1
教育の本質研究と現象把握
一告 別 論 文一
古 川 原
素朴に,卒直に,即ちすなおにまじめに考えてみよう。
中教審の答申の中に「生涯教育」ということばが,重要な位置を占めて,し かもしばしば語られている。このことばの造出には,当研究室も無関係ではな い。功を称えられるか,罪を責められるか,それは後世にまつとしても,現在 われわれはこの概念造出の場に,多少なとりもかかわりを持つことを,浅から ず誇に感じているのである。
しかし,このことばを中教審答申案の中間発表に見出し,今又6月11日の答 申で読んだとき,私は2つの感想を強く抱く。
1つは,教育が国民の1600万にかかわる義務教育だけでなく,高校大学をふ くめた16年間,2300万の若い人kに関係するだけでもなく,総国民1億の,各 人70年余りに関係することであり,それを国家の中央教育審議会が認めて政府 に勧奨したということになると,教師であり教育研究者である私にとっては,
あと数ケ月に迫った本学停年退職後も,どこかに月給を貰える職場ができそう だという,ほのかな希望が浮んだのである。われながらいやしい,いやらし い,だからすなおでまじめな感想である。
もう1つは,これもすなおにまじめにいうのだが,この俺が生涯教育される ということは,それこそ到底堪えがたいほど「うんざり」だということであ る。去年の秋ごろだったろうか,この答申案の中間発表が新聞に報道されたこ ろ,研究室の昼休に,私はじょうだんめかしてW助手やM修士に「生涯教育」
ということばの連想反応をためしてみた。W助手は私が「城戸幡太郎先生のお 若いころと同様な連想反応異常症だ」とからかうほど連想反応の過敏な人だ が,生涯教育の連想は「終身懲役」 「無期徒刑」など,重苦しく,暗いことば ばかりであった。これは私と珍しく全く一致したのである。
注意する必要があると思うのは,「無期禁固」という活語が用いられずに,
「懲役」だの「徒刑」だのという死語が連想さたていることである。これは大 勲位が死んでも,皇太孫が結婚しても,到底恩赦特赦にはあずかれまい,とい
う皮肉ではなく,「生涯」にも「教育」にも私たちすなおな国民は,何か前近 代的印象を拭いきれないのであろう。
私やW助手が何かその経歴のうちに学校や教育に特に恨みを持つ理由があれ ば,それはそれで救いがある。W助手は日本の民主的教育史上,特筆すべき児 童の村小学校で学んだのであり,恩師には今なお教育評論家として特異な活躍 を続けておられる須藤克三先生がおられる,私は本当に稀に見る師運に恵まれ たもので,小学校では樋口長市先生,小林佐源治先生に担任され,校長格の主 事は佐k木吉三郎,佐k木秀一両先生,本校の校長は嘉納治五郎先生であっ た。中学校の担任は森本角蔵先生,中川一男先生,寺西武夫先生,主事は斉藤 斐章先生,校長は三宅米吉先生であった。高等学校では市原豊太先生,秦慧玉 先生,白石早出雄先生等・々のお教えを受け.校長は吉岡郷甫先生であった。大 学では吉田熊次先生.林博太郎先生,春山作樹先生の御指導を受け,しかも研 究室助手に海後宗臣先生や本学名誉教授飯田晃三先生がおられた。これらの諸 先生は学者としてすぐれた方もおられ,教育史の1ページを飾られる方もおら れ,有名にはなられなかった方もおられるが,教師としてはこれ以上の方kを 私は想像することもむずかしい。私は学校に恨みを持つどころか,恩師に尊敬
と感謝を捧げてやまないものである。
にも拘わらず,もし学校に行かず,これら恩師におめにかからなかったら,
今の私と別の私がいたろうか,ということになると,それは全くわからない。
少くとも,学校に行かず,従って別の経歴をもち,別の職業についていたら,
多分私は少くとも経済的には今より幸福であったろうことは推測できそうであ
る。
つまり.私にとって,教育とは主体たる教師にとって意味のあることだけれ ども,客体たる被教育者にとっては確かな意味をもち得ない,即ち長過ぎれば
うんざりせざるを得ないことなのである。
もちろん,まじめな教育研究者のいう生涯教育とは,国民の,国民による,
国民のための自己形成であって,たよりない文部大臣や,人相のよくない中教 審のおっさんたちが,生涯私にお説教をくらわせることではないと詳知してい るつもりだけれども,それは教育研究の末席を汚すものだからであって,一般 国民の立場からは,好むと好まざるとにかかわらず生涯誰かから説教をくらわ
されるウソザリ感はどうしても免れないであろう。
2
さて,このような日本人の教育観は,いつ,どうして生れたのであろうか。
そうして,それは日本人独特のものなのだろうか。それとも他に類例があるの か,或は人類共通普遍のものなのだろうか。
日本人独特のものだと仮定すれば,第1に問題にすべきは教育ということば である。出典はいうまでもなく孟子尽心章,君子三楽の終結に位置している。
戦後25年,まだ国交が正常化していない例外的な1国の,しかも2千年前のこ とばも文字もそのままの借用である。だから生涯教育を邦訳して」いのちのか ぎり おしえそだてる」とやったらどうなのだろうか。恐らく生涯教育という 日本語を作った人の意図とはもっと離れて聞えるであろう。私自身,停年退職 後も何か価値あることをおしえてもらうことは有難いが,そだてられることは 不可能であって,かつ迷惑至極である。
上原専禄先生が,親しい者との座談の席で「日本人に教育とはパイデウオ即 ち引き出すということだという考え方があるだろうか,かつてそのような考え
方があったかしらん」と語られたことがある。無責任な立場でこの話をききな がら私はπα δεひωに引きだすという意味があったかしらんと考えていた。辞 典を見るとパイデウオは育てる,養う,しつける,教える,訓練する等の意味 の訳語しか見当らない。上原先生はラテン語のedacoと思いちがいをされた のであろう。エドゥーコには育てる,教育する,引きだす等の意味の訳語がつ けられている。
ところで,このエドゥーコは,エドゥカーレ,エドゥカティオなどの活用を あげて「引きだす」という意味を強調した講義,通俗講演などが昔も今もよく 行われる。私も吉田熊次先生から教えられた。しかし,なまいきな学生であっ た私は,現実主義者の多いときくロマ人がそのような内面的な問題を中心に考 えたという証拠が必要ではあるまいか,と考えていた。というのは私は心の底 で,引きだすとは人間の内面にかもしだされ,芽生えようとするものを表に実 現させるというような七面倒なことの前に,鼻たれ小僧,泣き虫野郎の中か
ら大臣になったり,僧正になったりするものを引っぱりあげる仕事こそ教育だ と考えられたのではあるまいか,と感じていたからである。この感じかたは,
学生の私は無自覚であったけれども,どうも日本人の教育観の共通普遍的基盤 であるように思われる。今回の中教審答申にもこれが貫かれているのではない だろうか。第3次教育改革などと大向を張ってはいるけれども,明治学制にも
この感覚は残存し,戦後の教育基本法は改革の方向を指示し,今回の答申は学 制への回帰をはかっているように私には感じられる。
問題はこのような教育観が,日本に於て,いつどうして成立したのだろう か,ということである。たとえば紫式部は源氏物語の少女の巻で,教育の内容
としてのからさえ(中国文化)を身につけることがやまとだましい(素質?生 命力?)を社会に発輝するみなもとだと論じているが,このあたりに既に徴候 がはっきりでていると考えられる。ただし紫式部は,はっきりと人間の本質を 教育によって付加しうるもの(さえ)と固有不変のもの(たましい)との二元
で考え,しかも各々を外国(から)的なものと民族的(やまと)なものとに固 定している。紫式部は中下層貴族の娘として生れ,似たような貴族の妻であっ たこと,女性であるから稽アウトサイダー的に貴族社会を見ることができたこ と,当時日本の経済的,政治的発農の限界がはっきりしているのに,貴族の数 がふえてきていること,などが彼女の教育観をつくりあげたのであろうと思
う。
このような教育観は日本独特のものではあるまい。少くとも現象的には大韓 民国や南ヴィェトナム共和国の進学熱,大学への殺到ということに著しい類似
が見られる。
これと,アフリカの新興独立諸国や,北ヴィェトナム民主共和国の少数山間 諸民族の就学熱,特に幼稚園への殺到とは,現象的には似ているが,本質的に は異質なのか,同質なのか。国立教育研究所の平塚所長の造語「教育爆発」
で,これらの現象は把握できるのだろうか。
いったい教育の現象というの何なのだろうか。これは捉えることができるの
だろうか。
当研究室で,よく海外に行く人に,訪問国の「教育予算の総額,その総歳出 に対する比率」を調査するよう示唆したり,依頼したりする。
その場合,たとえばイスラーム圏によくあるというクッターブ(小規模私立 宗教的初等学校)は,どのように国家予算に影響するものであろうか。日本に 極めて近いタイ国に古くからの習慣と伝えられている青年男子の,日本の一一ee 代前の兵役義務のように,少くとも数ケ月頭を丸めてお寺に入ることは予算と は全く何も関係ない。しかもタイ国に文盲男子が非常に少いのは国公立学校の ためではなくて,大部分この定時制出家のためだと言われている。しかも,こ のお寺で学ぶのは単に読み書きと寺院内の作法だけではなくて,2,3年も寺院 生活を続けるものは,みな毎日梵語で教義を討議しているのだ,と,日本人技 術者としてタイに行き,タイ青年の生活を一しょに体験しようと寺入りも実践
してきた人が雑誌に書いていた。梵語による教義討論ともなれば,簡単に日本 と比較することは危険だけれども,まず大学教育の程度の教育が,国家予算,
自治体予算とは全く関係ない施設で行われていると考えなければならない,そ の事はタイ国の教育観の本質的特長だと考えるべきであろう。
3
民族の,あるいは社会の教育観を的確につかもうとすれば,むしろ学校教育 の内容方法や制度をしらべるよりは,社会教育と呼ばれるさまざまな運動やそ の形態をしらべることが早道ではないかと考えられる。
なぜならば,現代の諸国が持っている学校制度は19世紀のヨーロッパにでき あがった制度を,多少の修正を施しつつ,模倣していると言いきって,ほぼま ちがいないからである。されば,その修正のしかたを比較すればその社会の教 育観がわかるかと言えば,のんきな国があって,制度はうのみに右へならう が,本質は全くちがうのだとうそぶくものがあり,別の国の修正を,あまり理 由もなくお義理のように模倣するものがある。たとえばアメリカ合衆国の多く の州が,ヨーpッパの八・四・四制を六・三・三・四制に修正したのは,それ なりの沿革なり,理由なりがあったことだし,日本が六・五・三・三制にした のも,それなりの理由と沿革があったのだが,八を六に変えたところが似てい るといって,あとの五・三・三を三・三・四に改めたのはまさに修正法のお義 理的模倣である。
また中華民国は日本より20何年早く六・三・三・四制を採用したが,それは ジョン デューイの訪中講演が当時の中国イソテリたちの心を捉えたという以 外の理由はないようである。六・三制を採用した中華民国は,欧米とは極度にち がう国語・国字事情に応ずるカリキュラム編成にあまり気を使わなかったばか
りでなく,封建的搾取がそのまま残っていた奥地の農山村や,外国資本によっ て思いのまま搾取されている大都会の労働者たちにとって,この制度がどのよ
うに換骨奪胎され,国民教育は問題でなく,ひたすら新な搾取の手段としての
み受取られていたことを,教育の指導者たちは知っていたのだろうか。あえて 目をつぶって見なかったのか,運営に問題があっても,制度があればそれでい いのだという「教育観」を持っていたのだろうか。
これらに関して胡適や,察元熔や,陶行知をよく読み調べることも必要だ が,たとえばその時期に紅卍会や清真寺がどのような教育活動をしたか,また はしなかったかということを調べることの方が的確で能率的である。現在でい えば文化大革命の実態,紅衛兵の運動などを見ると,中国人の教育観がなまの ままで姿をあらわすことがある。
私が接した中国文学は,まさに九牛の一毛にすぎないが,その一毛のなかに
「子ども」は極めて稀に,しかも全く類型的に,その片鱗をあらわすだけであ る。それはなぜか,何をいみするのか,考える必要がある。その上,不思議な gとに,清朝末期の三代に,子どもを対象にした「幼学綱要」と題する書物が 何種類かでている。九牛一毛の私が4,5種類みているのだから10何種も,そ れ以上もだされたのだろう。清朝末期といえば,その前に例の新書版くらいの 版型で,いわゆる清朝活字の活版和綴本の四書五経が,朝廷の力で全国的に普及
されたことは誰でも知っている。康熈,雍世,乾隆,三名君の大事業の1っで あろう。それに続く威豊,同治,光緒の三代に幼学綱要群が普及されるのだか
ら,おそらく清朝廷の直接の事業か,その後援を受けた地方有力者,地方行政 官などの権力者の事業であろう。しかし,幼学綱要と題する諸書には,清朝が あれだけ力を入れた儒教の影がむしろ背後にかくれて,表面に出るのは蒸汽機 関を先頭にする近代文明であり,科学技術である。しかも幼学綱要の末期には 開化,近代化の先頭に立つものは日本であるという記述が多くでてくるのは,
中国史上極めて珍しいことだと思われる。これらの書物は「子ども向け」であ るから,分量も小さく,製本もお粗末で,どれだけ部数がでたのか知らない が,日本に渡来したものは殆ど無いだろうし,百年後の今日,現地で蒐集する
こともまず不可能に近いだろう。しかし,この間の事情を考察することは,中
国人の教育観,あるいは非教育観を推察する手懸りとして重要だと考えられ
る。
4
以上くだくだと述べてきているのは,教育観をたしかめるための「諸現象」
とは,近代教育の表面にある学校の制度やその運営管理,教育行財政ではなく て,社会の動きそのもの,とくに社会教育,社会運動としてとらえる方が本筋 ではないか,ということなのである。
社会教育も,社会運動も,少くとも19世紀までは宗教運動そのもの,または 宗教運動に密着,或は共存して起ってくる。それはもっと古くたとえば日本の 未世思想としての動き,ヨーロッパのプロテスタソト運動にしても,宗教乃至 は教団の内部から湧出してくるものと,外部の社会的,政治的動機で動きだす
ものが宗教を借り,教団をまきこもうとすることとが混然として分ちがたい。
これは残念ながら教育研究者の力だけでは分析解明できるものではない。歴史 学者,宗教学者,社会学者の助けを十二分に借りなくてはどうにも手のつけよ
うもない。
たとえば近世日本の国学運動を捉えようとして,まず賀茂真淵の出発点を反 儒学運動とみるのか,封建社会に於ける次三男問題として捉えるか,この2つ は並行した動機なのか,因果関係のある2つの動機なのか,真淵に於ては二者 択一すべきことなのか,単純には割りきれない。真淵に続く本居宣長も,平田
篤胤もみな次男坊である。
さらに心学の祖石田梅岩も次男坊である。心学は後に次三男対策の1つでも ある人足寄場に強い関心を示すので,心学の動機は次三男問題と考えたいが,
梅岩も賭庵も,現実の社会問題とは全く異質的な超観念的「悟り」をその動機 として強調している。
つまり,家を離れた人間の存在を認めまいとする封建社会に於て,家と個人 との関係に解決し難い矛盾を持つ次三男が,人間としての存在理由を明確にす
るために,観念の世界をも超えようとする超抽象の悟りを求めようとするのだ から,一面民衆から「心学者流のなま悟り」と批判され,一面人足寄場で説教 をして成績優秀なものを養子に世活して個人の存在理由を獲得させる,悟りと は反対の妥協というよりは降伏に落込んでしまう。人足寄場の説教という仕事 は,日本人の教育観のぎりぎりまで追い詰められた姿ではなかったろうか。
人間の社会的諸活動は古代までは殆ど全部宗教の名で行われる。政治も軍事 も,少くとも旗印としては宗教を掲げて行われた。ことに文化,学問は宗教そ のものの中に包含されたままでいるが,医学医術などが宗教から独立し,法律 学や論理学がさまざまな必要から宗教から離脱し,自然科学,社会科学,諸芸 術が宗教から独立する。教育という仕事は少くともヨー一 Pッパや中近東ではま さに現代となって独立する。アジアでは宗教そのものの状況から教育がヨーロ
ッパより早く宗教から独立しはじめたと言えよう。
最近の半世紀に於て,日本のファシズムの代表選手たちは,なぜかやたらに 悟りや啓示を自らも信じ,自らの鎧としてまとい,若い同志に押しつけようと した。現在,私たちが創価学会一公明党の運動に著しく警戒的であるのは,偏 に昭和ファシズムに対する嫌悪のあらわれである。
この昭和ファシズム勃興の時期と同時に,ヴィェトナムではホアハオ教やカ オダイ教が勃興する。これは一面仏教やカトリヅクの宗教改革的な側面と,民 族独立運動,愛国運動が宗教的衣裳をまとったという側面があると考えるのだ がまちがっているだろうか。ともかく,この両教団はソゴディソジェム政権が 武力弾圧を加えて壊滅させてしまった。ホアハオ教の幹部の一部は難をさけて 日本に来て,地下に潜った教団の力に支えられて生活し,再建の時を待ってい る。ンゴ政権が武力弾圧を加えたということは,宗教としては異質的な両教団 が,ヴィェトナム民族の統一と独立とに侮り難い影響力を,南北両地域に持っ ていたからであろう。この両教団の宣教と教育の実際を知ることは,ヴィェト ナム人を理解するのに重要な鍵であろうと私は考える。
私たちは創価学会ばかりでなく,宗教乃至は宗教的な.Cとを嫌悪し,軽蔑 し,少くとも警戒し,それをもって現代人である証拠にしようと考えている。
それは日本人ばかりではあるまい。それはそれなりに理由のあることであろ う。しかし,それを徹底しようとすると,自らの一切の過去を否定し,民族の 歴史を無視することになりかねない。現に日本の歴史は明治以降の百年しかな
いと思い,殊に教育史は敗戦後の25年しかないとする言動がしばしば行われて いる。25年の歴史で,現在が本当にわかったと信じられるのならそれもよかろ う。しかし歴史を故意に限走することによって,1つの偏見を普遍的真理と思 われる意図があるとしたら,それは大変なことではないだろうか。
世界宗教と言われるものでも,民族によってその受取りかたがずいぶんちが う。たとえば山上憶良は万葉集五の思子等歌の序に「釈迦如来,金口に正に説 きたまはく,等しく衆生を思うこと,羅喉羅の如しと,云々」と書いて,有名 な「瓜食めば」と歌と「銀も金も玉も」の子宝の返歌を続けている。この憶良 のシャカ理解は本末転倒と言いたいほど独特なものではないだろうか。つまり
シャカは,「人間は一般にわが子を熱愛するものだが,自分は修業や悟りの結 果として,一切衆生をわが子同然に愛するようになった」と言っているのに,
憶良は「仏陀は衆生を熱愛するものだが,実子をも衆生と同等に熱愛した」と いってびっくりしているのである。これを憶良の錯覚乃至は個性と思えば,そ れですむが,日本人の文化観の癖ではあるまいかと疑いはじめると,しいて限 定した百年国史も,25年教育史も評価しなおさなければならないのではなかろ
うか。
25年の教育史とは何か,それは六・三・三・四制の実現だという。だから 六・三・三・四制に異論をさしはさむことは歴史への反逆だ,というのであ る。しかし,25年前,東京も大阪も焼野原であった。空から時・々DDTがふっ てきたけれども青空があり,コスモスの花が咲ききそい,赤トンボがとんでい た。今子どもたちは青空も,太陽も,月も,星のかけらも,海も,川も,土
も,砂も,見ることがない。トソボも,蝉も,カブト虫も,蝶も,展翅板に突 さされた死体をデパートの宿題用品売場で見る以外のものではなくなった。子 ども自体も,食糧が豊富になったがために著しく身長がのび,遊ぶ場所がない ために肥満児がふえ,変声も初潮も2年くらい早まっている。環境が変り,子 ども自体が変っても,六・三・三の区切りは,民主教育,単線教育と不可分な のだから一指もふれさせることではないとわめて進歩的教育学者に,12GO年前 の憶良の姿を思い浮べるのは,反動的悪意なのだろうか。
もちろん,六・三・三制を云kして,高校多様化を旗印にし,能力に応ずる
選別教育を主張する悪意の一一一一・・派が根強く権力にくいこんでいることは周知の事
実である。しかしこれと,六・三・三・四の学校の区切り方が民主的教育の唯 一無二の姿なのだと盲信しつずけることとは,子ども無視,国民無視という点 で,完全に一致する。
5
教育観とは複合的なもので,個kの社会の文化観と児童観の接点であろうと
私は思う。
文化観は,たとえば農業社会の文化観だとか,商人階層の文化観だとか,類 型論が多く行われているけれども,むしろ多分に民族の個性的なもので,その 国語が決定的といえる役割を果す。農業が生産の主たる役割を果す社会でも,
その形態は気候風土によって異るし,その意味は政治や経済組織の状況によっ て異るからである。
児童観は民族の個性なものの1つだが,階級社会では階級の個性的なもので もある。キリストは「幼な子」(マタイ18)を.「貧しい人たち「(ルカ16)「こ ころの貧しい人たち」(マタイ5)とともに,天国にもっとも近いものに数え
た。
キリストの時代に,イスラエルはロマ帝国の植民地で,ティベリウス皇帝が 派遣した総督ポソテオ・ピラトが支配していた。キリストは植民地土民の貧し
い指物師の息子として生れた。
子どもを金銀宝にまさる宝と歌った山上憶良は古代日本の貴族だけれども,
貧窮問答歌など,いわばキザなほど自らを貧しい人になぞらえて作歌の態度を きめている。当時の日本は唐帝国の文化的影響力を強力に受け,憶良自身遣唐 使の随員として唐帝国に留学している。そこで彼は貧弱小国の中級官吏である
ことのみじめさを噛みしめたにちがいない。憶良は貴族であるから,いかに貧 しい者のポーズをとってみても,その児童観に観念的な空しい響をかくしきれ ないが,今様や催馬楽に残る「総角を小田にやいてや」や「あそびをせむとや 生れけむ」など作者不詳の歌になると,農民のにおいがして,「野の花」「空の 鳥」をたたえるキリストの気持をさらにこえて,子どもをたたえている。天国 に近いのではなくて神そのものとして見るのである。もちろん,この神はキリ ストの神とは全くちがって,収穫の祭に「われも神ぞ なれも神ぞ」と唱い
「遊ぶ」その神kである。
さらに近世になって,狂言の「縄ない」では,黒い膏薬をべたべたとぬりつ けたおできだらけの子や,わがままで,移り気で,やんちゃで,泣き虫の子ど
もたちが,そのままリアルにえがかれて,視聴者の笑いと楽しみとを誘ってい る。「鬼の継子」になれば貧しい農婦に抱かれた無心の嬰児が人喰鬼の心を人 間の心に変えるまさに神的存在として描かれている。
児童観の成立には常に階級意識がからんでいるように思われる。貴族の立 場,貴族であることを恥じない立場からは決して子どもは描かれない。貴族の 従属物乃至は準貴族というべき位置しか与えられなかった女性たちだけは子ど
もを描いたが,それは瞬間の美として子どもの姿態を捉えるに止った。
文化観は民族の個性的なものではあるまいか,と私は述べたが,民族の個性 を事実に則して考えてみたい。
日本民族の個性の一つに時間感覚の欠落,欠除といって悪ければ,著しい薄 弱さ,軽視がある。
たとえば建国祭のパレードの主役は鎧兜の武者行列である。建国祭は天皇制 をなつかしむか,その復活を願う人たちのお祭だが,武者たちは古代天皇に位 置だけを与えて権力を奪った人たちである。それはそれで建国祭を祝う人たち の気持にぴったりなのかも知れないが,この人たちも建国の日と想定している その時代に,中世武士の鎧兜は存在せず,髪をみずらに結い,貫頭衣や勾玉で 身を粧っていたことは知っている。しかし勾玉は残っていても貫頭衣や,いさ さかふざけた呼びかただが神武服などの遺物はない。そうすると2600年と500 年の時間差は問題でなく「昔」の遺物そのままである甲冑の方が「本物」だと 感じてしまう。即ち時間の軽視である。
また伊勢へ行くと,伊勢観光協会だか,津市の関係だか忘れたけれども,小 中学生の踊子たちが,手甲脚絆,盲縞の着物の裾を端折って,振分荷物を肩に という近世末の旅人の衣裳で「神代ながらの」という歌にあわせて民謡踊りを 見せてくれる。同じ観光事業で,似たような時代錯誤が,エジプトのカイPに
もある。ピラミッドの前でコーランの読諦をスピーカーで流していることであ る。しかしカイロの場合は外人観光客特にアメリカ人を対象にしたサービスだ から,無責任にエキゾティックなメロディーであれば何でもいい,佐渡おけさ やソーラソ節だったら,おかしいと思うのは日本観光客だけで,アメリカ人は もっと喜ぶかも知れない。現在のアラブ連合の政府や国民はピラミッドを作っ た人たちの子孫ではないのだから,伊勢の観光協会とは事情がちがっている。
日本人観光客ならヴェルディのアイーダ凱施行進曲が流されると一番ぴったり と感ずるだろう。
時間の軽視ということは,過去をまぜこぜにするばかりでなく,時の流れを 未来に及ぼすことを日本人は禁制にする。古い諺は「来年のことを言えば鬼が 笑う」と言い,日本の代表的大企業のテレビコマーシャルは毎日「あす何が起 るかは誰も知らない,あす何が起ってほしいか,それは誰でも知っている」と 叫びつずけている。この私にとって,永遠の真理のようなことが,どうも日本
人の特異な個性にすぎないと思われる。
私は30年前,日本軍占領下の中国,青島特別市で中国人中学校の日本語教師 であった。当時,中国人の生活はどう考えても不幸であった。改めたい条件が 多すぎた。それを改めるには,日本と徹底的に協力して,日本軍の行過ぎを是 正させるか,徹底的に抗戦して日本軍を追いはらうしかないと思われた。日本 人である私としては,何とか前者の方法をとってもらいたいのである。親しく なった中学生にいろいろ話すと,彼らは口裏をあわせたように必ず言う。「先 生,そんなに心配しなくていいんですよ。100年たてば条件は必ず変ります。
100年かからないでしょう。50年かな,30年かな」。私は言う「100年たってご らん,私も,君も生きてはいない。50年後でも私は死んでいるだろうし,君 だってもうおじいさんだ。30年後だって君は絶対に中学生ではない。自分のい ないときの条件なんてどうなってもかまわないのだ。100年さきということは 私にとっては無いことと同じなんだ」。この私にとってはあたりまえきわまる
ことばを,中国人中学生たちは,妙な禅問答でもきくように,理解しかねる顔 をしてきいていた。しかし,今思えばまことに賢かったこの中学生たちも,や はりまちがっていて,30年どころか10年たたないうちに,彼らをとりまく「条 件」は全く変ってしまった。
また敗戦後私は,いわば捕虜代表のひとりとして,英軍師団司令部の中に起 居して,英軍との連絡にあたっていた。英軍の将兵は驚くほど謹直で勤勉だ が,一面無器用で非能率なところがある。たとえば事務機構に一つ二つネヅク があって,そのポストにあたる人は人一倍忙しく,長時間働いているが事務が 渋滞してしまう。事務渋滞の被害者のひとりとして機構改革を進言したことが 2度ほどあった。参謀長もよくきいて,師団長に伝え,師団長はわざわざ捕虜 代表に「部外者としてよくここまで考えられるものだ。心から敬意と謝意を表 する。2,3日よく考えさせてもらう」と言いにきて,3日ほどたつと「慎重 に考慮してみたが,あなたの意見を実施すると,たしかに当面非常に能率的に
なる。しかし,2,3年後,その機構に慣れて,またどこかにネヅクができるの ではないかと思われる。それはどこがネヅクになるだろうか,今から手てうっ ておきたいのだがどうだろう」と訊くのである。私は「2,3年後と言わず半 年後でも,また10年後でも,ネックができたらそこで何度でも考えたらいいと 思う。日本人は未来のことは考えないのだ。考えてもわからないからだ」とし か答えられない。師団長は「未来のことを考えないで,どうして現在がわかる のだろう,不思議なことだ」と言って考えこむ。私は「未来がわからなければ 現在がわからない」乃至は「現在はどうでもいい」と考える英国人がわからな
い。不思議な人kだと思われる。
今私はこの師団長のことばがわかりはじめた。現在とは過去と未来のつなぎ である。それ以外の現在はないのだ。教授会に出席しながら,着任後1年余り 私は何の意見ももち得なかった。過去を知らないから現在の問題の性質がわか
らないのである。今年度に入って私は教授会でも,連絡教授会でも,全く意見 を持ち得なくなっている自分にびっくりしている。それは私にとって来年がな いからである。来年に全く責任を持ち得ない私は,今年の問題の性質が自分の
ものとしてはつかみえないのである。
ただ,日本人である私にとって過去,現在,未来とは去年,今年,来年のこ とで,3年を単位として考えるのに,イギリスの田舎師団長は10年,20年を単 位として考えており,解放前だが中国の田舎中学生は100年,200年を単位とし て考えているということに私は標然とせざるを得ない。
タイの荒野に建てられた,というより正確には私たちが建てさせられた日本 軍捕虜収容所に帰えって,私は考えこまざるを得なかった。時間感覚を持つ日 本人を,創り出す教育とは具体的に何か,という事を。
第1に日本人の弱点は自我が極めて薄弱だということである。自我意識が薄 弱だから,立場がはっきりしない。時とともに流れて行くから,周囲の景観の 変化は楽んでも,自分の位置がわからなくなる。どこから来て,どこへ行くの
かわからないばかりか,わかろうともしない。だから日本文化に美術は発展す るが,音楽は貧弱である。写生的な短詩文学が発達して,壮大な長編叙事詩は 近世以後極めて貧弱である。
小さい時から立場ということを常に意識させるために,そうして時間の芸術 を身につけるために,学校教育に劇と音楽,とを画期的に重要視しなければだ めだ,と考えた。音楽は早くソロと整唱をはなれて,合唱と合奏でなければい けないと考えた。いくつかの立場,その対立と調和とを,常にからだで体験し つずけなければ,現代に生きる国民になれないのだと考えたのである。
驚くべきことは,くたびれた教育学者がこんな事を考えついたときには,兵 隊たちは中隊ごと,聯隊ごと,師団ごとに劇団を組織し,バナナの繊維をそめ たカツラ,ハリバ軟膏のおしろい,マーキュロクロームの口紅で芝居をはじめ た。従来の兵隊娯楽の玉座を占めていた浪曲はたちまちその地位を失い,現地 材料で画仙紙も絵具も造出した美術運動も流行にはいたらなかった。手製の楽 器を加えた合奏団もいくつか現れ,本学の先輩杉山茂顕先生は軍最大の合奏団 の常任指揮者で,得意曲目はパラのタンゴであった。合唱団もぽつぽつできは じめ,特殊看護婦たち(実は敗戦までは従軍売春婦だった人たち)も合唱団を 作ろうとした。私のようなズブのしろうと以下のものまで指揮や編曲のまねを する始末になった。
民族の自己改造は,くたびれた,へまな教育研究者を待たずに,大衆が自 ら,いわば無意識のうちにはじめる。これは驚くべきことであり,感動せざる を得ないことであった。
外地に抑留された兵隊たちばかりではなかった。復員してみると,内地はし ろうと劇団が流行であった。じきに歌こえ運動で合唱団がたくさんできた。つ ずいて,20年間,ギターばやり,エレキばやり,フルートばやりと,あきずに 続いている。ただし,その合奏ばやりが,立場の自覚と対立と調和とに発展し ているのか,無自覚な立場の押付にそれているのかは,こういう大衆の自己改
造を見つけ,これを悪用しようとする一派の存在とにらみあわせながら,研究 者は常に監視しつずけなければなるまい。
さて,この民族の自己改造は学校ではどうなっているのだろうか。学校劇は 一時流行のきざしを見せたが,たちまち道徳教育特設論者の手段に悪用され て,まさにイキのネをとめられようとしている。合唱はたしかに盛である。試 みに夏休に日本中をあるいて見給え,網走から弘前,仙台から浜松,岡山から 下関,小倉から鹿児島,松山から高知,日本全国,中学校は中学校,小学校は 小学校で全部同じ曲を,同じテンポで,同じ押殺した声で,そのいみでは大変 お上手に歌われているのをきくだろう,というよりはいやになるほど聴かされ るだろう。秋のNHK合唱コンクールにそなえて,課題曲を練習しているので ある。勇気がありたら,その学校の音楽堂に入れてもらって見るがいい。似た ような人数の生徒たちが,同じ汗みずくで,同じようにクビをまげて,全国一 斉にうんざりと歌っている。指揮と伴奏の先生の疲労とヒステリーまで全国一 様なのである。合唱教育は自我抹殺の効果さえもつ両匁の剣であることを私は 見抜けなかった。
6
民族には個性がある。しかし,それは普通いわれる固定不変なもめではな く,時に自ら改造をはかる。だからこそ個性である。ある民族はしばしば,あ る民族は稀に,ある場合は政拾や経済の必要に迫られて,ある場合は内なる文 化の発酵に促されて民族は改造を試みる。あるときは失敗し,あるときは成功 し,あるときは逆行して改造以前よりも貧弱になってしまい,絶滅してしまう 場合もあるだろう。
そのような民族の動くときに,すぐれた教育論が出現する。ソークラテー ス,プラトーソ,コメニウス,ペスタロック,フレーペル,ロパートオーウェ
ン,ルソー,みな例外ではない。フレーベルの護教学的立場や,ルソーの神学 的方法を無視して,いたずらに千古不磨の大典としてこれを読もうとすれば,
それは誤解を招きやすいばかりでなく,何ともむなしい限りである。
時の流れの中に自らの位置を確め,どこから来て,どこへ行こうとしている のかを,常に検証することが特に教育研究者には厳しく要求されていると思
う。
時間感覚や,自我の意識を,田舎中学生だの敗残の兵隊だのの例をとって論 じたので,イソテリゲンチャには怒られるか,無視されるかも知れない。日本 人の典型とは信じたくないのだけれども,社会通知としてはまさに教育に関心
を持つ日本人の代表である中央教育審議会が,今年6月文部大臣に提出した答 申,坂田文相が感心し,佐藤首相が「中教審の先生方が4年以上もかけて出さ れたのだから,立派なものにちがいない」とほめた,その答申を問題にしてみ
よう。
答申はその第1編「学校教育の改革に関する基本構想」の第1章「今後の社 会における学校教育の役割」,今後の社会における人間形成の根本問題を,(1)
人間形成の多面性と統一性,(2)社会環境の人間に対する挑戦としているが,ま ず揚足とりのようだがこの(2)を取上げてみる。
第1にこの節の表題の「挑戦」というコトバはヨーロッパ語の直訳であろ う。自ら挑戦とは問題をなげかけること,と訳し直している。そうしてその問 題として6つをあげる。
ア 科学技術の進歩と経済の高度成長に伴う自然と人間の不調和 イ 都市化・大衆化による,自然環境から隔絶された過密な生活環境
ウ 家庭生活と血縁的な人間関係の変化によって家族の教育的機能高揚の必要 工 寿命の伸長と労働需要とに応ずる人生設計
オ 女子教育の普及に伴う女性の社会的参加要求 力 価値観の動揺と敗戦に伴う国家観の混酔乱
さて,この,えらい人が人間形成の根本にかかわる問題としてあげた6項目 のうち,5項目までは因果関係が逆転している。ア項では,客観的事実として
科学技術や高度成長があり,その結果自然人間の不調和が生れたとしている が,自然を征服すべきものとのみ見る科学技術や経済成長があったから今日の 惨情があるので,罪は不調和な科学と経済を選んだ社会にある。ウ項も自然か ら離れて密集したい人・効ミ都市化を起したのだ。ウ項も前時代の家族関係に対 する批判が人間関係を変化させているのだし,オ項も女性の社会的参加要求が 女子教育の普及をもたらしたのではないのか。力項に至っては敗戦が国家観の 混乱を来したと言っているが,明治以後のしいて誤った民族観,国家観が無 かったら開戦もなし,従って敗戦もあるはずがない。
これほど,大事な前提条件をでたらめに規定した,まじめな論文というもの があってよいものだろうか。歴史を敗戦後の25年に厳しく限定すれば,これは 単なる客観的条件なのだから,それはそのまま正しいことであろう。しかし中 教審の委員にとっては,この25年は人生の後期もしくは中期で,この客観的条 件の造出に多少なりとも責任を感じないでいられる人ではないはずである。そ れがまるで捕虜が敵の司令部の事務機構を批判するように,しゃあしゃあと客 観視している事を私は憎むが,その破廉i恥は日本人の時間オソチ,歴史オソチ を逆手にとっている事を思えば,実にただごとではない。由kしき一大事であ
る。
お互に教育研究者として,一にぎりの権力者に奉仕して,国民をいつわる手 段方法を考えだす民族の裏切り者ではありたくない。民族の自己改造や自己発 展に役立ちうる,民族国民のひとりとしての研究者でありたい。そのために,
現象を事実として把握しうる眼をくもりなく磨き,腕を確にとぎすましたい。
ここに現象を見究める力量というのは,まず現象の歴史的把握にあると考え る。歴史的に把握するということは,事の由来や沿革を正し,因果を正確につ かむ努力だが,その事の由来の中に自分をどう位置づけるかが問題である。つ まり時の流れの中で,自分がどう行動するか少くとも行動を準備するか,その 責任をどう感じているかが問題なのだと考えるのである。
明治41年6月3日
大正14.
昭和3.
昭和6.
昭和7.
3.25 3.25 3.31
2. 1
H召禾08. 3. 1
同年 5. 8
昭和8.5.22
バ量4 −↓−⊥
10ゾ0
和和 昭昭
昭和11.9.1 昭和14.1.9 昭和19.3.15
昭和20.
昭和21.
昭和21.
昭和21.
昭和22.
昭和25.
昭和26.
20 Q5 P9 P0
P128 835654凸7
昭和30.11.1 昭和40.10.1 昭和42.4.1 昭和45.11.30 昭和47.3.31
古川原教授略歴
東京市牛込区若宮町に生れる
東京高等師範学校附属中学校第四学年修了 浦和高等学校文科丙類卒業
東京帝国大学文学部教育学科卒業
幹部候補生として騎砲兵大隊に入隊(同年11月30日
除隊)
師範学校・中学校・高等女学校教員無試験検定免許 状(文部省む第68361号)
小学校本科正教員無試験検定免許状(東京府ひ第
4081号)
東京市立今戸高等小学校代用教員(昭和10年3月31
日退職)
任陸軍少尉
私立立教高等女学校附属小学校教員(昭和11年8月
31口退職)
東京市立富士小学校代用教員(昭和13年12月30日退
職)
中華民国青島市治安維持会教員指導官(後に青島特 別市政府専員)
臨時召集 第37師団山砲兵第37連隊第6中隊附(京 浜・湘桂・明号各作戦に参加)
任陸軍中尉 師団参謀部附持外業務担当 第37師団長より賞詞表彰
佐世保上陸 召集解除
日本教育新聞記者(昭和22年4月30日退職)
中等学校教科書株式会社社員(後中教出版と改名)
青山学院大学教授兼任(昭和28年3月31日まで)
中教出版株式会社常務取締役編集部長(昭和30年7 月23日役職を退く)
専修大学教授(昭和40年9月30日退職)
東京都立大学教授
兼任東京都立大学附属高等学校長 兼任東京都立大学附属高等学校長退任 東京都立大学教授定年退職
主要な著書と論文
〈児童論関係〉
。子どもの「心理学」
。子ども集団の成立と構造 。草原の小さい家
・玩具月評
。児童観成立のための民族意識と 階級意識
。学テ体制と子ども 。幼児の発見
。幼児観の成立
。近代児童文学者の児童観 く家庭教育論関係〉
。お母さんの教育学 。家庭教育論
。家庭生活と道徳教育 。人間をつくる
く教育内容及方法論〉
。庭訓往来等の内容分析 。子どものための文化財 。小学5,6年の道徳教育 。中学生の道徳教育
。山びこ学校の教育実践について 。子どもの価値体験と学校
。ほんものの学力 く教師論関係〉
。女教師であること 。教師のモラル
〈教育制度施設論〉
。教育委員会とは
昭12.6 昭13.7 昭26 昭36.9
−38.8 昭40.2
昭42.9
昭43.1
昭26.6 昭26.7 昭30.12 昭33
昭5.10 昭27.12 昭31.9 昭32 昭33.6 昭36.10
昭37.12
昭33.11 昭34.10
昭22.6
教育論叢 教育文化
新教育事業協会刊 毎日新聞
児童問題研究
全書「国民教育」第12巻明 治図書刊
全書「国民教育」第9巻 明 治図書刊
刀江書院刊 国土社刊 牧書店刊 講談社刊
教育思潮研究
岩波講座「教育」第7巻 牧書店刊
牧書店刊
教育実践論 誠信書房刊 岩波講座「現代教育学」第15 巻
明治図書刊
明治図書刊 日本評論社刊
日本教育新聞刊
。学校建築設備論
〈民族論・文化論〉
。明治教育ジャーナリズムの時局 反応
。若いアフリカを行く
。教育における民族意識の課題
。ビェトナムー民族・文化・教育
。アフリカに於ける民族意識と教 育
。トルコ民族と教育について
。人間になりたい
昭25.9
昭13.10
昭35.11
日召37.1.2
昭44.1 昭42.3 昭44.3 昭47.3
目黒講座「学校教育」
教育思潮研究 新評論社刊 専修大学論集 明治図書刊 人文学報60号 人文学報71号
(東京都立大学)教育学研究 室刊