駒澤大學佛敎學部論集 第四十二號 成二十三年十月 一 はじめに 只今のご紹介にありましたとおり、石井修道先生には学生 時代から種々ご指導いただいている者でございます。本日は こういう場ですので、個人的なことはあまり申し上げまいと 思っておりましたのですが、若いころのことが全部ばれてし まい、大変お恥ずかしく思っております。また最近私は主と して中央アジアの禅観を中心に研究しているのですが、もと もとは唯識を中心に勉強しておりましたので、その時代から 袴谷憲昭先生には大変お世話になってまいりました。論文な ども常に交換させていただき、ご懇切なご指導をいただいて おります。そのように私が若い学生のころからご指導いただ いてきた先生方の前で、こういう話をさせていただくという ことで、本日は大変緊張いたしております。何とか務めを果 たさせていただきたいと思っておりますので、どうかよろし くお願いいたします。 さてご紹介いただきましたとおり 、私は ﹃観仏三昧海経﹄ というお経を博士論文のテーマとして勉強いたしまして、こ こにありますのが一応博士論文でございます 。今 、石井先 生のお話にもありました通り英文のものでもございますし 、 個々のチャプターはいろんな機会に論文として発表している のですが、一冊の本としてはまだ出版しておりません。そう いった訳で、一般の方はもとより、専門の先生でもご覧いた だいた方はそれほど多くないでしょうから、本日はその一部 をご紹介申し上げたいと思っております。 ﹃観仏三昧海経﹄というお経は、坐禅のなかで仏様を見る、 特に釈牟尼仏を見るためのお経です。実は仏菩を見るた めの行法を説くお経が六つ現存しておりまして、普通六観経 と呼ばれています。伝統的に漢訳者とされている人の名とと もに挙げますと、以下の通りです。 ︵ 1 ︶﹃観仏三昧海経﹄ ︵﹃海経﹄ ︶ 仏陀跋陀羅 ︵ 2 ︶﹃観弥勒菩上生兜率天経﹄ 沮渠京声 公開講演
﹁中央アジアにおける禅観の実践について﹂
山
部
能
宜
︵東京農業大学・教授︶中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 二 ︵ 3 ︶﹃観普賢菩行法経﹄ 曇無蜜多 ︵ 4 ︶﹃観虚空蔵菩経﹄ 曇摩蜜多 ︵ 5 ︶﹃観薬王薬上二菩経﹄ 䛕 良耶舎 ︵ 6 ︶﹃観無量寿経﹄ ︵﹃観経﹄ ︶ 䛕 良耶舎 最後の ﹃観無量寿経﹄ は浄土系で非常に重視されるお経で、 阿弥陀様と極楽浄土を見るためのお経です。また﹃観普賢菩 行法経﹄は天台系で重視されています。 それと密接に関わっているのが禅経と呼ばれるもので、こ れは中国仏教最初期の安世高の訳した ﹃安般守意経﹄ 等も ﹁禅 経﹂の一つですから、 歴史も長いですし、 数多くございます。 ただ、さきほどの六観経は五世紀の初頭に訳されたとされて おり 、︵実は本当にインドの原典から漢訳されたものかどう かは大きな問題なのですが、ともあれ︶五世紀に中国仏教界 にもたらされたことは確実ですので、それと大体同じような 時代のものが、この研究に直接関わってくるということにな ります。 そのような関係する文献を列挙しますと、以下のようなこ とになります ︵最後の ︵ 8 ︶は漢文文献ではありませんが 、 これにつきましては後述します︶ 。 第一グループ ︵ 1 ︶﹃達摩多羅禅経﹄ 仏陀跋陀羅 ︵ 2 ︶﹃坐禅三昧経﹄ 鳩摩羅什 ︵ 3 ︶﹃禅法要解﹄ 鳩摩羅什 ︵ 4 ︶﹃思惟略要法﹄ 鳩摩羅什 第二グループ ︵ 5 ︶﹃五門禅経要用法﹄ 曇摩蜜多 ︵ 6 ︶﹃禅秘要法経﹄ 鳩摩羅什 ︵ 7 ︶﹃治禅病秘要法﹄ 沮渠京聲 ︵ 8 ︶﹃梵文瑜伽書﹄ 作者不詳 下に示したのは大正大蔵経に示されている訳者です。ただ これに関しては、先ほどの六観経も同様ですが、大きな問題 があります。実際この通りかどうかは、一部確かなものもあ りますが、 そうではないものが多いということでございます。 この禅経というのが、私の考えでは、大きく分けて二つの グループに分かれるように思います。最初のものを﹁第一グ ループ﹂と書きましたが、これらは比較的直截・明瞭な書物 で、インド仏教におけるアビダルマの教理的伝統と比較的近 い、あまり摩訶不思議な要素のないものです。 起源に関しましては、最初の﹃達摩多羅禅経﹄は有部系の もので 、原本は残っていませんが 、インド起源を疑う理由 は特に無いと思います 。二つ目の ﹃ 坐禅三昧経﹄ 、これは私
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 三 が末木文美士先生とともに最近英訳させていただいた文献 です 。単独の原本はないのですが 、博識な学僧でインドに も留学している鳩摩羅什三蔵は、インドの仏典をよく知って いて、それが全部頭の中に入っていたものと思われます。そ の頭の中に入っているインド仏教の禅定法の知識を 、自分 でまとめて翻訳したものが ﹃坐禅三昧経﹄であります 。で すから単一の原典はありませんが 、個々の要素はほぼイン ド由来のものであると考えて間違いありません 。実は馬鳴 ︵ A 㶄vaghos . a︶という仏教詩人が書きました ﹃サウンダラナ ンダ﹄ ︵ ︶ という叙事詩がありますが、 その ﹃サ ウンダラナンダ﹄と﹃坐禅三昧経﹄には広範な並行箇所のあ ることが既に証明されています 。それ以外にも多くの要素が インドから来たことはほぼ間違いないと思われる、そういう 文献です。以下、成立事情に若干不明な点はありますが、内 容的にあまり特異な要素が無いのが︵ 3 ︶の﹃禅法要解﹄と ︵ 4 ︶の﹃思惟略要法﹄であります。 それに対して 、﹁第二グループ﹂の ︵ 5 ︶、 ︵ 6 ︶、 ︵ 7︶は 漢文でしか現存しないものですが、非常に摩訶不思議な、教 理的というよりは全てを視覚化するような、そういう文献で ありまして 、﹁第一グループ﹂とは随分雰囲気が違います 。 そしてこの ︵ 5 ︶、 ︵ 6 ︶、 ︵ 7︶に 、﹃観仏三昧海経﹄と似た 要素が非常に多いのです。ですから﹃観仏三昧海経﹄の起源 を研究する場合にはどうしてもこの︵ 5 ︶、 ︵ 6 ︶、 ︵ 7 ︶を見 る事が必要になってきます。 最後に﹃梵文瑜伽書﹄というのを挙げてありますが、これ は中央アジアから出てきたサンスクリットの禅経なのです 。 後ほど詳しくご紹介いたしますが、この﹃梵文瑜伽書﹄とい うものが実は︵ 5 ︶、 ︵ 6 ︶、 ︵ 7 ︶と類似した要素を多く持っ ております。この︵ 5 ︶、 ︵ 6 ︶、 ︵ 7 ︶を文献学的に研究する 時、それらは漢文しかございませんので、サンスクリットと 直接対照する方法が無いわけですが 、︵ 8 ︶と比べることに よって、そのあたりがかなり補えるということになってくる わけです。 私がどうしてこのような研究を始めたかということです が、一つの原点として、サンガラクシャ︵僧伽羅刹︶の﹃修 行道地経﹄という禅経に対するポール ・ドミエヴィルの 古典的な研究があります 。﹃修行道地経﹄のインドでの原 題は 、中国側の記録によれば ﹃ヨーガーチャーラブーミ﹄ ︵ ︶であったと 、ドミエヴィルは指摘してい ます。そうしますと、瑜伽行派の出発点となりました有名な ﹃瑜伽師地論﹄ ︵ ︶と原題を共有していたとい うことになりますので 、﹃瑜伽師地論﹄の先行形態としてサ ンガラクシャの﹃ヨーガーチャーラブーミ﹄があったのでは ないかという話になるわけです。私の大阪大学大学院時代の
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 四 恩師である荒牧典俊教授がこの論文を重視しておられ、本論 文に触発されて、 西北インドに瑜伽行者の実践の伝統があり、 それがやがて大成されて瑜伽行派ができてきたのであろう と、 かなり以前から言っておられました。 このヨーガーチャー ラ︵ yogācāra, 瑜伽師︶という言葉にも実は色々問題があり まして、ヨーガーチャーラだから直ちに瑜伽行派と結びつけ てよいのかという疑問も提示されております 。が、とりあえ ず大まかな話として、このドミエヴィル論文が瑜伽行派の前 史を明らかにするための重要な研究の一つであるということ は言っていいだろうと思っております。 さてこの﹃修行道地経﹄という文献は大正蔵経の第一五巻 に入っているのですが、それ以外にも漢文の禅経類あるいは 観経類の多くのものが同じ巻に入っております。ドミエヴィ ルはサンガラクシャの﹃ヨーガーチャーラブーミ﹄を論ずる にあたって 、そういう関連文献を参照しながら論じていま す。つまり、それらの文献をインドのヨーガーチャーラの伝 統を解明するための資料として使っているということになる かと思います。ところが第一五巻に収められている禅観経典 をよく看ていきますと、かなりのものが実は少々怪しい、イ ンド成立とは考え難いということを、月輪賢隆先生が詳しく 論じておられます 。月輪先生の議論は主として言語表現に基 づいていて、到底サンスクリットから訳されたとは思えない 表現が問題の文献にいくつも出てくることを指摘されるので す。この月輪先生の議論には一部疑問の残るところもありま すが、全体的には説得力のある議論だと思います。 そのようなことを考えますと、先程申しましたドミエヴィ ルの研究は、全体としては現在でも重要な研究ですが、一部 修正の余地があるということになります。つまり、彼が使っ ている文献の全てを、インド仏教史を論じるための資料とし て使うことはできないのです。ですからインドにおける瑜伽 行派の前史を明らかにするためには、まず大正蔵経の第一五 巻に入っている禅経・観経を、本当にインド成立と考えてい いものと、そうでないものとに別けないと、瑜伽行派の成立 を論じることはできないということになります。 私は当初留学しても唯識プロパーの勉強を続けようと思っ ていたのですが、留学先の指導教授であるスタンリー・ワイ ンスタイン先生から、もう少し学問の幅を広げたほうがいい というアドヴァイスをいただいたこともありまして、禅経類 を調べ出しました。その中で、インド成立とは考え難い多く のものが、実は中央アジアと関わりを深く持っているのでは ないか、 ということに少しずつ気づいてきたわけであります。 さらに参照すべき重要な先行研究に藤田宏達先生によるも のがあります 。藤田先生はもちろん浄土教の大先生でありま すが、 浄土三部経︵ ﹃無量寿経﹄ 、﹃観無量寿経﹄ 、﹃阿弥陀経﹄ ︶
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 五 を研究される中で 、﹃ 観無量寿経﹄の成立問題を詳しく論じ ておられます。その中で、ご自身では中央アジア成立説と中 国成立説の折衷説だと仰るのですが 、﹃ 観無量寿経﹄のコア になる観法の部分は中央アジアのトゥルファンあたりで成立 した可能性が高いだろうと、言っておられます。私は﹃観仏 三昧海経﹄を詳しく勉強しまして、同じような見解をもって おります。 私の研究スタンスは、第一にインド成立文献とそれ以外の 文献を区別しないと何も始まらないということです。その次 に、関連する先行研究を拝見しますと、禅観経典の多くのも のが中央アジアとの関わりが深いということを言うのに、一 つの手がかりとして﹃出三蔵記集﹄ですとか﹃高僧伝﹄のよ うな史伝類が使われるのです。六観経の訳者として伝えられ る人物の多くに中央アジアと深い関わりがあるという記述が あるので、これらの文献を中央アジアと結びつけていいだろ うという話になるわけです。これはもちろん参考にはなるの ですが 、それに頼りすぎるのは危険だと私は思っています 。 なぜかと申しますと、例えば私が疑経を作文しようと思った としますね。厚木の私の研究室で一生懸命﹃仏説○○経﹄と 言う新しいお経を密かに創作したとします 。私がもしそれ を仏説として弘めようと思ったとしたら、当然﹁このお経は 二〇一〇年に神奈川の厚木で山部能宜が書いた﹂というよう な記録は絶対残さないわけです。そんなことをしたら誰も本 物のお経だと信じませんので、本当の成立事情は隠すはずで す。ですから、歴史的資料に本当の成立事情を窺わせる記録 が残っていると言っていいのかどうか、私はその点、疑問を 感じています 。︵もっとも 、成立事情の伝えられている疑経 もありますが、それらの経典は﹁疑経﹂として大蔵経からは 排除されており、我々が問題としている禅観経典類は成立事 情を隠し得たからこそ﹁真経﹂として大蔵経中に残っている のでしょう︶ 。ですから史伝類にあまり頼りすぎずに 、むし ろ文献自体の中身を、なるべく確実な情報と関連づけていく 必要があります。仮に中央アジア成立と主張したいのであれ ば、 確実に中央アジアにあったことが疑えない、 そういう﹁動 かない点﹂と結びつけていかないと、確実な議論はできない のではないかと私は思っております。 観仏経典は極めて視覚的な内容をもっていますので、その 内容が絵なり彫刻なりの美術資料と関係をもっているのでは ないかということが当然想定されるわけですが、その場合な るべく特定可能な、一般的なものではなく特徴的な美術表現 と結びつけることが必要になります。例えば、 ﹃観経﹄ の中に、 阿弥陀様の非常に巨大なお体を観ていくということが書かれ ています。これについて、巨大な阿弥陀様を観るというのは バーミヤーンの大仏と関係していたのではないか、あるいは
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 六 キジルにもかつて大仏があったので、キジルの大仏と関係し ていたのではないかという、そういう議論がありますが、体 が大きいから大仏と結びつけるというのは、私にはあまり強 い議論とは思えない。それは単なる想像の産物かもしれない ですし、仏様ですから偉大で大きいという、その程度のこと は別に美術資料なしでも言える事です。 もっと特徴的な要素、 他にはあまり見られないような、そういう特異な要素が共通 に見られて、初めて関係しているということが言えるのでは ないかと思います。 ジャン・ナティエという最近まで日本におられた中央アジ ア仏教を専門とする先生が、中央アジアをブラックボックス にしてはいけないということを言われていました。何かわけ のわからない、起源のよくわからない文献があって、インド 成立の根拠がなく 、中国で確実に書かれたとも言えないと 、 そういう怪しげな文献は ﹁ああ、 これは中央アジア成立でしょ う﹂といって中央アジアという﹁ブラックボックス﹂に投げ 込む、そういうことが時々あるように思うのです。私はそう いう議論はしたくないので、なるべく確実な議論をしていき たいと思っています。 私には 、﹃観経﹄研究がいま多少手詰まり状態になってい るのではないかという気がしています。なぜかと言うと、疑 経類の成立を明かすような資料は、先ほど申しましたように そもそも少ない 。﹃ 観経﹄に関しては 、藤田宏達先生をはじ めとして、山田明爾先生 、末木文美士先 生あるいはジョナサ ン ・シルク先生 10 等が既に詳しく調べておられますので 、﹃ 観 経﹄だけを見ていてもこれ以上新しいものが出てくる可能性 はあまりありません 。なおかつ 、﹃ 観経﹄には導入のストー リーがありまして、その部分はインド文献に類似の要素があ るということをシルク先生が明らかにしておられますが、一 番の中心部分である、いわゆる﹁定善十三観﹂と言われる仏 様と浄土を観る部分に関しましては、直接比較可能なサンス クリット文献が今のところ何もないのです。 ですから、 ﹃観経﹄ を﹃観経﹄だけで見ていても、藤田先生のご研究を越えるの はなかなか難しいことだと思うのです。 ところで﹃観仏三昧海経﹄は表現上 ・ 内容上、 ﹃観無量寿経﹄ と非常に近い関係にある。これは月輪先生や藤田先生が既に 気づいておられることです。ここで﹃観無量寿経﹄は浄土三 部経のひとつでありまして、浄土宗や浄土真宗などの所依の 聖典であり今日でも生きた信仰の対象となっている経典です から、多くの人が関心を持って一生懸命調べるわけです。そ の一方﹃観仏三昧海経﹄は歴史的には重要な経典だったので すが、今日﹃海経﹄に基づいている宗派というのは特にあり ませんので、どうしても﹃観経﹄ほどは研究されないという ことがあります。また﹃海経﹄は﹃観経﹄より遥かに長いの
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 七 です。長いということは当然いろんな内容が含まれています から、それがいろんな情報に繋がってくる可能性が、 ﹃観経﹄ の場合よりも大きくなる。ですから﹃海経﹄を中心に研究す ると、何か新しい視野が開けてくるのではないかということ になります。 博士論文の内容を全部ご紹介することは時間的に到底でき ませんので、本日はその中から中央アジアにあったことが確 実な﹁動かない点﹂を二つご紹介したいと思います。一つが ﹃梵文瑜伽書﹄ 。これは既に申しました通り中央アジアから出 てきたサンスクリットの禅経ですから、物理的に中央アジア に存在していたことは間違いないわけです。基本的な写本は ドイツの探検隊が見つけたのですが、フランスのペリオ・コ レクションや、イギリスのヘルンレ・コレクションにも写本 があります。二つ目はトゥルファンのトヨクにある禅観僧の 壁画でございます。この二つに絞ってかいつまんで今日はお 話させていただきたいと思います。 ﹃梵文瑜伽書﹄について 最初は ﹃梵文瑜伽書﹄ でありますが、 ﹃ヨーガレールブッフ﹄ ︵ ︶ と申します。これはドイツ語でありますが、 ﹁ヨーガの教科書﹂という意味です 。なぜサンスクリット文 献をドイツ語で呼ぶのかというと、現在知られている一番大 きい写本はドイツの探検隊がキジルで見つけたものなのです が、それが樺皮の写本で細かく砕けていて、非常に断片的な ものなのです。その破片をディーター・シュリングロフ先生 が一生懸命集めて、かなりの部分を読めるような形にして出 版されました。インドの写本ではタイトルは普通最後に書い てあるのですが、断片的な写本ですからタイトルの書いてあ る部分が残っていないのです。 ですから原題も分かりません。 仕方がないのでシュリングロフ先生は 、﹃ある仏教のヨーガ の教科書﹄ ︵ ︶というタイト ルで出版されました。その後、学界ではそれに因んで﹃ヨー ガレールブッフ﹄と呼ぶのが慣例のようになっています。私 も普段はそのように呼んでおります。 もともとは校訂・ドイツ語訳と写本のファクシミリが別々 に二冊で出版されたのですが、 2 006 年になって二冊を一 冊にして再版されています 11 。この再版には、最初の出版以後 に見つかった写本の校訂も載っておりますので、 現段階で ﹃梵 文瑜伽書﹄を研究するにはこちらを使うべきです。ではこの 文献の写本はどこから出てきたかと言うと、今日知られてい る写本にはいくつかあり、発見地がよく分からない写本もあ りますが、分かっているものはクチャ地域かショルチュクか ら発見されたものです。キジルとドゥルドゥル・アクールと
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 八 ショルチュクというこの 3 つの所から大体見つかっている 。 キジルとドゥルドゥル・アクールはクチャの近くで、キジル 石窟からはル ・ コックが本書の大きな写本を見つけています。 ドゥルドゥル・アクールというのは﹃梵文瑜伽書﹄のペリオ 写本の発見地で 、クチャの近くにあるクムトラ石窟の入口 、 石窟からみて川の下流側にある巨大な寺院遺跡であります 。 この写本はパリの国立図書館に保存されています。それから ショルチュクは、カラシャールという町の近くにある巨大な 寺院遺跡で、トゥルファンとクチャの中間にあります。 さてこの﹃梵文瑜伽書﹄を漢文文献と比較すると似た要素 が多いということを、私の前任校・九州龍谷短期大学の﹃仏 教文化﹄ という雑誌に発表しております 12 。ひとつの例ですが、 ﹃梵文瑜伽書﹄にこんなことが書いてあるのです 。人間の体 は地・水・火・風・空・識の六界でできている。その六界の 考察を促すために、剣を持った牛人があらわれる。彼は牛 を畜して、皮の上で六つの部分をそれぞれ観察する。それ から、観想をしている行者のお臍から剣が現れてきて、行者 自身の体を六つの部分に切り別けて、それを皮の上に並べる のです。行者の体から現れた剣が、さらに一切有情の身を六 界に別け、非情を五界に別けます︵非情には識界がありませ んので五界になります︶ 。それから行者がそれぞれの要素を 手で一つずつ持って吟味する。こっちは地界、これは水界と いうように識界に至るまで、どこを見ても我我所はないとい うことで無我を理解する。最後に六界は厭離の火によって燃 える ︵ 160V1-R1 ︶というようなことが書いてある 。これは 全部禅定の中におけるビジョンです。 自分の体を界 ︵ dhātu ︶に別けて無我を悟るということ自 体は、原始仏典以来ある表現で、牛人が牛を殺して見るよ うに、自分の体を界に分析して我が無いことを理解しなさい という表現は、既に原始仏典に見られますが、それは教理的 な教えを理解するための単なる喩え話なんです。そこがこの ﹃梵文瑜伽書﹄では全部視覚化されて 、ビジョンとして見え るものに変わっているということであります。このイメージ に関しましては、セイフォート・ルエッグ先生が、観想のな かで自分の身体を切り刻む、チベットの﹁チェ﹂という瞑想 法とよく似ているということを指摘されています 13 。 さて一方、上で﹁第二グループ﹂に分類した﹃五門禅経要 用法﹄という漢文にしかない禅経では、観想のなかで自分を 五つに別ける観法が述べられています。五つに分けたならば そこに我が無いと悟り、無我の定門に住する。そうすると燃 える刀が肢体から出てくる ︵大正一五 、 三二六下︶というこ とで、上述の﹃梵文瑜伽書﹄と非常に似たようなイメージが 見られます。 次に灌頂ですね。漢文の禅観経典によりますと、醍醐です
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 九 とか甘露ですとか、そういうものが梵天・帝釈天、あるいは 仏・菩によって行者の頭に注がれる。そうすると頭から体 に染込んで体中に満ち、身心を安らかにするということが書 いてある ︵﹃海経﹄大正一五 、 六六四中 、﹃禅秘要法経﹄大正 一五、 二五一下等︶ 。非常に不思議なイメージだと思うのです が 、﹃梵文瑜伽書﹄では梵天が瓶を持ってエッセンスを降り 掛ける ︵ 148R2-3 ︶、あるいは宝石の流れが頭の中に入って 体を満たして快適にする ︵ 154R3-4 ︶というように 、結構似 たようなイメージが描かれています。地獄の衆生にもエッセ ンスが注がれる ︵ 149R2-3 ︶ ということですが、 これは ﹃海経﹄ ︵大正一五、 六五二上︶ にも類似したイメージが描かれています。 これはかなり特異なイメージで、そうそうどこにでもある イメージではないです 。密教文献にはこういうイメージが 時々見られるようですが、それ以外の文献ではあまり一般的 なイメージではないですね。こういう変わったイメージが両 者に共通に出てくる以上、何らかの関係があったのだと考え ざるを得ないだろうと思っております。 これ︵図版 1 ︶はトゥルファンの近郊のバイシハルという 石窟に残る、ウイグル時代、あるいはひょっとしたらモンゴ ル時代まで下がるとも言われる壁画で、五世紀よりはだいぶ 下がるものですが、ここに仏様が坐っておられますね。ここ に上半身裸の行者が跪いておりまして、後ろに菩が一人立 図版1 灌頂図、バイシハル第三窟、筆者撮影。
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 一〇 ち、 一人跪いています。立っている菩は壷を持っています、 これは明らかに灌頂をしています。つまり、行者が禅観の中 で仏・菩と出会って灌頂を受けているのです。灌頂と言う のは密教では弟子入りの儀式の中、あるいはもっと修行が進 んだ段階で広く行われる儀式ですが、ここではそれを人間の 師匠から受けるのではなく、仏 ・ 菩と禅観の中で出会って、 仏・菩から直接灌頂を受けています。時代が下がるとはい え 、トゥルフ ァ ン に は実際こういうイメージがあったという ことですね。 これは元をただせば、ガンダーラ美術に見られる、梵天と 帝釈天が誕生仏に甘露を注ぐイメージにまでるように思 います 。これは仏伝に由来するイメージで 、御承知の通り 仏生会で誕生仏に甘茶をかける儀式の起源です。禅観経典の 灌頂のシーンには梵天・帝釈天がよく出てくるのですが、梵 天・帝釈天から行者が灌頂を受けるのはもともとこの灌仏の イメージに端を発していて、おそらく行者が禅観の中で、仏 様がされたという体験を追体験していたのではないかと私は 思っています 14 。 もうひとつ特異なイメージとして非常に巨大な木、つまり コスミック・ツリーがビジョンの中に出てまいります。上は 梵天界に届き、 その諸々の華葉の間に声聞比丘が坐っている。 そこにさらに化仏が現れる。そういうイメージが ﹃海経﹄ ︵大 正一五 、 六六三下︶に出てきます 。白玉の樹が三界の頂に至 る︵大正一五、 六五七中︶ 、あるいは竜の頭から生じた樹が無 色界に至る ︵大正一五 、 六六五上︶といったようなことが述 べられています。一方﹃梵文瑜伽書﹄の方では、宝樹が無辺 の世界一杯に立つと述べられています。コスミック ・ ツリー、 あるいは宇宙軸、そういうイメージだと思いますが、その樹 の茂った枝では諸仏が説法をしておられる 。仏様が鳥みた いに木に止まっているのです ︵ 127V2-3 ︶。何を意味してい るかの議論には今回は立ち入りませんが、ともあれ非常に変 わったイメージが両方の文献に共通して出てくることは間違 いのないところです。 これは関係しているのかどうか、ちょっと議論の余地があ るでしょうが、日本の密教図像集の中に﹃覚禅鈔﹄というの があり、そこには木の上に仏様が鳥みたいに止まっている図 があります ︵図版 2 ︶。私はこの図像は禅観経典のイメージ とおそらく関係していただろうと思っています。実は﹃覚禅 鈔﹄自体はこの絵に全然別の説明を与えているのですが、私 はおそらく本来この絵とは無関係だった話が何らかの誤解で 結び付けられたのであって、この絵はもともと先程の禅観経 典に現れたようなイメージを描こうとしていたのではないか と思っております。 ﹃梵文瑜伽書﹄と漢文禅観経典との間の類似点に関して 、
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 一一 今回挙げましたのはごく一部です。他にもいろいろ似たよう な要素がありまして、非常に特異な、偶然の一致とは思えな いようなイメージを種々共有しているのです。ところが﹃梵 文瑜伽書﹄は漢訳されておりません。ですから漢訳仏典を通 じてこういうイメージを中国人が学んだということはあり得 ません。 一方、今日は本格的な文献学的議論をするための資料は準 備していないのですが、月輪先生をはじめとする諸先生方が 言われているように 、﹃海経﹄他の禅観経典の多くはおそら く疑経です。漢文で書かれたもので、サンスクリットの原典 を訳したものではありません。つまり中国人が書いたわけで す 。ですが漢文資料だけに基づいて 、﹃海経﹄や ﹃五門禅経 要用法﹄のような文献は創作し得ないと思います。おそらく はトゥルファンあたりにいた中国系の仏教者たちが西域の仏 教者と交流して 、その中で口頭伝承を通して ﹃梵文瑜伽書﹄ が伝えるような西方の観法を学び、その結果このような文献 が形成されたのではでないかと思っています。 一方、これら禅観経典相互を比較しますと、個々のイメー ジは結構似ているのですが、それらが同じ文脈に現れるかと いうと必ずしもそうではないのです。話の流れは全然別なん だけれども、非常に似たイメージがあちらこちらに出てくる という、そういう感じなんですね。この点にご注意下さい。 トヨクの禅観僧の壁画について 次にトヨク石窟にまいります。トヨク石窟に関しては須藤 図版2『覚禅抄』「五十二身像」 大正蔵経図像部四、図版三六
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 一二 弘敏先生 15 と宮治昭先生 16 のご研究、他に中国の 先生方のご研究 17 もあり ますが、このあたりが 先行研究として重要で す。また私自身もこの ようなものを出してお ります 18 。 さてトヨクですが、 トゥルファンの火焔山 のあちこちに峡谷があ り、谷川に添って石窟 が点在していて、トヨ クはそのような石窟寺 院の一つです。谷の東 側と西側にそれぞれ石 窟があり、東側の石窟 はこんなふうになって おります 。これは山上から撮ったものです ︵図版 3 ︶。その 中で特に重要なのが第四二窟でありまして 、これ ︵図版 4 ︶ はドイツのグリュンヴェーデルが描いた見取り図ですが、こ の右側の﹁ 4 ﹂の部分が現在の編号では第四二窟と言われて います。この窟には小さな脇部屋が付いてまして、おそらく この中に坐禅僧が一人ずつ入って坐禅したのではないかと思 われます。これ︵図版 5 ︶は宮治先生が昔撮られた写真です が、なぜこれを使わせていただいたかというと、現在は壁画 図版3 トヨク東岸の石窟。筆者撮影。 図版4 トヨク第四〇、四一、四二窟平面図。
Albert Grünwedel, Altbuddhistsche Kultstätten in Chinesisch-Turkistan, Berlin: Georg Reimer, 1912, p.327, fi g.658.
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 一三 の保護のためにガラス板が張ってありましてきれいな写真が 撮りにくいのです。またこのあたりは非常に地震が多いとこ ろで、天井が崩れそうになっているので現在では鉄柱で頂部 を支えており、その点からも全景の撮影が難しい状況になっ ています。 さて、この窟は構造そのものがいかにも坐禅をしそうな場 所なのですが 、左右の壁に禅観僧が坐禅をしている絵がズ ラーッと並んでおり、それぞれ何かを観ています。左壁︵図 版 6 ︶では、例えば家が燃えているのをお坊さんが観ていた り ︵図版 6 上段左端︶ 、楽器を観ているお坊さんがいたりし ます ︵図版 6 上段左から 2 番目と右端︶ 。また別の坐禅僧の 前に鬼が二匹踊っておりまして、その上から大きな火が出て います ︵図版 6 下段右端︶ 。その左側では 、宝珠から火が出 ているのを二人の坐禅僧たちが観ています︵図版 7 ︶。 で先ほどの悪鬼 ︵図版 6 ︶ についてですが 、木の下に坐 禅僧が坐っておりまして 、悪鬼が二人 、手をふり上げてお 坊さんを威嚇している感じで 、大きな炎がのぼっておりま す 。これに関しましては ﹃観仏三昧海経﹄等々に 、 薬 伹 が いて 、利剣を持ち火を吸うとか ︵﹃海経﹄ 、大正一五 、 六五七 下︶ 、鳩槃荼が山のような火を吐くとか ︵﹃ 禅秘要法経﹄ 、大 正一五、 二四九中︶ 、さっきの絵の説明になりそうな記述がい くつも出てまいります 。ここで注目していただきたいのは 、 図版5 トヨク第四二窟内部。 宮治昭「トゥルファン・トヨク石窟の禅観窟壁画について―浄土図・浄土観想図・不 浄観想図̶」(上)『仏教芸術』二二一、一九九五年、口絵一五。
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶
一四
図版6 トヨク第四二窟左壁右側。筆者撮影。
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 一五 関係するイメージは ﹃海経﹄以外では先程 ﹁第二グループ﹂ としてあげた方の禅経、 ﹃禅秘要法経﹄ ﹃治禅病秘要法﹄など に出てくるということです。つまり﹁第一グループ﹂にはあ まりそのようなイメージが出てきません。 またこれは天台で魔境と言うものと同じような体験だと思 うのですが 、坐禅しているなかで時として不安心理に陥っ て恐ろしいものが見えることがあるようで 、﹃治禅病秘要 法﹄によりますと、そういう魔物が現れたら﹁俺はお前の正 体を知っているんだ 。お前はこれこれの 、こういう魔物だ ろう﹂と言ってやれば 、正体を見抜かれた悪鬼は匍 匐 して 去っていく、逃げ出すということが書かれてあります︵大正 一五、 三四一上中︶ 。そういう体験を絵にしているのではない かと思います。 次に火珠、火を出している宝珠︵図版 7 ︶ですが、禅定の なかで火を出している宝珠が見えることがあちこちに書いて あります。火珠のイメージ自体はそんなに特殊なイメージで なく、仏教ではよくあるものですが、禅観の対象としてはあ まり一般的なものではありません 。例えば禅観のなかで腐 敗していく死体を見るというのは 、原始仏典以来よくある イメージですが 、禅観の対象としてことさらに火珠を見る というのはあまりないように思います 。それが今回取り上 げる禅観経典にはよく出てくる ︵﹃海経﹄大正一五 、 六六六 中 、﹃禅秘要法経﹄大正一五 、 二六二下 、﹃治禅病秘要法﹄大 正一五 、 三三三下等︶ので 、それらがこれらの絵と関係して いるのではないかということです。 それから燃えている家 、火宅です ︵図版 6 ︶。火宅といえ ば火宅三車かということで 、﹃ 法華経﹄がまず連想されるわ けですが 、この石窟を見ますと 、これ以外に特に ﹃ 法華経﹄ と結びつきそうなイメージはないように思います。 ですから、 これは﹃法華経﹄からもってきたというよりは、何か別の説 明を探した方がよさそうです。そうしますと、たとえば﹃禅 秘要法経﹄には、心臓から微細な火が出てきて、それが体中 に満ちて、毛穴から出ていき、だんだん広がって一床に遍満 し 、一床が満ちたら部屋いっぱいになり 、部屋に満ちたら 段々大きくなって庭を満たすとあります ︵大正一五 、 二六六 上︶ 。要するに家が燃えるということなのでしょう 。﹃五門 禅経要用法﹄では ﹁挙台然尽す﹂という 、この台は楼閣の 意味だと思いますが 、その全体が燃えてしまいます ︵大正 一五、 三三一中︶ 。また﹃海経﹄では宝楼が燃えることが説か れており︵大正一五、 六六六上︶ 、類似のイメージが禅観経典 の中によく出てきます。この絵はそのあたりと関連づけるべ きではないかと思っております。 このように何らかの対象を観ている禅観僧が整列して並ん でいるわけですが、左壁の内容をまとめるとこういうことに
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 一六 なります︵表 1 、横線が入っているのは剥落して現存しない 部分︶ 。 このように並べられた観想の図像は 、坐禅のマニュアル 、 禅観経典のようなものを 想起させると、須藤先生 が既に言われています 19 。 このような禅観経典のな か で 特 に 有 名 な も の は ﹃観無量寿経﹄でありま すが、そこでは第一番目 に ﹁日想観﹂ 、それから ﹁水想観﹂ 、そして﹁宝樹 観﹂ 、﹁宝池観﹂と進んで いく。このようにまずこ れを見て、次にこれを見 てというように、マニュ アル化された禅観の流れ がこれらの図像の背後に あるという印象を与える のです。実はこういう禅 観僧がずらっと並んでい るというのは、キジルに はないんです。トゥルファンに特徴的なものであって、この 壁画が禅観経典と密接に関わっていた可能性はかなり高いの ではないかと考えています 20 。 一方、右壁の壁画の内容はこのようになっています︵図版 8 、図版 9 、 表 2 ︶。 本当は個々の図像を一々議論しないといけないのですが 、 左右両壁ともかなりの部分が何らかの禅観経典と結び付けら れます。禅観経典とこれらのイメージが非常に密接に関わっ ていた可能性は高いのではないかと私は思っています。ただ し、 ここも全体の配列については、 先ほど申しあげたように、 何らか禅観経典のような、まず花を見て、それからお椀を見 て、 楼閣を見てといった感じで、 連続的な観想法を示すマニュ アルがあったような印象を与えるのですが、この配列の全体 を説明できる文献はどこにもありません。少なくとも現存文 献の中にはありません。 繰り返しになりますが、トヨク第四二窟の壁画に関しまし て、 禅観僧がこういうふうにずらっと並んでいるのは、 マニュ アル化された禅観の流れを想起させますし、さらに個々の要 素も禅観経典の内容とよく合います 。しかし全体の配列は 、 我々が知っている現存のいかなる禅観経典とも合わないので す。 さて、トヨクには谷の西側にも石窟があるのですが、西は Ⅰ . 7 火珠 Ⅰ . 6 火珠 Ⅰ . 5 華 Ⅰ . 4 火宅 Ⅰ . 3 楽器 Ⅰ . 2 八 功 徳水 ? Ⅰ . 1 楽器, 蓮華 − − − − − − Ⅱ . 1 悪鬼 − − − − − − − − − − − − − 飛天, 火珠 表1
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶
一七
図版8 トヨク第四二窟右壁左側。筆者撮影。
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 一八 非常に大規模な工事が されたことがわかりま す ︵図版 10︶。入り口 の坂を登ると、上に大 規模な石窟寺院が整然 と配置されています 。 これ︵図版 11︶はスタ インの平面図でありま す。真ん中に大きな第 一二窟という中心柱窟 がありますが、今回問 題にするのは第二〇窟 で、中心柱窟に向かっ て右側にある小さな窟 です。 これ︵図版 12︶が第 一二窟で、現在では破 壊されていますが、中 心柱の前面に本尊様が あったわけです。中心 柱の周りを回れるよう になっていて、手前の 部分には屋根が あったはずなの ですが、崩落し てしまって手前 側には壁画は何 も残っていませ ん。ですが中心 柱の裏に回りま すとこのように 美しい壁画が今 日でも保存され ていて見ること ができます︵図 版 13︶。ここは 明らかに法要 ・ 儀式で使った場 所でしょう。 一方、第一二 窟の両側には逆 に全然飾り気のない白壁の部屋が並んでいます。お坊さんが 修行等の実用的な目的に使った場所であったろうと考えられ ます。ひとつの窟に﹁日本国大谷探検隊﹂という落書きが残 − − − − − − − − Ⅱ . 1 華坐 Ⅱ . 2 椀,布 Ⅱ . 3 楼閣 Ⅱ . 4 蓮華, 鏡 ? Ⅱ . 5 壺中の 華 Ⅱ . 6 華中の 火珠 Ⅱ . 7 光背 Ⅱ . 8 華中の 人 Ⅲ . 1 悪鬼 − Ⅲ . 3 悪鬼 ? Ⅲ . 4 人 Ⅲ . 5 人 ? Ⅳ . 1 菩薩 ? 山 表2 図版10 トヨク西岸の石窟。筆者撮影。
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶
一九
図版12 トヨク第一二窟中心柱前面。筆者撮影。 図版11 トヨク西岸の石窟平面図。 Aurel Stein, Innermost Asia, repr.
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 二〇 されています。問題の第二〇窟は右側にあり、かなり傷んで はいますが壁画が残っています ︵図版 14︶。 奥室は崩れ 、礫 に埋もれていて中には入れません。 入れるのは主室だけです。 左壁は残念ながら二〇〇〇年に盗掘がありまして、誰かが 壁画を切ろうとしたため 、現在ではこういう感じ ︵図版 15︶ になってしまっているのですが、勿体無いことをしてくれた ものです。ですから元のきれいな状態は、残念ながら今日で は見ることができません 。さらに上段も切り取られていて 、 これはおそらく一〇〇年程前にヨーロッパの探検隊のどこか が切ったものと思われますが、切り取られた壁画が現在どこ にあるかは不明です。さてこの壁画 ︵図版 15︶ の左上の方 ︵ T 字型の切れ目の左下の部分︶を見て頂きますと、ここでも禅 観僧が例によって何か観ています 。これは木でありまして 、 ここに大きな炎が出ている。ここも残念ながら今切られてし まっているのですが、元は題記がありまして、宮治先生の御 報告によれば ﹁ [ 行 ] 者觀 + 寶樹上七重網一一網間有⋮ ﹂と書 いてあったということです 21 。これは宮治先生もご指摘の通り、 明らかに﹃観経﹄の﹁一一の樹上に七重の網あり、一一の網 の間に五百億の妙華宮殿あり﹂ ︵大正一二 、 三 四二中︶と関 係しています。つまり﹁宝樹観﹂に対応するということであ ります。絵自体も、このたすき掛けの物がひょっとしたら網 かもしれませんし、宮殿は見当たりませんが、きれいな花が 図版13 トヨク第一二窟後廊頂部。筆者撮影。
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶
二一
図版14 トヨク第二〇窟正壁。筆者撮影。
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 二二 咲いていますので、お経の記述と比較的近いということが言 えます 。ただ問題は木の上に大きな炎が見えることですね 。 木が燃えると言う表現は﹃観経﹄にはありませんし、ちょっ と極楽浄土の表現として似つかわしくないのではないかと思 います。 実は木が燃えるという記述は﹃観経﹄自体にはありません が、それ以外の﹃海経﹄ ︵大正一五、 六六六上︶や、例の﹁第 二グループ﹂の禅経には木が燃えるという表現がいっぱいあ るのです ︵﹃禅秘要法経﹄大正一五 、 二五四中 、 他多数︶ 。そ ういったことを考え合わせますと、 この壁画は ﹃観経﹄ が ﹃ 観 経﹄という独立したお経として扱われてなくて、これら関係 する禅観経典と渾然一体のものとして伝承されていた、そう いう時代の産物だったのではないかと私は思うのです。 次に下段 ︵ T 字型の切れ目のすぐ下︶ を見て頂くと、 赤ちゃ んが蓮の花から出てきて、蓮の花の上に座っている図があり ます 。これにも題記がありまして 、﹁ 行者當起自心生於西方 極樂世界於蓮花﹂ とあります。これはおそらく ﹃観経﹄ の ﹁ 普 観﹂で 、﹁ 当に想を起し心を作して自ら西方極楽世界に生ず るを見るべし.蓮華の中に於て結跏趺坐して、蓮華の合する 想を作し、蓮華の開く想を作す﹂ ︵大正一二、 三四四中︶とあ るのと対応します。つまり、自分自身が極楽浄土に生まれ変 わるところを観る訳です。この絵についてはお経の記述とだ いたい合っています。 ですからトヨク第二〇窟の壁画は基本的に﹃観経﹄と関わ りが深い、ただし﹃観経﹄では壁画の内容の全てを説明でき ないということであります 。﹃観経﹄の構造というのはいわ ゆる﹁定善﹂ ﹁散善﹂ですね。定善が一三観で、 ﹁日想観﹂ 、﹁ 水 想観﹂に始まり、 ﹁普観﹂ 、﹁雑想観﹂に終わる。その後に﹁九 品往生﹂と言うのがあって、 ﹁上輩観﹂ 、﹁中輩観﹂ 、﹁下輩観﹂ と続き、これが散善とされています。ご承知のとおり、敦煌 には﹁観経変相﹂と呼ばれる﹃観経﹄に基づいて描かれた絵 が多く残っておりますが 、敦煌における初期の観経変相は 、 ﹃観経﹄の記述ときれいに合うのです 。非常にお経の叙述に 忠実に描かれています。 ところが 、トヨク第二〇窟では大きく事情が異なります 。 この石窟の左壁の壁画の配置を図式化すると、表 3 のように なります。 さきほど燃える木 ︵ Ⅱ .5︶のお話をしましたが 、この絵 はおそらく﹃観経﹄の﹁宝樹観﹂と対応しており、碁盤状の 地面 ︵ Ⅱ .4 ︶がありますが 、これは ﹃観経﹄の ﹁水想観﹂ と対応している、といったことがこの表の意味です。 ﹃観経﹄ の項目の左につけました数字は 、十三観の枠組みのなかで 当該イメージが何番目に挙げられているかを示すものです が、これをみますと壁画の配列が非常に無秩序であるという
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 二三 ことが一目瞭然お分かりいただけると思います。壁画の順序 と経典における観法の順序とは全く一致しないのです。さら には同じ観法に対応する絵が複数回出てきたりします。特に ﹁4 .宝樹観﹂というのが三回出てきますね ︵ Ⅱ .3、 Ⅱ .5、 Ⅲ .3 ︶。ということで 、とにかく順番が乱れているばかり か、同じ要素に対応すると思われる絵がいくつも繰り返し現 れる、非常に混乱した配置になっていることが解ります。 これら第二〇窟の壁画をまとめますと、個々の要素はおそ らく﹃観経﹄と関わりが深いもので、題記もそのことを示唆 します。 ただし木の上に燃えている大きな火のように、 ﹃観経﹄ では十分説明できず、むしろ他の禅観経典の影響が窺われる ものがあります。さらに全体の配列は極めて混乱しておりま して 、﹃ 観経﹄のシステムと全く合いません 。そういったこ とから何が言えるかということですが、 おそらく敦煌では ﹃観 無量寿経﹄が 、お経として完成し 、既に ﹃ 仏説観無量寿経﹄ として権威の確立した聖典として受け入れられた。それを読 み、それを学んで、そして絵を描いた。だからお経に忠実に 従って図像が描かれている 22 。ところがトヨクの場合まだそう いう伝承が固まってなかったのではないか 。﹃観経﹄からの 乖離の度合いが敦煌と比べてあまりにも大きい。 なおかつ ﹃観 経﹄と﹃海経﹄その他の禅観経典がはっきり区別されて意識 されていない。禅観経典全体が渾然一体のものとして捉えら れる、いわばごちゃ混ぜの、ごった煮のような状況だったよ うです。 No. Ⅱ. 5 Ⅱ. 4 Ⅱ. 3 Ⅱ. 2 Ⅱ. 1 壁画の 内容 燃える 木(題 記) 碁盤状 の地 池中の 燃える 木 池中の 花 樓閣, 樂器 観経の 対応箇 所 4. 寶樹 觀 2. 水想 觀 4. 宝樹 観(?) 5. 寶池 觀(?) 3. 寶地 觀 or 6. 寶樓 觀 No. − Ⅲ. 4 Ⅲ. 3 Ⅲ. 2 Ⅲ. 1 壁画の 内容 − 蓮華中 の童子 (題記) 華樹, 花 (題 記) 花,布 (題記) 木,水 流 観経の 対応箇 所 − 12. 普觀 4. 寶樹 觀 7. 華坐觀 5. 寶池 觀 表3
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 二四 つまりトヨク︵トゥルファン︶においては禅観経典の伝承 というのが、まだ固定化されていなかったのではないかと思 われます。さらに禅観経典と壁画は、個々の要素は対応する わけですが、 全体的構成は対応せず、 なおかつ﹃梵文瑜伽書﹄ のところで申し上げました通り、禅観経典相互でも、個々の 要素はよく似ていても、現れる順番は全然バラバラと言うこ とがあります。 ここから先は必ずしもご賛同いただけないかもしれません が、私の仮説は以下の通りです。普通壁画に関して美術史的 な研究をするときには、この絵はこの経典に基づいているだ ろう、あるいはこの話を描いているだろうと、典拠になる文 献を一生懸命探してきてそれで説明するというのが普通の手 続きだと思います。ですが、少なくともトヨクの禅観僧壁画 の場合は、壁画が何か特定の文献に基づいているというので はなかったのではないか。もちろん現在残っている文献が全 てではないですから、現存していない文献の中にきちっと合 うものがあった可能性はありますが、それにしてもトヨクの 第二〇窟の場合 ﹃観経﹄ と関係しているのは明らかですので、 現存しない全然別の文献に基づいていたということも考えに くい。むしろ私は、壁画と文献が共通の口頭伝承の別の側面 を伝えていると考えた方が真実に近いのではないかと思って います。 口頭伝承というのは、模式図的に図示すればこういう感じ になると思います︵図 1 ︶。 坐禅をされるとよくお分かりだと思いますし 、私も先ほ どのご紹介にありましたよ うに多少坐禅をいたします が、僧堂に﹁坐禅をしたい のですが﹂と参りますと 、 お 師 家 が ﹁ よ し よ し 、 よ く来た。ここにテキストが あるからこれを読んで勉強 しなさい﹂と言われること はまずありません。そうで はなくて、しかるべき方が 手取り足取り口頭で指導し て下さるのが普通だと思い ます。つまり、口頭伝承の 世界になるわけです。この 場合、例えば曹洞宗の僧堂 ではどこにいっても基本的 には同じことをしています が、同じ曹洞宗でも永平寺 と総持寺ではいろいろやり
Ⅰ
Ⅱ
Ⅰ
図1中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 二五 方が違ったりしますよね。さらに細かく見ると個々の僧堂で 家風というか、ちょっとずつやり方が違ってきます。口頭伝 承というのは伝言ゲームですから、やっている間にちょっと ずつずれて行くことは当然あるわけです。生きた口頭伝承の 世界においては当然バリエーションがでてくる。しかし、同 じ曹洞宗ですから、大枠としては同じ伝承に従っているとい うのもまた事実です。 これと多少似たような状況が、中央アジアにも存在したの ではないでしょうか。中央アジアの禅観においては、そこに おけるレパートリーというか個々の観想上のイメージは大体 共有されていたように思います︵図 1 に おける A 、B 、C 、D 、 E が それを指します︶ 。それでも 、同じ材料を並べて 、例え ば人参とジャガ芋と玉葱と牛肉とで何か作りなさいと言っ たって、カレーもできますしシチューもできます。同じ材料 を使って違った料理をいろいろ作れるわけです。そういう状 況が中央アジアにはあったように思います。大きな流れとし ては共通しているのだけれど、師匠が違うとちょっとずつ観 想の組み立て方、並べ方が違う。そのように同じ大きな流れ の中で構成の異なる観想法の、あるバージョンがたまたま壁 画 Ⅰ として記録され、別のバージョンが文献 Ⅰ 、文献 Ⅱ と し て記録された。だから個々の要素はよく似ていても、文脈は 全然違う、あるいは壁画の並べ方も全然違うと、こういうこ とになるのではないかと私は思っております。 全体の結論ですが 、﹃観仏三昧海経﹄は 、表現 ・内容から 見てインド原典を翻訳した経典ではない可能性が高い。これ はおそらく月輪先生が言われる通りだと思います 。﹃海経﹄ 、 およびそれと近い関係にある ﹁第二グループ﹂の禅経類は 、 キジル等から発見された未漢訳の﹃梵文瑜伽書﹄と多くの共 通点を持っております。またトヨク石窟の禅観僧壁画は、こ れらの禅観経典に述べられる行法が、実際にこの地方で行わ れていたことを強く示唆するでしょう。トヨクの壁画と敦煌 の壁画とは、雰囲気も中身も全然違い、敦煌の場合は明らか に出来上がった経典を前提にして描いてありますけれども 、 トヨクはそうではない。なおかつトヨクのあの無秩序な壁画 が、 敦煌の壁画の影響下に成立したとはとても考えられない。 これは宮治先生も同意見です 23 。逆であって、むしろトヨクの 方がどちらかというと先行していたと思われます。 禅観に関する口頭伝承がトゥルファンにあったということ は 、禅観経典に述べられているような禅観の伝統がトゥル ファンでは生きており、実際にそのような修行が行われてい た可能性が高いということになります。口頭伝承が先にあっ て、それを記録して文献なり壁画なりができたと考えるなら ば、文献の淵源もあの辺りにあった可能性が高いということ になるのではないでしょうか。長い研究のごく一部を駆け足
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 二六 でご紹介いたしましたので、ちょっと納得できないという部 分もいろいろおありかと思います。ご質問があれば承りたい と思います。どうも有難うございました。 ︵拍手︶ 質問 非常勤講師の池田道浩と申します。大変興味深くお話 を聞かせていただきました。今日の話に無かったことを二つ お伺いいたします 。先生が仰った中央アジアの修行の中で 様々なビジョンを見るというお話ですが、これは大乗仏教か 小乗仏教かという観点を無理やり当てはめると、大前提とし て行者の方々は自分は大乗仏教徒であると思っていたのか 、 大乗と小乗の関係という観点を少しお聞かせいただきたいと いうことと、最後に先生が仰った作業仮説の口頭伝承という のがございましたが、 その口頭伝承のルーツというのは何か、 お考えがございましたらお聞かせいただければと思います。 回答 大乗と小乗︵部派仏教︶の問題につきまして今日は全 然触れませんでしたが 、ご指摘の通り大きな問題でありま す。実は東方学会が出している雑誌の で、まさ にその問題について最近論じさせていただいたのですが 24 、結 論的には、六観経というのは基本的に大乗仏典のフォーマッ トになっています。ですからこれは全部大乗仏教ということ になります。その次の禅経に関してはものによりけりで、一 概には言えないところがあります 。﹃達摩多羅禅経﹄などは 先ほど申しましたように基本的に有部系の文献だと思われま す 。﹃梵文瑜伽書﹄は微妙なんですね 。基本的には有部系だ と考えられていますが、 論文で申しました様に、 実践の世界において、私は大乗と部派仏教の間のボーダーと 言うのは非常にファジーだったのではないかと思っておりま す。例えば﹃梵文瑜伽書﹄の中に強い菩思想が出てくるの です。菩思想というのは本を糾せば﹃ジャータカ﹄等の仏 伝でしょうから、菩思想が必ずしも部派仏教にないとは言 えませんが、とにかくほとんど大乗仏典かと思うほど、苦し んでいる衆生を捨てて行者が自分一人涅槃に入ってはいけな いとか、そんなことが書いてあるんですね。理論の世界では 当然大乗と部派仏教ではいろいろ違うでしょうが 、実践者 の世界では垣根が案外低かったのではないかと思っておりま す。 あと、 で申し上げましたことは﹁観仏﹂の方 法ですね 。今日は観仏の具体的なやり方のご説明はできな かったのですが、関係する文献によりますと、まず仏像を観 て仏像のイメージを心に焼き付けて、それから自分の部屋に 戻り 、それを思い起こしながらいろいろ観想するようです 。 この基本構造は原始仏典以来見られる不浄観の構造とほぼ一 致します。 不浄観というのはご承知のとおり、 まず墓場に行っ
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 二七 て腐敗しつつある死体を観て、そのイメージを心に焼き付け てから自分の部屋に戻って、後は実際に目の前には死体が無 いところでも、ありありと死体が見えるようになるまで修行 する。 ﹃観無量寿経﹄の﹁日想観﹂ですと、 落日、 夕日を観て、 それが見えるようになったら次は、実際太陽を見なくても同 じように太陽が見えるようにする。すべて基本構造は共通な のです。ですから大乗の行法と伝統的な部派仏教、あるいは 原始仏典以来の行法というのは、基本構造が非常に似ており まして、それほど大きく違わないと私は思っております。 その次もう一点、口頭伝承の淵源はどこかということです が、やはり仏教ですから、もとはインドだろうと思っており ます 。今回お見せしましたように 、いろいろ摩訶不思議な 、 教理を無理やりビジュアル化したようなイメージが出てくる わけですが、これは密教化がちょっと進行しつつあったとい うことではないかと思います。この点に関しましては、先ほ どセイフォート・ルエッグ先生の指摘をちょっとご紹介しま したが、チベットにも似たようなイメージがあるということ を考慮する必要があります。チベットが中央アジアの一部を 支配していた時期は別として、それ以前にはチベットと新彊 の間にそれほど直接の交流はなかったでしょうし、また、そ もそも中国に当該禅観経典が現れる五世紀はチベットへの本 格的な仏教導入よりも早いですから、両方に共通するイメー ジがあるということは、もとはインドにあって、それが別々 なルートでチベットと新彊にそれぞれ伝えられた可能性が高 いのではないかと思うのです。ですからインドで行われてい た、やや密教化した瞑想のイメージが中央アジアに伝えられ て、それが今の口頭伝承のルーツになったと一応私は思って おります。 司会 もっと質問を受け付けたいのですが、時間も過ぎてき ましたので、司会の判断でこれで先生の発表を終わらせてい ただきます。 どうも山部先生ありがとうございました。 ︵拍手︶ 註 ︵1 ︶ Nobuyoshi Yamabe, Ph.D. Dissertation (Yale
University), Ann Arbor: UMI, 1999.
︵2 ︶ Nobuyoshi Yamabe and Fumihiko Sueki, trans., Berkeley: Numata
Center for Buddhist Translation and Research, 2009.
︵3 ︶ 松濤誠廉﹁瑜伽行派の祖としての馬鳴﹂ ﹃馬鳴 端正なる難 陀﹄山喜房仏書林、一九八〇年。
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 二八 ︵4 ︶ Paul Demiéville, La de San . gharaks . a, ’ ’ 44(2), 1954. ︵5 ︶ Jonathan A. Silk, The in ed. Jonathan
A. Silk, Honolulu: University of Hawai
‘ i Press. ︵6 ︶ 月輪賢隆﹃仏典の批判的研究﹄百華苑、一九七一年。 ︵7 ︶ 最近の成果として、 藤田宏達 ﹃浄土三部経の研究﹄ 岩波書店、 二〇〇七年がある。 ︵8 ︶ 山田明爾 ﹁観経攷︱無量寿仏と阿弥陀仏 ︱ ﹂﹃龍谷大学論集﹄ 四〇八、 一九七六年。 ︵9 ︶ 末木文美士 ﹁﹃観無量寿経﹄研究﹂ ﹃東洋文化研究所紀要﹄ 一〇一 、一九八六年 、末木文美士 、梶山雄一 ﹃浄土仏教の思想 二 観無量寿経 般舟三昧経﹄講談社、一九九二年。 ︵ 10︶ Jonathan A. Silk, The Composition of the : Some Buddhist and Jaina Parallels to Its Narrative Frame, 25, 1997. ︵ 11︶ Dieter Schlingloff, Jens-Uwe Hartmann, Hermann-Josef Röllicke (Hg.), München: IUDICIUM, 2006. ︵ 12︶
Nobuyoshi Yamabe, The Signifi
cance of the for the Investigation into the Origin of Chinese Meditation Texts, ﹃佛教文化﹄ 9, 1999. ︵ 13︶ D. Seyfort Ruegg, On a Yoga Treatise in Sanskrit from Qïzïl, 87(2): 162, 196 7. ︵ 14︶ Nobuyoshi Yamabe, Visionary Consecration: A Meditative Reenactment of the Buddha ’ s Birth, in eds. Cristoph Cueppers, Max Deeg, and Hubert Durt, Lumbini: Lumbini International Research Institute, 2010. ︵ 15︶ 須藤弘敏 ﹁禅定比丘図像と敦煌第二八五窟﹂ ﹃仏教芸術﹄ 一八三、 一九八九年。 ︵ 16︶ 宮 治 昭 ﹁ ト ゥ ル フ ァ ン ・ ト ヨ ク 石 窟 の 禅 観 窟 壁 画 に つ い て ︱ 浄 土 図 ・ 浄 土 観 想 図 ・ 不 浄 観 想 図 ︱ ﹂︵ 上 ︶︵ 中 ︶ ︵下︶ ﹃ 仏教芸術﹄二二一 、 一九九五年 、 二二三 、 一九九五年 、 二二六 、一九九六年 。また 、宮治昭著 、 贺 小萍 译 ﹃吐峪 啜 石窟 壁 画与禅观 ﹄上海古籍出版社、 二〇〇九年も参照されたい。 ︵ 17︶ 比較的近年の重要なものとして、 例えば 贾应 逸、 小山﹃印 度到中国新疆的佛教 艺术 ﹄ 甘 肃 教育出版社、 二〇〇二年がある。 ︵ 18︶ Nobuyoshi Yamabe, An Examination of the Mural Paintings of Toyok Cave 20 in Conjunction with the Origin of the 30(4), 1999; Practice of Visualization and the An
中央アジアにおける禅観の実践について︵山部︶ 二九 Examination of Mural Paintings at Toyok, Turfan, , 3rd ser., 4, 2002; An Examination of the Mural Paintings of Visualizing Monks at Toyok Cave 42: In Conjunction with the Origin of Some Chinese Texts on Meditation, in ed. Desmond Durkin-Meisterernst, et al., Berlin: Dietrich Reimer, 2004. ︵ 19︶ 須藤弘敏 ﹁禅定比丘図像と敦煌第二八五窟﹂ ﹃仏教芸術﹄ 一八三、 一九八九年、一九頁。 ︵ 20︶ ただし 、アフガニスタンのタパ ・エ ・ショトール石窟側 壁に存在した禅観僧壁画は検討の必要がある 。この件に関し ては 、第一六回国際仏教学会大会 ︵ 二〇一一年六月二〇日∼ 二五日 、金山 [ 台湾 ] ︶における Eric M. Greene 氏の発表 Death in a Cave: the Meditation Cave at Tapa-é-shotor より示唆を 受けた 。未公刊論文に言及することを許された Greene 氏に謝 意を表したい 。また 、 クチャ近郊のスバシ石窟中の坐禅僧壁 画にも注意すべきであろう。 ︵ 21︶ 宮治昭 ﹁トゥルファン ・トヨク石窟の禅観窟壁画につい て ︱ 浄土図 ・浄土観想図 ・不浄観想図 ︱ ﹂︵中︶ ﹃仏教芸術﹄ 二二三、 一九九五年、二四頁。 ︵ 22︶ ただし 、敦煌でも時代が下がると再び観経変相は ﹃観経﹄ の内容から乖離していく 。このことに関しては 、 Nobuyoshi Yamabe, Transformation Tableaux Based on the : Their Deviations from the Text, 1, 2008 参照。 ︵ 23︶ 宮治昭 ﹁トゥルファン ・トヨク石窟の禅観窟壁画につい て ︱ 浄土図 ・浄土観想図 ・不浄観想図 ︱ ﹂︵下︶ ﹃仏教芸術﹄ 二二六、 一九九六年、七六頁。 ︵ 24︶ Nobuyoshi Yamabe, The Paths of 㵼 rāvakas and
Bodhisattvas in Meditative Practices, 96, 2009.
*本稿中に用いた筆者撮影の写真は 、数次にわたる現地調査 ︵一九九六年 、二〇〇四年 、二〇〇五年︶の際に 、トゥルファン 地区文物局の許可のもと撮影したものである 。調査へのご協力を 頂いた柳洪亮前局長 ︵故人︶および李肖現局長に感謝申し上げた い。