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[ 論 文 ] はじめに 妟 妮

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(1)

Author(s)

工藤, 信弥

Journal

Cosmopolis = コスモポリス, (9)

Issue Date

2015-03-24

Type

紀要/Departmental Bulletin Paper

Text Version 出版者/Publisher

URL

http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/handle/123456789/365

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[論文]

日中戦争期上海における川喜多長政

――映画による日中両国民の相互理解を目指して――

Nagamasa Kawakita in Shanghai during the Shino-Japanese War:

Toward Mutual Understanding between Japanese and Chinese through Movie

工藤 信弥 KUTO Shinya 防衛大学校

(National Defense Academy)

This article is an attempt to reassess Nagamasa Kawakita as a predecessor making an effort to dissolve Chinese anti-Japanese feelings before the war’s end. During the China-Japanese War Nagamasa Kawakita, a non- public Japanese, was charged for the scheme led by Japanese army of pacification through movie. Kawakita, however, distributed many anti-Japanese movies over the Japanese occupying area in China. This paper discloses Kawakita’s intention and what he sought. To reveal this, the study focuses Kawakita’s view of China and Japan, his brief in movie. This case would demonstrate a rare case of an effort to mutual understanding between Chinese and Japanese people by non-public actor.

キーワード:川喜多長政、反日感情、日中戦争、映画、宣撫工作 はじめに 川喜多長政(1903 年−81 年)は、映画貿易会社・東和 商事合資会社1)(後の東和映画株式会社)の創設者であり、 映画の輸出入を通じて国際交流に尽力した人物として有 名である。だが、川喜多が日中戦争中の 1939 年 6 月から 終戦まで上海において映画による宣撫工作(以下、映画工 作)に従事していたことはあまり知られていない。 川喜多が従事した映画工作は、中国における日本の 占領地において抗日映画を撲滅し、親日映画を制作、 配給することで中国民衆を親日化させ、ひいては治安 維持を図るべく中支那派遣軍によって計画されたもの であった。ところが川喜多は、親日映画を作るどころ か、日本人ではなく、中国人によって制作された劇映 画(ドラマ映画)を配給する方針を貫いた。しかも、 川喜多の配給する作品に親日映画はなく、抗日映画す ら含まれていた2)。明らかに軍の意図と反する活動を行 っていたのである。

1)東和商事合資会社。1928 年 10 月、設立。社長は川喜 多長政。欧州映画の輸入、日本映画の輸出会社。1942 年 4 月、閉社。戦後は東和映画株式会社、後、東和株式会社、更 に東宝東和映画株式会社となる。 2)後藤典子「日中戦争期上海における中国映画界の変容 ―国策映画会社華影を中心に」(御茶ノ水女子大学博士論文、 2012 年)140 頁。 それにもかかわらず、管見した先行研究3)では、川 喜多が日本の対中政策ないし、その実行機関である軍 に対して、積極的に協力しようとした結果であると解 釈している。果たして川喜多の活動に対する評価は、 妥当であろうか。 本稿では、先行研究に多くを学びつつ、そこで触れ られていない川喜多の対中観、及び映画に対する信念 に焦点を当て、軍指導下の映画工作における川喜多の 意図、及び目指したものを明らかにしたい。 では、なぜ川喜多を取り上げ、彼の映画工作を論じ るのか。それは、反日感情を民間人の視点で捉え、そ の解決を試みた稀な事例と思われるからである。 周知のとおり、戦前日本は明治初期から大陸進出へ の強い意欲を持ち続け、多くの民間人が商業上の機会 を求めて中国への進出を目指した。ところが、日本が 対華二十一カ条の要求や満州事変、上海事変といった 強硬な対中政策を実行した大正期から昭和初期には、 折から高まりつつあった中国ナショナリズムが刺激さ れ、中国国内で激しい反日・抗日運動が起こった。こ

3)玉腰辰巳「日本映画の国際展開に関する研究―日中映 画交流と川喜多長政・徳間康快の対応」(早稲田大学博士論 文、2007 年)及び「日中戦争下における川喜多長政の対応」 (『21 世紀 COE 国際日本学研究叢書 5』法政大学国際日本 学研究所、2007 年)並びに妟妮『戦時日中映画交渉史』(岩 波書店、2010 年)

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れらは日貨排斥運動を伴い、日本人の中国における経 済活動に大きな影響を与えた。日本の対中政策が中国 ナショナリズムを刺激することで日本人の中国進出を 妨げるようになったのである。 川喜多は、大正期から昭和初期に中国進出を目指し 続けた一民間人である。だが、戦前日本の対中政策に よって激化し続ける反日感情の前に、その目標が達成 されることはなかった。そして川喜多は、反日感情を 中国人の対日観の問題だけではなく、日本の対中政策 を支持する日本人の対中観の問題でもあると認識して いた。そこで国際間の相互理解を促進することが出来 ると信じていた映画によって反日感情を解消する構想 を考えた。川喜多が従事した工作は、この構想に基づ いて行われた。いわば川喜多の映画工作は、自らの目 標を達するための活動であったと考えられるのであ る。 これを明らかにすべく、まず川喜多の対中観及び映 画への信念を形成した戦前の経験を探る。続いて、川 喜多が日中戦争勃発に際して制作した映画『東洋平和 の道』を手掛かりに、川喜多が考えた映画による反日 感情解消策を論じる。さらには、映画工作における川 喜多の意図がその構想に基づいて行われたことを明ら かにする。 なお、本稿で「支那」「日支」という文言を用いてい るのは史料を忠実に示すためであって、他意はない事 をここに明記しておく。 1 日中戦争前の川喜多長政 1.1 中国への眼差し 1903 年 4 月 30 日、川喜多は陸軍砲兵大尉・川喜多大 治郎4)(1876 年−1908 年)とその妻こう5)(生年不明− 1939 年)の次男として生を享けた。1906 年 3 月、川喜 多は、保定陸軍軍官学校(中国の士官学校)の教官と して招請された父・大治郎に伴って家族とともに渡華 し、北京の官舎で半年を過ごした。川喜多にとって中 国での生活は、家族と優しい中国人に囲まれて過ごし た楽しい記憶であった6) だが、これが父と過ごした最後の記憶となった。1908 年 8 月、任期を終えた後も、休職して引き続き中国で 軍人教育を行っていた大治郎は、機密漏洩の罪の嫌疑 で日本の憲兵に追われ、ついに命を落としたのである

4)陸軍中央幼年学校(陸軍士官学校の前身)7 期、陸大 17 期。 5)帝国女子専門学校校長伊藤好之の娘。 6)川喜多長政「私の履歴書①」(『日本経済新聞』、1980 年 4 月 3 日) 7) その後、中国と係わることもなく日本で学生生活を 送っていた川喜多に、中国へと目を向けさせる出来事 が起こった。1916 年 4 月、東京の府中四中(現戸山高 校)に入学した川喜多に、母が大治郎の遺書を見せた のである。そこには、軍で兵学を修めた大治郎が中国 で栄達する野望を持っていたことや、志半ばにして「憤 死」したときには、自分の遺志を川喜多に継いでほし いという願いなどがしたためられていた8) ところが、川喜多がこの遺書を読んだ時は、軍事よ りも経済が注目される時代であった。日露戦争終結後、 長らく不況に苦しんできた日本は、第一次世界大戦の 特需により空前の好景気に沸いていた。 しかも、民間人が中国へと進出する絶好の機会が訪 れていた。日本は、1914 年 8 月に第一世界大戦に参戦 して以降、ドイツ領の南洋群島やドイツの租借地・青 島と膠州湾を占領した。さらに、1915 年 1 月、対華二 一カ条の要求を中国に突き付け、5 月にこれを受け入れ させたのである。要求は、中国における日本の権益を 維持・増進するだけでなく、日本の民間人が中国に経 済進出する上で有利な内容を含むものであった。 川喜多は、この情勢の中で経済に着目し、軍人の時 代は終わりを告げたと考えていたのであろう。父のよ うな軍人になろうとは思わなかった9)。だが、中国で何 か有意義な仕事をしようと心に決めた10)。そこで川喜 多は中国語を熱心に勉強し、渡華の準備を始めたので ある。 ところが、1919 年 5 月 4 日、日中関係に暗雲が立ち 込め始めた。北京大学を中心として「山東主権回収を 目指す民族運動」11)が巻き起こった。いわゆる五・四 運動である。五・四運動は多くの知識人を巻き込みな がら、中国全土へと広がっていった。最も中心的な運 動は日貨排斥運動であり、中国に進出している日本企 業は大打撃を受けた。中国に活躍の場を求めていた川 喜多の前に中国人の反日感情が立ちはだかったのであ る。 それでも川喜多は、渡華をあきらめなかった。1921 年 3 月に中学を卒業した川喜多は、8 月に北京大学受験 準備のために渡華し、翌年、北京大学文学部哲学科に 入学した。

7)陸軍省「清国駐屯軍 川喜多大治郎逮捕に関する件」 (『密大日記』1909 年 11 月 11 日) 8)前揚、川喜多「或るコスモポリタンの父と子」304-305 頁。 9)川喜多長政「私の履歴書③」(『日経新聞』1980 年 4 月 5 日) 10)前揚、川喜多「或るコスモポリタンの父と子」305 頁。 11)斎藤道彦『五・四運動の虚像と実像』(中央大学出版、 1992 年)275 頁。

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1.2 北京大学留学での挫折 川喜多が、反日機運に満ちた中国の、しかも五・四 運動の震源地である北京大学への留学を目指したの は、同年輩の友人や同志を得ることで「両国の提携協 力の基礎を築き上げ、安定したアジアを作る」ためで あった12) 川喜多は日本の対中政策に正当性があると考えてい たのであろう。川喜多の目標は、まさに対華二十一カ 条の要求により締結された諸条約の建前そのものであ った。そのことは、山東省の権益に関する条約である 「大正四年山東省ニ關スル日支條約」13)の前文を見て も明らかである。そこには「極東ニ於ケル全面ノ平和 ヲ維持」することと「友好善隣ノ関係」を堅固にする ことが目的であると明記されている。文言は違っても、 川喜多の留学目的と求めるところは同じである。しか も、川喜多は、その考え方を中国人と共有するのだと いう。日本の対中政策が中国人のためにもなると信じ ていたのである。そこで川喜多は中国人が日本の意図 を何か誤解していると考え、北京大学でその誤解を解 こうと思ったのであろう。 ところが、実際に北京大学に入学してみると、川喜 多は中国人の共感を全く得ることができず、孤独な 日々を過ごした14)。川喜多がどのような理想論を語っ ても、中国人からしてみれば、日本に自国の主権を侵 されているのである。日本の建前そのもののような川 喜多の考えを、受け入れることができる筈はなかった。 川喜多は日本を正しいと信じ、逆に中国人は日本を「侵 略者」と捉え、敵意をむき出しにする。中国人の反日 感情の激しさと対日認識を思い知った経験であっただ ろう。 そうした川喜多は従兄弟の紹介で面識を得たドイツ 男爵スティンクロン(生没年不明)に自分の心境と将 来の希望について相談した15)。当然、それは両国のた めになるはずの川喜多の考えが中国人に全く共感を得 ることができないという悩みと、将来中国で活躍した いという希望であっただろう。スティンクロンは、欧 州の文明を知らずに、東洋だけに居て独善になるのは 危険だからと、ドイツ留学を勧めた。川喜多はその勧 めに従い、1923 年 4 月に一度日本に帰国した後、ドイ ツへと旅立った。

12)前掲、川喜多長政「或るコスモポリタンの父と子」306 頁。 13)外務省編『山東問題ニ關スル條約公文書集』(1924 年) 14)前掲、川喜多長政「或るコスモポリタンの父と子」307 頁。 15)同上。 1.3 ドイツ留学における映画との出会い 1923 年 6 月から川喜多は、オランダとの国境に程近 いエムス河畔にあるリンゲンというドイツの田舎町に 留学した16) 川喜多は、この留学で再び外国人の対日認識の問題 に直面することとなった。リンゲンに到着早々、人だ かりになるほど多くの人々が、川喜多を出迎えた。だ が、川喜多を一目見るや、残念そうな顔をして帰って いった。町の人々は、纏足に辮髪、真黄色な肌をした 日本人を勝手に想像して、好奇心から集まってきたの である。ところが、自分たちとあまり変わらない普通 のスーツ姿の川喜多を見て失望したのだという。田舎 町の人々にとって日本は未知の国であった。 また、川喜多は留学中にハンブルクで『蝶々夫人』 のオペラを見た。しかし、「中国や印度や蒙古などから 漠然と想像されるものを漠然と寄せ集めたような何と も奇妙な代物だった」17)。この奇天烈な『蝶々夫人』 を見て、川喜多は日本人の感情や風俗・習慣がこの程 度にしか知られていないことに、暗澹たる気持ちにな った18)。当時の日本は世界に冠たる五大強国の一つで あったが、ドイツでは日本が正しく理解されていなか ったのである。これらの経験から、川喜多は外国人の 対日認識を是正する必要を痛感していた19) そうした川喜多が出会ったのが映画であった。川喜 多は留学中にベルリンを訪れ、何度も映画館に足を運 んだ。そこで目撃したものは、未だ敗戦の痛手に苦し むドイツの人々が映画に強く励まされている姿であっ た20)。中国とドイツで対日認識の問題に直面してきた 川喜多は、この経験から映画が多くの人々に影響を与 える力を持っていることに着目した。そして、国際間 の理解と親善を促進できる映画を生涯の仕事と決めた のである21) ドイツで映画との出会いを果たした川喜多は、1924 年秋、志を胸に短いドイツ留学を終えて帰国した。兵 役の猶予期限が迫っていたからである。

16)同上。留学とはいえ、学校に通わず、スティンクロン の世話してくれた高等学校校長シュトラウス(生没年不明) から西洋史とドイツ文学を、テレジヤ・ドスト(生没年不明) という女性からドイツ語を学んだに過ぎない。 17)川喜多長政「映画とともに三十年」(『映画の友 増刊 号 ヨーロッパ映画年鑑 1958-58 年版』1957 年 6 月)60 頁。 18)同上。 19)同上。 20)同上。 21)同上。

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1.4 映画事業における目標 1928 年 10 月、二年半の兵役と会社設立の準備を終え た川喜多は、日欧の映画貿易会社・東和商事を設立し た。 東和商事の軸となる事業は欧州映画の輸入であっ た。良い欧州映画を日本に紹介することが「日本の文 化に何らかのプラスになるだろう。同時に大衆も喜ん でくれるだろう。それで元もとれるだろう」22)との考 えであった。 当時の映画輸入業者は、外国の映画会社の売り込み や仲介業者の手を経て日本へ送付されてきた作品を見 て輸入する場合が多かった。だが、川喜多は毎年のよ うにヨーロッパへと赴き、日本の文化に貢献できそう な映画を自ら選んでは輸入した23)。かくして川喜多の やり方は多くの優れた作品の発掘に成功し、その多く は国内で人気を博した24)。東和商事は、順風満帆であ った。 他方、川喜多は日本映画の輸出へと手を広げた。ド イツで抱いた対日認識是正という目標を忘れてはいな かったのである。1930 年 3 月、手始めに『狂恋の女師 匠』(日活、横溝健二監督、1926 年)を皮切りに数本の 日本映画25)をドイツに輸出した。「新しい日本の文化を 外國に紹介し浮世絵を通して見た日本に對する彼等の 知識の誤謬を正す」26)ためであった。ところがドイツ でこれらの映画を上映したところ、坐ってお辞儀をし たり、箸で食事をしたりする日本人を見たドイツの観 客はゲラゲラ笑うなど、結果は散々だった27)。また、 1932 年 5 月には、三本の日本映画を編集した作品『ニ ッポン』28)をドイツに輸出したが、これも失敗に終わ った。 川喜多は、これらの失敗の原因を外国人があまりに 日本を知らな過ぎるためと考えた29)。いきなり日本映 画を見せたところで、日本を全く知らない外国人の目

22)川喜多長政談「東和株式会社乗り出す」(『連合タイム ズ』1960 年 8 月号)8 頁。 23)川喜多かしこ「映画を愛する」(『映画之友』1935 年 1 月号)68 頁。 24)東和東宝株式会社『東和の半世紀』(東宝東和株式会 社、1978 年、非売品)によると、映画雑誌『キネマ旬報』 のベスト・テンに多くの作品が選ばれている。 25)松竹『永遠の心』『怪盗サミマロ』『篝火』『大都会勞 働編』、日活『灰燼』など。 26)川喜多長政「初めから輸出向きに製作して」(『国際映 画新聞』1932 年 11 月上旬号)6 頁。 27)前掲、東和東宝株式会社『東和の半世紀』240 頁。 28)1932 年 5 月にドイツで公開。松竹映画『怪盗サミマ ロ』『篝火』『大都会(労働編)』を川喜多がカール・コッホ に依頼してドイツ人の趣向に合わせて編集した作品。 29)前掲、川喜多長政「初めから輸出向きに製作して」6 頁−7 頁。 には滑稽に映るだけである。しかも、決して日本映画 の水準は、ドイツ映画やアメリカ映画に比して高くな かった30)。そこで川喜多は、史上初の日独共同制作映 画を企画した。制作資金を確保するために市場を広げ、 海外の撮影技術を取り入れると同時にその技術を学 び、さらには外国人監督によって解釈し直された日本 の文化・風習を映画に織り込むことで、外国人の日本 理解を容易にしようと考えてのことであった31) こうした川喜多の取り組みは、映画によって「正し い日本」を海外に紹介するための布石であった。最終 的に川喜多は日本映画が世界の常設映画館に上映され ることを目指していたのである32) 1937 年 2 月、完成した映画は『新しき土』33)(東和 商事、1937 年)と題され日本で公開、翌 3 月にはベル リンやその他のヨーロッパの映画館で上映され、好評 を博した34)。川喜多の意図からすれば大成功であった が、巨費が投じられたため『新しき土』は赤字であっ た35)。それでも川喜多に後悔はなかった36)。足かけ八 年にもおよぶ日本映画輸出への取り組みが一つの成果 を生んだからである。 1.5 中国への事業進出とその挫折 川喜多は事業を始めてからも、中国で活躍したいと いう希望を燃やし続けていたのであろう。東和商事設 立から約 2 年後の 1930 年 9 月、上海支社を開設した。 アメリカ映画の独壇場であった上海の外国映画市場に 欧州映画の割り込みを図ったのである。川喜多は、手 始めに東和商事輸入作品初の大ヒット映画『アスファ ルト』37)(独ウーファー社、1929 年)を引っ提げて、

30)同上。 31)同上、7 頁。 32)同上。

33)ドイツ題は『Die Tochter Des Samrai(侍の娘)』。監 督はアーノルド・ファンク(独)と伊丹万作(伊丹十三の父)。 後の大女優・原節子の出世作でもある。この物語はドイツ留 学を終えた主人公の日本人青年が許嫁の待つ日本に帰国す るところから始まる。帰国後、主人公は古い日本の風習に反 発し、婚約を破棄しようとする。それでも許嫁は主人公を慕 い続けた。やがて、主人公は徐々に日本の良さに気付き始め、 許嫁を愛おしく思うようになっていく。ところが、許嫁は主 人公がドイツ人女性と親しくしているところを目撃してし まう。悩んだ許嫁は火口に身を投じようと富士山に登る。主 人公が許嫁を追い、あわやというところで助ける、というも のである。 34)川喜多長政「私の履歴書⑰」(『日本経済新聞』、1980 年 4 月 19 日) 35)川喜多長政「所感」(『日本映画』1936 年 10 月号)30 頁。 36)同上。 37)日本では 1930 年 1 月に公開、『キネマ旬報』ベスト・ テン無声映画部門第一位となった。

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中国へと進出した。『アスファルト』は中国で『慾海情 天』という題で上映され、人気を集めた。その後も東 和商事の配給する欧州映画は好評であった38) だが、中国での事業に思いがけない災難が降りかか った。1931 年 9 月 18 日に満州事変が、翌年 1 月 28 日 には上海事変が勃発した。この二つの事件は五・四運 動以降の反日感情を更に激しく煽り、抗日テロやデモ だけでなく日貨排斥運動等、中国に進出している日本 企業の営業を妨げる活動が次々に展開された。東和商 事もこれと無縁でいられるはずもなく、1932 年夏、事 業撤退を余儀なくされた。川喜多の前に再び中国人の 反日感情が立ちはだかったのである。 これが戦前、川喜多が試みた最後の中国進出となっ た。川喜多は「中國映画界に關しては多大の興味と牽 引力を感じ乍らも」これ以降、中国進出の糸口をつか むことができなかった39)。反日感情が改善されること がなかったからである。 結局のところ、日中戦争前の川喜多は一貫して中国 を目指したが、日本の対中政策が惹起した反日感情の 前に挫折を余儀なくされ続けたのである。 2 日中戦争の勃発と映画『東洋平和への道』 2.1 日中戦争の勃発 1935 年 3 月に国際連盟から脱退した日本40)は、1936 年 11 月、国際社会からの完全な孤立を避けるべく日独 防共協定を締結した。さらに、1937 年 7 月、日中両国 は盧溝橋事件を発端として全面戦争へと突入した。川 喜多は盧溝橋事件の報を聞いて、たちまち顔を曇らせ た。「この事件は厄介なことになるよ」「長い戦争にな る覚悟をしなければならない」と妻に言い、事業が順 調であったにもかかわらず暗い顔をしていたという 41) 川喜多が暗い顔をする理由として、まずは日本が危 険な戦争に突入したという認識があった。日本の強硬 な対中政策は、五・四運動や満州事変以降の抗日運動 に見られるとおり、中国人の激しい反発を惹起してき た。日中戦争の勃発によって更なる抗日運動の激化が 予見された。広大な中国で多くの民衆が抗日運動に身

38)前掲、東和東宝株式会社『東和の半世紀』243 頁。『ア スファルト』の他に『巴里の屋根の下』(フランス)などを 配給し、好評を博した。 39)川喜多長政「中華映畫會社の使命茲にあり」(『国際映 画新聞』1939 年 9 月上旬号)2 頁。 40)日本の国際連盟脱退表明は 1933 年 3 月であるが、正 式な脱退は 2 年後である。 41)川喜多かしこ『映画が世界を結ぶ』(創樹社、1991 年) 45 頁。 を投じれば、必然的に戦争は長引く。さらに川喜多は 「全世界の対日感情をよく知っていたので、これは大 変なことになったと直感し(中略)この事件は拡大し ては日本の命取りになる」42)と考えた。諸外国が中国 を支援すれば、日本はさらに苦しい立場に陥るからで ある。 だが何よりも、日中戦争が事業に与える影響が気が かりであったことであろう。諸外国の対日感情がさら に悪化すれば、商談に大きな支障を来すことは、川喜 多の経験からして明らかであった。とりわけ事業の主 軸であった欧州との映画貿易が問題であった。欧州諸 国の対日感情が悪化し、商談が成立しなくなれば事業 は成り立たない。中国に権益を持つ英仏蘭は言うに及 ばず、ナチスの脅威にさらされるオーストリアやチェ コスロバキア、ポーランドなど欧州諸国の対日感情の 悪化は必至であった。しかも、独と英仏両陣営の対立 は先鋭化しつつあり、欧州情勢は不透明であった。主 にドイツとフランス、イギリスから映画を輸入してい た43)川喜多には致命的であった。 欧州との取引が困難になれば、新たな取引先を求め ざるを得なくなる。ところが、適当な取引先はなかっ た。アメリカは満州国建国以降、日本との緊張を高め ており、日中戦争でさらなる関係悪化が予想された。 しかも、日本への映画輸入はアメリカの映画会社の日 本支社が行っていた。また、その他の諸国は映画をほ とんど作っておらず、わずかに興行される映画もアメ リカ映画の独壇場であった。日中戦争勃発後の国際環 境の中で、川喜多が事業を存続させるには中国に進出 する以外になくなるのである。しかし、中国に進出す るとなれば、反日感情を避けて通ることはできなかっ た。 2.2 日中共同制作映画による反日感情解消の構想 そこで川喜多は、共同制作映画によって反日感情を 克服できないかと考えた。そもそも川喜多は、外国人 の対日認識を是正できると信じて映画事業を志した。 そして『新しき土』で、日本に対して余りに無知で誤 った認識しか持たない外国人に、日本を知らしめる方 法を知った。 川喜多は「支那人も亦外國の風習を真似るのに汲々 として」日本を知ろうとせず、軽蔑していると考えて いた44)。映画で日本の風習を観てゲラゲラ笑ったドイ

42)前掲、川喜多「或るコスモポリタンの父と子」315 頁。 43)前掲、東和東宝株式会社『東和の半世紀』巻末の作品 年鑑。 44)川喜多長政「北支の旅より歸りて」(『日本映画』1938 年 3 月号)27 頁。

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ツ人と同じであった。そこで『新しき土』同様の共同 制作映画であれば、中国人に受け入れられるのではな いかと考えたのである。 だが川喜多は、反日感情を日本人の対中認識の問題 でもあると考えていた。中国と係わりのない多くの日 本人は「支那は不可解だ」と言って知る努力を怠り、 中国人を軽蔑し45)、強硬な対中政策を支持してきた。 その結果、反日感情を煽る対中政策がまかり通り、日 本人の中国進出を妨げ続けてきた。まさに川喜多は、 その被害者であった。反日感情を無くすためには、中 国と係わりがなかった日本人も中国を知らなければな らなかった46) そこで川喜多は日中共同制作映画の舞台を中国と し、役者も中国人にすることを考えた。そうすれば、 日本人に中国のことを伝えられる。逆に、日本を舞台 にした映画を作れば中国人の対日理解に役立つ。そう した映画が次々に送り出され、人々が「それなくして は居られなくなった時こそ、日支融和の實があがった 時」47)であった。川喜多は日中共同制作映画で日中両 国民の相互理解を図り、相互蔑視をなくすことができ れば、反日感情は是正されると考えていたのである。 そして反日感情が解消されてはじめて、日本映画の輸 出によって「物質的報酬」を受け取ることができるの であった48) 2.3 日中共同制作映画『東洋平和の道』 川喜多が共同制作映画の撮影を計画していた頃、日 中戦争は拡大し続けていた。しかし、和平の望みがな いわけではなかった。近衛文麿(1891 年−1945 年)首 相は、戦争不拡大の方針を打ち出していた。また、船 津工作やトラウトマン工作など日本側から戦争終結を 求める動きもあり、日中和平交渉もなされていたから である。 そこで川喜多は、和平交渉を後押しするとともに日 中両国民の相互理解を促進させる映画の制作を企画し た49)。1937 年 9 月、川喜多は映画撮影のために渡華し50) 映画の撮影に向かった。撮影は川喜多自身が総指揮を とり、監督には鈴木重吉(1900 年−76 年)を迎え、脚 色補導に華北大学教授であった張迷生(生没不明)が

45)同上。 46)同上、28 頁。 47)同上。 48)同上。 49)東和商事映画部「『東洋平和の道』製作について」(外 務省文化事業部宛ての書簡、1939 年 1 月) 50)川喜多長政「所感」(『日本映画』1937 年 10 月号)31 頁。 当たった。役者は中国人に一般公募された。川喜多が 制作したのは中国を舞台とし、中国人が役を演じる日 中共同制作映画であった。この映画は『東洋平和の道』 (中国語題は『東亜平和之道』)と題名され、1938 年 3 月 31 日に日中で同時に封切られた。 ところが日中共同制作映画で和平交渉を後押しし、 日中両国民の相互理解を促進させようという試みは早 速、躓いた。1938 年 1 月 16 日、トラウトマン工作の頓 挫と共に、近衛は「国民政府ヲ相手トセズ」と声明し、 日中和平交渉を打ち切った。後押しすべき和平交渉が すでに無くなっていたのである。 さらに悪いことに、興行成績が伸び悩んだ。作品と して完成度が低かったために日本人に不評で、日本人 の手が入ったプロパガンダ映画であったが故に中国人 に受け入れられなかった。日中両国民の相互理解を深 めるためには、日中両国民に見られる映画でなくては 意味がなかった。 2.4 日中映画貿易の構想 『東洋平和の道』の後、川喜多はさらなる危機に直 面していた。事業の主軸であった欧州映画の輸入が減 少しつつあったのである51) だが、1938 年末になると、川喜多のもとに朗報が聞 こえて来た。10 月に日本軍が広東と武漢三鎮を制圧す ると、11 月 3 日、日本政府は第三次近衛声明を発した。 いわゆる「東亜新秩序」声明である。声明は「東亜永 遠の安定を確保すべき新秩序の建設」52)に国を挙げて 取り組むことを宣言するものであったが、同時に軍事 的に圧倒的な優位を勝ち取った日本が「国民政府と雖 も参加を拒否せず」53)と再び日中戦争の和平交渉の門 戸を開こうとするものでもあった。 川喜多はこの声明で戦争終結を確信したのか、同年 12 月に日本映画が東洋諸国に進出するための構想を雑 誌に発表した。その構想とは、日本が諸国の映画界興 隆のために尽力するというものであった54)。なお、こ こで「東洋諸国」という文言が用いられているのは「東 亜新秩序」声明を意識したためと思われる。 いずれにしても川喜多の新たな構想は『東洋平和の 道』で直面した問題を解決するものであった。先述の とおり『東洋平和の道』は、日本人の鑑賞に耐えうる

51)前掲、東和東宝株式会社『東和の半世紀』作品年鑑。 1936 年は 36 本、37 年は 24 本、38 年には 14 本に減少した。 52)「国民政府と雖も拒否せざる旨の政府声明」(外務省編 『日本外交年表竝主要文書(下巻)』、原書房、1966 年)401 頁。 53)同上。 54)同上、24 頁。

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品質ではなく、日本人の係わった映画であったために 両国民にあまり見られなかった。中国人が日本人の手 の入った映画を見ないのであれば、中国映画で中国人 の対日理解を深めるしかない。だが、中国映画で中国 人の対日理解を深めようにも、反日感情に燃える中国 映画人が日本を偏見無く作品に折り込むはずはなかっ た。また、中国映画で日本人の対中理解を深めように も、中国映画は品質が日本映画より遥かに劣っている ため日本に輸入されていなかった55)。日本人の鑑賞に 耐えられないのである。 だが、川喜多の策が成功し、中国映画界が興隆する ことで優れた中国映画が作り出されるようになれば、 中国映画を日本に輸入する目途が立つ。さらには日本 が、中国映画界のスポンサーとして惜しみなく協力す れば、各国の映画人たちの対日認識は変わるに違いな かった。当然、その映画人たちの作る映画は、日本に 対して好意的になる。そして、その作品を見た現地の 人々も対日認識を改めるはずであった。中国人の対日 理解さえ深めることができれば、やがて反日感情も緩 和し日本映画の中国輸出も可能になるのである。 総じていうと川喜多は、日中映画貿易の振興による 自社の発展と日中両国民の相互理解という目標を重ね 合わせていたのである。 3 上海における映画工作 3.1 映画工作責任者への就任 川喜多が新たな構想を描いていた 1938 年末頃、中支 那派遣軍でも中国映画界と提携し、映画によって中国 民衆を親日化する工作が画策されていた。 背景には、中国における治安の問題があった。占領 地域において、抗日ゲリラへの警戒を強いられる日本 兵は、消耗し続ける56)。そして抗日ゲリラの原因が民 衆の抗日意識にあることは明らかであった。中支那派 遣軍は、問題の抗日意識を煽っているのが、抗日映画 と見ていたのである57) その抗日映画の一大生産地が上海であった。中国映 画制作の中心地であった上海は 1937 年 8 月の第二次上 海事変によって日本の勢力圏に収まった。だが、共同 租界の英米警備地区とフランス租界には日本軍も手を

55)川喜多長政「映畫輸出の諸問題」(『日本映画』1938 年 12 月号)23 頁。 56)馬淵逸雄『再建東亞と日本』(國防攻究會、1941 年) 3-4 頁。馬淵は事変当初は上海派遣軍司令部報道部長、1939 年 3 月から中支那派遣軍報道部長。 57)馬淵逸雄『報道戰線』(改造社、1941 年)463‐464 頁。 出せなかった。そのため上海は抗日地下組織の策源地 となり、地下組織は上海の映画制作会社と手を組んで 抗日映画を次々と作り出していた58) そこで上海を管轄する中支那派遣軍は、地下組織の 代わりに日本が上海映画界と提携することによって抗 日映画を撲滅し、代わりに親日映画を制作・配給する 計画を立てた59)。ここで白羽の矢が立ったのが川喜多 であった60)。中国語が堪能で、国際的な映画事業の経 験があったため、映画界きっての適任者と見込まれて のことであった61) 1939 年 3 月、中支那派遣軍司令部第四課課長・高橋 坦(1890 年−1986 年)が川喜多邸を訪問した。日中満 の共同映画会社の責任者として上海に赴き、映画工作 に携わってくれないかというのである。 川喜多にとって構想を実現する好機ではあった。上 海は中国最大の映画制作地であり、中国映画界そのも のといっても過言ではなかったからである62)。だが、 川喜多の懸念は、日本軍が干渉してくることであった 63) そこで川喜多は、担当する映画工作に日本軍が口出 ししないことを応諾の条件として提示した64)。高橋は、 数度の折衝を重ねた後、川喜多の出した条件を飲んだ。 軍にしてみれば、抗日テロが横行する危険な上海でこ の仕事を受けてくれる適任者を確保することが大きな 課題であったからである65) 1939 年 6 月 27 日、軍から工作における自由裁量を得 た川喜多は、中華民国維新政府66)(1940 年 3 月以降は 南京国民政府67))と日満の合弁会社・中華電影68)の専 務董事(専務取締役)に就任した。董事長は当初不在

58)武田雅朗「華北事變と中華民國映畫界」(『国際映画新 聞』1937 年 8 月下旬号)4‐7 頁。 59)前掲、馬淵逸雄『報道戰線』469 頁。 60)市川彩「大陸映畫線上に躍る人々(中)」(『国際映画 新聞』1939 年 6 月上旬号)11 頁及び前掲、東宝東和株式会 社『東和の半世紀』282 頁。 61)前掲、東宝東和株式会社『東和の半世紀』282 頁。 62)清水晶『上海租界映画私史』(新潮社、1995 年)66 頁。当時の映画評論家・清水晶によれば、中国映画の 90 パ ーセント以上が上海映画であった。 63)前掲、川喜多「或るコスモポリタンの父と子」316 頁。 64)同上。 65)同上。 66)1938 年 3 月に上海、南京を含む江蘇省、浙江省、安 徽省の日本占領地域に中支那派遣軍の支援を受けて樹立さ れた日本の傀儡政権。1940 年 3 月に南京国民政府に吸収さ れた。首班は梁鴻志(1882-1946 年)。 67)1940 年 3 月、支那派遣軍の後援を受けて樹立された 日本の傀儡政権。首班は汪兆銘(1883-1944 年)。 68)中華電影股份有限公司。和名、中華映画株式会社。法 人格は維新政府特殊国策会社。董事長は当初いなかったが、 1940 年 3 月に維新政府が南京国民政府に吸収された際に、 同政府外交部長・褚民誼が就任。

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であった。川喜多は専務董事就任にあたり、早速、抱 負を雑誌に寄稿している。そこには、中国映画界を回 復させ、日中の共同映画市場を建設し、更には映画企 業の合弁を推し進めたい旨が明言されている69) 川喜多の意図は明白であった。中国映画界の回復・ 発展の手伝いと、それに伴う日中映画界の提携による 映画貿易の振興である。川喜多は就任前に描いていた 構想を実行しようとしたのである。 3.2 中華電影による中国映画界の回復 定款によれば、中華電影の業務の第一は「映畫ノ製 作」であった。しかし川喜多は、ニュース映画や文化・ 記録映画の制作にとどめ、劇映画(ドラマ映画)を作 らない方針を打ち出した。その代りに、上海の映画制 作会社の劇映画を買い取り、占領地向けの配給網に乗 せようとした。中国映画界を回復させるとともに、日 中映画界の提携をもたらすためであった。 まず川喜多は上海映画人との提携交渉にとりかかっ た。1939 年 5 月、川喜多は中華電影設立に先駆けて、 上海の映画人・張善琨(生年不明−1956 年)と接触し た。上海映画の配給権を獲得するためであった。張は 上海映画界でも有名なプロデューサーであり、上海最 大の映画制作会社・新芸華影業公司を率いる人物でも あった。だが、日本の映画工作の一端を担う川喜多が 配給権を求めて接触する相手としては些か奇異な人物 であった。なぜなら張は、抗日映画で名を成した人物 であったからである70) 確かに、張は上海映画界に大きな影響力を持ってい たかもしれない。だが、軍が撲滅しようとしている抗 日映画を配給することは「国賊」の誹りを免れえない ことであった。それでも川喜多が交渉を推し進めたの は、優れた中国映画を作り出すべく「抗日映画人を説 得して、我々の陣営に彼等を加える」71)ためであった。 張との交渉は数度にわたって行われ、川喜多は遂に 配給権を獲得した。それと引き換えに、川喜多は「一、 日本の検閲は避けられないが、許可された作品につい て内容の改竄などは絶対に行わない。二、映画代金は 前金で支払う。三、租界が“孤島”化した場合、輸入 困難になった生フィルムその他の資材は日本から入手 して、供給する。」72)という破格の条件を提示した。 川喜多の提示した条件の意味するところは、上海映

69)前掲、川喜多長政「中華映畫社の使命茲にあり」2 頁。 70)佐藤忠雄『中国映画の 100 年』(二玄社、2006 年)14-31 頁。 71)川喜多長政「大陸映画論」(『映画之友』1940 年 10 月 号)130 頁。 72)前掲、東和商事株式会社『東和の半世紀』286 頁。 画界の救済であった。上海の映画制作会社のほとんど は、経営難に陥っていた。抗日映画のみでは採算が取 れず、そうかといって日本の占領地向けの映画を制作 すれば、地下組織に「漢奸的行為」と見なされテロの 標的にされかねなかったためである73) そこに川喜多は、日本の検閲を通過すれば、中華電 影が映画を買い取り、占領地向けの配給網に乗せると 提案したのである。しかも映画制作会社にとって死活 問題であった生フィルム供給の約束まで附帯してい た。 さらに川喜多は、中華電影初の配給映画を、抗日映 画と目される『木蘭従軍』(新芸華影業公司、1939 年) に決定した。『木蘭従軍』は、時代劇に抗日精神を盛り 込んだ「借古諷今」の抗日映画であった。配給第一号 にこの映画を選んだということは、表向きには単なる 時代劇に過ぎない「借古諷今」の映画が、検閲に通過 する可能性があると川喜多は見ていたということであ ろう。日本の検閲に通る抗日映画を作ることが出来れ ば、上海の映画製作者はテロの標的にされることなく、 企業としても採算もとれるようになる。 設立前に上海映画会社との配給契約をすませた川喜 多は早速、日本の検閲を通過した『木蘭従軍』を 1939 年 7 月 7 日に公開した。『木蘭従軍』の興行が実際に始 まると、その他の上海映画制作会社は同様の手法を用 いた抗日映画を製作し始めた74)。映画制作会社は、抗 日映画を占領地域にも流すことでテロの標的となるこ となく「かなりの金額を得」ることができ、企業とし ても採算が取れるようになった75)。川喜多は、上海の 映画制作会社の窮状を救うとともに、上海映画界との 関係を深めたのである。 3.3 中華聯合製片の設立による中国映画界の保護 1941 年 12 月 8 日、英米への宣戦布告とともに日本軍 は上海の租界全域を掌握した。日本軍の手の届かなか った共同租界・フランス租界に潜んでいた地下組織に も手入れができるようになり、抗日テロは減少するに 違いなかった。 しかし、川喜多にとっては憂慮すべき事態であった。 軍は、租界全域を手中にしたことで、中華電影を通さ ずとも映画制作会社に強制的に親日映画を作らせるこ とが可能になる。もし、そのような事態に陥れば、依 然として反日感情に燃える多くの映画人達は、上海か

73)前掲、川喜多長政「大陸映画論」131 頁。 74)前掲、清水晶『上海租界映画史』及び、前掲、辻久一 『中華電影史話』の作品年鑑(巻末)。『楚覇王』(芸華影業、 1939 年)、『孟姜女』(国華影業、1939 年)など。 75)前掲、川喜多長政「大陸映画論」131 頁。

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ら脱出するに違いなかった。川喜多が今まで築いてき た上海映画界との関係が崩れるだけでなく、繋ぎ留め ていた人材が離散し、再び映画制作は困難になる。川 喜多の構想が根底から覆され兼ねない事態であった。 そこで川喜多は、軍の直接の介入を避け、上海の映 画人を擁護する策を案じた。自らの責任下で劇映画の 制作を行う南京国民政府の国策会社を作り、既存の上 海の映画制作会社を組み込もうと考えたのである。端 的に言えば、日本軍の直接介入を避けるために、川喜 多の下で劇映画が作られているポーズをとり、保障と して南京国民政府を後ろ盾につけるというものであっ た。そして 1942 年 4 月、南京国民政府の国策会社・中 華聯合製片76)が設立された。 中華聯合製片は「中國における映画事業の健全なる 發展を期し、中國劇映畫製作機構の強化を圖ると共に、 中華民國々策遂行の一機関として映畫による国民文化 の促進(中略)映画の機能を十分に発揮し新中國建設 と大東亜共榮圏確立の眞義を宣揚す」77)ることを目的 としていた。事業は劇映画の一元的制作を担い、配給 権は中華電影に一任するという内容である78)。董事長 は南京国民政府宣伝部長・林柏生であった。形式上は 歴とした南京国民政府の国策会社であった。 だが、内実は、単に映画制作会社をつなぎ合わせた 会社に過ぎなかった79)。まず資本金は中華電影、新芸 華影片、藝華影片、國華影片が出資しており、南京国 民政府は経営権を持っていなかった。また、実質的な 経営は副董事長の川喜多に一任されていた。加えて、 役員はすべて既存の映画制作会社の董事長や重役であ った。さらには、監督から役者に至るまで映画製作に 係わる者すべてが上海映画人で固められ、物料・設計 の二つの委員会に、中華電影からそれぞれ二人の日本 人が委員として名を連ねている以外、中華聯合製片に は一人の日本人の職員もいなかった。 当然、川喜多は「製作だけは、あくまで彼等の自由 意思に任してやらす。われわれは、その製作に必要な だけの製作資金を、配給の上で保証する」80)という以 前と同じ立場をとった。中華聯合製片の設立は、組織 の改変ではあったが、かつてとほぼ同様の製作活動を 上海映画人に保証したのである。

76)中華聯合製片有限股份有限公司。劇映画専門の映画制 作会社。 77)「中華聯合製片公司の設立と現況」(『映画旬報』1942 年 8 月 11 日号)22 頁。 78)同上。 79)同上、22-23 頁。 80)川喜多長政談「中國映画の復興と南方進出」(『映画旬 報』1942 年 4 月 1 日号)、7 頁。 3.4 日中映画貿易へ 他方で川喜多は、英米との開戦を機に急速に日中映 画貿易を推し進めようとした。1942 年 6 月末、川喜多 は中華電影に入社したばかりの清水晶に「日本中、勝 った、勝ったと、大騒ぎしているが、まだ英米という 強敵相手に一回戦が始まったばかりで、この先どうな るか分からない」81)と語ったという。日本がおかれた 状況を楽観してはいなかった。場合によっては、上海 における映画工作が終焉を迎えることも考えられた。 早く日本映画の中国進出と中国映画の日本輸出に先鞭 をつけなくてはならなかった。 ちょうどこの頃、川喜多の前に一つの問題が表面化 してきていた。軍より管理を任されていたアメリカ映 画の未開封ストックが、秋には尽きてしまいそうであ った82)。日米開戦によって入手不可能となった新作ア メリカ映画の代わりを確保することが川喜多にとって 喫緊の課題となりつつあったのである。 だが、これは川喜多にとって日本映画を中国に進出 させる千載一遇の好機であった。どのような名作でも 人々はやがて飽き、新たな映画を求めるようになる。 ところが上海の情勢からして新作アメリカ映画が入手 出来ないことは衆目に明らかである。日本映画を上映 すれば、自然な形で受け入れられる可能性があった。 そこで川喜多は、不足するアメリカ映画を、徐々に 中国映画に変えて客足を確保しつつ、日本映画の試験 上映を行った。日本映画はそれまで旧日本軍警備区域 のいくつかの日本映画専門館で上映されてきたに過ぎ ず、日本映画を観る中国人は絶無だと言いきって差し つかえなかった83)。突然、日本映画をメインの上映映 画にするわけにはいかなかったのである。 先述の通り、中華聯合製片の設立後も自由な制作が 許されていた上海映画人は、次々に作品を完成させて いき、いくつかの作品はアメリカ映画専門館で上映さ れた84)。一方、日本映画の試験上映は二度行われた。 はじめに 1942 年 8 月、松竹映画『暖流』(松竹、吉村 公三郎監督)が旧フランス租界のアメリカ専門映画 館・南京大戯院で 5 日間のみ公開された。続く 9 月に は東宝映画『南海の花束』(東宝、阿部豊監督)がアメ リカ専門映画館・大光明大戯院で 7 日間のみ公開され た。大盛況とは言えないが、今まで見向きもされなか った日本映画が中国人にも受け入れられることを確認

81)前掲、清水晶『上海映画租界私史』48 頁。 82)筈見恒夫「日本映画の租界進出について」(『映画旬報』 1942 年 7 月号)8 頁。 83)前掲、清水晶『上海租界映画私史』124 頁。 84)清水晶『上海租界私史』巻末、作品一覧。

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できた85) 1943 年 1 月 9 日、再び状況は急変した。南京国民政 府は英米に宣戦布告するとともに、日華間で「戰争完 遂ニ付テノ協力ニ關スル日華共同宣言」及び「租界還 付及治外法權撤廃等ニ關スル日本國中華民國間協定」 を交わしたのである。南京国民政府が日本への戦争協 力を約束する代わりに、日本は上海を「返還」するも のであった。上海における反日感情は緩和する可能性 があった。 これを好機と見たのか、川喜多は日中映画貿易の足 がかりを一気に作り上げようとした。試験上映で日本 映画が中国人にも受け入れられることを確認していた 川喜多は、この機に日本映画を上海に浸透させようと 意図したのであろう。翌 1 月 10 日、旧作再映でその場 しのぎをしていたアメリカ映画の上映を停止し、アメ リカ映画専門館であった大華大戯院を日本映画専門の 映画館に改めた。そして半年ほどの後には大華大戯院 の集客率は向上し、同年 11 月にもう一つの旧アメリカ 映画専門館・大光明大戯院を日本映画専門館とするま でになった。川喜多は日本映画が中国に進出する足掛 かりを作ることに成功したのである。 他方で、中国映画の日本輸出も着々と進められてい た。手始めに上海でヒットした映画『木蘭従軍』『鉄扇 公子(西遊記)』86)を日本へ輸出し、ある程度の評価を 得ることに成功していた。川喜多は日中映画貿易の体 制を漸進的に作り上げようとしていた。 3.5 中華電影聯合設立による上海映画会社の合弁 1943 年 5 月 12 日、映画会社の組織改編が行われた。 中華電影、中華聯合製片と映画館の連合会社・上海影 院87)を合併した中華電影聯合88)が設立されたのであ る。この会社は制作から配給、興行まですべてを一手 に担う南京国民政府の国策会社であった。川喜多は中 華電影、中華聯合製片と同様、実質的な経営者として 副董事長に就任した。 他方で、会社内の様相は様変わりした。上海映画の 製作、配給、興行に関しては国民政府宣伝部の官僚が

85)キネマ旬報社『映画旬報』(1942 年 10 月 1 日)42 頁。 86)中華聯合製片制作、監督・萬籟鳴、萬古蟾、1941 年 封切り。日本では 1942 年に公開。『西遊記』の牛魔王と羅刹 女が登場する話のアニメーション映画。 87)上海影院股份有限公司。1943 年 1 月 1 日設立。上海 の主要映画館 12 の管理と興行を目的として設立された映画 館の連合会社。代表者は張善琨。 88)中華電映聯合有限股份有限公司。1943 年 5 月 12 日、 設立。法人格は南京国民政府特殊国策会社。董事長は林柏生、 名誉董事長は陳公博、周仏海、褚民誼。中華電影・中華聯合 製片・上海影院の業務を引き継いだ。 直接会社内で指導を行い、中国人による自主運営の形 をとった89)。中華電影聯合は、日本人の影響力を排し たほぼ完全な南京国民政府の国策会社となったのであ る。 この合弁は南京国民政府にとって、日本から回収し た上海の映画界を自国の映画政策に組み入れ、戦時に おける文化宣伝体制を確立するものであった90)。だが、 川喜多にとっては、事務手続きや利益配当において省 力化、効率化を図り、無用な競争を避けるためのもの であった91)。ついに川喜多は、上海映画界が発展を期 するに最適と考える組織を作り上げたのである。あと は、日本が中国映画界との提携を維持し、発展を手伝 うだけとなっていた。 3.6 映画工作の終焉 中華電影聯合は設立以降、新しい作品を制作、配給 し続けた。設立当初は、『秋海棠』(馬徐維邦監督、1943 年 12 月)や『漁家女』(卜萬蒼監督、1943 年 9 月)と いった佳作、名作とされる作品を生み出した。だが、 後期には日本の戦局悪化に伴う生フィルムの供給不足 や人材の離脱によって質の高い作品が量産されたとは 言い難い92)。しかし、困難な環境にも拘わらず中国民 衆に娯楽を供給し続けた功績は、映画会社としては大 きく評価されるべきであろう。 他方で、川喜多は日中両国民の相互理解を促進すべ く日中映画貿易の振興に尽力した。1944 年には、中国 で大ヒットした映画『万世流芳』(張善琨監督、1944 年 8 月)を日本に輸出し、さらに日中共同制作映画『春 江遺恨』(邦題『狼火は上海に揚る』、稲垣浩、岳楓監 督、1944 年 11 月日中同時封切り)を制作したのである。 だが、1945 年 8 月 15 日、川喜多が担った映画工作は日 本の敗戦とともに終焉を迎え、同時に川喜多の上海に おける活動にも終止符がうたれた。 おわりに 川喜多長政は日中戦争勃発後、映画によって日中両 国民の相互理解を促進する構想を描いた。その原点を 見る時、日中戦争前の経験に辿りつく。日中戦争前の 川喜多は、一貫して中国進出を目指し続けた。しかし、 そこには日本の対中政策によって惹起された中国人の

89)前掲、後藤典子「日本占領下の上海における国策会社 「中華電影聯合股份有限公司」について」38 頁。 90)同上、34 頁。 91)同上。 92)前掲、後藤典子「日本占領下の上海における国策会社 「中華電影聯合股份有限公司」について」42 頁。

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反日感情が常に立ちはだかっていた。 日中戦争勃発後、中国に事業を進出させる必要に迫 られつつあった川喜多は、反日感情を解消する策を按 じた。それが日中共同制作映画であった。川喜多は、 反日感情の原因を日中両国民の相互理解不足によるも のと見定め、国際間の相互理解と親善に資すると信じ ていた映画による反日感情解決の構想を描いたのであ る。だが、共同制作映画の構想は失敗に終わった。 川喜多が再び描いた構想は、日中映画貿易の構想で あった。そのために必要だと考えたのが、日本が中国 映画界と提携し、その興隆に尽くすことであった。中 国映画人の対日認識を改めることで、ひいては中国国 民のそれをも改め、一方で中国映画を日本に輸入する ことで日本人の対中認識を改めようというのである。 川喜多の携わった映画工作はこの構想に基づいて実行 された。川喜多は日本軍や日本の対中政策に積極的に 協力しようとしたわけではなく、自らの目標である中 国人の反日感情を解消し、中国へと事業進出するため の構想を実行したのである。 その結果、川喜多は映画工作を通じて、日本軍の目 的である抗日映画の撲滅や親日映画の制作に貢献する ことはなかった。しかし、川喜多の構想からすれば、 成果がなかったわけではない。川喜多は日中戦争で荒 廃していた中国映画界を回復させ、さらには発展を期 するための組織を作り上げた。また、時宜を得て中国 人に日本映画を見せることに成功していた。他方、優 れた中国映画を作り出すことで、日本人に中国を知ら しめようという試みも、わずかながら成果を残した。 川喜多が日本に輸出した中国映画『木蘭従軍』『鉄扇公 主』は、それぞれディズニー映画『ムーラン』(アメリ カ、1998 年)、『西遊記』(日本)にリメイクされた作品 である。これらの映画は、今なお我々に「中国」を伝 え続けているのである。 川喜多は、反日感情解消のために映画という文化を 通じて日中両国民の相互理解を促進すべく活動し、成 果を残した例として記憶されるべきであろう。

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