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讃岐の池と村-香川大学学術情報リポジトリ

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香 川 大 学 経 済 論 叢 第68巻 第 4号 1996年3月 25-61

讃岐の池と村

唯 之

はじめに 瀬戸内海式気候の香川県は,内海沿岸諸県のなかでもとくに雨が 少ない。昭和33年時点の調査によると,その年間降雨量は全国平均の 3分の 2 という,全国屈指の寡雨県であった。さらに香川にはゆたかな川がない。『高松 藩記』にも「讃岐国は南は連山,北は海に面し,地勢北下り故,

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浅く水乏し く,常水の川一つも之れなく」と記されているとおり,集水面積が狭いうえに 流路が短くて勾配が急な香川の河川の水は雨が降ってもいっきに海に流れ落ち てしまう。しかるに他方,各地に残る古代の大規模な条里制の遺構の存在が証 明しているように,温暖な気候と平坦な土地に恵まれた香川の地は,古くから 土地と水利の開発がすすんだ土地であった。同じく昭和33年時点の調査による と,香川県の耕地率は全国でもっとも高く,しかもその3分の2は水田である。 雨も河川水も少ないここ讃岐の地において,右のような水田の造成が可能で あったのは,ひとえにため池の築造によるものであった。昭和35年現在 i溜 池台帳」に登録された県下のため池はl万 8,606個を数え,その敷地面積は

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,706町歩である。とすれば県下の水田面積は

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万 5

,490町歩であるから,ため 池の敷地面積はその6分の lにもおよび,また,農家戸数は 8万9,362戸であ るから,じつにおよそ

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戸に

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個の割合でため池が存在することになる。こん なに密度濃くため池が存在する県は全国に香川県しかない。さらに,香川県に おけるかん淑水源としてのため池依存率は70..4%であり,これは奈良,大阪, 兵庫の40%台を大きく引きはなして断然に全国1位である。表 1は香川県と全 国平均のかん概水源水田比率を示したものであるが,全国と香川ではため池と 河川への依存の割合が逆になっていることがわかるであろう。 ところで,いまをさる

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,200年以上も前に築造されたあの満濃池はべつにし

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香 川 県 全国平均 表1 かん潜水源別水田比率(香川県:全国) (単位:%) ーー守網目ーーーーー そのfi!!.

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o

9 資料・前川教授「香川県のため池についてJ(香川県立段科大学学術報告第6号第3号) て,讃岐の地においてため池がさかんに築造された時期は,幕藩時代のはじめ までさかのぽる。日本土木史にとって戦国時代から幕藩時代のはじめにかけて の時期は古代の古墳時代とともにその画期となった時代で,とりわけ幕藩体制 が成立して藩主による領有支配が成立したとき,諸国の大名たちはきそいあう ようにその財政的基礎である年貢米の安定的確保と増徴のために大規模な水田 の開発にのりだした。用水を確保することが水田開発の大前提であるが,香川 の場合はそれがため、池の築造で、あった一一香川のため池築造史に大きな足跡を のこした商嶋八兵衛や矢延平六はいずれも江戸時代はじめの人である一一。江 戸中期以降も,香川のため池は次々と築造されていった。いまも讃岐平野をう るおしている県下の主要なため池のほとんどは,この幕藩時代に築造されたも のである。明治期以降における香川県農業は,これらのため池とそれに付随す る水路網を近世的遺産として継承しつつ展開することになる。以下,戦前香川 の農業水利と土地改良を考察しよう。

*

本章の表題である「讃岐の池と村」における「村」について,あらかじめ簡単に説明 しておけば,ここでいう村とは系譜的には近世の村につながる地縁集団のことである。 領主が年実収奪の単位とした近世の村はまた,水の管理と利用を共同でおこなう農民 の共同組織であった。讃岐の農村において農民たちが共同してため池の水を引き入れ るその地域的まとまりも,およそのところ,こうした村であったといえよう。 近世の村は,明治23年に市制・町村制が施行されてあたらしい村(=行政村)が誕 生したときに地方行政の末端組織としての政治的機能を完全に喪失する。しかし地方 行政の制度は変わってもかつての近世の村(=旧村)としての性格に変わりはなしし たがってまた,旧村はため池かん淑における地域的基礎単位としての役割を,市制・町 村市j施行以降もにないつづけることになる。 なお,旧村のなかには数多くの地縁的・血縁的紐帯の強い小集団が存在している(ー

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1065 讃岐の池と村 27-般的には旧村の地域が大字に該当するのに対して,部落の地域は小字に該当)。これが いわゆる部落、で,村の水はこれら部落に配分されたのち部落農家の水臼に引き入れら れたが,部落が部落独自で,あるいは数部港共同して水源をもつことも少なくない。 以上のことを確認したうえで以下の叙述においては,村といえば明治23年の市制・ 町村制施行以降は行政村,それ以前は旧村をさすこととする。また,行政村の複数,近 世の村の複数はいずれも「村むら」と表現し,また,行政村民,近世の村人,さらには 部落に住む人々のことも同じように「村人」と表現した。そのいずれに該当するかは前 後の文章の脈絡から判断されたい。部落の住民を「村人」と表現することの妥当性は, む ら 彼ら自身が自分の部落のことを,かつて,そしていまもなお rうちの部落じゃあ云々」 と呼びならわしている事実から首肯できるであろう。 I 用水組合と水利慣行 香川の農村と水利組合 日本農業における耕地の利用形態は零細分散錯圃制 と呼ばれ,農民の耕作する零細な土地は各所に分散し他の土地と互いにいりま ざっている。家族的小農経営とともに日本農業の生産構造を基本的に規定して いるこの零細分散錯圃制のもとで戦前来一一土地所有者が戦前においては地 主,戦後においては自作農とその性格に根本的な違いがあるが一一,日本の稲 作は営まれてきた。 零細分散錯圃制のもとでは

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I

枚の水田が用水と排水の面で互いに関連し 互いに影響しあうことを避けることができない。したがって当然のことながら, 村の水路は村人が共同で利用し,河川の井堰やため池などの水利施設も村人が 全体で維持し管理しなければならなかった。ということは,村の1枚1枚の水 田をうるおす用水は村人が一致協力して確保した水であって個人が自由につか えるものではなしまさに「村の用水」として村全体のものであったといえよ う。用水が村の用水である以上,各水田に用水をどのように配分するか,さら には水源や水路をどう維持管理するかといった水利上の問題は,村全体でとり くみ村全体で解決すべき性質の問題であった。日本の水田農業において農民共 同の水利組合が組織されざるをえなかったゆえんである。 ため池や出水などが数多く存在する香川県の場合,県内には膨大な数の組合

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が存在するところとなった。戦後の農地改革のとき農地調査に関連して実施さ れた水利慣行調査によると,たとえば大川郡の相生村においては

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の,同じく 大川郡の三本松町においては14の,綾歌郡の羽床上村では8の,小豆島の草壁 町では18の,三豊郡の辻村では14の,同じく三豊郡の上高野村では 13の組合 の存在がそれぞれ確認されている。香川県全体でどれだけの数の組合が存在し たかはあきらかでないが,当時の香川県の市田]村数171から推測すれば,それ は驚くべき数の組合であっただろう。そしてその規模も,部落単位の小さな組 合から村単位の組合,いくつかの村,さらには数十の村から構成される組合ま で大小さまざまな組合が存在したのであった。 香川の普通水利組合とその構造 農民の共同組織である水利組合は自然発生 的に成立したものであって,法制度を前提にして人為的につくられた団体では もちろんない。しかし香川の水利組合のなかには,法的人格をもっ「普通水利 組合」と呼ばれる水利団体も存在した。その成立は明治の

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年代にさかのぼる。 明治政府にとって,幕藩体制の消滅とともに幕府や藩の統制下にあった農業水 利の秩序が崩壊した以上,それに代るあたらしい制度の創設が急がれたが,そ の制度が発足したのは明治もなかばの明治23年のことであった。この年に制定 された「水利組合条例」にもとづき農業用水の管理機構として設立されたのが, いわゆる「普通水利組合」と称せられる水利組合である。 香川県の場合,県下で最初の普通水利組合は明治26年設立の満濃池普通水利 組合で,以降,戦前昭和に至る間に全部で13の普通水利組合が設立された。任 意の申し合せ組合の数の多さに比較して普通水利組合の数がこのようにわずか であったのは,法人格をもっ以上は一定の組織的整備と組織運営上の資金確保 が要求されるがそのようにしてまで法制上の組合をつくる必要が県下のほとん どの組合にはなかったからであろう。 ところで,これらの普通水利組合はどのような構造であったか。この点を満 濃池普通水利組合について調べてみると,その構成員は個々の私的な土地所有 者であって,組合費は個人負担,組合の役員は選挙による選出と,あたかもそ れはヨーロッパ風の近代的な組合制度のようであった。しかるに「満濃池普通

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1067 讃岐の池と村 -29 水利組合規約J (明治

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年)によると,満濃池の水掛りは買田,郡家,真野な どの40の区域からなるが,これらの区域はいずれも一一買田が幕藩時代の買田 村であったように一一寸丘世の村の区域と一致する。満濃池普通水利組合の組合 費はまずもってこれら近世の村であったこれら旧村を単位に村ごとに賦課され たのであり,しかもその賦課率の基準は幕藩時代の石高であった。そのように して村単位で賦課された組合費を,村に住む土地所有者たちがその所有する土 地の反別あるいは地価にしたがって応分に負担したのである。だから組合費が 個人負担といっても,それはたんに最終的な負担が個人だというだけのことで あって,組合の立場からすればあくまでも村が組合の実質的単位であった。そ して役員の選出もこれら旧村ごとにおこなわれたのである。 かくして明治期に設立された香川の普通水利組合はいずれも,満濃池普通水 利組合がそうであったようにその実体は村の連合体であり,したがってその近 代的スタイルとはべつに普通水利組合なるものは,じつは,県内に存在するそ の他多数の申し合せ組合とその実質において変わるものではなかった。 水利組合の組織とその機能一一上池の場合一一水利組合はどのように運営 されたのであろうか。いま,丸亀平野の上池水利組合を一つの範例としてとり あげよう。上池は現在は丸亀市の垂水区,戦前の呼称では仲多度郡の垂水村に ある。垂水村は明治 23年の町村制施行のとき誕生したが,そのとき他村と合併 せず旧村の村域のままであたらしい行政村に移行した村である。 はじめに上池の水利状況を説明すれば,昭和16年の『農業水利慣行調査溜 池編(第一輯)~ (香川県耕地課発行)によると,垂水村の西村,金竹,八尺,馬場, 行時,田井の

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部落の耕地

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町歩をうるおす上池の掛りは,図

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のようであっ た。図にみるように上池に直結する用水路は

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本,したがって上池に設置され たユルも 2本である。一つを東ユノレ,もう一つを西ユノレという。ここにいうユ ルとは池水を水路に落とす樋のことで,大きなユルになると底ユルに竪ユルが とりつけられ,竪ユ/レの上には櫓が立った。上池の

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本のユJレも竪ユルがとり つけられていて,いずれのユノレにも上下

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組の櫓が立った。そして櫓にささえ られた柱一一男柱とか筆木,あるいは蕪木などの呼び名がある一ーを竪ユノレか

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ら抜き上げて池水を水路に落とすのであ る。このユルの操作をユlレ抜きといい, 上池のユノレ抜きは例年,

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日のこと であった。 上池の水利状況についてもう

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点,上 池には満濃池の水が引き入れられている ということを注記しておこう。図1をみ ると,池の上手に上池承水溝なる水路が あって満濃池幹線水路とつながっている が,満濃池の水はこの上池承水溝から上 池に入ってくる。いわば上池にとって満 濃池は親池の地位にあった。しかし広大 な濯瓶面積をもっ満濃池からの取水量は 常に不足がちで,この点~'農業水利慣行 調査溜池編(第一輯)~も「本溜池の貯 水量及満濃池の補水により辛じて稲作を 完くすることを得る状態なるも,将来上 池掛りを干害の憂より救ふと同時に,水 利紛争の根本的解決,不公平なる慣行(後 述の「上池残水分」慣行ー注)の改革をなす には差当り池内の淡深に仰り貯水の増加 を計るにあり,之れが費用

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万円を要す」 と述べているとおりである。 次に,上池水利組合はどのような組織 であったか。 6つの部落で構成される上 池水利組合において管理者には垂水村の 村長が就任 r総代」の名で時ばれる総勢

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名の組合の役員は各部落の部落総代 ¥ ¥

同 ト ¥

l ¥

人 灯 、

¥ 時 1

¥ 、 上i也承水路 図1 上池掛り 資料:r段業水利慣行調査溜池編(第一斡)J (香川県耕地課発行,昭和16年)に掲 載の「垂水村上池水掛り地区一般J(67 ページ)より作成則

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1069 讃岐の池と村 31-から部落ごとに

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名が選ばれた。ただ,役員を選挙で選出するようになったの は大正13年以降のことで,それ以前は世襲制による任命であった。ちなみに大 正13年といえば,香川県では農民運動の嵐が吹き荒れ,垂水村のある中讃地方 でも小作争議が激しく闘われた時期であった。世襲制から選挙制への変更もそ うした時代の潮流を反映してのものかと思われるが,しかし選挙による選出に あらたまったとはいえ,こと総代といえば,村人の信望厚く,かつ,掛り全体 の水利状況を経験的に熟知した者でなければつとまらない。となれば大正13年 以後もやはり組合の総代は部落の長老のなかから選出せざるを得なかったであ ろう。いずれにせよ,配水と貯水,番水開始の時期,水利施設の修繕や井手ざ らえ(井手とは讃岐地方にいう用水路のこと)など,ため池の管理にかかわる年々の 重要案件は総代の合議によって決定,執行されたのである。 それでは,上池の水は各部落にどのように配分されたか。この点でとりわけ 注目しなければならないのは,同じ上池の掛りでありながら西村・金竹の

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部 落とほかの

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部落の聞に配水上明瞭な格差が存在しているという事実である。 つまり,池水の配水はユル抜きによって開始されるのであるが,その配水の順 序は西村・金竹の両部落がさきで, 4部落への送水は両部落に用水がゆきわたっ たのちのことであった。

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部落に対し両部落はさらに池水の残水に対しでも優 越的立場にある。すなわち,池水が池底から 1尺8寸の高さまで下がると,そ れ以後の用水は両部落が独占するところとなるのである。同じ池掛りでありな がら,部落聞になぜこのような用水配分上の格差があるのかといえば,それは 次のような事情一一一上池築造以前,いまは池敷となっているその地所にかつて 存在していた出水,西村・金竹両部落が占有していたところのその出水を拠点 に

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部落があらたにくわわって現在の上池を築造したという歴史的事情があ るからである。その結果,西村・金竹両部落の出水権と新規に開発された6部 落の水利権からなる上池の重層的水利構造が形成され,そのことに対応して同 じ水利組合のなかに配水上特権的地位にたつ部落が存在することとなった。こ の点に関し明治16年と明治 30年,さらに大正 13年に関係部落闘で紛争があっ たが,いずれも両部落の「上池残水分」をあらためて確認することで紛争は決

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着している。 ところで,上池にかぎらず,一つのため池を複数の村が共有しているならば, 当然,池の水を村むらに配分する際の一定のノレールがなければならない。ノレー ルなしでは村むらで勝手に水を取り合い,その結果は池の水がたちまちなく なって,結局は共倒れとなるからである。ため池の維持と管理にあたる水利組 合のもう一つの任務も,一定のノレールにしたがって村むらへ水を配分すること であった。いわゆる用水慣行とは,用水配分を中心としたため池をめぐる水利 上のさまざまな慣行的ルールのことをいう。じつは上池における「上池残水分」 も用水慣行の一つに他ならない。そして用水慣行は古く幕藩時代に築造された ため池の,築造をめぐる歴史的経緯や村むらの社会的関係,さらには築造後, 村むらの間でたびたびくりかえされたであろう「水論」など,ため池それぞれ に固有のさまざまな事情が重なりつつ長い間にわたってしだいしだいに形成さ れてきたものであり,したがってその内容は当然,ため池ごとにみな異なる。 しようもんゆる そうした用水慣行の典型的事例の一つ,-証文揺」と呼ばれる満濃池の用水慣 行を紹介しよう。 満濃池の水利慣行ーーその証文橋慣行について一一証文揺の慣行はその呼 び名のとおり,ユルの構造と深くかかわっている。はじめに満濃池のユルにつ いてその構造を説明しておかなければならない。幕藩時代の記録によると,満 濃池のユノレは底ユJレ長さ 65間(1182メートlレ),竪ユノレ長さ 22.5間(409メート ル),それに 5本の櫓をそなえた巨大なユルであった。その後,明治3年に木造 の底樋を石樋に改造したとき底樋の位置に変更が生じたため,竪樋の長さを 18 間 (327メートル)に短縮するとともに,櫓の数も 5本から 4本にあらたまり, さらに大正3年にはユノレそのものに代って近代的なコンクリート製の配水塔が 建立された。図2は明治期の満濃池のユルであるが,図からだけでもその堅牢 さと巨大さがうかがわれよう。 さて,満濃池は金倉川をせきとめてつくられている。満濃池から放出された 池水はこの金倉川を幹線水路とし,これから樹脂状に広がる支線水路に導かれ て村むらに入っていく。『満濃池史要~ (昭和 4年)によれば,当時,満濃池の池

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1071 讃岐の池と村 図2 明治期の満濃池のユル 資料:Jh(図は鎌田共済会所蔵“ 33-掛り区域は図3のようであった。幕藩時代は鵜足郡,多度郡の村むらも掛りで あったが,度々の池普請のさいの費用負担にもかかわらず満濃池から遠く位置 するために十分な用水の供給が期待できないことから,鵜足郡の村むらはすで に明治以前の段階で,多度郡の村むらは明治初年の底樋つけ替え工事のときに それぞれ掛りから脱して以降,図3にみるようなかん概区域が形成されたので ある。幕藩時代にくらべればかん概面積はかなり減ったものの,それでもなお 県下ではぬきんでて最大の,およそ

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町歩の水田をかん概する満濃池は, まがうことなき丸亀平野の主水源であった。 さて,この図をみて誰もが最初に気がつくのは,満濃池から遠い下流地域に は大小さまざまなため池が数多く存在しているのと対照的に,上流地域には満 濃池のほかにため池はほとんどないという奇妙な事実である。この上流地域が いわゆる証文揺慣行によって用水の潤沢な供給が保証された地域なのである。 幕藩時代,下流地域の「下之郷」に対して上流地域は「上之郷」と呼ばれ,池

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ー ー 一 山 麓 線 ---ー現在のi也掛りの境界線 -一一上の郷と下の郷の境界 お も 溜 池 9~km 図 3 満濃池掛り 資料:'満濃池史要J(昭和4年)に掲載の「満淡池普 通水利組合区域略図」より作成" e の 貯 水 量 が 連 日 の 引 水 に よってしだいに減少し,下 から

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番目の檎にまで減少 したときは,以後の配水は 上之郷の15ヵ村(旧村)だけ の専用水とし,下之郷に対 しては配水は一切おこなわ れなかった。費用負担につ いては上之郷,下之郷とも 石高割の同じ原則が適用さ れるのであるから「証文揺」 はあきらかに下之郷に不利 な配水であるが,なぜ、この よ う な 配 水 慣 行 が で き あ がったかについては,いま のところよくわかっていな い。なおさきに指摘したよ うに,明治以前では下の 2 本の櫓と連結したユル部分 から放出される池水のこと を証文揺といったが,櫓の 数が

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本にあらたまった明 治初年以降は証文揺は一番 下の櫓と連結したユル部分 から放出される池水を指す ようなり,大正

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年に配水 塔 が で き て か ら は 水 深23 尺以下の池水を「証文水」

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1073 讃岐の池と村 35-と称するようになった。 用水慣行と讃岐の村むら 以上,用水慣行について上池と満濃池の場合を考 察したが,しかしおよそ古く幕藩時代から村むらに用水を供給しつづけてきた ため池なら,上池や満濃池に限らず,その用水の配分をめぐって必ず慣行上の /レールが存在するといってよいだろう。総じていえば,用水が恒常的に不足す る香川の農村における用水慣行の存在は,水利の秩序を平和的に維持しつつ稲 作生産を安定的に継続するために不可欠のものであった。香川の農村では通常, ため池の水が乏しくなったとき順番を決め時聞を決めて上流から下流へと順次 ばんみず 配水していくいわゆる「番水」が実施されるのであるが,これなどは水争いで 村むらが共倒れになることを防ぐまことに適切な方法であったといえよう。満 濃池の場合も証文水の時期になると上之郷旧

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ヵ村間で番水が実施され,上池 の場合も池水が池底3尺まで減少すれば以後は番水の実施となった。村むらか ら村の内部に眼を転じれば,干ばつ時に、分植えグをおこなう村も少なくなかっ た。分植えとは,池水が減って村の耕地すべてに水が送れないと判断されたな ら各自の水田の作付をたとえば

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分とか

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分とかにおさえることをいう。たし かにこれは個人の勝手な引水を許さないきびしい用水統制であるが,しかしも とはといえば村の農民たちが合議に合議をかさねたうえの決断の結果であっ て,むしろ,平等主義的な農民の自治にもとづく配水方法であったといえよう。 平等主義的といえば,各自の水田への配水量に正確を期すため,燃える線香の 長さを計りながら配水する方法一一これを、線香水グといったーーも讃岐の農 村に広くみられた慣習であった。 しかし他方,成立の当初においては間違いなくそれなりに理にかなっていた であろう用水慣行の秩序が,長い年月の経過のなかでその固定的性格が強まる につれ,とりわけ用水配分上劣位の立場にある村むらにとってはしだいに「不 合理」で「封建的」な存在と化していったことも,あきらかな事実である。『農 業水利慣行調査,~ (農商務省編纂,大正6年発刊)によれば,香川県におげる用水慣 行上の不適切,不適当な事例として, (l) 自村のため池に水を引き入れるその代償として上流の垂水・郡家両村に

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酒や肴,素麺などを提供しなければならない川西村,太田村に対しその出 水の余水を

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反当り

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円を支払ってもらい受ける下林部落,水

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石につき 6 "-"10銭で水を下流部落に供給する井戸村の下屋敷部落,掛りの農家に土 産の酒を持参して瀬丸池の水をもらう上高野村など I右ノ如キ慣行ヲ有ス ノレモノハ頗ル多クシテ枚挙ニ逗アラズ」。 (2) あらたに用水を必要とする開墾や地目変換などの場合,用水を提供する 相手がたとえ十分な水量を確保していても I……俗称守口入料」又ハ「水 口代」ト称シテ地方ノ状態ニ大差アレ共,参十円及至六十円ノ金額ヲ水利 権ヲ有スノレ者ニ支払フニ非ラザ、レパ用水ノ供給ヲ受クノレコト能ハザノレ,本 県一般ノ慣習ナリ」 (3) 綾歌郡陶村の実光池などにおいては I……濯瓶面積ハ旧藩時代ノ徴収石 高ヲ基礎トセルモ,実測面積トノ差大ナノレヲ以テ随テ配水ニ不均等ヲ来シ, 一方ハ用水富裕ナlレニ一方ノ¥稲作ノ枯死スノレ惨状ヲ見lレ耕地甚少ナラズ、」。 (4) 一般的には個々の水田に分割しえない性質の水利権に対し 1枚 1枚の 水田に個別的水利権が付着している「水フ、ニ」と称する特殊慣行が存在す る香川の一部農村地帯においては,,,,,…各池及ビ河井手掛リニ於テ旧石高 ニヨリ割当テヲナス配水ハ,大字ニ入リ更ニ一筆毎ニ特有ノ水利権ニ比例 シテ分配スルニヨリ,権利多キ回ハ干害ヲ免ルノレト雄モ,少ナキ田ハ常ニ 不作ニ陥リ,尚,費用モ水利権ノ多少ニヨリ分賦セラlレノレガ故ニ狼ニ他ニ 供給セザノレガ如キ背道徳ノ行為ヲナス者少カラズ」

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)

三谷三郎池の三谷村,三つ子池の田中村など池掛かりの特定地域に対し 干ばつ時に優先的に配水する慣例について I…一用水分配ニ当タリ丸メ 水,定水,又ハ大水ト称へ,常ニ配水ノ上流ニアルモノ及ビ池元ニ於テ池 水ノア/レ分量ヲ独占的ニ使用スノレ悪習ヲ所有シ,下流区域ノ水量ヲ減殺セ ラルノレノ、,配水上遺憾ノ次第ニシテ,今之レガ弊習ヲ打破スルハ最モ容易 ナラザル難事ト日フベシ」 等々の事例が報告されている。ちなみに,満濃池の証文水慣行はまさに右の(

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)

のケースに該当するのであるが,昭和14年のあの大干ばつのときに証文水地域

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1075 讃岐の池と村 -37-の榎井村などが平年作の130%もの収穫があったのに対し,非証文水地域の郡 家村や丸亀市は収穫が平年作のわずか20%と,同じ池掛りでありながら収穫に かくも大きな格差が生じた最大の理由はこの証文水慣行の存在そのものにあっ たといえよう。このことはともかく,右の諸事例にみるような「不合理」で「封 建的」な用水慣行の存在が,ふだんは静かな讃岐の農村がひとたび干ばつに襲 われたとき,村むらの間で展開するはげしい水争いの直接の契機となったこと については第3節でくわしく考察するであろう。 * 農 業 水 利 慣 行 調 査 』 は 大 正2年に農商務省が道府県に照会して実施した水利慣行調 査をもとに編纂されたものであるが,この時期になぜ,農業水利に関する全国規模の調 査がおこなわれたかというと,明治末から大正はじめのころは日露戦争後における資 本主義的大工業と大都市の発展によって米の供給不足状態が恒常化し,食糧増産が国 の重要課題となりつつあった時期であった。だがじつは,食糧の増産をもたらすべき開 墾・関田・干拓などの土地改良事業にとっては大きな障壁があった。他ならぬ地域排他 的,独占的性格の強い慣行水利権の存在がそれである。その実態を確認する必要からこ の全国規模の水利慎行調査が実施されたのである。 ところで用水慣行ということになれば,河川の場合はどうか。総じて讃岐の 主要な河川は幕藩時代の中ごろにはすでに,水資源が稀少化して取水をめぐる きびしい用水慣行が形成されつつあった。そこで次に考察すべきは,河川の水 利慣行である。 河川の用水慣行一一骨東川にみる一一河}IIの場合,用水慣行形成の基軸と なるのは,上・下流聞の対立である。上流で取水する村むらと下流で取水する 村むらの,取水をめぐるこの両者の対立と抗争のなかから用水慣行が形成され てくるのである。しかし一口に用水慣行といっても,いくつもの用水が近接し て存在しているような河川の場合,河川全体としてみれば,上流はさらにその 上流からみれば下流,ある下流はさらにその下流に対しては上流といった関係 にあるから,複数の上・下流が対立し重複しつつ複雑な用水慣行が形成される ことになる。香川の河川はいずれも典型的にそのような状況にあり,しかも香 川の河川は,ため池にとっても重要な用水供給源であった。河川│から直接かん 概する村むらが水を必要としなくなる冬場の時期,河川の水をため池にためこ

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38 んでおくことは,ため池掛りの村むらがふつうにおこなってきたことであった。 このことが,香川の河川の水利慣行を一層複雑なものにしているのである。 高松市の郊外を流れる香東川の場合も,明治期にはすでに図

4

にみるような, 多数の用水がひしめきあう水利状況が形成されていた。明治期の裁判記録をも とに作成されたところの、香東川水掛り地図汐とでも呼ぶ、べきこの図によれば, 最上流の井堰を葦脇堰という。上流から

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番目の一ノ井堰と呼ばれる井堰は, 由佐,横井,岡の3ヵ村をかん瓶するが,水路の末端は奈良須池につながって いて冬場はーノ井堰の水は奈良須池にためられる。さらに一ノ井堰の下流には 下流(北) 上流(南) 図 4 香東川水掛り地図 資料:原図は,辻 唯之「讃岐農業水平IJ慣行の諸相(1) 河川編一一J(r水利科学,NQ147)69ページに 掲減 原図作成のもととなった資料は,高松地方裁判所所蔵の判決原本“

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1077 讃岐の池と村 -39-ニノ井堰など

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つの井堰が築かれていた。別の資料によれば以上の井堰のほか に,天満,夜中,前,五平などの井堰の存在も確認できるから,最上流の葦脇 堰から最下流の新水道堰まで,距離にしてわずか10キロ余の聞に 10を数える 井堰が築かれていたことになる。なお,これも別の資料によれば奈良須池のほ かに,どの井堰から水を引いていたのかはわからないが船岡池,平池,前池, 龍満池なども香東川につながるため池であった。 うめひ さらえぽトり 香東川には右にみた井堰のほかに,埋樋や波堀,出水などもあった。図中に 記載の松カ端埋樋,横内淡堀,柳生出水などがそれである。ここにいう埋樋と は,上流から下流にむかい斜めに川床を掘って溝をつくり,そこに大石を敷き つめ,大石の聞を疎通する伏流水を堤の外に導く,そのような構造の取水施設 である(図5参照)。埋樋は川床の数尺下に設けられ,堰とは違って洪水のたびご とに破損するようなことはないが,土砂が詰まって水が疎通しなくなる難点が あり,疎通能力が落ちれば,敷き詰めた大石を掘り起こさなければならなかっ た。また,川床を掘り割って湧き出る伏流水をためておく淡堀や出水は,香東 川のいたるところに存在していたと思われる。 ここで確認しておくべきことは,井堰における取水方法が,井堰ごとに慣行 的に固定されていたという事実である。香東川に設けられた弁堰はいずれも大 石を組み,その聞を土砂で埋め,その上を土俵や松葉でおおう程度の脆弱な構 図5 埋樋の構造 資料・原図は,辻唯之「談岐農業水利慣行の設相(1)一一河)11編一一J('水利科学JNo147l63 ページに掲.Iit

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造のものであったから,洪水のたびごとに破損し,破損のつど修築しなければ ならなかった。修築にあたっては,上流側は上流側で自分に有利に改造しよう とするし, もともと取水に不利な下流側は下流側でつねに争う構えとなる。そ こで水争いが繰り返され,その繰り返しのなかから,井堰の修築や補修工事の さいは下流側が工事に立ち会って井堰が上流側に有利にっくりかえられないよ うに監視するならわしが自然発生的にできあがってくるのである。もちろんこ うした取水方法の慣行的固定化は埋樋や出水についても同様にみられるところ であって,その規模,位置などに変更があれば,それはただちに水争いの引き 金となった。 香東川にみるような右のような状況は,しかし何も香東川にかぎったことで はなく,土器川や綾川,財団川などの讃岐の主要な河川においても同様であっ た。多数の用水がせめぎあうように存在し,しかも,それぞれの取水方法を慣 行的に固定化することによって河川全体の水利秩序がかろうじてたもたれてい るような水利状況,これが香川の河川の一般的な姿であったといえよう。 以上に紹介したようなため池,河川の用水慣行が,なぜ,香川の農村にかく も広範に,かつ根強く存在するのかといえば,それはあげて農業用水の憤常的 不足ゆえであった。かくしてこの恒常的水不足の解消と用水慣行からの開放を もとめて,香川の農民たちによる用水獲得のための努力一ーため池の堤防をか さ上げし,さらにはため池自体を築造するといった一一ーは明治以降もたゆみな くつづく,慣行水利権の厚い壁と闘いながら。いまここに慣行水利権という用 語が登場したが,慣行水利権とは用水慣行を法的に表現したものにほかならな い。幕藩時代に成立して以降,ときには「水論」も経験しながら,毎年くりか えされてきた用水慣行はたんなる歴史的事実にとどまらず,近隣の村むらの社 会的承認を得たものとして,事実上,他者を排除しうる法的権利として存在レ ているのである。明治以来,水争いが法廷の場で争われたとき,裁判所が判決 の根拠としたのは過去の慣行的事実であった*。かくして,香川の農村に無数に といってよいほどに存在する用水慣行はその一つひとつがーーもちろんそれぞ

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1079 讃岐の池と村 41ー れ の 内 容 が 明 示 的 に 確 認 さ れ た わ け で は な い が 法 的 権 利 と し て の 慣 行 水 利権なのである。 以下,項をあらためて戦前香川における用水獲得の歴史を概観しよう。

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たとえば, (1) 野田池における「池水七ツ割リ」の配分慣行について,これを「本ユ Jレ」かぎりの慣行だと主張する松縄村に対し,福岡村の主張どおりこれを本ユルJ, 「返しユル」あわせての慣行であると判決した「用水池割相違ノ控訴J (明治10年), (2) 御厩池の池水配分について,その「五分ノ分水」を主張する飯田・檀紙・鶴市の 3ヵ 村に対し,御厩・中間の2ヵ村の主張どおりこれを七日七夜ノ分水」と判決した「配 水引縫ノ訴J(明治12年), (3)干ばつにそなえるため大窪池から下法軍寺村が臨時に おこなった引水は不法と判決した「水理妨害ノ訴訟J(明治20年)などの訴訟事件にお いて,裁判所が右のように判決したその根拠はいずれも,幕藩時代の古記録や古文書な どであった。古記録が存在しない場合はユルや分水施設の構造などが判決の根拠とさ れたが,いずれも過去の用水慣行の存在を確認するための客観的証拠物であった。 II ため池の築造と香川の農村 近代香川のため池築造年表戦前来,香川県農業にとって宿願であった吉野 川からの導水計画が実現したのは,昭和

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年のことであった。阿讃山脈をく ぐって吉野川から「香川用水」へ流れ込む水の量は

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万トン,このう ち農業用水は

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万トン,じつに,現存するため池とダムの総貯水量に匹 敵する膨大な水量であった。ということを逆にいえば,香川用水が実現するこ の時期まで香川県農業は恒常的水不足から開放されず,したがってまた,水資 源獲得のための香川の農民たちの苦難の歴史が戦後も戦前もつづいたというこ とにほかならない。表 2 は讃岐の池と水~ (昭和

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年)に掲載の「香川県下 溜池築造年表」から,戦前におけるため池関係事項をピックアップして作成し た年表である。この年表には県下の主要なため池しか掲載されていないから, ため池にかかわる水利事業すべてということになれば,このほかに,無数の中 小ため池のそれがプラスされなければならない。このことを考慮すれば,戦前 の香川の農村においてはいかに頻繁に,ため池の修築や堤防かさ上げの工事が おこなわれ,そしてまた,あたらしいため池がつくられていたかが了解できる

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表2 戦前香川のため池築造史年表 明 治 年 間 大正年間(続) 明治 3 満濃池,底樋の石穴貫通. 9 新池改修. 4 三野池,築造. 10 仁池,樋替え. 13 逆瀬池,樋替え. 11 三五郎池,築造. 25 小原池,樋替え. 12 大大正池, 築造替. 26 奥池,増築. 窪 池 , 樋 え . 28 小津守池,増築. 13 岩瀬池,樋替え. 31 満奥濃谷池池,・障増害池築 修築. 戦 前 昭 和 年 間 33 音谷池,増築. 昭平日 1 蛙子池,増築. 34 蛙子新池,築造. 5 満豊濃稔池池,・奈築造良須.池, 増築. 35 大小谷原池池 培樋替築.え. 6 三昭郎和池池 増築築造 39 満井濃関池池 増樋替築.え. 7 鎌岩瀬田上池,・下樋替池,え.改修. 42 二股池・逆瀬池,増築. 8 公国調市瀬j池池 ・・ 勝楠樋替見目池池 増改築修 44 吉原大池,樋替え. 岩 池 , え. 大 正 年 間 9 峰子新池,改修. 大正 2 神内上池・諸口池,築造. 13 内場ダム,工事着手. 3 満大濃正池池, 配改水修築塔完成. 15 蛙子良新池, 増修築. 奈 須 池 , 築. ユパサ池, 造. 16 中山池・新ニ替葉池,築造. 4 三谷新池,築造. 一亀満越濃ノ谷池池池,,,増増樋築築.着手え 5 山山下田池池,・綾増築川池 築造. 6 石三奥神谷池池大増築,池樋替築造え 17 三五郎池,増築. 18 岩瀬池・千歳池,増築. 19 小川下池・門入池築造. 8 大谷池・蛙子新池,増築. 資料. ,談i肢の池と水, (桂 重喜,昭和37年)に掲}俄の「香川県下溜池築造年表J.. 注)1 年表中の用語について ・増築=堤防のかさ上げ工事。 ・修築=堤防本体,ユノレ・納の修繕" .樋替え=底樋のつけ替え工事1 当該事項の工事・修絡期tHJが複数年の場合,その事項は完成年に記iJit 水路関係の工事は記減せずt

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-43-讃岐の池と村 1081 であろう。 以下,明治から戦前昭和の時期におけるため池の水利事業が,香川の農村と そのありさまを,井関 農民にどのようにかかわりあいながらすすめられたか, 池の修築一豊稔池の築造という一つの個別的事例の紹介をとおしてあきらかに

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大野原村 / / 馳 / / 荊 /

w w 五郷村 図E 井関池と豊稔池 注)村の配霞図は明治期のもの。

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く に た しよう。大野原普通水利組合の関係書類によると,枠田川をせきとめてつくら れた井関池は明治44年当時,大野原村一円と萩原,中姫,杵田の 3ヵ村,面積 にして260町歩の水田をかん概するするところの,西讃では最大級のクラスに 属するため池であった。豊稔池も昭和のはじめ,枠田川をせきとめでつくられ たため池で,その下流に井関池がある(図6参照)。井関池が築造されたのは,幕 藩時代はじめのことであった。 はし11し その前史一井関池の築造と平田家 元録年間の古記録に「古来芝原端々松有」 とあるような原野さながらの大野原の開発がはじまったのは,江戸時代に入っ て聞ない生駒家の治政下の寛永年間のことであった。当時,徳川幕府の大名た ちはきそって大規模な新田開発をすすめていたが,ここ讃岐の地においても, 新田開発が大野原の原野ですすめられたのである。高燥の土地である大野原を 開拓するには,まずもって用水を確保しなければならない。井関池の築造がそ れであり,そしてその計画と実施にあたったのが本稿の官頭にも登場したあの 西嶋八兵衛である。こうして開始された大野原開拓であったが,しかし開拓事 業は事業半ばで挫折した。西嶋八兵衛が仕える生駒家がお家騒動が原因でその 領有する讃岐国を改易されたからである。以後,讃岐国は東西に分割され,東 讃は高松藩松平家,西讃は丸亀藩山崎家が支配するところとなった。 井関池の再築は山崎氏の入国後間なくはじまった。しかし今回は藩がのりだ すことなく商人の手によってすすめられるところとなった。いわゆる町人請負 新田である。その商人の名を平田与一左衛門という。近江国は大津の出身でい まは京都に在住し,大名貸しをするほどの豪商であった。この平田氏から事業 資金の援助を受けた大阪の商人・備中屋藤左衛門ら 3人によって大野原開拓の 大事業は寛永12年 (1643年)にスタートした。だが,開拓事業のかなめとなる 井関池の築造は難渋をきわめる。すなわち,築造開始翌年の正保元年にははや くも池はできたが,しかしできたその年に堤防が決壊,以後,復旧と決壊を繰 り返し,最終的に完成したのは,築造開始後12年目の承応3年 (1654年)のこ とであった。しかも,長きにわたる膨大な出費で備中屋らの財力はすでにつき, 懇願に懇願をかさねたうえでの丸亀藩じきじきの普請による完成であった。ち

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1083 讃岐の池と村 -45-なみに,井関池完成のあかつきには備中屋らは新田の半分を譲り受けるはず、で あったが積みかさなる借金を支払えなくなったためにその約束が反故となり, 結局,大野原の新田は平田氏ひとりの手に帰することとなった。平田氏が京都 の地から家を挙げて当地に移り住むことになったのもこのためであるが,その さい平田氏は鍬をもって開墾事業に馳せ参じた百姓たちの労をねぎらうべく小 作料そのものを低く定める一方,彼らが末長く耕作をつづけられることを約束 あまっち したのであった。そのことがいわゆる「甘土」を当地方で発生させることとなっ た。大正期末の香川の小作争議がこの甘土を小作農の耕作権として香川の農村 に広く定着させる農民運動として展開したことについては前稿でくわしくみた ところである。 かくして井関池の完成後,大野原の開拓は順調にすすみ,慶安2年 (1649年) におこなわれた検地のときの開墾面積136町歩は,嘉永4年 (1851年)には499 町歩へと大幅に増加し,また,この間,井関池を拠点として,猫塚池,挟池, 清水池などの子池が次々とつくられていった。このようにして幕藩時代に築造 されたため池と開発された水田が明治以降の大野原村に近世的遺産として継承 されることになる。 明治38年ユル替え工事一一井関池樋替日誌 明治38年の秋,大野原普通水 利組合は井関池のユノレ替え工事に着手した。工事実施の認可を受けるために県 に提出した許可申請書によれば,井関池の底ユルは「七ヶ年以前ヨリ敷石,蓋 石トモ所々挫折,其時々修繕致来候得共,昨年来大破損ヲ生ジ,最早姑息ノ修 繕ニ難耐」いありさまであった。そもそも,池水が奔流となって通過する底ユ Jレはため池の水利施設のなかで一番壊れやすく,堅牢に石でつくったユノレでも 長い年月の経過とともに損傷や摩耗はまぬがれなかった。この傷んだ古いユル を新しいユJレに取り替える工事をユル替えといい,ため池にかかわる修築工事 のなかでもっとも困難にしてかつ大規模なものであった。そのユJレ替え工事が 井関池ではじまったのである。明治38年の9月から半年以上を費やしておこな われた井関池のユノレ替え工事は,どのようであったか。幸い r井関池樋替日誌」 と題する克明な工事記録がいまに残されているので,以下,これにもとづき当

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堤 堤 図 7 ユノレ替え工事 資料:1京図は,辻 唯之「讃岐農業水利慣行の諸相(I)一一一河川編 J ('水利科学,No.l47)63ページに 掲 載l 原図作成のもととなった資料は,高松地方裁判所所蔵の判決原本。 時の井関池ユル替え工事のありさまを再現しよう。ユノレ替え工事の開始を告げ る池の櫓のとりはずしがおこなわれたのは,明治 38年 10月の 19日のことで あった。 ユル替え工事は堤を切り抜くことからはじまる(図7参照)。高さ

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間半の堤を 21層に分け,一層ずつ掘下げていくこの作業は, 10月 21日に開始された。お そくとも田植えのはじまる来春までには終えねばならぬ工事であったから,大 野原普通水利組合は村中総出の体制で臨み,作業は早朝6時から日没 5時まで 終日休むことなくつづけられた。工事に参集した百姓たちには日当として 21歳 から

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歳までの体力壮健の者には

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銭, 20歳以下の若者と

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歳以上の年寄 りには32銭が支払われた。途中,日当をめぐる騒動もあったが奨励金を出すこ とで事態の収拾を図り,

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日に作業は完了した。 次はユルの取り替え工事である。旧ユルを取りはずしてあたらしいユノレを据 え付けるに際し,もっとも注意を払わなければならない点は新ユルの据え付け 位置であった。ユルが埋設しである場所をユル座というが,そのユル座が新ユ Jレと旧ユJレで異なると,ユル替えの前と後で池水の放出量に差が出,それが上・ 下流聞の水争いのもとになるからである。新ユJレの石材は大阪から石工を招い て加工させ,また,セメントも同じく大阪から取り寄せてユル座の基礎固めが おこなわれた。工事にはおよそ40日が費やされた。

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1085 讃岐の池と村 -47ー つづいて切り取った堤を埋めなおす工事である。家ごとに臨時に人夫を徴収 し, 200人もの男衆たちが堤に上がって音頭にあわせながら杵で突き固めてい く。きびしい寒気と降雪に悩まされながらの突貫工事であった。工事には

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月 10日から3月4日までのおよそ2ヵ月を要した。 堤の修築がすめば,引きつづいて埋めなおした堤の補強工事をおこなわなけ ればならない。堤の前の斜面の前置き,うしろの斜面の芝敷きの工事がそれで ある。前置きとは護岸のために斜面に玉石を敷く作業,芝敷きとは雨で土砂が 流出するのを防ぐため斜面に荒芝を敷く作業のことをいう。この補強工事がす めば,最後に,はじめに取りはずしていた竪ユルと櫓の取り付けがおこなわれ, これをもってユル替え工事はすべて完了することになる。ときに,明治39年4 月3日であった。その1ヵ月後の5月2日に挙行された落成式の場での工事経 過報告によると,総工費6,454円 28銭5厘,動員された人夫は延べにして 1万

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,788人であった。 悪化する大野原地方の水事情 上にみたような村を挙げての井関池修築工事 にもかかわらず,大野原村は水不足からまぬがれることができなかった。それ どころか当時,大野原村の水事情は,もともと井関池の貯水能力一杯まで開田 がすすんでいるところへ次のような事情が加わって一層悪化しつつあった。そ の事情とは一つは土砂の流入・堆積による井関池の貯水能力の減退である。井 関池は枠田川を直接堰止めてつくったため池であるから,もともと土砂の流入 は避けられないのであるが,ただ,近年,その流入が一層激しくなりつつあっ た。この点,さきの井関池工事の落成式当日,県の土木技師が答辞のなかで「近 とくしゃ 来,森林濫伐ノ弊ハ頓ニ山岳ノ禿結ーヲ誘引シ,従テ土砂ノ流出,一雨ハ一雨ヨ リ甚シク,我井関池ノ知キモ今ヤ数年ヲ出ズシテ殆ド貯水ノ余地無ラントス/レ 形勢ヲ示セリ」と述べているとおりである。山が荒廃して土砂が池内に流入す るこのような事態は,幕藩時代のような厳しい山林の監視がおこなわれなく なった明治期以降は何も井関池にかぎったことではなく,谷聞につくられた麓 池なら程度に差はあっても広くみられたところであった。たとえば,明治37年 におこなわれた満濃池の堤防かさ上げ工事も,土砂堆積による貯水量の減少を

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おぎなうためであった。だが井関池の場合は,前稿で述べたように枠田川の水 源である五郷山が誤って官有山に編入され,生活に窮した村民たちがかつての 入会山である五郷山に入って盗伐をくりかえしたために一層荒廃するという特 別な状況にあったことを指摘しておかなければならない。 大野原村における水事情悪化のもう一つの事情は,明治以降における甘薦作 の衰退である。幕藩時代,讃岐全域でおおいにさかんで、あった甘薦作一糖業が 明治

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年代以降,安価で、良質な洋糖に圧倒されて急速に衰退していったこと は,前稿で述べたとおりである。ところで,高松,丸亀両藩が強力な糖業保護 政策を展開した理由はもちろん藩財政をたてなおすことであったが,そもそも なぜ糖業が保護政策の対象に選ばれたのかといえば,それは他ならぬ甘薦が稲 のように大量のかん概水を必要としない干害に強い作物だったからである。こ の甘薦作の稲作への転換が新規の水需要を引き起こしたのであった。この間の 事情について,明治末刊行の『香川県系史』が「近時,綿花,製糖ノ業大ニ退廃 シ,往時濯瓶ヲ要セザリシモノ,亦,続々稲田ト変化シ来レルヲt以テ水利益々 窮乏ヲ告ゲ…"“」と述べているとおりである。表2における明治期のため池の 築造や増築は,ため池の貯水能力の減退という事情にくわえて,甘薦作の稲作 への転換という栽培作物の変化という事情がかさなったことをここで指摘して おきたい。 井関池のユル替えがおこなわれた明治37年から 10年後の大正 2,3の両年, さらにはその10年後の大正 13年,大野原村は干ばつにみまわれ,あらたに用 水を渇望する農民たちの気持ちはつのるばかりであった。それが実現したのが 昭和

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年の豊稔池の築造である。 大関耕地整理組合の設立 大正

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月の県会において r大野原耕地整理 県営実施ノ推進ニ関スJレ建議案」が提案され,満場一致で採択された。三豊郡 出身の白川議員が「大野原へハ娘ハ遣Jレナ娘釣瓶ノ嫁ニスル」という俗謡まで 披露しつつ,その推進を訴えた大野原耕地整理の中心事業は,当然のことなが らため池の築造であった。 そもそも,ため池築造による耕地整理事業が立案されたのは明治

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年のこと

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1087 讃岐の池と村 -49 であったが,こののち,農業土木学の第1人者である東京帝国大学教授・上野 英三郎博士による実地調査などの結果,計画は井関池と大谷池両池の改築にあ らたまった。さきの図5にみるように大谷池は井関池の下流に位置し,独自の 集水地域をもつが,枠田}IIと井関池の放水路からも導水している。かん概区域 は主に萩原村と中姫村である。『香川新報』の記事(大正8年5月15日)によ れば,大谷池拡張の敷地が陸軍の雲辺寺原演習場内にあったため,善通寺の第

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師団との度重なる交渉の結果,ょうやく工事実施の許可を得たという。 大正

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月,大野原耕地整理事業の推進母体となるべき耕地整理組合が設 立された。大谷池と井関池からそれぞ、れ一字をとって大関耕地整理組合と名付 けられたこの耕地整理組合の受益区域は大野原,中姫,萩原,枠田の

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ヵ村と 豊浜町にまたがる

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町歩である。明治

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年の計画立案以来,

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固にもおよ ぶ協議会開催ののちに設立された大関耕地整理組合であったが,しかし大谷池 側と井関池側の水利調整がもつれて計画案がまとまらず,結局,組合は3つの 地区に分かれてそれぞれ独自に計画をすすめることとなった。 豊稔池の築造 さきに,大正13年の県会で大野原県営土地改良事業推進の建 議のあったことを述べたが,この年は,他ならぬ土地改良史上画期といわれる 「用排水改良補助要項」が制定された年である。この要項が制定された大正後 期は,米騒動に象徴されるように日本経済の恒常的米不足が顕在化し,また, 小作争議がはげしくなって農民運動の高波が地主制を大きく揺り動かした時期 であった。この要項にもとづき実施される土地改良事業は一般に用排水幹線改 良事業とか府県営土地改良事業と呼ばれるのであるが,これは国家が大規模に 財政資金を投入することで食糧増産と地主経済の安定をはかろうとしたもので あり,地主層に代わって国家が土地改良事業に本格的に介入する鴨矢となった。 要項によれば,受益面積が

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町歩以上の土地改良事業に対して,事業費の

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分のlという高い補助率で国庫補助金が支出されることになる。総工費55万円 という畳稔池の築造もじつはその半額が国庫から補助されることによって実現 の第 l歩をすすめることができたといえよう九 さて,大正13年の県会での大野原県営土地改良事業推進の建議を受け,この

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年,大関耕地整現組合のうちで干ばつのもっともはげしかった井関池水利区が 新池の敷地を枠田川の水源地である五郷村の田野々の地にもとめ,大正15年か ら本格的にため池築造の工事を開始した。大関耕地整現組合と五郷村の間で大 正14年に締結された「大関耕地整理組合新池築造二関スル協定書」によれば, 大関耕地整理組合は五郷村に対し2万5,000円の報償金を支払うほか,五郷村 に「サンサイ」が設定された。讃岐地方にいうサンサイとは,前述の満濃池証 文水や上池残水分のような用水配分上の特権のことで,協定書に「田野々池溜 水三尺ノ地点ニ分量石ヲ据付ケ夫レ以下ノ水ノ¥弐百拾日迄古田以下専ラ五郷村 ノ田地ニ濯概セシムルコト」とあるように,新池の残水一定量の優先的利用権 が五郷村にあたえられた。なお,池敷となって水没する田畑や山林の買収額, 家屋や墓地の移転料などの決定は三豊郡長に一任されている。 あたらしいため池は昭和5年3月 25日に完成した。当時の最新技術であるマ ルチプルアーチダム方式で建造されたところの,美しい石積みの堰堤をもっこ のあたらしいため池は,豊作を祈願して豊稔池と命名された。堰堤の肩口のと ころに建つ豊稔池碑には,計画立案以来25年にしてようやく豊かな水を手にし た農民の喜びと感動が r. 爾来(豊稔池築造後一注)六二七町歩ノ耕地濯概水 富ニシテ,タ夕、ニ昔日ノ如キ干災ヲ免lレノミナラズ,稲田豊カニ稔リ黄色雲穣々 トシテ庶民鼓腹撃壌ノ楽ヲ得テ聖代ノ徳沢ヲ謡歌スルニ至リヌ……」と刻まれ ている。なお豊稔池完成の翌年の昭和6年,大野原普通水利組合は名称を豊稔 池普通水利組合とあらためた。豊稔池築造によるかん甑区域拡張にともなう処 置であるが,新かん瓶区域は豊浜町の海岸部・姫浜地区までふくみ,そのかん 甑面積は旧かん甑面積のおよそ1..8倍に広まった。 こうして豊稔池は完成し大野原村はあらたな用水源を獲得したのであるが, しかし昭和9年,香川県はまたも干ばつにみまわれ,大野原村も大減収となっ た。寡雨と河川水不足というきびしい水利状況のもとで稲作がいとなまれるか ぎり,ため池は築かれでも香川県農業が干ばつの被害から開放されることはな かったのである。

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大正後期から昭和初年の時期,香川県では豊稔池のほか,満濃池,四カ池,三郎池の

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1089 讃岐の池と村 -51-3つのため池を対象に用排水幹線改良事業が実施された。満濃池の土地改良事業は,堤 防のかさ上げと幹線用水路の修築をおこない,事業費47万円のうちその半額にあたる 23万 5.000円が国庫から補助された。神内,神内上,松尾,城,公沸jの5つのため池を もっ四カ池普通水利組合は,公1自l池のかさ上げと幹線用水路の新設をおこなった。工事 費は総額およそ50万円,その半額が地元の負担であった。また,三郎池水利組合は30 万円を投じて堤防のかさ上げ工事と余水吐の改修をおこなった。 III 干ばつと水争いの村 昭和

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年の大干ばつにみる一一 香川県農業と干ばつ すでに指摘したとおり,香川県の河川は水源浅く水量 乏しいため,夏場のかん概期の安定的な用水漉としてはほとんど期待できない。 そのため,讃岐では古くからため池を築きその水で稲作をつづけてきたので あった。ところで,ため池の水田は,池の水だけでなく自然の降雨量も前提に して開発されている。だから,冬場のため池の貯水が十分でなかったり,空梅 雨や日照りつづきということにでもなれば,しだいに用水は逼迫し,やがて回 は裂け稲は白穂と化して干害の発生となる。もしこののちも雨が降らなければ 凶作は必至だが,しかし一朝雨が降れば,それまでの日照りが幸いして実りの 秋が約束される。香川の農業はまるで雨と博打をやっているようなものだとい われたのも,こうしたため池依存型の農業を指摘したものであって,讃岐の農 民たちは,池水のたまりぐあいに常日頃から心くばりしつつ,空模様の変化に 一喜一憂しながら米づくりをおこなってきたのである。 中央気象台多度津測候所の観測調査によると,開設の明治26年以降戦前昭和 に至る間,とりわけ夏場に雨の少なかった年は,明治 27 年(7月 25 日 ~9 月 9 日 の47日間の雨量一 212ミリ),明治

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年(7 月 27 日 ~9 月 2 日の 38 日間の雨量=5..1 ミ リ),大正6年 (7 月 9 日 ~8 月 21 日の 44 日間の雨量=39..4ミリ),昭和4年 (7月11 日 ~9 月 8 日の 60 日間の雨量=25.4 ミリ),昭和

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年 (7 月 27 日 ~9 月 7 日の 43 日間の 雨量一325ミリ),昭和

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年(6 月 30 日 ~9 月 9 日の 72 日間の雨量 =36 4ミリ)であっ た 。 ま た 香 川 県 の 干 魁 干 害 研 究.D (昭和12年)によれば,明治22年から昭和

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10年までの47年聞に収穫が平年作の20%以上も減少した凶作の年は明治22 年,明治27年,明治30年,明治32年,昭和6年,昭和9年の6回を数え,さ らに昭和14年は明治以来これまで干ばつの被害がもっとも深刻な大凶作の年 であった。こうした干ばつと凶作にみまわれた年の香川の農村はどのような状 況であったか。以下,昭和9年の場合をとりあげて,干ばつの兆があらわれた 7月のはじめから,凶作が決定的となった 9月はじめに至るおよそ 2ヵ月間の その推移の過程をたどってみよう。讃岐の農村はまさに,水,水,水に明け暮 れる 2ヵ月間であった。 昭和9年の干ばつ 図8にみるように昭和 9年という年は冬場に雨が少な かったため,例年なら池水を満杯にして田植えをむかえるはずの讃岐のため池 は水のたまり具合が悪く, 6月20日現在の調査によると,県に報告のあったた め池のうちその2割以上のため池は貯水量がまだ半分にも達しないという状況 にあった。しかしその後も雨は降らず,昭和9年 7月 1日の香川新報は,-もう 160 80 年 平 ↑ ¥ ¥ れ 1 1 1

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﹂ 140 120 100 60町 日百和9年 20 1 月 ハ H V 2 3 4 5 6 7 8 図B 昭和 9年の降水量比較 資料:r香川県の干魁・干害研究J(昭和12年)4ページより作成"

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1091 讃岐の池と村 -53 梅雨は明けてしまった気候」と題して I香川県では十二日の入梅以来,潤雨の あったのは十六日と十九午後から二十日迄と二十四日午後一寸降ったくらいで あって,例年のような雨が一切なく梅雨明けという半夏生も後三日で如何様に も雨が少ないので田植えのまだ出来て居らぬ団地も多く。…」と報じた。この ころから,おなじ香川新報の紙面に,干ばつの記事が目立ちはじめる。次のよ うな内容の記事であった。 [ 7月6日] 県の農務課の調査によれば,田植えの終わった水田は県全体の 水田のほぽ半分で,大川郡の相生村など

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の町村では水源が枯渇 し植え付け不能。

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日] 県当局は緊急干害対策協議会を開催,満田県農事試験場長は農 会の技術指導員などに対し,仮植えでもいいからとりあえず苗代 の苗を本田に移しかえるよう督励した。しかし,本田自体が水が なく乾いているから,仮植えをしてもその干害対策が大変で、,同 じく県農事試験場長から I四五寸に切断せる藁稗其他之に類する ものを株下一面に散布し,日光の遮断をし,地面の乾燥を防ぐこ とJ,I稲田の乾燥甚だしくて枯死に瀕せむとする場合には,井水 其の他を利用し土瓶又は杓を以て少量宛にでも根元に濯水するこ と」などの注意事項が披露された。

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日] 満濃池の水位が

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尺から

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尺に減じた。あと

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日雨がなけれ ば「証文ユノレ」の実施も止むなしという。もし実施されれば,大 正 2年以来のことであった。

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日] 栗林公園の池の水を譲り受けてかん概されている高松市宮脇 町の水田は池水の減少とともに干ばつがいちじるしく,農民たち は県の公園課に一層の池水の流用を陳情,高松市農会長も木下知 事に窮状を訴えた。 [ 7月13日] 仏生山署は香南 14ヵ町村の田植えの進行状況について,一宮, 多肥,大野の3ヵ村では田植えがまだ半分も終わっておらず,一 宮村では314町歩の水田のうち田植えの終わった水田はわずか

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100町歩しかないと報告した。 右の記事にみるような,しだいに深刻化する干ぼつから香川の農村Lを救った のは 7月13日の夜半から 14日の早朝にかけての降雨であった。雷鳴をとも なった19日ぶりのはげしい雨で乾き切っていた稲田は息を吹き返し,県下の水 田の田植えもここ数日でほぼ完了の見とおしとなった。 7月14日の香川新報 も,-降った降った黄金の雨,もう農村は大丈夫」という大見出しで,いっせい に田植えのはじまった田園の光景を報じている。しかし雨はこのときだけで, こののち降雨なきまま 7月が終わり 8月に入っても雨は一向に降らず,月半 ばになるとふたたび

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月段階よりさらに深刻な内容の干ばつ記事が紙面を埋 めるようになる。すなわち

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日の香川新報は,、農村の惨状一一目も当て られず干ばつ非常時一一ー学童から老人まで総動員で濯水作業に汗みどろ一一ーか と題して, 「天はまだ疲弊の農村に恵みを投げず,雨を見ざることここ

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ヶ月余り に亘り,ジリジリと油照りの炎天つづきで,農村には恐る可き大早魁が 予想され農民は唯だ雲の動きを望んで青息吐息に萎れている。いづれを 見ても田園には砲列のように濯水車がならんで澗れなん水に空車がきし る。殊に水不足の香川郡多肥,太田,一の宮方面では小学児童から爺さ ん婆さんまで総出動の活動で,眼前に楽しい孟蘭盆を控えて今はみぐる み因子になりそうである。村の青年少女等がこの分では憧れの盆踊りも 物にはならずとはいへ,皆々一言の不平も云わずに一心不乱で稲の看護, 汗みづくとなりコトコトと濯水車を踏んでいる。」 と,生々しく干ばつのありさまを報じ,以後,連日,干ばつ記事がつづく。 以下,そのタイトlレだけをひろってみると,

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日] 、干魁の被害田,三豊郡内耕地七千六百町中,亀裂枯死四百町 歩,水不足で白田一千町歩,惨状目も当てられずか

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日] 、干魁依然ノ農村の危機,県下の被害回一万町歩,愛一週間で 稲の運命の黒白を決す一一木下知事,東に西に干:害実況を視察。

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日] 、牢晴恨し,渇水地獄編,西讃七千の溜池全部サッパリと底を

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1093 讃岐の池と村 -55-払ふ一一回東讃一万三千の池,一合平均に貯水,満濃池も足が立つ 惨状グ [ 8月26日] 、挺子でも動かぬ炎帝,雨に耳を籍さぬ一一無水地獄に農民な く一一県下の被害回二万町歩,枯死一千町歩に上がる一一今後七 日間雨なき場合の枯死,三千町歩,けふ県の正式発表グ [ 8月28日] 、大満濃池も気息奄々 砂漠のような姿で近く大戸の閑も抜 く' もはや,この8月末の時点、における干ばつの稲作への影響は決定的というべ く,県当局が8月29日現在の被害状況について発表したところによると,稲の 枯死した水田は23日時点の1,000町歩からその5倍の5,000町歩へと一挙に 広がり,そしてこのまま事態が推移すれば,水田の半分近くがダメになると予 想された(表3)。その矢先, 8月31日の夜半から9月1日の早朝にかけて雨 が降った。「潤雨,万霊を潤す一一生気萌立つ県下農村」と題する記事の香川新 報が出たのは,翌日の9月 2日のことであった。しかしながら,この雨で一部 の水田では稲が回復したものの,最終的には表 4にみるとおり,香川の稲作は 惨たんたる状況になった。そしてこの年の収穫高76万石は前年の 107万石に比 すれば約 30% ,昭和 1~8 年の年平均収穫 88 万石に対しては 14% の減収で 表4 干害の状況(9月15日現在) 表3 干 害 の 状 況 (8月29日 現 在 単 位 : 町 歩 ) 1 作付け予定反別

7,892町歩 2“ 被害国

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20,381町歩 イ.回復見込のない回

I

(4,973町歩) ロ.現在,稲が萎縮している回

I

(4,322町歩) ハ. 1週間後,稲が萎縮する回 1(11,086町歩) 3 被害のない回 17,511町歩 資料:r干害ノ概況ト対策J(昭和10年)に掲械の「水稲干害ノ 状 況 二J(5ページ)からの作成. 植付不能 104( 03) 収穫皆無 1,259(30) 70%以上減収 1,720 ( 4 6) 70~50%減収 1,916( 51) 50~30%減収 2,682( 71) 30%以下減収 5,817 (15..4) 資料.r干絃の概況と対策J(昭和10 年)8ページより作成. 注) ( )内の数値は,作付け予定商 積 (37.732町歩)に対する%剛

参照

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