(
2
)
(
3
)
の
と
い
え
る
。
道
鏡
と
の
共
同
統
治
と
す
る
説
は
多
い
が、
あ
く
ま
で
も
称
徳
主
導
の
専
制
体
制
の
も
と
で
の
共
同
統
治
体
制
に
す
ぎ
な
か
っ
た
と
考
え
る
。
た
と
え
道
鏡
か
ら
天
皇
に
対
し
て
強
い
働
き
か
け
が
あ
っ
た
と
し
て
も、
称
徳
自
身
の
理
解
に
基
づ
く
積
極
的
な
意
志
が
な
い
か
ぎ
り
法
王
任
命
は
あ
り
え
な
か
っ
た
。
そ
し
て
む
し
ろ
法
王
と
い
う
名
称
に
こ
そ
、
尼
天
皇
自
身
が
構
想
し
た
仏
教
と
天
皇
と
の
関
係
に
関
す
る
積
極
的
な
基
本
方
針
が
示
さ
れ
て
い
た
と
老
え
ら
れ
る
。
こ
の
法
王
の
意
味
に
つ
い
て
、
西
岡
虎
之
助
は
「
法
王
は
現
実
を
支
配
(
4
)
す
る
王
に
あ
ら
ず
し
て
、
仏
法
界
の
王
の
謂
で
あ
る
」
と
し
た
。
こ
れ
に
対
し
て
滝
川
政
次
郎
は
天
平
神
護
二
年
十
月
壬
寅
条
の
宣
命
第
四
十
一
詔
の
「
此
の
世
間
の
位
を
ば
楽
ひ
求
め
た
ぶ
事
は
都
て
無
く
、
一
道
に
志
し
て
菩
薩
の
行
を
脩
ひ
人
を
度
し
導
か
む
と
云
ふ
に
心
は
定
め
て
い
ま
す
。
か
く
は
あ
れ
ど
も
猶
朕
が
敬
ひ
報
い
ま
つ
る
わ
ざ
と
し
て
な
も
此
の
位
冠
を
授
け
ま
つ
ら
く
と
勅
夢
た
ま
ふ
天
皇
が
御
命
を
(
寛
命
引
用
は
読
み
下
し
文
、
以
下
の
引
用
も
こ
れ
に
準
じ
る
)
」
の
「
此
の
世
間
の
位
」
に
注
目
[
し
て
、
世
俗
を
支
配
す
る
王
と
し
、
法
王
と
は
聖
徳
太
子
の
如
く
天
皇
の
万
機
の
政
を
摂
行
す
る
者
の
呼
称
で
あ
り
、
皇
太
子
監
国
の
地
位
と
仏
教
の
教
主
と
し
て
の
天
皇
の
地
位
と
を
兼
ね
備
え
た
も
の
と
し
て
、
ヨ
ー
ロ
ッ
パ
近
世
諸
国
の
ク
イ
ー
ン
に
対
す
る
プ
リ
ン
ス
の
よ
う
な
も
の
で
あ
っ
た
と
し
、
聖
徳
太
子
が
か
つ
(
5
)
て
有
し
て
い
た
権
能
を
も
っ
て
道
鏡
に
与
え
た
と
し
た
。
こ
の
滝
川
説
に
は
多
く
の
重
要
な
指
摘
が
み
え
る
が
、
し
か
し
厳
密
な
論
証
は
ほ
と
ん
ど
示
し
て
い
な
い
。
ま
た
北
山
茂
夫
は
法
王
の
本
質
に
つ
い
て
の
規
定
は
ほ
と
ん
ど
見
出
さ
れ
な
い
と
し
て
、
法
(
仏
法
)
の
世
界
の
王
あ
る
い
は
そ
の
襴
孫
の
王
を
意
味
し
た
と
み
た
が、
こ
れ
は
西
岡
説
を
継
承
し
た
説
と
い
え
る
。
従
称
徳
天
皇
の
「
仏
教
と
王
権
」
(
勝
浦
)
来
の
研
究
で
は
、
こ
の
西
岡
・
滝
川
二
説
の
何
れ
か
を
と
る
も
の
が
多
く
、
ム
ヨ
旺
愚
一
一
幽
)
二
.
一
)
ル
こ
、
隻
E
一
)
か
小
コ
ヲ
つ
蒙
監
ら
ご
、
尓
奮
疋
ヨ
且
つ
出
虱
塑
こ
“
π
螽
に
ま
六
ホ
!
‘
.
44
辛
1
脚
堯
=
L
σ
才
r
ワ
‘
霊
巨
フ
〔
著
彳
一
「
ノ
王
、
「
(
一
「
,
i
ー
(
7
)
則
し
て
厳
密
に
研
究
し
た
も
の
は
な
い
。
し
か
し
称
徳
天
皇
時
代
の
政
治
構
想
は
、
彼
女
自
身
の
仏
教
観
に
基
づ
く
政
治
思
想
が
重
要
な
意
味
を
も
っ
て
い
た
と
考
え
ら
れ
る
.
と
く
に
尼
天
皇
が
道
鏡
を
法
王
と
し
た
時
に
、
尼
天
皇
自
身
が
考
え
て
い
た
「
法
王
」
が
ど
の
よ
う
な
理
解
に
よ
る
も
の
で
あ
っ
た
か
は
、
尼
天
皇
の
王
権
や
皇
位
継
承
に
関
す
る
構
想
を
考
え
る
う
え
で
重
要
な
鍵
を
に
ぎ
っ
て
い
る
。
そ
こ
で
、
本
稿
で
は
称
徳
自
身
が
こ
の
法
王
と
い
う
地
位
を
ど
の
よ
う
に
理
解
し
、
道
鏡
に
与
え
た
の
か
、
そ
し
て
ど
の
よ
う
に
、
「
出
家
者
に
よ
る
統
治
」
、
さ
ら
に
は
「
出
家
者
に
よ
る
王
権
の
継
承
」
と
い
う
構
想
に
ま
で
至
る
こ
と
が
で
き
た
の
か
、
そ
し
て
そ
の
構
想
は
ど
の
よ
う
な
影
響
を
与
え
た
の
か
を、
称
徳
の
政
治
的
経
験
と
仏
教
思
想
理
解
や
信
仰
の
中
に
さ
ぐ
る
こ
と
に
し
た
い
。
第
嗣
章
尼
天
皇
の
「
法
王
」
観
と
最
勝
里
経
称
徳
天
皇
の
座
右
経
典
と
最
勝
王
経
道
鏡
に
与
え
た
「
法
王
」
が
世
俗
の
王
、
仏
法
の
王
何
れ
の
称
で
あ
る
か
に
つ
い
て
は
、
仏
典
類
の
中
の
法
王
に
着
目
し
て
分
析
す
る
必
要
が
あ
る
。
特
に
本
稿
の
課
題
で
あ
る
尼
天
皇
の
「
法
王
」
観
を
、
天
皇
の
座
右
経
典
類
の
法
王
の
用
法
か
ら
考
え
た
い
。
称
徳
が
阿
倍
内
親
王
時
代
か
ら
私
経
と
し
(
8
)
て
書
写
さ
せ
た
経
典
は
多
種
類
に
及
ぶ
が
、
そ
の
中
で
経
典
や
そ
の
趣
意
文
を
詔
や
宣
命
へ
引
用
し
た
例
が
あ
る
も
の
、
ま
た
彼
女
の
政
策
の
依
拠
経
典
と
な
っ
た
も
の
、
ま
た
唯
一
残
る
五
書
詩
「
讃
仏
」
の
依
拠
経
典
と
考
え
ら
(
9
)
れ
る
も
の
、
彼
女
が
自
ら
行
っ
た
仏
事
に
関
係
し
た
も
の
を
あ
げ
る
と
次
の
八
七
(
五
盞
)
位
を
比
べ
る
と
宣
命
第
十
九
詔
で
は
(
天
平
宝
字
元
年
七
月
橘
奈
良
麻
呂
の
変
)
天
池
の
神
の
慈
び
賜
ひ
護
り
賜
ひ
開
闢
巳
来
御
宇
天
皇
の
大
御
霊
盧
舎
那
如
来
観
世
音
菩
薩
護
法
の
梵
王
・
帝
釈
・
四
大
天
王
の
不
可
思
議
威
神
の
力
で
あ
っ
た
が、
宣
命
第
四
十
三
詔
(
神
護
景
雲
三
年
五
月
県
犬
養
姉
女
の
配
流
)
で
は
盧
舎
那
如
来
最
勝
王
経
観
世
音
菩
薩
護
法
善
神
ぱ
の
梵
王
・
帝
釈
・
四
大
天
王
の
不
可
思
議
威
神
の
カ
開
闢
巳
来
御
宇
天
皇
の
御
霊
天
地
の
神
た
ち
が
護
り
助
け
奉
り
つ
る
力
と
な
っ
て
い
る
。
す
な
わ
ち
第
十
九
詔
に
比
べ
て
、
第
四
十
三
詔
で
は
仏
菩
薩
と
天
地
の
神
・
天
皇
霊
の
順
位
の
逆
転
が
み
ら
れ
る
。
さ
ら
に
第
四
十
三
詔
で
は
第
十
九
認
に
は
な
か
っ
た
「
最
勝
王
経
」
が
盧
舎
那
如
来
の
次
に
登
場
し
て
お
り
、
称
徳
が
経
典
の
中
で
も
最
勝
王
経
を
最
も
重
ん
じ
、
そ
の
位
置
づ
け
を
観
音
信
仰
よ
り
も
上
位
に
し
た
こ
と
に
注
目
し
た
い
。
出
家
し
て
尼
と
な
っ
て
か
ら
、
さ
ら
に
最
勝
王
経
に
対
す
る
理
解
が
進
み
位
置
づ
け
が
高
ま
っ
た
と
い
え
よ
う
。
ま
た
称
徳
天
皇
期
の
宣
命
や
詔
勅
に
だ
け
最
勝
王
経
や
そ
の
趣
意
文
を
引
用
(
%
)
す
る
例
が
集
中
し
て
い
る
。
ま
た
最
勝
王
経
を
単
な
る
護
国
経
典
と
し
て
だ
け
で
な
く
、
天
皇
自
身
の
仏
教
思
想
・
政
治
思
想
に
お
い
て
依
拠
す
べ
き
存
(
25
)
在
と
し
て
位
置
づ
け
て
い
た
。
聖
武
の
場
合
も
仏
教
政
策
に
係
わ
る
詔
に
引
(
26
)
用
し
た
例
は
あ
る
が
、
称
徳
の
場
合
は
仏
教
関
係
以
外、
例
え
ば
後
述
す
る
皇
位
継
承
問
題
に
関
す
る
宣
命
に
も
引
用
し
て
お
り
、
聖
武
以
上
に
政
治
思
想
の
依
拠
経
典
と
な
っ
て
い
た
と
い
え
る
。
座
右
経
典
と
法
王
さ
て
田
村
圓
澄
は
諸
仏
典
に
お
け
る
法
王
の
用
法
を
分
析
し
、
ω
釈
迦
、
特
定
の
如
来
(
阿
闕
如
来
.
妙
慧
超
如
来
。
智
高
王
仏
な
ど
)
、
如
来
iW
見
者
冖
一
般、
正
法
を
も
っ
て
統
治
す
る
国
王
(
阿
育
王
・
優
填
王
・
転
輪
王
)
に
称
徳
天
皇
の
「
仏
教
と
王
権
鳳
(
勝
浦
)
(
27
)
分
類
し
て
い
る
。
田
村
説
の
分
類
は
仏
典
の
み
に
よ
る
も
の
で
あ
る
が
、
こ
う
彑
こ
目
・
寸
兎
β
う
デ
ご
、
鳶
、
ム
其
,
亠
盆
ム
田
,
薯
ま
二
よ
、
二
)
彑
二
〇
‘
ヂ
}
匚
ト
オ
蠹
巨
ー
ズ
ま
臣
ヒ
レ
黜
ア
刃
{
d
タ
逼
雪
卩
看
養
ひ
F
,
σ
嘛
醸
セ
菩
薩
、
聖
人
な
ど
の
用
法
も
あ
る
。
た
と
え
ば
菩
薩
を
表
す
例
で
こ
の
当
時
に
重
視
さ
れ
て
い
た
経
典
に
は
「
大
宝
積
経
」
巻
九
や
六
十
巻
華
厳、
い
わ
ゆ
る
「
旧
華
厳
経
」
が
あ
り
、
ま
た
ω
聖
人
の
例
と
し
て
は
道
宣
『
釈
(
28
)
迦
方
誌
』
に
聖
人
の
極
位
と
し
て
の
法
王
の
用
法
が
あ
る
。
こ
れ
を
参
考
に
(
29
)
し
つ
つ
、
法
王
の
語
が
な
い
薬
師
経
・
梵
網
経
・
金
剛
般
若
経
以
外
の
称
徳
座
右
経
典
に
み
え
る
法
王
を
分
類
す
る
と
次
の
よ
う
に
な
る
。
(
30
)
最
勝
王
経
の
「
法
王
」
ー
正
法
を
も
っ
て
統
治
す
る
国
王
(
31
)
法
華
経
の
「
法
王
」
釈
迦
・
如
来
・
世
間
に
出
現
す
る
法
王
法
を
も
っ
て
一
切
衆
生
を
教
化
す
る
如
来
(
32
)
大
般
若
経
の
「
法
王
」
ー
菩
薩
行
の
最
終
到
達
者
(
33
)
華
厳
経
の
「
法
王
」
菩
薩
以
上
の
中
で
、
法
華
経
に
如
来
と
し
て
の
法
王
の
用
例
が
あ
る
以
外
は
、
主
と
し
て
菩
薩
と
し
て
の
法
王
、
さ
ら
に
正
法
を
も
っ
て
統
捨
す
る
国
王
と
い
う
意
味
の
法
王
が
多
い
と
い
え
る
。
特
に
最
勝
王
経
の
法
王
は
「
王
法
正
論
品
」
の
中
に
、
「
若
為
正
法
王
、
国
内
無
偏
党、
法
王
有
名
称、
並
日
聞
三
界
中、
三
十
三
天
衆
、
歓
喜
作
是
書、
譫
部
州
法
王
、
彼
即
是
我
子
、
以
善
化
衆
生
、
正
法
治
於
国
、
勤
行
於
正
法、
当
令
生
我
宮
(
若
正
法
の
王
た
ら
ば
、
国
内
に
偏
党
な
く
、
法
王
の
名
称
有
り
て
、
普
ね
く
三
界
中
に
聞
き
、
三
十
三
天
衆
、
歓
喜
し
て
是
の
言
を
作
す
。
譫
部
州
法
王
、
彼
即
ち
是
我
が
子
な
り
、
善
を
も
っ
て
衆
生
を
化
し
、
正
法
国
を
治
め
、
正
法
に
お
い
て
勤
行
せ
ば
、
ま
さ
に
或
が
宮
に
生
ぜ
し
〔
34
}
め
ん
)
」
と
あ
り
、
譫
部
州
法
王
す
な
わ
ち
世
俗
世
界
の
国
王
が
正
法
を
も
っ
て
統
治
し
た
も
の
で
あ
っ
た
。
八
九
(
毫
七
)
研
究
ノ
ー
ト
座
右
経
・
興
の
中
で
称
徳
が
攻
治
思
想
上
で
最
も
重
視
し
た
経
典
は
、
前
述
の
よ
う
に
最
勝
王
経
で
あ
っ
た
。
そ
し
て
道
鏡
を
法
王
と
し
た
宣
命
第
四
十
一
詔
で
、
法
王
は
「
世
間
の
位
」
で
あ
り
、
菩
薩
の
行
い
を
し
て
い
る
道
鏡
こ
そ
法
王
に
相
応
し
い
と
し
て
い
る
点
か
ら
、
称
徳
の
「
法
王
」
観
は
最
勝
王
経
に
み
え
る
正
法
を
も
っ
て
統
治
す
る
国
王
と
い
う
位
置
づ
け
と
不
可
分
で
あ
っ
た
と
考
え
ら
れ
る
。
こ
れ
に
大
般
若
経
の
菩
薩
行
の
最
終
到
達
者
と
し
て
の
法
王
や
、
華
厳
経
の
菩
薩
と
し
て
の
法
王
も
影
響
を
あ
た
え
て
い
た
可
能
性
が
考
え
ら
れ
る
。
第
二
章
尼
天
皇
の
「
法
王
」
観
と
太
子
信
仰
聖
徳
太
子
の
法
王
に
つ
い
て
こ
の
称
徳
の
「
法
王
」
観
は
、
最
勝
王
経
に
依
る
と
共
に
聖
徳
太
子
を
法
王
と
す
る
太
子
信
仰
の
影
響
も
大
き
か
っ
た
と
考
え
ら
れ
る
。
ま
ず
聖
徳
太
子
を
法
王
と
称
す
こ
と
に
つ
い
て
考
察
し
て
お
き
た
い
。
田
村
園
澄
は
、
聖
徳
太
子
の
法
王
は
前
述
の
法
王
の
用
法
の
な
か
の
特
定
の
如
来
に
該
当
し
、
厩
戸
王
を
「
日
本
の
釈
迦
」
と
み
な
し
て
法
王
と
呼
(
鉐
V
ん
だ
と
し
た
。
そ
の
根
拠
の
中
心
は
、
聖
徳
太
子
撰
と
さ
れ
た
三
経
義
疏
に
関
連
す
る
維
摩
経
・
法
華
経
・
勝
鬘
経
の
中
の
法
王
は
い
ず
れ
も
法
施
者
を
表
す
た
め
と
し
て
い
る
。
た
と
え
ば
維
摩
経
義
疏
に
「
常
に
法
財
(
施
)
を
(
%
)
以
て
一
切
に
施
す
が
故
に
法
王
と
称
す
る
」
と
あ
る
。
ま
た
太
子
の
法
王
は
、
法
隆
寺
の
僧
に
よ
っ
て
初
め
て
用
い
ら
れ
た
と
み
て
い
る
。
し
か
し
こ
の
聖
徳
太
子
の
法
王
を
「
日
本
の
釈
迦
」
と
み
る
田
村
説
に
対
(
73
)
し
て
は
兼
子
恵
順
の
批
判
が
あ
る
。
兼
子
説
は
法
王
の
用
法
の
う
ち
仏
法
の
王
(
釈
迦
〉
以
外
に
、
仏
法
興
隆
の
王
(
例
え
ば
阿
育
王
)
の
用
法
が
あ
り
、
九
〇
(
署
八
)
聖
徳
太
子
に
対
す
る
用
法
は
む
し
ろ
後
者
で
あ
る
と
し
て
、
「
日
本
の
釈
迦
」
説
を
疑
問
と
し
て
い
る
。
私
見
も
、
聖
徳
太
子
を
「
日
本
の
釈
迦
一
と
す
る
見
方
が、
七
世
紀
宋
か
ら
八
世
紀
に
既
に
確
立
し
て
い
た
と
す
る
よ
り
は
、
聖
徳
太
子
の
法
王
の
場
合
は
、
「
正
法
を
も
っ
て
統
治
す
る
王
」
と
し
て
の
位
置
づ
け
が
一
般
的
で
あ
っ
た
と
考
え
る
。
た
と
え
聖
徳
太
子
を
法
王
と
呼
ぶ
こ
と
を
始
め
た
僧
た
ち
が
、
三
経
義
疏
の
法
王
を
念
頭
に
お
い
て
「
日
本
の
釈
迦
」
と
み
な
す
場
合
が
あ
っ
た
と
し
て
も
、
奈
良
後
期
に
、
「
日
本
の
釈
迦
」
と
み
な
す
理
解
が
唯
一
の
も
の
だ
っ
た
と
は
い
え
な
い
。
た
と
え
ば
後
述
す
る
よ
う
に
、
聖
徳
太
子
は
釈
迦
そ
の
も
の
で
は
な
く
、
そ
の
釈
迦
の
説
法
し
た
霊
鷲
山
で
釈
迦
か
ら
法
華
経
を
聴
い
た
僧
の
後
身
で
あ
り
、
仏
法
を
興
隆
す
る
た
め
に
、
日
本
に
転
生
し
た
と
い
う
太
子
像
が
あ
る
以
上
、
単
純
に
「
日
本
の
釈
迦
」
だ
け
で
あ
っ
た
と
い
う
解
釈
は
成
り
立
た
な
い
と
考
え
る
。
そ
し
て
尼
天
皇
の
聖
徳
太
子
の
「
法
王
」
観
は
、
や
は
り
最
勝
王
経
の
法
王
と
同
様
の
「
正
法
を
も
っ
て
統
治
す
る
王
」
と
い
う
解
釈
に
近
い
も
の
で
あ
っ
た
と
考
え
る
。
尼
天
皇
の
太
子
観
そ
こ
で
称
徳
天
皇
自
身
が
ど
の
よ
う
な
聖
徳
太
子
観
を
も
ち
、
こ
れ
と
皇
位
継
承
や
皇
太
子
の
地
位
と
の
関
係
を
ど
の
よ
う
に
捉
え
て
い
た
か
を
考
え
た
い
。
ま
ず
阿
倍
内
親
王
時
代
に
上
宮
王
院
造
営
の
契
機
と
も
な
っ
た
法
華
経
講
を
主
催
し
た
可
能
性
が
あ
る
こ
と
を
示
す
次
の
史
料
に
注
目
し
た
い
。
契
自
覚
慨
世
俗
之
晴
弊
、
愍
仏
教
「
」
於
此
殿
、
是
日
、
天
応
地
感、
放
光
顕
祥
也、
[
月
日
]
悟
二
无
常
叫
永
厭
二
有
生
→
自
却
自
塵
境
、
夙
禰
無
[
凵
古
、
世
移
万
年、
上
宮
院
毀
而
無
二
余
基
→
輦
路
荒
而
為
二
岳
墳
哨
況
々
金
地、
積
}
万
獣
之
曝
骸
州
幽
々
宝
庭、
生
二
千
齢
之
緑
苔
嚇
於
ヒ
是、
法
師
行
信
覩
二
斯
荒
墟
→
流
涕
感
歎、
遂
奏
二
聞
春
宮
坊
阿
倍
内
親
王
剛
伏
惟、
春
宮
殿
下、
知
邁
口
口
徳
倫
舜
目
佐
機
紫
極、
懼
一
物
之
失、
所
冀
、
化
丹
階
邁
目
揆
之
弼、
諧
聴
覧
、
余
暇
二
寄
心
玄
門
叫
広
集
二
法
徒
→
将
レ
弘
二
聖
教
→
粤
以、
天
平
十
一
年
歳
在
二
己
卯
一
夏
四
月
+
目
、
即
命
二
正
三
位
藤
原
捻
前
朝
臣
→
敬
造
二
此
院
一
也
、
天
平
七
年
歳
在
二
乙
亥
十
二
月
廿
日
、
春
宮
坊
奉
二
為
聖
徳
尊
霊
及
今
見
天
朝
→
講
二
読
法
花
経
→
施
料
衣
服
参
拾
ー
旨
→
天
平
八
年
歳
在
二
丙
子
三
月
廿
二
目
、
法
師
行
信
率
二
皇
后
宮
職
大
進
安
宿
倍
真
人
等
晒
請
二
講
師
律
師
道
慈
法
師
及
僧
尼
三
百
余
人
剛
始
講
二
件
経
∩
所
二
施
賜
一
衣
服
等
施
用
已
尽
、
(
後
略
)
(
傍
線
筆
者
)
こ
の
天
平
十
九
年
二
月
廿
九
目
の
年
紀
を
も
つ
所
謂
「
皇
太
子
御
斎
会
奏
(
38
)
文
」
は
、
「
法
隆
寺
東
院
縁
起
」
の
一
部
と
さ
れ
て
い
る
。
し
か
し
「
法
隆
寺
東
院
縁
趨
」
そ
の
も
の
が
断
片
的
で
あ
る
こ
と
だ
け
で
な
く
、
内
容
的
に
も
天
平
七
年
段
階
で
は
阿
倍
内
親
王
は
未
だ
皇
太
子
で
は
な
い
こ
と
や
、
天
平
十
一
年
に
は
藤
原
房
前
は
既
に
没
し
て
い
る
な
ど
矛
盾
や
無
稽
が
あ
り
、
多
く
の
疑
問
が
あ
る
史
料
で
あ
る
。
し
か
し
林
幹
禰
に
よ
れ
ば
、
鎌
倉
特
代
に
既
に
反
故
と
な
っ
て
い
た
数
種
の
記
事
を
取
り
集
め
た
も
の
で
あ
り
欠
落
・
窟
入
は
含
む
が、
当
時
の
史
実
の
一
端
を
伝
え
て
お
り
、
資
財
帳
の
一
(
鈴
)
具
を
な
す
も
の
で
あ
る
と
し
て
い
る
。
私
見
で
は
、
こ
の
「
皇
太
子
御
斎
会
奏
文
」
の
う
ち
少
な
く
と
も
傍
線
を
付
し
た
部
分
に
つ
い
て
は
、
一
定
の
吏
実
を
反
映
し
て
い
る
の
で
は
な
い
か
と
考
え
る
。
こ
の
部
分
に
は
、
天
平
七
年
十
二
月
廿
日
に
春
宮
坊
阿
倍
内
親
黒
が
、
聖
称
徳
天
皇
の
「
仏
教
と
王
権
」
(
勝
浦
)
徳
尊
霊
と
今
見
天
朝
の
た
め
に
法
華
経
を
講
読
す
る
料
と
し
て
、
衣
服
三
十
領
・
生
絹
四
百
疋
・
調
綿
千
斤
・
長
布
五
百
端
を
施
入
し
、
こ
の
財
源
を
え
て
、
行
儒
が
皇
后
宮
職
大
進
安
宿
倍
真
人
等
を
率
い
、
講
師
の
律
師
道
慈
法
師
及
僧
尼
三
百
余
人
ら
を
請
じ
て
法
華
経
を
講
読
さ
せ
る
法
会
を
、
翌
年
二
月
廿
二
日
に
行
っ
た
と
あ
る
。
前
述
し
た
よ
う
に
天
平
七
年
は
阿
倍
内
親
王
の
私
経
と
し
て
の
最
勝
王
経
の
書
写
が
光
明
子
を
後
見
に
開
始
さ
れ
た
年
で
あ
り
、
女
性
皇
太
子
へ
の
根
回
し
を
行
い
始
め
た
時
期
と
一
致
す
る
。
ま
た
行
信
が
率
い
た
皇
后
宮
職
マ
マ
大
進
安
宿
倍
真
人
と
い
う
人
物
は
、
正
史
記
事
に
は
み
え
な
い
が
『
正
倉
院
文
書
』
に
み
え
る
皇
后
宮
職
大
進
の
安
宿
首
真
人
と
同
一
人
物
で
あ
る
と
考
(
40V
え
ら
れ
る
。
ま
た
彼
の
活
動
が
判
明
す
る
の
が
天
平
六
年
か
ら
九
年
四
月
に
か
け
て
で
あ
る
点
で
も
、
こ
の
斎
会
の
動
き
が
天
平
七
、
八
年
に
あ
っ
た
こ
と
と
一
致
す
る
。
ま
た
天
平
八
年
二
月
廿
二
日
は
聖
徳
太
子
の
命
日
と
さ
れ
た
日
で
あ
り
、
こ
の
目
に
光
明
子
が
法
隆
寺
に
多
羅
・
白
銅
鏡
・
香
・
挫
筥
・
革
箱
な
ど
多
数
の
物
品
を
施
入
し
た
点
と
も
符
合
す
る
(
天
平
+
九
年
『
法
隆
寺
伽
藍
縁
起
并
流
記
資
財
帳
』
)
。
さ
ら
に
翌
年
の
天
平
九
年
に
は
上
宮
王
院
に
藤
氏
皇
后
が
聖
徳
法
皇
御
持
物
の
経
七
百
七
十
九
巻
を
さ
が
し
て
奉
請
し
た
こ
と
が
知
ら
れ
て
い
る
ハ
天
平
宝
字
五
年
『
上
宮
モ
院
縁
起
并
資
財
帳
』
)
。
以
上
の
点
か
ら
天
平
七
年
か
ら
八
年
の
動
き
は
一
定
の
史
実
を
反
映
し
て
い
る
と
考
え
る
。
そ
し
て
時
間
的
に
矛
盾
す
る
表
現
の
う
ち
、
阿
倍
内
親
工
を
皇
太
子
と
す
る
点
は
、
こ
の
記
事
が
作
成
さ
れ
た
時
点
で
皇
太
子
と
な
っ
て
い
た
た
め
に
遡
及
し
た
表
現
を
と
っ
た
と
考
え
、
ま
た
前
段
の
房
前
に
つ
い
て
は
、
林
説
の
よ
う
に
天
巫
−
七
年
頃
か
ら
関
与
し
て
い
た
房
前
の
業
績
を
最
終
的
に
上
宮
王
院
が
完
成
し
た
天
平
十
一
年
に
か
け
て
表
現
し
て
し
ま
っ
九
一
(
鑿
九
)