機関紙『堅田時報』と児童生徒作文に見る戦後復興期の観光論議
中 島 智
概要
本邦で1930年代に起きた観光ブームは1940 年にピークを迎え、戦況の悪化により頓挫した が、敗戦後まもなく復興の足がかりとして改め て観光への政策的関心は高まりを見せ、地域社 会でも観光論議が活発化していった。実際、旧 堅田町(現・滋賀県大津市堅田地区)で刊行さ れていた機関紙『堅田時報』は、町政の動向や 生活情報、町民の声を掲載しているが、そこに も観光論議を見ることができる。
本稿では、この『堅田時報』における1949 年から1950年にかけての3つの記事を取り上 げ、戦後復興期に地域社会において観光がどの ように認識され、評価されたのかを検討した。
その結果、地域固有の自然や文化を生かした地 域振興の手段として観光が捉えられていること が確認された。また、大津市において児童生徒 を対象にした観光教育が実践されていたことが 判明した。
現在、ポスト近代観光をめぐる研究と実践が 進みつつあるが、既に戦後復興期の地域社会に おいて自律的な観光論議が展開され、観光教育 が実施されたことは高く評価できるものであ り、持続可能な地域観光や暮らしをめぐる新た な価値観の創造にもつながる重要な問題提起で あったと思われる。
1.はじめに
終戦後、一年有餘にして、觀光事業は、再 び「時代の寵児」に、成り上らうとしてゐ る。日本の經濟復興を、最も効果的に擔當 するものは觀光事業であるとまで云はれて ゐる(運輸省,1947,6頁=運輸省観光課,
1949,7頁)。
1947年、運輸省観光課の澤明によって『觀 光事業の話』1が刊行され、その中に上記のよ うな記述がある。本邦では、観光は戦前1930 年代にブームが起こり、1940年にピークを迎 えたとされる(ルオフ,2010)が、戦況の悪化 により頓挫する。しかしながら、敗戦を経て戦 後復興期の1946-47年頃には、既に観光論議が 持ち上がっていたのだ。
とすれば当時、民主化という時代の文脈の中 で観光を、地域の人びとはどう捉え語っていた のか。また、運輸省観光課が「時代の寵児」と 評した観光事業の、地域から見た実態は、どう だったのか。こうした点を問うことで、現在の 観光立国論議を相対化し、地域観光政策を推進 する上での示唆を得ることも可能なのではない か。しかし、観光政策史に関する議論自体が研 究の緒についたばかりであり、こうした研究の 蓄積はきわめて少ない。そこで本稿では戦後復 興期に焦点を当てて、地域社会において観光が どのように認識され、評価されたのかを、主に 機関紙『堅田時報』の記事の分析を基に検討し
1
『觀光事業の話』(1947)の発表後、『觀光事業の話 改訂版』(1949)が刊行されている。また同書では、「觀光事業の目標とでもいふべ きもの」として5点を挙げている。すなわち、(一)國際親善、(二)人類文化への貢献、(三)貿易外の収入(の)増加、(四)平和産 業の促進と失業救濟、(五)國民の厚生慰安、である(1947,16-18頁=1949,19-21頁)。
てみたい。
分析対象とする旧堅田町は、滋賀県滋賀郡堅 田町(堅田町・伊香立村・真野村・葛川村・仰 木村)として1901(明治34)年7月20日町制 を施行し誕生、1967(昭和42)年4月1日滋 賀県大津市に編入し、自治体としては消滅した。
琵琶湖の南北を分ける最狭部に位置し、長らく 湖上交通の要衝の地として栄えた堅田は、中世 には水運や漁業に携わり、富を築いた堅田衆が 運営した自治都市であり、琵琶湖の水を引き込 んだ水路が四方をめぐる環濠都市であった。ま た、近江八景のひとつ “堅田の落雁” で知られ、
松尾芭蕉や小林一茶といった俳人をはじめ多く の文化人が訪ねた浮御堂(海門山満月寺)は、
日本文化史の一頁を刻んでいる。
近代以降も東洋紡績が工場を建設したことを 契機に、地域の文化・経済が隆盛したが、戦後 の高度経済成長の終焉後は、人口は増加してき たものの、郊外化・スプロール型開発が進展し、
自治都市の伝統を誇る堅田の旧市街地は衰微の 途を辿っている。こうした状況下、市民団体「湖 族の郷実行委員会」は、1989年から堅田の歴 史や文化の学習、商業・観光の振興を視野に入 れたまちづくりを開始、その事業のひとつとし て2009年、『「堅田時報」縮刷版』を発刊した。
『堅田時報』は1920(大正9)年9月から1956
(昭和31)年9月まで毎月発行(太平洋戦争前
後の5年間は休刊)された機関紙であり、当時 の堅田町政の動向や時代を見据えた生活情報、
町民の声を掲載した今日でいう地域メディアで あった。
堅田町長北村叉三郎の署名がある「發刊の主 旨」を少し長くなるが、1920年9月15日創刊
「第一號」から引用しよう。
町村は其の町村民によりて作られてあるこ と恰も家が其の家族によりて作られてある のと少しも變らないので家族相互に心を恊 せ力を戮して家の繁榮を圖らねばならぬが 如く町村民も亦常に一致共同以て其の町村 の發達に勉めねばならぬ次第で我國夙に地 方自治制を布かれた精神の茲に存するのは 今更申す迄もない事であります。
此の主旨より我堅田町民諸君が常に町治上 諸般の事柄に就いて其の大要を諒解し批判 して理事者と共に本町の爲に益々其の最善 の努力を盡されんことを希望し向後一層深 く相互間の氣脉を通じ連絡を圖るの機闞と して茲に新に本紙を發行したのであります。
本誌は單に町治上直接闞係事項のみに止ま らず學校、農會、教育會、在郷軍人會、靑 年會、少女會、民力涵養會、警察義會等に 闞する事項は勿論精神の修養、時事の報導、
文藝娯樂等の事に至るまで廣く之を網羅し て掲載する積りでありますから一般町民諸 君も亦能く本紙を利用して各自の意見を交 換し或は豊富なる文藻を發表せられんこと を望みます(大津市,1999,55頁)。
ここで注目すべきは、『堅田時報』が、原則 的に誰でも自由に参加できる言説をめぐる公共 空間の創出を志向していたと考えられる点であ る。通巻344号を数えたが、惜しいことに落丁 や紙面の損傷のため、内容が読み取れないもの もあり、縮刷版で時報の全貌が明らかになった わけではない。たとえば上記の引用文も縮刷版 には掲載されておらず、『図説大津の歴史 下 巻』からの孫引きである。とはいえ、時事記事 や広告記事のみならず、コラムや座談会の記録 なども掲載されており、子どもや若者、女性を も含む当時の人びとの声が肌で感じられる、と いう意味できわめて貴重な歴史的資料といえよ う。
2.昭和戦前および戦後復興期の観光政策
旧堅田町における観光論議を検討する前提と して、本章では滋賀県大津市の動き2に触れな がら昭和の戦前から戦後、観光が再開された時 期を中心に、観光政策の流れを概観する。白幡洋三郎(1996)が提示したように、昭和 時代に入ると一部の富裕層、あるいは外国人観 光客だけでなく、いわゆる庶民のあいだにも修 学旅行や新婚旅行、外地への海外旅行など新し い文化、娯楽としての旅行が見られるように
2『新修大津市史6 現代』(1983)、『図説大津の歴史 下巻』(1999)、(社)滋賀県観光連盟『滋賀観光の歩み』(1989)、 秋山元秀(1999)
を参考にして、筆者なりに整理した。
なったことを最初に確認しておこう。
政府は、1930(昭和5)年に鉄道省の外局と して国際観光局を設置し、ここに公的という意 味では初めて「観光」という言葉が用いられた。
そして同年7月に鉄道大臣の諮問機関として外 客誘致に関する事項を審議する国際観光審議会 を設置し、翌年の1931年には国際観光局と表 裏一体の組織として(財)国際観光協会を設立 した。政府の狙いは、外貨獲得のための外国人 観光客の誘致および受入態勢の整備を図ること にあった。つまりインバウンド観光を目指して いたのである。折しも1934年は金本位制から の離脱に伴い円が暴落し、外国人観光客が急増 している。さらに1936年には訪日観光客数、
日本人観光客数ともに戦前の時期としてはピー クを記録している。
一方、観光は政府のみならず地方自治体が主 体的に関わる分野でもある。昭和になると国の 政策動向に呼応するように都道府県や市町村に おいても「観光」という名称を冠したものが現 れてくるとともに、外国人観光客の受入機関や 観光協会が設立されるようになる。この背景に は官営鉄道をはじめ交通機関の整備を図ること と、「日本新八景」や「国立公園」選定を活用 する二つの側面があった。地方自治体が観光事 業に活かそうとしたのは、日本らしい美しい風 光である自然景観であり、それらは多くの場合、
潜在的な観光資源にとどまっていた。
したがって、そうした観光資源の存在を自覚 した地方自治体では風光を活用して観光開発を 進めることへの関心が高まり、観光ブームを呈 するに至ったのである。滋賀県の場合、琵琶湖 での観光船の就航に見られるように、明治後期 から琵琶湖の風光を活用した観光(湖上遊覧)
が展開されるが、それは1889(明治22)年の 東海道線全通による物資輸送のルート転換を受 けて観光に新たな活路を求めた結果であった。
1928(昭和3)年に大津市は、都市計画法によ る「都市計画指定都市」に指定されたが、そこ で標榜されたのは「遊覧都市」であった。1934 年には、県下初の官民共同出資による第三セク ター方式で「琵琶湖ホテル」が開業(10月)、
また大津市観光協会(6月)が誕生している。
翌年の1935年に滋賀県観光協会が設立され、
同年から1937年の琵琶湖対策審議会において 琵琶湖活性化の主軸に「観光化」が据えられ、
湖畔の9ヶ所に各種観光施設を整備すべきであ るという答申が出されていることも、こうした 事情を証明している。
ところが、1937年に日中戦争が始まり戦時 体制の色彩が強くなると、旅行は不要不急とさ れ、その自粛が叫ばれるようになる。しかし、
現実にはその後しばらくはイベントを中心とし た観光事業が開催されており、ルオフ(2010)
の研究にしたがえば、「戦時日本における帝国 史跡観光」が紀元二千六百年の1940年にピー クを迎える。すなわち、人びとは旅行者として、
自粛するよりも可能な範囲で旅行を享受してい たようである。
滋賀県では1935年8月、この年に発足した 滋賀県観光協会主催の「第1回びわ湖まつり」
が開催された。これには大津市、彦根市、長浜 町、八幡町、堅田町、大溝町(現高島市)の6 市町村が参加し、各市町村から2人ずつ「ミス ビワコ」(感謝使節)を出した。第2回目から は7月第3日曜日を中心に行われたが、1939 年の第5回目にミスビワコは姿を消し、代わっ て500人の青年による湖国一周聖火リレーが実 施された。ここからは戦時体制、つまり国家主 義的な皇国思想や軍国主義的な心身鍛錬などの 論理に適合するよう配慮されたことがうかがえ る。そして1940年にびわ湖まつりは取り止め になり、戦後に再開されるまで待たねばならぬ ことになる。
一方、この時期においても観光を擁護する見 解も見受けられる。たとえば、鉄道省官吏で渡 米経験もあった井上萬壽蔵は、「觀光事業はそ の地方なり、その國なりに觀光客を呼びよせる ことによりその地方事情や國柄を十分に知らし め、やがてそこに親善の情を起こさせることに なる」(井上,1940)と述べている。
とはいえ、戦時体制という時代の波は否応な しに押し寄せ、太平洋戦争の頃になると民衆の 娯楽としての旅行、新たな産業や政策として注 目されていた観光も冬の時代を迎えた。1941 年、一般の旅行業者は解散を命じられ、「ジャ パン・ツーリスト・ビューロー」から時局にあ わせるように名称を変更した「東亜旅行社」(後 に「東亜交通公社」に改称)が旅行業務一切を 統括することになった。さらに1944年の旅行 証明制度によって基本的に100キロ以上の遠距 離旅行者は旅行証明書が必要となると、事実上、
一般の人びとが観光旅行を行うことは不可能に なった。
しかし敗戦の翌年1946年になると、早くも 修学旅行の再開例が見られる。また同年には運 輸省鉄道総局業務部に観光課が設置され、これ が1949年に運輸省大臣官房観光部に昇格し、
インバウンド観光振興のための制度整備が進ん でいく。さらに1950年に「新日本観光地百選」
(毎日新聞主催)が選定され、「文化財保護法」
が公布、朝鮮戦争が始まった翌年に施行された。
この1950年は、「旅行の戦後復興が本格的に始 まった年」(白幡,1996)と指摘されている。そ の後、高度経済成長期に入り、1962年に「全 国総合開発計画」が発表され、翌1963年に「観 光基本法」が公布施行されるに至る。
滋賀県では1946年に民間の「琵琶湖観光協 会」が設立されたのを皮切りに、1948年に県 土木部に観光課が設置され、1952年には上記 の琵琶湖観光協会を改組した「滋賀県観光連盟」
が発足した。戦後滋賀の観光の大きな柱は戦前 の「びわ湖まつり」復活であり、これまた戦前 から展開してきた琵琶湖の国立公園指定に向け た(陳情)活動であった。
1949年、びわ湖まつりは復活し、瀬田川石 山寺付近で花火大会(打ち上げ500発、仕掛け 12基)が行われた。さらに、この年の3月に 滋賀県は全国初の試みとして「観光宝くじ」を 実施した。県は開封式と被封式2種類の証票総 額1500万円を発行、3月19日から4月20日 まで日本勧業銀行支店、たばこ・塩販売店、県 地方事務所、市町村役場等で販売し、盛況であっ たという。他に同年に「琵琶湖八景」の選定が 行われていることも付記しておく。「新しい観 光地を選ぶびわ湖八景懸賞投票」の応募総数は 3万1674件、さらに学識経験者など13人の選 定委員が審査、現地視察を行った上で決定され ている。
1950年、琵琶湖国立公園期成同盟の活動の 結果、琵琶湖とその周辺は国立公園に準ずる地 域であるとして全国初の「国定公園」に指定さ れた。こうして滋賀県でも戦後の観光政策が動 き始め、大津市では戦前の「遊覧都市」構想に 改めて取り組む形になったのである。
3.『堅田時報』に見る観光論議
本節では、旧堅田町(現・滋賀県大津市堅田 地区)の機関紙『堅田時報』における観光論議 を検討してみる。
まず、『「堅田時報」縮刷版』を用いて「観光」
という言葉が出てくる記事を抽出する3。次い で、それらの記事と県史・市史・町勢要覧等の 地域資料や上に見てきた同時期の観光論とを相 対化させながら、そこでの観光論議を析出し、
その意味を分析する。
『「堅田時報」縮刷版』全編を検索したが、観 光をめぐる記事が見られるのは表1の通り昭和 に入ってからである。本稿の対象とする戦後復 興期に限ってみても紙幅の都合上、全ての内容 を検討することはできないが、今回は1949年 から1950年にかけての記事を端的に分析する ことのできた3つの記事における記述を中心に 提示する。
3.1 『堅田時報』の復刊
繰り返しになるが戦後、『堅田時報』が復刊 されたのは、1949年のことであった。3つの 記事を分析する前に、復刊された『堅田時報』
がどのように位置づけられていたのかを、復刊 第1号(昭和24年11月3日)の記事を手がか りに明らかにしておこう。
編集発行人の堅田町公民館長佐久間一は、「本 紙が單に町の公文記録的な一片のレポートたる に止まらず汎く町民各位の町政その他に對する 正確なる知見に基く批評、感想希望等所謂街頭 の聲をも多分に之を紙上に反映紹介し町の言論 機關たらしむると共に自治體確立上の價値ある 一資料たらしむるに及んで初めて本紙發刋の主 旨に沿い得たるものと信ずる」と述べている。
また、「投稿歡迎」と題して次のような記述 がある。
町民各位の赤裸々な御意見いつわらざる 皆さんのお聲をきかせて下さい(論文、文 藝作品、町政批判、俳句、随筆等)
投稿期日は前月の十五日までに公民舘備
3 たとえば修学旅行のように観光と密接な関わりのある事象であっても、観光の語が見当たらない記事の場合は、除外した。
付の原稿用紙に御記載の上記名投稿をお願 いします。紙面の都合上掲載出來ないこと がありますから御承知置き下さい。尚紙面 廣告を十分御利用下さい。本紙を縁故知人 に贈呈されたい方は一部五圓で公民館でお わけします(411頁)。
戦後の紙面を戦前のそれを比べたとき、気づ くのは、投稿記事や児童生徒らの作文、一般町 民の参加した座談会の記録が数多く掲載されて いることだ。もちろん、投稿した人は町民全体 を考えると一部に過ぎないであろうし、投稿し た人の中でも意見が掲載されなかった人もいる かもしれないが、住民は情報の受け手であるば かりでなく、送り手でもあると位置づけられて いたとはいえよう。つまり、行政、住民、事業 者との対話、意見交換の機会を提供し、様々な 立場の人びとが自由に自分の考えを表明し、討 議する「堅田時報」の復刊は、旧堅田町におけ る言説をめぐる公共空間の拡充を意味したと思 われる。
3.2 【昭和 24 年 11 月 3 日発行】
「浮御堂の落書」
さて、その復刊1号において掲載された、当 時の新制中学3年生の書いた作文の中に、「観 光」という言葉を見いだすことができる。
当町の発展策には色々あるが先ず觀光地 としての様相を具える事である。それには 観光の目的物を大切に保存し町全体をそれ にふさわしく清潔にせねばならぬ。浮御堂 等に麗々しく彫られた名前、落書、町の溝 に溢れる汚水等々、如何程宣傳しても何も ならない。次に町をととのえねばならぬ。
それには交通の便をよくし、道路をひろげ、
特産物を作り、販路をひろげ、商業の湖西 における中心となるやう努力すべきである
(412頁)。
ここでは、観光の視点から地域振興を考える スタンスが明らかだ。国の政策を見ても、当時、
No. 発行年月日 小見出し 備考
1 S10. 7.30 琵琶湖祭
2 S11. 6.30 堅田觀光協會の設立に就て
3 S12.11.30 觀光客に付て
4 S24.11. 3 浮御堂の落書 新制中学3年生の作文
5 S25. 2. 1 堅田夢物語 連載エッセイ
6 S25. 5. 5 そとから見た堅田 北村四郎(本町出身・京大教授理博)
7 S25. 6. 1 脚下を見ましょう 中正一彦町長による巻頭記事
8 S25. 6. 1 觀光堅田を語る 座談会記録
9 S26. 2.15 浮御堂の維持について 中正一彦町長による巻頭記事
10 S26. 5.25 新町會議員さんと町政を語る座談會 座談会記録に「浮御堂と觀光問題」の項目
11 S26. 5.25 郷土を語る 中井幹太郎による放送原稿
12 S27. 3.25 堅田町のホープ 中正一彦町長による巻頭記事
13 S27. 8.10 語る青年と町議座談會 座談会記録に「觀光對策はまず道路」の項目
14 S27. 8.10 びわこ祭特集 12枚の写真とレポート記事
15 S27. 9.10 語る他縣の民生委員 全国民生児童委員大會が大津で開かれた際に
企画
16 S28. 1. 1 わが町の夢と現實座談會 座談会記録「浮び上れ浮御堂」「日本のベニス
堅田」
17 S28. 4.25 明らかにされた施政方針 中正新町長(再選)と編集部の対談記事「觀
光對策」
18 S28. 4.25 新しい町つくり 学生による懸賞論文の入選作
19 S28. 5.25 ふるさとへ 商業と觀光の町へ 埼玉縣商工部長(堅田町出身)
20 S29. 6.28 町村 合併について青年大いに語る 青年会幹部連の懇談会記録
21 S29. 8. 7 知事町長大いに語る 知事を囲んでの町村代表の懇談会記録
表1 機関紙『「堅田時報」縮刷版』において「観光」という語の出てくる記事一覧
観光ブームが生まれていたことは確かであり、
そのことを地域社会のレベルで裏付ける資料と いえよう。後に堅田町が編入する大津市は同じ 頃、都市の物理的な環境整備を図る都市計画の 推進と相俟って数々の観光施策を打ち出してい る。1949年にパンフレット「観光大津」を発 行し、絵葉書を制作。翌1950年には4月に行 われた「大津市美化月間」をはじめ、年間を通 して施策が展開された。ちなみに同年、観光予 算は総予算の1.22%を占めている4。
戦後復興期であればこそ、地域に存在する自 然や歴史、生活文化を地域の人びとの文化的ア イデンティティを維持する上での資源として保 全しつつ、一方で地域経済の復興に向けて活用 し、産業化することのできる観光が、脚光を浴 びたのも当然のことだろう。以上の旧堅田町や 大津市では経済復興が求められた時代の文脈の 中で、インフラ整備と重なり合いながら、いう ならば地域振興の一手段として観光を構想し、
実践し始めたのであった。
3.3 【昭和 25 年 6 月 1 日発行】
「脚下を見ましょう」
一方、当時の町長(中正一彦)が、旧堅田町 の観光振興にどのような視点が必要と考えてい たのか、を指し示す記事がある。
これからの堅田町は、幸にして天與の勝 景を抱いてゐるのだから、観光地として伸 びるべきであらう。夢に夢を畫くのもよい、
百年、千年の計を樹つるのも又可なりであ る。然し實現には厳しい約束が伴うことを 閑却してはならない。お客様を招くにして も、迎える心構えと云ふか、その受入態勢 が整はなければお客様は喜んで來ない。い かに立派な膳立が出来ても、玄關に破れ草 履が散らばつていたり、いつ掃いたか分か らない様な、ほこりつぽい座敷に通されて はやりきれない。それにもまして不愉快な のは、主人の應待が創意を欠いていたり、
お客様の土産によってサービスに厚薄があ つたりすることだ。たとい古びた家でも常
に手入れが届いていれば却つてわびた気持 を起させ、住ひする人の奥ゆかしさも偲ば るゝ。さして、こうといふ御馳走もないが、
何となく引きつけられて、もう一度行つて 見たいものだと云ふ氣持に仕向けたいもの だ―さしづめ吾々の脚下をよく顧みて、最 も手近な所からいかにも観光地としてよく 行届いた、感じのよい印象の深い町だと云 ふ風にして行きたい(434頁)。
ともすれば観光ブームに流されるリスクが あったであろうが、その意味でも町長の発言は 看過できない。ブームに流されるとは、恒常的 な事業として定着せずに終わってしまうこと だ。観光は地域を語る上での合言葉になりつつ あったが、その語の内実としては、空想の域を 出ない面が少なくなかったのかもしれない。し かし町長の言葉からは国全体の政策動向を受け ながらも、むしろ地域の魅力を磨き、観光者の 再訪を促すような、今日にいう「持続可能な観 光」を成立させようという意気込みが感じられ るのではないだろうか。
3.4 【昭和 25 年 6 月 1 日発行】
「觀光堅田を語る」
この復刊8号(6月)には、特集記事として
「觀光堅田を語る」と題した座談会記録が掲載 されている。この座談会は、「本日は堅田の觀 光について、お話を承るのだが特に外來の方々 から遠慮のない御意見を伺ひたい」という発言 から始まる。1950年5月22日、浮御堂で町長 を含む17人が出席したものであり、同町にお ける観光の可能性を探ろうとする姿勢がうかが われる。以下、主要な論点を抜粋する形で紹介 し、その上でそれぞれについて考察を加えてい きたい。
①観光地としての可能性
● 堅田の觀光について考へると、浮御堂中心 の觀光施設があり、大衆を惹きつけるには 商工會の方々の援助を必要とするし、更に 町民一般の方々の心構えについても及んで 來ます(町長)。
4『新大津市史 下』1962 年、33頁
● 觀光客を浮御堂に招きよせるには、浮御堂 だけでは無理だし、効果は薄い…(中略)
…浮御堂で普茶料理をしてはどうですか、
落雁の復活を見ましたが、祥瑞寺で一休納 豆の作り方を教へていたゞけば、町の名物 が増えますよ。
● 堅田の壕は利用価値がある、潮來程まで行 かなくとも、あれを美化して小舟を浮べた ら味のある觀光地になる。
● 宣傳面から云うと折角の堅田へ來ても、後 に残る記念のパンフレット一つないのは残 念だ。
● 一体何によって客を惹きつけるのか、どう しても継続してやるために組織が必要であ ります。尚觀光協會などの首脳部は裸にな る位の決心がいる。町の人のついて來るの はソロバンに合つてからだからなあ、堅田 の觀光の魅力はあつさりいへば現状ではゼ ロですね。
②社会基盤整備について
● 他縣から來たものの立場から述べます…
(中略)…堅田町の區劃整理が先づ必要で どうも片田舎の感じが強い。他國人は浮御 堂でなくて堅田の落雁で知っているので す。だからすくなくとも堅田町全体を對象 に考へて貰いたい。社宅附近の廃液處理場 を水族館として利用、ころけ山の別荘地帯 化、天神川の公園化等々は先つ大切な方法 でしよう。
● 交通會社は…(中略)…想像以上の關心を 持つている。堅田に堰堤ができれば太湖汽 船の本店も堅田に移るだらうし、江若の本 社もこのあたりに腰を卸して京都野洲方面 への發展を策するでせう。
● その際(筆者注:上記の発言に続けて)注 意することは堅田町が發展しても實際商業 を牛耳るのは大阪あたりから來る商人では なからうか、十分商人は反省しなければな らぬ。
③観光教育について
●觀光教育は是非すべきだ。
● 大津市の教育委員會は小中學校の社會科の中 へ觀光教育を取入れて子供から教育している。
(以上435頁)
座談会の内容は、旧堅田町における観光振興 の重要性を訴えるとともに、その問題点と課題 に言及したものであったが、「観光事業」「地域 振興としての観光振興」といった行為それ自体 に対する批判・否定的見解はなかったといって よい。
①からは、当時の観光振興はやはり掛け声の 段階にあったのではないかと推察されるととも に、特にその眼目が浮御堂に置かれていたこと が確認される。表にまとめたように、この座談 会以外でも、浮御堂に触れた記事が多かった。
また後に刊行された『堅田町勢要覧』(1952、
堅田公民館)には最後に「觀光」の一章が設け られ、その冒頭で浮御堂が紹介されている。こ こからも、同町で観光を語られる際の浮御堂の 存在感の大きさをうかがい知ることができる。
しかし併せて、浮御堂一点だけに依存する観光 振興に対する限界性も指摘されており、悲観的 な意見も出されている。観光パンフレットの作 成とともに、土産物の開発や壕の観光利用のア イデアが出され、後に湖東になるが同じ滋賀県 の近江八幡で1969年より展開されることにな る八幡堀の保存修景運動やそこでの暮らしの文 化を見る観光5を想起させる発想が、1950年段 階で現れていたのである。
②には浮御堂を中心とした観光論議から一歩 踏み込んで、「堅田町全体を對象に」捉える構 想が見られる。この考えが「他縣から來たもの からの立場」から発言されていることは興味 深い。「「堅田夢物語6」を執筆していられる方、
長野縣の出身です」と説明されていることから もわかるように、ヨソモノの視点が参照され、
『堅田時報』を通して公表されていたといえよ
5 近江八幡市では、(社)近江八幡観光物産協会HPによると、観光を「近江八幡市の暮らしの文化を見ること」と定義し、それは市民主 体のまちづくりの結果として生まれるものと位置づけられている。
6
「堅田夢物語」は地域外部の視点からの論評であり、1950(昭和25)年2月〜同年6月まで計5回連載されたエッセイである。筆者は 科野あずみ。彼がいかなる人物だったかは確認できていないが、『堅田時報』によれば、その氏名はペンネームで、長野県出身の人だっ たようだ。1947(昭和22)年10月25日から旧堅田町に暮らし始め、1950年7月24日付けで「堅田町を去る挨拶」を復刊11号(昭和 25年8月1日発行)に寄せている(『「堅田時報」縮刷版』445頁)。
う。具体的に内容を見ると、都市計画の文脈か ら観光が把握されている。また、観光振興に際 して「交通會社」が注目され、特に交通網の整 備を企図していたことが推察される。さらに、
こうした社会基盤整備が進み、観光地が形成さ れることに伴う問題点も考慮されている。大都 市の外部資本による商業の独占を警戒し、地域 の商業者に対して注意を促している点は見逃せ ない。あくまでも地域が主体となった内発的な 観光振興が志向されていることが読み取れるの である。
そして、その戦後復興期における内発的な観 光振興の構想の、いわばファンデーションに関 連して③において、昨今の観光政策の課題とし て指摘されて久しい「観光教育7」に言及され ている。1947年の『觀光事業の話』では、明 確な定義は見られないが、「觀光事業關係業務 の管理に當るものも、ホテルや旅行業者の從事 員にしても、それが特別な訓練と特殊な知識と を必要とする」として、「大學その他に機關に よつて、觀光講座の用意せられること」「觀光 事業に關連する職業教育、専門技能教育の必要」
を指摘するとともに、「日本の兒童は、觀光教 育によつて、觀光事業の、外なる經濟的意義を 透して、内なる倫理的な價値と文化的な使命と を、餘すなく、素直に感じ取つてくれるであろ う。彼等が、學窓に於て學ぶ地理や歴史が、觀 光地理や觀光史の、理解と研究に對する、彼等 の興味と關心とを煽つてくれれば、更に幸であ る」と観光教育に期待が寄せられている。1958 年の『観光京都10年の歩み』(京都市観光局編・ 京都市観光教育研究会発行)では、「京都でも 児童生徒の頃から観光教育を施し、文観都にふ さわしい立派な市民を育てあげるため、昭和 27年6月に市内の小、中、高校の有志教員465 名によって観光教育研究会が組織された。会員 は29年には1100名に増え現在に至っているが ユニークな存在として全国から注目され、その 後これにならった団体が各地で続々誕生してい る」と記しているから、この記述にしたがえば、
1950年時点で児童に対する観光教育が実践さ れていた大津市8では、比較的早い時期から実 施されていたことになり、人びとの注目を集め ていたことがわかる。旧堅田町でも、観光振興 には、まずもって観光に対する一般の町民の理 解と協力が不可欠だと認識され、その点で観光 教育の重要性が認められていたと考えられる。
このような観光教育は、現在の観光(立国)
教育とは時代的背景が異なる性質を持つことに 注意を払わなければならないが、しかし当時の 思想と実践から、現在にも通じる要素を見いだ すことも、一定可能なのではないだろうか。
4.子どもたちの目から見た観光
かつて大津市で小中学校の児童生徒を対象に 実践されていた観光教育の実際を知る資料とし て、大津市商工觀光課が彼らから募集した観光 作文を集めた『こどもたちのみた大津の觀光』
(1949年4月20日発行)がある。大津市で観 光教育を推進した組織に、大津市観光教育研究 会を挙げることができるが、その発足経緯や活 動の詳細、指導のあり方については、今回の調 査では明らかにできなかった。しかし小中学生 の作文集である『こどもたちのみた大津の觀光』
を通して戦後復興期、地方都市の子どもたちが 自らの住まう地域をどう見ていたのか、どのよ うに観光を捉えていたのか、を確認することが できる。
まず、この観光作文の全体構成を見ておこう。
『こどもたちのみた大津の觀光』は、本文57頁、
目次は付されていないが、表2にまとめたよう に小中学生の作文全22編が収録されている。
その序文では、「觀光大津を美の世界にし、
一人でも多くの人々に親しまれるには如何にし たらよいでしょうか、又私達の大津が觀光都市 として發展するに必要な諸條件を持つているの でしょうか」と問いかけ、「當觀光課は大津市 内の小中學校の兒童生徒から、これ等の意向に
7『堅田時報』には「觀光教育」と表記されているが、本文では引用以外は、旧字体を用いず、「観光教育」と新字体で統一する。
8 大津市の観光教育の全貌については、今回の調査では明らかにできなかった。大津市商工観光課が市内の小中学校の児童生徒から募集 した観光作文を集めた『こどもたちのみた大津の觀光』(1949年)や、その続編に当ると思われる大津市観光教育研究会の編集した『私 たちの見た大津』(1954年)、観光案内書であると同時に中学校の参考書としての使用を考慮して作られた『大津の景観』(1954年)等 の関連資料を提示することにとどめたい。
もとづいた作文を募集し、こゝにその優秀なる 作品を綴つて小冊としました」としている。そ して同じ序文によると、この観光作文の審査・
発刊に尽力したのは山崎喜好、北川忠兵衛の二 人9である。
山崎喜好は同書2頁で、この作文集を「第一 回のこころみとしては成功といつてよいでしょ う」と評価している。しかし同時に、「次のよ うな點については、今後とも注意してほしいと おもいます」とした。
一、 もつとていねいにしらべ、考えて書く こと。むぞうさすぎるものが、かなり たくさんありました。
二、 「後に靑垣の山を負い、前に紺碧の湖 をひかえ……」と書きはじめた人が、
中學の部にはたいへん多かつた。これ は郷土讀本にのつていることばです
が、このように他人のまねをすること はやめましょう。自分のことばで、自 分の考えたこと、感じたことを書くの が、作文なのです。
山崎は、こうした点は児童生徒のみならず、
指導者も注意すべきだと説いている。また、小 學校の部が中學校の部よりも優れていたとして いる。たしかに、作文の質は年齢が上がるにつ れて紋切り型で定型的になってしまう傾向があ るのかもしれないが、子どもの目から見た地域 や観光を考えるという本章の目的からすると、
当時の世相がわかって興味深い。収録された作 文については、様々な角度から分析できるで あろうが、ここでは内容を1)地域の魅力、2)
観光の動向と課題に言及した記述、の大きくふ たつに分けて、見ていこう。
9 日本の大学所蔵特殊文庫データベースによると、山やま崎ざき喜き好よし(1908-1957)は俳文学者、俳人であり、『芭蕉と門人』(弘文社、1947)等の 著書を残している。また、大津公民館が1950年に作った「市内社会教育関係団体一覧表」によると、北川忠兵衛は当時、「近江文化研究会」
の責任者であった(『新大津市史 上』1962年、1025頁)。
No. タイトル 属性 評価
1 大津市 小4女子 一等
2 靑葉の石山を語る(日記より) 小5女子 二等
3 私のまち 小2女子 二等
4 石山と南郷 小4女子 三等
5 大津の夏 小1女子 三等
6 觀光大津 小5女子 三等
7 大津 小5女子 佳作
8 私の計畫 小4女子 佳作
9 たのしい日曜日 小4女子 佳作
10 琵琶湖の四季 小6女子 佳作
11 美しい大津 小5男子 佳作
12 觀光都市大津 中2男子 一等
13 觀光大津 中1女子 二等
14 觀光大津の誇り 中2男子 二等
15 觀光大津市 中1女子 三等
16 觀光大津市 中1男子 三等
17 觀光大津 中1女子 三等
18 觀光大津への提唱 中1女子 佳作
19 觀光大津市 中1男子 佳作
20 私の夢 中1女子 佳作
21 ぼくの希望 中1男子 佳作
22 觀光大津の將來について 中2男子 佳作 表2 『こどもたちのみた大津の觀光』収録作文一覧
4.1 地域の魅力
作文集は、「大津市」と題する作文で始まる
(小4女子)。小學校の部一等の作文である。そ の一節を引用しよう。
春は、三井寺や長等公園にお花見に行き ました。南郷の櫻並木も歩きました。さが み川の土手で、すみれもつみました。五月 のお祭は、おみこしとちょうちんがめずら しい物でした。夏は毎日湖に行って遊びま した。眞野や近江まいこの海岸は、逗子と 同じようでした。船で湖を渡りもしました。
八月のおぼんには、方々でぼんおどりがあ りました。堅田の浮み堂にも行きました。
湖の水の色がきれいでした。その色が、朝 晝晩色々にかわるのを見ました。冬になる と、逗子より寒いのが心配でしたが、今年 はとてもあたたかいです。もう庭の梅が滿 開で、毎日うぐいすが來て遊んでいます。
今では、お父様もお母様も私も弟も、大津 が一番すきになりました(4頁)
これを書いた児童は、「去年の一月に逗子か ら大津にうつってき」た。「はじめ少しがっか りし」たが、「一年たってみると大津がとても すきにな」ったという彼女は、季節ごとに行楽 の思い出を振り返る。同じ小學校の部の「觀光 大津」(小5女子)も、大津の四季の魅力を綴っ ているが、その秋の部分は次のとおりである。
秋になると、大津祭りがあります。それは それは樂しい日です。去年はじめて山がで ました。なん年ぶりかの山を見る大津の人 は、しんるいの人たちを大ぜいよんで、ご ちそうをこしらえ大はしやぎです。山は 十四だいあります。それがつづいて通るの です。カンカンチキチンカンチキチンとな る音が、みんなの耳にひびきます(12頁)。
1948年、戦前1937年を最後に中断されてい た天孫神社例祭(四宮祭)の曳山展示が市の補 助金を受けて復活した。この時、政教分離の原
則に立ち神事から切り離すこと、また大津の観 光文化資源を全国に売り出す意味から「四宮祭」
ではなく「大津引山」(ママ)と称していたと いう10。おそらく「大津祭(り)」という名称は、
この時初めて生まれたようである。
いわゆる娯楽のないに等しい時代である。し かし、大人や地域社会とのつながりは密接では なかっただろうか。伝統行事を通じて地域の文 化に親しむ子どもの姿がここにはある。
ところで、中学生は戦後復興期の大津をどう 見ていたのだろうか。「觀光大津の誇り」(中2 男子)という作文は、東京から疎開した子ども の目から自然風景を絶賛している。
戦爭中のこと、僕が空襲を避けて東京から 疎開して來た時、散々な空襲に疲れ切つた 身体とすさんだ心を持つてこの大津に着い た時、慰安と希望を與えてくれたのは、雪 の比良だった。そして僕が自然というもの がいかに大きな魅力を持つているかを悟つ たのも、その時だつた…(中略)…空襲・
殺人列車を經てやつて來た琵琶湖の景色 は、特別美しく見えた(31頁)。
その後には交通手段や観光施設の整備、宣傳
(広報)活動の充実が挙げられているのだが、
しかし「私達は觀光施設だ、交通施設だといつ て、みだりに偉大な自然美をこわしてはならな い」とし、「文化日本として立つて行こうとす る我が國に、いかに風景資源が大切か、私は今 に大津市が世界有數の観光都市となることを信 じて疑わない」と結んでいる。非常時、危機の 克服といった状況や指導者の誘導もあろうが、
風景美、自然の美しさやその生命力に人間の生 きる力を鼓舞する固有価値を見いだしているこ とがわかるのである。
4.2 観光の動向と課題
中學校の部一等の作文「觀光都市大津」(中 2男子)には次のように書かれている。
戰爭が終わつてから、新聞や雜誌あるい
10『新大津市史 上』1962 年、1030-1032頁
はラジオで、觀光事業の再建がいかに大事 なことであるかということが報道されてい ます。觀光事業の振興は、世界の人々にも、
日本の人々にも、樂しい印象を與えますし、
保険、休養、教養など多くの方面に大きな 効果をあたえ、又國際親善や貿易に役立ち、
これからの平和な日本をつくりあげる上に 重要な役割もはたしてくれます。
日本は、戦争をしない平和な國になつた のですから、觀光事業を生かして世界の 人々が樂しく日本で遊んで行けるように し、日本を明るくして行くことが重要です。
私たちの生活にとつても、觀光は重要な意 味をしつています。私たちが友だちと遠足 に行つたり、休日を利用して附近の山野に 遊んだりすることは心を明るくし体を丈夫 にし、色々なことを勉強するのに役立ちま す。
大津市は美しい風景や有名な史蹟にめぐ まれたところですから、觀光事業に力を入 れて行くべきだと思います。大津市は前に 靑く澄み切つた琵琶湖があり、まわりには 山々が高くそびえて雄大な風景を見せてい ます。昔から名高い「近江八景」の三井寺 や石山寺、瀬田の唐橋、粟津など、皆んな 大津市にあります。お寺や神社も由緒のあ るものが澤山あり、名所舊蹟にとんでいま す。景色のよいこと史蹟が多いことを、觀 光資源にめぐまれているというのだそうで すが、大津市は本當に觀光資源にめぐまれ た觀光都市ですから、もつともつと立派な 觀光都市に發展させて行かなければなりま せん(24-25頁)
経済復興が喫緊の課題でありながらも、文化 国家の再建という目標が時代の気分として国民 のあいだに共有されていた戦後復興期、観光は、
その具体的な足がかりとして期待されていたこ とと同時に、地域に所与のものとしてある風景 が観光資源として認識されていたことに気づか される。中学生による貴重な時代の証言である。
そしてこの作文の最後では、国立公園の候補地 になっていることを挙げた上で、観光振興を進 めるために次のように呼びかけている。
いかによい資源があつても、これらの寶を
持ちぐされとせず、お金持だけの行樂地と せずに、廣く一般の人々が有効に利用する ように、皆んなで努力しなければなりませ ん。大津市民の全部が心を合わせて、觀光 事業に協力して、琵琶湖を觀光に來る人々 の玄關にふさわしい美しい大津市にしまし よう(27頁)。
ここでは、地域ぐるみの観光振興の重要性を 言い当てており、この点は他の生徒の作文から もよくわかる。同じ中學校の部「私の夢」(中 1女子)という作文は、こう書いている。
縣や、市役所の觀光係や關係者等一部の人 達だけがいくらがんばって下さつても、そ の人達だけにまかせておいてはだめです。
大津市民みんなが、その氣持で一つになつ て進みましよう(51頁)。
では、観光振興を進める上での問題点や課題 は、どのように捉えられていたのだろうか。中 學校の部の「觀光都市大津の將來について」(中 2男子)は、この点をまとめた作文だ。
これからの日本は、スイスと同様に觀光も 大きな經濟の源と考えなければいけない時 となり、これから先講和條約がすめば、ア メリカ人・イギリス人・フランス人、其他 多くの外國人が自由にこの山水美に富んだ 美しい日本へ遊びに來るようになるが、そ の時この美しい大津へも來ていただいて、
日本アルプス其他の山岳美とともに、びわ 湖の水の美しさを見てほしい。今の大津こ のびわ湖は、外人が京都・奈良へ見物に來 た時に、ちよつと足をのばしてドライヴ的 に遊びに來たのであつて、これからは大津 として遊びに來てほしい(55頁)
さらに、この作文を読み進めると、「それに は多くの整備、市民の理解、交通等の問題がす ぐに頭に浮かんでくる」と解決すべき課題を掲 げ、「外人、日本人が今この大津に來ても、宿 つていくだけの立派なホテルがない」ことを指 摘する。そして、「外人的のホテルとしては、
この大きなびわ湖の中にたつた一つ柳ヶ崎にあ るビワコホテルだけであ」るが、「これにして
も十分整備がととのつているとはいえません」
としている。
1934(昭和9年)10月に開業した琵琶湖ホ テルは、政府による外客誘致事業の流れの中で 各地に建てられた国際観光ホテルのひとつであ る11。ホテルの例をはじめ、国際観光の視点か ら課題が捉えられているところに特徴があると いえよう。敗戦後の当時、大津にはGHQが進 駐していたので、外国人の存在は、身近に感じ られていたのではないだろうか。この点、小學 校の部の「私の計畫」(小4女子)と題する作 文にも次のように書かれている。
大きい人は立ちしようべんをしますが、
外國人はいやがるそうですし、よその人に 大津の人はあんなにだらしがないのかとい われたら大津の人皆んなのはじですから、
やめて下さい。おべん所をたくさん作つた ら、そんな事はしないと思います。そし て、おべん所はきれいにそうじをして下さ い(15頁)。
観光には近代性の諸相が凝縮されているが、
ここでは国際観光の振興をひとつの契機に、公 衆衛生の改善が社会道徳に関わる課題として認 識されている。観光の視点から社会インフラが 見直されているのである。トイレの他、交通機 関や宿泊施設が挙げられているが、装置の整備 もさることながら、そこでの人間の行為が何よ りも問題にされていたことがわかる。
5.まとめに代えて
戦後復興期の地域社会における観光論議を機 関紙『堅田時報』と観光作文集『こどもたちの みた大津の觀光』を中心に検討してきた。その 中で大きく次の2点が明らかになった。
第1に、住民座談会や子どもの作文を通して 地域課題を認識し、地域振興の手段としての観 光の議論がなされていたことがわかる。観光振
興は、外貨の獲得や国際親善を増進するという 国策の動向から希求されたとも考えられる。し かし、地域で観光振興が希求された理由の第一 は、地域固有の自然や文化と結びついた平和産 業の創造やそれを通じた住民の自信と誇りの回 復といった地域振興に注目していたからだとも いえる。戦中期に国際観光事業は、文化宣伝と しての観光政策(小山,1942)として、すなわ ち戦時動員の操作主義パラダイムの上に位置づ けられたこともある(佐藤,2008)が、戦後復 興期の地域社会において自律的な観光論議が展 開され、観光教育が実践されたことは評価され るべきであろう。
第2に、観光教育は、観光産業に関する専門 的知識や技術の修得といった職業教育に限定さ れることなく、固有価値としての生活環境の再 認識や地域課題の解決にまで学びの課題を広げ ていくことが重要となる。児童生徒の書いた観 光作文には地域の風景の魅力が綴られるととも に観光振興の課題に言及されており、現実の暮 らしに即して民主的な社会を展望する生活綴方 の観点を読み取ることができる。
こういった観光論議と観光教育の発想は、地 域観光のコア・カリキュラムと呼べるものであ るかもしれない。それゆえ戦後復興期の地域社 会で地域振興としての観光振興が議論され構想 されたことには深い意味があったのである。そ の最も重要な点は、人びとの対話や交流、学び によって初めて公共空間としての地域が成り立 つという了解であろう。こうした発想が、マス ツーリズムが本格化したとされる1960年代12 以前の、戦後復興期に既に現れていたのであっ た。地域の固有価値を多様な主体の連携の基に 再発見しようとする観光論議と観光教育は、現 在の地域観光政策にととまらず、2011年3月 11日の東日本大震災・福島第一原発の事故が 突き付けた人間と自然、人間と人間の関係性の 再検討、あるいは暮らしをめぐる価値観の根本 的な見直しにもつながり、有効な示唆を与えて くれる重要な問題提起ではなかっただろうか。
11 建築家岡田信一郎・捷五郎兄弟が設計した桃山様式の和風建築で、客室38室とスイートルーム3室を持つ。中森(1999)、砂本(2008)
等を参照。
12 この点について、稲垣勉は、「大衆観光が始まる時期は一様ではない。…(略)…日本では戦前から萌芽が見られるとはいえ、本格化し たのは高度経済成長が軌道に乗る1960年代からといえよう」(稲垣,2011,114頁)と述べている。
参考文献
井上萬壽蔵『觀光讀本―觀光事業の理論と問題』無何有書房、
1940年。
小山栄三『戦時宣伝論』三省堂、1942年。
運輸省『觀光事業の話』1947年。
運輸省観光課『觀光事業の話 改訂版』1949年。
堅田町公民館『堅田町勢要覧』1952年。
京都市観光局編『観光京都10年の歩み』1958年。
『新大津市史 下』1962年。
『新修大津市史6 現代』1983年。
(社)滋賀県観光連盟『滋賀観光の歩み』1989年。
秋山元秀「輸送から遊覧へ―近代湖上交通の変遷と大津港」滋 賀大学教育学部附属環境教育湖沼実習センター編『びわ湖 から学ぶ―人々のくらしと環境―』大学教育出版、1999年、
138-148頁。
『図説大津の歴史 下巻』1999年。
中森洋「遊覧都市構想」『図説大津の歴史 下巻』1999年、97頁。
砂本文彦『近代日本の国際リゾート―一九三〇年代の国際観光 ホテルを中心に』青弓社、2008年、386-484頁。
佐藤卓己『輿論と世論―日本的民意の系譜学』新潮選書、2008年、
40-50頁。
『「堅田時報」縮刷版(大正14年4月25日号〜昭和31年9月5 日最終号)』2009年。
ルオフ,ケネス(木村剛久訳)『紀元二千六百年 消費と観光の ナショナリズム』朝日新聞出版、2010年。
稲垣勉「マスツーリズム」山下晋司編『観光学キーワード』有斐閣、
2011年、114-115頁。
社 団 法 人・近 江 八 幡 観 光 物 産 協 会HP http://www.omi8.com/
index1.htm(アクセス日:2012年7月15日)
日本の大学所蔵特殊文庫データベース http://tksosa.dijtokyo.
org/?lang=ja(アクセス日:2012年7月15日)