• 検索結果がありません。

黎朝下ヴェトナム村落における漂散農民の分析( I ) 下 [ A Study on the Peasant Drain during Le Dynasty in Vietnam (I-2)]

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "黎朝下ヴェトナム村落における漂散農民の分析( I ) 下 [ A Study on the Peasant Drain during Le Dynasty in Vietnam (I-2)]"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

東南 アジア研究 16巻1号 1978年6月

研 究 ノ ー ト

牽朝下 ヴェ トナム村落 における漂散農民 の分析 (Ⅰ)下

桜 井

窮 堆 *

ASt

udyont

hePe

as

antDr

ai

ndⅦr

i

ng

L

毒DyAaS

t

yi

nVi

e

t

na- (

I

-

2)

YumioSAKURAl

Thenaturalandwarrelatedcalamitiesthatcausedthefaminesthatforcedpeasants inNorth Vietnam toabandontheirnativevillagesfhm theBfteenthtotheeigh teenth

centuriesareanalyzed through an examination orsomeVietnamesechroniclesand geographies・

1) DuringLedynastythereweremanydrough tsfrom springtoearlysummer thatled tolarge-scalefamine. Thisillustratesthatfifth-month riceproduction was importantin NorthVietnameseagriculture,especiallylnthehighland areasbeyond theRedRiverDelta.

2) Oneofthemajorcausesofinstabilityin riceproductionduringLedynasty wasthedifnculty ofmaintalnlngStableyieldsin Afth-month ricecultivation which dependedentirelyonrainfrom theunpredictableNortheastMonsoon・ Furthermore,

thefifth-monthricecultivatedinthehigh landareaswasfrequentlydamagedbylocusts, especiallyintheBfteenthcentury・

3) Tenth-monthricecultivatedin thedeltaareasuffereddamagefrom inundation bytheRedRiver. IntheearlyyearsofLedynasty,theaoodingeffectedmainlythe HaNSidistrictandlater,With theagriculturaldevelopmentofthelowerdelta,the Hu'ng-Yen districttoo wassubjectto flooding. However,exceptin the Thanh-Hoa・delta,Onlyafew ofthesenoo°sledtofamine.

4) ThelittoralzonesoftheRedRiverDeltawerefrequentlydamagedbyhigh tides,mostly caused by typhoons. However,although such damagehad increased with reclamation,ltrarelycausedlarge-scalefamine.

5) Civilwarproduced faminein certain strategic areassuch asHai-Du'o'ng, Ngh 与-AnandThanh-Hod.

Itappearsthatfaminesoccurredmostlyinthehigh landareas,theupperpartof the middledeltaprovinces,and theThanh-Hoband Ngh 6-An provincesduringLe dynasty.

However,ageographywrittenatthebeginnlngOrthenineteenthcenturyIshows thatmostofthegh ostvillageshavelhAonorphu'b'ngaspartofthcirname,indicatingthat theywereprobablyestablishedinthelaterpartofLedym asty・ From thisitappears necessarytoresearchintothesoci0-cconomicfactorlinkingnaturalorwarrelatedin calamitiestothepeasants,abandonmentortheirnativevillages. Thiswillbeconsidered inpart(2).

* 京都大学東南 アジア研 lJPLセ ンター 136

(2)

桜井 :智朝下 ヴェ トナム村落における漂散農民の分析 (I)下 ⅠⅠⅠ 洪水の秋和への影響 紅河デルタが過剰の水か ら農作を守 るための膨大な努力によって開拓 されたことは,すでに 多 くの識者の指摘す るところであ り,筆者 もまたその歴史的発展については近 く別 に詳論す る 予定である。 したが って, ここでは重複を避 け,む しろその被害 に重点をおいて考察 してみた い 。 その第 1は,沿岸砂丘列地帯 と東部のタイビンデルタを除 く紅河デルタ一帯 に影 響 を 与 え る,紅河の洪水である。紅河の氾濫期は 6月 に始 まって 9月に終わる。 これはほぼ雨季 と並行 している。94) 1422年∼ 1786年 にかけて, ヴェ トナムの3種 の年代記は49回 もの洪水が発生 したことを記 し ている。 この うち, もっとも頻度のたかい1679年∼ 1779年の100年間をみ ると,実 に22例 に達 す る。 ほぼ 4年半に

1

度,洪水が発生 しているのである。 しか しなが ら,夏稲の早魅 において は2年以上連続 した例が13例計22年,全早魅年の56年の4割近 くを 占めるのに対 し,洪水の連 続発生年はわずかに 7例15年 にすぎない。早魅が きわめて不安定で夏稲 に壊滅的打撃を与えた と推定 され るのに対 し,洪水は頻度 こそほぼ同 じで も,比較的規則的な, それだけにその被害 の発生原因には人為的な

が多 く含 まれているとも考え られ よう。 次に,洪水の発生分布を60年をスパ ンとして考 えると,1420年∼ 1479年の間に6回,1480年 ∼ 1539年に8回,1540年∼ 1599年 に5回, 1600年∼ 1659年に6回,1660年∼ 1719年 に9回, 1720年∼ 1779年 に15回 と,1480年∼ 1539年の洪徳治世か ら懲朝前期末 にひ とつの ピークがある ほか,1660年代以降に漸増 していることがわかる。95)この両代は共 に別論す るように,堤防の 整備によるデルタの開拓が段階的な発展を遂げた時代で もある。洪水被害 の頻度はいわばデル タ開拓 の歴史 に照応すると考えることもできよう。 また,洪水の発生を記載のあるものに限 って月別に分類す ると,次のようになる。 一 月 2 二 月 0 三 月 l 四 月 3 五 月 4 六 月 15 七 月 13 八 月 10 九 月 6 十 月 4 十一月 0 十二月 0 この裏でみ ると,旧暦四月に始 まり六月を ピークとして十月 に終止す るo これはいわゆる秋 稲の耕作期間 と完全 に一致する. 秋稲が雨季の雨量に依拠する以上,両者 の一致はいわば当然 であるが, その発生頻度が時代を下 るにつれて増大 していることは秋稲栽培面積 の拡大を も暗

94)P・Gourou,LesPaysansduDcIEaTorzkinois,pp.74-77.

95)洪水の発生年度を逐一あげると,次のとおりである。

1422,1439,1440,1445,1475,1478,1492,1501,1503,1504,1513,1515,1519,1536,1559,1577,1586,

1592,1597,1600,1602,1607,1622,1629,1631,1663,1667,1679,1680,1681,1684,1695,1702,1713,

(3)

東南 アジア研究 16巻1号 示す るものである。 次 に, これ ら諸例のうち,明 らかに農作物に影響があった と考え られ る以下 の27例 に つ い て, これ らの仮説が妥合す るか どうかを考えてみようo ①大越史記本紀実録2 太和3年 (1445)十月 七 日。洪水蔵人城 中,高三尺。禾穀滝損三分之-0 ④越史通鑑綱 目24 洪徳22年 (1492)八月 大雨。辰, 日夜大雨不止,水暴櫨,敬天殿水深二尺二寸。育成 96)・舌滞 97)等解,平 田水深四 尺。命錦衣金吾二衛指揮校尉,分往疏決雨水之害禾穀者。98) ④大越史記続編 正治 2年 (1559)八月 大水,没西都城,99)滝倉庫,指100)禾穀。民鰯,叉安水浴,流数百家。 ④大越史記続編 嘉泰 5年 (1577) 辰,清化累月霧雨,水溶傷稼,民大飯荒。 大越史記本紀続編2 同年 時,清華多淫雨,水涼七次,田禾多傷損。民大磯荒。 越史通鑑綱 目29 同年 清華大水飯 。是歳清花多淫雨,水涼風七次。 []禾損傷,民大磯。 ㊥大越史記本紀続編 2 光興 9年 (1586)六月 二十五 日。 清華地方,天無風雨,忽馬江洪水蔵浴,西都城没溺干水。江表逆流,濡急若射, 木樹塞川,沿河之家,多流蕩干海。 同書 同年七月 二 日。大水涼---。三十五 日。又大水涼。一年之申,大涼風七次。 同書 同年九月 三 日。 大水,宗雨粒旬。九 日。又大水。十八 日。雨止。是歳,清華地方,禾穀不登。 同書 同年十月 天又淫雨。経二旬不止。各解諸山乱崩。 越史通鑑綱 目29 同年九月 活花大水鰻。先走安場営10

1

)申 ,暴風大作,発屋抜樹,是月至十月。控雨粒句,水涼風七次.

96)Thanh-oai(河内省

H

ANやi). 97)Thanh-tri(河内省 清池願).

98)しか し同書 によれば ,この冬十月は大熟であった。 したが って禾穀が害 されたのは- ノイ近傍のこの 2解に限 られたとみ られる。早魅 とちが って ,地域的に小 さ く限 られるのも洪水の特色であろう。 99)西都城 は地史通鑑綱 目17 興 慶元 年条註 によればタインホア省の永禄 Vinh-1Oc解の春街

Ⅹuan-nhai芳街 Phu'o'ng-nhai西街 Tay-nhaiにあたる。大都城の遺跡の存在で有名である. 100)指は損 の誤字であろ う。

101)An-tru'b'ng-doanh・ タインホア省の瑞原 Thuy-nguyen 鯨におかれた申宗,世宗の行宮。 138

(4)

桜井 :李朝下ヴェ トナム村落における湊散島民の分析 (I)下 清花禾穀不登,民多磯野。 ⑥大越史記続編 光興15年 (1592)七月 大水涼。清化 ・山西 ・山南,傷稼民磯。 大越史記本紀続編2 同年同月 六 日.洪水騨至,河水横流丘陵髄温.清華遺釆穀不登.十五 日。水又涼。西南之民亦荒飢O ⑦大越史記続編 光興20年 (1597) 渡江102)水蔵, 田禾多損。 大越史記本紀続編2 同年六月 是月,無風雨,浪江水忽 自蔵温,衝激。是歳,前大串,後大水。円禾多損失,歳屡不登,氏 多流亡。 ㊥大越史記続編 徳隆 2年 (1629)六月 洪水大至。珂河103)砿浴,衝入街衝南門外 ,水流漸 ,庸坊乗船人,行渡多溺投。荷池堤決禾損 人飢。 大越史記本紀続編 3 同年同月 洪水大至。--又背池嚇安沿勧良等社,及各堤路破鏡,禾穀耗損,人民餓鯉。 ⑨大越史記本紀続編 3 盛徳 5年 (1657)九月104) 大風雨,抜木折屋,清華及山南下畔諸解,人民陥没,禾穀轟催。 ⑲大越史記続編 景治元年 (1663)六月 大水定温,検民 田禾,浸民鷹屋,快州常信地方,水害愈甚。 同書 同年十一月 錦城四鋲民,季税有差,触水害也。 ⑱大越史記続編 真治 5年 (1667)六月 清華麗,河洗水溢,徐浸民田。 ⑩大越史記続編 永治 4年 (1679) 清華大水。堤路潰決,蛙虫傷稼,民多流散。冬十月。清華磯。 ⑯越史通鑑綱 目34 正和 5年 (1684)

八月

大風水溢,碍河堤決。西北請願, 田禾損失者多。 ⑭大越史記続編 正和16年 (1695)正月 王以清華水温荒款--0 102)越 史通鑑 綱 目30 同年粂註に「渡江在宣江省永緩解西北 ,額源。至自鶴輿挑江合。」 と あ る。 現 在の S6ngChay. 103)SangNhi.紅河のこと0 104)これは洪水を直接示唆す る記事でないため,注95)か らは省いている。

(5)

東南アジア研究 16巻1号 この大越史記続編を原史料 とす る越史通鑑綱 目 同年同月条は 「清花大水磯.」 としている. しか し,旧暦正月 (新暦では1695年2月13日∼同年3月14日) に大水が発生 した例はこのほか に正和23年の例があるだけで,仏領時代の気象統計をみて もこの李に大雨のある蓋然性はきわ めて少ない と思われ る。 したが って,大越史記続編の同条は正月に大水 に対す る救済措置がな されたことを意味するものであって,必ず しも正月に大水が生 じたことを示す ものではない。 む しろ正月に救済措置がなされたことは前年秋稲の収穫が損害を うけた ことを示 し, よって大 水の発生時期は前年 (正和15年)の十月以前 と考えるべ きであろう。 ⑯越史通鑑綱 目34 正和23年 (1702)iI・二月 摘花大水。活花水溢,

決民機。 これ も,大越史記続編 同年同月条には 「以清準穀歌,是至石河堤之役

」 と あ り, む しろ 河堤を補修 した時期 として正月を指 している。 したが ってやは り,大水民磯の発生は前年十月 以前のこととす るのが正 しかろう。 ⑯大越史記続編 永盛9年 (1713)七月 霧雨不止,河水泣浴,山西山南清華十三解堤防皆瀬裂,流数常家,人民磯雄。 ㊥大越史記続編 保泰8年 (1727)三月 減山南諸願 田租,以洪水湊損禾穀,命畳随損分数,滅赦,従公玩之請也。 これ も三月 に大水発生 とす るのは奇妙であ り,やは り前年夏 ・秋季の洪水に対す る救済措置 が この月 にだ された と考えるのが正 しかろう。 ⑯大越史記続編 保泰10年 (1729)七月 大水。巨臭堤105)決港,浸古碑行宮106)城 内,水深三尺。官店行坊,皆放。107)各麗河堤潰決者 衆。 同書 同年閏七月 命勧農官,分遣往勘流民。 ⑲大越史記続編 永慶2年 (1730)四月 大水。漫厨洲提 108)潰.先是,河堤築作二十四所。-・・・・至是 ,潰決甚策,水勢控盗。損失禾穀 者,殆八九解。 ⑲越史通鑑綱 目40 景興9年 (1748)九月 大雨。河水溶,禾穀浸没。 ㊧大越史記続編 景興14年 (1753)十月 105)巨霊堤.嘉林解GiaLam (北軍省)CuLlinh杜。 106)古碑行宮は嘉林麻 GiaLamの古碑社におかれた新府. 107)壊であろう。 108)越史通鑑綱目 同年条には 「幌噺別 とある.同書誌によれば興安省 Hu'ngYen束安牌Dbng-anに あったという。 140

(6)

桜井 :紫朗 ドヴェ トナム村落における疎放農民の分析 (I)下 山南 ・京北 ・海陽暴風水源,禾穀浸没。人民飢餓。 ㊨大越史記続稿 景興 15年 (1754)六月 河水浴。歩頭109)・綱川 110)堤決。民居 田禾尽投。命憲司往勘,上其状.議行極救。 ⑳大越史記続編 景興17年 (1756)十月 叉安雨。水温。田禾尽投。 ㊥大越史記続編 泉興18年 (1757)七月 大水。 同書 同年十月 山西大磯挺, 山西 諸願,大磯投,民屠僅存十之一二。 ㊨大越史記続編 景興21年 (1760)八月 暮雨。瞭水冷投, 田禾甚 衆。 同書 同年九月 以清華久居背水涼。--越史通鑑綱 目42 同年同月 摘花大水。以清花民苦水源 。・ --綱 目では続鰍 こなか った 「活花大水」の句をいれ,かわ りに 「久居」の句を削 ってい る. し わが って,果 た して この年 に大水がタイ ンホア地方 に起 こったか どうかは疑問であ るoむ しろ 後述す るように, タインホア地方 には連年のどと く洪水があ った とす る記述 として考 えた方が よかろう。 ⑳大越史記続編 菜興27年 (1766)六月 霧雨。京北水浴河決。 越史通鑑綱 目42 同年同月 轟雨。京北水温,河決。京北諸聯河決。田鹿浸没。--㊨越史通鑑綱 目44 景興34年 (1773)七月 大水。来宅堤111)潰。 水決東宅堤,常信112)廠天113)荏仁114)諸路流壊千飴家,禾穀浸投。 以上の例を発生年でみ ると,デルタ発展 に比例 して洪水被害数が増大す るとい う,先 の仮説 が よ り明確 にな って くる。 すなわ ち, 15世紀 にはわずかに 2例,16世紀 には 5例 にす ぎなか っ 109)地史通鑑綱目 同年灸によれば,河内省 HANSi上福爆 Thu'o'ng-phdcにあったという0 110)同じく山西省 So'nTay福寿 Phdc-th9にあったという。 Ill)地史通鑑綱目 同年粂註によれば来宅堤 Dang-trqchは背池麟 Thanh-triにあったという。 112)Thu'a'ng-tin貯,河内省。のち- ドン省 HAPang.

113)U'ng-tian府O李朝時の呼称,- ドン省腹

U'ng-hふa府のこと0

(7)

東 南 アジア研究 16巻1号 た ものが,17世紀では7例,18世紀では実 に13例 にのぼるのである。 次 に,以上の諸例の うち地域 の記載のある23例 について考え る。まず, タイ ンホアに起 こっ た9例,1559年 の西都城水没の記事をいれ ると10例が 目につ く。タイ ンホアは莫氏 に纂奪 され た驚朝が1546年か ら1593年 まで行在をおいていた場所であ り,1559年,1577年,1586年,1592 年 の洪水の記述がタイ ンホアに集 中す るのはむ しろこのゆえを考慮 しな ければな らない。 しか しなが ら1577年,ついで1586年 にも 「水原七次

とされ るのは, まさにタイ ンホアデル タの水利の不安定性を物語 るものである。タイ ンホアデルタの開拓史 と気候 との関係は別 に詳 論す る予定であるが, その不安定性 を示す例を幾つかあげれば, まず南西 モンスー ンおよび台 風 の もた らす降雨量の年 々変動が,紅河デルタに比 して著 しく大 きい ことである。 た とえば, 1907年か ら1925年の問の降水量は最高が1907年 の2778mm に対 し,最少 は1133mmであ り, 2.45倍 に達す る。 これ に対 し,Phu-Lienのそれ は1.91倍である。115) また, デルタ面積 が 紅河 デルタ に 比 して 著 し く狭いに もかかわ らず, マ-川 S6ngM左, チュ-川 S6ngChu の二大河川を有す るため, 洪水の被害 は紅河デルタに較べ ると破壊的で ある。116)た とえばチュ-

は水量 の もっとも少 ない3月∼ 4月で 32m3/secの流量 に な り, 9月,10月 には5000m3を こえるよ うである。 一方, マ-川は4月 には80m3であ るが,時 に は8000m3に達す ることがあるとい う。117) さ らにタインホアデルタは,6月か ら11月 にかけて フィ リピン東方海上 に発生 した台風の西 進す る,いわば通 り道 にあたる。 この間の熱帯低気圧 の進路図をみ ると,多 くの曲線がち ょう ピタインホアの地点で交差 し入 り乱れている。118)大南一統志16 清化省気候 において 「七八月 ・・・-・或駆風大嶺」 とあるのは この ことであろう。 タインホアデルタでは,人為的な水利綱 が一定 して発達 した仏領時代 において さえ,1903年, 1904年,1909年,1910年,1911年,1917年,1920年,1921年 には水害が発生 し,特 に1927年の 9月21日の台風,10月8日の豪雨 はタインホアの上流地帯 にいたるまで大被害を及ぼ した とい う。119)タイ ンホア農業の地形的かつ気候的な不安定 さを示 してい るといえよう。 したが って タ イ ンホア地方 においては紅河デルタ以上の人為的な水利施設 の管理が必須 の条件であるに もか かわ らず, 同地域 はタイ ンホア山地 に遮 ざ られて紅河デルタ中枢 か らは画然 とした独立圏をな すため,唐代の諸反乱か ら驚利,苓朝後期の戦乱 において常 に中央権力 に抗す る割 拠 の 地 と な っていた。16世紀後半 および17世紀後半 の戦乱親 にこの地で集中的に水害の記事 がみ られ る

115)Ch・Robequain,"LeThanh-HoA,"p.40.

116)ibid.,p.48.

117)ibid.,pp.309-311.

118)中島暢太郎 「東南アジアの気候の特性について (2)」p.323. 119)Ch.Robequain,oP.Gi

l

.,p.SIS.

(8)

桜井 :李朝下 ヴェ トナム村落における漂散農民の分析 (I)下 の も理解で きよう。 次 に,紅河がデルタ部 に突入す るソンタイー- ノイ地区での被害の記事 が注 目をひ く。 これ は1445年の城 中 (- ノイ)洪水,1492年の- ノイ ・タイ ンオアイ ・タインチ-, 1592年 の ソン タイ, 1597年 のチャイ川,1629年 の- ノイ ・タイ ンチ-,1684年 の紅河,1713年 のソンタイ, 1729年のザ ラム,1754年の- ノイ付近,1773年 の トゥオ ンタ ン ・ウンホア と,全25例 の うち9 例 にわたって お り, タイ ンホアの被害 と相並ぶ。 さらに,被害 の記事 こそみあた らないが越史 通鑑綱 目5 洪徳6年 (1475)七月 に 「大水決, 蘇歴堤」120)とあ り, また 大越史記 本紀 実録 6 洪膿 5年 (1513)六月 に 「決要撃坊堤」121)とあ って ,- ノイ近傍の堤 防が頻 りに決潰 した ことを示 してい る。 P.Gourou も,急傾斜 の高 山のはざまを ほぼ直線 に くぐりぬけた紅河が, ヴィエチ122)か ら フンイ ェンにかけてのいわゆ る中部デルタで大量の排水 と流速を維持 し, た とえばメ コンデル タの氾濫 のよ うな緩慢かつ規則的な氾濫形態 とはまった く異な ることを 指 摘 して い る。123)事 実,北部 ヴェ トナムの文献 に残 る最古の築堤記録である大越史記全書3 龍符 8年 (1108)の 「春二月,築堤機舎坊

(綱 目編者 の考 えによれ ば河 内省寿 呂解であるとされ る

)

124)を みて も,紅河 ,特 に- ノイ周辺 のそれが歴朝 の築堤工事 の主たる関心事であ った ことがわか る。125) 最低 の水位 と最高 のそれ とが10m近 くも移動す る- ノイ周辺 の紅河の脅威か ら, - ノイ以南 フンイェンにいたる輪 中村落地帯を守 るには, こうした不断の築堤作業が必要であ った。それ は逆 に, フンイェン以南 の下部デルタに較べ,中部デルタの農地 は人為的 に形成 され た側面が つ よい ことを意味す る。 1657年の山南下畔126)を別 にすれば, 具体的な堤坊破壊記事 の南 限が 1730年 のフンイ ェン省 ドンアン解 にとどまるのは このゆえであろう。 とすれば,同 じ秋稲デル タ農耕地帯 とい って も, 中部デルタ と下部デルタはその生産の安定性 において大 きな差があ っ た ことにな る。 しか しなが ら, タイ ンホア ・中部紅河デルタにおける洪水 による被害 の増大 は,一見,生産 力 の減退,流民 の発生 に結 びつ くよ うであるが,上述の史料でみ る限 り,時代が下 るとともに む しろ漸減 している。民餓流散を もた らした洪水 は16世紀 にはタイ ンホアを中心 に 5例 あ る が,17世紀では2例, 18世紀では4例 にす ぎない。洪水発生 との比率でみれば16世紀では 2.4 刺,17世紀では1.5割,18世紀では2.2割であ る。特 に- ノイ周辺の紅河決濃 によって民餓流 120)T

a

L圭ch江。-ノイ市北方を流れる紅河の分流. 121)題史通鑑綱目26 同年同月粂註によれば, 「安花坊O今安静坊。在河内懐徳府永嘱牌」とある。 122)Vi手tTri. 123)P.Gourou,oP.ci

L

.,p.76. 124)通史通鑑綱目4 同年粂註。 125)ハノイーソンタイ間の築堤作業については仏極東学院本 「北析河堤事跡」に詳しい。 126)一見,山南下鋸の意にとれるが,越史通鑑綱目の同年条は 「山南諸

」として,特定を避けている。

(9)

虎 南 アジア研究 16巻1埠 散が生 じたのは, 1597年, 1629年 の 2例,仮 に1729年七月 と閏七月の記事が相聞す る もの と し て も 3例 にす ぎない。 したが って戦乱,早魅 な ど他の複合 的な要素が加わ るタイ ンホアを別 と して, 中部 デルタの農耕 において は高地部の早魅 の被害 に較べれ ば,む しろ比較的安定 した経 営を とりえた とす ることがで きよ う。 これは後述す る流民村落の地域的な分布をみ るときに, さ らに明確 な形 とな って あ らわれ る。 ⅠⅤ 津波の秋稲への被害 最近, 日本 においては ヴェ トナム史 における農業水利を語 る際 に,洪水 に対す る農民 の 日和 機構,いわゆ る中郡デルタ (Moyen Delta)における輪 中村落の意味を強調 しす ぎるあま り, デルタ生産力の大宗 を にぎる下 部デルタ沿岸諸省 の 問題 を等閑視す る 傾 向 がみ られ る。127)た とえば仏領時代の史料 によれば,北部全水 田面積 の うち30.9% はキ ェンア ン, タイ ビン, ナム デ ィン, ニ ンビンの沿岸 4省 によ って 占め られ, さ らに生産力のたかい

二期作

田に限れば53.6 % に達す るので ある。前述のよ うに, これ ら沿岸諸省 の村落 の大部分は P.Gourouの用 語 に

したがえば 「沿岸砂丘 列村落

(1esvillagesdecordonslittoraux)によ って構成 され る。この 村落 の形成過程 について は別論 に委 ね るとして, これ らの村落 の最大 の暫威 は河川の洪水 よ り も 「台風 による風津波

(mar6edetyphons)を 原因 とす る 冠水 の被害である。128)各種年代

記 において も, おそ ら くこの風津波 と思 われ る記述が以下 の とお り4例 み られ る。 ①大越史記本紀実録3 光順 8年 (1467)九 月 二十 日。駆風 .南第 129)・峡 山130)・太平131)・建 呂,132)海瀕等府 ,海水大蔵 ,堤防決裂,禾穀 浸俺,瀕海之民多餓死 。叉安,渥頭梅瀕等亦被

害。 同書 同年十二月 発掘海軍人 明年大集。以八九月間,

風大作,海水砿溢

,

瀕侮

民屋

房,漂投敏也 。 ④越史通鑑綱 目27 元和 4年 (1536)四月 大風水溢 。大風折木畿屋,海水蔵浴,人畜 多溺死。 ③大越史記続編 弘定 18年 (1617)九 月 輿風。海水浴 。 大越史記本紀続編 3 同年同月 時五熟雷熟,即風大起,舶水破潰 。近海之民, 多被其害 。 127)たとえば,井藤玄 1970.「ベ トナムの艮族

神の形成について

Fシェノー ・ベ トナム民族形成史l 班 論社,pp・280-286・ 128)P.Gourou,op.ci

l

,,p.80. 129)Nan-sach府,-イズォン省。 130)Hiep-so'n願,ハイズォン省。 131)Thai-bl'nh

,タイビン省。 132)Ki昌n-Xu'o'ng府,タイビン省。 144

(10)

桜jtl二紫朝 トゲ._トナム村港におけ るだl!・散段上か )分析 (り 卜 ④人越史記続編 嘉興37年 (1776)正月 赦 山南海陽安旗 133)沿海之民,今年 艮租有差。去秋願風大作 ,梅水瓶投 凹穀 ,憲司以伏臥 故 有是命。 しか しこのよ うにおそ らく台風 によ る風津波を原 因 とす ると思 われ る被害 は,わず か に 4例 にす ぎず, しか もこれが磯雄 を生 じさせ たのはただ 1467年の 1例 だ けであ る。 後述す るよ うに 朝廷の対策 も,他 の早岐,洪水 には種 々の方途を講 じてい るに もかかわ らず, この瀕梅部の水 嵩 に対 して は,わずか に兵役の緩免 (1467),閏租 の免除 (1776)の2例が あるにす ぎない。い わんや これ による流民 の発生を示す記載 はま った くみ られない。 これ は翠 朝時代 における瀕海 部下 郡デルタの開拓 が ほ とん ど進んでいなか った ことを暗示す る ものであ ろ う。別論で詳述す るよ うに,景典35年 (1774)三月 に山南鎮定 の氾輝錠, 陪従 の院貴惇 らによって山南 (南半 は ナムデ ィン, タイ ビン) の沿海 部の無登録 凹を調査 し堤 防を築 き開拓民をつ の ってい るが,実 に この翌年 に 150年ぶ りの

潮 被 害が発生 してい ることは, この間 におけ る下郡デル タ開拓 の 進捗 と高

被害 の発生 との相関を示す象徴的な事 件 といえよ う。 Ⅴ 蛙 害 に よ る 被 害 紅河デルタにおいて地雷 は大 きな問題ではない。 いわゆ る束 アジアの地雷 は飛地 (Locusta m i gratoria)によって もた らされ ることが多いが, 紅河デルタはt中部 とちが って, この飛蛙 の 被害 か ら一種 の 「退避地

とな ってい る。134)R.Dumontの記述か らみ る限 りでは, 通常の飛 蛙 はその産卵のために乾 い た土地を必 要 とす る。 紅河デルタに飛

が襲来 す るのはわずか に 日 照 りの年 だ けであ るとい う。 したが って紅河デルタにおいて害 をなす直趨類 は 0ⅩyaVeloxと いわれ る種類 だ けであ ると記述 されてい る。 これ は通常,葉や茎 の上 に産卵 し生長す る。 しか し,各種年代記 でみ る限 り,北部を襲 った蛙害 は必ず しもデルタに生 息す る 0XyaVeloxばか りだ とはいい きれない点 が ある。蛙害 の発生 した年代は以下 にみ るとお りであ る。 ①大越史記本紀実録 2 相平元年 (1434)十月 蛙傷稼,差官分遣験 田穀 。 ④大越史記本紀実録 2 相平 2年 (1435)四月 旨揮 諸路願社官等,見有

虫発生, 噛害桑苗,即令感 戒,以

艮書。 同書 同年八月 蛙害稼。 ③大越史記本紀実録 2 相平 4年 (1437)六 月 133)安贋承宣。贋安省。-イエソ・クァンイェン両省にあたるo

(11)

点 南 ア ジア研究 16巻1E3・ 皐 。虫復傷 稼, 令 諸路 銀,祈 雨。・- -辛 末 。詔 日, 近歳 以来,早蛙 相田, 災珍存 至 。 ④ 大 越 史記本紀 実 録2 紹平 5年 (1438)五 月 二 十七 日。 以 災翼下 詔 日, 比歳 以 来,早蛙 相偽, 災異存 至 。 ④ 大 越史記 本紀 実 録2 大 和 6年 (1448)六 月,七 月 本論Ⅰ(2)早 魅 によ る夏 稲 の

(前号) 中, ① 同書 同年 の記 述参 照 。 同書 同年七 月 蛙 。 ④ 大越 史 記本紀 実 録2 太 和 9年 (1451)四月 以 災翼下 詔 日, 比歳 以 来,早蛙 相 的, 災珍葦 至 。 ⑦ 大 越史記 本紀 実 録3 光

8年 (1467)九 月 小熟。蛙 。 越史通 鑑 綱 目20 同年九 月 蛙 。辰蛙 畠馬 災, 命道士設壇 祈橋 。又命

院如

堵 等, 致祭 諸祭 神, 以感 之。 同書 同年 十一 月 北城135)蛙 。 ④ 大 越 史記本紀 実 録6 光 紹 7年 (1522)十 月 天雨蛙 虫 。 ⑨ 越史通 鑑綱 目27 光 紹 8年 (1523)ノU] 136) 蛙 。 ⑲ 大越 史記 本紀 実録 6 英人正 元年 (1530)三 月 大早 。蛙 虫 。禾 穀枯 死 。 ⑪ 大越 史記 本紀 続編 3 弘定 18年 (1617)九 月 山西 慶大蛙 。 ⑲ 大越史 記続

永治4年 (1679) 清華 大水 ,堤 路潰 決,蛙 虫傷稼 ,民 多流 散。 ⑯ 越史通 鑑綱 目36 保泰 4年 (1723)十 月 蛙 。 ⑭ 越史通 鑑綱目42 景 興20年 (1759)九 月 蛙 。 諸路有蛙 。令三 司官,設 壇感 之。 ⑯ 大 越史記続編 景興46年 (1785)十二 月 135)北部の呼称。 136)大越史記本紀実録6 枕元2年 (光紹8年 と同年)条 に同一 の記述 あ り。 146

(12)

桜 井 :紫朗 トゲェ トJム村落におけ る漂散漫蛇 の分桝 (I)ド 蛙 。天丁餓鮭。 蛙害 は発生例が少ないため, その影響 の如何 にかかわ らず全例を収録 してみた。 この結果, 第 1に,全15例の うちの7例 までが15世紀 に集 中 し, しか もこの うち6例 までが農作物 に甚大 な影響を与えた と考 え られ るのに対 して,16世紀 の慎害 は3例,17世紀 2例,18世紀 3例 と異 常 に少 な く,かつ農作物 に被害を与えた例は16世紀以降ではわずかに4例 に しかす ぎない こと がわか る。 これは蛙害 の発生が年代的 にきわめて限定 されてい ることを示 してい る。 第2に,多 くの蛙割 ま早魅 と同時期に発生 してい る。 1434年は この年四月か ら五月 にか けて 宣光,活化な どの地方 に早魅が発生 している。137) 1437年 は本文 中に早が示 され るのみな らず , 三月,四月 に も 「早

「祈雨

「商

」の字句がみ られ, 「六月庚午京肺雨

とあ る 点 か ら も,三月か ら六月にかけて早魅 が続 いた ことがわか る。 1438年,1448年,1451年は本文 中に早 の字句があ り,1467年 は本論早魅 の功 の④ (前号) に示 したよ うに1466年秋 よ り67年2月 まで 早魅 が続 いていた。 1530年 も同⑨ に示 した とお り六月下旬 まで早 が続 き,1759年 は同⑲ に示 し たように,大越史記続編 によれば四月,綱 目によれば六月 に大早があ った。 したが って,全15 例 の うち9例は早魅年 と同年 に発生 してお り,特 に15世紀以前では7例 の うち6例が早魅を と もな ってい る。 とりわけ1437年,1438年,1448年,1451年では 「軍

「羊膜相

的」

とあ って, 早 と蛙 の組合せが フレーズ化 して用い られてい る。 R.Dumontは前述のよ うに飛蛙が紅河デルタに襲来す るのほ皐魅 の年であるとしてい るが, とすれば年代記中,特 に15世紀以前 に問題 とな っている但書 は0XyaVeloxではな く,Locusta migratoriaであった可能性 が きわめてつ よい。 先 に,早魅の発生月および頻度か ら翠 朝 ヴ ェ ト ナムの生産力 においては高地デルタの夏稲のシェア-が相対 的にたかか った と推測 したが, こ の蛙害が15世紀以前,特 に聖宗年間 (1460年∼ 1497年) に集 中 してい ることは, この時代 に高 地型 の,飛蛙 の被害に 弱い体質の米作が依然 としてかな りの比重を示 していた もうひ とつの証 明 となろう。 早害 の被害を促拍Hす るであろう蛙害 は,蚤

,特に

前期

の高地デルタ部 の生産の 大 きな不安定要因であ ったろ うことは容易 に想像 され うる。 ⅤⅠ 軍事的要因 による磯経の発生 このよ うに早魅を始 め とす るきわめて不安定な状況の中で開拓が進め られた紅河, タインホ アデルタの農民 に,一時的かつ地-)J'的な現象 とはいえ壊滅的なダメージを与えたのは,16世紀 以降群発す る内乱 による農地の荒廃であ った。 よ く知 られ るように, この時期の内乱 は,寄朝 前期末 の1590年の袈翼帝 によるクーデ ターに始 ま り1527年 の央登橋の即位 に終わ る 第 1期, 1533年の荘宗 の即位 に始 ま り1593年の郵松 による昇龍城 (- ノイ)の回復 にいたる第2軌 以 137)大越史記本紀実録2 同年四月,五月条。

(13)

南アジア桝兜 16巻 1鞍 級, 高

138)

山 139)地

に拠 る基氏,順 化140)地方 に拠 る駈氏, そ して北部 デル タか ら消化 ・ 叉安 を支配 す る啓二鄭氏 の鼎立 を 中心 とす る1672年 までの第 3親, 1737年 の院富興 の反乱 に始 ま り驚維密,西 山 と連 な って 1788年 の繁朝 の滅亡 にまでいた る第 4鋸 こわ けることがで きる。 次 に,各

ごとの戦乱 によ って惹起 され た餓鰹 の形状 につ いて考 え る。 第 1親 ①大越史記本紀 実録 6 光紹2年 (1517) 是歳 天下 大飢 .人民餓 好相枕 .海 防 ・束

141)・峡 LLl・京 北 ・安豊 142)・倦 遊143)・東 岸 ,144)諸 経兵慮尤甚 。 これ はおそ ら く洪肋 8年三 月同省の永覚願 145)に起 こ り,北寧省 (京北 )・僧 遊 ・桂楊146)・嘉 林 に追 った陳高 の乱を指 す ので あ ろ う。 この乱 は鄭惟 憶 によ る襲翼 帝 の拭逆, さ らに院弘祐 に よ る京城 の暁討,陳高 の入城 を よび,鄭惟 修 によ る同i臣 U〕の京城 回復 まで, ほぼ天徳江 (仏

名 CanaldesRapides)の 北岸 諸櫛一

を戦場 と した。時 季的 お よび 地域 的 にみて,夏 稲の

開花,結実

釦 こ損害 を与 えた と考 え られ る。第 1親 における戦 火 の催災 の記述 は この 1例 のみ で あ る。 これ は年 代記 中の数 多い戦 乱 に比 して一見 奇異 で あ るが,逆 にいえば他 の第 1

の諸 戦闘 が宮廷 内乱 に類 した小規模 の もので あ った ことを示 して い る。 第2

④ 大越史記本紀続編 1 元和15年 (1548) 海 陽之民,頻曜兵 火, 多至流亡。 これ は海 陽省安 陽嚇 出身で真氏 の将 で あ った氾 子儀が起 こ した反乱 の結果 であ る。氾子儀 は 当初, 山南承 宣 の御大解 147)に拠 り, ついで安旗地方を ぬ けて 中国南 部 に逃 げ こんだ。海 陽 は 興安 よ り海

江 (仏名 CanaldesBambous)にぬ ける通過路 にあた る。 ③大越史記 本紀続編1 正治 4年 (1561)三 月 (莫)潜遣莫敬典,

兵窺掠清華 ,至各海 門 ,---於是,賊 勢想陵,民 多流散 。 1546年以来,院絵,鄭 険 の擁 す る苓 帝 (荘宗 ・中宗 )は タイ ンホアの寓頼肌148)に拠 って ,ハ ノイの莫氏 と対 峠 したが, この間 1593年 にいた る両 軍 の基本 的な戦闘 は,陸路北上 してニ ンビ 138)CaoB五ng省. 139)L争ngSo'n省0 140)Huを. 141)D6ng-trieu懸,-イズォン省. 142)Yen-phong府,バクニン省. 143)rrienI)u願,バクニン省。 144)D6ng-ngan願,バクニン省。 145)Thhy-du'6'ng願,-イズォン省。 146)Q.uさ-du'o'ng願,バクニン省. 147)の ちの興仁願 Hu'ng-nh且n,フンイェン省。 148)ThりyNguyen螺,タインホア省。 148

(14)

桜井 :馨朝下 ヴェ トナム村落における霞散農民の分析 (I)下 ン方面か らデルタ中央 に進 出す る鄭軍 と,海路 タイ ンホア ・ゲ ア ン方面 に上陸 して行在 の寓頼 朋をね らう莫軍 との問で行 なわれた。英軍 は1555年,1557年,1561年,1565年,1570年,1571 年, 1574年,1575年,1576年,1577年,1578年,1579年,1581年,1583年 と, ほぼ29年間 に14 回 にわた って, タイ ンホア ・ゲ ア ンへ の侵冠を はか った。 この うち1561年 は,特 に主力がニ ン ビン方面 にあ ったため懲 軍 は行在が陥落す るまで類勢 にあ った時 であ り, この年九 月 まで戦闘 が続 いてい る。 ④大越史記本紀続編7 正治13年 (1570)八月 二十五 日。莫大挙兵,各道並進。馬江 自棄関以下,藍 江 白

律以下,煙 火障天,腔旗蔽 日。 清華人民,携老扶助,奔 走遺途,不知依 。戟泣盈天,其財畜婦 女,義 陥干莫 。 --・時精 華 各 僻,人民散亡,

m

無耕種,多荒餓鷲。 この時

,班

の兵 は20万余,戦船700余舷 と伝え られ るが, その数の是非 は ともか く,15世紀 においてわずか社数638149)にす ぎないタイ ンホア地方 に膨大 な兵力が注入 され た ことは 誤 り ないO東関 はマー川の上流,庶化府錦水僻舌陳総であ るとい う。150)錦水解 151)はマ -川河 口よ り90km, ほぼ海抜 100mの地点 にあ る。狭小 な タイ ンホアデルタは完 全 に戦火 に覆 われ た と 考 えて よか ろ う。 同書 正治14年 (1571)は, 令清華各聯社,鐸兵漂 散者,許 阿木貫,復業安屠O としてい る。 ⑨大越史記本紀続編7 正治14年 (1571) 是年,叉安 各願, Ⅲ野荒蕪,-穀不収。民大磯蛾 。史被癖醸,死者過半。人多流亡,或散之 南方,戎漂屠東北。 この年七月,畏敬典 は兵をかえ して叉安 を攻 め,九 月 にな るまで この地 にあ った。 この記述 は磯餓発生 の理 由を示 していないが, おそ らく前後の状況か らこの戦乱 による餓鯉 と考え るの が正 しか ろ う。 ちなみ に越史通鑑綱目28 同年十 月条 も理由をあげず に 「蒲花大

磯」

としてい るが, これ はやは り,正治13年,14年 と続 いたタイ ンホア

一帯

の戦乱 と関係 してい ると考 え る べ きだ ろ う。 ⑥大越史記続編 光 興17年 (1594)七月 莫敬章輿偽大国,冠掠青河152)四岐 153)諸願。 永斬土将斬 郡公反,偽称荏闘公社之劫掠 O海陽 149)拙稿 「ヴェトナム中世社数の研究」p.29,p.38・ 150)通史通鑑綱 目28正治13年条註。 151)C左m-thhy麻,タインホア省。 152)Thanh-ha願,-イズォン省. 153)Td'-kl願,-イズォン省。 149

(15)

東南 アジア研究 16巻1早 之民,不得 排植,大飯荒,人相食 。 光興 16年 (1593)香, - ノイが奪 軍 の手 に落 ちて も, 1596年 にか けて莫 氏 の余党 が天徳 江の 北 部一帯 に拠 り,小戦闘 が続 いた。共 の壮王で あ った失敬章 もその一人で, 1596年 に安虞 に移 動 す るまで海 防 諸解 を 占拠 し,鄭 氏 または フ工か ら北上 した院溝 と争 い合 った。 大越史記本紀続編 2 同年十二 月 時大原 諸解,猶馬偽威 王央敬 用等所占,諒 tLl猶

莫敬泰

莫敬寛等所接,所 在劫掠。 地方人 民大半不得蹄 農, 田野荒廃 。 第 3期 第3期 の戦場 は主 と して叉安 以南

,

贋平154)地方 を 中心 と したため, 北部 デル タには基本的 に影響 はなか った とみえ, 戦乱 によ る飯館 の発Li:_ほ伝 え られ ない。 第4

(う大越史記 続編 呆興 2年 (1741)八月 大飯 。葛 官粟 分賑流民 。永佑末, 盗賊 並起,民 麿農業,侮 陽光甚 。惟 山南差安 。流民扶携, 就食者塞路 。米慣騰 貴,百銭 不易-飽 。民 多仰 食菜 茄,至有 灸蛇鼠 以度 日者,蛾孝 相望 。梅 陽敬称桐 邑。至是有僅 存三戸五着 。 永佑末 の戦 乱 とは永佑 5年 (1739)十二 月 に海 陽省 の至霊 解155)寧舎社 の院選, 院蓮 を始 め として,各地 に発生 した反鄭 反乱 を指す ので あ ろ う。 この諸反乱 は景興 2年 (1741)七 月院蓮 らが捕 え られ るまで, - イズ ォン ・ナムデ ィン一帯を戦場 と した。- イズ ォンの被害 は引用文 にあ る とお り, もっと も深 刻であ ったが,次 の史料 によれ ば, デル タ

一帯

が多大 の被害を うけ た ことがわか る。 越 史通鑑 網 目38 同年十月 遺参従院責慾 ・武公宰 為諸路招撫使

貴愁等分 行 諸路,勧 農桑,掃流亡,募 LH作聖 ,撫 組盗 去り。辰 村 邑彫 散,其最甚者一千七 百三十 。次者一千九百六十一 。 この戦乱 の影響 がデ ル タの どこまで に及んで いたかを画定 す ることは不可能 であ るが,仮 に これをゲ ア ン以北 の 全北部 と考 えて も, 村落総数 (19世紀 初 めの 各鋲 総社名備覧 による。一 後述-)8098社 2519村 の うち,約3700社村 に流亡 が起 こって いた ことにな る。 た とえば海 陽 は この時,戦 火 による疲弊 のため に諸税を免除 され るが,次 に課税 が復 活す るのは8年 を経 た 景興 10年 (1749)であ る。 もって この永佑 の兵 興 の巨大 な破 壊力を知 る ことがで きよ う。 ㊥ 越史通鑑網 目41 景 興 13年 (1752)正 月 154)Q.uanglil'nh省。 155)Chトlinll願。 150

(16)

桜井 :費朝下 ヴェ トナム村落における漂散農民の分析 (Ⅰ)下 遣武公鋲 ・杜輝環等, 招撫 西南 諸路。辰兵 興所 在彫弊。 彰徳156)・兼良 ・安 山157)・石室158) 諸嚇漂散尤甚。乃遣使分往安集之。 彰徳願兼良解 は山南上鋲,安山願石室解 は山西鋲 に属す る。 共 にデルタ西方,紅河がダイ河 に分岐す る近 くにある. 1743年,海陽 に起 こった院有求 の乱 は1745年 ごろか ら山南, 山西方面 に うつ り,1750年 には山西 の院永芳 が厭起 し,翌51年 にかけて山西 ・山南北部は戦火 につつ ま れ た。年代記 の上では景興12年 (1751)正月,院有求が叉安 で捕 われ,二月院名芳 が山西鋲 と 太原鋲の境で捕われてか ら,山西一帯は鎮 静化 された ことにな っているが, この記事 と翌景興 14年 の屯 田例か らみ る限 り, この時以後長壬紬 こわ たって流散がやまなか った ことが うかがわれ る。 ⑨大越史記続

呆興14年 (1753)三月 命定采訪叉安彫民,議屯 凹。先是東南経兵火, 田野多荒廃。命所在屯田開墾,是至議攻討, 外兵吏代及諸路耕作,貯来賓辺。 すでに述べたように,嘉興13年 には叉安地方 に戦乱の記載はな く,わずかに景興12年正月, - ノイ近傍の戦いに破れ た駈有求が叉安 の院遠を斬 って落 ちのび,叉安南聴解 159)に たて こも り政府軍 に破れて捕われた記事があるのみである。 しか し,本文 に 「東商綬兵火」 とあるとこ ろか らみ ると,年代記では さして大 きな扱いを うけない院竃の勢 力, あ るいはLIJ酉の勢力が, 叉安 にまでおよぶ影響を与えていたのであろうか。 ⑲大越史記続編 景興30年 (1769)正月 猫興化今年税,段院触 ,以猛天

f

汀平,陳匠処十幹事。大暑言,州民控乱之後,人 口消耗, 膏膿 山族,多被鴨徒,藩 州醸約束,従軍附漢,贋有所止,請議蒐価 。吏定

制,使十州永為 編戸,命悉行之。 これは,景興28年 (1767)以降,興化を中心 に して活発化 した黄文質 の乱 による流散であろ う. なお年代記にみ る中越辺境地 区の流 散は これのみであるが,中国側の記録 によれば, ヴ ェ トナム側の内乱 によって,流民が中国側に越境 した

例は永佑初年か ら15年間にわた って種 々 み られ るとい う。160) 以上の諸例をみ ると, ほぼ16世紀後半 と18世紀後半 に集中 して,デルタ

帯がパニ ック状況 に陥 っていた ことがわか る。 しか し,戦乱がその原因である限 り, そ して軍隊通過時 における 掠奪が窮乏の置接的原因である限 り, このパ ニ ックもまた,戦略的に重要な地方 にのみ集中的 156)Chu'o'ng一山 'CとMダーluongは統合 して- ドン省のChu'o'ng-my聯となった0 157)Yen-so'n願,トゥエンクァン省。 158)Thach-thAat麻,ソンタイ省。 159)Nan-du'b'ng願,ゲアン省0 160)鈴木中世 1976.「裂軌後jlJjの浦との関係

『ベ トナム中国関係史』山川出版社,pp.418-422. 151

(17)

束南 アジア研究 16巻 1号 に発生 した こ とは容易 に想像 しうる。事実,仝10例 の うち- イズ ォン地方 は4例, タ イ ン ホ ア ・ゲ ア ン地方 も4例 を数 え る。下 部 デ ル タの山南下鋲 (ナ ムデ ィ ン ・タ イ ビンな ど)を襲 っ た戦 乱 は 1例 もない。 したが って, 永佑末 の大乱 によ って海 陽を中心 と して大磯鮭 が発生 した 呆 興2年 (1741)に,戦 乱 か ら隔離 され た山南 と叉安 ではむ しろ豊 作だ った とい う事 態 も生 じ た。大越史記続編 呆興2年 には, 命躍

十叉安 ・日

南i

=兵男根,11狙 天下磯雄 。椎二 塩析稔 。冨民多

栗,命叉安 輝 粟 二 Tl -乱 日南:i-m 「 伍 十

常,

毎 五十常鉢, 債銀-網 ,叉安市債較平, 山

市債,毎姻 十五鉢 ,官償 蓋 抑貰也。 とあ って,官 が叉安 および

南 の栗 を公定 で大量 に買い入 れ た ことがわ か る. この時, のち大 官 とな って椎 勢をふ るう院有巷 の父院敏 は,穀 を は らった米 を納入 し, かわ りに納入額 を減 じ て も らって 一 代 で財 をつ かんだ といわれ る。161)これ らの 栗 米 は, 大越史記続編 同年条 に, 発 lll南秤栗 十寓 ,賑 侮 陽鞘民。 また, 夏 四月, 発官米英粥,賑給東 北機民 。 八 月,大飯 。発官粟 分賑 流民 。 とあ るよ うに,年 代記上 は もっぱ ら梅 陽方面 の流民 の対策 と して用い られ た。 これ は,戦乱 が その多粁庶 に もかかわ らず その被

が地域的限定 を ともな っていた ことを示 して い る。 小 結 以上述べ た ところを ここで簡単 にま とめて み る。(I)奪 朝時代では早 魅 による夏 稲 の 不 作 が頻繁 に起 こ り, これが飢鯉 の主 た る原 因 とな って い る。 これ は当時 の夏稲栽培が高地デ ル タ において は相 当広範 囲 に行 なわれて い た ことを示 して い る。18世紀 以降,紅河デ ル タ, タイ ン ホアデ ルタに発生す る早 魅 は, デ ル タに夏稲が導入 され たあ らわれ とみ る ことがで きる.一方 , 同世紀 にお け るゲ ア ンの早魅 は, デ ル タ とは逆 に高地型夏稲 の栽培 によ る開拓 が進捗 したため と考 え られ る。(2)しか し夏稲栽培 は全面 的 に東 北 モ ンスー ンの もた らす不規則 な雨量 に 依 拠 す るため と,特 に高地型 の夏稲栽培 において は飛蛙 の襲来 のために, その生産 は常 に不安定 で あ る。(3)一方, デ ル タにおけ る秋稲栽培 は洪 水 によ る被害 を うけ る。 これ は 当初紅河 に 沿 った- ノイ周辺 の中部 デルタを集 中的 に襲 うが,下 部デル タの発展 と共 に しだい に拡大す る 傾 向があ る。 しか し, その多 くは タイ ンホアデ ルタを除いて大飯鮭 の発生 に は い た って いな い。(4)瀕 侮 部デル タは台風 による高潮 の被害 を うけるが, こ れ も瀕 海部砂丘 列村落 の発展 と共 に拡大 す る傾 向がみ られ る。 しか し同様 に して大飯鰹 に直結す る例 は少 ない。 (5)16世 161)大越 史記続 編 同年 条 n 152

(18)

桜井 :李朝下 ヴェ トナム村落における漂散農民の分析 (I)下 紀 以降の各戦 乱 による農耕 の被害 は数多 くあ るが, その土地 の戦 略的重要性 が大 き く関与す る ため,- イズ ォン ・ゲ ア ン ・タイ ンホアな ど地域 的 に限定 されて発生す る。 したが って,磯雄 の発生を地域 的 に考えれ ば,①高地型 の夏稲栽培地域であ った と考 え られ る扇 状地型地形 の諸省,懲朝 の行政 区画でいえば,安産 (広安 )・海 陽北部 ・諒 山 ・高平 ・京北 (北寧)北部 ・太原 ・宣光 ・興化 ・叉安 の各承宣,㊤ 中部デルタ上方 の山西 ・山南上映 ・京北 南 部な ど紅河溢水 の直接 的被害 を うける地域,お よびマ-川の被害 を うける清化,③戦 略的 に 重 要であ る清化 ・海陽 ・叉安 な どに被害 が集 中 し, デルタ生産力の大部分を 占め るLLI南下鋲 な どの下 部デルタは比較的安定 的であ った と考え ることがで きる。 19世紀初め に各村落 の名称を雄 めてつ くられ た各鋲総社名備監 162)には, た とえば侮陽鋲 で は

膳 後簿各悔社漂流来復回参拾伍 社村坊寒 庸」 として,丁卯年 (嘉 隆6年,1807)に登籍 が なか った村落 の名を各鋲 ごとに列挙 してあ る。表 1は これを村落名称 ごとに整理 した もので あ る。 一見 してわか るよ うに,漂散村落 248は13承宣 の うち,海限 ・叉安 ・清化 ・LLl南上鋲 ・ 京北 に発生 して い るが,山南下鋲にはま った くみ られな

い。

表 l 漂 散 村 落 表 社

坊 庸 薬 店 苫 渡 樹 廊 冊 郷 案 所 主 計 晦陽 暦安 唐豪 錦江 嘉禄 薄汚 金城 東湖 安老 2 1 1 2 1 3 3 5 2 3 2 芸霊 / l l 三 計 】 10 4 16 2 3 3 5 2 1 4 計 1(村 ?) 15 1 1 2 1 3 1 3 3 10 2 2 8 35 3 5 1 2 1 4 1 17 162)これ については次の諭文 中に紹介 され ている。山木達郎 1943.「安 南 の 地 誌 について」『同慶御覧 地 輿誌閲』東京

:

洋文庫,pp.7-9.

(19)

東南 アジア研究 16巻1号 社 村 坊 庸 塞 庄 賃 波 間 廊 冊 郷 案 所 l 計 1 2 1 1 2 17 2 7 1 3 1 2 計 計 計 計 154 3 i 2 1 5 6 2 2 3 3 I 三 五 二王 二 3 1 3 1 3 1 3 1 2 4 2 1 7 14

(20)

桜井 '.李朝下 ヴェ トナム村落における漂散農民の分析 (I)下 杜 村 妨 庸 寮 庄 苫 津 尚 廊 冊

楽 所 l 計 3 4 1 1 1 1 3 2 2 3 1 3 計 F 45 誌 .卜! 14U 総計 2 9 ︻ 2 5 63 6 日日日 3 1 2 3 日り 1 1 Z 次 に1807年 段 階 の全社 数 に対 す る流 散社数 の百 分率 を以下 に求 め た。 海 陽 0

.

73 大

4.39 安 贋 0.00 琵 光 7.36 諒 山 8.57 叉 安 2.11 活 化 0.16 山南上 2.85 京 北 4.21 この数値 か ら,責光 ・諒 山の2鋲 は きわ だ って社 数 の流散比 が たか く, 大 原 ・京 北 が これ に 次 いで い る こ とがわ か る。 これ は完 全 にデ ル タを 開校 す る扇 状 地 型 の農耕 分布 と一 致 し,この 地 の農業 が いか に不安定 で あ ったかを 明確 に示 して い る。,先 の年 代記 よ りみ た地域 的 な飯館 の 分布 を一 定 に裏 付 け る もの といえ よ う。 しか し表 lは さ らに重大 な事実 を知 らせ る. 本 表 か ら各

の流 散村 落t

l

l

に 占め る社 数 と,そ れ 以外 の村落 との比率 を百 分率 にな お した ものが 以下 で あ る。 梅陽 大原 安庶 宣光 諒山 叉安 浦 化 山南上 京北 6 2 0 5 7 7 0 2 9

28 88 0 51 85 66 4 63 84 社 以外 の村 落 71.4 11.7 100.0 48.5 14.3 33.3 96.0 36.8 15.1 これ を み る と,安 贋 ・摘 化 ・海 陽 の 3鋲 で は圧 倒 的 に

以外 の村 落 の流 散が多 く, た とえ ば 安 産 ・晦 陽 で は坊 名 を もつ 村落,消 化 で は村 名 の村 落 が流散 して い る。 坊 Phu'o'ng とい う村 落 が いか な る存 在 で あ るか,筆 者 自身 は水機坊 とい う坊 名 が きわ めて

(21)

東南 アジア研究 16巻1号 多い こと, またデルタ東部ではほぼ1総163)に1坊 がおかれてい ることか ら, 総 の水利 に関係 す る人為的な村落 と考えているが,いまだ推測の域をでない。 ここでは18世紀以来デルタ東部 に急増 した新村落 とのみ理解 したい。 さて各鋲総社名備覧の海陽鋲で1807年段階まだ残存 して い る坊 は12坊 のみ, しか も唐豪願 (2坊)金城嚇 (5坊)宜 陽解 (5坊)の3解 に分布 してい るにす ぎない。 したが って唐豪解 は3分の 1の坊,金城解では 8分の 3の坊が流散 し,宜陽解 を除 く他 の諸牌では全坊が流散 した ことを意味す る。 これは同鋲の1807年段階の社数1373に対 してわずか10社が流散 したのに較べ,異常 にたかい数値であ る。何 らかの原因による生産の低 下 が これ らの新村落 に特 にダメージを与えた としか考え られない。安藤鋲 もほぼ同様な状況で 残存 した坊数11坊 に対 し,琉散坊 は5坊 に達す る。 101

がまった く琉散を示 していないのに 対 し,同 じ く異常な減少 であ る。164) 清化では弘化,瑞原の2解 にしか流散が起 こっていない。 しか し弘化では130村 に対 して5 村が流散 してい るのに較べ,70社 はそのままで琉散を生 じていない。瑞 原では49村 に対 して12 村が流散 してい るが,36社 に対 して はわずかに 1社である。 デルタ東 部において坊 の うけた被 害 には及ばないに して も,流散が 「村」を集 中的に襲 ったのは事実であ る。 比率こそ逆転 して いるが,叉安 における4村 の流散 もほぼ これ と同 じ状況であろう。 清化 ・叉安 ・東部デルタの ような琴朝期 に新村建設が活発 に行 なわれた地域では, まず こうした開拓村が破滅 した とみ る ことがで きよう。 これはわれわれ に新たな問題を提供す る。すなわち自然的条件 または戦乱 とい う外的な要素 に依拠す る農業生産の不安定性 は, た しか に数年を周期 とした飢鮭 の発生 として年代記上 にあ らわれ る。 しか しその飢鮭 が生産生活の崩壊,農民の生産放棄,流民化 とい う社会現象 につな が るために,何 らかの社会的条件の存在が示唆 され るので ある。それがいまだ封建 体 制 下 に あ っては権力 による剰余価値搾取の態様を意味す ることはい うまで もない。以下続 論において は, こうした飢鮭 に対す る権力側の対応を分析す ることによって,生産農民の流民化の過程を さ ぐり,あわせて これ ら流民が権力によって どのように再 吸収 されてい くか, あるいはその粋 を超克す ることによって どのように反権力的な存在 に発展 してい ったかを考えてみたい。 終 りに小論はその発想 の多 くを京都大学東南 アジア研究セ ンター地形学の高谷好一教授,同 じく気象学 の安成哲三氏 とのほ とん ど連 口のデ ィスカ ッシ ョンに拠 るところが きわ め て 大 き い。第 工部 の末尾を借 りて両氏 に深 く感謝 したい。 163)院朝脚 こ数村を集めてつくられた行政体。ヴェトナム名 tbng,フランス名 canton・ 164)この間の村落数統計は拙稿 「前掲論文」pp.38-46による。 156

参照

関連したドキュメント

The solvent was evaporated to give the nitro alcohol 16 (9.033 g) as a yellow oil. After stirring at room temperature for 3 h, the reaction mixture was quenched by adding MeOH and

ときには幾分活性の低下を逞延させ得る点から 酵素活性の落下と菌体成分の細胞外への流出と

[r]

Although the holonomy gives infinitely many tight contact structures up to isotopy (fixing the boundary), this turns out to be a special feature of the nonrotative case. This

Then, the existence and uniform boundedness of global solutions and stability of the equilibrium points for the model of weakly coupled reaction- diffusion type are discussed..

The configurations of points according to the lattice points method has more symmetry than that of the polar coordinates method, however, the latter generally yields lower values for

ppppppppppppppppppppppp pppppppppppppppppppppppppppppppppppp ppppppppppp pppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppp pppppppppppppppppppp

The principal theorem of Brink and Howlett, and in my opinion one of the most remarkable facts about general Coxeter groups, is that the number of minimal roots is finite.. That