トーマス・オッパーマン「連邦憲法裁判所と国法学」
赤 坂 正 浩 〔訳〕
Ⅰ.連邦憲法裁判所に対するヴァイマル国法学の影響
.連邦憲法裁判所の創設に対する国法学の貢献
.連邦憲法裁判所の初期の裁判に対するヴァイマルの影響
Ⅱ.連邦憲法裁判所の裁判官となった国法学者,連邦憲法裁判所の 法廷に立った国法学者
.Martin Drath(1951〜1963 年)
.Ernst Friesenhahn(1951〜1963 年)と Gerhard Leibholz
(1951〜1971 年)
.Konrad Hesse(1975〜1987 年)
補論:「国法学者不在」の期間
.Helmut Steinberger(1975〜1987 年)
.Roman Herzog(1983〜1994 年)と Dieter Grimm
(1987〜1999 年)
.Ernst-Wolfgang Böckenförde と Hans Hugo Klein
(1983〜1996 年)
.Paul Kirchhof(1987〜1999 年)
Ⅲ.展望:連邦憲法裁判所の磁力圏内にある国法学
連邦憲法裁判所と国法学との関係は多様である。連邦憲法裁判所は,連邦憲
法裁判所法 32 条にもとづくその判決の特別な権威によって,基本法の解釈と
ドイツにおけるその他の立法の妥当性を直接的に形成することになった。連邦
憲法裁判所の審査に服してきたという点から見れば,カールスルーエ[連邦憲
法裁判所の所在地]で理解されているものこそがドイツ法なのである。立法者
さえもが憲法裁判によって訂正を受ける。「裁判官がこれが憲法だというもの
が憲法だ」 (C. H. Hughes) 。
これに比べて,国法理論の任務は,より疑問の多いものとなった。定評ある 学者の学説や鑑定意見が,憲法および法律の通用する理解をはじめから形成す る時代は,憲法裁判権の出現によって過去のものとなった。たしかに,ある法 の重要な部分がまだ憲法裁判手続に服していない場合には,学者の理解もその 法の重要な部分と見なせるかもしれない。しかしながら,紛争が生じ,それが 連邦憲法裁判所に係属することになれば,理論の役割は,裁判所による法の
「正しい」解釈に説得力を与える論拠を提出することに限定される。
当然のことながら,話はこれで終わりではない。いつのまにか 100 巻を越え たカールスルーエの裁判は,国法学の仕事にとって尽きることのない鉱脈とな った
1)。もちろん,このことによって国法学は,「連邦憲法裁判所解釈学」と なってしまう危険に直面している
2)。国法学が自分の任務のこうした自己限定 を避けようとするならば,今日の国法学の重要な課題は,カールスルーエの判 決を認識する際にそれを乗り越える考察をおこなうこと,説得力のない判決へ の服従を拒否すること,そしてとりわけ,何百もの個別判決のパッチワークか ら単純に導かれるわけではない憲法の全体像を展開することである。こうし て,今日の憲法裁判による制約の下においても,Peter Badura とか Konrad Hesse のような人々の教科書や,Klaus Stern の記念碑的大著には,ドイツ国 法の有効な理解にとって本質的な意義がある
3)。判決による[文献]引用の体 裁がじつにさまざまなため,その点を個別的に跡づけることは困難だとして も,「時代に適した憲法の全体理解」 (Konrad Hesse) を得ようとする学説の探 求が,裁判所に影響を与えていることには誤解の余地がない。
連邦憲法裁判所と国法学との相互影響は,直接的な意味ではカールスルーエ とドイツの法学部との特別な人的結びつきから,最も手っ取り早く観察するこ とができる。その際,前面に現れるのは,連邦憲法裁判所の構成員となった国
)本稿では,連邦憲法裁判所公式判例集の 1 巻から 101 巻までを考察対象とする。
)その顕著な例は,以前から「連邦憲法裁判所の判例にもとづくコンメンタール」という副題 をもつ G. Leibholz/H. -J. Rinck/D. Hesselberger の―きわめて有益な―Grundgezetz für die Bundesrepublik Deutschland, 7. Aufl. 1993 である。
)K. Hesse, Grundzüge des Verfassungsrechts der Bundesrepublik Deutschland, 20. Aufl. 1995;
P. Badura, Staatsrecht. Systematische Erläuterung des Grundgesetzes für die Bundesrepublik Deutschland, 2. Aufl. 1996[2012 年に第 5 版が出版された]; K. Stern, Das Staatsrecht der Bundesrepublik Deutschland, Bd. Ⅰ-Ⅴ, 1977-2000[2011 年にⅣ/2 が出版されて,Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ/1,
Ⅲ/2,Ⅳ/1,Ⅳ/2,Ⅴの全 7 巻が完結した].
法学者の活動である。最初の半世紀間,連邦憲法裁判所の裁判官のなかには,
ほんの数年を除いて途切れることなく,1 人ないし複数の憲法の教授が含まれ ていた。[憲法裁判官という]その役割のおかげで,これらの教授たちにとっ ては,国法理論に根拠を置くみずからの憲法上の見解やある程度までは憲法政 策上の見解を憲法裁判実務に輸入することが,[裁判所の]外部にいる者に比 べてはるかに容易であった。当然のことながら,この点は多くの場合,個々の 裁判官の性格に左右される。しかしながら,判例集を精査すれば,総じてこれ らの「教授裁判官」たちが,カールスルーエの裁判に自分の痕跡を残している ことがわかる。したがって,以下では,裁判所に対する国法学のこの種の影響 を特に跡づけることにしたい。
これに加えて,申立人または被申立人の代理人として,あるいはこれに類似 する役割で,カールスルーエの訴訟に参加した数多くの国法学者が,連邦憲法 裁判所と直接に対話してきた。この場合には,[国法学者による]裁判所での 弁論と当該事件の決定との直接的な因果関係は,ごくまれに,しかも限定的に 確認されるか,あるいは推定されるにすぎない
4)。社屋の捜索に対抗する「シ ュピーゲル」出版社の憲法異議は敗訴したとはいえ,第一法廷判決がプレスの 自由の本質的な保護を表明するに至ったのは,Horst Ehmke のおかげなので あろうか
5)? バイエルン州政府が,第二法廷による 1973 年の基本条約判決 で勝訴したことに,Dieter Blumenwitz はどれほど大きな貢献をしたのだろう か
6)? その名前がかなり多くの重要な訴訟において訴訟代理と結びついてい る Peter Badura,Peter Lerche,あるいは Fritz Ossenbühl のような何人かの 教授たちは,裁判所に対してどれほどの影響を与えたのだろうか? このよう にどうしても不確定な部分があるにもかかわらず,国法学と連邦憲法裁判所と のこの種の直接対話について,若干の考察をおこなうことには価値がある。
さらに裁判所と国法学との直接対話には,[裁判所が判決文で]引用してい
)当初,連邦憲法裁判所は,「秘密保持」の観点から,判例集 26 巻所収の決定までは訴訟代理 人の氏名を開示しなかった。このこともこうした困難を増大させている。裁判所の初期のこの ような制限のせいで,G. Dürig,H. Ehmke,H. P. Ipsen,H. Krüger のような著名な国法学者 や,その他若干の国法学者の訴訟参加については別の資料を参照した。また,連邦憲法裁判所 は,判例集 20 巻所収の決定までは,決定文の裁判官の署名を公表しないことによって,自分自 身さえ「匿名化」していた。たとえばルクセンブルクのヨーロッパ共同体裁判所とは違って,
当該事件の主任裁判官の氏名は今日でも明らかにされていない。
)BVerfGE20, 162ff. の「シュピーゲル」判決。
)BVerfGE36, 1ff. の「基本条約」判決。
ることからわかるように,連邦憲法裁判所がそれに対して賛成または反対の態 度を表明した論者の見解も含まれる。たとえばルクセンブルクのヨーロッパ共 同体裁判所とは異なって,連邦憲法裁判所は多くの重要な訴訟において,判決 に際してそこから[知見を]汲みあげてきた源泉を明示している。
連邦憲法裁判所と国法学とのこうした緊密な接触を詳しく取り扱う前に,連 邦憲法裁判所はその設立時と初期の裁判において,それ以前のドイツ国法学の 影響をどの程度受けたのかを確認しておくことには意味があると思われる。
Ⅰ.連邦憲法裁判所に対するヴァイマル国法学の影響
ઃ.連邦憲法裁判所の創設に対する国法学の貢献
基本法 92 条以下および 1951 年 4 月 16 日の連邦憲法裁判所法という形をと って,1949 年から 51 年にかけておこなわれた連邦憲法裁判所の設立に対し て,国法学が影響を与えたことは,成立史を見ても,またもっと深い意味にお いても,確認することができる。当然のことながら,そこにはヴァイマル時代 やすでに1919 年以前に精神的刻印を与えられた国法学者たちの思想があった。
ヴァイマル時代の国事裁判所と比べて権限の本質的な拡大をともなう連邦憲 法裁判所が設立される契機となったのは,1948 年のヘレンキームゼー憲法会 議に提出された「基本法の創造に関するバイエルンの要綱」であった。この要 綱は,Hans Nawiasky の草稿に決定的に依拠していた
7)。Nawiasky の提案 は,1945 年以降,重要な政治家たちの間に広まっていた確信,すなわち,憲 法の番人となる裁判所の創設は,ナチス独裁という恣意[的支配]の後にドイ ツの法治国家を再建する崇高な行為に含まれるという確信を共有していた。そ の際,ヴァイマル・ライヒ国事裁判所というドイツ固有の憲法裁判権の特徴点 をさらに拡大強化する意思とともに,アメリカ合衆国最高裁判所というモデル もひとつの役割を演じた。1948 年から 49 年にかけての憲法制定議会評議会の 審議過程や,これに続く 1951 年の連邦憲法裁判所法の起草に際しては,こう した基本的な考え方では一致が見られたので,「法治国家の隅石」 (F. Flein- er/Z. Giacometti) として目一杯拡大強化された憲法裁判権を実現するために は,もはや理論の画期的な貢献は必要ではなかった。詳細な決定をおこなった のは,本質的には憲法実務家と政治家であった
8)。
)詳細は Stern(Fn. 3),Bd. Ⅱ, S. 330ff.
すでにヴァイマル時代には,ドイツ国法学の分野の多くの論説によって,ド イツの政治的思考に憲法裁判権がより深い意味で完全に浸透する道が開かれて いた。まず,ヴァイマル憲法 108 条によるドイツ・ライヒ国事裁判所の設立が すでに,連邦制にかかわる特定の憲法争議に限定された 1871 年帝国憲法上の 連邦参議院の権限を越えて,本質的な一歩を踏み出すことを意味した。法治国 家の隅石として憲法裁判権が必要だというヴァイマル時代の洞察は,帝国時代 の国法実証主義と決別したこの当時の国法学の「精神科学的」転換に多くを負 っている。この転換は,とりわけ Heinrich Triepel,Erich Kaufmann,Rudolf Smend,そしてまたヴァイマル期の Carl Schmitt の名前と結びついている
9)。 憲法と法律が,ひとつの構造物をなす基本的諸価値にもとづいて作られたもの であるなら,立法者の行為も憲法上の機関相互の行為も,実定的な基準にもと づいて裁判の形式で統制されることは想定可能であるし,要請されてもいるよ うに思われる。Triepel のようにもともとは懐疑的だった人も,「政治的な法」
の一定部分は裁判的に統制できると見なすことによって,次第に憲法裁判権の 支持者へと変化していった
10)。このようなヴァイマル時代の国法学とヒトラ ー帝国の恣意的支配の衝撃的な経験が,その大部分は 1920 年代に法学教育を 受けた憲法制定議会評議会の政治家たちの世代に対して顕著な影響を与えたと 認めることは,けっして的外れな考え方ではないだろう。こうしてドイツ第二 共和制の樹立に際して,ドイツにおける先行者との比較においても,外国との 比較においても,その充実した権限の点できわだったものである憲法裁判権が 設立されるに至ったのである
11)。国民主権・議会主権を軽視する「裁判官政 治」に対して警鐘を鳴らす散発的な意見は,国法学内部では明らかに少数派に とどまり,その後の数十年においても,カールスルーエの「不人気な」判決が 出るたびに蒸し返されはするが,けっして代表的なものとはならなかった
12)。
)Stern(Fn. 7)は,C. Schmid[カルロ・シュミット]の脇役的な協働に言及している。本来 的なリーダーシップを発揮したのは,G. Zinn,W. Strauß,Th. Dehler といった人々であった。
)詳しくは E. R. Huber, Deutsche Verfassungsgeschichte seit 1789, Bd. Ⅵ, 1981, S. 15ff.
10)H. Triepel, Wesen und Entwicklung der Staatsgerichtsbarkeit, VVDStRL5(1929),S. 2ff. ヴァ イマル時代の憲法裁判権に対する Triepel の肯定的態度への変化については,詳しくは U. M.
Gassner, Heinrich Triepel, 1999, S. 378ff. 参照。同じ 1928 年のウィーンでの国法学者大会にお いては,(当時は自分自身がオーストリアの憲法裁判官であった)H. Kelsen が,純粋法学にも とづいて,包括的な憲法裁判権の論理を展開している。
11)K. Schlaich, Das Bundesverfassungsgericht, 4. Aufl. 1997, S. 1ff.
.連邦憲法裁判所の初期の裁判に対するヴァイマルの影響
Hermann Höpker-Aschoff (1951〜1953 年) と Josef Wintrich (1953〜1958 年)
という 2 人の長官の下で活動した最初の数年間の連邦憲法裁判所裁判官はほぼ 全員,そしてそれに続く時期の裁判官も多くは,公法の教育と経験をヴァイマ ル時代に積んだ人々である。同時に,彼らはナチスの独裁も経験し,彼らに信 託されたボン基本法の「ボンはヴァイマルになってはならない」という決定を 原則的に支持していた。このことは一方で,1933 年に一時的に軽視され無力 化されたヴァイマル国法学の本質的な基本的洞察を受け継ぎ,継続的に発展さ せることを意味した。他方で,ヴァイマル憲法の弱点を認識し,この弱点がボ ンの憲法理解に受け継がれないように配慮することが重要だった。このそれぞ れについて,1 つずつ主要な例をあげて説明しよう。
基本法の妥当力にとって中心的な意味をもったのは,連邦憲法裁判所が基本 法を解釈してきた方法である。連邦憲法裁判所の裁判の最初の 10 年間に基本 法解釈の諸原則が発展し,こうした解釈原則は,多少は修正され洗練されたも のの,現在でも通用している。この文脈では,ヴァイマル国法学の「精神科学 的」傾向からの影響を疑うことはできない。とりわけ Rudolf Smend によって 1920 年代に展開された憲法観および憲法解釈観の影響が重要だと思われる
13)。 連邦憲法裁判所は,とりわけ,特別な種類の法規である憲法はそれに特に妥当 する考察方法にしたがって解釈される必要があるという,それまであまり認識 されていなかった点を,Smend の憲法観・憲法解釈観から読み取った。たし かに (「規定の文言と意味連関から明らかになる立法者の客観的意思」の探求とい う) 憲法解釈に関する短い定式によって,連邦憲法裁判所は,明示的には,憲 法以外でも一般的に承認されている法解釈の最も重要な諸原則にのみ依拠して いる
14)。しかしながら,たとえば,基本法の経済秩序に関する投資助成判 決
15),2 条 1 項の人格発展の権利に関する,補充的には直接適用される筆頭自
12)当時は,憲法裁判に政治の負荷をかけすぎることに対するヴァイマル期 C. Schmitt の警告
(特 に Verfassungslehre, 1928, S. 117ff.)を 引 照 し た W. Weber, Weimarer Verfassung und Bonner Grundgesetz, 1949 の懐疑が有名であった。のちの時期の泡沫的な「憲法裁判権に対す る敵対者」のリストは,Stern(Fn. 3),Bd. Ⅱ, S. 956f.
13)R. Smend, Verfassung und Verfassungsrecht(1928). の ち に,Staatsrechtliche Abhand- lungen, 1955, S. 119ff. に再録。そこでは,特に,「憲法の本質」(S. 187ff.)と,「全体としての 憲法の解釈」(S. 233ff.)が詳論されている。
14)BVerfGE1, 299(312);8, 274(307);10, 234(244)以来,確立された判例において,繰り返 し引用されている[定式である]。
由権という理解
16),私法に対する基本権の照射効に関する「リュート」事 件
17)など,初期のいくつかの基本判決に注目するならば,裁判所がくりかえ し,憲法解釈を法解釈の特別な技法と理解し,その際,憲法の特殊性を意識し てきたことがわかる
18)。それは,憲法上の概念の多くがもつ「簡略性と曖昧 性」,憲法の「政治的」性格,そしてしばしば断片的であるにせよ,国家と社 会の包括的な基本秩序としての憲法の「全体性」という傾向と関連していた。
ヴァイマルの精神科学的傾向によってはじめて浮き彫りにされた[憲法の]こ の特質は,連邦憲法裁判所の裁判が展開されるにつれて,同時代の国法学によ ってさらにテーマとされ,引き続き発展させられた
19)。多くの点で Smend に 負っている Konrad Hesse の見方が,たくさんの論説のなかで特別な意義を獲 得した
20)。憲法解釈を,憲法規範をアクチャル化し具体化する行為として理 解し,あるいは一見したところ矛盾する基本法の諸決定を実践的に調和させ,
その際,相違点をうまく調整するというしばしば必要となる行為として理解す ることで,Hesse の見方は,憲法の理解についてより深い洞察を獲得した。同 時にHesse の解釈方法は,変化する時代の要請を,憲法変遷を通じて考慮す る可能性にアクセントを置いたものであった。70 年代の半ば以降,Hesse は 自分自身憲法裁判官として,たとえば公的独占から技術の進歩にともなう二元 秩序への放送法制の移行に際して,みずからの諸原則を連邦憲法裁判所の裁判 へと注入できた
21)。精神科学的方法が開いた「無制限の」解釈の可能性に対 して,時おり批判がなされたにもかかわらず
22),連邦憲法裁判所は重要な機 会にはくりかえし,特殊な憲法解釈の自由を行使した。ヨーロッパ通貨連合の
15)BVerfGE4, 8ff. の「投資助成」判決。
16)BVerfGE6, 32ff. の「エルフェス」判決。
17)BVerfGE7, 198ff. の「リュート」判決。
18)もちろん,比較的大人数の裁判官によって構成された[第一法廷および第二法廷という]
つの判決団体には,単一の根拠がある首尾一貫した「解釈方針」というものは存在しない。
Hesse(Fn. 3),S. 23 が,この文脈で[連邦憲法裁判所の]矛盾と飛躍を指摘している。
19)たとえば,P. Schneider/H. Ehmke, Prinzipien der Verfassungsinterpretation, VVDStRL20
(1963), S. 1ff., S. 53ff.; G. Roellecke, Prinzipien der Verfassungsinterpretation in der Rechtsprechung des Bundesverfassungsgerichts, Festgabe Bundesverfassungsgericht 1976, 2.
Band, S. 22ff.; Chr. Starck, Die Verfassungsauslegung, HStR Ⅶ(1992),S. 189ff.
20)Hesse(Fn. 3),S. 20ff.
21)とりわけ,1961 年の第次「テレビ判決」(BVerfGE12, 205ff.)から 20 年後の,ザールラン トの民間放送に関する「FRAG」判決(BVerfGE57, 295ff.)によって,第 1 次「テレビ判決」
の見解を覆したときがそうである。詳しくは,後述Ⅱ. 3 参照。
合憲性を,将来的発展の特定の諸条件と結びつけて「限定的に」承認したこと が,そのごく最近の例である
23)。
憲法解釈の諸原則については,ヴァイマル国法学の思想が連邦憲法裁判所の 仕事にある程度まで肯定的に受容されていることが観察できるのに対して,政 党助成というテーマは,[連邦憲法裁判所による]否定的な評価を受けたと思 われるヴァイマルの経験から,[連邦憲法裁判所の]特定の裁判がいかに決別 して発展していったかを示す例である。この裁判は Gerhard Leibholz の名前 と結びついている。彼は Heinrich Triepel の門下生として 1920 年代のベルリ ンで研鑽を積み,のちにはカールスルーエにおける最初の「教授裁判官」のひ とりとして,20 年に及ぶ在職期間のあいだに高い名声を獲得した。Leibholz は,政党国家の現実に対するヴァイマル憲法の「非政治的な」禁欲のうちに,
当時の秩序の弱点のひとつを見出した。[彼によれば]この弱点が,革命勢力 が擬似合法的な権力簒奪を容易におこなうことを助けたのである。Leibholz は,Triepel その他何人かのヴァイマル期の論者の精神[的影響]のもとで,
基本法 21 条を結節点として,憲法裁判所の裁判を通じて「政党を憲法に包摂 する時代」を完成させようとした
24)。その基盤となる最初の一歩を踏み出し たのは,Leibholz の影響の下で政党を「憲法構造の統合的構成要素」と言明 し,憲法裁判上の機関訴訟において[政党の当事者適格を]許容した,初期の さまざまな判決であった
25)。しかし,結果的に見ると,その後まもなく政党 助成に関する裁判の「動揺」 (Klaus Stern) が生じた。判例は,1958 年には国 家予算による政党助成を許し,その 8 年後には選挙運動資金を別として政党助
22)同時代では,とりわけ E. Forsthoff, Zur Problematik der Verfassungsauslegung, 1961. 続い て,「伝 統 的 な 解 釈 準 則」が 決 め 手 と な る と い う 理 解 に 立っ た E. W. Böckenförde, Die Methoden der Verfassungsinterpretation, NJW1976, S. 2089ff. Smend と Hesse のラインは,
「孫」の Häberle によって発展させられた。たとえば JZ1975, S. 295ff. 参照。
23)BVerfGE89, 155ff. の「マーストリヒト」判決。
24)H. Triepel, Die Staatsverfassung und die politischen Parteien, 1928. この時代では,Triepel と 並んで,とりわけ G. Radbruch をあげておかなければならない(Die politischen Parteien im System des deutschen Verfassungsrechts, in; G. Anschütz/R. Tohma(Hrsg.),Handbuch des Deutschen Staatsrechts, Band Ⅰ, 1932, S. 285ff.)。G. Leibholz に つ い て は,た と え ば,G.
Leibholz/H. Reif, Verfassungsrechtliche Stellung und Ordnung der Parteien, Verhandlungen des 38. Deutschen Juristentages, 1951, C1ff. 参照。
25)BVerfGE1, 208ff.; 2, 1ff.; 4, 27ff. 第二法廷のいろいろな決定で,ヴァイマル国法学の文献が普 通に引用されていることや,何度かは Leibholz 自身の著作が引用されていることから,これら の決定には Leibholz の「筆跡」が―時代を経ても―はっきり見てとれる。
成を否定し,―その間にLeibholz は退官していたが―1992 年の 2 回目の転換 で,複雑な上限および分配基準の遵守を条件に,政党助成をふたたび認め た
26)。重大な結果をもたらしたこれらの裁判を瞥見することは,ヴァイマル の国家思想が,[Leibholz という]ひとりの重要な裁判官の個性を通じて,カ ールスルーエの裁判に影響を与えたという点で興味深いばかりではない。同時 にここから見えてくるのは,特定の学説を背景にした意味解釈が変動したこと で,ひとつの憲法条項のわずかな文言から,裁判官法によって単純立法に対す る広範な要件が設定され,その結果,今日はこういう結論になり,明日はまた 別な結論になるという,事実上「無制限の」解釈がおこなわれる危険性であ る。その間の経験が示しているように,このようなしばしば自己矛盾をきたし ている憲法裁判所の「代替立法」が,高い権威を得ることはできなかった。
Ⅱ.連邦憲法裁判所の裁判官となった国法学者,
連邦憲法裁判所の法廷に立った国法学者
すでに述べたように,設立以来の半世紀間,連邦憲法裁判所に対して同時代 の国法学が及ぼした重要な影響は,これまで裁判官として活動した国法学者,
憲法上重要な訴訟における訴訟代理人・補佐人・鑑定証人という形で裁判所と の「職務上の」対話をおこなった国法学者,あるいは判決理由に自分の著作が 引照されることを通じて裁判所との「職務上の」対話をおこなった国法学者,
こうした人々を瞥見することによって知ることができる。もちろん,連邦憲法 裁判所と国法学との緊密な関係のこうした諸形態を,実務に対する理論の本質 的な影響の証明とすることは,連邦憲法裁判所の活動が大部分は広義の法律実 務家から構成された 2 つの法廷によっておこなわれていることを考慮すれば,
限定的な可能性しかもたない。逆に,ドイツ国法学の継続的発展に対するカー ルスルーエの裁判の影響は,時代の進展とともに計り知れないものへと成長 し,無視することはほとんどできないものとなっている。
連邦憲法裁判所法 2 条にしたがって,各法廷の裁判官のうち 3 人は,連邦の 最上級の諸裁判所の裁判官から選任されるのに対して,連邦憲法裁判所裁判官 に国法の教授を任命することは,法的には命じられていない。もちろん,実際 に両法廷のどちらにも国法の教授がいなかったのは 1972 年から 74 年の間だけ
26)BVerfGE8, 51ff.; 20, 56ff.; 85, 264ff. の「政党助成」判決。
であるし,第一法廷については 1963 年から 74 年までの間である。この時期に おいてさえ,民法学者の Hans Brox が第一法廷に所属し,非常勤教授であっ た Hans Rupp と Willi Geiger が第二法廷に所属していたので,連邦憲法裁判 所には「まったく教授がいない」わけではなかった
27)。また,「ドイツの大学 の法律教師」については,学問活動と裁判官活動が例外的に両立可能であると する連邦憲法裁判所法 3 条 4 項からも,大学の法律教師の何人かが連邦憲法裁 判所の構成員となることが期待されていることがわかる。
最初の 50 年間に,10 人の国法学者が連邦憲法裁判所に在職した。そのうち 4 人は第一法廷に所属した。すなわち,Martin Drath (1951〜1963 年) ,Kon- rad Hesse (1975〜1987 年) ,Roman Herzog (1983〜1994 年) ,Dieter Grimm
(1987〜1999 年) である。6 人は第二法廷の構成員であった。すなわち,Ernst Friesenhahn (1951〜1963 年) ,Gerhard Leibholz (1951〜1971 年) ,Helmut Steinberger (1975〜1987 年) ,Ernst-Wolfgang Böckenförde (1983〜1996 年) , Hans Hugo Klein (1983〜1996 年) ,Paul Kirchhof (1987〜1999 年) である。
このうち,バーデン・ヴュルテンベルクの内務大臣という政治職から裁判所 に転じた Roman Herzog は,最初は所属する第一法廷の裁判長として連邦憲 法裁判所副長官であり,1987 年から連邦大統領となるために任期満了前の 1994 年に退官するまでの間は連邦憲法裁判所長官であった。任期の規定の暫 定的な変更の結果,Leibholz は 20 年間在職した唯一の国法学者となった。ヨ ーロッパ法学者・国際法学者であった Steinberger を除く全員が,その研究の 重点から見て憲法学者であり,Böckenförde は憲法史・国家理論への傾向が強 かった。
ઃ.Martin Drath
(1951〜1963 年)最初はベルリン,のちにはダルムシュタットの憲法学者であった Martin
27)国法学と連邦憲法裁判所との関係ということで,理論の側に関しては公法[の研究・教授]
を主たる職務とする教授に[考察対象を]限定することは,本稿の問題設定に対応していると 言えるだろう。2 つの法廷に属したその他の教授たちもまた,連邦憲法裁判所の裁判に重大な 貢献をしたことは疑いない。本文であげた教授たちと並んで,氏名だけをあげれば,E. Benda,
H. Faller,D. Katzenstein,H. Kitscher,E. Stein,W. Zeidler あるいは K. Zweigert が思い浮か ぶ。ドイツの法学部は,提供する授業を豊かにするために,[現職の]連邦憲法裁判官を非常勤 教授として任用することがある。本稿は,連邦憲法裁判官の任期が終了した国法学教授だけを 考察する。
Drath は,いまではあまり注目されなくなった。これは,在任中はマスメディ ア向けにも自分に課していた彼の慎み深い態度と裁判官としての自制のせいだ ろうか? ともあれ,[憲法裁判官]就任直前におこなったミュンヘンの国法 学者大会での包括的な報告で,Drath は自分のカールスルーエでの活動につい て,一種の予測をおこなっている
28)。この時の Drath の発言のなかでは,実 定法にしたがって正確に描写された連邦憲法裁判所の権限の限界[に関する解 説]よりも,そこから透けて見える憲法裁判官の活動についての基本的な見解 のほうがより興味深い。明示的な引照はしていないが,価値関係的・政治親和 的なヴァイマルの思想傾向との近似性が感じられる。憲法裁判権は,率直に
「憲法制定権力をさらに行使すること」と定義されている。Hesse がのちに Carl Schmitt 的言い回しでおこなった表現を先取りするような定式で,
[Drath は]憲法裁判権に対して「政治的全体決定を多かれ少なかれ具体化す る」任務を割りふっている。連邦憲法裁判所の個々の決定は,必要とあれば憲 法制定者の不完全な作品を裁判官が補充することで,「自由で民主的な憲法の 基本構想」と合致するものとならなければならない。この Drath の考えは,
裁判所と国法学との間で多様な対話がおこなわれる未来を暗示している。この 文脈で[Drath は],裁判官の個別の決定は,憲法の自由で民主的な基本構想 をつねに熟考することを学問的任務としている国法学の体系にもとづいて,ふ たたび精査されることが必要だとしている。
Drath は 12 年間の在任中,こうした考え方を裁判官としての活動にもちこ む十分すぎるほどの機会をもった。「基本権法廷」である第一法廷において,
彼は基本的な決定のすべてに関与した。これらの決定,とりわけ「エルフェ ス」,「リュート」,「薬局許可」判決
29)によって,連邦憲法裁判所は最初の 10 年間で,可能なかぎり欠缺のない実効的な基本権保護へと舵を切った。ここに は,1950 年代にはまだ基本法の有意な理解をめぐって争っていた学界の認識 と,裁判所との間で,Drath が求めた対話がおこなわれたことが十分に感じと れる。たしかに,第一法廷による[文献の]引用の仕方はさまざまであった。
「エルフェス」判決は,基本法 2 条 1 項の筆頭自由権と各個別基本権との関係
28)E. Kaufmann/M. Drath, Die Grenzen der Verfassungsgerichtsbarkeit, VVDStRL9(1952),S.
1ff., 17ff.(Kaufmann が 16 頁だったのに対して)100 頁に及ぶ M. Drath の豊かな素材を含んだ 報告は,国法学者大会報告のなかでも最も包括的なもののひとつである。
29)上述 Fn. 16 および 17 と,BVerfGE7, 377ff. の「薬局許可」判決。
[という問題]について,今日に至る道を開いた判決だが,たった 1 箇所,あ る特定の文献を否定的に引用することで満足し,他方で補充的に訴求可能な一 般的行為自由という基本思想は,一見したところでは裁判所が自由に創造した ように見える
30)。しかしながら,いろいろな人が指摘しているように,基本 権の構造内における基本法 2 条 1 項の地位を,実用的かつ説得的に規定しよう とした同時代の学界の努力との精神的な対話なしには,「エルフェス・ドクト リン」[の定立]は想像し難いものだっただろう
31)。Drath が署名して共同責 任を負っているその他の判決においては,同時代の国法学との思考の交流が明 示的におこなわれている
32)。これに対して,SRP[社会主義ライヒ党]と KPD[ドイツ共産党]を対象とした 1952 年と 1956 年の政党禁止判決では,
理論との対話はふたたび放棄されている
33)。これは,[政党禁止の]手続がこ れまでにないものだったからだろうか? それとも連邦憲法裁判所が「戦う民 主制」に対する信仰告白を,余計な修飾なしに,疑問の余地のないように宣言 しようと望んだためだろうか? いずれにせよ,2 つの判決が,ヴァイマル時 代と第二次大戦直後の西ベルリン時代の Martin Drath の経験と一致し,憲法 裁判を自由で民主的な基本秩序の「基本構想」に組み込むという彼の要請と一 致するものであることはかなりたしかなことである
34)。
30)「エルフェス・ドクトリン」は,これを打ち出した最初の判決である BVerfGE6, 32ff. ののち,
とりわけ E54, 143 の「鳩の飼育」決定,E80, 137 の「森の乗馬道」決定で確認された。
31)ここで特に念頭に置いているのは,欠缺のない保護秩序という意味で憲法の基本権編を体系 化しようとしたこの時期の G. Dürig の努力である。彼は,1958 年の「エルフェス」判決とほぼ 同じ頃,Th. Maunz/G. Dürig(Hrsg.),GG-Kmmentar, Art. 2Abs. 1, Rdn. 3ff. でこの考え方を打 ち出した。[このテーマに関する]その後の要約として,R. Scholz, Das Grundrecht der freien Entfaltung der Persönlichkeit in der Rechtsprechung des Bundesverfassungsgerichts, AöR100
(1975),S. 80ff., 265ff. がある。この[Dürig のいう基本権の]体系は「閉鎖」的だとする Hesse
(Fn. 3),S. 183ff. の有名な批判は,これまでのところ支持を得られていない。
32)「リュート」判決(BVerfGE7, 198ff.)の場合には,民法の一般条項への基本権の「侵入」に 関しては G. Dürig が明示的に利用され,基本法 5 条の「一般法律」の理解に関してはヴァイマ ル時代の Häntzschel と,同時代の Ridder が明示的に利用された。薬局判決(E7, 377ff.)が基 本法 12 条に関して「段階理論」を打ち出すにあたっては,Scheuner と H. P. Ipsen の考察が利 用された。カールスルーエでのいろいろな訴訟における国法学者の直接的な協働については,
公式判例集 26 巻に含まれる決定までは,確かめることができない(上述 Fn. 4)。
33)BVerfGE2, 1ff. の「SRP」判決,BVerfGE5, 85ff. の「KPD」判決。
34)Drath は,ミュンヘンでの国法学者大会の報告において(Fn. 28, S. 98),1932 年にヴァイマ ル憲法には基本法 21 条にあるような政党禁止条項がなかったことを,もしあればナチ党に対す る禁止の申立てが可能になっただろうと残念がった。
12 年間の在任中,第一法廷の諸決定に対して Martin Drath が及ぼした影響 を,それぞれ個別に証明することはできないとしても,断固とした連邦憲法裁 判官であり国法学者であったこの人物が,最初の 10 年間の連邦憲法裁判所に よる多くの指導的決定に関して,重要な役割を果たしたことには疑問の余地が ない
35)。
.Ernst Friesenhahn
(1951〜1963年)とGerhard Leibholz
(1951〜1971年)第 二 法 廷 に お け る 最 初 の 国 法 学 者 は,Ernst Friesenhahn と Gerhard Leibholz であった。「お隣[第一法廷]の」Martin Drath と同じように,同僚 裁判官たちとともに彼らに課せられた任務は,基本法下のドイツの憲法裁判権 という新天地に,最初の足跡をしるすことであったと言っても過言ではない。
この任務のためにFriesenhahn と Leibholz というヴァイマル時代以来名声を 博した 2 人の公法学者が選任され,この任務を引き受ける覚悟を示したこと は,幸せなことだったと言わなければならない。学問的系統も気質も異なって いたことから― Friesenhahn は Richard Thoma の厳格なドグマーティクの学 派に属し,Leibholz はより「政治的」だった Triepel の門下生であった ― , 彼らはそれぞれ自分のやりかたで,第二法廷の仕事に高い国法学的水準をもち こんだ。2 人は,その学問的過去と,ボンとゲッティンゲンで継続していた授 業を通じて,カールスルーエにおける任務に対して最良の備えをしていた
36)。 在任期間に関する初期の複雑な規定のせいで,Leibholz は 8 年長くカールス ルーエにとどまった。
ゼウス神の 2 人の息子たちのような互いの親密さと,審理の匿名性のせい で,連邦憲法裁判所の裁判に対して 2 人の個性が及ぼした影響をきれいに分離 できる可能性はきわめて限られている。加えて,第二法廷の実務家のなかに は,学問的な対話を恐れる必要のない個性をもった Rudolf Katz,Hans Rupp,
Willi Geiger がいた。Leibholz が,Friesenhahn の在任中とその後もう回,
明確に証明可能な影響を政党の分野の決定に対して与えたのを別とすれば,
1950 年代と 60 年代初頭の第二法廷の重要な裁判に関しては,2 人の国法学者
35)たとえば投資助成判決(BVerfGE4, 8ff.)や,基本法 5 条のプレスの自由を,自由な民主制の ための制度的保護とした第 1 次[放送]決定(BVerfGE10, 118ff.)のような,M. Drath が協働 したその他の一連の裁判も,本文で取り上げた諸決定と同程度に重要である。以下で取り扱う
「国法学者裁判官」についても,裁判官としての彼らの影響にとって特に特徴的な若干の決定だ けを強調している。
の間だけではなく,法廷メンバー全員の間に緊密な協力関係があったという強 い印象を受ける。このことは,選挙権の平等という「重大な」例外をともなう にせよ,一般平等原則を恣意禁止の命令と解釈することへ一歩を踏み出したこ とや
37),「国際法に友好的な」基本法の専門的理解を始めたこと
38),そしてま た,代表民主制を採用する憲法上の決定を,連邦忠誠原理の展開と結びつけて 厳格に擁護したこと
39)にあてはまる。これらの初期の裁判を貫く基本方針を 捜し求めるならば,それは,まだ若い憲法テキストを保護し,誤解のないよう に確認する努力のうちに容易に見出される。これに加えて,国際法的な問題に 関しては,世界に向かって開かれた基本法前文の精神が考慮された。さらにこ の関連では,基本法上の連邦原理,これはラント高権に有利な基本法 30 条の 原則−例外関係をともなうものだが,これを断固として擁護する[姿勢が]含 まれる。すでに1957 年の政教条約判決で,連邦憲法裁判所はラント高権のい かなる削減も容認しないことを示したが,その後裁判所は,1961 年の第 1 次
「テレビ判決」において,この見解を包括的に確認した
40)。連邦テレビ放送に 関する判断が示されたのは,最初の 10 年間のカールスルーエの裁判で最も重 要なこの訴訟においてであった。同時にテレビ判決は,国法学と憲法裁判権の 正しい関係に関する Friesenhahn の見解
41)に対応した「国法学と憲法裁判権
36)E. Friesenhahn は,連 邦 憲 法 裁 判 所 入 り す る 前 か ら,(G. Anschütz/R. Thoma(Hrsg.), Handbuch des Deutschen Staatsrechts, Band2, 1932, S. 531ff. と(Hrsg.):Begriff und Arten der Rechtsprechung unter besonderer Berücksichtigung der Staatsgerichtsbarkeit nach dem Grundgesetz und den westdeutschen Landesverfassungen, FS. Thoma, 1950, S. 54ff. によって),
憲法裁判権に対して多様な貢献をしていた。その際,Friesenhahn の冷静な性格と,基本法の 下で連邦憲法裁判所が獲得した憲法機関としての「突出した地位」を共有することとの間には,
長いこと矛盾があった。彼は,憲法裁判を,彼が機能的には等価値と考えた各種の裁判[権]
の集合名詞と見なしていた。G. Leibholz は,Triepel の門下生の立場から憲法裁判権の諸問題 にアプローチするに際して,裁判所入りしたあとになってはじめて,研究を公刊し(Verfas- sungsgerichtsbarkeit und demokratischer Rechtsstaat, 1956),のちには(R. Rupprecht と共編 の)連邦憲法裁判所法のコンメンタールと,(H. -J. Rinck およびあとからは D. Hesselberger も 共編者に加わった)基本法のコンメンタールの 2 冊を編集した。H. -J. Rinck, In memoriam Gerhard Leibholz, JÖR NF35(1986),S. 133ff. も参照。
37)BVerfGE1, 14ff. の「南西ドイツ諸邦」決定および E1, 208ff. の「南シュレスヴィッヒ有権者 連盟」判決。
38)BVerfGE1, 351ff. の「ペテルスベルク協定」判決,E1, 372ff. の「政治協定」判決,E1, 396ff.
の「予防的規範統制」判決,E6, 309ff. の「ライヒ政教条約」判決。
39)BVerfGE8, 104ff., 122ff. の「核兵器住民投票」判決。
40)BVerfGE12, 205ff. の「ドイツ・テレビ有限会社」判決。
とのギブ・アンド・テイク」を示す好例である。1892 年の Haenel のドイツ国 法や,1916 年の Smend の君主制連邦国家における不文憲法の研究にはじまっ て,放送法に関するヴァイマル期や基本法下の多数の学問的態度表明 (そこに は Gerhard Anschütz,Hans Peter Ipsen,Herbert Krüger,Ulrich Scheuner,Hans Schneider が含まれる) との対話に至る[学問的検討によって],連邦憲法裁判 所は基本法中に放送を位置づけようとしたのみならず,その後長い間基準とな った,ラント高権の断固たる維持という意味でのボン基本法の連邦制の定義も 同時におこなったのである。
連邦憲法裁判所の初期の裁判において,このように法律への忠誠心をあてに できると同時に,国法学との対話も包括的に受け入れるようなドグマーティク を形成することは,Thoma の門下生である Ernst Friesenhahn にとっても,
Gerhard Leibholz と同様,うってつけの任務であった。Leibholz のほうは,
さらに政党の憲法上の位置づけを[自分にとって]特別な分野と見なし,きわ だった個性を発揮して[第二]法廷の裁判を形作ろうと努めた。[政党に関す る]一連の重要な決定全体のスタイルに反映している
42)こうした関心もまた,
ヴァイマル期にLeibholz が平等原則および「20 世紀における民主主義の構造 変化」を取り上げていたことや,亡命経験後「ヴァイマルの欠陥」を是正しよ うと努力したことから説明することができる
43)。第二法廷の他の構成員の貢 献を過小評価するつもりはないが,選挙権平等が「厳格に」解釈されたこと,
すなわち,政党間の機会均等が一貫して強調されたことや,同じく政党助成に ついては[判例に]揺らぎがあったことも,Leibholz の決定的な影響に帰す ることが許されるだろう。これらすべては,代表民主制の合法性は現代大衆民 主制の政党国家という現実によってますます影響を受けており,この発展は政
41)Friesenhahn u. a., Vorwort zur Festgabe Bundesverfassungsgericht, 1976.
42)特にBVerfGE1, 208ff. の「選挙権平等」判決[注 37 では「南シュレスヴィッヒ有権者連盟」
判決と呼んでいる],E8, 51ff. の「第 1 次政党助成」判決,E14, 121ff. の「政党の政見放送時 間」決 定,E16, 130ff. の「選 挙 区 割 り」決 定,E20, 56ff. の「第 2 次 政 党 助 成」判 決,E24, 260ff. の「政党概念」判決,E24, 300ff. の「第 3 次政党助成」判決。これらの諸決定は,上品で 読みやすい文体と,ヴァイマル時代(Heller,Radbruch,Thoma,Triepel)から現代
(Eschenburg,Forsthoff,Grewe,Hesse その他)に至る学説とつねに対話している点で,共 通性を感じ取ることができる。
43)G. Leibholz, Die Gleichheit vor dem Gesetz, 1925; Ders., Gleichheit und Allgemeinheit der Verhältniswahl, 1929; Ders., Das Wesen der Repräsentation und der Gestaltwandel der Demokratie im 20. Jahrhundert, 1929.
党の憲法的編入によって受けとめられ誘導されなければならないという,彼の 根本的な確信によって支えられていた。連邦憲法裁判所は,Leibholz が退官 したのちも,とりわけ生活保障義務をともなう本業としての議員の存在を認め たことによって,さらには不確定できわめて複雑な政党助成の規律によって,
この方向をさらに推し進めた
44)。基本法 21 条・38 条・48 条の短い文言から 展開されたこうした拡張的な裁判官法に賛成か反対かは,ここでは論じないこ とにしよう
45)。この文脈で確認しておきたいのは,連邦憲法裁判官の職に就 いたひとりの国法学者の見解は,それが名声を博した強い個性の説得力と結び ついている場合には,彼が所属する法廷の裁判を刻印づけることができるとい うことである。
અ.Konrad Hesse
(1975〜1987 年)Ernst Friesenhahn[ ママ。Martin Drath の誤記 ]の退官以降,Konrad Hesse という高名な憲法学者が 1975 年に第一法廷[の裁判官]に選任されるまで,
国法学が第一法廷に直接の代表者をもたない時期が 12 年続いた。1971 年に Leibholz が第二法廷を去って以降,Hesse と同時[1975 年]に Helmut Steinberger が加わるまでの数年間は,連邦憲法裁判所全体に国法学者が存在 しなかった。
補論:「国法学者不在」の期間
カールスルーエに「国法学者がいなかった」時期にも多くの重要な決定がな され,それらが今日まで継続的に発展していることもまれではない点に注目す ることは,ドイツ国法学の内部では一般に相当強くなっている教授たちのうぬ ぼれに対してはいい薬になる。これらの重要な決定のいくつかをあげておく と,第一法廷では,プレスの自由の強化にとって重要な 1966 年の「シュピー ゲル」判決
46),すでに1967 年に国内法とも国際法とも区別されるべきヨーロ ッパ共同体の本質を説得的に描写した第 1 次「ヨーロッパ決定」
47),学校法を
44)BVerfGE40, 296ff. の「議員歳費」判決,E85, 264ff. の「第 4 次政党助成」判決。政党助成の 裁判に対する Leibholz の貢献については,上述Ⅰの終わりのあたりを参照。
45)連邦憲法裁判所が推進したこのようなドイツの政党国家の発展に対する,最もポピュラーで ポレーミッシュな批判者となったのは H. H von Arnim である。一番新しいものとして,Vom schönen Schein der Demokratie, 2000.
46)BVerfGE20, 162ff. の「シュピーゲル」判決。
ベースにして,法律の留保をさらに発展させる「本質性理論」を根拠づけた 1972 年の「ヘッセン能力別学級編成」事件
48),立法者の内容形成を学問の自 由によって限界づけた 1973 年の「グループ大学」決定
49),そして最後に,生 成中の生命のため,そして妊婦の自己決定権に対するその原則的優位のため に,国家の保護義務を認めた刑法 218 条に関する 1975 年初頭の第 1 次[妊娠 中絶]判決がある
50)。同じ時期の第二法廷の裁判をふり返れば,いわゆる特 別権力関係についても基本権保護の道を開いた 1972 年の「受刑者決定」
51)と,
1973 年の連邦共和国と東ドイツとの基本条約に関する判決
52)は,その重要性 において[上にあげた第一法廷の諸決定に]けっしてひけをとらないと思われ る。Willi Geiger の主導で成立した基本条約判決は,この時期の政府のドイツ 政策にとっては束縛と感じられたが,再統一の時代になると,この判決が広い 政治家的な視野をもっていたことが明らかになった。当時の第二法廷の裁判の うち,マイナス面に属するのは,ヨーロッパ共同体法の優位をとんでもなく誤 解した 1974 年の「第 1 次ゾーランゲ決定」である
53)。この決定は学界からほ とんど一致して拒絶され,のちに1986 年の「第 2 次ゾーランゲ」において必 要な訂正を受けるために,Helmut Steinberger の専門知識を必要とした
54)。 最初の良き四半世紀を全体としてふり返った場合,60 年代から 70 年代初頭に かけての「国法学者不在の」裁判は,法治国家の進展と,1968 年以降の過剰 な改革機運に対する時に賢明なブレーキ役との,注目すべき混合物と言うこと
47)BVerfGE22, 293ff. の「EEC 指令」決定。この決定では,H. Kitscher の参加が重要な意味を もった。W. Heyele, Hans Kitscher − Ein Grandseigneur der Robe, JöR NF48(2000),S. 253ff.
参照。
48)BVerfGE34, 165ff.[本質性理論は]のちに確立された判例となった。Erwin Stein(E. Stef- fen, Bundesverfassungsrichter Erwin Stein, JöR NF46(1998),S. 95ff.)と H. Simon に由来する この[本質性理論という]ドクトリンは,その後 Th. Oppermann によって学問的に体系化さ れた(Gutachten C zum 51. Deutschen Juristentag, 1976)。
49)BVerfGE35, 79ff. の「グループ大学」判決。
50)BVerfGE39, 1ff. の「第 1 次妊娠中絶」判決。
51)BVerfGE33, 1ff. の「受刑者の郵便物」決定。
52)BVerfGE36, 1ff. の「基本条約」判決。この判決は,おそらくは理由づけに迫力をもたせるた めに,この当時すでに汗牛充棟となっていたドイツ問題に関する文献の引用を一切放棄してい る。にもかかわらず,目がきく読者には,行間に現れた判決執筆者の深い知識のほどがわかる。
53)BVerfGE37, 271ff. の「第 1 次ゾーランゲ」決定。法廷の名誉を救うのは,Rupp,Hirsch,
Wand, aaO. S. 291ff. の少数意見である。
54)BVerfGE73, 339ff. の「第 2 次ゾーランゲ」決定。これに先行する[第 1 次ゾーランゲ決定]
に対する批判としては,たとえば H. P. Ipsen, EuR1975, S. 1ff.
ができる。法廷に国法学教授が所属していなくても事は円滑に運び,けっして それほど悪いことにはならなかったわけである。正確を期すためには,ドイツ の国法学は,いま述べた訴訟の多くにおいて,申立人や被申立人を援助するこ とによって,大きな存在感を示していたこともつけ加えておかなければならな い。1966 年には,当時フライブルク大学の教授であった Horst Ehmke が「シ ュピーゲル」出版社の憲法異議に勢いを与えた。Hans Hugo Klein は,すぐの ちに自分自身が連邦憲法裁判官となるのだが,1973 年,ゲッティンゲン大学 の 同 僚 た ち と と も に 学 問 の 自 由 の 理 解 の 拡 張 に 貢 献 し,同 じ 年 Dieter Blumenwitz は,東西ドイツの基本条約の審査について,バイエルン州政府の 申立を代理して裁判所にその主張を認めさせた。同じようなことは,刑法 218 条に関する訴訟という重要事件で申立人を代理した Peter Lerche と Fritz Ossenbühl にも言えることである。その後この 2 人は,カールスルーエでの訴 訟代理を信頼して託される国法学者に含まれることになった。
1975 年に連邦憲法裁判所第一法廷に加わるに際して,Konrad Hesse は他の 誰よりも[連邦憲法裁判官となる]準備ができていた。他の多くの仕事と並ん で,1967 年に初版が出版された彼の憲法の教科書は,きわめて速やかに多く の版を重ねた
55)。この間,憲法は「矛盾を含むひとつの全体連関」として時 代の流れのなかに置かれ,裁判と学説によってつねに新たにアクチャル化され 具体化される必要があるという,この教科書で印象深く展開された憲法観は,
若い世代に属するドイツの法律家たちの考え方に影響を与えてきた。憲法の
「妥当性の流動的継続形成」という,師 Rudolf Smend の思想傾向に賛同しつ つ,同時にHesse には,裁判官団の内部にしばしば存在した見解の対立に対 処し,物事についての自分の見方を,けっして押しつけがましくなく,しかし 説得的に擁護する力があった。
Hesse の裁判官活動の重点は,放送法と国家教会法にあった。とりわけ,周 波数帯の稀少性という「特殊な状況」から,新たな伝送路の可能性へという,
彼の在任中に生じた放送制度の発展は,Hesse が原則的に肯定していた「憲法 変遷」の可能性,すなわち憲法テクストは改正されないままで,「開かれた」
憲法規範の内容の具体化が変更されるという意味での「憲法変遷」の可能性に とって,ひとつの試金石を意味した
56)。第一法廷は Hesse の決定的な影響の
55)上掲 Fn. 3.
下で,とりわけ 1981 年,1986 年および 1987 年の 3 つの重要な判決において,
すでに基本法 5 条で前から認知されていながら,ほとんど生かされてこなかっ た民間放送の許容性を,新たな技術的条件の下で詳細に定義するという課題に 立ち向かった
57)。結局,解決は,主観的権利としての民間放送設立の自由を,
国家から独立の公法上の営造物に託された「[国民に]奉仕する」放送の自由 と調和させる二元的放送秩序という,実践的調整のうちに見出された。この解 決は,マスメディアによる自由で包括的な意見形成を,民主主義のために客観 法的な意味で保障することになった。裁判所は,民主的秩序と文化的生活にと って放送が有するこの本質的な機能を根拠として,基本法 5 条の短い文言から
[放送の]基本的供給を公共放送 der öffentlich-rechtlichen Rundfunk に委託す る趣旨を読み取り,公共放送の存立と発展を技術的・組織的・人的・財政的に 保障した。1961 年の第 1 次テレビ判決のときにすでにおこなわれたのと同様,
Hesse 在任中のこれらの決定でも,国法学との対話は集中的に続けられた。訴 訟においては,とりわけ公法上の営造物[公共放送]の側が,カールスルーエ での鑑定意見の提出や口頭の証言という形で,包括的な学問的専門知識を利用 した
58)。たしかにHesse の時代の連邦憲法裁判所は,1961 年判決とは異なっ て,決定理由のなかで各学術証人に明示的に言及することは断念している。し かしながら,当事者側証言と判決理由との間に多くの接点があることは実際上 明らかなので,裁判所の内部において,学術証人が表明した見解との集中的な 対話があったことは疑いない。
二元的秩序の両当事者の間に当然存在する対立を,Hesse の調整思考の精神 にもとづいて,できるかぎり両者が受け入れられるように妥協的に調整すると いう裁判所の傾向は,当然のことながら犠牲をともなうものだった。基本法 5 条にある放送の自由から「ひとつの特殊事例」を読み取り,技術の発展による その「融解」 (Martin Bllinger) に頑強に抵抗するこうした裁判官法の根拠づけ には,さらに別の理論武装を必要とした。Hesse 在任時代の 3 つの指導的な決 定だけで,優に総計 200 頁にも及んでいる。[放送法関係の決定の分量は]現
56)Hesse(Fn. 3),S. 16.
57)BVerfGE57, 295ff. の「FRAG」判決,E73, 118ff. の「ニーダーザクセン」判決,E74, 297ff.
の「バーデン・ヴュルテンベルク」決定。
58)Fn. 57 にあげた 3 つの訴訟では,お墨付きの国法学者の密集軍団(特にP. Badura,H. Beth- ge,M. Bullinger,E. Denninger,W. Hoffmann-Riem,W. Rudolf,Chr. Starck)が,公共放送 の側で挑戦を受けて立った。
在では全体でその 2 倍を超えている。放送という政治的に大きな影響力をもつ マスメディアを,自由の条件を詳細に定めることによって,公法的形態におい て文化的な財として維持するという,十分支持できる[裁判所の]努力を承認 する場合でも,適切な憲法裁判という一般的な観点に立てば,放送には付随的 に言及しているにすぎない憲法条項の短い文言から,放送評議会はどのように 組織されるべきか,立法者は[放送の]基本的供給以外の公共放送の活動を規 制することができるのか,民間放送の番組はいかなる水準の多様性を保障しな ければならないのか,その他多くの問題について詳細な内容を読み取ることが 果たしてできるのかという疑問が浮かぶのである。政党助成に関する裁判の場 合と同様,注文の多い学説の主張から強い影響を受けた[放送法の]裁判は,
広く立法者に取って代わり,立法者の形成の自由を狭める傾向をもっている。
このような[単純法律ならざる]「単純裁判官憲法」がいったん成立すると,
その網の目のような規律によって,将来の事情の変更が妨げられるか,あるい は裁判官法のほうがしばしば変更されなければならなくなる危険が生ずる。ど ちらも長い目で見た憲法の権威にとっては有害である。
その他の領域では,すでに1950 年代から 1960 年代にかけて形成されていた カールスルーエの裁判の基本線を引き継ぐことは,Konrad Hesse にとってそ れほど困難ではなかった。このことは国家教会法にあてはまる。Hesse は,す でに裁判所入りする以前から,基本法 4 条,7 条および 140 条を国家と教会の パートナーシップ協約という意味に拡張する通説的憲法解釈に協働してい た
59)。この線に立って,バーデンの伝統である[公立の]キリスト教宗派共 同小学校の合憲性が認められた。その際,決定は Hesse の言い回しを用いて,
消極的宗教の自由と積極的宗教の自由との実践的「調整」の必要性を,明示的 に引き合いに出している
60)。1979 年の学校礼拝決定では,Hesse はかつて Josef Isensee および Ulrich Scheuner と並んでこの訴訟で証言したために,判 決には加わることができなかった。しかしながら,宗教教育の時間以外に自由 意思で超宗派的におこなわれる学校礼拝を,ふたたび消極的宗教の自由と積極 的宗教の自由との慎重な利益衡量のもとに合憲とした理由づけは,Hesse もそ の基礎づけに与った基本法下の国家−教会関係に関する学説と完全に一致して
59)K. Hesse, Freie Kirche im demokratischen Gemeinwesen, ZerKR11(1964/65),S. 337ff.
60)BVerfGE41, 29ff. の「キリスト教宗派共同小学校」決定。この決定は,基本的には F. Müller と U. Scheuner の鑑定意見の主張に従っている。
いる
61)。
Hesse 在任中の高等教育機関法に関する裁判のなかでは,基本的な判決であ り,Hesse も関与した 1973 年の「グループ大学」判決の結論が重要であ る
62)。
最後に,1979 年の「共同決定」判決への Hesse の参加が重要だと思われる。
これまでたとえばプレス,放送,あるいは学問に関する連邦憲法裁判所の裁判 において,「Hesse に近い」言い回しで,たびたび基本権の客観化および制度 化が言われてきたあとで,この判決では,基本権の「第一次的意義」は「人間 の自由の特に危険にさらされてきた具体的な諸領域の保護を対象とする」
63)個 人の権利であることが明確に強調されている。
Konrad Hesse の第一法廷裁判官としての 12 年間の活動は,直接に,そして 静かな説得力をもつ彼の人間性のゆえにおそらく間接的にも,とりわけ精神 的・文化的領域における連邦憲法裁判所の裁判に本質的な刻印を残している。
1977 年の秋,真夜中に招集された法廷が,テロリストの手に落ち ― その数日 後に終わりを迎え ― た Hanns Martin Schleyer と,他の市民に対するこの犯 罪者集団の将来の潜在的脅威との比較衡量によって,国家理性を優先させた連 邦政府の決断に異議を差し挟まなかった時,Hesse は同僚裁判官とともに,裁 判所が下したこの最も重苦しい決定に加わることを避けられなかった
64)。
61)BVerfGE52, 223ff. この決定は,長きにわたる争いに終止符を打った。その際,決定は,それ までに表明されており,部分的には互いに対立する E. -W. Böckenförde,A. Hollerbach,Th.
Maunz,A. Podlech の主張と,得心のゆくまで詳細な対話をおこなっている。
62)BVerfGE47, 327ff. の「ヘッセン大学法」決定,E55, 37ff. の「ブレーメン教授投票権」決定,
E61, 210ff. の「集合大学」決定。これらの訴訟では,指導的決定である BVerfGE35, 79ff. の意 味で自分たちの活動を保護するような,基本法 5 条 3 項の学問の自由の理解を導くあらゆる試 みが,まさに国法学者(なかでも W. Blümel,H. -U. Erichsen,M. Kloepfer,R. Mußgnug,W.
Thieme)によっておこなわれていることは明らかだ。同時にこれらのケースでは,短い憲法規 範の「無制限の」解釈という問題もある。やはり Hesse が関与し,基本法 14 条の損失補償に 関するこれまでのドグマーティクに深く介入した BVerfGE58, 300ff. の「砂利採取場決定」の場 合,Hesse の学問的関心を出発点と[してこの決定を理解]することは難しいだろう。この指 導的決定では,裁判所が損失補償法学説との対話を一切放棄していることが注目される。
63)BVerfGE50, 290ff.(337). P. Badura と H. H. Rupp は,多数の財界人の憲法異議申立人側に 立って,ドイツ連邦の経済秩序にとって中心的な意義をもつこの訴訟に本質的に参与した。憲 法異議は棄却されたが,共同決定判決は古典的基本権理解の立場から,所有権者の影響力がこ れ以上侵食されることに限界を設けた。K. Hesse は,この判決をもっと弱めた形で自分の基本 権理解に採り入れた(Fn. 3, S. 133)。他方,Badura(Fn. 3, S. 76)は,この判決と同様,基本 権がもつ個人権という性格の「決定的な意義」を強調している。
આ.Helmut Steinberger
(1975〜1987 年)第二法廷における Helmut Steinberger の在任期間は,第一法廷における Hesse の在任期間とまったく重なっている。Steinberger の学問的出自は,他 の国法学の同僚たちとはいささか異なるものであった。彼はドイツの法学部の 伝統に従って国法と行政法を担当し,憲法[に関する論文]で教授資格を取得 したのだが
65),その関心から言えば国法学者というよりもむしろ国際法学者・
ヨーロッパ法学者であった。Steinberger は,ドイツにおける国際法の「メッ カ」であるハイデルベルクのマックス・プランク研究所で研究員を務めたの ち,マンハイム大学の講座担当者となってから短期間で,比較的若くして連邦 憲法裁判所の裁判官に任命された
66)。Steinberger が第二法廷においてヨーロ ッパ法・国際法と憲法との関係という彼固有の専門領域で活動できるようにし たことは,賢明な決定だったと言うことができる。[というのも,連邦憲法裁 判所の]法廷の実務は,必ずしもつねに各裁判官のそれまでの職業的力点に従 ってその担当分野を割りふる方針にはなっていない[からである]。
Steinberger は,その思考傾向において,現代的な国際主義者であった。彼 は,西ヨーロッパ・アメリカ的な国家の民主主義的・法治国家的形態が,次第 にヨーロッパ・レベルで広がっていき,ある程度は地球レベルでも広がってい くことが,時代の趨勢だと見ていた
67)。したがって基本法の憲法諸原理は,
彼の思考の根本的かつ疑うべからざる基礎であった。言うまでもなくそのなか には,前文ならびにとりわけ基本法 24 条および 26 条に明示された基本法の
「国際法友好性」 (Klaus Vogel) が含まれている。70 年代の終わりから 80 年代 にかけての連邦共和国の外交・安全保障政策の混乱から生じた訴訟において,
この確固とした基本姿勢が Steinberger の助けとなった。
学校教育でヨーロッパ共同体法について学んだ比較的若い世代の裁判官が,
Steinberger によってはじめて[連邦憲法裁判所に]現れたことになる。超国
64)BVerfGE46, 160ff. の「シュライヤー」判決。
65)H. Steinberger, Konzeption und Grenzen freiheitlicher Demokratie, 1974.
66)たとえば,国家免責の射程といった(BVerfGE16, 27ff. の「イラン大使館」決定),裁判所の 専門知識がそれに答える上で十分ではなかった基本法と国際法との境界領域の諸問題に関する 重要な比較法的鑑定意見によって,ハイデルベルクにあるこの研究所がしばしば鑑定委託に応 じたことも,連邦憲法裁判所と学界との対話の一部である。
67)H. Steinberger, Der Verfassungsstaat als Glied einer europäischen Gemeinschaft, VVDStRL50
(1991),S. 9ff.