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エジプト、アブ・シール南丘陵頂部・石造建造物のロータス柱の建造方法

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第 2 章 ロータス柱の建造方法

第 1 節 はじめに 第 1 編で述べたように、ポルティコに築かれた柱は、石灰岩のブロックを積み重ねた構 造をとり、復元考察の結果、6 本のロータスの蕾(茎付き)を 5 本のバンドで束ね、おの おのの間に小型の蕾(小蕾)を一本ずつ挿入した姿を模った、「ロータス柱」の様式を採っ ていたことが分かった。頂部にはアーキトレーヴを受ける方形のアバクスを備え、また柱 身は上方に向かって細くなるが、エンタシスのような膨らみは見られない。 発掘調査では、柱材やアーキトレーヴ材、屋根材に混じって、作業の途中を示す未完成 の石灰岩ブロックが出土し、ポルティコの一部は未完成の状態にあったことが強く窺われ た。こうした未完成部材は、作業の状態を直接とどめる資料として重要であり、完成され た部材と比較することで、建造工程を明らかにすることが期待できる。 本章は出土した未完成柱材を用いながら、石造ロータス柱の建造方法を復元的に描くこ とを目指すものである。 第 2 節 古代エジプトの石造柱の建造方法に関する既往研究 古代エジプトの石造柱1を石材の使い方で分類すると、一つの大石から柱全体を削りだす 形式(一材式)と小型の石材を積み上げる形式(積み上げ式)に大別できる。 前者は、柱礎石を除いた柱身からアバクスまでを一つの石材で削り出す工法で、古王国 時代や中王国時代の柱に多用されている。一方、新王国時代になると後者の方法が広く用 いられ、一材型は、小規模な柱にほぼ限られている。なお、出土したポルティコの柱は、 石灰岩ブロックを積み上げた後者の形式を採っており、時代的な傾向は合致している。 一材式の工法については、花崗岩製の椰子柱を扱ったエンゲルバッハの論考2が知られて いる。サフラー王(古王国時代、第 5 王朝、前 2471∼2458 年頃)のピラミッド葬祭殿から 出土したこの柱について、彼は高さ 20 センチごとに断面形状を実測し、その結果をもとに、 1古代エジプトの柱については、Borchardt L., Die

ägyptische Pflanzensäule: Ein Kapitel zur

Geschichte des Pflanzenornaments, Berlin, 1897., Foucart G., Histoire de l'ordre lotiforme, Etude d'archeologie egyptienne , Paris, 1897., Petrie F., Egyptian Architecture , London, 1938., Philips P., The Column of Egypt, Manchester, 2002. を参照。

2 Engelbach R., An experiment on the accuracy of shaping a monolithic column of circular

section of the Vth dynasty from Abusir, Annales du Service des Antiquités de l'Égypte 28, Cairo, 1928, pp.144-152.

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柱は石切場から直方体の状態で搬送され、細部は設置後に削り出された可能性を記してい る。 これに対してアイスラーは、石切場に残された未完成のオベリスクが最終的な形状を目 指して削られていることや、完成された柱を船で運ぶ様子を描いた壁画が残されているこ となどを根拠に、柱は石切場で最終的な形状まで削られ、その後、搬送されたと反論して いる3。彼はまた、エンゲルバッハの実測データをもとに、その歪みの原因として木製型枠 の使用を挙げ、柱が切り出されるまでの建造工程を復元的に描いている。 細部形状の加工がどの段階でなされたかが争点であるが、本稿で取り上げる積み上げ式 の場合、この工程が石材を積み上げた後に行われたことは明らかである。積み上げ式の工 法については、カルナク、アメン大神殿第一中庭のパピルス柱と第一搭門の建造法を扱っ たヘルシャーの分析がよく知られている4 図 3-2-1: カルナク、アメン大神殿第一中庭に残る未完成パピルス柱 彼は、日乾煉瓦製の傾斜路を用いて石材を積み上げ、その後、傾斜路を取り除きながら、

3 Isler M., The Technique of Monolithic Carving, Mitteilungen des Deutschen Archäologischen

Instituts, Abteilung Kairo 48, Cairo, pp.45-55, 1992.

4カルナク・アメン大神殿の第一中庭はネクタネボ王の治世(前 380 から 362 年頃)に建造され、柱

の一部はパイロンを建造するために用意された日乾煉瓦製の建造斜路に埋もれ、未完成を呈してい る。Hölsher U., Der Erste Pylon von Karnak,Bautechnishe Beobachtungen, Mitteilungen des Deutschen Instituts für Ägyptishe Altertumskunde in Kairo 12 Heft2, Berlin, 1943, pp.139-149, Abb.7.

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上方から石材表面を整形する方法を図示している。アメン大神殿の第 1 搭門には、現在も 傾斜路の一部が残り、未完成のパピルス柱を確認することができる。 傾斜路を利用した石材の搬送法は、古王国時代のピラミッドやマスタバの建造などで行 われたと考えられ、その痕跡を残す遺構も報告されている5。またルクソール西岸のレクミ ラ墓(新王国時代、トトメス 3 世治世、前 1479∼1425 年頃)の壁画には日乾煉瓦で築かれ た傾斜路に沿って石材を積み上げている様子が描かれている6。そのため、傾斜路による石 材の搬送法が、古代エジプト王朝時代を通じて使われたことは確実であるが、先のカルナ ク、アメン大神殿の第一搭門は、古代エジプトの中でも最大規模を誇る搭門であり、また ピラミッドやマスタバなどの石材は大きい点を考えると、傾斜路は巨石の移動や大規模建 造物の造営などで用いられた搬送方法の一つと見なすべきであり、すべての建物で傾斜路 が用意されたと考えるのは早計であろう。 例えば同じレクミラの墓には彫像の制作風景が描かれ、彫像の周囲に縄で縛られた丸太 の足場が組まれている7。また別の壁画片には、縄で縛られた足場の上で鑿をふるう作業人 が描かれている8。さらに、神殿の床面からは、規則的に配置された、足場を設置した痕と 考えられる円形の窪みも発見されており、足場が使われたことはほぼ間違いない。エンゲ ルバッハやヘルシャーは、石材が積まれ、表面が整形された後に、レリーフなどの装飾を 施すために足場は組まれたと記している9。エジプト建築に詳しいアーノルドは、足場が柱 の建造にも使われた可能性を挙げているが10、それ以上の具体的な記述はない。 また綱を用いて石材を吊り上げる方法についてもアーノルドは、一材柱やオベリスクな どを引き起こす方法の一つとして言及しているが、滑車の実例を挙げ、古代エジプトにお いても、時代によって装置の形状に違いはあるが、こうした装置を使って石材を吊り上げ る考え方は存在した、と述べている11

5 Arnold Di., Building in Egypt.Pharaonic Stone Masonry, New York/Oxford, 1991,pp.79-98. 6 Davis N.G., The Tomb of Rekh-mi-Re at Thebes, 2Bd., New York, 1944, pl.60.

7 前掲

8ベルリンエジプト美術館所蔵 No.23731, Priese, Karl-Heinz (Hrsg.) Ägyptisches Museum 9 Clarke S. and Engelbach R. Ancient Egyptian Masonry, London, 1930, p.194., Hölsher U., The

Excavation of Medinet Habu, Vol. IV: The Mortuary Temple of Ramses III, Part II, Chicago,1951, pp.31-33.

10 Arnold Di., (Translated by Gardiner S. H.and Strudwick H.), Scaffolding, in The Encyclopedia

of Ancient Egyptian Architecture, London/New York, 2003,p.211.,(原本 Arnold Di., Lexikon der ägyptischen Baukunst, Zürich,1994)

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第 3 節 石材設置作業の復元考察 (1)柱礎石の設置 ポルティコに想定された 16 本の柱を載せていた柱礎石のうち、原位置で残るのは 6 基の 柱礎石だけで、そのうち完全な姿をとどめるのは 1 基(柱礎石A)にとどまった(図 3-2-2)。 他の 5 基は、四分の一が削り取られたものが 1 基(柱礎石B)、二分の一のみが 4 基(柱礎 石CからF、このうち柱礎石C、Fは地業土が流出し、傾斜している)であった。なお 6 基とも表面は入念に研磨され、最終的な形状まで至っていたと考えられる。 柱礎石 D 柱礎石 A 柱礎石 C 柱礎石 E 柱礎石 B 柱礎石 F 図 3-2-2: ポルティコ出土平面図 柱礎石は、円形の伏鉢状をし、高さは約 15cm、直径は上面で約 120cm、最下部で約 130cm であった。矩形をした 2 点の石灰岩ブロックから作られ、これらを木製クランプ 1 箇所と 灰色のモルタルで連結し、伏鉢状の形を削り出したものである。規模の小さな柱礎石では 1 つの石材から作られることもあるが、比較的小型の石材で柱を作る新王国時代では、柱 礎石を 2 つの石材で作ることは珍しいことではない。

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図 3-2-3: 残存するポルティコの柱礎石および床石部分 方形の石材から円形の柱礎石を削りだすため、四隅には「余り」が生じるが、この部分は 床石の一部として処理されている。すなわち、敷き詰められた床石の上に、伏鉢状の柱礎 石を載せる構造ではなく、柱礎石と床石が一つの石材から作り出されていることが理解さ れる。そのため、柱礎石に用いられた石材は、柱礎石自体の高さに、床石の厚さ約 17cm を加えた、厚い石材が使われている。他の石材に比べて大型であることから、柱礎石とし て使われる石材があらかじめ決められ、必要な大きさと個数が用意されていた可能性が挙 げられる。 平面図(図 3-2-2)から理解できるように、2 点の石材は、柱礎石がちょうど収まる程度 の大きさで、十分な余裕を持っていない。そのため石材の設置作業は慎重に進められたと 推測される。確かに、必要最小限の石材を用いることで、柱礎石の周囲を削り落とす労力 は減らせたであろうが、設置した石材と実際の柱礎石の位置にずれが生じると、石材が一 方に偏り、他方で不足する事態が起こる。柱礎石Cは、そうした状況に陥った例と考えら れ、設置された 2 点に対して、実際の柱礎石は西側にずれている。この柱礎石Cの近くか ら出土し、これと対になって据えられていたことが確かめられた柱礎石(AK02-B-783)で は、柱礎石の西側で石材が不足したため、曲面部分が、粗く削られた平坦面になっていた。 表面にはモルタルの付着が認められ、石材が不足した箇所をモルタルで補う方法によって、 形が整えられたものと推測される。

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図 3-2-4:柱礎石(AK02-B-783) モルタルによる整形方法は、ポルティコの柱身や欠損したレリーフなどでも観察され、 モルタルだけで作られた「小蕾」の「茎」やレリーフ断片が出土している。また隣接する サッカーラ地区の同時代の遺構12でも、広く認められる手法である。設置の段階で起きう る「あばれ」を見越し、あらかじめ一回り大きい石材を用意するということをせず、石材 が不足した場合にはモルタルで補うという考え方には、作業の省力化を図ろうとする意図 が透かし見えるようで興味深い。 柱礎石や床石の下には地業土として粗砂が敷き詰められていた。柱には荷重がかかるが、 例えば石材を積み重ねるといった、基礎を特別に強化する方法は採られていない。ポルテ ィコの縁を石材で取り囲んだ後、内部に粗砂を満たし、柱礎石と床石を据えたと考えられ る。粗砂は傾斜した地形での水平取りの役割も果たしていたと推測され、施工自体は簡便 といえよう。砂を用いた地業は、その流出さえ防げれば、十分に機能し得たであろうが、 逆に流出や移動が起きると柱の倒壊を容易に引き起こす。実際、残存する柱礎石CやFは 地業砂の流出によって傾いている。おそらく柱礎石が始めに設置され、次にその間を埋め るように床石が据えられたと考えられるが、地業砂の消失や移動を防ぐために、柱礎石の 設置作業と並行して、床石も据えられたと推測される。 また残存する柱礎石や周囲から出土した柱礎石材の下面には、モルタルの付着は認めら れず、石材は粗砂の上に直接据えられ、モルタルなどの接着剤は使われなかったと考えら れる。 ここまでの情報を整理し、柱礎石の設置作業を復元したい。 まず、床石よりも約 15cm 厚い、矩形の石灰岩ブロックが、一つの柱礎石につき、2 点用 12例えば、丘陵から南東に約 2 キロ離れた、ウナス王ピラミッド複合体参道の南方に広がる、新王国 時代第 19 王朝の高官墓では、壁面の上にモルタルを厚く塗り、その上からレリーフを刻む手法が観 察される。

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意された。石材は、二つを合わせた大きさが、柱礎石にほぼ外接する程度、すなわち 130cm 四方ほどの規模となるように用意された。ポルティコの計画に沿って、柱礎石は東西 2 列、 南北 8 箇所の、合計 16 地点に慎重に据えられた。これらの石材は地業の粗砂の上に直接載 せられ、また柱礎石の間を埋める床石も一連の工程の中で設置された。また柱礎石の設置 では、長方形をした二つの石材の向きにも意識が払われ、東列では石材の長手を南北に、 西列では東西に向けて置かれたことが、残存する柱礎石の向きから理解できる。 柱礎石同士の連結には、灰色をした石膏モルタルと木製クランプが用いられ、モルタル は隣接する床石との接着にも使われた。興味深いことに、クランプの溝は柱礎石の中心か ら「ずれた」場所に穿たれており、これは次に述べる柱の中心を求める作業の際に、クラ ンプの存在によって中心点が不明瞭となるのを避けるためと考えられる。 柱礎石 F では、木製クランプの断片が溝の中に入った状態で出土し、クランプが仮止め としてではなく、実際の連結に使われていたことを示していた。発掘調査の過程では、こ れと類似した木製クランプが数多く出土しているが、木製クランプは柱だけでなく、ポル ティコの側壁や背壁、主屋外壁にも使われたために、当初の部材を明示することは困難で ある。いずれも蝶ネクタイ型の形状をし、長さは 17∼20cm、厚さ 2∼3cm であった。なお 樹種の特定はできていない13。壁体ブロックではクランプの外形だけを刻線で記し、「溝」 自体は穿たれないまま放置された例がみられた。そのため、クランプの溝は、用意された 木製クランプより一回り大きい外形を刻線で記し、その後、刻線に沿って 3∼4cm の深さで 穿たれたと推測される。また、出土した柱材では、クランプ自体は失われていたが、その 周囲に石灰岩チップや土器片、小石、モルタルなどが付着している例が認められ、木製ク ランプを挿入した後、こうした断片で隙間を詰めたものと考えられる。 残存する柱礎石をみると、その上面に、柱身の最下部が 2∼5cm 立ち上がって残されてい た。これは粗削りの状態であった柱礎石の上面を平坦に仕上げる際に、すでに礎石の上に 柱身石材を積み重ねられていたため、柱身最下部が削り残され、立ち上がるようになった ためと考えられる。これにより、柱身最下部は、6 つの花弁を押し広げたような断面形状 (以下、六弁形とする)であったことが明瞭となり、その規模は直径約 80cm の円に六弁形 が内接する大きさであった。 13古代エジプトでクランプとして用いられた木としては、エジプトイチジク、アカシアが多い。Gale

R., Gasson P., Hepper N. and Killen G., Wood, Nicholson P.and Shaw I.(eds.), Ancient Egyptian Materials and Technology, Cambridge,2000, pp.334-371.

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発掘調査で出土した柱礎石断片(AK01-O-647)には、この削りの残された柱身部分に墨 線が観察された。墨は、幅 5mm∼1cm の直線で、遺構の長、短軸線と平行に十字に引かれ、 交点は柱の中心と一致していた(図 3-2-5)。柱の中心を求めるための墨付けの痕と考えら れる。 図 3-2-5:黒色ラインの記された柱礎石(AK01-O-647) 16 基全ての柱礎石が設置された後、中心(柱心)を通るように、東西および南北に紐が 張られ、幅 5mm 程度の黒線が十字に引かれたと想定される。そして求められた中心点を使 って、柱礎石の最外周として直径約 130cm の円が、さらに柱身として直径約 80cm の円が引 かれたと推察される(図 3-2-6)。 図 3-2-6:柱礎石の中心を求めるための隅出し作業と円 また発掘調査では、ポルティコの北側から、未完成を示す石灰岩製の柱礎石が四種類(柱 礎石G∼J)出土した。これらは、類似した規模や形状を示すものの、表面仕上げの様相 などが異なり、作業段階の違いを反映した結果と考えられた。

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このうち、図 3-2-7 で示した二つの石灰岩ブロック(AK05-B-437,438)は、いずれも半 円筒形をし、クランプの位置や上面の刻線の連続性から両者の接合が確認された。ポルテ ィコの前面から柱材と共に出土した。石材の厚さは 30 から 34cm で、2 つを合わせた外周 の直径は原位置に残る柱礎石と同じ、約 130cm であった。この石材の縁には、この大きさ の円を示す刻線の一部が認められ、更に上面には、柱径と等しい直径約 80cm の円形刻線も 観察された。 残存する柱礎石は、矩形の石材から構成されるが、これらは半円形の石材で構成されて おり、この点に関しては他の柱礎石と大きく異なっている。しかし、古代エジプトの石造 建造物において曲面が用いられる部位は限られ、出土した場所がポルティコに近く、2 点 の石材が揃って出土したことからみて、当初の位置がそれほど離れていたとは考えがたい。 当該ポルティコについてみれば、この規模の曲面が用いられる部材は、柱に関係したもの と考えてよいだろう。更にまた上面には柱礎石の直径および柱身の直径と一致する刻線が 付けられていたことも注目される。後に触れるように、他の未完成柱礎石の上面にも柱身 の大きさである、直径約 80cm の円形刻線が付けられており、こうした痕跡を勘案するなら ば、2 つの石材は、形状こそ違うものの、柱礎石を構成していた可能性が高いと考えられ、 この二点を柱礎石Gとした。 図 3-2-7:未完成柱礎石G(AK05-B-437,438)

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柱礎石Gの上面には、柱礎石最外周と柱身最下部を示す 2 つの円形刻線の他に、十字の 刻線も観察された。十字の刻線は、中心を求める際の墨付けされた線に沿って刻まれたと 考えられたが、興味深いことに、二つの円の間の部分だけに付けられ、柱身を示す円の内 側にはなにも刻まれていなかった。 同じような十字の刻線は、別の未完成柱礎石H(AK04-B-001)およびJ(図 3-2-8、 AK04-B-152,154)でも観察され、いずれも柱身を示す円の外側だけに、4 本の線分として 刻まれていた。 図 3-2-8:未完成柱礎石J (AK04-B-152,154) 十字の刻線の役割は後に改めて取り上げるが、未完成柱礎石などの痕跡を元に作業工程 を整理すると、まず柱礎石の中心を通る十字の線と二つの円が上面に墨で付けられ、その 後、これに沿って 2 つの円と、円に挟まれた四カ所の線分が鑿で刻まれたと考えられる(図 3-2-9)。 図 3-2-9:2 つの円形刻線と十字の刻線 柱礎石Gの側曲面は、未完成であるにも関わらず入念に整形され、さらに表面は風食に よって粒状を呈していた。また曲面の両端では、この整形曲面を削って円形の柱礎石を作

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り出そうとした痕が認められた。整形され、かつ風食を受けた曲面を更に削り落とそうと していることからみて、この整形曲面は、当該遺構ではなく、別の古い建物で加工された 面であり、その石材を再利用したものと判断された。 このように柱礎石Gは、旧建造物の面を多く残し、また伏鉢状の柱礎石の形状が作られ ていないことから、柱礎石の工程のなかでも比較的最初期の段階を示していると考えられ る。 なお、伏鉢状の柱礎石では、最外周を示す円に加えて、平坦な上面にも円形が現れる。 しかし、柱礎石Gでは後者を示す円形刻線は観察されなかった。そのため、上面の円や側 曲面のカーブは、厳格な寸法計画に従って加工されたものではなく、柱礎石の最外周など から石工の経験によって、「適切な」形状に仕上げられた可能性が考えられよう。 以上、主として未完成柱礎石Gから得られた情報を整理すると、柱礎石には少なくとも 一部、古い遺構から再利用された石材が使われていたこと、更に柱礎石の規模として最外 周が規定されていた可能性が高く、平坦な円形上面の大きさを含む伏鉢状の断面形状は、 厳格な寸法規定というよりは、ロータス柱の柱礎石として相応しい形として、いわば石工 の裁量に任されていた可能性が挙げられる14 (2)柱身の設置 先に触れたように、原位置で残る柱礎石の上面から、柱身は六弁形の断面を採り、最下 部での最大径は約 80cm と計測された。周囲から見つかった柱身材でこれと矛盾する規模の 石材は出土せず、ポルティコには同じ規模のロータス柱が並んでいたと考えられる15 積み重ねられたそれぞれの段は、柱礎石と同様に、2 つの石灰岩ブロックから構成され、 モルタルと木製クランプで連結された。一つの段を一つの石材ではなく、二つの石材で作 り出した要因は、大型石材の不足というよりも、作業の効率を高めるために小型の石材を 用いたと考えられる。 14柱を含めたポルティコの寸法計画は改めて論じたいが、この点は、柱の寸法計画を考察する上で留 意すべき点と考える。古代エジプトの建築活動で用いられた基準寸法として、52 から 53 センチほ どの腕尺が知られているが、これを参考にすれば、柱礎石外周(約 130 センチ)は 2 腕尺半、柱身 (約 80 センチ)は、1 腕尺半に近似する。 15一つの列柱内で異なる様式の柱が混在する例は、ギリシャ、ローマ時代にはしばしば見られる。古 代エジプト王朝時代では、中王国時代の建築模型に例があり、前後二列に並べられた柱の前列には ロータス柱が、後列にはパピルス柱が立っている。Winlock H. E., Models of Daily Life in Ancient Egypt: From the Tomb of Meket-Re' at Thebes, Cambridge, 1955, pp.84-86, Pls.9-12,56.

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二つの石材から六弁形が作り出されるため、柱身材には 6 つの花弁のうち 3 つが備えら れるわけだが、出土した柱身材では、完全な形をした花弁が三つ並ぶタイプと、二つの完 全な花弁の両脇に半分の花弁が一つずつ付く場合の二種類が認められた。これは、上の段 と下の段で石材の向きが直交するよう積み重ねられていた結果と考えられる。ちなみに柱 礎石上面に残る六弁形の配置から、柱は東(西)からみると花弁が三つ、北(南)からで は花弁が 4 つ見えるような向きで据えられており、前者の三つの花弁が備えられた石材は、 長手を南北に、後者の石材は長手を東西に向けて据えられていたことが理解できる。 出土した柱身の接着面は、傾斜した平坦面をしており、その表面は風食を受けて肌色の 粒状を呈していた。接着に用いられたモルタルはこの風食面の上に塗られており、ポルテ ィコで用いられる以前に生じた風化であったことが理解できる。柱礎石同様、柱身材も古 建造物からの再利用でまかなわれたことが確認される。 この風化傾斜面はいずれも約 80 度の角度をとり、平滑に研磨されていた。風化はこの傾 斜面だけに顕著に認められ、これが旧建造物の表装として露出していたものと推測される。 入手先の旧建造物を具体的に解明するためには更なる検討が必要であるが、風食痕は先の 柱礎石Gとも類似し、同一場所からまとまって搬送された可能性が高い。 図 3-2-10 は同じく接合が確認できた 2 点(AK06-B-154,155)で、バンド直下の小蕾の茎 を含む部分である。いずれも一方の石材を上下逆に用いることで、傾斜面同士を密着させ る工夫が看取される。同様の方法は、出土した他の柱身材でも観察され、再利用した石材 の表装面を積極的に活用する手法が窺われる。また、図 3-2-10 の 2 点では、側面に平坦面 が現れている。これは、用いた石材が矩形をし、柱身材の直径である 70∼80cm に満たない 幅であったために、旧建造物の側面がそのまま現れてしまった結果と考えられよう。おそ らく不足した部分には、モルタルが厚く塗られ、曲面が整形されたと推測される。 図 3-2-10: 接合が確認できた柱身石材(AK06-B-154,155)

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以上を踏まえて、柱礎石に続いて、柱身の最下段が設置される作業を復元すると、次の ように考えられる。柱身石材には周囲の古建造物から入手された再利用石材が使われ、ブ ロック状をした石材には、かつての表装面が風化した傾斜面として残されていた。柱身材 の各段は二つの石材から構成され、まず一方の石材が柱礎石に付けられた円形の刻線を参 照しながら据えられた。その際、風食した傾斜面を接着面側に向け、また、石材の長手が 柱礎石の長手と直交するように置かれた。柱身材と柱礎石の間には灰色のモルタルが使わ れたが、「だぼ」は用いられなかった16。次にもう一方の石材が運ばれ、同じように傾斜面 を接着面側に向けて置かれた。ただし、傾斜面の上下を逆にして置かれ、互いの密着を図 るとともに、接着面にはモルタルも使われた(図 3-2-11)。 二つの石材が設置された後、両者の上面を揃えるためにどちらか高い方が削られ、粗く 平坦にされた。そして、柱礎石と同じ要領で上面にクランプの溝が一箇所穿たれ、木製ク ランプが挿入された、と考えられる。 なお、後に改めて触れる点であるが、柱身最下段の設置段階で、柱礎石の上面に刻まれ た、柱身を示す円形刻線は石材で覆い隠されたことが了解される。 図 3-2-11:柱身最下段の設置作業 一方、発掘調査では、半円筒形に削られた石灰岩ブロックが、確認できた範囲で 11 点出 土した。ポルティコの直上から東側の斜面にかけて散乱した状態で発見された。これらの ブロックに混じって完成した柱身や柱頭、壁面レリーフなどポルティコを構成していた石 16古王国時代に一材から作られた柱では、柱礎石と柱身との接続や、頂部のアバクスとアーキトレー

ヴとの接続にだぼが使われた。Czechoslovak Institute of Egyptology, Preliminary Report on Czechoslovak Excavations in the Mastaba of Ptahshepses at Abusir, Prague, 1976, p.119.

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材も出土したことから、半円筒形の石材もポルティコに由来するものと判断された。半円 筒形の曲面部分は粗く、また削り残しも数多く見られたが、直径はポルティコの柱身とほ ぼ等しく、また接着面には、傾斜した風化面が見られた。さらにクランプの溝も柱身石材 と同様の位置と大きさに穿たれ、これらの共通点から未完成の柱身石材の可能性が高い。 半円筒形をした未完成柱身材では、クランプ溝の付いた上面側に半円形の刻線が付けら れ、それに沿って周囲が削り落とされている様子が見られた(図 3-2-12)。 図 3-2-12:未完成柱身材(AK10-B-010) クランプ溝は石材が設置された後に穿たれたと考えられるため、未完成柱身材に、クラ ンプ溝が備えられていたことは、これらが実際に積み上げられていたことを示していよう。 つまり、石材設置の途中段階として、表面を粗く削った円柱が築かれていた(図 3-2-13) と想定される。 図 3-2-13:柱身材設置の途中段階 このように、粗い円柱形をした柱身石材が、必要な高さまで積み重ねられたと推測され

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るが、積み上げ式工法の場合、中心を正確に一致させることが重要である。たとえわずか なずれであっても、累積すると大きな偏りとなり、整形段階で石材の大幅な不足を引き起 こすことはもとより、最悪の場合、倒壊に至るであろう。そのため中心を正確に把握しな がら積み上げる必要があったはずである。 柱の中心を上の段に伝えていく方法についてヘルシャーは、カルナク、アメン大神殿の パピルス柱における例を報告している17。先に触れたように、両者の建造時期には開きが あり、類例として取り扱うことには慎重にならねばならないが、参考までに紹介しておき たい。 ここでは、柱身はポルティコ同様二つの石材から一段が構成されるが、この接着面をあ らかじめ垂直に加工し、柱身の上面に付けられた中心点に、載せる二点の石材の一方の接 着面を合わせることによって、中心点を鉛直に引き上げる方法を記している。上、本遺構 の柱の場合、接着面は傾斜していることから、少なくともこの手法を採用するのは困難で あったと考えられる。 アーノルドはヘルシャーの報告をひきながら、改めて図を描き起こすとともに、このパ ピルス柱の側面に中心を通る鉛直線が刻まれていることに着目して、中心点を直接引き上 げることが不可能な場合に備えて、側面の刻線を併用していた可能性を指摘している18 また、このパピルス柱では、上面だけでなく下面にも円形の刻線が付けられ、その周囲 が削り落とされていた19。あらかじめ地上で、下面に円を刻む加工がなされたことが了解 される。その際、地上で、下面の円と同じ中心軸をもつ円を上面に刻んでおくことができ れば、下段上面の円と上段下面の円を一致するように積み重ねることによって、同じ中心 軸を伝えることができる。おそらくこうした方法も併用されたのであろう。 ポルティコから出土した未完成の柱身材では、刻線は上面の円だけで、下面側では認め られなかった。そのため、あらかじめ地上で下面を加工した可能性は低く、上面の円形刻 線が隠れるように次の段の石材が重ねられたと考えられる。つまり、カルナクのパピルス 柱で想定されたように、上面の円を用いて次の段の円を導き出すような方法は採られず、 異なるやり方で、中心が求められたと考えられる。 ここで思い起こされるのが、柱礎石上面に刻まれた十字の線である。この刻線は、墨で

17前掲 Hölsher, Erste Pylon, p.149.

18前掲 Arnold Di.,Building in Egypt, pp.19-20. 19前掲 Arnold Di.,Building in Egypt, pp.19-20.

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引かれた中心を通る十字の線のうち、柱身を示す円形刻線の「外側」だけを鑿で刻んだ線 であった。十字の刻線は柱の中心を通っていることから、これを用いて柱身の中心が求め られた可能性が考えられる20 例えば、錘を用意し、その先端が十字の刻線に合うように紐を垂らせば、柱身材の四方 向に印を付けることができる。そして向かい合う印を結ぶことで上面に十字が描け、中心 を得ることができる。図 3-2-12 で掲げた未完成柱身材(AK10-B-010)では、側面の上方に、 その痕跡の可能性が高い印が鑿で付けられていた。あるいは図 3-2-14 のように両端に錘を 垂らした棒を用意し、錘の先を刻線に合わせれば、上面に中心を通る線を容易に引くこと ができる。古代エジプトでは、錘を用いたさまざまな工具が見つかっており21、錘はなじ み深い道具の一つであったと推測される。柱の全高さは積み上げ式を採るため不明だが、 仮に古代エジプトの柱で窺われるように柱径の 5∼6 倍程度であったとすれば、高さは 4∼ 4.5m ほどと想定され、柱身の上部にあたるバンド最上部までは、柱頭が約 1m と復元され たことから、およそ 3∼3.5m と見積もられる。風の影響などを考慮しても、柱身材の設置 にあたって錘を正確に下げることは十分可能な高さと思われる。 図 3-2-14:十字の刻線を用いた中心の割り出し 20アーノルドは柱礎石上面の刻線が測量時の基準として機能したことを指摘しているが、具体的な手 順については言及がなく、また提示された図は、柱身内部に刻まれた十字の線にあわせて、一材柱 が設置される状態を描いている。前掲 Arnold Di., Column manufacture, in Encyclopaedia , pp.55-56., Building in Egypt, pp.19-20, fig.1.17.

21錘を用いて、水平、垂直を測る道具などが知られている。Petrie W. M. F., Tools and Weapons ,

1974, Warminster (reprint, First published in 1917 by The British School of Archaeology in Egypt), pp.41-43, pls.47-48.

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このように考えると、柱礎石上面に十字に墨付けされた線の上から、必要な部分だけを 「刻んだ」理由も説明することが可能である。すなわちこの刻線は、柱身設置作業の間、 各段の中心は求めるために繰り返し使われ、消失しては困る基準線であったためと考えら れる。 錘を十字の刻線に合わせる方法によって、柱身上面に中心点が得られると、次にそれを 用いて黒色インクで円が描かれたと推測される。そして、墨線に沿って鑿で切り込みが入 れられ22、石材上面の縁が円形に削り落とされた、と考えられる(図 3-2-15(2) (1) (2) 図 3-2-15:柱身設置作業 以上、柱身石材の設置工程を改めて整理すると、柱礎石上面に付けられた柱身を示す円 形刻線を参照しながら、これを覆い隠すように柱身の最下段二点が据えられた。次に中心 を求めるために、柱礎石上面の十字の刻線が利用され、それぞれの刻線に錘を垂らすこと で柱身石材の上面に、中心を通る四方向が写し取られた。そして柱身上面に柱の中心軸が 得られ、円が記されたのち、これに沿って石材の縁が円形に刻まれた。なお、柱身は上部 へ向かうほど径を細くするテーパーを持つが、各段でその高さに対応した柱の直径が求め られていたのかについては、筆者はその可能性が高いとみるが23、不明である。 22カルナク・アメン神殿の別の柱では、柱身上面に中心を通る十字の刻線が付けられている。前掲

Philips, Column of Egypt, p.288.

23技術的には何ら問題はないと思われる。例えば、テーパーの勾配に規定があったならば、ある高さ

における直径を計算で求めることも不可能ではないだろうし、また、原寸図が用意されていれば、 ある高さにおける直径を直接求めることはさらに容易であったろう。これまでのところ、当該遺構

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石材の上面角を円形に削り落とした段階を示す未完成柱材が複数出土していることから、 この作業の後、積み上げられた柱身材は更なる整形作業に向かわず、上角だけを落とした 状態で、次の段の石材が積み重ねられたと考えられる。その際、石材の向きを 90 度振って 互い違いになるように積み上げられる点を除けば、柱身石材の設置→上面の略整形および クランプによる連結→柱礎石上面の十字刻線を用いた中心の計測→上面への円形の刻み→ 刻線周囲の上角の削り落とし→次の段の柱身石材の設置、と続く工程が、柱身の径が最も 細くなるバンド上部付近まで繰り返されたと考えられる。 下面の加工痕や上下段にまたがる痕跡が観察されなかったことから、地上で仮組みはな されず、ブロックに近い形状のまま積み上げ作業が進められたと考えられる。石材置き場 や加工場として十分な広さが確保しづらい丘陵頂部という地形的条件からみても、搬入後 速やかに設置されたのは自然といえよう。またポルティコの一部が未完成で放棄されてい たことから、建設作業を急ぐ必要があったようにも思われ、もしそうならば、細かな整形 作業は後に回し、アーキトレーヴや屋根材を架け渡すために、柱材を積み上げる作業をで きるだけ迅速に進めたことは、現場の意識と合致していたとみなせよう。このような、石 材の積み上げを優先した工程から透かし見えるのは、ポルティコの建設作業を効率よく推 し進めようとする考え方であり、特質の一つとして挙げておきたい。 さらに、柱の中心軸を割り出すために、柱礎石上面に付けられた十字の刻線が利用され た、という仮説を受け入れるならば、柱礎石は建設作業の間、常に露出していたことにな る。逆にいえば、カルナクの第一搭門の例や、ピラミッドなどの大型建造物で指摘されて いるような、土砂や煉瓦を用いた石材搬送用傾斜路は、柱礎石を覆い隠してしまうため想 定することが難しいといえる。むしろ、丸太で組まれた足場を利用しながら、綱で少しず つ吊り上げられたという方法の方が、蓋然性が高いと思われる。足場の利用は、斜路より も簡便であり、作業を効率よく進めるという先の考え方とも矛盾しない。 ポルティコの柱礎石のように、上面に十字の刻線が付けられた例は、新王国時代の柱で 広く観察される。この刻線が基準線として柱の建造作業中、露出していたならば、石材搬 送用傾斜路の可能性を排除するとともに、綱による吊り上げ方法が広く使われたことを間 から原寸図の存在は確認されておらず、またテーパーの勾配を含む柱のプロポーションに関する考 察も不十分なため、その具体的な方法を明示することは難しいが、少なくとも技術的には可能であ ったとみてよい。なお、古代エジプトの柱のテーパーに関しては、西本真一早大助教授が、オベリ スクのテーパーとの関連性から興味深い考察を試みている。西本真一、『ファラオの形象』、淡交社、 2002 年、131-172.

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接的に示し、古代エジプトの建築作業の研究に、大きな寄与を果たすことができると考え る。 (3)柱頭の設置 復元された柱から理解できるように、一様な割合で径をすぼめた柱身は、バンド上部を 境に、「蕾」として、再び径が増大する。この蕾を含めた柱頭は、4 段の石材で構成されて いたことが、出土した部材から明らかとなった。 いずれも柱身石材より径が大きくなるが、にもかかわらず、一部の例外を除いて、各段 は一つの石材で作り出されていた。 最上部に位置するアバクスは、完全な形のものが 3 点出土し、一つの石材から方形のア バクスと六弁形の最頂部(以下、このアバクス下の蕾最頂部を「蕾頂部」と略す)が削り 出されていた。アバクスは一辺 70∼72cm、高さ 27∼28cm の方形をし、蕾頂部は高さ 3∼5cm 削り残されていた。アバクスの側面には通常文字列が刻まれるが、出土したいずれのアバ クスにも、入念に研磨はされていたが、装飾は認められなかった。 また、未完成の状態で放棄されたアバクスも 2 点出土し、同じように一材から方形のア バクスと蕾頂部が削り出されていた。図 3-2-16 としてそのうちの一つを示す。 図 3-2-16:未完成アバクス(AK07B-012) 方形のアバクスの上面には仕上げの位置と考えられる刻線が一直線に引かれ、その刻線 に沿って角だけが削り落とされていた。同様の加工は、柱身における円形刻線とその周囲 の削り落としで認められており、アバクス側面の整形途中を示すものと理解できる。また

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この石材では、アバクスの高さは約 21cm と薄く、一方、下面側では蕾頂部が 10∼12cm 残 されていた。完成された 2 点のアバクスと石材全体の高さはほぼ同じであることから、最 終的な大きさが計算されて用意されたものの、何らかの理由で設置された高さが数センチ 低くなり、アバクス上面に厚さ 5cm 程度の石材を重ねて調整したものと推察される。 この石材の蕾頂部も未完成の様相を示しており、六弁形断面ではなく直径約 70cm の円筒 形をなしていた。円筒形の側面は粗く、形状も歪み、欠損した部分にはモルタルが厚く詰 められていた。蕾頂部の様相は、先の未完成柱身と類似しており、粗削りの状態で石材を 頂部まで積み上げた、とする先の仮説を補完するといえよう。 アバクスの下に据えられていた石材は、柱身と同じ六弁形の断面をとるため、両者の区 別は難しい。そのため、復元図では点線とした。ただし、柱頭を構成する石材が原則とし て一材で作られていたとするならば、これに該当する石材が 5 点出土し、いずれも石材の 高さは 35∼40cm であった。ただしやや直径の大きい石材も含まれており、5 点全てが柱頭 部材であったかどうかは定かではない。 上から三段目に位置する石材は、もっとも蕾が膨らんだ部分を形成するため、特に大き な石材が使われている。発掘調査では 5 点出土し、うち 2 点は一材で、3 点は二分の一材 であった。 図 3-2-17:蕾部分の柱頭石材 さらにこの下、アバクスから数えて四段目でも、一材で作られた石材が 2 点出土し、バ ンドと膨らみ始めた蕾の一部が作られていた。 各段の多くが、一材から削り出されていた点は、これらが、石材設置の困難さが増す柱

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頭であることを考えると興味深い。アバクスが一材から作られた理由としては、アーキト レーヴが安定して設置されるためと考えることができる。一方、それ以外の三段が一材か ら削り出されたことの「利点」を合理的に説明することは難しく、比較資料を集めてさら に検討を続けたい。 ところで、ここでは柱頭として、バンドより上部の膨らみを指したが、この柱頭を構成 する、上からの四段目の石材は、バンドを一部含んでいた。詳細に観察すると、5 本のバ ンドのうち、上から 5 本目、すなわち最も下のバンドの途中に、石材の最下面が位置して おり、石材の大部分をバンドが占めているといってよい状態を示していた。用意された石 材は矩形のブロックを呈していたと推測され、その大きさは最も膨らみをもつ蕾の部分が 収まるものであったと考えられる。だが、この場合、石材の大部分をバンドが占めたため、 石材の大部分を径の細いバンドのために削り落とす結果を招いたといえよう。掘削作業か ら考えれば「無駄」と言えなくもなく、あらかじめ石材の目地をバンド上端に合わせてお けば済む話であるが、そうした細部を意識し、計測しながら積み上げるよりも、「無駄」を 承知の上で、細部にこだわらず石材を積み上げる方が、結果的に「無駄の無い」、合理的な 方法という認識がなされていたのではないかと推測される。 図 3-2-18:バンドが大部分を占める、四段目の柱頭材 この石材の下の段に据えられた石材は、バンドより上の膨らんだ部分を「柱頭」とすれ ば、柱頭というよりは柱身の最上部ということができ、一様なテーパーで先細りしてきた 柱身が、最も径を小さくする部分である。 図 3-2-18 で提示したように、アバクスを含めて上から四段目にあたる石材では、その下

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端が 5 本目のバンドの途中に位置する例が見受けられた。発掘調査では、この石材の下の 段に位置する石材が出土し、その上端に 5 本目のバンドの途中があたる石材が複数みられ た。柱に使われた石材は、高さ 35∼50cm とばらつきがあることを考えると、同じ位置に石 材の目地がくるのは偶然とは考えがたい。また、こうした石材の上端が 5 本目のバンドの 途中にくる石材は、20cm 前後の高さを採る場合が多く、むしろバンドの途中の位置で高さ の調整を図った可能性が窺われた。 図 3-2-19 は、石材の上端に 5 本目のバンドの中程が位置する柱材の一つである (AK02-B-910)。この石材でも次に述べるように、「ある高さ」を意識して石材を積み上げ る様子が観察された。 図 3-2-19:上端にバンドの中程が位置する柱材 この柱材の表面は入念に研磨されており、整形作業は終了していると考えられる。この 石材では、通常接着面にくる風化傾斜面が下面に位置していた。風化傾斜面が表装となる ように据えられていた旧建造物に対して、いわば石材を「立てる」向きで使用していた。 一方、接着面には旧建造物の下面が位置し、結果として接着面が傾斜している点に変わり はない。言い方を変えれば、石材の層理面が縦方向になる使い方をしており、少なくとも

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こうした「縦使い」に構造的な利点を見いだすことは難しい。こうした使い方の可能性と しては、もう一方の石材の高さが大きかったために、それに合わせるためやむなく行った という解釈もあろうが、出土した他の柱材で縦使いを行った例はなく、低いと思われる。 むしろ、ある高さが決められており、層理面を水平にする通常の使い方ではわずかに届か ず、ごく薄い石材を挟むかわりに、縦使いを選択したという解釈の方が、蓋然性が高いと 考える。すなわち、5 本のバンドのうち、最も下のバンドの中程の高さが、何らかの理由24 で決められ、その高さまで柱身石材が積み重ねられ、必要に応じてその高さで揃えるため に調整が図られた。そしてその後、柱頭として別に用意された大型の石材が 4 点点積み重 ねられたものと想定される。当然のことであるが、アバクス上端が決められた高さに到達 しているか、すなわちアーキトレーヴが水平に設置できるように、慎重に測量がなされ、 場合によっては上面の微調整が行われて、柱材の積み上げ作業は終了したものと考えられ る。 図 3-2-20:柱身石材の設置 (4)アーキトレーヴの設置作業 アバクスまでの組積作業が終了すると、柱の整形作業ではなく、引き続きアーキトレー ヴ、屋根材の設置作業が進められたと考えられる。柱身材の設置作業では、柱礎石の上面 24高さ調整が行われた位置が、石材の大きさが変化するバンド上部ではなく、それよりも約三十セン チ低い、五本目のバンドの中程であった理由ははっきりしない。ポルティコに同じ柱を十六本築か ねばならなかったことを考えると、この高さが作業上、把握しやすい値、言い換えれば古代エジプ トの腕尺の整数倍であった可能性が挙げられる。柱全高さは四メートル五十センチほどと見積もら れ、六腕尺(約三メートル二十センチ)が近似する値として求められる。積み上げ式の柱は、ひと たび倒壊し、攪乱を受けると、当初の高さを正確に復元することは困難であるが、柱高さの解明に 向けた手がかりの一つとして、可能性を提示しておきたい。

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が常に露出していた可能性から、石材は傾斜路ではなく、足場を組み、綱で吊り上げた可 能性を指摘した。アーキトレーヴ、および屋根材は柱材に比べてはるかに重量があり、傾 斜路を用いて積み上げた可能性が挙げられる。この場合、傾斜路が用意されたのであった ならば、柱を積み上げる段階でも活用された可能性が高く、柱礎石の上面を露出させなが ら石材を積み上げた、とする方法にも矛盾するおそれが出てくる。そのため、柱の構築方 法として綱の利用を提示するならば、アーキトレーヴが傾斜路なしでも設置できたことを 検証しておく必要があるといえよう。そこで、以下では、アーキトレーヴおよび屋根材の、 石材設置に関する考察を進めることにしたい。 古代エジプトにおける石材を綱で引き上げる方法についてアーノルドは、滑車の出土例 などから少なくとも当該遺構が築かれた新王国時代には、綱で石材を吊り上げる手法自体 は存在したと述べている。また鉛直な縦坑に花崗岩製の石棺を降ろすことは広くなされて おり、数トンの重量に耐えられる綱が得られたことも確実である。 ポルティコに架け渡されたアーキトレーヴについてはおおよその規模が推測できた。一 般にアーキトレーヴはアバクスの側面と面(つら)が揃えられることから、その断面は、 アバクスの幅、すなわち 70∼72cm ほどを一辺とする、正方形に近い形であったと考えられ た。また長さは、柱間(柱心)約 2m40cm、脇間(柱心—側壁内法)約 1m70cm から、二種 類存在したことが想定された。その容積は柱間で 1.2 ㎥程と見積もられ、石灰岩の比重約 2.6 を掛け合わせれば約 3 トンに達する。 発掘調査では、この規模に合致する大型の石材が 3 点出土し、アーキトレーヴ材と判断 した。長さなどから、うち 2 点は柱間を架け渡すアーキトレーヴであったと考えられ、残 る 1 点は脇間に架け渡されていたと考えられた。 柱間に渡されたアーキトレーヴ 2 点は、いずれも古建造物のレリーフが残され、再利用 石材であったことが判明した。このうち状態の良かった AK04-O-285(図 3-2-21)では、両 端にアバクスがあたっていた痕跡も観察され、上下を確定することができた。その結果、 彩色の残るレリーフ面は側面に位置し、この上に仕上げのプラスターを塗布して全面を覆 い隠すような方法が採られていた。反対側の側面は、一方の端から半分近くまでが入念に 仕上げられていたが、残りは、未整形の状態であった。

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モルタル 図 3-2-21:アーキトレーヴ(柱間) レリーフの様相から、この石材は旧建造物で壁面を構成していたと考えられ、背面側の 未整形の面も旧建造物で粗く加工された面と判断される。未整形面の中程には、縦溝が刻 まれていたが、壁体の背面側にこのような溝を刻む理由は見あたらず、縦溝は石材転用後 に付けられたと考えられる。 一方、残る入念に整形された面では、旧建造物の未整形面との境に幅の狭い鋭利な鑿痕 が確認された。同様の鑿痕は、先の未整形面の縦溝でも観察され、整形面と未整形面との 境にもかつて同じような縦溝が刻まれていた可能性が考えられた。 この仮定に沿えば、石材の二箇所に縦溝が刻まれていたことになり、それらは当遺構で の建築活動に伴うものであったと考えられる。縦溝の役割として考えられるのが、石材を 吊り上げる際に綱を引っかけるための溝であった可能性であろう25。この溝にアーキトレ ーヴを吊り上げるための綱を回し、さらに石材の動きを制御するための控え綱も用意され たことであろう。おそらくアーキトレーヴは、柱の間から吊り上げられ、場合によっては 途中に踊り場のような場所が作られて、慎重に上昇し、柱の上方で向きを変えて設置され たと推定される。 このようにアーキトレーヴ材の縦溝を、綱を安定して掛けるために用意された跡と解釈 するならば、アーキトレーヴにおいても、傾斜路を使わず、綱で吊り上げられた可能性を 提示することができると考える。これにより逆に、柱材が足場と綱で設置された蓋然性を 高めるとともに、柱礎石上面が規準の役割を果たしたとする仮説を補完する結果というこ

25石材に溝を掘り、綱を渡した例が知られている。Arnold Di., Der Pyramidenbezirk des Königs

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とができる。 図 3-2-22:アーキトレーヴの設置 (5)屋根材の設置 引き続き、設置が困難な屋根材についても検討しておきたい。第 1 編第 3 章で述べたよ うに、ポルティコの屋根材は、東西方向に 2 本架け渡されたアーキトレーヴにその長手を 直交して配置され、西側のアーキトレーヴとポルティコの西壁を覆う屋根材と、東西二本 のアーキトレーヴ間を架け渡す屋根材の東西二種類あった。さらに後者は、東側のアーキ トレーヴを越えて前面に庇状に迫り出す形状であったことも指摘した26 この東側に架け渡された屋根材は、3.5m ほどの長さをもち、その横幅にもよるが、石材 の重量は、アーキトレーヴに匹敵するほどと見積もられる。アーキトレーヴが綱を用いて 吊り上げることが可能であったならば、重量的には屋根材も可能であったといえるだろう。 しかし、長大な屋根材を柱が林立する内部に持ち込み、アーキトレーヴが渡された空間で、 首尾良くコントロールできたかは疑問である。 出土したアーキトレーヴのうち、柱と側壁とを架け渡していたと考えられる部材(図 3-2-23、AK10-B-074)をみると、その上面に幅約 10cm、深さ約 3cm の窪みが三カ所認めら れた。 26柏木裕之 「エジプト、アブ・シール南丘陵頂部石造建造物の「ポルティコ」の屋根について」 『日本建築学会計画系論文集』第 591 号、2005 年、201-207.

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モルタル 図 3-2-23:アーキトレーヴ(脇間) これらの窪みはピラミッドや神殿などの石材上面で数多く観察することができ、石材を 滑らせて運ぶ際に、この窪みに棒を差し込み、「てこ」の要領で石材に背後から推進力を与 えたと考えられている27。出土したアーキトレーヴの上面に認められた三カ所の窪みも同 様の役割であったと類推される。また、移動される石材にも下側に棒を差し込むための窪 みが付けられる場合がある。出土した屋根材は状態が悪く、同様の痕跡を明瞭に窺うこと は難しかったが、いくつかの屋根材ではアーキトレーヴに重なる部分で、窪みのように石 材が欠損した部分が見受けられた。 こうした点を勘案すると、屋根材は直接吊り上げられたのではなく、アーキトレーヴの 上を引きずるように移動した可能性が高いといえよう。すなわち屋根材は、ポルティコの 側壁上部まで持ち上げられ、その後、アーキトレーヴの上を滑らせながら設置されたと考 えられる。この場合、ポルティコの南側壁が半ば丘陵斜面に迫り出すように築かれている ことからみて、より広いスペースが確保できる北側の側壁が使われたと考えられよう。そ して北から南へ順に運ばれた可能性が高い。 屋根材が南側から設置されたことは、ほぼ最終段階まで仕上げが済んだ柱材や柱礎石が 南側から多く出土していることからも窺われる。柱礎石についても、残存する南側はいず れも入念に研磨されていたのに対し、未完成の柱礎石は現在失われている北側に想定され ることもこれと矛盾しない。同様の傾向は床石についても見られ、東面の北側に原位置で 残存する床石では、削り残しの痕が観察された。このように、ポルティコの整形作業は南

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側から順に進められたと考えられ、その理由として屋根材の設置作業が南から順に進めら れたためと考えられる。 図 3-2-24:屋根材の設置作業 第 4 節 円形断面柱の構築 先の節で触れたように、屋根材の設置作業が終了すると順に整形作業が始められた。柱 についてみれば、整形作業が始められた時、各段の上面は円形に削り落とされた状態にあ ったと推測される。 図 3-2-25:上面が円形に削り落とされた柱 整形作業は、この上面の円形と下段上面の円形とをつなぐように側面を削り落とす作業

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から始められ、言い換えれば、断面が円形となる柱が作られたと推測される。未完成の柱 身(AK04-O-474)やアバクス(AK07-B-072)はこの段階を示していると考えられる。 建造工程の途中段階に円形断面の柱が目指されたことは柱礎石からも確認でき、未完成 の柱礎石H(AK04-B-001)、柱礎石I(AK04-B-058,065,066,076,083,081、図二十七)、柱 礎石J(AK04-B-152,154)の上面には、柱身最下部の断面として、六弁形ではなく、円形 が削り残されていた。 図 3-2-26:未完成の柱身 図 3-2-27:未完成柱礎石I 出土した未完成柱身材や未完成アバクスでは、円形断面の柱身は粗削りの状態であった が、未完成柱礎石 I の上面に残された柱身最下部は、その表面が入念に研磨されていた。 整形作業は、柱礎石の上面や側曲面、周囲の床面部分まで及んでおり、柱礎石I(図二十

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七)やJでは欠損した箇所にモルタルが充填され、表面に肌理の細かいプラスターが塗布 されるなど、最終的な仕上げまで至っていたと考えられる。 すなわち、断面が円となる柱は、ほぼ最終段階まで表面が仕上げられていた可能性が高 く、それは柱礎石や床面までも及んでいたと考えられる。 図 3-2-28:入念に整形された円形断面の柱 建造工程の途中に、入念に仕上げられた円形断面の柱が存在したことは、細部の観察か らも窺われた。 復元図からも分かるように、柱は大小二種類のロータスの茎をバンドで束ねた姿を模っ ている。そのためこの状態を忠実に再現するならば、バンドはロータスの茎よりも一回り 外側を回るはずである。ところが柱材を詳細に観察すると、バンドの表面と茎の最外側は 面(つら)で揃っており、茎とバンドが接する部分では、まっすぐに延びた茎の外側をバ ンド側に削って曲げ、そこだけみれば、バンドが外側を回るような細工が施されていた。 同じ手法は、パネルの左右と茎との間でも認められ、パネルの左右両端で茎の表面をわ ずかに削ることで、相対的にパネルが茎よりも外側に位置するように見せる方法が採られ ていた。 これらは、円形断面の柱が入念に作られ、そこから細部を削り出す工程があったことを 強く示唆しているといえよう。

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図 3-2-29:バンドと茎のおさまり詳細 入念に整形された円形断面の柱が作られ、更に柱礎石や床石までも仕上げられていた点 は、次の工程として、六弁形の柱身や柱頭などの細部の割り付けがなされることを考える と興味深い。なぜなら、壁面における壁の構築と装飾の工程を連想させるからで、壁面の 場合、まず石工によって壁の表面が平坦に磨かれ、次に画工が、その用意された面に図像 を割り付けたと考えられている。柱の建造工程においても、石材を積み重ね、円形断面の 柱を入念に作り上げるまでの作業と、その後に細部を整形する作業で、担当した労働者も 含めて、作業が大きく変化した可能性が指摘できよう。本節は柱の施工手順に焦点を当て たものだが、そこから、建造活動における分業体制が示唆され、注目される資料と考える。 第 5 節 細部の整形 円形断面の柱を仕上げる過程では、石材の欠損した箇所や不足部分に、モルタルが補わ れ、このモルタルを含めて研磨がなされたことが、出土した柱片やモルタル片から窺われ た。モルタルは、細部を作る段階でも多用され、例えば小蕾の茎全体をモルタルで形作っ た断片も出土している。 図 3-2-30 は、欠損した粗削りの面に黒色のラインが残されていた柱片(AK01-O-690)で ある。黒色ラインは鉛直方向に引かれ、かつ花弁の最も外側に対応していた。黒線は柱の 細部を示す、割り付け線と考えられ、本来こうした割り付け線は、仕上げの段階で削り落 とされるはずである。残存したのは、この部分の石材が当初より欠損し、線が引かれた後 に、欠損部にモルタルが補われたためと推察される。これも欠損した部分をモルタルで補 修したことを示す資料の一つといえよう。

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図 3-2-30:黒色ラインの引かれた柱片とその位置 柱の最終工程では、円形断面の柱に、黒色の線によって細部の割り付けがなされ、これ に沿って、柱頭や六弁形などの細部が形作られたと考えられる。 図 3-2-31:黒色ラインによる細部の割り付け こうして六弁形の断面や 5 本のバンド、小蕾やパネルなどの細部が作り出されると、表 面に肌理の細かなプラスターが塗られ、ロータス柱が完成したと考えられる28 28出土したパネルおよびアバクス側面には、いずれも装飾は施されていなかった。おそらく銘文やカ エムワセトの図像が刻まれる予定であったと考えられるが、何らかの事情で実施されないまま作業 が中断したと考えられる。

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図 3-2-32:完成したロータス柱 第 6 節 結び エジプト・アラブ共和国、アブ・シール南地区の、丘陵頂部から発見された石造建造物 のうち、東側のポルティコに築かれたロータス柱について、建造方法を復元的に考察した。 ポルティコの建造作業では、柱からアーキトレーヴ、屋根までの、石材を設置する工程 が優先され、それぞれの整形作業はいったん石材が積み上げられた後に実施された。その ため、石材積み上げ作業の段階では、加工は必要最小限にとどめられ、柱の場合、上面に 円形の刻線を付け、その周囲を削り落とす作業だけがなされた。 また、柱材の設置にあたっては、中心軸を正確に把握するため、柱礎石上面に付けられ た十字の刻線を利用した可能性を指摘した。これは、柱礎石上面が建造作業の間、常に露 出する状況にあったことを示しており、柱材の設置には、足下を覆い隠す傾斜路ではなく、 足場と綱による吊り上げ方式で進められたと考えられた。また綱は、アーキトレーヴや屋 根材の設置でも利用された可能性が高いことを合わせて検討した。 屋根材までの石材設置が終了すると、柱の整形作業が進められた。柱を構成する各段の 上面に付けられた円形刻線をつなぐように側面が削られ、円形断面の柱が形作られた。円 形の表面は、入念に仕上げられ、また柱礎石や床石もこの段階でほぼ最終的な仕上げがな されていたと考えられた。円形断面の柱が入念に整形されていたことから、それを作るま での工程と、次の細部割り付け作業では、担当した労働者も含めた大きな変化があり、一 種の分業体制が採られていた可能性を述べた。

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当該遺構が築かれたラメセス 2 世時代は、エジプト全土に多数の建造物が造営され、建 築活動の裾野が広がった時代として知られている。本章で復元された一連の施工過程から は、作業を効率よく推し進めようとする意識が随所にみられ、こうした合理的ともいうべ き施工技術が、逆にラメセス 2 世時代の活発な建築活動を可能にし、支えた要因のひとつ と考えることもできよう。当該遺構が、ラメセス 2 世の王子という、高位の人物の遺構で あったことを考えると、この時代の到達点に近い技術と体制が結集されていた可能性が強 く、ラメセス 2 世時代の建築研究に有用な資料が提供できたと考える。

参照

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