――目次――
論文
1,
レビ記16章に現れた贖罪思想, 山崎亨, The Idea of Atonement in Lev. 16., Tōru YAMAZAKI, pp.1-22.
2,
道教と仏教の父母恩重経:両経の成立をめぐる諸問題, 秋月観暎, The Bu-mo-on-jū-gyō (父母恩重経)
of Taoism and of Buddhism, Kan’ei AKIZUKI, pp.23-54.
3,
宗教的態度の構造:測定のための基礎論, 家塚高志, The Structure of the Religious Attitude, Takashi
IETSUKA, pp.55-76.
4,
ヒンドウの「祭り」考, 斎藤昭俊, On the Fests of Hinduism, Shōshun SAITŌ, pp.77-95.
5,
『精神現象学』における「意識」から「自意識」への「転換点」, 稲葉稔, Der Wendungspunkt von
dem “Bewusstsein” zu dem “Selbstbewusstsein” in der “Phänomenologie des Geistes” Hegels, Minoru
INABA, pp.97-119.
レビ 記 一六章に現れた る る を 蓮 こ し 取 旧
点 は 、 記 プ 者
援帝玉
且 いの 一 十 まゴ此儀般
ト 一 た は 円 の か 特
し託
,録で第
ちに
ヲ え 。 章 嬉罪 序 思想 序本論
㈲ 晴 異日の 暦 上の位置について ㈲新年と 贈 罪の儀式との関係 ㈲ レピ 記の晴異日と神道の大祓との共通点の 関係。
の 比較
山
崎
台下
レビ
記
六章に現れた
蹟罪
思想
味 をも探求しなければならないと思 う 。 あることはメッセルが既に指摘したことで ぃ卜 リント,おおせ 目,ト 何洋 レ 5 % Ⅰ ド由 ︶ 0 ては、レビ一六章の他に左の四 衛 、 ジプト 記三 0. 一 0 。
㈲貝類
記 二九・セ ー一 0㈹レビ
記 二三・二六以下ほ ついては後述したい。 あった。︵ ヲロ六 りのの 舟い Ⅱ 、 大ょ り 後に書かれた Ⅹ 岸パ ︶。 ェゼキエ ル童車
れていることの
意
0 ︶ 、 拷 ⅡⅡ り レ 説明した。 二 一四 b 節 ︶ 一九 | 三四 a 節 ︶ | 二八節︶。 Q 聖所 および会見の幕屋を清める儀式 ⑧ 贈 異日の儀式
一山八年、九二
0
頁
︶。
かも此の日が正月
元旦に
当
ることについては、説明を要する。
の
呼称はアッシ
ジ
神道の大祓と年のかわり
織目という点において共通点をもっている。
は
次の如く説明してい
づ陰暦︵月に墓 章 櫻る
。︵
づ
。日当
き
、一年を二五四 目
・の口の田︵
h,
づ汀
|
二五五
︶のさいの
ゴ
には一日から数えて
一
0
口目に新年が始まる。
創世記七章を検討してみよう。
本論
づ肛
異日の 暦 上の位置について ︵る 。此の﹁ セ月 ﹂
ことはヨセフスも 記
︶すなわち正月︵ 四
の 暦が行われる よう
、これを改暦 と 言い、
暦の計算を混乱さ せ 、毎年一年が一 0 目早く来ることになる。﹂ 同三七節には と 決定することに 異論をもっものである﹂と記述されている。 の ﹂ 0 日を正月と る 。
との推測がなさ が 発見されて、それを実証することができた。 測 している。 CT 0 ガ ㏄︶の文章を引照 し
プトアギソタ が太陽 のの 臣 0%9 トの・の: い 0 目 N, セ ・ い のⅡ︶ 0
ほ 次の句が見出される。
合致させるために
一
の
理由を見出し得な㈱
始まり︵一一節︶ 、
レビ 記 一六章に現れた 嫡罪 思想 (397
レビ
彼 「司
に と ) 三 掲 肚 は 三 げ 罪 至 は る の儀式
聖所ま、
なら の セ は と た 月 、 の め 一 新 関 に 0 年 係 、 日 の あ に 初 が な 頭 な す に い べ 当 を き っ し こ て 、 と 過 ま と 去 た し の 全 て 罪 晃 次 を の の 神 幕 如 の 尾 く 前 の 規 に た 定 積 め し ね祭 る 壇 。 そ の の 六 - Ⅰ 後 め 新 Ⅴ こ、 年 を が
出発
あ な し ナ - Ⅰ を の な で、 し あ る ま ナ, 円 そ も さ て 旧 見 受 けれに
い岸田ならは右う、し
のこ あな ある 読ん 0 ぅまヘ、、、
力 Z ょ、
後に上き
と、
(のハ
一 生 と。
に婦 る 奴 。 隷律 れ こ が 浅 ば
を
の 解 十 枚携 日 の あ ダ か も た る と ,え て 間 は 竿 は
男 唐 目 女
の 外 人 明 会 の と
衆 目 さ に 器 の と す た ビ お で れ な 8 期 で る り 人 よ 聞 き 習 泣 だ び あ っ 場 る ヰハこ 。 が る 償 い ち す 始 。 が た と べ
て合
ま 存 り は て聞 此 テ る 在 し す の ィ として
、 はて
べ 期 シ 考 て 間 ユ ,え こ な の ,悟 は リ て の ら 民 る 奴 め い 律 な に 隷 」 渋 い 向 と で、 日 ナ - Ⅰ の 」。 っ の は か よ 朗 ( て 読 九 で、 な ら 以ノ き い 一 で ・ る 人ま ま
目 。 は 日 の F ゴ l Ⅰ 二円 F プ し
mo ほ の 臣 Ⅱ そ あ 白 女Ⅱ の Ⅱ あノ ら わ 由 き ヒ ・ ゆ 入 寂 あノ れ と 扱
のであって、それは全く神聖なるもの 要素を含むところのイスラエル大全体の き 、
い 。そして アロソ ︵祭司 辰 ︶はその
もろのとが、すな ね ち、彼らのもろ に 対する正しくない取扱いか 汚れをあがなりためには、 聖 生きているやぎの頭に両手を もろ罪をその上に告白して、 ︵ヰ立 2 ︶ て贈 葬所をおお う ︵一六・一三︶
け れ ば ならない ︵ 一 ムハ・一四︶。
、、、ヤ 1 士ハ ・一一 0 ︶ あノ 。
は ︵ ゴの ヨ目 柁
めていると 伝
訳されている
, Ⅰ 0 コ年 0 コ ・い の い け 、 づ ・も㏄ む ︶ た こ い れ な な す 総 る 括 。 す る な ら ば セ 月
O 日 ケプ し ③ 祭 司 サま 聖 所 の ナ, Ⅰ め v ブ Ⅰ あ が な を し ⑥ 祭 司 と イ ス エ /L ノ, 民 族 全 体 の ナ ・ し め サ ブ Ⅰ あ が (398)
ないをしなければならない﹂。
﹂とに留意しなければならない。 ビ記 一六章に現れた 嫡罪 思想
え に ト 五 の 的
ひ よ も と の の 仰 記
ナ - Ⅰ
ら 故 の 祭 ら
(399)
など、すべて重 い傷
る 。これで﹁全き﹂
い 、と規定されて ぃ ︵
それはあなたがたの ︶
︵
レビ一六・二 0 | 三 一︶と記述されている。 は
ヒレビ記の贈異日と神道の大祓との共通点
だけをとって
レビ詔一六章に られているのも ヰひ ㌧ ゴ uq である。
、同罪をあが
る 。
見て 用い な う することができる。
存在となる︵一六
る 。また祭司辰 は此 ㎝
身をそそぎ更に自分
人間であることを示したものである。
殺し、﹁その血を取
を 祭壇の周囲に注ぎ
に 触れることのでき
とは、祭司が神に属 するものであったことを示す。
るだけで終ることも
条 、某国造出 甚竺 四三 章 六 とある。
或は参拝者の罪を負 うと れた 疽罪 思想、 いる。神道大辞典 る 儀式﹂と記されて いる。 られる。 丸家二集成研 - 中臣 宣二 祓詞ハト部恭ニ解除 二 と記されており 記されている。 大祓の儀式の内容については、大正三年三月、
次第に よ るならば、 左の如くに纏めることができるであろう。 ㈲﹁社頭の庭上に政所 を辮備す ﹂ る 。 ㈲破物をおく。主典が切麻をわかっ。 ㈹宮司が祓を仰ぎ、禰宜が祓詞をのべる。
㈲主典は祓
物 をとって河海に向 う 。 、である。て る
かさ ︶どもを始め 罪 という罪は不在︵あら じ ︶と﹂ 占皇茜 する。 の 如く述べている。 務むるのである。 ﹂︵神道 史 、四二頁︶ 、すなわち他から られているが、 そ 貫長の﹁ 読二 祝詞 - と
あることは明白であ る 。
﹁吹き払う﹂こと
さ ︶の異事︵つみご 、厚生 閣 ︶。 おしひら︶ き ﹂、 聞 には 罪 という罪は不 によって吹き払われ (402) 10
レピ言己 ・の 0 づ 0 コ プ の的の コ ・いのはの
00 討辞 目せ 侍ゴの局 Ⅰ カ 洋岸 笘ニ いの の の・ 章 のいい
のゴ Ⅰ円のの︵ , ロ コ コ色目口のぎⅠ村内 P ドゆ 0 の・ ロのト ㏄ みたが、地理的 杜 と 思われる。むしろ地理 巳 めの参考書としては左の 抽 如きものを挙げる。
儀式との比較 ︵ ることは、これ
あろう。 ㈲清められる
る 儀式を行 5 こ は 年の半ば六月にも行 う ︶。 多くの人々の
ている。神道で 山羊、羊などに一定されている。 を自 こと と、 罪を は祓
市 においては ニサ
リ ︵七月︶の二回に 行われた。 卜
Ⅰ
0n
㏄ 円 0)
) ト "の
戸毛の
H.
く 臣 O の 。 Ⅰ の の ()姉 % O Ⅱ トの O ゴ レ オ ガ 年少㏄ O オの 由 ㎡ 臣コ 0 口 Ⅰ のの ヴの い 佳 Ⅰ c ゴ| ぃ の 由 Ⅰ 蒔的 曲 Ⅰ こ ト ・Ⅰ くう 寺几 Ⅰメヵ (404)臣 0 日 空オ P, ㍗︶・
レピ記 一六章に現れた 賄罪 思想 、指環、王冠︵全て玉の権威を象徴するもの︶
@O
は 次のことを告白 する。
﹂と。
、 王の支配権の
王の頬を強く打つ
かめ 恵みは王に与えられると考えられた。
0% ゴのヨ ピー ェ 0u コ ︶のピー エ ル形︵ on ロ の曲 巳 のを意味する。
命令され ラハ・三一 五・一三に見出すことができる。 第二 ィザ マ宙ゴの ㍉ ル形が使 ている。 、詩篇 ニ ャ ︵ 捕囚
と 。
腕 坐させられる。
三歎、 五 0. 四 1元
まかせ、恥とっ ばき
罪する人物︵予言者
低 している。
一 0 節に次の如く記述されている。
たがたは身を悩ま
めがないがなされ、 れるからである。 (406) ㈲羊に罪を負わせて、清めたこと。 Ⅰ 4
レビ 記 一六章 fc 現れた 賭罪 思想
定められた期間で
悔の日が始まった。
な行為の 一 とされて
れた儀式と共通する 点がある。
び 出され、河の中
ね た や ぎが荒野に放なたれたことと似ている。 すなわちレビ詔一六
野 に送ら ほ げればな
、そのやぎを荒野に ︵ 斗杜 ︶ 送らなければならない﹂と記されている。 な い ﹂と記され 一 0 . 四に ょ
って宗教学的 ささげた﹂と 記録されている。 やぎは荒野の悪霊のもとに追放される。 おいて、第四日目
年の輝かしい未来が
読
されたり、回想さ
目しなければならな
・三三︵
J
︶に
よ
れ
られているがの好一
げる﹁
聖所
と会見の
準備であった
、
と諭
四二
NH
︶これは
疽
たる
ヤ
ーウィスト︵
J
︵・
お印づゴト
Ⅰノーシ
ィ|
よ
れ
ば
﹁年の終り﹂
れ
故に年の転換する
目
に行われた祭であ
ョと
接近したことは当然であろう。
た
記録はないが、
﹁仮庵の祭しに関しては、その痕跡を見出す。
たる
一|
八節は捕
(408) 16の中にはティアマト と
闘の
コ Ⅰしかも此の前半が後半 と
と 考えられる。すな 1
が
またそれに続いては﹁あなたは海の響
き、
︵ セ節
︶の句が述べられ
の救の神 よ、 地のもろもナブ 甲
られる﹂︵五節︶である。︵ 胡卜円ゴの ㌧の 凹ヨダ
その恵みをも せ 0 ︶・ ロ ・ って年の冠とされる﹂︵一一節︶の句を見す。
ま 受けとるとして、
げる収穫 発 としての
。このような立場に
を 大いに豊かにされ
支配し、自然を導 い
されている。しかる
神 ︶をほめたたえる
る方ょ 、すべての 肉
殿 に来ることが明示され
さ る 節 行 救 の 渇 さ れ あ の な た り わ 。 に 利 い 詩 話 れ , 「 る る は り 仮 、 ち
一六節に明ら
げられるに
至
ける暗黒であっ
大波であったのであろう。
砂上、捕
囚後か
語
となっている
捕囚
以前の作で
左の句に見出さ
行列の進行がな
国行われた。
前
のであって
、此
ぅぞ
われらをお
にょ
れば、此の
は
一四節、二一
(410) Ⅰ 8レピ記 一六章に現れた 牡罪 思想
それとの比較 ︵
﹂︵下色 朴 じという動詞で
叩 における祭司的な特色を検討 ぅ ︶の予言者的特色を挙げてみよう。 ﹁拭 う ﹂または拭い取る。の
意を ﹁覆 う ﹂と解するのであ
主張される。レビ一六・ ニ、
来する名詞であることは、﹁ 覆 現 わされていることと、此の語の バビ し、 此の語に相当するの N. 住 ︵あがな 意 であることは前述した。しかしこれ って、これはアラビヤ語の甘 笘 ㌧オ口㍉ 曲 一 三に現われる﹁ 贈 異所﹂︵ ぎ 8 ︵の︵ ォ ︶ ぅ ﹂という原意が此の語に生かされて かに現れている。 る 。 ﹁主の右の手は勇ましいはたらきをなし、 主の右の手は高くあがり、 主の右の手は勇ましいはたらぎをなす﹂ を現 わし、﹁主の右の手﹂は勝利の手であり、 イ げられた﹂︵同一三節︶と讃美している。
ィスラヱル に勝利を与えた神を讃美している。 スラヱめ が﹁ひど エ ルの散と闘い、
﹂とき 白う 。これ卜は犯 ないしろ﹂︵ オ の で 甘のる
規定している。
でいると解するこ や ぎによって人々の と 解することもできる。 いたのであって、レビ詔一六章における如 き、 純粋に宗教的な 概 であろう。 るものとして
偲
・ 凹 あ た を討っ、その﹁血の復讐﹂を意味したの が 此の語であったが 売った者の親族が 、 ヤは、 ヤハウェなるの イスラ ヱ ル人に希 望を与えた。
た 主はいまこ う言 ( 出 き 三
%
の Ⅱ 二 か
ら
一 O源
、
= 生O
"一し
"
た Ⅰ 一 名 一 調) に
と訴
つ o ガ ・て が い る る 。 る O
下,
れれ
」」
人 法 間 典
ナ, Ⅰ は 二 殺 二
人を
二 | 犯し
三 ナ ・ ヒ -- 二 陽 三 4 ) 由ヰ で、 裁 は 判にあ
「 か が げ な ら か(412) いた、とも解することができる。
財産︵﹁所有の地 し 21 コし
ガ めちぎⅡを全く用いなか (41 !- 六
し
とには、異論をさの 叢 c 現れた 贈罪 思想に 示され、この神
めがない﹂︵ 幅 p. 田 ︶ は 更に説明を要する。 もの
所有となる、とい
四九・二六︶との 思
している。㈹あがな る ﹂︵同四八・一 セ ︶ ぎ 儀式的要素はない。 われるの ﹁恐れるな、わたしはあなたをあがなった。 わたしはあなたの名を呼んだ。 あなたはわたしのものだ﹂︵ ィザ 四三・一︶ 右の句の中で﹁わたしはあなたをあがなった﹂
意味で用いられた
の句の最初の行にお い て明白である。
中には祭司 予言者にお 者自ら︵ま よって 、罪 えることが おいて取り
意味は 、
なく 予臣 き日 ぅ ことに
ものと 考 約 関係に 上げた、という意味である︶。 と たてた契約は取り の ﹁罪を消し去る﹂の
ぬく、 罪を消すこと
る 状態にすることが、﹁あがなろ﹂︵ 案 ・ 住 ︶ の 意味となっている。
いでください﹂ ャ が Ⅱ " な レ
の に
者 て
イ 閑 こ ザ 保 二 ヤ は て 四 な
甲、
;
壬者
(第一
サ ハウイー
-
九 "こ革司
は が Ⅹた 凹 た は
(414) 22
はじめに
︵ⅠⅠ︶ており、就中、 そ
ることは周知の事で ︵ 5 ︶ ︵ 4 ︶ ︵ 3 ︶
上帝 説 親父母恩重経
忠重経は単に経塔 が 類似
黄経と略称する︶と仏説
している。元来、道仏画 の
類 に属する経典の中で、
外にないと云って差支えあるまい。 道
国 在来の礼 数 に背 23 (415)
秋月
観瑛
経
は 繰返されるこれら
存在を強調している
母を捨て、 継種 を断
げる仏教排斥論の主
して盛んに仏教排斥 ︵ 6 ︶
ってその主張を窺 う ︵ 7 ︶
非難をかわすべく 偽
き 道教側の態度に照 しめる。
別 的な関係から 生
面 が大であり、客観 おける父母恩重経の
団の内外に熟してき たことの結果と考えてよいと想われる。 ながら未だ知らな
推移を関連的に検討
もって展開する造仏
ある。 (416) 24
25 (417)
道教と 4 ム教の父母恩重経
報 隆 二 て 経 は 充 に に 人 の 父 分 神 の っ 父 と 月 歴 興 さ 分 堕 著 聞 世 相 も 部 で て 色 見 に 代 が ほ で ち す は 界 愚 る 本 省 予 9 、 て 至 の 托 ど な る る 諸 に 相 る 文 略 め 洞 い 聖 堂 い
属 封 、 大 れ ま え、 し 十 行 足 ら ず の 短 篇経 典 であ る が、
忠重
玄 は集元
の て生 や えた な目 無 ・ な ・ 台 相に 沈 は とれ 学的る。
何 Ⅱ 天 成 さ 説 も 己 塞 相 報 埋 は ・ ま 経 者 上 寒 れ 詮 の 修 と な い し 、 抽 ず の と 帝 の た 真 と 錬 な と 、 人 家 女 所 セま の 大 女 ( 理 に っ も 大 こ 間 酌 人 説 対 知 徳 武 人 解 よ て に い れ は で 上 は 象 封 セ で 六 さ る 自 滅 に が 乾 る 帯 同き 、これに報いるべ
建立などの功徳を立
セ 日の修斎を勧める
、本経が天師道の系
、最初の父母の思 重
没の父母に対する 救
いて一言も云い及ん
え て大過あるまいと 思 われる。
る 甚だ多彩な内容
にして道徳・耕成 を
も 効に報いるに由な
空 真人との質問応答
旨は第二段において
如是﹂と提示して 孝
苦を受け、 罪 畢って
苦は輪転して 窮 りな (418) 26
道教と仏教の 父母恩重経 一 誠 める。第三段はこ 一歳三歳・ 及 年長大 年老いた親を放置し から生命の速やかに 日子の誕 育 に注ぐ親の 老君が神変によって して父母に孝養を尽 第セ 段は父母の思に 聴衆の発心を促し、 日 の 設 斎及び水経の ると勧説している。 稽首奉行することを り 兎も角この経典が 諸教戒 中 不宣某日、 ののあることが察知 されるものと想われる。
さてこ 教の教理 な観点か 夫人生 常 、三 と説く 所 あり、 云 その根本 た六朝通 例外では て形成さ ことは 曽 検討を試 如し。故 に心に由 は虚無自 我が真の ず、 従っ
な教説を道
ろ う 。斯様 報及び輪転の教 説 、並びに第三段の
重 、坐臥 失 ム
したもので
する道教が
途上にあっ
もまたその
の教説 とし
黄経である
経によって
形に従 うが に 非ず 、正
る 所以の者
母に非ず 、
父母にすぎ
を 要する。 (420) 28
道教と仏教の 父母恩重経 併し 流右 に現実 れ我 因縁寄附し ことをあげ、 礼 繋がりは偶然的 斯様に見てく 老君恩 重経が専 度 と同一の立場 報を説く限り、 とを示すものに り 。父母の遺体 の子を生じ骨肉 空曹 蔵 真人が﹁ 緑の繋がりに 基 して孝道を基礎 はこの様な点に 機 、即ち六朝 末 題 がこの時点に
| まこ
重い
子の ム わなければなるまい。
せる
な態 一世 応
いこ
体な ウヤ ウト
父母 ︵Ⅱ 廿 ︶
に海
内面
契機 拠と
の時
な課 ばならない。
を 規定し 、 却って こ
に
飲酒肉食を遠ざけ、
か な で 子 犬 を 二 正 純 る し と む 対 く 態 後 す や をい てのち更に
一致を説いて
身 するもまた
を 明確に区別
実践を要求し
る 。
ば 抱朴子︵ 巻
但 務めて文道
長生久視 し、
と 孝道は何等
の 最たるもの
然 として人理
されるのも 斯
されるのは本経の㏄ 一 一 30
道教と仏教の 父母恩重経
・禁欲的生活を要求
ほ ついて明瞭な目覚 しめるものがある。
る 一方、例えば 唐 ︵ 鳴 ︶ 特に道士女官の不要
道教の態度は必然的
出家因縁経には﹁ 天 と 謂 う、 家に二義あ
なり。共に相い纏縛
しむなり。今この家 ︵ 廿 @ ︶ は 父母兄弟 巻属 の 思
には父母 品 の一章を ︵ W Ⅱ︶
俗と殊る 有り﹂と 述
に 多少時代は降るが 以て福を惜 み 道に向
精一心、学道に勤む ︵ 耶 ︶
孝 なり﹂と云い、 父
換を余儀なくされる
問題の老君恩 重
集に 、仏界初刊 天品 されており、これら
も 拘らず、遅れて 新 本 的な相違の存する
述の如くこれが事実
要請に適応するもの ことが認められる。
孝道を第二義的な と る め る な の を 数 6 世 わ で 指 理 も 家 ち あ 摘 的 の 制 侮 っ す な が の 空 て る 要 る 成 智
に至
止。に
因に る 土 に 蔵 真 問題 め 如 し 俳 人 の っな
、 起 れ 忌 数 四な る と こ 践 い
説 は れ 典 し し
矛 で る ぎ な え 盾 は こ 遭 お る
さぎ
が発と教か
せ々
っ こと 生 に 想 國 字 が し 指 定 に 道 出 た 摘 せ お 若 菜 こ せ し げ す る (424) 32
いて相異った立場に ︵ 却 ︶
の 為に説法 し 、三月
を 救済する仏教的な ︵Ⅱ れ ︶ 孝道の実践におかれている。また六方向拝経、
・師弟・夫婦・朋友
れており、親子の間
を 異にするものがあ ︵ 投 ︶
は 以上の様な立場 の
その思に報いる途に
服その身を光耀なら
俗 的には恰も完全 と
、世尊は冷然と﹁ 未
となすのみ。能く親
に 重く、 乳 哺の養は無量
なり﹂と説いて孝道の窮
おいても世尊は諸比丘に の
右肩に父を負い、左肩に
して 信 ・ 戒 ・ 聞 ・ 施 ・ 鮎
儒教的・世俗的な孝養は
目しなければならな
大部分を子供の育養
中に点在する 亡没の
ぅ ると説く宗教的な
にあると見ることが
俗的 孝道の実践を重
父母に対する宗教的
木 経典の最大の特色 の 一 つ があると云 う ことが出来るのである。
は 既に道端博士も
とは、この経典が決
ものであり、下層階
必要はないが、なお
。即ち 我児 家中に 嘩
ち 帰り、 拘 って共子
者が目差す教化の対
に 追われ、或は客席
かに額に汗して働く (426) 34
道教と仏教の 父母忠重
力 孝 一 が 説 一 る v" し (
遠 国 天 水 い
に
﹁親を害して道を求む
は 本経典成立の背 影 的にもこの様な要請 期を想定することが許されるであろう。 五
む 宗教的・社会的 のは、果して中国史 ぬく 、北周 末 におけ ︵ 接 ︶
互の間において問題 た 時代である。一応 セ年 ︶に奉られる 衛 白 があり︵ 続 高僧伝 巻
巻を偽作した
んだことを記し 件は 一応整っていると云ってもよいであろう。 憶測を覆すに
追修業者にこれ
が 見出されるの @
沙門道士、
教 を廃致し、
帝 が通 ︵㏄︶
的な条
、老君
を 確認
に云
ハ ツ 古本数
﹁父母 思 重きも沙門
し ﹂︵集古今仏道論衡
めた要請が如何なる
陪幸が設立されて ぃ
い る部分の篇 各 であ ︵ 篆 ︶
本数問題を国家権力に
て 、仏教側が従来の
したことは予想され
珠林 ︵ 巻 五十五︶に (428) 36
下した道教々団がこの
ぃ
。斯様に老君恩
重
手懸りとなるのは
太
︵ 2 7
︶
人の存在である。
玄
凝の朝正論
巻下に
造海空
軽士
巻
。
七一乗
海
空曹蔵経
十
智蔵
真人の名はこの
く仮
空の存在である
6
人物と見てよいよ
経
は頭慶三年︵六五
を
受け入れて作成し
則天武后の時代︵六八四
識
字
隆盛の時期におい
の
0
名声を仮りて作成され
大過な
い
ものと思われ
遣
る。
37は 当然のことはが
をとった者に当時の
養二十三︶、詩魂︵ 巻
もまた仏教復興後の
て 毅然とした態度を
経が 造り出されるこ
九︶に宝荷 に 奉った 仏法重興を願 う 上書を載せて
之形 、無尽 解櫻 、
埋木 越 。
する 孝 事と仏に対す
諾は
に ﹁経訓下聞 董賭郭
黄経には当然下聞、
恩 黄経 が 流布して ぃ
容易に 頷 げないこと
なければなるま い 。 (430) 38
Ⅰ 従来 木 経の成立に
喰い違のあることが 注意される。 次の武周縁︵ 巻十
せる則天武后の天棚
の 二は道端 良秀 博士
﹁特に偽経であって
載るまでほ相当の年
ない﹂と反論し 、そ
を 承けてか﹁ 唐代に
孝の主張であったろ う 。
の時代であり、この経は 母
のである。道士 博 突の上
り 、仏説忠重 経 成立の時 り と 道
︵ょ八二一ハ ハ ︶の撰述 3
盆経疏 ︵二巻︶に 仏 いるのに対し、例えば
太山立 重 、乳 哺三 年 、育養亡息、青天田 報 。︵下略︶
また善導︵六一三 養 二︶にも﹁孝養父母﹂に注して
服皆赤 不浄。 及其 者、即興畜生無異 也 。 ︵ あ ︶
これまた歴名は勿
述 されていると考え るのがまず穏当であろう。
経と現行大正大蔵 された 禿氏 枯葎博士
っており、岡本が全
元銭︵ 巻 十八︶ 偽妄 % 貫録 第セ 0 条に ︵ 帥 ︶
には少なくとも 丁
び 子の親に対する 不 (432) 40
る
訳であるが、開元銭にめ
開元銀が三紙としている
が
同一である以上両者を
4
にして撰述されて ぃ 然両 経は並列して 所 みを掲げているのは 説 ﹂の冠称を省いて 来 相伝晋三 億謬 、︵中略︶ 母 となり、当然現行本の成立 孝の行状の具体的描写によって は 、下関本が開元銭に注する 如 削除して現行本となす為には 余 こと、単純に現行本を丁関本の く 、経典目録の収載経塔のみに 恐らく両者は全くの 例経 或はそ この場合、仏説忠重経を収載 の 注記もせず単に仏説父母忠重 ︶にかかる数件の孝子 譚が 加わること れる以上、下関本より三人の孝子 譚を 画本と同一本と見 倣 すことは勿論の ま訂本 と見 倣 すことも困難と云わばならない。 されば画本を慎重に区別することは の点から再検討を加える必要があり、 年 ︵六九五︶萌佳 等 撰述の武周 録 が何 載本 と同一本でない可能性もない訳で従って同一の経典に 巻は五紙とされて ぃ
貞元録の間に紙数の
に 相変らず下関本 が
は 貞元録の編輯され 九世紀前葉と見るべきであろう。
一は 貞元銀 が ﹁ 開
興さ 迫加して居るに ︵ 套 ︶
集 の 続 貞元銭にも 父
ころがない 0 従って
葱性 に欠けていると
は 何れも四明寺沙門
仁 の 訪 唐は承和五年︵八三八︶より同十四年 ︵八四 セ ︶迄であり、 ︵ 蛇 ︶
撰述年代の後限であ
るが故に、仏説忠重
天暦︵七六六Ⅰ セセ
において、王室・生貝
学的な仏教を圧倒し (434) 42
両者の相違は明瞭に窺われる。即ち 団は治外法権的な特権を喪失し、 国 様であったと見てよいが、後者の特徴 家の教化政策の上に利用せんとする
と
書本紀によって挙げるならば玄宗は開 を 家蔵せしめている外、開元三
前者にあっては 嘗 て復旧を試みた 道 家 権力の法的な統制下に組み込まれ は 単に宗教教団を国家権力の立場か 方策のとられていることが顕著に看 め 元十年六月・大宝三年九月の再度に 十一年正月・天空十四年十月には 老 4 セ 武后政権の出現 と 有しており、視点を祷 仏教がそ ︵㎎︶ され、趣味化 動かすことは 仏説忠重 経の
安史の乱 勃 る 時期は 、そ
れているこ 見る必要がある。 のご 会 昌の廃仏︵ された仏教が彼等 ︵ 4 ︶ あっても、孝道か 製作の必要に追い 発 以前、即ち 玄 れとは全く対 庶的 とは注目すべ き も 八四五︶に至るまで長安の仏教界を の 盲目的な信仰を集めている限り、 - めぐる儒教道徳との背反を理由とす 遣る事態の発生する可能性は存在し 宗の治世 干 、就中開元︵ セ 一二︵ セ に 遺体両教の父母恩重経が醸成され のがあり、更にこの点に検討を加え て る 四 な る 国 席
︵ 巧 ︶
は 必ずしも充分な効
治 述の意図するもの
文巻 三 二︶に
中略︶宮村所司、 頒示 中外。
のであり、庶民教化
ある。事実、孝経︵章治 章 第八︶には
市況 於 妻子平。 故
政明王立 以 章治天 下地如此。 詩 三有 寛 徳行、四国 順之 。
に 移したものと見て よいであろう。
周天左道、分地 之
﹂と庶人の孝を説く
度 が底流をなして ぃ
ているために庶人に
た 、軍士 畏 士大夫 以
ての儒教の孝の教の (436) 44
道教と仏教の 父母恩重経 道徳経並びに金剛経 云 う 転読経典、懲悪勧善、以聞文教。
造仏両教団の布教政 ︵㏄︶ ﹂れに乗じて教団の教
な 問題として出家 制
経 ・ 孟蘭盆経 ・父母 い るものの、それら
している点からも 玄 る 。一方道教側にあ 応報説の摂取、出家 教 説を具備するに 至 道 振興政策の展開を
っ たものではないか いで、中国社会にお
関する教学上の矛盾
に 触れた如き著しい
おかれた何等かの 共
(438) 46 ( 一 別路 懐 ・孝 経 体 辛 い じ 説 く 推 め 確 ろ 道 娠 ・ 君 と は の 点 た 恩 こ 定 る 実 、 仏 十 ・ 父 比 そ 部 に と 重 と す 大 な 体 面 月 ・ 母 較 の 分 つ 見 経 は べ 正 評 説 思 ( 思 し 侭 は い 倣 の 、 ぎ 大 拠 思 量
倶
U.
るのか
な所らに文中重見に、
焼るの思がとくも
概立
成月、
常 推 飾 博 や に 的 こ 咬 も 相 憶 ヂて 足 さ 上 童 接 な と 検 か 前 側 邪 魔
之 材 も 経 或 難 が 目 る る る 測 前 月 料 の 自 は い 体 に 限 こ 時 を 丁 こヴ 八 @ 室 戸
( 一 別路 , 壊 ・ ィム 身 ・ 説 十 ・ 父 月 ・ 母 中 重
路 径
Ⅰ 父 母 懐 抱、
和
忠重
であ に重 忠重 的な を示、両
剰窟 教理 両 経 和 弄 戸、含 笑
つ、し
体八
て論、り、
こ 正 整 す に て れ 八 態 の 挿入 るの 照 し 作さ 二O
関係 に 世 八 通 世 な 紀 社 の 会 三 的O
基 年 鑑 か め ら 存 半 在ま 想 で、 し の た 間 げ は れ 老 は 君 な 思、 ら 重 な 縫 い と が
。悪
相前 後 5 し く て 仏 成 説 立 恩 、 し 重 た 経 も も よろ の う 孝 と 道 推 振 測 興 し 政 て 策 ぉ が
め ら れ て ナ - 甲
道教と 4 ム教の 父母恩重経
来帰 、向英字 干 、十
哨伴芙 、︵下略︶ ︵下略︶
序を追って叙述を の ﹁全子不浄、 母或 ﹂の挿入部を前後に接
0 字句、即ち﹁ 応各
悲母 不 ︵ 4 ︶
行 来、 卑下 就 、 長 看 母、嬉嬉 重 、情観相
顕界 脳 、 不観 、非 母 不 浄、西戎東西 家中 哨芙 、 母 血相伝、両 体 養 、 忽離欄車 、出船地上、十指爪 甲 、食子本︵ A ︶⋮ ︵ ロリ 、 碓磨 隣里、官租急切、不得時運、即知 我児 、 干 天親、心性相感、分母百骸、両為 両身 、気 ︵ D ︶ ︵ C ︶ 無二、児斑 憶 母、母即心 驚 、地歩定席、両 乳
飲 母乳、八
屯甘 、非義
可報 、
、我 ︵ 2 ︶
復曳
両手、
見児
此 ︶ 、
回報、
乳
、母
不義、
慈母
養児
、
去
雑菌
車
、十指甲申、会子不浄、︵Ⅰ
各
ユ
席
ll有人
いる。また 禿 民博士
での十五行を指すの 明らかなところであ
東西﹂以下を挿入部 ﹁ 但 父母 至 旅行 来 ﹂の句が、たまたま傍線︵ 4 ︶ の ﹁父母 行来 ﹂と恰も
することなく、仏説
隠滅せふとした工作 もう一つの材料を挙 ﹂として﹁東西隣里、 大正大蔵本仏説忠重 っている外、他の三
く、 。点の三旬 は殆
は 現行大正大蔵本の 、仏説忠重経は老君 は 上の二点を指摘す
のと見放す以外に妥
拙劣な 瓢窟 によって 錯乱・誤脱・鼠穴 と (440) 48
九
基盤として成立し
史的な背 影 に一言 触 げて崩壊に向ったこ とについて 丼之弊 、 有愉漢 成束 之間 。
付 としての租庸調の
的な支配を弱めるこ
そのものの基礎を揺
に 指声政策を実施し、 権
く 挫折してのちは、前述
で、旧唐書本紀は恰もこ の
赦の具体的な内容は単に 鋤
えま | 道 末節婦、終身 勿事 。 いが、少くとも現行 断定して よ いであろう。
臣 勲爵。 征 防具 父 旬年 セ 十者 遺還 。 民輔 三日。
幸菱 推 衰老熟面 転 。侍者百歳以上版本郡太守、 婦人郁夫人、九十 君 。大守加賜静一級、県令熟面 転 。 民輔 三日。
て 幸義の実践を奨励 する施策を併せ行っている点が注目を引く。
えば呂氏春秋の孝 行賞 に ︵中略︶ 篤謹 孝道、先王 之 研治天下。 と 説いており、また論語の学 而篇 には 好 作礼者 禾右 芝地。
ることは否定しえな
直接的な契機は 、曽
が 動揺し後退しての
可能であり、 孝義の
適用を広く民間に拡
る斬 らたな国家的施
なかろうかと憶測す (442) 50
道教と仏教の 父母恩重経
思想 | 東方 学 第二十二宿。
比 達朗教授還暦 記念特輯 号 ︶。 ︵は︶
同右
よる っ ︵ M ︶道蔵 洞 神部︵五六三冊︶ 力下 。
五号。﹁ 道僧 格の復旧﹂歴史第四 輯 。 ︵㏄︶道蔵 洞 文部︵一七六冊︶手上第八紙。 ︵Ⅱ︶道蔵太平部︵ 七 Ⅰ八一冊︶ 儀下 第十三紙。 ︵ M
︶道蔵洞貫
部 ︵ セセ冊 ︶面上第一・二紙。 る ︵ 曲叶 ︶ ことも許さるであろう。 註ていることを 指 摘 している。 ︵ 3 ︶道蔵 洞 神部︵三四五冊︶大下。 ︵ 4
︶道蔵洞貫
部 ︵ 三 二冊︶宿下。 ︵ 5 ︶道蔵 洞 神部︵三四五冊︶女丁。弘二 破論 ﹂に 引 用 するところによって内容を知ることが出来る。
正大蔵 巻 五十二︶。 ︵ 8 ︶道蔵 洞 支部︵二六五冊︶ 参下 。
十二次、変 為玄
天上帝に托される道筋が明らかとなる。
一 0 九一冊︶ 封 字 。 ︵ 初 ︶大正大蔵経第十七巻︵西晋竺法護 訳 ︶。 ︵ れ ︶大正大蔵経第一巻︵後漢女性高調︶。 ︵ 花 ︶大正大蔵経第十六巻︵矢沢︶。
頁 。
道教における 孝
、本稿がこ
と 批判によ
おぎた
頁 。
道 経典籍の校 雙 ・撰述・宣布に従ったことを記している 0 ︵ 四 ︶大正大蔵経五十二巻五六九頁下段。 ︵㏄︶道蔵洞貫 部 ︵ 二 01 二 二冊︶国字。
紀要第三十一 分冊。
二九九頁を参照されたい。 ︵ 紐 ︶道端 良秀 前掲善二 0 八| 九頁。
番所収︵一四六頁︶。
︵第十二︶、仏祖
よ 問題はな
の 仏説末羅三径 ( ぬ ) 52
道教と仏教の 父母恩重経 である。 ︵㏄︶大正大蔵経第三十七巻二五九頁中段。 ︵㏄︶先民 祐祥 前掲論文。 ︵ 舘 ︶大正大蔵経第五十五巻六七三頁上段。 ︵㏄︶大正大蔵経第五十五巻四七四頁上段。 ︵㏄︶ 同 右四セ四頁下段。 ︵ 如 ︶ 同 有一 0 一セ真上段。 ︵ ぬ ︶林屋 友 次郎﹁ 異 訳経類の研究﹂東洋文庫論叢 第三十三四頁。
高宗が孝敬太子
出した官寺
難い節があ
興隆の社会的基 盤 ﹂神戸山手女子短期大学紀要第七集。 ︵ M ︶新唐書巻一四 セ 事故 明伝 。
照 。 ︵㏄︶前掲 註 ︵ 騰 ︶参照。 ︵ 仰 ︶ 禿氏祐祥 前掲 書 。
いる。 ︵ M ︶旧唐書巻 八 玄宗本紀。
構造﹂の克明な 考察が参考される。
附記
53 ( 典 5)本稿は昭和㏄㏄㏄
年
康順
博士︶の分担課題
皮 文部省科学 ﹁ 疑 偽経典 と六朝文化との相関ピ
研究費の交付をうけ
た 総合併 究 ﹁ 六 に関する研究成朝
仏教における
疑
偽経典
果
の一部である。
代
十表 日者 福福 ア井 て何 6) 54宗教的態度の 構造
たら よ いであろう
が 、その対象は意識
は 、これを宗教的態
の毛 ぎの理論によっ て 考えてみたいと思 う 。
でき、宗教的行動 ︵ⅠⅠ︶
査 では、この宗教 意
ば 、﹁毎日曜教会に
設問がこれに 当 るが、
宗教的態度の構造
家
ユ
"
し ヰ Ⅰ @
塚
一口同
外 はない。しかし
ると、このような ら
価値体制と、浅い部
として修正され、 表
的 信仰構造と宗教的
うことは、このよう 心として宗教的態度を考えてよいと思 う 。
をもつことが よ り
さか触れておかな げ ればならない。
な 感情というほど
ない。であるから、
更に浄土真宗的・ ヵ
は 量的な把握も可能
う な立場に立つなら ︵ 3 ︶
来の調査や測定は既
は 不充分であると 思 @0 ( 邸 ) 56
宗教的態度の 構造
つまり ? ︵︵の コ は 態 5 そ 化 し す て る 情 も 操 の
はで
行、
情操
動と し は て 大 表 き 現 な さ 複 れ 台 る 的 と 態 し 度 て てあ
情り
操、
を我
" 々 熊 がミ 度 テ 複 ス ム ロ ト ( で 笘 濱 Ⅰ ま 定態度
o ヨ の 巳のⅩま、ャ
Ⅹ 小ある
( ( めti
@
アし
Ⅰ 且 よ の Ⅱ べ お て の中
) 数 る 。 と 定義している。 ではなかろうか。いの
変 トユ /
ゑび
神経中枢の一抹
情操 い う概 い う概 ずる︶くる。態度と
なり、情操 と
は 内部から 生
の 活動に対し ︵ 9 ︶
力学的な特性構造である。﹂と定義している。
し 、一定の仕方で感 ︵ 8 ︶
組織﹂であるとし、 の 意味に使われていることが多い るとか、必ずしもその内容は一定 然 ふれていないものの方が多い。 目白豆お目は情操を﹁いくつかの る 感情であるとか、知的な感情であ はあまり使わず、概論書などでも 全 者 もいることは注意すべきである。 る 組織体﹂であると定義している。︵ 7 ︶
をも含むことができるものである。︵ 3 1 ︶
られている 両
感ぜざるを得な ︵ u ︶
と 特性の差も程 ︵一 % ︶
ないと言わざる
的な仕方で、 と
して事象の本性 ︵ 皿 @ ︶
傾向である。﹂と
え ないよ う に思われる。 者の 度の を得 かく にお 定義
一 傾性であり、 そ 慮も払わない。
て 情操はある一定 0 対象に向って集中する。 的なものであると考えられている。
、態度は、健康な か 吹 ど ほ う
レカ
ロ ミ 一 ち 又 巨 巌 密の 四 古ぃ を あ げ て る (450) 度 と ,清 操 の 差 を質 的 な も の と い 乙ノ よ @ も、 t 的 な も の と し て と ら 、え て る わ け で、 果 し て 両 者 を 区 兄 Ⅰ す る 必 要 が あ る 58
かということ
る 筈である。 七 %
も 既成の は 、大変 む 勿論或る 特 教団と関り ) 構造 ほ で の お は み か い " 推 ぅ て 或 察 ま 、 る し で、 ど 設 得 も の 足 る な
態度
な反 た場 であ 一 一 '応に
がお。
ると
い み い 熊 ぅる 宗 性 は 時 数 質 直
そ 度 の 観 こ が 5 強 察 に ど さ す 宗 の の る 教 よ 側 こ 的 ぅ 定 と 態 な と の 鹿 皮 い で の 広 う き
が て も も 推 表 " の 察 ね こ で さ れ の あ
と 遊 者 動 い に え と
か 、 つ め
宗 設 ・ わ 形 裁 定 れ 態
度 た 本 じ の 場 稿 て 伴 題 的 較
態 ら 態 本 る で 易 し 問 な し ょ 稿 の あ で こ 題 ら て ぅ セ T で る 、 こ と ば と な こ あ と は で し 、 ら 観 の つ い っ い て 現 え 点 、
味 項 し 形 態 で つ 異 は で 目 か を 度 あ っ ち
宗教
とりし宗の作の宗 Ⅰよ、
る。
ある 尤 しょ、
教 製 教 得 宗 態 こ 的 度 と と 側 に い 理 で と 論 あ なみ口はは
、カカ
: や で よ情操
でき 態度る
o17
(と
)い とい る に の ど な も 尺 も の く の 度 の 態 てで 化 が 度 は ょ は で あ
と ど 尺 な ぅ 必 衰
" 立 と つ 的 も 教 い で 適 に
大
と 、 態 き か 数 度 な う 値 の
な と は
測定
困難こと 化も 宗 し 宗 性 が 比 は 散 て 教 が 間 軟 化 的 と 的ら ばれまし
れた中村
、概念規定から出発
りたいと思う。
ゑび 宗教教育の専門
し 、それについて、
たえて、その中 か
い う 立場からえら ば
なし得る態度の典型 ともい う べきものを見ることができると思 う 。
。これは個人の生
機の場であると考え
態度の四つの要素の
なめてい う までもな
引用しておく。 (452) 60
宗教的態度の 構造
問
けえ1
)宮 中 い ク 毎 ら
い さ る
カ Ⅰ の中 り ) ) で、 お
姉 た さ と と
るぅ
の な Ⅰ ま { の し て て も、 も ) し Ⅱ い い ち し
ちは
っ。
ま Ⅰ ん 反 ん と を い い し と と て , 思 、 艮 ・ し Ⅰ { ち う っも のこん
口 の が を な を い や つ場ム つ 尤 。 し - ナ 。 レ - 61 (453)
問 2
合 、実際に
と 思うものを一 つだ けえ らんで、その番号を 0 でかこんでください。
て 早くなおるように努力する。
らはなるべく人に めいわ @ 迷惑をかけないように気をつけよう。
もできそうだ。
大事なことだ。 人 間の命の尊いことをよく考えよう。
れない。
からおくれ、
とうに困ってしまいました。
にする。
なたはこんな場合、
に 楽をさせてあげよう。 つ 。 (454 3 で
い友
まだ
ま ち で は 苦 み 党 ん そ な か 進 け 営 た す お る 母 の さ に ん く や ら 姉 べ0 目 し 分 あ の わ ょ せ ぅ の に た 運 め の
分 の は は 働 な く し ' ヰ と い @c く
て 下 ら
しか
幸に 負 たがな
けな い レ Ⅰ 人 田 『 な ろ ) 62宗教的態度の 構造
わすものとされる。 (45 一 一
による方法をとり
らんで、その番号を口の中に書いて下さい。口口 た @ さん
が 沢山いまし
家の人 た
消防自動
て 来ました。
と 思うものを一つだ けえ らんで、その番号を 0 でかこんでください。
て 帰る。
ん いで てっ だけをする。
る 。カメラがあれ ば 写真もとっておく。
れない。
たはこんな場合、実
著書の所々で示唆さ
ロジー心理学及び ヴ
ヰ , を そ い 現
こ 有
口 Ⅰ
的 い け る のの コ l
(456) 64
宗教的態度の 構造
ともできるし、 人
とができ る 。
心理的活動を 、数
て 領域と領域との
される。そして 精
極めて明確な異質
み、抵抗する場合、
| 空間というもの
つ 。
向性をもち、 力動
活 空間のあらゆる
﹂の移動に等しいよ
ヱ は 反 接する性質
を 誘引又は反擬す
V o ならば 一へユ
係 をもっている。 の る が 5 年 竹 が 障 惟 神 間 半 そ れ
以上のような理論 は、生活空間に二つ とが困難になってい ち、㈹と㎝とは構造 上る。姉の結婚と進 る 所に火事がおこっ ない。そこに乗る予 に基 又は る場 的に 学と ょハこ 。 - 定の えてみる。葛藤やフラストレーションの場 と 面 、或は障壁が出現して・目標に到達するこ に 立つと、前述の調査で設定ざれた場面の う たいと思っている少年に 、 姉の結婚 話 がもち 藤の場面であり、㎝は 、 駅で列車を待って い ケッ で水をかけているがなかなか消えそうに 場面の設定である。この二つの場の構造を考 四 ︵館刊︶
といっている。
えられる。要求
生は 、要求とその
︶の函数である。 学的環境の中に な 力が個体の上に作用するのである。
る時 Ⅱ 小 リ 二ヨ
移動
︵ ︶。﹂ り乙 4, ︶
よう
体系という概念は 、
特定の事態でもっと
で 表わす。 as) 66
宗教的態度の 構造 え 又 労 ら
自をで、 かセ緊
のの張がとい
若こはは
一 A五悪さなすは
っかん
葛るるととは。
題係
(7)
い やら " あ " る あ ば て 路 こ
をを
選あ
の的が故な質
た 憩わにいで、
題態の状の
のつ と と 形
の い に 態 は 決 ぅ し を 断 運 よ と を 択 ぅ る 下 肢 ピ と 考 ら
正
場 と っ 「 の し て 今
至 利益を表わす目標
。 G 十
す
等しい。つまり B が G に対する障害の役割を は
場 Ⅱ一目Ⅰ 旦 H 弓 ︵︵︶として考えねばならない。 又
︵の︶
八せ㏄︵
出
︶
とレ スノ
や 利益を示す目標 領、三
という事態とないては、
H に向けて 事態は、
場の構造と 度 による構造の変化て
表わすことができるのである。 のに気のムロわ
ない
病気の為休学を命ぜ と 思 う 。当事者を P 聞の発行、㈲では 進 、目標領域 G に対し (460) 68小小
・ レ 一の発生によっ 教 的態度の構造
よ
るり
。
二戸 永 を白て
一 芝 Ⅰ っ なしのこ
) うでき、
と
一生に
%能
1 上 ょ な o つ る で て こ あ 、 と (461) 不安感︶も大きく 存 在するということも重要なことである。形態をとると考え ないかと反省する。 とは、人間として 大 るものとしてあたえ
構造化が行われる。 つまり A から G へ れるという事態が生 れは へ ン ・ 下 V o と表 通りの場合が出てく る 。 >l 口一 ︵障壁の 力 ︶
Ⅱ一八口,1 % 一 , 一 Ⅱ ナ ・ 二ト・1レ一丁 0 と 一缶, l
望が非常に
よう に、障壁のある 階 をつけた、幾つか さを測定することが可能であると思 う 。 と 、その ょう な 事化が生じ、上記の ょ 変化が生ずる時に いうことができる。 ふれておぎた い 。
価値は出てこないの ︵㏄︶ 場の構造の変化は 、
う な場の構造の変化 理 的、利己的、快楽
え、ソ
{トロ・
,
肖Ⅴ。
一く で は
と表現される。
0
への移動はおこらG
Ⅶ一缶・ 一豆である。
l
尤しよ、。勿論
し せ か 曲 ( し eⅡ レ り 、 (462) 70
宗教的態度の 構造