――目次―― 1,巴利語とは何ぞや,長井真琴,Makoto NAGAI,pp.1-16. 2,諸種夢経の思想発展論(承前),手島文倉,Humikura TEJIMA,pp.17-79. 3,倶舎論研究に附して日本学界に望む,オー・ローゼンベルグ,pp.81-107. 4,学界彙報,オー・ローゼンベルグ氏の訃,pp.108-113. 5,新刊紹介及批評,pp.114-118. Posted in 1920(大正9)年
巴 利 語 と 一l 何 ぞ や
印度の彿典といへば多くの人は直ぐ梵語即ちサンスクリプトを息ひ浮べ、世に巴利語といふも
のあつて、これが所謂租本体致に重大なる開係あることを知らないやうである、これ一つは支
部や日本に因縁深き彿奥の原本が絶て梵本であつたと信せられ且つ彿典の研究に附隠して停へ
られた悉曇なるものが梵字の研究であつたからでぁらうと恩はれるのである、余は故に巴利語
とは何であつて、係数研究上どれほどの債億があるかといふ事に就いて少し述べて見ようと思
ふのである、錫蘭や緬旬や遺尿などの南方偶数徒の間に現有してゐる経律論の三波、その註琉
などに用ゐられてゐる語を学者はバーク︵又はバク︶語と辞して居る、このバーク ︵諾〓︶と いふ語の語原につきては或は舌代のサンスクタクトの名稀たるパラーサ︵P已訝エから凍るとい巴利語とは何ぞや
長 井 眞
琴
.・_ 1 −十筋 年三界 究軒数宗 扶 ひ、或は村落の義あるバック︵−︶邑i︶、或は塔の義ある.ハリ ︵七已i︶ から凍るものであるといふ やうなことをいふのである、チルダーズ ︵9−i−de㌢︶の巴英字典︵P已TPg︻i巴1⊆cLi。1彗y︶の バーリ︵謬−i︶ の項にはーi巳e︵線︶、苫W︵列︶、rgge︵連績︶、ridge︵畦︶、ba已ハ︵堤︶、c芝Se ヨy︵土手造︶、S賀1ed te已︵聖典︶、ヱ︸琵品ei−=:e已︵経典の一章句︶といふやうな解義を 輿へ且つ一々か∼る意義で用ゐられてゐる例題を津山あげて居る、兎に角註疏などに於て其本 典たる聖典をいつもパーリといつてゐるのである、サティス、チャンドラ︵S註匹Ch岩︷lrエの手 に成れるもので、多くの巴利文典中最も古いカッチャヤナ︵内gcay呂エの巴利文典に英詳を封 照せしめたものがあるが、その序文に同氏は次の如くいつてゐる、 バーエ鰯諾㌍馴㍊といふ語は、屡々マーガディー︵少雷l巨︼i︶ 鮎㌶と同意義のものと して用ゐられてゐる、西暦紀元前六世紀、偶陀が最初教法の宣読者としての資格を得たる時に は謬liと芦品已家との間に笹別はなかった、係数文学の勃興と共にこの二術語の間に著しく 差異を生じた、パークといふ語は係数徒の聖典の書かれたる言葉を示すにあたら、他方ではマ ーガディーなる名辞はマガダ国民の話す方言に輿へられたのである、彿数の勢力あらし時代に於 てはマガダは印度の首都で、従ってマガダ語即ち此囲の口語は非常な担化を受けて、ベンガリ、 .._ 2 −
巴 利 語 と †l 何 ぞ や マルハプチィ、ヒンディ、り二ツヤ専の如き近世の方言の起原をなすやうになつたが、然しパーリと いふ文畢上の語は獲らすに残って、それに色々の文典や群書が出家るやうになつたのである、 と、必克今日のバーリは備陀の生国マガダ国の併時代の方言であるといふ詮である、チルダ ーズ氏も巴英字典の序言に同意見を次の如く述べて居る、 Tリ︵謂︶語はプラククソト即ち舌代印度の方言の一であつて、そは西暦琴空聖ハ世紀中 に話されたる語であるからして今日に至る殆んど二千年よゎズット長き間の死語であつた、予は Tリ箱ほ︶はマガダ国の方言であり従って之れは饗曇條陀︵GCt書芦字l旨︶の話した言語 であるといふ彿致の停寵を斥ける理由を見出さないのである、元は一地方の方言に過ぎなかっ . . た†ガダ語が︼大草進者の天才に依トて古典語の地位に高められたので、恰も今日の猶大人が モーゼの五部書の語を見る時と同じい告崇の念を以て、この語は係数徒より重んせられてゐる のである、 チルダーズ氏のかくいふはケルンの如き聾者がかの阿育王の碑文の語がマガダ語であるとき や︼んで、それが今日のバータ語と異なつてゐるからバーク語はマガダ国語で無い与王張する に勤してかくはいふのである、オルデンベルヒ氏はその改訂せしく1n蔓・Pi嘗′㌢︵律撃の斥 ■ヽ J
年王事 披二十弟 究軒数宗
文中、巴利諸に就きて大理次の如き事を述べて居る、
試さ賢訪仏Pに壊れば阿育王がまだ若い時分に父君の命令で妄en二欝支園︶に封せられ、某 所へ行く途中言撃︵絹銅⋮紺紺h絹︶といふ朗で大富長者の娘と荒して震陀︵要n︷丁 エを生み、後ち十年間此地に住んでゐたとある、そこでWe浄rg冨r︷︼や E・Kぎlの諸氏は摩哨陀が錫蘭に俸遺した時にはその生国の語を用ゐたであらうから従ってバリー語はクッゼニ
ー帯であると主張するのであるがそれは受けとれぬ設である、何故なれば摩囁陀は父阿育王が
王位に登ってから十年目即ち二十歳で係数々囲に這入った、既に長い間バークリブック︵巴連弗 城︶に住んでゐ柱がら、しかも其地方の語が彿陀の用ゐた語であるのにそれに親しまないで幼年時代の語即ちクッゼニー語にて係数を畢んだとは信せられない、クッゼニー語の刻文といふや
ぅなものは未だ駿見せられないが、摩囁陀の母の郷里5diぎと同じい地方である字i−旨の刻 文に就いでいへば、学il婆とクッゼエーと距離も近ければ盛んに交通のあつたことは古き刻文 などよむ知らるゝのであるが、然るに寧i訂の刻文の語とパーリ語とは違ってゐる、それでパ ーユニ蕨に就いての停籠はこれを摩噂陀と結び付けて考へては種々の困難が生じて凍る、則ち .♪ −り語を摩囁陀の幼年時代の言語とするのも彼が父の朝廷にて用ゐられてゐた語とするのも ..・・−・・−・ 4 ..__.巴 利 語 ・・′− †▲ 何 ぞ や
六ケ鼓しい事である、
と論じて摩嗜陀の鈎蘭俸造に鏑する記事には事茸を誇張したる小説的記事が多くて信じ難い
所以を述べ、彿数は摩嗜陀の時に一時にドット俸来せられたものでなくて、それ迄に長い年月を
資して、此島と之れに近接する印度大陸の或地方と交通してゐる間に漸次停蒸せられたもので
ぁると静じ、パーク語はアンドラ︵A−1︷1ぎ︶又はカタンガ︵臣i−旦地方の方言であるだらう と結んでゐる、声M芸rは巴利文典の序言に、吊I−u=−⊆︷1e=b2rg−C妄erプ芥2rll諸氏のでりに関する詑を引用し、此語の生地年代を確定するの困難なることを述べてその生地に裁ては
大箆オルデンベルヒ氏の詭に賛成してゐるやうで雷、高橋尤産の巴利語係数文撃諸本の序言
−−ま、 llん■−巴利語は元南印度の方言誉ソしも、彿致空音が言びその語にて謬せられしより、美文撃
を形成し、蓬に係数の典語と化し、南方係数の三裁悉く之に依て停へらる、錫蘭、緬句、避羅
の諸国皆﹁聖語﹂として之を畢ぶ、又質に之を摩喝陀鱒国語として彿の用ゐたるもの掌りと信
せり、この信仰は何れの時より起わしや知るべからすと錐も、摩掲陀の古語の漸く忘れられ、巴
利語の講究その全盛を極めし時に在るペき行アり、彿の用ゐ誓言語に裁ては、その説多しと錐
ー 5+−−−披二十弟 年三弟 究軒数京 一ヽノ■ヽノ、■−−−ノ、■ヽ−′、ノ■〉へ′\′、㍉′、一−J【)■・、・・■、′、■ノヽ−【、ノヽ−′ヽ・−−▲−■、 も、その初め教育ある波雇門哲聾者を動機とせし時は昔時世に行はれ陀る雅語帥サンスクリット を用ゐ、紙固持合、著聞堀山等の曾座に於て廉く公衆に射せる時は、その要に應じてその地方 語帥ち摩迦陀語を用ゐたるは最も見易きの理にして、第一の両液結集の如きも、骨て紙真に筆 せしことなく、その憶持者の階級に依わ、言語にも相違あむしなるペきも、その主として地方 語にて記憶せしは亦殆季ふべからぎる事質なむ、彿はその説法を各自の方言に依わて記憶し、決 して金口の神聖を暮せざるを説き化ることあり、故に摩迦陀語聖書一たび滅して、代ふるに他 の方言たる巴利語を以てするも、数億の本分に於て毒も敵くる所なからしコアり、巴利語が一た ーい′ ・− び彿敬謙畢の中心となるに至らては、遂に巴利語即ち聖典語なる美名を冠せらるに至れり巴利 は線、編、経典を意味す、されど是れ賃に比較的近時の命名紀7ヮ、 とあむて、巴利語は元と印度南方の一方言なりしも、後世摩喝陀古語の忘れらるるに至ト、之 れに代はらて聖典語となれりといふにある、余ほ律液中より得たる資料に捜よりして此問題に つきて考へてゐる事を述べて見たいのである、それは、巴利律蕨第一級羅夷法中次のやうゎ㌧文 句がある、 琶iypkenpmi−pkkl⋮k監監=琴芝ik2乱打khp訃 アリヤ語にてミラ,カ語の人の近くにて戎 欄 く; ∵
巳 d川一 斉 語 と 一▲ ▲−■︳t 何 ぞ や 右の文句に相督するものを漠繹律液中に求むるに、五分律には﹁中国語向二連地人−遽地語 向=中国人−捨レ戎︰是名不拾戎﹂︵張一、五左︶、四分律には﹁中国人邁地人前捨″戎、適地人中国 人前捨レ寧⋮﹂︵列三、五左︶、十請律には﹁若中国語向二適地人↓不二相解−者、君達地語向二中国 人一不二相解義﹂︵琴ニ、大友︶根本一切有部尾奈耶には﹁若中方入射二速方人転二中方語−拾、若 解成/捨、君達方入射二中方人蕗=遠方語こ︵顔八、九右︶とあら、若し現今の巴利律蕨を以て、 これよらも肯き原本の詔繹なゎと看倣さなければ巴利語はアリヤ語即ち中国語に属して決して ・、、ラッカ語即ち連地図語でないことになる、何となれば舌への聖者が該律蕨を停ふるに中国語を 捨てゝ、遠地国語を以てしたものとは信じ難いからである、漠巴書見律はアブヤ語、ミラッカ語 ヽ、ヽヽヽヽヽヽ を解して、次の如く、アブヤ語とは告き語即ち摩喝陀国語で、、、、ラッカ語とは卑しきアンダ囲ダ ヽヽヽヽヽヽヽ ミラ国事の言葉であると見てゐる、 t邑訂罵iyPkp訃n掛m⋮ロy等。訂r〇夢g堅− 何謂琴垂語嘉ヨ易善人所P行、是摩喝陀国 p覧昏罫︸鼠−ti苦昏−−pp息i見習致禦書家蛮− kk罫罫IlO江乳kl︻訂・mi㌻k打F旨enp罵iypk守 撃塗ntike︰︵5nPy守崇甘kp訃−HI●ワ 誓︶ ヽヽ 行を捨つるも英人解せぎる時は、これ不拾 ヽヽ 戎行紀7p、ミラッカ語にてアリヤ語の人の近 くにて︰︰、 ∵ 7 ∴
年三好 究軒数余 読二十弟 三十三貢︶ 則ち現存の巴利律文のま∼のものを註解して行った彿普︵亭Fdd−1p喧1参↑︶ 若くは彼れ以前の 註禅家は︵書見律はそれ以前の註辞書を採用したる所多ければかくいふのである︶彼等の註繹 ヽヽヽヽヽヽヽ する所の聖典は卑しきアンダ国︵梵語に All≧1−・p︶あたりの方言にて書かれたるものとは考へ すして必ずや中国摩鳩陀の語と信じてゐたにもがひないと息ふのである、巴利律本雛壇度 ︵C 已l等式g守k112︼計打芸邑l≡−ハE−昌︵l已︵エには次の如き設畠がある、 Pbllp.畢 mi−Pkkll已︵芦かーー阿m芦 yO kC乱 臣琶 iyPkO A㌢言守古㌻2i−賢二錫蘭印刷本一、首 訂−−芦k−10p冨p華−−芦yenP Yp2e‡・きkulPn抑
2a b︼1ikk−−D ︷lくe b−−註訂−1冨ti b邑−mpづ琶 ●1一
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計n訂idini伽u−ekPm岩打診已si−1巨.kllO te 語、苦適地安陀是清国語︵書見律鬼婆抄、 塞八、三八右︶ ︼時ヤメール、ラークラといふ兄弟比丘あ ゎ、婆羅門の生れにして聾語を口にす、彼 等世告に近きて鹿をなし一面に坐せゎ、坐 してかの比丘等牧草にかくいへゎ′、世食よ、 今や此丘等種々の名、姓、族を有する者出家 せら彼等各々自国籠を以て彿語を汚す打アり 8
彿在合衛国、有二婆雇門、一名凝婆、二名夜婆、於二備法中森品出家、本撃外道四国書露
家巳以=是青学蒲二彿経霹一人聖人瑞在、節義彿匪忘不二通利壷求迩不義、心愁不義、是 事白彿、彗−ロ、祉で今以二外撃要撃諦〓彿攣者突首藤︵十諦帝王張五、四四、左︶ bh翳粁h鈴b−1品p≦ntp訃et已買gum︰e訂r︸li bFn訂 b︸−ikk︸−鈴 島n賢掛m阿已n爵Ot罫︼−早 見首払邑邑邑卸 琶bb阜厨訂βkギ阿niru ttiy騨bud多芸芳書p診︵訂詔邑・訂已芦m薫p 払b﹃ntebuddh買買旨乱凸訂乙琶竿lepem 阿、ti.︰︰︰︰︰・・ bFikkF葺脚mente軋︰−1p b−■ ik寧宅2budd−1等覧Pl−臣d−買︼琶腎¢p2賢 b乱y。腎。℃e岩野︶昔邑idを息最戸岩宅−1 ●1 阿mib−1ikkh等e夢kギpnir巨i苫buddh芸琵 琶寧酔p昌盲pu官u芦ti 右の巴利文に細管する漢謬文には、 世尊書等は彿語をサンスクダットに輯せん と、︰︰︵彿︶比丘等に告げて言はく、比丘 等よ彿語をサンスクリプト に輯すべからす 若し輯する者あらば突盲躍罪な♭、比丘等 よ各自の方言にて彿静を撃ぶべきことを許 すと、 − 9 −披二十弟 年三夢 先軒数森 時有二比丘垂勇猛、婆羅門出家、挙世奪朗−頭面鹿足却坐︼面、白些彗一口、大徳、此語比丘衆姓
出家名字異破二彿軽挙巌世奇襲我等以二世同好言論庭中理彿経い璧一口、汝等擬人、此乃是毀損、
以=外雪白撃而欲ゾ雑コ橡彿経戒言、轟下随二国俗言音所〆解請中l習彿経上︵四分律!列六、四〇、 左 − 四一、右︶ 有二婆羅門兄弟二人l請=閲陀黎陀書議於二正法議二諸比丘請経不誌故呵言、誇大徳久出家而不′知二男女語、一語、多語、現在週去来凍語長短音軽重昔完作三如〆此涌コ讃彿鍵屋丘聞蓋恥、二
比丘徒至二彿所妄以白彿、彿言、痕丁随二国音■説諭い但不義迄コ失彿意宗誌下以二彿語−作中外書 請い犯者倫蘭遽、︵五分律−⊥堅一、五五、右︶となつてゐるが、巴利書見律は右の巴利文中の字句を解して、
9享許容守膏ヨq−ti Y2d鼠:与さ詮已邑鼓︼− P・乱yp≦10買昌邑訂訃腎Opemp夢訂y苧−1irutti アミi e昏p−芸訂ミをまーご邑mpS昌m訝琶bu 詮henp言tt眉p甲k腎O岩窟P彗ik等○訂rヱ邁 羅印刷本、尊見律第西巻八十五貫︶ ﹁チャンクツー、アー℡−べーマ﹂とは吠陀 の如くサンスクリプト語にて我等は諦せん と汀アゥ、技に﹁サカーヤニルッ一7イヤー﹂に 於て、﹁サカーエルク一7ィー﹂とは三耶三保陀 にー㌻りて話されたる方言摩喝陀語の専行アり_10 −
や ぞ 何 は と といふてゐる、右の文中夢k賢lir蔓iを彿陀の用ゐし語と解するのは少し牽強附曾のやうで
あるが、然し之れでも悌陀の言語は摩喝陀国語であつて、彿語は之れにて停へられ決してサン
スクリット即ち雅語によつて俸へられたるものでないといふ信仰の古くから存してゐたことが
わかるのである、而して、上の論法によつて、吾人は鹿づ彿語なるものが色々の方言にて俸へ
られてゐたものであることは想像されるのである、若し色々の方言にて彿語が停へられたもの
であつたが他は亡びて巴利語のもののみ濁わ保存されたものとすれば、其保存された理由は、事
賓巴利語が彿時代の摩鳩陀国語に最も近いものであつて従って古家彿徒の間に聖語と信じられ
てゐたからであらうと余には考へられるのである。
現存巴利語典籍は原典へPiすk乱ヱ、註渾︵A号を墓互、註繹の註繹︵.叫ぎエ及び史書、文典 を加ふれば極めて浩砕なるものである、阿育大王の子摩晒陀 ︵M巳−ill㌢︶が師子園帥ち今の錫蘭島に渡つた年は漠巴書見律には共に彿滅後二百三十六年と明示されてゐるが、さうすれぼ西
紀前二百年頃に嘗たる謬である、共時彼は三蕨のみならすその舌証繹までもかの島に持ち行き
しかも音読梓だけは之れを轟く錫蘭語に詳したのである、西紀立位紀摩掲陀園の大草老体音︵−レ udd訂・g︼1匡︶の銀蘭に渡トし頃には巴利舌註繹は失はれてゐたが彼は錫蘭語のを巴利語に反謬 −_・ 】1_敬二十飾 年三夢 先研敢京 した、然るに西紀十二世紀に、今度は錫蘭語の方は失はれたといふことになつてぉるー兜づ巴 利典籍の主要なるものを示さう、 ゴ・pi”pkP臣︵三蕨︶ ︵一︶くi亘y?pi嘗邑F︵尾奈耶律寂︶ ︵こ謬riく腎p︵汲利婆羅︶ 三︶Sll許・pi官象二倍多産﹁軽﹂蕨︶ ︵イ︶D義l l苧−1ikギP︵長阿合︶ ︵こ買亀−imp・已kギP︵中阿合︶ ︵こ因h昌d訂k芦惚度部︶ ︵イ︶苧tt守Vi〓lallg芦 これ持分豆上l香したるエリ生じたろ名目にて、其箕串乳1kp申に四汲掟夷法み初わ、十三盾伽婆戸沙法、二不定 法三十尼医者汲逸投法忘含み.声i−書中に、九十二汲逸提法−四政経投合尼法、東拳法、七滅静法、比丘尼戎を含む
︷
ーー2阜−ハ﹁t P賢itぞ㌘ /−−− J . C巴−≡■薫叫声 宰崇i長芋 −・・・・− 12 _︵三︶Abhid訂mn与㌢写kp訃︵阿毘畳﹁諭﹂庶︶ 〓︶bぎm2苧S乱gal−i︵法曹伽︶ ︵二︶ くibhpか菅︵毘崩伽︶ ︵三︶せh賢〒k邑−抑︵陀兜迦他︶ ︵四︶Y買邑⋮︵耶摩迦︶ ︵五︶P賢hぎ二鉢叉︶ ︵六︶Pugg㌻・苫琵註iニ過伽羅珍都墟︶ ︵七︶声芦th苧lざtt11仁︵迦地政倫︶ Attllpg■ヱ証︶雛瞥射㍑ ︵一︶律東証 〓︶∽巴酔yutぎーlik葦p︵准阿含︶ ︵ニ︶A厨已t焉a▲mik昔二垢︼阿含︶ ︵ホ︶賢。。Pk⋮i音︵小阿含錘謂と︶︵ いふほ=の菅課でちつて抑雪≡aほ ﹁到 束﹂の義なるが経典み意味するlこ至った 望霹yaほ古く邦ゐられし名義で後せA笥ヨp にエリて ヽヽ 代へられたといふ=とでぁる、藻澤に河合叉ほ阿笈摩と _13 _
♯ニ十弗 年三夢 先軒数宋 ︵イ︶許m呂訂p卸払dik阿︵律東証﹁書見律﹂︶、︵†︶声鼓kl一ぎiぎヨ⋮二波提提未叉﹁戎本﹂註︶ ︵二︶経蕨註 ︵イ︶Su巨象重富芸i訂in二長阿含証︶、二こ二㌢p註象已己−二中阿含註︶、︵二 夢■邑ll望︶P 打軋已壷阿含琵︶、︵ニ︶ぎ琵賢昔r昔i︵竺阿含聾、︵ホ︶宇∼1E宣告ikエ㌍トヤ ≧苧d︵要Tt、i雷邑S旨i吾とわれど苧き粁 二こD−1昌E萱1与已︵邑−ヱ法句紅 p・ni㌫盲lて苧1ddpk守p堅−pの誤りなるべしと信ずる 註︵⊥−︶罵⋮−t妄言︵篭脚鮎諾鮎︶︵チ︶Ab⋮−琶12モ旦︸旦伊諦僻多 伽脛証︶、︵エJ賢註長h已邑11笹︵本産経註︶、︵ヌ︶︰チdd︼≡⋮亡蔓象こE︿P ︵尼洩姿綬 註︶、︵ル︶払已d−−呂き宣鼓鼓−−二汲致蓼毘陀匪註︶、︵ヱくi簑l︵〓−各二註訂㌢i︵喩 陛註︶、︵ブ︶景邑lu邑tF賢訂i−1二偶渾姓経註︶、完︶C≒iy宣告意11pk邑−笹︵若用 務経註︶ ︵三︶諭蕨註 ︵イ︶A蔓邑−in二法伶伽論証︶、︵こS昌1日已至i−1。p邑︵戌崩伽諭註︶、︵こ謬許萱︶巴n 罵声n長−1pk邑阿︵陀兜迦他、耶摩迦、鉢叉、逼伽羅扮郵盤、迦他故倫藩論註︶ ︵四︶ペ夢︵疏︶﹁接謂は謂認舶閥Ⅷ︵印刷本︶ −・− 1・:,_⊥_
巴 利 語 と †ヽ 何 ぞ や
︵エ欝㌢︸妄阿含慧蔓草をli﹂の註︶、︵こS誓l邑音音量
見律の整、︵こぎ邑iまm&邑・等こ同上︶、︵ニ︶ぎjir苧b己d字音二律蕨琉︶ ︵五︶史停其他︵針如師か表紙英︶ ︵エロ甘≦掛野︵錫蘭王朝史︶、︵こM已1賢鼓訂二大兢史﹁錫蘭の正史﹂︶、︵二二戸−i已守 p賢二郷党比丘鰹︶、︵こぎud苧≡勇二譜鍔“輔錘媚沙﹂︶︵ホ︶芥琶箪箋−1p毒草意k⋮琶︵即錮㌍宗ジ蟹娼弧聖整㍑窮鮎軽招郎ツ
ナ四五種あり︵S已ぎ訂n′訂の巴利文典﹁カ言‡ナ文典に就き〓︶Ab⋮一−ぎぢp邑pil昌︵名 巴英甫文勢摺ぜるもの しの︼戸Dh書m名alPの序文1こ凍る︶ ♯語集︶、T︶S腎琵ぎこ1こ数義に関するもの、近世の編輯にか\る︶、︵チ盲bEき 岩呂巨琵景已1ェ開梱指詑汚㍍離雛配篭朗。︶右の巴利三寂は之ようも古きものの詔浮であるとは今のとこ一わどうしても信じられぬ、即ち
巴利はオブデナルの典籍捏了りと余ほ信する、この事に関してリスデ非ス氏は名著夢ld−1i裟Ill dip﹁彿数印度﹂第十章にも委曲静じてゐる、今日までに撥見され克阿含経の梵文断片とこれに相督する巴利文とを比較研究した稔らばどういふ結果になるであらうかは知らないが、チルダ
ーメ氏は巴英字典の序文の証に梵文夢訂く邑;中の詩句を巴利のそれと比較すると前者は後 _・15 −・−サニ十欝 年三夢 先軒数尭
者の不器用なる詔謬であるといつて多くの例題を掲げてゐる、梵文の阿含経なるものもそのや
ぅなものでなからうかと想像される、使命梵文のものがよりオブデナルであるといふ確茸の論
撮を得られたとしたところで、そが全部撥見せらる∼時の到蒸しない限わ、楓本彿致研究上巴利三蔵め償償は毒も増減することがないのである、その上に此等の三裁には古き証疏が現存し
てゐるので本奥の字句中解しがたいものは註︵漫−Pk邑且た就いて其解義を求め伺ほ解しがた い時は疏︵ぜ且に就くことが出家るやうになつてゐる、此上に漠謬中軸普経典があつて之れと比較することが出家たならば嘉に初めて完全なる研究が遂げらるゝことであらうと息はれる
余は巴利律蕨と漠謬五種の律蕨とを比政研究の結果、巴利の方が湊謬の執れよゎも原始的のも
のであるといふことが知られ、善見律鬼婆沙と巴利幸鬼律との封照研究の結果、前者は巴刊本
及び巴利律薮を離れては到底何人も理解し得ペからざるものと悟ってからは、兎に角偶数の律
蔵研究だけに就いていつても巴利律戴を無親しては完全なる研究は遂げ難いものであると余は
信するのである︵完︶ _16 _鈴 鹿 蟄 想 思 ¢鮭 夢 種 誇
七
彿停に騙する夢物語中、最後に今一手 ′ト例努附託し
は帥ち、彿出家に際しての夫人耶輸陀雁のニーで、ラ㌔
十一︶に依るに年巳に十有九に達し、出家の東 森甑って防衛の四兵を督臥せしめ、自ら王宮を免れ出でんとし子匪、夫人は三大夢に襲はれて驚愕
言ふ可らす、直に太子を訪ふたが、彼は深く慰め諭し、遂に其の素志を賞徹し得たと云ふ寧で
ある。三大夢とは﹃爾時耶輸陀羅、眠臥之中、筈三大夢、一着夢月堕地、二者夢牙薗落、三溝
諸種夢緩の思想蓉展論︹吉︺
手 島 文
問題に入らうと患ふ。夫れ し車過去現在因果経﹄巷二︵辰十・ 悉達多太子は、誇天の方便を暇倉
・・・−− 17 −究研敦崇 年三第 披こ十節 夢失右管﹄と云ふのである。印度人が炎熱を滑散する月を愛する事は前にも二言した。自分の 夫の捨て去らんとするは愛慕する月の地に堕つる事に依て暗示さるゝは無理も無い。牙歯も右 管も夫人に取っては無上の軍で、歯を落して齢を促め、管を断って所依悟を奪はる∼は太子の 去らんとする凶徴に外ならね。此の三恵夢を以て訴へられた太子は、夫人を慰諭するに、﹃月猶 在天、歯叉不落、管復伺在、昔知諸夢虚仮、非賓、汝今不應族生怖畏﹄を以てしたが彼女は断 乎として、﹃必是太子出家之瑞﹄と主張したので彼も愈々詞に窮し﹃汝但安眠勿生此度、要不令 汝有不鮮串﹄と云って眠らしめ後遺って窮に出家したと云ふ事である。此の話は﹃法苑辣林﹄ 巷十︵雨五!九十三︶にも輯載してあるが、之も亦不詳の夢で、第一の月堕つる如きは、彿監 察の時にも屡々見た所である。或は彼此何等か関係が有るかも知れない。此等も所謂、天人天 奥の夢で事件を預示する賓夢であらうと息はるる。 以上、彿停中の著しい夢の経文に付て、比較蓼究して見たが次に少し′、、般若法聾系統を吟 味して置かう。 玄莫評﹃大般若﹄の巷第四首五十一の始めには、﹃夢行品﹄︵里子−四十五︶と云ふがあるが、 同じ経文は﹃智皮諭﹄の巻七十五に、﹃帝夢中入三昧品﹄︵往四−八十一︶として出て居る。何 − 18 −
鈴 鹿 誌:想.思 q)経 夢 種 語 れも後家の﹃放光﹄﹃光讃﹄﹃大品﹄等の諸般若と同本異詳の部分であるが、所謂、﹃夢行品﹄と は、大箆、何んな内容であるかと云ふに、一言以て之を蔽へば舎利弗、須菩提、舗勒、及び彿 の田老の間に、問答往復された夢中の業の研究であると言つて差支無い。凡そ小乗経文中一机夢 は、極畢簡で且つ肯定的の事箕の′夢が多いのであるから、殆んど容嫁の除地を見出さない着で あるけれども、般若等の大乗経文になると夢その老の見方が、批判的、思考的に傾いて居つで、 仮令、小乗脛文の奉賛の夢を骨子とした場合でも、徒々二三問答の未には第一義諦に立ち入っ て現質と夢中との差別を妄見とし、現賓則夢中、其の間の如々に徹底せよと云ふ般若垂的む解 辞に流れ易い傾向がある。今此の﹃夢行品﹄を見ると、同じ趣が味はれる。此の品では合利弗 先.つ須菩提に勤して問を馨し、両人問答の後、舎利と漸勒との問答封話と成ら最後に悌の輔勧 を讃する経文を以て畢って居る。 比較的簡単な推移となつて居るが舎利弗は始め須菩提に封 して﹃著書薩摩阿藤、夢中入三三昧、婁無頼無作三昧、峯有益於般若汲羅蜜不、﹄と問うた朗、 須菩提の答は次の如く肯定的であつたのである。 00 000 ﹃若菩薩尭日入三lニ昧.有益於般若汲羅蜜、夜夢中亦雷有益、何以故、塞夜夢中、等無典故﹄ 即ち同じ夢業でも、入定修客の如き般若の善行であれば、猶ほ日中の現行と獲りは有るまいと _1ゞl_
年三界 究軒数 簸 読二十第
云ふのであるが、合判弗は更に一般的の夢業に放て討究の要あらとし、次で第二の間を馨した。
﹃菩薩靡常陸、宕夢中所作菜、鼻糞有集成不、如俳聖切法如夢、以是故不磨集成、何以故、夢中無有法集成−若登時、憶想分別鹿有集成、﹄
此の意味は伸々興味がある。彼は則ち彿詭を盾に取って、一切法如夢の理を似て、歩行三昧は
何等無益の筈に非すやと請った謬である。夢菜は到底善悪の種子と成ら得ないけれども覚醒の
後、憶想分別して喜怒哀楽の煩悩を起すから菜力と成♭得るのであるとの姦的主張である。
須菩提ほ伺ほ頑として善悪無記の夢を置別し依然として菜威肯定の論議を曲げす、乃ち答て
日く﹃若人夢中、殺衆生、餐己憶念取相、分別我穀是快耶﹄と舎利弗此の詰問に應じて云ふ﹃無
縁業不達、無線息不生、有線実生、有線忠生﹄と。則ち夢中の殺人は能所無きを似て穀業を集成
しないと云ふのである。須菩提、此の時無縁の業恩の成す可らざるを受理した後、更に夢業も
亦決して無線と云ふ可らざる所以を主張して日く、﹃於見聞覚知法中心生、不従不見聞魔知法中
心生、是中心有浮有垢﹄と。則ち夢と錐も望見過去に於ける見聞覚知の経厳無くして現じ得る着
でh仏い以上、葡ほ善悪浮垢の別有って然るべきだと、飽くまで肯定的の説明を試みたのである。舎利弗は再び併読を股甘、彿は﹃一切諸業諸恩自相離﹄と云はれてあるのに、何故に有縁無
ー・・・・・・・・・・・・・・− 20 岬諭 展 畿 怒 思 ¢ 渡 歩 種 諾
繰を以て業の生否を諭す可きかを追窮し、須菩提は、﹃取相故有縁業生、⋮・取頼政有縁忠生﹄
と説き、要之、業の集成は、自性敵相と雄も、深く之を計執して、彼此有縁的に関係付くる著
心の生む結果に外ならぬと主張するのである。間者は一に基を以て矛とし答者は一に有を以て
盾として居る。到底論戦の鶴決仕様がh仏いので、最後に舎利弗の﹃若菩薩摩阿藤、夢中布施、持戒、忽辱、精進、確定、修智慧、是善根福徳、剋向阿栃多準二戟三菩提、是賓姐向不﹄と間
難せるを横骨に、須菩提は巧に諭鋸を避けて、﹃滞勒菩薩、今現在前、悌授不遇輯記、雷作彿、
昔間瀬勒、漸勒嘗答﹄と譲ったのである。此に於て滞勒は、一切注撃一無別の客観を以て臨み、
答ふ可き法、答ふる者、授記、乃至受託の人も無く、一法として能く説く可き無しと論破した。
之ほ大なる否定であるが、同時に大なる肯定である。時に舎利弗は疑念を以て滞勒を眺め、侮
蔑軽慢の心を起さんとしたので、彿は是の時舎利弗の瓢を匡正す可く教導し、彼の羅漢を諾し
乍ら牒漢法の提示す可き者無きが如く、授記に於けるも亦然hソ・こし、菩薩の般若を行する者も果して眞智を琵得するや否やを疑はすして、自ら賓に無上菩提を待たる事を知る着であると示
されセ。以上は則ち﹃夢行品﹄の大意で玄英評は一層詳細になつて居る。而して龍樹の駿明に
操ると、舎利弗の第一間は、﹃以夢虚証、如狂非賓見放、是三三昧是賓法、又復隊魔詮、夢中亦
_ 21_戟二十夢 年三夢 死軒数宗
有三種、菩不善、無記、著書薩、善心行三三昧、鷹得福徳、然夢是狂療法、不鷹於中行賓法得
果報、若有茸法、不名演夢、以是政間、﹄と云ふ理由で、即ち狂療の夢中、算法の般若を行する
とせば、有益とも無益とも、決し難いが焉めに、質問したのであると云ふ。而して又、之に封
する須菩提の斯る言は、﹃須菩提意、苦言有益、夢是虚証、般若是鷺法、云何得増益、苦言無益
夢中有善、云何無益不得、答言有益無益、是政須菩提、離些一連難故、以諸怯賓相答、伺披室
員併行、何況夢中﹄と云ふ理由に基いて、有益無益の両者窒息嫁しっ∼、塞夜夢中の置別さへ 弁別妄想として諸法の鷺粕を答へ柁謬であると云ふ。墾b、肯定否定は祝着の自由で、要は寓法一如の平等観ねる第一義杢に在るが、壁間小徒の水掛論では解決されないから、最後・に席勒
と彿との権威を出して、夢業の解渾を結論したのである。
大乗経文の夢が斯る哲撃的見地から諭せられ易く、到底小乗の夫れと同日の論でh仏い事は、之を以でも判ると息ふ。
更に、﹃大般若﹄の巷第五首九十六︵日十妄六十八︶には、般若の貸相を説明する序、夢喩を以で次の如く説いた句がある。
﹃如人夢中翠夢所見種々自性、如是所詮夢境自性無所有、何以故、︰︰夢碍非有、況有夢蛋白性可訟、如是般若汲羅蜜多、
静 展 費 想 息 ¢経 夢 種 藩 華恨乾布種々自性、同比般若汲羅蛮多、箕無自性可待宣準.⋮・如夢不壊撃不落法雨現在前、如是般若政経署多、亦復 不蕊取承諾法而現在前。﹄ 夢見の自性は不可詭であゎ、夢現の諸法は現箕に無い如く、般若の本位は、綴りに種々方便言 改するけれども、賓は一法として顕示すべく、現前すべき者は無いのである。此の本鰹義諦を 夢に昏へ、或は幻・光影・影・陽頗・娼。山谷響馨・響・緊沫・沫・浮拍・抱。芭蕉葦・太虚基・末尼貿大光 00 明・燈光等の所謂般若の十喩を以てし、或は道元輝師の﹃正法眼蕨﹄の如く夢中の夢まで説い て箕粕の比喩を企てた者もあるが、督之れ方便の樺詭に過ぎぬ。又﹃智反論﹄食七︵徒︼−四 十八︶には三人姪女の夢と云ふ浪漫的の物語さへ停へられて居るが、備の世に在る頃、伯仲季 のlニ兄弟は、昔時端正無比の芙女として、喧博一方でなかつた枇耶離の葛藤婆利︵㌢⋮告−i︶ 合婆提の須蔓都︵Sロm琶豊玉合城の優鉢羅紫部︵Ut−︶㌢ヨr号︵エの三姪女の事を借間して、各 々一女を専念し、染著懸想の欲念、日夜措かなかった朗、或夜﹃便於夢中夢輿従事﹄の後三人 軽め了つて自ら嗅すらく、﹃彼女不凍、我亦不在、而煙草得難、因是而悟、一切諸法皆加是耶﹄ と。かくて三人喝陀婆選菩薩の所に往いて間ふに此の事を以てし、菩薩は﹃諸法賓爾、皆従念 生﹄と種々妙法を宣説し、彼等は信愛歓喜乃ち阿艶政致を得たと云ふ事である。同じ得道も入 ー_− 2ニヱ _−
読二十欝 年三筋 究研敬譲 る可き門は無量にある。事卑猥であつても、賓頼に入れば全く別天地であるから、斯る例も興 味ある経文と云はねばならぬ。 次に、﹃法華経﹄中に見へ托夢の記文を少し吟味するならば、羅什評﹃妙法聾﹄の五巻の首に は、﹃安発行品﹄︵盈丁・主十四、五、六︶と云ふが有って中には法聾行者の四種安楽行を説明しゎ“ 後、四安楽行を修する人、夢に五好粕を威す可しと記してある。今五夢の大要を偶文に付て見 るに先づ第一は、﹃我滅度後、求彿造者、欲得安懐、演説斯経、鷹雷親近、如是四法、 若於 夢中、但見妙事、見諸如来、坐師子座、諸比丘衆、鞠続説法﹄と云ふので、彿の藷衆生に説法 する欺を見るとある。第二は﹃又見龍紳阿倍雇等、数如恒沙、恭敬合掌、自見其身、而名説法﹄ と云ふので、己れ自ら他の褒めに説法する夢である。第三は﹃又見語彿、身粕金色、放無蓋光、 照於一切、以梵普牽、演説諸法、俳名四衆、詮無上法、見身塵中、合輩讃彿、開法歓喜、両名 供養、得陀羅尼、澄不追智、彿知其心、深入彿造、即鰯授記、成長正餐﹄と云ふので、釦ち自 ら開法開解、愈々不退智を詮得し、普茶成彿の授記を得る事を夢む主云ふのである。次に第四 は授記を得し後、山林閑虞に菩薩の大道を修行する夢で、﹃又見自身、在山林中、修習書法、謹 話質相、深入確定、見十方彿﹄と記してある。最後の第五夢は以上の四夢を総括して﹃話彿身 −・ 24 _
冷 展 聾 想 思 ¢ 鮭 夢 種 哲
金色、首福相荘厳、開法点人詭、常有是好夢﹄と云った後、行者自ら入相成造して大法輪を輯
する事を述べ、﹃又夢作図王、拾宮殿谷底、及上砂五欲、行詣於道場、在菩提樹下、而庭師子座、
求道過七日、得諸彿之智、成無上造巳、起而特技輪、虜四衆説法、匪千萬億劫、詮無漏妙法、圧
無量衆生、後督入箆紫、如煙毒歴滅、若後悪世中、詭是第一法、是人得大利、如上諸功徳﹄の
好夢を見ると云ってある。但し八相成造は普通、降天・托胎・出胎。出家・降魔・成造・輯法輪・淫
楽の八相を算する例であるけれども、此には左程詳述されてない。唯大腰の修行謹其の順次を
概示して成彿の勝態を預表したに止る。斯る五好夢の如きは、亦天人天奥の夢で、般若の塞的
解澤とは見方を異にして居る事勿論である。︵竺法護謬﹃正法華﹄巷七の﹃安行品﹄︵盈二−三 十八︶又び閣郵嘱多、笈多、共謬﹃添品絵筆﹄の五巷、﹃安柴宿品﹄︵盈lTj八十九︶を参照す べし。︶以上の如き般若、法華部の外、方等部及び秘密部の夢殿お二二例示すると次の様な者がある。
北涼沙門路衆の評﹃大方等陀雁尼経﹄の第〓成五−六十三︶では、十二夢王、或は十二耐王、 _ 2こi一一年三夢 究軒数京 披二十節 十二大王と稀する者を列馨してあるが経文には、 ﹃酎時価骨挙党菩薩摩野庭、我常以轡珂裡特陀羅尼章句、伏此汲旬、檜彼比丘尊板、汝今訪韓、笛馬汝記譜彿秘法、︰︰ 00CO 我今語汝、其妄宣惇如是妙法、常以神明宜賢、何以故名盤神明、善男子、如長官有十二歩王、見此一王者、乃可焦設、 詞時せ吾郎記陀羅尼章句、︰︰﹄ とあつて、長の妙法たる摩河裡特陀雁尼︵害已史書t苧ゴニ腎首︶は、妄わに他に宣倍すべからぎ る秘法で、唯、十二夢王ある内、一王打7りと夢に見得たる人にのみ宣侍すべしと云ふ意である。 斯くて彿は十語の陀羅尼を説かれ、華衆以下、人馬四千の菩薩衆は大功徳を得たとある。所謂 十二夢王とは如何と云ふに、経では華宋が此の妙呪を受けて忽然投身し、宴婆世界の舐陀林中 に到って、雷音比丘の九十二億天魔波旬に迷溺され居るを見、尤づ彼の悪魔を調伏純化した朗、 0000 彼等は無上菩提心を馨して供養恭虚し、自ら讃誓の詞を馨して日く、﹃我等十二大王、普受持是 0〇〇〇 摩河祖特陀藤尾章句、復普供養受持経者、如是人等若遭菩厄、鹿骨稗我十二紳王﹄︵成五き六十 四︶と。これ魔中の偉大なる十二紳王が、此匪受持者を加護せんとの誓願であるが、十二紳王と ほ、即ち十二夢王の事で所夢の客観たる者に相違無からう。即ち十二夢王は綬に随喜信受の陰 り、経の持者を夢に現じて護らんとの誓翫を馨した着である。其の名は魔王の詞に見るに 二︶ _ 2G _
諭 展 蟄 想 思 の 鮭 夢 種 諸 祖茶羅・︵二︶斤提︵持︶羅・︵三︶茂持羅・︵四︶乾基経・︵五︶多林羅・︵六︶波林雁・︵七︶檀林羅・ ︵八︶稀多林産。︵九︶窮伽林産・︵十︶迦林薙・︵十一︶窮伽林羅・︵十l一︶波︵婆︶林羅と云ふ十二人であ■ ると云ふ。中には同名の様な者もあるが、此の十二紳王は薬師如凍の十二所牌と、名も本家の 役目も酷似する斯から見ると、何等か関係があらうと息はるゝ。更に 方等部の一例では有名な 桑津澤﹃金光明最膠王経﹄の第二巷に﹃夢見金鼓俄悔品﹄︵黄九・l︷七︶と云ふのがある。︵此の 脛には、北涼曇無識繹の﹃金光明経﹄四番、及び隋沙門賓貴の手に成った岡本異繹数甜の校勘 合本たる﹃合部金光明﹄八巻等の同本異繹があるが、義浄罪の詳に及ぶ者はない。此の内前者 では巷一﹃俄悔品﹄︵黄九!四十五︶後者では巷二﹃俄悔品﹄︵黄九−六十八︶を参照すべし︶、今、 夢見金鼓の所以を見るに、彼の備前に妙法信解した妙憶菩薩へ他の二繹、信相菩薩とす︶なる 者は、歓喜踊躍して本虞に還ったが、其夜忽ち︼夢を見、﹃於夜夢中見大金故、光明晃耀猶如日 輪、於此光中、得見十方無量藷彿、於貿樹下、坐琉璃座、無量首千大衆、固綾而虜説法、見一 婆羅門、梓撃金鼓、出大音聾、拳中演説微妙伽他、朋傲悔法、妙憶聞巳、皆悉憶持懸念而住、﹄ と云ふ不思議を得たと云ふのである。即ち彼は夢中に金故所説の傲悔法を赦受し、憶持して明 旦、大衆と倶に王合城鷲峯山の彿朗に詣で、夢見の胱を詳細に白したのである。かくて後経文 − 27 −
説二十第 年二軒 先軒数浣 には、伽他と倣悔放とが記述してあるが此の経は古家我国でも早くから知られて居る有名な着 であるから、其の例を︼寸出したのである。要之、十二夢王や、金鼓の夢物語は、般若の見方 とは大に趣を異にして居るが、又天奥の夢に入るべきものかと息はるゝのである。其他各柁彿 典中、斯る夢の経文を見るに、到底枚単に退がないから大鰹以上の例丈けに留めて置いて、次 には少しく方面を欒へて、精々秩序的の思想寮展静究に移り皮いと思ふ。 九 倍て以上の夢の経文は、決して一部彿典の主眼としての着でなく、全く他の経中の一部分に 附設された形の夢をのみ論究し、彼此思想上の関係の想定さるゝ者は之を想像し、如何なる者 が著しい夢の経文であるかの例聖二四摘馨したまでの事であつてが、以下少しく純然たる夢其 の者を説くを目的とした諸種の夢経に付て、思想番展の跡一ど辿つて見ようと思ふのである。此 の小塙の最後の目的も結局は此から以後に在る繹であるから随って論議多少綿密に亙る横骨が あるかも知れん事を断って置く。 純然たる夢艶中﹃開元銀﹄十五巻には﹃三夢経﹄一巻︵結五喜十大︶とか、﹃汝苑珠林﹄には − 2さく −
論 鹿 茸 想 思 の 鮭 夢 種 諸
﹃五夢樫﹄と云ふ者をも馨げてぁる事は、前述の楼であるが、此等は単に記録上の彿典に止ち、
今現有しない着であるから、其の内容の如何を想像するに苦しむ着であるが、現存の東経中最
も畢簡な形の夢挺は賃に﹃阿難七夢経﹄︵宿八・⊥四十大︶一部であらうと恩はるゝ。此は東普、 曇無蘭へ汝正︶の謬︵西暦三九〇年讐であるが、或は単に﹃七夢樫﹄とも云はれて居柁とある。現存の此匪は極短い鮨裁で十行計らの着であるが、費長房錬には、﹃阿難七夢軽・二紙・或
云八夢考課﹄︵敦六⋮首九︶とあるし、智昇錬も明に﹃七夢響二紙﹄﹃結五−五十一︶の記載をして居るから、大饅現存の形は信じてよい。古くから虚い着であつたらうと想はるゝ。然し此の経
も他に異本や同類経文の担が有つ柁らしく息はる∼のは、七夢を八夢と停へた者もあつたと云 ふのが第一理由になるし、叉此の法正謬の外に、故謬の﹃阿難七夢経一巻﹄︵致六−九十四︶が別存したと云ふ記録が第二の理由になるし、も一つは阿難の七夢を引用特出した﹃経律真相﹄十
五巷︵雨三・・土十二︶の典蝮記載が記接になると息ふ。﹃樫律異相﹄は染の武帝の数撰に成った着で借受・貿唱・借家・繹法生等相伶って瞼枚蓼研の上、諸鰹の要を摘抄した着であるから、慣
令輯載であるとしても、決して軽親してはならぬ事は、その序文︵雨二!六十四︶が澄明して居るし、叉茸際、原文と抄出文と比較し得る便宜を持って居る部分の等しく諾する所であるの
− 29 _年三歩 究研政宗 銃二十弟 である。此の信用すべき彿典にほ、引用の経文を輯戟した後必らす典妓を示す例であるが、今 ﹃阿難七夢脛﹄と同一内容を輯寂した経文を見るに、法正詳と仝︿文句が相違して居ら、且つそ 000000 の出所を似て﹃出七夢十善経﹄として居るのでぁる。此の出所は七夢と十善との二経の意味で 00000 は無く、全く瑞立の︼経ねる﹃七夢十善経﹄である事、他の薙例の澄明する通りであるから、此 の鮎∵すり見るも即ち韓載の内容、出所、倶に法正謬の甲両難七夢経﹄とは、全然別物であつた 事を想はしむる着である。其の相蓬の黙は後に比較研究するが、要之、此の経も舌︿から現存 の経とは異なる他の異本類の存在した事を想はしむる着である。 此の匪の主旨は極簡単で、阿難曾て禽衛国に在って七種の凶夢を見凍って彿に問うた所、係 は恰も講堂上に在って改新置王の食めに四諦の妙法を説きつゝあつたが、阿難の憂色勝れぎる を見、之を慰喩して、﹃汝於夢者、皆焉蕾凍五濁音世、不損汝也、何翁憂色﹄と云ひ以下七夢の 解読を読みで、彼の︼身上い問題に非るを諭した1こ芯ふ草になつて居るのである。然るに、第 七夢を解辞し了るや、文章恰も中断した形で軽は無くなつて居るが.之では甚だしく不鰹裁で 物足らん威がする。或は﹃脛律異相﹄の所謂﹃七夢十善経﹄の如き他の軽から阿難七夢の部分 のみを抄出した結果ではなからうかと想はるゝ。所謂七種の凶夢とは如何と云ふに、爾文表示 ー 30一−
諷 展 菜 食 息 ¢艇 夢 群 落 すれば次の如き封照を観る欝である。 ( ( ( − ∵ ) ヽJ ヽノ 右の如く此絞対校して見ると直に相違の著しい黙が螢見される。第一夢は殆んどない。第二 夢は﹃軽律異相﹄の方が長くなつて内容二伸J㌻り成わ、須師を戴く事は、曇無蘭評の・第五夢に なつて居って猟立の一夢と敦へられて居る。第三夢も殆んど似て居るとして、第四夢は曇無蘭 欝に封する﹃鮭律異相﹄の第五夢が之に粕督する。第五は﹃匪律異相﹄に別存しない代りに第 ︵七︶ 輝子玉名撃取、頭上有七養毛、巷地而死、︼間食秩、見 故怖長、後見身中赴出、然徒食之 ︵四︶ 群猪衆能換栴捜林 ︵五︶ 頭載須粥山、不払蕊韮 ︵六︶ 大魚兼小象 ︵︳無精苧︶−−病八−1⊥四十六 故地火炎潜天 日月没星宿亦汲 出家比丘、ヰ衣於不浄坑壷之中、在家白衣、置車両出、 ︵四︶ 有比丘法衣不具但給袈裟、手捉炬火、柴入邪径、鹿制 裁申、裂破衣裳 ︵五︶ 栴檀樹甚大茂好、陪従横山、据♯捷樹 ︵六︶ 三晶象子、親蠣嘗、据突大魚、踏抜好革、授濁清水、 大魚息之避逃而去、至大清泉好耳之中、魚子逝戯、都 不発知、故老本虎、水草芝耗、飢渦菅極、政客樹木、蓬 皆餓死 ︵七︶ 死顔子王、名目企陸、簸生白篭、如繋特飾、飛鳥首駄、 不敬摩近、師子内身、白布轟出、箆食其肉 ′ ̄ヽ ( ( ■一 −←−− 一 ) ) ヽノ ︵﹃詔律異相﹄所載︶1雨三1二十二 川洩河港悉皆火然 目許欲没問浮掟冥.自見我身頂戴頚輔 比丘宛樽荘子渦中、文見一人丑比丘或、庶出浄地、 ー・31−・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
発駅敦索 嶺二十弟 年三筋 四夢に重く別個の新要素が入って居る。第六は一の五字よら成る簡単な形に反し、他は六十四 字の長い説明となつて居る。最後の第七も殆んど似て居ると見て ︵但し師子の名、尊敬、企薩 00 は共に昔繹であらう︶要之、﹃匪律異相﹄の内容は全く八夢となつて居る事を任意せねばなら ぬ。而して叉経文の賓際を見るに﹃経律異相﹄の方は此の七夢の後、彿の解樺せらるゝ場合には 多少簡略されて居るが、曇無蘭謬は前後同一経文を反復して居わ、且つ﹃粒律異相﹄よりも、登 鰻の説明か極単純であるのを見る。瑞立の一経たる﹃阿難七夢脛が却って畢簡に、他脛の抄出 韓載だる﹃匪律異相﹄が一鰻に詳細であるとは、どうしても別本の原文が有つ佗事を想定せぎ るを得んのである。随つで、以上の様たこ二この相違難から彿の七夢解渾に際しても自ら多少の 差違を免れぬ事となつて居る。彿は此の七夢の解読を次の如く詭かれ陀。 第一の他に火熱すとほ﹃督凍比丘、善心韓少、窓逆煉盛、共相没書、不可禰計﹄の徴である とし﹃軽律異相﹄では﹃水中火然者、嘗凍此丘違犯彿敦、是非蓬戎、用得供拳、復起謬闘﹄と あつて、殺害等の革まではない。第二の日月星宿も亦没すと云ふのは﹃彿泥垣後、一切馨聞、随 彿泥垣不在世、衆生眼滅﹄との意であるとし﹃経律異相﹄では﹃世告却萱九十日嘗般些担﹄と ある。之ほ正しく彿捏柴の夢徴であるとすると﹃智諭﹄に在った須波陀雁の夢﹃二切人失眼、裸 ・・・・一 32 __
諸 論 展 戟 恕 息 の 経 夢 種
形巽中藍とよく酷似して居るし、日月落ち星宿要雨嬢紛として隕つるとか、衆生の限、建刺
の焉めに銑鉄さる等と同類思想に違ひない。殊に﹃迦糞赴彿箆磐髭﹄の夢七夢﹃日月堕地、天
下失明﹄と同一である事は云ふ迄もないが、此等は何れも同一本源から出た同類思想の鼻化で
ぁらうと息ふので、此後にも出る毎に特に注意すべきである。夢二の出家比丘が却て不浄中に
堕在し、在家白衣が却て其の頭を踏んで出るとは﹃普凍比丘、懐毒嫉妬、重相殺客、造士斬頭
白衣鹿之、諌河不従、死人地獄、白衣精進、死生天上﹄の意であると云ふが﹃耗律異相﹄でほ
穀審等の事無く、単に﹃鹿泥日後、法向飲轟、曹有比丘大骨説経、時彿深法面不奉行、結近白
衣、尋陸尉色、居士諌呵而不信従、比丘受殊、居士得頑﹄の義として、此投的軽い意に解して
居る。第四の群勝也摸して檀林に入る夢は﹃音楽白衣、家人塔寺、誹誇衆滑、求其長短、破塔
専修﹄の徴であると解して居るが、他の解樺は﹃彿泥日雀、普有比丘不承用法、飲酒迷乱、食
無期度、有明智士、善意暁喩、史輿誹諺、井尾羅漢﹄となつて居り、全く比丘の不覇乱暴の状
が立とされて居るのである。第五り須滞を以て重しとせすとの夢は﹃傭虎壷後、阿難雷名千阿
雇漢出経之師、−句不忘、受悟亦多、不以食重﹄の東表で、全く阿難の功徳を自ら夢みた謬であるが、前述の如く他の解樺では、全く第一夢の後牛として﹃世音却至九十日、普般泥垣、後
._・33.._・・年三節 読二十茅 究新教鏡
衆比丘、語天龍人民、普後阿難啓受経数﹄の事となつて居るのである。帥ち、同一の歩を﹃艶
律異相﹄が、他に合併して居るに反し﹃七夢経﹄は、一歩として第五に列しだ詳である。次に第
六夢は大象が小象を梨つると云ふ丈では甚だ不得要領の内容であるが他本には前後の事情極め
て詳細で教子が大象を放逐の後、好茸清水を既瑚しっ∼、遂に飢渇を凌ぐ料を稗す、樹木を貪喫して死に至る款立派に列明して居る。捗って﹃勝家邪見蟻盛、改我彿払、有徳之人、皆隠不
現﹄との説明は、﹃七夢経﹄では、何故斯る解秤に到るべ、きか、現由に苦しむ楼であるが、﹃鮭律
異勅﹄の廃泥日後、常有長老明証比丘、数誠年少、示語罪藤、不膏捉受、死堕地獄﹄と解して
あるは、如何にも尤もらしいと忍はるゝのである。詰り前者は夢の記事、鮫りに簡に走った食
め解辞の方が詳述し過ぎ㍍形であつて、正しくは﹃経律異相﹄の様に有って然るべきものだと
思ふ。最後に筋七夢の頸上七毒宅有る獅子の死後、他よりで㍍く、
却て身中の虫が之を食ふと
云ふのは所謂畦L獅子身中之轟﹄の諺の出所であるが、其の意味する斯は﹃鋸泥壷後、一千四百七十歳、我語弟子、修徳之心、一切悪魔、不縛娩乱、七養老七首歳後事﹄であると云ふ。然し
之は一切の禽獣怖れ近か竺面のみS解説に過ぎない。他の身中の虫の解群は全く不明な詳で 000ある。叉、七毒が
_:H _−論 屁 狂 想 思 ¢ 紅 夢 種 静 敦の一千四百七十歳を出したのであらうか。或は、鶴城から曇無蘭の此の軽部謬まで凡そ七百 年除りである磨から、現放と七毒宅を符曾せしめたので、︰⋮なからうか。之を千四五百年彼の事 と云ふと恰も西謄十一二世紀頃で印度全土は回教徒の手に制せられ、倍数殆んど全滅の姿を以 て、後十五六世紀に到って漸く露命を復活し、過れて北方印度の尼政界迦湛輔属地方に命脈を 保った謬であるから、寧ろ身中の轟と云はんより、外敵の毀澤攻彿と云つた方が通常であらう。 何れにせよ、此尊卑代の意義は殆んど了解に苦しむと云はねばなるまい。然るに誓経律異相﹄の 解渾を見るに、取る年代の詞は一切無く意義も夢の内容と全く符合した完全な者と㍍つて居る。
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日く﹃彿泥日後、無有外道能壊此汝、但由弟子富自壊我法﹄と。即ち克解敗敷は係数内部から こそ起れ、外道は破壊し得る者はあるま ては、此の第七夢の解輝から以下、或は評文陣馬の際種々に誤られたか、不明になつた部分を 後人が勝手に補填して見たか、但しは註樺的露入を敢てしたか、何れかの食め斯る年次を明記 するに到ったのであらうし、叉、経文が此の句を以て其の住、中断の形となつて居る様な不備 00 00 を現出したのであらうと想像さるゝのである。七毒宅も果してさうあつたが、他本には自宅 とあつて数詞はない。恐らく白を七と誤ら七に意表を認め良い厳から、七百歳などゝ仰の準吉 _ こ・ユニ ー年三番 究軒数宗 戟二十弟 した事に解したのであらう。 要之、以上二謬の夢経を比較塵照して観るに、同一内容を取扱ひつ∼、斯くも其の内容の説 明し方及び夢の解揮に於て、種々出入具略があるのは、吾人の深く研究すべき論難である。︵﹃軽 律異相﹄は西暦五一六年の成立であるから、法正謬と僅か百二十年位の間隔あるに過ぎぬ︶此 の興味有る封照から吾人の推考し得る勲は二つある。第−は一線、夢経なる者の内容は決して 厳密に俸へられた着でなく、似た楼な思想を漠然と停へた程度に止り、彼此思想上脈絡踊係を 保って居ると葛尾して可なること。第二は夢経内容の俸へ方に於て、漸次出入増減の現象を呈 し凍わ、仮令外形上は同じ風に装はんとするも、七夢が八夢になる等の発展が有ったと想定し 得ること。此の二黙は殆んど断言して可捏7りと倍する。現に法正謬には皆無の一夢が、新に他 の﹃姪律異相﹄にほ、濁立の一夢と算せられ、而も在家の之に相督する者は、他夢に合併せら れて内容上の襲化は、全く増大の結果に過ぎない様になつて居るのを見た。所謂、新柱る一歩 とは此丘、法衣不具にして袈裟のみを結び手に煙火を捉って染んで邪径に入り剃蘇に廃して衣 裳を破ると云ふので其の解読は﹃彿泥日後、督有比丘、無有法衣、著俗人服、但一袈裟、結 以絡腋、棄戒紫俗、育養妻子、卦衛供給、有則健斐、無則愁苦﹄であると云ふ。即ち後年、破 ー 3G −
論 屁 黎 想 思 の 経 夢 種 諸 戎無俵の俗比丘の出撃豊望−㌣したのである。之は﹃阿難七夢経﹄には無いのであるが、恐らく 後人の附加では無いかと疑はる∼。斯くして二夢を一に合したり、新なる一夢を喝入したうす
る事が、此等夢経の間に事貸有った事を知れば、吾人が前に論究し死語夢の経文、乃至此から
後に論究せんとする諸夢経の場合にも.此の標準を以て律してよいと思ふのである。約言すれば、個々の夢に放ては、互に相似た形で内容の出入増減が有る事、及び︼軽重鰹としては、夢
の敦の増大する事、詰り此の二黙が吾人の研究の諭撮となる所である。
−○阿難の七夢は他本では、己に明に八夢となつて居り、その腐め恐らくは誤って仁人夢陛﹄と
記し佗者まで有った位であらう事は、吾人の己に論究した所であるが、之に賽で明に﹃八夢経﹄
として知られた者があるから、次に吟味して見よう。乗れは即ち元魂三蘇膏迦夜︵何事︶が曇 曜と共に評成した﹃雑繁藤脛﹄の九巻に在る﹃迦栴廷虜悪生王解八夢嫁旨一挺此れである。︵宿 十し三十七︶智昇級に操れば、此の賂は孝文帝の廷輿二年壬子︵西暦四七二年︶に謬されて居るので﹃陛律異和﹄に兜立つ四十四年に粕督し、荷々古い経である事が忍像される。今此の﹃八夢
∫I【 − しり −・・・−説二十歩 年三界.死 所敬譲
経﹄の梗概を抄記すれば、普、池坊延の本圃に惑生玉と云ふ邪見焼盛な暴王があつセが、除は
之を教化せんために迦栴延を達はしたと云ふ。迦栃妊は本国に蹄か、遠密の使者に撃って王門
中に入り、忽ち沙門像に遼復して符立して居た所、惑生玉は常の如く、早旦天を配る前に何八
にも骨はぎるを欲して居るのに、今やその最も嫌恵恰壊して居る道士剃蒙の沙門を見て、大に
怒う﹃汝今定死.﹄と怒鳴って之を殺さんとした。沙門は﹃我有何過乃欲見審﹄−こ間ふたが王は﹃汝剃髪人見者不声∞と答へた。論議第一の稀有る迦栴延ほ﹃今不富者、乃在於我、不在於重
と反間韓責し、王身に何等増損無きに拘らす、今彼は身命を絶たれんとするの不吉を諷したの
である。王、元より聡明、沙門を放遺し二臣に命じて彼の後を追はしめた。二人彼の往く所を
見るに樹下に端坐して乞食を食ひ帝位進止、塞に常の沙門でない旨を悟って遅らか︿と王に復
命した。後王は一日盈法の飲食と、上味の細食とを沙門に供養し吾が、彼は二つ乍ら﹃食之勢
力、便以充足﹄とて、同じく食し託って安然として居る。王所以を詰もや、迦栴娃乃ち日く買
身口者留如於寵、栴檀亦焼、発揚亦焼身口亦隠、食無盛細、偽足虜限﹄と。王後十三婆碓門に
放て之を試み、皆美食を貪求し患食を厭志する情を知って、王の迦栴廷に敬服する蹄依心は一
骨深められ、大に道心の堅固なるに傾渡するに至つたと云ふ。爾の時、一審者外生女有り、迦
ー ニ;ボ ー論 展 亜 想 息 ¢経 夢 種 諸
栃産を安居に請せん⊥、毎夏を五首餞に代へて供養を陳べたが王之を聞いて必らす美女と知ら
00〇〇〇〇〇 求めて夫人とし戸婆臭沙と解して後、太子喬婆牒を生むに萱つたと云ふ。安居畢って迦栃娃が再び王門を叩く事有るや、時に門竺死雉あつて落ち、形、輯輪豊玉節食の堆に似て居るので
試に肉−片を狗に輿へて見陀。殴りの美味に狗は音を食つて死し次ネ二人も同様美味に遭はされて、自らの貴著身を亡ばすに至った。王、此の死雉を怖れ以て尭漏待避の士に輿ふ可き肉な
らとし、美食に調理して迦栴延に法ったが彼之を食ひ了つて顔色和悦、揮偲軽安、賓に温乎玉
の如き状辛を呈した。斯くて惑生玉は愈々迦薪延に親近し、全く婆羅門を遠くるに到ったと云
ふ。左れば利養厚生の途を奪はれた彼等婆履門徒輩の、迦筋延を恨む事、日に激しきを加へ
たが、之れ凍て夢膵の起源をなすに到った謬である。即ち或る夜、王ほ毎に於て八草を夢見
し、愁菱惨倖快々として発しまなかったが、遂に藷の婆羅門を呼んで、微意を占はしむる事と
し柁。彼等は此の機骨を利用して迦薪延を遠けんと試みたのであつたが、先づ所謂八夢とは如
何なる着かを述べて逝かう。︵一︶頭上火然、︵二︶丙蛇絞腰、︵三︶細鎖網寝身、︵四︶二赤魚春其 隻足、︵五︶四白鶴飛乗向王、〓ハ︶血泥中行泥没其腋、︵七︶登太白山、︵八︶鶴雀屡頭、之れ即ち惑生王め人参であるが、婆腰門は是を以て買王不吉、君不穣厭、鯛及王空となし、王の怖
ー:19 _敬二十多 年三解 党軒数宗 れ驚くを見てその穣厭する具の何たるかに封へては﹃所須用者、王朗珍愛、我若読者、王必不 能﹄と云ふ。故に於てか王は一身の安泰をだに得れば何物か惜まんと焉し所須を切に求むるや、 彼等は王の至情漸く熟せるを見て残忍苛酷の計略雪盲上した。﹃所可用者、此夢有八、要須八 種、可得夜来、一穀王所敬夫人戸婆具沙、二穀王所愛太子喬婆凝、三穀河鹿大臣、四穀王所有 0▼▲U0000 鳥臣、五穀王一日能行三千里象、六穀王一日能行三千里覿、七穀王艮馬、八殺禿頭迦栴檀、却 後七日、若穀此八、変集其血入中而行、可得拘束﹄と。 王是の八穀を蹄き、慣然大息私かに宮中に遣って惧惜して屠ったが、造に夫人の切なる願に 勤し其の事情を停へる事とした。夫人は元よゎ王の食めに一命を惜む者に非れば、乞ふに六日 の衝像を似てし、先づ迦薪延の許に往いて安藤聴法、以て七日に及び命を似て王身の穣束に代 らんと求めた。時に迦筋延は、夫人の言ぉ聞き登羅門の悪計を洞察して、八夢を解すらく﹃此 夢甚貰、普有欺慶、不足病変﹄と。以下彼の解読を馨ぐると、第一の頭上火然とは﹃賓主之園 督有天冠直十萬雨金、凍貢於羊︰・今日隅時必督凍至﹄の吉兆だし、琴一の南蛇絞歴とは﹃月 支国王、普献隻勅使直十寓南余、日入蕾至﹄の慶徴とし、第三の触感桐、身を抵ふとは﹃大秦 国王、普献珠理路、償直十雷雨金、後明農営至﹄と云ふ理路奉献の前兆だと解Lた。次に第四 ー 4()−
音 展 貴 想 思 の 酪 歩 種 諸 一一一−・■、一へ一一ヽ一{一ヽ一、・−、■■、一一一、一、■■−−一一一一_{− −
か二赤魚足を呑むとは﹃師子団王、督献枇琉瑞賢展、便直十萬南金、後日食時雷至﹄の義で貿
展献鼻の徴とし、第五の四白聴衆向とは﹃扱者国王、合歓金賞車、後日日中常至﹄と解し、第
大の血泥中行とほ﹃安息国王、督献鹿毛欽婆羅衣、債直十常南金、後〓日妖嘗萱﹄と符し、第
七の太白山に登るは﹃暁野国王、普献大象、後日哺時普萱﹄と解移し最後筋八の鵜社歴頭とは
﹃王典夫人、普有私蜜之串、車重後日、自皆知之﹄と云ふので何か両人間の争拳を意味するもの
でぁると解読した。夫人は今此の慶兆瑞徴の八夢ぉ聞き、悲慎の影は散じて歓喜の色、面に溢
れ急ぎ還って王に斯くと語るや、間も無く迦餅延の解説は一々適中し、諸国王の使者.種々の 妙喜を献じ又、王と夫人との些寧もあつたの右、l一人粕携へて尊者迦肪延の許に詣り﹃今菱食者演説眞賓、開示盲冥、待戟正造、離於悪事﹄と云って傲悔恭弛、大に快挙ぞ展べて婆誰門を
国外に放逐したと云ふ。此の時、恵生王は何の果報に依て自ら求めすして四方の貿頼家集する
かを間ひ、迦薪延は其の因縁を詭いて、過去九十一劫批婆ア彿の世、一太子の深く悌法を尊信
し乗車供暮怠り無く、天冠賢釦乃至上妙衣服をも脱して彿に献奉した功徳に線わノ、生々世々告
真にして一切の賓至るとなし、時の太子の恵生王なる事を示されたので、王と夫人と益々三部
信恭の念を厚うしたと云ふ事である。
_ 41_−談二十 飾 年三筋 兜軒数琉
之れ、以上即ち経文の大意であるが一鰹、悪生玉とほ何人であるか、迦薪延と同園たるは経
文の示す所であるが何れ印度西方の王に違いなからう。此の﹃八夢経﹄の外﹃狂貿減軽﹄では
或ほ﹃金猫因縁﹄の匪、或は﹃志生王得五首鉢縁﹄の経等に、等しく此の王の宿庵果報の大な
る事と、迦併進侶依の菅ならざわし事と哲俸へて居るが、或は惰薩躍の瑠璃王であるかも知れ
ないと思ふ。経には﹃悪生王、秀行豪農、無悲慾心、邪見娩盛﹄持とあるを見ると、如何にも
外道や悪臣を信親して、遂に繹迦種族減数を敢行し化毘瑠璃に彷彿托る悌が偲ばるゝからであ
る。又賓際﹃坂本詭一切有部批奈耶難事﹄巻七、八︵竺・二十六土手一︶には膵光王︵波斯置ノ ○へ︶ と勝窒︵未利︶夫人との太子ざ年前よらの不群懸記に因んで意生と名けて居るのである。但し 〇 ﹃得五官鉢線﹄︵宿十i三十八︶では﹃昔悪生玉、信鬱躍延城.﹄と云ふ句が鹿本にぁるが、他の ○$ 三本では、住が社とハuつて居わ、決して鬱碑延城︵Ui苔邑鳥関節尼︶の王とはなつて居らぬのであるから、喜入は寧ろ前の想定に讃して置かうと思ふ。佃ほ此の経に放て任意すべき事は
歩経としての構想的特長である。経では滋生王なる一人が夢みて自ら恐怖慶惜し次で婆羅門が
悪意に解して愈々王を悲境に導き後、夫人に語って彼が尊者迦肪建と云ふ彿徒の致を仰ぐに及
び、其の多義を知って三夫人共に、倍併合法家と化し婆羅門を放逐すろ事となつて居るが、多
一 斗2.___詮 鹿 茸 怒 思 り 鮭 夢 種 請 くの夢脛.は皆亦之と同じ思想に構成されて居る。必ず一国王が夢見、婆膿門が曲解し妄姓が