平和思想の暗転 : 十五年戦争期の安部磯雄
著者 出原 政雄
雑誌名 同志社法學
巻 59
号 2
ページ 281‑311
発行年 2007‑07‑31
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011192
平和思想の暗転
二八一同志社法学 五九巻二号平和思想の暗転
―
十五年戦争期の安部磯雄―
出 原 政 雄
(八五一) はじめにⅠ 十五年戦争期における思想と行動の軌跡Ⅱ 戦争協力への転換の思想的要因 一 絶対平和主義のゆらぎ 二 国家社会主義への傾斜 三 民主主義と国体論むすびに
平和思想の暗転
二八二同志社法学 五九巻二号はじめに
明治末期に日露戦争が勃発するや、キリスト教社会主義者として著名な安部磯雄(一八六五
―
一九四九)は唯物論派社会主義者の幸徳秋水らを中心に取り組まれた日露非戦論活動に側面から協力することでその一翼を担うとともに、他方でトルストイの絶対平和主義にもとづいたユニークな平和構想を披瀝し理論面では彼らをリードしていた。こうした安部の非戦平和への強い思いは、一九一四年に勃発した第一次大戦のときにも基本的に継承され、大逆事件以後多くの
社会主義者にとって厳しい"冬の時代"のなかにあっても非戦平和の伝統を絶やさない言論を展開した。この期間に安部が展開した平和思想の特徴をこれまでに発表した拙論 (
。るるなにうよの次、とす約要に単簡てし拠依に 1)
一八九〇年代後半の米国留学中にトルストイの絶対平和主義に大きな影響を受けた安部は一九〇一年に起草した﹁社会民主党宣言﹂に人類同胞主義と軍備撤廃を基本理念にかかげ、日露非戦と軍国主義批判を展開するとともに、ロシア
の国際法学者であったマルテンスが唱えた、中立国の拡大が世界平和を導くという中立主義思想に示唆を受けて、朝鮮・中国の中立化だけでなく日本の将来構想としてモデル国としてのスイスに軍備撤廃の理念を加えた非武装永世中立国に
なることを提唱した。第一次大戦期の安部は依然として軍備撤廃の理念を主張し続け、大戦後の平和構想としては新たに国際連盟への期待とともに国際仲裁裁判所による国際紛争解決の機能強化を訴えたが、他方で中立主義思想への思い
入れは影をひそめ、祖国防衛を担う軍隊の﹁国防主義﹂の側面を容認するにいたった。そして大戦中に西欧各国の社会主義政党が祖国防衛論をかかげて戦争協力に転換した行動について、安部は一方で第二インターナショナルの反戦平和
の伝統への裏切りとして糾弾するが、他方で祖国防衛論の必要性に理解を示しその行動を擁護するという相反する評価に揺れ動いた。しかしこの大戦後に安部は階級的戦争観の認識を深め、労働者による階級的国際連帯や反戦ゼネストに (八五二)
平和思想の暗転
二八三同志社法学 五九巻二号 よる戦争防止を呼びかけていたことも忘れてはならない。また日中友好の確立のために、中国侵略の口火となった対華二一カ条要求を批判し、日本からの率先した権益放棄(ただし有償返還)を訴えていた。ところが日露戦争から第一次大戦にかけて示された上記のような安部の非戦活動や平和思想は、一九三一年の満州事変から始まる十五年戦争に突入するやにわかに戦争協力の方向に暗転してしまったのである。つまり一九二五年制定の
男子普通選挙の導入による新しい政治状況のなかで、合法無産政党の結成が日程に上り始めたとき、安部は早稲田大学での学者の地位を投げ打って政治の世界に転進し、一九二六年一二月右派勢力によって結成された社会民衆党の委員長
に就任したが、やがて満州事変が勃発するや同党が軍部の満州侵略を支持し、戦争協力の方向に積極的に歩みだしたところ、安部はこうした危険な動きを党首の立場から制止するのではなく、逆にみずからも戦争協力の方向に暗転してし
まい、以後その姿勢が是正されることはなかった。こうした十五年戦争期における安部の平和思想から戦争協力への転換のプロセスがまさに﹁暗転﹂(=演劇中に幕を下ろさずに暗がりの中で場面を転換する)と呼ぶにふさわしい変化を
みせていることから、この興味深いテーマをめぐってこれまでも研究 (
にまいてれさ残だだよまも点論きべするう議論前以、はで文本に。るれらけ受見論てらし教えれる点も多いが、依然と きてれらがね重み積。たらこれらの研究かむろん 2)
日露戦争から第一次大戦にかけての安部の平和思想の展開過程を分析してきたこれまでの研究と関連させながら十五年
戦争期の安部の戦争協力への暗転を眺めてみると何がそこに見えるか、その点を明らかにしたいと考えている。
Ⅰ 十五年戦争期における思想と行動の軌跡
安部磯雄が学者から政治家に転身した目的と理由は何だったのか。安部の証言によれば、人々の心の平安や魂の救い
(八五三)
平和思想の暗転
二八四同志社法学 五九巻二号をめざして無報酬の奉仕活動に従事している伝道者のような気持ちで政治家を志したと言っている (
。つまり人民の生活 3)
と生命を守るには、人民の要求を議会に届けようとする政治家の役割は必要不可欠となるが、もっぱらカネと名誉を追い求める腐敗した現実の既成政党にそれを望みえないとすれば、新しく発足する無産政党なら﹁宗教家の精神で政治を
してゆこうと思つている﹂という自己の希望をかなえてくれるであろうと期待したからであった。すなわち﹁私共は政治界の廓清には既成政党は眼中にない。これから生まれる無産政党に対して唯一の望みを掛けることが出来る (
﹂と。し 4)
かも、政治の世界でしばしば顕在化する敵・味方の争いに遭遇したとしても、﹁汝の敵を愛せよ﹂の精神で対応しようと答える安部の宗教的寛容の姿勢は以前から争いを嫌う温和な社会主義者としての気質をストレートに表明しものにす
ぎないとはいえ、この無限抱擁的な姿勢がとりわけ厳しい対決姿勢を要請される十五年戦争の時代においていかなる結果をもたらすことになるのか。
安部は社会民衆党委員長として、満州事変直前の一九三〇年に出版した﹃国民の審判に訴ふ﹄や﹃次の時代﹄などにおいて、同党の外交政策をかなり詳しく説明しているが、そこにみられる国際認識の特徴についてとくに前者の著作を
中心に紹介しておこう。 安部によれば﹁真の世界平和﹂の実現は、各民族国家が自由平等の立場に立つ﹁国際的民主主義﹂の確立と各国家間
での﹁共存共栄﹂の樹立によって可能となると展望される。そのために安部は一方で移民・通商航海・資源利用などの自由を求める自由貿易主義の確立を要請するが、しかし他方で現実の世界では先進の﹁資本主義国家﹂は﹁原料産地﹂
と﹁商品市場﹂の獲得のための植民地争奪戦に乗り出す﹁帝国主義国家﹂に転換し、その矛盾・対立の帰結として第一次大戦を戦うことになったが、大戦後も依然として国際政局を不安に陥れている元凶であることに変わりはない。ここ
で注意すべきは、安部が世界政局の不安要因として上述の﹁列強間の対立関係﹂をかかげるだけでなく、植民地支配下 (八五四)
平和思想の暗転
二八五同志社法学 五九巻二号 にある﹁被抑圧民族の台頭﹂もそこに加えている点である。安部の場合、被抑圧民族による﹁民族自決運動の台頭﹂は、一方で世界史の必然的過程と肯定的に評価されながらも、他方で世界政局の不安要因の一つとみなされた。こうした認識にもとづいて安部が植民地問題の解決方法として出した方針は、﹁高度に開明した民族に対しては、完全なる自治権を与へ、出来る限り速やかに解放の光明に向はしむべきであります﹂(二〇五頁)という提案であった。つまり被抑圧
民族に対して文明化のレベルアップに応じてまず自治権を与え、やがて事情が許せば植民地の独立・解放を認めてもいいというのである。気になるのは、ここで言及されている植民地の対象地域の中に日本の支配下にある朝鮮や台湾が含
まれているかどうかである。この著作で明示されてはいないが、植民地の即時解放に反対する次のような論調をみると、朝鮮などがそこに含まれていると解釈することは不可能ではない。つまり植民地下の被抑圧民族が高度に文明化される
前に即座にその独立を認めることになれば、その結果として彼らを﹁白人資本家﹂による﹁暴戻なる支配下に遺棄することになり﹂、また﹁外国勢力による資源の濫用、労働者の酷使、政治的自由の圧迫﹂(二〇六頁)などを許すことにな
るという安部の説明の仕方にそれが暗示されていると見てまちがいなかろう。しかしこうした説明の論理は往々にして日本を含めた植民地支配の正当化論に使われかねないし、そもそも植民地における文明化の到達段階などどのようにし
て測ることが可能なのか、こうした論点を含めて後に安部の植民地認識の特徴をまとめて取り上げるときにもう少し詳
しく分析したい。 さて国際政局の不安要因を除去し世界平和を実現するには言うまでもなく﹁帝国主義の清算﹂が必要であるが、安部
はそこには二つの方針が対立しているとみなした。一方は第三インターナショナル(コミンテルン)に代表される﹁共産主義的方針﹂で、具体的には﹁植民地の完全なる独立﹂をスローガンにかかげ、独立運動への熱烈な連帯を要請する
が、それはあくまでも﹁共産主義的世界革命﹂を達成するための手段として位置づけられているにすぎないとされる。
(八五五)
平和思想の暗転
二八六同志社法学 五九巻二号ここには明らかにコミンテルンに対する強い反発と対抗意識が見出されるが、上記のような安部の植民地即時解放反対
論もこうしたコミンテルン批判がそこに介在していたと考えられる。採用すべきはむろんこれに対抗している﹁社会民主主義的方針﹂であり、それは一言で言えば﹁帝国主義の漸次的退却﹂がめざされた。具体的には、第一に各国支配階
級の正義と人道に訴えるのではなく、各国の勤労大衆の自覚と団結に依拠した社会民主主義勢力の強大化によって﹁各帝国主義国家の有する特権の漸次的廃棄﹂を実施すること、第二に現存の国際連盟や常設国際司法裁判所の機能強化と
善用などがかかげられた。その際安部の場合、第一次大戦以後世界平和を保障する重要な方策として生み出された国際連盟の創設(一九二〇年)と不戦条約の締結(一九二八年)について、一方で﹁世界平和に進む第一歩であった (
﹂と期 5)
待感が抱かれながらも、他方で軍備競争を止めない帝国主義国の﹁武装的平和﹂の下では両者とも有効な機能を果たしえないという悲観的な現状認識が強く打ち出されていたことに留意しておきたい。それ故安部にとっては、一九三〇年
一月から始まったロンドン海軍軍縮会議に象徴される世界の軍縮運動が成功するかどうかが何よりも大きな試金石になると考えられた。安部は満州事変直前に出版されたこの﹃国民の審判に訴ふ﹄においても﹁国際永久の平和を確立する
ため、私共は軍備の撤廃を理想とするものであります﹂(二一三頁)と依然として﹁軍備の撤廃﹂を強調しており、この視点から軍縮が強く要請されるとともに、当時の軍拡政策にも厳しい目を向けていたのである。安部は祖国防衛のた
めの国防軍や徴兵制を容認しながらも、軍備の拡張は﹁国民の好戦的態度﹂を促進し、﹁異民族間の猜疑心と異国民間の敵愾心﹂を扇動するほかなく、﹁何れの国民も自国の軍備は絶対に国防のためと称しながら、他国の軍備は侵略のた
めと考へるのであります﹂(二一八頁)と述べ、国民の抱く国防意識の中に潜む独断的な思い込みを剔抉している。さらに具体的な中国政策に関して、安部は中国の自主統一への日本側の理解と支援を求め、また不平等条約の改訂を日本
が列強諸国に率先して提案することなどを通して、日中両国の間に﹁緊密なる共存共栄の連繋を確立する﹂ことを訴え (八五六)
平和思想の暗転
二八七同志社法学 五九巻二号 た。しかし安部の場合、確かに日本は﹁日清日露の両戦役によって著しく国家的地位を高め、⋮⋮押しも押されぬ帝国主義国家の仲間入りをするに至つた﹂(二〇九頁)という認識が前提にされながらも、他方で日本は﹁白人帝国主義国家﹂に圧迫される﹁後進帝国主義国家﹂とみなされ、それ故﹁日本自体の民族的生存権﹂の確保が重要視されていたことにも留意しておくべであろう。
以上、満州事変前に示されていた、世界平和の実現に向けての社会民衆党の外交政策の提言に関する安部の説明を概観してきたが、われわれはそこに彼の国際認識の特徴として、①﹁国際的民主主義﹂論と自由貿易主義の要請、②コミ
ンテルンへの対抗意識、③﹁国際連盟主義﹂にかんする両義的な評価、④植民地国の文明化に応じた漸進的独立論と即時解放否認、⑤軍備撤廃を理想にかかげた上での軍縮要請と軍拡批判、⑥日中間の﹁共存共栄﹂という目標設定、⑦日
本=﹁後進帝国主義国家﹂としての﹁民族的生存権﹂の確保などを抽出することができた。こうした国際認識や世界平和実現への熱き思いを抱く安部は、この直後に勃発した満州事変から始まる十五年戦争に直面したとき、いかなる試練
に出会い、いかなる変転を遂げることになるのか。以下ではこの時期の安部の思想と行動の軌跡に関する先行研究 (
。味論活動をそこに加しのて説明を進めたい評部ま安ながらも、あり拠知られていないし に依 6)
一九三一年九月一八日、いわゆる満州事変が勃発した。周知のようにそれは、関東軍が柳条湖付近の満鉄沿線の線路
をみずから爆破し、それを口実にして中国東北部(満州)への領土拡大をめざした侵略的軍事行動であった (
政追しきられ、この軍事侵略を認にするにいたった。与党の民押勢方針郎内閣は当初不拡大姿を取ったが、軍部の強硬 槻若。礼次 7)
党も野党の政友会も関東軍の軍事行動をそれぞれ﹁正当防衛の挙﹂ないし﹁自衛権の発動﹂として直ちに肯定するなかで、当時の合法無産政党の対応が注目された。左派と中間派の勢力を結合して事変直前の七月に結成したばかりの全国
労農大衆党は、九月二八日に﹁対支出兵反対闘争委員会﹂の設置と堺利彦の委員長就任を決定し、翌日には﹁隣邦中華
(八五七)
平和思想の暗転
二八八同志社法学 五九巻二号民国に対する政府並に軍部の採りつつある帝国主義的政策
―
出兵策謀等々―
は世界大戦を誘発すべき危機を胎むものに して吾等は断固として反対す﹂という委員会声明を発表し、﹁即時撤兵と対支内政絶対非干渉﹂を要求した (はのを決定し、軍事侵略反対決表意を明確にしたが、党内で)公﹁対党は一〇月三〇日に未支出兵反対闘争方針書﹂( らさ。に同 8)
麻生久ら有力メンバーの間に軍事行動支持を画策する動きが台頭し、そのせめぎあいの中で有効な反対運動を展開できなかった。安部とは日露非戦論以来の旧知の間柄であった堺利彦は、同年一二月に開催された大会に﹁僕は病床にいて
諸君の帝国主義反対の叫びの中に死ぬ事を光栄とす﹂という悲痛なるメッセージを送り (
。につ一九三三年こきの世を去ったつ抱をい 、戦最後まで反和平への熱き思 9)
ところが安部の方は、社会民衆党における満州事変追認の流れに押し流されるかのように軍事侵略支持の方向にズルズルと転換してしまった。同党は満州事変に対する態度決定にはまず調査が必要とし、一一月二一日になって調査結果
の報告を受け、翌日の中央委員会で﹁満蒙問題に関する決議﹂を採択した(理由は不明だが、安部は両中央委員会とも欠席している (
る策政府の誤れる外交政と日の﹁共同責任﹂にあ本と原為こでは、①事変の因)。は中国軍閥の排日行そ 10)
こと、②共産主義者の主張する﹁満蒙退却論﹂を排除し、﹁日本国民大衆の生存権確保﹂のため満蒙権益を維持すること、③国際連盟には解決能力がなくそれに期待できないこと、④根本的解決策として﹁ブルジョワ的満蒙管理﹂を﹁社会主
義的満蒙管理﹂に移し﹁日支民衆の共同経済﹂を樹立することなどが表明されたが、それは明らかに軍部の満州侵略を追認していることはもはや多言を要しないであろう。こうした方針転換を、満州事変前に安部が示した社会民衆党の外
交政策や諸原則に関する説明と比べると、第一にアンビヴァレントな評価をもちつつも人類の大きな進歩とみなしていた﹁国際連盟主義﹂や中国における各国の権益放棄に向けての日本からの働きかけの提唱などは簡単に放棄されている
のに対して、逆に共産主義者への対抗意識や﹁後進帝国主義国家﹂=日本の﹁民族的生存権﹂を確保しようとする願望 (八五八)
平和思想の暗転
二八九同志社法学 五九巻二号 の強まりが目立つようになっている。しかし実はこのように満州事変を契機して社会民衆党の外交方針と中国政策が大きく変化したことについて、安部自身がどのように関与したのか、いかなる認識をもっていたのかを直接知り得る史料は乏しいのだが、いったん軍事侵略支持の方向に転換してからはその姿勢が是正されなかったことだけは確かである。 一九三二年の一月開催の社会民衆党大会において、赤松克麿らの国家社会主義グループが右傾化の勢いに乗じて一気
にファッショ的な新運動方針を採択させようとしたが、その画策が失敗し彼らは脱党していった。安部の方に軌道修正する意思があったとすれば、このときが安部にとっていわば絶好のチャンスであったとみなし得るが、動こうとしなか
った。このとき安部は、﹁従来のマルクス流の国際主義に対して国民主義を強調する﹂赤松らの問題提起について、﹁国際主義と国家主義⋮⋮とは決して両々相容れざるものではなく﹂、﹁国際主義は理想であって、国家主義は当然此理想の
実現をも前提とすべきである﹂という姿勢を基本にして対処すべきことを望んだ (
員新たし戦挑くしてけし関に題問論わでい一委央中の日五月は四年同、くな理し主の難義と国家義主両立可能性という 、かし安部自身際理想としての国。し 11)
会において﹁国民主義か国際主義かといふ点についても今日の如く国際経済の紛糾せる時には一時国民的立場をとるのも已むを得ないであらふ (
し正者択一することを当で化している。しか二第結次述べるように、局﹂のところ状況判断と 12)
安部にとって問題は、つねに赤松らの立場に通底する国家主義の方向が選択されたという点にある。その思想的要因に
ついては後に検討するとして、その具体的事例の一つをなす﹁満州国﹂について安部はいかなる認識を示したかについて簡単に触れておこう。一九三二年三月に満州国建国宣言が発せられると、安部は﹁満州国承認問題﹂(﹃廓清﹄一九三
二・一〇・一〇)という論説において、一方で﹁満州国﹂は日本の傀儡国家であることを認めざるをえないし、中国領土を切り取ったという中国側の言い分にも耳を傾けるべきであると言いつつも、他方で満州地域における日本の権益擁
護のために、あるいはロシアに対して日本の安全を図る防壁とするために﹁満州国を一つの国家として成立せしめねば
(八五九)
平和思想の暗転
二九〇同志社法学 五九巻二号ならぬ﹂と主張する。安部は今後の課題として、満州鉄道の返還や治外法権の撤廃などを通して﹁満州国﹂を名実とも
に独立国家に仕上げた上で日本・﹁満州国﹂・中国の三国が提携し東洋の平和を守ることを希望した。 一九三二年七月に社会民衆党と全国労農大衆党が合同して社会大衆党が結成された時も安部は再び委員長に就任した (
。 13)
社会大衆党は、当初国際政策としてはソ連との不可侵条約の提案、資源・通商・居住・移動の自由などの提唱、中国政策としては﹁満州国﹂における完全な民族自治や治外法権回復の承認、といったある程度帝国主義に批判的な方針をか
かげていた (
ちた実現やもたま、きとし従面直に争戦面全中日た追のに。いてしと長員委は部安た姿っなにとこるま強が勢し機契を 三徹一、くなとこるれさが貫針方のこ合場の部安九七が溝﹂)変事那支(﹁件事橋盧年たし発勃に日七月七、 14)
早く官邸に赴き近衛文麿首相に﹁挙国一致﹂に加わることを表明したが、その後﹁日支戦争と新しき対支政策﹂(﹃廓清﹄一九三八・一二・一〇)という論説において、次のような論理で日中戦争の正当化を公表したのである。
第一に安部によれば、日中戦争はこれまでの世界史に現れた征服戦争とは異なり、﹁戦争に負けた国の国民が自分の手で政府を造ると云ふことは世界歴史にないことで、今後の日支戦争の新しい特長である﹂とみなされ、具体的には﹁現
に北支及び中支に於いては、既に支那人の政府が出来て居る﹂し、こうした﹁地方的支那の政府﹂がやがて中央組織に連合され、その結果﹁支那は支那人によつて治めることに﹂になるというのだ。こうした安部の主張を当時の日中間に
みられた現実の動きに照らしてみると、それはいかなる立場を示したものかが明らかとなる。近衛首相は、一九三八年一月に﹁国民政府を対手とせず﹂と強気の声明を出したが、かえって和平の糸口をつかめなくなったため、同年一一月
に東亜新秩序声明(第二次近衛声明)を、さらに一二月には日中調整の条件提示をした第三次近衛声明を相ついで公表し、その軌道修正を試みたのである。その結果、一方では国民政府対手論の復活を促進する論理が模索され、それが東
亜連盟論や東亜協同体論として展開されたのに対して、他方で中国各地の傀儡政府の連合をめざす﹁新政権樹立論﹂が (八六〇)
平和思想の暗転
二九一同志社法学 五九巻二号 画策される (中さ政時臨国民華中﹁たれ立﹂(樹で導指の軍面方那支府北に面﹁たし立成で導指の軍方京那支中に月三年、翌と)北月二 か明はとこるいてし与に針方の者後は張主の部安らでが文一年七三九一、は章のあ記上の部安りまつ。る、 15)
華民国維持政府﹂(南京)とが合併し、同年九月に﹁中華民国政府連合委員会﹂(北京)が発足した動きを念頭においたものであるが、安部はこれらの政府が日本軍の指導によって造られた傀儡政府であることをまともに正視しようとして
いない。安部は日中戦争を戦う日本側の意図を﹁にくゝしては打たぬものなり笹の雪﹂という俳句に託して語ったが、竹そのもの(中国民衆)を助けるために笹の雪を落としているのであって、かかる意味で日中戦争は﹁聖戦﹂とみなし
たのである。 この論説で注目すべき第二の点は、﹁亜細亜は亜細亜人の手によつて治められなければならない﹂という発言に示さ
れた亜細亜モンロー主義の考えが提示されていることである。これはおそらく近衛首相の出した東亜新秩序声明に安部なりに応えた態度表明であると推察される。安部は別の論説で日中戦争の目的は﹁東亜聯合国の建設﹂にあり、﹁日本、
満州、支那、これを一丸として新しい聯合国にしやうとして居る﹂と唱えたこともある (
にたれるのではなく、この後容認し大開す釈解の自独る関東に論圏栄共亜さ展亜に東く同体論など協コットして詳しミ たかしこうし当考えは時の。し 16)
発展していった。
さて、周知のように民政党の斉藤隆夫が一九四〇年二月に近衛声明を中心に日中戦争終結の見通しについて厳しく問い糾したいわゆる﹁反軍演説﹂に対して、彼の議員除名処分が大きな政治問題となったとき、安部は処分反対の立場か
ら本会議を欠席し、まもなく社会大衆党を離党した。その直後同党は自主的に解党し、戦争推進の中央組織として同年一〇月に結成された﹁大政翼賛会﹂に合流するが、安部自身はその決定にかかわる汚名だけはまぬかれた。とはいえ、
その後の安部の言論活動は戦争賛美の姿勢を是正することなく、ますます戦争協力の様相を強めることなる。
(八六一)
平和思想の暗転
二九二同志社法学 五九巻二号一九四一年一二月八日の真珠湾奇襲攻撃から対英米戦争に突入すると、安部は﹁他の国は英米の為に圧迫される。こ
れが今度の世界戦争を起した原因である (
部求字文、もりよるめをり眼主の化当正争戦通大﹂よ安。たいてしとうし東弁強を義意の争戦亜に衛存自﹁の国帝本自 国を敵らぱっも戦因原の争の、べ述側に英か日てっいとらだ米、がす帰﹂諸と 17)
によれば﹁今回の戦争になつてから、日本の勢力というものは驚くべき発展をすることになつた (
にけ土拡大の野心を実現したいわでもはなく、アジア諸国を文明水準領何大でな勢力拡は手放しが擁が護そ、れるれさ ﹂的義主張膨の本日と 18)
応じて独立に導く誘導策を実施することが可能になったとみなされたからにほかならない。ここにもまた安部のアジア認識に絶えずつきまとう日本の盟主意識ないし指導者意識という宿弊が彼の思考の大きな躓きの石になっている証左を
認めることができるであろう。そして大東亜共栄圏構想に関して安部が独特の正当化論を展開していたことが注目される。つまり安部によれば、世界はいずれ日本を中心としたアジアに豪州を加えたブロック、ヨーロッパとアフリカを一
つにしたブロック、そして南北アメリカのブロックといった三つのブロックに分かれることが予想され、しかも地政学的にみればそれぞれのブロックは寒帯・温帯・熱帯の各地域をカバーすることになり、その条件の下で戦争の原因とな
る食糧問題の解決が可能になるだろうという多分に希望的な観測が安部なりの大東亜共栄圏の正当化論であった (
差めからこそ、﹁この戦争の為ないらば、私は何時でも生命をたてはじあれ安部は主観的にこうした性格の戦争だと信 。もと 19)
出してお役に立てたい。否進んでこの戦争の責任を負つて行きたい。日本国民としては、何うかこの点を考へて、最後の一人になるまで、戦つて行くと云ふ精神を大いに鼓舞して行かなければならんと思ふ (
﹂と訴え、戦争協力の決意と覚 20)
悟を悪びれもなく公表できたのである。 (八六二)
平和思想の暗転
二九三同志社法学 五九巻二号 Ⅱ 戦争協力への転換の思想的要因前節で検討したように、安部磯雄は社会民衆党と社会大衆党の党首として一九二六年から一九四〇年までの長きにわ
たって激動する政治の世界で活動してきたが、両政党はともに当初は反帝国主義的な外交政策を標榜しながらも、満州事変や盧溝橋事件が勃発するや、政党内部の方針変換に引きずられるかのように、安部の言論活動も軍事侵略の追認や
戦争協力の方向に転換していった。 安部の満州事変への対応姿勢に関して、吉野作造の門下生である河村又介は﹁満州事変の影響を受けて社会民衆党の
中にも、国家主義的な思潮が台頭したとき、安部さんが毅然として国際平和主義を守られたことに言及して、(吉野先生は
―
引用者)﹃平常は柔和であつても、譲るべからざる信念は頑強に固守する人がある。安部先生の如きはそれだ﹄ と曰われた (い党追上実事を変事州満が衆す民会社は部安かろこど認るそ委、りおてし席欠に会員央重中たれわ行が定決な要れ。い をが力尽の部安たれさ言証でここ。るいてし想回何意﹂討なしと然判り限たし検味で節前はかのるいてしと 21)
わば党内の方針転換に積極的な役割を担わなかったが、逆にその阻止のためにリーダーシップを発揮した形跡もない。吉野は﹁民族と階級と戦争﹂と題する有名な論説を﹃中央公論﹄(一九三二・一)に掲載し、公然と満州事変を批判し、
かつ毅然たる姿勢を示さない無産政党を叱責したことがある。この論説は当然伏字の多い文章になったが、吉野の真意は十分に理解できたはずだ。吉野は﹁満州事変に関する問題の全面に就て国内にもつと自由無遠慮な批判があつても然
るべきではあるまいか﹂と訴え、とくに不思議なことは﹁無産政党側から一向予期したやうな自由豁達の批判を聞かぬ
ことである﹂と詰問したが、結局のところ﹁中間派は時々思出したやうに小さい声で反対声明を出しては居るが⋮⋮右翼に至つては初め頗る曖昧なる態度であったが近来は段々出兵乃至軍事行動を全面的に支持せんとさへするものの如く
(八六三)
平和思想の暗転
二九四同志社法学 五九巻二号である﹂と厳しく批評した (
きとに対して安部はほん叱ど応えることがで責たるめうした吉野によい。わば期待感を込こ 22)
ず、満州侵略を追認する党内の動向に同調してしまった。他方で、社会大衆党が新しく発足したとき、やはり当初は帝国主義に批判的な外交政策をかかげていたが、盧溝橋事件を契機にして、いち早く近衛首相に﹁挙国一致﹂に参加する
意思を伝え、日中全面戦争を﹁聖戦﹂として擁護するにいたったことは前述した通りである。このように、安部の思想は日本軍の武力行使や事変の勃発という既成事実を前にするや、なぜズルズルと追認することになり、さらに戦争協力
の方向へ変質してしまうのであろうか、ここではとくにその思想的要因に焦点を合わせて検討してみたい。その際、一九〇一年の﹁社会民主党宣言﹂を安部が執筆したことはよく知られているが、そこには﹁我党は世界の大勢に鑑み、経
済の趨勢を察し、純然たる社会主義と民主主義に依り、貧富の懸隔を打破して全世界に平和主義の勝利を得せしめんことを欲するなり (
て・社会主義・民主主義平っ和主義を三本柱としてた活ああり、安部が政党動﹂を本格的に始めるにと 23)
重視したことを考慮して、以下の叙述を三項目に分けて、それぞれがどのような展開を示したのかを総合的に評価しながら分析したい。
一 絶対平和主義のゆらぎ まず最初に安部が大きな影響を受けたトルストイの絶対平和主義から抽出した無抵抗主義の解釈が注目される。﹁悪に抗すること勿れ﹂という戒律をめぐって、トルストイはあくまでも暴力でもって悪=軍隊・戦争に対抗すべきでなく、
逆にいえば良心的兵役拒否のような非暴力抵抗を容認した思想として捉えたのに対して、安部は勃発してしまった戦争に文字通り無抵抗な姿勢をとろうとした、というように両者には重大な解釈の違いがあることについては以前に指摘し
たことがある (
戦と争が始まってしまうどんうしようもないといきたあ時。つまり日露戦争の期っ以来、安部の場合いう 24) (八六四)
平和思想の暗転
二九五同志社法学 五九巻二号 らめの心境が湧き出し、現実の事態を追認してしまうという性癖が十五年戦争の時期にも顔を出したと推測できる。それは、たとえば盧溝橋事件に際して﹁事態茲に到れば 0000000挙国一致は必然である (仕語の言発の彼たっと)者用引は点傍﹂( 25)
方に示されているといえよう。安部は﹃社会問題概論﹄(一九二一年)のなかで、改めて﹁トルストイの無抵抗主義即ち非戦論は広く社会に知られて居る所の意見であるが、彼は基督の教訓を次の如く解釈して居るのである。基督は私共
に如何なる場合に於ても決して怒つてはならぬといふことを教へて居る。又如何なる場合に於ても如何なる人に対しても抵抗してはならぬと説いて居る。トルストイの無抵抗主義は全くこれ等の教訓を基礎として居るものである (
﹂と主張 26)
していたことを付け加えておこう。 第二に取り上げるべきは、﹁共存共栄主義﹂という言葉がトルトイの絶対平和主義から導き出された人類(四海)同
胞主義の同意語として読み替えられたという問題である。安部によれば﹁共存共栄主義は最高の理想である﹂とみなされ、それは各人は人格的価値において平等であること、﹁強度の博愛心﹂を必要とすること、家族がその実践例である
ことといった構成要素を有し、四海同胞主義は﹁家族に行はれて居る共存共栄主義を全世界に拡大せんとする思想である (
一か選択するにいたったのにな関しては、﹃次の時代﹄(ぜが共部される。この﹁共存栄﹂主義﹂という概念を安と 27)
九三〇年)における第四章﹁共存共栄の立場から﹂をみると、﹁仏国に於ては社会連帯責任と言ふが如き学説が盛んに
唱へられて居る。⋮⋮これと同一の意味に於て近頃盛んに用ひられて居るところの語は共存共栄といふことである。これは連帯責任といふよりもより一層人々に諒解され易い言葉である (
んま盛時当、合場の部安りつ。るいてれさ明説と﹂ 28)
になり始めたフランス社会学の﹁社会連帯責任﹂の概念から﹁共存共栄﹂が抽出され、より理解しやすい言葉とみなされたのは、﹁共存共栄﹂の言葉の方がおそらく資本主義社会の﹁自由競争主義﹂に対置させるに最適で、しかも宗教・
道徳からみても四海同胞主義と同一視しやすい用語と考えられたからだと推測される。確かに安部は﹁共存共栄主義或
(八六五)
平和思想の暗転
二九六同志社法学 五九巻二号は四海同胞主義﹂というように同意語として用いているが、それは果たして妥当であろうか。たとえば一九四三年六月
に発表された大東亜会議の共同宣言のなかに﹁共存共栄の秩序の建設﹂がスローガンにかかげられたように、安部の場合にも﹁共存共栄主義﹂は日本・﹁満州国﹂・中国の﹁東亜聯合国﹂の建設構想や大東亜共栄圏の容認となって現われた
り、また侵略国日本の権益確保を抑圧している中国に認めさせる独善的な標語にもなったのである。安部の場合かつての日露戦争の時期には、国境や人種の違いを簡単に超えるコスモポリタンな思考を有する四海同胞主義は戦争否定をラ
ディカルに主張し得る拠り所になったのに対して、﹁共存共栄主義﹂の方は家族や国内の有機的な社会を離れて激動の国際政治に適用されると、国家間の相互繁栄という意味が支配・従属の関係や不平等な現実を変革する方向には働かず、
国益論的な観点を容認する概念に意味転換を起こしたと考えられる。たとえば安部は﹁社会民衆党の主張﹂という論説のなかで、﹁日華両国が緊密なる共存共栄の連繋を確立することは、単に両国の生存権を獲得するのみならず(云々 (
)﹂ 29)
と言っているように、日中間の﹁共存共栄﹂の確立は両国の﹁生存権﹂の確保が前提にされていることをみても明らかである。
第三に、国際主義と国家主義の両立可能性に関する安部の考え方を取り上げなければならない。この点に関して興味深いのは、満州事変直前の一九三一年一月に安部が小池四郎との共訳で﹃インターナショナル 歴史現状発展﹄を刊行
し、労働運動や社会主義における国際主義の流れを詳しく紹介したことである。安部は翻訳の対象とした原著書を明示していないが、それは
L ew is L . L or w in , L ab or a nd In te rn at io na lis m , T he M ac m illa n C o., 19 29
であるとみてまちがいない。この訳書は﹁インターナショナリズム(国際主義)は一つの理想であ﹂るという立場から、過去百年間に展開されたインターナショナリズムの五つのタイプ、つまり人道主義的国際主義、平和主義的国際主義、重商主義的国際主義、
社会改良主義的国際主義、社会革命的国際主義を詳細に説明した著作である (
義主る明に来未の望際展国に的論結、がい 30) (八六六)
平和思想の暗転
二九七同志社法学 五九巻二号 を指し示したわけではない。今や国際労働団体の活動と勢力は分裂と衰亡の時代に陥り、ほとんどの国が﹁労働国民主義﹂(la bo r na tio na lis m
)―
たとえば移民禁止、保護貿易主義、労働条件を無視した国家的能率主義など―
の方向に歩 み始め、したがって﹁各国の組織的労働階級は、国際的協力と国民的自己満足の相反する思想と方法の間に動揺し続けるであろう (タ第のように安部自身も一前次大戦のとき第二イン述、くはいう問題提起で締めく﹂っている。この問題と 31)
ーナショナル内に生じた国際主義と祖国防衛論のせめぎあいのなかで揺れ動いた経験があり、なかなか解決困難な問題であり続けた。それでも安部はこの時にはまだ労働者の国際的階級連帯による戦争防止の可能性を信じていた。しかし
無産政党時代になると、安部は主観的には理想としての国際主義と国家主義との両立を願望していたが、現実には共産主義勢力に政治的対抗意識を燃やし、コミンテルンの国際主義(上記の訳書では﹁社会革命的国際主義﹂にあたる)に
否定的になったとき、それに代わりうる新しい国際主義を見出せずにローウィンのいう﹁労働国民主義﹂、具体的には赤松克麿らの唱える国家主義に同調してしまう結果となる。さらに安部の国際主義の見方について注目すべきは、ロー
ウィンのいう﹁重商主義的国際主義﹂、つまり自由貿易主義による世界平和の実現という考え方が日露戦争の時期以来一貫して流れていることである。前述のように社会民衆党や社会大衆党の外交政策にも、移民の自由・通商航海の自由・
資源利用の自由などがかかげられ、安部も世界平和実現の方策として好意的に説明していた。しかしこの自由貿易主義
の考えもまた、他方で﹁白人帝国主義国家﹂に対抗しながら日本=﹁後進帝国主義国家﹂の﹁民族的生存権﹂を確保するという国益論的観点が強まるにつれて、大東亜共栄圏のような広域勢力圏論に包摂されていった。
このように安部は理想としての国際主義と国家主義の両立可能性を求めて模索と苦闘を試みてきたが、コミンテルン流の国際主義の否認や﹁日本自体の民族的生存権﹂の確保という国益論的観点の台頭が目立ち始めたところに、安部に
とって肝心の人類(四海)同胞主義が﹁共存共栄主義﹂に置換され、国家主義的な論調と思想的に対決する力を失い始
(八六七)
平和思想の暗転
二九八同志社法学 五九巻二号めたことと相俟って、安部のスタンスが戦争賛美や大東亜共栄圏論に傾斜するのも必然的な流れであったといえよう。
二 国家社会主義への傾斜
戦争協力への暗転を検討する際の第二の側面として、とりわけ一九二〇年代における安部磯雄の社会主義論が十五年戦争期にどのように転換・変質したのかに目を転じてみることにしよう (
約の簡、はに論義主会社部安の代年〇二九一。 32)
して言えば国家社会主義とイギリスのギルド社会主義という本質的に相反する思想傾向の混在がみられる。前者からは国民総動員体制の権力的な統制経済を肯定的に容認する主張が生み出され、後者からは﹁産業民本主義﹂の主張が導き
出された。 まず後者の思想傾向に関連して注目されるのは、安部の場合社会主義のモデルが明治後半期にはマルクスからフッサ
ールを経てベーベルに流れる﹁独逸の社会主義﹂であった (
現題ていおに﹄論概問安会社﹃の版出年、部二し実を義主会社てとは礎基を合組働労﹁一九るる一ことであ。たとえば 代ギイはにシ年〇二九一スリフ社会主義にがト転換してい、 33)
せんとするギルド社会主義の主張には私共が大いに注意せねばならぬ真理が含んで居るやうに思ふ (
けス、第一次大戦前後からフランのとサンディカリズムの影響を受は義共言会主義への主を明鳴しル会てド社ギ。るい ﹂社ドルギ、べ述と 34)
てイギリスで台頭し始め、職能別組合(ギルド)を中心に資本家から産業支配権を取り戻し、他の社会団体と協力して民主的社会を形成することを目的とした社会運動である。ただし安部の場合、労働組合を総同盟罷工(ゼネスト)によ
る社会変革の主体とみなす急進的なサンディカリズムには批判的で、産業自治の下で労働者の利益分配の拡大をめざすギルド社会主義に傾斜するのも、共産主義的な階級闘争や暴力革命を認めない当初からの温和な社会主義の必然的な結
果である。このギルド社会主義への傾斜は安部の中で﹁産業民本主義﹂の提唱を生み出した。それは、産業自治の実現 (八六八)
平和思想の暗転
二九九同志社法学 五九巻二号 によって資本主義社会を改革しようとする考えであり、具体的には、個々の会社で得られた利益を労使双方で分配し、労働者はその利得で株券を取得し徐々に会社の経営権を掌握するという、いわゆる利益分配主義に基づく資本主義廃絶 論がその中心的な内容をなしている (思うの部安はれそ、がま和してれさ摂包に﹂論温な奉家るす視重を割役の国社ともともはに義主会還業﹁にもとと上産 以はにうよの述後し張主た州うこしか満後事じ浮の論体国た生変に中の部安に。し 35)
考が内包されていたからであり、その点で国家の役割を否定しないギルド社会主義への傾斜も国家社会主義的な思想傾向も安部の内面では矛盾するものではなかったことは見過ごされてはならない。
さて安部の国家社会主義的な思想傾向に関して、たとえば﹁統制と自由﹂(﹃廓清﹄一九四〇・九)のなかで、安部は﹁物質的生活の統制と云ふことは、国民全体の幸福にな﹂り、﹁この統制と云ふことは、社会主義の一つのやり方で、統
制経済を実行するのである﹂と述べるように、日中全面戦争を推進するために設計された国民総動員体制の中に社会主義的な統制経済や軍隊的産業組織の実現を読み込もうとする社会主義解釈が戦争協力を支える思想的要因の一つになっ
ていることはこれまでも指摘されてきた。安部の場合、こうした国家社会主義的論調が顕著になり始めたのは第一次大戦前後からと考えられる。確かに明治末期の頃の安部の場合、﹁生産機関﹂の﹁公有化﹂の言葉には国有化の意味だけ
でなく都市社会主義の主張も含まれていたし、多義的な要素を含みこんでいたが、その社会主義理解は富の公平な分配
をめざす分配論にウェートが置かれていたから、つねに国家の役割重視に向かう傾向を内包していたのである。﹃今日の社会問題﹄(一九一五年)において、安部は社会主義の目的を何よりも資本・土地などの﹁生産機関﹂や﹁交通機関﹂
の国有化および産業全体の国営事業化とそれにもとづく富の公平な分配に求め、いずれにしても国家の役割を重視した見解を強く打ち出していた。この点に関して、﹃社会問題概論﹄(一九二一年)では、﹁社会主義は国家の手によりて私
有財産を変じて共有財産たらしめ、且つあらゆる生産事業を行はしめんとするが故に、当然国家の存立を是認するのみ
(八六九)
平和思想の暗転
三〇〇同志社法学 五九巻二号でなく、国家をして重要なる位置に立たしめんとするのである (
めのたるす進促を配分な平公富にらさ。るいてっ言と﹂ 36)
に、安部は軍隊組織をモデルにして産業組織に規律と能率性をそなえたものに造り替え、その下で過剰生産や失業問題の解決は可能になるという、いささか楽観的な、しかし多分に危険な見通しを提唱していた。事実﹁軍部が統制経済を
考えて来たのは、一つの進歩である (
﹂安会社たし視重の部も義かし。るきでがとこ主的みて酬報の働労﹁たいし分布流に般一、は論配るにそを姿るいてこ 導の義主会社家国き部安、軍とるべ述はの部摂っましてれさ包主に論家国営兵﹂と 37)
に応じた分配方法ではなく、個々人への均等配分を重視したものであり、物品の購入法に切符制を採用することも認めていたがゆえに、戦時下の日本が配給制を導入してもおそらく彼はそのことに何ら違和感を抱かなかったのも不思議で
はない (
化活ットーとする﹁質素な生﹂のの実践としてそれを正当モ彼下、ところで、安部が戦時の窮乏生活に直面したとき 。 38)
したことが注目される。この点で安部が社会主義の理念を﹁私共の理想は個人的に質素な生活を送ると同時に社会的に富裕ならんことである (
重よる社会主義がこのう解にその精神的方面をす理がの語っていたこと思﹂い出される。安部と 39)
視して受容されたことはよく知られているが、この安部の発言はエマーソンの言葉とされている﹁質素の生活と高尚の理想﹂を昔から座右の格言として尊重していたこと (
乏ち窮の下時戦しかし。いないがまてえ考とるいてし映反にここが 40)
生活に対して﹁質素な生活﹂だけが一方的に強調され、﹁高尚の理想﹂も社会的な富裕も語らない安部の言動は社会主義の理念の歪曲であるだけでなく、長年取り組んできた修養論の堕落を示しているといわざるを得ない。安部が明治後
期にキリスト教社会主義者として登場したとき、宗教と経済学がその二本柱であったが、経済学にかかわる社会主義理解の上述のような変質だけでなく、宗教に関して﹁私も宗教生活の最初に於ては神の存在を信じて居た。然し人類愛の
修養に多少の進境を見るやうになってから、神の存在ということは全く重大性を失ふやうになつた (
﹂と語るように、安 41) (八七〇)
平和思想の暗転
三〇一同志社法学 五九巻二号 部の宗教的信仰の内実の変化がそこに大きく作用していたように思われてならない。というのも、先の文章を綴った﹃私の忠君愛国観﹄の末尾で﹁要するに私の願望は人類愛の理想によりて忠君愛国を実行するに在るのだ (﹂と語った安部の 42)
決意表明にみられるように、神の存在を否定した上での人類愛の信念は結局のところ﹁忠君愛国﹂という偏狭なナショナリズムの精神に行き着いてしまったのである。
三 民主主義と国体論 安部がかつて﹁社会民主党宣言﹂において﹁社会主義を経とし、民主主義を緯として其の旗幟を明白にせり (
解た係にあることを意識していがの、安部による民主義主義理関完ら補したように、早くか社会主義と民主主義は相互 ﹂明表と 43)
は社会主義論以上に多義的内容を含み、明確に補足しがたい観念の一つである。先の﹁宣言﹂では、民主主義は貴族主義や軍国主義に対立する思想として捉えられていたが、大正期に強調された﹁経済的民本主義﹂が当時の社会的デモク
ラシーの一翼を担ったといわれ、また吉野作造と同様に﹁国際的民主主義﹂も提唱していた。このように多義的な内容をもつ安部の民主主義論が十五年戦争期にいかなる変容を見せるのかについて検討を加えていきたい。
まず政治的民主主義について考えてみると、日本でも立憲政治の確立によってそれはほぼ実現されていて、それ以上
の進展は経済的不平等を解決しない限り望めないというのが安部の基本的な理解であった。しかし経済的不平等の根本的解決をめざす社会主義を実践するに際して、逆に政治的民主主義がその手段として重視され、とくに婦人参政権を含
めた広範な選挙権の拡張などが切望される。こうした安部における合法的議会主義論の選択と固執は、社会民衆党内に赤松克麿らによって軍部との連繋による議会外活動を重視するファッショ運動が提案されたとき、ファッショ独裁政治
を導くものとしていち早く反対し、立憲政治や民衆政治を守る姿勢を貫かせた (
シ部ッァフで方一は安、際のそしかし。 44)
(八七一)
平和思想の暗転
三〇二同志社法学 五九巻二号ョ独裁政治を立憲政治に背反するとして明確に否定しながらも、他方で﹁非常に優秀な人が政冶を行うという意味﹂で
理想とする哲人政治に近いと肯定的に受け取っていたこと (
可待らちど、かるす期ウに﹂雄英の人一にェかてるす化変くき大っーよにかるけかをト、﹁る待期に熟成的治政の体す 政いまつ。れならなはて安り治部の独裁を批判は、国民全忘 45)
能性が含まれていたということである。しかも安部の合法的議会主義論は、ロシア革命にみられるような共産主義者の暴力革命論やそれによって樹立された﹁労働者農民の専制政治﹂にも批判的なスタンスをとらせたが (
、ただ安部の場合、 46)
このように理解した共産主義に政治的に対決する姿勢を選択したのであって、﹁思想としての共産主義﹂には﹁寛容の心﹂で対処することを基本的な信条としていた (
よのるれさ表代に論義主会議的法合記も。、合場の部安上てしにれずい 47)
うに、政治的民主主義が独立した検討課題として考察されることが少なく、つねに経済的改革のための手段という評価しか与えられなかった。こうした政治的民主主議論の脆弱性が安部の内面での国体論の浮上を許す結果につながったと
いえる。 安部の言論活動において、国体論や忠君愛国論が満州事変を境にして強調され始めたといわれる。しかし安部の場合、
たとえば一九〇四年の論説において﹁社会主義者は常に口先の忠君家でなくて、行為の忠君家たらんことを期する (
、大る。そして一九一一年の逆で事件の衝撃を受けた安部はあうかよ語るように、忠君観念はなり早くから抱かれていた ﹂と 48)
留岡幸助の主宰する家庭学校での講演をまとめた﹁御同情深き明治天皇﹂(﹃人道﹄一九一二・一二)において、愛民の精神をもつ慈悲深き天皇への敬愛を強調し、あるいは﹁日本精神と社会主義﹂(﹃日本評論﹄一九一六・一〇)において
は国体と社会主義および民主主義との両立可能性について弁明していた。ここに見られる安部の国体擁護論は、社会主義はもっぱら経済組織の改革を目的にして国体の問題とは無関係と弁明する点で、また﹁民の富は朕の富なり﹂と語っ
た仁徳天皇の愛民精神をいわゆる儒教的な民本主義的君主観で補強する点で、意外と唯物論派の幸徳秋水の考えに近い (八七二)
平和思想の暗転
三〇三同志社法学 五九巻二号 ことに驚く。問題はやはりキリスト教信仰者としてなぜ木下尚江のような天皇制批判への志向を模索し得なかったかにある。むろんその全面的な検討は後日に譲らざるを得ないにしても、先述のように神の存在を否定した人類愛の観念がやがて忠君愛国論に包摂されていった安部の宗教的信仰の変転がそこにかかわっているとみてまちがいないであろう。 ところで安部が社会民衆党委員長に就任した当初は、﹁国体に関する問題は、政冶闘争の渦中に巻き込まないことが、
真に国体を尊重する所以ではないか (
見論体国﹁に中最の争の重とら麿克松赤にとこ尊主議はらか神精の党立﹁と義こため始し調強を﹂な思降以変事州満不 お論争闘治政を議に体国、圏うよういのく外に、がたいてし針に方本基をとこ﹂と 49)
て﹂(﹃社会民衆新聞﹄一九三二・五・三)を読むと明らかである。また同じ頃に忠君愛国論も持ち上げられ、一九三四年刊行の﹃私の忠君愛国観﹄において﹁法律は陛下の御命令であって、御意思の発現である (
﹂という認識から遵法の精 50)
神が説得され、それは戦場における兵士の戦死と同様、忠君愛国の銃後における実践であるとされた。このような遵法精神の提唱は一九三二年の五・一五事件のように国法を無視した軍事クーデターを批判する論拠に使われたりもした (
が、 51)
立法機関=議会への国民代表の選出において選挙権は天皇から与えられたものでその行使を国家への義務と強調する安部の主張 (
ま論く立憲政治=民衆政治はともはや後景に退いてしづもうにすると、かつてのよなにデモクラシーの精神接 52)
っているといわざるを得ない。
このように﹁国体尊重主義﹂の強調につれてデモクラシー精神が衰退するという傾向は、実は﹁産業民本主義﹂が﹁産業奉還論﹂に転変するのとパラレルに進行したのである。安部の場合、﹁社会主義とは産業界にデモクラシーの精神を
適用することである (
触てくし詳ややにですはい明つに点るな重と期時説しい還に単簡ていつに﹂論奉た業産﹁はでここ、でのたてじ感を力 主っなに唱提の﹂義わ本民て産、﹁は張主うい業れ現ギ魅に義主会社ドルの﹂スリギイはれそ、と 53)
れておきたい。安部によれば、﹁産業奉還論﹂とはかつての大政奉還の故智に倣って資本家の所有する重要産業や土地
(八七三)
平和思想の暗転
三〇四同志社法学 五九巻二号を天皇に奉還しそれらを国家管理に移すことを求めたものである (
後、以新維らかく早は部安はてし関に化有国の地土。 54)
の土地私有制度から伝統的な王土(王民)思想に復帰することを希望し、さらに進んで﹁日本において皇室が中心となつて而して此社会主義を実行する (
の州うした志向が満事、変以後の国体論こがをたとへの期待感表﹂明したりしていこ 55)
浮上に便乗するかのごとく一気に高まったとみなしうる。﹁産業民本主義﹂という一種の産業自治論の提唱は、安部が実際に尽力していた議会主義的政治活動と矛盾するわけではないが、﹁産業奉還論﹂の方はもっぱら資本家側の善意へ
の依存に立脚していて、政治活動との有機的結合をもはや果たしえなくなっているように見受けられる。 さて安部の民主主議論の構成要素の一つである﹁国際的民主主義﹂論の提唱に目を転じてみると、それは安部によっ
て社会民衆党の重要な外交原則として位置づけられながらも、国家間の自由平等な関係の樹立とか﹁国際間に於いても民族支配を廃止せんとするもの﹂と簡単に定義されているだけで、それ以上のことは明確ではない。吉野作造が以前に
かかげた﹁国際民主主義﹂論と対比してみると、やはり第一次大戦以後の民族自決主義の台頭、それに導かれた植民地の独立・解放の動向を安部がどう捉えていたのかという問題がその概念の中心をなすとみてまちがいなかろう。
先述したように、安部の植民地独立論の骨子は植民地国における文明の発展段階に応じて自治権を与え、さらに独立・解放に導くべしというのがその基本的な立場であった。そこには植民地支配国は文明国であって、野蛮なる植民地国の
﹁後進民族﹂を教え導く使命があるとするいわば西洋流のオリエンタリズムそのままの考えが前提にされ、逆に言えば植民地支配そのものが文明化に役立つはずだということが自明視されている。たとえば安部によれば帝国主義国による
植民地政策は﹁後進民族に生産と運輸の近代的経済機構を発展せしめ﹂、かつ﹁資本主義文化の世界的普及﹂をもたらし、そのことが彼らをして﹁国民的民主主義の思想﹂に目覚めさせる動因になるとみなされた (
。確かにこうして安部の場合 56)
被圧迫民族による﹁民族自決運動﹂の台頭は必然的過程と捉えられたが、他方でこの﹁民族自決運動﹂の拡大は世界政 (八七四)
平和思想の暗転
三〇五同志社法学 五九巻二号 局の不安要因になっているとして否定的評価が与えられていたことが想起される。安部にとって、植民地の独立・解放の問題は﹁民族自決運動﹂によって生み出されるのではなく、あくまでも植民地支配国側の判断に委ねられていたので ある。したがってこうした考えを抱く安部が具体的に朝鮮植民地の独立問題に向き合ったとき、﹁英国が印度を独立せしめ、米国がヒリツピンを独立せしむるならば、我等も又朝鮮を独立せしむることに躊躇しない (﹂と述べ、欧米植民地 57)
支配国と横並びに対応する意識を生み出した。安部の場合こうした民族自決主義への理解の脆弱性が、日中戦争が始まったとき、中国の抗日ナショナリズムの動きとその意義を見えなくさせていたといえよう。
朝鮮植民地独立問題などに関連してもう一つ注目されることは、安部がいわば国内での異人種混在に否定的な立場を強調していた点である。たとえば﹁言語風俗を異にする人種の共同生活は決して得策ではない。各国民は宜しく自国内
に生活し、他国の縄張内に侵入しないということを原則とすべきである。これ以外に世界平和の道はない (
うすひいては国家間の友好を乱要じ因になるというのである。こ、生内在異人種が同じ国が混に・雑居すれば必ず混乱 ﹂りまつ。と 58)
した一国内での異人種混在否認論は、具体的には一九二四年に制定されたアメリカでの対日移民禁止法に対して日本側が移民抑制措置を取るための根拠として打ち出されたものであるが、朝鮮人などの入国を拒否し、逆に本国への帰還を
促すための根拠にも適用された。かくして安部の場合、一国内での異人種混在否認論は民族棲み分け論となり、ひいて
は朝鮮植民地の日本からの分離ないし独立につながる可能性を秘めていたことは興味深い。
むすびに
これまで十五年戦争期における安部磯雄の思想と行動の軌跡を概観し、そこに見られた平和思想から戦争協力への転
(八七五)
平和思想の暗転
三〇六同志社法学 五九巻二号換を生み出した思想的要因について様々な角度から検討を加えてきた。
第一に、安部独自の無抵抗主義的平和主義の解釈が注目される。無産政党の党首として政治の世界に転進した安部が、満州事変や盧溝橋事件の勃発のたびに、軍事侵略支持ないし戦争協力の方向にズルズルと移行してしまったことは、日
露戦争の時期に﹁若し平和が人道であるならば、平和を世界に宣言して、それが為に一国が亡びても善いでは無いか (
といに改めて驚かざるを得な。きそこには﹁悪に抗するこさ大たのまで主張した毅然とし姿勢からみると、その落差と ﹂ 59)
勿れ﹂という戒律を、非暴力抵抗の思想として捉えたトルストイの解釈と異なり、眼前の悪=戦争をしかたなく受け入れてしまう安部のいわゆる諦観的な無抵抗主義がそこに強くかかわっていたことは前述したとおりである。しかしその
点を別の角度から見ると、﹁トルストイの見たところでは、この教訓のなかでも最も実行困難なのは無抵抗主義である (
実的なりに応えた無抵抗主義平に和主義を内心では忠実に彼起に提いう感想を述べる安部すれば、トルストイの問題と ﹂ 60)
践しているつもりであったのかもしれない。 第二に、安部の内心で絶対平和主義への疑念が生じたことが想起される。安部は満州事変前に﹁世界を通じて宗教の
力が平和といふ方面に余り伸びて行かないやうである (
生はが十五年戦争が始まるや﹁私共決じして絶対的の平和論者ではない、 ( 流ぎ語ったように、トルストイの﹂絶対平和主義の信念にゆらと 61)
対た絶たしうそ。たっいにるす白告条信と﹂ 62)
平和主義への信念のゆらぎは、四海同胞主義の同意語として選択された﹁共存共栄主義﹂という言葉が国益論的観点を強く発揮し出したことにも現われていた。それはまた神の存在が否認された上での人類愛の観念が﹁忠君愛国﹂という
偏狭な倫理に行き着いたことにも示されている。 第三に、安部の思考方法において、絶えず絶対理念の標榜と現実主義的状況判断が無媒介に同居していることが認め
られる。たとえば絶対平和主義から引き出された軍備撤廃の理念はかなり長く持続されながらも、他方で祖国防衛のた (八七六)