新島襄の母とみと先祖の中田家 : 口述における「
人望家」について
著者 関口 徹
雑誌名 新島研究
号 105
ページ 127‑145
発行年 2014‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014146
— 口述における「人望家」について —
関 口 徹
1. 十返舎一九が描く浦和宿の姪
新島襄の母堂とみが中山道浦和宿の中田家をあとに、江戸に奉公にあ がったのは文政3(1820)年、14歳の春である。今日風にいうなら親元を離 れての実社会生活のスタートを切ったといえようか。江戸期の女性は13歳 で成人とみられていた。それは一人前の働き手として能力を身につけてい たこと、出産の能力があるとみなされていたからである。
ちょうど同じころ戯作者として世評を確立させた一つの滑稽本が完結を 迎えようとしていた。十返舎一九の『続膝栗毛』である。弥次郎兵衛と喜 多八が旅の行き過がらおこす滑稽な失敗談は、当時の旅ブームと相俟って 好評を博していた。享和2(1802)年に『(浮世道中)膝栗毛』初編が刊行され、
次々と続編がなされて、最終編『続膝栗毛十二編』が出版されたのは文政 5(1822)年である。
一九はこの最終編で、20年かけて書き続けてきた『膝栗毛』を終えた。
十二編序の最後に次のように記している1)。
戯作の書のかばかり編数をかさね出せるは例なく、予が生前の悦び 偶中の祥なれば、めで度筆を採おさめぬ 文政五 午の春
弥次・喜多道中『膝栗毛』の最後の宿泊地として、江戸へ6里6町の浦 和宿が選ばれている。文化文政期という、とみと同時代を背景にした作り 話ではあるが、少しスペースを取って掲出したい。というのもこの十二編 部分は『十返舎一九全集』に載録されておらず、簡単には目に触れられな いからである2)。当時の江戸町人の話し口調も味わえればという思いもあ る。今となっては死語になってしまった言葉を、若きとみも耳にしたこと があったであろう。
弥次さん喜多さんは大坂見物のあと、金毘羅、安芸宮島を経て中山道を 下り、善光寺、草津温泉へ寄って、再び中山道に入り、高崎、大宮と旅し て、浦和を歩いていると宿場のなかばで、江戸を発つとき弥次郎兵衛と同 じ長屋に住んでいた、顔なじみの左次兵衛とバッタリ出逢う。彼は浦和宿 で旅籠を営んでいるというので、二人は左次兵衛の宿に泊まることになっ た。< 引用文中の「弥」は弥次郎兵衛を、「北」 は喜多八を、「左次」 は左 次兵衛をさす。 >
弥「ここがおやどか。けふはえどまでこぎつけようとおもつたがひさ しぶりだ。おめへのところへとまつてはなしやせう。……
北「さうさ、そしてあしたゆつくりえどいりとしやせう(ト、このう ち十三四の女たらひへゆをくみてもつてくると、ふたりはあしを あらひあがる。……
入浴後の食事も早々に酒肴が運ばれ、話がはずむ。左次兵衛は婚期の遅 れた姪を独り身の弥次郎兵衛の嫁にどうかと勧める。
左次「まづその女といふはわしの姪で、お大名やしきにひさしくつと めたから着類もしつかりあるによつて、おやたちのねがひにはど うぞしうとのないこゝろやすいところなら、どんなところでもいゝ からやりたいといふことで此あひだからわしの所へ逗留に来てゐ ます。としは二十四五でぬひはりも相応にできるし当人もほかに 何ものぞみはないが、どうぞ小達者なをとこがもちたいとのねが ひ。それに親のうちは下総の関宿在で牛房のめいぶつのところだ から、ねんぢうごばうと玉子はおやざとからつゞけようといふか らいゝぢやアねへかへ。
弥「イヤそいつはおもしろへはなしだ。さつきゆどのからちらりと見 たら台所にいゝあねさまがみえたが、そのしろものかね。
左次「さうだとも。
弥「それはさつそくに相談がきめてへの。
……(……此内よこにふくれた女、かほはみつちやくちやのくろ あばたのうへ、べつかこうのやうな目つきにて小びんさきのはげ たる女、ゑぢかりまたをして何かさかなのはちをもちいでゝ、)
女「どなたもようお出なさりました。
弥「アイアイ、コリヤア左次さんめつさうな御ちそうだね。ときにこ のひかへた盃をそのおむすへあげてへものだ。ちよつとこゝへよ んでくんなせへな。
左次「イヤすなはち此むすめがそのうろもの。これへさしてくんなせ へ。
弥「エヽこの子かへ。さつき台所に大島のきものをきていたむすめは へ。
左次「アリヤア此隣のおむすさ。
弥「ソリヤアとんだまちがひだ。アノこの子がこれでも御大家につと めてかへ。
左次「さやうさやう。
弥「御奉公は何をつとめなさつた。
女「ハイわたしは御祐筆。
弥「ナニ御祐筆、ソリヤたのもしい。さだめてお手は見ごとであろう。
左次「イヤその御祐筆のへやがたをつとめてゐやした。
弥「ハアおまんまたきをしてゐなさつたのだな。コリヤそんなことで あらうとおもつた。
……
と話はテンポよく進行する。
左次兵衛の勧める姪は、横に膨れた体つきで、顔は滅茶苦茶の黒痘痕の うえ、あっかんべーをしているような目付き、小鬢のはしの禿げた女で、
がにまた歩きで肴の入った鉢を持ちながら、「どなたさまもようお出でに なさりました」と、描かれる。この姪の容姿はすでに何かが起こる予感を 与え、弥次郎兵衛が台所で見た「いいあねごさま」とこの姪とを取り違え たことから、読者は話の先へと引っ張られていく。
このあと、この姪は嫁入りするなら弥次郎兵衛ではなく喜多八の方がよ いといいだし、しばらくすると、やはり弥次郎兵衛の方に戻したいという 始末。この姪と弥次・喜多の間で間抜けな出来事が展開していく。
さきに引用した部分で、上がり口に足を洗う湯を入れた盥を持ってくる
女性を「十三四の女」と記している。何の説明もなく書き進んでいるとこ ろをみると、やはり当時、13、 4歳の女性はすでに一人前の女として認識 されていたと実感する。
また当時の親たちの結婚への願いは「どうぞしうと(舅・姑)のない心 安い所ならどんな処でもいいからやりたい」、ご当人は「ほかに何も望み はないが、どうぞ小達者な男」を持ちたいと望んでいる。こんにちの親や 本人の期待感に相通ずるものがある。さらに嫁側として、着物もしっかり とあり、裁縫もでき、実家からの援助も期待できると売り込むのは現在も 見られよう。
弥次さん・喜多さんと騒動を起こす左次兵衛の姪は、下総国関宿の出身。
関宿藩は譜代大名久世氏が藩主である。千葉県の西北端に位置し、利根川 と江戸川の分岐点にあり、江戸時代は利根川水運の要衝として栄え、この 水路を利用して、江戸近郊という地の利を得て、消費都市江戸との行き来 が盛んであった。一九が描くこの姪は、浦和宿で旅籠屋を営む伯父の手伝 いをする以前は、大名屋敷に長らく勤め、その奉公先は「御祐筆」、年齢 は24、 5歳という設定である。当時の婚期に照らすと遅い方であろう。左 次兵衛が婿探しに躍起になるのも理解できる。
一方、「とみの口述」 によると、江戸近郊の浦和宿に生まれたとみは、
14歳で初めて江戸に出て、25歳で結婚するまで3個所の奉公先を勤め上げ た。19歳のときに、江戸小川町の安中藩上屋敷、家老尾崎直右衛門方に奉 公に就いた。左次兵衛の姪は大名屋敷の御大家御祐筆方に奉公したが、と みは譜代大名板倉家上屋敷内に住む、安中藩御祐筆新島民治に嫁いでい る。このとき年齢は25歳である。晩婚という点でも、後年とみは自身の娘 4人のうち3人を嫁がせたが、彼女らの結婚年齢と照らすとうなずけるはず である3)。
十返舎一九が『続膝栗毛』で描く浦和宿の旅籠屋の姪と、浦和宿生まれ の新島襄の母中田とみとが、文政期という時代を背景に、あまりによく似 ているのである。
2. 浦和宿のとみの先祖
これまで筆者は、明治23年に口述筆記された「とみの口述」ついて、『新 島研究』に発表の場を得て、98号から報告してきた。今回は「とみの口述」
のなかで、後半の部分に記されている「中田氏は浦和に於て、相応の身代 なり、人望家」4)について述べるものである。これまでにも中田家が浦和 宿に於いて財産家であり、人望家あったことは示してきた。
たとえば、元禄13(1700)年に、浦和宿の町中が困窮におちいったとき、
とみの高祖父中田伝十郎が町所有の定使屋敷を45両で買い取り、その金を 町中の百姓らは、上下隔てなく分配したという記録がある5)。この伝十郎 の行為によって、貧乏で生活に困っていた宿住人の多くは助けられたこと であろう。
また浦和宿発展の核となったといわれている真言宗豊山派玉蔵院が保有 する『短才見聞録』6)に、寛保2(1742)年、江戸を含む関東地方は甚大な 水害に襲われ、さきの高祖父伝十郎と曾祖父善五郎は玉蔵院敷地内あった 鹿嶋神主寺に、大水害から穀物の不実がないように木札を献上して、五穀 成就の祈願をおこなったようすが記されている。その木札の本紙を『短才 見聞録』の編者宮崎喜六は、明和3(1766)年に記録している。「此本紙ハ
……浦和宿中田伝十郎殿方ニ有之、宮崎写し置者也、今ハ中田善五郎殿事 也」(p.61)と。
『短才見聞録』はこんにち『浦和市史』第3巻で全文を読むことができ る。このなかには浦和宿住人ばかりでなく、近郷農民、僧職、役人、他 国の者も記されているが、最も多くは浦和宿住人である。その数約130人。
このなかで名前に苗字が付き殿や様の敬称を付けて記録されている者は、
本陣・名主の星野一族を除くと、5人しかいない。座本左兵衛殿(p.47)、
板倉弥右衛門殿(p.93)、松澤弥惣次殿(p.93)に、前述した、とみの先祖 の中田伝十郎殿、中田善五郎殿である7)。
文化7(1810)年に稿を起こし、文政11(1830)年に終稿した幕府編纂の地 誌である『新編武蔵風土記稿』によると、浦和宿は「民戸二百八」と報告 されている8)。
浦和市(当時)の指定有形文化財に指定された、文化8(1811)年『浦和 宿絵図』の表面には、中山道沿いに地割が施され、そのなかに202名の宿 住人の戸主名と2寺院が記されている9)。1軒に1戸主とみて、浦和宿208 人から202人の戸主のなかで、苗字と敬称付で名前が記録されていること は、伝十郎と善五郎ともども、尊敬に値する人物と評されていたと判断で きる。
とくに善五郎に関しては宝暦11(1761)年1月の『短才見聞録』の「卅三 掃除役」の項に、住人の土地について立合いを依頼された記録がある。
その記事では、「中宿善五郎殿」と敬称付である。周囲の人々は無苗字通 称で記されているので、この頃からすでに、善五郎は宿住人から信頼と人 望を得ていた人物とみてよいであろう。
さらにとみの祖父伝兵衛の、玉蔵院過去帳に記された記事である。韮塚 一三郎氏は『埼玉の女たち 歴史の中の25人』10)で、享和3(1803)年の時 点で死去した伝兵衛の項に、伝兵衛の「父ハ九十七歳 存命中 母九十三 歳ニテ存命也」と書かれていると記し、この記述は「異例の記載といって よい」と、その驚きを示している。
この事に触れて筆者は、2年前に、「200世帯弱の浦和宿で、夫婦がそろっ て高齢で生活していることに、宿住人から人望が寄せられていたものと想 像する。これも『とみの口述』にあらわれた『中田氏は人望家』のひとつ ということができる」と記した11)。
それは、こんにちに置き換えても、97歳の夫と93歳の妻のように、夫婦 のどちらも欠けず生きていることはきわめて珍しいのではないかとの判断 で書いた。しかしこれは「想像する」以外のなにものでもない。筆者はこ の時の「想像」を「確定」に近づけるため、調べることにした。
3. 近世埼玉地方の高齢者
享和3(1803)年に、とみの曾祖父善五郎が97歳、曾祖母が93歳で存命し ていたということは、この時代、あるいは江戸時代を通じてどのような意 味を持つのであろうか。夫婦そろっての高齢はきわめて珍しいのではない
かと判断したが、はたして実際はどのような実態になっているのであろう か。そもそも江戸時代に、100歳を数える人物は存在していたのであろうか。
幸いに、これらを調べる手立てとして、宗門人別帳、宗門人別改帳、宗 門改帳、宗旨改帳などと、いろいろに称される戸口関係の史料が残されて いる。もともとは、これらの史料は江戸幕府がキリスト教禁制を徹底さ せ、キリスト教信徒を根絶させるため、全国的に実施した宗門改め制度に より作られた。住民ひとり一人をいずれかの寺院の檀家・檀那として登録 させて、その者がキリシタンではないということを各寺院が保証したので ある。毎年居住地では宗門改めを実施し、宗門人別改帳を領主・幕府代官 所へ提出した。
この宗門人別帳(この表記に統一)には、町にしろ村にしろ、住人が所 属する檀那寺名、各家の持高、戸主名、家族の名前、戸主との続柄、年齢、
家族の男女別人数のほかに、ときには牛馬の所持数などが記されている。
またすべてではないが、百姓、地借、奉公人などといった身分上の記載が あり、さらに年間における出生、死亡、婚姻、出奉公、入奉公など人口の 増減をまとめて書上げている場合もみられる。
筆者はこの宗門人別帳に書き遺された人名、年齢、続柄に着目し、各々 の宗門人別帳のなかで一番の年長者は誰であるか、その人は何歳なのか。
ここに焦点を当て既刊の郷土史料をあたることにした。
当初は、善五郎は中山道浦和宿の住人なので、同じ街道の宿場を形成し てきた蕨宿、大宮宿、上尾宿、桶川宿、鴻巣宿、熊谷宿、本庄宿の、それ ぞれの市史、つまり蕨市史から本庄市史までを確認することにした。江戸 からの距離はそれぞれ異なるが、宿場町として生活環境は同じであると考 えたからである。
調べが進むうちに埼玉県内に街道は、中山道の外に、日光道中、日光御 成道が走り、前者には草加宿、越ヶ谷宿、粕壁宿、杉戸宿、幸手宿、栗橋 宿を数え、後者には川口宿、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿がある。これらも 宿場町を形成する状況は浦和宿と同じとみて、関係する市町史に当たる必 要があると感じた。
このように街道を中心に見始めてみると、宗門人別帳には、生まれたと
ころから離れて異郷に嫁ぎ、他郷から嫁や婿養子を迎え、年季を定めた奉 公では広範囲にわたって地元を離れ、一方他国から奉公人を受け入れてい る動きが多くみられる。これは以外であった。それは街道だけの宗門人別 帳を調べるのではなく、もっと農村地域にまで広げなければならない。そ こには大勢の年長者が生きていたのではないか。そう判断するようにな り、これまで刊行されている埼玉県内の郷土史料を可能な限り手に取り、
確かめる作業を試みた12)。
埼玉県内の、平成の大合併が行われる前の市町村は43市38町11村である。
現在(2013年9月)では40市22町1村となったが、多くの市町村史は合併前 の刊行が多い。勿論すべての市町村が郷土史を出版しているわけではな い。筆者は地元図書館職員の助けを借りて史料にあたることができた。こ の場をお借りして感謝の意を表したい。
具体的には、注12で示した当該する57冊の市町村史と埼玉県史から、
167件の宗門人別帳をはじめとする史料にあたり、各々の史料のなかで 最年長な人物を選び出すことにした。年代は寛文6(1666)年から明治4
(1871)年に至り、総家数は13,800軒を超え、総人数は62,500人以上を数える。
史料に家数、人数が示されているものは記載された数字を尊重し、記され ていない場合や欠落している場合は筆者が員数をなした。167件の史料か らそれぞれの最年長者188名(同年齢者が複数存在する場合がある)を一 覧表にまとめると、見開き体裁で10頁を要してしまうので、調査したなか で91歳以上の人物を、後述する「資料1. 近世埼玉地方の91歳以上の高齢者」
に示すのみとした。その数23人である。
*
宗門人別帳を中心に、各市町村史の戸口を読み進めていくと、『東松山 市史』資料編第3巻近世編(口絵図5)で103歳の女性の「手形」写真と 遭遇した。江戸時代に100歳を超える人物が存在していたことに驚きであ る。押された手形の右横に、「武蔵国比企郡野本村 八幡宮神主布施田采 女祖母ふよ 当寅百三歳」、左横に「文化三年寅正月日」と書かれている。
とみが生まれる1年前のことである。
また『日高市史』通史編(p.499)には次のような記事が目に付いた。「高
岡村では『長寿者』として八兵衛妻が特記されている。彼女は九一歳より、
文化二年に一〇二歳で死去するまでの足掛け一二年の間、一橋家より扶助 米を与えられていた(『稿』)。」文化2年だから手形の「ふよ」より1年前 のことである。
さらに『富士見市史』資料編4近世(p.345)に、「弘化三年五月 下南 畑村極老之者表彰に付届書」が収録され、百姓小左衛門の父磯右衛門が 100歳を迎えたことを代官に届出ている。
先の神主布施田采女祖母ふよ103歳は文化3年、一橋家より扶助米を与 えられた八兵衛妻(妻の名は不記、八兵衛本人は既に死去)102歳は文化 2年で、ほぼ同じ年に県西部の東松山と日高に100歳を超える人生を送っ た女性が存在していたのである。引用した文章の最後の「(『稿』)」は、資 料の出典『新編武蔵風土記稿』を指していることを知り、さっそくそのも のに当たることにした。
『新編武蔵風土記稿』は前述したように、文化7(1810)年に稿を起こし、
文政11(1830)年に終稿した幕府編纂の地誌である。幕臣らが手分けして郡 村庶民の生活にも取材をし、孝行者や奇特者、褒善者や長寿者などを書き 留めている。為政者は彼らを表彰することで村や町の維持運営を円滑に進 めようとしたものであろう。
ここでは長寿者として表彰された記事のなかから、長寿者の氏名と年 齢、その内容を採り上げるが、孝行者の記事のなかに親の長寿が記されて いる場合もあるので、同様に採り入れた。これらも91歳以上の人物のみに 絞って「資料1. 近世埼玉地方の91歳以上の高齢者」に示した。該当する 人物は『新編武蔵風土記稿』から8人。そのほか市史の資料編のなかで、
宗門人別帳以外の史料に高齢者が3人存在していたので「資料1」に組み 入れた。
資料1.近世埼玉地方の 91歳以上の高齢者
№ 高 齢 者 年 号 生 活 地 現 在 地 名 出 典 資 料、 掲 載 頁
氏 名 等 年 齢
1 ふよ 103 歳 文化 3・1806 年 比企郡野本村 東松山市上野本 野本村八幡宮神主布施田采女祖母百三歳手形、『東松山市史』資料編第 3 巻近世編、 p.358 2 清次郎 103 文政 6・1823 年 秩父郡薄村 秩父郡両神村薄 長寿清次郎、『新編武蔵風土記稿』巻之 261、秩父郡之 16、 12 巻 p.271
3 八兵衛妻 102 文化 2・1805 年 高麗郡高岡村 日高市高岡 長寿者村民八兵衛妻、『新編武蔵風土記稿』巻之 184、高麗郡之 9、 9 巻 p.204
4 まん 100 文化10・1813 年 埼玉郡西袋村 八潮市西袋 褒善者みの、『新編武蔵風土記稿』巻之 204、埼玉郡之 6、 10 巻 p.164
5 磯右衛門 100 弘化 3・1846 年 入間郡下南畑村 富士見市下南畑 極老之者表彰に付届書『富士見市史』資料編 4 近世、 p.345
6 こん 99 天保11・1840 年 埼玉郡中妻村 久喜市中妻 宗門人別改帳、『鷲宮町史』史料 1 近世、 p.641
7 すめ 98 嘉永 2・1849 年 埼玉郡粕壁宿 春日部市 粕壁宿宗門人別書上帳、『春日部市史』第 3 巻近世史料編 3 ノ 2、 p.752
8 善五郎 97 享和 3・1803 年 足立郡浦和宿 さいたま市浦和区 浦和宿真言宗豊山派玉蔵院過去帳、『埼玉の女たち 歴史の中の 25 人』p.278
9 はる 96 天保 7・1836 年 新座郡野火止宿 新座市野火止 宗門改帳、『新座市史』第 2 巻近世資料編、 p.193
10 治左衛門 95 文政 6・1823 年 秩父郡三沢村 秩父郡皆野町三沢 長寿者、『新編武蔵風土記稿』巻之 250、秩父郡之 5、 12 巻 p.123
11 しん 95 文政 6・1823 年 秩父郡黒谷村 秩父市黒谷 長寿者、『新編武蔵風土記稿』巻之 252、秩父郡之 7、 12 巻 p.152
12 かつ 94 文政 6・1823 年 秩父郡井戸村 秩父郡長瀞町井戸 長寿者、『新編武蔵風土記稿』巻之 250、秩父郡之 5、 12 巻 p.126
13 玄海 94 安政 2・1855 年 入間郡坂之下村 所沢市坂之下 宗門人別帳、『所沢市史』近世史料 2、 p.217
14 権兵衛 93 寛政 3・1791 年 秩父郡三沢村 秩父郡皆野町三沢 孝行者、『新編武蔵風土記稿』巻之 250、秩父郡之 5、 12 巻 p.123
〔権兵衛妻 83〕 〃 〃 〃 〃
15 喜助 93 享和 2・1802 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 6 近世、 p.365、
16 善五郎妻 93 享和 3・1803 年 足立郡浦和宿 さいたま市浦和区 浦和宿真言宗豊山派玉蔵院過去帳、『埼玉の女たち 歴史の中の 25 人』p.278
17 かん 93 文化 3・1806 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 6 近世、 p.485
18 所左衛門 93 文化 9・1812 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 6 近世、 p.680
19 はん 93 文政13・1830 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 7 近世、 p.329
20 つね 93 弘化 2・1845 年 入間郡坂上 ・ 所沢市旭町 ・ 東町 ・ 人別改控帳、『所沢市史』近世史料 2、 p.85
植之宿 ・ 茨原 くすのき台付近
21 かん 93 嘉永 2・1849 年 埼玉郡粕壁宿 春日部市 宗門人別書上帳、『春日部市史』第 3 巻近世史料編 3 ノ 2、 p.643
22 はん 92 文政13・1830 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 7 近世、 p.320
23 とみ 92 天保 2・1831 年 足立郡下戸田村 戸田市川岸 宗門人別改帳、『戸田市史』資料編 2 近世 1、 p.669
24 清兵衛 92 天保 4・1833 年 高麗郡三ツ木村 鶴ヶ島市三ツ木 切支丹宗門帳、『鶴ヶ島町史』近世資料編 3、 p.86
25 寿山 92 天保 4・1833 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別書 ( 上帳 )、『両神村史』史料編 7 近世、 p.382
26 うめ 92 天保 4・1833 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別書 ( 上帳 )、『両神村史』史料編 7 近世、 p.388
27 つや 92 弘化 4・1847 年 足立郡横曽根村 川口市南町 宗門人別書上帳、『川口市史』近世資料編 1、 p.608
28 ふゆ 92 嘉永 2・1849 年 埼玉郡粕壁宿 春日部市 宗門人別改書上帳、『春日部市史』第 3 巻近世史料編 3 ノ 2、 p.593
29 ゆハ 92 嘉永 2・1849 年 埼玉郡粕壁宿 春日部市 宗門人別改書上帳、『春日部市史』第 3 巻近世史料編 3 ノ 2、 p.758
30 はる 91 天明 6・1786 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 6 近世、 p.76
31 与兵衛 91 享和 4・1804 年 入間郡青柳村 狭山市青柳 宗門人別帳、『狭山市史』近世史料編 1、 p367
32 かん 91 文化元・1804 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 6 近世、 p.421
33 さよ 91 文化元・1804 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 6 近世、 p.426
34 そよ 91 天保 3・1832 年 高麗郡赤沢村 飯能市赤沢 宗門人別書上帳、『飯能市史』資料編 8 近世文書、 p.211
35 四郎右衛門 91 文政 6・1823 年 秩父郡下日野沢村 秩父郡皆野町下日野沢 長寿者四郎右衛門、『新編武蔵風土記稿』巻之 259、秩父郡之 14、 12 巻 p.238
36 きの 91 慶応元・1865 年 高麗郡清流村 日高市清流 祖母きの老養御扶持渡方伺書、『日高市史』近世資料編、 p.61
補足 1 . № 8 と 16 に善五郎夫妻が入るが、両者はこの時点では、「存命中、存命也」である。
2. № 14 は 91 歳以上の高齢者のなかで、夫婦で名を連ねる唯一の記録である。
3. № 19 の「はん」と№ 22 の「はん」は別人である。前者は「市之丞祖母のはん」で、後者は「三蔵の母 はん」である。
4.『新編武蔵風土記稿』(大日本地誌大系 13)は、蘆田伊人編集校訂、雄山閣、平成 8・1996 年 6 月 5. 韮塚一三郎『埼玉の女たち 歴史の中の 25 人』(さきたま出版会、平成元・1989 年)のなかに、「同志社の創 設者新島襄の母とみ」として、玉蔵院過去帳が記されている。
資料1.近世埼玉地方の 91歳以上の高齢者
№ 高 齢 者 年 号 生 活 地 現 在 地 名 出 典 資 料、 掲 載 頁
氏 名 等 年 齢
1 ふよ 103 歳 文化 3・1806 年 比企郡野本村 東松山市上野本 野本村八幡宮神主布施田采女祖母百三歳手形、『東松山市史』資料編第 3 巻近世編、 p.358 2 清次郎 103 文政 6・1823 年 秩父郡薄村 秩父郡両神村薄 長寿清次郎、『新編武蔵風土記稿』巻之 261、秩父郡之 16、 12 巻 p.271
3 八兵衛妻 102 文化 2・1805 年 高麗郡高岡村 日高市高岡 長寿者村民八兵衛妻、『新編武蔵風土記稿』巻之 184、高麗郡之 9、 9 巻 p.204
4 まん 100 文化10・1813 年 埼玉郡西袋村 八潮市西袋 褒善者みの、『新編武蔵風土記稿』巻之 204、埼玉郡之 6、 10 巻 p.164
5 磯右衛門 100 弘化 3・1846 年 入間郡下南畑村 富士見市下南畑 極老之者表彰に付届書『富士見市史』資料編 4 近世、 p.345
6 こん 99 天保11・1840 年 埼玉郡中妻村 久喜市中妻 宗門人別改帳、『鷲宮町史』史料 1 近世、 p.641
7 すめ 98 嘉永 2・1849 年 埼玉郡粕壁宿 春日部市 粕壁宿宗門人別書上帳、『春日部市史』第 3 巻近世史料編 3 ノ 2、 p.752
8 善五郎 97 享和 3・1803 年 足立郡浦和宿 さいたま市浦和区 浦和宿真言宗豊山派玉蔵院過去帳、『埼玉の女たち 歴史の中の 25 人』p.278
9 はる 96 天保 7・1836 年 新座郡野火止宿 新座市野火止 宗門改帳、『新座市史』第 2 巻近世資料編、 p.193
10 治左衛門 95 文政 6・1823 年 秩父郡三沢村 秩父郡皆野町三沢 長寿者、『新編武蔵風土記稿』巻之 250、秩父郡之 5、 12 巻 p.123
11 しん 95 文政 6・1823 年 秩父郡黒谷村 秩父市黒谷 長寿者、『新編武蔵風土記稿』巻之 252、秩父郡之 7、 12 巻 p.152
12 かつ 94 文政 6・1823 年 秩父郡井戸村 秩父郡長瀞町井戸 長寿者、『新編武蔵風土記稿』巻之 250、秩父郡之 5、 12 巻 p.126
13 玄海 94 安政 2・1855 年 入間郡坂之下村 所沢市坂之下 宗門人別帳、『所沢市史』近世史料 2、 p.217
14 権兵衛 93 寛政 3・1791 年 秩父郡三沢村 秩父郡皆野町三沢 孝行者、『新編武蔵風土記稿』巻之 250、秩父郡之 5、 12 巻 p.123
〔権兵衛妻 83〕 〃 〃 〃 〃
15 喜助 93 享和 2・1802 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 6 近世、 p.365、
16 善五郎妻 93 享和 3・1803 年 足立郡浦和宿 さいたま市浦和区 浦和宿真言宗豊山派玉蔵院過去帳、『埼玉の女たち 歴史の中の 25 人』p.278
17 かん 93 文化 3・1806 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 6 近世、 p.485
18 所左衛門 93 文化 9・1812 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 6 近世、 p.680
19 はん 93 文政13・1830 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 7 近世、 p.329
20 つね 93 弘化 2・1845 年 入間郡坂上 ・ 所沢市旭町 ・ 東町 ・ 人別改控帳、『所沢市史』近世史料 2、 p.85
植之宿 ・ 茨原 くすのき台付近
21 かん 93 嘉永 2・1849 年 埼玉郡粕壁宿 春日部市 宗門人別書上帳、『春日部市史』第 3 巻近世史料編 3 ノ 2、 p.643
22 はん 92 文政13・1830 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 7 近世、 p.320
23 とみ 92 天保 2・1831 年 足立郡下戸田村 戸田市川岸 宗門人別改帳、『戸田市史』資料編 2 近世 1、 p.669
24 清兵衛 92 天保 4・1833 年 高麗郡三ツ木村 鶴ヶ島市三ツ木 切支丹宗門帳、『鶴ヶ島町史』近世資料編 3、 p.86
25 寿山 92 天保 4・1833 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別書 ( 上帳 )、『両神村史』史料編 7 近世、 p.382
26 うめ 92 天保 4・1833 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別書 ( 上帳 )、『両神村史』史料編 7 近世、 p.388
27 つや 92 弘化 4・1847 年 足立郡横曽根村 川口市南町 宗門人別書上帳、『川口市史』近世資料編 1、 p.608
28 ふゆ 92 嘉永 2・1849 年 埼玉郡粕壁宿 春日部市 宗門人別改書上帳、『春日部市史』第 3 巻近世史料編 3 ノ 2、 p.593
29 ゆハ 92 嘉永 2・1849 年 埼玉郡粕壁宿 春日部市 宗門人別改書上帳、『春日部市史』第 3 巻近世史料編 3 ノ 2、 p.758
30 はる 91 天明 6・1786 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 6 近世、 p.76
31 与兵衛 91 享和 4・1804 年 入間郡青柳村 狭山市青柳 宗門人別帳、『狭山市史』近世史料編 1、 p367
32 かん 91 文化元・1804 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 6 近世、 p.421
33 さよ 91 文化元・1804 年 秩父郡小森村 秩父郡両神村小森 宗門人別改書上帳、『両神村史』史料編 6 近世、 p.426
34 そよ 91 天保 3・1832 年 高麗郡赤沢村 飯能市赤沢 宗門人別書上帳、『飯能市史』資料編 8 近世文書、 p.211
35 四郎右衛門 91 文政 6・1823 年 秩父郡下日野沢村 秩父郡皆野町下日野沢 長寿者四郎右衛門、『新編武蔵風土記稿』巻之 259、秩父郡之 14、 12 巻 p.238
36 きの 91 慶応元・1865 年 高麗郡清流村 日高市清流 祖母きの老養御扶持渡方伺書、『日高市史』近世資料編、 p.61
補足 1 . № 8 と 16 に善五郎夫妻が入るが、両者はこの時点では、「存命中、存命也」である。
2. № 14 は 91 歳以上の高齢者のなかで、夫婦で名を連ねる唯一の記録である。
3. № 19 の「はん」と№ 22 の「はん」は別人である。前者は「市之丞祖母のはん」で、後者は「三蔵の母 はん」である。
4.『新編武蔵風土記稿』(大日本地誌大系 13)は、蘆田伊人編集校訂、雄山閣、平成 8・1996 年 6 月 5. 韮塚一三郎『埼玉の女たち 歴史の中の 25 人』(さきたま出版会、平成元・1989 年)のなかに、「同志社の創 設者新島襄の母とみ」として、玉蔵院過去帳が記されている。
4. 善五郎夫妻の場合
浦和宿の玉蔵院過去帳から、享和3(1803)年に「存命中」と記された善 五郎は97歳なので、生誕は宝永4(1707)年になる。「存命也」と記された 妻は93歳というので、生まれは宝永8(1711)年である。
これまで埼玉地方の年長者について、各地の宗門人別帳や『新編武蔵風 土記稿』に掲載された高齢者を、91歳以上という条件を付けて一つの表に まとめてみたのが前頁の「資料1」である。
全体36人を年齢順に並べ、最上位が103歳、最下位が91歳。これを95歳 で仕切ると、91歳から95歳までは27人、全体の75%を占める。96歳から 103歳までは9人で25%になる。そして91歳から93歳までは、各年齢者は 7〜8人を数えるが、94歳になるとき生命的な障害が立ちふさがるのか2 人になり、以降103歳まで各年齢が1人か2人である。まるで東京スカイ ツリーのように、展望台から上がほぼ同じ細さで鋭く尖っており、そこは 少数の高齢者で占められているのである。
97歳のとみの曾祖父善五郎は、93歳の障壁を乗り越えて、江戸期の埼玉 地方における最高齢者の位置を占める一人となっていることが分かる。し かもまだ「存命中」である。
*
埼玉県北西部に位置する児玉町には、文政12(1829)年に那賀郡秋山村の 名主・組頭・百姓代の村方三役が、百姓作右衛門の父が88歳の長寿に対し て養老扶持米を戴けるように領主へ願書を差し出し、後日その養老扶持米 が戴けるようになった請書の記録が残っている13)。
一方、浦和宿の南方、中山道を江戸へ向かう途中に1町半程の難儀な坂 があり、焼米を売る店があるので、この坂を焼米坂(資料2.)と呼んでいた。
とみはこの坂を事あるごとに通ったはずである。この辺りは根岸村と呼ば れた。この村には、享和4(1804)年の「足立郡根岸村村明細書上帳」に「長 寿之者」として、80歳から89歳の男3人、女7人の名前を挙げて代官所に 届け出た記録がある14)。このときの代官は竹垣三右衛門で、寛政5(1793)
年に大坂谷町代官所から移っていた15)。
根岸村は浦和宿の近隣の村で、
天保14(1843)年の『中山道宿村大 概帳』では江戸へ5里21町と記さ れている。そして根岸村も浦和宿 も支配代官は大熊善太郎が示され ている16)。「長寿之者」として代官 の求めに応じて書上げた享和4年 は、玉蔵院過去帳に、「右伝兵衛父 ハ九十七歳存命中 母九十三歳ニ テ存命也」と記した享和3(1803)
年の、翌年のことである。この時 代は浦和宿も根岸村も、代官竹垣 三右衛門の支配領域なのである。
つまり先の88歳(米寿)での養 老扶持米といい、80代の「長寿之者」
といい、資料1の近世埼玉地方の高
齢者の、91歳に届かない年齢で寿祝がなされていたのである。ましてや善 五郎夫妻は97歳・93歳である。根岸村になされた「長寿之者」は、同一支 配領域の代官において、浦和宿にも為されたのである。残念ながら浦和宿 にはその記録は見あたらないが、寿祝がなされたものと捉えて問題はない と考える。
さらに「資料1. 近世埼玉地方の91歳以上の高齢者」に至るまでに13,800 軒を超える家々から、62,500人以上を数える人々を見てきたが、夫婦とも ども90代を迎えている例は見あたらなかった。それは、最終的には『新編 武蔵風土記』を編纂する目的で、化政期の武蔵国全町村の情報を集めたな かで、郡村庶民の長寿者を書き留めたが、このなかにも、両方が90代を迎 えている夫婦は示されていないのであった。唯一資料1の№14にある権兵 衛93歳、その妻83歳の例を数えるのみである。
200戸程の宿場としてはさして大きくない浦和宿にあって、享和3(1803)
年に夫婦で97歳、93歳を迎えているという事実は、宿場町の人びとの人望 資料2. 焼米坂
(『新版江戸名所図会』角川書店より)
を得ないはずはないといえるのである。人望という点で中田家は、前述し たように苗字をもって記され、敬称を付して録されている歴史的事実に加 え、ますますの証となる善五郎夫妻の高齢での存在である。
5. 一九の著す姪と小川町のとみ
とみが生まれたのは文化4(1807)年である。宝永4(1707)年の善五郎と はちょうど百歳の違いがある。このとき善五郎が生きているとすると101 歳を迎えていたはずである。
文化3(1806)年に、103歳で手形を残した比企郡野本村(現東松山市上 野本)の神主布施田采女の祖母ふよの存在もあれば、文政6(1823)年に、
103歳になっても「増々堅固、常に農業を稼として、壮年の若の業にも劣 らじ」と、『新編武蔵風土記稿』に書き遺されている秩父郡薄村(現秩父 郡両神村薄)の農民清次郎(資料1. №2)の例もあるので、101歳は当時 としては不可能なことではない。
筆者はかつて中田家の家督は、善五郎の息子伝兵衛が死去してしまっ たので、孫の六之丞へ継承されたのは文化7(1810)年以前であると指摘し た17)。従って文化6年で103歳、5年で102歳となるが、善五郎が死去した 年齢を確定できる史料は今のところ見あたらない。文化6年としても、と みは数えの3歳、曾祖父善五郎と話をし、お互いが理解できたかは疑問で ある。ただ、とみは幼いころから、父六之丞や母から曾祖父母の高齢につ いては聞かされてきたことであろうし、町中の人びとから人望を得てきた 家柄であると教えられてきた。そうでなければ、14歳で両親と別れて生活 してきたとみの口から「中田氏は浦和に於て、相応の身代なり、人望家」
とは語ることはできない。人望を得てきた中田家を汚してはいけないと強 く言われてきたことなのである。その戒めを胸に、とみは文政3(1820)年 に生家をあとに江戸に出たのである。
冒頭にもどり、時同じころ、文政5(1822)年に、筆を擱いた十返舎一九 の『続膝栗毛』の世界で、粋と笑いと失敗を繰り返してきた弥次郎兵衛・
喜多八は、最後に、浦和宿での嫁取り騒動を起こす。二人の相手の旅籠の
姪は,婿には弥次さんがいい、喜多さんがいいと二転三転させ、周りをう ろたえさせる。ところがこの姪は旅籠に出入する馬方と深い仲になってお り、伯父左次兵衛の勧める嫁入り話に困っての、身勝手な行動をとってい たのである。弥次郎兵衛・喜多八は振り回されたあげくに、姪と駆け落ち する馬方に着物まで盗まれてしまうという災難に遭ってしまうのである。
十返舎一九の話は作り話であるが、時代を反映しているから、読者の喝 采を浴び、もてはやされた。左次兵衛の姪のような女は、当時、特異な存 在ではなかったであろう。江戸には近隣から大勢の奉公人が集まってき た。
江戸へ4里28町の蕨宿には、天保14(1843)年に宿から奉公へ出ている調 査の記録が残っている18)。それによると12歳の男性6人から48歳の女性1 人まで、計71人の男女の奉公人が記され、その全員が江戸の奉公先を記し ている。そしていわゆる御屋敷勤めは9人を数え、すべて女性である。そ の一人の奉公先は「小川町 岡部因幡守様御屋敷」と記されているが、こ こはとみが奉公にあがった「信州中之条代官荒井平兵衛方」の東隣りであ る。
日光道中粕壁宿は、江戸へ9里2町の距離にあるが、嘉永2(1849)年の
「宗門人別書上帳」19)から出奉公人を探すと、9歳の娘から32歳の男性まで、
計75人を挙げることができる。その奉公先は、粕壁宿内・近隣宿村に43人、
江戸へは32人が見られる。御屋敷勤めは2人の女性が存在するが、その一 人の奉公先は「西御丸御祐筆いく様」と記されている。
新島家に残る史料にも浦和宿からの奉公人が記されている。新島民治が 文政8(1825)年に始めた手習塾に、弘化3(1846)年、浦和宿の鈴木英助の 娘たかが学び始めている20)。たかも江戸での奉公勤めにあがったものであ ろう。中田とみは、鈴木たかより26年も前に、玉蔵院門前通り前の生家を あとに、焼米坂を下って奉公にでた。口述では「浦和にては十四歳になれ ば、必ず江戸に奉公に出す習ひなり」4)と言っている。江戸には近隣から 大勢の奉公人が集まって来たのである。
とみの奉公は江戸、小川町裏神保小路の信州中之条代官荒井平兵衛方に 3年、さらに一ツ橋通り小川町の医師雨森宗真方に3年、そして一ツ橋門
外、小川町板倉藩上屋敷、安中藩家老尾崎直右衛門方である。筆者はかつ て指摘したが、これら3個所はたかだか半径200m に満たない地域に存在 する21)。この極めて狭い地域で、一九が著す姪のような横道にそれずに、
3個所の奉公に励むことができたのは、中田家は人望家であったという矜 持がそのようにさせたのであろう。心の支えになっていたのである。その 結果として、とみは新島民治との良縁を得たのであった。
注
1)十返舎一九「続膝栗毛十二編」『日本名著全集 膝栗毛其他下』日本名著全集 刊行会、昭和2(1927)年9月、p.1011。掲出した資料は国立国会図書館による ものである。
2)『十返舎一九全集』1〜4巻は昭和54(1979)年に日本図書センターから復刻版 が発行された。第1巻は三田村鳶魚校訂で、「東海道中膝栗毛」と「続膝栗毛」
で構成されているが、「続膝栗毛」には初編(金毘羅参拝)から十編(上州草 津温泉道中)までしか掲載されておらず、「続膝栗毛十二編」は欠落している。
3)「新島家の人々」『新島襄全集』8巻、平成4(1992)年7月、pp.4-5。長女くわ、
初婚は弘化2(1845)年で14歳(筆者は天保3年生誕説を採る)。次女まき、初 婚は嘉永6(1853)年で20歳。 三女みよ、生涯独身。四女とき、初婚は文久元
(1861)年で22歳。
4)森中章光「新島家の家系」『新島研究』第3号、洗心会、昭和30(1955)年3月、p.8 5)拙論「新島襄の母とみと浦和宿の中田家」『新島研究』第102号、平成23(2011)
年2月、p.74
6)明和3(1766)年、玉蔵院18世快尊の代に家老宮崎喜六豊重が編した。『浦和市史』
第3巻近世史料編Ⅰ、昭和56(1981)年3月、pp.31-94に全文が翻刻されている。
7)拙論「新島襄の母とみと浦和宿の中田家」『新島研究』第102号、平成23(2011)
年2月、p.91(注9)
8)「足立郡之八 浦和領」『新編武蔵風土記稿』(大日本地誌大系13)第7巻、蘆 田伊人編集校訂、雄山閣、平成8(1996)年6月、p.244
9)拙論「新島襄の母とみとその生地」『新島研究』第103号、平成24(2012)年2月、
p.122
10)韮塚一三郎「同志社の創設者新島襄の母とみ」『埼玉の女たち 歴史の中の25 人』さきたま出版会、平成元(1989)年10月増補第2刷、p.278
11)拙論「新島襄の母とみと浦和宿の中田家」『新島研究』第102号、平成23(2011)
年2月、p.80
12)埼玉県内郷土史料のなかで、いわゆる宗門人別帳等が収録されているものを 挙げると次のとおり。ほかに五人組改帳関係や『新編埼玉県史』に掲載の「飢 人改帳」「潰百姓明細帳」も採用した。資料は市町村名の五十音順である。
『上尾市史』第3巻資料編3近世2、1995.3.31刊、pp.50-65。『入間市史』近世 史料編、1986.12.10刊、pp.430-446。『岩槻市史』近世史料編4地方史料(上)、
1982.3.31刊、pp.678-700、pp.715-727、pp.729-744、pp.748-770。『浦和市史』第 3 巻 近 世 史 料 編 2、1986.3.31刊、pp.793-814。『 大 利 根 町 史 』 資 料 編 上 巻、
2000.3.30刊、pp.238-242。『大宮市史』第3巻中 近世編、1978.3.30刊、pp.80-82。
『小川町の歴史』資料編4近世1、2000.3.31刊、pp.313-323。『桶川市史』第4 巻近世資料編、1982.3.30刊、pp.221-226、pp.232-251。『越生の歴史』近世史料
< 古文書・記録 >、1992.9.30刊、pp.188-203。『春日部市史』第3巻近世史料編 3ノ2、1982.12.25刊、pp584-911。『加須市史』資料編1原始・古代・中世・近 世、1984.3.1刊、pp.568-589。『上里町史』資料編、1992.3.31刊、pp.607-612。『上 福岡市史』資料編第2巻古代・中世・近世、1997.7.31刊、pp.399-408。『川口市史』
近世資料編1、1985.3.30刊、pp.587-709。『川越市史』史料編近世2、1977.3.31 刊、pp.644-677。『川島町史』資料編近世1総論編、2005.3.25刊、pp.397-419。『騎 西町史』近世資料編、1989.1.20刊、pp.254-268。『北本市史』第4巻近世資料編、
1987.3刊、pp.479-505。『行田市史』資料編近世1、2010.3.31刊、pp.565-567。『江 南町史』資料編3近世、2001.10.31刊、pp.327-350。『鴻巣市史』資料編3近世 1、1993.9刊、pp.636-640、pp.644-653。『越谷市史』第3巻史料1、1973.3.30刊、
pp.276-286、pp.295-320。『児玉町史』近世資料編、1990.3.26刊、pp.271-293。『坂 戸市史』近世史料編1、1987.9.1刊、pp.505-510。『幸手市史』近世資料編1、
1996.3.15刊、pp.408-415。『狭山市史』近世史料編1、1985.3.31刊、pp.355-382。
『狭山市史』近世史料編2、1987.3.31刊、pp.102-113。『志木市史』近世資料編 1、1987.3.31刊、pp.333-370。『草加市史』資料編1、1985.3.30刊、pp.276-303、
pp.742-759。『鶴ヶ島町史』近世資料編3、1984.8.30刊、pp.55-124、pp.127-134。『都 幾川村史資料』4(1)近世編平地区1、1993.3.25刊、pp.155-159。『都幾川村 史資料』4(3)近世編大椚地区1、1996.3.25刊、pp.259-270。『都幾川村史資料』
4(5)近世編明覚地区1、1998.3.30刊、pp.266-274。『所沢市史』近世史料2、
1983.3.30刊、pp.79-91、pp.210-218、pp.564-570。『戸田市史』資料編2近世1、
1983.3.15刊、pp.664-724。『戸田市史』資料編3近世2、1985.3.26刊、pp.173- 234。『滑川村史調査史料』第2集高柳邦之家文書集、1978.3.31刊、pp.298-310。『滑 川村史調査史料』第3集大久保延二家文書、1979.3.30刊、pp.246-249。『新座 市史』第2巻近世資料編、1985.3.30刊、pp.182-198。『蓮田市史』近世資料編1、
2000.3.31刊、pp.263-316。『飯能市史』資料編8近世文書、1984.1.26刊、pp.190- 222、pp.225-227。『日高市史』近世資料編、1996.9.30刊、pp.303-305。『富士見市 史』資料編4近世、1990.3.31刊、pp.318-345。『本庄市史』資料編、1976.3.30刊、
pp.505-522。『東松山市史』資料編第3巻近世編、1983.3.25刊、pp.185-187。『八 潮市史』史料編近世1、1984.7.10刊、pp.513-521、pp.532-541。『吉田町史資料 篇』第2輯、1976.3.31刊、pp.208-222。『与野市史』中・近世史料編、1982.4.30 刊、pp.723-754。『寄居町史』近世資料編、1983.3.30刊、pp.345-349。『両神村 史』史料編4近世・近代出浦家文書、1989.12.25刊、pp.1-193。『両神村史』史 料編5近世・近代加藤家文書、1997.3.26刊、pp.589-795。『両神村史』史料編 6近世加藤家文書、1998.2.25刊、pp.3-837。『両神村史』史料編7近世・近代 加藤家文書、1998.3.26刊、pp.3-415。『和光市史』史料編2 近世、1982.5.27刊、
pp.291-360。『鷲宮町史』史料1近世、1980.3.30刊、pp.635-647、pp.718-729。『新 修蕨市史』資料編2近世別冊、1994.1.18刊、pp.1-130。『新編埼玉県史』資料 編14近世5村落・都市、1991.2.28刊、pp.424-437。
13)「文政十二年正月 養老米願書」、「文政十二年三月 養老米請書」『児玉町史』
近世資料編、平成2(1990)年、p.303
14)小野文雄編「足立郡根岸村村明細書上帳」『武蔵国村明細帳集成』、武蔵国村 明細帳集成刊行会、昭和52(1977)年4月、p.41
15)西沢淳男編『江戸幕府代官履歴辞典』平成13(2001)年10月、岩田書院、p.333。
大石学編『江戸幕府大事典』平成21(2009)年12月、吉川弘文館、「大坂谷町代 官所」項
16)児玉幸多校訂『中山道宿村大概帳』(近世交通史料集5)昭和46(1971)年3月、
吉川弘文館、pp.19-28
17)拙論「新島襄の母とみとその先祖」『新島研究』第104号、平成25(2013)年2 月、p.89
18)「天保十四年閏九月 蕨宿宿高家数人別・男女老若内訳・出奉公人巨細取調書 上帳扣」『新修蕨市史』資料編2近世、平成6(1994)年1月、pp.428-441 19)「嘉永二酉年三月 宗門人別書上帳」『春日部市史』第3巻近世史料編3ノ2、
昭和57(1982)年12月、pp.584-911
20)籠谷次郎「新島民治の手習塾 —江戸藩邸内塾の考察—」『同志社談叢』第18 号、同志社社史資料室、p.53
21)拙論「新島襄の母とみと御目見医師雨森宗真」『新島研究』第102号、平成23(2011)
年2月、p.196
資料提供
同志社大学同志社社史資料センター
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