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103 界 重 鎮 正 敏 氏 史 談 ( ) 位 得 ぜ 全 展 開 選 択 肢 独 立 系 続 選 択 点 カ ギ 肥 沃 ビ チ ャ 存 在 求 号 掲 載 何 度 コ 管 理 身 丈 肥 沃 ビ チ ャ 背 景 維 色 機 投 家 圧 倒 的 少 個 預 好 む 傾 向 指 摘 色 顧 転

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名古屋証券界の重鎮に聞く

―安藤正敏氏史談―(上)

  平 成 二 四 年 三 月 に 始 め た「 証 券 史 談 」 で あ る が、一五人目のオーラルヒストリーを掲載するこ ととなった。 六月 号では今村証券の今村九治氏の オーラルヒストリーを掲載したが、今回も地方証 券界を彩った方にご登場頂こうと思う。今回お話 を お 聞 き し た の は、 安 藤 証 券 の 安 藤 正 敏 氏 で あ る。安藤氏は、日本証券業協会の理事や名古屋地 区評議会の評議員をお務めになり、また、名古屋 証券取引所の理事会議長や取締役などの要職を務 め ら れ、 平 成 二 一 年 に 第 一 回 の ベ ス ト 証 券 人 章 を、また平成二七年五月に旭日双光章を受章され た、 名 古 屋 証 券 界 を 代 表 す る 重 鎮 の お 一 人 で あ る。   お話は、大きく二つの論点に分けてお伺いして いる。一つは、戦後の安藤証券の歩みについてで ある。そして、もう一つが戦後の名古屋証券界の 歩みについてであり、今号では前者を掲載してい る。安藤証券は明治四一年に創業され、創業から 一〇七年を数える老舗証券会社である。特に、戦 前は「安藤が動けば相場が動く」とも言われ、野 村証券とも肩を並べる会社であったとも言われて いる。筆者らの最大の関心は、戦前には有力な地

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位を得ていた安藤証券が、なぜ全国展開するとい う選択肢ではなく、独立系の地場証券であり続け ることを選択したのか、という点であった。   そのカギは、名古屋には「肥沃なビジネスチャ ンス」が存在したことに求められよう。今号に掲 載したお話の中で、何度かコスト管理をしっかり して、身の丈にあった経営をしていれば、肥沃な ビジネスチャンスを背景に経営を維持できたこと を お 話 に な っ て い る。 ま た、 名 古 屋 の 特 色 と し て、機関投資家が圧倒的に少なく、一方で個人も 銀行預金を好む傾向があることがよく指摘される が、安藤証券の特色として、顧客の売買回転が少 な い こ と を 指 摘 さ れ て い る。 こ う し た 顧 客 特 性 が、 「 中 国 フ ァ ン ド の 安 藤 」 と 言 わ れ た よ う に、 募集営業に注力する背景にあったのではないかと 思われる。今号では、戦前からの安藤証券の歴史 を中心にお話をお聞きしている。

隔地間サヤ取りから始まる

       

安藤証券の歴史

――それでは、さっそく始めさせて頂きます。本 日のお話は、前半で会長様の安藤証券入社以降、 マネジメントをどのようにして来られたかという ことをお聞きいたしまして、後半は、会長様から ご覧になられた伊勢町の特徴とか、兜町や北浜と 安藤正敏氏

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比べて、伊勢町がどうだったかといったことをお 聞きしたいと思っております。   安藤証券は戦前からの非常に著名な老舗で、隔 地間のサヤ取りから始まったとお聞きしておりま す。また、戦前には「安藤証券が動けば相場が動 く 」 と 言 わ れ て、 野 村 証 券 と も 肩 を 並 べ る ぐ ら い、非常に力があったともお聞きしております。 ところが、戦後は拡大路線をとって、全国的な営 業網を持つようになるのではなくて、独立系の地 場証券として今日まで来られました。まず、その 理由がどこにあったのかという点をお聞きしたい と思います。   例えば、三重県の岡三証券や大阪の和光証券の ように、地方から全国展開した業者もありますの で、そういう選択肢もあったかと思うんですが、 安藤証券さんはそういう道を採らずに来られたの には、先代なりのお考えがあったんだろうと思い

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ますが、もしご存じであればそれをお聞きしたい なと思っております。 安藤   そうですね、まぁ全国展開するような力が なかったということでしょうね。それに加えて、 二代目の体が弱かったことと、営業所を展開して 会社を大きくすると、採算がとれなくなるという 考え方はあったと思います。 ――それだけのリスクは採らなかった。 安藤   リスクは採らなかったということですね。 ――隔地間取引という観点で言えば、例えば戦後 は菱光証券となりました加賀証券なども、御社と 同じように東京、大阪に本家、分家でお店を出さ れて、隔地間取引をやっていらっしゃいましたよ ね〔加賀証券は明治一三年に、加賀助七が大阪株 式取引所の仲買人免許を受けて、仲買業を開始し

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たことを嚆矢とする。助七没後、その事業は甥に あたる加賀市太郎が承継するが早世し、その後、 大阪での事業は一一年間中断したものの、明治四 四年に市太郎の長男・加賀正太郎が加賀商店を再 開させ、手堅い仲買商として発展させた。他方、 東京への進出は、明治二六年、加賀市太郎の弟、 栄三郎によって行われた。その後、昭和一八年の 取引員整備実施要綱により加賀商店と加賀豊三郎 商店が合併するまで、本家と分家で東西間の隔地 間 取 引 を 行 っ て い た 〕。 加 賀 証 券 は、 結 局 三 菱 系 になるわけですけれども、御社は独立系として今 も健在ですよね。その理由はどういったところに あるのでしょうか。加賀証券と比較されたことは ありますか。 安藤   特にないですね。我は我が道を行くという ことですね。 ――なるほど。戦前、隔地間サヤ取りをされてい た過程では、それで十分利益がとれたので、全国 展開をする必要がなかったということなんでしょ うか。 安藤   まあ、結局、東京、大阪、名古屋に主要取 引所がありましたから、その間でサヤ取りをやっ ておれば、必要な売買はできたということでしょ う し、 か な り の 利 益 も 上 が っ た と い う こ と で す ね。 ――戦前は主として、隔地間のサヤ取りをされて いたと考えていいんですか。あるいは、現物と定 期でのサヤ取りをすることも考えられますけれど も、そうしたお金を使ってのサヤ取りはされてい ないんでしょうか。隔地間のサヤ取りが中心です か。 安藤   うん、そうですね。

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代金を預かるには便利だったのでしょうが、シナ ジー効果は言うほどには出なかったのだろうと思 います。ただ、一部の大口顧客の商いに頼るだけ でなく、いろんな方々に広く証券に入って来ても らうには、とっかかりとしての銀行を持った効果 はあったのかもしれませんね。 ――安藤銀行は、結局、早いうちに、野村銀行に 売却されましたね〔安藤銀行は、大正一四年に大 阪野村銀行に売却された〕 。 安藤   そうです、そうです。 ――その経緯をご存知でしたら、お聞かせいただ けませんでしょうか。 安藤   まあ、結局、本来の銀行業として融資で規 模を伸ばしていくのには、当時の経済情勢の下で 貸し倒れリスクを考えれば、ちょっと力不足とい ――現物と定期だとお金を使いますのでね。とい うことは、御社の場合は、お金はあまり使わない サヤ取りをされていたということですね。戦前、 安藤証券は安藤銀行をお持ちでしたよね〔大正七 年に安藤商店は、証券金融による資金運用を目的 に大五銀行を買収して、安藤銀行を設立した〕 。 安藤   はい、はい、はい。 ――安藤銀行と安藤証券の関係は、どのようなも の だ っ た の で し ょ う か。 例 え ば、 そ の 間 で シ ナ ジー効果を狙うということはなかったんですか。 安藤   名古屋の目抜き通りだって未だビルが珍し かった大正時代に、三階建ての自社ビルに一階は 銀行、二階が証券会社、三階は大会議室や応接間 にしていましたから当時としてはなかなか堂々た る店構えだったんでしょうね。現在のようにMR Fがあるわけじゃない時代だから、お客様の売買

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うことだったんだと思いますね。 ――野村銀行に売却されたのは、野村銀行と何ら かの関係があったからだと思うんですが、安藤銀 行の売却はどういう経緯でされたんでしょうか。 安藤   野村銀行に売ったのは、まだ鉄道に展望車 があった時代と聞いていましたけれども、創業者 が野村銀行のトップであった野村徳七さんと列車 の 中 で 会 っ た と き に、 「 う ち は 証 券 と 銀 行 の 両 方 をやっているのはあれ〔面倒〕なので、安藤銀行 をお買いになりませんか」と、そんな話をしたと いうことを聞いています。 ――なるほど。戦前、証券会社と銀行の両方を経 営しているというのは、他にも何社かあったと思 うんですけれども、御社としては銀行よりも証券 会社というふうに選択されたということなんです ね。 安藤   銀行もやっていましたけれども、やっぱり メインは証券であって、銀行の方はつけ足し的な ところにとどまっていたものですから、証券だけ にしてすっきりさせたいという気持ちだったろう と思いますね。 ――御社がそのようなお考えのときに、野村さん も名古屋に支店を出そうと思っていらっしゃった の で、 お 互 い の 思 惑 が 一 致 し た と い う こ と で す ね。 安 藤   そ れ ま で、 野 村 さ ん は 名 古 屋 に 支 店 が な か っ た ん で す。 そ こ へ 当 社 の 創 業 者 か ら、 話 が あったものだから…。 ――安藤様の方から野村さんに「自分の銀行を」 というふうにおっしゃったと…。

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安 藤   そ れ で、 「 そ れ じ ゃ」 と い う こ と で、 野 村 さんが買われたというふうに聞いています。 ――なるほど。当時、他にも銀行と証券会社を並 行して経営していた会社、例えば東京では紅葉屋 銀行とかがありましたよね〔株式仲買商の神田鐳 蔵が、明治四四年に紅葉屋銀行を設立し、主とし て 国 債 の 保 護 預 か り を 行 っ て い た 〕。 ど ち ら か を 選ぶといったときに、銀行をとる選択もあったか と思いますけれども、御社としては、銀行よりも 証券会社の方が儲かると考えられたわけですか。 それとも銀行と証券の規模が大きく違っていたん ですか。 安藤   安藤銀行は当時の大銀行と肩を並べるだけ の、資力がなかったということでしょうね。 ――それで、野村銀行に売却されて、御社は証券 会社に特化したというわけですか。 安藤   そうです。そうです。

委託売買中心の

   

ビジネスモデルへの転換

――それから、戦中の再編を経て、戦後は株式業 者に特化されることになりますけれども、東京で も大阪でも、地場の中小証券会社の多くは、場立 ちとして自分で手を振って売買益を稼ぐか、ある いは戦前に外交でお金持ちを回ってお客さんにし て、戦後もそのお客さんと取引するか、あるいは 東京とか大阪の業者ですと会員権を持っています から、地方の非会員業者からの同業者間取引で、 手数料を稼ぐという三つぐらいのパターンがあっ たかと思うんですけれども、御社はどうだったん でしょうか。

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  戦後、御社の場合はこの三つのどれに注目され たんでしょうか。例えば、御社の場合は名古屋で す け れ ど も、 早 く か ら 東 京、 大 阪 で も 会 員 権 を 持っておられたと思います。ですから、非会員か らの同業者間取引で手数料を稼ぐという選択肢も あったかと思いますし、それから、場の中で手を 振って自己売買で稼ぐという方法もあったかと思 います。また、戦前からのお客さんからの委託売 買で稼ぐという選択肢、この三つの選択肢があっ たと思うんですけれども、御社は戦後、どこに重 点を置いておられたんでしょうか。 安藤   株式の委託売買で手数料を稼ぐと…。 ――そうすると、戦前からのお客さんの委託売買 で 力 を つ け て こ ら れ た と い う こ と で す ね。 例 え ば、 東 京 で し た ら、 あ ま り お 客 さ ん を 開 拓 せ ず に、同業者間取引に特化している会社もあったん ですけれども、御社は同業者間取引をされてはい なかったわけですか。 安藤   お客様からの委託売買が中心ですよね。 ――委託売買ですか。 安藤   はい。私は学校を出てから、親父に外で勉 強しなくてはダメだと言われて住友銀行へお世話 になったのですが、昭和三一年に安藤証券へ入っ たときには、すでに委託売買が収入の四分の三く らいを占めていて、自己売買は七~八%ほどのも のでした。   戦後、取引所が閉鎖されていたときには本店を 喫茶店にして盛況だったようですが、取引所が再 開されて、証券民主化で出てくる株をそれこそ広 く個人客に売っていってからは、当社はサヤ取り 会社というイメージではまったくないですね。当 時は結構な地元のお金持ちをお客様に抱えていて

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ジュラルミンの箱を持って株券の受け渡しのため にお家まで行っていたり、本店の店頭も来店客で 混み合っていましたから、地元のお客様からの委 託売買が中心になっていますね。   おかげで今では、おじいさんの代から取引をし て下さっているお客様がいらっしゃるという話も 聞きますよ。 ――そうすると、戦前の隔地間のサヤ取りという のは、戦後はあまりされていなかったということ ですね。 安藤   そうですね。そういう時代ではないと考え たんじゃないでしょうか。 ――戦前は清算取引中心で、実物はわずかしか取 引されていなかったわけですけれども、戦後の再 開時に清算取引、先物取引は禁止されて、実物取 引だけで再開されましたよね。しかも、証券民主 化運動で投資家の裾野が非常に広がったので、こ ういうふうにされたんですかね。 安藤   自己売買を中心とした会社では決してない ですね。他に信用取引の収益もありますから、九 二、三%はお客様からの収入だったはずです。 ――そうすると、逆に証券恐慌ではかなり打撃に なったんじゃないでしょうかね。 安 藤   不 思 議 な こ と に 痛 み は た い し て な い で す ね。赤字になりましたのは昭和三九年、四〇年く らいのものですみました〔証券界全体として、こ の二年が赤字であった。安藤証券でも例外ではな く、昭和三九年九月期の経常損失は一、〇〇〇万 円、昭和四〇年九月期のそれは一、二〇〇万円を 計 上 し た が、 そ の 両 年 以 外 は 黒 字 で あ っ た。 ま た、昭和三五年以前は一億円以上の黒字を計上し

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ていた〕 。 ――その二期は、大体どの証券会社も赤字を計上 していましたからね。 安藤   そうですね。ただ、当社は大きな赤字では ないですね。ですから、非常に手堅くやっていた なと思いますね。今さらながら、割と手堅く商売 をしていたんだなと思います。   当時の信用取引もまずまずの残高があって〔昭 和三〇年代の信用取引残高が八億円程度であった と さ れ る 〕、 で す か ら、 そ れ だ け 個 人 の お 客 様 と 商売していたということになると思いますね。 ――非常に健全経営だったんですね。 安藤   また当時は、名古屋企業の引き受けを随分 やっていました。 ――引き受けもかなりあったわけですか。 安藤   ええ。今の当社は主幹事をしておりません けれども、当時は元引受を許される最低資本金額 が上がりますと、それに合わせて増資しています 〔 安 藤 証 券 の 資 本 金 は、 昭 和 三 三 年 一 〇 月 に 六、 〇〇〇万円、昭和三四年一二月には七、五〇〇万 円、昭和三五年一月に九、〇〇〇万円、昭和三五 年一一月に一億円、さらに昭和三六年一月には一 億二、〇〇〇万円、さらに昭和三六年一二月には 一 億 七、 〇 〇 〇 万 円 へ と 相 次 い で 増 資 さ れ た 〕。 昭和三四年から三七年にかけて増資をしています が、 元 引 受 の バ ー が ど ん ど ん 上 が っ て い ま す か ら、それに平仄を合わせて増資しています。当時 は名古屋のかなり大手の企業さんの引き受けも、 結構やっていました。   当時、名古屋の地元企業さんは本社機能がまだ 東京に出ておらず、名古屋本社で資金調達をされ

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ていました。トヨタ自動車さんだって、戦後販売 強化のために工販分離されて、朝鮮特需によって 回復が始まりましたけれども、昭和三〇年代はま だ ま だ 資 金 調 達 に ご 苦 労 さ れ た こ ろ だ と 思 い ま す。当時は高度成長期で、名古屋企業も資本を必 要としていたときですから、当社は引受分野でそ れなりの役割を果たしていました。もちろん、今 は違いますけれども…。 ――東京へ一極集中し始めたのは、昭和四〇年代 中頃からですから、それまでは名古屋企業も資金 調達は地元でやっていたんですね。 安藤   地元からお金を集めていましたよね。 ――ああ、なるほどね。 安藤   当時は会社自体が東京本社、名古屋本社と いうふうにやっていない時代ですし、当時、名古 屋 企 業 の 旺 盛 な 資 金 需 要 を 賄 お う と す れ ば、 ま だ、銀行が潤沢に貸し出したという時代ではない ですし、地元の個人のお金を引き受けに活用する 当社の役割があったと思います〔社史によれば、 尾張精機の株式引き受け、中央製作所の株式売り 出し、御幸毛織の店頭公開などの主幹事を務める とともに、主幹事以外のものも含めると平成二年 までに二六社の幹事を務めたとされる〕 。 ――そうすると、当時は主幹事ではなかったとし ても、準幹事、副幹事あるいは平幹事を務めてお られた…。 安 藤   そ れ も あ り ま す し、 こ ち ら か ら お 話 を し て、主幹事で上場させた企業もあったようです。 ――そういたしますと、証券恐慌のときには、そ んなに大きな打撃はなく、むしろビジネスがかな

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りあったというわけですね。 安藤   当時の自己売買は大した額ではないですか ら、おそらく自分でリスクをとってポジションを 張るという商売はやっていなかったと思うんです ね。昭和三六年から三八年ごろは、むしろ、個人 営業と地元企業への法人営業を中心にしておった んだと思います。 ――ということは、免許制が導入されて「ブロー カー中心にせよ」と言われる前から、そういうビ ジ ネ ス モ デ ル で 営 業 さ れ て い た と い う わ け で す ね。 安藤   そうですね。名古屋は全国でも東京、大阪 の次にお金があって、しかも堅実、貯蓄性向に富 んでいる土地柄の街ですから、名古屋にはそれな りの仕事があったんだと思うんですよ。   お そ ら く、 他 県 で は そ れ だ け の 仕 事 は 多 分 な かったと思います。ですから、規模を追求しなけ れば、名古屋で十分仕事があったんだろうという ふうに思います。ただ、今は名古屋企業もみんな 東京へ本社機能が行き、資金調達だって国際化し て い ら っ し ゃ い ま す し、 情 勢 は 変 わ り ま し た が …。

東証一極集中と市場の変化

――よく名古屋は堅実で、貯蓄性向が高いと言い ますでしょう。この理由をお聞きになったことは ございますか。 安藤   他の街と比較したことはないので分かりま せんが、そのように言われてきました。せっせと 貯蓄する 一 方で、結婚式が派手とか、家とか高級 車とかに思い切ったお金を使うという話もあるよ

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うです。 ――そうした名古屋企業の引き受けがなくなった のは、いつごろからなんでしょうか。 安藤   徐々になくなったのは、おそらく昭和五〇 年以前だと思いますね。 ―― 昭 和 五 〇 年 頃 か ら 東 京 へ の 一 極 集 中 が 始 ま り、名古屋の各優良企業も財務部を移しだしたわ けですね。 安藤   徐々に徐々にでしょうけれど、会社さんの 本社機能が東京へ動いていかれた。それからです ね。 ――御社としては、それを追いかけて、東京で引 き受けの業務をされるというお考えはなかったで すか。 安藤   あまりなかったですね。 ――あまりそういうことにコストをかけたり、リ スクを負ったりしたくなかったということでしょ うか。あるいは、それをしなくても十分やってい けたということでしょうか。 安藤   そうですね。やっていけたということです ね。 ――それだけ肥沃な市場が名古屋にあったという ことですか。 安藤   あったということですね。 ――昭和五〇年ぐらいから、証券界では第一次オ ンラインが進みますよね。その結果、通信費が非 常に安くなりますので、重複上場している銘柄は 大阪でも段々とお客さんの注文を大阪市場に出さ

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ずに、東京に流れていってしまいました。その結 果、大阪市場が地盤沈下していったわけですが、 名 古 屋 で も 同 じ よ う な こ と が 起 こ っ た わ け で す か。それはあまり感じられないですか。 安藤   ただ、オンライン化が進められたからとい うだけではなく、経済活動そのものも、各企業の 本社機能、財務機能がどんどん東京へ移っていき ましたよね。トヨタ自動車さんだけは、今も名古 屋に本社を置いておられますけれども、いろんな 会社が、本社機能、財務部を東京に移された時期 ですから、安藤証券も証券部を東京へ移していま す。ですから、証券会社自身もマーケットとのア クセスポイントを兜町へ軸足を移しているわけで すし、東京が本社の証券会社は名古屋支店の取引 所へのアクセスとしての位置づけは下がりますよ ね。   名証〔名古屋証券取引所〕の地位というのは、 昭和三〇年代はそれなりに単独上場銘柄で賑わっ ていたんでしょうけれども、単独上場銘柄が東証 〔 東 京 証 券 取 引 所 〕 と 重 複 上 場 し 始 め る と、 オ ー ク シ ョ ン 方 式 で は 注 文 の 集 ま る 東 証 に 負 け る ん じゃないでしょうか。 ――なるほど。大阪でも昭和五〇年ごろに、証券 取 引 所 を 中 心 に 各 証 券 会 社 の 機 械 化 が 進 み ま し た。ただ、そうなると、重複銘柄にお客さんが注 文を出したら、以前ですと電話代が高いから注文 を大阪市場に出していたんです。ところが、オン ライン化が進みますと、受注を受けた支店から兜 町の場電店へ、リアルタイムで注文を送るコスト が安くなるので、段々と大阪から注文が東京の方 に流れていったんですよ。   その結果、大阪市場の地盤沈下が起こり、大阪 の会員業者の中でも、東京の会員権を持っていな

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い業者は、会員権を持っている業者につなぐとい う形で、業者間で秩序が出来てきて、格差が出て きたんですけれども、名古屋の方はどうだったん でしょうか。 安藤   例えば、名古屋のお客さんがトヨタ自動車 の 株 を 買 う と き に、 昔 で し た ら 通 信 費 が 高 い か ら、名古屋市場へ注文を出していたんでしょうけ れども、オンライン化によって通信コストが下が ると、コストがそんなにかからないので、段々と トヨタ自動車の株の注文も東証へ行っちゃったん でしょうか。   その当時の変化は、市場の流動性とかいろいろ とあるでしょうから、電話代だけが理由とはいち がいに申し上げづらいですが…。 ――そうしますと、名証の会員権だけを持ってい た地場業者さんは、東証の会員権を持っていた安 藤証券さんに頼んできたんじゃないですか。そう いうことはあまりなかったですか。 安藤   名古屋の地場証券の注文を、うちが東証へ 取り次いだということは、あまり聞いたことがな いですね。各社それぞれ母店があったんじゃない でしょうか。ご自分で東証の会員権を取られた会 社も多いことですし。 ―― 自 分 で 会 員 権 を 取 っ た り …。 取 れ な い 会 社 は、安藤さんへつなぐというよりも、むしろ他の 系列関係にある会社へつないでいたということで すか。 安藤   むしろ、大手や準大手に出したんじゃない ですか。 ――なるほどね。ただ、安藤証券さんとしても、 リスクの低い取引ですから、そういう注文をとっ

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ていってもよかったんじゃないですか。そういう 営業セールスはしておられなかったですか。 安藤   それは聞いたことがないですね。 ――あまりそういう営業もされなかったというこ とですね。わりと大阪や東京の業者は、地方の業 者からの同業者取引を取りに行っていたんですけ どね。それはしておられなかったわけですね。 安 藤   な い で す ね。 名 古 屋 市 場 単 独 銘 柄 に つ い て、私どもが他の地域の証券会社さんから、注文 をお受けするということは現在もありますけれど も、名古屋の同業者、地場証券の商いを安藤証券 が東京市場に取り次ぐということは、あまり聞い た こ と が な い で す ね。 む し ろ 大 手 さ ん の 方 が な さったんじゃないですか。こういう取引は…。 ――大阪の廣田証券さんは、早い時期から東京の 会員権を持っていまして、大阪の地場証券や四国 の非会員業者から、東京の注文をもらっていまし たし、今でももらっています。そういう営業を一 生懸命やっていましたけれど、御社ではそういう 商売をしようとは、あまり考えておられなかった んですね。 安藤   そうですね。そういう考えはなかったです ね。 ――もし、こういう注文を取っていたら収益にな るのに、なぜおやりにならなかったんですか。そ んなことしなくても十分やっていけたということ ですか。 安藤   別にしなくても、十分名古屋にお客様がい ましたので…。 ――お客さんが非常に裕福で、ビジネスチャンス

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も肥沃にあったので、そういう目新しいことをし なくてもよかったということですかね。 安藤   目新しいことをしなかったというよりも、 むしろ、費用対効果を考えて判断していたと思う んですよ。システム投資に応じた収益効果が、名 古屋の数社からの取り次ぎだけじゃたいしたこと ないと判断したんじゃないでしょうか。

募集営業への注力

     

―中ファンの安藤―

――リスクもゼロではありませんしね。このよう に、株式営業でも十分なビジネスがあったわけで すが、昭和五〇年代後半ごろから、募集営業を積 極 的 に さ れ ま す よ ね。 募 集 営 業 と い う の は カ ル チャーが違いますから、株式への依存が高い業者 さんにとっては、かなりご苦労されたんじゃない かと思うんですけれども、それはあまりお感じで はなかったですか。御社は、中国ファンドの募集 残高がかなり多かったですよね。 安藤   そうです、そうです。 ――しかし、株式営業と募集営業は、カルチャー が違うように思うんですけれども、そんなに苦労 せずに…。 安藤   棲み分けていましたね。 ――棲み分けていたということは、例えば、お客 さんを棲み分けていたんですか。それとも、営業 員を株式営業と募集営業とに分けていたというこ とですか。 安藤   というより、当社のお客様は意外に思われ るかもしれませんが、株式を短期間に回転売買さ れるという方は昔から少ないですからね。証券会

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社に対するイメージは、短期回転売買を繰り返し ているという先入観があるのかもしれませんけれ ども、これは名古屋の土地柄、また当社の客層で は必ずしもあてはまらないと思いますね。 ―― そ う で す か。 そ も そ も 株 式 営 業 と い っ た っ て、名古屋は短期で回転していたというわけでは ないということですか。 安藤   全部というわけじゃありませんが、安藤証 券のお客様は短期でゴロゴロと言うのとは違うと 思いますね。当社のお客様は、比較的長期間持っ ていらっしゃいます。他社さんと比べれば、本当 に株式売買の回転は低いですね。株を毎日、毎日 動かしているというお客様よりは、長く貯金のよ うに株券をお預けになっているお客様が多いんで すよね。名古屋の人は定期預金が大好きというイ メージとも重なるところがあります。なかには親 の代からずっと、私どもにお預けになっている株 もあると聞きます。 ――お客さん自体が非常に堅実なんですね。そう すると、手数料もあまり落ちませんね。 安藤   それはそうですよ。ですから、預かり資産 に対して受入手数料がどれぐらい入ってくるかを 計算してみますと、ある意味では当社は営業の効 率が低い会社かなとも思いますね。 ――御社は、従業員が三〇〇人ぐらいですよね。 安藤   ええ、まあ押しなべて、平均すればですけ ども…。 ―― あ ま り 減 り も し な い し、 増 え も し ま せ ん よ ね。 安藤   ええ、もう従業員規模は、昭和三〇年代か

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ら三〇〇人くらいですね。昭和三八年ごろには三 〇〇人を超えていましたし、今でも二九〇人から 三一〇人の間を行ったり来たりですからね。バブ ルのピークには五〇〇人を超えていた時期もあり ますが。 ――従業員三〇〇人と言いますと、全国的にはそ んなに大きな規模でもないけれども、地場として は大きい規模に入りますね。御社は高度成長期か らずっと、それくらいの規模で堅実にやっていこ う と い う 姿 勢 を 続 け て こ ら れ た と い う こ と で す ね。 安藤   あまり大きくしないで、堅実に…。 ――他社のように、あれもこれもやり、店舗もた くさん設けてというお考えでは全然なかったとい うことですね。 安藤   これは伝統かどうか分かりませんが、何で もかんでも手を付け始めるのではなくて、費用対 効果をよく考えて、これをやったらどれだけのビ ジネスができて、コストがどれだけかかるかはよ く考えるようにさせていましたね。 ――そうすると、証券恐慌でそれほど打撃を受け ておられないということですし、免許制導入時に は、特に戸惑うこともなく、すんなりと切り替え ることができたということでしょうか。 安藤   そうですね。 ――役所からも、特に免許付与に当たって意見を 付けられたということもなかったわけですね。 安藤   なかったですね。 ――それはまた珍しいですね。多くの会社が資産

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が傷んでいたり、ブローカー業務を中心とした経 営 に せ よ な ど、 い ろ い ろ 意 見 さ れ た と 聞 き ま す が、非常に珍しいケースだと思います。 安藤   そういうことは、あまり意見はされません でしたね。 ――ある意味では、証券恐慌後の経営モデルを既 に先取りしておられたと感じられますね。 安藤   ちょっとそれはおっしゃり過ぎかとは思い ますが。 ――そしてまた、中国ファンドの販売実績が非常 に高いわけですけれども、これも預金志向が強い 土地柄であったことを背景に、預金よりも利回り がいいということで、これの募集に注力されたと いうことですか。 安藤   そうでしょうね。土地柄に合っていたとい うことでしょうね。 ――御社の場合、野村さんの中国ファンドを販売 しておられますね。野村さんと近い関係にあった かと思うのですが、それは戦前からの関係、つま り安藤銀行を野村銀行に売却されたというお話が ありましたが、戦前からずっと野村さんとのおつ き合いが続いていて、その関係から、募集物も野 村さんから仕入れられたということですか。 安藤   まあ、そうでしょうね。 ―― 安 藤 銀 行 の 売 却 が 野 村 さ ん と の つ き 合 い の きっかけとのことですが、中国ファンドの販売ま でにも、両者の間には何らかのやりとり、関係が 続く何かがあったかと思うんですけれども、支障 のない程度で結構ですので、ご記憶のことがあり ましたら関係性を維持できた理由をお聞かせいた

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だきたいのですが、いかがでしょうか。 安藤   親密とは言っても証券会社同士の一般的な おつき合い以上のことは無いと思いますよ。 ――ないですか。例えば、御社の東京支店は兜町 にあって、野村さんの本店とも近いかと思うんで すが、お互いにそんなに濃密な行き来があったと いうわけでもないということですか。 安藤   知らない間柄ではないけれども、頻繁に行 き来があったというほどでもないですね。 ――しかし、山一証券や大和証券ではなく、証券 会社の中では御社と一番近い関係にあったので、 中国ファンドなども野村さんの商品を販売された ということですか。 安藤   山一証券や大和証券さんじゃなくて、やっ ぱり野村証券さんという面ではそうですね。

バブル経済下での堅実経営

――さて、昭和五〇年代になると、だんだんとバ ブルの時期に入っていきます。この時期、東京や 大阪では、企業の財テクが盛んになりまして、証 券会社でも法人営業が特金やファントラを販売し ていたと思います。一方、名古屋は機関投資家が 多くないと思うんですが、営業特金やファントラ といった商品は扱われていなかったですか。 安藤   ないですね、営業特金なんて。 ――しかし、御社は東京や大阪にも支店を持って いらっしゃいましたよね。 安藤   ええ。東京も大阪も取引所の会員でずっと 昔から支店はありますから。

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――そうすると、特金、ファントラとかで運用す るという風潮が起きたときに、安藤証券の東京支 店や大阪支店では、お客さんから頼まれるという ことは全然なかったということでしょうか。あま りそれに巻き込まれることはなかったですか。 安藤   巻き込まれるというよりも、財テクを盛ん にしている事業法人とはそんなには商いがなかっ たですね。 ――そういうことには巻き込まれずに来られたと いうことなんですね。とは言っても、東京や大阪 の支店で、法人のお客さんから運用の注文がたく さん来れば、対応せざるを得ないでしょう。そう いう法人、機関投資家のお客さんからの注文とい うのは、それほど…。 安藤   株の話ではありませんが、名古屋の不動産 バブルは一番最後に起きたんですね。それも、名 古 屋 は み ん な が 気 が つ い た と き に、 「 名 古 屋 に も 少し来ていたね」という程度で、あまりバブルに 踊った街ではないんですよ。そういう意味でも、 東 京 の よ う に 土 地 の 値 段 が 暴 騰 し て ど う こ う と か、証券会社に対して「幾ら預けるから、幾らで 握れ」なんて話は、名古屋では起きなかったと思 いますよ。一部の大手証券さんが何をやっていた かは知りませんけれども、少なくとも地場証券で は利回り何%で握るとか、そんな話は聞いたこと ないですね。 ――では逆に、東京支店のお客さんからそういう ことを求められたということもなかったわけです か。 安藤   聞いたことはないですね。事業法人といい ましても、もちろん生保さんや金法〔金融法人〕 とのお取引では良い関係にありましたけれども、

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財テクをやっていた事業法人とのおつき合いはな かったと思います。 ――そうすると昭和五〇年代に、東京へ各企業の 財務部が移転したときに、証券引受関係のビジネ スも多分東京に行ったと思うんですけれども、東 京支店ではそれの対応はされなかったということ ですか。 安藤   窓口はあったかもしれませんけども、その お金で資金運用をどんどんやりましょうという勧 誘をした形跡はないですね。 ――そうですか。大手は資金調達関係で事業法人 へ出入りしているうちに、事業法人にお金が余っ ていたという関係から、営業特金やファントラの 販売が始まりだすんですが…。 安藤   当時は、大手の生命保険会社さんや生保系 の運用会社さんとか銀行さんからは注文を随分い ただいておりました。しかし、いわゆる法人営業 部で一般企業からお金を預かって、それで握るな んて行為は聞いたことがないですね。 ――ということは、本業をしっかり守って、そう いうリスキーな取引には、一切手を出さないこと にされていたわけですね。 安藤   そういうことですね。

手数料自由化と

    

顧客アプローチの変化

――そうすると、バブルが崩壊しても御社は全然 傷つかなかったと思うんですが、今度は手数料の 自 由 化 や イ ン タ ー ネ ッ ト の 証 券 会 社 が 出 て き た り、別の大激変が起きてきますよね。その結果、

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手数料も徐々に下がってきて、今では料率が非常 に低くなっておりますけれども、そういう流れの 中 で お 客 さ ん へ の 営 業 手 法 に、 何 ら か の 変 化 は あったんでしょうか。お客さんからすれば、安い 手数料を提示するネット証券が出てきたら、手数 料があまり高いとネットへ逃げていきますよね。 そういう環境変化が起きたときに、御社としては どういう経営対応をなさったんでしょうか。 安 藤   当 社 も、 「 あ ん ど う ネ ッ ト 」 と い う ネ ッ ト 取引の仕組みは防衛的には始めました〔平成一一 年九月に「あんどうネット」が開始され、平成一 四年一月には「あんどうコールセンター」が設置 され、ネットや電話での注文への対応が進められ た 〕。 ま た、 イ ン タ ー ネ ッ ト や コ ー ル セ ン タ ー を 使えば手数料を半分にするなどの手立てはしまし た。つまり、既存のお客様に逃げていかれないよ うに、防衛策は採りました。今は 美 ちゅ らネットと言 いますが…。 ――差し支えなければ、インターネットと対面で の 注 文 の 比 率 は、 ど の ぐ ら い だ っ た ん で し ょ う か。 安藤   今現在、売買金額で対面とインターネット ではイーブンですね。 ――そうすると、手数料収入が随分減ったという ことですよね。 安藤   やむを得ませんがそれはそうです。実際、 対面からインターネット取引に変わっていくお客 様 も あ り ま す。 新 た に 株 を や ろ う と す る 方 々 が ネットで始める流れが加速されたのは、ホリエモ ンあたりのころからでしょうかね。 ――ということは平成一七年くらいですか。

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安藤   それくらいですね。当社がインターネット を も っ と 本 格 的 に や ら な き ゃ い け な い ね と い っ て、インターネットのシステム投資に打って出た のが、平成一五、六年からですからね。それまで 当 社 の 場 合 は、 防 衛 的 な 品 ぞ ろ え 的 な イ ン タ ー ネットでしたからね。 ――ということは足かけ一〇年ぐらいですね。 安藤   最初〔平成一一年〕はとにかく品ぞろえと して、インターネットも持とうという感じで始め ましたから…。当時は、まだ各家にパソコンが必 ず一台あったわけではありませんでしたし、平成 一七、八年ぐらいまでは、どうしても対面だとい うお客様もいらっしゃって、そういうお客様はほ とんどネットへシフトしなかったと思います。   ところが、この七、八年ぐらいで、世間全般と してインターネットへのシフトが一段と進んだと 感じます。それはお客様が自発的にネットへ移っ て行かれたことに加えて、もう一つのファクター として、高齢化に伴う顧客層の下の世代への入れ 替わりが、ネットへのシフトを進めたと思います ね。八〇歳を過ぎた人は、今さらインターネット へは行かないですから。 ――そうは言いながら、一方で、まだ対面営業で 半分ぐらいの注文をとられているというお話です けれども、ネットと対面の両方で営業されている 会社の中では、対面での注文がかなり多いかと思 うんですね。これは、お客さんがネットへ行かな いように、何らかの手立てをされているのではな いかと思うのですが、そういうことはされていま すか。 安藤   いや、それは、当社のお客様は基本的に長 いお取引ですから。

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――ということは、昔からのお客様がまだたくさ んいらっしゃって、その方々が…。 安藤   他社のことは知りませんけれど、ネット証 券ではあっという間に〔顧客が〕出たり入ったり かもしれませんけど、ことに専業のところは…。 ――ネット証券は、他社が料率を下げると、すぐ に逃げられると言っていましたね。 安藤   当社のお客様は、昭和の頃からつき合って いるお客様が大宗ですからね。 ――しかも、あまり売買をされないということで したね。 安藤   そもそも当社のお客様は、日中の短期売買 で一日一万円儲けようとかいったようなお客様で はないですからね。 ――やはり、お客さんは六〇歳以上の方が多いわ けですか。 安藤   それは銀行さんも含めて、日本中の金融機 関がそうだと思いますよ。年齢ごとに分けて、一 番金融資産の残高が多いのは六五歳以上になるで しょうしね。四〇代の人はおそらく住宅ローンを 払っていらっしゃるでしょうし教育費もかかる。 いろんな世代の人にまんべんなく預かり資産が多 いということは、ないですよね。 ――日本の場合は、六〇歳を過ぎて退職金をもら いますので、そこでまとまったお金が入ってきま すからね。 安藤   でも、これからは退職金を運用しようとい う人がネットへ行っちゃうかもしれないので、対 面証券は余程頑張らねばならない。ただこれまで は、長いお付き合いをしているお客様がたくさん

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いらっしゃいますが…。とは言っても、全体の口 座数の中で一年に一回以上、商いをする人は四人 に一人ぐらいかな…。 ――ということは、あとの四分の三は数年に一回 …。 安藤   まあ、金庫がわりですよね。 ――でも、大きな損失を出したお客さんはいない わけですね。 安藤   いや、それはいつごろ買ったかによります よ。NTT株を買った人だったら、最初の売り出 しで買った人と、二回目で買った人ではかなり異 なりますから…。ただ、当社のお客様は比較的長 期間、株を持っているようです。お客様がずっと 長く持っていらっしゃるということは、それはそ れでご満足いただいているということだと思いま すし、私どもの営業マンもせっせと短期売買を勧 めているわけじゃないですから。こんな話になっ て全然面白く無いかと思いますが ・・・ 。 ――いやいや、むしろ珍しいなと思ってお聞きし ておりました。他社さんですと、お客さんに売っ たり買ったりしてもらって、手数料をもらって収 益を上げておられるところが多いので…。また、 市況が悪化すると、歩合の人を入れてコストを下 げつつ、注文をたくさんとろうという会社が多い と思います。しかし、注文があまりなくても経営 が成り立っているわけですよね。他社さんから見 れば羨ましいと思いますよ。よっぽどいいお客さ ん が、 た く さ ん い ら っ し ゃ る と い う こ と な ん で しょうね。 安藤   それは他社からも言われます。

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――例えば、そういうお客様から自分たちの資産 を運用してほしいといったニーズは、生まれてこ ないんですか。 安藤   それは、普段からお客様に担当営業マンが ついていますし、当社は、入社したらすぐにFP の勉強をさせていますので…。 ――例えばラップ口座といった要望は…。 安 藤   そ れ は、 コ ス ト と の 見 合 い が あ り ま す か ら、まだやっていません。それと、ラップ口座で 運用してほしいというニーズをお持ちのお客様と いうのは、たぶん、どの証券会社もさかんに営業 をかけている大型のお客様じゃないでしょうか。 ――最近はファンドラップにはなりますが、最低 の受入資産額も下がってきていますが…。 安藤   当社は、大型のお客様としかお取引をしな い の で は な く、 ま た、 預 か り 資 産 が 一 定 額 を 下 回 っ た お 客 様 に 対 し て も、 「 あ な た は ネ ッ ト へ 行ってくださいよ」ということは言いませんから …。店舗もどちらかと言えば、地元のローカルな 街にありますから、小額のお金でも株式を買いた いとおっしゃればお受けいたしますし、しかも、 その方が売り買いをされずに、長期間保有されて いても、別に「売りなさい、売りなさい」という 電話も、当社はそんなにはしませんからね。 ――ただ、あまり小さな残高だとコスト割れする んじゃないですか。 安藤   例えば、タンス株券を受け入れるなんて言 う と、 え ら い コ ス ト が か か っ た で す よ ね。 し か も、今までタンスに株券を仕舞い込んでおられた 方が、証券会社に預けられたからといって、突然 動き出すとは思えないですよね。

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――そうですね。 安藤   当社の受入額は地場では一番多いですよ。 た だ、 そ れ で 初 め て い ら っ し ゃ っ た お 客 様 に、 「 動 か さ な い と 当 社 は 受 け ま せ ん よ 」 と い う こ と は言いませんし、それはどこもそうじゃないです か。 ――ということは、御社は超お金持ちに続く層を 狙っておられると…。 安藤   もちろん、当社のお客様には相当なお金持 ちもいらっしゃいますけれども、超スーパーお金 持 ち の 方 に は、 外 証 も 含 め て い ろ ん な 会 社 が 群 がって営業しているでしょうから、手もかかり過 ぎるし、利ざやも薄くて儲からないし…。それな りに手数料をいただける層のお客様とお取引して います。 ――そういう層を狙って、お客様になっていただ いている…。 安 藤   結 果 的 に そ う な っ た と い う こ と で し ょ う ね。昭和三〇年代や手数料の自由化以前には、当 社も名古屋で指折りのお金持ちともお取引はあっ たと思いますよ。でも、その人たちが今、どの会 社とお取引されているかは残念ですが分かりませ ん。 ――古きよき資産家がお客さんにいらっしゃった ということですが、もう平成になって既に二六、 七年経っていますよね。そうすると、平成になっ て入って来られたお客さんが、ネットの顧客とい うことなんでしょうか。 安藤   いや、対面です。 ――対面顧客もあるんですか。

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安藤   ええ、対面もではなく、対面が今でも中心 です。というのも、必ずしも株の商いばかりじゃ ないですから。バブル崩壊後は、募集物で入って い ら っ し ゃ る お 客 様 が 多 い で す か ら ね。 「 株 だ け をやりたい」と言って入ってこられる方より、中 国ファンドから入っていただいた方もいらっしゃ いますし、中国ファンドの利回りが下がった時期 であれば、投資信託から入っていただいた方もい らっしゃいますし、債券から入っていただいた方 もいらっしゃいますから…。 ※   本 稿 は、 安 藤 証 券 株 式 会 社 常 務 取 締 役 山 田 諭史氏にご同席頂き、滋賀大学経済学部教授二 上季代司氏と当研究所から小林和子、深見泰孝 が参加し、平成二七年一月一六日に実施したヒ アリングの内容をまとめたものである。文責は 当研究所にある。 ※   な お、 括 弧 内 は 日 本 証 券 史 資 料 編 纂 室 が 補 足した内容である。

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  安 藤 正 敏 氏 略  歴 昭和4年1月30日 愛知県出身 昭和26年3月 早稲田大学商学部卒 昭和26年4月 株式会社住友銀行入社 昭和31年7月 安藤証券株式会社入社 昭和35年11月 同社取締役 昭和45年11月 同社常務取締役 昭和50年11月 同社専務取締役 昭和54年4月 同社副社長 昭和59年12月 同社副社長兼東京支店長(~昭和60年12月) 昭和63年10月 同社代表取締役社長 平成10年7月 日本証券業協会理事(~平成12年6月) 平成10年7月 同協会総務委員会副委員長(~平成11年6月) 平成10年7月 同協会名古屋地区副会長(~平成12年6月) 平成12年7月 日本証券業協会名古屋地区評議会評議員(~平成16年6月) 平成12年9月 株式会社名古屋証券取引所理事会議長(~平成14年3月) 平成13年6月 名証不動産株式会社取締役(~平成25年6月) 平成13年6月 中部証券金融株式会社監査役(~平成20年6月) 平成14年1月 中部証券代行株式会社取締役(~平成26年12月) 平成14年6月 安藤証券株式会社取締役会長(~現在) 平成14年6月 株式会社名古屋証券取引所取締役(~平成19年6月) 平成16年7月 同協会会員監事(~平成17年6月) 平成19年6月 株式会社名古屋証券取引所監査役(~平成26年6月) < 受章 > 平成21年7月 ベスト証券人章 平成27年6月 旭日双光章

参照

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