ら夜の聖都へ
著者 古川 淳一
出版者 法政大学教養部
雑誌名 法政大学教養部紀要. 外国語学・外国文学編
巻 95
ページ 15‑32
発行年 1996‑02
URL http://doi.org/10.15002/00004850
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(2) ルイース・マーッは「ロンドン小説」の中で、マードックはロンドンを描いた小説家として、ディケンズと一眉を並べる小説家であると述べている。しかし、『網の中』(一九五四)、『ブルーノの夢』(一九六九)、『かなり名誉ある敗北』(一九七○)、『言葉の子供』(一九七五)の四作のロンドンを扱った小説でマードックはディヶンズの及ばな
(1)ジョナサン・ラパン『ソフト・シティー』」。:二目。::》のg-Q②(]ヨヨ》■。且○口)(邦訳名『住むための都市』一四頁)。本論文では『柔らかい都市』として言及する。なお訳文を一部変更したところがある。(2)ほ○日如冨日百・.ヨゴの旬・己○口Z。『の】頤》(』召】)ヨマ(②量巨ao3(go1のgo円冨8]ぐ〕①三m) ぼくらがおもいえがく都市、つまりイリュージョンや神話、願望、悪夢に彩られたソフト・シティは、地図や統計で、また都市社会学や人口統計学や建築などの研究論文で位置づけられている、あのハードな都市と同じようにリアルである。(1) いやたぶんそれよりもつとリアルである。
堕天使たちのロンドン(1)
lティンカム夫人の店から夜の聖都へI
はじめに
古川淳
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マードックの第一作『網の中』において、後の彼女のロンドン小説の基本的なテーマが提示されている。それは「言語の病気」と「魔術的都市」というテーマである。『網の中』はパリから帰ってきた主人公ジェイムズ・ドナヒューが、同棲相手のマグダーレンに追い出されてされてしまった場面から始まる。ドナヒューは三十歳で「才能があるのだが不精もの」と自己紹介する。後で、社会主義活動家のレフティー・トッドも同じことを言うことを考えると彼の言うことは本当のようだ。彼がパリに行った理由は、フランス文学の翻訳をしているからである。売れない小説を書いている彼が、流行作家のジャン・ピエール・ブルトゥーユの翻訳をするのは言葉がやさしく、何語であろうと飛ぶように売れるからであり、「自分の口を開いてだれか他の人の声が飛び出してくるのを聞いている」のが楽しいからである。やがて、原作者に嫉妬の
気持ちを持ったり、自分の言葉を探そうと決心することになろうとは想像もしていない。ドナヒューの性格はとら
えどころがない。彼は孤独に耐えられず、かといってねんごろになるのもお断りという性格である。「ぼくが魂のかつたところにまで想像力の翼を広げ、ディケンズのロンドンよりも更に複雑な都市像を創造していると思う。以 下の順でマードックの特異で、魔術的なロンドンについて論じることにする。第一章では『網の中』において「言
語の病気」と「魔術的都市」という二つテーマがどのように関わるのかを論じ、第二章ではこのテーマが『ブルーノの夢』においてどのように発展しているのかを検討し、マードックのしめす都市像について考察する。彼女の「善」の概念のために魔術的都市像がどのように寄与しているのかについてふれられるであろう。なお、言語の病気というテーマが発展し、魔術的都市というテーマとどの様に関わるのかについては『かなり名誉ある敗北』と『言葉の子供』を中心に論じられる『堕天使達のロンドン』(2)にゆずることにする。二)言語の病気 第一章都市の「地図化」と「言語の病気」
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交流を求めたためしはない」のである。しかし、ドナヒューの語っていることは注意して聞かねばならない。「こ
● の物語をするのになおさら重要な点は、ぼくが神経を痛めつけられているということである」と明一一一一口するからであ
小説家として自立する自信もなく、精岼神的にも不安定なドナヒューはマグダーレンに愛想をつかされた後、昔の 恋人アンナをさがす。しかし、彼の心境は複雑である。アンナとの別離に彼の運命の人といっていいヒューゴーが 絡んでいるからである。ブルトゥーュの『森の夜鳴きうぐいす』を訳したドナヒューの原稿をめぐって陰謀が進行 している中、彼はアンナとヒューゴーを探さなければならなくなる。この行為によって、これから述べる都市の組 み替えが行われるのであるが、忘れてはならないのは、神経を痛めているドナヒューの語りは、「言語の病気」に かかった人間の語りだということなのである。「言語の病気」とは彼女のサルトル論の中の言葉である。サルトル は猫を猫と呼べないことは言語の病気であるといった。現代は言葉の病気にかかっている。このことを証明するか のように、言語の伝達不可能性を示すマラルメの詩が誕生し、『フィネガンズ・ウェイク』が登場する。もはや言 語はコミュニケイションの媒体であるとは考えられないのである。「言語の透明性は消え去ったのだ。われわれ うテーマと交差するのである。(!) は、長い間ガラスに気づかず窓の外を眺めていて……そしてある日ガラスにも気づき始めた人びとに似ている」の である。語りかける本人自らが神経を病んでいるというドナヒュー、沈黙こそがすべてだというヒューゴーにみる 言語の伝達不可能性はこのマードックの主張の反映である。言語の病気にかかった患者がロンドンにおいて自分の 存在場所を求めて探しまわり、自分の居場所を求める。言語の病気というテーマが、マードックの魔術的都市とい
ヲ(〕○(1)マードック、『サルトルー(一九五三)田中満太郎、中岡洋訳五二頁。
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ドナヒューはお目当てのヒューゴーに会えなくなると、酒場めぐりをしてしまい、初心を忘れてしまう。パブで レフティーに合い、看板になるとクイーンヴィクトリア街、中央郵便局、アッパーテムズ街の倉庫を通り、テムズ
川で丸裸で、水浴びをし、その後酒盛りをして一同は解散する。 ドナヒューは歩く人である。悩みごとがあるときには「何もせずにいることは苦痛」になるドナヒューはゴールドホーク街の部屋を追い出された後、考え事をするために、ただひたすら歩く。神経的に不安定なドナヒューの歩行の軌跡は定まらない。「爆竹のようにあるいはハイゼルベルグのエレクトロンのように行き当たりばったり、
点々として飛び回り、ついにはまた別の安全な場所に落ち着く」のである。ドナヒューはディヴ、フィンをひきつれ、ヒューゴーを探し出すためにロンドンをまるで巡礼するかのどとく歩
き回る。彼らの後を追うことにより、光と影の交錯するロンドンの夜の風景が示されるが、私が注目したいのは、(1) ドナヒューたちが鉄道網、交通網、経済、商業の情報以外のものを追っていく過程が、この作ロ叩では「地図化」されているということなのである。マーッは、彼ら三人の歩いた場所はロンドンの再開発のためにもはや存在しない
場所であり、その跡をたどることは難しいと言い、ディケンズのロンドン同様マードックのロンドンにノスタル(2)ジーを感じるといっている。しかし、彼の歩く行程の終着点を考えるとドナヒューの行程はさらに深い意味を与え
るである。(1)若林幹夫は『地図の想像力』(一九九五)の序章で、ポードリヤールがポルヘスの縮尺一分の一の地図について言及していることに触れている。若林の言う「地図化」と私がここで述べる地図化とは異なる。ラパンは「ぼくらは、自分だけに意味のある私的な基準によって都市の地図を作る」(二○一頁)というが、言語の病気の患者であるドナヒューによってロンドンが再び組み直され、地名が紙の上に張り付けられることを私は地図化と呼んでいるのである。(2)マーッ、前掲書ロ念 三)現実と虚構の間の場所
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を探しあぐね、パブを〕て、その軌跡は紙の上』礼の地図化なのである。 ドナヒューとディヴは夜を徹して飲み歩いていたので、どの教会の鐘の音なのか判別できないのだ。歩きながら最後のブランデーを飲んでいるころには、すでに地平線が明るい緑色の縞模様となっている。このロンドンのテムズ川の早朝の光景をワーズワースの「ウエストミンスター橋上にて……一八○二年九月三日一(地上にかくもうるわしいものはない、/壮大な姿をして深く心を打つこの眺めを/すどおりする人は魂の鈍れるものを。)という一節と比べてみると何という自堕落な朝の風景なのだろうか。教会の錨の音も聞いたかどうかわからず、ヒューゴーを探しあぐね、パブをめぐり、テムズ川で水浴し、川くりで酒盛りをし、エレクトロンのような不規則な動きをして、その軌跡は紙の上に地図化されるだけなのである。これは昼の明るいロンドンではない、ロンドンの世俗的巡
それではこの巡礼の目的地はどのような場所なのであろうか。ヒューゴーを探し当てる前に、ドナヒューはソーホーのバーテンから聞いたアンナの居場所へ行く。ハマースミス・モールにあるリヴァーサイド・シアターの楽屋でアンナと会う。この部屋には しらみかかった空の人気のない通りを歩いていくと、不思議な音が耳になり響いていた。聖メアリー教会、聖レオナード教会、聖ヴェダスト教会、聖アンヌ教会、聖ニコラス教会、聖ジョン・ザカリ教会などの消えていく(1) 鐘の幸曰だったかもしれない。
(1)『網の中』鈴木寧訳一二三頁~四頁 フレンチ・ホルン、揺り木馬、赤い縞のある一組のブリキのラッパ、中国風の絹のドレスが数枚、二丁のライフル銃、ペイズリ織りのショール、おもちゃの熊、ガラス玉、もつれ合ったネックレスなどの宝石類、凸面鏡、
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があった。アンナの部屋は「大きなおもちゃ屋が爆撃を食らったような」雑多な物体が散乱しているのである。ここはおとぎ話の世界のようだ。アンナはドナヒューとこのがらくたの山の中でじゃれあうが、体を起こしたときに見たアンナの姿は、「色彩ゆたかながらくたの山の中に横たわり、おとぎ話のお姫様が玉座からころがり落ちたみたいだった。」この様な一へんてこな場所」はまさしく、この世のものではないおとぎ話のような感覚で私達に迫ってくるのである。目的もわからず歩き、探索をする過程を彼が、「探検一だと言ったのは、歩く先がこの様に不可思議な、魔術がかけられたような場所だからなのである。しかし、この魔術も長くは続かない。アンナから手紙が来て再びここに駆けつけると、もはや劇場はなく、アンナのいた部屋の中身が運び出されていた。揺り木馬、剥製の蛇、雷鳴版、仮面。これらは、日光に照らされて、どれもが汚れてがらくたとしか見えなかった。|あの不可思議な秩序、それは劇場の中央にアンナがいることによって、ごく穏やかに、自然に酸し出されたものだったが、すでにその秩序が取り上げられてしまっていた一のである。かっての魔力は失せてしまっているのである。アンナがいた場所は、現実と虚構の間の場所である。魔力の消失はドナヒューが、「美しくて、残酷で、優しく、人の心を乱し、魅惑的な」都市であるパリにおいても示されている。軽蔑していたブルトゥーュがゴンクール賞を受賞した事を知り、嫉妬に狂い、マグダーレン(彼女がドナヒューをパリに呼び寄せた)の映画のスクリプトライターにならないかという現実的で、実利的な申し出を拒否してしまう。ショックを受けながらも、アンナを探し、花火見物の最中にアンナらしき人影を見、その後を追い、夜のチュイルリー公園に入り込む。ここでも一アンナが素足のまま家路をたどっているのだろうか一と想像する。時計の針が真夜中を回ればまた現実の貧しい世界に戻るシンデレラとアンナを重ねあわせているのである。
(1)『網の中』四三頁 (1) 剥製の蛇、数え切れぬほどのおもちゃの動物、それにいくつ4℃あるブリキのトランク
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しかし、まるでアンナが存在したかのように書かれているが、結局はドナヒューの妄想だとわかる。コンコルド広場のパリ祭の人のざわめきがドナヒューに襲いかかり、彼は事態の残酷さに顔をそむけ、アンナの名前を呼び走り去ってしまう。このとき初めてドナヒューの世界にパリ祭のざわめきが入り、ドナヒューは魔術から醒めるのである。ドナヒューは言語をもちいて社会復帰する道を自ら閉ざし、事実と虚構の間のはかない存在の都市に身を任せようとしたが果たされなかったのである。このことと虚構の間のはかない存在の都市は、ヒューゴーの映画のセットにおいて類似的にしめされている。ドナヒュ1は、ロンドン郊外のヒューゴーの映画撮影現場に行くが、ロケ現場は急進的社会主義者レフティーの仲間達と国粋主義者達の争いの場になってしまう。ドナヒューは争いに巻き込まれているヒューゴーを救うために爆弾でセットを吹き飛ばす。魔法のように壁に直径五フィート程の穴が開き、「その穴を通して、まだ暮れてから間もない闇の中に荒れほうだいの広場が見えたが、そこはトタン板の小屋が散在し、丈の低い柵とポヴリルの広告で境界ができていた」のである。私が重要だと思うのは、ロケの書き割りの中に、爆弾によって暴力的に都市の向こうにまた別の都市があからさまになったということである。しかもそこにあるのは楽園ではなく、しらけた無機的な場所である。これはドナヒューがさまよい歩いて私たちに示したロンドン、パリとアナロジカルな関係にある。この感覚は大事だと思う。都市の中で自分の作り出す世界がたとえおとぎ話のように魅力的な場所であっても、やがてその魔術がさめてしまえば、その場所はどこにでもある低い柵や、料理用のスープの広告のみが目立つ灰色の日常的な場所であるということだからだ。しかし、『網の中』では、安全な場所は確実に存在する。それはロンドンの真ん中にあるティンカム夫人の薄汚い店である。店の外には安っぽい広告掲示板があり、売っているものは各国語の新聞とか、婦人雑誌、西部物の小説、それに空想科学小説や荒唐無形な物語などである。ドナヒューは、いっぱいやりたくなったときのためにこの店にウィスキーを預けている。この店は自分達の身元をすっかり伏せておきたい連中の密会場所でもある。寡黙であるがみんなのことを知りたいティンカム夫人の生きるところは、|おそらく他人の演じる人生劇の世界であっ
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『網の中』のロンドンは、ドナヒューの歩行によって組み替えられる。私はその地図化の過程を魔術的な層にまで降りて論じてきた。神は自然を創り人間は都市を創ったとはポープの言葉であるが、人間にとって快適な環境を提供するはずの近代的な都市がなぜ都市生活者によって組み替えられるのか、それは都市が柔らかく可塑性があるからだ。人間のアイデンティティーの偉大な解放者である都市は、精神病や独裁者の悪夢に染まりやすいという欠点はあるにしても、「都市という、ぼくらのすぐれた近代的な形態は、様々な目もくらむほどのみだらな生活や夢(1) や解釈に対して、やわらかく、従順に応》えてくれる」からなのである。この可塑性が都市にあるために、ドナヒューのような地図化がおこったのである。この柔らかい都市は自然としての都市でもあるのだ。ジョナサン・ラバンは『柔らかい都市』で、都市は自然ではなく文化の領域に属すると言うシカゴ派が定義する都市的人間に対して反論する。街路、店、カフェー、家屋、地下鉄、オフィース街などは、選択の自由が云々できるたぐいの問題ではなく、誰かがそれをつくり、その場でその必要性を認めたから存在するのである。そして都市生活者は、このような他人の理由にたえず驚かされているのだ。田舎の規則的で、直線的な生活とは異なった、ソフトで、(曲がり て、もはやそこでは事実と虚構の見分けがはっきりしないのだ。」しかし、この小説の最後にドナヒューはここで自分の過去に書いた作品を読み、翻訳という他人の言葉を写すよりも、自分の言葉を創造する可能性を確信する。このように『網の中』では、事実と虚構の見分けがつかない暖昧な魔術的な場所が安全な場所として存在するが、やがてこの安全な場所も『ブルーノの夢』、『かなり名誉ある敗北』を経て『言葉の子供』において魔術的呪縛がなくなってしまうのである。私達はこの後、ナイジェル、ヒラリーが歩き回った末に創り出した都市を経験するが、この魔法のような直径五フィートの穴から見える都市の存在を忘れてはならないのである。
(1)ラパン、前掲轡二一頁 (三)自然としての都市
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ヌールのエクリチュール、身体を中心にした都市像を問題にして行きたいと考えている。 て分類されるであろうが、社会学系の都市論の網の目からは結局のところ抜け落ちてしまう、歩行のリズム、フラ アンリアルな都市を扱うこと、これが私の文学的都市論である。私の都市論は当然のことながら文学的都市論とし リアルな都市像を創造していくことが常である。都市を扱った小説を問題にするのではなく、紙の上に建築された マードックのロンドンばかりではなく、文学作品における書かれた都市は、リアルでハードな都市に対してアン の)世界を効率中心の人口的な都市の中に創造し、その世界をやがて廃嘘化させていくのである。 して規定している。マードックは、登場人物達の歩行によって資本主義が脇に押しやったおとぎ話の(ロマンス
(3)ルとは都市が組み替えられ、やがてあらゆるものが資本主義によってオウラをかけられていく過程を見ている人と 歩者(フラヌール)と呼ばれる人々が路上にあふれた。このフラヌールの存在に注目して、ベンャミンはフラヌー ャミンのいうフラヌールの概念にあてはまる部分がある。フランスの第一一帝政時代に社会構造の変化によって、遊 ステイーヴン・ケルマンはドナヒューをピカロで姓笙というが、ドナヒューの存在はむしろ、ヴァルター・ベン 中心の、無味乾燥的な日常のルーティンから遠く離れて、自分達のワンダーランドを建築しようとするのである。 達は自分の生きている場所を自由に自然のままに再構成することが可能なのである。マードックの登場人物は効率 女のロンドンは多面的な様相を魔術的に見せる都市なのである。この様な都市の自然が存在するゆえに都市生活者 私が〈丑”じているマードックのロンドンも、迷信的、魔術的、威嚇的でありながらも、美しく、穏やかである。彼 だ・」ラバンの「自然としての都市」と一一一一口う概念は、都市と田舎という形式的な一一項対立を越えて存在している。
(1)ちょうど熱帯雨林のように予測がつかず威嚇的でその間にときどき美しかったり、穏やかだったりするところなの くれってぐにゃぐにゃした)都市こそが自然なのである、つまり、「ニューヨークやロンドンこそが自然であり、
(1) (2) (3) ラパン、前掲醤一九八頁、(の『のロ【の臣日切員一己ロユの司岳のzの一汕弓ゴの、の]竜1国の西の耳冒mzCごC])(巴計)ロ・患】。(、(②」惠疽「a○○ゴベンャミンのフラヌールの概念については、『ポードレールにおける第二帝政期の。ハリ』を参照。
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ドナヒューはどのような態度で文学にかかわっているのか。彼は『かくしてオッペンハイム氏は地を継がん』と 言う叙事詩を書こうと思っていたが、現代が叙事詩の時代ではないということがわかったと言っている。またフラ ンスの作家の翻訳をしているが、現代が小説を書きうる時代ではないと自分を納得させているのである。このニヒ リズムは徐々に深刻の度を深める。ブルトゥーュがゴンクール賞をとったときに「仕事の相棒として受け入れた男 が、実は自分の恋敵であったとわかるようなもの|だと言い、マグダーレンからの提案を拒絶する。このパリ行の あと、ドナヒューはしばらくだれとも口をきかず、とうとうドナヒューは病院(ここでヒューゴーと運命的な出会
いをするが)の雑役夫となる。しかし、この状況認識が劣っているだけではドナヒューの都市の地図化がなぜ行われるのか説明はできない。 「地図化」の原因はドナヒューの識字能力(相手のいうことを正しく理解し、自分の考えをどれだけ相手に正しく 伝えることができるか)の劣性のためである。『言葉の子供』でクリフォード・ラーはヒラリーに「きみには人間
(1)の対話ってものが理解できないのかい。読みとることができないのかね」と叱責の一一一曰葉を浴びせる。リチャード。
(2)トッドは『一一一一口葉の子供』のテーマはこの識字能力というテーマであるという。『言葉の子供』ほど中心的なテーマ となっていないが、小説家になろうと決心をするドナヒューが悩んでいる原因も、皮肉なことに、この識字能力の 欠如なのである。彼は自分の作品がヒューゴーとの対話の焼き写しであることに悩み、ヒューゴーから盗作である と非難されないためにコンタクトをとろうとして都市をさまよう。しかし、ヒューゴーはドナヒューの対話小説
(1)マードック、『言葉の子供』一一一○一頁。邦訳名は『魔に級かれて』であるが、こちらの題名の方が原題に近く、本論文
の性格上適切と思われるので、『言葉の子供』とした。(2)}{一・房a弓○且》写(②三Eao3($医)己・酉 (四)識字能力の問題25
『ザ・サイレンサー』(沈黙者)のモデルとなったことに反感を持つどころか、『ザ・サイレンサー」に感銘をう け、作者に質問したい箇所があるとまでいうのである。ドナヒューは神の存在のようなヒューゴーのこの言葉に目 を丸くするのみであった。つまり、ドナヒューの識字能力の欠如は小説のプロット上、非常に重要な要素となって いるのである。夢破れ自殺しようか否かドナヒューは悩んでいたが、ティンカム夫人の店でヒューゴーの所有して いた『ザ・サイレンサー』を読み返し小説家としての道を進もうと決心する。しかし、この認識にいたるまでの彼
の識字能力の欠如は滑稽ですらある。識字能力の問題は『プルーノの夢』のナイジェルに継承されている。彼は「冷淡で、態度が暖昧で、なにを考え
ているのかわからない」人間であり、双子のウィルからは、「頭の狂った変質者」とまで言われ、妄想にとりつかれたように舞踏をする。舞踏によって自分の世界を表現するナイジェルによって、言語の病気と魔術的都市という
テーマはどのように変奏されていくのであろうか。『網の中』がドナヒューのナラティヴから成立しているのに対して、『ブルーノの夢』は三人称によって登場人物 の心理が客観的に語られている。『網の中』で私たちが感じた語りの海に不安げながら漂うというような感覚はこ
こにはない。この作品には、言語の病気と魔術的都市というテーマのほかに、エロスとタナトス、善の探求という多くのテーマが混在している。マードックの善のテーマは、言語の病気と魔術的都市というテーマとの関連で多少
触れることになるだろう。『網の中』において、言語の病気にかかったドナヒューが俳個し、私達に地図化してしめされる都市像はマードックのロンドン小説の都市像の原形でしかない。やがて、『言葉の子供』において、さらにこの言語の病気によ 二)神であり奴隷である人の幻想 第二章堕天使たちのロンドン Hosei University Repository26
彼は自分を解放するために踊るのではない。いわば世界の象徴としての苦悩の舞をするのである。この様子が高
揚され、詩的幻想として描かれているのである。ナィジェルは「すべてを見透すもの、神官、神の奴隷」である。幻想的な瞑想はやがて彼を室内から外に連れ出す。ナィジェルの跡を追ってみよう。彼の足は泥だらけ、手は錆で赤くなっている。彼は半地下室を見下ろしてい る。部屋を盗み見ているのだ。ナイジェルは夜の都会の人々の生活を盗み見る人間であり、「内面の生活を覗くも の」である。ナイジェルはロンドンの夜を排梱する。これが、一「彼の夜の都会、巡礼地、罪の地、罪滅ぼしの地の 栄光なのだ。」|「世界の罪を思って」ため息をつくナイジェルはテムズ川に到着する。この川はナイジェルにとっ て悲嘆をあらわす涙の川だ。彼は他人の庭からとってきた花で作った花束を投げ、ナイフ、ハンカチ、ひと握りの る都市像が綿密に構築され、永遠の苦悩の場所にしか避難場所がない状況に陥っていくのであるが、『ブルーノの 夢』では、登場人物の一人ナイジェルの目から見たロンドンが新しいイメージを提供するであろう。 ダンビーの部屋の前でダンビーと女中との情事を盗み聞きしていたナイジェルは、自室に戻ると舞踏を始める。 ナィジェルを中心として回転する世界は同心円の世界であり、やがて同心円は広がり、’1銀河系銀河の輪環の中 で、銀河の中の銀河の中で、回転している。」彼の苦悩に満ちた舞踏は、創造するためのものではなく、破壊のた
めに一点に集中する。ナィジェルは自分の心臓をひっつかむ。彼は喘ぐ、彼はうめく、彼はよろめく。彼は前向きに倒れる。彼の額
は床を打つ。彼は目をつり上げて、ぎらつく闇黒を睨む。現在は苦悩、罰、鞭跡であり、広がりのある存在は苦
(1) 痛によって収敏し一点となる。壊滅。全は一である。(1)『プルーノの夢』二八頁。なお、私は中川敏訳を用い、|部訳を変更したところがある。
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『ブルーノの夢』では、言語の病気にかかった人間はナイジェルとブルーノによって二分化することによって複
雑化し深みをましている。複数のキャラクターの配置により、聖なるものの存在が象徴化されているのである。「さだかに見えない恐ろしい天使がふたり地球を回っている。抱き合い絡み合い、丸い空間の中をころがっていく。ふたりとも引き寄せる喜びに一つになりまた合体しつつ。〈愛〉と〈死〉は追う者にして追われるもの|とい うナィジェルの幻想は、コスモス化されている。ナイジェルは、愛と死を見つめる天使のように高いところから見
ているだけなのであろうか。いや、錆や泥にまみれるナイジェルはダンビーヘのホモセクシャルな愛のために、ダンビーとウィルとの決闘に割って入ってしまうのである。ナイジェルは決して天使的な存在ではない。ロンドンを去ってしまうナイジェルの抱く幻想もまた、ほかの登場人物の夢想の世界(マイルズ)や悪夢の世界(ブルーノ)
と対比され、相対化させられているのである。ナィジェルは夜の聖都巡礼の中で、一「ひれ伏し、身をもがき、呪い、祈っている人達」を見る。「聖都の至る所 で、箱のような居住地の中で都市の住人たちは愛と憎しみの祈祷をとなえている」のである。ナイジェルは、自分 は神を信じると死期が近づいたブルーノの前で述べるが、「人間はどんな宗教にもすがることができる」とも言
し、一ある。金などポケットにあるだけのものをテムズ川に投げ込む。直立しているナイジェルは「神であると同時に奴隷」で あり、「病める都会の罪を体で償う苦行者」なのである。この様な臘罪/盗み見、宗教心/エロスといった両義性 にまたがった神であり奴隷である人の存在によって語られる都市は、ドナヒューの地図化をさらに歪曲し、偏執狂
的に妄想化しているのである。ドナヒュー達が泳いだゆったりとした夜のテムズ川は生命の象徴であったが、この川はナイジェルにとっては賦罪の川なのである。テムズ川は氾濫することによってブルーノの寝室を泥で洗い流
し、ブルーノの財産の高価な切手を流してしまう。これはテムズ川が人間たちの罪深さ対して噛罪をしているので三)堕天使達の都市
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う。その一例として、ロンドンの闇の中でシヴァ神の男根像に花環をささげる人々を挙げる。ロンドンが魔術的な都市だからこそ、都市の隙間を覗きこむナイジェルがこの様な異教崇拝を見ることができるのである。『網の中』では歩行の過程において書き記されることのなかったことだが、都市は近代的な効率中心のリアルな日常をすごすことに汲々とする都市生活者の預り知らぬところで、このような魔術的な様相を呈する都市として姿をあらわすのである。ここには、都市は人間の魔術的側面をそのままを許してしまうというパラドックスが存在している。都市生活者は社会生活の網の目の中に生息しているが、都市というものはこの網の目から逃れることをも許容しているのである。この感覚がまさにラバンのいう自然として都市の感覚なのである。そしてこの感覚は、「演劇的才能が(1) ある精神病者」ナイジェルの舞踏によって雄弁に語られているのである。魔術的都市には異教の神々は存在するが、神は存在しない。このことは、マードックが『サルトル』の中で神のいない時代に私達はいると明言していることと通底する。マードックの作品には神は登場しない、するにしても作品の舞台から立ち去る人間として書かれている。その典型的な例はヒューゴーであろう。ドナヒューは彼の前に出ると、口から出る言葉がいかに暖昧なものになるのか思い知るのである。ドナヒューにとってヒューゴーは削ることも割ることもせず、有史以前の人が何か人間的な意図をもって立てた一本石(日C:]】岳)のような存在であった。この存在の意図や意義は永久にわからない。この存在と会うだけで充分なのだ。彼は「暗号であり、前兆であり、奇跡」なのだった。このような神的存在であるヒューゴーがノッティンガムにいって時計職人になる修行をすると言ったときに、ドナヒューは鷲情する。それじゃ真理はどうなる、神の探求はどうなるんだというドナヒューの言葉に対し、ヒューゴーはこう言うのである。
(1)ラバン、前掲書九三頁(2)『網の中』二五四頁 (2) 「それ以上何を求めているんだい?神は仕事だよ。神は細部その↓Cのだ。すべて手近にあるのさ。」
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道化的なナイジェルは人間と神の間の悲壮な綱渡りをするのである。神であり奴隷であるナイジェルの見た都市は、天国でもなければ、地獄でもない、神のいない煉獄の都市である。この煉獄の都市は「堕天使の見る都市」とでも名前をつけられるような都市なのである。それでは「堕天使」とはなにか。神を頂点とし、悪魔までのヒエラルキーの中で、メッセンジャーである天使と人間の中間項に存在するものである。悪魔にもなれず神のメッセンジャーの役割も忘れ、人間の世俗にまみれてしまった天使、この堕天使こそが人間と天使の中間項に存在するのである。神のいない世界において堕天使がきわめて人間中心的な存在として姿を現すのである。堕天使のイメージは、神であり、奴隷であると言うナイジェルに非常に明確に現れている。彼はすべてを見下ろし、盗み見しているからである。ダンピーがぬかるんだ庭に忍び込み、リーザが足を泥だらけにしてダンビーの前 神はこのように言って立ち去っていく。神は常に否定的に、あるいはアイロニー化されて語られるのである。ブルーノは蜘蛛を見始めてから神の見方がかわったと言うのである。そして神は死んだと悟るのである。しかし、水死した前妻がとりついているブルーノの苦悩は次の言葉に要約されている。「神が私の代わりにやってくれるだろう。だが、神は存在しない。」しかし、これは矛盾である。この矛盾を強化し、自分が神になることで克服しようと目論むのがナイジェルである。そのナイジェルの存在は、ドナヒューよりもさらに道化的でっかみ所がない。ナイジェルは自分を「神だ-と宣言しはするもののこう付け加えるからである。
|それともぼくは偽物の神、何百万という数えられないほどの偽の神の一人かもしれない。それはどうでもい(1) い。偽の神は本物の神です。人間はどんな一示教にだってすがることができるんです。」
(1)「ブルーノの夢』二一三頁
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に現れ、テムズ川の氾濫が一時すべてを泥だらけにしてしまうのは、この小説世界のシンボリズムであるが、ナイジェルのコスモス的な想念も夜の聖都巡礼も泥にまみれている。ナイジェルの手には錆が付き、足は泥まみれである。また、彼の耳には恋人達の秘密の会話と哲学的論争が共存している。この様な人間の存在を堕天使とは言えないだろうか。エロスの神に見せられ覗き見をし、ナイジェルは神の使いの天使という役割を忘れ世俗の愛に心を引かれながらも、世俗に染まりきることができないのである。聖都巡礼でナイジェルが庭先の花でつくった花束を投げ込み、ポケットの小銭を臘罪の川、テムズ川に投げ込むのは象徴的である。ナイジェルはウィルとダンビーの決闘の後、ロンドンから消え去ると、堕天使の役割は「現世と肉を選んだ「|リーザがつとめることになる。それでは、このような堕天使のイメージはドナヒューにあてはまらないのか。ドナヒューはゴールドホーク街のアパートの「ごたごたした五階の屋根裏部屋」にすみ、そこから追い出されたのであった。彼の髪は金髪で、妖精の様にかど張った面立ちをしている。ドナヒューが私達に与えるイメージは落下(屋根裏部屋からテムズ川の水浴び)と妖精化(堕天使の変型が妖精である)である。ドナヒューの水泳、柔道の理論もリアルな人間の信じる常識に反して、この世ならぬものの(アンリアルな)理屈である。人間の意識の奥には「落下に対する原始的不安」があり、これを克服することが大切だと言うからである。横隔膜呼吸法もまた、ドナヒューを別の世界につれていってくれる呼吸法なのである。リアルで、石油王の情婦となっているマグダーレンの申し出を彼が断るのは、落下を恐れず、効率中心の世界で上昇することをのぞまない堕天使だからである。しかし、『ブルーノの夢』にみられる堕天使の都市は『網の中』よりも明確であり、さらにここでは堕天使が善なるものに対して重要な役割を示している。死期が近いグロテスクな姿のブルーノを看病するダイアナは誰に対しても恨む気持ちはなくなり、善なる存在になっていく。彼女の心の中には「ひとかけらの恨みや怒りがあってはいけません。それが務め、務めなんです。新しい天と地を作るのが。それをやれるのはあなただけです」といったナイジェルの言葉が響いているのである。この言葉は、ダイアナが自殺しようと思ったときに、ナイジェルが言った言葉である。この瞬間、堕天使が善なるものにもっとも近づいたのである。これは後で見る他人の言葉に影響され
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るヒラリーの言葉の危うさとは異なる。『網の中』と『ブルーノの夢』の違いは堕天使の感覚が強化されている事 (コスモス化、堕天使の視点で見るロンドン巡礼)と、このように堕天使の存在が善なるものに働きかけ、豊かな
効果を上げているという点なのである。マードックのロンドンは堕天使の束の間のはかない幻想を示す都市である。様々なイリュウジョン、願望、悪夢 で読者を惑わせるマードックの都市像はディヶンズの都市像とはまったく異なる都市である。 典型的な例として、『リトル・ドリット』二八五五~七)の有名なロンドンの描写を上げる。
この陰惨な死を連想する日曜日の描写は、本心を吐露し悔い改め、リトル・ドリットとともに夕暮れの中を歩く
クレナム夫人の描写と共存するのである。陰気で息が詰まりそうで、退屈なロンドンの日曜の宵であった。教会の鐘が人の心を狂わせるように、鋭い音 色と平板な音色、ひび割れた音色と澄んだ音色、速い調べとゆっくりとした調べなど、ありとあらゆる不協和音 を奏しては、煉瓦とモルタルの壁に醜悪に反響する。憂愁の色に閉ざされた街路は、煤にまみれた苦行の衣に包 まれて、窓から外を眺める罰を受けた人の魂を、深い絶望の淵にたたき込む。すべての都大路、ほとんどすべて の路地、ほとんどすべての街角で、悲しい鐘の音がたたきつけるがごとく、訴えるがごとく、泣くがごとくに鳴
(1)り響き、あたかもロンドンにペストが蔓延し、死体を積んだ荷車がめぐっているかのよう。
(1)『リトル・ドリット』小池滋訳(世界文学全集三三、一一一三頁) むすぴ
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ここでは、陰惨で暗い都市像と明るい希望的な描写がディケンズの想像力によって奇跡的に共存している。家屋と人間のアナロジーを用いてディケンズはこの後、息子を精神的に殺すというクレナム夫人の陰惨な行為を罰するかのように、彼女の家屋を崩壊させる。しかし、善の危うさの提示がされないディケンズの善は言うなれば、善の予定調和と言うべきものである。マードックの善への覚醒は神のいない救いのない中での覚醒であり、その背景となるリアルな世界に反する都市像も、変形され幻想的、魔術的になるのである。この点で、私は冒頭にディヶンズが及ばないところにまでマードックは想像力の翼を広げていると言ったのである。ラバンは、都市はならず者もいれば天使も住むところだと言うが、都市には堕天使も生息するのである。天使と人間の間に存在するマードックの堕天使達の都市像は効率中心の都市に対して、ロマンス的なものを伴って出現するのである。そして、柔らかい都市ロンドンは異物としての堕天使たちによって組み変えられてしまうのである。 地平線のあたりに、穏やかに長くたなびいている薄い軽い雲は、まだ夕陽に美しく染まっていた。静かな大空の上下左右にわたって、光の矢が赤々と輝く中心から四方八方に伸び、その間には星が見えだし、これが荊の冠(1) を栄光に変えた平和と希望の新しい祝福の約束の象徴のようだった。
(1)世界文学全集三四、三六三頁