はじめに
臨時教育会議の「大学教育及専門教育ニ関スル件」の答申を骨子とする
1918(大正 7)年の大学令
により,私立高等教育機関は大学に「昇格」していく(1)。大学令及びその施行規則である大学規程 には大学設立の認可要件が示されており,基本的な要件はおおよそ以下の四点にまとめることができ る。すなわち①大学は学部と研究科(大学院)とから構成し,さらに高等学校高等科(以下,旧制高 校)と同一水準の大学予科を置くことができる,②一定額の基本財産を供託すること,③教育研究に 必要な設備を整備すること,④一定数の専任教員を置くことなどであった(2)。こうした大学昇格の ための認可要件である資金・設備・専任教員の充足が,いかに当時の私学の実態からすれば厳しいも のであったかについては,各大学沿革史にその詳細が描かれている。この大学令は帝国大学と同じ位置づけをその他の官公私立大学に対して与えることとなった。さら に,帝国大学進学のための予備教育機関である旧制高校と同じ水準の大学予科が新設諸大学のほと んどに併設された。すなわち戦前の日本において,大学は,官・公・私立といった設置主体を問わ ず,その下の学校段階で全て何らかの意味における一般教養的教育を受けてきた学生を収容する制 度になっており(3),大学進学のための予備教育機関として,旧制高校や大学予科が設置されていた。
大学に進学するためには,基本的にこれらの教育機関を経なければならなかったのである。ためし に,その在籍者数をみてみると,たとえば
1930
年度の旧制高校(官立25
校,公立3
校,私立4
校)と大学予科(私立大学予科
24
校)の在籍者数をみると,旧制高校は18,278
人に対して,大学予科は20,058
人であり(4),大学入学予定者の半数以上が大学予科において大学予備教育を受けていた(5)。すなわち,大学予備教育の半数以上は私立大学予科が担っていたことになる。
本論文の目的は,大学令によって私立大学に設置された大学予科について,その教育理念の一端を 明らかにするために,個別大学の事例として
1920(大正 9)年に慶応義塾とともに最初に大学として
設立認可された早稲田大学の場合を考察することを課題としている。筆者は全体的な研究として,近代日本における大学予備教育の歴史的特質を青年期の教養教育とい う視点からアプローチし,大学教育のために,どのような意識の下で高等普通教育を行っていたのか,
またその教育内容はどのようなものであったのかを究明することを課題としている。
大学予備教育に関する先行研究の状況としては,旧制高校を対象とした研究に多くの蓄積がある
早稲田大学における大学予備教育に関する一考察
―
大学教育との関係に着目して
―山 本 剛
が(6),一方で同じ法的規定のもとで大学予備教育を担っていた私立大学の大学予科については,未 開拓な状況にあるといえる。これまで大学予科に関する研究としては,各大学予科の学科課程を類型 化し,生徒数や教員数等の実態を考察した二見剛史の研究があげられる(7)。しかしながら,それは 個別大学の教育内容やその理念についてまで深く考察したものではない。また近年,慶応義塾大学と 早稲田大学の大学予科に関して,旧制高校との比較をしながら,その修業年限,編制,学科課程の分 析をおこなっている江津和也の研究があげられる(8)。江津は,慶応義塾と早稲田を事例としながら,
大学予科の設置に関して大学昇格への認可基準に際しての財政的問題があったことや,大学予科は大 学の学生確保のための措置であったことを指摘している。加えて,両校の学科課程を分析しているが,
その発足時に学科課程の構想に独自性があったことを指摘しつつも,大学予科の教育理念に関する詳 細な考察,さらには大学教育と大学予科との関係,すなわち専門教育を受けるにあたっての大学予科 の位置づけについて,予備教育をどのように捉えているかについての考察は行っていない。また,早 稲田大学の大学予科設置構想時の教育理念や学科課程の詳細な考察を行った拙稿がある(9)。
本論文では,以上のような研究の状況を踏まえ,早稲田大学における大学予科の教育理念の一端を 明らかにするために,大学教育と予備教育との関係を同大学がどのように捉えていたのかを中心に考 察する。その際,大学予科設置から数年が経った
1937(昭和 12)年から 1942(昭和 17)年の教育審
議会において同大学総長田中穂積が大学予科について述べている発言に注目したい。1 早稲田大学の大学予科設置
既述したように,大学昇格のための要件として,大学予科の設置が求められた。それは旧制高校と 制度上同等であり,「高等学校令」及び「高等学校規程」等が適用された。早稲田大学は,1920(大
正
9)年に大学として設立認可され
(10),大学予科として,修業年限3
年の早稲田大学高等学院(以下,高等学院)を設置する(11)。大学昇格時の高等学院の設置構想や学科課程に関する考察は先行研究に あるが,ここでは本論文の理解を深める意味から同大学の大学予科に対する設置構想時の教育理念と 学科課程を確認しておく。
早稲田大学総長の高田早苗は,高等学院設置に際して,「政府で拵へたのは高等学校,此高等学校 の通りにやるのならば教育上人の真似をする丈けで何の味もない訳である」(12)として,高等学院は,
教育上の「一機軸を出すといふことがなければならぬ」と,創設当時を振り返ってその意気込みを述 べている。加えて,同大学の大学令実施準備委員会主査であった田中穂積も
1920(大正 9
年)の設 立認可に際して高等学院を「高等学校令」には準拠しながらも,「早稲田大学の予備門たるが故に,[ マ マ ]科
程に適切なる按排を加へて準備教育の徹底完成を期すると同時に,一面には早稲田大学の教旨に則 り,自敬自修,実力を涵養し,徳器を造就し,健康を増進し,剛健快活の気[ マ マ ]象を養成して善美なる学 風の発揚を計りたいと思ふ」(13)と,大学教育との連携において重要な位置を占める予科教育の構想を 明らかにしている。とりわけ,大学予科の名称を高等学校とせず,高等学院としたことも同大学独自 の予備教育を期したことのあらわれであるといえよう。
このように,その発足時に高等学院は「早稲田大学の附属であつて,其予備教育を施すところ」と して,同「大学に適応するために学科の配当その他に於いて,聊か斟酌を加ふるだけの権利を保留し て」(14)いると学長平沼淑郎も確認しているように,大学予備教育において独自の教育理念をもつ機関 として期されたのであった(15)。
2 旧制高校との比較
ここで高等学院の教育理念を検討するうえで,当時の同大学関係者が旧制高校や他大学の大学予科 をどのように考えていたのか確認しておく。
周知のように,旧制高校は
1918(大正 7)年の「高等学校令」により,その法令上「高等普通教育」
を施す機関であると規定される(16)。しかし,こうした法令上の規定はともかくとして,実際の旧制 高校は依然として大学の予備教育機関というのが実態であった。この旧制高校の現状に関しては,高 等学院関係者も認識しており,高等学校令施行時の
1921(大正 10
年)に初代高等学院長中島半次郎 は,次のように指摘している(17)。現行の高等学校令では,従来の如き細かな分科規程を廃し,之を文科と理科とに分ち,其文科に は理科的学科を入れ,理科には又文科的学科を含め,一般的修養を施すべき趣旨を明にしてはあ るが,併し此新規程に依るものと,従来行ひ来つた高等学校の教育とを比較して見ると実際は如 何程も違つて居らぬ。況して官公私立の大学に於て,始めより其予科として置けるものは,高等 学校令に依れりとは称するものゝ,事実は大学各部に進む予科教育に傾き過ぎて,一般的の修養 を施すという趣旨は徹底して居らぬ
このように,中島は旧制高校の教育は従来と変わらず,さらに他校の大学予科の実情についても,
「予科教育」に傾き過ぎており修養を施すという点でも十分とはいえないと批判している。とりわけ 旧制高校に関しては,同じく同大学教授の今田竹千代は「今日の高等学校は決して大学の予備校でな くして,それが自身独立の高等普通教育を授ける場所である」が,それは「形式のみであつて実際は 高等学校は全くの大学の予備校」であり,「高等学校を完成教育をなす場所と考へるものは恐く文部 当局に於ても皆無であらう」と批判し,生徒は「試験の為」に「大学の試験科目例へば第一外国語な どは一生懸命に勉強するが,他は余り顧みないと云ふ実情である」と,「大学の予備校」化している 旧制高校の実態を
1937(昭和 12
年)の時期にも指摘している(18)。すなわち,旧制高校が高等普通 教育の完成教育機関であるという制度上の建前と大学の予備教育機関であるという実態との乖離を指 摘するのである。3 早稲田大学における大学予備教育の理念
高等学院の学科課程編成は,法令上旧制高校と同様の高等普通教育を施すことになっていた。その ことは設立認可された学則をみても「高等普通教育ヲ授クル(第
1
条)」と明記されている(19)。学科 課程構想や実際の学科課程の詳細な考察は先行研究にあるので述べないが,高等学院では外国語など の大学教育のための基礎教育と考えられる語学の習得が重視されていた(20)。すなわち,早稲田大学 の場合,高等学院は「高等学校令」に準拠する高等普通教育の学科課程編成であり,とりわけ学部進 学のための準備教育としては外国語を重視していた。これは一見,学科課程の編成をみるかぎりでは 旧制高校とそれほどの違いはないものであった。しかし,既述したように高等学院設置構想時に同大 学は「早稲田大学の予備門」であることを強調し,「大学に適応するため」に大学独自の「準備教育 の徹底完成を期する」と述べている。したがって,教育理念についてなにか独自な予備教育に関する 理念があると考えられる。さらには,同大学の高等普通教育に対する考えはどのようなものであった のかも注目される。それでは高等学院を実際にどのように捉えていたのかを同大学関係者の意見に着 目する。ここで高等学院長中島は高等学院の教育をするにあたり「余りに大学の準備教育に傾くと分化と専 門とに流れ」,「博く眼を自然と人生との全体の上に放つ余裕を失はしめ」,「人物を機械的に一定の型 に鑄込む弊に陥り易くなるから務めて一般的の修養を為さしむる注意を要する」と大学予科の問題点 を指摘していることは注目できる(21)。すなわち,大学と大学予科との関係がともすれば大学教育の ための準備教育に傾き過ぎると,普通教育が軽視されると考えたのである。中島は,あくまでも大学 予科の教育では次のことを念頭においていた(22)。すなわち「自習自学主義の唱へらるゝに準じ,高 等学校及び大学予科にも暗記暗唱に没頭する代りに自習自学し,進んで独創的に考へしめ,型に入 るゝ代りに自己の長ずる所に従ひて自発的に自由に伸びしむる学風を盛んならしめねばならぬ」。さ らに高等普通教育と大学の準備教育の関係については,以下のように指摘している(23)。
一面には何處迄も高等普通教育を授けると云ふ精神を有ちながら,一面に於て十分の大学の基礎 教育を授けると云ふ考を持ちまして,動もすれば此高等普通教育を与へると云ふ事と大学の準備 教育を与へると云ふことは趣意が幾らか違ひ,隨つて其間に多少の衝突が起り易いと云ふ傾があ りまするに拘はらず,此学院に於きましては出来る丈け夫を調和して行きたいと云ふ考を有つて 居ります。
このように中島は,人物を機械的に一定の型にはめ込まないように「自己の長ずる所に従ひて」,
「自習自学」を中心とした学習で,「暗記暗唱に没頭」しない自由な学習を高等学院に期していた。そ して大学予科が高等普通教育と大学の準備教育の「衝突」に陥ることに注意して,それらの「調和」
をはかることを目指したのであった。すなわち,自学自習で人間形成をはかることが先の中島の言う
「修養を施す」ことであり,高等学院のめざした大学予備教育の理念とは,高等普通教育と大学準備 教育の調和であった。このことは同様に高等学院関係者にも一致した考えであり,大学予科の任務を 大学の準備教育だけで捉えるのは「浅はかなる考え」であるとした。さらに大学予科は旧制高校のよ うに大学進学にとらわれないという利点もあげて,「試験課目偏重,即ち文字通りの偏知教育」では ないとしながら,「その弊害から全く救われて」いることで,「大学に於ける専門学科の準備教育を懈 らぬと同時に他面に於ては特に教養教育に力を入れて,専門の大学教育を受けた人々が十分に之を実 用し得べき一個の完全なる人間となる素地を造るやうにしたい」としている(24)。
ところで,このことは後に検討するが,ここで「大学の準備教育」との「衝突」という大学予備教 育の陥りやすい点に留意していることも注目できる。それは
1919(大正 8)年の『教育時論』に掲載
された中島の「新学制実施に対する希望」をみても(25),「大学予科の教育が余りに早く専門化に傾か んとするを拒ぎ,以て十分な基礎教育を与え」るとして,「準備教育に傾く弊を避けねばならぬ」と,その考えを強調していることからも大学予科が学部の専門教育に左右されやすいことを懸念していた ことが窺える。
それでは,一方で大学の側では学部の専門教育と準備教育との関係について,どのような考えで あったのだろうか。
4 大学予備教育の意味
これまでみてきたように高等学院の教育理念は,先の中島らの主張からも高等普通教育の充実であ ることが確認された。同大学総長高田早苗は高等学院について,1924(大正
13)年に同学院生徒に
向けて行った講演の中で次のように主張している。すなわち「全体高等学院と言ふと何か大学予備校 みたやうなもので詰まらぬものの様に世間で考へて居る人が少なくないが,中々さうではない」と説 明し,大学の本体は高等学院の「リベラル,エヂュケーション」にあるのであって,「模範国民とな る修養をして大学に這入ってから,其上に専門学術を学ぶ」ために,「高等普通教育を行う場所とし て」の「予科である」と述べている(26)。先の田中穂積が高等学院は「早稲田大学の予備門」である と強調したように,大学と大学予科との一貫した教育意識の下でその教育を考えていたのである(27)。なお,ここでいう高田の「リベラル,エヂュケーション」とは,「予備教育と修養教育(教養教育)
と別けていつても課目」(28)はだいたい同じで,各課目を較べてみても「大した差別」はないが,「課 目を学ぶ心掛が違ふ」という。すなわち「其読む所の書物を将来上へ行つて学問をする時分に必要だ から,其読書力を養ふ一の器[ マ マ ]械に過ぎないと思つて読めば,これは予備教育である」。一方で「其読 む書物から与へられる所の知識,其書物から及ぼす所の影響,其上から得る所の趣味,即ち自分が毎 日学問をするのに自分の修養を得,知識を得,趣味を養ふと云ふ其心持で書物を読めば,それが即ち リべラル,エヂュケーションになる,高等普通教育になる」のであり,「予備教育とリベラル,エヂュ ケーションの差別はここにある」と高等学院生に説明する。このように高田は,「課目を学ぶ心掛」
が大事であり,結局のところ大学の準備教育と高等普通教育は学科課程においては同じであると主張
するのである。
以上のように,早稲田大学では,大学予備教育において,高等普通教育を重視し,「人格を修練」し,
「教養教育」に力をいれていたのであり,高等学院の教育理念が高等普通教育の重視にあったことは 大学と大学予科とで認識が一致している。とりわけ,高田のいう「リベラル,エヂュケーション」を 重視していたことは大学予備教育を同大学がいかに捉えていたのかについて注目できる。
しかしながら,一方で大学に従属し大学の準備教育を目的とする大学予科に対して,学部における 専門教育との関係はどの程度まで考慮されていたのだろうか。繰り返し述べるが,高等学院における 学科課程の編成をみると,たしかに外国語の選択などで進学予定学部によって若干の違いがあるもの の,高等普通教育の充実を図る点では旧制高校との相違はなかった。しかし,先に中島が懸念してい たように大学予科は,大学に附属して併置され,その大学教育のための準備教育機関でもある。した がって大学予科は,その教育理念にかかわらず,一方で学部における専門教育の影響を受けると考え られる。すなわち教育的効果を考慮する際,専門教育のための準備教育として,高等普通教育よりも むしろ早い段階から専門的知識を身につけさせることを要求されるのではないだろうか(29)。いわば 実際のところ学部の専門教育のための専門的知識との関係がどうであったのかが注目される。
このことに関して結論を先に述べると,同大学では徹底して,専門教育と高等普通教育とを分けて いたのであった。それでは教育審議会において早稲田大学総長田中穂積が同大学における予科教育 について述べた発言から,同大学が専門教育と高等普通教育をどのように捉えられていたのか検討 する(30)。
5 専門教育と高等普通教育の関係
早稲田大学が学部の専門教育と大学予科の高等普通教育をどのように捉えていたのか検討するうえ で,その論議の対象が直接関わっているわけではないが,1937(昭和
12)年から 1942(昭和 17)年
に設置された教育審議会での田中の発言が注目される。なお,本審議会では大学予科と旧制高校の問 題についても委員から発言があった。田中の発言をみる前にそれらの発言に注目しておく。既述したように,旧制高校は高等普通教育を施すという法制上の規定にもかかわらず,実際は大学 進学のための予備教育としての性格であった。そのことに関しては早稲田大学関係者が「試験の為」
に「学生は大学の試験科目例へば第一外国語などは一生懸命に勉強するが,他は余り顧みないと云 ふ実情である」と,「大学予備校化」した旧制高校の実態を指摘していたことと同じことが教育審議 会でも,委員から審議の過程で繰り返し問われていた。すなわち,旧制高校生が大学進学のために,
「戦々兢々トシテ入学試験ニ没頭シテ居」り,「而モソレガ語学,数学ト云フヤウナ僅カ数課目ノ為ニ 頭ヲ悩シテ居ル」とする「事実予備校」であるという委員の発言にあるように(31),旧制高校の位置 づけが「高等普通教育の完成」という規定から実際のところ乖離していた。
こうしたなかで,第
45
回特別委員会(昭和14
年11
月1
日)で北海道帝国大学予科主事藤原正も,「高等学校ニ於テ入学試験ノ為ニ勉強スルモノガ多イ」ことをあげて,一方で大学予科は旧制高校よ
りも十分な高等普通教育の場として,機能していると主張した。以下,藤原によると,大学予科の生 徒は大学入学の試験がないので「各科目ヲ偏頗ナク勉強スルコトガ出来ル」ことを「訓育上」,「教授 上非常ニ便宜」であると述べて,一方で独立した「高等学校ハ非常ニ自由ニヤツテ居」るが,それに 対して「予科ト云フト」大学準備教育に縛られると考えがちだが,それは見当違いであると強調する。
その理由として旧制高校の生徒は,「皆大学ニ行カウト思」ってはいるが,「何處ノ大学ニ入レルノカ」
は見当がついていない。いわば,入学試験の結果どうなるのかわからないという不安を持っている。
それに対して大学予科の生徒は,「目的ガ早ク立ツト云フコトガ却テ人間ガ落着ク」。すなわち,大学 入学が約束されているのだから,「目的ハモウ達シ得ル地位ニ立ツテ居ル,時ヲ待ツダケデアル」。し たがって「人間ガノンビリシテ大キクナル」点は,旧制高校と引けを取らないと主張する(32)。この ような論で大学予科は大学準備教育に縛られることなどないとし,旧制高校よりも「各科目ヲ偏波ナ ク勉強」することができるため高等普通教育の場として機能しており,人間形成のうえでも機能して いるというのである。このような主張は先の早稲田大学関係者にもほぼ共通したものであった。すな わち,大学予科関係者は試験に縛られないので高等普通教育を充実できると強調するのである。
それでは,早稲田大学では,学部における専門教育と大学予科における高等普通教育との関係をど のように捉えていたのだろうか。同大学総長の田中穂積は,第
27
回整理委員会(昭和14
年6
月7
日)で次のように主張している(33)。
例ヘバ法学部へ行ク学生ハモウ既ニ高等学院ニ於テ法律ノ知識ヲ得ヨウト云フコトニドウシテモ 頭ガ傾イテシマフ,文学ヲヤル者ハヤハリサウ云フ方ニ傾イテシマフ,或ハ政治,経済モサウデ アル,ドウシテモ基礎的ノ普通学科ヨリモ専門ノ学問ハ自ラ興味ノアルモノデアリマスカラ,教 師ノ方カラ鞭撻ヲシナクテモ積極的ニ自分ガ興味ガ起リマスカラ,ドウシテモサウ云フモノニ近 付キ易イ,ソレニ近付クト即チ基礎的ノ教育ガ自ラ力ガ弱クナツテシマフ,先ヅ高等学校ニ相通 ズル時代ノ青年ハ普通学ノ基礎ヲシツカリヤラセテ,成ルタケ其ノ間ハ専門学ニ興味ヲ持タセナ イデ,サウシテ訓練ニ重キヲ置クコトガ大切デアル
このように専門教育と高等普通教育の関係において,大学予備教育とは「普通学ノ基礎」をしっか りとやることであり,そのためにはできるだけ「専門学」の興味を持たせないとまで,田中は主張す るのである。さらに,同大学では予科校舎の設置場所についても考慮して,「同ジ『コンパス』ノ中 ニ居ルトドウシテモ学部ノ学生ト接触シ易」いので,予科の生徒が「自ラ文学書ニ親シミ易クナル,
経済学ノ書物ニ親シミ易クナル,法律ニ親シミ易クナルト云フ傾向ガ余程著シク目立ツ」ことのない ように「学部ト一ツ所ニ置クコトハドウシテモイケナイ」と,学部と大学予科の校舎を離すことをあ げている。このことは第
41
回特別委員会(昭和14
年10
月13
日)の田中の発言をみても「専門ノ教 育ヲヤツテ居ル所ト一緒ニ置キマスコトハ,専門学ニ対スル興味ガ厚クナリマシテ,普通学ニ対スル 興味ガ薄クナル虞ガアリマシテ,又『デイシプリン』上カラ申シマシテモ,ドウシテモ別ナ校地別ナ敷地ノ上ニ別ナ建物ヲ建テテ教育スルコトガ極メテ大切デアルト思」うと繰り返し主張している(34)。 さらに田中は,「粒ガ小サク」,「伸ビガ足リナイ」,「学徒ガ出来テシマフ」ことのないように,「専門 ノ学問ヘ行カウト云フ気持ヲ」抑えて,「餘リ専門ノ学門ノ匂ヒハ嗅ガセナイ」ようにしながら「普 通教育ノ基礎」を十分に施すことを強調するのである。すなわち,学部の専門教育のためには,一切 の専門教育に触れさせないことが高等普通教育の充実のため必要であるとするのである。このように 早稲田大学では,大学予科の高等普通教育を機能させるために「専門ノ学門ノ匂ヒハ嗅ガセナイ」と まで徹底していたのである。
おわりに
以上,本論文においては,大学令制定時における大学予科の設置過程から,個別大学の事例として,
早稲田大学の場合をとりあげて,大学予備教育を同大学はどのように捉えていたのかを考察した。最 後に,本研究で明らかになった考察結果の要点を示すとともに,大学予備教育の観点から旧制高校と 大学予科の実態に関して比較検討を行う。
大学令による私立高等教育機関の大学昇格は,私学にとって財政的負担の大きいものであった。し かし,その一方で,私学は大学予科の設置により旧制高校と同様の予備教育の充実と学部入学のため の学生を確保することができた。
個別大学の事例として検討した早稲田大学の大学予科は,その教育理念は高等普通教育と大学準備 教育の調和を図るものであった。その一方で,大学予科が大学の準備教育に傾くことを懸念し,高等 普通教育を徹底させる意向であった。それは同大学総長の田中穂積が大学予科では専門教育に触れさ せると,人間形成のうえで人物が「粒ガ小サク」,「伸ビガ足リナ」くなると懸念したように,大学予 備教育として重視されるのは人間形成を基調とした高等普通教育の充実にあるとしたことは注目すべ き点である。たしかに田中の発言は高等学院設置からかなりの時間も経っている。しかし,同大学が 大学予科をどのように考えていたのか,その教育理念の一端はこの発言から明らかであると考える。
こうした高等普通教育の充実を基調とするものは,他の大学の大学予科にもほほ共通するものであっ たのか,とりわけ大学予科の学科課程ですでに「簿記」などの大学教育のための科目を置いていた慶 応義塾との比較検討もふくめて今後の研究課題としたい。
ところで,旧制高校はその法令上の規定が,かつての「大学予科」として大学に従属するものから 独立して高等普通教育を完成することが明記された(35)。それに対して,大学に従属して併置された 大学予科は,当該大学との関係において,その大学進学予定者のための準備教育を施す機関である。
したがって,大学教育の専門教育との関係が注目された。しかし,早稲田大学では準備教育とは高等 普通教育の充実であるとしたことは確認した通りである。
以上のような早稲田大学の大学予科と旧制高校とを比較すると,旧制高校は,その法令上では,高 等普通教育の完成とする機関であったのもかかわらず,先の批判からも見たように,「大学の予備校」
として,内実は高等普通教育の充実とは乖離した大学の予備教育機関というのが実態であった。たし
かに旧制高校は帝国大学進学が約束され,生徒の「自治・自由」の雰囲気,あるいは「統制と画一化 に覆われた国民教育体制の中のほとんど唯一の別天地」(36)とされていたことは周知の通りである。し かし一方で,大学進学のために試験勉強に偏る側面も指摘された(37)。これに対して,早稲田大学の 大学予科が高等普通教育を重視していたことは,これまで大学予備教育の研究では主に旧制高校が対 象とされていたことに関して極めて注目すべき点であろう。すなわち,近代日本における大学予備教 育の歴史的特質の一つは,制度的性格として,大学予科が大学との連結において保障された教育意識 の下で,実質的な高等普通教育機関として機能していたとも考えられる。それは旧制高校以上に大学 進学にとらわれないことで,「人格の陶冶」や「教養教育」の充実が可能であるとした大学予科関係 者の主張からも確認した通りである。ここで「教養教育」という視点から大学予科の教育の実態に関 する研究が深められる必要がある。
以上,本来ならば,この考察は全体的な大学予科の研究として,大学予科における大学予備教育の 全体的性格を明らかにすべきであるが,今回は早稲田大学の検討のみにとどまった。他大学予科との 比較検討については,今後の課題とする。
注⑴ 大学令の制定過程に関する主な研究は,中野実『近代日本大学制度の成立』(吉川弘文館,2003年)を参照。
⑵ 天野郁夫「大正7年の『大学令』と私立大学」『大学史研究通信』5号(1972年),14頁。複製版参照。
⑶ 海後宗臣,寺﨑昌男『大学教育〈戦後日本の大学改革〉』第9巻(東京大学出版,1969年),390頁。
⑷ 『日本帝国文部省第五十八年報上巻』(1936年)。なお,公立,私立の高等学校は高等科在籍者数のみをカ ウントした。
⑸ このほか大学予科は,帝国大学3校(北海道,京城,台北),旅順工科大学,満州医科大学,官立単科大学 2校(東京商科,神戸商業(1940設置)),公立大学5校(医科大学等)に設置された。
⑹ 高橋佐門『旧制高等学校全史』(時潮社,1986年),筧田知義『旧制高等学校教育の成立』(ミネルヴァ書房,
1975年),『旧制高等学校教育の展開』(ミネルヴァ書房,1982年),寺﨑昌男「旧制高校教育研究の視座」寺 﨑昌男編『近代日本における知の配分と国民統合』(第一法規出版,1993年)等,なお,旧制高校の学科課 程の考察に関しては,拙稿「旧制高等学校生徒の精神形成史研究―旧制高等学校の学科課程を通して―」早 稲田大学大学院教育学研究科紀要別冊20号(2012年9月)。また,旧制高等学校の資料に関しては,仲新監 修『資料集成旧制高等学校全書』全9巻,(旧制高等学校資料保存会,1985年)。
⑺ 二見剛史「私立大学予科に関する一考察」『日本大学精神文化研究所教育制度研究所紀要』第9集(昭和 53年),所収。『日本近代教育百年史』第5巻(国立教育研究所,1974年),二見剛史執筆部分。
⑻ 江津和也「大学令による私立大学予科の設立意義とその性格をめぐる一考察―慶応義塾大学,早稲田大学 の事例を中心として」『関東教育学会紀要』第30号(2003年10月)。
⑼ 拙稿「近代日本における大学予備教育の一考察―早稲田大学予科を事例として―」早稲田大学教育学会紀 要,第14号,(2013年3月)。
⑽ 『公文類聚』第44編24国立公文書館所蔵。早稲田大学は,大正8年9月10日大学認可申請,大正9年2 月5日大学設立認可,大正9年2月6日学則認可申請,同年3月31日認可。『早稲田学報』(302号,大正9 年4月)。
⑾ 1902年(明治35)年,一年半の「予科」の開設を条件に「大学」の名称を許可された。なお,早稲田大
学は,修業年限2年の高等予科がすでに充実していたため,他の私立大学よりは遥かに大学予科の設置は容 易であった。『早稲田大学百年史』第3巻 59頁。中等学校四年修了以上の生徒を収容する高等学院(文科,
理科)の在学者定数1800名。入学生定員600人(文科440人,理科160人)。「早稲田大学附属高等学院学則」
「大学設立認可申請」(早稲田大学),『大正八年 学事 私立学校』,東京都公文書館蔵(303 D2 13),『大 正九年四月早稲田大学学則』早稲田大学大学史資料センター蔵。
⑿ 高田早苗「高等学院と高等学院生」『早稲田学園』(早稲田大学,大正13年),138–163頁。「高等学院の特 色と学院生の心得」『早稲田学報』(349号,大正13年3月),2–6頁。
⒀ 田中穂積意見「新大学の開始」『早稲田学報』(300号,大正9年2月),2–4頁。
⒁ 「平沼学長報告及訓示」『早稲田学報』(306号,大正9年8月),6頁。
⒂ なお,1922(大正11)年4月より,中等学校卒業程度の生徒を収容する2年制の第二高等学院(文科のみ)
が設立されることになる。設立に関して,「中学四年の修了者若くは之と同等以上の学力あるものを収容し て,之に三ヶ年の高等普通教育を授くると,五年の卒業者若くは之と同等以上の学力あるものを収容して之 に二ヶ年の高等普通教育を授くると,孰れが学の基礎教育として其完全を望み得べきか」と,その二校の成 績を見て実験するとして,2年制の予科が設立された。これにより,従来の早稲田高等学院は第一高等学院 と称した。田中穂積「高等学院第二部の新設」『早稲田学報』(312号,大正10年2月),2–3頁。
⒃ 高等教育の制度改革論議についての考察および高等普通教育の考察については,たとえば天野郁夫『近代 日本高等教育研究』(玉川大学出版部,1989年)を参照。
⒄ 中島半次郎「高等普通教育の理想」『早稲田高等学院学友会』第1号(早稲田大学高等学院,大正10年),
1 頁。
⒅ 今田竹千代「第二早稲田高等学院とは何であるか」『第二高等学院学友会雑誌』第15巻第3号 (第二高等 学院,昭和12年),8頁。
⒆ 「前掲書」「早稲田大学設立認可申請」『大正八年 学事 私立学校』。
⒇ 『創立十周年記念誌』(早稲田大学附属第一早稲田高等学院,昭和5年)早稲田大学図書館蔵,4頁。
� 高等学院長中島半次郎「高等学校と大学予科」『早稲田学報』(大正9年4月),2–3頁。
� 中島半次郎「前掲書」『早稲田高等学院学友会』,1–4頁。
� 中島院長報告「高等学院開院式」『早稲田学報』(303号,大正9年5月),8–14頁。
� 第二高等学院長杉山重義「高等学院の本領と教養教育」『早稲田学報』(大正13年9月),5頁–6頁。
� 中島半次郎早稲田大学教授「新学制実施に対する希望」『教育時論』(大正8年),13頁–16頁。
� 高田早苗「前掲書」「高等学院と高等学院生」,138–163頁。「前掲書」「高等学院の特色と学院生の心得」,
2–6頁。
� 大学教員と高等学院の教員を兼ねている者もいることを指摘しておく。
� なお,「前掲書」「高等学院と高等学院生」では「教養教育」,138–163頁。「前掲書」「高等学院の特色と学 院生の心得」では「修養教育」,2–6頁とある。
� たとえば,慶応義塾大学では,経済学部・法学部進学のための大学予科には「簿記」を課している。『慶応 義塾百年史』中巻(後)(慶應義塾,1964年),36頁–39頁。
� 教育審議会に関する研究は,米田俊彦『教育審議会の研究 中等教育改革』・『教育審議会の研究 高等教 育改革』(野間教育研究所紀要 第38集・1994年,同43集・2000年)を参照されたい。
� 田尻常雄「教育審議会諮問第一号特別委員会第三十六回整理委員会会議録」(昭和14年7月6日)『教育審 議会諮問第一号特別委員会整理委員会会議録』第9巻 第9輯,第10輯(昭和45年)209頁。なお,教育審 議会の会議録は,『近代日本教育資料叢書 史料篇三』(宣文堂,昭和45年)による。
� 北海道帝国大学予科主事藤原正「教育審議会諮問第一号第四十五回特別委員会会議録」(昭和14年11月1 日)『教育審議会諮問第一号特別委員会会議録』第3巻 第9輯,第10輯(昭和45年)465–466頁。
� 田中穂積「教育審議会諮問第一号特別委員会第二十七回整理委員会会議録」(昭和14年6月7日)
『教育審議会諮問第一号特別委員会整理委員会会議録』第8巻 第7輯,第8輯(昭和45年),81頁–84頁。
� 田中穂積「教育審議会諮問第一号第四十一回特別委員会会議録」(昭和14年10月13日)『教育審議会諮問 第一号特別委員会会議録』第3巻 第9輯,第10輯(昭和45年),296頁。
� 『明治以降教育制度発達史』第5巻(文部省,昭和14年),237頁。
� 寺﨑昌男「旧制高等学校史研究の意味と方法について」『旧制高等学校史研究』季刊第20号(旧制高等学 校保存会,1979年)。
� 帝国大学と高等学校の接続関係に関しては今後の研究課題である。帝国大学進学をめざしながら失敗した 官公私立高等学校卒業生の状況については,天野郁夫『高等教育の時代』(下)(中央公論社,2013年)を参照。
天野によると,例えば1935(昭和10)年度の卒業生のうち全体の25%が進路「未定」であり帝国大学進学 をめざしながら失敗し,年度内に進学できなかった。158頁–161頁。