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・入山音治郎の日誌を素材に

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(1)

日中戦争期における豆腐行商人の生活 : 豆腐店主

・入山音治郎の日誌を素材に

著者 西村 卓

雑誌名 經濟學論叢

巻 66

号 1

ページ 170‑107

発行年 2014‑07‑20

権利 同志社大學經濟學會

URL http://doi.org/10.14988/00027441

(2)

西 【論説】

    日 中 戦 争 期 に お け る 豆 腐 行 商 人 の 生 活           ︱

豆腐店主・入山音治郎の日誌を素材に

西   村       卓    

        は  じ  め  に   本稿の目的は︑京都市上京区東魚屋町で豆腐製造と行商を家業とする入山音治郎という人物の書き残した﹁家計日誌﹂をもとに︑日中戦争期の﹁高揚﹂のなか︑京都市中の一家族がどのような生活をおくっていたのかを明らかにすることである︒それは︑﹁生きる﹂﹁楽しむ﹂﹁交流する﹂﹁支える﹂という日常の家族と地域コミュニティの側から戦争を見据えることでもある︒

  分析の対象とした日誌は︑﹁家計日誌﹂と銘打たれた縦一九㎝横一三㎝の冊子の形をとっている︒昭和一三︵一九三八︶年のものである︒この意匠は当時の大阪貯蓄銀行が考案したものとされ︑巻頭部分には︑以下の目次にあげるような︑文字通り家計をやりくりする場合の便利帳という内容が掲載されている︒さらに日誌は上下段に分かれ︑上段に日記︑下段にその日の家計支出が記載できるような体裁となっている︒その目次は以下のようなものである︒すなわち﹁知っておく可き銀行常識﹂﹁複利終価表﹂﹁毎日拾銭宛預けると﹂﹁毎月一円宛積立てると﹂﹁年齢早見表﹂﹁年次早見表﹂﹁鉄

  ︵

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道規則摘要﹂﹁国立公園十二ヶ所﹂﹁敬神の旅﹂﹁著名の温泉﹂﹁郵便諸規則﹂﹁メートル法﹂﹁家庭欄﹂﹁贈答品控﹂﹁勧業債券抽籤月一覧表﹂﹁貯金通帳覚え書﹂﹁住所録﹂﹁本年中の重要記録﹂である︒﹁家庭欄﹂はさらに﹁赤ン坊十二ヶ月﹂﹁幼児の食物﹂﹁子供の育て方﹂﹁健康体計数﹂﹁家庭常備薬﹂﹁ガスの上手な使用法﹂﹁汚点抜きの秘訣﹂﹁コーヒの上手な入れ方﹂﹁家庭儀式﹂﹁贈答の栞﹂﹁家庭防空の知識﹂と細かく分かれ掲載されている︒この日誌が銀行によって考案されていることから貯蓄への誘導は当然としても︑これらの目次自体︑時代の一つの表象であり︑この日誌を利用し記述していくこの時代の家族にとっての必要事項であったろう︒日中戦争期であったことから﹁家庭欄﹂の﹁家庭防空の知識﹂などは︑﹁一︑防護上必要なる平素の準備﹂﹁二︑防空命令が下ってからの支度﹂﹁三︑警戒警報が下ったら﹂﹁四︑空襲警報が下ったら﹂﹁五︑毒ガス警報があったら﹂﹁六︑防空三則﹂と事細かな記述があることはそのことを示している︒

  なお︑日誌は無記述の日が一二四日分︑特に六月︑八月の後半︑一一月︑一二月に多く見られ︑全体としてはほぼ四か月分ある︒

  この日誌が書かれた前年︑昭和一二︵一九三七︶年六月に第一次近衛文麿内閣が成立した︒その翌月に盧溝橋で日中両軍が衝突し︑日中戦争の発端となった︒その後︑日本軍の華北での総攻撃︑陸軍の上海派遣︑日本海軍による全中国沿岸部の封鎖宣言︑一二月には日本軍は南京を占領した︒昭和一三︵一九三八︶年に入り︑国内で四月に国家総動員法が公布され︑国内的に戦時体制が着々と作られるなか︑日本軍は一〇月に華南バイアス湾に上陸し︑広東そして武漢三鎮を占領するにいたったのである︒この報を受けて︑音治郎は一〇月一四日と二七日の日誌に﹁バ イヤス湾上陸す﹂︑﹁午後五時三十分︑武漢三鎮を完全に攻略す﹂と書き記し︑その﹁高揚﹂のなか︑二八日に音治郎は下御霊神社︑護王神社に参拝し︑夕方の提灯行列にも参加している︒日本はその後︑昭和一六︵一九四一︶年一二月八日の

  ︵

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西 日米開戦︵太平洋戦争︶にむけて戦争拡大の道をひた走るのである︒   時代は文字通り﹁いけいけドンドン﹂の戦況を示していたと︑少なくも当時の日本人には知らされていた︒そして︑京都市民にも︒戦時下の家族の様子を︑たった一年とはいえ書き綴られた日誌を通して︑様々な関係のなかで明らかにしたい︒戦争が日常化し︑日常が戦争化していく様子︑言い換えれば︑戦争が生活のなかに浸透し︑戦争を常に意識しつつ生活が営まれる様子を︑明らかにしたいのである︒

        一  入山音治郎とその家族   さて︑この日誌の記述者である入山音治郎とその家族について触れておきたい︒   第1図に示すように︑音治郎は︑明治二二︵一八八九︶年一二月一三日に︑父直次郎︑母ハナの長男として京都市上京区で生を享ける︒直次郎︑ハナ夫婦は︑そのあとタミ︵長女︶︑寅次郎︵次男︶︑治三郎︵三男︶︑竹三郎︵四男︶︑和一郎︵五男︶︑しづ︵次女︶︑兼子︵三女︶︑泰三︵六男︶と子どもをもうける︒ただし︑治三郎は出生後一年未満︵明

治三〇年九月八日没︶で︑竹三郎は七歳八カ月︵明治四〇年一月二五日没︶で早世している︒

  妻とめ︵滋賀県坂田郡長浜町にて父山田梅吉︑母すての四女として生れる︶とは︑大正一〇︵一九二一︶年一〇月に結婚をし︑好子︵長女︶︑博一︵長男︶︑克太良︵次男︶︑道夫︵三男︶︑ヱイ子︵次女︶と五人の子どもをもうける︒しかし︑長男博一は二カ月半ほど︵大正一四年三月三一日没︶で早世している︒それゆえ︑克太良が実質的には長男として音治郎家で育てられる︒

  音治郎は父直次郎から昭和一二︵一九三七︶年三月に満四七歳で家督を相続し戸主となる︒その意味では︑本稿で

  ︵

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第 1 図 入山家略系図

音治郎

ヱイ子

  ︵

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西 分析する日誌は︑家督相続の翌年︑音治郎が満四八歳の時に記されたものなのである︒   父直次郎は︑本籍地を上京区椹 町通油小路西入西山崎町一九番戸︑上京区椹木町通油小路東入東魚屋町三四八番地と換え︑昭和三︵一九二八︶年七月に現在の入山家の住所である上京区椹木町通油小路東入東魚屋町三四七番地に転籍している︒昭和一七︵一九七二︶年一二月に満七九歳で没しているが︑直次郎の妻ハナは大正一一︵一九二二︶年二月に満五二歳で先立っている︒

  父直次郎の子どもたちの出生後の来し方であるが︑長女タミは大正六︵一九一七︶年九月に本籍地が上京区小川通丸太町上ル上鍛冶町の山田安之助と婚姻

の町西入ル関東屋の之寺田家︵ハナ町間本︑太丸区京上地籍町は郎次寅男次

入山家入籍により︑廃家となっていた︶の家督を相続︑五男和一郎は昭和三︵一九二八︶年に分家をしている︒分家にあたって︑上京区椹木町通油小路東入ル東魚屋町三四七・三四八番地の二つの宅地のうち︑直次郎の本籍地を三四八番地から三四七番地に移し︑三四八番地を和一郎の本籍地とした︒三女兼子は昭和六︵一九三一︶年四月に本籍地愛媛県宇摩郡寒川村の木花正一と婚姻した

  それゆえ︑長男音治郎が父直次郎から家督を相続した時点では︑入山音治郎家は︑父直次郎︑妻とめ︑妹しづ︵日

誌中では静︑静子などとも記される︶︑弟泰三︑さらに子どもたちが四人という三世代にわたる家族を構成していた︒そして家業としての豆腐屋は音治郎が継承していった︒

  和一郎家は昭和三︵一九二八︶年七月に分家し︑本家の隣りに居を構え︑妻せん︵滋賀県野洲郡三上村出身︶をむかえることになる

︑ん︑りか預を守留がせど妻本りおてし征出子も人営るあでのたいでんをた活生にもとと人五ちは こ三日誌が記述された昭和一︵郎一九三八︶年には︑和一の︒女月三知子︑終戦の一〇年にもい三けうてを夫晴男る 四六年︶九二九一︵子和昭を子美喜女長後のに月︑も長︑造良男次︑司淳男︒うぶの女次てい続︑けそ

  ︵

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        二  入山家の日常生活   この日誌からは︑さまざまな内容を読み取ることができる︒入山家は家族・親戚内から出征兵士として音治郎の弟である和一郎と泰三

︒防日︑どな況状の練訓や戦し催の願祈久長運武中空争様期るれ取み読がな子どの家にけるお族︑地域 各出征兵士の状況︑市内る地の神社などで行われれるさか・揚﹂のなで︑町内近隣町・学︶り送区から区学野滋︵出 ︑彼のり取け受を紙手いらから︑彼がす出りのらや無遣高﹁の下時︑戦を息事の族家るす堵安に送

  しかし︑それにとどまらず︑豆腐行商人としての日々の商い︑地域の年中行事を生活のリズムの軸に据えながら︑家族一人一人の日々の生活が淡々と描かれている︒法事などでの家族・親戚の交流︑家族の娯楽に興じる様子︑町行事︑学区行事︑子どもたちの所属する学校行事などへの参加︑戦時期とはいえ︑いやむしろ戦時期だからこそ︑﹁生きる﹂﹁楽しむ﹂﹁交流する﹂﹁支える﹂という生活者の﹁息づかい﹂を感じ取ることができるのである︒

   1  豆腐製造・行商   豆腐製造・行商の日常について︑日誌に記載された記事をまず拾い上げよう︒   ・一月   四日︵火︶   仕事始め︒   ・一月   七日︵金︶   商い休み︒   ・一月  二〇日︵木︶   豆腐商業組合の新年会︒   ・一月  二二日︵土︶   朝巡り休む︒

  ・一月  二七日︵木︶   巡り休み︑府庁より焼き六五注文︒

  ︵

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西   ・二月  二六日︵土︶   巡り休み︑一日寝る︒   ・三月  二二日︵火︶   克太良卒業式につき︑午前の巡り休みにして式に出席︒   ・四月  一〇日︵日︶   上長者町豆腐商奥西氏︑中立売署第二部組合経費収集に来る三︑四月分︒   ・四月  一二日︵火︶   健康診断のために午前の巡り休み︒   ・四月  二七日︵水︶   製品の検量があった︒白一三〇匁︑揚げ五枚で二一五匁︵一枚四三匁︶︑焼き○ ︒   ・五月  一八日︵水︶   朝巡りに焼き二〇持ち出す︑あげ︑こんにゃくだめ︒   ・七月   七日︵木︶   今夏初めて絹こしをつくる︒   ・八月   三日︵水︶   蒸し暑い日であった︑絹ごしだめ︒   ・九月   三日︵土︶   前日の残り揚三五ほどあり︑この日白豆腐二四丁作り︑焼豆腐止め︒   ・九月   四日︵日︶   前日︵四明嶽より横川元三大師参詣︶の疲労のため︑午前の巡り休み︒   ・九月  一三日︵火︶   行商の途中得意先から出征の泰三・和一郎に対する心遣い︒   ・九月  一五日︵木︶   午後の行商休み︒   ・九月  一八日︵日︶   今日白地大釜二つ︑竜山大豆使用する︑よく実がのる︒   ・一〇月  一日︵土︶   防空訓練で空襲に付き︑行商一時間ほど中止︒   豆腐製造・行商は︑入山音治郎家にとっては家業としての日常であり︑毎日毎日の記録は︑仕込み・製造の数値として残され︑行商の様子などは逐一記録されていない︒長男克太良の卒業式出席や︑健康診断などのため行商巡回を休んだり︑前日の横山元三大師を参拝した疲れのために休んだりしているが︑豆腐製造・行商は土日も含めて︑黙々とこなしている︒行商の折に得意先から︑出征中の和一郎︑泰三の安否への気遣いに感謝の気持ちから︑﹁今日行商

  ︵

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を二三日間休んだのて︑行き先の得意先にて出征両兄弟の安否を気つかって︑三人もお尋ねくださいました﹂︵九月

一三日付記事︑以下月日のみ︶と書き記し︑さらに︑行商中に防空訓練で空襲警報があり︑行商を一時間ほど中止しなければならず︑﹁こまった﹂︵一〇月一日︶と書き記しているなど︑家業への戦争の影響の一端が垣間見られる︒

  豆腐製造︑行商を示す数字に関しては符丁のように記されており︑なかなか正確に理解しがたいが︑現当主の貴之氏への聞き取りなどを参考にしながら少し解説しておきたい︒

  この年には︑一月四日を仕事始めとしている︒そこに記述された数字は︑﹁白大一︑揚大一﹂となっている︒﹁白﹂は白豆腐を意味し︑﹁揚﹂は油揚げ︵薄切りにした豆腐を油で揚げたもの︶のことである︒﹁大﹂とは大豆を四升仕込む大釜のことで︑一釜分白豆腐用に︑さらに一釜分油揚げ用に仕込み︑製造したことを示す︒

  また︑八月五日の記事では︑﹁あけ  小二 

100   ︑白大二

16  16   2︑焼

25   飛龍頭

きず︑丁二に他と腐豆白のつ丁し六一︑み込仕を釜二釜大そて腐焼かのもたし造製てしと豆焼白︑は腐豆き焼︵腐豆きら 腐に用豆二用仕升白豆大︵釜小にげみ揚油︑は容内るす味込︶の油たま︑し造製をげ揚のを枚〇〇一︑み込仕釜二意 16こ︒るいてっなと﹂

豆腐用に切り出し︑それに炭火で焼きを入れたものである︶を二五丁製造し︑さらに飛龍頭︵ひろうす︑がんもどきのことで︑

水気をしぼった豆腐に︑すったヤマイモ︑ニンジン︑ゴボウ︑シイタケ︑コンブ︑ギンナンなどを混ぜ合わせて丸く成型し油で揚

げたものである︒前日残りの白豆腐の水気を取り製造するのが一般的である︶を一六個製造したことがわかる︒

  九月一六日の記事では︑﹁あげ  小二  八十四 

20     ︑白大二⒃⒁

   0︑やき⒇⒇

てれをとこたっかながり残売す︑ぞれそ︑し造製を丁は示れ︒品こご絹︑くゃんこしとに商にの日行誌登場する他の 造一うも︑二製を丁〇腐分釜豆として白豆腐一四丁︑焼き腐二〇豆き焼一︑釜で二釜炊き︑一釜として白豆腐六丁分 仕二釜八込み︑豆四をに大で釜小の用げ揚油︑はれこ枚造揚さ大てしと用腐豆白にら︑げとこたっが枚〇二︑製を余 0﹂︑がるいてっなと

  ︵

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西 し豆腐︑キツネあげが登場するが︑常時販売していたわけではなかった︒   九月末ごろからは︑数字の上に﹁白﹂﹁ヤ﹂﹁上﹂などのルビが添え書きされたり︑数字が抹消されたりして複雑になり︑数字の合算が合わない場合もあり︑今後の分析に待ちたい︒

  起床に関しては︑早いときには午前四時半︑遅いときは午前七時の場合もあるが︑おおよそ午前五時から六時までの間であり︑それから豆腐製造に取り掛かる︒行商は︑午前︑午後一度ずつが常態であった︒行商巡回経路に関しては︑本日誌からは判然としないが︑おそらく同業者との棲み分けがされていたようであるが︑九月一八日の記事に︑﹁福助は川新で揚豆腐買入れて居る由︑畳屋細君より聞く﹂とあるように︑顧客の都合で行商相手を替える場合もあったようである︒

   2  家族・親戚のネットワークとその交流   二月二一日に天室妙帷信女︵俗名ハナ︑音治郎母︶の一七回忌の法要が︑入山家の菩提寺である曹洞宗慈眼寺︵京

都市上京区出水通七本松東入ル︶で執り行われた︒

  列席者として︑音治郎・とめ夫婦︑山田タミ︵音治郎妹︶とその夫安之助︑兼子︵音治郎妹︶婚家である木花家から木花正一︵兼子の夫︶と木花央雄︑音治郎の子である好子︑エイ子︑道夫︑分家である和一郎家から淳司︑喜美子などが列席している︒父直次郎の名と︑分家和一郎の妻せん︵この日誌では仙と記される時もある︶︑さらにはハナの実家である寺田家を家督相続した寅次郎の名が見られないが理由は不明である︒仕出しは同町入山家向いの﹁二和佐﹂からとられた︒この法要に先立って︑父直次郎は親戚へ﹁茶の子﹂︵粗供養︶配りに出向いている︵二月一九日︑二〇日︶︒また︑法事終了後も﹁茶の子﹂を送っている︒

  ︵

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  音治郎の母の法要ということで︑音治郎の家族︑分家和一郎の家族︑そして兄弟姉妹とその婚家からの列席である︒実家である音次郎家と分家和一郎家︑さらには婚家である山田家︑木花家︑その他との交流が︑法事にとどまらず日常的に行われていたことは他の記事からも確認できる︒

  年始の礼には︑木花正一︵兼子婚家︶と山田安之助︵たみ婚家︶が音次郎家を訪問している︒贈答のやり取りも多い︒山田安之助家からはお膳︵一月一七日︶︑折り詰菓子︵一月三一日︶︑甘鯛︵二月二日︶︑五色寿司︵三月三日  ひな祭り︶︑彼岸の供養として五目寿司︵九月二五日︶︑鮒鶴の折り詰︵一〇月一五日︶︑木花家から銭幸饅頭︵九月二五日︶︑木花英雄の誕生日で赤飯を炊き持参している︵九月二七日︶︑山田安之助家の以前女中であったはる︵福井県鯖江︶が来訪︵八

月五日︶︑寺田家を相続した寅次郎︵この年には住所が兵庫県揖保郡龍野町横町となっている︶から︑鮎の煮込みが送られてきた︵一〇月一一日︶︒

  音治郎の妻とめの実家・親戚である滋賀県坂田郡長浜町の山田家︑門川家とは︑次にみられるように︑法事をはじめ頻繁な交流があった︒

  ・一月   七日︵金︶ とめ長浜に行く︑門川氏訪問見舞い︒   ・一月   八日︵土︶ 門川初太郎氏死去︑葬儀に行く︒   ・一月   九日︵日︶ 同前︒   ・一月  一五日︵土︶ 長浜の門川氏からみかん寄贈︒   ・二月  一一日︵金︶ 長浜の門川ミネ上京のついでに︑好子とヱイ子を連れて堀川の活動写真を観にいく︒   ・三月   八日︵火︶ 門川様からかぶら漬送り来る︒

  ・四月   三日︵日︶ 父︑好子︑克太良︑京都駅一〇時発の列車で長浜へ向かう︒

  ︵

(12)

西   ・四月   六日︵水︶ 父︑克太良︑好子︑長浜から帰宅︒   ・四月  一四日︵木︶ 長浜の山田寅三︵とめ兄︑山田家当主︶家行く︒   ・五月   六日︵金︶ 門川氏より漬物来る︒   ・九月   八日︵木︶ 長浜門川氏から奈良漬送り来る︒   ・九月   九日︵金︶ 門川ふじ急病死亡︑長浜に向かう︒   ・九月  一〇日︵土︶ 午前一〇時京都駅発の列車で長浜門川氏へ向かう︑山田宅へ一泊︒   ・九月  一一日︵日︶ 午後四時︑門川氏自宅出棺︒   ・九月  一四日︵水︶ 門川氏より会葬礼状︒   次に︑分家和一郎妻せんの実家︵滋賀県野洲郡三上村︶との交流である︒和一郎家では一家の戸主が出征しているということで︑次にみるように︑せんの実家から母親が何度となく家を訪ね︑手伝いをしている︒

  ・二月  二六日︵土︶ 隣りせん母親来る︒   ・四月  一二日︵火︶ 隣り清吉︑徴兵検査のため野洲へ帰る︒   ・四月  一三日︵火︶ 隣り淳司︑野洲より帰宅︒清吉帰る︒   ・四月  二七日︵水︶ 隣りせん︑淳司︑良造を従え実家野洲へ日帰り︒   ・五月  一四日︵土︶ 父直次郎が野洲の祭りに淳司︑ヱイ子を連れていく︒   ・五月  一六日︵月︶ せんの母親が手伝いに来る︒   ・九月  一五日︵木︶ せん母来る︑自家造り醤油五合︑小芋少し土産として持参する︒   ・九月  二二日︵木︶ せん母三上村へ帰宅︒

  ︵

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  ・一〇月一三日︵木︶ 和一郎家に野洲から松茸とどく︑少し貰う︒   ・一〇月一六日︵日︶ せん母親来る︒   以上のように︑入山音治郎家は家業の豆腐製造・行商を営みながら︑隣家の弟和一郎家︑同町内に居住している山田家︵タミ婚家︶︑木花家︵兼子婚家︶︑妻とめの実家である山田家とその親戚の門川家︑さらには︑隣家和一郎の妻せんの実家と日常的に親密に交流をしている様子を知ることができる︒家族・親戚としてネットワークを作り︑相互に交流し支えあっている姿は︑当時の日常的な家族・親戚のあり方を示しているといえるであろう︒

   3  家族の日々の食事   次に︑日誌に記述されている限りでの入山音治郎家の食卓の様子をうかがってみよう︒   ・一月   七日︵金︶ かしわ︒   ・二月   一日︵火︶ 香の物︑からし漬︑たらの子︑塩鮭︒   ・二月  一一日︵金︶ 千切小芋揚︑いわし焼︑こうじ漬︒

  ・二月  一二日︵土︶ 作り身︑ねぎ︑焼豆腐︑あげ︵豆腐︶︒   ・二月  一三日︵月︶ あぜかぶら︑黒豆︑うずら豆︒   ・二月  一四日︵月︶ こんにゃく︑あげ︵豆腐︶︑ねぎ︑鰆︑湯葉︒   ・二月  一五日︵火︶ おから︑青豆︑焼︵豆腐︶︑あげ︵豆腐︶︑ねぎ︒   ・二月  一六日︵水︶ ぐじ︵アマダイ︶とあおりいか︑天婦羅︒

  ・二月  一七日︵木︶ はたけ菜︑あげ︵豆腐︶︑塩鮭︒

  ︵

(14)

西   ・二月  一八日︵金︶ 白味噌ねぎ汁︑千切︑揚豆腐︒   ・二月  一九日︵土︶ 塩鮭︑桜干し︵イワシやキスを開いてみりん醤油に漬け︑干したもの︶︒   ・二月  二三日︵水︶ 干し鰯︑青えんどう豆︒   ・二月  二四日︵木︶ まぐろすき焼︒   ・四月  一一日︵月︶ わかめ味噌汁︑蒲鉾︑ふき︵蕗︶︒   ・八月   一日︵月︶ なすび︵茄︶︑あげ︵豆腐︶︑こんにゃく白あえ︑ウナギの蒲焼︒   ・八月   二日︵火︶ らっきょ︑なすび︵茄︶︑あげ豆腐︒   ・八月   四日︵木︶ 湯葉︑干瓢︑あじ︵鯵︶︑なすび︵茄︶︑あげ︵豆腐︶︒   ・八月   五日︵金︶ 奴豆腐︑天ぷら︑野菜物︒   ・八月   七日︵日︶ 赤いも︵芋︶︑いんげ︵インゲン︶豆︑マナガツオ︒   ・九月  一五日︵木︶ あげ︵豆腐︶︑アラメ︑赤味噌汁︑白豆腐︑はも︵鱧︶切落︒   ・九月  一六日︵金︶ 味噌汁︵さつま芋入り︶︑小芋︑焼とうふ︒   ・九月  一七日︵土︶ 青菜︑あげ︵豆腐︶︑味噌汁︑はも︵鱧︶切落し︑じゃが芋︑薩摩芋︒   ・九月  一八日︵日︶ なすび︵茄︶︑揚げ︵豆腐︶︑鰆︵さわら︶のてり焼︒   ・九月  一九日︵月︶ 三度豆︑あげ︵豆腐︶︑とろろ汁︑玉子焼︒   ・九月  二〇日︵火︶ 隠元豆︑三度豆︑あげ︵豆腐︶︑なすび︑斗六豆︵大福豆︶︒   ・九月  二一日︵水︶ 味噌汁とうふ入︑自家製天婦羅︑鱧︒   ・九月  二二日︵木︶ 青菜︑あげ︑鯵のてり焼︑味噌汁︒

  ︵

(15)

  ・九月  二三日︵金︶ 白豆腐のやっこ︑浅草のり︑湯葉と百合根のみそ汁︑鱫︵むつ︶︑斗六豆︒   ・九月  二四日︵土︶ みそ汁︑こんにゃく白和え︒   ・九月  二五日︵日︶ とうふ汁︵この日はお彼岸の供養として︑五目寿司をもらっている︶︒   ・九月  二六日︵月︶ 青菜︑鰆︑青菜とあげ︒   ・九月  二七日︵火︶ 青菜︑あげ︑湯葉︑玉子のお汁︒   ・九月  二八日︵水︶ うの花︵おから料理︶︑黒豆︒   ・九月  二九日︵木︶ 糸こんにゃく︑あげ︵豆腐︶︑しじみ汁︑あじ︵鯵︶付焼︑かぶらの浅漬け︒   ・九月  三〇日︵金︶ ずいき芋︑あげ︵豆腐︶︑塩鮭︒   ・一〇月  一日︵土︶ 塩鮭︑あわび貝︑松茸汁︒   ・一〇月  二日︵日︶ ずいき芋︑鯛︑やきとうふ︵焼き豆腐︶︑松茸とうふ汁︒   ・一〇月  五日︵水︶ 味噌汁とうふ︑ずいき芋︒   ・一〇月  六日︵木︶ あらめ︑やっこ豆腐︑あじ︵鯵︶︑斗六豆︒   ・一〇月  七日︵金︶ やきあげ甘煮︑玉子とじ︒   ・一〇月  八日︵土︶ ずいき芋︑うなぎかば焼︒   ・一〇月一五日︵土︶ 豆腐味噌汁︑焼松茸︑あじ︵鯵︶︒   ・一一月  一日︵火︶ 味噌汁  若芽︑焼︵豆腐︶︑ほうれん草︑桜ぼし︒

  質素な食事とはいえ︑家業の豆腐製品を材料として使いながら︑思いのほか豊富な食材が食卓を賑わせている︒土用の丑の日のウナギの蒲焼︵八月一日︶︑鱧料理︑鯵︑鰆︑鮭などの魚類︑さらには豆類︑野菜類など︑季節の食材を

  ︵

(16)

西 取り入れている様子がうかがえる︒生活必需品の統制は︑太平洋戦争開戦︵昭和一六年一二月八日︶をはさんで徐々に強化されていくが︑配給品目として木炭︑米︑砂糖︑醤油︑味噌︑塩︑マッチなどに始まり︑さらには乳製品︑綿製品︑牛肉︑乾麺︑小麦粉︑豆腐にまで及ぶのである

︒いなせさじ感 が一︵三一和昭︑でうろあ三たっいて九の八はをれそだまい︑卓︶食の家山入く年しし卓品貧にならぶ目を減らし︑ がれさ化強必制体員動総家いて需くなか︑生活︒品への統制は食国

   4  家族と銭湯   入山家は職住一体型の住居環境であり︑当時いまだ内湯が一般的でなかったことから︑入山家も外湯︵銭湯︶を利用していた︒日誌には頻繁に家族の入湯の記事は見受けられないが︑以下に見るような記事が散見できる︒職住一体型の居住環境が一般的である地域にとって︑銭湯は地域コミュニティの交流の場としての意味を持つ︒﹁町のお風呂屋さんには︑町と共に歩んできた歴史があり︑町を映し出す鏡のような存在﹂

﹂るいてい続 はっが広が街簾に先のい暖︑﹁て簾て︑暖あの内と外がしっかりとりが共のぐ﹂体験﹂︑﹁地域通中育んできた歴史で さり︑﹁お風呂屋をんは世代つなであ

といってよいのである︒

  ・二月   一日︵火︶ 好子︑ヱイ子入浴代として支出八銭︒   ・二月   七日︵月︶ 入浴代として支出二四銭︒   ・二月   八日︵火︶ 入浴代として支出一〇銭︒   ・二月   九日︵水︶ 入浴代として支出一六銭︒   ・二月  一一日︵金︶ 克太良︑道夫入浴︒

  ︵

(17)

  ・二月  一二日︵土︶ 入浴︒   ・二月  一六日︵水︶ 好子︑克太良︑道夫︑ヱイ子︑入浴︒   ・五月   二日︵月︶ 音治郎︑とめ入浴代として支出︑一〇銭︒   ・五月   四日︵水︶ 克太良︑道夫︑好子︑ヱイ子入浴代として支出︑一五銭︒   ・九月  一八日︵日︶ 玉の湯代替わり開業︒   ・九月  二二日︵木︶ 下長者町白山湯へ入浴︒   ・九月  二三日︵金︶ 今日初めて代替わり玉の湯へ入浴︒   ・九月  二四日︵土︶ 子ども全員入浴︒   入浴料に関しては︑昭和一三︵一九三八︶年にその値上げ問題が俎上に上ったことを受けて︑﹃京都日出新聞﹄は次のように伝えている

   ﹁ 湯銭値上げ再陳情  湯場組合代表が保安課へ  依然首傾げる当局

  本誌特報の如く府浴場組合聯合会は当局の国策に順応し︑燃料節約の建前から朝風呂を廃止し営業の合理化を図ってゐたが︑燃料の暴騰および浴客の減少から極度の営業不振に陥り︑現在の料金では廃業の已むなきに至ると叫ぶものもあり︑六百の業者挙げて湯銭の値上げを嘆願︑府当局でも市内各署保安係員を督励して鋭意営業状態調査を行ってゐたが︑森組合長及び森澤浴場青年団長の両氏は︑十四日午前十一時府保安課に藤井課長を訪ひ︑種々窮状を訴へたのち︑現料金大人五銭を六銭に︑小人四銭に︑乳児を三銭に︑都合一銭宛の値上げ許可促進方を陳情嘆願するところがあった︒﹂

  ︵

(18)

西   燃料の高騰と入浴客減少の現状から︑現料金をそれぞれ一銭宛値上げして︑大人六銭︑小人四銭︑乳児三銭にしたいという嘆願を府浴場組合聯合会は府当局に提出したというのである︒これによれば︑現料金は大人五銭に対して︑小人三銭︑乳児二銭ということになる︒

  この年の音治郎家の子どもたちは︑誕生日をむかえて︑それぞれ満年齢で好子︵同志社高等女子部生徒︶が一六歳︑克太良︵松原商務学校生徒︶が一二歳︑道夫︵滋野尋常小学校児童︶が九歳︑ヱイ子︵未就学児︶が六歳であることを考えれば︑好子︑克太良二人は大人料金︑道夫は小人料金︑ヱイ子は乳児料金となるが︑二月一日の入湯料が好子とヱイ子二人で七銭のはずが八銭であり︑理由は不明である︒五月四日の子どもたち四人で一五銭の支出であるが︑好子︑克太良が大人料金合わせて一〇銭︑道夫が小人料金で三銭とヱイ子は乳児料金で二銭とすると︑合計一五銭となる︒入湯した銭湯の名前が﹁下長者町白山湯﹂﹁玉の湯﹂と二軒出てくるが︑滋野学区の北の境が下長者町通であることから︑前者はこの通りに面した銭湯と推測できるが所在は確認できなかった︒後者は油小路下立売通下ル東側にあり︑入山家から歩いて数分のところにあった︵現在は廃業︶︒どちらにしても︑六歳のヱイ子を含めた子どもたちだけで入湯した日もあることからすれば︑行きつけの銭湯は近所であったと考えるのが普通であろう︒

   5  家族の神社仏閣参詣と行楽・娯楽   父直次郎をはじめ︑家族の行楽を兼ねた神社仏閣への参詣が日誌記事中に多く見られる︒京都における年中行事を軸にして︑孫たちを伴った直次郎の祖父としての思いを彷彿とさせる︒家族それぞれの日常での娯楽についてもみてみたい︒

  ︵

(19)

  まず︑父直次郎の神社仏閣参詣についてである︒   ・一月   六日︵木︶ 父︑たみ︑摩気神社︵京都府船井郡園部町竹井宮ノ谷︶参詣︒   ・一月  二三日︵日︶ 父︑真如堂︵真正極楽寺京都市左京区浄土寺真如町︶参詣︒   ・二月   二日︵水︶ 父︑道夫を伴い吉田神社︵京都市左京区吉田神楽岡町︶参拝︒   ・二月  一六日︵水︶ 父︑寺町遣迎院︵京都市上京区寺町通り広小路上ル北之辺町︶へ行く︒   ・二月  一八日︵金︶ 父︑亡母の施餓鬼の日取り調整のため︑宿坊慈眼寺︵曹洞宗  入山音治郎家菩提寺上京区出

水通七本松東入七番町︶に行く︒

  ・三月  一五日︵火︶ 父︑嵯峨釈迦堂︵京都市右京区嵯峨にある浄土宗の寺院︶へ参詣︒   ・三月  一九日︵土︶ 父と道夫︑大津高山寺︵所在不詳︶へ参詣︒   ・四月   二日︵土︶ 父︑克太良︑道夫︑清水寺︵京都市東山区清水︶︑円山公園︵京都市東山区円山町︶へ︒   ・四月  一六日︵土︶ 父︑大和橿原神宮︵奈良県高市郡畝傍町︶へ参詣︒   ・四月  二五日︵月︶ 父︑道夫︑北野天満宮︵京都市上京区馬喰町︶参詣︒   ・五月  一五日︵日︶ 父︑好子︑摩気神社へ祈願祭に行く︒   ・八月   八日︵月︶ 父︑克太良︑道夫︑慈眼寺︑真如堂へ参詣︒   ・八月  一〇日︵水︶ 父︑タミ︑摩気神社参詣︒   ・九月  一六日︵金︶ 父︑寺町遣迎院参詣︒   ・九月  二一日︵水︶ 父︑一〇時頃より東寺︵京都市下京区九条町︶弘法様へ参詣︒

  ・一〇月  二日︵日︶ 父︑園部摩気神社へ克太良と参詣︒

  ︵

(20)

西   ・一〇月一九日︵水︶ 父︑とめ︑静子︑夷神社︵京都市東山区大和大路通四条下ル小松町︶へ参詣︒   ・一〇月二一日︵金︶ 父︑午後東寺へ参詣︒   父直次郎は︑この一年を通しても数多くの神社仏閣に参詣している︒摩気神社四回︑真如堂二回︑吉田神社一回︑寺町遣迎院二回︑慈眼寺一回︑嵯峨釈迦堂一回︑大津高山寺一回︑清水寺一回︑大和橿原神宮一回︑北野天満宮一回︑東寺二回︑夷神社一回である︒

  直次郎一人の場合もあるが︑娘︑義娘のほか︑孫たちと同伴する場合が多い︒その心持ちとして︑先祖への畏敬と神仏への崇拝を体で感じさせたいということであったろうが︑その一方では︑行楽・娯楽の意味も兼ねていたのであろう︒

  二月二日に道夫を連れて吉田神社に参拝している︒節分祭であり︑﹃京都日出新聞﹄

︒の洛中洛外の神社仏閣賑でわいを予想している︑かの﹂き撒豆の〟捷な   ふ日事﹁明〝節分賑の戦記 10

   ﹁﹃福は内︑鬼は外﹄の掛声も勇しく戦捷の春に迎へる三日の節分︑神社仏閣何れも銃後国民の赤誠を披露して皇軍の武運長久祈願を兼ねて今年は一層賑ひさうである︒︵中略︶この日︑京洛においても例年のおばけこそ見られないが︑吉田神社をはじめ壬生寺︑石清水八幡宮︑伏見稲荷神社︑山崎の聖天や京洛七福神の節分会の訪問者で二日の前日祭から洛中洛外は例年にない賑はひを呈することであらう︒﹂

  直次郎と道夫は︑三日の節分祭当日でなく︑二日の前日祭に参拝している︒   四月二日︵土︶に克太良と道夫と同伴して清水寺に参詣した後︑円山公園に行っているが︑この日は日本晴れで桜

  ︵

(21)

もそろそろ見頃の時期で︑花見の行楽客も多く訪れていたことが想像される︒

  四月二五日︵月︶の北野天満宮への参拝は︑﹁天神さん﹂といわれる天満宮の門前市が開かれ︑屋台とともに骨董をはじめとした多くの露店が出て︑その賑わいは京都市中の一つの名物である︒また︑直次郎は孫たちと同伴しなかったが︑九月二一日︵水︶と一〇月二一日︵金︶の二回︑東寺へ参詣している︒毎月二一日に当時の門前で開催される﹁弘法さん﹂と呼ばれる市も︑天満宮の﹁天神さん﹂と同じく屋台や骨董の露店が数多く並び︑その賑わいは京都の風物詩である︒

  一〇月二〇日には京都夷︵えびす︶神社の大祭があり︑一九日を﹁宵えびす﹂と呼び︑二一日を﹁残り福﹂と呼ぶ︒この三日間︑大和大路四条下ル一帯は︑商売繁盛を祈願する多くの人々の同神社への参詣で賑わうのである︒さらに︑この大祭=えびす講にちなみ︑京都市中では﹁誓文払い﹂として︑デパートを始め多くの商店が大安売りを行う︒戦時下ゆえに︑えびす講にさきがけて行政側は︑①売り出し期間の短縮︑②景品付き販売の自粛︑③正札明記のうえでの割引販売の励行︑を行うように注意をうながした

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  新聞広告としては一〇月一〇日の﹁石川のゑびす講﹂︵衣料品︶に始まり︑さまざまな商店が広告を出しているが︑当時京都の大手百貨店である大丸が一二日〜二三日︑藤井大丸が一三日〜二一日︑高島屋が一三日〜二一日︑丸物が一三日〜二三日をそれぞれの大売出し期間として何度となく新聞広告を出している︒大丸は期間中一二日から一九日までは全館夜間営業とし︑一七日︵月曜日︶も営業するとしている︒藤井大丸も二一日︵金曜日︶まで夜九時までの夜間営業︑一八日︵火曜日︶の定休日も営業︑ただし二五日︵火曜日︶は休業としている︒高島屋は定休日の一八日︵火曜日︶は営業し︑二二日︵土曜日︶を臨時休業とした︒丸物は一六日︵日曜日︶を九時までの夜間営業︑さらに丸物はこの期間中ヒットラーユーゲント入洛記念として七階催場で﹁国民体位向上展覧会﹂を開催している︒ 

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(22)

西   えびす講をはさんでこの一週間から一〇日間は︑京都の商店やデパートが﹁誓文払い=大安売り﹂で一番の賑わいを見せる時期で︑入山家では父直次郎とともに︑音治郎の妻とめと静が参詣ついでにこの賑わいに触れたことだろう︒   次に︑音治郎の家業以外のこの一年の出来事を︑日誌から追ってみよう︒

  ・二月   三日︵木︶ 釘抜地蔵︵石像寺上京区千本通上立売上ル花華町︶へ参詣︒   ・四月  一二日︵火︶ とめ︑静︑音治郎︑健康診断のために中立売署へ行く︒   ・四月  一九日︵火︶ 午後八時より伏見稲荷神社へ参詣︒   ・四月  二九日︵金︶ 鯉のぼり用の竹を立てる︒   ・四月  三〇日︵土︶ 鯉のぼりをあげる︒   ・五月  一二日︵木︶ 商務学校授業料一円納入︒   ・五月  一五日︵日︶ 葵祭・今宮祭挙行︒   ・九月   三日︵土︶ 丸太町釜座より市電乗車︑出町叡電から八瀬ケーブルにて四明嶽︵京都市左京区修学院尺羅

ケ谷四明ケ嶽︶より横川元三大師堂︵比叡山元三大師堂︶参詣︒

  ・九月  二五日︵日︶ 北野天満宮へ参詣︒   ・一〇月  七日︵金︶ 三井寺︑日吉神社など参拝︑市電蹴上にて好子と集合︑浜大津まで徒歩︑帰り三条大橋で解散︒   ・一〇月一七日︵月︶ 久しぶりに堀川常盤館に行く︒︵祝日神嘗祭︶   ・一〇月二一日︵金︶ 堀川中央館︵映画館︶に行く︒   ・一〇月二二日︵土︶ 時代祭︒   ・一一月  三日︵木︶ 夜︑中央館︵堀川中央館︶へ行く︒

  ︵

(23)

  音治郎も︑父直次郎ほどではないが︑神社仏閣への参拝がみられる︒石像寺︑伏見稲荷︑横川元三大師堂︑北野天満宮︑三井寺︑日吉神社などである︒

  石像寺は︑通称釘抜地蔵と称せられるように︑諸病平癒を願った人びとが参詣する寺として知られている︒四月十九日に参拝した伏見稲荷は︑稲荷祭︵神幸祭︶に合わせた参詣であろう︒五月一五日の葵祭

へ鍛事記集特ういと﹂身心よに 三るいてし詣参に堂師大四元川横りよ嶽明こ︑てっ︒はの都山に野﹁で﹄聞新出日京参﹃の次︑にてし関に詣乗ルブ 行二れり執が祭代時の日二こ月〇一はにらさ︑とこたたわとはーケ瀬八らか電叡を出︑町にど日日にと誌め︑九月三 ︑れわ行り執が祭宮今 12

︒るあ あの一つとしてらげーれているのでスコ体グかに︑﹁銃後﹂のをの鍛えるハイキンな 13

   ﹁ 挙国︑ハイキング礼讃  長期戦の勝利はこの一歩から  銃後の〝脚〟に動員令!

  支那事変の著しき進展は︑愈々一億同胞をして事変最後の目的貫徹への重大決意を促し︑銃後国民の生活は長期聖戦に備へて体力の増進を最も緊要事とし︑既に中央においては国民精神総動員下︑不断の心身鍛錬を提唱︑また京都市においてもさきに体育課を新設︑これを母体として各学区に体育振興会を創設して︑全市を挙げて老若男女の別なく体位の隆々たる向上へ意義深い諸行事が実施されつゝある折柄︑時は新秋市近郊を中心とする明眉なる山川涼風湧く原野に加へて︑森厳崇高なる神域︑清雅なる史蹟をいたる所に織込む秋空の下を行く心身練磨のハイキングこそ︑敬神崇祖の涵養︑長期聖戦下における日本精神の振興の上にも︑時局下多彩の脚光を浴びる国民運動の一翼であらう︒﹂

  ︵

(24)

西   と述べ︑続けて健脚向けと一般向けを区別しながら以下のコースを掲載している︒①比良山コース︑②湖南アルプスコース︑③奥比叡坂本コース︑④愛宕嵐山コース︑⑤滋賀山中越コース︑⑥醍醐横断コース︑⑦醍醐縦走コース︑⑧京都西山めぐり︑⑨男山縦走コース︑⑩天王山柳谷コース︑⑪摂津耶馬溪ポンポン山コース︑⑫摂津耶馬溪阿武山コース︑⑬香里盤船コースであり︑またそれぞれにおけるいくつかコースが詳述されている︒

  音治郎がこの日に八瀬ケーブルを使い四明ケ嶽から横川元三大師堂参詣したコースは︑③のコースに含まれていた︒実際坂本まで比叡山を横断するとなると徒歩時間七時間とあり

︒日を商行の前午翌めに彼りよに詣止るのとるあでか確はこほた出がれ疲のど参こは︑がるれわ思とかいなでの か堂師引大三元川同らきじコースを︑返した横 14

  北野天満宮への参詣は︑二五日の﹁北野さん﹂に合わせた参詣である︒娘好子と同伴しての滋賀県の三井寺︑日吉神社への参詣もみられる︒

  音治郎は日誌にとどめただけでも︑一〇月一七日︵祝日神嘗祭︶︑一〇月二一日︑一一月三日︵祝日明治節︶の三日間︑映画鑑賞に行っている︒次項で述べるように堀川沿いの二軒の映画館︵常盤館︑堀川中央館︶である︒

  ちなみに︑ 音治郎が夜に映画鑑賞に行った一一月三日は﹁明治節﹂の祝日で︑武漢三鎮占領の﹁高揚﹂のなかで︑市内外における人出が新記録をつくったと︑﹃京都日出新聞﹄は次のように伝えている

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   ﹁ 明治節人出の新記録  電車もバスも嬉しい悲鳴だ    菊薫る明治の佳節三日は︑絶好の祝賀日和に恵まれて︑銃後の感激一入深く︑桃山御陵への参拝者はつひに新記録をつくったのをはじめ︑武運長久祈願の神社巡拝︑体位向上のハイキング部隊︑家族づれの行楽群で京洛を人の波で埋め︑この日を書入れにしてゐた市電市バス︑各郊外電鉄︑お馴染みの動物園︑植物園︑新京極の興行街など︑

  ︵

(25)

予想以上のお客様迎へて︑久しぶりにホクホクものだった︒その笑顔を打診してみると︑

   先づ市電は年越しの日の記録に近い卅五万人︑市バスが四万八千人を運んだのをはじめ︑各郊外電鉄も︑    △京都駅  では︑上り下り線共に初発列車より素晴しい動きを見せ︑降車人員約三万八千︑乗車人員約三万五千    △京阪電車  桃山御陵を沿線にひかへる京阪電車では︑早朝来ドッと押しかけた団体個人の奉拝者の群で大混雑︑その他沿線ハイキングの人の波に︑臨時急行の増発増発で夕方までに十二万人    △新京阪線では︑長岡競馬とハイキング客で五万人    △京阪京津線が︑びわ湖行及び連絡廻遊客でザット二万五千    △奈良電車  桃山御陵参拝と沿線スポーツで︑京都駅で発売したものゝみで約五千八百︑全線で三万余の上成績    △叡山電車が一万五千    △鞍馬電車が八千人で︑ともに平常の五倍と云ふ上乗の成績にホクホクの体    新京極は早朝興行でこの日に備えたが︑午後から夜にかけて一層人出が多く歩くに骨が折れる始末で︑五条署御旅の派出所は︑七人の迷児を取り扱った︒従って各興行場は何れも超満員の盛況︑また坊ちゃん嬢ちゃんで埋まった動物園は平素の日曜日の五倍に近い八千七百人を入れ︑植物園もお弁当を持った人達がどん

くり込んで︑八千という新記録︑円山公園は五万の嬉しい新記録の豪華版が繰り展げられた︒﹂

   6  子どもたちの日常と遊び

  特にこの項では︑入山音治郎家の子どもたちの日常と遊びについて述べたい︒そのことについては︑日誌が音治郎の手になる以上︑父親の目を通して垣間見ることになるが︑子どもたちの息づかいを感じ取ってみたい︒

  ︵

(26)

西   この年に音治郎の子どもたちそれぞれは︑誕生日をむかえて好子一六歳︑克太良一三歳︑道夫一〇歳︑ヱイ子が六歳となる︒

  好子は同志社高等女子部の生徒であった

の月数徒生︑人〇五九年四で九あり︑そは年の同校のは七員はういとたっあで円九九算七概の費学︒たっあで名定 小︶子が同校に入学したのは︑尋常学︒一五三九一︵〇和校昭たし業卒を好 16

また︑入山家の他の資料 17

︒な御の春夏秋冬︑季節の移ろいの苑かがぶかうにを目子様るす校下登 ハ路帰︑校川登テ過ヲ門御ノ此順往復トモ此の道﹂︒彼女が京都︑出今リ烏通下立通リ東ヘ︑売丸通リヘ︑御苑内ヲ な道順しで通学よう︑にの次は子好とるよいて通た︒﹁︑ヘ北前庁府︑ヘ東町木椹︶らか宅自︵ 18

  克太良は同年三月に滋野尋常小学校を卒業し︑京都市立松原商務学校を受験︑合格し︑四月から晴れて新一年生として通学することになる︒三月二八日から同月三〇日までおこなわれた受験には︑母親のとめが付き添っている︒ちなみに︑この年の公立中学校の①最終志願者数︑②定員︑③前年の志望者集の一覧が﹃京都日出新聞﹄

︒ほおおよそ学校まは自宅から二㎞でど法あるあで明は不方学通︑がる 原在松立市都京の校現は地在所︑で学中あ校生︒るたで町生相壬の区京中市都京るあ学れ九三さ和︵一九四︶年に設立 〇ぞれ①一③〇八名︑それ松は校学務商原六︑がるいて②九〇六昭は校同︒たっあで倍〇八・一率争競︑名六九︑名 にれさ載掲 19

  道夫は滋野尋常小学校の四年生であり︑ヱイ子は来年四月の同校への入学を待つ末っ子であった︒   当然ヱイ子以外はそれぞれ学校生活があり︑それが彼らの生活の大きな部分を占めているが︑家族として父音治郎は︑仲睦まじく過ごす彼らの姿を日誌に書きとどめたのである︒子どもに関する日誌の記事を追ってみよう︒なお︑子どもたちにとっての祖父直次郎との神社仏閣参詣については︑直次郎関連の記事のなかで述べたのでここでは省略する︒

  ︵

(27)

  ・二月   三日︵木︶ 克太良受験用参考書一  四五銭︒   ・二月  一一日︵金︶ 長浜の門川ミネ上京のついでに︑好子とヱイ子を連れて堀川の活動写真を観にいく︒   ・三月  一一日︵金︶ 克太良︑道夫︑桃山へ遠足︒   ・三月  二二日︵火︶ 克太良卒業式︒   ・三月  二八日︵月︶ 克太良︑松原商務受験︑付添母午前七時半外出︑午後三時半帰宅︒   ・三月  二九日︵火︶ 克太良︑受験二日目︒   ・三月  三〇日︵水︶ 克太良︑受験三日目︒   ・四月  一〇日︵日︶ 子どもたち︑夜に琴平様の夜店︵椹木町通室町西南︶に行く︒   ・四月  二七日︵水︶ 克太良︑好子遠足で各学校より比叡山へ行く︒   ・九月  一八日︵日︶ 静︑好子︑堀川常盤館︵映画館︶へ行く︒   ・九月  二七日︵火︶ 隣りせん︑子どもを全員連れ伏見稲荷神社へ参詣︒   ・一〇月  七日︵金︶ 音治郎︑三井寺︑日吉神社など参拝︑市電蹴上にて好子と集合︑浜大津まで徒歩︑帰り三条大橋で解散︒

  ・一〇月一二日︵水︶ 午後に道夫が野球遊びのとき︑友人のバットが顔面にあたり怪我︑病院へ︒   ・一〇月二四日︵月︶ 道夫顔面の傷全快︒   ・一一月  一日︵火︶ 松商陸上運動会開催︑静子︑道夫行く︒   ・一一月  一日︵火︶ 唖学校運動会︑ヱイ子と隣りの淳司が見学︵音治郎同伴︶︒

  ・一一月  二日︵水︶ 夕食後︑好子︑克太良︑静子︑活動写真へ行く︒

  ︵

(28)

西   ・一一月  四日︵金︶ 北野天神祭にヱイ子︑静行く︒   三月一一日に︑克太良と道夫は桃山へ遠足に行っている︒滋野尋常小学校からの遠足であろうが︑克太良にとっては小学校時代最後の遠足になる︒周知のように︑桃山は明治天皇の陵が所在するところで︑一般には桃山御陵と呼ばれる︒

  克太良の松原商務学校への受験・進学は︑家族としても大きな出来事で︑上述のように受験には母とめが同伴している︒四月二七日には︑好子は同志社高等女子部から︑克太良は晴れて合格し通学することになった松原商務学校から比叡山へ遠足に行っている︒

  子どもたちにとって︑映画=活動写真は大きな楽しみのひとつであったろう︒長浜の門川ミネが二月一一日の紀元節の日に上京してきた折︑好子とヱイ子を連れて堀川の活動写真に行っている︒また︑静と好子が九月一八日の日曜日に堀川常盤館へ︑さらに一一月二日︵明治節の前日︶の夕食後︑好子︑克太良︑静の三人が活動写真へ出かけている︒音治郎も一一月三日︵明治節︶の日には︑中央館︵堀川中央館︶に映画鑑賞に出かけている︒前日に子どもたちが出かけており︑映画鑑賞が入山家の娯楽のひとつであったことは確かである︒

  ちなみに︑映画館に関して︑京都においては新京極界隈に集中するとともに︑西陣地域とその周辺においても多く所在していた︒堀川通に面しては︑堀川中央館

と常盤館 20

︒一とも入山家からは歩いて〇両分ほどのところにあった館 ︒をるり︑入山家はこの二館利が用していたことがわかあ 21

  四月一〇日︵日︶に︑子どもたちで夜に琴平様の夜店に出かけている

︒聞るあでうよるえこが声歓のちたもど子︒ 22

  一〇月一二日の午後︑野球遊びをしていた道夫の顔面にバットがあたり怪我をして︑彼は病院へ運ばれている︒その時の日誌に﹁午後︑道夫野球あそび中に︑友人の為顔面をバットにて打たれ傷を負ひ︑直ちに松山外科医院にて手

  ︵

(29)

当を受く︒経過良し﹂と記している︒一〇月二四日で傷は全快しているが︑この間の家族の心配は察するに余りある︒音治郎は治療にかかった費用も日誌に﹁此の間のチ 療費六円程﹂︵一〇月二四日︶と記した︒

  滋野尋常小学校の運動会については次節でもふれるが︑子どもたちが通う学校の運動会は︑家族にとっても娯楽の一つであったろう︒一一月一日の松原商務学校の陸上運動会には克太良の叔母に当たる静と弟の道夫が行っている︒ところで︑同日に開催された唖学校︵京都府立聾学校︶の運動会にヱイ子と隣り和一郎家の長男淳司が音治郎に連れられて見学にいっている︒音治郎はそのことを日誌に﹁今日亜 学校も運動会であった︒ヱイ子と隣り淳司と共に見に行った︒そうして終会になるまで行ってた﹂と記した︒

  そもそも︑日本における盲聾教育のさきがけとして明治八︵一八七五︶年ごろに京都に開設された盲唖院は︑民間立︑府立︑市立︑府立と変遷した︒仮盲唖院として明治一一︵一八七八︶に上京区東洞院通御池上ルに開設され︑翌年に府立学校となり︑釜座通椹木町下ルにあった旧染色学校跡に移転した︒明治二二︵一八八九︶年に京都市に移管され︑その後大正二︵一九一三︶年には︑同所に盲唖院聾唖部の新校舎が竣工している︒大正一四︵一九二五︶年に同校が︑京都市立盲学校と京都市立聾唖学校に分離された︒昭和一二︵一九三七︶年一二月には上京区鷹野花ノ坊町に新校舎が竣工され︑盲学校は移転し︑聾唖学校が旧校地に単立することになる

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  盲唖院は設立当初から︑障がい児の家族︑近隣の篤志家︑教師︑地域に支えられ︑地域に開かれた学校という性格を持ち︑同校で開催された運動会の見学に多くの近隣住民が訪れたと考えられる︒入山家から同校までは︑椹木町通を東にすすんでいけば︑歩いて五分ほどの距離であり︑音治郎が六歳のヱイ子と和一郎家の長男五歳の淳司の二人を連れて見学にいくということは︑同校の運動会での地域の賑わいを見学するという気持からであったと考えられる︒

  この年︑京都市中の年中行事といわれるものは概ね執り行われてきた︒節分︵二月︶︑都をどり︵四月︶︑鴨川踊り︵五月︶

  ︵

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西 葵祭︵五月︶︑今宮祭︵五月︶︑祇園祭︵七月︶

あ空防︑しかし︒るどで練な︶日一二月毎︵訓の法末さ期延に日八二の月た八は火り送字文大め市弘︶日五二月毎︵市︑ 月八びえ︑︶月り︵火点火講送字文す︶︵一神天︑︶月〇︵一祭代時︑︑〇大 24

︒るあで う賑のれぞれ︑そもれそ︒いろだいよてっいとたっいてわでは京﹂相かたたし﹁の民市都さ︒でう変らずわあったとい で﹂︑徐々にその﹁高揚みのなかに呑込まれ始めなかの作︑をり出す市中の中行事も年戦戦常時日の争化るけおに下 がりたれさ更変に幅大し︶目演のり踊川鴨︑りどをこた︑と京ムズリの活生の民市都︑を照参節四第︵とるえ考都 25

        三  町・学区のなかでの家族   入山家が居住する東魚屋町は︑小川通をまたいで︑西は油小路通︑東は西洞院通で︑椹木町通をはさむ両側町である︒大正元︵一九一二︶年一〇月時点で︑宅地が三二筆で家持は三八名を数える︒そのうち二筆︵地番三四七︑三四八︶が入山直次郎名義となっている

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  町名の由来は︑古くから椹木町通東堀川から西洞院に至る間に魚市場が開かれたことによるとされている︒近世には錦の店︑魚棚通の六条ノ店とともに︑三店魚問屋の一つとされた︒近代に入り︑上京一八番組︑第二〇区︑第一六学区と編成替えされてきたが︑昭和四︵一九二九︶年に滋野学区の一町とされた

︒行ういう町一角で豆腐製造との商るをるあのでいてしと業家 家たが軒を連ねてい家という︒入山はそ営むをの︑町は戦後まで魚業屋︑小売り問そ出れのどな屋し生仕るす連関に に太良の妻武子ばよれ︒︑東魚屋克 27

  そもそも町というものは近世以来自治組織でありつつ︑行政機構の最小単位として時代ごとに様々な役割を担っ

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参照

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