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沖縄写真家シリーズ「琉球烈像」の試みとは

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〈研究ノート〉

沖縄写真家シリーズ「琉球烈像」の試みとは

=沖縄写真論のはじまりのために=

浦 本 寛 史 

要旨

 本稿は、監修に沖縄の映像批評家・仲里効氏と、明治大学教授・写真批評家倉石信乃氏 を迎え、2010年8月に刊行を開始し、2012年9月、山田實写真集『故郷は戦場だった』

をもって全九巻完結となった『沖縄写真家シリーズ「琉球烈像」』を通して、写真家たち が見つめた先を提示したい。このことは写真の本質、理念、本来性など、誰もが指摘する 沖縄の写真の「複雑さ」や「記録」、そして「表現」の狭間で確固たる答えの糸口を見い だせないアポリアと闘った写真家たちの軌跡を示すものである。各巻には写真家と関係の 深い論者による解説が添えられ、沖縄初・発となる「戦後の沖縄写真史と沖縄写真論」に 繋がる貴重な学びが生まれたものといえる。また、急速に造られていった沖縄の「特権的 な場所」で全ての写真家たちが戸惑い、翻弄され、ため息をつきながらも、撮り続けた数 万枚の写真群から今の沖縄を問うものとする。

  最 終 巻 と し て 沖 縄 に 深 く 関 わ っ た 本 土 を 代 表 す る 写 真 家 東 松 照 明 写 真 集「camp OKINAWA」もその問われた沖縄をより一層象徴するものとなった。「沖縄人が捉えた沖 縄」と本土から来た「本土人が捉えた沖縄」の<比較>と<差異>とは何かを検証していく。

沖縄写真家シリーズ「琉球烈像」

第1巻 山田 實 写真集「故郷は戦場だった」

第2巻 比嘉康雄 写真集「情民」

第3巻 伊志嶺隆 写真集「光と陰の島」

第4巻 大城弘明 写真集「地図のない村」

第5巻 石川真生 写真集「FENCE,OKINAWA」

第6巻 嘉納辰彦 写真集「旅するシマ」

第7巻 森口 豁 写真集「さよならアメリカ」

第8巻 中平卓馬 写真集「沖縄・奄美・吐喇1974-1978」

第9巻 東松照明 写真集「camp OKINAWA」

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        【目次】

   第1章 はじめに

   第2章 「庶民」という言葉の写真力    第3章 磁場を捉える

   第4章 消滅していく時間    第5章 直感と撮影行為

   第6章 フォトモンタージュのように    第7章 言葉を超えた想像力

   第8章 おわりに

第1章 はじめに

 「眼差され撮られる対象から、眼差し撮る主体へ」、この言葉を掲げ、沖縄写真家シリー ズ「琉球烈像」全九巻が意味する沖縄の記憶・記録の変化とはいつだろうか。敗戦直後に シャッター音は鳴り響いていたのだろうか。それとも60年代後半~ 70年代の復帰前後な のだろうか。むろん、戦後の日本にとって沖縄の存在は遠い南方の果ての島であり、地上 戦が行われ、多くの犠牲者がでたという認識はあるものの、人類史上類のない原爆投下が あった広島や長崎ほどの衝撃はなかったのではないだろうか。しかし、敗戦国日本を象徴 したものは、敗戦沖縄の爪痕と共に、いつまでたっても変わらぬ日本と沖縄の関係、そし てアメリカの植民地構造に多くの写真家たちがアルファベットで表した<OKINAWA>

の実態にレンズの先はフォーカスされた。

 そして、監修者のひとりである仲里効は言った「このシリーズが沖縄戦後写真史のパー スペクティブを獲得し、沖縄での写真批評が成立していくための<はじまり>になり、そ して、沖縄とヤマトの非対称性を創造行為に転化していく試みでもあると思いたい」と。

 本稿では、次章から記述する写真論と写真行為をとおして、沖縄<OKINAWA>の複 雑で重層化される写真群から沖縄を問い、その答えを見いだし、沖縄写真論のはじまりの ために提示したい。

第2章  「庶民」という言葉の写真力

 ■第1巻 山田實 写真集「故郷は戦場だった」

 第1巻でありながら最後に発行されたことに、監修者の「沖縄写真の父」への敬意を汲 み取ることができる。さらに写真に対するスタンスが他の8名と明らかに異なる山田を「琉 球烈像」シリーズに加えたことと、第1巻にしたことはきわめて重要である。戦後の沖縄 では1950年代からアマチュア団体の活動が盛んに行われ、その中心にいたのが山田である。

 特に60年代半ばにはベトナム戦争にともなう反戦、反基地、そして本土復帰への要求 デモが毎日繰り広げられた。多くの日本を代表する写真家たち(注1)もこの現実を表現し はじめた。またメディアも連日沖縄の現状を本土に伝えていた。沖縄を撮る際、ほとんど

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のレンズは爆音の基地であり、暗闇の売春であり、正義の闘争に向けられる。

 しかし、山田はそれだけが沖縄の姿ではない。山田が捉えたカメラの向こうにはメディ アとは異なる日常の奇跡があり、大衆の息吹と向き合った魂の放散がある。戦後沖縄の矛 盾を目のあたりにし、不条理の現実に誰でも奮い立ったに違いない。そして誰もが現状に 問いかけ、「イデオロギーのレンズ」を取り付けたはずだ。山田は意識的にそれを避け、

ただただ、変わりゆく荒野に佇み、パノラマの果てに、無邪気に遊ぶ子供たち、忙しく働 く女性たち、祭祀を司る老婆たち、そして、時代に翻弄される男たちにレンズを向けたの だ。それは、イデオロギーを題材とする日本本土から往来する写真家たちへの挑戦、また は挑発だったかも知れない。さらに、本土から訪れる写真家濱谷浩(注2)との共有した時 空は山田にとって大きな刺激となったことは想像できる。

 山田の写真集第2章「同時代の肖像」は、まさに死線を共にさまよったシベリア抑留時 代の同胞たちへのレクイエムがあり、また、沖縄復興へのエールでもあった。沖縄の空に 戦闘機は飛ばず、景色を壊すフェンスは存在せず、輝く命だけを表現し続けた彼の眼に、

写真に対する信念と祈念を垣間見ることができる。山田は、誰にも真似できない「もうひ とつの時代の目撃者」であり、それはイデオロギーを超越した沖縄リアリズムの幕開けで ある。

靴磨きの少年 那覇市国場 1956

子守の少女 場所不明 1958 安謝橋 那覇市安謝 1960

ビー玉遊び 那覇市安謝 1959

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第3章 磁場を捉える

 ■第2巻 比嘉康雄 写真集「情民」

 比嘉康雄は、復帰闘争の撮影に明け暮れ、戦争の傷跡・残像、そして、沖縄の置かれて いる立場に矛盾を感じ、使命感に動かされ沖縄の現状を撮り続けていた。山田とは対局す る位置からシャッターを切っていた。

 しかしある日、彼は沖縄問題を当時のマスコミと同じように被害者と加害者というよう な視点から撮ることに違和感を抱き、レンズの先を大きく変えた。それが民俗学者谷川健 一(注3)との出会いに繋がる。谷川とともに宮古、八重山諸島を取材し、島々で出会った 人たち、そして祭祀に衝撃を受け、沖縄文化の古層に惹きつけられていった。比嘉は、「神 の島」と呼ばれる久高島をはじめ、南は八重山諸島から北は奄美諸島に至る琉球弧の島々 に関する膨大な記録を残すこととなる。2000年に亡くなるまで、霞んで失われつつあっ た祭祀とそれを行う女性(母)たちの威厳に満ち溢れた姿をフィルムに定着させ、琉球弧 の精神文化の祖型を探っていった。

 比嘉の写真は、心の中に生きる神々に忠誠を示し、身を委ねる人々の幸福な肖像が集成 されている。そこには、祭祀を司る女性たちの精神文化の豊かさと覚醒を喚起する写真家 の導きを見ることができる。さらに連作として、遺影の中の夫と共に生きる戦争未亡人た ちの肖像がある。その写真を観る者は、二人が戦争によって生死を分けたこと、そして、

別れた日から今日までの時間と妻たちの思いに言葉を失う。比嘉の言葉を借りると、「こ の戦争未亡人たちの涙を、失われた時間を、どうすることもできない。ただ話し相手にな ること、シワの目立つ彼女たちと、写真や絵になった若い夫をじっと見つめ、自問自答す る以外、なにもできなかった」とある。写真の本質と写真の怖さに押し潰されそうになる。

だからこそ今も色褪せることのない「民族の覚悟」とそこに暮らす「神への奉仕」を感じ させる写真は、新たな言葉を我々に問うてくる。写真集「情民」は、沖縄人の肖像写真の みでその答えを見いだし、たった一枚の写真の中から沖縄のもつ磁場を感じ、複雑で重層 化する意味、思い、価値を発見することができる。

33年目の夏 1977 イラブー(海蛇)獲り

1975

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第4章 消滅していく時間

 ■第3巻 伊志嶺隆 写真集「光と陰の島」

 素朴で純粋な「土着の眼」と「消滅していく時間との対話」を提示し、対話を撮り続け た写真家は伊志嶺隆である。

 伊志嶺が東京より帰郷した復帰前後の沖縄写真界は、「沖展」を中心とする保守的で体 制的で、サロン的な写真が主流であった。そのことが写真表現の可能性を潰していると反 発し、自ら「ざこ」という写真集団を立ち上げた。「ざこ」は、反沖展と位置づけられ、

大学生を中心に広がりを見せたものの、その勢いは長くは続かず、世変わりのスピードに 新たな写真様式は無力だと思い知らされた。「ざこ」は本土復帰を機に解散した。それは 伊志嶺にとって大きな輝きと目標を失うことになる。そんな折、伊志嶺は師匠である高梨 豊(注4)と再会する。その再会こそが、伊志嶺が再び写真と向き合い、レンズの先に希望 をもてた写真群「光と陰の島」に結実するのである。それまでは思い描く沖縄と目の前の 風景があまりにも異なりシャッターが切れない状況に陥る。しかし、伊志嶺を奮い立たせ たもう一つの出来事は西表炭鉱の歴史であった。その悲惨かつ地獄絵に大きな衝撃を受け、

西表島での取材に夢中になった。それは伊志嶺にとってもう一つの沖縄との向き合い方を 確信した主体であった。彼が見つめたその先には、音を立てて破壊されていく風景、海に は消波ブロックが無造作に置かれ、人々は方言を失い、照りつけられた土地をただ傍観せ ざるをえない状況に、「島と自分と写真」という関係性を明確に捉えていった。消滅して しまった時間は大きな損害を与え続けていることに我々は無意識に気づくことができる。

 伊志嶺は、民衆の視点、土着の眼で沖縄を捉え、モノクロの風景の向こうに沖縄のある べき「カタチ・スガタ」を問いかけていたのではないだろうか。彼が生きているのなら生 前と何ひとつ変わらない今日の沖縄に何を問いかけたのだろうか。悲観的なナラティブし か思い浮かばない。

100歳の人 1977 姉と妹 1975

伊江島 1971 生まれ島・沖縄

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第5章 直観と撮影行為

 ■第5巻 石川真生 写真集「FENCE, OKINAWA」

 「狭間の論理」と「ギリギリの縁」に揺れ動く人間模様にレンズを向けた写真家が石川 真生である。石川は基地の町に身を置き、そこで働き、沖縄の変遷と同じように変わって いく米兵を撮り続けた。基地の向こうは、戦争と隣り合わせ、それを撮る行為も戦争であ ると言わんばかりの写真である。強烈で過激なシーンに臆することなくシャッターを切る。

しかし、これまでの報道写真や反戦闘争といった視点ではなく、米兵の日常の姿、そして、

延長線上にある戦争への恐怖、変わっていく愛国心などが窺える。また、社会が目をそむ けたり、蓋をしたり、偏見をもたれがちな米兵やそこで生きている人たちを大きな愛で包 み、社会的文脈に流されず、社会に立ち向かう姿勢こそが石川の最強の武器であり最大の 魅力である。時に写真家たちは観察者であり、秘密主義者であることもできる。しかし、

石川は全て語り、さらけ出し、アフォリズムを好み、沖縄の側面を鋭く表現し、我々に箴 言し続けている写真家である。けして米兵を相手する女を捉えるために基地の街に身を置 いたのではない。そこで必死に働く彼女たちの自由奔放で、けなげで、家族思い、という 女の強さを表現するために体感を選択したのだ。ドキュメンタリーを超え、自然に湧き上 がる感情を抑えきれなかったに違いない。そのことはバイアスがかかることがない直感の

鳩間島 1987 鳩間島 1987 場所不明 1992頃

1972年の夏 場所不明

西表島美多良 1987

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信憑と綿密な計画、これこそが石川の写真の原点であることを我々は自動的に理解できる。

そして、見る者が、被写体から目をそらし、疎遠でいることを決して許さない。それは見 る者に同じような見方を要求し、石川と同じ波長の上で、はじめて理解が深まるからである。

第6章 フォトモンタージュのように

 ■第7巻 森口豁 写真集「さよならアメリカ」

 沖縄写真の確立に大きな影響を与えたのが本土の写真家である。とりわけ、森口豁(第 七巻『さよならアメリカ』)の「鮮烈な沖縄の衝撃」を「実像を学ぶ情操」で捉えた知性 豊かな作品は沖縄リアリズムの原型とも言え、森口のような本土の写真家から沖縄の人間

北谷町砂辺 2008 フィリピン人ダンサー

金武町 1988 ~ 1989

嘉手納飛行場 2003

キャンプ・マクトリアス 2008 刺青の店 2010

フィリピン人ダンサー フィリピン人帰国 フィリピン人ダンサー 1988 ~ 1989

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が沖縄人としてのイデアに気付かされる。彼自身も沖縄出身の友人に誘われ初めて沖縄を 訪ねた時、「もうひとつのニッポン」を目のあたりにしたのだ。その後、沖縄の新聞記者 として米軍下の沖縄と米軍を他所にたくましく生きる島んちゅの姿を追い続けた。

 復帰前の1965年に那覇で撮られ「自己主張する『捨てられた民』」と題された、「私達 は日本人です」と掲げた横断幕の写真や1967年に石垣島で撮られ「大臣(田中竜夫総務 長官)を迎えた日」の「みんな日本のよいこ」と掲げたプラカードの写真は、まぎれもな く日本は分断国家であることと、その分断がヤマトの拳によるものであることの衝撃を示 す。

 森口はその拳の向こうに自分自身が映り、同じ本土人として自分自身を責めたのであろ う。これまでの本土写真家のルポルタージュとは異なる表現である。また芸術性を意識し たようなフォトモンタージュ手法のように大臣に向けて、誰かが言葉を切り取り、「いか にも」のコラージュ表現を捉えた写真は傑作である

 このフォトモンタージュ手法のような表現は、同時に沖縄人自身も「私たちは日本人 か?」と問いかけ始めたこととなる。また、人類館事件(注5)の写真を彷彿とする写真の ようにも見える。沖縄は見世物なのか、シュールな演出に現実を直視しない大臣の欺瞞な 笑顔が写しだされた。分断国家があぶり出され、描かれながら突き進む不平等な関係に強 い関心がシニカルに表現された写真群である。

大臣を迎えた日 石垣島 1967

祭りの日 宮古島 1972 自己主張する「捨てられた民」

先頭集団の手には日の丸が… 那覇市 1965

サンゴを食い荒らすオニヒトデ 鳩間島 1983

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第7章 言葉を超えた想像力

 ■第9巻 東松照明 写真集「camp OKINAWA」

 60年代の日本を代表する写真家である東松照明は、沖縄と深く、長く関わった写真家 の一人である。その頃の本土における写真家たちは、これまでの写真界の権威主義や記録 主義を脱して、精神的にも社会的にも「自立した表現者」を目指していた。その中心にい て実践したのも東松であった。自立した表現者とは、最も詩的であり、象徴主義であり、

唯物主義であることを指す。また東松は誰よりも研究熱心で、捉えた場所、土地、人々に 関する歴史を徹底的に調べている。ポストモダニズムと命名し、多くの写真家たちは自ら が歴史への参加者であり、その証言が差異を作ったと信じていた。しかし、東松はその証 言が誰にも理解できないことをいち早く感じていた。だから東松は沖縄に数ヶ月滞在し、

あの創造を絶する爆撃機が沖縄の空を自由に飛んでいる1枚を捉えた。それは同時に米軍 支配下にある沖縄を伝統豊かな文化島であることにも気づき、表現方法をモノクロからカ ラーへ変えた。

 言葉を意識する東松には、飛び出す飛行機、御嶽で遊ぶ米兵の子どもたち、コザの町並 みなど、目に見える向こう側へ想像力を働かせ、輝く太陽にいち早く気づくよう求めてい るのだ。

 東松は以下の言葉を書き残している。

 人は、生まれ落ちるとすぐ、特定の国の民として登録される。そして、たいていの人は、

自分の意思で選んでいないのに、その国籍を運命的に受け入れて一生を過ごす。沖縄にい ると、国家に囲い込まれた個人の不自由さについて考えさせられる。人は誰しも幸せに生 きたいと思い、生き方を模索する。その過程で、国家という分厚い壁にぶちあたるのだ。

もし現在、己れと見合った国を自由に選べるとしたら、沖縄人は、復帰して一年余り過ぎ たいまでも、やはり日本を選ぶのだろうか、といった考えが浮かんでは消える。そのとき、

ア・ン・ナ・ン(安南?)という言葉が、にわかにリアリティーを帯びてぼくの中で蘇る のだ。ぼくは、アンナンへの旅を思い立った。沖縄にいるあいだに、沖縄を起点として旅 立とう。

(『太陽の鉛筆』1975より)

 また、東松は沖縄についてこう表現している。

 沖縄の最大の魅力は「光る風」であると。沖縄の光は、物事の陰をくっきりと地表に彫 る。明暗のコントラストは圧倒的にまぶしい、けれども、光が陰に滲みて、堅さを感じな い。この不思議な明るさのなかに身を置くと、体の中を爽やかな風が吹き抜けるような快 感を覚える。光る風が私を呼ぶ。

(西日本新聞 『時を削る』東松照明の60年 2010より) 

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 これまでの写真家の中で、詩的表現とは別に、もうひとつ決定的に異なる点が、色への こだわりであった。60年代後半から沖縄を撮り続けているなかで、東松はこれまでのモ ノクロからカラーへの移行を決心する。光だけが頼りのモノクロよりカラーの方が何十倍 も光を感じるのはなぜだろう。とくに、沖縄を表現する際に、ドキュメンタリーや報道写 真のようにモノクロが持つ力が明確に写真にはある。モノクロ表現が沖縄の特異性、すな わち社会的な側面からみた「アメリカ支配下の沖縄」を作り上げている。東松の目は絶え ず、戦後の日本社会におけるアメリカの存在であるにもかかわらず、同時に東松を襲った のは、沖縄は米軍占領下であっても、原色に彩られた沖縄の色彩は社会的な現実を遙かに 超越していることに気づいた。そして、それは東松自身が沖縄への思いとして「アメリカ からの開放」を意味していたのではないだろうか。沖縄カラー表現は、豊かで官能に溢れ る文化、人々への敬意とエールでもあったにちがいない。その東松の思いはしっかりと沖 縄の地に根を張る、若い写真家たち(注6)へと受け継がれているが、いつになったら「camp OKINAWA」のテントはたためるだろうか。

那覇市 2005 知花 1971 浦添村 1969

嘉手納村 1969

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第8章 おわりに

 沖縄写真家シリーズ「琉球烈像」の写真家たちは、その表現こそ異なるが、沖縄という場、

空気、そして人たちへ寄り添い、沖縄を見つめてきた。我々は写真が真実を写し撮る装置 だと思って疑わない。しかし本当にそうなのだろうか。どの写真も、どの写真家も、沖縄 がもつ人間的要素で、もう一人の自分に出会い、出会うことで、写真の無力をいくどとな く感じたに違いない。さらに、精神文化が優先される沖縄では、本来なら機械装置の写真 は太刀打ちできない。しかし、「琉球烈像」の写真家たちが捉えたレンズの先には、真実より、

それ以上の情景が広がり、それ以上の感情が湧き上がり、観る者自身が映し出される。精 神世界の境界をも切りとった。そこで見る者は自分が主体となることに気づかされる。 

 そこで沖縄の人間が沸騰する不条理の現実に拳を上げなければならない。そのインター フェイスとなる九名の写真家たちの問いかけは、我々の覚悟を凝視している。写真家たち が問いかけた「写真を越えた力」に沖縄の人間が、そして見る側の者が主体的に示さなけ ればならい時がいま到来したのではないだろうか。

 1950年代からアマチュア写真家を巻き込んで展開された沖縄リアリズム写真も確実に 日本写真史において産声が聞こえた瞬間である。

 その産声は、監修者のひとりである仲里効の言葉である「このシリーズが沖縄戦後写真 史のパースペクティブを獲得し、沖縄での写真批評が成立していくための<はじまり>に なり、そして、沖縄とヤマトの非対称性を創造行為に転化していく試みでもあると思いた い」と。それは、これまで沖縄を撮り続けてきた沖縄写真家たちが日本写真史に組み込ま れていいないことからの解放という意味合いも含んでいる。そしてこの言葉は将来の沖縄 写真家たちにとって大きな力となる。

 冒頭でも述べた「沖縄人が捉えた沖縄」と本土から来た「本土人が捉えた沖縄」につい て比較を紐解くより、「沖縄とヤマトの非対称性を創造行為に転化していく試みでもある」

ということを思料すれば、これからの沖縄写真論が急速に進み、新たなステージを迎える ことになるだろう。それは、沖縄がもつ磁場が複雑に重層化する意味や写真行為を明確に 言葉として批評した結果である。

 最後に沖縄写真論の中で沖縄と本土との<比較>と言う捉え方は、時の流れの中での記 憶や記録を探訪する価値は非常に魅力的である。しかし、写真行為においては<比較>を 論じるのは後退させる危険性を孕み、写真の本質から遠ざけてしまう。従って、我々の好 奇心はあくまでも<差異>の表現力と創造行為に動かされていることを確認し、沖縄写真 論のはじまりを確信した。

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(注1)多くの若い写真家たち

 戦後、日本の写真は大きな転機を迎える。日本製のカメラの評価が高まるだけではなく、

自立をめざす写真家たちの活動が活発になった。その中でも三木淳を中心に報道写真家に よる「集団フォト」が結成され、ロバート・キャパが設立した世界最高の「国際報道写真 家集団マグナム」をめざした。顧問として木村伊兵衛と土門拳が参加した。しかし、60 年代に入り、ジャーナリズムの自立を求めた運動に勢いがなくなり、その代わりに、個々 の写真家の経済活動を支えることを目的とした日本初の写真家集団有限会社「VIVO=生 命」が設立された。そのメンバーは、川田喜久治、佐藤明、丹野章、東松照明、奈良原一 高、細江英公。この若い写真家たちは、ジャーナリズム写真運動に対抗して、新たな日本 の現代写真(私的で主体的)な表現をめざした。

(注2)写真家濱谷浩

 戦前戦後を通して日本を代表する写真家の一人である。また、日本人初のマグナム・フォ トの寄稿写真家となる。1956年に毎日新聞から「雪国」を発表、その一年後、新潮社から「裏 日本」を発表し、生きている人たちのエネルギーを写しだした。彼の写しだした社会は、

日本が高度成長と共に公害問題につながる各地での危険・危機的な状況を報告することと なった。その庶民の生活への眼差しは山田に大きな影響を与えた。

(注3)民俗学者谷川健一

 日本を代表する民俗学者であり、地名学や作家、歌人でもある。1991年には「南島文 学発生論」で芸術選奨文部大臣賞受賞、1992年には南方熊楠賞を受賞した。岩波新書か ら出版された「日本の神々」では、沖縄の底には沖縄固有の神の存在を理解しなければな らない。その神を見失った場合は、日本本土との画一化に耐えられないと警鐘を促した。

比嘉は谷川との取材を通して沖縄が抱える様々な問題と真摯に向き合うこととなる。

(注4)高梨豊

 1968年に写真同人誌「プロヴォーク」に参加し、1974年に発行した「東京人」で注目 を集めた。1993年に発行した「初国」では、「神話の生まれる場所へ、神話の産み手とな るために」と帯びにし、北海道、青森、熊野、出雲、四国、九州を経て沖縄の地を捉える。

1969年に伊志嶺は高梨事務所に採用となり、本格的に写真と向き合うこととなる。伊志 嶺のプリントへのこだわりと高い技術は、高梨事務所で習得したものと思われる。

(注5)人類館事件

 1903年に大阪で開催された第5回勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ、台湾 高砂族、沖縄(琉球人)、朝鮮人、支那人(清国)、インド人、ジャワ人、バルガリー(ベ ンガル人)、トルコ人、アフリカ人など合計32名の人たちが民族衣装を着て日常生活を見

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せる展示を行った。そのことについて沖縄人が見世物になったとされ沖縄から激しい抗議 があった。興業主は連れてきた2名の沖縄人を早急に帰したことで一応収まったが、その 後人種差別問題となり大きな波紋をよんだ。

(注6)若い写真家たち

 仲里効氏が代表を努める「フォトネシア沖縄」が主催するフォトネシア写真学校がある。

そこで多くの若手写真家たちが写真について学び、とくにワークショップでは東松照明の 写真の作り方、取り組み方など、日本を代表する写真家や写真史研究家たち参加している。

その中には、木村伊兵賞を受賞した、石川竜一(県出身)や百々新、森栄喜、川島小鳥な どがいる。

参考文献・資料

1.沖縄写真家シリーズ「琉球烈像」2012 未來社   第1巻 山田 實 写真集「故郷は戦場だった」

  第2巻 比嘉康雄 写真集「情民」

  第3巻 伊志嶺隆 写真集「光と陰の島」

  第4巻 大城弘明 写真集「地図のない村」

  第5巻 石川真生 写真集「FENCE, OKINAWA」

  第6巻 嘉納辰彦 写真集「旅するシマ」

  第7巻 森口 豁 写真集「さよならアメリカ」

  第8巻 中平卓馬 写真集「沖縄・奄美・吐喇1974-1978」

  第9巻 東松照明 写真集「camp OKINAWA」

2.東松照明, 1975「太陽の鉛筆」カメラ毎日

3.東松照明, 2011「東松照明と沖縄 太陽へのラブレター」沖縄県立博物館・美術館 4.中平卓馬, 2009「来るべき写真家」河出書房新社

5.浦本寛史, 2012「写真への旅Beyond and Behind the Frame」国際印刷 6.芸術新潮, 1989「特集写真家が選んだ昭和の写真ベスト10」新潮社 7.Deja-vu, 1992「特集少女コレクション」河出書房新社

8.Deja-vu, 1993「特集プロヴォーグの時代」河出書房新社 9.伊藤俊治, 1992「20世紀の写真史」ちくま学芸文庫

10. 浦本寛史, 2013「示された主体性=琉球烈像=完結によせて」未來社 pp30-33 11. 仲里功, 2013「新たなるはじまり=論争の封印を解く=」未來社 pp36-39 12. 西井一夫, 2013「なぜ未だプロヴォークなのか」青弓社

13. 鳥原学, 2013「日本写真史(上)」中央公論新社 14. 石川真央, 2002「沖縄ソウル」太田出版

15. 石川真生, 2013「熱き日々 inオキナワ」有限会社フォイル

(14)

16. 畠山直哉, 2010「話す写真」小学館 17. 大城弘明, 2015「鎮魂の地図」未来社

18. 山城博明, 1998「報道カメラマンが見た復帰25年OKINAWA沖縄」琉球新報社 19. 山城博明, 2015「抗う島のシュプレイヒコール=OKINAWAのフェンスから=」岩   波書店

20. 金子隆一, 2017「写真史から(上)」沖縄タイムス掲載(6.14)

21. 仲里功, 2017 「島の履歴 自画像描く OKINAWA写真史プロジェクト」沖縄タイム   ス掲載(6.19)

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