第
1
5
号
真宗興隆一名
号
名 号 の 現 実 義 池 田 勇 諦 1 イエスのみ名と人格 ヤ ン .r'j'7 '/・ブラフト 10 宗祖における太子観の特質 武 田 賢 寿 25 歎異抄における名号の問題 西 田 真 因 35 『華厳経』における名号について 中 村 薫 47 金 剛 心 の 行 人 楽 真 57 真宗興隆の大祖 井 上 円 69 浄 土 の 開 顕 藤 獄 明 信 82 仏教諭書における caitanya批判(1) 浅 野 玄 誠 95 素材内容と表現内容 安 東 大 隆 107 世親の『浄土論』の「第一義諦妙境界相」 について 島 津 現 淳 118 二年度教学大会発表要旨 三 好 智 朗 藤 谷 一 海 132 芳 原 政 範 蓮 寺 諦 成 捜 部 建 宮 田 正 深平成
3年 1
1月
真 宗 同 学 会
真 宗 大 谷 派
(明治
4
年 ∼ 大 正
1
4
年)
『宗報』等機関誌
一 一 復 刻 版 一 一
近代百年の宗門を検証していく上で、近代以降
の宗門の変遷に関する基礎資料を保存し、ま
た広く活用しうる便を供する待望の復刻版。
G
亙
二
E
「配紙」
2
巻
「本山報告」
2
巻
「本山事務報告」 1巻
「常葉」
3
巻
「宗報」
1
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巻
「開導新聞」
3
巻
「別巻」
1
巻
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ゆ
・ 配 本 年
2
∼3
回配本予定
に~(
1
回の配本に付
2
∼3
巻発行)
−体裁 BS
判上製本各巻ケース入(
1
巻約
6
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頁
)
・価格
1
冊
4
,
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円∼
4
,
1
2
0
円 別 巻 町
5
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円
全2
6
巻
1
0
7
,
7
9
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円(税込予価)
※限定出版に付、申し込み者が定数になりしだい
締め切り。(中途解約は受け付けません)
お 申 し 込 み 、 お 問 い 合 せ は 、 全 国 各 教 務 所 ま で /
(東本願寺出版部)
名
号
義
現
実
の
貴重な時聞をいただきましたことを感謝いたします。 ︿真宗興隆﹀という主題のもとで︿名号﹀について何か 述べよと承りましたので、しばらく申しあげることです が、まず申しあげたいことの見定めからはじめさせてい た だ き ま す 。 名号の現実義 周知のように﹃教行信証﹄の後序に宗祖が﹁真宗興隆 の大祖源空法師﹂と仰がれているように、法然上人によ って成し遂げられた真宗興隆という歴史的事業は、いか なる人をも真実にめざめさせ、真実に生かしめたいとい う仏教の生命を、選択本願の念仏において開顕されたこ とであります。しかもその真宗興隆という具体的事実に 避遁しえた感動が、﹁誓願一仏乗﹂として反省徹底され たところに宗祖の深い己証があり、それはまさしく選択池
諦
田
勇
本願の念仏こそ正像末の三時を貫ぬく唯一の仏道である ことの顕彰でありました。したがって本願の名号の開顕 こそは真宗興隆の内実そのものであり、その生命といわ ねばならぬことであります。 そうした視座から名号について学ぶ場合、教学的には 次の三点が基本的に留意されねばならぬと存じます。第 一は名号の本願性であり、第二は名号の正業性、第三は 名号の正信性であります。第一の名号の本願性は名号の 根拠性ないし本質性であり、第二の正業性と第三の正信 性は名号の現行性であり、現実性でありますが、この三 点はもとづくところ実は法然上人の﹃選択集﹄の綱要に ほかならぬものです。すなわち、時機の自覚を内実とす る浄土宗独立の宣言としての教相章から展開される二行 ・ 本 願 ・ コ 一 心 の 一 二 章 が 、 そ の 綱 要 と し て 留 意 さ れ ま す が 、 その所説はまさしくこの三点を述べるものといえます。2 そのような﹃選択集﹄の念仏論を的確に祖述する﹃教 行信証﹄教行二巻は、そうした三点をもって確かめられ る選択本願の念仏が、どこまでも本願力廻向の名号であ るという名号の本質的超越性の開顕において徹底されて いること、多言を要しないところであります。その点、 総説としての大行釈と、それ以下の各説としての各祖釈 が、大行釈が内含する念仏の要義、いまの三義を明確化 されていることのうえに明らかといえます。したがって そうした諸仏称名之悲願に賜わる念仏であることの開顕 は、徹底的に﹁行者のためには非行非善﹂の念仏性の開 示として、念仏に聞かれる歴史と社会、まさしく念仏の 僧伽を聞く大行であるといわれる所以であります。三国 七祖および多くの祖師方の釈文を整然と出文される行文 類の雄弁に語るところといえましょう。その点、昨年度 のこの教学大会に、寺川先生が﹁大行の和合衆﹂として お話しくださったことであり、行巻はまさしく念仏の僧 伽の巻といえることであります。 では、そうした本願力団向の名号がわれわれのうえに 僧伽を聞く大行として現行する事実は、われわれにとっ ていかなる歩みをそこに賜わることであろうか。その一 点に名号の内在性の内実が注意されねばならぬと存じま す。そこでいまその点でうかがおうとするとき、何とし ても行巻の名号釈が必須の釈文となってまいります。申 すまでもなく行巻に見る名号釈は、 パ円﹃玄義分﹄の六字釈にもとづき、南無即南無阿弥 陀仏の意から、南無を主として南無阿弥陀仏の意義 を 明 か す 。 M H ﹃往生礼讃﹄の阿弥陀仏釈から、阿弥陀仏即南無 阿弥陀仏の意で、阿弥陀仏を主として南無阿弥陀仏 の 意 義 を 明 か す 。 の二段から成っておりますが、特に善導における歴史的 意義をもっ六字釈を背景とする付が中心とされることは、 付が名号が如来選択の願心そのものの顕現としての大行 であることを明らかにすることによるといえましょう。 したがってそれがまた﹃尊号真像銘文﹄にみる名号釈を 約機釈とするに対し約法釈といわれてきている所以でも あ り ま す 。 改めていうまでもなく、そこには帰命を﹁本願招喚の 勅命﹂といい、発願回向を﹁如来すでに発願して、衆生 の行を回施したまうの心﹂とし、即是其行を﹁すなわち 選択本願これなり﹂と開示されております。つまり名号 が念仏して浄土に往生せよという如来の招喚の戸であり、
名 号 の 現 実 義 それゆえに念仏は人間心を主体とする行でなくして、人 聞を往生道に立たしめる如来を主体とする行であって、 名号は全く選択木願そのものが南無阿弥陀仏としてわれ らのうえに働き出でたもうた事実だとせられています。 したがってここに名号が衆生を救う如来のはたらきその もの、如来の回向表現として開顕されていることを知ら しめられます。それゆえに、続く必得往生を﹁不退の位 に至ることを獲ることを彰すなり﹂と解して、﹁経には 即得と言えり、釈には必定と云えり。即の言は、願力を 聞くに由って、報土の真因決定する時刻の極促を光闘せ るなり﹂等と、間名の一念にわれらは必ず浄土に往生す る道に立ち、再び流転することのない不退の位を獲るの だといいきられております c この点﹃選択集﹄三心章に は、﹁当に知るべし、生死の家には疑を以て所止と為し、 浬繋の城には信を以て能入と為す﹂といって、﹁念仏の 行者必ず三心を具足すべし﹂の浬般市の正因性を一万されて いることが、さらにここには徹底して必獲不退が明確化 されていることは特に留意すべきに存じます。 するとこの名号釈は現実的にどこに集約されるか、そ れはまさしく諸仏称名の間信に即得不退の分位を賜わる、 その一点にあるといえましょう。であれば、必得往生の 3 釈文はまさに名号による救済の現実義をのべるものであ り、その意味で開名不退の事実こそ本願力団向の名号の 現実義といわずにはいられません。そこでいまわたくし には、その即仰向不退ということがわれわれにとっていか なる事実なのか、乃至いかなる歩みなのかを一点間わず にいられない関心事なのであります。もとより名号につ いては種々の視点、乃至確認すべき側面があります。た とえば、さきほどブラフト先生が﹁ことば﹂という問題 にふれられましたが、たしかに名号はことばの仏、厳密 にはことばになった仏、したがって仏教教学のうえから は離言真如、依言真如、さらに相承のうえからはこ種法 身説などからの確かめが求められましょうし、またこと ばになった仏であることにおいて、ことばは声を体とす るゆえに﹁名声 L であることから、そこに口称の問題が 避けて通れない。日ごろご門徒との関わりの中でよく出 されてくる緊要事でありますが、その点についてはすで に若干発表いたしております︵拙著﹃安立の道﹄法蔵館刊︶ ので、いまは特に近年自分の関心事から必獲不退の一点 の確かめのみを申しあげたいというのが、このお話の目 的であります Q
4 およそ﹁不退﹂について宗祖は﹃一念多念文意﹄に ﹁大浬繋﹂﹁走上浬繋﹂を﹁まことのほとけなり﹂とす るに対し、﹁ほとけになるまでといふ﹂と解し、その同 義語とする﹁等正覚﹂﹁正定緊﹂に﹁まことのほとけに なるべきみとなれるなり﹂、﹁阿眺蹴践﹂に﹁ほとけにな るべきみとなるとなり﹂といずれも左訓せられておりま す。こうした宗祖のうけとりからも、いかにしてかかる 不退の位を獲得するかに成仏道の中心課題があることは 明らかであり、伝統のうえで龍樹・天親・曇驚の上三裡 の教学が、特にこの一点を真正面から問うものであるこ とはこれまた申すまでもありません。もとより仏が﹁白 覚・覚他・覚行窮満﹂であることから自覚・覚他を課題 とする者、つまり自らの成仏と共に他をして成仏せしめ ることを目的とする菩薩にとって、いかにしてその道に おいて退転︵退歩・退堕・退失︶しないかこそは、まさ にその中心課題であるからであります。 もと大乗の不退説がそれまでの不堕悪越の説に加えて、 さらに不堕二乗地の義を内実とするところに、その核心 性があることは特に留意されることであります。その点 で伝統のうえに何よりも注目されるものは、周知の﹁易 行品﹄にみる次の一文であります。 若し声聞地及び昨支仏地に堕する、是れを菩薩の死 と名づく、則ち一切の利を失す。若し地獄に堕する も是の如きの畏れを生ぜず。若し二乗地に堕せば則 ち大怖畏と為す。地獄の中に墜すとも畢寛じて仏に 至ることを得るも、若し二乗地に噌せば皐寛じて仏 道 を 遮 す 。 文面に明らかなように、ここには仏道において地獄に 堕することはさのみ畏れるべきことではないが、二乗地 に堕することはもっとも畏れられねばならない。それは ﹁菩薩の死﹂だからと極言されております。 龍樹はそうした﹁菩薩の死﹂とされる堕二乗地をよく 乗りて超え大乗の不退転位を﹁此の身﹂に必得しうる根 拠として、信方便易行の念仏を仰がれていることであり ます。その点、二百ふれるならば、易行道を聞くにあた って﹁いま当に具さに無量寿仏を説くべし﹂と無量寿仏 以下百七仏の名をあげ、 是の諸の仏世尊現在十方の世界に、比白名を称し阿弥 陀仏の本願、を憶念すること是の如し。若し人我を念 じ名を称して自ら帰すれば、即ち必定に入りて阿縛
名 号 の 現 実 義 多羅三貌三菩提を得。是の故に常に応に憶念すべし。 と﹁大無量寿経﹄の本願のこころを聞思されております。 文面のごとく阿弥陀仏を称名憶念することにおいて、必 ず仏と成るべき身と定まることを明示されています。 ところがここでわれわれは、本願の称名憶念によって 堕二乗地を克服し、よく不退転位につかしめられるとい うそのことが、いかなる事実であるのかを問いかえさな ければ、必得不退も単なる教義上の沙汰で終ることとな りましょう。そこでその点の確かめにあたって、まず仏 道の致命傷と極言される堕二乗地が何であるかでありま す。周知のように声聞・縁覚︵独覚︶を中身とする二乗 地については常に注意されるところでありますが、もと 声聞・縁覚が仏弟子の呼称であったけれども、後にその 名において修せられる仏道のあり方が間いかえされるこ ととなってきたことによって、仏道の不具足的なあり方 への批判語とされてきたことであります。すなわち自利 のみあって利他を欠く||厳密にはそうした白利は自利 といえないのであるがーーという仏道の個人化、したが って観念化を意味するものにほかならない。ということ は、関係を生きる存在としての自己が、その関係を生き えずに、かえって関係を絶ち個人性に閉じこもるあり方 5 のことであるといえます。 では問題は、なぜそうした閉塞的あり方に堕するので あろうか。その一点こそ間わねばならぬ焦点であります。 いまその点を先掲の堕二乗地の文面に求めるならば、言 外にそれを言いあてられていることを聞き取らされます。 それはズパリ堕地獄を畏れるからでないか、と c こ こ に まさしく信仰の一コイズム性が厳しく教えられてなりま せん。一五来、自利利他の課題といっても決して特別な問 題ではない。人聞が文字通り人の聞を生きる存在である かぎり、それは人間存在の根本的課題であり、事実日々 に問われている具体的課題であります。しかし﹁自害と 害彼と彼此俣に害する﹂と説かれるごとく、自利の歩み は常に害他の歩みとしてしかありえず、またそれが結果 的に自害をまねがれえないという悪循環の現実、つまり 関係を生きる存在でありながら、真に関係が生きられな いわれであります。したがって関係を生きようと努めな がらも、自我の分別心がはたらくかぎり、どこかで自己 を救ってしまう、自己弁護・自己弁解につとめて関係を 絶ってしまうほかはない。つまり関係を切ることにおい て自己が苦しみ悩むことから離脱化する c これこそが堕 二乗地の具体的すがたではないでしょうか c しかもこの
6 堕二乗地が﹁菩薩の死﹂といわれるごとく、関係を絶つ ことにおいて死は他ではなく、絶った自己なのだと説か れ て い る わ け で す 。 曾我量探講師が﹁地獄はことばの通じぬ世界、極楽は ことばを必要とせぬ世界、人聞はことばを必要とする世 界﹂といわれていますが、たとえば課題の共有化を願い つつも、現実どうしても疎通しあえない壁に突きあたれ ば 、 M H 彼とは駄目だ μ と切ってしまう。どこまでもとい う願いも、自我の分別心において限界をまぬがれない。 事実、どこどこまでもと関わっていくことは耐えられぬ 苦痛である。しかしその関係を絶てば、その関わりによ る苦痛からは離脱できる。堕二乗地とは決して仏道にお ける特殊な事柄ではなく、むしろ自意識においては H そ れが人間だ H と当然視、ないし一種の開き直りでさえあ るあり方のことでないでしょうか。 現在のわが宗門が同和・靖国等の現実の社会問題から 厳しく間われておりますが、いま一つ自己においてその 取り組みが明確化しえないものをかこっていることは、 一体何でありましょうか。一昨年十月号の﹃真宗﹄に、 宗務総長名による﹁同朋会運動再生のために﹂という総 括記事の中にみえていた﹁仏法は仏法、裟婆は裟婆とし て現実の社会や教団や実生活上の諸問題を信心と切り離 す姿勢﹂、あるいは﹁自己とは何ぞやが明らかになって から、同和問題・靖国問題に関わろうとする段階論﹂的 姿勢にあるとすれば、まさしくこれぞ堕二乗地の現相と いえないでしょうか。現実の問題に関わっていくことに は、耐えきれぬしんどさをもっ。それだけに自己を苦し めたくない、自己を安全地帯に据えておきたい、まさし く堕地獄を畏れる。ゆえに意識的・無意識的に個人性に 逃避し、自己を納得させてしまう。 しかしここで一言加えさせていただきますが、ぞれは 単にともかく現実の問題に関われば可とするといった沙 汰でないことは申すまでもありません。その点で先々月 ですが、・本年度はじめて研修部で企画された﹁聖典学習 会﹂に寄せていただいて、その座談の席上でしたけれど も、こんな発議がなされました。要をとって申しますと、 これまで H 同和の視点で真宗を学ぶということが進めら れてきた中から、果して自己が真宗に立っているのか否 か。われわれは真宗の視点で同和を学ぶのでなければな らぬという反省がなされてきた μ と。つまり社会運動に
名号の現実義 立つ同和運動か、真宗に立つ同和運動か、が問いかえさ れてきたということでしょうか。しかしこの発議に対し て 、 H H そのように分けていいのだろうか。わが宗門の願 いと、解放同盟の願いとは同一でないか。もしそれをそ のように分ければ、願いを共有することができなくなる のでないか H と。果してこの点の見極めはいかにあらね ばならぬのでしょうかということでした。そこでいまわ たくしのただ一ついえることは、確かに願いは一つであ る。しかしその願いに生きる立場がどこにあるかが問わ れる。﹃教行信証﹄に照らせば﹁化巻﹂ 1 1 1 偽・仮ーー と ﹁ 信 巻 ﹂
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真ーーとの異なりがおさえられねばなら ないということであって、しょせんそこには何に帰依す るのかという課題があるということであります。したが って同和問題等の諸問題との取り組みも、われわれの依 って立つ根拠の具現化としてなければならぬのであって、 その一点が暖味であれば取り組む足下から没主体化、崩 れ去るほかありません。諸先生方からのご教示を請うと こ ろ で あ り ま す 。 話をもとにかえしますが、こうした現実の諸問題との 関わりの問題には、もとより状況論的側面が顧りみられ ねばならぬことであります。卒直にいって、わが国の明 7 治以降の信仰観は、特に近代天皇制国家の樹立により、 信仰を単に個人の問題として国家・社会の問題ではない としてきました。つまり真理の問題を個人の意識の中に 封じ込めてきたということであって、その点こんにちの われわれの﹁信教の自由﹂観のうえに、それがよくあら われているといえます。たとえば、明らかに一宗教の儀 別であるものを国費をもって行なっても、それが国民の 信教の自由を侵害するものとは考えられないとするわれ われの意識に具体的であります。それというのも明治 憲法における﹁臣民の義務に背かざるかぎり﹂︵第二十八 条︶という制限つきの信教の自由が、現代になお根深く 引きずられている証拠でありましょう。つまり個人にお ける信仰と、国家・社会のあり方に対する国民としての 姿勢とは矛盾するものでないという信仰観であります。 いうまでもなく信仰は本来、パウル・テイリッヒのこと ばを借りれば﹁全人格の中心活動﹂であって、個々人が 一つの信仰に生きることは、それを基礎として生きるこ とであります。であれば、信教の自由こそは人聞が人格 として生きる基本的人権の根本的自由でなければならぬ ものであります。ゆえに信仰人としては、その点何より もふまえられねばならないことであり、それにつけても8 堕二乗地の問題が、決して単に聖教上の問題ではなく、 現実のわれわれのそうしたあり方こそを問いかえさねば ならね課題として迫ってきていることを覚えます。 四 では、そうした堕二乗地を克服しよく不退転位を獲得 せしめられるとは、体験的にいかなる心証でありましょ うか。その点さきの名号釈からいえば、﹁願力を聞くに よって報土の真因決定する﹂一念の内実を問うこととな りましょう。いま龍樹の即得不退を自らの課題として徹 底された曇驚によれば、それはまさしく﹁作心﹂、造作 分別心の克服の問題であります。ご承知のように、安楽 浄土が七地以前の未証浄心の菩薩を八地以上の浄心の菩 薩と平等たらしめることを説かれる所ですが、基本的に 菩薩十地を両者に分別されることは、全く作心の超克を 明らかにするがためであります。﹁作心をもってのゆえ に﹂未証浄心と説かれ、よくそれを突破して﹁報生三味 を得﹂るがゆえに浄心の菩薩といわれる。そして前者に つ い て 菩薩七地の中にして大寂滅を得れば、上に諸仏の求 むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず、仏道を 捨てて実際を証せんとす。その時にもし十方諸仏の 神力加勧を得ずは、すなわち滅度して二乗と異なけ ん 。 v Y
︸ 。
つまり作心がはたらくかぎり七地沈空の難l
堕二乗 地の難は免がれえない。しかしその難を真に超克しうる 道は、﹁十方諸仏の神力加勧﹂によって 安楽に往生して阿弥陀仏を昆たてまつるに、すなわ ちこの難なけん。 と。そして﹁このゆえに須らく皐寛平等と言うべし﹂と いわれております。この﹁畢寛﹂とは、 未だすなわち等しというにはあらずとなり、と、畢 寛じてこの等しきことを失せざるがゆえに、等しと 言うならくのみ、と。 と、デリケートないい方をされておりますが、それは未 証浄心の菩薩が浄心の菩薩となるということではなく、 未証浄心の菩薩のままに浄心の菩薩と等しくたらしめる、 それが安楽浄土のはたらきだといわれる意味でしょう。 とすれば、それは却って未だ証らざる作心的存在として の自己にめざめることにほかならない。つまり龍樹の趣 旨にかえせば、作心があるがゆえに堕地獄を畏れる、否、 堕地獄を畏れる心こそ作心であり、それゆえに堕二乗地名 号 の 現 実 義 は免がれえないということでしょう。その意味において 開名の一念の内実は、まさに堕二乗地のわれのめざめで あり、われをしてそれにめざめしめる名号の光に賜わる わが体質との緊張性を生きる者となることであります。 ﹃歎異抄﹄に見る﹁いずれの行もおよびがたき身なれ ば、とても地獄は一定すみかぞかし﹂の宗祖の告白の内 実も、この意味からして﹁とても二乗地は一定すみかぞ かし﹂でないでしょうか。まさに堕二乗地の自覚こそ、 堕二乗地を突き抜けて歩んでいく力であることを教えら れてなりません。このようにたずねてまいりますとき、 ﹃易行口問﹄の堕二乗地の文が指教している仏道のきびし さを改めて確認させられます。と申しますのは、仏教は どこまでも真実教であって、幸福教ではないということ であります。堕地獄を畏れる道は幸福教であり、堕二乗 地こそ畏れねばならぬとする仏教はまさに真実教です。 それは却って地獄をも背負うていく道だからであります。 われわれは真実教に生きるといいつつも、実質的には堕 地獄を畏れ、その畏れる心から極楽を願う幸福教に変質 させてしまっているのでないか。篤信者が﹁地獄嫌いの 極楽好き﹂と喝破しておりますが、まさに地獄嫌いの極 9 楽好きのわが体質であります。この体質へのごまかしな い見開きを念々われらに聞いてくるものこそ如来回向の 名号そのものであったのであります。その点、名号にお いて﹁名義相応﹂と説かれることも、義が名において聞 かれる歩みであれば、それは﹃歎異抄﹄にも見られる ﹁無碍の一道﹂にほかならない。無碍がユ切の有碍に さわりなし﹂であれば、なにゆえに﹁一切の有碍にさわ りなし﹂といえるのか。まさしく堕地獄を畏れぬ道だか らでしょう。何ものといえども、堕地獄を畏れぬ者を碍 げてみようがない。ゆえに﹁天神地紙も敬伏し、魔界外 道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわ ず、諸善もおよぶことなき﹂といいきられている所以に 存 じ ま す 。 名号に聞かれる現実義を即得不退、現生不退に帰せら れていることのきびしさを聞思させられる次第でありま す。ご静聴いただき、ありがとうございました。 追記本稿は当日の講述を成文化し、一部添削したもので 占 め る 。
10
イ
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み
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格
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﹁私は、あなたのみ名を私の兄弟たちに告げ知らせ、 彼らの集会の中であなたを賛美しよう。﹂︵出o z
− N − HM ︶ キリスト教において、その言葉はイエス・キリストの、 神への祈りとして、伝わってきましたが、ぞれは聖書に おいて、そして教会の典礼︵礼拝︶において、﹁神のみ 名﹂そして﹁イエスのみ名﹂が大きな役割をしているこ との一実例に過ぎません。 この話の官頭に、皆様よく理解してもらいたいことを 一つ置いておきたいと思います。すなわち、私は時々、 神のみ名との比較のために、﹁名号﹂に言及することが あるでしょうが、それは決して私が名号に関して何かを 発言したいというつもりではないということです。﹁名ヤン
・ヴァン − ブ ラ フ ト 号はまず体験すべきものである。それがあってから、知 ① 的分析又は説明があってよい。﹂という鈴木大拙先生の 一言葉が私の耳に響いているから、今日、名号についての 直接的話|皆様の心の糧になるような話は池田勇諦同 朋大学長にお任せして、自分がなるべく、キリスト教に おける、多少浄土教の名号に類似すると思われるところ に限って話をしたいと思います。そういう話は一体、皆 様の真宗学に当てはまるか、間接的にでも何か貢献でき るのでしょうか。自信は全然ありませんが、私の言うこ とが少しでも、名号を新しい観点から見るのに役に立て ば幸いと思います。 さて、話の結論を先取りして、次のように言えると思 い ま す 。 ー旧約聖書をも含めて、キリスト教の宗教的象徴の世 界において、﹁神のみ名﹂、または﹁イエスのみ名﹂は大ぎな役割をしていますけれども、浄土教におけるような ﹁名号﹂をなしていません。その点でも鈴木大拙の次の 言葉に賛成ですし、それに含まれる質問を自分の質問に したいと思います。すなわち、﹁キリスト教に名号が発 ② 達しなかったということに留意したい﹂と。 ーキリスト教には名号がないと言える所以は、簡単に 言えば、およそ次のようなものになるのではないでしょ うか。キリスト教において、﹁行﹂のレベルでは、称名 は唯一の正行になっていなくて、教理のレベルでも、み 名はすべてを自らの中に吸収するものになっていないと いうことです。たとえば、キリスト教においては、曾我 量深の次の言葉づかいは不可能と思われます。﹁そもそ も念仏こそ如来の唯一の覚体であり、具体的顕現であり、 ③ 象徴である﹂と。 イエスのみ名と人格 キリスト教における言葉 11 しかし、そうは言っても、言葉や名前に関して、浄土 教とキリスト教との聞に深い共通性が存在すると思われ ます。それは、よく指摘される通り、禅や神秘主義にお ける、人間の言葉に対する不信と違って、それぞ乗り越 えて、浄土教も、キリスト教も言葉
l
少なくともある特 定の言葉|に対して信頼を見せているということです。 キリスト教側では、たとえば同3
ロ 立 げ のE
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と い う 、 イギリスの神学者が書いた通り、﹁時間的、多様的世界 における、人間の言葉には、永遠の真理を伝え、宿らせ ④ る能力がある﹂という確信です。そして、浄土教側の最小 限度の言い方を、又同じ鈴木先生に借りてもよろしけれ ば、﹁真実界には方便がない。方便界には真実がない。し ⑤ かし名号だけは真実界の面と方便界の面を持っている。﹂ もう少し遡ると、もちろん曇驚の有名な発言があるで ⑥ しよう:﹁有名即法。有名異法﹂。それは、ものの勝手 なラベルに過ぎない名前もあれば、かえって指し示して いる実在に即して、それを含み、現前させる名前もある という意味の発言ではないかと思います。 現代哲学からして、宗教的言葉の性格をどう見たらい いかという問題がありますけれども、ここでそれに立ち 入ることはできません。その代わりに、キリスト教では 言葉にどんなに大切な役割が与えられるのかということ をもう少し詳しく見て行きたいと思います。ω
神 の 一 言 葉 と し て の 聖 書 皆様ご存知の通り、 ユダヤ教と同じく、キリスト教で12 もすべての土台になっているのは神の言葉としての聖書 です。すなわち、神は言葉をもって人間にご自分のこと ︵そのあり方とみ旨︶を啓示してくださいます。言い換 えますと、神は、人聞が自らの力︵理性、自覚、覚︶に よって獲得できない知識を言葉を通じて伝えられたわけ です。それこそキリスト教の教えになり、従って、なん と一言っても、キリスト教においては﹁教﹂というものは 一切の基本になっています。 さて、仏教ではどうでしょうか。仏教には﹁啓示﹂と いうものはないとよく言われますが、禅のように、一言葉 なしの正しい自覚、見性というものによってすべて理解 するというような仏教もありますけれども、かえって浄 土門では、それが﹁聞信﹂である限り、浄土三部経の教 えや七高僧による、その教えの伝統は基本的なものでは ないでしょうか。いわゆる﹁自性唯心﹂に対してこの内山 を特別に強調する曾我量深の言葉を借りると、﹁まこと に教は往相の第一であって、又還相の最後である。還相 の最後と往相の最始との接触が教である﹂。また、宗教 えを否定して、単に体験を求むる者と違って︶そもそも 祖聖が特に教え主と教法とに無限の崇信を捧げられた態 度、それが他力教である。︵略︶それは。彼が教を往相 の第一位に置いて、常に大聖の真言、高僧の解義を仰ぎ、 ⑦ 教の上に如来本願を観ぜられた所以である。﹂ 言葉を信頼するということになりますと、キリスト教 は大乗仏教とイスラム教との聞の立場を取っているかの ようです。というのは、イスラム教では、﹁コ l ラ ン ﹂ という聖書は文字通りに﹁神の言葉﹂として取られ、す なわち神が直接に、ご自分の口でアラビア語で語った言 葉、いわば真一諦そのものと考えられている様ですが、キ リスト教では聖書は、人間的意識や言葉を媒介とした神 の言葉、いわば俗諦に受肉した真一諦のように考えられて います。つきましては、キリスト教の中ではいつまでも 一種の緊張が存在します。すなわち一方では、肯定神学 ︵
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c m 可︶、すなわち教えを神に関する知識 として伝える﹁説教家﹂の傾向、他方では、否定神学 官 官 事 伊 丹 片 手g
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可 ︶ 、 す な わ ち 神 の 一 言 葉 の 人 間 的 媒 介 の 限界を痛感して、それを神の体験によって突破しようと する神秘家の傾向、との聞の緊張です。ω
神の創造の言葉 キリスト教では、神はある意味で、ご自分の外に出て、 世界︵とりあえず人間︶との交流に入る者と考えられまイエスのみ名と人格 すが、神の最初のその出方は、一杯一不の言葉、救済の業に おいてではなく、本来創造の業においてです。それは ﹁神は天地万物をお作りになった﹂との信条のことです。 さて、旧約聖書の回目頭にある創世記の第一章において、 そ の 創 造 の 業 は 次 の よ う に 語 ら れ ま す 。 ﹁ 神 は 一 守 口 わ れ た o H 光あれへこうして光があった。﹂と。その言葉により ますと、神がそれによって世界をご自分の存在に参加さ せるところの創造は、﹁言葉による創造﹂、または﹁創造 的言葉﹂として理解されてきました。それに次のような 含みがあると思われます。まず、神による創造が、手も 材料も使わない、いわば精神的作り方であること。言い 換えますと、神が大工としてではなく、詩人としてこの 世をお作りになったこと。そして、神が作られたもの ︿被造物︶の中にご自分を表現し、公現させること。そ ういう関連で、﹁大自然という聖書﹂とか、﹁世界におけ る啓示﹂というような言葉使いがあります。それから、 神の創造が存在への﹁呼びかけ﹂であること。それはあ る意味で、始めから神と人間との人格的関係、人聞から の 呼 応 を 示 唆 し ま す 。 13 叫 神 の 内 的 一 4 一 一 口 葉 神の、言葉による白己表現は、単にご自分の外、すな わち世界において、響くわけではありません。神、かご自 分の中に自己表現を含んでいるという考え方です。それ は三位一体における第二の位格である子、またはみ言葉 と言われる者のことです。それに関連して、キリスト教 の神は﹁お互いに招喚する位格の多性を含む統ご、﹁愛 によって統一される多性﹂とも言われます。このところ では、私は何となく第十七願における諸仏の称名のこと を思い出さされます。そして、こういうところから、外 ︵世界︶における神の言葉が、その内的言葉の継続とし て考えられます。それで又、十七願と十八願との関係、 すなわち如来界における称名と衆生界における念仏との つながりの問題に近づいているような気がいたします。 受 肉 し た 言 葉 キリスト教の中心的信条、または奥義すなわちイエ ス・キリストのことはやはり﹁み言葉は肉体となっ た﹂と言う言葉で表現されています。しかし、それにお いて、浄土教とキリスト教との一番深い相違点が現れる と思われるので、後ほどその点に戻りたいと思います。 (4)
14 同人間の言葉の宇宙的役割 神と言葉との密接な関係についての、そういう考え方 を背景にして、人間の言葉ということも自然に、ただの 限られた人聞社会における、相互理解︵
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︶ の手段としてではなく、より広く、高い使命を持つもの として考えられています。それは、一一吉でいえば、神の 言葉︵呼びかけ︶に呼応する、いわば感応するという使 命なのです。そして、それは人間たる自分としてばかり ではなく、一一一口葉を持っていない宇宙のすべての被造物 ︵ 衆 生 ︶ の 代 表 者 と し て で す 。 神の呼びかけに対する、人間側からのこの呼応は、聖 書において、普段﹁神を称える﹂﹁神のみ名を賛美する﹂ というような言い方で指摘されます。しかし実に、﹁神 を賛美する﹂と和訳される原語は、もう少し直訳すれば、 ﹁神を偉大にする﹂ということになります︵ラテン語で は日昌巳r R
ペギリシア語ではB
ぷ 巳 戸 口 己 ロ ︶ 0 勿論、人 聞は神を偉大にすることはできるはずはなく、せいぜい 出来るのは神の偉大さを承認し、それを言葉で称えるこ とでしょう。しかし、それでも微妙な神学的問題が残る ようです。すなわち、そういう言葉による賛美、人間側 ⑧ からの承認は、どうして要求されるのか。我らの賛美は 神に何を与え、何を貢献するのでしょうか。この神学的 問題は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通です けれども、それは同時に浄土教においても基本的問題に なっているのではないでしょうか。すなわち第十七願に ししゃ おいて、阿弥陀如来は﹁諸仏、ことごとく春墜して我が 名を称せん﹂と願い、そして第十八願において、衆生の 念仏を要求なさるのは、一体どうしてでしょうか。 ﹃唯信紗﹄は明らかに、次の言葉でそれを問題にして いるようですけれども。﹁名号をもってあまねく衆生を みちびかんと思召すゆえに、かつがつ名号はほめられん と誓い給えるなり。しからずは、仏の御こころに名誉を 願うべからず。諸仏にほめられて、何の要かあらん。﹂ と。しかし、正直に言えば、私は﹃唯信妙﹄の、﹁賛美 は仏の為ではなく、もっぱら人聞を導くためだ﹂という 解釈に対して、少し不満を感じるわけです。私なりに、 それは少なくとも仏と衆生の関係のためだと、強いて言 えば、人間に向かった仏︵方便法身︶のためだ、と見て 行 ぎ た い の で す 。キリスト教における﹁神のみ名﹂、 ﹁ イ エ ス の み 名 ﹂ もう三十年以上前のことと思いますが、ドイツ生まれ の、アメリカの有名な神学者、
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・ティリヒは、安田理 深との対話の中で、相手から名号の説明を聞いてから、 次のように発言したことがあります。﹁形のない阿弥陀 は名を現す、名を形づくる。︵略︶それは私にとって大 変興味深いことです。なぜなら、これはユダヤ教の﹁神 の名﹂に関する考え方に近いところがあるからです。ユ ダヤ教では、その﹁神の名﹂において神的な力が具体化 ⑨ されているのですJ
と 。 イエスのみ名と人格ω
旧約聖書における﹁神のみ名﹂ 古代のユダヤ人には、﹁神に呼びかけたり、神を神と して礼拝したりすることが出来るのには、人聞は神の名 を知らなければならなく、そのために神は名前を取って、 それを人間に啓示しなければならない﹂という考え方が ありました。旧約聖書における、神の名に関するもっと も有名な箇所は、皆様がご存知と思いますが、やはり出 エジプト記第三章の中の﹁モ l ゼと燃え尽きない柴﹂と 15 いう場面でしょう。神はその柴の中で、エジプトの王朝 で育ったモlゼに現れて、彼に奴隷になったイスラエル 人のところに行って、彼らのリーダーになるように命じ ます。それで、﹁モlゼは神に尋ねた o H 私は今、イスラ エルの人々のところへ参ります。彼らに、﹃あなた達の 先祖の神が私をここに遣わされたのです﹄と言えば、彼 らは﹃その名は一体何か﹄と問うに違いありません。彼 らに何と答えるべきでしょうかJ
神はモlゼに、 H 私は あ る と い う 者 、 だ μ と 言 わ れ た 。 ﹂ ︵ 出 エ ジ プ ト 記 三 日 一 一 一 一 ー ー 一 回 ︶ そして、イスラエル人は、自分にだけ神がその名前を 啓示し給、ったということを、特別な選択として経験しま した。その名前において、自らが天に住んでおられる神 は、絶えずその民の近くにおられ、民の中に宿っておら れます。それで、ある意味では、神のみ名は人間に向か った神の側面︵相︶と考えられていました。旧約聖書の 多くの箇所において、﹁神のみ名﹂という表現は神︵︿ m TV
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そのものを意味しますが、他の多くの場合では、 神の力、神の忠実、神の御助けを指します。言い換えま すと、やはり人間に関わる神を。つまり、古代のほとん どの民族の考え方と同じく、聖書の見解においても、名16 前は、その根源的意味において、ものの外面的印︵弓ノベ ル︶ではなく、ものの本質を表現し、それに参与するも のであります。名前とそれによって指し示されるものと の聞に、内的で、不動の関係があると考えられてきまし た しかし、注意に値するのは、聖書の中では、﹁神のみ 名﹂が、神との関係を言い表す唯一の言い方ではなく、 多様の象徴の中の一つであったということであります。 ﹁み名﹂の他に、たとえば﹁神の腕﹂や﹁神の顔﹂も重 要な位置を占めています。一箇所だけを引用しますと、 黙示録の中に、︵その描写が浄土のそれに似ているよう な︶新しいエルサレムの住民について次のように言われ ています。﹁神の下部達は︵略︶み顔を仰ぎ見る。彼ら の額には神の名が記されている﹂︵二二一四︶と。それか ら、もう一つ、神の名が神の実在を表現し、神を人間と 結ぶと言っても、聖書は同時に、神の本質と自由がその 名前を越えていて、神がその名によって掴まれたり、左 右されたりすることは出来ないと強調しています。そう いうところから、キリスト教において、神のみ名︵啓示︶ と神の本質の不可思議との聞の弁証法的関係の考え方が 由来すると言えると思われます。たとえば、ロ可
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笠 宮 は 、 神 を ﹁ 多 名 ﹂ 、 ﹁ 超 名 ﹂ 、 と も 言 っ て い ま す 。 (2) そ し て ﹁ 無 名 ﹂ キリスト教︵新約時代︶における﹁神のみ名﹂、 ﹁ イ エ ス の み 名 ﹂ 旧約時代に引き続いて、キリスト教においても相変わ らず﹁み名﹂というものが大きな役割をしていることの 証拠として、とりあえず二つの現象を挙げましょう。皆 様ご存知の通り、キリスト者の﹁バッジ﹂は十字架の印 ですが、十字を切りながら信者は次の言葉を唱えます。 ﹁父と子と聖霊のみ名によって。﹂そしてもう一つ、キ リスト教のもっとも大事な祈り、すなわちイエス、が教え てくれた﹁主の祈り﹂は、﹁天にまします我らの父よ、 願わくは、み名の尊まれんことを。﹂という願いから始 まります。しかし、それも我々の今の問題提起からみて 重要なことと思われますが、主の祈りはそれだけに留ま らないで、続けて行きます。﹁み国の来たらんことを、み 旨の、天に行わるる如く、地にも行われんことを。﹂と。 さて、キリスト教では初めから、旧約聖書における神 の名、すなわち﹁J F
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司 巾 F ﹂は使われなくなりましたが、 そ の 代 わ り に そ の ま ま 、 ﹁ イ エ ス の 神 ﹂ ﹁ 神 ﹂ ま た はイエスのみ名と人格 ﹁イエスの父﹂という呼び方になりました。なぜかと言 いますと、イエスにおいては神がご自分の言葉を現して、 ご自分を完全に名乗ってくださって、ぞれと比べて、他 のすべての名が人間の吃りにすぎないと考えられたから です。従って、﹁神のみ名﹂と並んで、﹁イエスのみ名﹂ は偉大なものになりました。それにおいて﹁イエス﹂と は、ただ﹁ナザレビトのイエス﹂という一個人のことで はなく、かえってその死・復活によって﹁主﹂となった ﹁主イエス﹂、または﹁イエス・キリスト﹂を意味しま す。言い換えますと、イエスという呼び名はもはや、地 上の個人の名前ではなく、﹁称号﹂となったと言えるの ではないでしょうか。 その考え方を明らかにするテキストは、たとえば聖パ ウロの中に次のものがあります。﹁キリストは︵略︶自 分自身を無にして、しもベの身分になり、人間と同じ者 になられました。︵略︶へりくだって、死に至るまで、そ れも十字架の死に至るまで従順でした。そのため、神は キリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えにな りました。こうして、すべてのものがイエスの名の前に ひざまずき、﹁イエス・キリストは主である一と公に認 めて、父である神をたたえるのです。﹂︵ピリピ人への手 17 紙、二日六|一一︶また、﹁聖霊によらなければ、誰も﹁イ エ ス は 主 で あ る ﹂ と 一 言 う こ と は で き な い ﹂ ︵ コ リ ン ト 人 へ の 第 一 の 手 紙 、 一 二 二 二 ︶ 。 そ う い う 考 え 方 は ど れ く ら い 、 法蔵菩薩が阿弥陀仏、または南無阿弥陀仏となったとい う、浄土教の信条に似ているのでしょうか。しかし、キ リスト教では同時に、ある神学者が指摘するように、 ﹁イエスは、主となることによって、自分の名を失った のでもなければ、人間であることを止めたわけでもない。 この名が、いわば変容を遂げ、力を得て偉大なものとな ⑬ った。﹂ということになっています。その他に、新約聖 書において、特に使徒行録において、イエスのみ名につ いて次のようにも言われます。﹁イエスのみ名﹂は、教 会が有する唯一の富であり、教会が行使する唯一の力で あって、教会︵信徒たち︶の使命が﹁イエスの名によっ て語る﹂ということに集約され得ると。そして、﹁イエ スのみ名において救いがある﹂と強調されます。ぞうす ると、イエスのみ名は﹁名号﹂になっていると言っても いいではないかと思われるかも知れません。 確かに、聖書において﹁イエスのみ名﹂が南無阿弥陀 仏という名号に近い存在になっていると言えますが、悲 劇的にも、この類似点においてこそ、私たちを|浄土教
18 とキリスト教とを|分けるものが存すると言わざるを得 ないでしょう。つまり、キリスト教では、また使徒行録 の言葉を借りれば、﹁このイエスという人以外に救いは ない。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下 の 誰 に も 与 え ら れ て い な い か ら で あ る 。 ﹂ ︵ 四 日 一 一 一 ︶ と 記 されていますが、他方、浄土教では、﹁南無阿弥陀仏﹂ 以外には、衆生を救う名前はない﹂とおっしゃるのでは ないかと思うからです。この二つの、特殊よりも固有の、 名前の間の矛盾は、どうして突破できるのでしょうか。 しかしながら、今日この大事な問題に立ち入る余地はあ りません。その代わりに、もう少し、浄土教における ﹁名号﹂とキリスト教における﹁イエスのみ名﹂とはど う関係するかという問題に触れて行きたいと思います。 言い替えれば、この話の冒頭で言った﹁キリスト教には 名号はない﹂という結論の意味についてもう少し考察し た い と 思 い ま す 。
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共通の根本思想 問題提起を一応次のように表現してもいいかと思いま す。﹁信心為本﹂か﹁念仏為本﹂かというような論争が 起こるところよりも深い次元では、浄土教・真宗を、﹁名 号の宗教﹂と言えると思いますが、キリスト教の場合で は、それをはたして﹁神のみ名の宗教﹂と言えるのか、 そして、それはある意味で言えるとすれば、それをもっ て、キリスト教の本質にはどれくらい迫ることが出来る のでしょうか。この質問に答えるのに、まず第一に、十 分考慮すべきことは、両宗教の基本的思想が不思議なほ どお互いに似ているということです。 −/両者とも、﹁救って下さる絶対者﹂を考える時に、 一つの基本的区別をもって、それを考えざるを得なくな ったということがあります。すなわち、絶対者は、もし 人間に関わって、人間に対して存在するならば、その絶 対性を失って、相対的なものになります。しかし他方、 ﹁衆生を救うもの﹂を、衆生と関係ないもの、それに対 して無関心であるものとして考えることは出来ません。 従って、真宗では、仏の法身に関して、法性法身と方便 法身の区別は考えられてきましたが、それとよく似たよ うに、キリスト教では伝統的に神に関して、ロ2
∞ 吉 田 町 と り2
∞ A g m H仏 口 O∞という区別が考えられてきました。 すなわち、。0558
︵自分における神︶とは、完全に 自立自在で、円満な者、それに対して他者が一つも存在 しない者を意味します。その側面では、神は無名で、人聞にとって全く不可思議の者ですが、それが神のすべて であると考えられません。その他に、む凸
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己 ロ O 印 すなわち人間に対する神、人間に関わる神、いわば﹁人 間に向かった神の側面﹂があります。そういう者として、 神は形を取り、名前を出さなければなりません。それは、 ある意味では、神がご自分を制限し、無化するという意 味 に も な り ま す 。 イエスのみ名と人格 2 /そして、その﹁人間に向かった相﹂は決して、単に 神の二次的・表面的な相ではなく、神の自分における実 在と同じく、神の本質に属するものと考えられます。す なわち、神は本質的にご自分の存在・完全性に他者を参 与させたいという﹁自己譲与・ω
己 寸 印 昨 日 広 芯 己 口 昌 ﹂ ま た は愛そのものだという考え方です。同じ対話の中では、 ティリヒはたとえば次の発言をしました。﹁神を一つの 別 の 形 ︵ 伊 宮 古EZ
守 口 出 ︶ と 考 え た く あ り ま せ ん 。 し か し 、 我々との﹁出合い﹂︵g
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においては、神は必ず 一つの別の形となります。すなわち﹁我|汝﹂の関係に ⑪ なります﹂と。真宗の方でも、同じような考え方が、た とえば、阿弥陀如来は本質的に慈悲であり、阿弥陀仏の 知恵が慈悲なしに完成しないという形で存在していると 言えるのではないでしょうか。また、次のような言葉も 19 同じようなことを前提としているのではないでしょうか。 ﹁われわれに名乗り出る存在にして、自己自身を言葉に するものは初めて仏である。﹂﹁浄土教の信心とは、人間 と名前のない絶対者との関係ではなく、﹁南無阿弥陀仏﹂ ⑫ という名となった絶対者との関係である。﹂と。 3 /それから、阿弥陀如来、または神という絶対者が形 や名前を取る必要性はどこにあるのでしょうか。それは、 絶対者は慈悲であって、衆生に会いたい、人間に廻向し たいのですけれども、人聞は、形のない、名前のないも のと関係を持つことは出来ないし、自分から進んで、無 形、無想、無名の絶対者の次元まで上ることは出来ない からです。それで、絶対者にとっては、名前を取るとい うことは、人間・衆生のレベルに下るということを意味 します。本願寺派の普賢大国氏の言葉を借りて言えば、 ﹁衆生より如来への道は断絶されている。しかし絶対者 より相対者への道は聞かれている。﹂﹁相対より絶対へと、 向上的に開かれるのではなく、道はただ神より人間へと、 ⑬ 向下的に聞かれるより外はない。﹂ こういう基本的な考え方を共有していて、そこまで一 緒に歩いて来たと言っても、キリスト教と浄土教との道 はやはりどこかで分かれてしまいます。その分岐点は一20 体どこにあるのでしょうか。
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宗教的なダイナミックスは違っている その聞に対する答はなかなか難しくて、色々のことを 考えてきましたが、それをきれいに整理して、一つにま とめることはできるかどうかは疑わしく思いますけれど も、試みとして教と行にわけて、持えの要点を並べてみ ま す 。 同﹁教﹂の領域において 一応その答の根本的な要因と考えたのは、他でもなく、 もはやこの話の題名になった﹁イエスのみ名と人格﹂に 存するのではないかということです。すなわち、キリス ト教のこと︵本質︶を正しく、そして円満に表現しよう と思えば、﹁イエスのみ名﹂にだけ留まることは出来ず、 どうしても﹁と人格﹂という言葉をつけ加えるべきであ るというところに問題があると思われます。 大胆に、そして象徴的に言えば、キリスト教では、 ﹁神は名前︵言葉︶になった﹂ということは非常に大切 ですけれども、キリスト教の重点と言えるものは、それ よ り も 、 む し ろ ﹁ 言 葉 は 肉 体 に な っ た ﹂ ︵ ヨ ハ ネ 一 日 一 四 ︶ というところに有ると言わぎるをえません。そして、そ のところにこそ浄土教とキリスト教との根本的な相違点 が あ る と 思 わ れ ま す 。 大変恐縮しながら、そして議論の種になるように、も う少し言ってみますと、キリスト教では、神の下りの終 点、神と人間との出合の場︵従って、人間の救い︶は、 肉体を持つイエスという人間と、そのイエスの人生にお ける歴史的出来事︵十字架の死︶というところにありま す。そのところにおいてキリスト教のすべては、何も残 らずに︵ある意味で、背後なしに︶、円満にまとまると 言えましょう。それに対しては、﹁神は名前を取った﹂ ということは、そのところまでに至るための必要な一歩 にすぎないとも言えます。 それと違って、浄土教では、﹁名号﹂こそすべての終 点、如来と衆生とが円満に結ぼれるところ、他に背後な どが一切いらない﹁体﹂であると言えるのではないでし ょうか。その証言として、話の冒頭に引用した曾我先生 の言葉の他に、もう一つ真宗の学者の文章を挙げるな ら、﹁名号の中に仏の全体があり、その背後に何もない ・:・阿弥陀仏そのものもその名号に尽きる。阿弥陀仏は ⑬ その名号と同一体である。﹂という言葉もあります。キ リスト教では、﹁神のみ名﹂も、﹁イエスのみ名﹂も、あイエスのみ名と人格 る意味では指し示しているものを自分の中に含んでいる と言っても、自分以外の体を指す指の性質を失いません。 従って、名前︵一言葉︶の他に、その﹁体﹂をより完全に 代表したり、現前させたりするものがあるという可能性 は 残 っ て い ま す 。 皆様ご存知の通り、キリスト教では、この関係でよく ﹁神の啓示﹂という言葉は使われますが、その啓示を媒 介するものとして勿論、たとえば預言者の言葉があるで しょうけれども、どの言葉よりもイエスの人生の出来事 の方が、神は何であるかを深く教えてくれると信じられ ます。イギリスの神学者の言葉を引用しますと、﹁キリ スト教的信仰は、十字架を無上に啓示的なものとして見 ている。それにおいては、言語的なものは人格的な叫の、 預言的なものは受肉的なもの、言葉は肉となっている。﹂ ちなみに言っておきますが、キリスト教の一部の中に やはり、﹁イエスのみ名﹂をすべてを含むものとして見、 それを全く中心的なものとし、それをある意味で﹁実体 化﹂するような傾向が存在しています。それは﹁イエス の祈り﹂といわれる、特に東方教会において育った、霊 性の道です。それに関して坂東性純氏が非常に興味を持 って、二年前に﹃キリスト教と仏教の称名・み名を称え 21 る﹄という面白い本を書かれたことは、皆様がご承知の 通りと思います。本当はそれについてもう少し言及する つもりでしたが、時間がなくてあいにくそれは出来なく なりましたけれども、二つだけ簡単な考察に限りましょ う。一つは、坂東氏は、普段﹁イエスの祈り﹂と言われ るものを﹁イエスの称名﹂と和訳されますが、それは大 変興味深いと思います c もう一つは、キリスト教内部で は、その道に関して懸念が感じられないことはありませ ん。と言うのは、﹁イエスのみ名﹂に余りにも集中する と、イエスの受肉、とりあえず聖体の秘蹟は無視されて しまうと思われるからです。そのところからも、浄土教 とキリスト教との聞の、方向の違いが感じとられるので は な い で し ょ う か 。 川﹁行﹂の領域において 名号に関しては、教えのレベルで浄土教とキリスト教 の道が分かれてしまうと見てきましたが、その結果、宗 教的行のダイナミックスもお互いに違っていると言って も不思議ではないでしょう。 両宗教の行を少しでも調べますと、すぐ明らかになる のは、浄土教︵少なくとも日本の正当な浄土教︶の行が非 常に集中したもの、完へきなもの、すなわち専修念仏で
22 あるのに対して、キリスト教における行は一見散ってい て、様々で、いわば雑行であるということです。言い換 えますと、キリスト教には色々な行いが見られ、しかも それらを統一させるような焦点が見当たらないというこ とでしょう。そして、確かに、真宗におけるような専修 の行、専ら一つだけの行に集中することには、一種の大 きな力、があるということは、キリスト教徒としては認め ざるを得ないし、そして羨ましく思うことさえあります。 その違いは教えの相違の結果と言いましたが、やはり 行の狙いは、救いの具体的相︵正因︶を受け止めて、そ れと一致して、それを自分のものにするとか、またはそ の中に入って、それに自分のすべてを委ねるということ にあるでしょう。そうしますと、一方では、﹁名号﹂︵名 前・言葉︶と一致する方法は割に限られているでしょう。 それは要するに、名前を聞くこと︵聞名︶、心で聞く︵﹁名 号﹂を念じて、その中の呼びかけを受け止める︶こと、 口で唱えること︵称名念仏︶、筆で名前を書いて、それ を対象化して、それをご本尊︵礼拝の対象︶とすること ぐらいに限っているのではないでしょうか。それと比較 して、今度は﹁救いの正因﹂が人格であ一る場合では、そ れと一致する方法として様々なものが考えられるように なります。それは、人格というものがやはり立体的なも のであるからです。キリスト教において、イエス・キリ ストという人格と結ぼれる方法、すなわち行、として発 展したものの中から重要なものを選びますと、およそ次 のものになるでしょう。 ー一般的にいえば、人格と一致する道が﹁愛﹂ですか ら、キリスト教ではイエスに対する愛は中心的な役割を しています。しかし、﹁神にたいする愛﹂と同じく、﹁イ エスに対する愛﹂の具体化も又﹁隣人に対する愛﹂に求 められるわけです。従って、すべての人の中のイエスを 愛することはやはり、キリスト教の基本的行いとなって います︵マタイ二五章参照︶。他の﹁雑行﹂の価値や大切さ は、それらがそういう愛の実行にどれくらい導くかとい うことに依るとは言えます。 2 しかし人格というものは﹁身体﹂でもあります。そ れで、イエスの生前の時に、その体に触ることに依って 救われようとした人もいました。イエスは別にそれを否 定したこともありませんけれども、自らご自分の体と一 致する方法として、よりラジカルなものを提供しました。 すなわち、﹁私の肉を食べ、私の血を飲む人は、私の内 にいつもおり、私も又その人の内にいつもいる。﹂︵ヨハ
ネ六日五六︶と一言って、いわゆる﹁聖体の秘蹟﹂を設立し ました。それは聖餐式、または︵カトリックでは︶ごミ サのことで、それに預かることはキリスト教徒の大事な 行となっています。 3 次に、人格というものがやはり人生の集約であると いう観点があります。そのところから、イエスの地上の 人生の様々な出来事を黙想することに依って、イエスの 精神を吸い込むことも一つの行として勧められてきまし た。それは、キリスト教において広義で理解される﹁祈 り﹂の大事な一要素となっていますし、キリスト教で言 われる慎想とか観想というものの主な対象になっていま す 。 イエスのみ名と人格 しかしそれよりも、その人生の態度や行動においてイ エスが我らに人生の模範を見せて下さったという考え方 から、﹁キリストに倣いて﹂と言って、なるべくイエス のように行動することもキリスト教的行と言われます。 しかも、イエスの生活が専らおん父のみ旨に従うことに 尽きていて、彼が﹁父よ、父よと叫ぶ人ではなく、神の み旨に従う人は救われる﹂と教えたので、やはり道徳的 生活はキリスト教の﹁行﹂の中に入って、﹁倫理﹂とい うものは宗教としてのキリスト教の内的要素となってい 23 ます。その結果、キリスト教の中に一つの緊張、が持ち運 ばれると認めざるをえません。すなわち、道徳的生活の 大切さと、他方、救いが自分の行動による功徳ではなく、 神の恵み︵他力︶によるという教えとの聞に。 4 最後に、もう一つ人格の特徴に触れますと、人格と いうものはやはり具体的社会的環境を離れて考えられな いもので、イエスの人格も勿論例外ではないですから、 イエスを具体的に見る場合、彼と当時の社会とのやり取 りを無視することはできません。それと第 3 に言われた ことを合わせて考えますと、キリスト教的﹁行﹂が、宗 教の領域の中に留まらないで、かえって道徳に、世俗的 分野に、そして社会そのものに出るようなものであるこ とは明らかになります。その点でも、浄土教の行と違う と言えるのではないでしょうか。 そうしますと、キリスト教において、﹁イエスのみ名﹂ そのものが特別に行の対象、礼拝の対象となることはな いでしょうか。上に挙げた、カトリックとプロテスタン トの中にほとんど行われていない、﹁イエスの祈り﹂の 他に、次のことは言えると思います。キリスト教の熱心 な信徒はよくイエスのみ名を口にしますし、おん父に向 かった祈りの多くは、﹁イエスのみ名によって、 ア l メ
24 ン﹂という言葉で終わります。しかし、イエスの人格の どのところが一番礼拝の対象になっているかということ を確かめたい場合、教会の典礼暦年の中の祝日を調べる ことはもっとも良い方法です。その祝日は、まずクリス マス︵ご降誕祭︶と復活祭を始め、イエスの生涯の色々 な出来事︵たとえば、主の洗礼、主の昇天︶を祝うもの で、その他に、その人格の一側面を祝うものもあります。 現代にもそういうものとして一一一つだけあります。すなわ ち、﹁キリストの聖体﹂、﹁イエスのみ心﹂、﹁玉たるキリ スト﹂という祝日です。しかし、教会史を見ますと、中 世期の終わり頃に、特にフランシスコ会の修道士の促進 で、イエスのみ名を特別に崇拝の対象にする運動があっ て、その結果、一七一一一年に全教会の﹁イエスのみ名﹂ の祝日は一応出来ましたけれども、どういうわけか知り ませんが、すぐまた典礼暦年から姿を消したようです。 その祝日は、浄土教の影響で、近い将来に再び蘇るので し ょ h