• 検索結果がありません。

ド イ ツ 神 秘 思 想 の 依 拠 す る 神 論 の 伝 統

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "ド イ ツ 神 秘 思 想 の 依 拠 す る 神 論 の 伝 統"

Copied!
17
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ドイツ神秘思想の依拠する神論の伝統二一 本稿の意図

  エックハルトの思想はキリスト教神学の中でも一種特殊なタイプ

として神秘思想という類型の中で理解されてきたという歴史がある

︑エックハルトにとってキリスト教信仰とは一体どんな内実を

持ったものとして受け止められているのか︑こうした問はこれまで

は︑たとえば﹁魂の内における神の誕生﹂といった個々のテーマに

おいて︑﹁ヨハネによる福音書﹂等の聖書的依拠

︶1

と解釈の問題として︑

あるいはオリゲネスの﹁信者の心の内におけるキリストの誕生

︶2

﹂と

いった教父の伝統との連関からその都度検討されてきた個別問題で

あったといえる︒﹁キリスト教信仰についての共通理解とは何か﹂

という内容で伝統的理解をエックハルト自身がまとめた言説に基づ

いて︑エックハルトの思想を検討することはこれまでなされること

がなかった︒本稿ではエックハルトが﹃ヨハネ福音書注解﹄の中で︑ ﹁聖人たちと博士たち

︶3

が神への信仰について書いているさまざまな

教えには︑これまでのところ八つのことがらが属する

︶4

﹂と語ってい

る理解を手がかりにして

︑一体キリスト教信仰のどのような点に

エックハルトの関心が集中して向けられているのか︑すなわち﹁聖

人たちと博士たち﹂のどのような解釈を踏まえてエックハルトは自

らの神学を構築しようと意図しているのか︑また実際にいかなる教

説へと具体的に展開しているのか︑その大まかな道筋を浮かび上が

らせ跡づけることが本稿の目的である︒最後に﹁魂の内における神

の︵子の︶誕生﹂および﹁神性への突破﹂というエックハルトの﹁ド

イツ語著作﹂における中心テーマをこうした検討を通じて神学的に

定位することを試みたい︒︵紙幅の制限から今回は論の前半を掲載

する︶︒

ドイツ神秘思想の依拠する神論の伝統

田  島  照 

(2)

二二

︵一︶キリスト教信仰の八つのことがら

  まずはエックハルトが語る八項目をトピカ風に列挙してみるとつ

ぎのようになる︒

  第一︑

  

神の内には︑ペルソナの三性︑すなわち父と子と聖霊が存

在する︒

  第二︑

  

父と子と聖霊は﹁一なるもの﹂︵

unum

︶︑と中性形で︵

neu-

traliter

︶表わされる︒

  第三︑

  

三性の内には

︑唯一なる父

unicus  pater

︶︑唯一なる子

unicus  filius

︶︑唯一なる聖霊︵

unicus  spiritus  sanctus

が存在している︒

  第四︑

  

父はそれであるところのみずから全体を子に︑みずから全

体を聖霊に伝達する︒

  第五︑

  

その伝達︵

communicatio

︶は︑時間的︵

temporalis

︶では

なく永遠的︵

aeterna

︶であるので︑そこにはいかなる先

のもの後のものもなく︑より大きいものも︑より小さいも

のもない︒

  第六︑

  

父は始原なき始原︵

principium  sine  principio

︶であり︑

生まれることもなく︑発出することもない︒子は始原から

の始原︵

principium  a  principio

︶であり︑その始原そのも

のから生まれた︵

genitus

︶ものであり︑制作された︵

fac- tus

︶のでも創造された︵

creatus

︶のでもない︒聖霊は︑

父と子から制作されたのでもなく︑創造されたのでもなく︑

生まれたのでもなく︑発出するもの︵

procedens

︶である︒

  第七︑

  

被造物においては︑父に対応する存在するもの︵

ens

︶と︑

子に対応する真なるもの︵

verum

︶と︑聖霊に固有の仕方

で対応する善なるもの︵

bonum

︶とは互換可能であり︑そ

れらは一なるもの︵

unum

︶であるが︑概念によってのみ

区別されている︒このことは︑アウグスティヌスによって︑

一性

unitas

︶が父

pater

︶に帰されているということ

とは対立しない︒

  第八︑

  

父なる神は遣わされるとはいわれていない︒しかし︑子と

聖霊とは両者とも聖書のいたるところで遣わされたものと

して読むことができる︒

  以上の八項目に対してエックハルトは解釈を施し︑その関心の所

在にしたがって短い言及をなしているのである︒

︵二︶三つのペルソナと中性形概念の

  

 

﹁一なるもの﹂︵

unum

  まずは第一︑第二︑第三のことがらについてエックハルトが言及

していることを検討する︒

(3)

ドイツ神秘思想の依拠する神論の伝統二三 第一には︑神の内には︑ペルソナの三性︑すなわち父と子と聖霊が存在するということである︒第二には︑﹁これらの三つは

一なるものである﹂︵一ヨハ五・七︑八︶ということであり︑

わたしが一なるもの︵

unum

︶であると中性形で︵

neutraliter

言うのは

︑それが本質

essentia

︶ないし実体

substantia

︶ を表しているからであり

︑それは男性形の一つの

unus

︶ペ

ルソナでもなければ︑女性形の一つの︵

una

︶ペルソナでもない︒

というのは

︑それらは起源

origo

︶と区別

distinctio

︶と流

出︵

emanatio

︶に関わっているからである

︒男性と女性は同 一の本性

natura

︶にあるが

︑性の区別

distinctio

︶と生殖

generatio

︶を意味している︒さらにまた第三に︑この三性の 内には︑唯一なる父︵

unicus  pater

︶が︑唯一なる子︵

unicus  filius

︶が︑唯一なる聖霊︵

unicus  spiritus  sanctus

︶が存在し

ているのである

︶5

  信仰内容の第一に挙げられていることは︑キリスト教神論の中核

をなす三位一体論についてである︒神の内には父と子と聖霊という

ペルソナの三性が存在することであり︑第二に︑この父と子と聖霊

というペルソナの三性はその本質及び実体において﹁一なるもの﹂

unum

︶であることである︒ここまでは三二五年の﹁ニケイヤ信教﹂

以来の理解である︒しかしそのあとこの﹁一なるもの﹂が中性形の

ラテン語で表わされる理由が示されているが︑それは男性形の一つ の︵

unus

︶ペルソナでもなければ︑女性形の一つの︵

una

︶ペルソ

ナでもないとわざわざ断わられ︑そのように男性形あるいは女性形

で語られる場合とは

︑起源

origo

︶と区別

distinctio

︶と流出

emanatio

︶に関わっている場合であって︑本質及び実体において

﹁一なるもの﹂︵

unum

︶と語られる場合とは異なるからである︑と

説明されている︒

  エックハルトが三位一体論に関して注目しているのは︑ラテン教

父たちが三性の本質及び実体を﹁一なるもの﹂︵

unum

︶と中性で表

記していることである︒この関心の所在は何を物語るものであろう

か︒この文脈からだけではいまだ不明である︒

︵三︶四つの超範疇的概念︵

transcendentia

︶と   

 

並ぶ﹁義﹂︵

iustitia

  エックハルトの究極的関心の所在を示すつぎのような言説が﹃知

恵の書注解﹄にある︒

すなわち

︑生まれざる義

iustitia  ingenita

︶と生まれたる義

iustitia  genita

︶は︑その本性において端的に中性形で︵

neu- traliter

︶一なるもの︵

unum

︶であって︑女性形で︵

feminine

あるのではない︒すなわち︑性は︑男性であれ︑女性であれ︑

生むこと︵

generatio

︶と流出すること︵

emanatio

︶に関わるが︑

(4)

二四

中性はそうではない︒それゆえに︑神においては︑本性ないし

本質は

︑生むことはなく

︑父と子は

︑中性形での一なるもの

unum

︶であって︑男性形での一なるもの︵

unus

︶ではない

︶6

  父と子が︑﹁生まれざる義﹂︵

iustitia ingenita

︶と﹁生まれたる義﹂

iustitia  genita

︶とに言い換えられ︑そして両者は本性ないし本質

においては︑中性形の﹁一なるもの﹂︵

unum

︶でり︑けっして﹁義﹂

iustitia

︶の文法的性である女性形にしたがって﹁一なる者﹂︵

una

とされることはないと語られている︒

﹁義﹂

iustitia

︶は

︑存在

esse

︶︑一性

unitas

︶ ︑ 真

veritas

︶ ︑ 善︵

bonitas

︶といういわゆる四つの超範疇的概念︵

transcendentia

と並ぶ霊的完全性︵

perfectio  spiritualis

︶の一つであるとエックハ

ルトでは理解され︑﹃三部作への全般的序文﹄の中では︑更に広い

文法的概念からの位置づけである﹁一般的名辞﹂︵

terminus  gene-

ralis

︶7

︶の中に入るものとされている︒エックハルトにおいてはとく

に基体︵

suppositum

︶ないし主体︵

subiectum

︶について語るとき︑

存在するもの︵

ens

︶︑一なるもの︵

unum

︶︑真なるもの︵

verum

︶ ︑ 善なるもの

bonum

︶と中性形で用いられるが

︑超範疇的概念

transcendentia

︶である四つのものは

︑本来的には神に適合する

ものであり︑述語づけに際しては互換することができる概念である

とともに︑すべてのものによって分有されるものでもある

︶8

︑と伝統

的理解に立って説明している︒こうした伝統的理解に依拠して︑霊

的完全性

perfectio  spiritualis

︶である

﹁義﹂

iustitia

︶も超範疇

的概念と同列に理解されていくのである︒

  さてこの引用で注目すべきことは︑この霊的完全性である﹁義﹂

が父と子の関係に持ち込まれ︑誕生概念を介して﹁生まれざる義﹂

iustitia ingenita

︶と﹁生まれたる義﹂︵

iustitia genita

︶として捉え

直されていることである︒﹁生まれざる義﹂とは始原を持たない義

であり︑﹁生まれたる義﹂とはこの始原を持たない﹁生まれざる義﹂

から生み出された始原を持つ義である︒エックハルトは神的ペルソ

ナ間の父と子両者の関係を霊的完全性︵

perfectio  spiritualis

︶であ

る﹁義﹂に当てはめて︑父である﹁生まれざる義﹂︵

iustitia  ingen-

ita

︶と子である﹁生まれたる義﹂︵

iustitia genita

︶と捉えるのである︒

  なぜであろうか︒エックハルトの究極的関心は︑神的ペルソナ間

の父と子に当てはめた﹁生まれざる義﹂︵

iustitia  ingenita

︶と﹁生

まれたる義﹂

iustitia  genita

︶の関係を

︑霊的完全性

perfectio 

spiritualis

︶である神の﹁義﹂︵

iustitia

︶とそこから﹁生まれたる義﹂

iustitia  genita

︶すなわち﹁義なる人間﹂︵

homo  iustus

︶との関係

として洞察することにあるからである︒

  エックハルトは︑﹁わたしと父とは一つである﹂︵ヨハ

10・ 30︶と

いう聖書箇所の記述に関して︑一つであると言われている父と子の

関係は︑義︵

iustitia

︶と義なる者︵

iustus

︶の例において明らかに

知ることができるとして︑つぎのように語る︒

(5)

ドイツ神秘思想の依拠する神論の伝統二五 ここで言われている﹁わたしと父とは一なるものである﹂ということは︑義と義なる者の例において明らかになるであろう︒すなわち︑義︵

iustitia

︶は父であり︑義は全き仕方で義なる者

iustus

︶を

︑この者が義なる者であるかぎりにおいて

︑生む

のである︒義は全き仕方で義なるものを生むのであるから︑そ

こから帰結することは︑生む義ないし父と︑生まれた義なる者

ないし生み出された子とは︑一なるもの︵

unum

︶であるとい

うことである︒さらに︑いかなるものも自分自身を生むことは

できないのであるから︑そこから帰結することは︑義なる者は

義なる者を生む義そのものとは他の者︵

alius

︶であるというこ

とである

︶9

  すなわち︑これまで見てきた父と子における中性名詞的・男性名

詞的表出の論旨にのっとって︑父である﹁義﹂︵

iustitia

︶すなわち

神の霊的完全性と

︑子である

﹁義なる者﹂

iustus

︶すなわち

﹁義 である人間﹂

homo  iustus

︶とは

︑ペルソナにおいては

﹁起源

origo

︶と区別

distinctio

︶と流出

emanatio

︶﹂

に関係する男性

名詞で表わされる﹁他の者﹂︵

alius

︶であるが︑その本質において

は中性名詞で表わされる﹁一なるもの﹂︵

unum

︶であるという解釈

である︒  このように﹁義﹂︵

iustitia

︶からの﹁義である人間﹂すなわち﹁義

なる者﹂

iustus

︶の誕生が説かれるのである

︒つまり子であり男

性名詞で表わされた

﹁義なる者﹂

iustus

︶がまさに人間に重ねあ

わされていく︒

  この問題が主題的に展開されているのはエックハルトの主著とも

いえる﹃ヨハネ福音書注解﹄においてである︒そこでは一般にエッ

クハルトの代表的教説とされている﹁魂における神の︵子の︶誕生﹂

Gottesgeburt  in  der  Seele

︶が﹁神的人間の誕生﹂として︑すなわ ち﹁義﹂︵

iustitia

︶からの﹁義なる者﹂︵

iustus

︶の誕生として扱わ

れている︒われわれの内に住んでいる︑かつわれわれを恩寵によっ

て自分と等しいものにするキリストの内で︑﹁肉になった言葉﹂で

ある神の同じ子によって︑われわれ﹁義なる者たち﹂︵

iusti

︶ ︑ ﹁

の形をした者たち﹂︵

deiformes

︶はみな神の子ら︵

filii  dei

︶と名づ

けられ︑またそうあるのである︵Ⅰヨハネ3・1

︶10

︶と語られる︒た

だしその際主題的に論究されているのは︑いかにすれば義なる者の

誕生が生起するかという﹁ドイツ語著作﹂で説かれているような実

践的︑司牧的な問題ではなく︑われわれがこれまで見てきたように︑

父と子が本性︑本質において﹁一なるもの﹂︵

unum

︶であるという

観点に基づいた﹁義﹂︵

iustitia

︶と義である人間たる﹁義なる者﹂

iustus

︶との思弁的な考察である︒こうしたテーマをめぐるエッ

クハルトのメッセージは︑﹁神的本性に固有のものは何であれ︑義

である神的な人間に完全に固有である

︶11

﹂という文言として異端審問

対象となり︑一三二九年に出されたヨハネス二十二世の教書﹃主の

耕地にて﹄︵

In  agro  dominico

︶で異端断罪されることになるので

(6)

二六

ある︒

︵四︶﹁始原﹂︵

principium

︶と﹁始原から   

 

生みだされたもの﹂︵

principiatum

  さて︑﹁八つのことがらテキスト﹂に戻ると︑引き続き第三として︑

男性形で語られる各ペルソナは

︑同時に

﹁唯一なる父﹂

unicus 

pater

︶︑﹁唯一なる子﹂

unicus  filius

︶︑﹁唯一なる聖霊﹂

unicus 

spiritus sanctus

︶であると伝統的に理解されていることが確認され

ている︒つぎに第四︑第五︑第六であるが︑以下のように述べられ

ている︒

第四には︑父はそれであるところのみずから全体を子に︑みず

から全体を聖霊に伝達するということである︒第五に︑その伝

達︵

communicatio

︶は︑時間的︵

temporalis

︶ではなく永遠的

aeterna

︶であるので︑アタナシオスが言うように︑﹁そこに

はいかなる先のものもなく︑後のものもないのであり︑より大

きいものも︑より小さいものもない﹂︑というのは︑伝達する

ものはそれがそれであるところのみずから全体を生み出される

ものに伝達するからであり︑﹁すべての三つのペルソナは︑互

いに同永遠的︵

coaeterna

︶で︑同じ等しいものである﹂から

である︒第六には︑父は始原なき始原︵

principium  sine  prin- cipio

︶であり

︑したがって生まれることもなく

︑発出するこ

ともないということである︒しかし子は始原からの始原︵

prin-

cipium a principio

︶であり︑それゆえにその始原そのものから 生まれた

genitus

︶ものであり

︑しかし生まれたといっても

制作された︵

factus

︶のでも創造された︵

creatus

︶のでもない︒

なぜなら︑子はその始原そのものであるからである︒﹁しかし

聖霊は︑父と子から制作されたのでもなく︑創造されたのでも

なく︑生まれたのでもなく︑発出するもの︵

procedens

︶である

︶12

﹂ ︒

  ここではアタナシオスの言葉

︶13

を引用して︑キリスト教神論の中核

的信仰内容が確認されている︒つまり父︑子︑聖霊の三つのペルソ

ナの神性における同一性と起源における差異とが語られているが︑

注意すべきことは︑父と子に関して︑父は﹁始原なき始原﹂︵

prin-

cipium sine principio

︶であり︑子は﹁始原からの始原﹂︵

principium  a principio

︶であると﹁始原﹂︵

principium

︶という語が用いられて

いることである︒

  もちろんこの﹁始原﹂︵

principium

︶という語は︑父は子と聖霊

の﹁源﹂︵

principium

︶であるという神論における起源関係を表す

ラテン教父の伝統

︶14

にしたがって用いられていることは明らかである

が︑この理解を基礎とした上で︑エックハルトはさらにこの﹁始原﹂

principium

︶という語を神の被造物への関わりを表す

﹁原因﹂

causa

︶という語の内実を含めた上で包括的な概念として﹃ヨハネ

(7)

ドイツ神秘思想の依拠する神論の伝統二七 福音書注解﹄の内で用いているのである︒﹁ラテン語説教

II, 1

﹂で

はつぎのように述べられている︒

原初的あるいは本源的第一の第一たる諸原因においては︑その

場合むしろ固有的には

︑原因

causa

︶というよりは

︑始源

principium

︶という名前であるが︑そこでは始原︵

principium

は一切の固有性をたずさえて余すところなく始原から生まれた

もの︵

principiatum

︶の内に降り下るのである

︶15

  本来︑神的ペルソナの起源的秩序を表す概念であった

principium

は︑そこから生み出されたもの︵

principiatum

︶との原因結果関係

における構造釈義という新たな問題領域を負うことになるのである︒

エックハルトの

principium ‒ principiatum

理解は

︑旧約の

﹁創

世記﹂冒頭と新約の﹁ヨハネによる福音書﹂冒頭にある﹁初めに﹂

in  principio

︶という言葉を手がかりにして展開されていく︒すな

わち﹁初めに︵始原において︶神は天と地を創造した﹂その始原と︑

﹁初めに︵始原において︶言があった﹂その始原は同一の始原であり︑

万物の創造

creatio

︶と子の誕生

generatio

︶が同一の始原にお

ける出来事として捉えられてくるのである

︶16

  原因︵

causa

︶と原因から生まれたもの︵

causatum

︶の関係は創

造論の内に定位され︑常に生み出されたものは︑生み出すものに比

べて︑より劣った︑より小なる︑より不完全で︑非同等的なもので ある類比的産出

︶17

として理解され︑それに対し︑父からの子の誕生は︑

生み出されたものは︑生み出すものと常に同等なるものであり︑同

一の本性を分有するのではなく︑その全本性を端的に︑総体的に︑

かつ同等に︑その始原から受け取るという同名同義的産出

︶18

として理

解されていく︒

  以上のような創造論︑誕生論全体にわたる理論的枠組みが﹁本質

的始原論

︶19

﹂というエックハルト神学の要の理論として︑ドミニコ会

での上長であるフライベルクのディートリヒ︵一二四〇/五〇頃│

一三一八/二〇︶の﹁本質的原因論﹂を発展的に引き継ぐのである︒

そしてこうしたエックハルト神学の基礎論理である

﹁本質的始原

論﹂が︑聖人たちと博士たちが神への信仰について書いているさま

ざまな教えの内で確認できる﹁八つのことがら﹂の第四︑第五︑第

六に依拠して展開されていることがここからわかるのである︒

︵五︶三つのペルソナに対応する超範疇的概念

  

 

transcendentia

︶とその互換性

  つぎに第七番目︑八番目のことがらについて見ていくことにする︒

以下のように語られている︒

第七には︑それら︵父︑子︑聖霊︶は被造物の一なる始原︵

unum 

principium

︶であるから︑これらの三つの働きは被造物におい

(8)

二八

ては分けられていないということである︒それゆえ被造物にお

いては︑父に対応する存在するもの︵

ens

︶と︑子に対応する

真なるもの︵

verum

︶と︑聖霊に固有の仕方で対応する善なる

もの

bonum

︶とは互換可能であり

︑それらは一なるもの

unum

︶であるが︑概念によってのみ︵

sola  ratione

︶区別さ

れているのである︒それは父と子と聖霊とは一つであるが︑関

係によってのみ区別されているようなものである︒そしておそ

らくはこのことが︑一なるものという語︵

li  unum

︶︑それは存

在するもの︑真なるもの︑善なるものと同じ仕方で互換可能で

あるのだが︑それが一つの個々のペルソナに固有な仕方で関係

せず︑一性を保持しているということの理由であろう︒それは

﹁実体は一性を保持し︑しかし関係は三性を展開する﹂という

ボエティウスの﹃三位一体論﹄の言葉に従っている︒というの

は真なるものと善なるものとが存在するものの上に肯定的な意

味︵

ratio  positiva

︶を付け加えるようには︑一なるものという

語︵

li  u num

︶は存在するものの上にいかなる肯定的な意味も

付け加えることがないからである︒このことは︑アウグスティ

ヌスによって︑一性︵

unitas

︶が優位にあること︵

prioritas

︶を

あるいは泉のような伝播を︑かつ起源︵

origo

︶を表すという

理由から父︵

pater

︶に帰されているということとは対立しな

い︵

nec   obstare

︶︒

な ぜ な ら ば

︑ 一 な る も の と い う 語

li  

unum

︶は︑これらの肯定的な意味︑すなわち優位にあるもの ︵

prioritas

︶あるいはそういった類のものを表示しないからで

ある︒第八に︑父なる神は遣わされるとはいわれていない︒し

かし︑子と聖霊とは両者とも聖書のいたるところで遣わされた

ものとして読むことができる︵ヨハネ一四・二六︑十六・七︑

二八

︶20

︶ ︒

  この第七番目で語られていることは︑存在するもの︵

ens

 

︑真

なるもの︵

verum

  bonum unum

︶ ︑ 善なるもの︵︶︑一なるもの︵︶

が被造物にあっては区別されないものであるといういわゆる超範疇

的概念︵

transcendentia

︶に関することがらである︒すでに先に見

たようにエックハルトがこのテーマに深い関心を寄せていることは

あらためて注目すべきこととして確認できる︒

  スコラ学では︑現実に存在するもの︵

ens  reale

︶が真なるもの

verum

︶であるとは︑一般につぎのように理解されることがらで ある

︒真理

veritas

︶とは対象と認識の一致をいう

︒それゆえ真

なるもの︵

verum

︶とは対象と認識の一致したものであることにな

る︒ある現実に存在するもの︵

ens reale

︶を対象として感覚認識が

取り込んだ感覚的表象像︵

phantasma

︶を手がかりにして︑人間知

性はその本質を抽象しそれと一つとなることで︑すなわち対象と認

識の一致に基づいて︑知性認識を成立させる︒それゆえあらゆる現

実に存在するもの︵

ens reale

︶は存在するもの︵

ens

︶であるかぎり︑

認識可能なものとして真なるもの︵

verum

︶であるとされるのであ

(9)

ドイツ神秘思想の依拠する神論の伝統二九 る︒存在するもの︵

ens

︶が真なるもの︵

verum

︶であるとは︑そ

れゆえ存在するもの︵

ens

︶であるかぎりは認識可能なものである

ことを意味している︒さらにある現実に存在するもの︵

ens reale

が同時に善なるもの

bonum

︶であるとは

︑どんな存在するもの

ens

︶であろうともそのものとして存在しているのであって︑その

ものとして存在しているかぎり︑そのような存在として完成したと

いうある意味での完全性を持っていることになる︒何であろうとな

んらかの完全性を持つものは志向・獲得対象となりうるものである

ため善なるもの︵

bonum

︶とされるのである︒それゆえに現実に存

在するもの︵

ens  reale

︶は存在するもの︵

ens

︶であるかぎり真な

るもの︵

verum

︶であり善なるもの︵

bonum

︶であることになる︒

これが真なるもの︵

verum

︶も善なるもの︵

bonum

︶も存在するも

の︵

ens

︶に対してともに範疇を超えて適応される概念︵

transcen-

dentia

︶であるとされる理由である︒

  一なるもの︵

unum

︶に関しても同様である︒エックハルトの言

葉を引けば︑﹁一なるものそのものはその固有性からすると区別性

を示している︒すなわち一なるものそれ自身において区別されざる

ものであり︑多のものからは区別されたものである

︶21

﹂︒現実に存在

するもの︵

ens  reale

︶は存在するもの︵

ens

︶であるかぎりは認識

対象となろうが︑志向対象となろうが︑その存在するもの︵

ens

としての自己同一性に基づく一なるまとまりを持っていることにな

る︒この他者弁別的な自己同一性に基づくそのものとしてのまとま りとでもいうべきものが一なるもの︵

unum

︶で表わされるのであ

る︒  以上がスコラ学における超範疇的概念︵

trascendentia

︶の一般的

理解であるが︑注意すべきは︑こうした存在するもの︵

ens

︶︑一な

るもの

unum

︶︑

真なるもの

verum

︶︑善なるもの

bonum

︶の

概念の互換性を今述べたような被造物の観点からではなく︑三位一

体論から理解しようとしている点である︒エックハルトは︑これら

の四つのものは︑すべての事物によって分有される共通のものであ

︶22

︑と縷々語るが︑これらの四つのものがすべての事物によって分

有される互換可能な共通なものである理由を︑父︑子︑聖霊が被造

物の一なる始原︵

unum  principium

︶であり︑これらの三つの働き

は被造物においては分けられていないと︑神論に即して理解してい

る点が重要であろう︒超範疇的概念︵

trascendentia

︶が本来的には

神に適合するものであるという理解が明確に示されているからであ

る︒  つまり超範疇的概念の有する互換性の根拠を三位一体論におく伝

統的な理解を踏まえているのである︒神論においては︑存在するも

の︵

ens

︶を父に相当するもの︑真なるもの︵

verum

︶を子に相当

するもの︑さらに善なるもの︵

bonum

︶を聖霊に相当するものと解

す伝統

︶23

があるが︑被造物において超範疇的概念︵

trascendentia

︶が

互換的である理由を︑そうした解釈の伝統に立って︑父︑子︑聖霊

が一なる実体である︑すなわち

unum

であるという三位一体論に照

(10)

三〇

らして見るのである︒父に対応する存在するもの︵

ens

︶も︑子に

対応する真なるもの︵

verum

︶も︑聖霊に固有の仕方で対応する善

なるもの︵

bonum

︶も一なる実体であり一なるもの︵

unum

︶であ

ることによって同一のものと見るのである︒三つのペルソナが関係

relatio

︶ に よ っ て の み 区 別 さ れ て い る よ う に

︑ そ れ ら は 概 念

ratio

︶によって区別されているに過ぎない︑とされる︒概念によ

る区別とは︑認識可能性︑志向・獲得可能性等から見た区別である︒

被造物における超範疇的概念の有する互換性の理由が︑三位の神が

被造物の一なる始原︵

unum  principium

︶であることに帰せられて

いることからも分かるように︑﹁始原﹂︵

principium

︶とはエックハ

ルト神学において︑一切の神学的理論がそこへと収斂する始原的根

拠なのである︒

  この七番目の項目の後半では︑以上のような理解からエックハル

トは﹁一なるものという語﹂︵

li  unum

 

が特定なペルソナに固有な

仕方で結び付けられてこなかったと解釈する︒すなわち︑三つのペ

ルソナが﹁関係﹂︵

relatio

︶による﹁区別﹂であることが︑一つの﹁実 体﹂︵

substantia

︶として区別なきことを表す一なるものという語︵

li 

unum

︶とペルソナとが結びつけられなかった理由であろうと︑ボ

エティウスの﹃三位一体論﹄の言葉︑﹁実体は一性を保持し︑しか

し関係は三性を展開する﹂に依拠して推測しているのである︒ ︵六︶父のペルソナと一性︵

unitas

︶の結びつき

  しかしこのあとのエックハルトの一連の記述が問題なのである︒

まずは︑問題なく上述の理解と整合している説明を見ていくと︑﹁実

体は一性を保持し︑しかし関係は三性を展開する﹂というボエティ

ウスの言葉を解釈して︑というのは﹁真なるもの﹂と﹁善なるもの﹂

とが﹁存在するもの﹂の上に肯定的な意味を付け加え展開している

のに対し︑﹁一なるものという語﹂︵

li  unum

︶は﹁存在するもの﹂

の上にいかなる新たな肯定的な意味も付け加えることがないのでそ

の一性を保持していることになるからであると語る︒すなわち関係

のカテゴリーによって展開されている三つのペルソナに﹁真なるも

の﹂と﹁善なるもの﹂は適応するが︑一性を保持している﹁一なる

ものという語﹂︵

li  unum

︶は実体のカテゴリーに適応するものであ

り同列におかれていない︑と解釈しているのである︒確かに︑﹁真

なるもの﹂とは﹁認識可能な存在するもの﹂として﹁存在するもの﹂

に認識可能性という肯定的な意味が付け加えられている︒﹁善なる

もの﹂も﹁存在するもの﹂に志向・獲得可能性という肯定的な意味

が付け加えられている︒しかし﹁一なるもの﹂は先に見たように︑

あるまとまりとしての自己同一性を表すだけで﹁存在するもの﹂に

肯定的な新たな意味の付加はない︒そうした差異から﹁一なるもの﹂

は﹁真なるもの﹂および﹁善なるもの﹂と同列に並べられていない

(11)

ドイツ神秘思想の依拠する神論の伝統三一 と解釈しているのである︒この限りにおいてはその論旨は十分に理解できるものである︒  そのあと︑しかしこのことは︑﹁アウグスティヌスによって︑一 性︵

unitas

︶が優位にあること︵

prioritas

︶を︑あるいは泉のよう

な伝播を︑かつ起源︵

origo

︶を表すという理由から父︵

pater

︶に

帰されているということとは対立しない﹂︑と父に一性を帰するア

ウグスティヌスの論をこれまでの理解と矛盾していない解釈として

肯定しているのである

︒﹁なぜならば

︑一なるものという語

li 

unum

︶は︑これらの肯定的な意味︑すなわち優位にあるもの︵

pri-

oritas

︶あるいはそういった類のものを表示しないからである﹂︑と

その理由を説明する︒

  文言通りに受けとれば︑﹁一性﹂︵

unitas

︶は優位にあるもの︵

pri-

oritas

︶︑泉のように伝播するもの

︑起源

origo

︶である

︑という

理由から父︵

pater

︶に帰されているが︑﹁一なるものという語﹂︵

li 

unum

︶は﹁存在するもの﹂に肯定的な新たな意味の付加はないので︑

﹁優位にあるもの﹂︵

prioritas

︶といった類のものを表示しない︒そ

れゆえ﹁一なるものという語﹂︵

li  unum

︶を肯定的な新たな意味を

付加する

﹁真なるもの﹂および

﹁善なるもの﹂と同列に並べて父

pater

︶というペルソナに結びつけることはされなかったのである︑

ということになる

︒ 一方は

﹁一性﹂

unitas

︶についてであり

︑ 他

方は﹁一なるものという語﹂︵

li  unum

︶についてであり︑両解釈は

対立するものではない︑と主張しているかのように見える︒   しかし一性︵

unitas

︶が優位にあること︵

prioritas

︶を︑あるい

は泉のような伝播を︑かつ起源︵

origo

︶を表す︑という理由の検

証もなく︑権威として引かれているだけである︒

  ﹁一性﹂︵

unitas

︶と﹁一なるもの﹂︵

unum

︶の区別によって父に

適応する︑適応しないという理論が両立すると言う主張は理解しが

たいといわざるをえない︒すでに見たように︑﹁これらの四つのも

のは

︑同一のものであり

︑その基体

suppositum

︶ないしは主体

subiectum

︶に関しては

︑実在的に互換することができる

︶24

﹂と語

られていたように︑主体︑基体としての﹁一なるもの﹂︵

unum

︶の

本質が﹁一性﹂︵

unitas

︶として表示されることの自明性は議論の

余地がないからである︒

  ここで問題とされることは︑﹁一なるもの﹂︵

unum

︶は一なる実

体に帰せられるべき概念であってけっしてペルソナに適合する概念

ではなく︑それゆえ父には﹁存在するもの﹂︵

ens

︶が適合するとい

う伝統的解釈に対して︑その意義を十分受け止めた上で︑父には﹁一

性﹂︵

unitas

︶が帰せられるとするアウグスティヌスの解釈は︑そ

の理由付けにはこれまでの論旨とは明らかに矛盾があるにもかかわ

らず︑これに対立するものではないと受け止めようとするエックハ

ルトの意図である︒問題となるべきことは︑ここでは詳しく述べら

れていない︑父に一性が帰せられる根拠をエックハルトはどう見て

いるかというということであり︑そして何よりも︑父に一性が帰せ

られるということから導き出されるであろうエックハルトの思想的

(12)

三二

メッセージである︒

︵七︶﹁存在するもの﹂︵

ens

︶と﹁一なるもの﹂︵

unum

  まず父に﹁存在するもの﹂︵

ens

︶が対応するという伝統的解釈の

根拠を確認しておきたい︒この伝統的解釈が﹁出エジプト記﹂︵3・

13︶の﹁わたしは存在するという者である

︶25

﹂ ︵

ego  sum  qui  sum

という﹁神の名﹂に関わる問題領域を継承していることは明らかで

あろう︒エックハルト自身も﹃出エジプト記注解﹄の中で︑この章

句を解釈して︑すなわち名づけるもの︵

agnominans

︶そのものが

名 づ け ら れ る も の

agnominatum

︶ そ の も の で あ っ て

︑ 本 質

essentia

︶は存在︵

esse

︶であり︑何性︵

quiditas

︶は存在性︵

anitas

である

︶26

︑として︑それは︑基体︵

subiectum

︶における︑かつ基体 の 純 粋 な 存 在

purum   esse

︶ で

︑ し か も 露 わ な 存 在

nudum  

esse

︶を表しているのであり︑その存在そのもの︵

ipsum  esse

︶が

基体︵

subiectum

︶なのであって︑基体の本質︵

essentia  subiecti

なのである︒すなわち本質︵

essentia

︶と存在︵

esse

︶は同一であっ

て︑それは神にのみ適合することである

︶27

︑と解釈している︒

  ここで注目すべきことは︑神にあっては本質︵

essentia

︶と存在

esse

︶は同一であるが

︑また同時に

﹁その存在そのもの

ipsum 

esse

︶が基体

subiectum

︶なのであって

︑基体の本質

essentia 

subiecti

︶なのである﹂とされていることである︒神にあっては︑ その存在を限定するいかなる本質もないゆえに︑本質︵

essentia

と存在︵

esse

︶は同一であるとされるが︑三位一体論の観点から言

うならば︑神的働きの主体としてのペルソナもまたその存在と同一

︵一なるもの︶であるとされるのである︒それゆえ存在︵

esse

︶と

は基体のすなわちペルソナの本質︵

essentia

︶を表していることに

なる︒ゆえに﹁存在﹂︵

esse

︶を働きの主体という観点から語った

﹁存在するもの﹂︵

ens

︶という概念は三つのペルソナにとっての基

礎的概念となっているので︑聖人および神学者たちはこれを第一の

ペルソナである父に帰しているのである︑というエックハルトの理

解がこの言説からは読み取れるのである︒

  子に適合する﹁真なるもの﹂︵

verum

︶は﹁存在するもの﹂︵

ens

に認識可能性が付加された概念であり︑聖霊に適合する﹁善なるも

の﹂︵

bonum

︶とは﹁存在するもの﹂︵

ens

︶に志向・獲得可能性が

付加された概念であるとされるのはそういった理由による︒ならば

この﹁存在﹂︵

esse

︶ないしは﹁存在するもの﹂︵

ens

︶とは一体ど

のよう理解すべきものとエックハルトは考えているのであろうか︒

超範疇的な概念としての﹁存在するもの﹂︵

ens

︶のエックハルトに

よる解釈を探っていくことにする︒

  エックハルトは先に引用したように︑存在︵

esse

︶︑一なるもの

unum

︶︑真なるもの︵

verum

︶︑善なるもの︵

bonum

︶という四つ

のものは︑本来的には神に適合するものであり︑神の述語づけに際

しては互換することができる概念であるが︑しかしまたすべてのも

(13)

ドイツ神秘思想の依拠する神論の伝統三三 のによって分有される共通のものでもある︑と述べ続けてつぎのように語っている︒

注目すべきことは︑存在︵

esse

︶︑一なるもの︵

unum

︶︑真な

るもの︵

verum

︶︑善なるもの︵

bonum

︶というこれら四つの

ものは︑本来的には神に適合するものであり︑互換することが

できるものであり︑すべてのものによって分有される共通のも

のであるということである︒しかし存在︵

esse

︶は一つには︑

内奥と本質に関わるものであり︑また一つには他のものと関係

しないものであり︑無限定なものであるので︑その本質からす

れば︑いかなる産出の始原︵

principium

︶でもない︒すなわち︑

区別がなく無限定なものからは︑何ものも発出しない

︶28

︒ ・

・ ︿ 中

略﹀・・このことからまた神学者たちは︑存在ないし本質は生

むことも︑生まれることもないと言っている

︶29

  神において存在︵

esse

︶と本質は同一であるので︑神の本質であ

る存在は無限定なものである︒区別がなく無限定なものからは︑何

ものも発出しないとされている︒このことは﹃集会の書に関する説

教と講話﹄の中でつぎのように説明されている︒神のうちには︑二

つの範疇のみが︑すなわち実体と関係のみが存しているが︑実体は

実体の本質からして︑それ自身を注ぎ出すものではないということ

である︒というのは︑一つには︑実体は内部に関わっており︑自分 自身に関わっており︑他のものに関わっていないからであり︑一つには︑実体はそれ自身によって︑かつそれ自身を通して︑存在に関わっているからである︒その存在とは︑つねに神的なものにおける一なるもの︵

unum

︶であるからである

︶30

︑と︒自存する実体として

の無限定な存在は﹁一なるもの﹂︵

unum

︶として他との関係を断つ

ものであると解釈されている︒

  以上のような理解から︑それゆえに聖人たちや博士たちが最上の

仕方で言っていることは︑神的なものにおいては︑本質は何も生み

出さないということであり︑生む能力は︑端的な意味における本質

ではなく︑関係をともなう本質であるということである

︶31

︑と説明し

ている︒すなわち︑生む能力は︑関係の範疇が適用される基体︑つ

まり﹁関係をともなう本質﹂であるペルソナ的主体を前提として初

めて語られうることになるのである︒存在︵

esse

︶は働くものから

解き放たれているものである

︶32

︒神は存在︵

esse

︶と本質の観点の下

では︑あたかも眠っているものであり︑隠れているものであり︑そ

れ自身においては隠されているのであって︑生むもの︵

generans

でもなければ︑生まれたもの︵

genitus

︶でもなく︑父︵

pater

︶と

父性︵

paternitas

︶の観点の下で初めて︑実り豊かさと芽と産出と

の固有性を受け取り︑纏うことになるのである

︶33

  とするならば父に存在︵

esse

︶が対応するかぎり︑父は産出の始

原︵

principium

︶として説明することができないことになる︒父に

﹁始原なき始原﹂︑﹁生まれずして生む者﹂であることを帰するため

(14)

三四

には︑他のロジックが必要とされる︒先の引用文に続けて︑

それに対して一なるもの︵

unum

︶は︑すでにあげた四つのも

ののなかでは︑最も直接的に存在︵

esse

︶に関わるのであり︑

最初に︑かつ最小限度において存在を規定するものである︒そ

れゆえに︑﹃形而上学﹄第十巻から明らかなように︑一なるも

のは最初に限定されるものとしてあり︑多なるもの︵

multum

に対して存在を規定するものである︒したがって一なるものそ

のものには︑その本質と固有性から最初の産出するもの︵

pri-

mum  productivum

︶であること︑ならびにすべての神性と被 造物の父︵

pater

︶であることが適合するのである︒ここから また

︑聖人たちや博士たちは

︑神的なものにおける父に一性

unitas

︶を帰属せしめているのである

︶34

  アリストテレスは﹃形而上学﹄第十巻第二章で︑﹁ひとりの人間

ということによっても人間ということ以外の何事をも余計に言い表

すことにはならない

︶35

﹂と記し︑各々のものがそれぞれ一つであるこ

とは︑まさにそれぞれがその各々であることに他ならないという事

実によっても明らかである

︶36

と説明している︒

  エックハルトも哲学者︵アリストテレス︶に依拠して﹁一なるも

の﹂︵

unum

︶は最小限度において存在︵

esse

︶を規定するものであ

るとする︒前述の﹁第七番目のことがら﹂で言及された︑存在する もの︵

ens

︶に対して肯定的ないかなる意味の付加もないというこ

とがこのことに該当する︒さらにアリストテレスによれば︑存在す

るものが諸々の色であれば︑一つのものとはある限定された色︑例

えば白を指すことになる

︶37

︒つまり存在するものを限定する場合には︑

一つのものでなければならない︒つまり一なるものは存在を最初に

限定されるべきものとしてある

︒ アリストテレスはまた

︑一とは

各々の類の第一の尺度であり︑尺度とはそれによってものの量が知

られるものであるが

︑量が量として知られるのは

︑一または数に

よってであり︑そして数は︑すべて一によって知られるのである

︶38

と︑

数すなわち多は一に規定されていると語っている︒

  以上のような﹃形而上学﹄第十巻第二章の記述を背景にして︑こ

のように一なるものは多なるものに対してその存在を限定し規定す

るものであるので︑最初の産出するものであることが適合するとさ

れるのである︒さらに最初の産出するものであることから︑一なる

ものは︑子を生み聖霊を発出する父︑万物を創造する父に適合する

とされている︒この様な理解に基づき︑聖人たちや博士たちは父の

ペルソナに一性︵

unitas

︶を帰属せしめているのであると結論づけ

ているのである︒これまで見てきたエックハルトの解釈をまとめる

と以下のようになる︒

  ﹁存在﹂が神の﹁本質﹂であり﹁神の名﹂であるという釈義伝統

を堅持しつつ︑父のペルソナには﹁存在﹂が適合するが︑﹁存在﹂

は無限定なものであるので︑その本質からすれば︑いかなる産出の

(15)

ドイツ神秘思想の依拠する神論の伝統三五 始原︵

principium

︶も表すことはできない︒父のペルソナが子のペ

ルソナを生み︑聖霊のペルソナを発出するという産出を﹁存在﹂と

いう概念から説明することはできないのである︒

  それに対して﹁一なるもの﹂はアリストテレスも語るように︑﹁多

なるもの﹂︵

multum

︶に対してその存在を規定するものであり︑そ

の本質と固有性から最初の産出するものを表していると理解される︒

ところでアリストテレスも語るように︑﹁一なるもの﹂という概念

は﹁存在するもの﹂という概念にいかなる意味の付加も与えること

はないので︑産出性という観点から︑聖人たちや博士たちは父のペ

ルソナに﹁存在﹂に代えて﹁一性﹂︵

unitas

︶を帰してきたのである︑

とエックハルトは理解するのである︒︵次回掲載の後半に続く︶

︵1︶ 例えば﹁しかし︑言は︑自分を受け入れた人︑その名を信じる人々には

神の子となる資格を与えた﹂︵ヨハ一・一二︶ ︑﹁言は肉となって︑わたし

たちの間に宿られた﹂︵ヨハ一・一四︶︑﹁神は前もって知っておられた者

たちを︑御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました︒それ

は︑御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです﹂︵ロマ八・二九︶︑

﹁わたしたちは皆︑顔の覆いを除かれて︑鏡のように主の栄光を映し出し

ながら︑栄光から栄光へと︑主と同じ姿に造りかえられていきます﹂︵二

コリ三・一八︶︑﹁彼の名はインマヌエルである﹂︵イザ七・一四︶等々︒

︵2︶ Hugo Rahner, . 

. In Zfk Th 59 (1953), pp.333-418︵3︶ アウグスティヌス︑ペトルス・ロンバルドゥス︑トマス・アクィナスか らの所論であることが確認されている︒

︵4︶ . n358; LWIII, 303, 6-7: Inter alia quae sancti et doctores scribunt 

de deo fidem instruentia sunt octo ad praesens.

︵5︶ . n. 358; LWIII, 303, 8-304, 2: Primum est quod in deo est persona-

rum trinitas: pater et filius et spiritus sanctus. Secundum quod ‘hi tres 

unum sunt’, loh., unum, inquam, neutraliter, quod essentiam sive substan-

tiam significat, non autem unus nec una persona masculine et feminine, 

quae originem sapiunt, distinetionem et emanationem. Mas et femina in 

eadem natura distinctionem sexus indicant et generationem. Rursus ter-

tio, quod in hac trinitate unicus pater, unicus filius, unicus spiritus 

sanctus.︵6︶ . n. 65; LWII, 393, 6-10: Est enim iustitia ingenita et iustitia genita 

unum simpliciter in natura et neutraliter, non autem feminine. Sexus 

enim, sive masculinus sive femininus, ad generationem et ad emanatio-

nem pertinet, neutrum non sic. Propter quod in divinis natura sive 

essentia non generat; et sunt unum neutraliter, non unus masculine,︵7︶ Cf. . . n. 8; LWI, 36, 28-29︵8︶ Cf . n. 512; LWIII, 443, 7-8,ここでは四つのものとしてesse, unum,  verum,bonumが挙げられている︒さらにCf. . n. 562; LWIII, 489, 1-2

︵9︶ . n. 511; LWIII, 442, 11-443, 3: Patet hoc quod dicitur 

 in exemplo de iustitia et iusto. Iustitia enim pater est et se 

tota parit iustum se toto, in quantum iustus est. Quia ergo se tota iustum 

se toto parit, sequitur quod sint unum iustitia parens sive pateret iustus 

partus sive filius genitus. Rursus, quia nihil se ipsum gignere potest, 

sequitur quod alius sit iustus ab ipsa iustitia gignente iustum.︵

10Cf. . n. 120; LWIII, 105, 5-8︶ 

11. . n. 65; LWV, 598, 52-53: Quicquid proprium est divine nature, ︶  hoc totum proprium est homini iusto et divino. この文は第

13条全体の前

(16)

三六

半部に当る︒

12. n. 358-359; LWIII, 304, 3-13: Quarto, quod pater communicat se ︶ 

totum quod est filio, se totum spiritui sancto. Quinto, quod ista communi-

catio, cum non sit temporalis, sed aeterna, >nihil ibi prius et posterius, 

nihil maius aut minus«, quia communicans se totum quod est communi-

cat producto, >sed totae tres personae coaeternae sibi sunt et 

coaequales«, ut ait Athanasius. Sexto, quod pater est principium sine 

principio, et consequenter ingenitus nec procedens. Filius autem est prin-

cipium a principio, et propter hoc genitus ab ipso suo principio, genitus 

quidem, sed non factus nec creatus, cum sit ipsum suum principium. 

>Spiritus vero sanctus a patre et filio, non factus, non creatus nec geni-

tus, sed procedens«.︵

︵ 13, PG 28, 1585.︶  14︶ P.ネメシェギによれば︑ギリシア教父たちは父を子と聖霊の﹁原﹂

︵αἴτιον︶と呼び︑子と聖霊を﹁原よりの者﹂︵αἰτιατόν︶と呼ぶのが常であ るが︑それに反してラテン教父たちは﹁原﹂︵causa︶という語を被造物に 対する神の関係を表すためにのみ用い︑父を子と聖霊の﹁源﹂︵principium︶

と呼ぶのであるとされる︒P.ネメシェギ﹃父と子と聖霊│三位一体論│﹄

南窓社︑一九九三年増訂版一七九頁参照︒

15. , , n. 6; LWIV, 6-9.: In causis autem primordialibus sivi origi-︶ 

nalibus primo-primmis,ubi magis proprie nomen est principii quam 

causae, principium se toto et cum omnibus suis proprietatibus descendet 

in principiatum.︵

︵ 16Cf. . I, n. 3; LWI, 186, 13-187, 2︶ 

︵ 17Cf. . n. 5; LWIII, 7, 4-5︶  18Cf.  n. 5; LWIII, 7, 5-7︶ 

19︶ エックハルトの本質的始原論についての詳細は田島﹁エックハルトにお

ける﹃本質的始原論﹄と﹃義なる者﹄︵iustus︶│異端判決と‘in quantum’ 語法による弁明│﹂﹃早稲田大学大学院文学研究科紀要﹄第五七輯第一分冊︑

二〇一一年︑三│一九頁参照のこと︒

20. n. 360; LWIII, 304, 14-306-4: Septimo, quod indivisa sunt opera ︶ 

horum trium in creaturis, quarum sunt unum principium. Propter quod 

in creaturis ens respondens patri, verum respondens filio, bonum respon-

dens appropriate spiritui sancto convertuntur et unum sunt, distincta 

sola ratione, sicut pater et filius et spiritus sanctus sunt unum, distincta 

sola relatione. Et hoc fortassis est <ratio> quod li unum, quod similiter 

cum ente, vero et bono convertitur, non sic personam aliquam appropri-

ate respicit, sed continet unitatem, secundum illud Boethii De trinitate: 

»substantia continet unitatem, relatio vero multiplicat trinitatem«. Aut 

propter hoc li unum personam dicitur non respicere, quia nullam ratio-

nem positive addit super ens, quomodo verum et bonum addunt super 

ens rationes positivas. Nec obstat quod ab Augustino unitas patri appro-

priatur ratione quidem prioritatis sive fontalis diffusionis et originis, quia 

has rationes positivas, scilicet prioritatis et huiusmodi, non significat li 

unum.Octavo, quod pater in divinis non dicitur mitti, filius autem et spiri-

tus sanctus uterque missus passim legitur in scripturis.︵

21. n. 562; LWIII, 489, 6-7: Ipsum vero unum ex sui proprietate dis-︶ 

tinetionem indicat. Est enim unum in se indistinctum, distinctum ab 

allis....︵

︵ 22Cf. . n. 512; LWIII, 443, 6-7︶ 

︵ 23Cf. Thomas . q. 1 a. l︶  24. n. 562; LWIII, 489, 1-2: Quantum ad primum, sciendum quod ︶ 

haec quattuor praemissa idem sunt et convertuntur realiter quantum ad 

suppositum sive subiectum,

25︶ 新共同訳聖書では﹁わたしはある︒わたしはあるという者だ﹂と訳され

ている︒

(17)

ドイツ神秘思想の依拠する神論の伝統三七 ︵

︵ 26Cf. . n. 20; LWII, 26, 4-5︶ 

︵ 27Cf. . n. 15; LWII, 21, 2-4︶  28. n. 512; LWIII, 443, 6-9: notandum quod haec quattuor: esse, unum, ︶ 

verum, bonum proprie deo conveniunt, convertuntur et sunt communia 

participata ab omnibus. Esse autem, tum quia ad intus et essentiam 

respicit, tum quia absolutum et indeterminatum, nullius produetionis 

principium est secundum sui rationem.︵

29. n. 512; LWIII, 443, 14-15: Hinc est etiam quod theologi dicunt esse ︶ 

seu essentiam nec generare nec generari.︵

︵ 30Cf. . n. 11; LWII, 240, 10-241, 1︶ 

︵ 31Cf. . n. 11; LWII, 241, 1-3︶ 

︵ 32Cf. .. n. 342; LWIII, 291, 1︶ 

︵ 33Cf. . n. 567; LWIII, 495, 4-7︶  34Cf. . n. 513; LWIII, 444, 1-5: Unum vero, quod inter praedicta quat-︶ 

tuor immediatius se habet ad esse, et primo et minimo determinat ipsum, 

propter hoc ut primum determinatum est et esse determinans contra 

multum, ut patet X Metaphysicae, propter hoc ipsi uni competit ex sui 

ratione et proprietate esse primum productivum et patrem totius divini-

tatis et creaturarum. Hinc est quod sancti et doctores appropriant in 

divinis patri unitatem.︵

35 1054a10-19 ︶ アリストテレス﹃形而上学﹄第十巻第二章で一︵ひとつ︶

と存在︵ある︶の関係が考察されている︒引用は岩崎勉訳︑一九九四年︑

講談社学術文庫︑四三三頁による︒

36 1054a19 ︶ アリストテレス上掲書参照のこと︒

37︶ 

﹃エックハルト著作集﹄の注ではアリストテレス上掲書第十巻第二章

 

1053b9-10︑同 1054a19 が示されているが︑1053b30 以下﹁それゆえもし

存在するものが諸々の色であるとすれば︑存在するものはある数であろう︒

しかしそれは何の数であるのか︒まさしく色の数であることは明らかであ る︒しかしその一は何等か一つの色︑例えば白のごときであろう﹂︵岩崎

訳四三二頁︶の記述がエックハルトの理解に合致するように思われる︒

38 1052b19-20 ︶ アリストテレス上掲書第十巻第二章参照︒

参照

関連したドキュメント

 神経内科の臨床医として10年以上あちこちの病院を まわり,次もどこか関連病院に赴任することになるだろ

題護の象徴でありながら︑その人物に関する詳細はことごとく省か

第四。政治上の民本主義。自己が自己を統治することは、すべての人の権利である

ここで融合とは,バンカーが伝統的なエリートである土地貴族のライフスタ

 毒性の強いC1. tetaniは生物状試験でグルコース 分解陰性となるのがつねであるが,一面グルコース分

線遷移をおこすだけでなく、中性子を一つ放出する場合がある。この中性子が遅発中性子で ある。励起状態の Kr-87

図 21 のように 3 種類の立体異性体が存在する。まずジアステレオマー(幾何異 性体)である cis 体と trans 体があるが、上下の cis

熱が異品である場合(?)それの働きがあるから展体性にとっては遅充の破壊があることに基づいて妥当とさ