• 検索結果がありません。

開 か れ た 解 釈 学

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "開 か れ た 解 釈 学"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

開かれた解釈学八五 はじめに   ハンス=ゲオルク・ガダマーの主著﹃真理と方法﹄が世に出てか

ら半世紀を経て︑日本でもようやくその全訳に接することができる

ようになった

︒この間に同書は合衆国でも英訳され

︑ローティや マッキンタイアなどに影響を与えたほか

︑ジョージア

・ウォーン

キーやジョエル・ワインスハイマーのような研究者によって︑その

思想的内実を解明する試みがなされもしてきた︒本国ドイツでは一

九八六年に第1巻﹃真理と方法﹄を皮切りとしてガダマーの全集が

刊行されるに至り

︑二〇〇二年に著者本人は長寿を全うして世を

去ったものの︑二十世紀ドイツを代表する哲学者の一人として︑彼

の評価は今日でも揺らいでいないように思われる︒

  とはいうものの︑彼の思想の内的連関を︑語られている事柄の根

底にまで遡って理解する試みは︑決していまだ十分にはなされてい ないと言えよう︒近年にいたるまで主著の全訳を手に取ることさえできなかった日本においてはいうまでもなく︑比較的研究の進んだ欧米においてすら︑ガダマーの名はハイデガーの学派に属する重要な一人として︑付随的に語られることが多い︒さらに︑ガダマーを理解する上でとりわけ大きな障害となるのは︑一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけてハーバーマスとの間に起こった論争を通じて伝播した︑伝統主義者としての彼のイメージであろう︒もちろんハーバーマス自身の論争における意図は︑ガダマーを一方的に糾弾することにあったわけではなく︑むしろ﹃真理と方法﹄の解釈学的なアプローチに一定の評価を与えつつも︑その限界と見えた論点を問題提起しようとしたにすぎない

︒ 事実この論争は当事者両人に

とって︑ガダマーの側では﹃真理と方法﹄がより広範な読者と影響

力を獲得する上での契機になったのであり︑またハーバーマスの側

では︑彼のいわゆるコミュニケーション理論的転回への思想的発展

を準備したという意味で︑それぞれ重要な意味を担うものとなって

開かれた解釈学

││

 

ガダマー/ハーバーマス論争再考

 

││

古  澤  典 

(2)

八六

いる︒そして論争そのものの注目度と︑ガダマーの著作における論

述の分かりにくさのために︑今日でも当時ハーバーマスが示した同

書の解釈は︑少なからず私たちのガダマー受容に影響を及ぼすこと

になったのである︒

  しかしながら︑ガダマー全集刊行後の文献的状況︑及び今日の研

究水準に照らせば︑ハーバーマスの解釈には多くの問題点が指摘で

きるのであり

︑数的には多くはないガダマー研究者たちの努力に

よって︑こうした従来の受容は徐々に修正されていくことになった

︶1

それだけでなく︑ハーバーマスがガダマーへの批判的コメントを述

べる際に用いた理論的な道具立て︑すなわちマルクス主義や精神分

析といったものが︑今日ではもはや論争当時ほどに広く知的関心を

惹き︑影響力をもつ思想ではなくなってしまったことも︑私たちは

事実として認めねばならない

︒このような状況下で

︑ガダマー/

ハーバーマス論争を再び取り上げ論じようとすることに︑いったい

どのような意味があるのだろうか︒

  本稿の目的はさしあたり︑テクストに遡って︑この両者によりど

のような問題が論じられ︑それにどのような答えが出されているの

か︑その答えは私たちにとって︑いったいいかなる導きをもたらす

のかを明らかにするという︑きわめて一般的な方向に向けられてい

る︒そして私見では︑この点でガダマー/ハーバーマス論争は︑今

日の解釈者にとって︑避けて通ることのできない根本的な課題を提

示しているのである︒その課題は哲学的にみて︑人間精神の自立性 と開放性の問題として定式化することができる︒私たちは各々に︑近代化された社会に住む人間として︑様々な文脈において︑思考上も情緒的にも︑成熟した精神的自立性をもって生きていくことを求められる︒そのような要求は︑それが果たされていない場合に生じるような様々な問題事象からみても︑単に有益であるのみならず︑一定の倫理的妥当性をもつものとみなせるだろう︒けれどもこのように自立した精神をもつことへの要求は︑無制限に妥当するようなものなのだろうか︒一個の人間としての私たちの世界との結びつきのうちには︑切り離してはならず︑またそもそも切り離すことのできさえしない何かが含まれているのではないだろうか︒そうした結びつきを想定できるとすれば︑それはいったいどのようにして明らかにされ︑私たちにとってその正当性が認められるようなものとなるのだろうか︒こういったことが︑論争から四十年前後の時を経た今︑私たちの問うべき事柄として姿を現しているのである︒本稿はこうした問いに︑基本的にはガダマーと近い位置に立ちつつ︑ハーバーマスの側から提起された問題を受け止め︑それを解決していくという形で答えようとする試みに他ならない︒

一 問題系へのアプローチ││論争の再構成

  今日︑ガダマー/ハーバーマス論争として知られている一連のや り取りの発端となったのは

︑ 一九六七年に

Philosophische Rund-

(3)

開かれた解釈学八七 schau誌へハーバーマスが寄稿した︑ガダマーの﹃真理と方法﹄に

対する書評であった︒これに対するガダマーの応答は︑同年出版さ

れた彼の小論集に﹁修辞学︑解釈学及びイデオロギー批判││﹃真

理と方法﹄へのメタ批判的論究﹂と題して収録された︒これを受け

て一九七〇年ハーバーマスはガダマーの生誕七〇年記念論文集に

﹁解釈学の普遍性要求﹂を寄稿することになる︒翌年にはこれら二

つの論文を含め︑複数の著者による論文集﹃解釈学とイデオロギー

批判﹄が出版されるが︑ガダマーはそこに内容的にはハーバーマス

への再応答ともなる﹁返答﹂を新しく寄せることになった︒いわゆ

るガダマー/ハーバーマス論争とは︑これら四つのテクストを通じ

て展開された︑歴史︑社会︑言語など広汎な問題射程に及ぶ議論を

指している

︶2

︒私たちはまず︑これらのテクストの内容を追いながら︑

その中で論じられた問題の相互関連を明らかにし︑本稿の問題関心

に沿う形で論争を再構成してみることにしよう︒

  ハーバーマスはまず︑当時のドイツでみられた社会科学の実証主

義的傾向のもつ問題点を克服した理論として︑ガダマーの哲学的解

釈学に積極的な評価を与える︒今日の科学のあり方に対しても向け

られうるこの問題意識は︑さしあたり以下のように言い表すことが

できるだろう︒社会科学が計量や統計などの方法的手続きによって

認識しようとする対象領域は︑もともと人間生活の活動の領域その

ものに他ならず︑科学の認識活動や認識する学者自身の生すらもそ

こにおいて営まれている︒さらには認識される事柄も︑いかなる方 法的再構成にも先立って︑この領域においてすでに与えられているのである

︒実証主義的な学問の前提する主観と客観というカテゴ

リー︑また統計や計量といった手続きは︑生のこうした事実的な所

与性を捉える上で︑適切な枠組みを提供ですることができない︒む

しろこれら既成の知的装置は︑人間生活の実践を当の人間に対して

疎遠にするものでしかないとすら言える︒かくしてここに︑事実的

な生活の実践を理解しうるような知の可能性をめぐる諸問題が浮上

してくることになる

︒このような観点からハーバーマスは

︑ガダ

マーの解釈学と︑彼がハイデガーから継承した︑先行構造をそなえ

た理解という概念に関心を示したのである

︶3

  とはいえハーバーマスの﹃真理と方法﹄解釈は︑後で詳しく見る

ように︑最初から多くの問題をはらんだものであり︑そのことが結

果的には彼の同書に対する評価そのものにも影響して︑ガダマーの

思想に幾つかの重要な留保と批判を向けさしめることになった︒私

たちはここで︑それらの留保と批判の論点を介して︑ハーバーマス

が同書をどのように捉えたかを跡づけていくことにしよう︒第一に︑

先に述べたような人間生活の事実的な所与を︑歴史的過程との関係

でどう位置づけるかという問題がある︒言うまでもなく生活の事実

的な実践とは︑決して不変のものではありえず︑むしろ時間的に相

対的な内容をもつものでしかない︒私たちが理解しうる生活の実践

的諸現象は︑歴史的過程の只中であるいは失われ︑あるいは姿を変

えて︑元のままでは残らない︒社会におけるこうした変容そのもの

(4)

八八

をどう説明するかについて︑ハーバーマスは﹃真理と方法﹄の以下

のような叙述が充分なものとはいえないと考える

︶4

︒私たちは過去か

ら受け継いだ伝統の内容を︑教育の過程において習得する︒この習

得は伝統を理解するために必要とされるものなので︑その過程では

私たちは︑単に伝統に服属するという以外の態度をとることができ

ない︒たとえば言語の習得をはじめとして︑文化的に伝承されたも

のの理解についてはこのようなことが言えるだろう︒だがこの叙述

︑いったん習得の過程を終えた人間が

︑自らの成熟した理性に

よって︑習得した内容に反省を加え︑それがもつ権威を相対化する

ことができるという点を軽視しており

︑その意味で問題があると

ハーバーマスは言う︒彼にしたがえば︑歴史そのものも︑こうした

反省を通じて︑所与の内容が実体化されることなく︑人間がそこか

ら解放されることを通じて進展してゆくものなのである

︶5

  ハーバーマスはこのような立場から︑人間は認識に基づいて権威

に自由に服属することができる︑あるいは人間は常に何らかの先入

見に規定された存在であり︑この先入見は理解に対して生産的に働

きうるといったガダマーのテーゼを批判する

︒これらのテーゼは

ハーバーマスにとっては︑人間が何らかの既存の文化を評価しつつ

是認するという意味での理解の働きを記述するには十分であったと

しても︑伝統の内容に対して正当な批判的距離を確保するための︑

反省という足がかりを無視したものになってしまっているからであ

る︒   ここから︑ハーバーマスのガダマーに対する批判の第二の論点である︑﹁言語性の観念論﹂という指摘も帰結する︒理解が反省の解

放力を無視して伝統に無批判な同意を与えるものとなってしまうな

らば︑人間はこうした理解の構造において働くイデオロギーへと眼

差しを向け︑それを規定しているものの力を自覚することができな

くなってしまう︒ガダマーの理解概念を文化的伝承物の領域に偏っ

たものとして問題視するハーバーマスは︑この領域と区別され︑む

しろこの領域そのものを先行的に規定しているような次元として︑

労働と支配の二つを挙げている

︶6

︒ハーバーマスのこの批判は︑﹁観

念論﹂という言葉の用い方も含めて

︑マルクスによってなされた

ヘーゲル哲学の批判を想起させる︒かつてマルクスも︑人間の完成

を︑自己の展開としての諸形態の所産によって自らを認識する精神

というあり方に見いだすヘーゲル哲学の基本構造を観念論と呼び︑

そうした自己認識的な精神のあり方そのものが︑社会階級の物質的

生産関係に依存しているとの唯物論の観点から︑この哲学を批判し

たからである︒とはいえ︑論争においてはハーバーマスは︑自身の

立場を唯物論として主張しているわけではなく︑単にイデオロギー

批判とだけ称している︒したがって観念論という言葉で含意されて

いるものは︑ガダマーの依拠する解釈学が︑伝統的には文字で書か

れたテクストを理解する技術として展開を遂げ︑ガダマー自身も理

解の概念の中心に言語性を据えていることに対する懸念を表明する

ものであろう︒つまり︑労働や支配によって規定される社会の客観

(5)

開かれた解釈学八九 的連関を通じて︑言語のうちにすでに無自覚なイデオロギーが埋め込まれているならば︑言語性のうちで見いだされるような理解の諸カテゴリーには︑こうしたイデオロギーの浸透を暴くことはできず︑その力の前に屈するしかないのではないかという危惧が生じるからである︒  それではしかし︑文化的に伝承されたものの解釈にとどまらず︑支配と労働という社会の客観的連関にまで及ぶ包括的な理解の概念を提示し︑普遍的な問題領域をもつ解釈学を構想することは可能なのだろうか︒少なくともガダマーの理論から直接にそうした構想を引き出しうる可能性に関しては︑ハーバーマスは疑問を示す︒そのことの根拠が彼のガダマー批判における第三の論点をなしていると言えるだろう︒歴史的にみて理解の技術としての解釈学は︑それと対応した説得の技術である修辞学とともに︑自然言語との親縁な関係をその本質としてもつ︒解釈学の課題は︑反省以前に分節化されて与えられる世界を私たちに理解可能なものとすることであり︑自然言語の世界を自然言語それ自体によって読み解くことなのである

︶7

ところが自然言語の世界で生じる言語現象のうちには︑自然言語自

体によっては決して理解可能とならないようなものが含まれている

とハーバーマスは考える︒彼が﹁体系的に歪められたコミュニケー

ション﹂と呼ぶこうした現象は︑たとえば神経症のような事例に見

出すことができ︑その症状の意味は︑精神分析が構築した理論言語

による解明をもって︑はじめて理解可能なものとなるのである︒し

てみると

︑自然言語のうちで見出されるような理解の概念だけを

もって自然言語を理解可能なものにするという解釈学の課題は︑決

して果たすことはできないことになる︒マルクス主義にせよ精神分

析にせよ︑それらの理論言語がもつ特徴は︑自然言語で与えられて

いる事実的な意味から反省によって退き︑そのメタ次元に目を向け

ているということにある︒こうすることでメタ解釈学は︑自然言語

のもつイデオロギー性を暴き︑解放的関心に寄与するという︑解釈

学にはなしえない課題を果たすのである︒

  先にも触れたように︑論争当時と比較して今日の知的状況では︑

マルクス主義や精神分析自体が︑さほど影響力をもっておらず︑何

よりもそれ自身イデオロギーに転化する危険をはらんだ思想とみな

されてしまっていることは否定するわけにはいかない︒とはいえそ

うした事実は︑ここでのハーバーマスの主張に対して必ずしも直接

的な打撃とはならないだろう︒問題は自然言語の世界で生じる言語

現象を︑自然言語のコミュニケーションから反省的に距離を取るこ

となく理解しうるかどうかにかかっているのであり︑解釈学がこの

任を果たせない際に︑いかなる理論の言語がそれを補完しうるかと

いう問題は︑あくまでその先で生じるものだからである︒

  そこで︑以上の批判に対してガダマーがどのように応答したかを︑

ごく簡単にではあるが見ておくことにしよう︒応答において中心を

なしている論点は︑哲学的解釈学と銘打たれたガダマーの企てが︑

どのような意味で単に文化的伝承物の解釈にとどまらない普遍性を

(6)

九〇

もちうるかについての解明だと思われる︒専門化された諸科学は︑

自らしていることの内容を理解させるためには︑解釈学や修辞学を

修得しないまでも︑その扱う事柄としての自然言語と関わりをもた

ざるを得ない︒その意味では︑解釈学と修辞学を通じて理解可能な

ものとされえないようないかなる学もないのである

︶8

︒科学の理論言

語が近代化された社会に住む人間の︑専門化された職業人であると

いう側面に関わるとすれば︑修辞学と解釈学は自然言語を通じて︑

自らと他者︑及びその共同の世界を理解し︑理解させるという人間

一般的な側面に関わる︒精神分析家が理論言語を通じて患者の症状

の意味を知り︑そこからこの患者を解放する治療をなしえたとして

も︑自然言語のコミュニケーションから反省によって退くというこ

とは︑ただこの専門領域に限ってなされうるにすぎない

︶9

︒もしそう

ではなく︑何らかの理論言語によって人間の普遍的な解放の目的を

認識でき︑この認識にしたがって他者を理解できると考えたとすれ

ば︑それは人間存在の有限性を無視するものでしかない︒

  ガダマーの応答はおおよそ以上のような形にまとめることができ

るが︑その内容は本稿において︑ハーバーマスの批判の第二と第三

の論点に対しては充分な答えになりえたとしても︑第一の論点につ

いては直接に触れるものとはなっていない︒この論点は論争を通じ

て新たに展開されたものというより︑﹃真理と方法﹄の内容上の理

解に関わる問題であるため︑論争を構成するテクストそのものから

ガダマーの言い分を汲み取ることは難しい︒しかしながら私見では︑ この論点には単に﹃真理と方法﹄の解釈上の問題にとどまらず︑同書で問われている事柄の本性に遡って︑今日の人間に深い洞察を要求するものがあるように思う︒次節ではこの問題をとくに立ち入って考察してみることにしたい︒

二 理解の可能性の条件としての先入見

  私たちはまず︑ガダマーが﹁先入見の概念の復権﹂と呼んでいる

議論が︑彼の理論においていったいどのような位置づけをもってい

るのかを確認することから始めよう︒理解を困難にしているのは︑

この解明の作業が直接には﹃真理と方法﹄の︑﹁権威と伝統の復権﹂

と名づけられた節から始まっているという事情である︒これら先入

見Vorurteil

︑権威

Autorität

︑伝統

Tradition

という三つの概念が

いずれも︑近代的な理性にとっては︑正当性の疑わしいものとみな

されてしまっているため︑私たちはこの復権の作業が事柄としては

同一の︑反動的な方向性をもつもののように捉えてしまう︒簡単に

言えば︑私たちにとって権威とは︑理性によっては正当化できない

ような仕方で自ら特定の先入見の根拠となるものであり︑こうした

根拠づけがある地域や組織において有効なものとして連続的に保た

れている場合に︑私たちはそれを伝統と呼ぶのである︒少なくとも

ハーバーマスはこのような意味で︑つまり近代的な理性の側から権

威︑伝統︑先入見といったものを捉えているとみなせる

︶10

︒したがっ

(7)

開かれた解釈学九一 て彼にとって権威を受け入れることは︑自らの理性による反省を放棄して特定の先入見に身を委ねることを意味し︑こうしたあり方が実体化されることで︑伝統と呼ばれるものが生じてくることになる︒  さて︑近代的な理性にとって以上のような思考が必然的なものである限り︑はたして私たちが物事を理解する際に︑先入見︑権威︑伝統といった契機が︑本当にこのような形で姿を現しているのかどうかと問うことは︑確かにこの理性に対する挑戦を含んでいる︒とはいえこうした挑戦が︑人間の解放という普遍的目的を不都合に感じるような人々の政治的意図とのみ関係しているかのように考えるとすれば︑その想定を正当化しているのは︑近代的な理性が人間にとって最も望ましい理性のあり方であるというような︑隠された前提以外に何がありうるのだろうか︒結局のところ︑ガダマーが先入見の概念︑及び権威と伝統との復権と呼んだ作業は︑前述の問いによって︑今日ではあまりにも自明なものとなってしまっている理性のあり方そのものに︑別様な可能性を見出す意味をもっていたのである︒  そこで次は︑ガダマーがその問いにどのような答えを見出したのかということを明らかにしてみよう︒確かに彼の有名なテーゼのうちの一つでは︑理解を妨げる先入見だけでなく︑理解を助け︑理解に対して生産的に働く先入見があると語られている

︶11

︒しかし彼がこ

のように言うのは︑私たちがその先入見を通じて︑理解されるもの

との素朴な同質性の関係に立つからではない︒﹁解釈学的に修練を 積んだ意識は︑理解を導く自らの先入見を︑伝承が︑別の考えとして︑そちらの側で際立ち︑効力を発揮させられるために意識するであろう

︶12

︒﹂つまり︑私たちの先入見が理解に生産的に働くのは︑あ

る伝承がどのような意味で私たちと異なっているかを具体化しうる

ことによってだと︑ガダマーは主張するのである︒したがって︑理

解されるものが私たちの先入見と一致をみせるからこそ︑この先入

見が理解に役立ちうるというわけではないし︑ましてや︑私たちは

自らの先入見と一致するものだけを選んで理解するというわけでも

ない︒確かにガダマーは︑先入見というものが私たちの理解の可能

性の条件をなしていると言うのだが︑それはこのような単純な意味

においてではないのである︒

  実際︑私たちがあるものを最もよく理解したと言えるのはどのよ

うな場合かについて考えてみるならば︑このガダマーの主張には無

視できない真理が含まれている︒私たちにとって単に馴染み深く︑

その正当性が疑われもしていない考えについて︑私たちはとくに明

瞭な理解をもつとは言えない︒むしろ理解の関心を呼び覚まし︑そ

のための努力を引き起こすのは︑何らかの仕方でそれ固有の存在が

明瞭に見てとれるものであり︑そうしたものは時として私たちとは

全く異質に思われるかもしれないが︑にも関わらず看過できない意

義をそなえて現れてこざるを得ない︒この場合︑そうしたものの固

有の存在が明瞭に見てとれるということからは︑逆にそれまでの私

たちに︑そのものの存在を際立たせる平均的なものの地平が与えら

(8)

九二

れていたことが分かる︒こうした時間的な裏づけを伴った地平を︑

ガダマーは先入見と呼ぶのである︒﹁個人の諸先入見は︑その諸判

断よりもはるかに︑その存在の歴史的現実なのである

︶13

︒﹂そうした

具体的な地平をもつことによって︑一般に人間にとっては︑ある別

な考え︑ある他者と︑自らの世界を変えるような何ものかとして出

会うことが可能になる︒このような時間的な地平をもちつつ生きる

人間が︑出会いによって地平を変えられ︑さらに別の出会いへと開

かれていくこと︑こういった歴史的運動の全体こそが︑ガダマーの

いう意味での伝統に他ならない︒

  確かに先入見のうちには︑個人の存在を越えて存続するものがあ

る︒こうしたものが私たちの先入見となる際︑その内容を恣意的に

作り変えることはできず︑成立したものを事後的に受け継ぐにすぎ

ないように見える︒近代化された人間の理性が︑個としての自己に

とって根拠づけられたとみなせるものだけを妥当と認めようとする

ならば︑それらの先入見は他者に由来するものとして︑たとえばあ

る人格と結びついて効力をもつ以上︑理性的なものとは言えないこ

とになるだろう︒けれどもガダマーは︑このように権威がそれ自体

で自由や理性と相容れない性格をもつとは考えない︒﹁権威は承認

に基づいており︑またその限りでは︑理性そのものの行為に基づい

ている︒理性は︑自らの諸限界を意識し︑他者によりよい洞察があ

ると信じるのである

︶14

︒﹂全てのことを自分で根拠づけることは決し

てできないと意識し︑自らよりよい洞察をもつと認識した他者を信 頼するのは︑何ら理性に反した行為ではない︒実際︑私たちの先入見の地平がそれとして明確に意識されたならば︑今日の理性はどれほど多くの事柄について︑自分ではそれを吟味することなしに︑他者の諸洞察に信頼をおいていることになるのだろうか︒つまるところ近代的な理性さえも︑意識されずに働いている匿名の権威なくしては︑自分自身を存立させることはできないのである︒  それならば︑伝統のうち事後的に受け継がれるものではないような契機︑理解において私たちに際立って現れてくるものとの出会いは︑その後どのように伝統の歴史的運動の全体に組み込まれていくことになるのだろうか︒この問題について︑ガダマーは次のように言う︒﹁ある先入見がそれとして際立たせられることは︑明らかに︑

その効力が一時停止させられることを必要とする︒︿中略﹀諸判断

の一時停止はしかし︑したがって諸先入見の一時停止ならなおさら

のことだが︑論理的に見られたならば︑問いの構造をもっている

︶15

︒ ﹂

私たちは自らの先入見と異なるものが現れてきた時に︑それをただ

ちに受け入れて認めようとはしないが︑かといってすぐさま拒絶し

否認しようとするわけでもない︒このような出会いにおいて起きる

のはむしろ︑動揺や疑わしさである︒先入見が私たちにとって︑自

分たちの世界を与えてくれる地平である限り︑異なるものはこの世

界の何事かについて︑従来とは違った仕方︑違ったありさまでそれ

が見えてくる可能性を私たちに提示する︒もし私たちがこの可能性

へと真摯に向き合おうとするならば

︑その引き受け方は

︑問題と

(9)

開かれた解釈学九三 なっている事柄について何が真なのかを自ら問うという形にならざるを得ない︒  ガダマーの解釈学の特異な点は︑まさにこの問うという引き受け方において︑理解ということ自体が生じると主張している点である︒﹁ある問いを理解するとは︑その問いを自ら問うことである︒ある

考えを理解するとは︑その考えをある問いへの答えとして理解する

ことである

︶16

︒﹂他者と接する時︑私たちに何事かについての動揺や

疑わしさが生ずるという経験は︑実際のところ私たちは︑それらの

事柄が本当はどうあるのかを知らないのかもしれないという可能性

に由来する︒人間が知的に有限な存在者である以上︑この可能性と

完全に無縁のままにとどまることはできないだろう︒この観点から

みれば︑ある他者が私たちにとって明瞭なものとして現れてくるの

は︑ともに有限な存在者として︑私たちとその他者とが︑事柄につ

いての問いに異なる答えをもっているからに他ならない︒しかし私

たち自身の場合もしばしばそうであるように︑問いに対してなぜそ

のように答えられうるのかは︑個人としての他者自身にその根拠の

全てが明確に把握されているとは限らないものである︒したがって

私たちは︑もし他者の考えを徹底して理解し抜くことを目指そうと

するならば︑その考えの正当性を︑他者自身の自覚の範囲をも越え

て捉え︑こうして問われた事柄に迫らねばならないことになる︒も

ちろん私たちは︑先入見が動揺させられ︑疑わしくされる状況全て

について︑このように問うという引き受け方にまで至るわけではな いだろう︒私たち自身の根拠づける能力の限界のために︑受け継がれてきた考えに妥当性を認め︑それを語った他者を信じるという仕方も︑また理性的なものなのだから︒けれどもこの場合ですら︑問いを引き起こすような自分とは異なるものを私たちが理解しうるのは︑それを私たちのものとは異なった答えとして︑問いの側から理解することによってなのである

︒私たちはここから

︑ガダマーが

ハーバーマスの反省概念とは異なる内実をもつものとして繰り返し

語る﹁解釈学的反省﹂が︑いったいどのようなものなのかを理解す

ることができる

︶17

︒この反省は他者との理解の過程において生じ︑先

入見を自覚化するという意味で︑確かに先入見から距離をとること

を可能にしはする︒けれどもそれによって私たちは先入見から解放

されるわけではない︒先入見は︑異なるものを理解させるような問

いに際しては︑その問いに従来の私たちがどのような答えを出して

しまっていたのかを具体化しうることにより︑特別な意味をもつ︒

問いを通じて︑私たちがそれまで拠っていた先入見とは異なる答え

に立ち︑世界を別様に見ることを学んだとしても︑この新しい視点

そのものは︑それまでの先入見を通じて具体化されているのである︒

三 自立性と開放性│解釈学の位置

  論争そのものからすでに四十年近い時を経た現在では︑当時の時

代状況のもとで重要な争点となりえた事柄も︑微妙にその意義内容

(10)

九四

を変化させている︒私たちは今日︑この論争からいかなる問題を受

け継ぎ︑自らの生の導きとしていくことができるだろうか︒

  ハーバーマスの問題提起は︑しばしば解釈学かイデオロギー批判

かといった対立に図式化されて捉えられることがある︒しかしなが

らその根本には︑イデオロギーによる人間の支配という事態そのも

のをどう理解すべきか︑それに対して思想の側からはどのような対

抗戦略を取りうるかといった問題意識があるように思う

︒確かに

ハーバーマスはガダマーと﹃真理と方法﹄とに批判的なコメントを

寄せはしたが︑イデオロギーというもの一般について解釈学に責任

がある︑あるいは少なくともただ解釈学だけに責任があるとは言わ

ないであろう︒したがって問題は︑﹃真理と方法﹄およびその後の

ガダマーの思想的展開に見いだされるような解釈学の根本動向に︑

イデオロギーを問題として扱うための十分な備えがあるかどうかと

いうことになる︒ガダマーは他者のよりよい洞察の承認という形で︑

権威すらも理性の行為とみなそうとしたが︑この立場は今日現実に

イデオロギーの抑圧のもとにいる人間に︑適切な抵抗力を残さない

のではないかという疑いの余地がある︒なるほどガダマーも権威が

自由に承認されると言い︑暴力や支配をそれに対置しはする︒だが︑

イデオロギーのもとで問題となる支配とは︑たとえば今日ではマイ

ンドコントロールといった概念で語られるように︑よりよい洞察を

もっていると具体的に承認できてはいない他者の前で︑私たちが自

らの理解の内容を放棄することを強制されるといった種類のもので はない︒  むしろこうした支配をより鋭く捉えているのはハーバーマスのほうだと言えよう︒私たちはこの支配を︑次のように言い換えてみよう︒人間が︑自らの理性によってではなく他者の考えにしたがって物事を理解しており︑その他者とは異なった洞察の存在しうることに無理解で︑そうした洞察に閉ざされているとする︒しかもその人間が︑とりわけ自己自身をそのような仕方で理解しているとすれば︑明らかにそこには支配と呼ばれてよい問題ある状態が存在する︒というのは︑あらゆる人間が︑少なくとも自分自身のことについては︑何がしか自分の反省を通じてでなければ理解しえない事柄をもっているだろうからである︒したがって支配のもとにある人間は︑確かにある他者の考えに向けて開かれてはいるが︑自立した自己理解の欠如と別な他者への閉鎖性という点では︑不適切な仕方で開かれているのである︒ 

理解における支配という現象を問題提起したという意味では

ハーバーマスの議論には確かに優れた点がある︒けれども︑私たち

はイデオロギー批判という形でこの問題を解決する方向には困難を

見出さざるをえない︒ハーバーマスの問題提起には︑彼自身がその

意義をどこまで真に理解しているのかを疑わせるところがある︒支

配として私たちが析出してみた理解の問題ある状態は︑根本的には

理解の内容そのものよりも︑そのあり方に関わっている︒イデオロ

ギーそのものが存在するのではなく︑イデオロギー的に支配する理

(11)

開かれた解釈学九五 解のあり方こそが存在するのである︒逆に︑十分に批判的な精神にはその問題点が容易に見てとれるようなドグマに対しても︑それをイデオロギー的にではなく理解する仕方はありうると思われる︒まさにその可能性を提示しているのが︑理解を問いと結びつけるガダマーの解釈学なのである︒このような問いに開かれていることなくしては︑解放的関心をもって働くイデオロギー批判が︑それ自体再び硬直化したイデオロギーに転化しないという保証を

︑私たちは

いったいどこから手に入れることができるのだろうか︒確かに︑人

間は反省を通じて支配的なイデオロギーの隠された意味を暴く理論

言語を構築し︑こうして自己を解放することができるとは考えられ

よう︒けれども︑多くの論者が指摘するように︑ハーバーマスの想

定するような理論言語が意味解釈の最終的な拠りどころとなる保証

は何もないのである

︶18

  ドイツ語のoffenという形容詞には︑﹁開いている﹂﹁理解のある︑

偏見のない﹂﹁未決定の﹂といった多義に渡る用法がある︒ガダマー

がこの言葉及びその派生語を用いる際には︑文脈上の表立った意味

とは別に︑それらの他の意味を響かせていることが多い︒この多義

性をあえて単純に構造化すると︑次のように言うことができよう︒

理解のある者︑偏見のない者とは︑全く先入見をもたない者のこと

ではない︒どの人間も各々に歴史的で有限な存在である以上︑その

ようなことはありえないだろう︒だが理解のある者は︑異なるもの

と接したさいに︑自らの先入見へと立ち返り︑その妥当性を未決定 へと差し戻そうとすることができる︒物事について︑とりわけ自己について︑私たちの先入見によって理解されていた内容が必ずしも妥当ではなく︑別な理解がありうるかもしれないという可能性を︑異なるものが与えるのである︒こうして理解は︑ある物事︑自己そのものが︑本当はどのようにあるのかという問いになる︒﹁未決定

性は問いの構造をもつ

︶19

︒﹂ソクラテスの例が私たちに教えるのは︑

問う人間は問われている事柄についての自分の無知そのものを︑自

立した自己理解としうるということである︒この自己理解を手がか

りとして︑人はますます異なるものへ開かれていくことができる︒

そのような開かれた態度は︑支配のもとにある人々についてさえ︑

答えの分からない問いに対して︑この人々がそうした答えをもって

生きているということへの理解を要求するだろう︒それによってこ

の人たちの答えが︑ましてや支配そのものが是認されるわけでは決

してないにしても︑支配にとって代わりうるのは︑ただ自ら問うこ

とと対話だけなのである︒こうした展望を与えることによって︑ガ

ダマーの解釈学は私たちにとって︑確かに哲学的解釈学の名にふさ

わしいものになっていると言えるだろう︒

おわりに

  近代化された社会に住む各々の人間には︑自立した思考をもち︑

安易な集団情緒に身を任せないという︑それ自体としてはもっとも

(12)

九六

な格率が課せられている︒とはいえ自立性は︑人間的な生を営むた

めに︑それだけで充分な原理になるとは言えない︒自立性を原理と

する人間は︑もっぱら個人として自己を了解し︑この個としての自

己に結びつく利害関心や情緒にしたがって世界を見るけれども︑こ

の個人というあり方そのものが歴史的に︑たとえば近代という時代

に規定されて成立していることへの反省を欠いている︒孤立した個

としてのみ自己を理解する人間が跋扈するならば︑その先に待ち受

けるのは社会全体にはびこる際限なき猜疑と不安であろう︒この状

態はしばしばそれとは全く逆のもの︑集団的狂信や暴力へと転化し

うるのである︒

  理解という問題は︑哲学がソクラテスの模範においては対話の形

式でなされていたことによって︑この学問の伝統の中にも古くから

ひそんでいたものではあった︒今日︑哲学的解釈学の形態において︑

私たちがこの問題に再び出会うことになったのは︑それ自体意義深

い一つの歴史的帰結といえよう︒この事実はまた︑現代の人間がお

かれている固有の問題状況にとっても︑何ほどかの意味をもってい

ると思われる︒

1︶ ガダマー/ハーバーマス論争については︑ウォーンキーが英語圏でのガ

Georgia Warnke, 

, , Cambridge: Polity Press, 

1987で言及したのをはじめ︑一九九〇年代にAlan How,  , Alderslot: Avebury, 1995Demetrius Teigas, 

, Lewisburg: Bucknell University 

Press, 1995などのすぐれた研究がなされている︒日本では最近︑加藤哲

理﹃ハンス=ゲオルク・ガーダマーの政治哲学││解釈学的政治理論の地

平﹄︑創文社︑二〇一二年などがこの論争について言及している︒

2︶ 本稿では論争の検討にあたって︑ハーバーマス側では

, hrsg. von Rüdiger Bubner, Konrad Cramer, Reiner 

Weil, Tübingen: J. C. B. Mohr, 1970及び,  hrsg. von Karl-Otto Apel, Frankfurt. am Main: Suhrkamp, 1971のテクス

トを引用及び参照する︒ガダマーについては加えて全集版のテクストを参

照し︑引用はHans-Georg Gadamer, , Bd. 2, Tübingen: J. 

C. B. Mohr, 1986によった︒以下︑ガダマー全集からの引用は慣用にした

がいGWによって略記する︒

Jürgen Habermas, „Zu Gadamers >Wahrheit und Methode<“, in: 3︶ 

, SS.45-56, S.45f..

Gadamer, , in: GW 1, 4︶ この解釈は具体的には Tübingen: J. C. B. Mohr, 1990, S.284f.を念頭に置いていると思われる︒

Jürgen Habermas, Ibid. S. 48f.5︶ 

Ibid. S. 52ff.6︶  Jürgen Habermas, Der Universalitätsanspruch der Hermeneutik, in:, „“7︶ 

, SS.73-103, S.96ff.

Gadamer, Replik zu >Hermeneutik und Ideologiekritik<, in: GW 2, „“8︶ 

255ff.

Gadamer, Rhetorik, Hermeneutik und Ideologiekritik: Metakritische „9︶ 

Eröffnungen zu >Wahrheit und Methode<“, in: GW 2, 249f.

10Habermas, ibid. Zu Gadamers >Wahrheit und Methode<, S. 47ff.„“︶  11Gadamer, , S.304.︶ 

(13)

開かれた解釈学九七

12Ibid.︶ 

13GW 1, 281.︶  14GW 1, 284.︶ 

15GW 1, 304.︶ 

16GW 1, 381.︶ 

17︶ ガダマーはこの解釈学的反省という概念を真理と方法﹄において表

立って語ることはなかったが︑同書には作用史的反省という表現がみられ

る箇所がある︒Cf. GW 1, 307.

18︶ ここでは最近の例として加藤前掲書︑二〇六頁をあげるにとどめておく︒

19Gadamer, GW 1, 368.︶ 

参照

関連したドキュメント

もうわしは,お前の力に,わしのこの世の道を導かせぬぞ。

20 F罰 に現前 している」のはあの屋根だけであるが , しか しそれはまさに「あの家の屋根」として ,「 あの 家の一部分 Jと して意識 されているのであ

(||)

  1993 年 4 月、京都府教育庁指導部高校教育 課から城陽市立中学校教頭として異動を命じら れ、その後、同市小学校校長として定年退職す

ただし,この文には省略があり,

っているのは﹁われわれ﹂なんだけれども︑

だから、この分類は現在の国家体制を基準にしたものである。ちなみに流刑者たちの墓に発して現

ライアーマッハー( Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher )がこれをテキス