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ド イ ツ ・ オ ー ス ‑ リ ア の 大 学 と 日 本 の 大 学

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(1)

国 際経 営 フ ォー ラ ムNo.7

ド イ ツ ・ オ ー ス ‑ リ ア の 大 学 と 日 本 の 大 学

津 幸 夫

はじめに

終戦五十年を増えた昨年はドイツと日本の比較が盛ん

に行われた。しかし大学別度についての議論は必ずしも

活発とはいえなかったと思う。日本では大学改革という

とうどちらかといえばアメリカを中心に述べられている

ような気がする。もちろんそこから学ぶことは多いので

あるか'ここで少し視点を変えてドイツ・オーストリア

の伝統的な大学について見てお‑のも、あながち無意味

ではあるまい。本稿では筆者自身が学んだマールブルク

大学やウィーン大学での体験も交え、この間確について

考えてみたい。 一'ドイツ・オースーリアの学制

大学の問確に入る前に、まず簡単に今日のドイツ・オ

ーストリアの学校別度について見ておこう(図1及び図

2参照)o義務教育はドイツでは大歳から十八歳までの

十二年間'オース‑リアでは六歳から十五歳までの九年

間行われる。日本との最も大きな違いは小学校四年を終

えた段階で進路が分かれる'いわゆる複線型をとってい

ることである。大学へ行こうとする者は普通ギムナジウ

ム敵中高等学校)へ進む。ここを卒業するとそのま

ま無試験で大学へ進学でさる。つま‑、高校卒業資格試

験がそのまま大学人学資格試験となっているのである。

ドイツ・オーストリアだけでな‑、他のヨーロッパ諸

国にも見られる伝統的複線型学校体系および早い時期で

137

(2)

ドイ ツ ・オ ー ス ト リア の 大 学 と 日 本 の 大 学

図 1 ドイツの学校制度

出 典 :『ドイツの現状J、Frankfurtam Main:SocieはtsVerlag,1992、339日二O

(3)

国 際経 営 フ ォー ラムNo.7

2 オース トリアの学校制度 (教育 ・芸術省提供の資料 に よる)

義務 教育

6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19

1 2 3 4 5 6 7 8 9 1() ll 12 13 学 年

教 員葦 成 学校 卒業試験後

2年 間 職 業教 育 アカデ ミー

教 育 アカデ ミー 社 会福祉 アカデミー 特 別 課 程

大学 特殊 学校 特殊 学校上 級国民 学校上 級 総合技術教 育果程 芸 … 登芸 「 1

基礎 学校

中学校 職 姦中等学校膏‑

教 員養成 学校幼 児教育 者葦 成 学校

慕+ 験験

.

.

(国民 学校 ) 一 般教 育中高等学校職 業教育 高等 学校上 級 実科 学校

出典 :連 邦報退 庁 『オー ス トリア事 実 と数字』、1993、129東O

の振‑分け制度は'世代から世代へと社食階層を維特し

再生産する傾向があると論じられてきた。これは教育の

機会均等の問確に深‑かかわることであるので'では

ギムナジウム以外の学校に進んだ生徒にも大学へ進学す

る道が開かれているが、実際にハウアトシューレ(本課

程校・中学校)からギムナジウムに進学する子供は稀な

ようである。=

先に述べたとおり、ドイツやオーストリアでは高校(辛

ムナジウム)を卒業すれば誰でも大学で勉強できるのが

原則であるが、ドイツではNumer

us C ︼

au

su s (

入学者

制限)というシステムがあ‑、例えば医学や心理学のよ

うな人気の高い専攻では高税卒業資格試験の成績の良い

者から優先的に入学を許可するということになってい

るOドイツの大学の学生数は‑九九〇/九1年度の冬学

期で1七〇万人に達し、この年度の新入生だけで三十I

k・八千人に上っている。これは同年齢人口のほほ3:に相

当するO^

オーストリアではNumerus

C ‑a us

u

s

のところな

いoオース‑リアで大学に入学するのは毎年約二万人

で、これは同年に生まれた国民の約十六%にあたるO同

年齢人口の減以上がギムナジウムの上級段階に進学Lt

卒業資格試験に合格した者の約六十%が大学で勉強を続

けていることになるが'さらに詳し‑見るとキムナI

139

(4)

トイソ ・オー ス トリアの 大学 と日本 の大 学

ウムの上級段階修了者のおよそ宛、職業高等学校修了者

の∬強が大学で勉強していることになる。このうち卒業

するのは入学者の∬程度で、同年齢人口の約六%にな

る。なお、大学で勉強を始める学生の半数は女性である。

3

さて大学に入学すると、医学部や法学部は別として、

普通は二つの科目を専攻する。これはギムナジウムの教

師になるのには二つの教科を教えられなければならない

ことと関連していると思われる。筆者の友人では'ドイ

ツ文学と政治学'ドイツ文学と哲学、ドイツ文学と歴史

などを組み合わせている人が多かったが、なかにはドイ

ツ文学と生物学を専攻している学生もいた。

日本の大学と逢い、1般教育はない。これはギムナジ

ウムでかな‑高いレベルまで一般教育がなされているか

らだと思われる。しかし'大学に入学してから専攻を変

える人もかな‑お‑、自分が本当に何を学、ひたいのかを

はっさ‑知るためにもやは‑ある程度のt般教育期間、

そしてそれに伴う自分の将来のための考慮期間は必要と

思われる。

ドイツ・オース‑リアの大学では日本と‑らべて卒業

に必要な修得単位数はダないが'ゼミナールなどでは徹 底的な準備が要求される.ゼミナールはEinfiihrungs・

proseminar(入門ゼミナール)、Proseminar(初級ゼ

ミナール)、Hauptseヨinar(中級ゼミナール)、

O be rs em

i

mar(上級ゼミナール)、seminar(ゼミナール)等に分

かれてお‑、Einfuhrungsproseminarから順に履修す

マールブルグ大学ではSeヨinarは誰でも参加できた

ウィーン大学ではこれがHauptseヨinar(中級ゼ‑

)にあた‑、上級学年の学生しか参加できなかっ

の他にKottoqulum,Privatissimum.

Konv

er sa

t

or iu m

等と呼ばれる論文指導の時間がある。

どのゼミナールでも各時間ごとに担当者がTh

es

enpa・

pi

er

と呼ばれるレポ1‑を参加者全員に配布し、それに

沿って発表を行う。この後活発な討論がなされ、ゼミナ

ール担当の教師も厳し‑批評する。その厳しさについて

ゆけず脱落してゆ‑学生もいた。

講義に関しては、ウィーン大学は学期末に試験があ

‑、学生は口頭試験か筆記試験を受けるが'マールブル

グ大学では試験がなかった。ドイツの他の大学でも事情

は同じようである。いわば講義は聴きっ放しということ

になる。それなら誰も出ないかというと、そうではなく、

人気のある教授の講義はいつもl杯であったo学びたい

(5)

国 際経 営 フ ォー ラムNo.7

者が学びたい時に学:Bのであるから、当然といえば当然

かもしれないが、日本ではちょっと考えられない光景で

あった。講義を担当するのは専任講師以上の専任教官で

め‑、非常勤講師は原則として講義を担当しない。また

教官は必ずしも毎学期講義をするのではな‑、何学期か

にt度しか講義をしない教授もいた。しかし、毎学期同

じ講義をする教師はひとりもいない。専任教官には何学

期かに1度Forschungssemesterと呼ばれる何も授業を

担当しな‑てよい学期があ‑'それを利用して多‑の教

授は外国で研究した‑'著述活動に励んだりする。その

成果がまた講義に反映されるのである。講義は租当者に

とって自らの真価を問われる場であ‑、学生の期待もそ

れだけに大きい。

四'卒業しただけで修士

さてZwischenprtifungとドイツで呼ばれる中間試級

を終えると、大学で学ぶ期間も後半に人‑学生は自分の

興味や関心に応じて絹導教授を選ぶ。この先生のもとで

論文を書き、口述試験に合格すると修士(Magister)

の学位が貰える。大学の学部を出ただけで修士というの

は甘いのではないかど考える人もいるかもしれないが、

ウィーン大学では最低修業年限が四年でも実際には五

六年かかるのが普通であ‑'また論文の水準も高いこと を考えると、日本の修士論文程度に相当するのかな、

思われないでもない。先にも述べたが'大学を卒業する

のが同年齢人口のうち六%ほどであるから、ここまで到

達した者はやは‑かな‑のエリー‑と言えよう。

なおドイツではギムナジウムの教師になろうと思うも

のは国家試験を受けなければならず、そのための課程を

大学で修了しなければならないが、この場合卒業しても

修士の学位は授与されない(オーストリアでは授与され

る)。つまり教員になるか'修士になるか'どちらかの

通を選ばなければならず、両方はできないのである。我々

の感覚ではこれは奇妙な気がするが、これもマイスター

削度と同じようにドイツ独特の分業別の現れかもしれな\〇̲■ヽ

五、大学院での勉強

さらに勉強しよ‑と思う者は大学院へ進むわけである

が、以上のような理由で修士課程というのはな‑、いさ

な‑博士課程の勉強が始まることになる。ウィーン大学

では博士課程の最低修業年限は二年(+口頭試験)とな

っているが'三年以上かけるのが普通である。ドイツ・

オーストリアとも学生が長い間大学で勉強するのは、l

つには大学がほとんど国立で授業料が無料ということと

関係している(外国人は必ずしもこの限‑ではない)。

141

(6)

ドイツ ・オー ス トリアの 大学 と 日本 の 大 学

学生には旅行や演劇・コンサー‑'新聞雑誌の購読など

各種の割‑引きがあるので'大学生の身分を確保しなが

ら特典だけを享受している者も多‑、そのためウィーン

大学の学部では数年前から最低修業年限の二倍すなわち

八年以上在籍している者は除籍処分にすることになっ

た。大学院はこの限りではない。

大学院に進学するのに試験はないが'論文の主査に当

たるドクター・ファータ‑と呼ばれる梢導教授と副査を

選び、それらの先生に論文のテーマを線出して許可をも

らわな‑てはならない。筆者の場合、主査は独文学、

査は演劇学の教授にお願いしたが、ドクター・ファータ

Iになるには必ずしも正教授である必要はな‑、専任講

師以上であればその資格がある。院生は必ず四単位以上

ドクター・ファータIの論文埴導のゼミナールに出席し

て、その梢導を受けなければならない。他の科目と合わ

せて十二単位以上取得し論文の審査に合格すると、

Rigorosuヨと呼ばれる口述試験を受けることになる。

口述試験では論文だけではな‑専門領域について幅広い

質問がなされるので、三か月から半年の準備期間が必要

とされている。もしもRigorosuヨに落ちた場合は、ま

たしばら‑して車受験することができる。この試験には

主査・副査だけではな‑学部長も出席し、希望すれば他

の教授や学生も立ち合うことができる。公正を期すため であるが、Rigorosumという名の示すとお‑厳しい試

験と言えるであろう。

Rigorosumに合格すると、あとは学位授与式を待つ

のみである。この授与式には親兄弟や親戚・友人なども

出席して盛大に祝う。式のあとには披露宴を行うが、こ

れは日本のように周‑の者が祝賀会を発起し企画し実行

するのではな‑'本人が主宰し周‑の者が紹ばれるおひ

ろめである。これは絹導教授をはじめお世話になった

方々への感謝の意味をこめて行われるものである。中世

のドイツなどではこの宴はアリス‑テレスの饗宴と呼ば

れていたようだが、当時ドクターになるということは学

生から教師の身分になるということであ‑'新し‑教師

のギルドに加わることになるので、同僚に対して今後よ

ろし‑という挨拶の意味でも広‑行われていたとのこと

である。,i

なおドイツでは大学の教師になろうと思うものは'

ず他の大学へ転じなければならない。これはHausbe.

ru fu

ngsverbot(同l学内招碑禁止事項)と呼ばれてい

ドイツの大学はほとんどが国(川)立であ‑'格差

も(グな‑ても建前の上では)ないのでこのようなこと

が可能になるのである。日本ではあま‑知られていない

制度であるが'いま話題に上っている任規制の導入以上

に、人事の硬直化を避けるための有効な手段ではないだ

(7)

国 際 経 営 フ ォー ラ ムNo.7

ろうか。

オース‑リアでは公務員になるにもランクかありtA

ランクは大卒、Bランクは高卒程度となっているが、

卒の中では修士と博士でランクの区別がない。その他の

職業でもほぼ同様である。だから'研究織に就‑場合を

除き、博士号を特っているということはあま‑実質的な

メリットがないわけであるが'博士課程に進む学生は増

えている。

ドイツ・オーストリアに共通して特徴的なことは、高

校を卒業して職に就いた者がさらに数年たってから大学

に進学するということである。これは大学入試がない大

きな利点といえる。大学人学資格を持っていれば、何年

か社食に出て働きへあるいは兵役を終えた後、本人に行

‑意志があればいつでも大学で勉強できるからである。

筆者の如‑合いでも、六十歳でウィーン大学に入学し六

十五歳で卒業したオーストリア人がいる。その人は戦後

食べるために働かなければならず、大学進学を断念した

のであるが、歴史を学びたいという気持ちが止みかた

‑、定年前に退職して大学に入学したのである。その他

にも、定年退城をしたような年輩の才や尼さんな..Uが講

義やゼミナールに参加しているのを見かけることがたび たびあった。またマールアルク大学では正規の講義とは

別に、市民講座のようなかたちでお年寄‑向きの講義が

開かれており'これも専任の教官が担当していたが'正

規の講義に勝るとも劣らぬ興味深い内容で、さすがは大

学町と感心したものである。生涯教育ということが近ご

ろ盛んに叫ばれているが、日本も高齢化社会を費え、社

会人に大学の門戸を開‑ことを本格的に考えねはいけな

い時期に来ているのではないかど思われる。

大学ではないが、ここで二言触れておきたいのが

Votkshochschule(成人学校'市民大学)である。日本

で言うなら公民館を利用した市民講座のようなものであ

るが、プログラムが非常に充実してお‑、毎日のように

外国語や文学、心理学'社会学'さらに音楽やスポーツ

などを安い費用で学ぶことができる。日本語や日本事情

などの授業を行っていた学校もあった。連邦や川だけで

な‑市町村もこれにカを入れてお‑'国民に広‑親しま

れている。

七㌧ドイツ帯圏の大学の歴史

中世の大学

さて、ここでご‑簡単にドイツ・オーストリアの大学

の歴史を見ておこう。現在のドイツ語圏で最も古い大学

はウィーン大学でニi',五年に設立されたが'当時のド

143

(8)

ドイツ ・オ‑ ス トリアの 大学 と日本 の 大学

イツ語圏にはもっと古い大学があった。それは現在では

チェコの首都になっているプラハの大学である。当時は

ドイツ領邦体制の形成期であ‑'ドイツ人は東方のスラ

ヴ人の地域に次第に植民、発展し'ボヘミア・オース‑

リア・ブランデンブルクなどの領邦が出現していた頃で

あった.神聖ローマ帝国最初の大学がこの地方にまずで

きたのは'このような時代を背景にしている。

プラハ大学は'ボヘミア国王でもあった皇帝'ルクセ

ンブルク家のカール四世二三l六〜七八)が「東方の

パリをめざして二二四八年に創立したものであった

が、彼はパリで学ひ'ペ‑ラルカとの交友もあった、

時の君主としては稀にみる教養の持主であった.

ウィーン大学はこれと明白な対杭意識をもってハープ

スブルグ家のルドルフ四せ二三三九〜六五)が計画

したものである。当時の大学は周知のように神・法・医

・教養の田学部からなっていたが、カール四世の教皇庁

に向かっての妨害工作があったため、ウィーン大学は結

局神学部のない形で発足しなければならなかった。ウ

ーンに神学部が認められたのはカール四世が亡‑なった

後の二二八四年のことで'この翌年にドイツ最古の大学

ハイデルベルク大学が'その後ケルン(ニ八八)、エ

アフルー(ニ八九)と続々とドイツの大学が設立され

さて当時の学生数であるか'バウルゼンによればプラ

ハにはl五〇〇人以上、ウィーンで時に1000人もの

学生がいたとのことであるE:もっとも、すべての学生

が大学を「卒業」したわけではな‑tl三六五年から1

00年間にウィーン大学の教養部でマスターの学位を得

た後'上級の学部へ進んでバチェラーやドクターになっ

た者は約三割、年三名程度であったといわれている

ここでいうバチェラーとは今日のいわゆる学士ではな

‑'いわば助チのようなもので、彼らはドクター(教授)

の仕事のけ部をカバーし特殊講義などを担当していた。

西洋の大学は、日本の大学のようにそんなに簡単に卒

業させて‑れないと言われているが、この言葉は当時も

あてはまったようである。しかし︻方では、大学を卒業

しな‑てもけっこう仕事にあ‑つけるという事実もあっ

たようで、当時の国際語であったラテン語ができただけ

でも外交官や書記になるには有利だったようである。

ハレ大学とクリスティアン・ヴオルフ

さて、時代は7‑近代に入る。必ずしも実用的目的に

関わ‑な‑研究する'これが学問の原点であると考えら

れるが、「学問の自由」をめざす近代的大学への第t歩

は、ハ九四年に初代のプロイセン王フリードリヒl世

によって創立されたハレ大学によって蒔み出された。l

(9)

国 際経営 フ ォー ラムNo.7

七〇七年以来ここの教授となった哲学者クリスティアン

・ヴォルフは'はじめて哲学用語としてドイツ語を用い

た学者であったが'彼にとって哲学はもはや神学の下僕

ではなかった。既成の権威を認めない立場は当然リベル

タス・フィロソファンディ(哲学することの自由)すな

わち学問の自由への普求につながる。キリスト教の宗派

主義と結びついた大学の旧原理、すなわち公認された教

義'学説の単なる伝達に代わって'理性に基づいた自由

探求の精神が大学の新原理となってい‑。ヴォル7の哲

学は国家にとって危険であるという理由で彼はl時ハレ

を追われ'マールアルクで教取をとるが、彼の名声は高

まるばか‑でtt七四〇年フリードリヒ大王が即位した

後ヴォルフはハレに返‑咲‑。ハレ大学、そしてそれに

倣ったゲッティンゲン大学の成功は、ドイツの大学の性

格を大き‑変え、この後大学は教育機関であるとともに

研究機関と見倣されるようになるo引

カントの大学論

‑七八九年に起こったフランス革命'そしてその後の

ナポレオン帝国の成立によ‑、l七九八年フランス軍の

ライン左岸の占領かはじまり'ボン・ケルン・マインツ

などドイツの諸大学は閉鎖されたが'この年北東の果、

ケ‑ニヒスベルク(硯カリ‑ニングラード)ではカント が﹃学部の争い﹄という論文を発表する。この本はその

後のドイツの大学のあ1才に大きな絹針を与えたもので

ある。総論にあたる第l部の「序論」「学部の関係

について」を中心に島田雄次郎が要領よ‑まとめている

ので'それを参考にしながら内容をかいつまんで紹介し

てお‑。仙

カントはこの中でまず学者の組合(ウニヴェルシタス)

としての大学のあ1才'専門小組合すなわち学部から成

る大学のあ1才を肯定する。組合的自治はこの場合、学

者としての学者の身分に対しては学者だけが判断しうる

以上'また当然とされる。神・法・医・哲学の伝統的四

学部別もカン‑はそのまま肯定している。(この場合の

哲学には、今日でいう人文科学だけでな‑自然科学も含

まれる。)

学部の争いとは、学部間に不断に存在し'また存在し

なければならない対立・緊張の意味である。この対立と

緊張は特に督学部(ドイツ諸大学の教養学部は十六世紀

頃から哲学部と呼ばれるようになる)川と神・法・医三

学部との間に現れるが'それはなぜであろうか。これら

のいわゆる上級三学部の学問は直接的に政府の関心と結

びついている。政府は神学部を通じて国民の永遠の幸福

に、法学部を通じてその市民的幸福に'医学部を通じて

その肉体的幸福について配慮する。その内容、その学則

145

(10)

ドイツ ・オー ス ト.)アの 大 学 と 日本 の 大学

は、政府によって規定されている。けれども哲学部は学

問そのものに、理性に奉仕する。理性は自由であ‑、批

判を使命とする。上級学部の学則、その学問的内容も当

然この批判の対象とされなければならない。なぜならそ

れらは理性よ‑もff,I.)意に、政府の政策的意図に結'ひっい

て'過誤を免れるものではないからである。しかし上級

諸学部は政府の要求を代弁する立場なので'こうして哲

学部との対立は塑けられない。このようにして学部の争

いが起こるのである。この争いはいわば野党である哲学

部の、与党としての上級三学部に対する攻撃と'それに

対する後者の防御である。しかしその攻撃は決して政府

の政策に対する直接的な攻撃・批判ではない。それはあ

‑までも学者間の争いであり、民衆の介入はもとよ‑'

政府の介入もまた許されないのである。それは自由でな

ければならない。それが自由であってはじめて間接的に

もせよ'政府の政策が、そしてやがては国家そのものが

理性の批判に耐えうるものに「啓蒙」されるはずだから

である。

カン‑は﹃学部の争いにおいて、自己自身の立場を

弁護しながら、十七世紀以来増大してきた「学問の自由」

の婁求を「大学の自由」として定式化した。それはあ‑

までも大学内部の自由であ‑、市民的自由のない専制政

治下におけるギリギリの「自由の主張であったが、 ントはそれを「公共的な判断の自由を政府の次盲・1)によっ

て制限することから完全に解除することを準備する」は

ものとし'さらに「おそら‑いつの日にか次のような状

態に到達しうるであろう、すなわち、後のものが先のも

の(下級学部が上級学部)となることであ‑、しかもか

‑なるのは'みずからが権力を所有することによってで

はな‑ても、権力を所有するもの(政府)に忠告するこ

とによってであ‑「,」の忠告によれば、自己自身の絶対

的権威のうちよ‑も'むしろ哲学部の自由とこれから自

己に生ずる洞察とのうちに、自己の目的へ到達するため

の手段が艮‑見出されることになるであろう。」ほと述

べて、未来への明るい展望を示している。

カン‑が「大学の自由」を主張する際に'大学におけ

る哲学部の意義を強調していることは注目されなければ

ならない。先に述べたとお‑、中世の大学の教養学部は

ギムナジウムが誕生したt五三八年以降課程のかな‑の

部分をギムナジウムに委譲し、水準を上げて哲学部と呼

ばれるようになったが、この哲学部が「学部の争い」に

おいては大学の中核とされている。「学部の争い」とは

曹学部と他の学部との間の争いである。哲学部は制度上

は下級学部であるが、カントによればまさに大学の要で

あり'大学を大学たらしめているものたったのである。

宗派主義からの脱皮が神学的大学を哲学的大学に変わら

(11)

国 際経 営 フ ォー ラムNo.7

せたわけである。またカントが「大学の自由」の保証と

して組合的・自治的な伝統的大学とその学部別度をその

まま支特していることも注目されなければならないであ

ろう。これは革命とナポレオン帝国を通じてフランスに

定着した国家の統別の強い直轄専門学校主義とは正反対

の性質を持つものであった。

シュライアーマッハIの﹃ドイツの大学論﹄と

ベルリン大学の創設

カントが﹃学部の争いを発表してから十年後のl八

〇八年、シュライア‑マッハーは﹃ドイツの大学論﹄を

公刊する。彼の主張はカントとほぼ同じであるが、さら

に‑歩進め'哲学部こそが大学の最も本質的な部分であ

‑、下級どころか、最上位に位置するべき学部であると

述べている。他の学部は哲学部と結びついて、はじめて

その学問的生命を維持できる。大学の教師はその所属す

る学部の如何を問わず'督学部において少な‑とも‑つ

の講義を担当し、それによってその学問的精神にたえず

触れていなければならない。〜これが彼の主張であっ

た。内的必然性'純粋な学問的精神を支柱とする哲学部

の登視は、必然的に大学における「自由」の要求を生み

出す。ここでは学習ではな‑認識が'つま‑は学問的精

神の喚起が問題であるが、それは強制によっては逢せら れないからである。大学と学校はこの点で区別されなけ

ればならない。

「大学の自由」の主張は、当然学内体別の民主化

と国家の役割の削隈の主張をともなって‑る。学内体別

に関して彼は'成員平等のたてまえから寡頭別を退け'

学長・学部長については、「平等なるものの第t人者」

の原則を保薄するために、選挙による交替別を主張し、

長期・終身の任用、と‑に国家による学長の任命を危険

なものとした。

l八一〇年夏、プロイセンの教育長官フンボルトは'(

ルリン大学設立の小委員会を設けシュライア‑マッハ‑

をその委農に任命する.シュライア‑マッハIは議長と

して自分の理想の実現に向かい尽、カする。こうして彼の

﹃ドイツの大学論﹄はドイツのみならず世界の大学に決

定的な影響を及ぼした'同年創立のベルリン大学の理念

的学則となったのである。仰

二Iチェの教育論

功利性に縛られない「学問の自由」、そこから導き出

される単なる技術教育以上の‑般教育と学問研究への志

向は'こうしてドイツの大学の伝統となった。しかし十

九世紀も後半に入ると、曹学部のこ大分野、精神科学と

自然科学ははっきりと分かれるようになってきて'い‑

147

(12)

ドイツ ・オー ス トリアの 大学 と日本 の 大学

つかの大学では二つの学部に分裂しはじめた。これは大

学の理念にとっては要人な問題であった。哲学部は他の

専門学部の基礎であ‑'学問の有機的統tとその上に立

つ学問的共同体である総合大学の理念を代表するものだ

ったからである。

このような時期、バーゼル大学の若い教授ニーチェは

ーゼル市民を前にした連続講演「われわれの教育施設

の将来について」二八七二年)のなかで'ある老哲学

者のロを憎‑て次のように述べている。

「よ‑心に留めておいてもらいたい。わが友人たちよ。

二つのことを君たちは混同してはならない。人間は生き

るために、生存闘争を勝ち抜‑ために'しっに多‑のこ

とを学ばなければならない。しかしこのような意図にお

いて人間が学んだ‑行った‑する1切は'まだ教養とは

なんの関係もないのである。教養とは'これとは反対に、

生活の困難や生存闘争や窮乏欲求の世界をはるかに超え

たところにある大気圏においてはじめて始まるものなの

だ。(‑)修業年限の最後に、ある官聴、またはなにか

の生計上の利得を見込んでいるようなあらゆる教育は、

およそわしらが理解しているような教養のための教育で

はな‑て、どの道をとれば生存闘争において自分の主体

を救い、護っていけるかを示すたんなる案内にすぎない

のだよo(・・・)」愉 これを単に理想が高すぎる'具体的な教育政策論とし

て考えた場合には、実現不可能な議論だと'笑うことは

たやすいであろう。しかし数多‑の教育論議にともすれ

ば欠けがちなのが実はこの理念だということを我々は忘

れてはならないのではないだろうか。

八、全人教育と教養部の存在意義

さてドイツ語圏の大学とその歴史、特に哲学部の意義

について見てきたが'ここで我が国に目を転じてみよ

う。かつてはこのような組織が日本の大学にも存在した

が、残念なことに今日では消滅の‑途を辿っているo言

うまでもない。それは教養部である。そこではどんな専

攻を学ぶ者もt定期間、人文・社会・自然・外国語・体

育などの科目からい‑つかを学ばなければならない。そ

れは専門科目の基礎となるとともに'それによって単な

る専門学校とは逢った自由な批判の精神と判断力を特っ

た人間の全人的な教育をめざす。これが教養部あるいは

1般教育の理念だったはずである.いわゆる「大綱化」

によ‑教養部が次々にな‑なってい‑が、これでいいの

であろうか。

確かに教養部の授業のtつ1つがこの理念に基づいて

有機的に行われていたかというと、議論の余地がある。

カントの時代にも「哲学部教授は上級学部の教授になる

(13)

国 際 経 営 フ ォー ラムNo.7

ことをその念願としていた」胤といわれるように、教

部の教師自身が自分たちをt段低い所に置いていたきら

いもある。学生のことを考えず学部と同じような授業を

するというのも、このコンプレックスの裏返しなのかも

しれない.しかし今まで見てきたように'教養部の教師

が自分を卑下する理由は何もないのである。「専門教育」

という名のもとにただ無批判に知識の伝達をする大学で

は、中世への逆凍りではないか。自由な批判精神を養う

場所、かつての哲学部のよ‑に大学内で喉Iの野党とも

いえるものが'下級学部とみなされた教養部であ1、二

の教養部の存在こそが大学を大学たらしめていたのでは

ないであろうか。

実際に学生を梢導している先生なら誰でも気づいてい

ることと思うが、の学生は与‑そりれた物事(あえて如

織とは言わない)をそのまま鵜呑みにする能力はあって

も'それをⅦ璃した‑判断した‑取捨選択した‑するカ

がない。ノートひとつをとっても教師が黒板に書いたも

のを'分かっても分からな‑てもそのまま書き写すだけ

である。彼らの多‑はただ単位を取ることだけを考えて

いて'それが自分にとってどのような意味をもっている

かということをほとんど考えていない。こんなことでは

主体的な研究態度など望むべ‑もな十大学院へ行って

も自分が何をしていいのか分からない学生がいる現状で .I般教育、そしてそれに基づ‑自由な批判力の欠

これがオウム真理教に走るような理性を欠いた研究

者を生み出したと言ってはあま‑に短絡的であろうか。

I般教育はなにも大学内部だけの間萄ではない.教養

部の解体が進められる中、国立大学の受験科目が減少し

てさたことは周知のとおりである。我々が受験生の項は

英・数・図三教科のほか、文系なら社食二科目・理科︻

科目'理系なら理科二科目・社会l科目を受験するのか

普通であった。中には北海道大学のように文系・理系を

問わず社会・理科ともこ科目以上選択しなければならな

い大学もあった。もちろん受験科目が多ければそれだけ

で良いというものではないLt詰め込み教育の弊害も常

に梢摘されているが、また受験勉強の中で身につ‑もの

もあったはずである。文系だから文科系の科目ばかり勉

強する、理系だから理科系の科目しかやらないというの

では'自ら視野を狭‑し物事に対する判断力をな‑すこ

とにな‑かねない。ドイツやオーストリアの大学で入試

がないのは、ギムナジウムの教育がしっかりしているか

らで、高校での教育のレベルがまちまちな日本ではやは

‑ある程度の入試科目は必要と思われる。現在の入試剛

度を見ていると'国立大学が私立大学を模倣Ltそれに

よって自分で自分の首を絞めているような気がしてなら

な い 。

149

(14)

ドイツ ・オー ス トリアの 大 学 と 日本 の 大学

t方、私立大学であるが、ここでも受験科目の減少が

見られる。本学経営学部でも'入学試験のB方式では、

「国語・国語H」(国語)、政治、経済、日本史'世界

史、「数学・代数・幾何・基礎解析」(数学)、「英語

・英語HB・英語HCL(英語)から‑科目を選択して

受験するということになっている。もちろん得意なもの

を徹底して勉強する事自体は決して悪いことではない

し、そのような学生も採‑たいという考えも理解できな

いわけではない。非常に高い倍率を‑ぐつて‑るわけで

あるから'中には試験問魔の不備を相場できる受験生も

いるわけだが、やは‑ある種の偏‑があるように感じら

れな‑もない.実際困ったことに、自分はt科目入試で

入ったということを理由にして他の科目(例えば︽第二︾

外国語など)ができな‑ても仕方がないと自己弁護する

者も見られる。もちろんすべての学生がそうだといって

いるわけではないが、1科目だけでされば他の科目は切

‑捨てても良い'嫌なことはやらないという発想にな‑

はしないかと心配しているのは筆者だけであろうか。二

十歳前といえばまだまだ伸び盛‑、いろいろなことが吸

収できる年齢であるし、またそうしなければいけない時

期である。筆者は勤務して日が浅いのでまだ充分判断す

る材料を持っていないが、t科目入試の功罪については

これからも考えていきたいと思っている。 九、国際化と外国語教育

さて本論のテーマとはグし離れるかもしれないが、

こで国際化と外国語教育という問題に触れておきたい

近頃よ‑国際化・情報化ということが叫ばれ、大学の名

称にも「国際」、「情報」などという言葉を冠したものが

目立つようになったが'日本人も外国に行‑機会が増

え、また外国人の姿を見るのが地方でも珍し‑な‑なっ

た今日、国際化ということは避けて通れない通である。

国際化を進める上で言語が尊貴な役割をになうのは言う

までもないことであるが、日本の外国語教育の現状を見

ていると嘆かずにはいられない。

外国語というとすぐに思い浮かべるのは英語である

が、英語の授業時間は我々の頃と比べて増えるどころか

大幅に減っており、中学校では週三時間しかないと聞い

ている。その1才でさまざまな英語教材が士平られ、語学

学校が町を賑わしている。語学学校に通うのがl種のフ

ァッションになっている観さえあるが、L<聞するところ

によれば英会話学校の講師になるためには若‑て金髪で

美貌であることが必要だそうで'この三つのうちiつで

も欠けるところがあると講師としての採用を準えるとこ

ろもあるという。いわば外見が重視されるわけで、彼ら

がきちんとした語学教師としての訓練を受けてきている

か疑問であるし、なかにはネイティヴでない人もいると

(15)

国 際経 営 フ ォー ラ ムNo.■7

いうことであるoI才では外国語を学びたいと思ってい

る人が増加しているのに'それをきちんと教えるべき中

学校や高等学校では時間数を減らされている。大学でも

いわゆる大綱化によ1㌧第二外国語はもとより英語の時

間まで減らされる傾向にある。国際化の時代と言いなが

ら'学校における外国語教育に関する限‑鎖国時代へ逆

戻‑している観すらある。

オーストリアでは小学校の三年頃から硯代外国語(過

常は英語)を学びはじめることになっているが'昨年1

月のEU加盟によ11年から教える学校も増えてきてい

る。またギムナジウムでは、ラテン語のほかにギリシア

語または第二現代外国語を第五学年から学び、英語は八

年間(週最低三時間)'ラテン語は六年間、ギリシア語

または第二現代外国語は四年間学習することになってい

る。さらに第六学年以降、第三現代外国語を選択するこ

ともできる。人文系のギムナジウムに対し実科ギムナジ

ウム

(R e a ‑g

ymnasium)では'数学・生物・環境学・

化学・物理など理科系の科目が争いが、ここでも第五学

年以降ラテン語または第二現代外国語を学習するE=1こ

のように外国語の学習が蜜祝されているのかギムナジウ

ムのカリキュラムの大きな特色で、当然のことながら卒

業生は日常生活を送るのになんら不自由しない‑らいの

英語ができ、さらにフランス語やイタリア語などを話せ る者も数多‑いる。また例えばウィーン大学ではヨーロ

ッパの諸言語はもとよ‑'アラビア語'日本語'朝鮮語

など、三十以上の語学の授業がすべての学部の学生のた

めに開講されている。t般市民のためのVotk・

shochschule(成人学校'市民大学)については先に述

べたが、ここでも旅行用の即席食詰も含め数多‑の外国

語の授業が開講されている。

日本も国際化に真剣に取‑組むのであれば、遅‑ても

小学校の高学年から英語を学びはじめ、高校生あた‑か

ら第二外国語を学びはしめてもおかしくないのではない

か。語学は早‑始めれば始めるほど抵洗な‑受け入れる

ことができ、身につ‑ものだというのは周知のとおりで

ある。ゲーテは「外国語を知らない者は自国語も知らな

い」と言っているが'外国語を学ぶということは単に実

用性や知的訓練の為にとどまらず、自国を客観的に見る

大きな手助けとなるわけであって、異文化コミュニケー

ションの基礎になるのである。

国際化への対応という点で日本がさらに推し進めてい

かなければならないのは'外国語の学習ばかりではな

い。外国人に対する日本語の教育もまた大切なものであ

る。戦後'日本と似た歴史を辿ってきたドイツには政府

が後援しているゲーテ・インスティトウ‑トという機関

があ‑、日本にも東京・大阪・京都にドイツ文化センタ

151

(16)

ドイツ ・オー ス トリアの大学 と日本 の 大学

‑を置いて、ドイツの文化の紹介やドイツ語の普及にカ

を注いでいる。ここには常設の語学学校があ‑、誰でも

ドイツ語を学ぶことができる。日本もドイツのケルンや

オーストリアのウィーンに日本文化センターというよう

なものをl応置いてはいるが'グな‑ともウィーンでは

日本語の組織的な教育は行われていなかった。

日本の経済力の増大に伴い'日本に関心を持つ人が増

え、日本語を学ぼうとしている人もますます多‑なって

きているが、これらに対応するためにも日本政府も外国

人のための日本語教育にもっとカを入れることが必要に

なるのではないだろうか。言葉だけが唯Iのコミュニケ

ーションの手段でないのは言うまでもないが、やは‑第

Lの手段であることに変わりないであろう。日本語を学

ぶことによって、日本の文化や日本人のものの考え方も

より1層艮‑分かってもらえるようになるに違いない。

また我々l人t人も、日本が単に経済のみで生きてい

る国でないことを理解してもらうためにも、外国の文化

を学ぶ1才で日本の文化を紹介するよう努力する必要が

あるであろう。もちろんそのためには'外国語の習得だ

けでな上白国の文化に対する深い理解が必貴なのは言

うまでもない。実際、外国人から質問されることによっ

て、改めて自分が自国の文化に対して如何に無知である

か気付‑こともグな‑ないのである。どの国にも固有の 素晴らしい文化がある。相子を人種や国籍によって差別

せず'いたずらに卑下したり尊大になったりせずに、対

等の人間として尊重しあうことが自然にできるようにな

ったとき、はじめて真の国際化が実現することになるの

である。来るべき二十一世紀がそのような時代になるよ

う願いつつ'この塙を終える。(おざわゆきお/経営学部助教授)

参考文献(執筆に当た‑直接参照したもののみ)

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二年。

林勲監修﹃オース‑リア入門﹄'世界聖典刊

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カンー、小倉志神沢「学部の争い」(﹃カン‑全集﹄第十

三巻所収)'理想社、l九八八年。

ニーチェ、西尾幹二訳「われわれの教育施設の将来につ

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(17)

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﹃ドイツの現状﹄、FrankfurtamMainSocietS

Verlag二九九二年。

連邦報道庁﹃オーストリア事実と数字﹄tI九九三年。

UniversitAtsdirektionderUniversitAt

W i en ⁚V

or・

les un

gsverzeichnlsW

int er

.

95[

96,1九九五年

17)16)15)

四〇二貫以下。

島悶tl七九頁。

森田・林、二八九貫以下参照。

国 際経 営 フ ォー ラムNo.7

14)13)12)ll) 10)9)8)7) 6) 5) 4)3)2)1)

森田・林、二七七貫以下参照。﹃ドイツの現状﹄、三四五貫参照。

森田・林'三〇五頁参照。

横尾、l九四貫参照。

西尾、二八七頁以下参照。

島田、五二頁以下参照。

島田、七〇貫以下参照。

横尾、I九九貫参照。

島田tI四1貫以下参照。

カン‑、三L七貫以下参照o島田tt七六頁以下参

島田、IO且貫参照。

カン‑'三四二頁。

同者。

島田、︻八田貫以下参照。

153

図 1 ドイツの学校制度

参照

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