親の学校当事者性に関する研究
一一江戸川学園訴訟最高裁判決(平成
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年
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日)をめぐって一一
小 島 弘 道
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.本研究の目的と意義
本研究は,生徒の保護者たちが学校法人江戸川学園取手中学校・高等学校 (r江戸取J)を相手取って教育債務履行等を請求した事案をめぐって,高裁判 決を麗し原告の全面敗訴を命じた最高裁判決(
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が示した判断につ いて,東京地裁判決(
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,原告敗訴)と東京高裁判決(
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,原 告逆転一部勝訴)を踏まえ,在学契約における親の学校当事者性,契約事項に おける教育内容(教育理念,教育方針,教育課程など)の位置,親の学校選択 とその及ぶ範囲,そして親の教育の自由は教育内容に対していかなる意思を表 明・行使しうる権利であるのかという観点から考察することを目的とする。こ れらはいずれも,教育法学,教育学,学校経営学,教育行政学などの研究分野 において論争的テーマとなっているものである。 江戸取の教育は論語に依拠した独自の道徳教育をしていることで特色を持ち, それが江戸取の魅力となり生徒・保護者に江戸取を選択させる強い動機となっ ていた。江戸取訴訟とは,この江戸取の教育を強力に推進していた校長を解任 し,その後 r論語に依拠した道徳教育」を廃止した江戸取に対し,教育内容 を生徒・親に無断で変更したのは原告と被告の在学契約の変更に当たるから教 育償務不履行だとし,廃止した教育の復活とその履行を求め,さらにそれは親 の学校選択の自由を侵害した不法行為に当たるとして損害賠償を求めた裁判で ある。 本研究の意義は次の通りである。 本訴訟のように,教育事項,とりわけ教育内容にかかわって,それをめぐる 親の意思,その法的地位など,一般に在学契約関係における親の当事者性に踏 み込んだ判例はきわめて少ない。また学校選択の自由を親の教育の自由権であ るとし,その観点、から,親の教育の自由の法的地位,その及ぶ範囲に踏み込ん - 8ー 龍 谷 大 学 論 集だ,きわめてまれな裁判であるo これまで教育に関する事項,とりわけ教育内容の事項は r学校部分社会論」 のもと,もっぱら教育の専門家としての学校・教員の専有事項として考えられ, そうあるべきだとする法認識が支配的であった。しかもそうした認識がかつて の一連の教育裁判において国家の教育権に対抗する中で強調され,形成,強化 された経緯もあり,司法界にあっては最近まで疑いのないことだとして自明視 されてきた。こうした環境にあって,教育事項や教育内容事項に親がどうかか わりうるかという議論は生まれにくかった。そのため教育内容にかかわる親の 当事者性をめぐる議論も,以上のような伝統的な認識に立つ教育条理の域を脱 却することができず,その範聞もしくはその枠内で議論が展開されてきたとい うのが実態であるD 議論が未発達,未成熟な中にあって新たな教育条理の創造 を期待することはむずかしかったと言えるo広沢明が rr教育の自由』論J (日 本教育法学会編『教育法学の展開と
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世紀の展望』講座現代教育法1
,三省 堂,2
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年)において親の教育の自由を家庭教育の自由,学校選択の自由,学 校教育内容選択の自由に分類し,このうちの教育内容選択について校外生活の 規制,教科教育,生徒指導・道徳・特別活動それぞれについて親の関与を論じ ている。今の時点からすれば踏み込んだ解釈,認識はもうひとつと思われるが, 親の教育の自由と学校教育内容の関係を考えるうえで参考になる知見ではある。 学校事故などの訴訟で親の当事者性の存否に対する司法判断を行った判例は あるが,教育内容にかかわる親の当事者性をめぐる判例は,下級審できわめて わずかに存在するのみである。本訴訟のように学校の教育課程にかかわって親 の当事者性が最高裁で争われた裁判は皆無であっただけに,ここ2
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年の教育政 策と教育学研究の中で展開された知見を踏まえて,教育内容に対する親の当事 者性とその存在形態を考えていくことで,新たな教育条理の構築と創造にかか わる議論と,教育学研究の新たな視野と知見の形成にかかわる議論を活発にす ることができればと考えるo 江戸取訴訟に注目した研究は筆者が,2
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年の日本教育法学会自由研究発表 (広島修道大学)で「親の学校当事者性に関する研究一江戸川学園訴訟東京高 裁判決(
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をめぐって一」と題して発表し,それを『日本教育法学 会年報』第3
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号(
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年)で「親の学校当事者性に関する研究一江戸川学園訴 訟東京高裁判決(
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をめぐって一」としてまとめているほかは皆無 である。関連したものとしては地裁判決について r判例時報J1
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号,高裁判 決について山本由美・判例研究 「私立校の教育内容の変更による親の学校選 親の学校当事者性に関する研究(小島) -9-択の自由の侵害一江戸川学園取手中・高事件判決からJ
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"
季 刊 教 育 法 』 第1
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号,2
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年)がある口 江戸取教育に関して参考にした資料・情報は以下の通り0 ・訴状,控訴理白書,上告理由書,答弁書等 ・原告らの活動に関する文書等 ・民事訴訟実行委員会の活動 ・判決をめぐる新聞記事 -判決をめぐる週刊誌記事 ・教育理念等,江戸取の広報文書,進学実績 ・中学 1年生の校長講話2
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回 1年間の記録「道徳J (講話の速記記録,生徒の 感想、,教員のコメント,時に保護者の感想)• q3
歳の決心一道徳を学んで江戸川学園取手中学校第1
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期生』江戸川学園 取手中・高等学校出版局,平成14年6月 ・江戸取学園取手中等部・高等部後援会(企画・制作:広報担当プロジェクト 告別乍チーム) 「父母から見た『江戸取の歩み』一文部科学省の皆様,関係各位の皆様ょ
うこそ r江戸取』へお越し頂きありがとうございます 何故,多くの父母は 円工戸取』を選ぴ子供を入学させたのかJ平成16年3月2
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日 ・高橋鍵弥 U'1
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歳からの人づくりー「論語Jで伸ばす学力と徳力』致知出版社,2
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年。関連して同『江戸取流「学力革命J.!Iサンマーク出版2
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江戸取教育の特色ー「論語に依拠した道徳教育」
学校法人江戸川学園は,昭和19年3月24日設立の学校法人。昭和53年江戸川 取手高等学校を設置,昭和6
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年中学校を増設し中高一貫校として今日に至る。 茨城県有数の進学校として全図的にも注目された学校であるo 「世界を築く礎となる人材の育成」を教育理念・目標とし,それを実現する ために「人を磨けば学力は伸びるJ との認識に立つ「心の教育」の教育を重 視・推進した。「論語に依拠した道徳教育」はそれを実現するために行われた, 学校あげての教育活動であり,長年,江戸取教育の理念,方針,特色,そして 教育戦略とされてきたものである。さらに「頂点がきわまれば全体が極まる」 という教育理念に立って「プルアップ教育J(求める者には限りなく与えるが, 求めない者には無理に押しつけることはしない)を謡うとともに, lT教育 (シラパスサイト,ネット授業)を江戸取教育の重点に置いて推進してきた。 -10 - 龍谷大学論集「論語に依拠した道徳教育」のアウトラインと展開を示せば次のようになる。 校長が年間28回 (1回35分),論語に依拠した講話による授業を行うo生徒 に講話内容を一言ー句速記させ,書き漏らしは生徒同士で確認する。それを各 生徒が清書し自らもノート l頁分の感想文を書き 4日以内に提出する。校長, 副校長,学年部長,担任教師いずれかが提出された感想文を読み,ノート
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頁 分の返事を書いて各生徒に戻す。全授業終了後,生徒に授業を受けての感想と これからの決意や将来への夢について r13歳の決心J(高等部の場合は r16歳 の決心J)を4
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字程度の作文を脅かせ,これを一冊の本に編集する。 具体的に言えば次のような展開である。 年間28回 (1回35分)の論語に依拠した講話(校長)による授業は,人間, 社会,自然などについて論語とかかわらせた話を展開させ,生きること,もし くは生き方のほか,人とのつながりや社会へのかかわり・貢献について考えさ せる内容となっている。平成14年の校長講話テーマは次の通り。①切礎琢磨ー 磨けば輝く 心は無限大,②大河と成れ-水量をふゃそう,③知者不惑仁者 不憂 勇者不健一巨大な迷路と親,④自立期一高きをめざせ!!,⑤脳と心-ス ーノfーエリートに求められる五つの資質脳は心によって左右される,⑥自ら を限る者-鉄は熱いうちに打て,⑦過不改是言過一世界につながるネット学習, ⑧中庸道有無私一心眼を開こう,⑨成功回路一人格を磨けば学力は向上する, ⑩遜る勇気 敬しむ勇気一読書は時間と空間を超えた偉大な人物との出会いで ある!!,⑪克己復礼-42
億年分の進化,⑫潜在能力を顕在能力に変える→脳の 高次統御機能,⑬平常心一天真澗漫,⑭気付かざる過ち-型牛の子,⑮君子和 而不同 小人同而不和一和而不同,⑬森羅万象一森羅万象A/B/C
,⑪変化 はチャンス,⑬相手を知る法一霊峰富士,⑮蜜-神心の姿,⑫意欲と我欲-欲 の差,⑫変化一意志の力,⑫四つの要素一水分(努力い太陽(愛情)・樹木 (人格)・豊かな土壌(学問),⑫君子への道一スーノfーエリートへの道,⑫織 り一正しい祷り,⑧学ぶ心一環境によって情報ネットワークは変わる,⑫君子 悟義小人悟利一学問の道快楽の道,⑫色即是空空即是色,⑫泰山に立ち て一変化する心。 講話の内容をよりビジュアルに理解しやすくするために毎回テーマをイメー ジする絵をスクリーンに映す。生徒は「講話の始まる前に,スクリーンに映し 出された絵のアウトラインを書き写し,道徳のノートを清書する際に,自分の イメージで描いて色をつけて提出します。自分のイメージで描くことで,講話 の核心を凝縮したイメージの世界が広がり,右脳がより刺激され知的理解と相 親の学校当事者性に関する研究(小島) ー 11ーまって,心の奥に講話のポイントがしっかりと刻み込まれて行きます。」とそ の意義,効果を述べている。事実,ある生徒が年間
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回の講話を清書し,各講 話に対して本人が感想を述べ,先生が講評したものを綴った記録ではそれぞれ のイラストが生徒自身の思いや感じ方,また発想によって工夫され,描かれて いるo 次に講話を聴き,その内容を各生徒は一言一句聞き漏らさず速記する。書き 漏らしや字の間違いなどは生徒同士で指摘し合い,確認する。清書した講話は 3600字程度。各生徒はノート 1頁分の感想文 (600字程度)を書き 4日以内に 提出する。校長,副校長,学年部長,担任教師いずれかが提出感想文を読み, 生徒が感想に示した講話の理解や受け止め方,生徒自身がそこから学んだもの について,ノート1
頁分の返事(指導や激励)を書いて各生徒に返却する。時 に,親が講話と子どもの感想文を読み,講話への感想と子どもの変化,また子 育てへの示唆などを1
ページ程度を書くこともある。これらを1
年間の記録と して綴じている。ある生徒のその量はB5
判1
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枚に及ぶ。全授業終了後,生 徒に授業を受けての感想とこれからの決意や将来の夢について r13歳の決心」 (高等部の場合は q6歳の決心J) として4000字程度の作文を書き,全生徒の 「決心」を冊子に編集する。 講話を速記させる目的は r人格を磨けば学力は伸びる」との考えのもと, 中等部1
年生では内面的変化が最も大きいとの認識から,この1
年間に講話と いう授業を行う。その目的は,①「知識Jのほかに「情緒Jr意思の力」を養 う,このことを通して「集中力Jr書く能力Jr思考力Jを養う,②「和する 友Jづくり,にある。 こうした教育活動をロングホームルーム(
L
H
R
)
,合同LHR
などでも展開 し,江戸取の特色,“売り"として機会あるごとに学校内外でアピールしてい た。• LHR
,合同LHR
LHR
・H ・H ・..上記の授業を基礎として,クラスごとに週1
回(
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分),担 任教師が論語に依拠した講話を行い生徒はこれをノートに記録し,感想、 を書いて提出する→教師は生徒一人一人に対して返事を書いて返却する 合同LHR
・H ・H ・..中等部と高等部それぞれで全学年を対象に年間1
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回(
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回7
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分),
以上の江戸取教育は r他校に無くて,本校だ防にあるものJ として,機 会あるごとに江戸取の独自性,特色として学校内外でアピール,説明して -12 - 龍苔大学論集きたものであるo 江戸取学園取手中等部・高等部後援会(企画・制作:広報担当プロジェクト 制作チーム)作成による「父母から見た r江戸取の歩み』一文部科学省の皆様, 関係各位の皆様 ょうこそ r江戸取』へお越し頂きありがとうございます 何 故,多くの父母は『江戸取』を選ぴ子供を入学させたのかJ(平成16年 3月20 日)では,保護者側は江戸取教育の理念を次の五つにまとめている。 その
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:人格を磨けば学力は伸びる...・H ・..道徳教育江戸取は「規律ある進 学校J として,教育目標の一つに全人教育をかかげ,江戸取流「心の教育」を 実践している。 その2
:頂点がきわまれば全体が極まる...・H ・..江戸取は r燃えるような意 欲」と「野望ともいえる大志J をもっ生徒の能力を伸ばすことによって全体が 高まっていくプルアップ校であるロ その3
:夢は一人で抱いているとき夢で終わるが,同じ夢を抱いた友と共に 抱くとき夢は現実となる。 その4:実践5項目………1.挨拶を正しく行いましょう 2.江戸取ファ ッションに誇りを持ちましよう に悪い言葉は使わないようにしましょう4
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相手を呼ぶとき,君・さんをつけましょう5
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できるだけ徒歩通学をし ましょう その5
:求めるものは限りなく与えるー「ネット課外とネット授業Jr
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革 命」………「ネットにハートを!J江戸取のIT
教育は,血の通った教育であ るo江戸取教師の手作りによる課外は,新しい教師と生徒の理想的な関係を築 く。 親のこうした受け止め方からも r論語に依拠する道徳教育」は江戸取教育 の真髄,コア,根幹として機能していたと言ってよいと思われる。3
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判決の争点・論点
( 1 )東京地裁判決 地裁での争点は次の4
点であるo ①本件訴訟は法律上の争訟に当たるか,また訴えの利益を欠くのか ②親は在学契約の当事者となりうるか ③在学契約の内容に教育内容等(入学後の教育内容の変更)は含まれるか ④親の学校選択の自由は法的に保護・保障さるべき権利となりうるか,また 事後(入学後)の教育内容の変更に対して親は不法行為として訴えることは 親の学校当事者性に関する研究(小島) -13-できるか ①については rいずれも法令の適用することにより,終局的に解決できる ものであるから,法律上の争訟に当たる」と判示した。②については,中学校 と高等学校の教育は,もっぱらこれを受ける主体である生徒の利益のために行 われるべきであるとし r親は,子どもに対する自然的な関係により,子ども の将来に対して最も深い関心を持ち,かつ,配慮をすべき立場にある者として, 子に対して教育を受けさせる義務があり,反面,子どもに対する一定の支配権, すなわち子女の教育の自由を有すると認められるが,このような親の教育の自 由は,主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由に現れるもの と考えられる。親に,上記学校選択の自由があるからといって,そのことから 当然に,子が中学校又は高等学校に入学後の在学契約の当事者は親であるとい うことはできない。」のように,ひとつに親の教育の自由は学校教育には及ば ないこと,ふたつに学校選択があるからといってそれは入学後の在学契約につ いて親が在学契約の当事者として立ち振る舞うことを認めるものではないとし, 学校法人は r親等の保護者との契約に基づいて教育に関する給付を提供する ものではなく,教育に関する給付を受ける主体である生徒との問における在学 契約に基づいて上記給付を行うものというべき」であるから,在学契約の当事 者はあくまでも教育給付を受ける主体の生徒であると判示した。原告に入学金 等の納入手続きに関する文替が送付されているからといって,結論を左右する ものではないとした。 ③の教育内容は契約内容に含まれるが,それは生徒との問の契約であり,親 との契約ではないとした。 ④については,原告には「学校選択の自由は保障されており,選択の際に考 慮、した事項が事後的に変更された場合には,学校選択の自由が全く無意味なも のとなるから,被告が,原告らの子である生徒が江戸取に入学後に原告らが子 の入学する学校として江戸取を選択する際に考慮した場合,原告らの学校選択 の自由の侵害を理由とする被告の不法行為が成立する余地が全くないというこ とはできない。Jのように,学校選択の際に事後的に変更した場合,争訟の対 象になることを示したものの,本件の場合 r学習指導要領の定めに違反する と判断したことから,上記変更を行ったものでありJ,変更した道徳教育の内 容は劣ったものでも,学習指導要領に違反するものではないと判示した。さら に,事後的な変更により原告らが精神的苦痛を受けたことは容易に推認するこ とができるが,親の学校選択の自由の範囲は学校の教育内容等には及ばないと -14 - 龍谷大学論集
し r生徒の募集に当たり,学校案内等の書面,学校説明会等で教育の具体的 な内容及び方法について説明し,宣伝したとしても,その通りの教育をしなか った場合に直ちに,生徒の保護者の学校選択の自由を侵害するものとして違法 性を帯びるものということはできないりのように r教育の具体的な内容と方 法J (教育内容)は学校側と教師に広範聞にゆだねられていると解すべきであ るから,学校選択の自由を侵害されたとは言えないとした。 このように東京地裁は,私立中学校・高等学校を運営する学校法人との間の 在学契約の当事者は生徒であるとし,親の当事者性を否定した。また親の学校 選択の自由は法的に保障されており,それを侵害することは不法行為になるが, 江戸取の場合はそれに当たらない。原告の請求はすべて棄却,訴訟費用は原告 の負担とするとした。
(
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)東京高裁判決 上記争点①,②,③について高裁は一審判決を支持した。 高裁が地裁判決を逆転させたのは争点、④,つまり学校側は親の学校選択の自 由を侵害したかどうかについてである。当該事案では侵害したと認められると い不法行為成立の構成要件を満たしているとした。判決は,親の学校選択は 「教育の自由を実現するための重要な機能であって,法的保護に値するものと いうべきであるから,これに対する違法な侵害に対しては,煩害賠償を請求す ることができるものと解するのが相当であるりとした。そして生徒が江戸取 入学後 r入学する学校として江戸取を選択した際に考慮した事項を変更する 場合には,これについて正当な理由がある等の特段の事情がある場合を除き, 控訴人らの学校選択の自由を違法に侵害するものとして,被控訴人には,不法 行為資任が成立するものというべきである。」しかるに,親らが江戸取入学に 当たり期待した「論語に依拠する道徳教育」を廃止したことに正当な理由ない しは,やむをえない事由があるものと認めることはできないから,学校側の判 断は親らの信頼を裏切り,学校選択の自由を不当に侵害したもので r教育内 容の事後的な変更についても,実質的に学校選択の自由を侵害するものと認め るのが相当であるりと判示した。 高裁は,学校法人との問の在学契約の当事者は親ではなく,生徒であるとし, 最高裁学テ判決の「親の教育の自由は,主として家庭教育等学校以外における 教育や学校選択の自由に現われる」とする地裁判断を支持したが,他方で親の 学校選択の自由は法的に保護・保障に値するというべきで,それを侵害するこ 親の学校当事者性に関する研究(小島) ー 15ーとは不法行為になるとし,江戸取の場合は不法行為責任が成立するとして学園 側に損害賠償を命じた。 高裁判決の意義は次のように言うことができる。
O
高裁への「控訴理由香」では,近年の教育政策や学校改革を踏まえ,また 教育学等の学問研究の成果を踏まえ,学校と親との関係をめぐる新たな考えに 基づく判断を求めており,本判決はそれを踏まえた,もしくはそれに沿った判 断を示したものと思われる。時代の変化,学校教育の実態,教育学研究の成果 を反映させた判決である。0
公立学校では親・住民の学校参加が広範に進展している。ここでの関係を 在学契約の観点から理解し,学校選択,学校参加,学校運営協議会制度等を, 契約を機能させる制度,もしくは不法行為をさせない制度として解釈運用可能 であり,これにより本高裁判決を発展させ,私学における在学契約のあり方, そこにおける親の当事者性の存在形態に一定の変化を促す理論的視野を切り拓 く可能性を持つことになるのではないか。0
学校選択の自由を親の教育の自由だとし,その観点から,学校選択後の教 育内容の変更については相当な理由や事情がない限り,自由を侵害したとして 不法行為に当たるとしたロこの判断は,学校の教育内容の決定過程や決定に親 の意思が尊重され,ないしは反映すべきことを述べているもので,全国中学校 一斉学力テストをめぐる最高裁判決(学テ最高裁判決,1
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年)が示した親の 学校教育へのかかわりを学校選択の自由の観点から,より積極的に受け止めた 判決である。学テ最高裁判決は親の教育の自由を主として家庭教育等学校外に おける教育と学校選択の自由にあるとした。この時点では,学校の教育内容に ついて学校の裁量権を大幅に認め,学校選択も選択という行為のみを想定し, 入学後の教育に対しては親の教育の自由は及ばないものとしていたに違いない。 高裁判決は学校選択を入学時点での選択行為にとどめず入学後の教育のプロセ スにも選択行為が及ぶもの,もしくは及ぶことがありうることを明示した。 こうした認定をしたのは,判決において江戸取教育を道徳教育という教育活 動のひとつと見るのではなく,目標,方法,効果において汎用性を有し,江戸 取教育のすべてに通底する教育理念もしくは江戸取教育の全体と認定していた ことが大きく影響したものと思われる。「論語に依拠する道徳教育Jは江戸取 教育の根幹であること,もしくは教育の根幹として機能していたことを認識し ていたと言える。これは地裁判決にはなかった認識である。 -16 - 龍谷大学論集( 3 )最高裁判決 最高裁は争点、①,②,③については,地裁,高裁の判決いずれも妥当だとし, 親側の訴えを退けた。④の,親の学校選択の自由は法的に保護・保障さるべき 権利となりうるか,また事後(入学後)の教育内容の変更に対して親は不法行為 として訴えることはできるのかについて最高裁は,親が学校を選択するに際し て考慮した事項が子どもの入学後,事後的に変更することは親の教育の自由と しての学校選択の自由を実質的に無意味なものにするものだとしつつも,しか しそれは正当な理由があるなど特段の理由がない限り,親の学校選択の自由を 違法に侵害したとは言えないとして高裁の判断は是認することができないとし た。 その理由として挙げているのは,親の教育の自由は主として家庭教育等学校 外の教育と学校選択の自由にあるとする認識であるo その理由を構成するために拠り所としたのは r親は,子どもに対する自然 的関係により,子どもの将来に対して最も深い関心をもち,かつ,配慮をすべ き立場にある者として,子どもの教育に対する一定の支配権,すなわち子女の 教育の自由を有するJ とする観点から r親の教育の自由は,主として家庭教 育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるJ とした学テ最高裁判 決(1976年)である。本件最高裁は r学校選択の自由については,その性質 上,特定の学校の選択を強要されたり,これを妨害されたりするなど,学校を 選択する際にその侵害が問題となり得るものであって・H ・.. (教育内容等が ・H ・H ・..引用者注)入学後に変更されたとしても,学校が教育内容等の変更を予 定しながら,生徒募集の際にそのことを秘して従来通りの教育を行う旨説明, 宣伝したなどの特段の事情がない限り,親の学校選択の自由が侵害されたもの ということはできない」として高裁判決の取り消しを命じた。入学後の,事後 的変更はほぼ考慮の外に置いた判決となっている。要するに学校選択の自由は 入口のところでの選択にとどまり,入学後,つまり事後の教育内容等及びその 運用は学校側の裁量であり,よほどのことがない限り学校選択権の及ぶもので はないとする基本認識である。事実上,入学後の教育プロセスに選択権は及ば ないとする判断である。これは高裁判決との大きな違いである。 また「論語に依拠した道徳教育J の廃止が子の入学に際して抱いていた親の 江戸取教育への期待,信頼は法律上保護される利益に当たらないとしてただち に不法行為が成立しないと言うことはできないとしても r期待,信頼」は私 法上の権利の実体をなすものではないし,本訴訟での「期待,信頼Jは「特定 親の学校当事者性に関する研究(小島) -
17-の親」のそれであることから,そのことによりただちに不法行為を構成すると いうことはできないとした。ここで親の「期待,信頼」は私法上の実体をなす ものではないこと,また本訴訟での「期待,信頼」は「特定の親Jの期待,信 頼であるとの縛りをかけながら,学校選択の自由をめぐって「期待,信頼」が 「特段の理由Jになりうるかどうかについて審査しているo親の学校選択権を 「司法上の実体をなすものでないJr期待,信頼」と置き換えて論を展開して いることは,いかにも奇怪である。 判断の基準としたものは,教育内容の決定は学校の裁量に属すること r論 語に依拠する道徳教育」は江戸取教育の根幹ではなかったとする認識であるo 教育内容の決定は「教育専門家であり当該学校の事情にも精通する学校設置者 や教師の裁量にゆだねられるべきもの」であるから r親の期待,信頼を損な う違法なものとして不法行為を構成するのは,当該学校において生徒が受ける 教育全体の中での当該教育内容等の位置付げ,当該変更の程度,当該変更の必 要性,合理性等の事情に照らし,当該変更が,学校設置者や教師に上記のよう な裁量が認められることを考慮しでもなお,社会通念上是認することができな いものと認められる場合に限られると言うべきであるりと判示した。また, その社会通念について,本件の教育内容等の変更は r論語に依拠した道徳教 育」の授業が1回35分,中等部入学者l年次に28回,後頭部からの入学者1年 次に 14回,それぞれ「行われていたにすぎずJのようにしか受けとめられず, 「本件における教育内容等の変更は,道徳教育について論語に依拠した独特の 手法でこれを行うことを廃したにとどまり,これが本件各学校の教育内容等の 中核,根幹を変更するものとまではいえない」から,社会通念上是認すること ができないものであるとはいえず,親らの「期待,信頼を損なう違法なものと して不法行為を構成するものとは認められないoJと判示したロ「論語に依拠す る道徳教育」を教育課程のー領域,もしくは授業であると形式的に理解し,そ のことにより「論語に依拠する道徳教育Jを江戸取教育の本質,根幹であった 実相を考慮の外に追いやってしまったのである。 また訴えている原告が少数であり,その者が抱く期待,信頼は「特定の親」 のそれであり,その他の親の意思 rすべての親」の意思を踏まえたものでな いことからも不法行為を構成するとは言えないと,次のように述べている。 「生徒募集の際に説明,宣伝された教育内容等の受け止め方やどこに重きを置 くのかは,個々の親によって様々であり,すべての親が常に同じ期待,信頼を 抱くものではないし,同様な期待,信頼を抱いた親であっても,その期待,信 一 18- 龍谷大学論集
頼が損なわれたと感じるか否かは,必ずしも一様とはいえない」から rすべ ての親」のそれではない。したがって r特定の親が,子の入学後の教育内容 等の変更により,自己の抱いていた期待,信頼が損なわれたと感じたからとい って,それだけで直ちに上記変更が当該親に対する不法行為を構成するものと いうことはできない。」 こうした判示は,一審,二審にはなかったもので,司法の放棄とも受け取れ かねない判断である。 このように最高裁は,争点の論点化や判決の展開などで若干の違いは認めら れるものの,基本的に一審判決を支持したものとなっている。
4
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新たな教育条理の構築に向けて
( 1) r論語に依拠する道徳教育」は江戸取教育の板幹である 親の学校選択の自由は法的に保護・保障に値するというべきで,それを侵害 することは不法行為に当たるとし,江戸取教育の特色とされた「論語に依拠す る道徳教育」を廃止したことは不法行為であり,地裁判決を一部見直し江戸取 側に損害賠償を命じた高裁判決について,最高裁はこれを是認できないとして 破棄し,地裁判決を全面的に支持する判決をした。最高裁判決及び一連の判決 には,教育学及び教育法学において解明すべき本質的なテーマや課題が存在す るo これらの検討を通して,教育内容をめぐる学校と親との関係の在り方にか かわる新たな教育条理を構築,創造することが求められていると言えるが,そ の前提となるのが江戸取教育の事実認識だと考えられる。 江戸取訴訟を考察する際に大切なことは,江戸取教育における「論語に依拠 する道徳教育」の位置,存在,機能を明らかにすることだと言える。その際, 「論語に依拠する道徳教育」が江戸取教育の根幹をなすものかどうかを検討す ることが不可欠である。 江戸取の「論語に依拠した道徳」は道徳の時間での道徳教育にとどまらず, 学校の教育方針,重点目標に置き,力の入れようなどから見て,それを超えた 教育活動として行われていたことは,地裁の,江戸取は昭和62年中学校開校以 来 r独自の道徳授業を中心としたユニークな教育を実践し,偏差値を3
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台に引き上げるなどめざましい進学実績を達成」したとし,その「ユニー クな教育J を生徒の募集,学校案内等の書面,学校説明会等で,その内容を具 体的に説明し積極的に宣伝していたことを認めていることや,高裁が,江戸取 は「特に論語に依拠した道徳教育について,他校に類を見ない,独特の指導法 親の学校当事者性に関する研究(小島) - 19ーで行われ,江戸取 6か年一貫教育の基礎となっており,同教育は r集中力J, r書く力J,r考える力』を養成し,これが全ての教科の土台となり,学力の向 上に大きなプラス効果をもたらし,また,仲間づくりの機会としても重要な教 育効果をももっているなどとして紹介し,学校案内等の書面に同教育による教 育的効果を具体的に述べた在校生や保護者の文章を掲載するなどしていたし, また,これらの内容は,一部のマスメディア進学雑誌等において肯定的に取り 上げられていた。」というように r江戸取
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か年一貫教育の基礎」と認定し, 道徳教育の授業を超えた学校の教育活動の基本方針ないしは根幹であったとす る事実認識をとっているo最高裁でもこうした高裁の事実認識を踏まえていた。 「論語に依拠する道徳教育」が狭義の「道徳」とは異なる「トータルな教育活 動」だとする見方もこうした事実を踏まえてのことである。言語力,コミュニ ケーション力,人間性や社会性の発達,思考力,集中力,社会力,広い視野を 育成するという教育目標の実現のほか,人たちゃ社会とのつながり,集団(江 戸取)の一員として,社会人としての人生観,人間観,社会観,世界観などの 形成に江戸取の教育力は測り知れないカを持っていたのではないかと推察する。 このように r論語に依拠する道徳教育」は道徳教育や道徳の授業だけでな く,実際には,江戸取の学校づくりの理念,教育の方針という視野で機能させ, 展開させていたと理解することができる。 現在,聞かれた学校づくりや新たな学校ガパナンスが議論されているなかに あって,本来,親の強い関心事であり,したがって親の教育意思が尊重され, それを教育やその運営に反映すべきであるにもかかわらず,そうした親の気持 ちゃ意思を学校運営において法的に認めることができないとする最高裁の判断 は,学校教育をめぐる内外の新たなうねり,変化を視野に置かない,きわめて 狭降で時代に逆行したものと断ぜざるを得ない。子どもの最善の利益を守り, 保障し,実現するのは子ども自身であると同時に,子どもの教育に第一義的責 任に負う親でもある。近年の公立学校改革では,もはや,こうした最高裁の考 え方や認識は通用しなくなっているo私学であるが故に許されるということで もないだろう。そこには変化や時代に対応する新たな教育条理が求められるべ きであるからである。最高裁判決が時代の流れに敏感さを欠き,むしろ逆行す る後ろ向きの判決となっているo 新たな教育条理を構築するためには,以下のような課題を解明,解決する必 要があると考える。 ① 在学契約関係における親の当事者性一在学契約関係における当事者は誰で - 20ー 龍 谷 大 学 論 集あるか,また親はその当事者たりうるか。親の教育の自由は,学校教育に 対していかなる関係にあるのか。 ② 親の学校選択の権利形態と選択後それが及ぶ範囲 ③ 親の学校選択の自由は,親の学校当事者性を担保しうる法理となりうるか
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)在学契約と親の学校当事者性 現在,私学においてはそこでの在学関係は契約関係にあるとする見方が一般 的である。 契約とは,当事者の間で合意した約束を取り交わすこと,もしくは合意した 約束で,それによって私法上の効果を生じさせることを目的とする。当事者と は,関係者,ステイクホルダーについて直接の利害関係にあり,その利害に関 して意思決定者としての位置にある者である。法学では r当事者とは,自己 の名において,ある事件について裁判所に対し裁判権の行使を求める者および この者と対立する相手方J を指す。また当事者である,もしくは当事者になり うる条件,資格,つまり当事者適格については r当事者適格とは,訴訟物た る権利関係について,当事者として訴訟を追行し,本案判決を求めることので きる資格」とされる。また当事者となりうる資格,つまり当事者適格者である ためには r民事訴訟の当事者となることのできる一般的資格をいうo 当事者能力は,訴訟主体として裁判権の行使を受けるために必要な能力であり, 訴訟法上の権利能力」と言われる当事者能力を有していることが必要になるo 契約の当事者は誰であるかについては,判例では当事者の一方は生徒(子ど も)であるとする見方が支配的である。その理由のひとつは,教育給付を受け る主体は生徒であること,もうひとつの理由は教育は学校・教師と生徒の関係 において営まれるものであり,生徒以外にはありえないからだとする認識であ る。 まず第1
の教育給付を受ける者は生徒であることについてo 責任能力など当事者能力を有していない幼児については,これまでも保護者 等が代わって法定代理人として訴訟当事者になりうるとされてきた。中学生は 資任能力を果たすことができない年齢にあり親が生徒に代わって法定代理人と して争訟の関係に立ちうることを認める判例はある。高校生の場合でも,大阪 府立八尾高校の教育課程編成処分取り消しを訴える利益を親にあると認めた大 阪地裁判決(昭和48.3.1),宮崎県立大宮高校定時制(夜間部)が県立大宮第 二高校として発足することに対して生徒がストライキで反対運動を展開した事 親の学校当事者性に関する研究(小島) ー 21ー案の裁判で r契約当事者である生徒ないしはその父兄J として親も当事者で あると判断した宮崎地裁判決(昭和63.4.28)がある。学校事故をめぐる判例 研究では r親権者には子どもを監督養育する義務があり,この義務に基づい て,子どもに教育を施すために,私立学校設置者の間で,教育を受けさせるこ とを内容とする委託契約,ないしは第三者のためにする契約 (r民法537条」が あるJ と考えられるものの,特別活動中での日大山形高校事件で山形地裁(昭 52.3.30)は,幼稚園や保育所の聞に親が幼児の保育委託契約をするのは幼児 に意思能力がないことを前提とするからであるが,高校生は意思能力を持つも のであるから r親権者らと学校法人との聞に直接生徒に対する高等教育を受 けさせることの委託関係は存しない」とした。 本件に即してみると,
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歳で中学に入学する子どもに当該学校の教育方針や 特色を理解する能力が備わっているとは考えにくしそうなることは望ましい ものの,それは発達の可能性の問題として理解し,親と一緒になって,または 親のアドパイスを通して選択や入学の判断,決断をするというのが現実だし, それは社会通念としても認められてもよし当然に親が当事者として立ち振舞 うことは認められるべきである。ここから当然に親が法定代理人(当事者)と して立ち振舞うことは認められてよい。ただし,同じ中学生であっても中学 1 年生には責任能力がない, 3年生になるとあるとする判例もある。このことか ら,責任能力の有無の境界は中学2
年生あたりだとの解釈もある。 東京地裁判決は学校教育におけるもう一方の当事者は生徒であり,親は当事 者たりえないと次のように述べている。 「子どもの教育は,子どもの学習する権利に対応しており,その充足を図る 立場にある者の責務に属する0 ・H ・H ・-・中略………。その教育は,もっぱらこれ を受ける主体である生徒の利益のために行われるべきである。親は,子どもに 対する自然的関係により,子どもの将来に対して最も深い関心を持ち,かつ, 配慮すべき立場にある者として,子に対して教育を受けさせる義務があり,そ の反面,子どもの教育に対する一定の支配権,すなわち子女の教育の自由を有 すると認められるが,このような親の教育の自由は,主として家庭教育等学校 外における教育や学校選択の自由に現れるものと考えられるo親に,上記学校 選択の自由があるからといって,そのことから当然に,子が中学校又は高等学 校に入学後の在学契約の当事者が親であるということはできない。私立中学校 及び私立高等学校を経営する学校法人は,親等の保護者との契約に基づいて教 育に関する給付を提供するものではなく,教育に関する給付を受ける主体であ - 22- 龍谷大学論集る生徒との問における在学契約に基づいて上記給付を行うものというべきであ り,被告との問の在学契約の当事者は生徒であるということができる。なお, 被告から原告らに対し入学金等の納入手続きに関する文書等が送付されている ことは,上記結論を左右しない。」 高裁も上記地裁の判断を受け,在学関係の当事者は生徒であると断じ,在学 契約に基づいて教育内容の履行及び損害賠償を求める控訴人らの請求は理由が ないとした。在学契約における親の当事者性について最高裁判決は,下級審の 判決を支持している。その根拠としたのは学テ最高裁判決である。学テ最高裁 判決(1976年)は親の教育の自由について r親は,子どもに対する自然的関 係により,子どもの将来に対して最も深い関心をもち,かつ,配慮すべき立場 にある者として,子どもの教育に対する一定の支配権,すなわち子女の教育の 自由を有すると認められるが,このような親の教育の自由は,主として家庭教 育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられるり と判示している。 そこで争われたのは,学力テスト(教育評価)としEう教育内容の決定に主た る権限を有しているのは行政(国・教育委員会)なのか,それとも教師・学校 かという教育権をめぐる権限関係,その関係の在り方であった。当時,学校参 加という環境はまだ整っていない中での親の教育の自由であり,したがってそ れは主たる争点ではなく,子どもの教育をめぐる関係者の意思の全体像を示し ながらも,とりわけ国と教師の権限関係として取り扱われたものであって,ど ちらかと言えば,親の教育の自由は付加的に論じられたものであった。このこ とは当時も,判決をめぐって「親の教育権のことは学テ裁判で正面から問題に なっていたわけではなし功ヨら,判決で十分論じられていないのもやむをえな い。」と考えられていたロそれゆえに,教育内容をめぐる意思決定は主として 国と教師の聞の問題として取り扱われ,親はそうした意思決定から離れた存在 として考えられていた。 その学テ最高裁判決後,
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年弱経ているo この間,教育政策や制度も転換し, これに伴い学校教育に対する親,ひいては世論の考え方も「学校教育はひとり 学校関係者(学校教職員,教育行政)のものではない」との認識へと変化した口 聞かれた学校づくり,参加型学校経営の実現,保護者等に対するアカウンタビ リティの確保などの流れの中で学校の当事者性についての考え方も変化した。 学校教育における親の当事者性認識が相当に,もしくは飛躍的に変化したので ある。さらには公立学校における学校選択制の導入に伴い,学校選択の考えの 親の学校当事者性に関する研究(小島) ー 23ー根底にある親の教育意思の尊重(“消費者"や利害関係者の意思の尊重)から くる教育内容を含む学校運営への親の参加が進展してきたことも,学テ最高裁 判決の「時代性j,限界を感じさせるものになっている。 このように,学校と親の関係をめぐるこの間の変化は,親の教育意思、を「家 庭教育等学校外における教育」に閉じこめていた親の教育意思の解放を求める ものであり,またそれを可能にする教育制度と社会制度の構築であったといえ る。さらには親の学校選択行為を「入学時限り」のものとしてきたものから入 学後までその範聞を広げるとともに,入学後の教育ないしは教育のプロセスを 契約事項の範囲に含むことで学校選択の実質化を担保する方向へと変化してき ている。ここでは「学校部分社会J論は,もはや実態的にも,学校経営論とし ても適用しないばかりか,あってはならないものへと認識されるようになって きたと言える。 学生・生徒と国公立学校の在学関係が長い間,特別権力関係にあるとの認識 が行政当局はじめ判例において支配的であった。それが1960年代ころから,こ うした認識に批判が集まり,学生・生徒と学校の関係を特別権力関係からの解 放はもちろん r特殊な部分社会における自律的,包括的な権限にもとづく法 規範を基礎とするだけで学校と学生・生徒との法律関係を処理できるかどうか 疑問」と思われる学校部分社会論からの解放を説き,新たに在学契約説の導入 を説いた伊藤進は,その意義について「在学契約説は,学生・生徒と学校とを 対等な権利主体関係として位置づけ,自由な意思決定にもとづいての学校の自 治規範に拘束されながら教育に参加していくという教育観に適合した法理とし て評価できるj,のように述べていた。現在では,私学においてはもちろん, 公立学校でも契約関係と見た方がよいとする論者が多くなっていると恩われる。 私学の在学契約をめぐる学校と親とのかかわりや関係について,その受け止 め方,認識は変化してきている。たとえば長年,親の教育権を研究してきてい る結城忠は,以前の著作で私学における学校法人と生徒・学生の関係は契約で あるが r契約といっても対等当事者間のそれではなく,契約内容の決定につ いて,学校側に広範な権能が認められた附従契約である。『私学の自由』がこ の権能をさらに補強し,こうして私立学校は生徒との関係においてかなり優位 な地位に立ち,独自の学内・生徒規律を設定できる(独自の教育的校風を形成 する自由)ojと述べ,契約内容については学校側に大幅な裁量があるとしてい た。しかし最近の著作では,公教育運営への参加基本権という観点から,親の 教育権には家庭教育の自由や学校選択の自由という消極的な自由や選択権だけ -24 - 龍谷大学論集
でなく,公教育運営に参加したり,学校教育を共同で形成して~)く権利が内包 されていると解されるりとし,その理由を①子どもの学習権・人間的な成長 発達権の保障要請,②親の教育権の法的性格(自然法的・根元的基本権),③ 親の教育権(教育責任)の委託契約関係というアスペクト(親は子どもの教育 を学校に白紙委任しているわけではなく,契約の当事者として契約内容の形成 に関与できるということ),④親に学校選択権や教員選択権が存在しないこと も親の積極的な権利や能動的な権利を根拠づけるからだとしているo結城はこ うした観点、から,公立学校では「学校部分社会論」を法理に据えることの難点 を挙げた。他方,私学にあって生徒の基本的人権は尊重さるべきだが r私学 の存在およびその自由は現行憲法体制によって強く擁護J されており r一般 的にいえば『私学の自由』は生徒の基本的人権に原則的に優位する」としてい るのは,私学にあっては契約内容については学校側に大幅な裁量があるとした これまでの認識を基本としていると思われる。ただ,私学の自由は私学の存在 理由,生命とされているため,公立学校での「部分社会論J と同列視すること ができないとしているが,私立学校における学校と親との関係はどうなるのか。 私学では契約内容に大幅な裁量があるとした以前の著作の主張に,私学おける 「部分社会論」はありうると思わせる考えをにおわせる発言をしているo 私学の自由は公教育や公立学校との関連での法的関係を示しているものであ り,親の教育の自由を無定量に制限するものでもない。親の教育の自由は私学 を選択したことで終わりとなるものではなく,事後の教育プロセスに対しても 及ぶものと解すべきだろうo 第
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もうひとつの理由とされた,教育は学校・教師と生徒の聞の問題であ り,関係だとする認識である。こうした認識には,ここで言う「教育」のレベ ルというか,ステージについて考慮されず,直接的教育活動に限定した教育関 係の理解があるように思えてならない。というのはここで想定している教育は, 日常の教育活動における教育や指導と ~l う場面での「教える一学ぶ」という場 面を想定した,く教育=教師一生徒モデル,学校一生徒モデル〉という,言わ ば狭い教育関係であるからだ。教育を「教える一学ぶ」という関係に限定して 狭くとらえると,一方の当事者は生徒でしかあり得ない。おそらく本件の司法 判断の根っこにある考えはこうした教育関係の理解であると思われる。こうみ ると,在学契約関係における契約事項は r学校部分社会論J のもと,実態的 には学校側が一方的に定めた事項であり,それは「強 ~l られた合意」とも言え るものである。「複数の関係者が合意という窓思表示によって成立する法律行 親の学校当事者性に関する研究(小島) -25-為である契約」として,生徒が契約の当事者になっている,されていると学校 側が都合よく解釈しているにすぎないのではないか。したがって,契約事項と しての教育の存在はきわめて不安定,ないしは暖昧であるというのが現実だろ うo しかし教育関係を学校運営ないしは学校経営の一過程,広くは公教育の過 程だと考えれば,そうしたプロセスへのかかわりでは,生徒は言うまでもなし 生徒の成長・発達段階や判断・責任能力のレベルという状況に鑑み,親が生徒 をサポートし,時に生徒と一緒に,もしくは生徒に代わってかかわっていくと いうことは当然なことであると言わねばならない。 学校運営への利害関係者という意味では親も当事者と言えるが r教育の当 事者」という意味では親は当事者にはなりえないとする伝統的な考えがある。 さらに一般化して言えば r学校部分社会論」においても,当事者はおのずと 学校・教師と生徒に限定されざるを得ない。文部高官を経験した人や教育評論 家と言われる人にも多くみられる光景である。この“通説"が今関われている。 そうであっても事案によっては,責任能力の観点からみて親が生徒と一緒に, または親が生徒に代わって法的地位に立つことは認められるだろうし,認めら れるべきである。教育行政に対する教育条件整備要求権とのかかわりで,親の 教育権は子どもの学習権・教育を受ける権利に「代位するものJ として,条里 上伴なうとする認識があった。とりわけ本件のように r論語に依拠する道徳 教育Jが江戸取の教育理念や教育目的・方針のもとで行われ,また江戸取の教 育理念や方針として“看板",“売り"としてきた教育内容が事後的に変更され る場合には,そうした状況を理解し,その是非について考えることは,生徒の 能力を超えたものであるから,生徒と一緒に,もしくは生徒に代わって生徒の 利益を守り,学びの環境をよりよいものにすることが,親の子に対する教育責 任であるし,教育の権利として認められなければならないというのが法理だろ うo生徒の成長・発達段階や判断・賞任能力のレベルという状況に鑑み,親が 生徒をサポートし,時に生徒と一緒に,もしくは生徒に代わってかかわってい くということは認められてしかるべきある。そうでなければ,親として生徒の 「最善の利益J (子どもの権利条約)を守り,保障することができないからで ある。だからこそ,法的にも親が生徒に代わって生徒の利益を守ることを法的 に確認し,それを保障する仕組みをつくっているのである。 世界人権宣言は「親は,その子に与えられる教育を選択する優先的権利を有 する。J
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項),また「子どもの最善の利益Jr親の指導の尊重Jを謡った 「子どもの権利条約Jは,親が「その児童の発達しつつある能力に適合する方 - 26-龍谷大学論集法で適当な指示及び指導を与える責任,権利及び義務を尊重する。」と規定し ているなど,学校教育における親の当事者性は国際世論となって今日に至って いる。ドイツ,イギリス,アメリカ,オーストラリアなどでは,そのかたちは さまざまであるが,親が教育を含む学校事業の運営に参加して意思決定するシ ステムが存在するようになって久しい。我が国の公立学校ではここ10年,学校 の教育問題の解決,つまり教育経営はもちろん,その他の事項についても,学 校と生徒・親の合意のもとで進めるということが当たり前だと考えられるよう になった。地方教育行政法はこれを法定した。これを学校理事会として実現し た東京都足立区立五反野小学校は学校理事会を学校の意思決定の最高機関と位 置づけ,運営している。「意思」には教育課程,人事などが組み込まれている。 私学にあって在学が契約として受けとめられるようになって久しい。司法も それを認めるところとなっている。しかし契約は入り口の入学手続きのところ で終わっているのが実情だ。出口(進学・卒業)を含め入学後の教育プロセス も契約事項であり,子どもの成長や発達段階によって親もそこに当事者として かかわるという認識とシステムの構築が私学経営や私学の将来にとって重要に なると思われる。 地裁判決は,親がなぜ学校教育の当事者になれないかについて,教育は,も っぱらこれを受ける主体である生徒の利益のために行われるべきであること, また生徒が教育に関する給付を受ける主体であることの二つを挙げて,当事者 の一方は生徒でしかありえないとしている。また「親に,学校選択の自由があ るからといって,そのことから当然に,子が中学校文は高等学校に入学後の在 学契約の当事者が親ということはできない」としている。これに対して「控訴 理由書Jは r親には,学校を選択する権利はあるが,それは学校を選ぶだけ の権利であって,親が教育契約の当事者にはなることはできないという判断で ある。」 なぜ親は学校を選択するだけで,学校を選択した親が学校と契約を 締結できないのかという理由については結局「給付を受ける主体は生徒だか ら」ということを言っているにすぎないとして,給付を受ける主体は必ずしも 契約の当事者となるわけでないことは「第三者のためにする契約J (民法537 条)に明記されているとして,その法理の一面性を批判している。 親の当事者性を法律論として立証するためには,こうした「第三者のために する契約」のほか,教育学,学校経営学の視点、からは,教育それ自体の機能, 利害性の問題としてとらえ,生徒や親にとって教育が有する機能や利害という 面を第一義的に着目し,それを条理として立論していくことが基本だと考える。 親の学校当事者性に関する研究{小島) -
27-こうした方法は,結局,第三者のためにする契約」という法理を“武器に"も しくはそれを戦略法理として,より実践的な力,影響力に変えていくのではな いかと考える。「消費者契約法J を活用して,事業者(学園側)が消費者(生 徒・親)に提供する教育サービスが当初,つまり入学時に事実上,約束したと 解釈できる教育目的や教育方針を当事者の合意・承認のプロセスを経ずにもっ ぱら学園側の都合により一方的に,もしくは勝手に変更したことを理由に現状 への復帰と損害賠償を求めることの方が有効だとする考えもある。この場合で も,生徒の人間的成長にとって教育がいかなる価値や利益を有するかを一般論 としてだけでなく,本件のような具体事例ごとに立証することを通して,法理 論を組み立てる必要があると考える。そうすることによって,生徒(子ども) の判断能力や貨任能力など発達・成長段階に対応する精神的能力を考慮する必 要が生まれ,生徒の判断や責任をサポートし補完する,もしくは保護・指導す る親の立場や役割が明確になると考えられるからである。 ( 4 )親の学校選択とその選択が及ぶ範囲一学校選択の自由と親の教育権の パースペクティプ 江戸取訴訟では,三審とも親の学校選択権を争点・論点、として扱い,それへ の認識が判断の重要な基準となっているD 東京地裁は,親の学校選択の自由を認めながらも当該事案はその自由を侵害 した不法なものとまでとは言えないとし,損害賠償の請求を却下したのに対し て,高裁判決は不法行為に当たると次のように判示した。 被告人らは「親の子の教育に対する支配権に由来する,学校選択の自由を有 しているのであり,このような学校選択の自由は,教育の自由を実現するため の重要な権能であって,法的保護に値するものというべきであるから,これに 対する違法な侵害に対しては,損害賠償を諮求することができるものと解する のが相当である。 そして,控訴人らが,学校選択の際に考慮した事項が事後的に変更された場 合には,学校選択の自由は実質的に無意味なものになるから,被控訴人が,控 訴人らの子である生徒が江戸取に入学後に控訴人らが子の入学する学校として 江戸取を選択した際に顧慮、した事項を変更した場合には,これについて正当な 理由がある等の特段の事情がある場合を除き,控訴人らの学校選択の自由を侵 害するものとして,被控訴人には,不法行為責任が成立するものというべきで - 28- 龍谷大学論集
ある0 ・H ・H ・..中略...・H ・..。教育内容の事後的な変更についても,実質的に学校 選択の自由を侵害するものと認めるのが相当である。したがって,被控訴人の 上記主張は,採用することができない。」 学校選択を親の教育の自由権として「親の子の教育に対する支配権」だとし, その観点から学校がとった措置は教育内容の事後的な変更に当たる事例と認定 することができるとし,違法行為であり損害賠償に値する行為であると判示し た。学校選択の自由を入学後の教育事項にまで及ぶとした判断は,それ自体, 興味ある判決であり,ここから今後,親の教育の自由や当事者性を考えるに当 たり,ふくみのある,もしくは新たな可能性を示唆する議論や知見を創造する ことができるのではないかと考える。とりわけ高裁は,学校選択を“入口"の 問題にとどめず,入口を通ってからの後の“事後"の変更に対しても学校選択 の意思はさらに前向きかっ積極的に作用し,及ぶべきだと判示した。 本件にあって,我が子たる生徒を訴えの当事者にしなかったのは,現に子ど もが通学している学校を相手に訴えるということは通常はきわめて困難であり, 不可能であり,子どもが不利益をこうむることもありうるとの認識があった。 子どもが「人質」になるからこそ,親たち自らが原告となったと高裁への「控 訴理白書」で述べている。こうした「人質Jへの懸念は広く理解されているこ とであり,判決が親のこうした思いを理解することに跨踏しているのは,国民 の回線に立っていなし),生活感覚,社会感覚から遊離した判断と言わざるを得 ない。 「論語に基づく道徳教育J は,まさに江戸取の教育マニュフェストであった。 それは道徳の授業にとどまらず,学校が総力を挙げて江戸取の教育方針・戦略 として推進してきたものである。江戸取の場合,これについて「学校案内J, 学校説明会などで教育の特色として積極的に説明している。また入学手続きを まだしていない生徒や親に対して入学を促すため,江戸取の教育は「他校に無 くて,本校だけにあるもの」としてその独自性と特色を強調してきた。こうし た教育に「賛同」して,また「知っている」ことで入学させたということをも って契約というなら,親は立派な契約の当事者であると言えるだろうo とりわ け12歳に入学する中学生の場合には,その「当事者能力Jr判断能力Jr責任能 力」という観点、からも r子どもの最善の利益J (r子どもの権利条約J) に第一 義的に資任を負う親が契約のもう一方の当事者の部分を構成することは至極当 然なことであると言わなければならな~) 0 それだけではない。こうした認識な 親の学校当事者性に関する研究(小島) -
29-くしては親として江戸取に入学した我が子の利益を守ることは不可能になるか らである。 以上のことから,親の学校選択の自由は契約の当事者(法定代理人)として 親を認知することにつながる論理へと発展させるよう構成しうるのではなかろ うか。学校選択は,入学後の教育内容や教育活動とその運営に対して親が自ら の教育意思を子どもと共に,もしくは子どもに代わって表明し,参加すること を予定している,またそのように発展的に理解することが,これからの学校教 育の在り方を構想し,公教育を進化,発展させるために不可欠な法戦略だと言 える。実は,判決自身がそうした可能性を示唆しているのである。地裁は, 「親の教育の自由は,主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自 由に現れるものと考えられる。親に,上記学校選択の自由があるからといって, そのことから当然に,子が中学校又は高等学校に入学後の在学契約の当事者が 親であるということはできない。私立中学校及び私立高等学校を経営する学校 法人は,親等の保護者との契約に基づいて教育に関する給付を提供するもので はなく,教育に関する給付を受ける主体である生徒との聞における在学契約に 基づいて上記給付を行うものというべきであり,被告との間の在学契約の当事 者は生徒であるということができる。」としている。つまり親の教育の自由が 学校教育に及ぶと理解されれば,子どもの発達の程度や精神的成長の程度によ り,子どもと一緒に,もしくは子どもに代わって,親は当事者として学校法人 と契約関係にあると解釈可能だろうo これにかかわって,兼子仁は学テ最高裁判決についてro'親の教育の自由』 を『私学教育の自由』とともに確認したことは,法的にも社会的にも小さから ぬ意義をになっている」と述べ,その観点から, (当時,公立学校では学校選 択制が未導入であったため)学校選択の自由は特に私学を選ぶ自由としてある が,それがない公立学校の場合 r子どもの学習権・人間的発達権に対応する 親の権利としては,学校選択の自由はそのままではなく,しだいに各学校にお ける学校教育参加の自由に昇華していくべきものではなかろうか。……中略 …。親の学校に対する教育要求権は,最高裁判決でも確認されたと言ってよ い」としている。 筆者が注目するのは,当時,親の学校選択の自由があったのは私学であり, 「選択」という自由があることで,本件のような事後的な変更の問題は関心の 外にあったこと,しかし本件では学校選択権とのかかわりで選択後の事後的な 変更にまで選択行為が及ぶとしていることである。堀尾輝久は,学テ最高裁判 - 30ー 龍 谷 大 学 論 集