみを対象とし,その典

型は1827年ゴ・一夕にCarlWilhelm Arnoldiが設立したLebensversicherung−

sbank胸タかβ〝ねC肋乃dであるが,単純な賦課方式の村落埋葬組織よりも英国 の先駆老に.倣った近代保険企業として,団体思想に結びつけられた。だが,周 知のように,他国同様,18・19世紀のドイツ法学がその保険関係モデルをもっ ぱら定額保険料方式の営利保険かつその中でも海上保険から採った,という事 実ほ学説・立法の形式に影準を及ぼさずにほおかなかった。 1Ⅱ しかしまず,立法者によって与えられた概念規定が学説に決定的影響な及ば すと−−・般に認められる故,保険関係をめぐる古いドイツ諸立法を−べつしよ う。18世紀末迄ほ海上保険しか法規制の対象紅なっていないから,この点の材 料はごく少い。海上保険の規準的規制の核心は,周知のように,バルセロナー (1435年),フロレンツ(1523年),ミタ,‡ノア(1610年),グー工ニス,スぺイン(15 63年と1787年)など,各地の不完全な保険法に発し,アントワ−プ(1593年), アムステルダム(1598年),ミツデルプルク(1600年),ロッテルダム(1604年) の保険条令,ルイ14世の有名な1681年海事条令,スエ・−デンの1677年海法およ び1750年保険条令,デンマ・−クの1683年法へ移り,それがドイツに入って1731 年ハムプルク保険・共同海抜条令(リユ−ペックでも適用,但し,プレ・−メソほ オランダ法を基準とした)および1727年プロイセン公国海法となり,プロイセ ンでは1766年保険・共同海鼠条令がプロイセン君主制傘下全体に拡張された。 23)0”Gierke,Da.sdeutscheGenossenschajisrecht,Bd”1,BeI・1in1868,S.1049 ff 24)しかしギ−ルケの相互保険会社法論の秀れた分析に関する評価としてほ,参照,喜 多川燭典,「社団法人性の再検討」,[’法協叩0巻250ページ以下。

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J96β 香川大学経済学部 研究年報 3 ,■・・・−ノー上トー しかしこれら規制のすべてが全く教説的拘水なしに実務から導出され,商人 が正当・適正とみなした慣習紅則って形成された。そして他の保険分野∬18 00年頃火災保険は.既に少からぬ存在ぶりを示していた25)−ほ,殆んどのドイ ツ諸国で−・般的法規制なしに,個個の保険組合の州法上制定ないし許可された 条例・規約・定款・取引約款における規制を受けたに.すぎなかった。 最初の全法体系把.またがる立法者の保険契約本質観は1792∼94年プロイセン ーー般国法(ALR)に示された。このドイツ法史上最宏大な立法成果ほ大体に おいて枢密最高法官カルル・ゴットリ−プ・スアレツの作品であった26)。 この強力な作品は,手続法を除いて,プロイセン君主制の公法・私法全部を 含んでいたが,保険契約もその節1部第11章節6節紅「射倖取引と不確実な期

待.」(VongewagtenGesch去ftenund ungewissenErwartungen)の標題の

 ̄F■に原理的・体系的に.扱われていた。この節にほ富我,賭博,将来物売買,隠

居分および終身定期金契約(Lotterie,SpielundWette,Verkauf Kunftiger

Sachen,AltenteilundLeibrentenvertrag)が列記され,そして保険契約も,

原則上そこに属せしめられるが故に,少くとも1条(§546)でそこに掲げる が,その他の点では商人法(第2部8章)に要されている。 射伴取引については−・般定義があり(§527),「或物もしくは或定価が, 将来の未だ不確実な利益の希望とひきか.え.にもしくほ,事物の自然・通常の経 過後に期待されるが但しそれ自体ほまだ未定な将来利益の譲渡とひきかえに, 約束ないし供与される取決め,これを賭博契約という」(Verabredungen,

nach welchen eine gewisse Sache oder ein bestimmter Preis,gegen die

HoffnungeineskiinftigennochungewissenVorteilsodergegendietlber−

1assungkunftiger Vorteile,die nach demnaturlichen und gew6hnlichen

Laufe der Dinge zwarzuerwarten,aber an sich noch unbestimmt sind,

versprochen oder gegeben wird,heissen gewagte VertI阜ge)。

しかし第2部第8章節13節I叫保険」(1934∼2358条)ほ425ケ条にわたって 詳細な規定を設けた。

25)水島,前掲苔,第1茸,11・一26ぺ・−ジ参照。

26)プロイセンALRの意義およびスアレツについては,石部雅亮助教授の一過の秀れ た労作(F市大繹溺滞ほ即,㌻ノ法制史研究詰 所収)を参照のこと。

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保険契約と19世紀ドイツ私法学史 −・ヱ4β−

この節ではやはりまず保険の定義がある(§1934)。すなわち,「請合もしく ほ.保険に_おいては保険者が,−一定の料金もしくは保険料の受取とひきかえに, −・定危険から付保物に生じる損害の補償を,引受ける」(Beieiner Versiche−

rung oderAssekuranzubernimmtderVersicherer,gegenErhaltung einer

gewissen Abgabe oder P工畠mie,die Vergiitung des auseinerbestimmten

Gefahr die versicherte Sache treffenden Schadens.)。この意味からみて,

損害保険のみが,しかも−・・・一同節のその他諸規定の内容が大部分を1766年保険 命より採っていることから明日なように予−−−海上保険を典型・主例として規定 されて−いるらしい。 しかしながら,「適法な契約の対象たりうる一・切のものについて」(也be工’

alles,WaSder・GegenstandeinesrechtsgiiltigenVertragesseynkann)保

険契約を締結できる」(§1952)。また「自己の保険者の支払能力を付保するこ

とが許される.」(esist erlaubt,iiber die Zahlungstathigkeit seines Versi−

cherers Versicherung zu nehmen)(§2011)。

そして海上保険および「相応に考慮された火災保険」(diegebiihrendberiic− ksichtigtenFeuerversicherung)と並ノレで,当時ドイツで殆ど実用がなかった だけに驚くべきことだが,生命保険も掲げられている。 (§1968:「なにび とも自己の生命を付保させうる」)。さら紅,今日でほ史的興味しかない自由保 険も規定されていた(§1975:「人間の自由も,海上危険・りレコ人危険, パルバリ人海賊,敵の舎揃ないし捕虜状態に対して,付保されうる」)。26′) こうしたことから直ちに問題となるのほ,プロイセソ・一・般国法が生命保険を 損害保険とみなしていたか否か,である。だが法体系的組立の問題としてみる かぎり,まず立法者の解答が用意されている。すなわち,保険契約は賭博的取

引(gewagtesGeschaft)であり,射伴契約(aleatorischer oder Gltick−

svertrag)であり27),損害補償をめざした債権法上の交換契約である。保険 関係の有効な規制を商人法の部に委ねているにせよ,体系的にはこの射伴契約 が一・般つまり市民債務法に所属することは第1部第11茸546条によって確保さ れていた。 26′)参照,拙柄「保険法史における奴隷」,『■損保事兼研究.8収載予定。 27)保険契約の射倖契約性について−ほ,参照,大森∴澗擢細野4串,122−168ぺ一一汐。

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−−ヱ46− 香川大学経済学部 研究年報 3 J96β IV したがってその後1世紀を通じて各立法者の問題となったのほ,この新た に瀞えでた制度の増殖をめぐって,保険契約が商人の特別法−−実際上は海法 一に属させるかそれとも市民債務法の伝統的カタログに属させるか,であっ た。この答は国により区区であった。 1804年フランス民法ほドイツでもBGB制定迄ライン左岸の大半においてま た1809年以降バーーデン大公国のバ・−デン国法として通用したが,フランス民法 ほ第3部第19節で射倖契約を取扱い,算1964条で次のように規定する。「射伴 契約とほ,その得失からみた効果が全当事者もしくは,その中の−\人以上にと っ不確実な出来事によって決められる双方的約定,をいう。さようなものは, 保険契約,冒険貸借,賭博,終身定期金契約,である。前2者は海抜の規定に・ 従う」上8)。 民法典で詳細に規定されたのは賭博・終身定期金契約のみで,保険契約その ものほ全く定率されず,ただ射倖契紆リスト仕上げのため紅掲げられたにすぎ ない。 これ紅対し,1811年オースりアー・般民法典(ノABGB)起草者は.おずおず ながら−・歩進んでいる29J。立法委員会の強力な指導者フランツ・フォン・ゲイ ラ」−は,実際には海上保険がか−ストリイ帝国で行われている(トリエステ 港!)唯一・の保険部門であることを知っていたしまたその故に保険契約を全て 海法に委ねようと欲した30)。しかし実際に海法へ委されたのは海上保険(VeI−… sicherung zur See)だけであった(§1922)。保険関係一■般の簡単な原則規 定が4ケ条(§§1288−1291)におかれたが,これらの規定はその当時の実態

28)この規定により,フランス法学ほ今も陸上保険を民法の分野とし,海上保険を商法 の分野とする。そして個u保険契約を民法の契約各論で扱う態度を貫き,民法教科苔・

法令集もそのシステムに・よっている。

29)ABGBの立法精神とザイラーについてほ,VglFIanZ VOn Zeiller,Grunds畠tze deI Gesetzgebung,1806/9(Deut・SChes Reehtsdenken,He董t6,Fa M,194845S) 30)AlbeI・tEhrenzweig,Deutsches(∂sieYY’eichiSChelS)VersicheY・ungSVeYItra9SreChi,Wi・

en1952,S,8;MaxLeimde)rfer,OsterreichischeVersicherungs−GesetzentwiiIfe aus

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保険奥繭と19也紀ドイツ私法学史 −…力7l

に基く素材すら認識していなかった。

ABGBほこれら規定を第2部第29茸「射倖契約について」に収めた。射伴

契約そのものの定義ほ同法算1267条にあり,「未だ不確実な利益の希望を約束

しかつ引受ける」(die Hoffnung eines noch ungewissenVortheilsverspr−

ochenund angenommemwird)契約とされる。この契約ほ反対給付の約定

の有無紅より有偵契約と細債契約に・分けられ,そして射伴契約軋属するものと して次のものが列挙される(§1296)。すなわち「賭事・博突・富我(dieWe−

tte,dasSpielunddasLoos)。所期の諸権利(gehoffte Rechte)もしくほ将

来の未だ不確実な物について締結されたあらゆる売買およびその他諸の契約。

終身定期金,共同扶養施設(gese11schaftlichenVersorgungsanstalten)0最

後に保険・冒険貸借契約(die Versicherungs−−−undBodmereivertrage).」。

ABGBでも,明かK,プロイセンALRに倣って共同扶養施設は射伴的企菜

とされながら,保険関係の当事者とはみなされなかった。プロイセンALR第1 部11茸は第652条で共同の寡婦・埋葬・婚資金庫について規定し,これら施設 の設立には君主の認許を要すること,および「利害関係人」(Interessenten) の権利・義務は国の認可を得た計画書に・従って判定さるべきこと,として

いた31)。オ・−ストリイABGB第1287条によれば,共同扶養施設にあって

は,「拠金によって:(vermittelst einer Einlage)成員,その配偶者ないし

遺児のため共同扶養基金(eingemeinschaftlicher VerIsOrgungSfonds)を設

定する」契約が存し,かつこの契約ほ「かかる施設の性質・目的によってまた

その施設について確定された規約によって判定されるものとする」0

他方,本来の保険契約が存在するのは,「なに人でも,他人にその者の過失

なくして(ohne dessen Verschulden)生じうべき損害の危険を,引受け,

そしてその他人に一・定価格とひきかえに.約定の填補給付(denbedungenen Ersatz zuleisten)を約束する場合である。そのさい保険者は偶然的損害の 葺を負いまた付保者ほ約定した価格の貴を負う」(§1288)。このいぜん海上 保険だけな1]安とした定義の拙劣さが,Hにつく。無過失の事故に限定したこ とほオ・−ストリイの保険に後に多大の不安をもたらすことになっが2)。 31)その認許に関してほ1833年9月29日内閣令がある。 32)VglMLeimd6rfeI,aa O

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香川大学経済学部 研究年報 3 J9∂β −j4β− ABGB立法者の保険契約モデルは次の規定紅もみられる。「この契約の通 常の対象ほ,水上ないし陸上運送(verfiihret)される貨物(Waaren)であ る。しかし他の物も,例えば家屋・土地,火災・水害およびその他の危険に対 して付保できる」(§1289)。生命保険に対する疑惑は明らかであった。

草案審議録によれば,この保険が「自殺を唆か..J(zum Selbstmord ein− 1aden)しかねない故紅,生命保険への関心が望まれなかったから,生命保険は ABGB上無視された8S〉。その故紅(生命保険を許容する明文の根拠はか・−ス

トリイ法上1917年保険契約法制定迄なかった),ヨ・−・ロブパ僻遠の停滞的警察 国家か−・ストリイの1820年代に始まる保険企米は34),生命保険の許容性をAB

GB第1289条の「その他の物をその他の危険に対し」(andere Sachen gegen

ander・e GefabI・en)という文言から読み・とろうと試みた35)。 概してABGB起草者紅はそもそも保険契約を締結するということ自体がき わめて異例と思われたから$8),彼らは,保険契約が「あらゆる契約の中でもは るか至極稀に.しか締結されない」だろう故に,保険契約のために特別な形式規 定を設ける迄もないと信じた即)。 叙上3ケの初期近代法典編茶事共において共通な特長ほ,市民社会における 保険制度の意義が全く感知されない垂農主義的雰囲気の裡で,保険契約を一・般 市民法常体系的に組入れ,その組入のための技術として属概念「射伴契斉軋Jが 用いられた,ことである。 Ⅴ ウイン会議の落し子たるドイツ同盟は,立.法権力をもたなかったが,1861年 33)VglA.Ehrenzweig,aa0小 34)参照,斉藤利三郎,『保険理論の研究J,昭和29年,I「へルマン保険理論の批判的考 察_j 8ぺ−ジ以下。 35)Vgl−Leimd∂Ⅰfe工,a乱0 36)VglLEhIenZWeig,αnαl0・・ 37)オ−ストリイ保険法学の特色たる普遍保険取引約款論の発達ほこれに】_tT来する。

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保険契約と1紬妃ドイツ私法学史 一ノイ9−

普通ドイツ商法典(ADHGB)創出紅漕ぎつが8),ADHGBは当時の同盟

加入国家にそれぞれ同内容の国法として導入された。その起草に当ったニ.ユ.」− ルソベルク第一/回全独法曹大会の指導者はグッチ∵/ゲンの商法学者で生粋のリ ユ1−ペック人Heinrich Tht)1であった39)。しかしADHGBもー−またそれを 1896年ドイツ民法典(BGB)に順応させた今日なお現行の1897年ライヒ商法 典(HGB)もー海上保険のみを収めた。あるゆる種類の保険に及ぼされる ・−・般原則の採用は,その趣旨の提案があったけれども,雑多な殆どは表面的な 理由によって却けられた。そのさい。プロイセンALRを別としても,手本に ほ全く不自由しなかった。既に1839−40年にグユ.ルテムベルク王国商法典草案 (A出.428−−535)は,オランダ商法典の先例に倣って,全ゆる種類の保険を 扱っていたし,1855年チュ−リブヒ県私法典も「保険契約についで」の」−・節で 56ケ条にわたり全ての保険を扱っていた。しかも,なかんずく1857年プロイセ ン諸国商法典草案ほ,約300ケ条にわたり海上保険を規定し,かつ約60ケ条で その他の諸保険を規定した。そしてこの秀れた専案の理由書が強調するとお り,「保険制皮が海商の限界をはるかに.超えて−拡がりそして独立の包括的商業 部門と成りきった今では.,もはや,嘗てよく行われたような,海上保険のみを 規制し,かつその他の種類の保険をむしろつけたり的に,海上保険の類推に.よ って扱うべき事例としで言及するかもしくは単に当事者(Interessenten)の 約定紅委ねることで,甘んじてはいられない。保険制度の現状はむしろ,保険 なる法制度を−・般的なものとしてかつ海上保険を1亜種として把握すること, を必然たらしめている40)」。

ADHGBの保険制皮把握断念に影響されて,1860年バイエルン王国民法典

草案ほ保険契約に関する1節を設け,30ケ条にわたって−・般的規定をおいた が,個別的規制迄紅は至らなかった。之に反し,実瞭に法律として成立した 38)本章に扱うドイツ法統一題動史については,Vgl‖HConrad,I)er De11tSCheJuris・ tentag1860−1960,in:100Jahre Deutscheg Rechtsleben(FestSChYiJiDeutscher

/〝㌢≠・gJ♂〝′αg1860−1960),Ⅹa工】sruhe]960小,SSト36(】4−24)牒彊.ドレスタン草案に

ついてほ,Vgl小JIW‖Hedemann,Der DYeSdeneY EntwuYj wn18g6

39)象乳服弥栄三「トエールの商法論紅ついて」, 『■田中誹選管記念論集』,昭和27年 119ぺ−ジ以下

(13)

香川大学経済学部 桝先年報 3 ノウ(;ごi ーJ50−− 1863年ザクセン民法典ほ再び伝統的ロマニスト的債権関係カタログ掲記に逆戻 りし,保険契約を考慮することを全く断念した41)。 しかしこ.の点について.−は,法統−・問題に関するドイツ同盟最後の寄与といえ るドイツ同盟解消の前日に完成をみた,1866年ドレスデン「ドイツ同盟国宏一−・ 般債権関係法案」をADHGBと比較する要がある42)。このいわゆるドレスデ ン法案は,第2部第6課「射伴契約に・基く債権関係」(Schuldverh畠Itnisse aus gewagten vertragen)に.おいて,射倖契約の−一・般定義をしないままで,博突 ・富識・賭事・終身定期金契約・扶養契約・寡婦所得産(Leibgedinge)の後 に,保険契約一・般も28ケ条払わたって扱われていた。そこにおける保険契約の 定義規定は第894条にあり,すなわち,保険契約により【−契約締結者ほ,約定 価格(保険料)支払とひきかえに,自分の利益を付保した者に…一・定の出 来事が発生した場合に,この出来事によって付保者紅生じた財産法的不利益の

填補(Ersatz)給付もしくは予定額支払(einein Voraus bestimmte Summe

zu zahlen)を,義務づけられる」。再保険もこれに属すると明定され(Art. 920),生命保険も同様であるが,生命保険ではさら紅,古い債務者保険がもう ・一度出現してくる。すなわち,保険金額ほ自由判断によって決定されうる。 「だが債権者が自己の債権によりその債務者の死亡保険をつけるばあい,保険 金額ほこの債権額を超過してはならない」。 この発展経過の後に当然期待されるのほ,1891年ビスマルク帝国に‥私法分野 の法統−せもたらしたドイツ帝国民法典(BGB)起草者が,ドレスデγ草案 (起草者Ⅴ.K也belは既に死亡)を債権法の土台とみなして,同草案の建前を引 継ぐことであった。しかし,ドレスデン草案に含まれかつ今日では■−・般債権法

に属する出版契約(VerlagsveItrag)がBGBに.黙殺されたと同様,保険契

約もBGBに相応の地位を占めなかった。BGB起草者は両契約型をラント法

に留保することにとどめ(Artt.75u.76EGBGB),その事態は,1901年の

出版契約法および1908年の保険契約法(ⅤVG)が待望のライヒ法規制を実現

41)Ebenda

42)CoIⅦad,aa0.,S16f この草案は1881年スイヌ依務法(OR)およぴBGB供樅 法に持続的遥響を及ぼした。

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保険契約と19触紀ドイツ私法学史 −−jβj− する迄,ごく短期間ながら続いた。1908年保険契約法ほ,それより1ケ月早く スイス保険契約法となったスイス保険法学者ロエリの画期的草案から,全面的 影響を受けた43)。1908年のスイス・ドイツ両国保険契約法ほさらに第1大戦下

の1915年オーストリイ保険令(Versicherungsordnung)の模範となった。こ

のかぎりにおいてこれら3国の保険契約法の実質的統十・がもたらされることに なった。 ⅤI l.ドイツ民法典起草委員ほ.偉大なロマ1=LストWindscheidの門下から選ばれ ていたから,起草委員会を支配した雰囲気ほこの19世∵紀大パンデクチストの 精神であった。だから彼らが伝統的な一売買から不法行為に至る】一個別的 債権関係カタログに執着し,新生の日常法生活の現実の申で劣らず重要な新成 の契約型の採用を断念したことも,その原因をロマニスト的書斉学者の狭恩さ に僻する■−・般の理解も当然であろ・う44)。BGB算1草案がゲイン‡いシャイトの パンデクテン教科書を法文化したものにすぎないとの世評も,戎種皮正しかっ た。しかしながら,この批難ほ保険契約については当らない。まさにベルンノ、 ルト・ヴィントレヤイトの有名なパンデクテ∵ン法教科苫初版(1862年)は「射 伴契約」(Gldcksvertr盆ge)に独立の1寮をあてていた。ヴィソトVヤ・イト は「契約当事者のいずれに利益をもたらし,そのいずれに損失をもたらすべき か,それを偶然によって決めさせる猪突約」(diejenigen Vertrage,die esvon

einemZufallab鮎ngigmachen,fur welche derParteiender Vertrageil・

nenVortel,fiir welche ereinenNachteilzuwegebringensoll.)を射倖契

約と概念想定した。続いて,「射倖契約ほ,それ自体は射倖契約でない他の諸 契約の特殊型態であるか(例えば,海上貸借,希望売買),もしくは自己I召有 の契約内容をもつ契約であるか(例えば,賭博契約,保険契約),そのいずれ かである。射仲契約は無制約に許されない。そのさいの判定原理は次の通りで 43)Vgl・WKoenig,SchweizPYiuatl)eY・Siche7,〟ngゞYeeht,1951Bern,S.16f. 44)有名なギ−ルケのBGB第1尊案批判とそれ盲こ対するエネクチェルスの反論を中心と したBGB草案の評価庭ついては,VglConrad,aa.0SS21−■2・隻,

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香川大学経済学部 研究年報 3 J96β −お2− ある。すなわち,許されないのほ.,両当事者が利得のために損失の危険を引継 ぐ(iibernehmen)射倖契約であり,許されるのは,少くとも当事者の・∼・方が 正当な生活利益(ein berechtigtesLebensinteresse)を追求する射倖契約で ある」粥)。そして−この特殊な契約範疇ほ,テオドル・キップに.よって1906年 既にBGBを考慮して改訂された第9版(最終版)にも,なおみられる46)。 ブィソトシャイトが19世紀後半の代表的ロマニス†・だったことに示唆され て,彼の射倖契約観の系譜を辿ろうと試みたぼあい,この見方は古い保険法文 献に夙にかなりの先縦がなくもないこと紅思い当るのである。 2.法律学による保険関係の取扱が,法規制と同様紅,海上保険に姶びついた こと,また従って統計討算要因を考慮せず紅孤立な個別契約に結びついたこ と,この史実が重大な上記帰結をもたらした。これはもちろん最古の保険論文 献にみられ,すなわち,1552年ヴ.ェニスで刊行されたイタリア人Petrus San− terna著〝Traktat De Assecurationibus〝およぴ1569年グ,=.=・ス刊行Benve・ nutus Straccha著の同名蕃のみならず,ドイツで17・18世紀申に刊行された 多数の殆どが法理論的には無価値な論又47),にもみられる。額数の梅法著書,た とえば1667年ハムプルク発行のReinhardKuricke著、JusMaritimum Han・ Seaticum〟,あるいは商法雷,たえぼドイツ最古の商法論とされるヅ.ユペック

45)Windscheid,Lebrbuch des Pandekienrechts,BdⅡ,4Auf1・,Dtisseldorf1875,

§ 322‖

46)Ⅹipp・Windscheid,Lehrbdes Pandektenrechts,BduⅡ,9‖Aufi.,Frankfurt,§

341.

47)Schaffhausen,DeelSSeCurationibusvulgo,VO形Assekura7gZen Oder Versicherun gen,Hamburg1638;Schage,De asseeurati−onis contractu,Wittenberg1642; Lederer,7ractdeiure assecuyantium,Wittenberg1667;Cockinga,De assecura−

′io]tjs{OMt,L7C/t(a Ro)M)l(け′(”Zfocll(Y(Tltatt(j(OloltgC(t‖l(rSO、Groni11gCn176i:

Hertius,De a.ssecuratirone.Giessen1687;Haase,Deinstrumenio assecwaiionis,

quod vulgo bolizzam vocant,braesertim ex jure Hamburgensir,G6ttingen1796な

ど。完全でないがヲリ詳しくほ,VgllCh Neumann,Diedeutsche Versicherungsユite−

IaturdesXVIIIJhl,SonderabdruckausBd12,ZVW.1912,S.317ff‖参照。

加藤由作訳,前掲乱44ぺ−ジ。ただし1731年ハムプルク保険海損令の起琴者ラングン 、ペックやALRの保険関係規定の諮問者たちについてほ,拙和い靖即損保事業研究』参照。

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保険麺約と19触紀ドイツ私法学良 w員紹一一

市長Johann Marquard著“Tractatus politico−juridicus de jure merca−

torum(1662)”も同様である。 こうした保険胎動期文献の殆どほ,厳密な解釈学的問いかけなしに,保険契約 の単なる実在そのことに.由る存在正当化を旨とした4る)。相も変らず定義として 支配的だったのほ,ストラッカの下した定義:「海上ないし陸上運送申の他人 の貨物の,危険の引受」,であった。多くの論者が,こ.の契約がローマ法上方 式を要するか否か,この契約がローマ法上区別される厳格法契約(contI・aCtuS strictiiuris)かそれとも善意契約(contractus bonae fidei)であるか49), を吟味した。そしてかなりの論者は,保険契約が高利黛や法定利息違反などで なく,逆紅,利子(海上貸借)は無対価で付けられたのではない故紅,「全く

適法かつ誠実な取引」(ommijurelicitum et honestum negotium)であ

る,ことを確認した50)。

それにもかかわらず,Endemannd.Å.が1886年,保険法学説史上最高に.

示唆豊かな論文の1つといえる「■保険取引の本質.」に.おいて膏1),保険契約に関 する古来の法学説の中核問題ほ保険契約が教会法の利息禁止法理に逝反するか 否かであった,と主張した。(ェベルはこれを純学問的判断にありがちな過大 評価であ ったとみなし,エンデマンのこの見方がす一ぐに1868年Konrad Malss ∂2)および1872年ゴ・−タ社支配人GieI・53)によって修正された,とす−る,しかし この当否は後日に保留する)。 石.しかしこの点では19世紀初めとしては非常に際立って体系的な概念を打出 したChristian Friedlich Gltickに.触れねばならない。彼はエアラングソのロ

48)Ebel,S・63 49)保険契約の着意契約性の今日的合意については,大森,町構造曙169ぺ−・ジ以下,将に・ 172ぺ・−・汐詳11,参照. 50)Ebel,Sl63・ 51)Endemann,DasWesen desVersicherungSgeSCh畠ftesin:ZHRlBd”9,1866,Sl 284−・327,51ト554.大森暫■続・構造彗,昭和3】.年,第6章,1.58鵬176ぺ・−ジ,参照。

52)Malss,l)ie Lebensversicherung,ZeiischYt/ifiir Versicherungrsrecht,1868,S 129ff.,225ff

53)GieI,t)ber Wesen und rechtliche Natur derVersicherung,Busch′.s Archtvfiir ガα〝dβJぶ−〝〝dlγβCゐ.sβJ′・β(妬Bd26,S,405ff,

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香川大学経済学部 研究年報 3 j9∂β ーJ5ゴー− マニストであり,彼のパンデクテン註釈審は分最の物凄だけでなく,巾広い人 文学の素養に裏打ちされた質的充実においても注目されるが54),彼は自分で 1793年から1830年迄かかって−その34巻を刊行し,彼の死後もMuhlenbruch達に よって50巻余が刊行された。既紅引用したように,グリユックはパンデクテン 註釈第21巻(1820年)において,第22部第2章「海上貸借に・ついて」(Dena・

uticofoenore)(§§1189−1143,SS.151M222)のなかの第1141節(Assecura−

nz,besonders der Schiffe,undder darauf geladenenWaaren)で海上保

険契約を考究した(SS.201∼216)。彼ほ「海上貸借」に「異例の利息」を必

然紅伴う仙切の取引を収容する。第1139節「海上貸借・冒険貸借の概念 準海

上貸借」(Begriff von fonus nauticum,und pecunia trajectitia.Foenus

quasinauticum)の冒頭に.日く,「通常以上の利息を法が債権者に許容する のほ,債権者が元本の危険を引受ける場合である」(S.151)。そして,海上

貸借を論じた後紅,保険を詳論する。「foenus nauticumとAssecuranzの差

異ほ次の点にのみ存する。すなわち,前者でほ消費貸借があり,これを債権者 ほ,船が債務者の過失なしに.沈んだ時,約定の利子と共に喪失する。しかし後 者では保険者(Assecurant)が一億の報酬(Belohnung)とひきかえに,戎物 が懸念されていた危険によって滅失(zu Grunde gehen)しさったとき,其

物の−・定価値の填補(denbestimmtenWertheiner Sache zu ersetzen)を

義務づけられる。かような保険はつまり海上貸借のように,債権者が懸念され ていた危険によって喪失する危険を冒している消費貸借,を前提しない。そし て単に海上で付保される物に.関するだけでなく,滅失の危険を受けやすい他の 諸物に・も行われる。それ故に保険ほその対象の差異紅応じて海上保険(asse− Curatio maritima)と陸上保険(assecur・atio terrestris)に.分けられる。後

の種類に属するのは例えば家屋・家畜・収穫保険(H去user−Vieh−und Erndte −Assecuranzen)である。船およぴその積荷を対象とする前者はしかし商人 間で通常の保険であり,それ散に狭義のかつ本来の意味の保険とも呼ばれる」 (SS.201−2)。これらすべての取引の有効性についてグク、ユ・ツクほいさきか の疑も抱いていなかった。但しその根拠はロ・−マ人が既に保険制皮を実用して 54)Gliick,Pα〃d♂如β〝,Bd,21,EI1angen1820,S201ff

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保険契約と19世紀ドイツ私法学史 −J∂5一 いたというに.あった。「海上保険が既にロ−・マ人の前に現われていたかほ,学 者間で争われる。ロ−マの法典に.その痕跡が見出されない,ということは全く 正しい。 ローマ人が今日の保険取引に対する独自の名称をもたなかった ことほ,大したことでない。けだし方式契約(Stipulation)の方式だけで十分 であっただろ・うからである。しかし少くともロ′−マ古典に現今商人間でかくも 通常な保険の個々の事例が見出れないか否か,問題とされる」(SS.207−8), 彼はその後紅前述キケロの保険発生史論上有名な書簡の解釈をめぐる賛否両論 を詳細紅検討した後,自分の旧説を改めてローマ保険存在説に転じている(S・ 213)。その詳細をここで説く紙幅も必要もないが,こうしたグリエックの態 度がPandektistikの限界を示すという当然の理解よりも,古典期ロ−マ法に保 険契約の存在を見出そうとする煩腰な古文解釈論の背後には,保険契約の即物 的構成一言典ローマ法の方式契約性を利用して,教会法の中世的利息禁止瀧 理に.よる保険契約の擬制的構成56),を内在的に脱却しようとの実践的志向− が意欲されていた。この評価が今後の学説史研究にとってヨリ重要ではなかろ うか。グリ・ユックが利益保険を論じる簡所にほその志向が読み取れる(S・205)。 なお彼は保険に続いて船舶貸借(Bodmerey−§1142’)と終身定期金・扶養契 約(§1143)を論じている。 4.17・18世紀における火災組合・扶養金膵・埋葬金組合などに関する既述の 文献は,道徳的考慮とカメラリスト的政策論を行ったもので,法律体系的議論 ではなかった。放火・自殺の教唆になるとの疑念があり,あるいは火災・死な どその他の災難を神の審判として無保障で甘受するのがキリスト教徒の義務 だという考え方などが当時有力だったので,保険の全面的展開を実現する19世 紀半ば迄,近代化過程紅ある普通法の伝来的原則・概念は保険の登場によって

動揺させられなかった。19世紀初め紅ほハムプルク人Wilhelm Beneckeの5

巻から成る大著「保険者・商人・法律家のための海上・保険・冒険貸借制度大綱」 のような流儀の,充実したとても有用な保険・保険法・専門文献が出現したけ れども56),こうした実務家向きの重要労作とても保険の合法性に関する学問的 55)大森,同上苔,170ぺ−ジ参照。

56)Benecke,$ystem delS Sce,AssekleYa712−u71dBodmeyeiwese符S,namburg18051

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香川大学経済学部 研究年報 3 ‡9(;J ーー・Jβ6− 疑惑に苦しめられなかった。そうした問題ほ,ロ・−】−・マ法の杓子定規から脱けら れない講壇法学者にとって−おかれた。そして19世紀前半の実務書の理論的考察 のモデルほ当代の海上保険であった。つまりこのモデルほ,個別契約たるが故 に,大数法則に基く合理的計算という保険制皮の本質的要素を欠く契約であっ た。当時の海上保険の孤立した個別取引を孤立的に.考察したことが,かの理論 的・体系的把握難を惹起し,それがやがてイ也の全ゆる保険部門,また従って保 険契約−・般に及ぼされることに.なり,19世紀末頃迄保険契約の私法体系内にお ける地位をああも不安定ならしめかつ歪曲することに.なった。なお之に加え て,クリチアン・ヴヵ・ルフ以来支配的となった概念法学が.その諸概念の確証/を 極端もしくほ異常な事例にあてはまるよう吟味する,という致命的傾向もそ・の −小因である57)。 従ってわれわれは保険契約を賭博と特長づけかつそれを射伴契約として分類 する問題に立ち返る(保険と賭博の関係については,大森,『磯造』141ページ以下, エマヌエル・ヘルマンの保険鰐博説については斉藤,前掲薯,20∼71ぺ一汐参順)。 Ⅶ 1.保険賭博論争の形で法学者達が不当に−・般化したけれども58),独自な問題 となったのは賭博保険である。しかしこれは常に弊害とみなされまたそのよう に処理されて−きた。これは保険の名を借りた賭事−一夙に.1610年クエノア法が 皇帝・国王・法王の生命のL.保険」を禁止したことにみられるような59)−− であ る。もしくほ,付保老が危険対象に何ら現実の関係をもたないで,ただ彼が全 く無関係な船の付保による投機をするだけの保険,であった。 かような賭博保険はもちろんレ.エクスピア時代のジーエノアとマルセイ、ユだけ でなく,チュ.−リップ熟同様に弘まりオランダおよび英国にも暫らく続いた。 57)Lh日〕威,「ドイツ普通法理論」,『法哲学講座汀節3巻,昭和31年171ぺ−ジ以下,参照。 58)・エンデマンの論旨にこの不当な−・般化をみて,その点を批判するは,GieI,αい〃.0‖ 59)三宅一夫,「他人の死亡の保険契約」,大森・三宅共著,『生命保険契約法の諸問 題ふl昭和33年,259ぺ−汐以下。

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保険契約と19憫紀ドイツ私法学史 −J∂7−

(1774勾三・Gambling Actとして有名な立法の正式標題は“AnActforRegula−

tingIns11ranCeS upOn Lives and for Prohibiting allsuchInsurances”)。

ドイツでほ婿博保険はついに根を張らずにおわった80)。ともかく,婿博保険の 流行ほ被保険利益論を存分に展開する困ったきっかけとなった。生命保険では これが他人の生命に.は付保する可能性の制限(家族関係と債権関係)をもたら した。その有名な例は,英国の政治家大ピットの生命を彼の多数の債権者が1 日万ポンドで付保させた史実である61)。しかし彼の死後女王が彼の負債を弁済

してやり,また裁判所(Godsallv.Boldero)はそD故に保険者免責を判決

した。 この債務者保険紅ついて19世紀ドイツで憩起されるのは,前述ドレスデソ債 務法草案であった。賭博保険に.よって発動させられた現実の被保険利益関係の 存在要求ほ,他方で再び利得禁止の思想および純損害保険の観念をも強化し た。この傾向の行きつくところ,1862年Ⅹ0王1工・ad Malssは一・般に,物保険に おいても本来の保険対象ほ物でなく財産法的利益関係なのだ,という鋭い構成 を考えだした¢2)。マルスは弁護士でフランクフルト・アム・マインの“Pr0・ videntia”保険会社法律顧問であり,そこで名声を指し,1866年彼は最初の 「ドイツ保険法雑誌1を創設・病婦したが,同誌ほ2年後ゴ・−・ルトレユ.ミット 商法雑誌に吸収された。ドイツ保険契約法算68条(被保険利益欠敬)は,今日 全く別の忠義を占めるにせよ,その源をマルスの賭博保険抑圧論紅発してい る63)。 2.賭博それ自体ほローーマ法でも叫また賭け好きな中世でも禁止されてい なか ったにせよ,保険の名による賭博は法律家の側に不信感を与えた。ところが保 60)賭博保険の史的性格の分析は,谷山新良,「商人保険紅ついて」,『保険学雑誌』396 号,昭和31年,57ぺ−・ジ以下。

61)H・E.Raynes,A Histor.y qf’British ZnsurGnCe,reVr1950,p′′136ets.;C‖J. Bunyon,Law¢f■LifeAssurance1891ed。,p.27.

62)Malss,ββわ′αC如〟ガgβ乃読み¢γβさ符ggβダγαg♂形dβ1∫γβγ・ざgCゐβγ〝調g5㌢・βCカfs,FrankfuIt

aM.,1862

63)被保険利益概念については,参照,大森『構造』第3葦。

(21)

香川大学経済学部 研究年報 3 J963 ・−ヱ5β− 険の法体系絶入概念にほ射倖契約の概念が剛、られた。この債権契約範疇がど う理解されたかは,叙上の引用から或程度明瞭となっていよう。古来の法学者 の殆ど誰もが自家流の定義を設けているから,この点をそれ以上朋瞭ならしめ ることは,まず不可能である。 ローマ人はこのalea(さいころ賭け)から借用した概念を,一・方で,偶然的 条件が契約当事者のいずれか−・方の給付を決めるすべての契約(例えば,これ から行う綱引きで獲れる魚の売買)に使用したが,他方では,狭義に,賭博に も使った。 17・18但:紀普通法学に.おいて始めて射倖契約ほ範磁化しかつ多くのこれに 属する契約のための類標識となった。しかし賭博は既に(少くとも訴求不能と みなされ‘)法的否認を草けた故,この疑惑は他の諸射伴契約,すなわち希望売

買(emptio speioder reisperatae)や終身定期金にも及んだ。これら取引

の合法性に疑問はないから,これらが「許される射倖契約」たることを論証す る努力がなされねほならず,同じ努力が保険契約紅ついてもなされねはならな かった。この努力の中から射倖概念の二義性が認識され,実定契約に対する構 造的特殊性を示す概念として「射倖契約」を使う私法通博の用法が確立された といえ.る65)。 しかしながら,18世紀のパンデクテン法や市民法の教科書類を調べると,保 険が総じて射倖契約のもとに挙げられていないのに気ずかされる。これほ根本 的に.は,「商人慣用の保険取引」が商人身分法の枠内で完結的に処理されたこ との反映として或意味で当然である。だが,ロ・−マ法の観念世界に生きた普通 法学者には,古典的契約型を自分の時代の実情に適応させる能力がなかった。 その無能力がいかなる外的・内的要因に基くか本稿では論外として66),この点 に上記の原因を求めることもできよう。 しかしヨリ確実にいえ 知者・解釈者が,法生活の現実について非古典的な理解・正当化を認めること 65)射倖契約概念についてほ,大森,虚構造。2,124−133ぺ」−・ジ,参照。 66)これはバロック・啓蒙期に.おける法律家階層成立および法典編纂の問題性との関連 で考えられる。石部,前掲諾論文;上山,F■法学論叢屠,69巻3,5,6写・昭和36年,参照。

(22)

保険契約と19世紀イイツ私法学史 −・J∂クー

を,いわば自らの清券にかかわるとみなしたノ甘である。このことを特長づける

のは,グリエックの労作を引継いだミュ−レ∵/ブルッフの1823年以降多くの版

を重ねた「パンデクテン法教科書」に.おける次のような確認である即)。すなわ

ち,射倖契約を「■但しその結末が性質上疑問かつ不確実な,得失に関する日

険」(Unternehmen auf Gewinn undVerlust,derenAusgangaberseiner Natur nach zweifelhaft und ungewissノist)と定義し,富競および本来の賭

博,希望売買,海上貸借と「これと結びつく保険取引.」(damitverbundeIlen Assecuranzgeschゑfte)をこれに属させた後に,ミユ・−・レンブルッフほ日く, ●●●● 「だがこれら取引の殆どほ祖国の法に関する講義において論究すべきである」。 Ⅶ【 この「相国の法」(vaterほndisches Recht)という表現はいわば算2の市 民法学に関連する。周知のようにそれほ,Georg Beyerが1707年ノ、ルレで最 初のJus Germanicum講義をして以降,いわゆる「ドイツ私法」として古典 的パンデクテン法の実用上必要な補完となった。ドイツ私法はロ・−マ法受売り の概念手段を広汎紅用いつつも伝来制度を顧慮しつつ私法を体系的に鉱述し た68)。18世紀紅ほ未だパンデクテ∵/学の附属部門にすぎなかったドイツ私法 が,19世紀にほ.JustusFrI.Runde,K”F.Eichhorn,Beseler,C.F.Gerber・ Otto Stobbeなどによっl{:ロ−Pマ法と優位を争う学問となり,遂紅はBGB制定 によノ、二、てその全問争が対象を失うこと紅なるのである¢9)。

●●●●● かくして,ドイツ私法文献について18・19世紀市民法学における保険と射倖

契約の関係を検討しょう。この問題はおおむね次の4論点に集中する70)。 (1二) 保険契約は射倖契約紅属するかそれとも別箇の法制度なのか。 (2) 保険契約が射倖契約に組入れるとすれほ,法秩序の否認する事例

67)Milhlenbruch,Lehrbuch des Pandektenrechts,ZweiterTeil,Halle‖184墾,§

423.

68)F一・Wieacker,PrivatyechtsgeschichiedeY’Neuzeit,G6ttingen,1952、S・24=O ff 69)Vglibり,S271汀

(23)

香川大学経済学部 研究年報 3 J96β ・・−J(;クー・ (賭博)に該当するか。該当しないのならその理由。 (.3) とく紅生命保険が一・般に保険また従って射倖契約に属するか。属さ ないのなら生命保険の本質ほ何か。 (4) 近代的な相互保険は法的虹どう性質づけかつどう組入れるか。 l.初期の論者,ルソデTl),ダンツ72)およぴアイヒホルン73)ほ,aleatorische

KontrakteとかGlticksvertr畠geやHoffnungsgesch畠fteもしくはgewagete

Gerchafteの名称の下に.,本稿お馴染みの契約群(終身定期金,保険,船舶賃 借を含む)を総括する。保険契約紅あってほ海上保険がモデルとして詳論さ れ,火災・家畜・収獲保険ほ必らず言及されるが,生命保険に言及するのはア イヒホルンのみである。保険取引の有効性に関する明文の正当づけは元より誰 にも欠けている。相互保険はルソデだけが言及するが,あっさり保険契約とみ なされ,寡婦金庫ほ終身定期金契約の一例とみなされる。 しかし私立の婚資・埋葬金庫についてほルソデ書第5版(最終版)に珍らし い文章がある。すなわち,この「近年かくも大普及した」組織ほ「実証法なく ともその性質上正真正味の賭博(Hazardspie工e)でありそして臣民の財産の みならず生命までも危険ならしめうる」。その故にこうした組織ほ最高権力の 免許・監督に由ってのみ「公機関および拘床的契約の尊重を得ることができ

る」(das Ansehen6ffentlicher Anstalten und verbindlicher Vertr盆ge

erhalten)74)。ホルスタイy==オルデyプルク上級裁判所長官(Ⅹanzleidirek− toI・)クリスチャン・ル・−トゲィヒ・ルソデがこの見方をするきっかけになっ た不快の原因は理解のしょうがない。アイヒホルンもヨヅ穏かながらこのまさ にALR的見解を引継いだ75)。 71)Runde,Grundstdzedesgemeinendeutschen PrivatYeChi19,1・Aufi・,G6ttingen 1791, 丁二三1DntlZ.〃(川(仙†rん(7(1i/けJ(/fgr〃かJJh√んr〃 ル丹‘7/J‘、√〟ハ.JJ〝(力〟「〃J5.l・∫/rJ〃品、∫

Herrn Hqf■raths R〟nde,StuttgaIt1795ff,11Bde.

73)Eichhorn,EinleitungindalS deutschePrivairec妬1Aufl,G6ttingen1823,

§1】3

74)Runde,aalOh,5Aufl・,G6ttingen1817同版は息子 Christan LudwigRunde の編輯濫かかる。

(24)

煉険夷戚と1油鹿ドイツ私法学史 −j∂j【 1850年噴から始めて,定期金給付をめざす寡婦・埋葬金庫が終身定期金契約 から除外され,保険組織として考察されだす76)。これほ恐らく近代化過程の申 で旧来の身分的・ギルド的相互扶助機構がその頃にミ受落しきるかもしくは近代 的保険技術を体得した相互保険組合へ転身する軌遺に乗ったことの反映であろ う77)。 2.初めて「灘‖倖契約」なる−】・般的範疇の価値に疑問を呈したのは,Wi抽elm Ernst Wildaであり,彼は1839年に.,射倖契約に.あっては賭博を別とすれば 既存諸契約の,例え.ば売買の,変態が問題となっている軋すぎない,と論じ た78)。このことほ保険契約紅ついては.当てはまらないけれども,−い部の学者は 保険契約を他の契約範疇紅関連させることを主張した。 殊に,大ベーゼラ・−の「普通ドイツ私法体系」が,法学紅とって−射倖契約の 名称は無価値である,しかし,この名称は当該の生活関係の捕われない評価を ともすれば混乱させがちである,と述べたものが,注l]される79)。べ一−ゼラー も,保険契約が個々に眺めれば別件的性格を帯びることを認める。「しかし注 意しなければならないのほ,かかる取引(Gesch畠fte)が滅多に.もしくは決し て孤立した法律関係として締結されないことである。保険はむしろ,同一人が 蓋然的損益の確立計算を許す程多数の個別事例について保険を引受け,また従 って保険料は引受けた危険の平均価格とみられる方法で,営まれる。それによ ってこの事業(GeschAft)が安定と堅実を得る」80)。そして彼ほ保険契約を保 証(Biirgschaft)と賭博(Spiel)の中間に位する独自の契約型と位置づける。 こうしてべ−ゼラ−はもほ/や海上保険を主モデルとすることなくかつ生命保険 76)Hi11ebIノand,エ♂かねcカ♂♂ざ如〝J∠g♂プアd♂〟ねCカ♂〝脅∠仇須レ♂C加・ざ,Leipzig1849,S 447,Amm5 77)この過程の一・般論理的分析とその問題性は,参照,水島,前掲乱122ぺ・−汐。 78)Wilda,Die Lehre vom Spielausde工かdeutschen Rechte neu begr血det,Zeil・

SChYift f deut.sches Rechi,1839,S133ff.;Wilda,Die Wctten、ZeitsehY・。f dβ〝fざ(カβ.5忍.,1843,S 200f

79)Beseler,$ystem des gemei7iendeutsche7C Privatreckts,1lA坤・,Ber■lin1847 ;2Aufl.,Berlin1866

(25)

香川大学経済学部 研究年報.3 一J∂2− j9∂J才 ならびに年金保険・埋葬金庫を保険契約に∴含め,かつ相互組合と営利保険およ び国家保険施設を同列に保険者とした。 他のゲルマニト達も,スtッべはベーゼラ」一説に.追随し呵,パンデクチスト ながら抽象的に概念構成力の乏しかったデルンプルクも「保険契約」(VeI・s・・ .cherungsvertI阜ge)という独自の契約型を打出し82),フヨルスター一に至って 1 は,ゲルバーの先例紅倣い83),「保険契約」型を保証(BiiIgSCbaft)と共に「灘 保契約」(Sicherungsgesch畠fte)なる新範疇に収容した84)。 5.ダイントVヤイト,Arndt,Puchta,SinteノnisおよびBrinzのような, ロマニストだけが射倖契約という範疇を固執したが,19世紀後半になると保険 契約を黙殺しきれなくなった。古い体系づけを守りぬくに.当り,ロマニスト ほ,許容される射倖契約と許容されないそれとの区別紅努力せねほならず,ま たそ・の際に彼らは,ガライスの誇張した表現によれば,「■存分の古典学識(Ge・ 1ehrsamkeit)を絞って,事実上並外れて有益な倫理的なまた夙紅大普及した 制度の法的有効性を不道徳な賭博の禁止に理論的に対比しなけれほならなかっ た」86)。 ところが,ロマニストほこの課題をさして困難とは思わなかった。彼らほ実 際上大要次のような指摘で満足するのが殆どであった。すなわち,保険契約が 有用七あり,慣習法上承認ずみであり,かつ,保険者が多数同種の契約の締結 81)Stobbe,HandbuchdesdeuischenPrivatrechts,BdⅠⅠⅠ,Beiiin1878,S.362ff 82)Dernburg,Lehrb desbreussischenPrivairechts,5lAufl・,Haue1897,S707ff 83)Gerber,S.ystem des deutschen PrivatYIeChis,1Aufl.,Jena1848;13・Aufl.,

−Tena1878,S522fい

84)F6rster,PreussiSChes Privatrehi,Bd”ⅠⅠ,Ber’1in1866,S 385ff

85)Arndt,Lehrbldes Pandektenrecht.s,BdIr,11Aufl.,Stuttgart1883,§236; Puchta,Pandekten,8・Aufl.,Leipzig1856,§258;Sintenis,Das PYaCLtische gemei・

ne Civilrechi,BdⅠⅠ,Leipzig1861,S 292N294,但し,Bluntschli,De〟ische Pri’−

VL2irecht,3Auflbesorgt von Dnhn,Miinchen1864S487f:「.渚保険契約は,そ の得失が不確実な出来事によって決められる点で上場博的取引(gewagte Gesch鋸t)で あるけれども,全く道徳的な目的を有するム

86)GaIeis,Versicherungsve【trag∼Holtzendoyjjs Rechtslexikon,BdⅠⅠ.2”Aufl.,

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腺険麺戚と19植紀ドイツ私法学史 −J(iJ に由って∴危険を軽減する故に,ただ遍的紅射倖的であるにすぎない,と。プリ ンツの1882年「パンダクテン教科書」に・次の表現があるる7)。「危険は僧侶の場 合についてみれば保険契約者側よりも保険者側の方が大きいが,その危険を保 険者ほ次の方法に由って軽減し,それどころかもうかる商売に・変換しさるのを 常とする。つまり,彼ほ保険(das Versichern)を営菜として行い,かくし て−巨額の損失を多件数の薄利に由りかつ危険の大いさを保険料の大いさに由っ て平均する(ausgleicbt)」。 4.射倖契約観念の最後の消極的余韻ほ20但紀になってもオットー・フォン・ ギールケの「ドイツ私法」に㌧見出される88)。すなわち,保険契約ほ完備した確 率計算と強大化した会社に助けられてニ,かつてその属せしめられて−いた射倖契 約との類似性を全く脱捨てさった,と。「けだし保険契約ほ危険を創出するの でなく,既存のリスクを除去ないし軽減するのであり,保険契約は確実なもの を不確実にするのでなく,人間関係に潜む不確実性を一億の確実性に転換する 可能性を授ける,からである」。(D.P.R.,Bd.8,S.795) このいかにもギノールグらしい文音は簡劫で印象深いが,論理的には支持でき ない。賭博も確実なものを不確実に・するのでなく,既存の不確実を投機利得の 目的に利用するのである。また保険契約ほ.現実担界に既存の不確実さを除去す るのでない。この誤まちは,しかし後代軋も残っておりアルミン・エ・−・レンツ プァイク著「オ−ストリィー・般私法大系」(1920年)における保険契約の次 のような正当づけも同じである。すなわち,保険ほ射倖契約ではあるが,賭博 紅似るどころか,その正反対である,と。「賭博は不確実を作出し,保険は既 存の不確実を別の対立する不確実に由って解消する。人が我家に火災保険をつ けることに危険があるのでなく,さような保険をつけないままでいることこそ 危険である」89)。 87)Brinz,Lehrbldel・Pandekten,Bd.II,2Aufln,Erlangen1882,S”559f 88)Gierke,DPk,,BdIIr,Sl179う;Grund2滋gcdesdeLLischenPrivairechts,Holtze・ ndorffsEnzyklopfidiederRechtswissenschaft,Bd,Ⅰ,6 AutlhrsglVOn KohleI,

Leipzig und Be11in1904,S528

89)Armin Ehrenzweig,S.ystemde・S∂sieYYeichi’lSChe77allgmeinen Prhairechts,Bd.

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