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清末 の国会連 関請願運動 と日本 の ジャーナ リズム

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長 崎大学教育学 部社 会科学論叢 70 15‑29(2008)

清末 の国会連 関請願運動 と日本 の ジャーナ リズム ー大阪朝 日新聞を中心にして‑

楠 瀬 正 明

ThePe t i t i o nMo ve me nta s ki ngf ♭ rI mme d i a t eCo n vo c a t i o no f Na t i o na lAs s e mbl yi nt hee ndo fQi ngDyna s t ya ndJ a pa ne s eJ o ur na l i s m

MasaakiKUSUNOSE

は じめに

周知 のように, 日露戦争後, 日本が ロシアに勝利 したのは立憲政治が専制政治 に勝 って いたか らだ とい う世論が中国で高 ま り, それに刺激 された清朝 は,憲政視察のために5人 の大臣を海外 に派遣 し,彼 らが帰国後 に,立憲制採用を上奏 したのを受 けて,1906年9月, 予備立憲の上諭を公布 した。 これ以後,立憲運動 は合法的な運動 として展開されていった。

本稿で取 り上 げる1909年末か ら翌年 にか けて4次にわたって全国的運動 としてお こなわれ た国会速開請願運動 は,最 も高揚 した立憲運動であ った。

近年,清末の立憲運動, と くに国会速開請願運動 につ いて研究が深 まりつつあるが,(1) この運動 を当時の日本が どのように評価 していたのかについては, いまのところ本格的に 論及 されていない。そ こで当時の 日本の ジャーナ リズムが清末の国会速開請願運動 をどの よ うに報道 し評価 していたのかを明 らかにす るために,本稿では, とりあえず大阪朝 日新 聞 [以下,大朝 と略称]を とりあげて初歩的検討を試みたい。

1.清朝の立憲化政策 に対する大朝の見解

さて,清朝が 「予備立憲」 の上諭 を公布 した1906年9月1日,大朝 は,清朝の立憲化を

「世界の大勢」であるとみな して支持 を表明 し,次のよ うにコメ ン トしている

清国政府者が要求の声甚大な らざるに先 ち, 自ら議政権の一部 を割 きて,之を国民 に 与へん とせ るは,政治家 として賢明の措置なり 頗 るその機を見 るに敏なるものなり

吾人 は大体 に於て立憲政施行の方針を可 とす。翻って清国の現状如何を見れば,憲政 国 と為 さんには,其準備余 りに無雑作な り,其の民智余 りに暗愚な り,之が実施迄 に は十五年乃至二十年 の猶予を要す可 し。 (明治39[1906]年9月1日,「清国の二大問 題 (憲政施行 と官制改革)」 (上))

「清国政府者が要求の声甚大な らざるに先 ち」 という大朝の見方 に疑義 はあるが,憲政 を行な うために必要な制度的準備 と民智が不足 しているとの認識 によ り,憲政の実施 には 15年か ら20年 くらいの時間が必要であろうとい うのが,清朝の立憲化政策 に対す る大朝の 基本的姿勢であった。

(2)

このよ うな基本的姿勢 に基づいて,大朝 は,「清国当面の急務 は憲政実施 の準備 として 中央官制及 び地方制度の大改革を断行す る」 (明治39[1906]年 9月2日,「清国の二大問 題 (憲政施行 と官制改革)」 (下)) ことにあるとみな し,清朝政府が検討 している官制改 革案 について,

まじ

大要其の範を我邦 に取 り参ゆるに欧米列国の制度 を以てせ るものなり 約言すれば中 央集権,地方 自治の方針 に基づ き,清国十八省に画一の統治を行 はん とす るものなり

此 の如 きは清国 に取 り殆 ど革命 に均 しき一大改革 に して, (中略)如上 の‑大改革 を 断行 し得ん こと,吾人容易に之 を信ず ること能 はず。 (同前)

と論評 した。すなわち大朝 は,改革案 は憲政の実施 をめざ し,「清国十八省 に画一の統治」

を行なお うとしているが,そのためには長期 に続 いて きた官僚制度を変革 しなければな ら ず,それは 「革命に均 しき一大改革」であ り,実行す ることはかな り難 しいとの見解 を提 示 していたのである

案の定,1906年11月6日に中央 の官制改革の上諭が公布 され ると,大朝 は,「軍機処 を 従来のまま留存 し軍機大臣四人を置 くが如 き,最 も改革 の精神 と背戻せるものな り。 (中 略)兵,財二大権を中央政府 に収む る能 はざりLは,蓑世凱の意見が勝を制 したるものな らん も,此の二事を骨抜 に したる今回の官制改革 は,清国の施政上殆 ど何等の価値をだ も 有せざるものな り」 (明治39(1906)年11月9日,「清国官制改革 の発表」)と,今回の官 制改革を厳 しく批判 した。官制改革 はかな り難 しいと想定 しなが らも,大朝 は,今回の官 制改革で兵権 と財権の一定の中央集権化がはか られ ることを期待 していたのである

中央の官制改革に続 いて,11月6日,地方の官制改革案が提示 され,各省の巡撫等 に意 見が求め られた。その動 きを報 じた大朝 は,督撫等の態度が 「中央政府の発案 に対 し,義 面之 に反対 は為 さざるも, 内心之が実行を好 まざるに似 たり」 と捉え,「中央政府の官制 す ら竜頭蛇尾 に終 りて,天下 の耳 目を一新す るに足 るもの無か りLに,今又地方官制 に対 す る各省督撫の意見此の如 しとせば,清国改革派の嘱望 と当局の施設 とは,愈益大径庭を 見 るに至 らん 外省官制改革 の容易な らざるは始 めよ り分 り切ったることな り。」 (明治40 (1907)年1月17日,「清国の地方官制改革」)と,地方 の官制改革案 も竜頭蛇尾 に終わ る であろうと予見 した。 そ して77日に地方官制改革の上諭が公布 されると,大朝 は予見 が的中 したと自賛 しなが ら,「東三省 よ り試行 して漸次他省 に及ぼ し,十五年を期 して之 を全国 に普及せ しむ可 Lと謂へ るは,余 りに遅垂 に過 ぎた り。 (中略)要す るに今回発表 の地方官制 は,単に一部分の改革 に過 ぎず,其れす らも全国普及 に十五箇年の長歳月を費 さざる可か らず とせば,清国地方制度 の改善 も,前途頗 る遼遠 な るものな り。」 (明治40 (1907)年7月12日,「清国地方官制改革」)と,清朝 の提示 した地方官制改革案が部分的 で余 りにも悠長 なものであると批判 したのである

上述 したように,大朝 は,清朝の立憲化政策を基本的に支持 し,それを実現す るには多 くの困難が ともない,かな りの時間が必要であるとみな していた。 しか しなが ら清朝が提 示 した中央及び地方の官制改革案 は大朝 にとって期待 はずれの内容であった。 そのため, 大朝 は官制改革案に厳 しい批判を加えたのである。

ところで,「予備立憲」 の上諭が公布 され ると, 予備立憲公会,憲政公会,政聞社等の 立憲団体が各地 に結成 され,清朝が推進す る立憲化政策を批判 し,国会の早期開設を求め る活動を展開 した。1907年7月,清朝が憲政 に関す る上奏を許可す ると,憲政講習会をは

(3)

清末 の国会速 開講朗運動 と 日本 の ジャーナ リズム 17

じめとして立憲団体や官僚及び留学生等が国会の速関を求める請願書をあいっいで提出 し,

12月には予備立憲公会,憲政公会等の立憲団体が,国会速閑を求める署名を集め,北京に 赴 いて政府 に請願す る運動 を呼びかけ,1908年夏には省の請願代表が北京に赴 いて国会通 関の請願運動 を展開 した。 ̀2)

大朝 は,7月18日か ら8月24日にか けて,「北京電報」欄 に安徽省や江蘇省等の請願代 表者が北京 に到着 した ことを掲載 し,1908年7月27日の記事 「清国の憲政準備」 (下)で, 次のよ うにその動向を報 じている

清国側 に於 ける国会開設熱如何 と見 るに,各省有志者の或 は数千名或いは数百名を代 表 し,国会請願の為,昨今続々北京に入 り来 りて,当路王大臣間に誘説奔走 しつつあ ること,明治初年 に於 ける我国の有志家なるもの と異な らず。各漢字新聞 も職 に国会 熱を煽 り,一 日も速かに参政権を国民 に輿へよと叫 びつつあり 政府側 は憲政施行に 関す る総ての準備 を整頓 して,然 る後 に繰 り上 げ得 る限 り,国会開設期を繰 り上 ぐ可 Lと謂 ひ,国民側 は先づ能ふ丈 け国会開設期を早め,然 る後諸般の準備を為 し得可 き に非ずや と謂 ひ,国会開設期を更 に繰 り上 ぐ可 きゃ否やは, 目下清国に於 ける重要問 題の‑ とは為れるな り

この記事が報 じているよ うに,国会の速閲をめ ぐる問題,換言すれば国会をいっ開設す るかの問題 は,憲政の準備を政府が主導す るのか,それ とも国民の意見をで きるだけ取 り 入れるのかをめ ぐる対立 ・抗争であ り,大朝がいうよ うに,国会速開問題 は 「目下清国に 於 ける重要問題の‑」であった。

清朝 は国会の遠関を求める動 きに押 されて,1908年8月27日,「憲法大綱」 と 「九年予 備立憲逐年推行等備事宜」を公布 し, 9年後に国会を開設す ることと,その間に毎年,莱 施すべ き準備事項 とを明示 した。 これに対 して大朝 は,93日の記事 「清国憲政問題」

において,

清国政府が今後九簡年間に遂行す可 き憲政準備 として公表せ るもの 、如 きは,縦 ひ貸 すに十年 の歳月を以てす と難 も,恐 くは目的の一半 をだ も達す ること能 はざる可 し。

彼の一部急進家が北京政府に肉薄 して,三年後 に国会を開設せよなんど謂へ る如 きは, 殆 ど本気の沙汰 とは思 ほれず。 (中略)吾人の見 る所 を以てすれば,清国の憲政準備

は形式的にこそ相称す可 きものあれ,一般国民の程度よ り云 は ヾ更 に二十年 の歳月を 貸すに非 ざれば,憲政施行 に適応す可 き準備 を整頓 し得可 くもあ らず。 (中略)吾人 は今回の国会開設期の宣布を以て,左程芽出度 こと 、も思 ほれず,憲法大綱公示の如 きは大早計の甚だ しきものと思惟す。

と強 く反対 の意思を表明 した。

このよ うに大朝が 「憲法大綱」 と9年後 に国会 を開設す ることに強 く反対 したのは,

「憲法を興ふ るものは清国皇帝 なる可 けれ ど,如何 なる憲法を輿へ しむ可 きゃは,畢寛清 国国民が政治的能力如何 に依 りて決定 さる可 ければな り」 (明治41(1908)年7月27日,

「清国の憲政準備」 (下)) と指摘 して いるように,憲政 を実施 してい くためには国民がそ れな りの政治的知識や能力を保持 していなければな らないとの立場 に立脚 して,「清国国 民の智度 は憲政国民 としては未だ十分 な らず」 (同前) と認識 していたためであ った。

かか る認識 に基づいて,大朝 は清朝 に立憲化 を急 いではな らない,急 げば近年,立憲化 に失敗 したロシアやイランの二の舞 になるぞと警告 したのである

(4)

急 に国会を得 るも国会の運用其の宜 しきを得ず,或 は之が為 に却て官僚派が圧制政治 の機関 に利用 され,或 は国政紛乱の端を啓 き機 を促すが如 きことあ らんには,憲政施 行 は偶以て国利民福 を破壊 し去 らんのみ。般鑑遠か らず,近 く露国 と波斯 とに在 り

(明治41(1908)年7月26日,「清国の憲政準備」 (上))

すでに触れたように,大朝 は清朝が提示 した官制改革を厳 しく批判 していた。 しか しな が ら,清朝の推進 している立憲化の準備過程をまった く評価 していなか ったわけではない。

「憲政準備が更 に一段の進歩を為せ しことを認む る」 (同前) と一定の評価を していた。 と くに1909年7月22日に公布 された 「各省諮議局章程」 と 「諮議局議員選挙章程」, これ ら の規程 に基づいて1年以内に各省で諮議局が設立 され ることにな ったことに大朝 は着 目し,

「清国国民 は己に諮議局てふ 自治機関を附与せ られた り。 (中略)今後国民 として任ず可 き 憲政準備 は空論浮議 に非ず して,之等 自治機関の運用者 としての能力十分 なることを事実 上 に証拠立っ るに在 り」 (明治41(1908)年7月27日,「清国の憲政準備」 (下)) と述べて いるように,諮議局の設立 にともな って国民が政治的経験を積み,立憲国の国民 としての 知識 と能力を備えることを期待 していたのである 地方議会の基礎 と位置づ け られた諮議 局の活動状況をみて,国会の設立時期を考えればよいというのが大朝の見解であ った。

ところが,清朝が 「憲法大綱」 と9年後 に国会を開設す ることを公布 してま もな く,光 緒帝 と西太后があいっいで死去 し,薄儀が宣統帝 として即位 し,父の醇親王載渡が監国摂 政王に就任 した。摂政 にな った載濃は兄の光緒帝 の積年の恨みを晴 らすべ く蓑世凱を軍機 大臣か ら罷免す るとい う政治的事件がお こった。

大朝 は, かつて蓑世凱が張之洞 とと もに,1907年9月, 軍機大 臣 に就任 した際, 「慶 [親王],衰 [世凱],張 [之洞]の三頑政治が清国人を以て組織 し得可 き最良政府 たるを失 わず」 (明治40(1907)年9月7日,「清国の三頭政治」)とか,「蓑 ・張二氏の入軍機 は, 今 日の清国局面 に於 ける最後の調停手段 な り。 (中略)義民が官制改革 の手動 たるは,固 よ り時勢 に適応す る明あ りLと謂ふべ し」 (明治41(1908)年 1月30日,「清国現勢論」

(四)) と述べているように,蓑世凱 と張之洞の政治的役割, とりわけ蓋世凱の役割 を非常 に高 く評価 していた。 しか し,蓋世凱が軍機大臣を罷免 され ると,大朝 は,

吾人 は北清事変前後 より殆 ど十年の久 しき親 日派の‑政治家 として,陽 に陰 に両国の 親善敦交 に覗めたる蓑世凱氏の失脚 を悲 しむ と共 に,新 に起 りたる新勢力 も亦我が国 に取 り決 して不利益 なるものに非 ざるを喜ぶ。吾人 は蓑世凱氏が今 日の境遇 に対 し満 腔の同情 を表 し,其 の捲土重来の 日のあ らん ことを祈 るものなれど,我が外務当局が 当面の方針 としては,今後既死の人 に鞭 ちて両国の事を謀 らんよ りも,新 なる権勢家 と其手 を握 り,従容事を処す るの勝れ るに如かず。 (明治41(1908)年12月26日,「局 面一変」)

,

「親 日派」であ ったとみな していた蓑世凱を 「既死の人」 と して一掃 し去 り,「新 なる 権勢家」である摂政王載濃 と手を握 るよ う外務当局 に訴えているのである

さらに大朝 は,1909年8月31日の記事 「北京政界指摩」(下)で,「満漢種族の兄を棄て, 漢人に授 くるに満人偏用の口実を以てせざ らん こと,是れ摂政王の熟慮を要す可 き所 とす。

吾人は蓑の起用説 に不賛成 なるは勿論,其の漸次 に慶邸一派の異分子を淘汰 し尽 して政権 の帰一を図 り,然 る後徐 ろに内治外交の改善刷新 に従事せん ことを切望す。」 と,摂政王 政権が強化 され ることを願望 している ここには清朝の実権を握 った勢力を支持 し,清朝

(5)

清末 の国会速開請願運動 と日本 の ジャーナ リズム 19

の存続 を擁護 す るとい う大朝 の姿勢 を見て とることがで きる

なぜ大朝 は中国 に対す る外交政策 と して清朝 を支持 し擁護 しよ うと したのであろ うか。

光緒帝 と西太后が あいっ いで死去 した直後, 日本が とるべ き中国政策 と して,大朝 は次 の よ うに主張 して い る

今後 の北京外交界 は最 も世界 の注 目を引 くに至 る可 し。此 の際 に於 ける我が国の態度 と して は謂 ふ迄 も無 く, 同盟国 た る英国 と共 に, 日仏, 日露両協約 の趣 旨に基 き,徹 頭徹尾清国境土 の保全 と利益均等 とを尊重 し,清国の内乱 を未然 に防止 して,両宮崩 御 よ り生 ず る政局 の変動 を能ふ丈 け小範囲 に限定す るに在 るのみ。 (明治41 (1908) 1118日,「北京政局如何」)

中国をめ ぐる東 ア ジアの国際情勢 と日本 の地位 につ いて,大朝 は,すでに1907年10月9 日の記事 「東亜局面大観」 において, 「ボー ッマ ウス条約以後, 日英新 同盟, 日仏協約, 日露協約 に由 りて三重 四重 に保証せ られた る我が国の韓 国 に於 ける保護権,満州 に於 ける 勢力圏 は最早確固不動 の地 に達 したた るを以て,此 の上更 に屋上屋 を架す るの必要 な く, 今後 の施設 は全 く自由の手腕 を揮 ひ得 るに似 た り」 と述べてい るよ うに, 日露戦争後,獲 得 した条約上 の権利 は, 日英 同盟, 日露 ・日仏協商 によ って保 障 されて いるとい う認識 を 保持 して いた。 したが って, これ らの条約上 の権利 を承認 した清朝 の存続が望 ま しい こと

は当然 の ことであ った。

とはいえ,大朝 は,1908年 723日の記事 「対清政策 と現 内閣」 において

,

「吾人 は桂 首相 の所謂清国 に関 して は関係列国の共 同,若 くは連合 を形成す るに在 りと謂 ひ, 日,莱, 仏,露諸協約 の活用を図 りて,対清政策 の根本 を定 む といへ る真意義 の,那辺 に在 るやを 解す る能 はず」 と桂 内閣の中国政策 を批判 し,「必ず しも列国 と一致 の行動 を取 らず とも, 清国の領土保全 と門戸開放 の根本政策 に背馳せ ざる限 り, 日本 は 日本 の立場 よ り,今少 しママ

く積極 的 に, 清国 との関係 を蜜 にす るの急務 た るを信 ず る ものな り。」 と 「積極 的」 な中 国政策 を推 し進 め るよ う主張 して いた。

このよ うに大朝 が 「積極 的」 な中国政策 を主張す る背景 には,

清国官民 が近時我 が国 に対 し一種面 白か らざる反感 を懐 き来 り,北清事変後折角両国 間 に成立 し居 た る相互友情 の漸次冷却 しっつ あ るは,吾人 の 日清両 国の為 に最 も遺憾 とす る所 な り 清国の我 が国 に対 す る反感 の満州問題 に関聯せ ることは争ふ可 くもあ らず。 (明治41年 (1908) 2月28日,「日清間の友情」)

とか,

北清事件 よ り日露戦役 当時迄清国 と最 も親善 な り し我が国 は, 日露講和 の結果南満州 に於 ける露国政府 の既得権継承以来,露国が嘗 て清国及 び列国 よ り過 され居 たると同 一 の難局 に立 ち,家譲 りの財産 と共 に債務 を も譲 り受 けた るやの感無 さに非ず。為 にか 清国官民 の反感 を活 ひ,国嫉視 の的 とな り,離 間中傷至 らざ る無 く, 日清両国の関 係 を して益相撲離 せ しめん とせ るは遺憾千万 と謂ふ可 し。」 (明治42 (1909年)4 17日,「清国 の対列国態度」)

と述べてい るよ うに, 日露戦争後, と くにポーツマス条約 で 日本が獲得 した 「南満州」で の権利 をめ ぐって,反 日感情 が強 ま り, 日清関係が悪化 してい るとい う現状認識があ った。

そのため大朝 は,

日清両 国民間 に於 ける交情 の親善敦睦 を図 らん とす るには,清国人 を して我国の対清

(6)

政策が侵略的性質を帯ぶ るものに非 ざるを確信せ しむると同時に,個人 と個人 との交 際に於て も, 日本人の方 より今少 しく清国人に対 し,尊敬の意を加へん ことを要す。

(中略) 日清戦役当時 に行 はれたる俗謡の如 きは,一切之 を口に上すを休め,小学児 童等 に対 して も清国人の親 しむ可 く敬す可 き所以を訓諭 し,漸 を以て 日清両国民問の 感情 を滞然 た らしめん ことを希望す。 (明治41(1908)年6月24日,「清国人を礼遇せ

よ」)

と, 日清両国民が感情 の融和を図 るよ うに努めることを提唱 している しか し,「清国人 を して我国の対清政策が侵略的性質を帯ぶ るものに非 ざるを確信せ しむる」 ようにす るの は至難の業であ った。

その一方で,大朝 は,「世界の大勢上, 日清両国の親善 なるべ きは,近 四十年来の歴史 の実証す る所 に して,清国 は最早十分 に会得すべ き筈なるに,今 に至 り我が国に対 し楯突 くは其 の何の意 たるを解せず」 (明治42(1909)年8月8日,「安奉線 の任意改築」)とか,

「然れ ど も恩へ,清国 は自力 にて満州を維持 し得 たるか。若 し我が国の侵入なか りせば, 今 日は如何 なる状態 な りしゃ も計 り知 るべか らず。我が国は東亜局面の維持上,清国を助 けて満州の開発 に努力をす るのみ。此の理 は日露戦争当時既 に理解 された筈。」 (同前) と 述べているように, 日清戦争以後, とくに日露戦争で 日本が獲得 した条約上の正当な権利 を,中国人 は理解 しようと しない し,遵守 しようともしないと強 く非難 しているのである。

このよ うに大朝が提唱 した 「積極的な」中国政策 は,中国の官民 の反 日感情が醸成 されて いることを認識 しっっ も, 日本が獲得 した条約上の権利 は確保すべ きであると主張す る点 で ジレンマに陥 っていたのである

2.国会速開請願運動 に対する大朝の見解

1907年夏,国会の速閲を求 める請願書があいっいで提出され,翌年 9月 には預備立憲公 会や憲政公会等の立憲団体が呼びかけた国会速開請願運動が展開 した ことについては前述 した。今回の国会速開請願運動 は1909年9月に成立 した諮議局の主導 によ って提唱 され推 進 された。 その主張 は1917年 に国会を開設す るという 「九年預備逐年遂行等備事宜」 に基 づ く憲政実施プ ランでは,中国の内外の切迫 した事態を打開で きず,設立が予定 されてい る資政院は国民の代表機関ではないとして,国会の早期開設を求めるというものであった。

請願運動の発起人 は江蘇省諮議局議長 の張害であ り,江蘇省諮議局が全国の諮議局 にむけ て1909年12月中旬に代表を上海 に派遣 し,連合 して国会速閲の請願を推進す るよう呼びか

この呼びかけにこたえて上海 に集 まった各省代表が,12月18日か ら25日にかけて予備会 議をお こない原案をまとめ,27日に正式会議を開いて,請願書 に署名する者 は諮議局議員 に限 ること,請願書の筆頭署名者を直隷省代表の孫洪伊 とす ること,都察院に代奏を請願 す る者 は北京 に赴 く代表者 とす ること,代表団の幹事4人を推薦す ること等を決定 した。

翌 日にも各省代表による談話会が開かれ,請願代表 は1910年1月11日までに北京に到着す ること,請願代表を後援す るために 「請願速開国会同志会」 を組織 し,会員 は諮議局議員 に限 らず,請願 に署名 した人を会員 とす ること,連絡のための 「総機関」を上海 に設置す る こと等 を決めた。 さらに12月30日に も会議を開 き,2年以内に国会を召集す ると決めてい た請願要求を,来年 に国会を召集 し,速やかに議院法,選挙法 を定めることに修正 した。(3)

(7)

清末 の国会速 開請願運動 と日本 の ジャーナ リズム 21

か くして北京 に赴 いた請願代表たちは,1910年 1月16日に国会速閲の請願書 を都察院 に 提 出 したが, 1月30日,清朝 は請願 を却下す る上諭 を公布 し,第一次国会速開請願運動 は 失敗 した。

このよ うな経過で始 ま った国会速開請願運動 につ いて,大朝 の報道 は,1909年12月31日 か ら始 まっているが,翌年210日まで は北京ない し上海の特派員か らの電報記事だ けで, 内容 も極 めて簡単 な ものであ った。 この ことか ら,国会速開請願運動が上海で始 まった当 初,大朝 はその動 きをあま り重視 していなか ったよ うに思 われ る。

しか し,1910年2月10日に掲載 された記事 「清国の国会速開運動」 は,第一次国会速開 請願運動 の由来 と経過 をかな り正確 に報道す ると同時 に,次のよ うに国会速開請願運動 に 対す る大朝 の見解 を提示 していた。すなわち

各省請願代表者 よ り鏡 ひ幾 たび同一建議文を逓呈す とも,其の 目的を達せん こと,恐 くは不可能 なる可 し。清延が国会開設 の順序 と して,昨年先づ各省諮議局 を開 き,本 年 内国会の変態 ともいふ可 き資政院を開設す ることと して,官吏及 び国民 の立憲思想 を養成す ることに努 め,一面立憲予備事項 を九箇年 に割 り当てて,憲政 の運用 に遺漏 無か らん ことを期 しつつあるは,最 も注意深 き方針 にて,吾人 は寧 ろ清延の九箇年説 が清国の現状 に適応せ るもの と確信す。

と,国会速閑の請願 は成功 しないと断言 し,清朝政府が提示 している9カ年 による憲政準 備 プロセスを現状 に適 した もの と評価 し支持す る立場 を表明 していたのであ る すでに指 摘 したよ うに,1908年9月3日の記事 「清国憲政問題」 で,大朝 は9年後 に国会 を開設す るとい う憲政 プ ランを批判 していた。なぜ大朝 はこのよ うに見解 を変更 したのか。確かに,

2月10日の記事で も,「今後貸す に八簡年 の歳月を以 てす るも,果 して立憲国 たる可 き準 備 を完成 し得可 きゃ否や,実 は気づか は しさものな り」 と言及 しているが, それ は主要 な トー ンではな くな っていた。今 のところ, その要因を把握 しかねているが,2月10日の記 事で大朝 は,次 のよ うに主張 していた。

清国の国論 の趨勢特 に外交問題 に関す る論議 の如 きは,頗 る危険千万なる兆候 を示 し 居れ り 此 る国論が国会の議決 とな りて直に事実 に顕れ来 る如 きこと 、もな らんには,マ7 清国 は国会を開 き しが為 に却て国勢 の帖危を招来す るに至 るや も謀 られず,各省諮議 局 も昨年 は幸 ひに して無事 に経験せ Lとは云へ,‑箇年 の経験 にて は末だ其 の成績の 良否を軽断せん こと難 く,先づ五六箇年間 は国会の下稽古 と して,本年開設せ らる可

き資政院の経過 を見たる上 の ことと為す方万全なる可 し。

当時,鉄道や鉱 山の利権回収運動や アメ リカや 日本の商品ボイコ ッ ト運動 に見 られ る中 国民衆 のナ ショナ リズムが高揚 して いた。 そのため大朝 は,1909年9月 に開設 された諮議 局が,利権回収運動 に関与 して外交問題 に発展 しないか と懸念 していた。 しか し 「昨年 は 幸 ひに して無事 に経験せ し」と述べているところか ら,大朝 は諮議局の活動 を一定程度評 価 し,中国の国民が政治能力,立憲思想 を高 めたと判断 した もの と思われ る この ことは, 同 じ記事 で,大朝が, 「抄 くとも当局 を して立憲予備速成 の必要 を感ぜ しめ,同時 に国民 一般の政治思想 を も滴養 し得 たる可 ければ,其の憲政促進 に稗補す る所抄少 な らざ りLは, 吾人の認 めざ らん と欲す るも能 はざる所 な り」 と第一次国会速開請願運動 の役割 と意義 を 認 めているところか らも指摘で きそ うである

さて,第一次請願 に失敗 した後,北京の請願代表団 は,全国各地 に 「請願速開国会同志

(8)

会」の結成を呼びかけ,商会,教育会,立憲団体,華僑等にも請願運動に参加す るよう促 し,6月16日に諮議局,商会,教育会,華僑等か ら提出された10の国会速閲の請願書が都 察院に提出された。 この間,大朝には請願運動の動向についての記事 はほとん ど掲載 され ていな

い。

6月5日にな ってや っと第二次国会通関請願運動の記事が掲載 され,6月16日 の 「北京電報」で,「国会請願 は第一回の際 と異 な り,代表団体の請願 も多 く,代表者 も 百五十名を算 し,一致行動の上 に多少意見の衝突 あ りたるも,十四 日各団体の意見書の列 次定 まり,十五 日の会合にて各代表者調印をな し,十六 日都察院 に提出す るに決定せ り。」

と,第二次請願が決 まったことが報 じられているにす ぎない。

そ して6月27日に請願が却下 され,第二次請願が失敗す ると,大朝 は7月2日の 「国会 速開運動 の不成功」 とい う記事で,

清国国民の現状 よ り云 は ヾ,之を八年後の準備整頓後に於て,開設す るが先づ以て無 難なる可 し。吾人 は本年二月十 日の紙上 に論 じ置 きたる,意見を変改す るの新理由を 見出す能 はず。今後各省各団体の代表者等が,如何 なる運動方法 に出づ るやを知 らざ るも,清延の怯 と難 も恐 く一部国民の示威運動 に脅かされて,遠に国会開期を短縮 し, 其の言 を二三 にす るの愚を為 さざる可 く,局外者 よ り公平 に見たる所 にて も,国会速 関 といふが如 きは,到底不可能事 たること謂ふ迄 も無 きことな り

と論評 した。見 られ るよ うに,第二次国会速開請願の失敗 に対す る大朝の見解 は,上述 し た2月10日の評価 と基本的に変わ っていない。第二次請願が 「各省各団体の代表者九十二 名,打揃 ひて都察院 に出頭 し,全国民三十万人の署名調印せ る請願書」 (同前) を提出 し たと,第一次 に比べて第二次請願運動がかな りの広が りをみせた ことを報 じているけれ ど も, この記事が強調す るのは,請願運動の広が りではな く,「一部国民の示威運動」 によっ て清朝政府 は国会の開期を短縮す るとい う 「愚行」 をなすべ きではな く,「清国民 の為 に 謀れば本年閲か る可 き資政院を以て,姑 く民論の代表機関た らしめ,隠忍含垢徐 ろに国会 開設期の至 るを待っ可 し。」 とい う提言 にあ った。 ここにわれわれは国会速開請願運動が 諮議局議員 による運動か ら,商会,教育会,立憲団体,華僑等を含む運動へ と広が ったこ

とをほとん ど評価 しよ うとしない大朝 の姿勢を兄 いだす ことがで きるであろう

ところで,清朝 は6月27日の上諭で,「再 びみだ りに請願を行 って はな らない」 と請願 運動 に対す る厳 しい姿勢 を示 した。 このよ うな厳 しい清朝の対応 に対処す るためには,国 会の速関が 「輿論」であることを見せつ けねばな らないと自覚 した第二次請願運動 に参加 した代表 たちは,630日の会議で来年 の旧暦2月に第三次請願 を行 うことを決めると同 時に,北京の請願代表団の規模を拡大 し,国会請願同志会の地方組織 を強化 して請願運動 をより全国的な運動へ と発展 させ ることを決定 した。(4)

このよ うな北京の請願代表団の動 きを,7月4日の 「北京電報」 は,「国会請願代表者 は請願不成功の結果,一時激烈なる方針 を執 らん と提議せるものあ り,温和派 は納税拒絶 の挙に出でん と主張す る者 もありLが,遂 に既竃の如 く代表団の一団を堅固の ものとな し, 団の規則を制定 し,十人の幹事を挙 げた り 代表者等 は一旦帰国 し,幹事のみ再度入京 し, 第三次請願 に努力す る由。」 と報 じた。 しか しその後,大朝 には請願運動 が どのよ うな

「努力」 を し,運動 を拡大 したのか についての記事 は見 られない。大朝 は地方での国会速 開請願運動 の動 きにほとんど関心 を寄せていなか った。

ところで,1911年の旧暦2月に予定 されていた第三次の国会速開請願を早めさせたのは,

(9)

清末 の国会透 間請願運動 と 日本の ジャーナ リズム 23

1910年7月4日に調印された第二次 日露協約 と8月22日に調印された日韓併合条約であ っ た。大朝の8月27日の 「北京電報」 は, ママ

国会請願代表団 は日露協約 に対 して調査す る所 あ りLが,今度 ひ左の質問書を外務部 に提出せ り

,外務部 は日露協約を既 に承認せ Lや否や。

,新協約がポーツマス条約の主意 に違反す る点 に就 き, 日露両国に質問 し正式の 回答を要求せ Lや。

三,此の協約の施行 に対 し支那 は如何 なる方法を以て対抗すべ きや。

更 に代表団 は機関新聞を以て国会速閑の必要を呼号 し,第二次請願失敗後の沈黙を破 り,漸 く活動を始めた り

と報 じていたが,請願代表団が政府 に質問状を提出 したのは,第二次 日露協約を 「満州を 分割す るための攻守同盟」 ととらえ, 中国の存亡 にかかわるとみな したためであ った。(5)

このように 「北京電報」が請願代表団の意図をあいまいに して報 じたのは,第二次 日露協 約 について,大朝が 「其 目的 とす る所 は1907年730日附けにて締結せ られたる, 日露協 約の定むる主義を誠実 に保持 し,且極東 に於 ける平和の確保の為,該協約の効果を拡張せ ん とす るに在 り。 (中略)協約中には何等清国に対す る圧迫的意味を も含まれ居 らず,満 州の現状を稚持尊重す可 Lとの文意 は,寧 ろ清国領土の保全を意味す るもの と解釈す るを 妥当 とす。」(1910年714日 「日露新協約発表」)との見解を表明 していた ことによるも の と思われる。

しか し,831日の 「奉天通信」 (810日,佐藤生) は,第二次 日露協約が中国の官 民 に民族的危機を深めるものであると危倶 されていると,率直に報 じている

日露協約の成立 に就ては北京の中央政界 は勿論各省官民 と難 も皆 な危幌 の念 に襲 はれ つ 、あるは疑ふべか らざる事実 に して,殊 に問題の当路 にある東三省官民 にあ りては 更 に甚だ しさものあるは言 を挨たず。然れ ども此等東三省官民 は該協約 に対 して果た して如何 なる解釈を下 し,如何 なる程度の疑惑 に陥 りつ 、あるか,是れ吾人の最 も知 らん と欲す る所 なるが未だ画一せ る観察を得 る事能 はず。

このように,第二次 日露協約を 「清国の領土を保全す る」 ものであるとい う立場を強調 す る大朝本社の主張 と,それに 「危幌の念」をいだいている中国人の動向を報 じる大朝の 現地記者の記事 との間には矛盾が露呈 して きていると言えるであろう

つ ぎに日韓併合 について,大朝 は,「地理的関係 よ り見 るも日韓両国の合併 は極 めて 自 然 な り」(1910.8.29),「日本が朝鮮 を併合せざるべか らざるは,地理的及 び人種的関係 に於て二千年来の宿題」(1910.9.1)等 と,積極的に韓国の併合を支持す る見解を表明 し ていたが,韓国併合を中国の新聞が どのように報 じているかについて,1910年96日の 記事 「韓国併合 と清国」 は,次のように述べていた。

支那新聞の論調を見 るに,北京 日報 (米国の機関紙)を除 く外 には,我が国の韓国併 合に反対せ しもの無 く,何れ も必然の結果 として之を公認 し,同時に前車の覆 るを以 て後車の戒めと為す可 く,清国の如 きも其の未だ亡 びざるに先だちて,宜 しく富国強 兵の途を講ぜざる可か らず とし,一部革新派 は之を利用 して,国会召集の期を短縮せ ん ことを主張 しつ 、あるもの 、如 し。 (中略)韓国併合に対 して は表面清国人の反対 無 きも,其実不安の情 を懐 き居 るは争ふ可か らず。 (中略)只我が国の韓国併合を以

(10)

ママ

て,満州侵略の準備 な りとよ うに解す るは宜 しか らず。

見 られ るよ うに, この記事 は,中国の新聞が韓国併合 につ いて,北京 日報以外 には 「反 対せ しもの無 く」 と言 いなが らも,「表面清国人 の反対無 きも,其実不安 の情 を懐 き居 る」

と中国人 の真情 を伝えてお り, 日本の韓国併合が与えた影響 を坊横 とさせ る内容 となって いる

さ らに8月29日の 「北京電報」 は, 「合併条約 の内容伝 は りて二十七 日の当地新聞多 く 之 を訳載 し漸 く日本反対 の気焔高か らん とす るの形勢 あ り。」と報 じていた し,9月22日 の記事 「錫督 の満洲新経営」 も,「清国政府及 び東三省督撫が, 日露協約締結及 び 日本 の 韓国併合を以て,直に満州侵略の準備 なるかの如 くに心得,急起 直追東三省 の軍備其 の他 に莫大 なる経費を投 じ, 日露 に対す る控制 を云 々せん とす る」 と報 じているよ うに,第二 次 日露協約 と同様 に, 日韓併合 において も,大朝本社 の見解 とは異 な る中国特派員か らの 記事を掲載せざるをえないほど,中国の官民が反 日的にな って きていると言え るであろう なお9月6日の記事 「韓国併合 と清国」 は, 「一部革新派 は之 を利用 して, 国会召集 の 期を短縮せん ことを主張 しつ 、ある もの 、如 し」 と日韓併合が請願運動 に影響 しているこ とを認 めていた し,10月30日の 「北京電報」 は,錫良東三省総督 をは じめ とす る督撫が適 合 して国会速閲 と責任 内閣の樹立 を要求す る上奏 を行 った ことに対 して,「斯 く督撫 を動 か して此 の言 あ らしむ るに至れ るは国会代表団が 日露協約,韓国併合 を口実 に亡国を呼号

したる結果な り」 と主張 している

上述 したよ うに,第二次 日露協約 と日本の韓国併合を正当化す る大朝 の見解 とは裏腹に, それ らが中国の官民 に民族的危機 を一層 自覚 させ,国会速開請願運動 を盛 りあげる要因 に な っていることを大朝 は時間の経過 とともに認 めざるをえな くな っているのである

か くして第二次 日露協約 と日韓併合条約 の調印が きっかけとな って,第三次国会速開請 願 は時期を早 めて1910年10月 は じめに行われ ることにな った。

第三次国会速開請願運動 は,①開設 された資政院に国会速関の請願書 を提 出 し,資政院 か ら請願す る方法,②請願代表団が摂政王や慶親王実軸等 の軍機大臣に直接請願す る方法,

③国会速開請願同志会をは じめ とす る諸団体が結集 して督撫 に国会速関の代奏 を要請す る 方法, とい う3つの方策が とられた

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大朝 の報道 の中は① に置かれて いた 10月3日の記事 「資政院開院」 で大朝 は,「吾 人 は資政院の出来栄如何 に掠 り,国会開期の遅速併 に清国将来の運命 を 卜す ることを得可 し。資政院議事 に附せ らる可 き問題 中,尤 も重要 に して且議論 の盛 に起 る可 Lと想像せ ら るるは,予算案 と国会開期短縮問題 なる可 し」 と,10月3日に開院 された資政院において, 国会速閲をめ ぐる問題が最 も重要 で最 も紛糾す る議案 となるであろ うと予測 していた。

ところが,国会速閑の議案 は,10月22日, 予測 に反 して資政院で満場一致で通過 した。

そのためか,10月23日の 「北京電報」 は,「二十二 日最後 の議案 に して会議 に附せ らるる や, (中略)‑ の討議 も無 く賛成演説 は皆拍手 を以て送迎せ られ,一人 と して政府 の意轡 を探 るものす らあ らず,大問題 は僅か に半時間を以て満場総起立 にて解決 し」 たと報 じた 後で, 「余 は此 の‑ の討議無 くして雷同的 に大問題 を決す るを見, 多少の危険の念 を生ぜ り」 と資政院での議決 の仕方 に苦言 を呈 してい る さ らに10月25日の 「北京電報」 は,

「今度 の事 の如 きは何人 も予期せ ざる所,清岡の事 々物 々常識外れな るは,其 の局 に在 る 清国人す ら意外 とす る所,今後の変化 も俄 に推断 し難 し。只満場一致 の可決 は従来一地方

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活末 の国会速 開請願運動 と 日本 の ジャーナ リズム 25

に於て国会通関に対す る賛否未定者 を刺激 し,地方 の国会熱 を して一層勢 ひを増 さ しむべ し」と,資政院 における国会通関案の満場一致 の議決が地方 における国会速開運動 を勢 い づ けるであろ うと予測 して いる。

さて,資政院か ら国会速関の請願書 の上奏を受 けた清朝 は,11月4日, 予定 よ り3年早 めて宣統5年‑1913年 に国会を開設す るとい う上諭 を公布 した。 これに対 して,大朝 は11 月7日の記事 「国会開期短縮」おいて,

吾人が国会速閲を不可 とす るの意見 は今猶昨の如 く,第一次 に換発せ られた る上諭の 精神を一貫 し,飽 く迄九年説 を主張す るものなれ ど,速開派の主張が穏当な りや否や は別問題 と して,既 に国政諮問府 たる資政院の決議上奏文 とな りて顕 はれ来 りたる以 上,重ねて之 を排斥 し徹頭徹尾民意 に払戻せん ことは,思ふに政府者の為す能 はざる 所 なる可 く,折角憲政 に熱中せ る国民 の政治思想 に‑頓挫 を来す ことともな る可 けれ ば,国会開期短縮 は巳むを得 ざる変通手段 と して,吾人 は寧 ろ摂政王殿下が此 の次の 英断 に出で させ られたるを多 とす るものな り

と述べているよ うに, これ まで国会速関 に反対 して きた主張を引 っ込 め,清朝が国会開設 を3年早 めた ことを 「己むを得 ざる変通手段」 とみな して支持す るに至 っている すでに 論及 したよ うに,第二次国会速開請願運動が失敗 した際,72日の記事 「国会速開運動 の不成功」 で大朝 は, 「清延の憶 と難 も恐 く一部国民 の示威運動 に脅か されて,遠 に国会 開期を短縮 し,其 の言 を二三 にす るの愚 を為 さざる可 く」 とコメ ン トしていた。 そのため この記事 のよ うに, 資政院が決議 し上奏 した こと,「折角憲政 に熱 中せ る国民 の政治思想 に‑頓挫 を来す こと」 になるためであると大朝 は弁明に努 めて いる。 しか しこの弁明の主 調 は,摂政王 の 「英断」 に置かれている ここに中国の国民の政治能力,立憲思想が向上 したことを正 当に評価 しよ うと しない,換言すれば国会速開請願運動 の役割 を率直 に認 め よ うと しない大朝 の姿勢 を見出す ことがで きるであろ う

なお この記事 は,9年で行 うべ きことを6年 でや らねばな らな くな ったのであるか ら, 官民 ともに,「一意立憲予備 に,従事す ること尤 も肝要 なる可 し」 と提言 しているが, こ の提言 は今度 の上諭で清朝が強調 していた ことで もあ った。 さ らに同記事 は,「此 の上 の 短縮 は断 じて許容す可 きに非ず」 と言 うよ うに,すでに国会速開問題 は決着 した と捉 え,

「吾人 は国会開期 の短縮 よ りも,責任 内閣の樹立 を以て,清国当面 の急務 と し,且其 の影 響す る所 も亦大 なるものある可 きを信ず」 と,今後 の課題 は責任内閣を樹立す ることにあ

ると主張 して いるが, この点 も清朝 の主張 と一致 していた。

しか しなが ら,大朝 の予測 どお りに国会速開問題が決着 し,請願運動が収束たわ けでは なか った。国会 の開設 を3年短縮す ることを約束 した11月4日の上諭 において,清朝 は同 時 に国会速開請願代表 たちの北京か らの退去 と請願代表団の解散を命 じた。 そのため北京 の請願代表団 は解散 したが,請願運動 を推進 して きた勢力 の内部 に亀裂が生 じ,宣統5 (1913)年 の国会開設 を受入 れ るグループ と, あ くまで国会 の速閑を求 めるグループ とに 分裂 してい った。

11月4日に清朝が公布 した上諭で,国会速開問題 は決着 した と判断 した大朝 は,11月14 日の記事 「清国民論 の昂張」で,

今 日のま \に推移 し行かんには,清国 は未だ国会開設を見 るに至 らず して,官民間の 大衝突 を惹起す可 く,縦 ひ土耳古 の如 き或 は波斯 の如 き, 内乱 を招 くに至 らざるまで

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も,為 に憲政施行 に向 って,‑頓挫 を来すが如 きこと無 しとも限 られず。清国の為 に 謀れば政府 も国民 も成 る可 く抑制 して相互間に調和 を図 り,和気諸々の問に立憲政体 の樹立を期す るを利益 とす。民論の昂張其の度を過 ぐるに於ては,清国の運命は之が 為 に却て危険を来すに至 る無 さを保せざる可 し。

と,清国が憲政 を実現 してい くためには官民の調和が大事であ り,国会速開請願運動の継 続 は官民 の対立 ・衝突 をまね きかねず,「民論」 の過度 な高 ま りは抑制 しなければな らな

い,すなわち国会速開運動 は もはや行 うべ きではないとの主張を重ねて表明 した。

このような大朝本社の見解 の影響 を受 けたのであろうか,1120日の 「北京電報」 も,

「目下湖北,満州等 にて多少速関の運動 あるも以後平穏 に帰すべ き模様 な り」 と,国会速 開請願運動 は沈静化す るとの楽観的見方 を していた。

しか し大朝 の予測 に反 して,第四次国会速開請願運動が東三省や直隷省を中心 に展開 さ れていった。大朝 は東三省, とくに奉天省での動 きを詳細 に報道 している

12月5日の 「奉天電報」が

,

「第四回国会速開請願 に関 し奉天諮議局, 自治会,教育会, 商,農等各団体 は二 日又諮議局に会議 し最後の決議 をな し愈実行す るに決定 し,請願書起 草委員三名を挙 げ,六 日総督 に向ひ請願書代奏を迫 る筈」 と報 じているように,奉天省で の第四次国会速開請願運動 は,諮議局の主導 によ り,商会,教育会,農会等の法定団体, さらに学生等が結集 して展開 され,12月6日には東三省総督錫良 に請願代奏を求める大規 模 な示威運動が行われた。12月7日の 「奉天電報」 は 「狂熱の速開運動」 と題 して,次の

ように,その様子を伝えている

奉天全省人民の第四回国会速開請願運動 は六 日挙行せ られた り,此の日御前十時諮議 局,教育会, 自治会,農商団体,各府県代表者等約一万余人 は国会請願 と血書せ る数 流の旗を先立て隊伍整然 と総督府門前 に押寄せ来 り 諮議局議長 は先づ各団体代表者 六十人の署名せ る請願書 を総督 に差出 し一週間内に代奏せむ ことを請求せ り,又群集 は門前 に脆坐働芙する事殆 ど二時間に及べ り 総督 は遂に自ら出でて極力解散を諭 し, 且つ日 く,国会の事 は既 に過 日の上諭の如 く宣統五年の開設 は動かすべか らざる者 な

り, されど熱誠 なる全省人民の請願 は極めて重大 なる事 なれば総督に於て も十分其の 意 を諒 し熱心 に尽力す る所あるべ し。今其の代奏の可否 に就ては協議の上回答すべけ れば一時解散すべ Lと述べ,一同は総督の赤誠 に感涙 して解散せ り 奉天城内は各戸 国旗を掲 げて頗 る人気昂れるを見た り

見 られるように,12月7日東三省総督錫良への国会速関の代奏請願 は,諮議局や教育会 等の法定団体だけでな く,奉天省の各府県代表者 も参加 した 「奉天省全体人民 の請願」 と

いう形態を とった。奉天省での第四次請願が このよ うな形態をとったのは,114日の上 諭で国会速閲の請願を禁止す る命令が出されたために,清朝の発祥の地が 日露両国によ っ て侵食 され植民地化の危機 に瀕 しているのを救 うことが 「奉天省全体の民意」であること を明示す ることで,請願運動 の正当性 を訴 えた もの と考え られ る。(7'このよ うな 「奉天省 全体の人民の請願」を,大朝 は12月10日の記事 「清国人の熱狂」 において,

多年圧制 に苦みたる生民が,其の桂棺を脱せんが為 に国会開設を巽望せ るは,東西歴、1 史の一致す る所 に して,吾人頗 る其 の衷情を察す るも,余 り極端 の奇行を演 じて其の 熱心を装 ひ,以て第三者 の笑を買ふが如 きは,吾人隣邦興国民の為に取 らざるな り 且清国の国会通関の精神が,従来憲政を熱望せ し欧西の歴史に反 し,一種外政的意味

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清末 の国会通 関請願運動 と日本 の ジャ‑ナ リズム 27

を有 し,而か も偏見短視 の傾あるは吾人の卿か奇 とす る所 な り 故 に狂熟せ る国会速 開運動 に対 して も俄 に賛成す る能 はず。 (中略)今更の速開運動 は無効 な り 之 を知

りつ 、狂熱的態度 を演ず るは寧 ろ滑稽 に属す。

,

「極端 な奇行」であ り,「一種外政的意味」すなわち反 日的意図を もった ものとして痛 烈 に非難 した。 さらに同記事 は, 日本が 日清 ・日露の戦争 に勝利 し,朝鮮を併合 したのを 見て,「直に国会の賜 な りと速了す るは誤れ り 国力の充実,国威 の発展,皆内的蕗書の 結実な り」 と指摘 し,「吾人 は憲政 を以て文明の政治 と為す,而 も万能的利益 あ りとは認 めず。故 に清国に対 して も形式的国会 を閑かんより,寧 ろ内的藩蓄 に力め,其 の等備 の完 成を望む ものな り」 と主張 したのである

これ以後,大朝 には,国会速開請願運動 に関 して社説 に価す る記事 はな く,「北京電報」

「奉天電報」「天津電報」等の欄で,東三省 の国会速開請願代表者 たちの北京での慶親王 等軍機大臣への請願状況,天津の学生 たちの請願活動,清朝の第四次請願却下 と請願代表 者 の強制帰郷,奉天省での第五次請願運動等が報 じられ,1911年1月,請願運動の指導者 の一人であ った温世霜が逮捕 された ことを報 じた記事で,国会速開請願運動 に関す る大朝 の報道 は終わ っている

最後 に,奉天省での第五次請願運動 を報 じた大朝 の記事を取 り上 げておきたい。大朝 は 12月28日の 「奉天電報」 で,「奉天国会請願同志会 は (中略)飽 く迄請願を継続すべ Lと て省内各地 に通知 し第五回速開請願 の代表者を挙 ぐべ きを求め り」 と報 じ,1911年1月1

日の 「奉天電報」で は,奉天省の民政使 の禁止命令 によ って,「何等の抵抗 もな く運動中 止の通告書 を発 し,同志会を解散せ り 一般人民 も之 に対 し極 めて静粛 なり」 と,請願運 動が収束 したことを報 じている。国会速開請願運動が全国的な請願運動 として発展 した際, 国会請願同志会が大 きな役割を果た したが,大朝 はその動向をほとんど報道 しなか った。

それは大朝が北京の請願活動 には注 目 したが,地方 の活動 にはことさら関心 を もたなか っ たか らであろう。第四次国会速開請願運動が主 に奉天省や直隷省で展開 し,奉天省の活動 を大朝が注 目 したために,「同志会」 の活動が紙面 に報 じられ ることになった。奉天省の

「同志会」がどのように組織 され,活動 を していたのかについて,大朝 は論及 していない。

大朝が指摘す るように,第五次国会速開請願運動 は奉天省の行政命令でいとも簡単 に収束 したが,それは奉天省での第四次国会速開請願運動が 「省全体の人民の請願」運動の形態 をとっていたために,行政命令に従 って 「同志会」 は組織を解散 し,第五次国会通関請願 運動を中止 した もの と考え られる その ことは 「同志会」を中心 とす る運動主体が弱か っ

たことを も示 している 請願運動が終息す ると,大朝の紙面 は東三省で蔓延 したペス トの 記事で覆われ る。

おわ りに

以上,大朝を取 り上 げて, 日本の ジャーナ リズムが清末の立憲運動, とくに国会通関請 願運動をどのように報道 し評価 していたのかについて,初歩的考察 をお こな った。以下, 要点を整理 しつつ,若干 の問題点を指摘 しておきたい。

(1)大朝 は,清朝が1906年9月1日,預備立憲の上諭 を公布 して以後, その立憲政策 を支 持 してきた。ただ し,いっ憲政を実施すべ きかをめ ぐって,制度的準備 と国民の政治能力 ・ 立憲思想の育成 という視点か ら,大朝 は15年か ら20年 は準備期問が必要であろうと主張 し

(14)

ていた。 しか し,国会速閲の要求が高 まり,請願運動がおこると,清朝 は 「憲法大綱」 と

「九年預備逐年遂行等備事宜」を公布 して,9年後 に国会を開設す ることを明示 したため, 大朝 は早す ぎると批判 し反対 を表明 した。

その後,「九年預備逐年遂行等備事宜」 に基づ いて1909年9月 に諮議局が開設 され,請 議局の主導 によって1909年末か ら国会速開請願運動が展開された。第一次国会速開請願運 動が1910年1月16日,請願却下の上諭 によって失敗す ると,大朝 は清朝の立場を支持 し, 国会請願 は成功 しないと主張 した。 この とき,大朝 はそれまで主張 していた9年後 に国会 を開設す るのは早す ぎるとい う批判をひそかに取 り下 げていたのである。 さらに第三次国 会速開請願運動が全国的運動 として高揚す ると,清朝 は既定方針を変更 して,国会の開設 を3年間短縮 したが,大朝 はあれ これ と弁明 しなが ら,それを支持 したのである。 なぜ こ のように大朝 は自らの見解 を変え,清朝 の立憲化政策の変更に追随 したのであろうか。本 稿では, その主要な要因が,大朝が提唱 した 「積極的な」中国政策 にあったと考えた。

(2)清朝の立憲化政策, とくに国会速開請願運動 に対す る大朝 の基本点視点 には,憲政を 実施す るためには,国民がそれな りの政治能力,立憲思想を もっていることが必須である という認識があった。 この認識 に基づいて,大朝 は国会の設立 には15年か ら20年 はかか る とか,諮議局や資政院での経験を積み重ね ることが必要であると主張 した。

しか し,全国的な運動へ と発展 した国会速開請願運動が,国民の政治能力や立憲思想 を いかに向上 させたか とい う視点を大朝 はほとん どもっていなか った。確かに,第一次国会 速開請願運動の失敗を コメ ン トした1910年2月10日の記事 「清国の国会速開運動」 におい て,「砂 くとも当局 を して立憲予備速成 の必要 を感ぜ しめ,同時に国民一般 の政治思想 を も商養 し得 たる可 ければ,其 の憲政促進 に禅補す る所砂少な らざ りLは,吾人の認めざ ら ん と欲す るも能 はざる所 な り」 と述べているよ うに,大朝 は国会速開請願運動が国民の政 治思想を滴養 したと捉える視点を もっていた。 しか しその後 この視点 は継承 されなか った。

この ことは,第四次国会連関請願運動 は別 として,請願運動の報道が請願代表者 たちの北 京での活動が主であ り,地方での請願運動 の高揚 についてはほとんど報道 されなか ったこ

とと関連 していた。 この点が,大朝の国会速開請願運動 に対す る報道 の特徴であ り, また 問題点で もあった。

(3)第三次国会速開請願運動が予定を早 めてお こなわれ る契機 とな ったのは,第二次 日露 協約 と日韓併合条約の締結であ り,それ以後,請願運動 は反 日的色彩を強めた。 そ こには 日本の中国への進出, と くに東北地方が韓国の二 の舞 になるのではないか という危幌が強 まり,早 く国会を開設 して国の総力をあげて対処すべ きであるというナショナ リズムがあっ た。第二次 日露協約 と日韓併合条約の締結 を正当化 していた大朝が反 日的色彩を強める請 願運動, と くに奉天 を中心 に展開 した第四次国会速開請願運動 を厳 しく非難 し,「今更の 速開運動 は無効な り」(1910年12月10日 「清国人の熱狂」)と主張 したのは当然の論理的帰 結であ った。

日露戦争 に勝利 して獲得 した条約上の権利 は絶対 に確保 しなければな らないと主張す る と同時に,中国人の反 日感情 の増大を自覚 し,何 とか打開策を講 じなければと憂慮す ると ころに大朝の ジレンマがあ った。 「近数年来,清国人の手 になる各新聞が, 日本 に対 して 概ね不利益 なる記事を掲載 し, 日清両国の国交 に中傷 ・謹譲を試みっっあるが如 きは,吾 人の最 も遺憾 とす る所 な り」(1910年4月15日 「清国の新聞界」)と,同業 の中国の新聞が

(15)

清末 の国会速開請願運動 と日本 の ジャーナ リズム 29

対 日批判を強めているところに,大朝 は如何 ともしがたいジレンマを読み取 っていたにち がいない。

1 秋雲志 「論清末立憲派的国会請願運動

『中国社会科学』1980年第5期 ;葺慶遠 ・高 放 ・劉文源 『清末政治史』中国人民大学出版,1993年 ;侯宜傑 『二十世紀初中国政治 改革風潮』人民出版社,1993年 ;下修全 『立憲思想与清末法制改革』中国社会科学出 版社,2003年等。

2 秋雲志,前掲論文。

3 楠瀬正明 「二十世紀初期 における中国国会速開請願運動 (‑)

『地域文化研究』 ( 島大学総合科学部紀要 Ⅰ)第30巻 (2004年)。

4 同前。

5 「国会請願同志会幹事孫洪伊等為 日俄協約泣告国民書

『申報』1910年97日。

6 楠瀬正明 「二十世紀初期 における中国国会速開請願運動 (二)

『地域文化研究』( 島大学総合科学部紀要 Ⅰ)第31巻 (2005年)

7 楠瀬正明 「清末,奉天省の第四次国会通関請願運動」文部省科学研究費補助金 (基盤 研究 (B) (2))研究成果報告書 『アジアにおける地域 と地域間交流の史的研究』

(研究代表者植村泰夫)2000年。

<追記 >本稿 の作成 にあた り,長崎大学の大学高度化推進経費 「新任教員の教育研究推進 支援経費」をいただいた。 この場を借 りて篤 くお礼申 しあげます。

参照

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