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真宗研究5号 008藤季 〓「初期の越前真宗教団」

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Academic year: 2021

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、はしがき 、越前向徒の系流

︿本文中、敬称をすべて織させて頂きます c ︶ 一 一 一 、 党 指 と 越 前 門 捷 ︵ 付 、 怒 同 一 情 尼 交 嚇 閣 の つ あ の 磁 え い 一 ぷ く い ︶ 臣、掠道と大符門徒 五 、 党 如 と 誇 門 徒 ︵ 付 、 移 党 議 総 の 燦 図 ︶ 六、大町門徒と梯光寺 七、普驚と越前門徒 初期の越能楽家教団

七 七

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初 制 崩 の 七 /¥.

力主

﹁越蔀の畏﹂と呼ばれている北陸の一角はわが真宗にとって教学・教誌の南西において古来各種の問問題のあアた土

v円、 との一需は宗祖の滅後いち単くこの地に興った門徒の約百年間の 一般との関連の函につい て い う 時 代 的 な 限 界 在 、 て ニ 、 越 前 向 識 の 系 涜 宗程が越後に密読された時の賂噴は延喜式に記された宿駅、江州縞例経︿海津﹀から峠七里の山路を越え松原︿敦賀︶ 鹿 蒜 ︵ ム ヱ 圧 ︶ 相 関 津 ︵ 福 井 ︶ 二 思 ︵ 芦 原 ︶ を 経 て 恕 賀 に 出 る も の で あ っ た c その行程は大宝令によると宮物運送が上七 日下四日ということになっているから、宗視の場合は法然上人とは麓々事憶が違っているし、左程多くの日数は費や さ な か っ こ の 聞 に 取 賀 市 中 山 録 の 小 一 見 小 扇 、 鯖 江 市 の 車 道 場 な ど の 一 伝 説 が あ る 。

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よ う に な っ よ る も 、 , 、 ー しー

で あ り 、 来 ↓ 家人が越前に巡教した鋲湖沼に曙依して興した寺院が一向一授の時に活躍 し た こ と を 記 し て い る こ と な ど か ら 間 間 違 い な い c 次にこれとめ、や年次的には遅れると患うが、顕智によって開かれた三詫丹徒が選前に移ってこの地に高畠系の寺読 な 建 立 し 従 っ て 門 徒 会 ︸ 造 成 し た 事 実 が ふ ぬ る 。 そ れ は か の 一 二 河 念 梯 相 承 日 記 ︿ 貞 治 三 年

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て三六回

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噛 閣 議 ︶ に 二 一 一 向 よ り

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て〉 ﹁ 牧 塚 ノ という人がい七、この人が﹁越前オホノいに を 開

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いたことを慈球ずる記述があることから知られるのである。この佐塚 の ﹁ 狭 束 郷 ﹂ の こ と で 、 一 等 信 と も 関 係 が あった入と思われるが、現存の資料ではこの噂牲と専光寺と役 致させるこ で き な い c す な わ ふ り 朝 倉 始 末 記 に は 噂 性 役 大 野 し 、 高 田 専 修 場 所 肢 の 永 正 七 年 二 月 真 一 抑 制 上 人 歎 記 の あ る ﹁ 三 日 出 松 来 系 図 ﹂ に は 、 顕 智 の 弟 子 中 に ﹁ 噂 性 場 西 中 一 ご てある。この専潤寺法高田派古来の﹁越前四ケ寺い の 髄 刊 と し て 江 一 戸 初 期 ま で 大 野 郡 に 在 つ ある。ま いうのは、現在の桜井郡奮の松樹院、商都芦惑の安議 院 、 お 閣 の の 古 名 で 、 住 宙 辻 田 内 務 河 口 荘 新 郷 に 在 っ て 降 盛 を 緩 め た 有 力 中 一 す で あ ホノ﹂という地名を正とする限り、専光 たが開基は ﹁ 額 限 切 ﹂ と い う 鎖 智 の せ 弟 で あ る 。 そ こ で 一 一 一 河 愈 附 抑 制 相 承 日 記 に 言 う の誤写また と に 角 宗 組 の 誠 後 い ち 早 く 一 ⋮ 一 間 系 流 の 等 性 が 越 能 大 野 地方に教総仕拡張していたことは事実であづて、さき の武士で顕裂に入門したグループと共に下野高田を 本寺としていたのである c と こ ろ が 箆 に 同 じ く 顕 智 、 の東海地方に興った門徒の流れが越前に来て副部種の勢力となったもの の 末 藷 を 名 粂 ゐ 郷 民 で 一 二 濁 の 内 議 そ 舗 と 鰐 でいわゆる鱗謡大町門徒の始視と称せられた人で あ る 。 こ の 門 徒 は 後 述 す る よ う に 応 長 元 年 ︿ 波 紋 の 滅 後 凶 九 年 ﹀ は諸国在来の ぬ き ん で っ て 時 じ く 一 一 一 部 丹 畿 内 下 ゼ 越 前 に 一 和 田 とともに京都本紙守認訴に帰依したの る C のように等しく顕智という宗視の破弟子の法流で 註 の 滅 後 田 五 十 年 に し て 問 中 く も 越 前 に 於 て ニ 潮 流 が 受 じ た と い う こ と 誌 、 ひとり越前だけでなく宗祖誠後の 段門徒の間に発症した現象であるこ とは古来の史家の認めていると ろで、こと 本 願 寺 に 対 し て は 、 か の 准 善 事 件 や 党 中 仔 二 語 義 絶 事 併 な ど も 影 て、宗祖議後の躍蔚子を中心として各地に自然発生約に結成された門能が、感情的に親・練の二傾向に分れ後に 初 制 制 の 越 前 真 宗 教 岱 七 九

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初 繍 期 の 柑 細 部 爽 楽 教 団 /

¥ は次第に対立するようになったことも止む役得ないこ、乙であった。そこで三浦念静相承日記が筆写された壌には、一一一 荷間い誌が和罰︵京都方﹀と桑子︵高田方︶との二探に分れていたことはこの日記の文勢からも桐明らかに知り誇ること であり、越謡の担選が三河和国内徒であることから一応高田系とは期系とみられていたことは、鈴光寺系の門侶交名 帳 ︵ 光 滋 綴 本 ﹀ に 都 道 が 顕 智 門 下 に 挙 、 げ ら れ ℃ い る の に 、 高 田 系 の 妙 緩 寺 本 、 光開制寺本には全くこれを鎗いであるこ と か そ こ 一 一 ﹀ へ 下 向 し た 時 は 、 (!) ぷ︸みノ j i 判 ゆ 、 o , ナ u r 望 しV 重主 郊 遂 を 毅 知 明 の 法 流 と し た の は 、 内 議 げ か 磁 鐙 に よ っ て 対 流 に 入 つ よ っ た の で み る 。 し か し 関 口 M に は 尊 民 一 慨 も 同 行 し た こ と が 記 し て ゐ る し 、 円 警 は 入 門 は 顕 智 で あ る が 、 そ の 後 の 指 導 は 近 く の 専 憶 に 受 け て い た の で 、 現 存 の 七 潟 両 濯 、 八 高 僧 図 絵 に は 真 線 、 導 出 一 泊 、 閉 口 議 、 如 道 と 次 第 し て い る の だ ろ う 。 一一、覚如と越諮丹徒 こ L い て い マ あ る 3 の こ の 彼自身の さえ し、 だものであっ め檎修し の翻影を泰持しハこれはその頃の大谷にあっ 一 の 絵 型 式 で あ る ﹀ 、 川 w蔀 制 作 に 樹 影 蛍 留 守 識 と し て た 長 子 存 党 を 帯 同 し 、 制 自 ら 本 典 会 如 道 に 一 伝 授 し 、 仙 円 存 党 が こ れ か ﹂ 如 道 に 議 述 し た の で あ る 。 こ れ 詰 如 道 、 が 、 治 時 の 越 前高盟問門徒円以上に勢力を持っていたことを反証するとともに、党担がその勢力にかけた信頼の程も推知されよう。 し かもこのことには次の背景があったことを見逃せない。 ぞ れ は 伸 、 麓 年 ︵ 排 除 慶 一 一 一 ︶ 正 月 、 大 谷 御 影 堂 沼 守 諮 問 問 題 に つ いて門徒の京議をどうして ず3 つ っ た が 儲 y、う 安積門徒の信

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任を得たに止まり、最も信頼した三河和田門徒等からさえ屈辱的な十二箇条の懇望状をはじめ諸種の条件を提出され て 漸 く 承 認 さ れ た こ と 。 刷、従来宗門の重鎮として宗祖滅後の門徒代表の立場にあり大谷御影堂の為に格別の尽力を した顕智がやはりこの年没したこと Q 村、この二事件により党如の企図する宗門経営に必要な実力者を早急に獲得す る必要を生じたこと。そしてその最初の工作として行なわれたのが越前下向であり、 いかに如道やその門徒にかけた 覚如の期待が重大であったかが想像される。 なおこれは当面の議題とは論旨が外れることであるが、上述の鏡の御影に関連して、かの恵信尼文書第四通︵弘長三 年二月十日付︶に﹁叉あの御えいの一ふくほしく思まいらせ候﹂と記された御影は、鏡の御影の類であろうと推定され るのでこの際学者の御批判を仰ぎたい。すなわち党如がその裏書に﹁末代無隻重宝﹂と記して帰敬した鏡の御影は、 同種のものが伺故か図画されてあって、それが宗祖の没後も覚信尼の手許にあることそ知っているのでその中の一幅 を所望されたものである。このことは次の諸点で証明されよう。 て鏡の御影はその製作と伝持について他の御影のように、門弟など第三者との関係記録もなく、 ただ覚信尼から 覚恵・覚如と内部的に伝えられたものである。 ﹁あの御えい﹂と指記されたことは、宗祖の御在世中この御影を恵信尼が見て、覚信尼とともにこの御影につ いて二人だけの共通の話題となったものであること。 ﹁あの御えい﹂は非常に勝れたものであり、恵信尼が宗祖の往生をきいて特に所望して来る程なつかしく印象 付けられていたものであること。 四 ﹁の一ぷく﹂ということは二一帽以上の数があったこと。そしてこの御影は安城の御影などとは異なって、簡単 なスケッチである為に何枚かを容易に画くことができること。 初期の越前真宗教団 /¥..

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初期の越前真宗教団 /I. 玉、この御影は極めて小型であるから、原画だけならば書信状と同封して遠方に送ることも容易である。 以上の五由で私は恵信尼文書の﹁あの御えい﹂は鏡の御影の類であると推断したい。 さてこのような期待と信頼をうけた越前如道とその門徒はどのようなものであったやたろうか。 四 、 如 道 と 大 町 門 徒 本願寺の覚如が彼の生涯中稀有の規模をもって遥々下向した越前大町門徒およびその首領如道についての適確な資 料は遺憾ながらほとんど現存しない。これは如道没後の彼の門徒の一部が後年、 異義者として慣訴されたこと、従 って蓮如によって大部分が正義に帰した後は従来の記録資料をえん滅したこと、 および一向一授の際に高田専修寺と 組んで本願寺と対立し、結局敗れたことなどがその大きな原因とみられるが、反故裏書︵一五六七年︶や、ぞれとやや 後 れ る ︵ 一 六 四 五 ︶ 頃 の 中 野 物 語 、 一 ニ 門 徒 法 脈 、 さ て は 存 覚 袖 日 記 ︵ 一 一 二 七 三 ︶ 、 朝 倉 始 末 記 ︵ て 六 OO ︶などの民間資 料および現在の寺院門徒の分布状況から考えて、最盛期には越前、加賀、近江に

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って門徒を持ち、その中枢となっ たものは横越ノ道性、鯖江ノ如覚、帆山ノ道願、河北ノ祖海などのいわいる如道門下の四天王と称せられるものであ り、北園、美濃両街道に至便な足羽郡大町を本拠として越前平野の要地に割拠していたのである。これらの統領如道 が三河円善の弟子であることは前述の通りであるが、彼の寂年享寿その他の履歴についてはただ前記の諸資料や古来 からの伝説によって推定するより外にない。 しかし西山全書に収められている鎮流祖伝︵巻入︶に如道の長子と称す る良如の寂年亨寿を、応永十九年、寿六十九才と記してあることから逆算すると良如の出生は康永三︵一、三四四︶年 となり、この年は党如七十五才、存覚五十五才であるから、被の後に尚二人の弟があることから推して常識的には如 道の年令を存党より十余年の若さとせねばならぬがそれは応長元年の越前下向の事件と適合せぬ。この点から私はか

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の鍛流祖母の記事の正織さを疑うものマあり、知道は覚如とやや後輩の年令であったと想定した この如道教自については、大野から蹴線コ

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ス で ぬ 水 落 ハ 現 在 鱗 立 中 市 ︶ 地 区 に あ る 長 泉 寺 て い ハ 議 若 丸 ﹀ その頃の越前に流行してい 門の教界に対し出した二十簡条の難難から 成 る と 称 す る 会 問 状 、 およびこれに対して知選が答弁反駁したと伝えられる一 z 愚 暗 記 巡 礼 い 一 一 巻 の 中 か ら 、 その組織や汚詫の風儀などが知られるが、これについて法昭和十年 ら発行された拙著っ愚稽記返礼の研 究﹂に粗雑な紹介と意見を発表し いだから今はその最も特徴と考えられる点だけを述べておこう。 まず門織の持議については 、 空 家 の 男 女 が 集 ま っ て 愚 禿 養 摂 ? と 一 一 切 っ 流 人 の 造 っ た 和 讃 を 詩 音 に う た い 詠 じ 国 音 に

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併 な 斡 加 え て 、 阿 弥 賠 癒 を も 読 ま ず 六 詩 礼 識 が 一 も 数 行 し な い 。 の不浄をも議めず、袈襲、衣、珠数も具足しない 9 鍛 一 部 を 無 援 し 、 死 人 の 遠 善 の 為 に 卒 都 議 も 建 て ぬ 。 部時の寄合というものがあり、この時は男女関に風把の乱れもあるらしい。 玉、智識と称ずる指導者がいて謀議に佳み、男は号館兵杖でこの議換を守護することもある G こ れ ら の 諸 点 は 、 の内容から誰して尚一時の真宗門能の実態であったこ る 家た教義の脅徴としては、多分に浄土宗西山系の混入があることで、回廊鶴恕巡礼などは、 と か 鰐 親 掛 溝 型 人 モ 門葉トシテ慈鎖和尚ノ フ 、 後 ニ ハ 技葉ト成テ法然/法流ヲ受ケシヨヲ以来専 ラ 匙 納 期 発 抑 / 以 テ 関 川 弟 等 などの文章がなければ、真宗 ぬ も の すなわち頗始形態の越前 の教義的指道経理法浄土宗罰山同義であったのである。福井県史には、難長年中に証宮内下の法興が府中 初湯の泌総真宗教隠 入

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初 惑 の A 悶 の武空市、大符より国総コ

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ス四車︶に誇在して圏中を布教したことを記していることも正確な資料在京されてない けれど事実であろうと思われるし、存覚一鶏記のかの越前下向の条下の﹁法二欝与奪こという記述も知道が名実とも に当流に凶揮した際の重大な信仰上の転撲を含むものであり、愚暗記返札を額道の著とすれば西山義から真宗義への転 入を意味するものと解される。 やや外れる か れ て い 甲 、 一 。〉 ことは、そ :h, こ と と も に 、 0) の あ る 部 附 組 そ 提 示 し て い る も の と 思 う 。 五 、 覚 如 と 諸 問 徒 応長一沌年という年は覚如にとって泣実に多忙な であった ο 家 、 ず か の 経 世 相 同 に よ っ て 破 却 さ れ た 大 谷 の 影 堂 が 漸 く 復闘したこと。越前下向のこと。 ず ︸ z z は伊勢に巡教したこと。十見に今出川川 て 々 お 守〉 で い る の ︾ O X 冶 の人間的苦悩に つ つ 嫡 制 判 々 司3 に敬眼せざる 、 。 γ ν

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かし余りにも強い大谷本廟中心主義の推進は、ともすれば彼の期待を裏切る結果をも生じた G その最も大きなも のが授が大谷留守職就在以後の諸国間散在の問弟遠の態度や、如道、道性、了療、慈空など新規参入弟子の覚拐に対 する離反と長子存覚えの信頼という心理現象である。かの第一次の存立惑絡事件の時に、奥州をはじめ諮問械の上足門

て こ と や 、 伸 光 寺 、 じ

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その家族を援護したことなどもその例証といえよう。 かの本願寺史の中でも特異な事象とされている覚存二師の永年に互る義絶についても、古来種々の解説が詰みられ ているが、存覚が留守職をねらった為とか、両師合意上の政治工作であるという観方よりも、もっと根本的な異質の 原因があったものと見たい。それは右のような、京都大谷本廟︵本願寺︶をもって全門徒の教義教団の最高唯一の権 威とすることを畢生の念願とした覚如の信念と期待に、必ずしも完全一致し得なかった存沼の性格と行動、そしてそ の存覚に共鳴しこれを支援した前記諸門徒の動向である。 覚如が留守職就任早々に着手した門徒工作の第一陣である越前下向は一応の成功を収めたものの、反故裏書の著者 が﹁然るに御上洛の後法流において如道新義を﹂と記す結末になったことは、新らしい法流の内容もさること乍ら、 覚如の規範を離れて存覚を指導者と仰いで新門徒を造った梯光寺や錦織寺が、改邪紗の所破となったように︵註︶、大 町門徒も存覚袖日記や一期記︵五十七才の条︶に記すごとく覚如の統制を逃れて長く存覚と親近するようになったその 事態に原因の重点があると考えるのである。このような観点からも、私は覚存両師義絶の原因を二師共同の謀議によ る政治的擬装であるとする最近の学説には次の諸点とともに賛し得ない。 一、第一次義絶︵元享二年︶頃には南北両朝は分立していない。 二、第一次義絶は了源入門の翌々年夏のことであり、この義絶は了源と存党の交際期間中続いた。しかもこのこと を存覚一期記には﹁此両年口舌之事相続、遂預一一御勘気こと記している。了源入門に関係のある紛議であることが判 る 。 三、第一次義絶中の寄覚やその家族の困窮は極めて甚だしかった。住所も近江、東海、東園、奥州と転々し、和解 のために苦心した存覚や門徒の努力には到底ゼスチ旦アとは考えられないものがある。 初期の越前真宗教団 八 五

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初期の越前真宗教団 八 六 まことに存覚の義絶は、教法の純すい性と尊厳を守るために敢て善鷺を義絶された遠祖親驚の心境を偲んで覚如が 断行したものであり、こう解釈してこそ暦応元年三月に存覚が法華宗徒と対論して﹁法花衆屈、当方弥繁﹂ ︵ 一 期 記 ︶ の功績により満十六ヶ年の義絶を解いた覚如の措置がすなおに肯ぜられると思う。ただ覚如のこの信念に基ずく言行 が果して完全な普遍妥当性を持つものであったかどうかは、後年の史家に種々の批判の余地を与えているところであ る 。 註① 改邪紗十二条、十四条は、さきの大町門徒の特徴として記した点にやや契当するが、これは後述する如く悌光寺門徒にも該 当 す る 。 改邪紗第六条は﹁本尊聖教等の返却﹂を邪義として破しているが木部錦織寺ではこのことを実施していたことは袖日記第二 六以下六箇所に明らかである。また悌光寺了源の絵系図序文にも明に乙れを実施すべきことを示している。 ② 六 、 大 町 門 徒 と 悌 光 寺 以上は、越前真宗門徒の初期の姿とその動態を主として私見を述べたのであるが、ここに今一つ崩脚光寺門徒との交 渉を考えてみたい。それは両教団の始祖がともに党如、存覚門下であったばかりでなく、さきに挙げた念悌和讃調諦 等の門徒行儀の点にも大いに共通類似しているものがあるからである。 空性房了源が京都大谷に参入したのは、覚如の越前下向後十年目、覚如五十一才了源二十六才の時である。爾来了 源が四十二才で死去するまでの十六ヶ年、 ひたすら存党を師として﹁法円以下御門流事﹂のすべてを伝受したことは、 あたかも覚如と乗専との交際を偲ばせるものがある。彼は入門以後五年にして山科に興正寺を建て、八年目には汁谷 に悌光寺を興すなどの目覚ましい活動をして遂には大谷を凌ぐに到ったのであるが、存覚はこの了源を指導し初めて

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二年目に父党如から義絶され、これが了源の生涯中続いたことは前述の通りであり、義絶中と雄も両者の交際には変 りなくむしろ数多くの聖教を書き与える等して一層深いものがあった。従って了源の行なった宗教活動のすべては存 党の了解叉は指導の下に行なわれたものと解しても不当であるまいし、越前大町門徒の如道、道性の面々も亦、存覚 門下における先輩として了源と種々の交渉のあったことも当然推定される事である。 さきに記した愚暗記の﹁当世一向念悌シテ在家之男女緊メツツ、愚禿善信ト云流入之作リタル和讃ヲウタヒ詠メテ、 同ジ音ニ念悌ヲ唱ル事有リ﹂という文章は、越前の初期真宗門徒の行儀であり如道の大町門徒のことを評したもので あるが、了源の著である﹁算頭録﹂にはこの意議をさらに詳しく次のように宣伝している。 ﹁コトニ読謂ニオイテハ浄土ノ三部妙典ヲハ U メトシ論釈ノ謁謂妙句アリテ読前ニ堪エザル人モオホシ、 コ コ ヲ 以 テ聖人ハソノ称へヤスカラシメムタメニ和讃ヲツヅリテ調詞ヲナサシメタマヘリ︵乃至︶マタ念伸モノウカラントキ ハ和讃ヲ引声シテ五首マタ七首ヲモ調謂セシメタマヘリト﹂ また智識という指導者の権威を認めては同じ算頭録に ﹁後世ヲネガヒ念悌ヲ行ズルトモガラハ一世ノ勤苦ハ須奥ノ間ナレパ無量寿国ニイタリテ楽報ヲウクルコトヲオモ ヒテツツシムベシト聖人ノオホセラレタリト相承シタマヘル智識ノ相伝ナリ、 ユメユメ違犯ノ犠アルベカフズ、タダ 教授ノ智識ノコトパヲ信ズベシ﹂と言っている。これもさきに記した通り越前門徒に特に見られた点である。 これらのことは、本願寺蓮如の頃になれば全真宗門徒の通儀となってしまうが、初期に於ては﹁邪義﹂と非難され たのである。しかもこの行儀は逸早く越前門徒によって創められ、存覚門下の了源に採り納れられたという推定は年 代的にみて成り立つし、ことに本願寺に於ては巧如まで六時礼讃であった朝暮の勤行を﹁当流ノ朝暮ノ勤行念梯ニ和 讃六首加へテ御申候事ハ近代ノ事一一テ候

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文明ノ頃マデ朝暮ノ勤行ニハ六時礼讃ヲ申シテ侍リシ也。然ニ蓮如上人 初期の越前真宗教団 八 七

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初 認 の i¥. 入 越前之宮崎へ御下向挨テハ愈悌ニ六首ノ御沙汰候﹂と記してい の あ の 工 識 さ れ 越揺に吉くか れた念掛和畿の数行形式宏、織的認識歎法味愛楽の巧方便として自家に転用された も の と 素 一 鼠 に 解 釈 し た ら ど う だ ろ う か 。 ‘ 家 一 次 義 絶 巾 の 作 党 が し き り こ と は 南 朝 と の 際 係 企 制 加 わ せ る が 、 了 源 の 死 語 も の苑簡にも擬制鴨方に加認したことからであるという伝説がある と 現在福井県内にある悌光寺深寺院の由緒に了 勝その人と関係あるものは殆んどなく、後年のいわゆる異計によって大町が分裂し の一部が本願寺に付 く こ と を 潔 し と 金 ず 燐 光 寺 に 団 関 嘉 し た り 、 一 向 一 授 げ に 大 蛇 門 徒 か ら の 転 入 し た 寺 院 が 多 い こ と 等 は こ の の間流が特別な友好関謡にあったことを示してい 七 、 警 驚 と 越 前 向 徒 の 持 史 マ ば慈挙法門佐、秘事法門とい 々することにな ているが、悲はこ 0) っている説の中に捻幾っか て い る も の 、 今 は 議前門徒と議驚についての私誌な申し述べて諸婦の御数一本を碍ぎたい。 結 論 か ら 申 せ ば 、 総 諮 問 げ 誌 が 自 己 の つ 善 驚 相 承 い るようにな

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﹀ 汗 ν L Y J f担’ U 成 し の京国拡充のために掲げたスロ

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ガンに対抗するために示したキャッチフレーズの一 あるということ で あ る 。 す 以 わ ち 法 照 い の 尊 厳 爽 爽 そ 示 す も の と し て 大 谷 の 一 一 一 代 長 持 、 下 野 高 田 の 入 殺 鴬 位 唯 設 一 人 口 決 、 憐 光 寺 の 光 制 約 本 が あ り 、 教 毘 総 理 者 の 権 惑 と 優 瀦 生 不 す も の と し て は 本 顕 寺 に 宗 祖 の 血 綾 と 真 影 遺 品 問 、 そして掛光寺の絵系図利沼など いずれも芳社会的な独自の が強調実態されそれぞれ効果た訴していることに対

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し て 、 議 諮 大 際 関 川 徳 ︿ 如 道 ︶ し た の の 嫡 子 議 官 驚 の と い う こ と で あ る 。 そ し て そ の 一 大町門徒が山中野、横舗、鯖江などに分立しない以前の頃であると見たい。その理由は、この頃は善驚に対する一般の 認識と惑構が後世のように悪化していなかったからである。換言すれば善驚を用いるには一番都合の善い誇畿であっ た の で あ る 。 一 割 を 一 言 え ば 醤 驚 と 下 野 高 田 門 徒 は 顕 智 以 来 友 野 間 関 係 に あ っ た し 、 本 鎮 守 の 一 一 極 如 信 は 議 問 驚 の あり、覧如が関 し て い さ ら は じ て て 予 、 ー ・ で は 、 後 世 に 非 難 ざ れ た 筏 の 一 口 畿 を のある巧万能﹂であるとま ているところからみて 驚に対する税額真宗門徒の一般感情が知れツ偲げよう。そしてこの人を依用ずることは激しく理論をたたかわせずとも当 然に、血援に於ても法眼でも本願寺その告の諸問徒に優越していることを一示すことになるので、正にタイムリーとッ トとしての効果をおさめて、蓮如までの﹁選諮問誌の特異性﹂を支えた理論的根拠となったのである。震設裏書 う﹁法誌におい 詰 こ の こ たものである。議年蕗諒門誌が紛乱し七 と し て ,:, 依然本向 て 日に揺っているのはこ よ ぷ P J

設 蒸 結 滞 絵 一 綴 辺 、 最 須 敬 議 絵 詞 去 に は 、 党 相 仰 い か 開 関 東 で ? ? リ ヤ に 回 世 h ソ轡驚が制約︿符﹀を与えた時には、知倦 U P 問療し、しかも知 俸がその封や取 h ノついで覚郊に与えた ζ とを記している。これは如信︵縫って本綴寺︶にとっては重大な意味のある絡写で あるが叉善鷺如信が生活を共にしていた ζ とをも意味する記述である。 初 制 捕 の 泌 総 爽 宗 教 関 八 九

参照

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