中国 と日本科 学 文化 交流発展 の研究
田 育 誠
目 次
はじめ に
一 民間 の科学文化 交流 二 政府間 の科学文化 交流
三 民 間 と政府 の二次元 の科学文化交 流 おわ りに
は じ め に
中 日両 国 科 学 文 化 交 流 は す で に二 千 年 の 歴 史 が あ る。 両 国 の 国民 と政 府 は 互 い に勉 強 して,そ の 交 流 の形 式 は古 代 か ら現 代 に至 る まで,最 初 の民 間 の 自発 的 で個 別 的 な もの か ら段 段 政 府 が 組 織 し,計 画 して,交 流 す る もの とな って きた の で あ る。 そ して時 間 が経 過 す る につ れ て,政 府 と民 間 とい う二 っ の レベ ル で の 交 流 が 並行 して行 わ れ て きた。 こ こで い う文 化 とは広 い範 囲 の 文 化 を指 す もの で,科 学,技 術 もふ くまれ て い る。 中 日科 学 文 化 文 流 の歴 史 を検 討 す る こ とは 中 日科 学 文 化 交 流 を深 め,ア ジ ア文 明 の発 展 を促 進 す る と い う現 実 的 な意 義 が極 め て大 きい と思 う。
一一 民 間 の 科 学 文 化 交 流
中 日両 国 間 の科 学 文化 交 流 は最初 は,中 国 か らの移 民 に よっ て行 わ れ た。
秦漢 か ら魏 晋 南 北 朝 時代 まで,つ ぎか らつ ぎへ と中 国人 が朝 鮮 半 島 を経 由 し て 日本 列 島 に や っ て きた ・秦 代 の徐 榴 よ多 くの 中 臥 をつ れ て 日本 に惚 て きて,中 国 の 農業 文 化 を 日本 に伝 え,中 日両 国 科 学 文 化 の交 流 を開 拓 した。
日本 応 神 天 皇 の時 代 に は国 の 門 を開 き,中 国人 が 日本 に渡 来 し定 着 す るの を 奨 励 す る国策 が取 られ た。 これ に よ って 当 時 た くさ ん の 中国 人 が 日本 に移 民 した 。 大 和政 権 時 代,日 本 政 府 は 中国 の移 民 をそ の特 長 に従 って,「 部 」の形 式 に組 織 した。 これ らの部 は 日本 社 会 と生 産 技 術 の各 部 門 に入 り・部 民制 に な った。 中 国移 民 は持 っ て いた 先 進 的 な生 産 技術 を 日本 に伝 授 しi生 産 力 を 高 め て,大 和 政権 の存 立 基 盤 を固 め,日 本 の古 代 社 会 か ら封 建 社 会 へ の移 行
の た め の物 質 的生 産 基 盤 を作 った。 今 日の神 奈 川 県 の 秦 野 市 の 市 名 も中国 秦 代 の移 民 の苗 字 を もっ て定 め られた ので あ る。
二 政府 間の科学文化 交流
中 国 の階 唐 時 代 に はか な り発 達 した科 学 文 化 と完備 で 有効 な典 章 制 度 が あ った。 移 民 の 民 間交 流 を通 して 中国 の 文 化 を吸 収 す る こ とだ けで は満 足 で き な い 日本 政 府 は それ らの典 章 を手 に入 れ るた めに両 国 の政 府 間 の交 流 の一 環
として 中 国 に使 節 を派遣 し,ま た僧 侶 と留学 生 を中 国 に派遣 して,中 国 の 漢 唐 科学 文 化 を学 ばせ た 。 遣 階 使 は一般 的 に は推 古 天 皇 十 五 年(六 〇 七)に 派 遣 され た小 野 妹 子 が一 番 早 い と考 え られ て い る。 翌 年,小 野 妹 子 は二 回 目 に 中 国 に渡 った 時,留 学 生 四人 と留 学僧 四人 をつ れ て行 った 。 これ らの 留 学 生 は中 国 に二 十,三 十 年 間 滞 在 した 。 留 学 生 た ち は人 数 こそ少 な いが,階 の科 学 文 化 を吸 収 した効 果 は 日本 の科 学 文化 に対 して の影 響 が 頗 る大 きか った 。
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遣 唐 使 は,野 明 天 皇 二 年(六 三 〇)八 月 か ら派遣 した犬 上 三 田紹 を初 め と して 宇 多 天 皇 寛 平 六 年(八 九 四)ま で ,合 せ て 十三 回継 続 した 。 この 交 流 は 二 十 六代 を経 て,二 百 六 十 四 年 に わ た った の で あ る。 この間 日本 は使 節,留 学 生 と留 学 僧 を派遣 して,両 国 科 学 文 化 交 流 も密i接に な っ て きた。 そ の 中 か
ら中 日文 化 交 流 の た め に貢 献 した人 物 が 輩 出 した。 遣 唐 の学 生 中 で 一 番 有 名 な の が 元正 朝 的 吉備 真 備 で あ っ た。 彼 は唐 に十八 年 間 留 学 して,各 種 の技 能 を学 ん だ。 そ の ほか に空 海 も有 名 な例 で あ る。 吉 備 真 備 と空 海 は唐 か ら帰 国 した あ と,内 政 と外 交 の政 策 を担 当 す る重 要 な人 物 に な った。 一 方,日 本 の
阿倍㈱ 呂と醐 嗣 は醐 の官僚 に{壬 用され匙 特に阿倍 は軸 ,王 織
交 誼 が深 か った こ とや,唐 風 を真 似 た嵯 峨 天 皇,空 海,橘 逸 勢 ら 「三 筆 」 の 書 が もて は や され た の は有 名 な事 実 で あ る。
唐 の 揚 州 大 明 寺 鑑 真 和 尚 は六 回 日本 へ の 渡航 を図 り,失 明 とい う代 価 を払 って,中 国 仏教 典 制,建 築,医 学,彫 塑 ,書 法 等 を 日本 に伝 え た。 日本 に着 い た七 五 四 年 に 聖武 天 皇 の盛 大 な もて な しを受 けた。 彼 は空 前 の 盛 大 な大 仏 開 眼 を司 っ た り講 学 した り して,そ れ か ら長 い間 奈 良 に滞 在 し,余 生 を仏 学 文 化 の 日本 へ の伝 授 に さ さげ た。
三 民 間 と政 府 の 二 次 元 の科 学 文 化 交流
1商 船,日 僧 と科 学 文 化 交 流
八 九 四年 遣 唐 使 の廃 止 は何 も中 国 科 学 文 化 の伝 来 が停 止 した こ とを意 味 す るの で は な く,実 際 は民 間 レベ ル で の 商 船 の来 往 が 絶 えず,宋 船 が 中 国 か ら 日本 に舶 載 して 来 た もの は香 薬,糸 糸織 物,書 籍 ,文 具,書 画,陶 磁 器 の類 で あ るが,日 本 か ら中 国 に運 ん で い っ た もの は砂 金,水 銀,硫 黄 等 の 原 料 の他 に,平 安 貴 族 文 化 の所 産 で あ る蒔絵,一:11,水 晶 細 工 ,刀 剣及 び扇 が リス ト にの っ て い る の は注 目に値 す る。 就 中,日 本 刀 は宋 代 の 中 国 で喧 伝 され,欧 陽 修 に 「日本 刀 歌 」 一 首 が あ り,ま た 明代 の人 士 も倭 刀 と称 して,こ れ を珍
重 した。
宋 元 文 化 の影 響 下 に於 て 日本 の 国民 文 化 の基 礎 が形 作 られ て い った の で あ る。
しか し,五 代,宋 に な っ て 中 日文 化 史 上 新 しい傾 向が 出 て来 た こ とをみ の が して は な らな い。 そ の一 は 日本 に於 け る漢 文 学 の作 品,ま た は仏 教 関係 の 著 作 が 中 国 に初 め て紹 介 され た こ とで あ る。 九 二 六 年,興 隆 寺 の法 師 寛健 が 醍 醐 天皇 の勅 許 を得 て,五 台 山 を巡 礼 した際,天 皇 か ら菅 原 道 真(三 巻),紀 長 谷 雄(三 巻),橘 広相(二 巻),都 良香(一 巻)計 九巻 の 日本 名 詩 人 の詩 集
と小 野 道 風 の行 草 書各 一 巻 を下 附 され,こ れ を中 国 に伝 え て い る。 また 平 安 時 代,浄 土 思 想 の 普 及 に極 め て 貢 献 の あ っ た 源 信 の 『往 生 要 集 』,『因 明 論 疏 』,『相 達 略 註 釈 』 等 の著二作 がi九 九二 年 宋 商 に よ って 天 台 山 国 清寺 也 婆 州 聖 黄 山七 仏 道 場 に もた らされ,宋 代 の 中国 仏 教 界 にか な りの影 響 を与 えて い
る。
2近 代 科 学技 術 の 交 流
日本 は六 四 五 年 か ら大 化 改 新 が 行 わ れ た。 その時 か ら,中 国文 化 を よ く学 ぶ よ うに な った 。 中 国 の歴 法,天 文 学,医 学,算 尤,水 利=灌概 な ど実 用技 術 もよ く学 ん だ。 た くさ んの技 術 と管 理 人 材 を育 て られ,そ れ に よっ て 日本 経 済 の 発 展 が 促進 され た 。 日本 人 の実 用 技 術 を重 視 す る とい う習 慣 もこれ に よ
っ て で きた とい われ て い る。 また真 似 を通 して研 究 製 造 す る こ とを心得 て い る とい う民 族 の素 質 も築 き上 げ られ た ので あ る。 宋 と明 の 時代 に な っ てか ら
も,日 本 は中 国 か ら科 学 技 術 を吸 収 し続 け た。 宋 の時 代,日 本 は 中 国 に専 門
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の人 を派 遣 して陶磁 器 の技 術 を勉 強 させ た。 中 国 か ら学 んだ工 芸 技 術 の 中 で, あ る部 分 が 中 国 と同 じレベ ル に,あ る部 分 が 中国 よ り高 い レベ ル に な った 。 刀,剣 と染物 の 技術 な どが 良 い例 で あ る。 漆 の技 術 は 中 国 を超 えた。 それ ば か りで な く金 泥 画 漆 法 も発 明 し,そ の技 術 が あ ま りに もす ば ら しい の で 明 の 時 代 に は有 名 な技 術 者 楊 損 が 日本 に派遣 され,こ の技 術 を修 得 す る よ うに命
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じ られ た。 江 戸 初 期 に 日本 の染 物 工芸 が 高 い レベ ル に達 し
,色 も変 らな い の で 中 国 の 商人 は 白 い布 を長 崎 に運 ん で染 め て も らっ て,そ れ か ら中 国 の 国 内
に売 りさ ば いた の で あ る。 お そ ら く中 日間 の最 初 の技 術 協 力 の 例 で あ る
。 上 掲 の実 例 は中 日両 国 間 に於 け る文 化 関 係 が 単 な る一 方 的文 化 の 受容 で は な く,十 世 紀 以 降 日本 か ら も中国 に与 え る もの が あ り,真 の意 味 で の文 化 交 流 が既 に始 まった こ とを証 して い る。 か か る相 互 依 存 の 関係 は この後 永 く持 続 して,明 清 時 代 に至 った の で あ る。 中 日科 学 文 化 文 流 史 上,更 に注 目す べ き事 象 は,遣 唐 使 時 代 を除 き,古 代 か ら明 清 時代 に至 る まで,両 国間 に於 け る科 学 文 化 の伝 播 が 政府 の役 人 や 使 節 よ り も帰 化 人 ,留 学 生,僧 侶(学 問僧 ・ 請 益 僧)及 び 中 日商 費 の仲 介 に よ っ て な され て来 た こ とで あ る。 周知 の 如 く, 鎌 倉 及 び室 町 幕 府 統 治 下 の 日本 で,僧 侶 の み 中 国渡 船 を許 され た の で あ るが, 宋,元,明 三 代 の 中 日僧 侶 が,禅 師 の語 録,朱 子 学,印 刷 術 ,医 学,美 術, 工 芸 そ の他 の技 術 の 導入,延 い て は五 山 文 学 の発 展 に果 た した 役割
,明 代 十 七 回 にわ た る勘 合 符 貿 易 を通 じて の禅 師外 交顧 問 また は使 節 として の活 躍
, また は徳 川 幕府 の厳 重 な鎖 国政 策 の下 で,長 崎 に来 航 した 中 国 海 費 が 清 日間 の文 化 交 流 に果 た した 縁 の 下 の 力 持 ち的 役 割 は,何 れ も中 日文化 関 係史 上 特 筆 大 書 す べ き こ とで あ る。
3近 代 中 日文 献 の 交流 (1)中 日文献の交流の歩 み
近 代 中 日文献 交 流 の最 も重 要 な成 果 は両 国 で 出版 され た 中 日書 籍 の翻 訳 で あ る。 明 治維 新 以 後,中 日両 国 間 各 方 面 の交 流 が繁 くな り,一 八 九 六 年 か ら 中 国 の青 年 が 日本 に 多数 留 学 す るた め に,中 国 人 学 生 が 日本 語 を学 習 す る よ うに な った 。 また 日本 に於 て も,一 八 九五 年 宮 島 大 八 の善 隣 書 院 ,一一八 九 七 年 東 京 外 国語 学 校,一 九 〇 一 年 東 亜 同文 会 に よ る東 亜 同文 書 院(上 海)の 設 立 に見 られ る如 く,日 本 人 が積 極 的 に 中国 語 を学 び,中 国 を研 究 し,理 解 せ ん とす る風 潮 が 膨 灘 として興 った。 か くして数 多 くの 中国 古 典 や時 事 関係 の
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書 が 日本 文 に訳 され,反 面,お び た だ しい数 の 日本 の 図書 が 中文 に訳 出 され た ので あ る。 これ は従 来 の 中 日科 学 文 化 交 流 史 に は なか った 一 つ の新 しい潮 流 で あ る と称 す べ きで あ ろ う。
近 代 中 日両 国 の知 識 人 の間 で企 画 され た 中 国書 日本 訳 本 及 び 日本 書 中 国訳 本 の数 はい か ほ ど あ るか 正確 に知 る よ し もない が,そ の分 野 は前 代 の文 化 交 流 の 主 な る対 象 が儒 学,禅 学,芸 術 及 び若 干 の実 用 科 学 技 術 に限 られ て い た の に反 して,人 文 科 学,社 会 科 学 及 び 自然 科 学 の各 方面 に及 び,そ の 中 で も 双 方 の文 化 と社 会 の理 解 に必 要 と思 わ れ る著 作,両 国 の近 代 化 達 成 に稗 益 す る と目せ られ た 各 種 の技術 書 及 び西 欧 近 代 思 想 及 び文 学 の傑 作 が翻 訳 事 業 の 主 な る対 象 とな っ た。 総 体 的 にい って,中 国訳 日本 書籍 の 数 が 日本訳 中 国 書 籍=よ りは るか に多 いの は,近 代 中 国 が,い ち早 く西 欧 の技 術 を採 り入 れ て近 代 化 に成 功 した 日本 か ら学 ぽ う とす る この時 代 の趨 勢 を反 映 して い るの で あ
ろ う。〇 六 〇 〇 年 か ら一 八 九五 年 まで の三 百 年 の 間,日 本 で翻 訳 され た 中 国 の書 籍 が一 二 九種 にの ぼ った 。 中国 の 方 で 日本 の書 を翻 訳 した の は十 二 種 類 で あg}。 〇 八 九 六 年 か ら〇 九 一 一 年 まで,日 本 で翻 され た 中 国 の書 籍 が+
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六 種 で あ り,中 国 で 日本 の書 を翻 訳 した の は九 五 八種 に の ぼ った 。 日本 と中 国科 学 文 化 の交 流 は新 しい段 階 に は い った の で あ った。
(2)中 日間 におけ る社会,人 文科学文献の 交流
中 国近 代 の訳 書 は十 六 世 紀 に は じ ま り,宗 教 書 が お もで あ った 。 十 九世 紀 の 中葉 以 後,訳 書 の お もな動機 は大 体 富 国強 兵 とい う こ とで あ っ て,そ の着 眼 点 は西 洋 の科 学 技術 で あ っ た。 した が っ て訳 書 の最 大 多数 は 自然 科 学 と応 用 科 学 に属 す る もの で あ った 。 二十 世 紀 以後,文 化 意識 と思 想 は一 大 変 化 を
した 。 中 国 の知 識 人 は 中国 改 造 の重 点 を政 治 社 会 と人 文 方面 に移 して い た。
だ か ら社 会 科 学 と人 文 科 学 の訳 書 が増 加 して,科 学 技 術 の訳 書 以 上 に な った。
一 九 一 一 年 以 前 は,現 在 あ る資料 か らみ る と,社 会 科 学 方 面 で は,日 本 で 十 一 種 類 の 中 国 書 を訳 した 。 日本 文 化 に た い して 中 国 は,一 八 八 三 年 に な っ て,
は じめ て 日本 の社 会 科 学 書 を訳 した。 日本 が 中 国 の社 会 科 学 の書 籍 を訳 した 26国 際経営論集No.131997
こ とにつ い て い え ば,一 九一 二 年 が 重 要 な年 で あ る。 この 年 か ら新 中 国 成 立 に つれ て,日 本 は中 国 の社 会 政 治 の 理 解 が緊 要 で あ る こ とを感 じ始 めた 。 だ か ら,中 国 の社 会 科 学 方面 的 著 作 を特 に重視 し,翻 訳 の し ご と もそれ につ れ て 多 くな っ た。
一 六 六 〇 か ら一八 九 五 年
,日 本 語 で翻 訳 され た 中 国 の 書 籍 一 二 九 種 類 の訳 書 の 中 に,文 学 類 が 九 十種 類 を占 め て お り,歴 史 類 の十 九種 類,語 言 類 の六 種 類 よ りiず っ と多 い。 多 数 の 中 国 古 典 小 説 と散 文 集 が 日本 の訳 者 た ち に注 目 され て い る。 た とえ ば,『 水q傳 』,『三 国 志演 義 』,『西遊 記 』,『肉蒲 團』,
『金 瓶 梅 』,『北 西廟 記 』,『世 説 新 語 』,「平 妖 傳 』,『遊 仙窟 』,『連 城 壁 』等 の 本 が 何 度 も再 発 行 され た。 と りわ け,『 水p傳 』の 訳 書 が 十 一 種 類 あ るの は,こ の 小 説 が 日本 の武 士 及 び庶 民 た ち に大 歓 迎 され た と言 う も過 言 で はな い だ ろ
う。 それ か ら,日 本 の作 家 は 中 国 の古 典 小 説 を真似 る小 説 が とて も多 い の で あ る。 た とえ ば,仇 鼎 散 人 の 『日本 水 濡 傳 』(10巻,一 七 七 七 年),伊 丹 椿 蘭 の 『女 水 濫 傳 』(4巻,一 七 八 三 年),僧 空 阿 の 『俳 譜 水p傳 』(10巻,手 書 く),好 花 堂 の 『新 編 女 水a傳 』(6巻,一 八 一 二 年)等 数 十種 類 が あ る。 そ の小 説 は 日本 で の影 響 力 とい え ば,上 の文 人 雅 人 と も,下 の市 井 庶 民 と も, か か わ らず,水 浄 英 雄 人 物 の別 名 で 自分 に名 を乗 っ て ほ しい ぐ らいで あ る こ
とに な る。 梁 山泊 とは,今 迄 に も英雄 豪傑 あ るい は野 心 家 らの集 合 す る場 所
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と言 わ れ て い る。 中 国 で は 日本 文 学 作 品 の翻 訳 は前 清 末 期(日 本 で は明 治 後 期)か らは じ まっ た。 商 務 印書 館 の 「説 部 叢 書 」(世 界 文 学 全 集)に 徳 富 藍 花 の 『不 如帰 』(こ れ は抄 訳),尾 崎 紅 葉 の 『寒 牡 丹 』 な ど,そ う とうの数 の訳 本 をみ る こ とが で き る。 しか し,日 本 文 学 が本 格 的 に訳 され た の は一 九二 〇 年 代 以 後 で あ っ て,魯 迅 が 武 者 小 路 実 篤 の 『あ る青 年 の夢 』(訳 名,一 個 青 年 的夢)を 訳 した の が その さ きが け とい え よ う。
漢 詩 の唱 和 は中 日文 学 交 流 の 一 つ の特 殊 な方 式 で あ る。 一 八 七 〇 年代 の 中 日国交 の樹 立 か ら九〇 年代 初 め まで の間,駐 日公 使 館 員 達 に は文 人 や 学 者 が 多 く,彼 らは一 般 に詩 文 書道 に堪 能 で あ っ た の で,中 国公 使 館 は明 治 時 代 の
漢 学 者 と漢 詩 人 に とって 最 も魅 力 の あ る場 所 とな った 。 そ して,中 国 使 節 団 も しば し ば公 使 館 で 宴会 を催 し,日 本 の学 者 や 名 士 を招 待 した。 同様 に,両 国 の 官 吏,文 人,民 間 人 士 の間 に は相 互 に宴 を張 っ た り,一 緒 に花 見 を した
り,登 高 した りした こ とが よ くあ った。 そ の場 合 に双 方 が筆 談 で 応 酬 し,詩 文 をや りと りして,沢 山 の詩 文 が残 され た 。
(3)中 日間 におけ る科 学技術 文献の交流
近 代 早 期(明 の 末期 か ら清 の 末 期 以 前)に 西 洋 学 の 中 国 に お け る影 響 は 日 本 よ り大 きか った 。 したが っ て 日本 は あ る程 度 中 国 を掛 橋 として,西 洋 近 代
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科 学 文 化 を吸 収 した。 イ タ リア のMatthieuRicci利 礪 買,ド イ ツ のJean AdamSchallvonBel1湯 若 望,ア メ リカ のWilliamAlexanderparsons
Marein丁 匙 良 た ち が著 述 した 『乾 坤 体 義 』,『経 天核 』s『万 国公 法 』,『富 国策 』 な どの書 籍 が 中 国 か らあ らゆ る公 開 あ る い は秘 密 のル ー トを通 っ て 日本 に輸 入 され た の で あ る。 口本 人 は翻 訳 本 を借 りて,西 洋 科 学 文 化 を理 解 した の で あ り,こ の よ うに して 西 洋 に学 ぶ こ とは明 治 の初 期 末 まで つ づ い て い た。 十 九世 紀 の末 期 頃 まで に主 に上 海 にあ る江 南 製 造 総 局 の翻 訳 館 か ら『格 致 匿編 』
な どの科 学 技 術 雑 誌 を買 っ て きた。 また柳 原前 光 を派遣 して 江 南 製 造 局 を訪 問 させ た。 一一八 九五 年 まで の三 百 年 の 間,日 本 で翻 訳 され た 中 国 の書 籍 が 一 二 九 種 にの ぼ っ た。 一 方 中 国 の 方 で 日本 の 書 を翻 訳 した の はわ ず か十 二 種 類 で,し か もその 中 の 九種 類 は 日本 人 が 翻 訳 した もの で あ っ た。 た とえば藤 田 豊 八 訳 と花 戸 柳 條 の 『蜜 蜂 飼 養 法 』 な どで あ る。 と ころが一 八 九六 か ら一 九 一 一 年 の十 五 年 間 だ け を見 て も中国 で 日本 の書 を翻 訳 した の は九五 八 種 にの ぼ った 。 日本 で 翻 訳 され た 中 国 の書 籍 が十 六種 で あ る。 中 国 で初 めて 日本 語 の翻 訳 を した人 は専 門外 交 官 の 銚文 棟 で あ った 。 その人 に は 日本 語 の翻 訳 書 が た くさん あ る。 実藤 恵秀 先 生 に 「黄 遵 憲 第 二 」 といわ れ た 。 一 九 〇 〇 年 以 後,中 国 の外 国書 か ら翻 訳 した 文献 の主 要 な部 分 は 日本 書 か らの翻 訳 で あ っ た。 その 原 因 は二 つ あ る。一 つ は 日本 が 成 功 した近 代 化 の経 験 をい そ い で学 び た か った こ と。 二 つ は一 九 〇 五 年 に科 挙 制 度 が廃 止 され た の ち,学 校 で使
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用 され た テ キ ス トは 躰 書 か ら翻 した テ キ ス トが多 力め た こ とで あ12) .例 えば藤 田豊 八 先 生 訳 と飯 盛 挺 造 が 書 い た 『物 理 学 』な どが 例 として挙 げ られ る
。 十 九 世 紀 末 期 か ら二 十 世紀 初 期 まで の 間 に化 学 ,化 学 工 業 著 作 が 中国 に入 っ て来 て 訳 され た化 学 文 献 は 日本 の もの が 最 も多 い。 一 九 〇 〇 年 に創 刊 した
『亜 泉 雑 誌 』は 日本 の 化 学,化 学 工 業 を集 中 的 に中 国 に伝 え る もの で あ る
。 化 学 論 文 が 全 部 で二 十 三 篇 発 表 され,日 本 語 で 書 か れ た ものが 多 い。『亜 泉 雑 誌 』 は上 海 亜泉 学館 で 出版 され,中 国人 自身 に よ る最 も古 い科 学 雑 誌 で 中 国 の 最 初 の化 学 分 野 の定 期 発 行 物 とい え る。 この雑 誌 は杜 亜 泉 ←一八 七 三 一 一 九 三 三 年)が 創 刊 し,編 集 し,清 朝 の光 緒 二 十 六 年(1900年)の 陰 暦 十 月 に創 刊 され・ 月二 冊 発 行 され て い た.翌 年 の 四 即 こ停 刊 し,全 部 で柵 出版 罷 。 杜 亜 泉 は一 九 〇 四年 か ら商 務 印 書 館 編 訳 所 の理 化 学 部 で責 任 者 を二 十八 年 間 担 当 した 。 一 九 〇 六 年,彼 は 日本 に渡 し,教 育 の視 察 や,日 本 の著 作 の収 集
を行 っ た。 帰 国後 は,質 の高 い物 理,化 学 の教 科 書 と辞 典 を編 修翻 訳 した
。 著 作 も多 くを著 し,前 述 の雑 誌 で 化 学 論 文 を十 九 篇 発 表 した。彼 は近 代 後期 の 化学 知 識 と化 学 理 論 を紹 介 し,重 要 な影 響 を中 国 に与 えた。 部 分 の化 学 論 文 の作 者 と題 目 は以 下 の 通 りで あ る。
杜 亜 泉 の 「化 学 原 質 新 表 」(七 十 六種 類 元 素 の名 称 と原 子 量 の紹 介),「 質 点 論 」(主 に原 子 と分 子 の 学 説),「 鉦 之 制 法 及 性 質 」(カ ル シ ウ ム の 製 法 と性 質),「 考 察 金 石 表 」(主 に化 学 分 析),「 化 学理 論 」(主 に気 体 性 質 に つ い て)
,
「化 学 奇 観 」(主 に酸 素 の性 質 を見 る実験),「 化 学 定 性 分析 」(山 下 順 一 郎 が 校 正 した)な どの論 文 が 発 表 され た。 そ れ以 外 ,次 の よ うな論 文 もあ った。 王 琴 希 が 訳 した論 文 は 「昨 年 化 学 界 」 等 二 篇,虞 和 欽 が訳 した論 文 は 「化 学 周 期 律 」,工 芸 学 堂 教 師 の 陸氏 と趙 氏 は 「顯 影 新 方 」を著 した。 翻 訳 され た 全 て の原 稿 は一 篇 をの ぞ い て,日 本 の本 か らの翻 訳 で あ った。 化 学,化 学 工 業 の 論 文 か ら見 る と,十 九世 紀 末期 と二 十 世 紀 初 期 の近 代 化 学 理 論 は ほ とん ど 日 本 か ら中 国 に伝 え られ て い た こ とが分 か る。 この 雑 誌 は全 部 で十 冊 三 十 九 篇 で あ る。 そ の 中 に,化 学,化 学 工 業 の論 文 は二 十 三 篇 で,全 体 の三 分 の二 を
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占 め る。 数 が 多 い ばか りで な く,重 要 で長 い もの は化 学 系 の論 文 で あ った。
この特 徴 をふ ま え,『 亜 泉 雑 誌 』は中 国 の最 初 の 化 学 の定 期刊 行物 と呼 ぶ こ と が で きるで あ ろ う。 また この雑誌 は世 界 で新 し く発 見 され た化 学 元 素 を系統 的 に紹 介 した。 六 十 四種 元 素 以 外 の十 一 種 元 素 を命 名 し,た とえ ば,ア ル ゴ
ン瓠 セ オ ジム 錯,ガ ドリニ ウ ム糺,ツ リウ ム鉱 ・ イ ッテル ビウ ム鎗 この 中 国 語訳 名 は現 在 に至 る まで 使 用 され て い る。
『亜 泉 雑 誌 』 の ほ か に も,ま た 日本 か らの化 学 文 献 を中 国 で た くさん翻 訳 し,発 表 され た 。 た とえ ば 「説 釦 」,「説 釦」は 中国 人 の留 学 生 周 樹 人(魯 迅) が 一 九 〇 三 年 十 月 に東 京 で 出版 され て い た 「漸 江 潮 」 とい う雑誌 に発 表 した ラ ジ ウム の紹 介文 で あ る。 「昨 年 化 学 界 」 で は詳 細 に ラ ジ ウム の発 見 を伝 え, その性 質 を簡 単 に紹 介 して い る。 しか し,ラ ジ ウム や他 の放 射 性 元素 の発 見 の重 要 性 を強 調 して い な い。 「説 釦 」 は詳 し くラ ジ ウム の発 見 を説 明 した上, キ ュ リー夫 人 が 原 子 量 測 定 に用 いた新 方 法 を紹 介 し,ラ ジ ウム の発 見 を賞 賛
して い る。
十 九 世 紀 末 期 か ら二 十 世 紀 初 期 まで の化 学,化 学 工 業,特 に化 学 教 科 書, 日本 か ら中 国 に入 って 訳 され た 種 類 は一 二 〇 以 上 にの ぼ った。 十 九 世 紀 中葉 中 国 は初 め て 「化 学 」 とい う言 葉 をつ くった。 の ち に 日本 に吸収 され,以 前 のr舎 密 」 とい う言 葉 と取 り替 え られ た 。 日本 が つ くった 「科 学 」 の言 葉 が 十 九世 紀 中葉 に中 国 に吸収 され て伝 統 的 な 「格 致 」 の言 葉 と取 り替 え られ た。
この よ うに両 国 の 間 は互 い に交 流 し,互 い に受 益 した 。
4近 代 中 国 と 日本 の 両 国 の 人 の 交 流 (1)留 学生
明治 維 新 以 降 の 日本 は近 代 化 を成 功 させ て,世 界 の経 済 大 国 の列 に入 り, 東諸 国 の モ デ ル に な っ て い る。清 朝 政 府 も,「 日本 の維 新 の歴 史 はわ れ わ れ東 洋 の手 本 だ 」 とい う認 識 を もって い た。 そ して 日本 へ 留 学 生 を派遣 して,日 本 の近 代 化 の経 験 と西 洋 近 代 化 を学 ばせ た 。 一 八 九 六 年,清 朝 政 府 は十 三 名
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の学 生 を 日本 に留 学 させ た。 一 九 〇 〇 年以 降,若 い学 生 た ちは そ れ ぞれ 日本 に渡 りs日 本 留 学 ブー ム を起 こ した 。 統 計 に よ る と,一 八 九 六 年 か ら一 九 一 輝 の+四 年間 に灘 留学 した人 数 は トー タル で一万人以上 であ っ饗溜 学 生 は 日本 語 を学 ぶ と,留 学 中 か ら 日本 の書 籍 を翻 訳 し,日 本 で印 刷 して,中 国 に お くった。 卒 業 して帰 国後,日 本 の 本 を翻 訳 す る人 も絶 え る こ とが な か った。 翻 訳 の 種類 は哲 学,法 律 ,文 学,教 育,地 理,歴 史,自 然 科 学,軍 事, 医 学 そ の他 百 般 の こ とにお よ んだ 。 元 来,留 学 生 は西 洋 の 近 代 文 化 を学 ぶ た
め に 日本 に渡 っ た の で あ った。 そ う した もの を学 ぶ か た わ ら,日 本 文 学 に興 味 を もつ よ うに な り,科 学 の勉 強 をや め て,文 学 者 に な っ た ひ と もい る。 魯 迅 も郭 沫 若 も医 学 をす て て文 学 に うつ っ た。 元 来 ,文 学 的 素 質 の す ぐれ た 中 国人 が 日本 文 学 の刺 激 を う けた もの とい え よ うか 。
留 学 生 た ち は西 洋 の近 代 文 化 と明 治 維 新 を紹 介 す るた め に あ い つ い で 『開 智 録 』,『訳 書 匪 編 』,『漸 江 潮 』,『国 民 報 』,『二 十 世 紀 の 支那 』 等 何 十 種 類 の 雑 誌 を創 刊 し,そ の 内容 と形 式 もさ まざ まで あ っ た。 そ して その発 行 の 量 か
ら見 れ ば世 界 の留 学 生 の 歴 史 の上 で もめ った にな い こ と とい え よ う
。 そ の ほ か留 学 生 た ち は 「編 訳 社 」,「励 志 分 」 等 の社 団 も設 立 した。 これ らの社 団 は 西 洋 科 学文 化 の 紹 介 と中 日両 国 の交 流 の上 で は大 きな役 割 を果 して きた
。 近 代 日本 の学 校 で は 中国 留 学 生 を育 成 す る面 で大 きな貢献 を果 して きた
。 留 学 生 た ち は軍 事,法 律,教 育,哲 学,文 学,科 学 と技 術 等 各 分野 で 活 躍 し て い る。 な か に は範 迫 吉 等 の よ うな有 名 な文 献 翻 訳 家 もい る し,張 胎 恵(京 都 帝 国 大 学 理 学 士,北 京 師 範 大 学 教 授s学 長),藥 鐘 翻(東 京 帝 国大 学 理 学 士,北 京 師 範 大 学 教 授),呉 南 薫(東 京 帝 大 理 学 士,武 漢 大 学 教 授),柳 金 田 (東 京 帝 大 理 学 士,中 山大 学 物 理教 授),趙 修 乾(東 京 帝 大 理 学 士,東 北 大 学 教 授)な ど有 名 な教 授 もい る し,ま た藥 鍔,黄 興 ,蒋 方 震,李 烈 釣,藍 天 蔚 等 有名 な軍 事 の高 級 軍 人 もい る し,魯 迅,郭 沫 若,田 漢 ,夏 衛,周 揚 等 中 国 新 文 化 の 開拓 者 もい る し,周 恩 来,李 大 釧,李 達 ,陳 独 秀,蒋 介 石 等 の よ う な 中国 近 代 社 会 の歴 史 上 重 要 な人 物 もい た。 近 代 の歴 史 か ら見 れ ば 日本 は先
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生 で 中 国 は学 生 だ とい って も過 言 で は ない 。
② 訪 間者
日本 を認 識 す るた め に清 朝 の 末期 か ら中華 民 国建 立 まで相 当 数 の人 々 が 日 本 を考 察 し,そ の 中 に は国費 生 もあ り私費 生 もいた 。 ほ とん どの人 は帰 国 し て か ら考 察 報 告書 或 い は 日記 とい う形 で 内容 を残 して い る。 清 朝 末 期 の例 で
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い う と当時 来 日の考 察 を記 録 した もの は二 十 種類 もあ るそ うで あ る。 た とえ ば王 鱈 の 『扶 桑 游 記 』,挑 文 棟 の 『日本 地 理 備 要 』,眺 錫 興 の 『東 瀬 学 校 根 原 』,張 答 の 『東 游 日記 』等 々。 これ らの作 品 は社 会 各 分 野 で 広 く読 まれ た代 表 的 作 品 で あ った。 もうす こ し詳 し くい う と張 審 が 『東 游 日記 』 の 中で 日本 の強 い と ころ は世 界 レベ ル で の競 争 意 識 を持 って い る とい う こ とで あ る。 世 界 で 文 明 を競 争 す る。 世 界 で文 明 を競 争 す るの は進 まな けれ ば則 ち遅 れ る こ
とで,さ ら に中立 は あ りえ な いの で あ る。 競 争 の 中で 強 くな るた め に は まず
ユの
「教 育 が 第 一 で,つ ぎ は工 業 で,そ の つ ぎ は軍 事 だ 」 と強 調 して いた 。
更 に留 意 す べ きな の は,提 学 使 一 行 の 日本 訪 問 で あ る。 清 末 当時,日 本 の 教 育 事 情 視 察 の た め 派遣 され た 多 くの 調 査 団 の な か で特 筆 に値 す るの は,一 九 〇 六 年 の提 学使 一 行 十 数 名 の訪 日で あ っ た。 前 述 の とお り,清 朝 政 府 は近 代 学 校 教 育 の全 国的 普 及 を はか るた め,学 部 の創 設 に引 きつ づ い て一 九 〇 六 年 五 月,各 省 に提 学 使 司 を開設,そ の長 官 として提 学 使 二,三 名 を任 命 した が,彼 らの 着任 に さ きだ ち,こ れ まで学 務 の担 当経 験 や訪 日の機 会 を もた な か った 十 数 名 を選 ん で 日本 に派 遣 し,地 方教 育 行 政 につ い て研 修 させ た ので あ る。 彼 らは,張 之 洞 の 女 婿 で 湖 北 省 提 学 使 の黄 紹 箕 を団 長 とし,〇 九〇 六 年八 月 か ら十 一 月 にか け て三 カ 月余 りにわ た り東 京 に滞 在,文 部 省 や各 地 の 学 校 を歴 訪 して教 育 行 政 や,学 校 運 営 の 実務 を視 察 す るか た わ ら,各 種 の講 義 を受 けた り,日 本 側 専 門 家 との問 で 意 見 交 換 をお こな うな ど活 発 に活 動 し
た 。 そ の中 心 行 事 は八 月下 旬 か ら九 月 まで か けて五 週 間 にわ た り文 部 省 で お こな わ れ た連 続 講 義 で,そ の講 師 お よび講 義題 目 は次 の とお りで あ った 。①
「各 国 の学 制 」文 部 省 参 事 官 田所 美治 。② 「明 治 年 間教 育 沿 革 」文 部 省 視 学 官
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野 尻 精 一 。 ③ 「日本 現行 教 育 制 度 」 文 部 省 参 事 官松 本 順 吉 。④ 「教 育 方法 及 其 基 礎 」,「学 校 管 理 法大 要 」,「各 学 科 目の性 質 及 其 関係 」 東 京 高 師 教 授 小 泉 又 一 。
彼 らは また,九 月 か ら十 月 に か けて しば しば帝 国教 育 会 を訪 問 ,会 長 辻 新 次 や伊 沢 修 二,戸 野 周 二郎,高 田 早 苗,野 尻 精 一,町 田則 文 ,湯 本 武 比 古, 関 義 臣 ら有 力 会 員 との 間 で,① 教 育 普 及 に必 要 な教 員 をい か な る手 段 で 養 成 す るか,② 教 育 普 及 に あ た って の文 字 改革 お よび言 語 統 一 の 方策 ,③ 日本 は 義 務 教 育 実施 に あた っ て,諸 々 の困 難 を いか に克 服 した か ,な どの問 題 を中 心 に,中 国教 育 の改 革 方策 や 明 治 日本 の教 育 近 代 化 努 力 の教 訓 な どに つ い て 熱 心 に討 議 して い る。
(3)中 国 に渡 った 日本人教師 一 八 九五 年 以 降
,中 国 で は主 に 日本 語 を教 え る学 堂 が創 立 され た 。 た とえ ば,福 州 の東 文 学 堂,杭 州 の 日文 学 堂(一 八 九 八 年) ,泉 州 の彰 化 学 堂(一 八 九 九 年),天 津 の 東 文 学 堂(一 八 九 九 年),厘 門 の 東 亜 学 院(一 九 〇 〇 年) ,北 京 的東 文 学 社(一 九 〇 一 年)等 が あ る。 中 国 が二 十 世 紀 に入 っ て か ら各 種 新
しい タイ プ の学 校 及 び試験 施 設 が 急 速 に増 加 しつ つ,外 国人 教 師 の 採 用 数 も 増 えて きた。̲̲̲.九〇 六 年 の一 番 多 い時 は五,六 百 人 を超 えて い た。 その 中 で 数 の割 合が多か ったのは 躰 人教 自雨で あっ狸.た と斌 鯨 魍 大学鞭 服 部 宇 之吉,岡 田朝 太郎,京 都 帝 国 大 学 教 授 織 田万,矢 野 仁 一 ,早 稲 田大 学 教 授 松 平 康 国,中 島半 次 郎 等 。 彼 らは進 ん で い る科 学 文 化 の教 育 にお い て重 要 な役 割 を果 した。
(4)長 期合作 の学者
近 代 中 日科 学 文化 交 流 で の優 秀 な代 表 的人 物 と して あ げ られ るの は 中 国 の 羅 振 玉 と日本 の藤 田豊 八 で あ る。 羅 振 玉(一 八 六 六 一一 九 四〇 年)は 農 学 会 を創 立 し,儂 学 報 』(一 八 九七m九 〇 六 年)を 創 刊 し認.全 部 で三̲珊 を発 行 した が,数 多 い 日本 文 献 も載 せ て いた。 翻 訳 した本 の数 が 多 い 日本 学 者 と して は藤 田豊 八,古 城 貞 吉 で,中 国 の学 者 と して は王 国 維,奨 柄 清 で あ
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る。 主 に 日本 の 『日本 農 務 報 』,『 日本 農 業 雑 誌 』,『 日本 興 業 雑 誌 』,『 日本 水
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産 会 報 』,『日本 蚕 業 報 』 で あ る。 羅 振 玉 は また上 海 で 東 文学 社 を創 立 し,日 本 語 の翻 訳 の人 材 を育 成 した 。一 九 〇一 年 羅振 玉 は 日本 に渡 り日本 の教 育 を 視 察 し,日 本 の長 崎,馬 関,神 戸,東 京,京 都,奈 良,大 阪 等 を見 廻 った。
ニ カ月八 日 とい う長 い旅 の 中 で,日 本 の教 育 界 の有 名 人 と会 い,文 部 大 臣 菊 池,外 務 大 臣小 村 と も会 見 した。 一 九m年 京 都 大 学 の 内 藤 虎 次 郎(内 藤 湖 南)の 招 きで,羅 振 玉 は家 族 を連 れ て,京 都 で 生 活 した 。 一 九 一・一 年 か ら一 九一 九 年 日本 に住 んで い る間,羅 氏 は歴 史,文 学 を研 究 し,た くさん の友 達
に出会 い,幅 広 い文 化 交 流 を した。
藤 田豊 八 先 生(一 八 七 〇 一一 九 二 九 年)は 文 学博 士 で,東 洋 史 の専 門 家 で あ る。 それ に漢 学 家 で もあ り科 学 技術 文献 の翻 訳 家 で もあ っ た。 藤 田先 生 は 何 回 も中 国 に渡 り,中 国で 仕 事 もした。 一 八 九八 年 に上 海 に到着 して有 名 な 翻 訳 家 で あ る馬 建 忠 ら と一 緒 にマ ス コ ミ事 業 を起 こ した 。 その あ と羅 振 玉 の 雑 誌 『農 学 報 』,『教 育 世 界 』,東 文 学 社 等 で 大 量 の 日本 の科 学 技 術 の本,歴 史 の本 及 び その他 の刊 行 物 を 出版 した。 彼 は二 十 年 余 り羅 先 生 と交 流 し,協 力 して い る間 に互 い に深 い友 情 を築 き上 げた。 藤 田先 生 は晩 年 台湾 大 学 と東 京
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大 学 で も講 義 を担 当 した。 藤 田先 生 は生 涯 中 国 と日本 の 科 学 文 化 交 流 のた め につ くした。 特 に近 代 の 日本 の科 学 技術 文献 を中 国 に紹 介 す る こ とに お い て はす ば ら しい貢献 を して きた。
5中 国の 現 代 文化 の 勃 興 と中 日文化 交流
中 国 の現 代 文 化 が 中 国 の 風 土 に根 をお ろ した もの で あ る こ とは い う まで も な い。 それ は中 国 の伝 統 文 化 か ら養 分 を吸 収 し,旧 文 化 の遺 産 を批 判 的 に継 承 して形 成 され て い る。 同時 に,中 国 の現 代 文 化 の興 起 も,口 本 文化 と密 接 な関 連 が あ る とい え る。 まず,中 国 にお け る現在 新 文 化 運動 の代 表 的 な人 物 た ち は,大 半 が留 日学 生 で あ った 。 有名 な魯 迅,郭 沫 若 な どは皆 日本 に留 学 した こ とが あ り,彼 らは異 な る側 面 か ら 日本 文 化 に触 れ て,日 本 文 化 の薫 陶
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と影響 を受 けた。 魯 迅(一 八 八 一 一一 九 三 六 年)は,一 九〇 二 年 か ら一 九 〇 九 年 にか け ての 七 年 間,日 本 に留 学 して い る。 郭 沫 若(一 八 九 ニ ー 一 九七 八 年)は 一 九 一三 年 か ら三 度 にわ た っ て 日本 に赴 き,二 十 年 間 にわ た る留 学 と 研 究 生 活 を送 った。
魯 迅 は長 い間 日本 研 究 を し}日 本 の風 格,国 情,科 学,文 化,芸 術 等 の 方 面 に深 い理 解 と研 究 の成 果 が あ った。 そ して,広 範 囲 に 中国 人 民 に 日本 文 化 を紹 介 す る こ とは,魯 迅 の 文 学 人生 にお け る重 要 な一 部 とな った。『魯迅 全 集 』
と 『魯 迅 訳 文集 』 に は八 十 三 人 の 日本 人 の作 家 に触 れ て お り,日 本 の作 品 の 翻 訳 は,論 文 集 二 点,随 筆 な どの 散 文 集 や 演 劇 の脚 本 が そ れ ぞ れ十 点,短 編 小 説 十 一 篇 を含 ん で い る。
一 九 四 〇 年 代 以 後
,魯 迅 は ます ます 日本 人 に尊 敬 され る外 国 文 学 者 の一 人 にな っ てい る。 多 くの人 々が 魯 迅 の作 品 を愛 読 し,魯 迅 研 究 の文 章 や 著 述 に つ い て書 い て い る。 その 中 に は多 くの優 れ た魯 迅 研 究 が あ る。 た とえ ば竹 内 好 の 『魯 迅 』,小 田嶽 夫 の 『魯 迅 伝 』な どは そ の代 表 的 な研 究 著 作 で あ る。 ま た,日 本 各 地 に は魯 迅 研 究 会,魯 迅 友 の会 な どの研 究 団体 が 続 々 と設 け られ た 。 い ろ い ろ な討 論 会 が 行 わ れ,研 究 雑 誌 も出 し,魯 迅研 究 は両 国 の文 化 交 流 の 主 な課 題 の 一 つ とな る と ともに,両 国 の思 想 交 流 の掛 橋 で もあ った 。
郭 沫 若 は魯迅 と同 じよ うに,全 生 涯 にわ た っ て 中 日友 好 をめ ぐる大 量 の 業 績 を残 して お り,中 日文 化 交 流 を推 進 す るた め に極 め て大 きな貢 献 を した 人 物 で もあ る。 郭 沫 若 は,中 国 へ の 日本 文 化 の 紹 介 を非 常 に重 視 して お り,彼
は生 涯 にお い て,様 々 な分 野 の 日本 人 作 家,学 者 の著 述 を 中国 人 民 に紹 介 す る こ とに力 を尽 して い る。 文 学 の面 で は,彼 が編 訳 した 『日本 短 編 小 説 集 』 に}現 代 日本 の代 表 的作 家 と して,芥 川 龍 之 介,志 賀 直 哉 ,小 林 多 喜 二,井 伏 鱒 二,横 光 利 一 らの作 品十 九 篇 を収 め,ほ ぼ全 面 的 に 日本 文 学 の成 果 を紹
介 して い る。 史 学 の面 で は,彼 は林 謙 三 の 『階唐 燕 楽 調 の研 究 』 を翻 訳 し, さ らに中 国 語 訳 本 の序 文 に林 謙 三 の学 問 と人 柄 につ い て詳 し く紹 介 して い る。
これ に よ って,郭 沫 若 と林 謙 三 との間 に真 摯 な友 情 が 結 ばれ た 。 林 謙 三 に よ
中 国 と日本 科 学 文 化 交 流発 展 の研 究35
って 作 られ た 郭 沫 若 の半 身 彫 像 は今 で も 日本 の沫 若 文 庫 〔ア ジア,ア フ リカ 図 書 館(東 京 都 三 鷹 市)の 中 国室 に あ る〕 に保 存 され て い る。
文 字 の面 で は,〇 九 六 四 年五 月,郭 沫 若 は また 「日本 的 漢 字 改 革 和 文 字 機 械 化 」 とい う論 文 を発 表 し,日 本 にお け る漢 字 改 革 の経 験 を 中国 に紹 介 して い る。 この論 文 の 中で彼 は,日 本 にお け る漢 字 の改 革 は,「 字 体 の整 理 」と「画 数 の簡 略 化 」 な どの段 取 りで進 め て お り,タ イ プ を打 つ とい う面 か らい え ば,
日本 は 「日本 語 の ロー マ字 化 に よ って漢 字 改 革 事 業 の能 率 を上 げ て い る。 こ の方 面 で 日本 は既 にわ れ わ れ の 先頭 を切 った 。 わ れ わ れ は さ らに頑 張 らな け れ ばな らなぞ1」 と指 摘 してい る.つ ま り,中 国 は漢 字 の改 革 につ い て 日本 の 経 験 を学 ぶ べ きで,そ れ を もっ て 中 国 に お け る文 字 の改 革 事 業 を推 進 して,
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「引 き続 き漢 字 の簡 略化 を進 め る」 と して い る。
演 劇 で は,郭 沫 若 の歴 史 劇 が最 も目立 って い る。 一 九 二 六 年七 月,日 本 の 雑 誌 『改 造 』 に彼 の 「王 昭君 」 が発 表 され た の は その 最 初 で あ る。 一・九五 〇 年 代 に入 って,郭 沫 若 の 「察 文 姫 」,「則 天 武 后 」,「屈 原 」 を は じめ とす る大 量 の劇 作 が 日本 語 に訳 され た 。 そ の 中 で特 に 「屈 原 」 は最 も有 名 で あ り,新
中 国 の 成 立 か ら八 〇 年 代 に か けて,こ の劇 は四 回 にわ た って 日本 で公 演 され た 。
また,郭 沫 若 の史 学 著 作 の 日本 語 訳 は一 九 三 〇 年代 か ら始 まった よ うで あ る。 一 九三 一 年,ま ず松 枝 茂 夫 に よる 『中国 古 代 社 会研 究 』 が,そ の後,田 中震 二 に よ る 『青銅 器 研 究 要 纂 』 が 日本 語 訳 され た。 さ ら に一 九七 二 年 頃, 雄 渾社 が 十 七 巻 本 の 『郭 沫 若 選 集 』 を企 画 し,そ の十 一 巻 目か ら郭 沫 若 の 史 学 著 作 を収 録 し,そ の 内容 は 『中 国古 代 社 会 研 究 』,『青銅 時 代 』,『奴 隷 制 時 代 』,『歴 史 人 物 』,『歴 史 研 究 論 文 集 』な どで あ り,そ の ほか 『郭 沫 若 評 論 集 』
もあ る。
6一 九 五 〇 年代 以 後 の 両 国 学 術 界,文 芸 界 の 相 互 訪 問
一 九 五 五 年 六 月,日 本 学 術 会 議 が学 術 会 議 会 長 茅 誠 司,東 京 大 学 元総 長 南 36国 際経営論集No.131997
原 繁 を は じめ とす る学 術 代 表 団 を中 国 に派遣 した 。 日本 の学 術 界 の 中 日文 化 交 流 の た め の橋 を架 け る この よ うな行 動 は,中 国 文化 界 の 熱 意 の こ もっ た歓 迎 を受 けた 。 そ して,当 時 中 国 の訪 日者 は少 な か っ た こ とか ら
,中 国 学術 界 は同年 の十 二 月 に中 国 科 学 代 表 団 を 日本 に派遣 す る こ とに な っ た
。 中 国科 学 代 表 団 は,新 中 国成 立 後 最初 に 日本 を訪 問 した大 型 の科 学 ,文 化 に関 す る代 表 団 で あ っ た。 団 員 に は,北 京 大 学 歴 史 学部 部 長 鶉 伯 賛,上 海 復 旦 大 学 教 授 蘇 歩 青,鉄 道 部 鉄道 研 究 所 所 長 茅 以 昇,中 国科 学 院 考 古研 究 所 副 所 長 罪 達 な
どの著 名 な学 者 が含 まれ て い る。 彼 らは新 中国 科 学 界 の代 表 的 な存在 で あ っ た 。 この よ うな代 表 団 派 遣 は,中 国 が 中 日文 化,科 学 の 交 流 を重 視 す る こ と を表 して い る。 と りわ け,代 表 団 団 長 として郭 沫 若 が 中 国 科 学 院 院 長 とい う 身 分 で 日本 を訪 問 した が,彼 は現 職 の 全 国 人 民 代 表 大 会 常 務 委 員 会 副委 員 長 を兼 任 して いた の で,新 中国 建 国後 に 日本 を訪 問 す る最 高 レベ ル の リー ダ0 で あ っ た とい え る。
日本 人 民 及 び 日本 の学 術 界 に学 ぶ こ とは,郭 沫 若 一 行 の訪 日の も う一 つ の 重 大 な使 命 で あ った 。 中国 科 学 代 表 団 は 日本 訪 問 中 に,東 京 大 学}千 葉 大 学, 京 都 大 学,立 命 館 大 学,大 阪 大 学,岡 山大 学,広 島 大 学 な どの 大 学 と研 究 機 関 を見 学 し,日 本 の学 者 と広 汎 な 交 流 を行 っ た。
日本 で は一 九五 六 年 に成 立 した 日中文 化 交 流 協 会 が あ り,そ の基 本 的 な役 割 は 「中国 人 民 対 外 文 化 協 会 と密 接 に連 絡 し,日 中両 国人 民 の 間 の文 化 交 流 事 務 を促 進 す る」 こ とで あ った。
歌 舞 伎 は 日本 の伝 統 演 劇 の一 つ で あ り,中 国 の 京劇 との 相似 点 が 多 い。 一・
九 五 五 年 十 月,松 尾 国三 を団 長i市 川 猿 之 助 を座 長 とす る歌 舞 伎 団 が 中国 を 訪 問 し,中 日両 国 の演 劇 交 流 及 び 中 日文 化 交 流 の推 進 に積 極 的 な役 割 を果 し た。 一 九七 九 年,日 本 歌 舞 伎 団 は もう一 度 中 国 を訪 問 し,伝 統 的 演 目で あ る
「忠 臣 蔵 」,「鏡獅 子 」が公 演 され た 。 日本 歌 舞 伎 団 の 美 しい演 技 が 歌 舞伎 芸 術 の 美 を示 して お り,中 国人 民 は 日本 の伝 統 的 演 劇 に対 す る理 解 を深 めた
。 梅 蘭 芳 を は じめ とす る 中国 京 劇 団 の訪 日。 中 国 京劇 代 表 団 は梅 蘭 芳 をは じ
め として,団 員 に は李 少 春,衰 世 海,李 和 曾,姜 妙 香 な どの 著 名 な俳 優 が 含 まれ て いた 。 一 九 五 六 年 五 月 二 十 六 日,中 国京 劇 代 表 団 は 日本 に着 く。 五 月 三 十 日の夜,東 京 の 「歌 舞 伎 座 」 で第 一 回 日の公 演 を行 った 。優 れ た俳 優 陣 を もって い る中 国 京劇 代 表 団 は,初 めか らそ のす ば ら しい演 技 で 日本 人 の観 客 を魅 了 した 。 数 多 くの 日本 演 劇 界 と文 化 界 の名 士 が 中 国京 劇 団 の公 演 を観 覧 した だ けで な く,天 皇 の 弟 夫婦,自 由民 主 党 の 国会 議 員磨 弥 吉郎,社 会 党 議 員 帆 足計,神 近市 子 な ど も この公 演 を観 覧 した。
松 山バ レエ 団 の訪 中。 東 京 都 港 区 にあ る松 山バ レエ 団 は一 九 四八 年 に創 設 されi日 本 各 地 に若 干 の支 団 を もつ 日本 有 数 のバ レエ 団 で あ る。 団 長 の 清 水 正 夫 と副 団 長 で 著 名 なバ レ リー ナ松 山樹 子 は夫 婦 で あ り,そ の息 子 清 水 哲 太 郎 と森 下 洋 子 の夫 妻 も優 秀 なバ レ リー ナ で あ る。 そ して,こ の バ レエ の名 門 は中 日文 化 交 流 を推 進 す る有 名 な家 庭 で もあ る。〇 九 五 五 年,松Wバ レエ 団 は,ま ず 中 国 の映 画 「白毛 女 」 に基 づ い てバ レエ 「白毛 女 」 を創 作 し,東 京 の 日比 谷 公 会 堂 で上 演 して い る。 その後,同 バ レエ 団 は連 続 して中 国 を訪 問
し,中 国 文化 界 及 び 中 国 人 民 の 熱 烈 な歓 迎 を受 け た。
7一 九六 〇年 代 以後 の 中 日青 年 友 好 大 交 流
中 日両 国 青 年 の 友好 大 交 流 が 始 まっ たの は,一 九 六 〇 年 代 中期 の こ とで あ った 。 一 九 六 五 年 八 月 か ら十 〇 月 まで の間,中 国 で行 った 中 日青 年友 好 大 交 流 は,現 代 にお け る両 国 の若 者 の 広範 囲 にわ た る大規 模 な文化 交 流 の 端 緒 と な った 。一 九 八 〇 年代 に入 る と,両 国 関 係 の発 展 に伴 い,中 日青 年 の問 に さ らに大 交 流 の気 運 を迎 え る。 一 九八 三 年,胡 耀 邦 総 書 記 が 日本 を訪 問 した 際 日本 の青 年 三 千 人 を中 国 へ招 待 す る こ とを提 案 した 。 その 提 案 は中 日両 国 政 府 の積 極 的 な支持 を受 けた ばか りで な く,両 国 の青 年 団体 の熱 烈 な賛 意 も得 た 。 一 九八 四 年 九 月二 十 四 日,中 国 の招 待 で第 一 陣 の 日本 青 年 代 表 団 が上 海 に入 った。 十 五 日にわ た る空 前 の盛 況 を呈 した 中 日青 年 大 交 流 の幕 が 開 か れ た。 日本各 地 か ら選 ばれ た 青 年 三 千 人 は,そ れ ぞ れ上 海,杭 州,南 京,北 京,
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西 安,武 漢 の 六都 市 で 中国 青 年 と交 歓 し,各 地 の名 勝 旧蹟 を遊 覧 した。 また, 彼 らは 中 国各 地 の二 百 余 の 工 場,学 校,企 業 な どを見 学 し,中 国 の若 者 との 間 に い ろ い ろ な交 流 が 行 わ れ た。 そ して,北 京 で建 国三 十 五 周 年 の 国慶 節 の 式 典 に も参 列 した ので あ る。 この よ うな交 流 を通 じて,日 本 の青 年 た ち は 自 分 の 目で 中 国人 民 の祖 国 を建 設 す る旺 盛 な情 熱 を見,自 ら中 国 人 民 の 日本 人 民 に対 す る真 摯 な友 情 を体 験 した 。 同 時 に,自 分 た ち は両 国 間 の 友好 事 業 の 将 来 を担 っ て い る とい う こ とが 自覚 され て い る、,要す るに,友 好 大 交 流 は両 国 の 青年 た ち に忘 れ 難 い印 象 を与 え た。
中 日青 年 交 流 セ ン ター は両 国 文 化 交 流 の重 要 な基 地 と して ,北 京 市 朝 陽 区 の 亮 馬 河 の ほ と りに そ び え る現 代 的 な建 築群 で あ る。 一一九 九 一 年 五 月 四 日, 盛 大 なオ ー プ ン式典 が 北 京 亮 馬 河 畔 に あ る同 セ ンター で 行 わ れ た。 中 国 の 李 鵬 総 理 は式 典 に送 った メ ッセ ー ジの 中 で,「 中 日青 年 交 流 セ ンタ ー は,中 日両 国 青 年 の友 好 交 流 の た め に理 想 的 な場 所 を提 供 した。 中 日青 年 交 流 セ ンタ ー の落 成 は,必 ず 中 日両 国 の友 好 合 作 関係 の 強 化 の 中 で十 分 に役 割 を発i揮す る
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で あ ろ う と信 じて い る」 と述 べ て い る。 日本 の海 部 首相 も メ ッセ ー ジの 中 で
「い よ い よ近 づ い て い る二 十 一 世 紀 は まさ し く青 年 の 時 代 で あ る。日中青 年 交 流 セ ンタ ー の落 成 は,醐 の 交 流 史上 にお け る一週 塚 にな る と信 じて し胤
と述 べ て い る 。
8一 九八 〇年 代 以後 の 文化 交 流 一 九 八 〇 年 代 に入 り
,両 国 の文 化 交 流 は ます ます活 発 にな り,空 前 の ブ ー ム を迎 え る。従 来 の 文 学,演 劇,科 学 技 術 に関 す る交 流 が 引 き続 い て行 わ れ る と共 に,映 画,音 楽,舞 踊,出 版 に関 す る交 流 も大 きな進 展 を見 た の で あ る。
中 日両 国 の映 画 交 流 は,両 国文 化 交 流 の 一 部 分 と して,一 九五 〇 年代 初 期 に遡 る こ とが で きる。 日本 映 画 が大 量 に中 国 に紹 介 され るの は一 九七 〇 年代 後 半 の こ とで あ った ゲ ー九 七 六 年,中 国 で 日本 映 画 「君 よ,憤 怒 の 河 を渡 れ 」
(中 国 語 訳 名 「追 捕 」),「北 キ ツ ネ物 語 」(同 「狐 狸 的故 事 」)な どが 上 映 され, 中 国 の観 衆 の 間 で 大 ヒ ッ トし,そ の テ ー マ ソ ング も中 国 の フ ァ ンの 間 で流 行 歌 に な っ た。 これ らの映 画 の上 映 に よ って 中 日映 画 交 流 の新 局 面 が 開 か れ た 。
一 九八 〇 年 代 に入 る と,中 日映 画 交 流 は さ らに発 展 して,一 九 八 三 年,日 本 で 中 国 映 画 新 作 展 が 行 わ れ,「 北 京 の 想 い 出 」(原 題 「城 南 旧 事 」),「茶 館 」,「炎 の女,秋 理 」(同 「秋 理 」),「武 林 志 」,「逆 光 」,「人,中 年 に到 る」
(同 「人 到 中 年 」)の 六 つ の作 品 が上 映 され て,中 国 映 画 の 内容 と形 式 が 日本 の映 画 界 の 注 目 を集 め 始 めた 。続 いて,一 九 八 五 年,一 九 九 一 年 に 日本 で の 中 国 映 画 祭 で 上 映 さ れ た 中 国 映 画 は 「黄 色 い 大 地 」(原 題 「黄 土 地 」),「人 生 」,「お は よ う北 京 」(同 「北 京 悠 早 」),「双 旗 鎮 刀 客 」,「老 店 」(同 「老 客 店 」),「街 角 の 騎 士 」(同 「馬 路 騎 士 」),「李i蓮英 」(同 「大 太 監 李 蓮 英 」),「女
の物 語 」(同 「女 人 的 故 事 」)な どで あ る。
また,八 〇 年代 に な り,中 日両 国 の映 画 の共 同制 作 が 始 まっ た。 一 九八 〇 年,両 国 映 画 界 は協 力 して 「望 郷 の里 」 を制 作 した。 な お,一 九八 七 年,中 国映 画 輸 出入 公 司,八 一 映 画 製 作 所 が 日本 の 「敦 捏 」制 作 委 員 会 と協 力 して 大 型 の歴 史劇 「敦1皇」 を制 作 した 。 この 映 画 は,計 十 万 人,ラ クダ五 千 頭 を 使 って砂 漠 で の ロケ で 一 年 問 か けて制 作 され た もの で あ る。 これ は中 日映 画 共 同 制 作 史 上 の最 大 の作 品 で あ るだ けで な く,日 本 映 画史 上 にお い て も空 前 の こ とで あ る。 また一 九 九 〇年,劉 恒 の小 説 を脚 色 した 「菊 豆 」 も 日本 の 徳 間書 店 株 式 会 社 と中 国 の 西安 映 画 制 作 所 との 共 同 制 作 に よ る もの で あ っ た。
一 九八 〇 年 代 に お いて ,両 国 の管 弦 楽 の交 流 は盛 ん にな り,日 本 の音 楽 家 た ち は 中国 で 演 奏 会 を開 催 して い る。 一 九八 四年 十 月,日 本 の著 名 な作 曲 家 団伊 玖 磨 が 中 国 の 中央 楽 団 と合 作 して 北 京 で コ ンサ ー トを開催 した の は その
̲例 で あ27).ま た,〇 九 八 〇 年 代 に1ま,有 名 な歌 手 の コ ンサ ー トが 中国 で 開 催 され た こ と も少 な くな い。 一 九 八 六 年 四 月 の杉 良 太 郎 の訪 中公 演 は その代 表 的 な好 例 で あ る。 中 日両 国 国交 正 常 化 二 十 周年 を記 念 す るた め,一 九 九二 年 九 月,両 国 の文 芸 界 と体 育 界 の共 催 に よるf中 日友 好 民俗 週 間 」 が 北 京 で
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開懲 れ,躰 の民間芸能人三千人 の参加 を迎 え契.躰 の購 の: が 色 濃 く出 て い る津軽 三 味 線,大 正 琴 な どの民 俗 芸 能 は中 国人 民 の 日本 の民 俗 文 化 理 解 に大 き く貢 献 した。
お わ り に
中 国 と 日本 は階 時 代 の以 前 に はほ とん ど民 間 で 科 学 文 化 を交 流 した。 階, 唐 両 時代 主 に両 国政 府 の間 に交 流 し,宋 時 代 か ら清 時代 にお い て は,民 間 と 政 府 と もに互 い に交 流 した が,民 間 で の方 が 盛 ん で あ った。 清代 か ら今 まで が 民 間 交 流 が もっ と も盛 ん だ ろ う。 中 日両 国 が 長 い歴 史 の 中 で,民 間 及 び政 府 の レベ ル な い し民 間 と政 府 とい う三 種 類 の形 で の 科 学 文 化 の交 流 が た くさ ん の経 験 を積 み重 ね て きた 。 この 経験 は過 去 の歴 史 か ら得 た もの で あ りな が
ら,未 来 で も生 か す べ き もの だ と思 う。
注
1)注 向 栄 著,蔵 中 進,由 同 来 訳 『古 代 の 中 国 と日本 』 桜 楓 社
,1992年,第44 頁 。
2)司 馬 遷 著 『史記 』 「秦 始皇 本 紀 」。
3)筆 者 注,徐 福 また は徐 市,秦 の方 士,字 君 房 ,壊 邪(今 山東 省 膠 南 南)人 。 徐 福 が 数 千 人 を連 れ て 日本 に渡 った こ とは 『史 記 』 「秦始 皇 本 紀 」に 見 られ る他
に,『 太 平 広 記 』 「事 略 異 」 に も見 られ る。
4)羽 田武 栄著 『徐 福 ロマ 』 亜 紀 書 房,1993年,第1頁 。
5)筆 者 注,1986年5月 の 「江 蘇 省 首 届 徐 福 研 究 学術 討 論 会 」,1990年12月 の 「中 国 籟 楡 初 回徐 福 節 」及 び シ ンポ ジ ウ ム。 また 『紀 念 徐 福 東 渡 二千 二 百 周 年 論 文 集 』 も中 国 科 学 技 術 出 版 社 に よ り出 版 さ れ た 。
6)堀 敏 一著 『中 国 と古 代 東 ア ジ ア世 界 』 岩 波 書 店 ,1993年a第262頁 。
7)叶 文 程 稿 「中 国 古 代 陶 磁 的 対 外 伝 播 及 び影 響 」慶 門 国 際 蘇 頒 学 術 研 究 会 論 文 。1988年,叶 氏 は厘 門大 学人 類 学 部 教 授 で あ る。
中 国 と 日本 科 学 文 化 交 流 発 展 の研 究41
8)実 藤 恵秀 監 修,課 汝 謙 主編,小 川博 編 輯 『日本 訳 中 国書 綜 合 目録 』香 港 中文 大 学 出版 社,1981年,第60頁 。
9)同 上,第62頁 。
10)新 村 出編 『広辞 苑 』第 二 版,岩 波 書 店,1969年 。 「梁 山 泊」條 釈 義 「この(宋 江)故 事 が 水q傳 に 記 さ れ て か ら,一 般 に豪 傑,野 心 家 の 集 合 す る所 を い
う」。
11)田 育 誠 著 『中国 と世 界 科 学 文化 発 展 』 吉 林 科技 出版 社,1993年,第224頁 。 12)田 育 誠 著 『中 国科 技 史料 』 「論 明 清科 技 文 献 の輸 入 」 北 京 科 技 出版 社,1993
年,第3号 。
13)田 建 業 等編 『杜 亜 泉 文 選 』 華 東 師 範 大 学 出版 社,1993年,第445頁 。
14)李 喜 所 稿 「日清戦 争 後 五 十 年 間 の 留 日学 生 の 日本 観 及 び影 響 」 日本 中 国社 会 科 学 研 究 会 論 文,東 京 国 際文 化 会館,1996年 。李 氏 は南 開 大 学 歴 史 学 部 教 授 で
あ る。
15)実 藤 恵 秀 著,謂 汝 謙,林 啓 彦 訳 『中 国 人 留 学 日本 史 』 北 京 三 朕 書 店,1983 年,第39頁 。
16)清 張 審 『東 游 日記 』 「張 季 子 九録 ・専 録 第 四 ユ 第23冊 。
17)郭 文 鯖 主編 『中 国 農 業 科 技 発 展 史 略 』 中 国 科 技 出版 社,1988年 第442頁 。 18)朱 先立 著 『中国 科 技 史 料 』 「羅 振 玉 と 『農 学 報 』」1986年,第2号 。 19)羅 振 玉 主 編 『農 学 報 』 東 京 国会 図書 館 蔵 。
20)藤 田 豊 八 著,池 内 宏 編 『東 西 交 渉 史 の研 究 』 西 域 篇 序,国 書 刊 行 会,!974 年。
21)藤 田 豊 八著,池 内 宏 編 『劉 峰遺 草 』 例 言,国 書 刊 行 会,1974年 。 22)江 上 波 夫 編 著 『東 洋 学 の系 譜 』 「第 二 集 」 大 修 館 書 店,1994年 版 。
23),24)郭 沫 若 著 「日本 的漢 字 改 革与 文 字 機 械 化 」 『人 民 日報 』1964年5月3日 。 25),26)「 李 鵬,海 部 発 賀 詞,祝 中 日青 年 交 流 中心 開業 」 『人 民 日報 』1991年5月
4日 。
27)凋 朝 陽 等 「友誼 之 声 日本 作 曲家 団伊 玖 磨 交 響 音 楽 会 側 記 」 『人 民 日報 』 1984年10月26日 。
28)「 中 日友 好 民 俗 週 間活 動 在 京挙 行 」 『人 民 日報 』1992年9月21日 。
参 考 文 献
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『歴 史 人 物 』 郭 沫 若 著,人 民 出版 社,1979年 。
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『中 国 と日本近 代 文 献 交 流 の研 究 』田育 誠 稿,中 国 社 会 科 学 研 究 会 年 会,日 本 国際 文 化 会 館,1995年 。
『黄 遵 憲 と近 代 中 国』 鄭海 麟 著,三 朕 出版 社,1988年 。
『近 代 中国 科 技 史 論 集 』楊 翠 華,黄 一 農i編,台 湾 中 央研 究 院 ,清 華 大 学 出版,1991 年。
『ア ジア 科学 と文 明 』趙 令 揚,凋 錦 榮 編,香 港 明 報 出版 社 ,ユ995年 。
「人 民 日報 』(海 外 版)「 論 科 技 史 と現 代 化 』 田育 誠,李 素 槙 著 ,1992年4月14日 。