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フリードリヒ・ヘルダーリン (その1) 故郷と幼年 時代

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(1)

フリードリヒ・ヘルダーリン (その1) 故郷と幼年 時代

その他のタイトル Friedrich Holderlin [1]

著者 高尾 国男

雑誌名 独逸文学

巻 13

ページ A1‑A36

発行年 1968‑03‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00017908

(2)

ヘルダーリン

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は一七七

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年三月二

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日︑ネッカー河のほとりラウフェン

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いう小市に生まれた︒この時代のドイツ精神生活の焦点を明らかにするため次の二つの事実をのべておこう︒すな

わちこの年の春︑当時シュトラースプルクに遊学中の若きゲーテ

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固疾の眼病を治療するために︑ホルシュタイン・オイティン公の旅に凰従してこの地を訪れたヘルダー

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から︑﹁詩は人類の母語である﹂といったハーマン

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‑1788)

の著述を紹介され︑また﹁詩は一般に世界的また民族的な賜物であって︑若干の都雅な人々のみの世襲財

哲カント

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ではない﹂ことを教えられて︑所謂疾風怒濤の眼を開き︑ゲーテの詩歴に新しい時期を劃した年である︒また聖

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が就職論文として︑未来の批判哲学の体系の崩芽を含んでいる一論文

﹃可感界と可想界の形式並びに原理について﹄を発表した年でもある︒即ちともに過去の合理主義︑啓蒙思想を克

ドイツ民族精神に新しいものを賦与せんとする企てが既に醗酵しつつあることを示している︒それ故ディ

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もまた﹁レッシング

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トとともに始まり︑ゲーテ︑

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︑︐シュライヤーマッハー

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フ リ ー ド リ ビ

1768

1834)

の死とともに終るドイツ精神の偉大な運動」というも

ヘル ダ ー リ ン

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(3)

のフリーマル 謝していることでしょう︒善良な方︑高貴な方/. 質をのぺている︒ と精力とを示している︒ のの開始をこの一七七

0

年前後に当てているのも当然かと思われる︒

詩人の父にあたるハインリヒ・フリードリ 詩人の家系は元来シュヴァーベン人で曽祖父まで遡りうる︒この人はハンス・ヘルダーリン

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といわれ︑詩人が幼年時代を送った小市ニュルティンゲン

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の市長であり︑また代官で

この曽祖父以来詩人の家は代々僧院と深い関係を保って︑

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ラウフェン市中の僧院監理長の職を奉じていた︒然しこの父の人柄につい

てはあまりくわしい記録が遺っていない︒ただ今日マールバッハ

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のシラー国民博物館に遺っている一

七六七年に画かれた彼の肖像画を見ても︑僧職にふさわしい精神的な面は窺われないで︑寧ろ市民的堅実さと聡明

一七九九年六月十八日︑ホムプルク時代に母に宛てた書簡の言葉は一層適切にこの父の特

﹁私の亡くなったお父様についてのあなたの愛情あるお言葉に対しても私はどんなにか心から感

私は今までにいく度もいく度もお父様のいつも朗らかなお人柄

を思いだしていたことを信じて下さい︒そしてお父様のような人物になりたいのだということも︒﹂

l七八八年聖霊降臨祭︑実父の妹の死に当ってナスト

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に書いた手紙の中にも︑﹁叔母は僕の

死んだ実父そっくりだったそうだ︒僕は父を全く知らなかった︒僕の三オの時死んだので︒しかし叔母のような人

であるとすれば︑父は立派な人であったに違いない︒﹂と記している︒

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詩人の母ヨハンナ・クリスティアーネ・ハイン

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もまたザクセン・ゴ

の出身である牧師ヨーハン・アンドレアス・ハイン

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の娘であるので︑詩人の脈管には父方から見ても母方から見てもキリスト教的な血液が流れてい

た︒そしてわが詩人は彼等の初児として生まれたのである︒その翌年女児が生まれたが出生後間もなく死亡した︒

(4)

さて詩人の生まれた家は腐朽していたので一九一八年とりはらわれて今は遺っていない︒しかし当時はラウフェ

ンの町から少し離れた所謂ネッカーの谷間に立っていて︑その家の前にはネッカー河の支流ツァーベル河が流れ︑

その近くには古い僧院の廃墟が昔ながらの面影を偲ばせて︑ラウフェン城の荘重な灰色の塀とともに互に前代を物

ゆかり語っているかのようであった︒しかもこの土地は聖童レギスヴィンディス

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の悲しい伝説とも縁が

あり︑この伝説を記念して︑九九

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年にベネディクト派の尼僧院が建てられたが︑一五五一年に至ってそれは没収さ

れ︑爾来シュトウットガルト宗務局のために僧院監理人によって管理されてきた︒その後その僧院は荒廃に帰し︑

美しい教会の建物もヘルダーリンの生まれた頃には既に廃墟に化していた︒また詩人の生まれた監理人の家も前述

したように今は遺っていない︒しかしューリウス・ネーベル

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の画いた鉛筆画によると一八

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頃のこの家の面影が窺われる︒それは一七世紀末に建てられた堂々たる三階の建物で︑傾斜の急な屋根をもち︑家

の前面から戸外に通ずる簡素な所謂屋外階段があり︑高い樹木に覆われ︑直接巌の傾斜のところに立っている︒饉

にかこまれた庭園もあり︑

第三番目の子供の誕生を父は知らなかった︒なぜなら一七七二年七月五日︑父は三六オを最期として外出先で脳卒

中のためこの世を去り︑詩人のただ一人の妹マリーエ・エレオノーレ・ハインリーケ

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の生まれたのは︑実にこの悲劇後六週間目であったからである︒この妹は手紙の中でしばしばリーケ

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いう愛称で呼ばれ︑後年は善良にして明朗な︑話好きの女性として知られている︒兄妹の間には世間一般にあるよ

ヘルダーリンの往復書簡の中でも重要な役割を演じている︒

ウボイレン

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のプロイライン

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教授と結婚して高齢に及んで一八五

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年にこの世を去っ 一七九二年︑プラ

その中では鶏の群れが遊んでいる︒全体として田園風の特色に恵まれ︑ うに清らかな親密な関係が結ばれ︑

その近くに見ら

(5)

て彼の自然感情は生まれたのである︒ れる崩れかかった土塀やゴシック様式の窓なども詩人の誕生の家としてふさわしい︒(W・ミヒェルによる︶

だが︑この美しいネッカー高地の陽暢たる風光もわが詩人のたましいに深い印象をとどめなかった︒何となれば

一時は途方にくれ亡夫の妹の許に身を寄せてい

ヘルダーリンの四歳のとき︑母は当時ニュルティンゲンの市長にして亡夫の友人であるョーハン・ゴック

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の求婚を受け︑幼児フリードリヒもハインリーケも母に伴われてその地に移ったからである︒詩

人の五︑六人の先祖がニュルティンゲンに定住し︑その中の二人までがこの市の市長をしていたことは既に述べて

ここにニュルティンゲン附近の自然を描いてみよう︒というのは人間のたましいーー'特に詩人としての天稟を享

けたヘルダーリンのごとき│

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  に自然の及ぽす力を看過することはできないからである︒特に彼の独得な自然感情

を考察するとき︑われわれもまた詩人が少年時代を送ったこの附近の自然美を想起せざるをえない︒既にディルタ

イもいっているように︑このあたりにくるとネッカーの谷も広く︑

ネッカー高地も︑細流や白楊の生い茂る道や果樹園に中断され︑豊かな広い耕地の間をネッカー河は静かに夢みる

が如く流れている︒幼きヘルダーリンはこの静かな岸辺と神秘的な森のほとりをさすらい︑夢み︑果ては幼年の心

① 

に芽生えた空想的な情緒をいだいていくたびか前代の妓情詩を愛誦したことであろう︒この風光の深い印象をうけ

一望極みない無限の水平線と抱きあう太洋を眺め︑櫛々たる平野を望むとき

心霊は解放され︑厳たる生活感情はおこるとディルタイはいっている︒またやさしき丘や柔和な谷々に抱かれ︑し

かも妨げられず︑青い連山の遥けき妙なる線が人の心を魅し︑しかも谷が護り蔽うときこの感情の状態より自然に

対する信頼の感がおこるともいっている︒かように独得な自然感情に培われてヘルダーリンは﹁ひそやかにぴしゃ おいた通りである︒

僅か二十四歳の若さで︑寡婦としての運命を授かった詩人の母は︑

アルプスの山並は遠く背景に見わたされ︑所謂

(6)

ああかつてわたし達の静かな小屋に

この父の死の刹那はまたヘルダーリンの詩の中にも生きている︒例えばマウルプロン

( M a u l b r o n n )

時代に歌わ

れた﹃わたしの自家の人達﹄

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は詩そのものとしては稚拙の域を脱していないが︑そこに盛ら

れた情感の厳粛さははやくもその芽生えを見せている︒ か︑かえって年とともにただ増大するばかりでした︒﹂ かに力強く影響したかは︑ と音立てながら詩人のたましいの歌に伴奏する静かな小川のほとりに夢みつつ︑南ドイツの山や河のおちついたゆるやかな線を彼の律動のうちに模写しつつ︑徐々に彼の新しい詩の形式を発見していった︒﹂︵ディルタイ︶

この美しい自然と慈愛に富める両親の愛に浸っていた彼の幸運も永くはつづかなかった︒終生兄弟の交わりを結

んだ異母兄弟のカール

( K a r l )

は母の第二の結婚の最初の子供として一七七六年十月二十九日に生まれたが︑

以来運命はこの母に極めてつめたく︑

つぎつぎに生まれてきた三人の子供ははやくも乳児のとき昇天し︑遂に詩人

にとって第二の慈愛深き父は一七七九年の三月︑洪水に際し︑寝食を忘れて尽痒したため肺炎をひきおこし︑齢い

まだ三十四歳に満たずしてこの世を去った︒そのとき母は三十一歳で再び最愛の夫と死別し︑ヘルダーリンは九歳

にして︑再び第二の父を失なった︒先きにひ弱い︑片言をいう二歳の折︑父を失なったときは︑

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で歌っているように彼のたましいにさほど強い影響を与えなかったが︑このたびは彼の幼な心にさえ継父の死がい

一七九九年六月一八日母に宛てた書簡を見ても理解されうると思う︒﹁私にとって忘れ

難い愛情を注いで︑第二の父が亡くなったとき︑私が孤児として名状し難い苦悩を感じ︑あなたの日毎の悲しみと

涙とを見たとき︑私のたましいは初めて厳粛な気持になりました︒そしてその厳粛さは私から完全に離れるどころ

(7)

最後にわたしは見上げた︒夕映えをうけて 小川に沿うて砂地をあゆんだ︒ あなたの死の天使が舞いおり

そして歎き︑悲しみ︑祈る人達の真中から

わたしの母がうつつとなって

そばおそろしく静かな死の床の側の塵にうち伏したとき︑

1

またチュービンゲン

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時代の﹃昔と今﹄

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という詩の中でも︑虐殺者に喩え

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られた死が︑家族の人達の泣き︑祈るさ中に現われて矢を放ったので︑

一巻九十五頁︶という意味のことを歌っている︒また﹃わたしの自家の人達﹄の中で︑弟のカールのことを次のよ

岸うつ波をたのしく眺め︑ わたしは曽てお前とネッカーの渚に坐って

Iあの晴れわたった日に うに歌っている︒

あの悲しい命日は永遠にわたしの眼前に漂うている

わたしはそのときの歎きの場をいまなお眼にとどめ︑

あなたを私達から奪いとったとき︑

一家の支柱である父が倒れてしまった︵第

(8)

歓喜の涙を浮かべながら神に感謝している︒︵第一巻十五頁︶ 数知れぬほどの他の息子達のうちで一番幸福なわたくしに にわかにわたしはよりまじめに少年の遊戯から立ち上がった︒

そしてまた﹁親切でいつも心満ち足りて︑いと信仰深く︑しとやかなたましいと︑落ちつきのある謙譲の徳を具

え︑孫達の間で愛され︑祝福され﹂と詩人は祖母の面影を伝えている︒この祖母は母方の祖母で︑当時三人の孫を

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で︑この祖母のことを,,

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といって讃めたたえている︒また

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敬虔な︑簡素な牧師の家に生まれた詩人の母も祖母そのままで︑謙遜で信仰深く︑やさしく︑無限の犠牲心と献

身的な行為の持主であった︒詩人は﹃わが自家の人達﹄の中で︑こう歌っている︒

この世で最上の母を与えてくれたことを

私はここで︑ゲーテと並んでドイツ最大の詩人シラーを生んだ両親と︑

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教養するためにニュルティンゲンの娘の家に滞っていた︒ すると突然わたしは冗談をやめ︑ 流れは淀み︑ある聖なる歌がわが胸をうちふるわした︒

ヘルダーリンを生んだ両親とを比較して

7

(9)

みたい︒両方の父親は︑たとえ職業は異なっていてもシュヴァーベン人特有の一八世紀の封建的忠誠心と︑強靱な

意志と豊かな宗教心をもっていたと思われる︒しかしわれわれの注目すべき点は寧ろ両詩人の母親についてであ

る︒シラーの母はヘルダーリンの母のように早く寡婦となって孤独な人生の悲哀を知ることはなかったとはいえ︑

両者ともに現実生活の労苦を嘗め︑子供の死も体験し︑子供の教育に対しても同じような配慮を経験している︒こ

の点彼女等はゲーテの母のように陽気な︑朗らかな︑空想的な性質ではなく︑寧ろ宗教的︑道義的な一八世紀の婦

こうした精神的環境に育ったわが詩人も︑従って母と祖母との感化を多大にうけたことは否定されない︒即ち詩

人の性格の主部をなすところの感情の世界は彼女等二人の賜物であって︑特に常人のおよばざる純潔な感情と︑ま

た詩人の生涯を通じてわれわれが讃仰してやまざる人生に対する厳粛感とはともに︑彼女等の尊い精神的遺産であ

る︒しかしまた他面から観察すれば︑女性によって教育されたがために︑彼の性格には女性的なものが多分に浸透

してきた︒即ち性格の弱さ︑優しさ︑意志の薄弱︑忍耐心の欠乏︑外面的な虚飾などである︒就中︑彼の生涯の悲

劇の根源となったものに︑実に現実に対する意識の欠乏がある︒即ち母は︑外面的な活動に努しみ︑若鷲のように

羽翼をのばそうとするうら若いたましいに︑確固として現実を直視し︑価値あるものと無価値なるものとを明察す

る能力と︑自己の目的遂行に必要な強い意志とを与えなかった︒これがマウルプロン時代に起こりチュービンゲン

時代に終わった初恋の処筐におけるあの優柔不断︑イエーナ時代のシラーとの不愉快な訣別︑各地における家庭教

師の不首尾な結末などは皆こうした詩人の性格の一端が原因したものではないだろうか︒

この純潔な感情と人生に対する厳粛感と現実逃避の意識とは必然的に彼を自己の世界︑孤独の世界へ導いていっ

た︒然しその代りに他の子供等には全然未知の世界である自然のうちに自己を救い︑自己を慰める多くの神々を見 人の鑑ともいわれるべき人達であったろう︒

(10)

︵幼年︶ かくて神々の腕にまもられて生い育ちぬ 妙なる音にはぐくまれ花を仲間に 森の花やすらかに戯れ 神はしばしばわれを救えり 世の人の叫ぴと笞より 出すことができた︒彼は家のなかに湿る憂鬱と悲哀とから自然の懐にのがれ︑そこに人生の苦悩を忘れ︑自然の有する崇高と偉大︑愛と優雅とに対して心からの歓喜をおぽえた︒彼はこの幼年時代を追憶して︑こう歌っている︒

幼なかりし折

空ふく風もわれと遊びぬ

ざわめく森の

愛することを学びぬ

そして彼はまた︑世俗の力や因習の轍が人間の内面的な感情や体験をかき乱すことのない︑自然のかもしだす

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(11)

この若者のために泣いてくれ︑彼は侮られている さようなら︑さようなら︑遊び仲間よ/. 偉大と名声とを夢にみたなつかしい少年時代の夢よ さようなら︑過ぎにしときの黄金の日よ︒ う歌っている︒

︵静寂︶

そして夢に見たのはあの小暗きいちごの杜と とうとうそのわたくしも静寂によって眠りに引きいれられてしまった︒ すべてのものは沈黙して眠ってしまった︒わたしだけが眼ざめている︒

静かな月あかりに照らされながら歩いたことだった︒

そういう訳でたとえ既に彼の幼年時代の境涯には多くの苦悩の芽生えがあったとしても︑

安﹂といわしめて︑ ては最も幸福な調和ある時代であった︒また詩人はヒュペーリオンをして﹁幼年時代の平安﹂を﹁この世ならぬ平

その時代をなつかしく慕っている︒それ故この時代の数ある面影は︑後年彼の荊棘に富んだ人 生の迷路に立つとき︑忘れ難い幸福の像として常に詩人の憧憬の対象であった︒されば詩人は﹃昔と今﹄の中でこ

この時代は詩人にとっ

(12)

ラテン小学校を卒業した少年ヘルダーリンは︑ 別の指導を仰いだ︒ これまでに見てきたようにニュルティンゲン附近の美しい風光に恵まれ︑前代の詩人の霊に多くの慰藉を求めて

汎神論的自然感情を幼な心に秘めてきたヘルダーリンが︑自から詩人的傾向を帯びてきたのもまた道理であろう︒

しかし両親の家系から見ても僧職と縁の深い家庭に育ち︑殊に篤信の母の切なる希望によって︑この少年もまた将

来僧職につくべき運命を担っていた︒かような人生の行路を撰ぶ少年は︑当時いづれもラテン小学校で基礎教育を

受けるのが常道であったが︑わがヘルダーリンもニュルティンゲンのラテン小学校に入学した︒

( K r a z )

という優秀な先生の教育をうけた外に︑ ここでクラーツ

この町の副牧師ケストリーン

( N a t h a n a e l K a s t l i n )

の許でも特

一七八四年の秋デンケンドルフ

( D e n k e n d o r f )

の初等僧院学校

に進むと同時に︑生まれて初めて慈愛深き母の膝下を離れた︒曽てシラーの師として彼の精神的発展に深い感化を

及ぼしたアーベル

( J a k o b F r i e d r i c h   A b e l )

などもこの学校で学んだ一人である︒この村はニュルティンゲンか

ら徒歩で二時間の行程にあり︑当時人口僅かに千人ほどの小邑であった︒この村もまたニュルティンゲンと同じよ

うに鬱蒼たる果樹園と一部は急坂にかこまれ︑四季とりどりの色を競う森が近くに迫っている︒修道院と教会とは

永い流転の歴史を経たロマネスク風とゴシック風の建築様式で︑

うかがわれる︒ それは教会地下室や玄関やアーチ型の回廊などに

当時の修道院長エルベ

( E r b e )

は心の狭溢な老人で︑キリスト教の真精神を誤解していた︒

曽てシュペーナー

( S p e n e r )

やフランケ︵

F r a n c k e )

によって唱道された敬虔主義はシュヴァーベン地方にも多大の効果をあげてい

それと同時に生々たる宗教的原動力も涸渇して︑万事慣行という他律主義に陥り︑懺悔︑恩寵︑再生︑キリ

スト教的実践生活が︑無味乾燥な形式的救済主義に堕落した︒キリスト教的難行苦行が誤解されて︑自然に対する

1 1  

(13)

陰惨な畏怖となった︒その結果遊戯︑舞踏︑劇場は勿論︑冗談︑哄笑ですら禁ぜられ︑自然の中の逍遥なども厭う

べきものとなった︒

かような院長の支配下にある僧院学校の教程と日課は推して知るべきである︒一週五十九時間の授業︑早朝の五

時から夕景の八時まで可成り厳格な日程が組まれている︒従って昼食後と夕食後に各一時間の休憩が許されている

だけで︑所謂レクリエーションを欲するものは事前にこれを申し出ねばならない︒すると最高週に二度僅かな時間

の郊外散策が許される︒遊戯は禁ぜられてはいないが︑勿論好ましいものとはされていなかった︒

宛てた書簡と︑同年の冬母に宛てた書簡だけである︒就中注目すべきものは前者で︑当時の少年ヘルダーリンの心

情を窺うことのできる唯一の材料である︒これは一種の懺悔文であり︑また心霊の指導を仰いでいる請願の手紙で

もある︒﹁特に私がニュルティンゲンからこの地へ参りましてから︑いろいろ考えました末︑人間の行状に現われ

る聰明と情誼と宗教とがどういう風に結びつきうるものかという考えに到着いたしました︒それはうまくゆきそう

にありませんでした︒私はいつも動揺していました︒やがて私はいろいろ多くの敬虔な感動を受けましたが︑

も私の自然の感傷性に由来していましたろうし︑従ってそれだけ一層根底のないものでした︒今こそ私は本当のキ

リスト教徒であるということは間違いないと信ずるようになりまして︑何年も私は満足をおぽえていました︒特に

自然はかような瞬間には︵この満足は永くつづくことは稀でしたから︶私の心情に非常に生き生きとした印象を与

えてくれました︒然し私は私の周囲の人を誰も我慢ができませんでした︒そしていつも一人ぽっちでいたいと思い

ました︒いわば人の群れを軽蔑するようでもありました︒そしてごくくだらぬ事情にも私の心は動揺しました︒﹂ デンケンドルフ時代の書簡のうち今日遺っているのは︑

一七八五年にニュルティンゲンの副牧師ケストリーンに

(14)

この手紙を読んでわれわれの驚嘆することは︑玲瑠玉のようなほっそりとした体謳の子供の胸のうちに︑早くも

宗教的欲求が芽生え︑人間と自然との関係を内省的に凝視して︑一切の不安定の原因を自己に帰するという峻厳な

態度が見られることである︒またわれわれは︑詩人の生涯を通じてくり返しくり返し襲いかかった外部の力を深刻

な障害として感ずる多感性を早くもここに見ることができる︒しかし彼はこの障害を排除するために努力したが︑

これもまた思うようにゆかない︒﹁私が小利口になろうとすれば︑私の心は陰険になりました︒そして極く些細な

それによって人間はひどく感情を害され︑悪魔のように人がわるくなる︒ですからそういう人達は警戒

されねばならないし︑そういう人との親交はなるべく避けなければならないということを立証していたようでし

た︒これに反し私がこういう人間嫌いの性質と反対に出てやろうとしたときには︑私は人間によい感じを与えよう

と努力しました︒神にではありません︒そういう風に私はいつも心が動揺していました︒そして私のしたことは︑

抑制の目標を越してしまいました︒⁝⁝私は不実な︑人間嫌いにはならないで︑聰明なキリスト教徒になり︑気ま

ぐれな空想家になるまいと固い決心をいたしました︒⁝⁝﹂

一七八五年︱二月母に宛てた書簡にも﹁無数の詩の構想﹂という言葉の示すように︑早くも少年の心には詩人の

たましいが生動していた︒少年時代の数あるもの静かな︑ささやかな体験も︑少年ヘルダーリンにとっては生の深

い意義が啓ホされているように思われた︒母の宗教上の教えに導かれて︑子供ながらに︑精神生活の小暗い深淵を

敬虔な畏怖の念をもってのぞきこむような気持もした︒また静かな故郷の自然の美にも陶酔し︑また孤独の生活が

情緒や霊感を少年の心のうちに植えつけていた︒こうした名状し難い感情をメロディーに移したいという衝動にい

つの間にか駆られてきた︒しかし少年にとっては言語はまだ詩的機能を十分発揮するだけに成熟してはいないし︑

リズムもまだ十分自分のものとなっていなかったので︑至高のものへの天真な宗教的憧憬に翼を与えることも︑彼

1 3  

(15)

惰・操行はともに良となっている︒

0

のたましいの諧音を歌声や音で現わすこともできなかった︒従って彼の詩の響きは常套的な︑常識的なものであ

これ等の初期の詩においてさえ︑生まり︑子供らしく︑感傷的なものである︒ただこの少年詩人のもつ厳粛さは︑

⑨ 

れながらの天成の詩人を思わしめるに十分であった︒

ヘルダーリンはマウルプロン

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)

の高等僧院学校に進学した︒そのためにデンケ

ンドルフよりも二︑三時間だけ家族より遠くなった︒二八人の進学者中六番で︑その卒業証書には学業は優秀︑勤

グスクーフ・ラング

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は入学当日の模様を次のように書いている︒

二年毎に繰り返されるマウルブロンの高等僧院学校へ新入生引き渡しの式日が始まった︒二八人の希望に満ちた少

年が︑短かい休暇の後︑デンケンドルフの初等僧院学校から移ってきた︒⁝⁝彼等は既に国家から支給された黒の

僧服を纏っていたので︑僧院学校の生徒であることとまた将来僧職につく身であることが分る︒然し彼等はまだそ

れ程大きくなっているとは思われないので︑両親や親戚の人々につき添われ︑いろいろと世話もうけた︒村にある

ただ一軒の旅館だけでは沢山の客をとめる余裕がなかったので︑昔からの美しい習慣により︑土地の人々が外来の

客人をとめてくれた︒その代わり食事の世話は僧院が一部引きうけた︒主人役も客も新入生も一緒になって楽しい

(W・ミヒェル︑ニニ頁︶新入生は町の東方に建っている巨大な︑広い一群の建物の中に収容さ

れた︒それは教会︑密室︑大きな農舎などが附属している昔のシトー会の修道院で︑

五八年新教の僧院学校に変ったのである︒

僧院学校の訓練はデンケンドルフに較べて非常に厳しいというほどでもない︒生徒が町や近郊に出かける場合で

もすぐに許可が出たし︑この町の勢力ある家庭に出入りすることも許され︑また周囲の村の牧師の家とも交際がで

(16)

が︑これを正しく評価するには相当の注意を要することだとw.ミヒェルがいっている︒何となれば︑当時ヘル

きた︒授業は週に一九時間で︑デンケンドルフ時代からみれば非常に少ない︒その上自分の仕事のために十分の時

間も与えられている︒しかし僧院学校のことでもあるから厳格な規定が設けられてあったに相違ない︒殊に個人の

独居が許されていない寄宿生活の不便はデンケンドルフと同様であった︒のみならず賄も不平の種子であった︒

七八七年夏︑母に宛てた書簡にもあるように︑食事はいつも非常に悪かったので︑彼はいつも腹を立て︑皿を壁に

投げつけたいほどだった︒母への懇願はコーヒーと砂糖とであった︒﹁一飲みのコーヒーや一さじのスープを欲し

がってもどこでも手に入れることができないときには︑これが本当の生活の苦労というものである︒﹂それでもへ

ルダーリンはいくらか上等の方で︑借金に苦しんで︑財布にびた一文もない生徒は︑﹁ただ不満のあまり床にもつ

かず︑次のような歌を歌いながら廊下を往ったり来たりしている︒

さあ︑さあ兄弟達よ

こんな風のことが殆んど毎晩です︒最後に彼等はお互い笑いとばして︑寝るのです︒しかし勿論これは一種の悲

次にマウルプロン時代にしばしば孤独が訴えられている︒既にデンケンドルフ時代に起った人間嫌いがこの時代

一層激しくなってきたように思われる︒これがしばしば強烈な表現となって当時の書簡に現われている 毎日ふえるは借金だ僕達には気の休まるときがねえ 借金取りがきているぞ しっかりせい

1 5  

(17)

N a s t

)

ダーリンの周囲には︑デンケンドルフ時代からの友人ビルフィンガー

( B i l f i n g e r )

の外に︑ナスト

( I m m a n u e l

ヒーマー

( H i e m e

r )

︑エフェレン

( E f f e r e n

n )

( H e s s l e r )

等の友人

と愉快な楽しい生活を営んでいたと想像される︒それにもかかわらず︑くり返しくり返し孤独と傷心を歎き悲しむ メルクリーン

( M i i r k l i

n )

言葉が当時の書簡に出ているのは︑彼の生活感情のささやかな支障にも重大な意義を認めているからかもしれな

一七八七年一月︑まだ一七オにも満たない少年の頃︑早くも次のような書簡を友人に書いている︒

﹁僕のところでは何事も目茶苦茶に矛盾だらけに見えるけれど︑君は怪しんではいけない︒僕にはまだ幼年時代

の性向がー.—僕の当時の心の性向がのこっていることを言いたいのだ/.

だがしか

も愛すべきものだー~これは蠍のようなああいう軟かさだったのだ。そして僕がある気分に浸ると何事にも泣くこ とのできる理由はこの点にあるのだー~しかし僕が僧院にいるかぎりは、僕の心のこの部分ですら最も悪くあつか

この書簡に︑不快を感ずる性質が過度に現われている︒こうした病的な内省は︑誇大に自己を他人に伝える傾向

となり︑自己と外界との生活のリズムに調和が鋏けていくので︑彼の生活はいよいよ孤独におちいってくる︒﹁こ

の大地には誰一人僕を好いてくれるものはないーー今僕は子供達のところに友情を求めはじめている/.

し︑この友情も勿論また極めて不満足だ︒﹂︵第六巻七頁︶即ち同年輩の友人に真の友情を感ずることのできなかっ

たヘルダーリンは︑子供達の間にそれを求めようと努めたが︑痛ましくもそれも失敗した︒そこで友人が彼を理解

しないのは︑両者間の本性の根本的な相違からだとしている︒﹁ビルフィンガーはなるほど僕の友人だが︑あの男

はあまり幸福すぎるので︑僕のことなどには目もくれていないのだ⁝⁝彼はいつも陽気だし︑僕はいつもうなだれ

ている︒﹂︵第六巻七頁︶こうした友人との疎隔感は一七八七年二月ナストに与えた書簡に最も強く現われている︒

︑ ︒ ' >  

しかもその性向は僕にとって︑今なお最

(18)

﹁大人をして歎息を洩らさせるようなことを僕は子供のとき既に経験しなかったか︒そして青年として経験した方

がよりうまくゆくのか︒そしてこれが僕達の一番幸福な時代であると︑仲間のものはいう︒嗚呼/.

独りぼっちで幸福なのか︒他のものは皆僕より幸福か︒そしてそのとき僕は何をしたか︒﹂.︵第六巻九頁︶

このような孤独な自分を外界から守ってくれるものは︑ただ空想の世界だけだと観じている︒﹁また一時間空想

に耽ってしまった︒閑暇な夕景のとき夕闇の中にひとりぽっちでいるときが一番空想に耽ることができるのだ︒﹂

︵第六巻八頁︶﹁僕はこの土地では知り合いが少ない︒相変らず独りぼっちでいるのが好きだ︒そういうとき僕はlつのことを頭の中で空想しているのだ︒﹂︵第六巻一七頁︶﹁まる一時間僕は空想の世界で世捨人だった︒﹂︵第六巻

先きにマウルプロン時代の交友の名前を列挙したが︑特に叙べねばならないのは︑イマヌエル・ナストとの友情

である︒彼は僧院学校の生徒ではなくて︑僧院監理長の甥にあたり︑

青年であるが︑偶々この親戚を訪れたとき︑ そのとき僕が

レオンベルグの市役所の書記補を勤めている

ヘルダーリンと知己を結んだのである︒彼等は常に相見る機会に恵ま

れていなかったので︑書簡の往来をもって互いに胸中を披濡していた︒今日われわれはこれ等の書簡を通じて詩人

の青年時代を最も深く︑最も直接に観察しうるのである︒内に鬱積してその解放を求めていた若きヘルダーリンの

孤独と憂鬱の感は︑あたかも光の闇を射るがごとく一途にこの友の身辺にうち寄せた︒それ故﹁愛と友情とはこの

世における人間の最大の幸福だ︒﹂︵第六巻ニ︱頁︶ということをこの友人を通じて初めて体験することができたし

﹁僕はこの世界の半ばを流浪し︑君よりもましな友達を見つけようとしても︑

するほど詩人にとってはまことにえがたい友人であった︒ナストに宛てた上述の数ある書簡に現われている自己省

ルドルフ・ハイム

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それは見つからないだろう︒﹂と告白

その後の多くのヘルダーリン研究家はこの早熟の

G r i i b e l e i

17 

(19)

1 1

デーゲ

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のように︑この点に寧ろ詩人の

この時代の第二の重大な事件は︑ナストとの友情と相並んでルイーゼ・ナスト

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Na

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との恋愛である︒)

ある日僧院の園庭で不図目にした乙女こそ︑若きヘルダーリンのたましいに恋の芽生えを植えつけた︑

ンよりはニオ年上のこの少女は僧院監理長の娘で︑友人ナストとは従兄妹の関係にある︒しかし最初にこの二人の

恋人同志の手引きとなって︑彼等にあいびきの機会を作ってやったのは︑僧院の学僕の息子で︑矢張りルイーゼと

は従兄妹の間柄であった︒ルイーゼは美しい面立の快活な性質の持主であった︒彼女の秀でた本性は︑後年ヘルダ

ーリンが悲惨な境涯におちいった時代に︑いた<詩人の運命に同情して︑なにくれとなく心を労したということだ

けでもわかる︒ヘルダーリンの書簡を読むと︑彼女は最初のうちは軽卒なところもあったらしいが︑その後敬虔

で︑貞節な︑心やさしい乙女となり︵第六巻二五頁︶︑豊かな空想を有し︑神秘的なものに対して心を動かし︑自然

. . .

. .  

の美に歓喜し︑特に花を愛し︑寂蓼と孤独に親しみ︑殊に墓地を好み︑多くの点において︑ヘルダーリンの本性に

極めて近かった︒これ故二つの若い青春がやがて心から結びあったのも不思議ではない︒しかし勿論彼等とて周囲

の環境を慮り︑とくに内気なルイーゼにとっては︑人知れず愛をはぐくむためには︑いく度か人目を忍んで︑相見

る機会を作ったことであろう︒とはいえ性来天真な性格のヘルダーリンではあるが︑何の理由かl

七八七年の秋︑友人ナストだけに心中の苦悩と悦ぴとをうち明けている︒﹁最愛の友よ︑今こそ︑今こそ僕はこの世

で一番幸福者なのだ︑心のままになれ︑││'僕は僕のルイーゼを永遠に││'永遠に愛し︑僕のルイーゼは僕を永遠に|—永遠に愛している。」(第六巻二五頁)と恋の歓喜をあげているかとみると、また友人ビルフィンガーに対し

て嫉妬を感じ︑﹁相変らず僕は激しい移り気で苦しんだ︒彼女が僕を本当に愛しているのかどうか分らないので︑ たましいの深さと鋭さとをみようとするものもある︒ 病的傾向とみているが︑

ヘルダーリ

(20)

僕は涙にかきくれることもしばしばあるのだ︒﹂︵第六巻︑二三頁︶と恋の苦悩を訴えている︒しかし遂に二人の間

に何人にも妨げられない︑淀みのない︑明月のような澄みきった恋が成りたっと︑

くちづけ燃え上って︑直接愛人にこう叫んでいる︒﹁山の尾根を歩いて︑おん身の口吻をなおわが唇に感じたとき︑名状し

難い快感をおぼえた︒ー│'僕は夢中になって四辺を見廻した︒僕は今世界を抱擁したかった位だ︒まだまだそうい

う気持でいる︒﹂︵第六巻三一頁︶万有に対する愛を示唆しているように見えるこの書簡にせよ︑先きの友人ナスト

に与えた告白の書簡にせよ︑若き詩人の感情の浪を如実に描きだしているがために︑感激性に富んだ言葉の重複や

想線の多いことなどがその特徴と見られる︒これは文章というよりは寧ろ短い性急な絶叫である︒われわれはこの

ダッツユ書簡を読むとき︑若きゲーテの想線の多いかの書簡を想いだすだろう︒

ともあれヘルダーリンの恋は︑若きゲーテの恋のように焔と燃え立った︒しかしルイーゼは彼女の房で独り神を

想い︑愛人を偲ぶ性質の乙女であった︒︵第六巻三一頁︶されば彼がしばしば憂鬱な面もちで彼女の面前に現わ

れ︑周囲の人々について愁歎を洩らし︑未来に不安を感じたとき︑彼女は永遠を信じてくれと彼を励ました︒かか

るときこそ彼等の最も祝福されたときであった︒彼等はともに文学に心を寄せ︑シラーのドン・カルロス

(D on

C a r l o s

)

を読んでは互いに霊の陶酔に浸った︒

かかる幸福に身をおきながら︑彼は自ら肯じない僧職という職業のために日夜いそしまねばならぬという苦痛から片時も脱却することはできなかった。彼にとって神聖にして唯一の天職—|'神に恵まれた詩人という最高の天職

ーを遂行せんとする精神は︑遂に母から与えられた運命に対して反抗するに至った︒彼は直ちに僧院を見捨てて

法学の研究に赴むかんとさえ決心した︒しかしこうした心の動揺も︑最初のうちは母の警告によって再び沈静する

程度のものであった︒マウルプロンに来てから半年後︑即ち一七八七年の春︑母に送った手紙の中で︑﹁私の幸福 ヘルダーリンのたましいは再び

1 9  

(21)

しかしできないことはない/.あの素睛らしい栄光の道を上ってゆけ/. 私をつつみかくすことができるのか︑ー│' あの世で泣けるように︑地上のどの片隅が 私が永遠に夜につつまれて にして高貴な詩人の月桂冠であった︒ が明白により良くなるような全く異常の場合の他は︑私の自分を捨てるという風な考えがもはや私に起ってくるようなことがないことを︑今こそあなたはたしかに信ずることができます︒村の牧師として世間の人々に大変役に立つこともできるものだということが今わかりました︒何の職業でも幸福になれるのでしょうが︑それよりも牧師の方が幸福になれるということが今わかりました︒﹂と書いているところから見れば︑前に手紙か又は言葉で母に︑神学者の道を捨てるつもりだということを宣言していたに相違ない︒ところが母はこの要求を拒絶していたのだ︒ところが一七八七年夏にこの問題が再び起って︑ナストに与えた手紙で︑﹁ここはもう辛棒ができない/.本当にできない/.僕はここを去らなければならない︒母が僕を僧院から引きとるように︑明日母に手紙を書くか︑しばしば喀血するので院長に︑ニ・三ヶ月の療養期間を歎願するか︑僕は固い決心をした︒﹄︵第六巻一六頁︶と述べている︒しかしヘルダーリンを法学の研究に誘うた動因は︑法学の研究がもたらす自由な人生のみであって︑決して市民的職業に対する満足感ではない︒寧ろ彼のあこがれ︑望んでやまないものは︑神聖

私は︑あの世界のまわりを飛行する偉人にはどうしても追いつけないのだ︒ ヘルダーリンはこの手紙より

(22)

ここでヘルダーリンの幼年時代のドイツ詩壇を概説する必要があろう︒

レッシングは一七八一年に︑ハーマンは一七八八年にこの世を去っている︒ゲーテ︑

, , S a n g e r G o t t e s

"

といわれ︑偉大な言語の改造者︑全然新しい人間感情に即した感激ある言語の最初の守

護者クロップシュトック︵一七二四ー一八0

三︶と︑彼と同様に言語の改革者︑民謡の発見者でもあり︑オシア ン︑シェークスビアの讃美者︑古代ギリシァの発見者でもあるヘルダー︵一七四四ー一八

0

三︶はまだ生存して

いる︒ゲーテ︑

シラーの揺藍の土地ともいうべき疾風怒濤の残滓としてマキシミリアン・クリンガー

m i l i a n   K l i n g

e r

1 7 5 2   1    1 8 3 1 )

( R e i n h o l d L e n z  

1 7 5 1

‑ ' 1 7 9 2

)

などはまだその余映を残している︒

ゲッティンゲンの杜の詩社は︑ホメールの瓢訳者フォス

( H e i n r i c h V o B  

1 7 5 1   1  1 8 2 6 )

( L e n o r e )

作者ビュルガー

( G o t t f r i e d A u g u s t   B u r g e r  

1 7 4 7

1 7 9 4 )

︑クラウディウス︵

M a t t h i a s C l a u d i u s   1 7 4 0 ‑ 1 8 1 5 )  

等によって代表されていた︒ドイツのヴォルテール

W i e l a n d  

1733‑1813)

は︑ドイツ・メルクーア

( D e r t e u t s c h e   M e r k u r )

誌に立てこもって︑当時なお最初の名

声を保持しており︑ジャン・バウル

( J e a n P a u l  

1 7 6 3 ‑ 1 8 2 5 )

は独り孤塁を守りつづけている︒ヘルダーリンの

身近かにはかのシュヴァーベンの詩人達や文筆家︑例えば偶々ホーエンアスペルク

( H o h e n a s p e r g )

0年の幽

閉の身から解放された︵一七八七︶情熱の詩人シューバルト

( C h r i s t i a n F r i e d r i c h   D a n i e l   S c h u b a r

t  

1 7 3 9

1 7 9 1 )

偉人に追いつくために/.

( V o l t a i r e )

といわれるヴィーラント

︵﹃わが決心﹄第一巻二八頁︶ 燃えたつ︑けなげな夢をいだいて

( M a x

i

シラーの二つの詩壇の巨星

( C

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n  

2 1  

参照

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