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つくばリポジトリ 歴地 14 1

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(1)

歴 史 地 理 学 野 外 研 究 第14号 1セSP@ 2010

東京湾要塞地帯における第二@ 第三海優の建設と住民の対応

一 横 須 賀 ・ 永 嶋 家 に み る 富 津 漁 民 と の 関 わ り

-花 木 宏 直 ・ 山 漫 菜 穂 子

I はじめに

本稿では ,三浦 半島 か ら 房 総 半 島 中 南 部 に か け

QI RRセ

QP Hャ XXYセ 1921) にかけて行われた第二・第

三海壁2)建 設 を め ぐ る 住 民 の 対 応 を 検 討 す る こ と

で,当該地域特有の生業の動態を明らかにするO

明治期以降における三浦半島周辺の地域形成を 考 察 す る 上 で , 軍 の 存 在 へ の 注 目 は 不 可 欠 で あ

る。明治期以昨,横須禦軍港には海軍工! 蔽や鎮守

府 , 東 京 湾 要 塞 司 令 部 を は じ め と す る 海 軍 - 陸 軍

の中枢機関が設置されるとともに,

r

横 須 賀 軍 港

規出 j により地域住民の生活は規制されていた。

また,東京湾要塞地帯内の各地にも,砲台や連珠 をはじめとする防衛施設が設置されるとともに,

「要塞地帯法 j に よ り 生 活 が 規 制 さ れ て い た 。 加

えて,横須賀では,海軍軍人から横須賀市長や横 須 賀 市 議 会 議 員 が 多 数 輩 出 さ れ て い た 九 つ ま

り,明治期以降の三浦半島周辺では ,軍事施設の 立地,軍事規程による生活の制約,行政への軍の 関 与 を は じ め , 軍 の 存 在 が 地 域 形 成 の 重 要 な 要 素 として機能してきた。

軍と住 民の関 係に 注 百 し た 既 存 の 研 究 を 検 討 す

ると,柿111奇京ーは,東京湾要塞地帯のー漁村であ

る君津郡潤西村人見地区( 現君津市人見) を事例

に,軍事演習のたび、に危険水域内で、の操業が禁止 され,打i頼網漁業やさらには海苔養殖業にも影響 が 及 ん だ と 指 摘 し て い る4)。 こ こ で 柿1I1奇は,軍の 存在が住民の生業活動や生活に制約を与えること

を示した。また,田中宏巳は 横 須 賀 の 水 道 を 事

例 と し て , 住 民 は 軍 に よ る 工 業 用 水 の 利 用 の た め の 水 不 足 の 発 生 と い う 制 約 を 受 け つ つ も , 水 資 源 財源、の窮乏で、軍の水道に水需要を依存せざるを得

なかったことや,のちには横須賀市独自で水道を

確 保 し よ う と 行 動 を 起 こ し た こ と を 指 摘 し5) 軍

の存在がもたらす生活の制約と,それを克服しよ う と す る 住 民 の 存 在 が 示 さ れ た 。 一 方 , 双 木 俊

介・藤野 惣や双木俊介は,横須賀の都市形成に

おいて,他地域から移住して起業して官納業や土 木 請 負 業 と い っ た 革 関 係 の 取 引 に 御 用 商 人 が 介 在

し , 彼 ら は 政 財 界 で 活 躍 し た こ と を 指 摘 し6) 箪

の制約に抵抗するだけではなく,箪からの患恵を 享受して地位を向上させた住民の存在も示した。

このように軍の存在は,漁業や水道をはじめと し て 住 民 の 自 常 生 活 に 制 約 を も た ら し た 。 し か し 住 民 は そ の 制 約 に 抵 抗 し な が ら 生 活 を 展 開 し てきただけではなく,商工業の発展に代表される ように,軍からの恩恵を利用することで生活を展

開してきた。もちろん 商工業の従事者とその他

の生業の従事者,経営者と労働者,軍と取引関係 の有無をはじめ,生業や社会関係の差異により, 軍との関係のあり方は異なっていた。つまり,多 様 な 生 業 や 社 会 状 況 に 置 か れ た 住 民 が , 軍 の 存 在

による「制約 j に「抵抗

J

し 軍からもたらされ

る仁恩恵」を「享受」しつつ 軍と住民が有機的

に関連し合うなかで 横 須 賀 周 辺 の 地 域 形 成 が 行

われていたといえる。

このような軍と住民の多様な関係を明らかにす

る上で,本研究では砲台建設に注目するO 砲 台 建

設 に は , 軍 か ら 工 事 を 請 け 負 っ た 土 木 請 負 業 者 や , 土 木 請 負 業 者 の 労 働 者 募 集 に 応 じ た 住 民 な ど,様々な立場の住民が参加していた。また,砲 台 周 辺 の 住 民 は 要 塞 地 帯 法 に よ り 砲 台 付 近 へ の 立

ち入りや生業活動を制限されるなど, 日常生活が

(2)

ることができるD

横須賀潤辺では様々な砲台建設が行われたが,

本研究では地元の有力者である永│嶋家が関与した

第 二 ・ 第 三 海 壁 建 設 工 事 に 注 目 す る 。 永1I持家は, 近 世 後 期 か ら 近 代 に か け て の 有 力 土 木 請 負 業 者 の

1つであるO また,横須賀市自然- 人文博物館に

は.

r

永111. 事家文書j として永I!!島家による第二・第三 海 壁 建 設 事 業 の 資 科 が 残 存 し て お り , 永1]1島家の関 与した砲台建設について具体的な検討を行うこと

ができるO

なお,永11時家による海盤建設工事について,特

に 第 三 海 壁 の 施 工 の 実 態 に 関 し て は , 近 代 化 遺 産

の制定に関わり編纂された『東京湾第三海: 塗建設

史j に.

r

永1I烏家文書 j の概要.

1

毎壁建設工事の概

要 , 工 事 に 用 い た 潜 水 器 具 の 購 入 状 況 , 土 砂 運 搬 の 状 況 , 労 働 者 の 人 員 ・ 職 種 の 推 移 , 労 働 者 の 出

身 地 の 記 述 が な さ れ て い る7)。 し か し 労 働 者 の

募 集 活 動 の 展 開 や , 労 働 者 の 人 数 ・ 職 種 別 の 出 身 地 の 分 布 , 資 材 の 採 掘 地 や 労 働 者 の 輩 出 地 の 地 理 的条件に関しては十分明らかにされていない。

以 上 を 踏 ま え , 本 稿 で は 第 二 - 第 三 海 壁 建 設 工

事 を 事 例 と し て , 砲 台 建 設 を め ぐ る 軍 と 住 民 と の

開に生じる「制約j と「恩恵

J

の関係に注目するO

E章 で は , 地 域 名 望 家 永

l

i

J l も家の経営構造と海盤 建 設 工 事 請 負 の 意 義 に つ い て 検 討 す る 口 水 嶋 家

Z セuiセ H

浦11日¥三春I UJ H近) セャ

し 幕 末 期 に は 台 場 や 横 須 賀 製 鉄 所 の 建 設 に も 関 与 し た 。 近 代 以 降 は 横 須 賀 周 辺 で 借 地 ・ 借 家 経 営 を 行 い , 横 須 賀 市 会 議 員 な ど を 務 め , 土 木 請 負 業

者としても明治中期から大正仁

l

: t 期にかけて第二・

第 三 海 姪 の 建 設 を 請 け 負 っ た 。 永1]1高家の経営構造

や 経 営 を め ぐ る 人 的 ネ ッ ト ワ ー ク に 注 目 し , 海 侵

建 設 工 事 を 請 け 負 っ た 背 景 や , 永1]1鳥家の家業経営

に お け る 革 と の 関 係 の 意 義 を 検 討 す る こ と で , 軍

のに恩恵j を「享受j する側の住民の動向を明ら

かにするD

E章 で は , 海 壁 建 設 工 事 に 多 数 の 労 働 者 を 輩 出

し た 千 葉 県 君 津 郡 富 津 町 富 津 地 区 ( 現 富 津 市 富

津 ) に 注

i

ヨ し 労 働 者 の 輩 出 プ ロ セ ス と 海 壁 建 設

が生活に与えた影響について検討するO 富津地区

は , 近 世 後 期 以 来 東 京 湾 で も 有 数 の 漁 業 集 落 で あ り,揚繰網や地引網,明治後期以降は潜水器採員

泊、が盛んに行われていたO 一 方 , 富 津 地 区 の 漁 場

内 に は 第 一 ・ 第 二 海 壁 な ど の 軍 事 施 設 が 立 地 し 漁 業 に 制 約 を も た ら し て き た 。 富 津 地 亙 の 生 業 構

造 と 海 盤 建 設 工 事 の 意 義 海 壁 な ど 軍 事 施 設 の 立

地による制約への住民の対応を検討することで,

軍の「制約

J

f

抵 抗 」 す る 側 の 住 民 の 動 向 を 明

らかにするD

E 大正期永嶋家の家業経営と人的ネットワーク

1 ) 横須賀の軍港都市化と地域住民

本 章 で は , 近 世 以 来 の 横 須 賀 の 有 力 者 と し て 位

置 付 け る こ と が で き る 永 嶋 家 に 着

i

ヨし,軍港都市

としての横須賀の特性をどのように活用して経営

を展開していたかを検討するO まず,永 i鳴家が活

躍 し た 横 須 賀 が 近 世 の ー 寒 村 か ら 軍 港 都 市 へ と 成 長 し て い く 過 程 と 地 域 住 民 が そ れ に ど う 対 応 し た

かを概観しておきたい。第

1

図・第

2

図は,明治後

期と大正後期における軍用地- 軍港・要塞地帯の範

囲を示したものである。両者を比較してみると, 暁 治 後 期 に は 既 に 市 域 の か な り の 割 合 を 軍 用 地 が 占 め て お り , 大 正 期 に は 明 治 期 よ り も さ ら に 軍 関

係地が拡大している口大正3年 ( 1914) 当時,市域

2

割程度を陸海軍用地が占めていた8)口

東 京 湾 の 玄 関 口 に 位 置 す る 横 須 賀 は , 急 峻 な 崖 の 迫 っ た 地 形 の た め 居 住 可 能 地 域 が 限 ら れ て い た

が,軍事的には防御に適した港を有していた9)。横

須 賓 の 沿 岸 は 船 を 停 泊 さ せ る の に 十 分 な 水 深 が あ っ た た め , 幕 末 期 に 幕 府 が 新 た な 造 船 所 を 設 け る に あ た っ て 軍 港 に 選 出 さ れ た 。 慶 応 元 年 ( 1865) に 建 設 が 始 ま っ た 造 船 所 は 明 治 5年 ( 1872) に海軍省に移管され, 日 露 戦 争 の 頃 に は

工員1 .

000

人規模の園内有数の軍事工場となった。

また,明治17年 ( 1884) には東海鎮守府が横浜か

ら 移 転 し て 横 須 賀 鎮 守 府 が 設 置 さ れ た 。 鎮 守 府 設 置 は 「 日 本 海 軍 に と っ て は も と よ り , 横 須 賀 に と っ て も 記 念 す べ き 事 項 の 一 つ で あ り , あ る 意 味

(3)

-第l 図 明 治 後 期 に お け る 軍 用 地 - 軍 港 ・ 要 塞 地 帯 の 範 囲

a

法令全書j 明治後期作成の1万分のl地形図をもとに作成)

RQセ 大 正 後 期 に お け る 軍 用 地 ・ 軍 港 ・ 要 塞 地 帯 の 範 囲

( r法令全書. 1. 大正後期作成の1万分の1地形図をもとに作成)

(4)

-では以後の横須賀発展のーエポツクを酉すもの

J

10)

で あ っ た 。 ま た , 横 須 賀 筒 辺 は 「 横 須 賀 軍 港

J

「 東 京 湾 要 塞 地 」 に 指 定 さ れ , そ れ ぞ れ 軍 事 施 設

QセS S A

れ , 土 木 建 築 や 漁 業 な と た。

l明治

7年(

18

7

4

)

頃 か ら 東 京 湾 防 備 の た め の 砲

台建設を求める声が高まり, 苛1,

2年(

18

7

9

)

には観

音Ih奇や千葉県周准郡( 後の君津郡) の富津その他

に 向 台 を 設 け る こ と が 決 定 さ れ た 。 明 治13年

(18

8

0

)

には観者I1崎北門第一・第二砲台の竣工を皮

サイャセ

砲 台 が 建 設 さ れ て い っ た 。 ま た , 観 音111奇と富津の

QQセj S ャ

設と並行して海壁建設が行われることとなった11) 。

第l 図 か ら , 明 治 後 期 に は 観 音ill奇から富津地区に

至る陸域や海域に, Ti包台が多数立地していること

o RQセゥ

心 に , 砲 台 が 増 加 し て お り 明治期以降も昭和戦

中 期 に か け て , 砲 台 , 練 兵 場 軍事教育機関等を

含 め , 横 須 賀 市 や 三 浦 半 島 原 辺 で は 急 速 に 軍 事 施 設が立地していった。

こ の よ う に , 泣 代 の 横 須 袈 や 三 浦 半 島 周 辺 で は , 明 治 中 期 以 降 急 速 に 軍 事 施 設 が 建 設 さ れ , そ れ に と も な っ て 東 京 湾 要 塞 地 帯 や 横 須 賀 軍 港 の 範

囲が拡張されていった。開範囲には,

r

要 塞 地 帯

J

や 「 横 須 賀 軍 港 規 則 」 が 適 用 さ れ , そ こ に 住

む 人 々 の 生 業 に は 様 々 な 法 的 規 flJIJが加えられた口

QQQ ヲヲャ|Qセ

の 実 弾 演 習 が 行 わ れ た 他 , 艦 船 の 速 力 試 験 や 陸 軍 士 宮 学 校 生 徒 の 測 図 演 習 , 軍 用 電 信 隊 の 野 外 演 習 , 水 雷 発 射 演 習 等 蝶 々 な 演 習 が 実 施 さ れ た 。 こ れ ら の 軍 事 演 習 の 際 に は 地 域 住 民 に 対 し て 「 近 傍

え 不 近 寄J 2l こ と が 求 め ら れ た た め 漁 業 が 行 え な

くなり,地域住民は不自由を強いられた。 し か し , こ の よ う な 軍 に よ る 制 約 に 対 し , 地 域 住 民 は た だ そ れ に せ ん じ て い た わ け で は な か っ た。 RR HQ XXYI セセセ

願 が 三 浦 郡 浦 郷 村 ( 現 横 須 賀 市 ) よ り 横 須 賀 知 港

事 に 提 出 さ れ て い るo IA肩書この内容を見ると,浦郷

村では円一中七八ハ j魚業ニ従事罷在,従来長浦湾

内 ニ 漁 業 仕 来 生 活 相 立 j ていたが,

r

海 軍 水 雷 営

1tp設置以来漁業御差止ニ相成排承イ土,毎年魚類の

群衆候期節ニ至1) ,海軍知港事庁へ出願御許可ヲ

蒙リ冬季限1) 漁業程在

J

とあるO つまり,住民の

多くが漁業で生討を立てる漁民であるにも関わら ず通年的な漁業が不可能であり,冬季のみ許可を 得て漁業を行ってきたが,これでは不都合なため

に「永世漁業仕度

J

と願い出ている13)。

寧 に よ り 地 域 住 民 の 漁 業 な ど の 生 業 が 制 約 さ

れ,それに抵抗した一方で 先に挙げたように軍

の存在ゆえに住民が様々な,恩恵を受ける側面が

あったことも事実であるO 例えば,横須賀の軍港

都市化にともなって,地域住民の軍需産業への雇 用機会が拡大したことや,道路の整備等が併せて 行われ,横須賀の都市化が促進されたことなどが

挙げられるD また,海軍や陸軍には施設内で起居

する者が多く,それ以外の横須賀にある寧事関係 施設に勤務する軍人の多くは横須賀に居住してい

た 。 『 横 須 賀 案 内 記14)jに よ る と , 大 正 2 年

(1913) 当時の横須賀には陸海: 軍合わせて現役兵

199人 , 在 郷 軍 人1699人 が 居 住 し て お り , そ れ ぞ

れ現住人口の1割前後に達していた。つまり,恒

常的に多くの軍人が居住していたわけであり,彼 らが横須賀で調達する日用品の需要も大きく,地

域経済にとって重要な存在であったO また[ 御用

商人

J

といわれる,軍と売買契約を交わして大口

の取引先の確保に成功した納入業者も生まれた。 一方,大船一横須賀間の鉄道や水道の普及をはじ め軍によるインフラ整備も進められたが,水道の 利用は軍が優先されるなど地域住民の生活水準を 直接向上させたわけで、はなかった。

以上概観したように 横須賀は造船所建設を皮

切 り に 急 速 に 軍 港 都 市 化 し 軍 の 存 在 は 横 須 賀 市

周 辺 の 地 域 形 成 や 住 民 の 生 業 に お い て ,

r

制約

J

と「恩恵

J

の両方の影響を与えていた。

2 ) 永嶋家の概要

永l鳩家は島Ih奇藤

H

の小説『夜明け前』に登場す

る山上家のモデルともなった家であり,近代横須

(5)

-賀 有 数 の 有 力 者 で あ るo

1

赤門 j と 称 さ れ る 同 家

の 長 屋 門 は 現 在 で は 「 横 須 賀 市 民 文 化 資 産J の指

定 を 受 け , 横 須 賀 の シ ン ボ ル の ー っ と な っ て い

るO 永 嶋 家 は , 南 北 朝 期 の 初 め に 横 須 賀 に 居 住 す

る よ う に な っ た と 伝 え ら れ , 近 世 後 期 に は 公 郷 村 名 主 や 改 革 大 組 合 総 代 等 を 務 め て い た 。 近 代 に 入 り横須賀が軍港都市としての道を歩みはじめるな

かで,永II[鳥家は第二・第三海僅建設での砲台建設

を 請 け 負 う な ど し て い る 口 本 稿 が 対 象 と す る 時 期 は 海 壁 建 設 が 行 わ れ た 明 治 期 か ら 大 正 期 に か け て

で あ る が , 当 該 期 の 永j鳩家当主は永UI鳥庄兵衛( 豊

太郎) である。永11l鳥家当主は代々庄兵衛を名乗っ

て い る が , 本 稿 に お い て 特 に 注 記 を し な い 場 合 は

永嶋豊太郎を指すこととするD 永i嶋庄兵衛は嘉永

6年( 1853) 三 浦 郡 公 郷 村 に 生 ま れ , 明 治6年

( 1873) に 家 督 を 相 続 し た 。 そ の 後 は 神 奈 川 県 会

議 員 や 元 町 外16ヶ町連合戸長,横須賀衛生会幹事

等 を 務 め た ほ か , 明 治40年( 1907) には横須賀市

第一期市会議員に当選し 同 時 に 横 須 賀 市 の 執 行

機 関 と し て 市 を 統 括 し 行 政 事 務 を 担 っ て い た 市

参 事 会 の 名 誉 職 参 事 会 員 に も 就 任 し て い るO そし

て,彼は大正2年に60歳で没した15)。

明 治 大 正 期 に , 永Il!鳥 家 は 東 京 湾 に お け る 第

二 - 第 三 海 壁 建 設 に 従 事 し て い る が , 土 木 工 事 に

は 近 世 後 期 か ら 携 わ っ て い た 。 村 内 の 公 道 整 備 等 に 尽 力 し , 幕 末 期 に は 台 場 や 横 須 賀 製 鉄 所 建 設 の

工 事 に も 従 事 し て い る ほ か , 嘉 永7年( 1854) に

は永1[[[き庄兵衛の祖父らが自費l 千 両 を 投 入 し て 長

浦 町 元 屋 敷 に 全 長200開 の 石 造 運 河 を 建 設 し て い

るO 近 代 期 に 入 る と 永 嶋 家 は 海 面 埋 立 事 業 に 尽 力

しており,明治39年 ( 1906) に は 自 宅 前 の 田 戸 海

岸 地 先 埋 立 を 出 願 し 数 年 後 に は 着 工 し て い るO

こ れ は 大 規 模 な 埋 立 工 事 で あ り , 総 埋 立 地 は70,

703t平に及んだ。また,明治34年( 1901) から大正

11年( 1922) という長期に渡って東京湾における

海壁建設にも携わっていった。 7](111島家の海盤工事

へ の 従 事 を 可 能 に し た 基 盤 と し て , 近 世 以 来 培 っ て き た 土 木 工 事 関 係 の 知 識 の 蓄 積 が 大 き く 影 響 し

たと考えられるD

3)

大 正 期 永 嶋 家 の 経 営 構 造

a.

1

金銭出入i陵」に見る永1I持家の主要家業

大正期の永 i嶋家の中心家業は建築業であったこ とは疑いがないが,当該期における同家の経営形

態をさらに明らかにすべく,

I

司家「金銭出入111長16)

J

の分析を行った。「金銭出入11長

J

は 入 金 と 出 金 の

それぞれが項目別に記された永I1持家の家計簿であ

る が , 本 稿 で は 入 金 の 部 分 に 限 っ て 分 析 を 行 っ たO

分 析 の 対 象 と し た も の は 大 正3年5月10日から

同4年( 1915) 4月2 日までの「金銭出入11提

J

(以

下 「 金 銭 出 入i臨む A) と,大正 4 年 2丹1日から

i

可年

9

Iセ@

2

a

ま で の [ 金 銭 出 入11長

J

( 以下「金銭 出 入11長

J

B), 大 正 4 年 9 月3 Iヨ か ら

i

可5 年 (1916) 4月41ヨまでの「金銭出入11!jむ(以下

f

金 銭 出 入11長

J

C

)

3

-1

1

1

1 " であるO

A

, B, Cの3冊の「金銭出入11提j 毎に入金を11

の 項 目 に 分 類 し そ れ ぞ れ の 件 数 お よ び 総 額 を 示

したのが第3図であるO なお,この場合の入金は

収入とは若干異なるO 永11

[ 1

.も家で、はしばしば貸金や

立て替えを行っており その金が返済された分も

入金に含まれているからであるO これらの項目は

- f L 出金として記された後,入金として返還され

ているので,差し引き

O

円となるD 返 済 金 は 図 の

項 告 に お い て は 「 貸 金 返 還 」 と し 立 て 替 え 金 は

「その他・不明」の中に含めt:.o また,分析を行っ

ェ SセU

けての永嶋家は安浦地区の海面埋立に取り組み, 第 二 ・ 第 三 海 壁 の 上 部 構 造 工 事 等 を 詰 け 負 っ て い たが,帳簿中には埋立関係や海宣言関係の入・出金 は数点の例外を除いて確認で、きなかった。そのた

め,

1

金 銭 出 入 帳

J

は埋立・海: 盤工事関係の金銭帳

簿 と は 別 に 設 け ら れ た 私 的 な 家 計 簿 の よ う な も の で あ る と 考 え ら れ る 口 こ の 点 を 踏 ま え , 以 下 で

1

1収入 j と称する場- 合は永i鳴 家 の 全 収 入 の う ち 埋

立 と 海 壁 工 事 関 係 の 収 入 を 除 い た 収 入 を 指 す こ と とする。

「家賃

J

とは,永l鳩 家 の 所 有 す る 家 屋 に 居 住 す

る 人 々 か ら の 家 賃 収 入 で あ る 。 「 金 銭 出 入 帳

J

は「入金弐拾参円 牧 野 氏 十 一 月 家 賃 」 の よ う に

(6)

-大 正 3年 5 月 "' -' 4年 1月

大 正4年2月" - 4年8月

大 正 4年 9 月 ""' 5年 4 月

(円)

o

500 1,000 1,500 2,000 2,500 ,3: 000 ,3: 500 4,000

包 家 賃 図 地 代 図 地 代 ・ 家 重 包 貸 金 返 済 問 借 金 白 贈 与 ei厩 舎 図 作 物 毘 株 主 配 当 金 臼 土 地 売 却 Bそ の 他

3

盟[ SセU Hャ YQTセ

1

6

)

における「金銭出入帳」の入金内訳 (永111患家文書「金銭出入帳」をもとに作成)

記載されているO この場合は金額と借家人名,そ

して何月分の家賃かが記されているが,これに加 え借家のある地名が記されている例もあった。こ の「家賃」が総収入のうちに占める割合を見てみ ると, A , B , C , ともに3 寄付主度を占めているこ とがわかる。件数から見ても

A,

B,

C

全てにおい て 最 も 多 く , 総 入 金 件 数 の3割 近 く を 占 め て い るD

「地代j は永111鳥家の所有する土地を借用してい る人々からの土地代で、あり.

I

金 銭 出 入 帳 」 に は 「入金五円ート八銭 柏 木 田 藤 田 地 代 二 ヶ 月 分 五 月 六 月 分 入

J

の よ う に 記 さ れ て い るo

I

地代j が 総

QセR o

「地代- 家賃」とは 「入金弐拾五円廿五銭 地

代家賃金子ヒロヤスより受取

J

のように記されて

いるD おそらく一人の人物が永Il[患家に対aして借地

と借家を両方借りており, まとめて支払ったと考

えられるO こちらは件数も少なく,入金総額に占

める割合も 1 割に満たない。

以上見た

f

家賃j.

I

地代j ,

I

地代- 家賃j の三 項目を合計すると

A

では4 2 %,Bでは4 4 %,Cで

VTE SセT QQ{

は総収入から海: 盤工事- 埋立事業関係収入を

i

除い た収入の約半分を借地・借家経営から得ていたと 言える。

次に「土地売却」であるが. Bの時期のみ土地

を売却したという記録が3 件確認できた。件数は

少ないものの

3

の時期の入金総額の約

3

割を占め ており,大正4 年 2 月から9 月にかけての大きな

収入源であったことが分かる口 3 件を細かく見て

いくと. 2 月 18 日 「 入 金 七 拾 円 也 柏 木 田 山 地 所 藤 田 や 売j.

I

可19臼 「 入 金 百 円 也 地 所 売 代 墨 田 内金 j ,3月

5

日 「 入 金 六 百 弐 拾 五 円 也 墨 田 氏 うり渡シ地代金」となっており,土地売却が行わ れた時期は

2

月下旬から

3

月上旬に集中していた ことがオっかる。

「貸金返還j は , 上 述 の よ う に 永 嶋 家 か ら 借 金

をした人物が返金をしたものであるO 入金総額に

占める割合は少ないが,件数を見ると永嶋家にお い て は 貸 金 が 恒 常 的 に 行 わ れ て い た と 考 え ら れ

るO 貸していた相手は使用人や親戚等が多かった

ようであるO

「借金j に 関 し で も , 入 金 総 額 か ら 見 る と 少 額 で は あ る が , 件 数 を 見 て み る と 借 金 も 恒 常 的 に 行っていたと考えられる。借用先は親戚が多く,

f

貸 金 返 還 」 と 併 せ て 考 え る と , 親 戚 間 で 相 互 に 金銭の貸借を行っていた可能性があるO

「厩舎j であるが,これはA. B のみに確認され

る項自である。具体的には「入金壱円廿銭 二見

中 佐 六 月 分 厩 舎 」 等 と 記 さ れ て お り , 入 金 者 に 「中佐j や 「 少 佐 」 等 の 軍 将 校 の 階 級 名 が 確 認 で きるO 永l鳴家で、は厩舎を保持しこれを軍関係者 に貸していたようであるo

C

の時期には記載がな いが,永l[I患家が厩舎を破棄したか,当該期には借

(7)

-用 者 が い な か っ た か , あ る い は 記 載 漏 れ で あ る か は明らかではない。

「作物j とは, A, B の 時 期 に 確 認 さ れ る も の で,

1

入 金 三 十 五 銭 大 黒 氏 よ り 王 子 十 代 」 等 と 記されているo

1

玉 子j の他にも「なす」ゃ

f

そら まめJ.

1

大 葉 」 と い っ た 野 菜 名 が 確 認 で き るO 入 金 総 額 に 占 め る 都 合 は わ ず か で あ り , ま た 1 件 毎 の 入 金 も 少 額 で あ る こ と か ら , お そ ら く 永11鳴家で、 小 規 模 な が ら も 野 菜 を 栽 培 し そ れ を 購 入 す る 人々がいたと考えられる。なお,

A

の場合24件中 15件を玉子が占めており,

1

作 物j の 中 心 は 王 子 で あ っ た 。 出 金 項 自 の 中 に も 仁 鳥 え さ 代

J

飼 育 の た め の 出 費 が 確 認 で き , 永1[¥患家で、は鶏を 飼っていたと思われるD

「贈与

J

と は 「 入 金 拾 円 也 母 よ りj 等 と 記 載 されているもので,永I[I島家に入金した人物は分か る も の の , 入 金 理 由 に つ い て は 記 載 が な い も の で あ る 。 こ れ に つ い て は , 資 料 か ら は 新 定 で き な い が , 大 別 し て2 通りの解釈が成り立つ。 1 つは, 永i嶋 家 の 援 助 の た め に 贈 与 さ れ た 金 と 考 え ら れ

るO いま 1 つは,

1

:

返 金

J

と い う 記 載 が な い だ け で 「 貸 金 返 還 」 と 同 様 , 永i嶋家が貸していた金が 当該人物より返金されたと推察される。

「株主配当金

J

はA とC の み に 見 ら れ る 項 目 で あ る が , こ れ は 毎 年1 月に配当金が支払われてい たためであるO 株の発行元は不明であるが,

A

の 時 期 で は 入 金 総 額 の

4

分の

l

を占めており,かな

り大きな収入であったことがわかるD

最後に「その他・不明j であるが,この中に含ま

れるのは,電話料,返済された立て替え金,薪代, 海: 室関係や字が不鮮明で、判読不能なものであるO

. l 2 J 、仁大正3 年 5 月 10 日から伺 5 年 4 月 4 8 ま で の [ 金 銭 出 入111長」を分析した結果,当該期の永

11¥患家は借地・借家経営から入金総額の約半分にあ た る 収 入 を 得 て い た こ と が 明 ら か に な っ た 。 当 該

iihセ

建 築 関 係 事 業 以 外 に も 借 地 ・ 借 家 経 営 に も 力 を 入 れていたのであるD

SセT

の画期であったと考えられるO 永i鳴家は明治39年

以来,住宅地開発を

1

3

論 み 安 浦 地 区 約

7

万 坪 の 埋 立 を 計 画 し 大 正2 年 こ れ に 精 工 し た 。 し か し な がら ,工 事 は 波 浪 の た め 難 航 し 資 金 的 に も 行 き まったため,向

4

年 に な っ て 埋 立 権 を 安 田 保 養 社 に 譲 渡 し 事 業 の 継 続 を !祈 念 し て い るD さら に,先ほど見たように大正4 年 2 月から3 月にか け て 大 規 模 な 土 地 の 売 却 が 克 ら れ , 借 地 ・ 借 家 経 営 の 規 模 を 縮 小 し て い る 。 こ れ ら の 背 景 に は , 大 正

2

年における当主永i 1鳴庄兵衛の逝去が大きく関 係 し て い る と 考 え ら れ るo

B

のi時期は株主配当金 の分配のH寺期には該当せず 入金総額の3割を占 める

f

土 地 売 却

J

を除くと A ,C の時期に比べて 入 金 が 極 め て 少 な い 口 当 主 を 「 急 、 病 ニ テ17)

J

失 い , 埋 立 事 業 も 行 き 詰 ま り 始 め て い た 永II![き家で は,土地を売却することで当面の現金収入を得る 必要に迫られたと考えられるO

b. 永II[鳥家の借地・借家経営

次に,永i嶋家の入金のi干1で大きな比率を占めて いた借地・借家経営に注目するo 第

1

表 は 「 金 銭 出入帳

J

A のうち,

1

家賃

J

の項目79件を

f

昔家人別 に 並 べ た も の で あ るo

1

金 銭 出 入

I

I

I

J

A

は大正3 年5月10 日から向 4 年 2月2 1=1を対象としたもの であるが, この期間内に永11鵠家から家を借りてい る 世 帝 が19世 帯 確 認 で き るO 家賃を見てみると,

1 ヶ月当りの最高額が23 円,最低額は 3 円となっ ているD その差は約7倍であり , その聞にも 8何 50銭, 13 円, 19 円50銭 等 と 様 々 な 家 賃 の 借 家 が あ

d ャ エセ

し て 保 持 し 約

2

0

世 帯 に 貸 し て い た と 考 え ら れ るo

r

金 銭 出 入111]む に は 借 家 人 の 氏 名 と 該 当 月 の 記 載 の み で 貸 家 の あ る 地 名 は 明 記 さ れ て い な い 場 合が多いものの,表から「大タキ了( 大滝町)

J

あ るいは「柏木圧

I

J

等 と い っ た 横 須 賀 の 地 名 が 確 認 できる。

ここで、永11馬家の借家人の属性について検討を加 えたい。第l 表に見られる「牧野氏J .

1

牧 野 司 令

官j とは,当時東京湾要塞司令官であった陸軍中

将 牧 野 清 人 の こ と で あ るo

1

金 銭 出 入11I長

J

A が 対 象 と す る 時 期 の 永 嶋 家 の 貸 家 の 中 で も も っ と も 家

(8)

l

表 SセU Hャ YQTセ

1

6

)

に お け る 永111鳥家の借家経営

氏名 居 住 地 i

り 支 払 状 況 ( Pi )

llril考

5rl 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 1fl 2月

11. 500

牧野氏 23. 0

(l日) 23. 000 23. 000 23. 000 23. 0

23. 000 東京湾要議官]

23. 000 ( 30日) ( 27日) ( 26日) ( 2713 ) ( 27臼) 令官牧野清人

( 29日) 務生氏 22. 000

22

o 22. 000 22. 000 22. 000 22.000 22. 000 22. 000 22. 000 海 軍 機 関 学 校

( 22日) ( 22日) ( 23日) ( 23日) ( 2413 ) ( 27日) ( 26日) ( 23日) 副官若生繁吉 l末野 大滝11f T 19.500

39

o 19. 500 19. 500 19.500 19.500 19. 500 ( 30日) ( 20日) ( 6 Iヨ) (8日) (7臼) ( 30日)

13. 800

宮下氏 19. 000

( 211ヨ) 19. 000 19. 000 19. 000 19. 000 19. 000 19. 000 19. 000 ( 311ヨ) ( 23日j (21日) ( 24日) ( 27日) ( 23日)

( 2513 )

セi

15. 000

5. 800 15. 000

(大泌氏) ( 291ヨ) ( 28臼) 松原氏 15. 000

15. 000 (21日)

月日r ¥: 15. 000

15. 000 ( 278 ) f!t

'

: l l を

15. 000

7. 500 15. 000

(徳永) ( 27日) ( 24日)

13. 000

須賀貯氏 13. 000

12. 570 13. 000 13. 000 13. 000 13. 000 ( 61ヨ) 13. 000 ( 28日) ( 4日) (5日) 01ヨ) (7 日) 13. 000 (2日)

( 23日) 野村 {I'I木│王│ 8. 500

8.500 8. 500 (8臼) 0 41"1)

本1:11石放 8. 500

8. 500 8. 500 8. 500 8.500 8.500 8.500 8.500 8. 500 (2日) ( 21ヨ) ( 313) (2臼) (1:11) (3日) (31日) (2日)

と山や セᅵ Q QZ Q 7.500

2. 500 ( 9 :11)

i

Jl悶 柏木IEI 7. 500

7.500 ( 2913 )

川名竹松 6. 050

6. 050 (3日)

6. 000

任1Iお 柏木任l 6. 000

6.

o 6. 0

(1"11) 6. 000 6. 926 ( 30 1ヨ) ( 21ヨ) 6. 000 (2日) ( 2113 )

( 311ヨ)

3. 000

川i二i茂吉 3. 000

3.

o 3. 000 3. 000 3. 0

3. 000 (2日) 3齢000

( 91ヨ) (7臼) (2臼) ( 71ヨ) 0 0臼) 3. 000 ( 3113 ) (301ヨ)

J制I : J EEI 3. 000

3. 000 3

o 3. 000 3. 000 3. 000 ( 26日) ( 25日) ( 211ヨ) ( 23日) ( 271ヨ)

IE太 郎 柏木田

15. 000 13. 305 (31日) (3日)

7. 500

金井氏

( 71:1) 10. 830 ( 23日)

( 永l嶋家文書「金銭出入11度」をもとに作成)

注1) ( ) 内は納入日を示す。

注2) 家賃は数か月分が

i

可H寺に支払われることや,月の途中に入居した場合など数日分のみ支払われている 例もあり,必ずしも一月分を単位として支払われてはいない。比較のために f一月当り家賃j をあげ たが,確定できないものはハイフンで表記したO

注3 )

i

借 家 人 氏 名 」 は 資 料 中 の 語 句 を そ の ま ま 用 い た た め 氏 」 が 付 い て い る 場 合 と 付 い て い な い 場 合 が ある。

(9)

-イイセ

事 総 覧18)j に よ る と , 牧 野 氏 は 関 山 県 出 身 で , 基 隆 要 塞 司 令 官 や 陸 地 測 量 部 長 等 の 役 i肢 を 経 て . 大 正

3

6

2

日 か ら 翌 年

8

1

0

日 ま で 東 京 湾 要 塞 司 令 官 に 就 任 し た 人 物 で あ る 。 東 京 湾 要 塞 司 令 官 は 明 治17年 に 横 須 賀 町 に 設 置 さ れ た 東 京 湾 要 塞 司 令 部 の 長 官 で あ り , 東 京 湾 要 塞 地 を 管 轄 す る 職 で

あ る が , そ の 管 轄 内 に は 永¥11号家が工事を請け負っ

d ャセェ GQQ A

が 対 象 と す る 時 期 は こ の 東 京 湾 要 塞 司 令 官 の 任 に あ っ た こ と に な り , こ の よ う な 上 級 ク ラ ス の 軍 人

も 永 嶋 家 の 借 家 人 に は 含 ま れ て い た 。 ま た .

2

目 に 高 額 な 家 賃 の 家 に 居 住 し て い る 「 若 生 氏

J

若 生 繁 吉 と い う 海 軍 軍 人 で あ る 。 若 生 氏 は 宮 城 県 出 身 で , 海 軍 機 関 学 校 を 明 治

35

( 1902)

に 卒 業 し 大 正

1

0

( 192

1 ) に は 横 須 賀 鎮 守 府 防 戦 機 関 長 の 任 に 就 い て い る19)。

l

表 の う ち .

1

ヶ 月 の 家 賃 が

1

3

円 以 上 の 家 を

借 り て い る 人 物9人 の う ち 7人 に は { 金 銭 出 入

1

1

長j の 中 で 名 字 に 「 氏j を 付 け て 記 載 さ れ て い

る 。 一 方 , 家 賃 が

8

円5

0銭 以 下 と 少 額 の 家 を 借 り

て い る 人 物 に は 敬 称 が 付 け ら れ て い な い 。 お そ ら く , 高 額 な 家 賃 の 家 を 借 用 し て い る 人 物 は 牧 野 清 人 や 若 生 繁 吉 な ど の よ う な 地 位 の 高 い 軍 人 で あ っ た 可 能 性 も 推 察 さ れ るO 永111患 家 で は , 軍 人 相 手 の 高 級 住 宅 か ら 安 価 な 家 賃 の 部 屋 ま で , 多 様 な 貸 家

を 保 持 し て い たD

次 に 永11馬 家 の 借 地 経 営 に 注 目 し た い 。 第

2

表 は

「金銭出入

1

1

J

A

から.

1

地 代

J

の項目

32

件のうち,

3

1

件 を 抜 き 書 き し 借 地 人 別 に 並 べ た も の で あ

る 。 な お , 残 り のl 件 は 「 入 金 四 円 三 十 銭 柏 木

田 地 代 二 家 分 八 月 分 入

J

とあり.

2

軒 分 が ま と め

て 記 載 さ れ て い た た め 省 略 し た 。 表 か ら は

1

4

人の 人 物 あ る い は 庖 舗 が 永 嶋 家 の 土 地 を 借 用 し て い た

こ と が わ か るO また 地 代 の 場 合 は 家 賃 と 異 な り

借 地 の 所 在 地 が 明 記 さ れ て い る 場 合 が 多 く .

r

銭 出 入

1辰

1

J

A

の 場 合 確 認 で き る 地 名 は 基 本 的 に

「柏木田

J

で あ る 。 な お , 借 地 人 の 属 性 に つ い て

は 判 明 し な い 人 物 が 多 か っ た が , 第

2

表 に 見 ら れ

る 「 小 松j と は , 現 在 の 米 が 浜 通

2

丁 目 に 位 置

し 海 軍 将 校 らがひい き に し た 庖 と し て 著 名 な 料 亭 小 松 の こ と で あ り . 1111本 小 松 」 と は そ の 初 代 女 将 で あ るG

以上.

r

金銭出入J ¥I . 長

J

Aの 分 析 か ら , 大 正 期 の 永

シ QQセ エャセ

木 田 を 中 心 に 借 地 を 保 有 し て お り , そ し て そ の 借 家 人 ・ 借 地 人 の 中 に は 軍 人 や 有 名 料 亭 等 も 含 ま れ て い た こ と が 明 ら か に な っ た 。

AiAQセ

小 括 を 行 い た い 。 永11烏 家 は 近 世 以 来 村 の 有 力 者 と し て 蓄 積 し て き た 土 木 技 術 を 生 か し , 近 代 以 降 も 海 面 埋 立 工 事 や 海 侵 建 設 等 の 土 木 工 事 に 携 わ っ て

きた。一方で.

r

金 銭 出 入i脹 」 を 分 析 し た 結 果 , 多

く の 貸 家 - 土 地 を 保 持 し 借 地 ・ 借 家 経 常 に も

t

震 が 置 か れ て い た こ と が 明 ら か に な っ た 口 土 木 建

築工事- に加えて, これら借地・佑二家経営は大正期

に お け る 永(II鳥 家 の 主 要 家 業 と し て 位 置 付 け る こ と

カfできるO さらに, セn

作 物 生 産 や 厩 舎 の 経 営 等 か ら の 収 入 も 認 め ら れ

wセ W↓\ャャャ

形 態 を と っ て い た と い え る 。

4) 大 正 期 に お け る 永 嶋 家 の 人 的 ネ ッ ト ワ ー ク

本 節 に お い て は . 大 正

2

ゥセ QQ {QN[

永 l嶋 庄 兵 衛 の 葬 儀 関 係 名 簿 か ら 彼 の 交 友 関 係 を 居 住 地 や 職 業 に 注 目 し て 検 討 す る 。 こ れ に よ り , 永 i嶋 家 が 明 治 後 期 か ら 大 正 初 期 に か け て 有 し て い た 人 的 ネ ッ ト ワ ー ク に つ い て

t

会 討 を 行 い , 当 時 の 横 須 賀 に お け る 有 力 者 と は い か な る 存 在 で あ っ た か

を考える手掛、かりとしたい。

ま ず は 永11鳴 庄 兵 衛 の 交 友 関 係 に つ い て .

1

1

1

J

.

イ イセ ェ ェR P I R

冊 の 葬 儀 関 係 資 料 に 注

E

し て , 地 域 的 な 広 が り を

見 て み た いo

2

冊 の 資 料 に つ い て .

L点 は 庄 兵 衛

の 危 篤 時 や 死 去 時 に 電 報 や 電 話 で 連 絡 と っ た 相 手

の名簿で, もう l 点 は 葬 儀 の 際 に 香 典 や 供 物 等 を

贈 っ た 者 の 名 簿 で あ るo

2

種 類 の 名 簿 に は , 合 計

860

名 の 人 物 名 が 記 載 さ れ て い るD こ の う ち 住 所

の 記 載 が あ か 居 住 地 を 特 定 で き る 人 物 は

192

で あ っ た 。 こ の

192

名 の 内 訳 が 第

4

図 で あ る 。 住

(10)

-第2 表 SセU Hャ YQTセ 16) に お け る 永11持 家 の 培 地 経 営

1ヶ月当り

氏名 所在地

地代(刊) 5月 近i到 柏木田 1.350

水口若松

田中金治郎 柏木田 1.450

(金蔵)

4. 120

八木ぬま 柏木田 4.120

( 31日)

1.650

正太郎 柏木111

(31日)

I

-U本小松 米が

i

兵 19.680

藤 j王i 柏木田 2. 090

j豊劃 柏木田

留政局力j室 柏木田

不明 柏木田

富沢ふたや

mj金 柏木│王j

コ= τ iご

‘-l::}

井上掴吉

注 1) ( ) 内は志向入日を示す。 RI JQjセQェ

6月 7月 8月

1.450 ( 30日)

12.360 ( 23日)

15. 000 16. 500 (7日) ( 20日)

19五70 19. 680 (21ヨ) (413)

31.180 ( 30日)

2. 550 (13B)

所 の 記 載 が あ る 人 物 が 全 体 の

5

分の

l

程 度 に 過 ぎ

ないという史料上の制約はあるが,永1鳴庄兵衛の1

人的ネットワークの広がりをみる口

永11¥高庄兵衛自身が横須賀に在住していたため,

居 住 地 が 判 明 し た 人 の う ち , 半 数 以 上 が 現 横 須 賀 市内の人物である。現横須賀市内について細かく

ゥ[iセQ

支払状況( 円) f桔考

9月 10月 11月 12月 l月 2月

1.350 1.350 (2913) ( 28日)

1.450 1.450 ( 30日) (21臼)

4.120 4.120 (2日) 4.120 (6日) 4.120 (21日)

( 31日)

17.500

(5日) 24.1 00 11.4-10 16. 000 ( 10日) (31日)

(19日)

118. 800 海軍軍人

(31日) 向け料亭

5.180 5.180

( 61ヨ) (2日)

1.450 ( 1 日)

14. 250 ( 30日)

6. 000 ( 30日)

1.500 ( 30自) 1.750 ( 30日)

4

4

.400 (2日)

ムーー一ー

( 永嶋家文書「金銭出入11長jl. をもとに作成)

多 い 。 現 横 須 賀 市 以 外 の 神 奈 川 県 域 の 人 も 多 く 見 られたが,その多くが現三浦市や三浦郡といった 三 浦 半 島 内 , さ ら に は 近 隣 の 横 浜 市 で あ り , 神 奈

川 県 内 で も 内 陸 部 に は ほ と ん ど 見 ら れ な か っ たD

これらに加えて,東京府14名,千葉県8名 が 確 認

できる。なお,千葉県の8名のうち6名は,東京湾

を挟んで横須賀の対岸に笠置する富津の居住者で

(11)

-〆 ,

J

I

-、

J

ι

J

J

,,

葉 山 村 ; 横 須 賀 市

L ¥、 、 衣 笠 村

• :5人 ¥ -

-

-l人 ) 勺 1

市拙r H

W

-

¥

j

γ

※ 純! 濁外 東京 市(1玄不 明) 3人 ' ¥ ノ 也 、d 久 里 浜 村 ¥

淡械リli ( 市 町 村 不 明 人 ¥i t

i1 i隆(台湾 ) 1 人 ノ「司、、‘ J

1、

, -、v 、、

第4図 永¥[ [ 島庄兵衛の葬儀における記11医者の居住地分布

( 永i嶋家文書「仮i綬J . i iセ I

注 ) 下 図 は 字 , 上 図 はi'!'i区│ 町村 単 位で表記。

ある 。永11鳴 庄 兵 衛 の 交 友 圏 は 現 横 須 賀 市 内 に 留 ま

らず¥神奈川県, さ ら に は 東 京 や 千 葉 に ま で 広 が

るものであったといえる。

次 に , 同 人 の 交 際 相 手 の 属 性 に 注 目 し た いD 第

3

表 は , 先 ほ ど も 用 い た 葬 儀 関 係 の 名 簿 に 所 属 ・

職 業 - 身 分 が 記 載 さ れ て い る 人 物 , あ る い は 『 横

須 賀 市 史j か ら 職 業 が 判 明 し た 人 物 及 び 団 体

8

0

件 を 抜 き 出 し た も の で あ る 。 所 属 や 職 業 が 明 ら か に な っ た の は 名 簿 に 記 載 さ れ て い る 人 物 の 内 ご く 少 数 に す ぎ な い が , そ の 特 徴 を み て み た い 。

ま ず , 軍 関 係 の 人 物 が 志 願 兵 を 含 め 何 名 か 見 受 け ら れ るo

I

第 三 海 壁 」 と 記 載 が あ る 人 物 は , 海 : 鑑 建 設 工 事 を き っ か け に 交 流 が 始 ま っ た と 考 え ら

れるO ま た , 先 述 の 通 り , 東 京 湾 要 塞 司 令 官 牧 野

清 人 や 海 軍 機 関 学 校 副 官 若 生 繁 吉 の2名はj

I

<

ll[鳥家 の 借 家 人 で あ るO

行政に携わる人々も多く見受けられる口先述の通

り,永嶋庄兵衛は埋立事業により横須賀に貢献する だけでなく,行政にも深く関わっていた 。横 須 賀 が 市 と し て 発 足 し た 明 治4

0

年 初 代 の 市 長 や 助 役 , 収 入 役 , 市 参 事 会 良 市 会 議 員 が 選 任 さ れ る が , 既 述

のように永J l [ 鳥庄兵衛もこの時初代市参事会員・市会

議員に当選している 。市会議員に関しては,納税額

で 市 民 が3階級に分けられ,各級から12名が議員と

して選出されたが,永l嶋庄兵衛は一級議員のl 人と

して当選している21) 。第3表 に は 市 長 や 助 役 , 収

入 役 , 市 参 事 会 員 , 市 会 議 員 の 名 前 が 多 く み ら れ る が , 彼 ら は 市 の 草 創 期 に 共 に 市 政 の 整 備 ・ 運 営 に携わった人物である。

また,

I

大 工 」 や 「鳶 職 」 等 土 木 請 負 業 関 係 の

人 々 も 多 く み ら れ た が , こ れ は 土 木 請 負 業 が 永 II!鳥 家の家業であったことと関係していると思われる。 海 盤 工 事 や 埋 立 事 業 を 通 じ て 取 引 関 係 や 雇 用 関 係 が あ っ た と 考 え ら れ るo

I

そ の 他 」 の 中 の 「 吉 谷 升

(12)

-第3表 永If!島 庄 兵 衛 葬 儀 関 係 名 簿 に お け る 所 属 ・ 職 業 判 明 者 一 覧

所属 駿 紫 f史教等

d

s

M

セ￘ャ ゥ j

Tお1! 1述J fdJに尽力

iゥセA SY ゥイh ェ [ Q イV BュB Hェ 」ゥe V ゥ I I第三海畿の冠!isしにも携わる

( tI<隣 家 文 総fi仮申IJ U ■ jN Gゥセェセ ェ ヲ t| ャ QN イ■ゥャゥ Gv QQI

注1)副は判臼Ij不能文字:を示す。

法2) 1絞殺.1交戦等i土必ずしも大正2.11二当11,¥・のものではない。

(13)

-之助j という人物には,

I

仮│ 限」の1:1コに「柏木E l3 地 主 仲 間 他 人 名 」 と い う 注 記 が あ るo ェ}\iiHAセ QZQS

EEJ に 土 地 を 持 っ て い る こ と は 既 に 述 べ た が . 同 地 の地主同士,交流があったことが分かる。

以上. 軍関係者. 行政関係者. 土木請負業関係者

を中心に. 地域の商! 苫や寺,銀行,学校,新聞社,

郵 便 局 関 係 者 等 多 械 な 職 種 の 人 物 が 見 ら れ ,

E

i:

兵 衛の人) l J f ¥の111m広さがうかがえる。所属や職業が│明 ら か に な っ た 人 物 は 全 体 の ご く 一 部 に す ぎ な い た め , 庄 兵 衛 の 交 友 圏 内 に は 他 に も 多 く の 社 会FhyJ冨l や職業の人物が含まれていると考えられる。

こ の よ う に , 氷II(!語家当主庄兵衛が大正則に有し

て い た 人 的 ネ ッ ト ワ ー ク は , 地 域 的 に は 横 須 賀 に

留まらず東京や千葉まで広がりを見せ,社会附! 雷

iセiOj@ ' 職業的には当該矧氷IIH言語ミの主要家業で- あった 土 木 請 負 業 と 関 連 し た も の で . 革 関 係 や 土 木 1 Vj1

係 , 地 主1ljJ問, さらには庄兵{ 桁自身も尽力してし1

た 横 須 賀 行 政 関 係 の 人 々 の み な ら ず , 様 々 な

:if

層 ・ 職 業 を 含 む も の で あ っ た 。 量 的 に も , 庄 兵 衛

シ[ゥ }\iii イセセシ

け と っ た , あ る い は 同 家 に 香 典 等 を 送 っ た 人 物 が

約860名 も お り , 極 め て 広 い 交 際 範 囲 を 持 っ て い

たと言える22)。

E 海 室 建 設 工 事 を め ぐ る 地 域 形 成 へ の 影 響

1 ) 海 室 建 設 工 事 を め ぐ る 労 働 者 の 募 集 と 輩 出

a. ;i](IIl鳥 家 に よ る 海 壁 建 設 工 事 の 実 態

本 章 で は

I

j]<II [l

B

家 文 書 」 を 用 い て , ① 労 働 者 の

募 集 ・ 輩 出 状 況 と . ② 労 働 者 の 輩 出 地 域 の 地 理 的

条件について検討することで, ;11):壁 を め ぐ る 住 民

へ の 影 響 に つ い て 考 察 す るD

はじめにj kl l!患家の請け負った海侵J l l 設工事の概 要 に つ い て , 軍 と 工 事 契 約 を 結 ん だ 際 に 作 成 さ れ

Zj iセゥ

治34年 ( 1901) から大正11年 ( 1922) にかけて39

│川残存している 。「契約書J の 内 容 は . 契 約│τJ ,有

効期限,契約内容,被契約者( 当日寺の築城音I

S横 須

iセ

の氏名) ,契約者( 永1111き家当主), 保 証 人 , 保 証 人

居住地と, Qo セRP

規則lが記されているお) 。

ま た , 氷11!l

8

家 の 請 け 負 っ た 工 事 内 容 は 「 契 約

J

だけでなく,

i

請 求 書 」 に も 記 載 さ れ て い る

場 合 が あ る 。 「 請 求 省 」 は 海 保 建 設 工 事 の 労 働

者への賃金支払いに│捺し 契 約 時 に 設 定 さ れ た 職

iャ セjZihj [

て 算 出 し た 賃 金 を ま と め . 被 契 約 者 で あ る 築 城 音1) 横 須 賀 支 部 や 東 京 湾 要 塞 司 令 官 な ど に 宛 て て 請 求 す る た め に 作 成 さ れ た 書 類 で あ る 。 一 部 の 「 請 求 書

J

に は 雪 到 にJ{i能 種 別 の 延 べ 人 数 と 延 べ 賃 金 を

記し,

I

摘 攻

J

と し て 具 体 的 な 工 事 内 容 が 記 さ れ

ているものがある。「契約書

:

J

と「請求譜

:

J

を月j:¥,、

iiAiセ Zシ

に す る こ と が で き るO

これら の 「 契 約 書 」 ゃ 「 請 求 書 」 を も と に . 氷

iihセ ャ セ

表 に 示 し た も の が . 第5図 お よ び 第4表である。

iセi ャ STセ Y

(1901 セRPI N [GQPG[ jw

砂コ: 事などの基悦工事や,

i

i

fQ塔,電rJ ¥骨に造物.

ゥヲ■Hj Jセi[セ

事 を 請 け 負 っ て い た こ と が わ か るo

i大 に 明 治38ilミ ( 1905) T セSYゥ ヲN

3

月と, 39

W セTP HQYPWI 3月, TP Qo セQR

QQXG jェH wャセャセ QQXG I

Zセセiェ

ョセQ M

SXセSY

て . 永II(鳥 家 は 契 約 期 間 終 了 直 後 の39年4月 に . 石 材 を 組 み 立 て て 作 ら れ た 基 礎 部 分 へ 小 石 や 砂 利 .

[ iセ

れるO ま た , 明 治40年 に は . 契 約 期 間 中 の10月に

第三 j 毎年: の基礎工事が竣工していたことから,永

I

U.!弘之は第三海: 盗の基礎 工 事 の 仕 上 げ の 工 程 を 請 け

負っていたと考えられる。

な お 明 治38年

2

月 に 初 め て 作 成 さ れ た 「 害IJ架 愉 送 」 に 関 す る 「 契 約 書

:

J

に よ れ ば , 架 石 割 架 の 採 掘 は 請 負 人 の 負 日 で 行 わ れ ( 第4条) , 1セ@ 3切

HWUセRRUォァI QOTセ Q Hャ YセWUォァI

(14)

-凡 伊j

o

:

セ エ]エ エ }セ

一一+ 。資空E材 の 流 れ

:引主Mな制矧附問υf肋 川ヲ労射j力引7

一一E怪.:労力のi5 it れ

位2' l :i Q Q juiセ jセi

第5図 永ilHき家による軍関係工事請負の概要

(

d

d

!

鳥家文書:

I

契 約 書 J.

I

請 求 書

J

をもとに作成)

小 石 を

7 :

3

の 割 合 で 切 り 出 し ( 第

6条)

鈎 栗 石

割 栗 の 輸 送 は , 検 査 に 合 格 し た 民 有 の 無 動 力 船 舶 に 石 材 を 積 載 す る と と も に . 18歳 以 上 の 水 夫2名 以 上 が 乗 り 込 み , 官 有 の 汽 船 で 曳 い て 輸 送 し て い た ( 第

7

9

条) 。

ま た , 大 正3年 ( 1914) 4セ@ 9月 に は , 走 水 地 区( 現横須袈i '

i

l

走 水 ) に て 架 石 部 栗 を 切 出 し て 第

三海; 僅へ輸送し放捨していたO 同 年 の

8

月には,

鉄 筋 コ ン ク リ ー ト 製 で2 0 mx

7

mの 大 き さ の

「ケーソンj という.

I

坊 波 壁 を 保 存 す る 防 御 物 を

人 工 島 の 外 周 に 据 え 付 け る 工 事 を 行 っ て い た 。 つ

ま り . 大 正

3

年 の 作 業 は こ の ケ ー ソ ン を 据 え 付

け る た め , 基 礎 部 分 を 建 造 す る 作 業 で あ っ た と 考

えられるO

さ ら に , 大 正

8

年 ( 1919) に も , 走 水 の 海 盤 建

設 工 事 用 の 倉 庫 に 砂 利 砂 セ メン トを搬入した

の ち , 第 三 海 壁 へ 輸 送 し て い た 。 加 え て , 大 正

Yセ QャHi YRPセRRI Z

矢 ノ 津 弾 薬 庫 - 三111奇砲台・箱111奇 で の 工 事 も 請 け 負っていた。

こ の よ う に , 永 嶋 家 の 請 け 負 っ た 海 壁 建 設 工 事 は , 石 材 の 切 り 出 し か ら 輸 送 , 放J舎をはじめ とす る 基 礎 工 事 か ら , 砲 台 な ど を 据 え 付 け る 上 部 工 事

ま で の 全 般 に 及 ん で い たO また , 石 材 の 採 掘 か ら

輸 送 に つ い て , 請 負 人 の 負 担 で よ り 深 く 採 掘 す る よ う 指 示 さ れ て いた こ と や , 船 舶 も 築 城 部 の 検 査 に 合 格 し た も の を 官 有 の 汽 船 で 曳 い て い た こ と か ら , 海 壁 建 設 工 事 に は 軍 に よ る 材 料 や 工 法 の 指 示 も認められた。

b. 労 働 者 の 募 集 の 実 態

次 に , 永 l嶋家による労働者の募集活動の実態、に

つ い て 検 討 す るo 永 嶋 家 に よ る 労 働 者 の 募 集 活 動

の 実 態 に つ い て , 直 接 明 ら か に す る こ と の で き る 資 料 は 確 認 さ れ て い な い 。 た だ し 「 契 約 書 」 を

は じ め , 諸 資 料 の 記 述 を も と に . お お ま か な 募 集

活 動 の 実 態 を 明 ら か に す る こ と が で き る 。

ま ず , 明 治3

4年

4

月 に 初 め て 作 成 さ れ た ① 「 東

京 湾 砲 台 建 築 用 職 工 人 夫 供 給 請 負j と ② 「 東 京 湾

第 二 海 室 内 水 雷 衛 所 建 築 用 職 工 人 夫 供 給 」 に 関 す

(15)

-第4表 海盗建設工事および水嶋家の革路設工事請負の推移

iヨ時 71<感護量若手偽 日時 許証後建設状況 永島築工事繍主主

if. 月 第一海銀 書Ei悠長長 守三

FJ 第二海銀 セコZ

6

14高188子1 セ[

き品事紛政

7. 4会石開始

1 - 3 111912

4 - 6 7 - 9

シセ

事震工 10- 12

l ? トiffi寸 鈴 了 1 - 3

10.8被. 災姶効石汲開墜始破壊

6

211告13 4 -ら

7 - 9 13311900

d司

r

H

.J

10- 12

1 - 3 311914

4 - 6 6J :日 工昔 場竣工 . J二郎工事務工

7 - 9 8 ケーソン掬1,

J 襲撃

1 l

0 132 10- 12

1 - 3

1:1:111902 4 - 6

411915 4 - 6

1

4所保等!!工

r l i

灯事務問 工

9 .被災陪吐抽出お

7 - 9 10- 12

1 1 - 3 題議

4 - 6

511916 4 - 6 7 - 9 10- 12

1 - 3

トートーー

4 - 6

明1,)1Il:JU' 147i0寸6932

611.917

9

トー←ートー

10-.12

iー トiー

1 - 3 lJ 1ill:JU;}

1470-4692

112.カノン砲折芥l r

rムI

1 - 3 TNャャセ ; 創ゆ工事

14710-16932 1.)日I" 'VV

711918 4 - 6 7 - 9 百: 10- 12

1-1 ートー

1 - 3 811919

4 - 6

7 - 9 怒

10- 12 1 - 3 1

' IUI1:JU 1 471か)-寸6932

4防波盟主綾工

10

911920 4 - 6 7 - 9

10- 12 3議

1 - 3 3 仁詩1工事竣工

141山 口

14710-16932

1011921 4 - 6 7 - 9 10- 12 1 - 3 14:: 1::1山J

147

1111922 4 - 6 7 - 9 10- 12

1 - 3 1 - 3

│ωILJ.lV

147I{

I6 9

3 2

11211923 4 - 6

7 - 9 シ ュセ 10- 12

11411925 5兵総よりi徐 絡

QTTQQセ@

1 47(

トロ

セ@ H セi jN f]j[京湾第三海経建設史i をもとに作成)

7 .被災

j主) 工事務負の内容/契約機関は以下の通り。

ュセN O QI

j G■jGゥQ セゥ A j■ゥャエ tNO

① 横 須 賀 町j惨 カ 陵Z江省官iJjより主主石刻架を切出し官船へ積込み第二海銀にて!ixi会/築城郡機須賀支部長 ④ 横 須 賀 11可i渉力際lJj :省官山より薬石刻架を切出し官自li へ積込み第三海銀にて放絵/築) ,車部横須賀支部長

ゥ■ャャ i Aャtjᅨ Wk Qj■ QャG ↓OサゥGセ

siill'i'!iIIIJUᅨW}N U ᅨW k セjjャ i O jI

@ a東京湾要塞行j令部に要する滅工人夫供給/東京湾*i l & 司令官

b ]jミ京湾姿畿地内(泊│ 町石H採 掘j也 枢 会 数j色)での樹木/l司f1' : : J : I ,下/ 築) ,占総本部長 C矢ノ浮建築所に伎役するl搬工人夫供給/築城告¥i横須賀支部長

dセNHQAi ヲ IO

E三締砲台に使役する l除工人夫供給/築城部横須賀支部長

(16)

-る│契約番j に 注 目 す る ① , ② と も に , 第 l 条には仁五、ズ砲台附近ニ在住シ永久工事ニ従事ス ル ノ 希 望 ヲ 有 シ 身 元 確 実 ニ シ テ 秘 密 漏 洩 ノ 憂 ナ シ ト認ムルモノニ限jレj と記載されているO つまり 労 働 者 の 募 集 は , 海 壁 付 近 に 居 住 し 継 続 し て 工 事 に 従 事 で き る 住 民 を 中 心 に 行 つ よ う , 軍 か ら 指 示 されていた。

一 方 , 明 治3511三に作成された

f

契 約 書

J

では, 募 集 範 囲 に 関 す る 内 容 が 簡 略 化 さ れ て い るO ま

た,明治

4

3

年( 1

9

1

0

)

に 作 成 さ れ た 「 契 約 書

J

で は.

1

イセ Qュ

え ら れ て い る 。 さ ら に 大 正

8

年 の { 契 約 書

J

で は 日 本 帝 国 ノ 距 民 ニ シ テ 年 齢 満 弐 拾 歳 以 上 五拾歳以下ナルコト 但 シ 弐 拾 歳 以 下 及 五 拾 歳 以 上 ノ 者 ニ ア リ テ モ 官 ニ 於 テ 其 技 倒 ヲ 認 メ タ ル 場 合 ノ叶

t

娘 二 ア ラ ズ

2

.

身 元 確 実l弘 行 方 正 従}

I

I

買忠実 ナ ル 者 タ ル コ ト 3. 身体強{ 建能ク労働ニj甚フル 者 タ ル コ ト 4. 職 工 ニ ア リ テ ハ 宮 ノ 認 ムjレ相応 ノ 技 儒 ア ル コ ト

5

.

工 事 ニ 関 シ 秘 密 ヲ 厳 守 シ 得 ル 能 力 ヲ 有 ス ル コ トj という

5

つ の 資 格 が 記 さ れ , 職 工 の 年 齢 が 拡 大 さ れ る と と も に , 能 力 に 関 す る 条 件 が 増 加 し て い るD

つまり,初回の契約書では,海: 壁に近接して居

住 し , 継 続 し て 工 事 に 参 加 で き る 住 民 を 労 働 者 と し て 雇 用 し よ う と す る , 軍 部 の 意 向 が 強 く 表 れ て い た こ と が 指 摘 で き る 。 一 方 .

2

1 i l l 日以降の契約 書 で は , 年 齢 や 身 体 技 術 的 に 優 れ た 有 能 な 労 働

集 活 動 の 範 凶 に つ い て の 規 制 が 弱 ま っ て き た こ と がと指摘できるO しかし 軍 の 意 向 の 変 化 か ら 規 約 の 条 文 が 変 化 し た も の の , 永111患者之の募集活動の 範 囲 が 急 に 拡 大 し た と は 考 え に く い 。 よ っ て , 永

1

1日き家による労働者の募集範閤は,初回の規定を踏 襲 し , 海 壁 周 辺 の 住 民 をl二! 二! 心に行われていったと 考えられるO

加 え て , 千 葉 県 富 津 地 区 ( 現 富 津 市 富 津 ) に は , 大 正

3

年( 1

9

1

4

)

頃 に 撮 影 さ れ た .

1

1=1コj頼商

をはじめ数種類の半織を着た海: 鑓建設工事従

事 者 の 集 合 写 真 が 残 存 し て い る26)。 ま た , 富 津 地 区には.

1

大 野 組 壱 海 侵 出 張 所j の{ 人夫住所録」

が 現 存 し て お り , 大 正

1

4

年( 1

9

2

5

)

まで富津地区 に 存 在 し た 土 木 請 負 業 者 大 野 組 が , 第 一 海 壁 で は あ る も の の 修 繕 工 事 に 関 わ る 労 働 者 を 供 給 し て い た こ と が 確 認 さ れ て い る27)。 つ ま り , 軍 と 工 事 契 約 を 結 ん だ 土 木 請 負 業 者 が , ネ ッ ト ワ ー ク の あ る 各 地 の 地 元 土 木 請 負 業 者 と 提 携 す る こ と で 労 働 者 の 募 集 を 行 っ て お り , 永 嶋 家 も 同 様 の プ ロ セ ス で 労 働 者 を 募 集 し て い た と 考 え ら れ るO

以 上 を 踏 ま え る と , 永i嶋家の海: 壁建設工事の労 働 者 の 募 集 は , 初 回 の 契 約 時 に 設 定 さ れ た 革 の 規 約 が 踏 襲 さ れ , 海 壁 ) 習 辺 に 範 囲 を 限 定 し 永IQI.き家 と の 人 的 ネ ッ ト ワ ー ク で 結 ば れ た 地 元 土 木 請 負 業 者 を 仲 介 し て 行 わ れ て い た と 考 え ら れ るD

C. 労 働 者 の 供 給 の 実 態

続 い て , 労 働 者 の 供 給 の 実 態 に つ い て 検 討 す るD 資 料 と し て , ま ず , 大 正

3

1

2

月 に 作 成 さ れ た「原籍記」を用いるo

1

原 籍 記j は,当時の永嶋 家 の 請 け 負 っ た 海 盤 工 事 建 設 労 働 者 の 氏 名 , 地 番 ま で 含 ん だ 住 所 , 生 年 月 日 を 書 き 上 げ た も の で あ るD なお,大正3 年 以 外 の 年 次 に つ い て は 同 様 の 資 料 は 確 認 さ れ て い な い 。 資 料 の 作 成 さ れ た 背 景 として,永III鳥家で、は大正

2

年( 1

9

1

3

)

に永i嶋庄兵 衛 が 死 去 し 翌

3

年に葬儀が行われるとともに, 正 太 郎 へ と 世 代 が 交 替 し て い るD このため「原籍 記j は,永11[患家の世代交代にあたって,労働者の 確 認 や 引 き 継 ぎ を 自 的 と し て 作 成 さ れ た も の と 考 えられる。

ま た , 労 働 者 の 賃 金 計 算 の た め に 毎 年 作 成 さ れ る出勤簿である

f

支 払 帳j に は , 労 働 者 の 氏 名 -出 勤 日 に 加 え て 職 種 が 記 載 さ れ て い る 。 そ こ で ,

I

}

京 籍 記 」 と 大 正3 年 前 後 の 「 支 払11長

J

を 合 わ せ て 検 討 す る こ と に よ り , 当 時 の 海 壁 建 設 工 事 労 働 者 の 出 身 地 と 職 種 を 明 ら か に す る こ と が で き るo

第6 図は.

1

原 籍 簿

J

お よ び 「 支 払11辰」から, 「原籍簿j に 記 載 さ れ た 労 働 者220人 に つ い て , 職 種 別 に 居 住 地 の 分 布 を 示 し た し た も の で あ るO ま ず 労 働 者 の 居 住 地 に 注 目 す る と , 労 働 者 の 総 数

220人のうち

186人 が , 東 京 湾 要 塞 地 帯 に 含 ま れ る

神 奈 川 県 三 浦 郡 お よ び 千 葉 県 君 津 郡 鹿 辺 の 出 身 者

(17)

-wa ; M セZ wb 二4卒女 人 夫 。 職 稲 不 明

I J、

2

sI在JJ: t 'JP

( OJ

ェ jヲャ ェゥゥセ@

主計坂

j淀川

-@ Wb

セエii ii jiセG[j@

第6 図 大正 3 年( 1914) 12月における海壁建設労働者の職種別分布

( ;l

k

il!

鳥 家 文 書 「 原 籍 簿

J

I

諸 倫 夫 賃 金 支 払

1

'

長j を も と に 作 成 )

となっている。また

186

人のうち

173

人 が 千 葉 県

君津郡周辺の出身者であり, うち

9

1

人 が 君 津 郡 富

津 町 富 津 地 区 の 出 身 者 と な っ て い る 。 ま た , 三 浦 半 島 や 房 総 半 島 中 南 部 だ け で は な く , 千 葉 県 や 神

奈川県,東京府といった関東地方, さらには福島

県や新潟県,長野県,滋賀県,兵庫県,大分県と, 広範囲にわたって分布していたことがわかる。

次 に 職 種 とj苦 住 地 の 関 係 に つ い て 注 目 す る

と,大正

3

年 前 後 に 作 成 さ れ た 「 東 京 湾 砲 台 建 築

用 職 工 人 夫 供 給 請 負 」 に 関 す る

f

契約書」では.

5

表 に 示 さ れ た

1

7

種 類 の 職 工 が 記 さ れ て い た 。

ま た , 同 時 期 に 作 成 さ れ た 「 支 払 帳j には,

I

工J ,

I

石 工

J

I

器 俄 潜 水 夫

J

.

I

潜 水 夫

J

.

I

世 話 役

J

.

I

工夫J ,

I

火 夫

.

J

I

人 夫

J

.

I

ス! 丈夫J ,

I

女 人

J

.

r

持 人

J

の11種 類 の 職 工 の 存 在 が 確 認 さ れ

た。また.

r

潜水夫」は一 三等,

r

工 夫 」 と 「 人

夫j は 一 五 等 .

r

女 人 夫j は 二 等 に 階 級 が 区 分

されていた。

なお.

r

世 話 役 工 夫 j や「世話役」について,賃

金 水 準 を 確 認 す る と .

r

世 話 役 工 夫j の 賃 金 は 一

般 の 工 夫 よ り は 高 額 で あ る も の の , 煉 瓦 工 , 石 工 を は じ め と す る 専 門 職 工 を 下 回 っ て お り , 特 別 な

金額を給付されていたわけで、はない( 第

5

表) 。

は じ め に , 賃 金 の 高 い 職 種 か ら 分 布 を 確 認 す る

と.

r

大 工 」 に つ い て は , 富 津 地 区 の 浜 町 に 1 名

確 認 で き た 。 「石工j に つ い て は , 足 柄 下 郡 真 鶴

村 ( 現 真 鶴 町 ) 出 身 者 が1名 確 認 で き たo

I

器 械

潜 水 夫j に つ い て は 確 認 で き た

1

0

名全員が.

r

i

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