五 八. 共同研究
鎌倉期の東大寺とその周辺
主 任藤
丸
要
研 究 員 野 呂中 大
西 谷 俊 由 英 香 靖東大寺の華厳と論義
藤 丸 要 一、はじめに 東大寺は八宗兼学を標梼する寺院である。しかし、八宗兼学と言っても諸宗聞には明確な優劣が存在しており、鎌倉期には主に華厳宗と三論 宗の二宗が学ばれていた。さらには、この両宗においてもまた優劣があった。﹃華厳経﹄の教主毘虚舎那仏が大仏として建立されて以来、必然 的に東大寺の教学上、中心となったのは華厳宗であったが、教勢としてはむしろ三論宗の方が優勢であった。 三論宗は東大寺内の東南院を本所としていた。東南院は延喜四年(九O
四)に、東大寺別当道義によって建立され、ここに理源大師聖宝(八三 二
1
九O
九)が招ぜらたことにより、同院は三論・真言両宗の本所となったのである。また、東大寺において真言宗は、弘法大師空海(七七 四:八三五)が別当となって以来の三歪であり、弘仁十三年(八二二)に真言院が創建され、ここが真言密教の本所となった。聖宝以後は、 東南院においても三論宗を主としながら真言宗も併修されるようになり、延久三年(一O
七一)には東南院院主をもって三論宗長者と為し、こ こから東大寺別当への道も聞かれた。以後、東南院からは多くの別当を輩出することになり、東大寺随一の塔頭として権勢を誇ったのである。 こういった状況を憂えたのが光智(八九四1
九七九)であった。華厳宗は東大寺の根本宗義であるにも関わらず、奈良時代よりの華厳研究は 決して盛んとは言えなかった。そこで光智は天暦元年(九四七)、東南院の隆盛に対抗すべく華厳宗の本拠として尊勝院を建立し、華厳宗復興 を図ったのである。光智は尊勝院を純粋に華厳宗の学侶の住する院家として、応和元年(九六一) には、尊勝院の院主をもって華厳宗長者と為 すことが公認され、この系統からも東大寺別当を多出することになったのである。 光智以来、尊勝院は東大寺における華厳教学研績の本所として東南院と二分する勢力を確立することになり、多くの学僧を輩出して行った。 治承四年(一一八O
)
十二月に、平重衡による南都焼討によって、東大寺は壊滅的な被害を被ったが、寺内の塔頭の中で尊勝院と東南院が真っ 先に復興されたことは、この両院の重要性を改めて認識させてくれるのである。 鎌倉期における東大寺復興後の華厳宗は、凝然ごニ四01=
三 二 ) の住持した戒壇院も華厳学研績の一大拠点となり、これより以後、尊 勝院と戒壇院の二流が東大寺華厳の流れを伝えることになった。これに明恵上人高弁(一一七三1
二コニ二)による高山寺系統の華厳と併せて、 日本華厳は三つの流れがそれぞれに展開して行ったのであった。 本稿においては、この中、東大寺における華厳について、その特色を明らかにすべく、当時の学問形態であった論義を中心に一瞥して行きた い と 思 う 。二
、
東
大
寺
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宗
﹂
東大寺が八宗兼学の寺院であったことは、凝然の﹃戒壇院定置﹄(以下﹃定置﹄と略称) 甲 ﹂ 、 R u・
当寺、惣じて、宗、三論と華厳なるは、専ら後代の所学と為す。本は是れ八宗兼学の寺なり。惣通詠貫して、局る所有ること無し。此の戒 鎌 倉 期 の 東 大 寺 と そ の 周 辺 五 九鎌倉期の東大寺とその周辺
。
壇院は、凝然、管領の後、専ら華厳宗を学ぶ。蕨の後、門人、多く服膚に至一学 とあり、﹃円照上人行状﹄巻上にも、 故に東大寺を八宗兼学の党場と号す。然るに近来、弘むる所の顕宗大乗は、唯だ華厳と三論の両宗を学ぶのみなり。寺内の学侶、両宗に繋 属 す 。 と記されていることからも明らかであろう。すなわち、凝然の活躍した鎌倉期の東大寺においては、八宗兼学を標梼しながらも、実際には華厳 宗と三論宗を学ぶものがほとんどであって、学僧たちは主にこの両宗に所属していたことが記されている。 凝然が述べるように、本来、東大寺は﹁八宗兼学﹂の大寺として、他寺の追随を許さぬ寺院であった。﹃東大寺要録﹄﹁諸宗章第六﹂には、華 厳宗・三論宗・法相宗・律宗・成実宗・倶舎宗・真言宗・天台宗の順で宗名が記されているが、 私に云く。伽藍建立の当初は、唯だ六宗の学者のみ有りて、天台・真言の二宗は無し。真言宗に至つては、弘法大師、入唐して帰朝以後に、 始めて此の宗を置く。天台宗は唐の大和尚鑑真、天台の法門を伝来しての後、最澄大徳、入唐して始めてこれを伝う。 とあるように、創建当初は六宗のみであったのが、後に天台・真言の二宗が加わり、平安期には八宗兼学の寺院としての体裁が整えられていっ たことが明記されている。 また、延暦二十五年(八O
六 ) の﹁太政官符﹂﹁応分定年料度者数井学業事﹂には、 華厳業二人 井ぺて五教・旨帰・網目を読ませしむ。 天台二人 一人に大見慮舎那経を読ませしめ、 一人に摩詞止観を読ませしむ。 律業二人 井べて発網経、若しくは璃伽声聞地を読ませしむ。 三論業三人 二人に三論を読ませしめ、 一 人 人 に に 成 倶 実 舎 論 論 を を 読 読 ま ま せ せ し し む む言。
法相業三人 二人に唯識論を読ませしめ、 とあり、東大寺における諸宗の年分度者が定められている。 元来、東大寺は聖武天皇(七O
一i
七五六) の発願によって建立された寺院である。天平勝宝四年(七五二) に、菩提億那(七O
四1
七六O
)
を開眼導師として大仏開眼供養を行って以来、当初から諸宗兼学を期待されていた寺院であった。したがって、当然のように諸宗兼学が東 大寺の伝統的修学体制となっていったのである。 ﹃ 東 大 寺 縁 起 ﹄ ﹁ 諸 別 院 事 井 堂 井 坊 ﹂ を み る と 、 戒壇院は律宗の本所、真言院は真言宗の本所なり。東南院は=一論宗の本所にして真言宗を兼ね、文た法相宗を兼ねる。尊勝院は華厳宗の本 所、知足院は法相宗の本所、唐禅院は天台宗の本所にして律宗を兼ねる。吉祥院は法相なり。 とあるように、東大寺内の諸宗は特定の堂宇を本拠として教学が研鎖されて行くこととなった。このような諸院に住する僧侶たちは、東大寺僧 としての自覚と誇りを共有しつつ、自然と諸宗兼学が東大寺の学風となって行ったのである。 これらの諸堂宇の中で、特に留意すべきは先述した東南院と尊勝院であろう。東南院については、﹁延久三年(一O
七ご、永く東南院院主を 以て、此の宗の長者と為すべし﹂とあり、また尊勝院については﹁応和元年(九六ご、此の院主を此の宗の長者と為すべし﹂とあるように、 東南院院主は三論宗長者を、尊勝院院主は華厳宗長者を兼務した。両院は学侶の集う堂宇であり、東大寺内から別当を出すのは、この両院の学 僧に限られていたと言ってよく、両院両宗が寺内で大きな勢力を誇ったのであった。 南都焼討以後、東大寺では伽藍の復興と併せて教学の復興がはかられるが、やはり諸﹁宗﹂の復興が大きな課題となった。諸宗復興にあたっ ては、その拠点となる諸堂宇の再建も併行して行われていた。そして、前掲の凝然の文が示すように、南都焼討以後の東大寺の﹁宗﹂は、華厳 宗と三論宗が中心となり、東大寺の学僧は主にこの両宗に所属していたのであった。三、戒壇院復興と東大寺華厳
さて、東南院と尊勝院がそれぞれ三論宗と華厳宗の拠点として、東大寺教学の中心的地位を占めていたのは、南都焼討より以前のことである が、もう一つ、注目すべき堂宇が存在する。それが戒壇院である。 そもそも東大寺の戒壇院は、天平勝宝六年(七五四)に、唐より来日した鑑真(六八八1
七六三)によって創建されたもので、日本三戒壇の 随一として受戒による僧侶創生に欠くことのできない最重要な堂宇であった。東大寺僧のみならず、他寺諸宗の僧侶も多くこの戒壇院で受戒し 鎌 倉 期 の 東 大 寺 と そ の 周 辺 __._ /¥鎌 倉 期 の 東 大 寺 と そ の 周 辺 _,__ ノ、 て、正式な僧侶となっていたことから、戒壇院の復興は当時の日本の仏教界にとって急務の大事であった。そこで、初代大勧進職となった俊乗 房重源(一三二ハ
i
一 二O
六)は、大仏や大仏殿、あるいは東南院や尊勝院などの復興と併せて、早々と戒壇院の壇上堂を再興している。戒壇 院復興の事業は、重源の後、第二代大勧進職の栄西(一一四一i
一 一 二 五 ) にも引き継がれ、彼は戒壇院の中門と四面回廊を復興している。こ の事業は、第九代大勧進職円照(一二二一i
一二七七)にまで承け継がれ、円照は戒壇院の西僧坊、鐘楼、千手堂、食堂、僧庫を再興し、ここ にようやく戒壇院の復興が成し遂げられたのである。 円照の弟子であった凝然は、﹃定置﹄において次のように述べている。 重源上人、壇上堂を造り僅かに受戒を行う。栄西僧正、中門並びに四面回廊を造る。荘厳坊法印、大勧進の時に西迎上人の勧めに依りて、 講堂ならびに東西回廊を造る。西迎上人、賢順和上に勧めて北僧坊一宇二十三聞を造る。(彼の僧都の律師の時の功なり)。西迎上人、東僧 坊五聞を造る。実相上人、大勧進の時、西僧坊五聞を造りておわる。ならびに鐘楼および千手堂を造る。建長季歴、食堂ならびに僧庫を造 る。戒壇一院の営、すでにおわる。建長二年の暦、実相上人、西迎上人の譲りを受け、中興開山、管領し律を講ず。先師、詩、円照、実相 上人、寺院、二十七年住持す。三十一より五十七に至るなり。沙門凝然、円照上人の譲りを受け、寺院を住持す。去、建治三年より、今、 正和五年、丙辰に至る四十年なり。 と。すなわち、重源、栄西の戒壇院再建について述べた後、西迎上人蓮実と円照の功績を述べ、蓮実の譲りを受けて円照、凝然へと戒壇院が受 付継がれてきたと、その由来を記しているのである。蓮実は高弁の弟子であったが、師の滅後に東大寺に住し復興にあたっている。さらに、同 じく高弁の弟子の道澄も東大寺に住しており、東大寺が日本華厳および日本仏教の柱石なることは、当時の人々の共通認識であったと知られる の で あ る 。 戒壇院が東大寺に果たした役割は、単に受戒の場という範囲を超えて東大寺運営の中心的地位を占めるまでになった。それは、東大寺歴代大 勧進職の中、凝然の弟子である第二十五代の俊才(一二五九i
一三五三)からは、最後の第四十六代昭海まで、すべて戒壇院長老が任ぜられて いることからも分かる。その戒壇院の中興開山となったのが、凝然の師円照であった。戒壇院、引いては東大寺の復興は円照によって完成し、 この円照より凝然は戒壇院を譲られている。凝然は正和五年(一三二ハ)、七十七歳の時に唐招提寺の長老にも任ぜられるが、生涯のほとんどを戒壇院で過ごし、彼の膨大な著作の大半はここで撰述されている。凝然が唐招提寺よりも東大寺沙門としての強い自覚の下、この立場を優先 させていたことは、同年九月に﹃戒壇院定置﹄を制定していることからも理解できる。﹁定置﹂は凝然の後事を託したものであり、戒壇院の由 来と復興後の重源・蓮実・円照への伝承と事績、そして自らの業績を述べ、さらに戒壇院が禅爾(一二五二
i
一 三 二 五 ) ・ 実 円(
1
一 二 九 五1 )
へと継承されていくようにと書き記したものである。 さて、すでに記したように、凝然は﹃定置﹂において、戒壇院は凝然以後、華厳を専門とする者が多くなったと述べている。凝然以後の戒壇 院は、禅爾が第三代長老となり、その後円照の孫弟子の了心が第四代となる。その後は第五代俊才こ二五九1
一三五三)、第六代盛誉ご二 七 三i
一三六二)と、以後、凝然の系統が戒壇院住持となっている。戒壇院は凝然の風を慕って華厳を学ぶ道場として、東大寺内で一定の地位 を占めるようになっていった。凝然の華厳学は、戒壇院を本拠として和泉国久米田寺や関東称名寺等へと伝わり、これらの寺院を中心として各 地に広まっていったのである白それは東大寺における華厳の本家とも言うべき尊勝院の系統とは、まったく異なった展開を示していることに注 意を払う必要があるだろう白 従来、日本の華厳は、光智以後、弟子の松橋(九三六i
没年不詳)と観真(九五一1
一O
二 九 ) の二系統に分かれたと説明される。そして、 松橋の系統を東大寺華厳(本寺派)と称し、観真の系統を高山寺華厳(末寺派)と呼んでいる。後に、東大寺華厳は延幸(九八五1
一O
六 七 ) が 東 大 寺 の 貫 首 と な り 、 さらに尊玄(一一四三1
没年不詳)、宗性こ二O
二i
一 二 九 二 ) 、 凝 然 等 の 学 僧 が 現 れ て い る 。 一方の高山寺華厳から は 、 景 雅 ( 一 一O
三1
没年不詳)や明恵上人高弁が出ている。元々、東大寺華厳、高山寺華厳という呼称は、鎌倉時に東大寺に宗性や凝然、高 山寺に高弁という卓越した人材が現れたことから、彼らを代表者としてそのように呼んだに過ぎない。しかし、 一端、そのような名称が確定し てしまうとあたかもこの両系統が最初から併存していたかのような誤解を与えてしまった。また、両者の教学的隔たりも大きいことから、この 二系統が当初から日本華厳の対立した流れであるかのように捉えられてしまったのである。 しかし、観真の弟子観円は東大寺尊勝院で﹃華厳経﹄﹃五教章﹄等を講じ、観円の孫弟子勝遁も三会の講師を経て尊勝院に住して華厳を講じ ている。さらに勝濯の弟子良覚も三会の講師を歴任するなど、鎌倉期になるまで東大寺・高山寺両系統の差異はさほど目立たなかったと思われ る。また、院政期から鎌倉期にかけても、高山寺系とされる景雅に東大寺系の弁暁ご二ニ九i
一 二O
二)が学び、東大寺系の尊玄の弟子聖禅 鎌 倉 期 の 東 大 寺 と そ の 周 辺 __._. / 、鎌倉期の東大寺とその周辺 ノ、 四 が高弁の弟子喜海(一一七八
1
一二五ご に学ぶなど、両者の交流は盛んであり、高弁以前の両者を区別することは甚だ困難である。しかし、 高弁以後となると、密教的実践という東大寺の華厳には認められない特色が発揮されることになり、日本華厳における独自な流れとして高山寺 華厳の確立をみることになったのである。四、東大寺の論義と華厳学
ところで、当時の東大寺を初めとする諸大寺においては、寺内の僧侶は大きく学侶と堂衆とに分かれていた。この中、学侶は教学の修学を専 門とし、諸々の法会に出仕する僧侶であり、他方、堂衆は堂塔の管理や運営、 さらには寺領経営などにあたっていた僧侶のことである。教学の ( M M } 研績は、主に学侶によって為されていたが、その際に大きな役割を果たしたのが論義であった。 論義が盛んになったのは院政期頃からであった。この時代、法皇や上皇などの院や貴族などによって壮麗な寺院が次々に建立され、これらの 寺院を中心に法会・論義が行われていた。南都や北嶺の諸大寺において、このような法会の時に必ず修される論義は、教学研績のための重要な 儀礼であった。当時の法会としては、商都における南京三会、京都における北京三会が最高の権威を有し、国家安穏を祈願する勅会として知ら れていた。この他、諸大寺においても多くの法会や講が催され、これらの法会の中で論義が行われていたのである。院政期以降は、宮中最勝 講・仙洞最勝講・法勝寺御八講の三講が最も格式の高い法会として定着し、ここで開催される論義が著名であった。公請によって法会に出仕し、 こうした論義に参加することは、僧侶にとって大変な栄誉であった。また、僧侶がこのような論義に参加することは、格好の教学研績の場が与 えられたということであり、同時に僧侶としての地位を固めるための必須の要件だったのである。 東大寺においても、数々の法会が催され、それに伴って論義や講が盛んに行われていた。論義の担い手は学侶であった。学侶となるためには、 まず厳格に出自の選定が為され、入寺が認められた後は、寺内の諸院家に住し基本的な学問を修めた。受戒の後、寺内の十二大会等の法会・論 義に参加し、やがては三会に出仕する。この三会を通過して、初めて権律師の僧官に任ぜられるのであり、三会はまさに学侶にとっての登竜門 であった。東大寺の別当は必ず学侶から推挙されたが、それには三会遂業、さらには公請によって常に論義に出仕するような学徳を有すること が条件となっていた。東大寺での教学は、このような論義によって研鎖され伝承されて行ったのであるロこのような論義による華厳教学研績の場としては、尊勝院が最も有力な堂宇であり、ここから多くの学僧が誕生している。焼討後も尊勝院は すぐに再建され、伝統的な華厳研績の場として機能していた。すなわち、光智が尊勝院を建立して以来、この堂宇は一貫して華厳学研績に大き な役割を果たしていたのである。 ところが、東大寺復興後、この尊勝院の華厳に対して、新たな華厳学研績の場が生まれた。それが戒壇院である。戒壇院復興後、第二代長老 となった凝然が華厳を主としたことから、戒壇院は東大寺における華厳研究の新たな拠点となったのである。 これまで、東大寺華厳というと必ず宗性と凝然が取り上げられ、高山寺華厳の高弁と並んで、鎌倉期の華厳宗を代表する学者として広く認知 されていた。この見方に異論を挟むつもりはないが、しかし実際のところ、宗性と凝然とでは同じ東大寺僧と言っても立場の違いはあまりにも 大きいことは指摘しておかねばならない。その最大の相違は、東大寺の伝統的学修方法でもある論義に対する態度であり、両者の対応は全く正 反 対 で あ っ た 。 凝然の華厳の師でもあった宗性は、論義を非常に重んじてい
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宗性は十三歳で東大寺に入寺し、十九歳で大法師、 四十歳で権律師、四十二 歳で権少僧都、四十五歳で権大僧都となり尊勝院の院主となった。さらに、 四十八歳で法印権大僧都、五十九歳で東大寺別当、六十八歳で権僧 正となったように、着実に僧位僧官を上げていった。前述のように、僧侶として階位を上げて行くには公請を受け、法会論義に参ずることが必 要であったが、宗性は十八歳頃から法勝寺御八講の聴衆として招かれるようになり、二十一歳の頃には御斎会に参じ、最勝光院御八講にも参じ ている。三十七歳の時に擬講となり、翌年興福寺維摩会講師となっている D さらに、三十九歳で御斎会講師、薬師寺最勝会講師を経て三会巳講 となり、法勝寺御八講講師、法隆寺勝重会等を終えて権律師となったのであった。また、東大寺別当に任じられてからも最勝講証義者となって い る 。 このように、宗性は論義のために諸寺に遊学し、先学や高僧たちの遺著を数多く収集し抄録している。宗性の修学は、華厳教学を中心として 多方面に亘っており、諸宗を兼学するものであった。彼の著述には、編纂したものも含めて、論義関係の抄録が非常に多い。宗性の門からは、 凝然の他、実弘(一二二一:一二五四)や宗顕(一二四三i
没年不詳)などが出ているが、尊勝院を拠点とした実弘や宗顕は、宗性と同様に論 義関係の書写本が多いのが特色といえる。 鎌倉期の東大寺とその周辺 六 五鎌 倉 期 の 東 大 寺 と そ の 周 辺 六 六 これに対して、凝然は論義に参加することは一切なかった。その理由として、彼が学侶とも堂衆とも異なる、律僧という立場であったことが 大 き 凶 r 律僧とは、戒律を守りつつ、様々な教学を専門的に修学していく僧侶のことであり、学侶とも堂衆とも異なるいわば第三の立場と言つ てよいだろう。凝然が純然たる律僧であったかどうかについては、多分に疑問が残るが、律僧の系譜に連なり、律僧的活動をしたことは間違い な し 。 凝然は二十九歳の時の﹃八宗綱要﹂二巻を皮切りに、膨大な著作を為していった。華厳に関しては、﹃凝然大徳事績梗概﹄(以下﹃梗概﹄と略 称)によれば三十七部もの著述があったと言う。概説書として﹃華厳法界義鏡﹂ニ巻、﹃華厳宗要義﹄ 一巻、註釈書として﹃華厳五教章通路記﹄ 五十二巻(三十九巻現存)、﹃華厳探玄記洞幽紗﹄百二十巻(四十三巻現存)、﹃華厳孔目章発悟記﹄二十三巻等、また観法書として﹃華厳十重唯 識瑞鑑記﹄七巻(五巻現存)・﹁華厳十重唯識円鑑記﹄二巻・﹁華厳十重唯識現鑑章﹄ 一巻の﹁華厳十重唯識三部作﹂と﹃三聖円融観義顕﹄四巻 (二巻現存)、さらに教判についての﹃華厳五教建立次第﹄ 一巻や﹃六十華厳﹄三十四品の組織や内容について述べた﹃華厳経品釈﹂ 一 巻 等 が あ る 凝然のこれらに代表される華厳の書に共通しているのは、論義を全く意識していないということである。凝然は宗性より華厳を学んでいるが、 何時の頃から宗性についていたのかは不詳である。宗性は凝然三十九歳の時、七十七歳で遷化している。おそらく、華厳の大学匠として著名で あった宗性より華厳を学ぶことは、その当時、東大寺に住した僧侶にとっては常道であったものと考えてよいだろう。 また、凝然は宗性からどのような思想的影響を受けたのかも明らかではな川﹁宗性が収集した諸資料を凝然が参照したであろうことは想像に 難くないが、凝然の著作の中でそのようなことを明記した文章は見あたらない。また、著作の性格も、宗性のような論義を前提とした抄録の著 書はほとんどなく、自分の考察に基づいた著作を為している。宗性は論義に備えるために諸宗諸大寺を尋ね、先学の遺著を数多く収集している。 それに対して、凝然は論義に参加することなく、 一生涯の多くを著作活動に捧げている。すなわち、凝然が宗性から受けた影響は、あくまでも 学問の範囲に止まり、その他の影響はほとんどなかったと言ってよいだろう。 以上のことから、同じ東大寺に住する僧侶であっても、尊勝院を本拠とした宗性や実弘、宗顕と、戒壇院の凝然とでは著述態度も修学方法も 異なり、東大寺華厳という一つの枠組みの中で同一的に把捉するのには無理があると思う。少なくとも、凝然以後においては実情を反映してい
るとは言い難いのである。すなわち、凝然以後の戒壇院の華厳は、尊勝院に伝承されてきた華厳とはまったく別の流れと考えるべきであろう。 戒壇院は凝然が華厳を専らとしたことから、その後、彼の門人がそれに続いたのである口 つまり、戒壇院が華厳の専門道場的な役割を果たす のは、凝然以後であった。凝然以後の戒壇院の華厳学は、比較的自由な研究が為されており、伝統的な論議のための学問ではなかった。これに 対して、尊勝院の華厳学は、宗性の弟子宗顕などをはじめとする人たちによって、伝統的な論義を主体として教学が伝承されて行ったのである。 このような点から判断すると、まずは尊勝院華厳をもって東大寺華厳、引いては日本華厳の本流と見るべきであろう。光智が尊勝院を建立し て以来、常に東大寺における華厳学の本所として揺るぎない地位を築いていた。高山寺華厳も戒壇院華厳も、尊勝院から派生したものであり、 まさしく凝然が百本の華厳宗は東大寺を本と為畏と言うように、東大寺の華厳学の伝統を脈々と伝えて行ったのである。その特徴は論義主 体の華厳学であって、伝統的に論義形式の学問を伝持するものであり、そのため必然的に形式化して行き、教学的展開は乏しいものとなる。 一方の戒壇院華厳は、凝然に始まるものである。凝然以後は、禅爾・湛審・聖憲・霊波・総融・融存・志玉などへと受け継がれて行った。凝 然以後の東大寺華厳の特徴として上げられる人師は、ほとんどこの戒壇院華厳の者であった。また、高山寺華厳は高弁の後、喜海・高信・静 海・順高などへ継承されて行くことになり、華厳教学と真言密教との融合という新たな教学が樹立される。実践面を重視するという高弁の姿勢 が、この系統に受け継がれて行ったのであった。 すなわち、日本華厳はその流れとして、①尊勝院、②戒壇院、③高山寺の三つの系統が存在したことになる。ところが、従来の見解によるな らば、尊勝院と戒壇院の華厳がまったく区別されておらず、混同されてしまっている。つまり、戒壇院華厳の流れのみをもって、東大寺華厳の 特徴と把捉されていたのである。これでは東大寺の華厳の実情を反映したものとは言えない。尊勝院華厳の特質が明らかにならない限り、東大 寺全体の華厳の特徴は解明できないことに留意しなければならないのであるロ
五、尊勝院華厳と論義
それでは、尊勝院華厳の特質はどういった性格のものであろうか。既に述べたように、尊勝院は東大寺において、三論宗の方が優勢であった ことを憂えた光智の発願によって創建されたものである。そこで、尊勝院創建以前の華厳学についてみると、奈良時代に寿霊が﹁華厳五教章﹄ 鎌倉期の東大寺とその周辺 六 七鎌 倉 期 の 東 大 寺 と そ の 周 辺 六 八 (以下﹃五教章﹂と略称)に対する最初の注釈書である﹃華厳五教章指事﹄六巻を著したことが特筆される。平安時代に入ってからは、天長六 本宗書の一つとして撰述された普機の﹃華厳宗一乗関心論﹄六巻や、増春﹃華厳一乗義私記﹄ 一 巻 、 親 円 ﹁ 華 厳 宗 種 性 義 抄 ﹄ 一 巻 、 ま た 勅 撰 の 目録として、円超の﹃華厳宗章疏並因明録﹄等が知られる程度である。このようにみていくと、確かにこの時期の東大寺における華厳教学の研 究は極めて貧困であったと言わざるを得ないだろう。 それならば、光智の尊勝院建立によって、華厳教学が隆盛となったのかと言うと、必ずしもそうとは言い切れない。というよりもむしろ、未 だその実態が明らかとなっていないと言った方が正当であろう。平安期の華厳学は、私記や論義などのかたちで研績が為されていることは確実 で あ り 、 その状況については不明な点が多く、今後の研究を待たねばならない。 院政期頃になると、論義が隆盛となり、各種﹁論義﹂集が著されて行く。尊玄の﹃孔目章問答紗﹄八巻、﹃華厳五教章下巻抄(断感義抄)﹄等、 宗性の﹃華厳香薫抄﹄七巻、﹃華厳宗論義抄﹄、﹁華厳探玄記香薫抄﹄ 一巻、﹃探玄記論義抄﹄二巻、﹁探玄記三十講疑問論義抄﹄二巻等、また実 一 巻 等 、 さ ら に 宗 顕 の ﹃ 古 義 草 ﹄ 、 ﹃ 探 玄 記 十 二 巻 抄 ﹄ 、 ﹃ 華 厳 宗 雑 論 義抄﹄等がある。さらに、著者は明らかではないが東大寺内で伝えられて行ったと考えられる論義集として、﹃探玄記肝要野や﹃探玄記三十 弘の﹃華厳宗大要抄﹄ 一 巻 、 ﹃ 党 網 経 香 象 疏 文 集 ﹄ 一 巻 、 ﹃ 自 他 宗 雑 指 示 抄 ﹄ 講日記﹄﹃五教章見聞紗﹄﹃演義紗纂釈﹂等、また華厳教義のテ
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マに則した多くの短尺が遣されている。 今、現存する論義関係書をみると、 いくつかの特徴を認めることができる。これらが最も多く遣されている東大寺図書館所蔵のものについて みれば、①華厳宗全般に関するもの、②中国華厳祖師に関するもの、③法会に関するもの、④短尺などに分類できる。これらの中、その一部に ついて記すと、次のようになる。 (二華厳宗全般に関するもの。 -﹃ 華 厳 宗 文 義 抄 ﹄ ( 宗 性 著 ) -﹃ 華 厳 香 薫 抄 ﹄ ( 宗 性 著 ) -﹃ 華 厳 宗 雑 論 義 抄 ﹄ ( 宗 性 著 )-﹃ 華 厳 肝 要 抄 ﹄ ( 寛 果 写 ) -﹁ 華 厳 略 肝 要 抄 ﹄ ( 恵 範 写 ) -﹃ 華 厳 宗 論 義 抄 ﹄ ( 宗 性 、 澄 芸 、 玄 弘 等 写 ) -﹃ 華 厳 宗 論 義 ﹄ ( 賢 春 、 観 律 、 戒 存 等 写 ) -﹃ 華 厳 髄 脳 抄 ﹄ ( 害 弁 写 ) -﹃ 談 義 不 審 ﹄ 華 厳 刀て 問 題 略 文 義 抄 覚 勝 写 -﹃ 問 答 抄 ﹄ ( 是 円 、 頼 為 等 写 ) -﹃ 華 厳 続 新 撰 抄 ﹄ ( 英 玄 、 弁 雅 、 宥 憲 、 英 澄 等 写 ) -﹃ 華 厳 宗 新 撰 勧 学 抄 ﹄ ( 英 澄 、 経 助 、 光 経 等 写 ) -﹃ 華 厳 新 撰 論 義 ﹄ -﹃ 古 題 加 愚 抄 ﹄ ( 深 害 著 ) -﹃ 華 厳 論 義 草 ﹄ -﹃ 円 宗 論 義 紗 ﹄ -﹃ 雑 華 林 論 草 ﹄ - ・ ・ 等 。 ( 二 ) 中 国 華 厳 祖 師 に 関 す る も の 。 ①、法蔵(六四三
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七一二)関係 *﹃五教章﹄関係 -﹃ 五 教 章 私 見 聞 抄 ﹄ ( 庸 性 等 写 ) 鎌倉期の東大寺とその周辺 /¥ 九鎌倉期の東大寺とその周辺 -﹃ 五 教 章 聞 書 ﹄ -﹃ 五 教 章 問 答 抄 ﹄ ( 浄 性 等 写 ) ( 崇 憲 写 ) -﹃ 五 教 章 上 巻 抄 ﹄ -﹃ 五 教 章 中 巻 抄 ﹄ -﹃ 五 教 章 下 巻 抄 ﹄ 五 教 章 別 刀て 談 義 不 審 実 英 写 ( 霊 波 写 ) -﹃ 五 教 章 夢 袋 ﹄ -﹃ 五 教 章 内 重 問 答 ﹂ *﹃探玄記﹄関係 -﹃ 探 玄 記 三 十 講 日 記 ﹂ -﹃ 探 玄 記 聴 聞 集 ﹄ - ・ : 等 。 -﹃ 探 玄 記 肝 要 抄 ﹄ ( 快 円 ) - : 等 。 -﹃ 探 玄 記 私 聴 書 ﹄ ( 霊 波 写 ) ②、澄観(七三八
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八三九)関係 -﹃ 玄 談 義 林 抄 ﹂ -﹃ 大 疏 紗 玄 談 義 解 ﹄ ( 賢 春 、 覚 乗 、 有 空 、 春 位 等 写 ) ( 聖 真 写 ) -﹁ 演 義 紗 纂 釈 ﹂ -﹃ 演 義 紗 聞 書 ﹄ (静波、性空、元融、英健、浄実等写) -﹃ 演 義 紗 別 宗 談 義 不 審 ﹄ ( 英 性 、 訓 英 、 経 実 、 実 英 等 写 ) (賢琳、弁玄、乗覚、円海、戒乗等写) 七。
- ・ ・ 等 。③、宗密(七八
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八 四 二 関 係 -﹃ 還 源 観 不 審 ﹄ -﹃ 華 厳 還 源 観 疏 紗 補 解 ﹄ ( 是 円 写 ) ( 実 英 写 ) - ・ ・ 等 。 ( 三 ) 法 会 に 関 す る も の 。 -﹃ 季 御 読 経 問 答 ﹄ -﹃ 八 幡 宮 談 義 講 問 用 意 抄 ﹄ ( 円 英 写 ) ( 弁 暁 写 ) -﹃ 春 季 大 乗 講 花 厳 宗 論 義 ﹄ ( 浄 俊 写 ) -﹃ 方 広 会 用 抄 ﹄ -﹃ 華 厳 宗 毎 月 講 問 者 用 意 ﹄ ( 晋 賢 著 ) -﹃ 方 広 会 竪 義 短 尺 ﹂ ( 宗 祐 、 覚 順 等 著 ) -﹃ 方 広 会 竪 義 短 尺 井 難 答 ﹄ ( 訓 賢 、 永 親 等 著 ) ( 四 ) 短 尺 -﹁ 非 情 成 仏 ﹂ -﹁ 証 果 廻 心 ﹂ -﹁ 初 発 心 時 ﹂ -﹁ 葉 上 釈 迦 ﹂ -﹁ 同 別 車 体 ﹂ -﹁ 三 時 華 厳 ﹂ -﹁ 生 仏 増 減 ﹂ -﹁ 二 障 肉 体 ﹂ -﹁ 真 知 用 大 ﹂ -﹁ 安 養 報 化 ﹂ -﹁ 大 悲 闇 提 ﹂ 鎌 倉 期 の 東 大 寺 と そ の 周 辺 -﹁ 華 厳 教 主 ﹂ - ・ ・ 等 -﹁ 同 時 間 処 ﹂ -﹁ 三 乗 進 入 ﹂ -﹁ 本 覚 断 惑 ﹂ -﹁ 一 法 広 狭 ﹂ -﹁ 海 印 惣 定 ﹂ -﹁ 性 起 大 用 ﹂ -﹁ 仏 果 障 事 ﹂ -﹁ 理 々 円 融 ﹂ -﹁ 龍 女 成 道 ﹂ -﹁ 初 住 不 退 ﹂ -﹁ 文 殊 不 二 ﹂ - ・ ・ ・ ・ 等 。 七鎌倉期の東大寺とその周辺 七 以上の分類は、あくまでも便宜的なものであるが、これら論義関係の典籍はほんの一部に過ぎず、 その全貌は未だ不明である。様々な論義書 を通して、学僧達の修学の内容や様相が明らかとなるが、残念ながら華厳についてはその研究はまだ緒についたばかりである。しかし、幾つか の論義書をみると、従来指摘されていなかった東大寺の華厳学の特徴を認めることができる。そして、それはまた従来の学説とも異なる特色を 見ることもできるのである。 その一つとして、ここで取り上げておきたいのは、東大寺華厳の教学の確定という問題についてである。従来、東大寺華厳は凝然によって確 定されたと考えられてきた。すなわち、凝然は中国華厳宗第三祖法蔵(六四三
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七一二)と第四祖澄観(七三八1
八三九)との教学を融会する ことによって、東大寺華厳を大成したと把捉されてきたのである。凝然以前、東大寺の華厳学には特定の教学的指針はなく、各人各様で教義解 釈が為されてきたが、凝然が法蔵l
澄観を基軸とした路線を明確に打ち出したことによって、東大寺華厳が確定したと論じられてきたのである。 よって、以後の東大寺華厳は、凝然の路線に沿ったものとなったと主張されたのである。 結論的に言えば、この主張は誤りである。なぜならば、前述のようにこれまで東大寺華厳の特質として挙げられてきたのは戒壇院華厳であっ て、この点から見れば先の主張には一理あるかも知れない。しかし、それは日本華厳の本流である尊勝院華厳を無視した見方であって、妥当な 見解とは認めがたいのである。 この点を念頭において考察するならば、鎌倉前期には成立していたと考えられる﹃探玄記肝要抄﹄や﹃華厳香薫抄﹂等の論義書をみると、法 蔵と澄観の会通がすでに濃厚に認められることが分かる。さらには、澄観によって異端とされ排斥された静法寺慧苑の教学までも紹介されてい る。これは凝然の先駆となる教説である。すなわち、東大寺においては、凝然以前にすでにこういった見解が明確に示されているのである。 つ まり、凝然の華厳教学が法蔵と澄観の教学を融会したものであることには疑いが、決して従来主張されてきたように凝然の独創による訳ではな いことが理解できるのである。 しかし、そうなると、次の点が新たな問題として浮かび上がってくる。 ①凝然の華厳教学の特色および独自性とはどこにあるのか。 ②法蔵l
澄観路線が東大寺華厳の特色であるとすると、 いつ頃誰によって創唱されたものなのか。今、ここではこの問題に立ち入るだけの余裕はないが、これらについて再検討する必要があることと、そのためには当時の論義書の整備・検 討・研究が必要不可欠の条件となってくることを指摘しておくに止めたい。 おわりに 論義という日本仏教の伝統的な仏教研績方法は、部外者からみれば、あまりにも煩雑で学問的過ぎる。つまり、当事者でない限り、興味の対 象とはなりにくいのである。こういった仏教研鎖方法は、 いずれ形骸化して行くであろうことは、十分に予想できる。 東大寺尊勝院に連綿として承け継がれてきた伝統的華厳学研鎖は、論義を主体とするものであり、これによって多くの学僧を輩出している。 しかし、それはあくまでも東大寺内部においての話であって、東大寺以外の僧侶に取っては、到底魅力ある学問とは言い難いものがあった。そ ういった人たちが注目したのは、むしろ凝然に始まる戒壇院華厳であったことは想像に難くない。戒壇院華厳は論義を想定した華厳学ではない。 それぞれの立場からの自由な発想による華厳研究であった。そのため、東大寺の枠に止まることなく、多方面へと伝えられて行った。地方にお いては、和泉国久米田寺や関東称名寺などへ伝えられ、新たな展開を示している。同じ東大寺の名を冠しながら、尊勝院華厳とはまったく別の 流れとなっていることに注意を払う必要があるだろう。 東大寺の華厳、日本華厳の主流は、何と言っても尊勝院華厳であるロここから、戒壇院華厳、高山寺華厳が派生して独自の展開を遂げている口 しかし、論義のための伝統的華厳学研績であったが故に、教学的展開は乏しく寺内に止まっていた。他方、戒壇院華厳は東大寺における新たな 華厳学研究拠点として、寺外にも広まっていった。凝然以後、東大寺華厳の学僧として挙げられる人師は、ほとんどが戒壇院華厳系統の人々な のである。彼らを東大寺華厳の流れとしていたのであり、尊勝院華厳の人達はほとんど表に現れてこなかった。 しかし、尊勝院華厳の伝統的華厳学研績が基盤となって、戒壇院華厳や高山寺華厳が成立しているのであり、尊勝院華厳を理解する重要なキ ー ワ l ドである論義の特質を明示することは、今後の東大寺やその教学研究において重要な課題であると言えるだろう。そして、尊勝院・戒壇 院両系統の系譜と教学の研究の進展によって、本当の東大寺華厳、引いては日本華厳の様相が明らかとなって行くことが期待できるのである。 鎌倉期の東大寺とその周辺 七
鎌倉期の東大寺とその周辺 註 ( 1 ) 当時の教学状況については、拙著﹃華厳宗要義講読﹄(平成二六年七月 永田文昌堂)、拙稿鎌倉期における東大寺華厳(二 OO 七年一二月﹃論集 鎌倉期の東大寺復興│重源上人とその周辺 l ﹄グレイトプッダシンポジウム 論集第 5 号 ( 法 蔵 館 ) 等 を 参 照 。 ( 2 ) 新藤晋海編﹃凝然大徳事績梗概﹄(以下﹃梗概﹄と略称。東大寺教学部 昭和四十六年九月)九五頁。 ( 3 ) ﹃続々群書類従﹄三・四七六下 ( 4 ) ﹃東大寺要録﹄(筒井英俊編国書刊行会平成一五年一月)一五五頁
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一 六 O 貰 。 ( 5 ) ﹃ 東 大 寺 要 録 ﹄ 一 五 九 頁 。 ( 6 ) ﹃ 平 安 遺 文 ﹄ 四 三 二 二 号 。 ( 7 ) ﹃ 東 大 寺 縁 起 ﹄ ﹁ 諸 別 院 事 井 堂 井 坊 ﹂ ( 東 大 寺 図 書 館 所 蔵 ) ( 8 ) ﹃東大寺続要録﹄﹁諸院篇﹂(筒井寛秀編図書刊行会平成二五年五月) 一 六 七 頁 。 ( 9 ) ﹃東大寺続要録﹄﹁諸院篇﹂一七四頁以下、および﹃東大寺諸伽藍略禄﹄ (日全二二・一 O 七 下 ) を 参 照 。 (叩)東大寺の教学復興や組織等については、島地大等﹃日本仏教教学史﹄(昭 和八年二月明治書院)、永村虞前掲﹃中世東大寺の組織と経営﹄、堀一郎 ﹃ 学 僧 と 学 僧 教 育 ﹄ ( 一 九 七 八 年 一 O 月 未 来 社 ) 、 ま た 平 岡 定 海 ﹁ 東 大 寺 辞 典 ﹄ (昭和五五年八月東京堂出版)等を参照。 ( 日 ) ﹃ 梗 概 ﹄ 九 三 頁 。 (ロ)蓮実について凝然は﹃西迎上人行状﹄を著し、以下のように記し、その功 績 を 讃 え て い る 。 師、韓は蓮実、勢州の人なり。或いは城州山崎の人と云う。俗名は藤原光 秀、後鳥羽院に忠勤の仁なり。出塵の後、栂尾の高弁上人の常随の侍者と なる。弁上人寂の後、文暦・嘉禎の聞に南京に来至し、東大寺に住す。始 め て 燈 油 を 燃 や す 。 : : : ( 中 略 ) : : : ま た 、 戒 壇 院 の 旧 基 に 依 り て 、 戒 場 七 四 を 興 起 す ( ﹃ 梗 概 ﹂ 一 四 九 頁 ) 。 と 。 蓮 実 が 栂 尾 の 明 恵 上 人 高 弁 ( 一 一 七 一 三1
一 二 三 二 ) の 弟 子 で あ っ た が 、 その滅後に東大寺に住し復興にあたったことを述べている。蓮実は著名な人 物とは言えないが、蓮実より円照へという戒壇院の系譜には、東大寺復興の 系譜としても留意する必要がある。 (日)参考までに歴代大勧進職を挙げると次のようになる。 ①重源、②栄西、③行勇(栄西の弟子、建仁寺第二代)、④円琳(栄西の弟 子、建仁寺第七代)、⑤隆禅(行勇の弟子)、⑥定親(東寺長者、東大寺別 当)、⑦慶肇(栄西の弟子、建仁寺第六代)、⑧了心(行勇の弟子、建仁寺第 九 代 ) 、 ⑨ 円 照 、 ⑩ 円 爾 、 ⑪ 聖 守 ( 円 照 の 兄 ) 、 ⑫ 聖 然 ( 東 大 寺 新 禅 院 住 持 ) 、 ⑮円乗(東大寺住、栖河寺長老)、⑪忍性、⑮心恵(覚蘭寺長老)、⑮聡遍 ( 理 智 院 長 老 ) 、 ⑫ 聖 然 ( 再 任 ) 、 ⑬ 円 議 ( 戒 光 寺 長 老 ) 、 ⑮ 円 乗 ( 再 任 ) 、 ⑮ 心源(円通寺長老)、@和議(三聖寺長老)、⑫願忍(忍性弟子、極楽寺長 老 ) 、 @ 淘 海 ( 極 楽 寺 長 老 ) 、 @ 恵 鎮 ( 法 勝 寺 長 老 ) 、 @ 俊 才 ( 戒 壇 院 第 五 代 、 凝然の弟子)、@照玄(戒壇院第七代、俊才の弟子)、⑫盛普(戒壇院第六代、 凝 然 の 弟 子 ) 、 @ 正 為 ( 戒 壇 院 第 八 代 ) 、 @ 頼 然 ( 新 禅 院 長 老 兼 戒 壇 院 長 老 ) 、 ⑩霊波(俊才、盛誉から受戒、戒壇院第十代、称名寺住持)、@普乗(戒壇 院第十一代)、@総融(戒壇院第十二代)、@総深(戒壇院第十三代)、@志 玉(普一国師、戒壇院第十六代)、@霊賢(戒壇院第十五代)、@志玉(再 任)、@総該(戒壇院第十七代)、⑮資胤(戒壇院第十八代)、⑮能範(戒壇 院第十九代)、⑩玉叡(戒壇院第二十代)、@妙祐(戒壇院第二十一代)、⑫ 令洞(戒壇院第二十二代)、@円意(戒壇院第二十三代)、@実政(戒壇院第 二 十 五 代 ) : : : 永 正 ・ 大 永 年 中 、 大 勧 進 職 任 ぜ ら れ ず : : : ⑮ 叡 範 ( 戒 壇 院 第 二十七代)、⑮昭海(戒壇院第二十八代) ︹俊才(南北朝)以後は、すべて戒壇院長老が大勧進職に任ぜられている︺ ( M ) 鎌田茂雄﹁日本華厳における正統と異端 l 鎌倉旧仏教における明恵と凝 然 l ﹂ ( ﹃ 思 想 ﹄ 五 九 三 ) 等 を 参 照 。 (日)論義や法会に関しては、永村虞前掲書の他、同﹁寺院社会史の視点からみる中世の法会﹂(﹃儀礼にみる日本の仏教﹄所収二