使徒言行録の修辞学的研究(1)――ペトロの伝道説 教――
著者 原口 尚彰
雑誌名 東北学院大学キリスト教文化研究所紀要
号 20
ページ 61‑99
発行年 2002‑08‑31
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024327/
使徒言行録の修辞学的研究(1)
ペトロの伝道説教
原口尚彰
序論:考察の目的
修辞法(力"Top4") とは,ギリシャで発達した言葉による説得の技術もしく は説得の技術についての理論であり (プラトン「ゴルギアスj452e‑453a;アリ ストテレス「弁論術」 1355a),当時の知識人たちが行う公の演説に広く用いら れていた'・修辞法の理論は,後にローマ人によって継受され,ギリシャ・ロー マ世界全体の文化的伝統の一つとなった(キケロ「発想論j1.6‑7; 『演説につい て」1.8.3233; 1.32.138; クウインティリアヌス「弁論家の教育』2.15.137)。法 廷弁論や議会演説, さらには祝典演説や追悼演説を通して,共同体を形成して いくことは,野蛮や専制に支配される周辺世界とは異なったギリシャ・ローマ 世界の文明の証と考えられた(キケロ「発想論」 1.2.23; 『弁論家について」 1.
8.3233)。
新約聖書中の文書にも周辺世界であるギリシャ・ローマ世界の修辞法の影響 は随所に見られることが近年聖書学者たちの注目を集め,英語圏の学者たちを 中心に,修辞学を聖書解釈の方法論として応用する修辞学的批評の試みがなさ れてきた。現代の新約聖書学において修辞学的研究が国際的な場面で注目され るようになったのは, 1974年の国際新約学会(StudiorumNoviTestamenti Societas)において,H、D.Betzが行った主題講演によるところが大きい2.数 年後に彼は記念碑的とも言える優れた注解書Galatiansを刊行し,一つの新約 文書全体を修辞学的視点から解釈してみせた3.さらに,1984年に刊行されたG.
A・Kelmedy著NewTestamentlnterpretationthroughRhetoricalCriticism
は,新約聖書全体の修辞学批評の標準的分析モデルを提供し,修辞学批評(rhe‑
toricalcriticism)が新約聖書学における有力な研究法として定着するのに大き な貢献をした 1。また,新約聖書の修辞学的研究についての国際学会が, 1992年 にドイツのハイデルベルクで開催されて以来,二年に一回のペースで場所を変 えて開催され,聖書の修辞学研究に従事する世界の学者達の重要な研究フォー ラムとなっている5.
私自身は数年来新約聖書中の物語部分に登場する演説に対して修辞学的釈義 の可能性を探り,特に使徒言行録中の演説の修辞学的特色の分析と新しい釈義 法としての修辞学的釈義の確立に努めて来た6・この過程で私は,新約聖書中の 演説の分析にはヘレニズムの修辞法の伝統だけではなく,旧約聖書や初期ユダ ヤ教の修辞法の伝統にも注意を払わなければいけないことに気付き,旧約聖書 中の言説の修辞学的分析の試みも併せて行っている7.
他方,私は修辞学的分析をさらに書簡文学に応用することを考え,特にパウ ロ書簡を修辞学的視点から分析することを試みている8.今回の研究は, これま での試行錯誤を踏まえて,使徒言行録中に含まれる三つのペトロの伝道演説を 修辞学的視点から分析し,新約聖書の歴史記述中の演説が内包する修辞学的問 題を考察してみたい。
第2節釈義法としての修辞学的批評
(1) 修辞学的批評の基本的性格:文学的研究法と歴史的性格
修辞学的批評は,言説をその内容と構造,修辞的技法の観点から考察するも のであり,基本的には文学的研究方法である。しかし, この方法は新約聖書中 の言説を同時代の古代文学の文脈に位置付けしようとする契機をもっており,
歴史的契機を含んでいる9.さらに,修辞学的批評と伝統的な歴史的批評的研究 方法とは, それぞれ位相が異なる方法論であり,必ずしも互いに対立するもの ではない。両者の間にはむしろ,相補的な関係が成り立っている,0。例えば,福
使徒言行録の修辞学的研究(1)
音書や使徒言行録等の物語中の登場人物が行う演説に対して修辞学的分析を行 う際には,文学空間である物語が提示する演説がなされる時や場が修辞的状況 状況を構成する。 しかし,真正パウロ書簡の修辞学的分析にあたっては,現実 の著者であるパウロと受信人である教会の信徒たちが置かれた歴史的状況と,
パウロと受信人達の間に現実に起こった出来事や,両者の間の関係などが修辞 的状況を構成する。 この場合には修辞的状況を確定する作業が,歴史的批評的 方法が行ってきた史的再構成作業に非常に近付くことになる。
(2) マクロ的方法とミクロ的方法
古代の歴史記述に対して修辞学的分析を試みるにあたっては,マクロ的方法 とミクロ的方法の二つの可能性がある。前者は歴史記述の全体を一つのレト リック,即ち,言葉による説得の手段と捉えて, その修辞的効果を分析する方 法である''・前1世紀にローマで活躍した修辞家・歴史家であるハリカルナツソ スのディオニシオスは,当時の歴史記述に対して修辞的視点から価値評価を加 えている(『ボ ンペイウス宛書簡」3.2, 「ローマ古代誌』1.1.3, 1.2.1を参照)岨。 こ のアプローチは,歴史記述の著者が,作品全体を通して読者を一定の方向へ説 得する側面に焦点を置いている。これに対して,後者の方法は歴史記述の一部 の箇所を採り上げて,歴史記述という一つの文学空間の中における言語表現の 修辞的機能を分析するものであり,個々の箇所の釈義作業と堅く結び付いてい る。実際のところ,G.A.Kennedyの修辞学的研究がこの方向を志向しており,
釈義的方向を目指す修辞学分析に対する標準的分析モデルを提供している130 私自身も釈義的方向の修辞学的分析を目指し,新約聖書中の様々な箇所を採り 上げて,修辞学的視点から分析する努力を重ねてきた'4。
(3) 使徒言行録中の演説と修辞学
a, 言葉による説得についての肯定的価値評価
ヘレニズムの歴史記述やその影響を受けた初期ユダヤ教やキリスト教の歴史 記述において,登場人物の演説は全体の物語の展開に対して重要な役割を果た しているが(ヘロドトス『歴史」 ;ツキディデス「戦史」 ; 111マカバイ記;使徒 言行録), このことはギリシャ・ローマ世界が人間の言葉による説得に対して,
肯定的な価値評価を下していたことを反映している(アリストテレス『弁論術l 1354a1355b;アリステアス266; フイロン「徳論」217; 『逃亡と発見jl39; 「律 法害の寓意的解釈」3.80; I夢」 1.191)。言葉による説得が時として真理性を欠 く煽動に堕することになり,哲学者たちの批判を呼ぶことになっても (プラト ン「ゴルギアス」 452e; 453a‑e; 454e; 『プロタゴラス」 352e; 『テアイトス」
201aiパイドロス」260a; 262c; 267a; 272e;アリストテレス『弁論術」1355a), ヘレニズム世界は人間の言葉による説得を全面的に否定することはなかった。
古典古代の歴史家達は,当時の高等教育の一環をなしていた修辞学の素養が あったので,歴史記述を著すにあたっても,様々な修辞的技法を駆使すること が観察される。彼らは歴史的事象を物語ることを通して,読者を説得して,一 定の歴史理解に導こうとしたのであった(ハリカルナッソスのディオニシオス
「ポンペイウスに与える書簡」 3.2; 「ローマ古代誌」 1.1.3; 1.2.1を参照)。従っ て,古代の歴史記述を修辞的鞍視点から分析し,評価することは,正当な文献 学的・歴史学的手続きであると考えられる。
使徒言行録には,冒頭の序文の存在や(使1 : 1‑2),重要な場面に演説が配さ れていることに見られるように(使l : 16‑22; 2: 14‑40; 3: 12‑26; 7: 2‑43;
13: 16‑41 ; 15: 13‑21他),ギリシャ・ローマ世界の歴史記述の慣例に従ってい るところがある。宣教者が説得の技術である弁論術を駆使して人を説得するこ とに対して,真正パウロ書簡より知ることが出来るパウロが非常に否定的であ るのに対して(ガラl: 10; I1コリ11 : 6を参照),使徒言行録の著者はむしろ
使徒言行録の修辞学的研究(1)
肯定的であり,使徒言行録では伝道者たちが言葉を駆使して人々を説得し,回 心に導いたとされている (使13: 43; 17: 4; 18: 4,2425; 19: 8; 28: 23, 24)。しかも,使徒言行録は初代教会史の歩みにおける決定的転換期の場面に主 要な登場人物たちの演説を配しており (例えば, 2: 14‑40ペトロのペンテコス テ説教; 7$ 2−53ステフアノの弁明; 10: 3443コルネリウス家でのペトロの 説教; 13: 1641ピシディアのアンテイオキアでのパウロの会堂説教; 17:
2231パウロのアレオパゴス説教),演説は神が定めた救いの計画が実現するに 当たっての原動力となっている15.
b・ 創作的要約
歴史記述において演説は全文が言葉通りに再現される訳ではなく,発言の趣 旨を歴史家が場面と人物に応じて再構成することが許されていた(使2: 40;
ツキデイデス「戦史」 1.22)。 このことは,使徒言行録に収録されている演説の 長さと,全文が収録されているクリュソストモスやイソクラテスやデモステネ スの演説の長さとを比べれば一目瞭然であり,前者は歴史家の言葉による諸演 説の要約的報告に過ぎない。つまり,古典古代の歴史記述に登場する演説には,
ある程度の創作的要約の要素が存在しているⅡ6.使徒言行録中の演説はヘレニ ズムの歴史記述中の演説に比べても著しく短かく,創作的要約の性格はさらに 強い'7。その上,演説は聴衆の否定的反応のために中断され,未完に終わること もある(例えば, 7: 2−53ステファノの弁明} 17: 22‑31パウロのアレオパゴス 説教) 18。しかし,たとえ歴史家の言葉による要約的報告に過ぎなくても,歴史 記述中の演説も基本要素とその配列,演説全体のタイプや特徴を考える手掛か
りをある程度提供しており,修辞学的分析は可能であると考えられる」ヨ。
c 歴史記述の物語的文脈
歴史記述中の演説の分析において,修辞的状況(rhetoricalsituatiOn)の分 析は注意を要する。演説がなされた直接の場面や演説の聴衆,演説の目的の分 析に加えて,演説が組み込まれている物語全体の中で,問題の演説がどこに位
置し, どのような働きをしているのかについて考察する必要がある20。つまり,
歴史記述中の演説の修辞的状況は物語的文脈(narrativecontext)の性格を併 せ持っていると言える理。さらに,歴史記述中の演説は,物語的文脈が与える修 辞的状況への応答であると共に,それ自身が聴衆を動かす言語行為であるので,
新たな修辞的状況,ひいては,新たな物語的文脈を創り出す。
d. 使徒言行録中の演説の概観
使徒言行録中に合計31の演説が収録され,その内訳はペトロの演説が8 (1 : 1622; 2: 14‑401 3: 12‑26; 4: 812; 5: 29‑32; 10: 3443; 11: 5‑7 ; 15:
711),パウロの演説が12 (13: 1641 ; 13: 46‑47; 14: 1517; 17: 22‑31 ; 20: 18‑35; 22: 121 ; 23: 16; 24: 10‑21 ; 26: 2‑23; 27: 21‑26; 28: 17 20; 28: 26‑28),その他の人物(ガマリエル, ステファノ,ヤコブ,エフェソ 市の書記,弁護士テルテイロ他)の演説が11 (5: 35‑39; 6: 13‑14; 7: 2‑53;
15: 1321 ; 16: 20‑21 ; 17: 6‑7; 18: 13; 19: 25‑27; 19: 3440 ; 21 : 20‑
25; 24: 2‑8)である(巻末の「付表:使徒言行録中の演説」を参照)。ペトロ の演説は使徒言行録の前半部に分布し,パウロの演説は中盤から後半部に分布
している。
演説のタイプからすると14が助言的演説, 17が法廷的演説(告発が7,弁明 が10)であり,演示的演説は含まれていない。 こうした傾向は,演説の大部分 が初代教会指導者たちによる伝道説教か,或いは,彼らの伝道活動の結果引き 起こされた,ユダヤ人や異邦人たちによる告発とそれに対する弁明であること
に由来している。
(3) 修辞学的釈義の構成要素
①修辞的単位(rhetoricalunit)
釈義の対象となる演説の始めと終わりの確定であり,従来の釈義で言えばペ リコーペの範囲の設定に相当する22.物語や歴史記述の中の演説の修辞的単位
使徒言行録の修辞学的研究(1)
の決定は比較的簡単に定まる場合が多いが,新約書簡の修辞的単位の設定には 複数の可能性がある。 まず,書簡全体をひとまとまりの修辞単位と見るか,書 簡の一部だけを修辞的単位を見るかの選択がある。また,後者の場合は, どの 部分のどの範囲で修辞的単位にするかで,いくつもの可能性がある。いずれに しても,聖書テキストのある部分が一つの修辞的単位であると言えるためには,
その部分に文体上,主題上の一体性があり,書簡全体の中で一定の明確な機能 を果たしていることが必要である。
②修辞的状況(rhetoricalsituatio'1)
演説がどのような社会的場で,何を起因として,誰に向かってなされている のかについての考察である23。例えば,使徒言行録4章のペトロの演説は,ユダ ヤの最高法院において,裁判官の役を務める大祭司や議員たちの前での弁明と して行われている (使4: 812)。使徒言行録7章1‑53節のステファノの演説 は,エルサレムの最高法院の裁判の場で大祭司らに対して,神殿と律法を汚し たという非難に対する弁明としてなされている。使徒言行録15章1321節のヤ コブの演説は,異邦人回心者に律法を守らせるべきかどうかについて開催され た使徒会議において,エルサレム教会の信徒たちに対して,会議の結論を方向 付ける決定的発言としてなされている。使徒言行録20章17‑35節のパウロの演 説は,エルサレムへ向かう旅の途上でミレトスにおいてエフェソの長老たちに 向かって,彼らに教会の牧会を託し,予想される状況に備えるように勧める別 れの説教としてなされている24.
現存最古のパウロ書簡であるIテサロニケ書について言えば,パウロの伝道 によって回心したテサロニケ人たちに対して(Iテサ1 : 9‑10),パウロが当地を 去った後に,予期していた迫害が起こったことと (3: 1‑10),世の終わりの前 にこの世を去った者たちの運命についてテサロニケ人たちが案じていることが 分かったために(4: 13‑18; 5: 1‑ll),パウロが彼らを励ますと共に,世の終 わりの時の死者と生者の運命について書き送る必要が出てきた。 これらのこと
が, このパウロ書簡の基本的修辞的状況を構成している。
③配列構成
修辞的単位として確定した章句をさらに分析し,含まれている諸要素とその 配列について考察する。言説の基本的構成要素は,序論(7zpooZ"fo,, [exor‑
dium]),叙述(鋭みγ"醜く [narratio]),論証(堀ぴ唾ぐ [probatio]),結語 (と疵入oγor[peroratio/conclusio])である (アリストテレス『弁論術」 1414bi キケロ「弁論術の分析』1.4)。しかし,以上の四要素にクウインテイリアヌスは 反駁(refutatio)を付け加え(クウィンティリアヌス『弁論家の教育』3.9.1 ; 4.
1.1 ; 4.2.1 ; 4.4.1; 4.6.1), キケロの「発想論』や「ヘレンニウスに与える修辞学 害jの著者は,分析(partitiO) と反駁(reprehensio/refutatio)を付け加えて いる(キケロ「発想論」1.14.19; 『ヘレンニウスに与える修辞学害』1.3.4)25・修 辞学的分析は実際の言説をこれらの基本的構成要素に従って検討する。
④修辞的ジャンル
古典修辞学はアリストテレス以来,言説を法廷的言説[弁明,告発],助言的 [審議的]言説,演示的言説の三種のジャンルに分類した(アリストテレス「弁 論術」 1358b;キケロ『発想論」 1.5.7; 「弁論家について』 1.6.22; 1.31.141; ク
ウィンティリアヌス「弁論家の教育」3 4.1‑16)。三つの言説は, それぞれ法廷,
議会,祝典または葬儀という異なった社会的場において用いられ,異なった社 会的機能を果たした。 さらに,法廷的言説[弁明,告発]は過去の行為に関わ り,助言的[審議的]言説は未来にとるべき行動に関わり,演示的言説は現在 に関わるとされる (アリストテレスI弁論術j 1358biキケロ 『発想論』 1.5.7;
「弁論術の分析」24.83‑87; 『弁論家について」1.6.22; 1.31.141 ; クウインテイリ アヌスi、弁論家の教育」 3.4.1‑16)。修辞学的釈義は,当該言説の果たす機能を 分析し,言説全体がどのジャンルに属するかを決定する。使徒言行録中の言説 の例で言えば, ステファノの演説は(使7富 2‑53)法廷的言説(特に弁明)であ り,ペトロのペンテコステ説教や(使2: 1440),神殿説教(使3: 12‑26) JP,
使徒言行録の修辞学的研究(1)
パウロのミレトス演説(使20: 18‑35), さらにIテサロニケ書は助言的言説の ジャンルに該当する。
⑤修辞技法の特徴
ここでは③で明らかにした構成要素毎に使用されている説得の技術を分析 する。 これは通常の釈義で言えば個々の節の解釈に該当する。例えば,使徒言 行録中の演説では論証(滅びrfr[probatio])の部分に,旧約引用がなされるこ とがひとつの特色である (使2: 25‑28=詩16[15] : 811LXX;使2: 34‑
35=詩110[109] : 1LXX;使7: 49‑50=イザ66: l‑2LXX)。 このような聖 書論証(Schriftbeweis)は,演説者の人格の信頼性を説くエトス(人格),聴衆 の感情に訴えるパトス(感情),聴衆の論理的思考に訴えるロゴス(論理) とい う修辞学上の議論法の分類(アリストテレス『弁論術」 1377b1378a, 1395a 1396a)で言えば,明らかに聴衆の論理的思考に訴えるロゴスに該当する26・
第3節ペトロのペンテコステの説教(使2: 14b40)の修辞学的分析 (1) 修辞的単位
ペトロのペンテコステ説教の修辞的単位は,使2: 14b40である(2: 14aは 演説場面の導入句)。 この説教は前半部(2: 14b‑35,36),聴衆の質問による中 断(2: 37),後半部(2: 38‑40) という内容を持っている。前半部の議論は(特 に36節),回心の勧めを内容とする後半部によって完結するし,後半部の勧め は前半部の論述を前提にしているので,両者は密接不可分であり,全体として 一つの演説を構成する ・
後半部は要約的性格が強く非常に簡潔である (特に40節)。
(2) 修辞的状況
五句節の日のエルサレムにおいて,聖霊降臨の出来事の際に集まって来た民 衆に対して, この説教はなされている(使2: 1‑13,14,22)。聴衆にはユダヤ在
住の人々の他に,巡礼のために世界各地から集まっていたユダヤ人や改宗者た ちが含まれていた(2: 512, 14)。聖霊降臨の際に使徒たちは聖霊に満たされて,
巡礼たちがやって来た世界各地の様々な言葉で語ったのを見て人々は驚き戸 惑っていたし,ある人々はこの異常な行動を酒に酔ったせいにした。ペトロの 説教は群衆に対して,聖霊降臨の出来事の意味を説き明かす働きをしている。
五旬節は旧約聖書が定める三大巡礼祭の一つであり, イスラエル人の男子は 全員祭りに参加して「主の前に出る」義務があった(出23: 14 19; 34: 21‑24;
レビ23: 15‑21)。 このような祝祭という場においてなされたペテロの演説は,
直接の聴衆を越えて全イスラエルへの語り掛けという性格を持っていた(使2§
14b「ユダヤの人々よ」 ; 2: 22「イスラエルの人々よ」; 2: 29「兄弟たちよ」を 参照)28・ギリシャ・ローマ世界では,祝祭の演説というとギリシャのオリンピ アの祭典での演説が有名であり,全ギリシャ民族への語り掛けという性格を 持っていた(例えば,全ギリシャの一致団結を勧めたディオ・クリソストモス やイソクラテスのオリンピア祭典演説)。
ルカ/使徒言行録の中でペンテコステの説教は,使徒たちが上からの力を受け てキリストの復活の証人となり,エルサレムから始まって全世界で宣教活動を するという内容の,復活の主の言葉の成就という性格を持つ(ルカ24: 46‑49;
使l : 7−8を参照)29.この説教の直接の聴衆はメソポタミヤや,エジプトや, リ ビアや, ローマや, クレタからやって来た巡礼のユダヤ人や改宗者たちであっ たが,彼らは世界中に散在するデイアスポラのユダヤ人世界全体を代表してい
る (使2$ 9‑11)。
(3) 配列構成 2: 1421序論
2: 14聴衆への呼び掛け
2: 1521聖霊降臨現象の聖書的説明
使徒言行録の修辞学的研究(1)
2: 15飲酒の影響の可能性の否定 2: 16‑21預言の成就ヨエ3: 15LXX 2: 2224叙述
2: 22a聴衆への呼び掛け 2: 22b‑24 イエスの奇跡の業 2: 23十字架の死
2: 24 イエスの復活(=提題: 7zp68Ear[propositio])
2# 25‑35論証:キリストの復活と聖霊の付与についての聖書証明 2: 25‑28聖書引用(1) 詩16[15] : 8llLXX
2: 2932聖書の解釈
2: 33聖謹の付与の出来事(体験的事実)
2: 34‑35聖書引用(2) 詩110 [109] : 1LXX 2: 36結語(1)
イスラエルがイエスを十字架に付けて殺し,神がイエスを復活させた事実 [2: 37聴衆の問い(ペトロの演説の一時中断)]
2: 3840結語(2) :回心と受洗の勧め 2: 38回心,受洗,罪の赦しの受領の勧め 2¥ 39約束に招かれた人々
2: 40邪悪な世からの救いの勧め
この配列構成は結語の部分が, 「兄弟たちよ,私たちは何をすればよいのです か」という聴衆の問い(37節)によって一時中断している点が特殊である。 38 40節は説教全体の結びであると共に,聴衆の問いに答えてペトロが語った言葉 であり, この部分は対話的要素を含んでいる。各部分の長ざのバランスとして は,序論部分(計8節) と論証部分(計11節)が長く,叙述部分(計3節) と 結語部分(計5節)が短い。
(4) 演説ジャンル
この説教は結語のところで聴衆たちへ,罪の赦しと聖霊付与の約束と回心の 勧めがなされており (38‑40節),演説のタイプからすると,聴衆に一定の行動 をとる, もしくは,行動を思いとどまることを勧める助言的言説である (アリ ストテレス「弁論術1 1358b,1359ab)30。
(5) 修辞技法の特徴
①この説教の序論の部分(使2: 1421)は,聴衆に対して演説者の人格の 信頼性を確立し,以後の論述が受け入れられる素地を作ることを目的としてい る。 この議論の仕方は修辞学では演説者の人柄の信頼性を訴えるエートスとさ れている(「弁論術」1377b‑1378a)。酒に酔っているのでは厳いかという非難に 答えて,ペトロは朝の時間に酒を飲むことはあり得ないことと(使2: 15),聖 霊降臨の出来事がヨエルの預言の成就であることを指摘したことは(2: 1621 ; ヨエ3: 15LXX)31,非難に反論して演説者自身の信頼性を示す弁明的要素を 持っている。さらに, 「主の名を呼ぶ者は救われるであろう」という句は,後に
なされる回心の勧め(3640節)の伏線となっている。
②未来の行動に関わる議論である助言的演説には,過去の事実の叙述は必 ずしも必要ではない(「弁論術」 1414ab, 1417b)。しかし, この説教には叙述の 部分が存在し, イエスの奇跡の業,十字架の死と復活の事実が非常に簡潔に述 べられている(使2: 22‑24)。ペトロら使徒はイエス・キリストの生涯,特にそ の死からの復活の証人であり,宣教活動は証人としての活動であるため, キリ ストの出来事について述べることが不可欠であるという事情が, ここには反映 している (ルカ24: 48;使l : 8,22; 2: 32; 3: 15を参照)32。
しかも, 23節は「この方を. .…・あなた方は無法の者たちを通して十字架に架 け,殺した」と, 2人称複数形を採っており,聞き手であるユダヤ人たちの連帯 責任を問う内容となっている(36節も参照)33.使徒言行録において,ユダヤ人
捜徒言行録の修辞学的研究(1)
に対する伝道説教である演説には,叙述の部分に告発の要素が存在するのが通 例であり(使4: 10; 5: 3() ; 7: 52も参照),ペンテコステ説教においては叙述 部分に存在する告発的要素が,結語部分で述べられる回心の勧め(使2: 36‑40) の前提となっている34・この論理構造は,イスラエルの罪状を厳しく指摘して回 心を勧める旧約の預言の論理構造に近い(エレ2: 1‑4: 1 4;ホセ12: 1 14: 9 他を参照)35。但し,修辞学の視点からも助言的演説にしばしば告発や弁明の要 素が含まれることがあると指摘されている(アリストテレス「弁論術」 1414b)。
さらに,ユダヤ人たちがローマ人たちの手を通して十字架に付けたイエスを,
神が復活させたことを述べる節は,以下に続く部分(2爵 25‑35)が論証する対 象である提題( 68どぴ4r[propositio])を表現している。
③論証の部分は(2: 25‑35), キリストの復活と高挙についての証明を内容 としている。 この部分の説得推論の方法に特徴的であるのは,旧約引用とその キリスト論的解釈による聖書証明が用いられていることである(使2: 25‑28=
詩16[15] : 8‑llLXX,使2: 34‑35=詩110[109] : 1LXX)36。この論証方法 が選択された理由は,聴衆がユダヤ人と改宗者たちであるので,旧約聖書に神 の言葉としての権威を認め, またその内容に親しんでいるためであろう。 これ に対して,異邦人たちに向けた伝道説教においては,聖書証明は用いられず,神 の被造物である自然を通した神の自己啓示が,聴衆の思考との接点として援用 される(使14: 15‑17; 17: 2231)37.他方,聖書証明はこの説教と旧約預言と の相違の一つでもある。旧約聖書の預言は神の言葉を受けて語るものであるか ら, そもそも他の権威付けを必要とせず,その真正性を論理的に説明すること はなかった。論証部分の存在は使徒言行録の説教をヘレニズム世界の演説に近 いものにしている一面を持つ。
この部分ではもう一つの論証手段として,高挙のキリストによって使徒たち に約束の聖霊が注がれた事実が援用されている(使2: 33)38.説得推論は事実に 基づいてなされることが前提であり,演説者は関連する事実を出来るだけ多く
挙げようとする (アリストテレス「弁論術」 1396b)。ペトロがここで言及して いる事実は,一般的な性格のものではなく,演説者と聴衆が体験・目撃した特 殊な事実であり, しかも超自然的な性格を持っている。聖霊付与という超自然 的な事実が説得手段として用いられることは,初期キリスト教の宣教の顕著な 特色である(使2: 33; 11 : 15‑16; 15: 8)39. こうした論証法は旧約的な「しる しの神学」に親しんでいるユダヤ人や改宗者たちに対して有効な論証法であっ た(申4: 34; 7: 191 26: 8; 29: 2; 34: 11 ;バル2: 11 ;ベン・シラ36: 5;
ソロ知恵8: 8;使4: 30; 14: 3; 15: 12; ロマ15: 19; Iコリ12: 12)40。
④結語の部分(2: 36,3840)では,回心の勧めが語られ, この説教がなさ れた意図が明確な形で示されている。 36節は「全イスラエルの家よ,良く知る がよい。あなた方が十字架に架けたその方を,神は主またキリストとしたので ある。」となっており,叙述の中心内容(23‑24節)を要約して確認している。論 述内容の要点をもう一度繰り返して聴衆に印象付けることは結語の大切な機能 の一つである(アリストテレス「弁論術j l419b)。 「あなた方が十字架に架けた その方を」 という二人称複数形で述べられている句は, イエスの十字架の死に 対して聴衆であるユダヤ人たちの連帯責任を問う言葉であり,聴衆の心に突き 刺さる効果を持った(37節「これを聞いて彼らは心を刺されて言った」)41.結語
において聴衆が特定の感情を持つように仕向けることは修辞法の常套手段であ る (「弁論術」 1419b)。
この効果的な要約によって,「兄弟たちよ,私たちは何をすればよいのですか」
という聴衆の問いが引き出され(37節; さらに,使16: 30; 22: 20;ルカ3:
10を参照),それに答える形で,罪の赦しと聖霊付与の約束と回心の勧めが語ら れている(38‑40節)。 この勧めは非常に良く機能し,ペトロの言葉を受け入れ て洗礼を受けた人々は約三千人にのぼったとされている(41節)。 この説教は,
聴衆が途中で演説を聞き続けることを拒否した,パウロのアレオパゴスの説教 (使17: 22‑31) とは異なり,成功した演説と評価出来る420
使徒言行録の修辞学的研究(1)
第4節ペトロの神殿説教(使3: 12‑26)の修辞学的分析 (1) 修辞的単位の決定
この部分に含まれるペトロの演説は途中の中断もなく完結しており,修辞的 単位は3: 1226であると問題なく決定できる。
(2) 修辞的状況
この演説が語られた直接の場面設定は,先行する3: 1=11の部分が与えてい る。エルサレムの神殿に祈りを捧げるために上ろうとしたペトロとヨハネが,神 殿の前で物乞いをしていた生まれつき足が悪い人と出会い,施しを乞われたが,
金銭は与えず,代わりにイエスの名によっていやしを与え,歩けるようにした (3: 1‑8)。ペトロとヨハネについて神殿の境内に入ったいやされた人が歩き 回っているのを見て,人々はひどく驚いて,ペトロとヨハネのもとに駆け寄っ てきた(3: 910)。この人々に対してペトロが語った言葉が神殿説教である(3:
12‑26)。
ルカ文耆全体の物語の展開の中において,神殿は重要な出来事が起こる場所 となっている43.ルカ福音書はエルサレム神殿における,ザカリヤヘのエリザベ ツ受胎の告知から始まる(ルカl : 523)。神殿はまた,幼子イエスが奉献され た時(2: 2235), イスラエルの民と異邦人を救う救い主到来の感謝の祈りが,
シメオンによって捧げられた場所である(2: 29‑32)。成人したイエスはガリラ ヤの宣教活動を終えた後(4: 149: 50),エルサレムへ旅をし(9: 51 19: 40), エルサレム入城後は神殿で教えた(19: 47‑48; 20: l ; 21 : 3738)。イスラエ ルの宗教的,政治的中心である神殿で教えるということは, イエスの教えが全 イスラエルへ向けられているということであり,それに対応して聴衆はイスラ エル民族を象徴する「民(入α6ぐ)」という言葉で呼ばれている(19§ 4748; 20:
l ; 21 : 37‑38)。ペトロの神殿説教も同様に,単に直接の聴衆だけでなくイスラ
エルの民全体に向けられている '4。従って, ここでも聴衆は「民(入α6ぐ)」と呼 ばれることになる(使3: 9, 11 ; 4: 1)。ペトロは説教の冒頭で「イスラエルの 人々よ」 という言葉で,彼らに語り掛けたのであった(3: 12)。
使徒言行録中にペトロの演説が八つ含まれ(1 : 1622; 2: 1440; 3: 1226;
4: 8‑121 5: 29‑32; 10: 34‑43; 1l : 5‑7; 15: 7‑11), そのうちの三つが説教 的性格を持っている (2: 14‑40; 3: 12‑26; 10: 3443) 45.初めの二つはユダ ヤ人向けの伝道説教であり,内容において共通する点が多くあるが,最後の一 つは異邦人向け伝道説教であり性格を異にする。従って,ペトロの神殿説教は (3: 12‑16),主としてペンテコステ説教(2: 14‑40) と比較検討されなければ ならない46.
もう一つの問題はパウロの伝道説教との関連である。使徒言行録中にパウロ の演説は12含まれ(13: 1641 ; 13: 4647; 14: 15‑17; 17: 22‑31 ; 20: 18‑
35; 22: 1 21 ; 23: 1 6; 24: 1021 ; 26: 2‑23; 27: 2‑26; 18: 17‑20), その うち四つが説教的性格を持っている (13: 16‑41 ; 14: 1517; 17: 2231 ; 20:
1835)。 このうち初めの三つが伝道説教であり, そのうちの一つがユダヤ人向 けであり (13: 1641),残りの二つが異邦人向けである (14: 15‑17; 17: 22 31)。つまり,使徒言行録に記載されているパウロのユダヤ人向け伝道説教はピ
シディアの会堂説教だけであり (13: 1641), この説教はペトロの神殿説教と の興味深い比較の材料を提供している47。
(3) 配列構成(罐争f[dispositio])
3: 12aはペトロが民衆に答えたことを記し,彼の神殿演説を導入している。
神殿演説自体の内容の配列構成は以下の通りである480 3: 12b序論:聴衆への語りかけ
3: 13‑16 叙述
3: 13‑15 ユダヤ人がイエスを拒み, ローマ総督に渡したこと,バラバを
使徒言行録の修辞学的研究(1)
釈放させ, イエスを殺したこと,神がこのイエスを復活させた
こと
3: 16 イエスヘの信仰とイエスの名によるいやし 3: 17‑18論証(1)
3: 17無知による行動
3: 18受難のメシアと預言の成就 3: 1921結語(1)
3: 19悔い改めの勧め
3: 2021 メシアの派遣と万物の更新の展望 3: 2224論証(2)
3: 2223聖書引用(申18: 15‑20; レビ23: 29) 3: 24預言者たちの証言
3苫 2526結語(2)
3: 25預言者の子ら,契約の子ら 3: 26 イエスの派遣と祝福
この配列構成は二つの論証(1718節と22‑24節)の間に,悔い改めを勧め る結語(1) (19‑21節)を介在させている点が特殊である。この説教と同じ様に ユダヤ人向けの伝道説教であるペンテコステ説教では,悔い改めを勧める結語 は論証の後に来ている (使2: 3640)。
(4) 演説ジャンル
ペトロの神殿説教には聴衆に悔い改めを勧める結語(1)の部分が真ん中に 存在しているので(1921節),演説のタイプからすれば,聴衆に一定の行動を とる, もしくは,一定の行動を思い止まらせることを目的とする助言的言説で あると考えられる(アリストテレス『弁論術」1358b: 1359ab)49。ただし,悔い
改めの勧めは,叙述部分で述べられたイエスの受難に対するユダヤ人たちの責 任を基礎としており, そこには告発の要素が存在している50.
Aol'brd雌βcUJIEzJLJf6ぐ (助言的演説)は審議演説とも訳すことが出来,ヘ レニズム世界では主として議会の弁論に用いられる演説タイプである。 この演 説の対象は都市国家の公共の利益に関する重大な問題であり, アリストテレス は都市国家の財政,戦争と平和,国土防衛,輸入,立法の五つを挙げている(ア リストテレス「弁論術」 1359b‑1360b)。ペトロの説教は神殿の庭というユダヤ の中心をなす公共性の強い場所で, イスラエルの民全体を潜在的聴衆としてな され,民の終末的運命を問題にしている点で共同体性が強く認められる。
(5) 修辞技法の特色
①3: 12b序論
「イスラエルの人々よ」という言葉でユダヤ人聴衆へ語りかけて演説を始める のは,ユダヤ人向けの演説の慣例である(使5: 35; 13: 16; さらに,使2: 14
「ユダヤ人の人々」を参照)。聴衆は後には「兄弟たちよ」と語り掛けられる(3:
17; さらに, 2: 29; 7: 13も参照)5」・ペトロの話題の切り出し方は単刀直入で あり,ペトロらによってなされたいやしの奇跡に対する人々の驚きに対して問 いを浴びせている。 「何故あなた方はこのことに驚くのか,また, まるで私たち 自身の力や敬度によってこの人が歩けるようにしたかのように,私たちを見つ めるのか?」 という文章は修辞的疑問文であり,奇跡行為がペトロらの能力や 資質によるものでないことを確認することが目的である。この語り方は対話的 な表現法を用いることによって,聴衆の注意を引きつけ,彼らが暗黙の中に持っ ている誤った理解を訂正している。
②3: 13‑16叙述
末来の行動に関わる議論である助言的演説には,過去の事実の叙述は必ずし も必要ではないとされる(アリストテレス「弁論術」1414ab; 1417b)。しかし,
使徒言行録の修辞学的研究(1)
伝道説教には必ず叙述の部分が存在し, イエスの生涯,特にその十字架の死と 復活の事実が述べられるのが通例である (使2: 22‑24; 10: 36‑40; 13: 26‑
31)。ペトロらはそのことの証人なのである(ルカ24: 48;使1 : 8,22; 2: 32;
3: 15; 5: 32; 10: 39)。過去の研究はイエスの死と復活というケリュグマが使 徒言行録中の伝道説教の中核に存在することを強調してきた52.そのことは決 して間違っていないが,問題はそれぞれの説教が持っているケリュグマの語ら れ方とそれぞれの持つ修辞的状況との関連が十分に分析されてこなかったこと である。
ペトロの神殿説教中の叙述と他の伝道説教中の叙述との相違は, イエスのい やしの活動(使2: 22; 10: 38)が述べられないで,受難の過程がより詳細に記 され, ほとんどルカ福音書の受難物語の要約となり, その結果として読者に受 難物語を再度想起することを促す内容となっていることである53・イエスをユ ダヤ人たちはローマ総督ピラトに引き渡し, ピラトがイエスを赦そうとしてい たにも拘わらず, それを拒んでバラバの方の釈放を願い, イエスに十字架刑が 課されるにつき決定的な役割を演じた(特に使3: 13b‑15をルカ23: 2‑5, 13‑
25と比較せよ)。このイエスを神は死人の中から甦らせ,栄光を与えたのであっ た(使3: 13, 15をルカ24: 18,2527と比較せよ)54。こうした一連の出来事の 首謀者は祭司長や長老ら指導者たちであったが,ルカの受難物語においては,イ スラエルの民(入a6f) もこうした過程に関与しているとされている (ルカ23:
1314)。従って,ペトロの説教の聴衆であるイスラエルの民全体が, イエスの 受難についての連帯責任を問われているのである55.
他方, ここではイエスを復活させたのが「アブラハム, イサク,ヤコブの神」
であること,即ち, イスラエルの族長たちの神であることが強調され,救済史 的視点が導入されている(出3: 78, 10;使3: 13a; 7: 32)56。さらに,ペトロ の神殿説教はイエスを「僕(万aEf)」と呼び,苦難の中に他人の罪を負いとりな しをした結果,高く挙げられ,栄光を与えられたイザヤ書の主の僕の姿を聴衆
に想起させている(イザ52: 1353: 12;使3: 26)57.これらのことは,後に論 証(1)の部分でイエスが受難のメシアであることが預言者たちの使信であると
されることや(3: 18),論証(2)の部分でモーセのような預言者としてのイエ スの派遣ということが述べられる (3: 2224)伏線となっている。
神殿説教の叙述はさらに,聴衆が目撃したいやしの出来事に言及して(3:
16),イエスの御名への信仰を通していやしが与えられたことを強調する。いや しの場面ではペトロらがイエスの名によっていやしを行ったことが述べられる だけで,いやされた人の側の信仰への言及はないが(3§ 6を参照),演説の中で はそのことが強調されていることが目立つ58・これはおそらく,この叙述が後に なされる悔い改めの勧めをする (3: 19‑20)基礎となっているためであろう。
③3: 17‑18論証(1)
3: 17はユダヤの人々がイエスを拒絶し, イエスをローマの官憲に引き渡し たことについて,無知のモチーフを導入している。無知のモチーフは,聴衆に 対して無知の故に犯した罪を悔い改めて,終末の裁きに備えるように促す回心 の勧めの前提となっている (使13写 27‑28, 17: 30)59.
3: 18が述べている,イエスは受難のメシアであり,そのことは旧約聖書の預 言の成就であるという内容は, この説教の中核をなす根本思想である(使17: 3 も参照)。 「油注がれた者(xp"r6r), キリスト」とは,へプライ語マシアッハ (=メシア)のギリシャ語訳であり,本来は王の即位の儀式である油注ぎを受け た王のことを指すが(サム上2: 10; 16: 6;王下2: 10;詩2: 2),後にはイス ラエルの国を復興する救済者の称号となった(ルカ3: 15; 20: 41 ; 23: 2,35, 39)。ルカ福音書において既に誕生の時にイエスは「油注がれた者, キリスト」
となることが告げられ(ルカ2: 11,26),後に洗礼者ヨハネのもとで洗礼を受け た時に聖霊の油注ぎによってキリストとされ,宣教活動を始めたのであった(ル カ3: 22; 4: 1, 14, 1619;使10: 38)。しかし,ユダヤ人聴衆にとってメシア とはイスラエルの国を復興することが出来る力を持つ存在であり, イエスのよ
使徒言行録の修辞学的研究(1)
うな‑│一宇架に架けられる受難のメシアということは矛盾でしかなかった(ルカ 23: 35を参照)。イエスの弟子たちでさえ,イエスがメシアであることを告白し (ルカ9: 20), さらには繰り返し受難予告を受けていても (9: 21 22,44; 17:
5; 18: 3134),そのことを理解できたのは復活後のキリストの言葉によってで あった(24$ 26,46)。従って, メシア論はメシアの到来を待望するユダヤ人聴 衆との接点となる主題であったが,受難のメシアという命題は彼らには全く予 想外のことであり,簡単に信じることが出来る事柄ではなかった。
これに対して,ペトロは受難のメシアということが旧約の預言者たちが予告 していたのであることを強調して,ユダヤ人聴衆を説得しようとしている (使 3: 13b, 18;ルカ24 : 26,46を参照)。ここに預言書の具体的な箇所の引用はな されていないが,先に3: 13bで「僕」という言葉が用いられていたことからし て, イザヤ書の主の僕の箇所が念頭に置かれているのであろう (イザ52: 13 53: 12;使3: 26を参照)。ルカが受難物語におけるイエスの姿に, イザヤ害の 主の僕の姿を重ね合わせていることは, フィリポと宙官の物語におけるイザ 53: 78の引用が示している (使8: 3233)。
④3: 19‑21 結語(1)
使3: 19にある聴衆に対する悔い改めの勧めは, この説教の一つのクライ マックスを示す6..叙述においてイスラエルの民の罪責が示されたのは,罪の悔 い改めの勧告をするためであった(使2: 38を参照)6」・終末の時に神は予め定 められている通りに,油注がれている者(キリスト) を遣わし,世界に審判を 行う(20節)。終末の時は万物の更新の時であるが,その時の到来までキリスト は天に留まっている(21節)。終末を待つ現在の時は,人々が悔い改めて,罪赦 されて救いに入るための備えをする期間なのである (17: 30‑31を参照)62。
⑤3: 2224論証(2)
この部分は神の言葉の宣教者としてのイエスの派遣についての聖書的根拠を 与えている(申18: 15‑20; レビ23: 29;使7: 37を参照)。聖書証明は旧約聖
吾に神の言葉としての権威を認めているユダヤ人聴衆に対してなされる論証方 法であり,異邦人向けの伝道説教では聖書証明は行われず, 自然を通した神の 自己啓示が聴衆の思想との接点として援用される(使14: 15‑17; 17: 2231)。
22節はイエスを神が遣わすことを約束した,モーセに匹敵する終末時の預言 者としている(申18: 15‑20)63。先に叙述の部分で,出エジプト記のモーセの召 命物語を街佛とさせる「アブラハム, イサク,ヤコブの神」 という表現が使用 されていたことがここで生きてくる(出3: 7‑8, 10リ使3: 13a)。モーセを預言 者として召し, イスラエルに遣わせた神が, イエスを民に派遣し,宣教と受難 の生涯を送らせた後,死人の中より復活させ,昇天させたのであった(使3:
13a; 13: 32)。
イスラエルがモーセを通して啓示された神の言葉に聞き従う義務があったよ うに, イエスを通して啓示される神の言葉にイスラエルの民は聞き従わなけれ ばならない(3: 22b)。 23節はし'ビ23: 29の引用であり,モーセに聞き従わな い者がイスラエルの民から絶たれることを告げる厳しい警告の言葉をイエスへ の聴従に当てはめている64・イエスに人々が聞き従う義務があることは,ペトロ のメシア告白(ルカ9: 20)のまもなく後に起こった, イエスの山上の変貌の際 に天からの声が既に述べたことであった(ルカ9: 35)。
⑥3: 25‑26結語(2)
25節においてペトロは聴衆であるユダヤ人たちを, 「預言者たちの子ら」とい う珍しい呼称で呼び, しかも直ぐ続けてさらに「契約の子ら」 (エゼ30: 5; ソ ロ詩17: 15)と呼び,神カガイスラエルの父祖アブラハムに与えた契約を証しす る箇所である創22: 18を引用している(創12: 3も参照)65・イスラエル人たち は, 自分たちが父祖たちの子孫としてアブラハム契約に連なるものと考えてい る。しかし,このアブラハム契約を預言者の子らであるイスラエル人たちは,キ リスト預言として読まれなければならない。従って, 「そしてあなたの子孫に よって地のすべての部族は祝福を受けるであろう。」という引用文中の「あなた
使徒言行録の修辞学的研究(1)
の子孫」は,ユダヤ民族を指すのではなく, メシアであるイエスを指す言葉と なる(ガラ3: 16も参照)。すると,民族的にユダヤ人であることが, アブラハ ムに約束された祝福に自動的に与ることを保証するものではなく, キリストヘ を信じる者がその信仰を通して祝福を受けるということになる(ガラ3: 69を 参照)。
26節では神が「僕」イエスを起こして, まずイスラエルに(「まず, あなた方 のもとへ」)遣わし,人々を悪から離れさせて祝福をもたらしたとされている。
神殿説教の結語は,ヘレニズム演説に見られる演説内容の重要な部分の繰り返 し(アリストテレス『弁論術』 1419b)ではなく,アプラハムの契約の継承者と 自認するユダヤ人たちに, イエスを通しての祝福の到来を告げ, この祝福に与 るための悔い改めを勧めたという事実を新たに述べている。福音はまず救済史 上の特別な地位を持つイスラエルに対して語られるが,彼らの拒絶によって異 邦人へと向けられていくという考えがここには存在している(使13: 46;ロマ 1 : 16リ 2: 9, 13; 4: 27,30を参照)。
ペトロらの神殿での説教活動は, イエスの場合と同様に祭司が持っていた神 殿で律法を教える権限を侵すことと捉えられ(ルカ20: 12;使4: 1‑2), イス ラエルの指導者たちとの決定的な対立を招いた66.彼らはペトロらを捕らえ(使 4: 3),最高法院を召集して審問に掛けることとなった(4§ 522)。彼らは専門 的な律法についての教育と訂│ │練を積んだ祭司や,律法学者たちからすれば, 「無 学な者たち,素人たちlであった筈だが(使4: 13; さらに,ルカ1O: 2124も 参照),復活の主が約束した霊を受けて(ルカ24: 4649;使l : 7−8; 2: 1‑4), 主の復活の証人として宣教活動を行っているのであった(使2: 31‑32)。
ペトロの言葉を聞いて信じた人々の数は五千人に上っており(使4 # 4),イス ラエルの民は言葉を受け入れる民衆と言葉を受け入れず,権力を動員して使徒 たちの宣教活動を妨げようとする指導者たち(4: 1‑3,5‑22)とに二分されてい る。ユダヤ人指導者たちの反発の契機は,物語の中で強化されて行き,ステファ
ノの殉教(使6: 87: 60) とヘレニスト信徒たちの迫害へと発展して行く (8:
13)。他方,使徒言行録前半部ではユダヤ人民衆は宣教の言葉に対して心を開 くが,中盤以降は指導者たちと同様に言葉を受け入れず,敵対する者となって 行き,結局のところ宣教はユダヤ人たちから転じて,主として異邦人たちへ向 けられることとなる (13: 4451 ; 14: 16; 17: 1‑5; 28: 2328)。
第5節ペトロのコルネリウス家での説教(使10: 34‑43)の修辞学的釈義 (1) 修辞的単位
ペトロがコルネリウス家で行った説教の修辞的単位は使10: 34b43である と,私は考える(10: 34aは演説場面の導入句)。この説教はコルネリウス家で のペトロとコルネリウス等の対話の場面の一部であり (使10: 23‑48を参照), そこでのペトロの第二の発言内容に相当する(10: 26‑29[第一の発言] ; 10: 47 [第三の発言]を参照)。この部分は先行するコルネリウスの言葉と(10: 30‑33), 後続の地の文(10: 4445)によって明確に画されており,独立した修辞的単位 を構成する67。
(2) 修辞的状況
使徒言行録10章の中心主題は,百人隊長コルネリウスとその一家の回心の出 来事である。異邦人であり, ローマの軍人でありながら,敬度で神を畏れ,ユ ダヤ人たちに施しをし,神に祈る生活を続けているコルネリウスのもとに(10:
1 2,22,31 32),天使が現れ, ヨッパに滞在しているペトロのところに使者を やって呼んでくるように指示する (10: 3‑8)。使者たちはヨッパの滞在先の屋 上で祈りをしていたペトロを探し当て,彼をコルネリウスのところに連れてく
る(10: 923a)。ペトロー行がコルネリウス家に到着すると(10: 23b‑25), '、q トロとコルネリウスの対話がなされる (10: 26‑43)。ペトロがコルネリウスの ところに来るに至った事情を説明すると (10: 26‑29), コルネリウスの方もぺ
使徒言行録の修辞学的研究(1)
トロを呼びにやるに至った事情を説明し,ペトロに託された神の言葉を語るよ うに願った(10: 30‑33; さらに10: 22を参照)。 この要請に応えてペトロが 行った説教が,今回採り上げている使10: 34‑43である。従って, この説教は 神を畏れる異邦人の家で,ユダヤ教に共感を持つ異邦人聴衆に対して行われた 伝道説教という性格を持つ(使15: 7を参照)68。
この説教が終わらないうちに聖霊が聴衆に下って説教が中断され(10: 44‑
45; 11 : 15),洗礼がなされる(10: 46‑48)。 この出来事の結果,異邦人も神を 信じて救われる可能性がエルサレム教会によって認められ(11 : 1‑18), これ以 後は自覚的な異邦人伝道が展開されて行く (使11 : 2024; 13: 1‑14 : 28; 15:
36‑18: 22; 18: 232() : 12を参照)。使徒言行録はコルネリウスとその一家の 回心の物語を,初代教会の宣教史の転回点を示す重要な出来事と位置付けてい る。この説教は神を畏れる異邦人への説教として,ユダヤ人向けの伝道説教(使 2: 14‑4() ; 3: 12‑26; 13: 16‑41)と異邦人向けの伝道説教(使14: 1517; 17:
22‑31)の橋渡しをする役割を与えられている69D
(3) 配列描成 10: 34b35序論 10: 3642叙述
10: 36神の派遣=イエスの宣教活動
10: 3739a洗礼者ヨハネの宣教, イエスの油注ぎと善き業, その証人 10: 39b‑40十字架の死と復活
10: 41 神の予定と証人
10: 42復活者による宣教令,終末の審判者 10: 43論証:預言者たちの証し,罪の赦しの約束
この配列構成には,叙述の部分が長大であり (10: 36‑42)と論証の部分が短
< (10: 43),結語の部分が存在しないという特色がある。ただし,叙述の一部 にもイエスの善き業さらに死と復活の証人の存在と (10: 39,41),預言者たち による証し (10: 43)への言及があり,論証的な要素は存在している。
論証が極端に短く,結語が存在しないのは,説教途中で聴衆に聖霊が下る出 来事があり (10: 44),説教が中断されてしまったためである70.使徒言行録中 の演説は,聴衆たちの否定的反応によって中絶されることがあるが(7: 253;
17: 22‑31),聖霊の降臨による中断はこの一例しかない。
(4) 修辞的ジャンル
この説教は長い叙述の部分を持っている。ギリシャ・ローマの修辞学からす ると,叙述は過去の行動を問題にする法廷演説には不可欠な要素であるが,現 在を問題にする演示演説や未来の行動を問題にする助言演説には不可欠ではな いとされる(アリストテレス「弁論術j1414ab; 1417b)7!。しかし,へプライ的 レトリックの伝統からすると,現在と未来の行動への勧告は歴史の回顧に基づ いて行われ,助言演説は叙述の部分を含む(申5: 1−33; 29# 1−30: 20)。使徒 言行録中の助言的言説にも叙述の部分を含むものが多い(使2: 14‑36; 3: 12‑
26; 13: 16‑41を参照)72。
他方, この説教がもし伝道説教であるならば,聴衆を回心に導くことを目的 としており,演説のタイプからすると,聴衆に一定の行動をとる, もしくは,行 動を思いとどまることを勧める助言的言説であることになる (アリストテレス
『弁論術」 1358b, 1359ab)。伝道説教には結語の部分に回心の勧めが含まれるの が通例であるが(使2: 38; 19; 3: 1921), この説教は完結する前に聴衆に聖 霊が下ったために中断し,回心の勧めが語らないままになったと考えられる73・
説教が何らかの事情によって中断したために回心の勧めが語られなかった他の 例としては,アレオパゴスの説教がある (使17: 22‑31)。
使徒言行録の修辞学的研究(1)
(5) 修辞技法の特徴
①10: 34b35序論
伝道説教の冒頭では,聴衆の注意を喚起する呼び掛けの言葉が用いられるの が通例であるのに(「イスラエルの人々よ」使5: 35; 13: 16; 「ユダヤ人の 人々」2: 14; 「アテネの人々」17: 22を参照), この説教はそのような言葉を欠 いている。 これはコルネリウスがそもそもペトロに言葉を促しており (10: 22, 33),聴衆は既に彼の言葉に注意を集中しているので,改めて注意を喚起する言 葉を要しないからであろう。
「神はかたより見ない方で,どの民にあっても神を畏れ,義しいことを行う者 は神に受け入れられることが私は本当に分かる」 (使10: 34b‑35; さらに,使 10: 28;申10: 17;代下19: 7; ロマ2: 11を参照)というペトロの述懐は,神 を畏れる異邦人聴衆であるコルネリウスとその一家を祇極的に評価し,彼らが これから語られる伝道説教の聴衆として相応しいことを述べ,本論部分の準備 をしている (使10: 43を参照)。
②10: 36‑42叙述
この部分は,神がイスラエル人たちにイエスの宣教活動を通して御言葉と平 和を伝えた事実を指摘した後(10: 36),聴衆であるコルネリウスらが既に耳に してある程度の知っている出来事として(10寺 37「あなた方は知っている」), イ エスの公の生涯の全体を回顧する(10: 37b42)。 ここに述べられているイエス の宣教活動が,百人隊長コルネリウス家での説教という状況に結び付かないと いう一部の学者達の主張に74,私は賛成しない75.この部分は.特に,バプテス マのヨハネの洗礼活動(使10: 37b;ルカ3写 1−20),聖霊によるイエスの油注 ぎと善き業(使10: 38;ルカ4: 14, 1819a),十字架の死と復活(使10: 39‑40;
ルカ23t 24‑35),復活したキリストと弟子たちの食事(使10: 41 ;ルカ24:
36‑43),復活の主による宣教派遣(使10: 42b;ルカ24: 47‑49),世界の審判 者としてのキリストということを(使10: 42)重要な事実として述べている76o
この叙述部分は, キリストの受肉と十字架と復活の事実だけに集中する原始教 会のケリュグマ(ロマ1 : 34; Iコリ15: 3‑7)の継承というよりは777 むしろ ルカ文書の第一巻であるルカによる福音書全体の要約し,読者にルカによる福 音書の内容を再度想起させていると考えるべきである78。例えば,イエスの油注 ぎと善き業は(使10: 38),特にルカ4: 14, 1819aを想起させる。復活したキ リストと弟子たちの食事への言及は(使10: 41),特にルカ24: 36‑43を想起さ せる。但し,世界の審判者としてのキリストということは(使10: 42),福音書 には登場しない主題であり,パウロの異邦人向け伝道説教の結語の部分を先取 りしている (使17: 31を参照)。
使徒言行録において,ユダヤ人に対する伝道説教には,叙述の部分にイエス の十字架に対する彼らの責任を問う告発の要素が存在するのが通例であり (使 2: 23,36; 4: 10; 5: 30; 7: 52も参照),結語部分で述べられる回心の勧めの 前提となっている(使2: 36‑40を参照)79。しかし, この説教の聴衆は異邦人で あるので,ユダヤ人への説教と異なりイエスの十字架の責任を問う告発の要素 はない80.他方,上に見たようにこの説教には終末時の世界審判を語り,その備 えとして回心を促すという,異邦人への伝道説教固有の論理構造が見られる(使 1O: 42bを使17: 31 ; lテサl : 9‑10と比較せよ)81。
イエスの善き業さらに死と復活の証人の存在と(10: 39,41 ; さらに, 1 : 21 22; 2: 32; 3: 15),預言者たちによる証し(10: 43)への言及は, この叙述に 含まれる論証的な要素である。説得推論は事実に基づいてなされることが前提 であり,演説者は関連する事実を出来るだけ多く挙げようとする (「弁論術.l 1396b)。ペトロは自分たち使徒がイエス・キリストの生涯,特にその死からの 復活の証人であり,彼らは復活の主と食事をしたことが強調する (使10: 39 41 ;ルカ24: 3643;使l : 8,22; 2: 32; 3: 15; 10: 39,41を参照)鮒璽。アレオ パゴスでの説教では聴衆の異邦人たちは,復活のことを聞くともうパウロの話 を聞こうとしなかったが(使17: 32‑33を参照),ペトロのこの説教ではそのよ
使徒言行録の修辞学的研究(1)
うな蹟きは起こらず, キリストの復活という超自然的事実が論証手段として機 能している。 これは聴衆のコルネリウスらがイスラエルの神を畏れる異邦人で あり,超自然的な出来事のうちに神の派遣の真正性の証拠を見る,旧約的な「し るしの神学」に親しんでいるからであろう (申4§ 34; 7: 19; 26: 8; 29: 2;
34: 11 リパル2: 11 ;ベン・シラ36: 5; ソロ知恵8: 8;使4: 30; 14: 3; 15:
12;ロマ15: 19; Iコリ12: 12)83。
③10: 43論証
使10: 43は,預言者たちがキリストについて証しし,キリストを信じる者に 与えられる罪の赦しの約束について述べている (ルカ24: 47を参照)。 この議 論法は旧約聖書の聖書証明の延長線上にあり, その背景には旧約預言をキリス ト証言とする旧約解釈が存在している (ルカ24: 2527;使3: 12, 18,24; 8:
3035; 26: 22を参照)。但し,使10: 43は預言者たちの証言という事実に言及 しつつも,具体的な│日約箇所を引用することはしていない。 この論証方法が選 択された理由は,聴衆が神を畏れる異邦人たちであるので,旧約聖書に神の言 葉としての権威を認めでいるためであろう84。これに対して,そのような前提の ない異邦人たちに向けた伝道説教においては,聖書証明は用いられず,神の被 造物である自然を通した神の自己啓示が,聴衆の思考との接点として援用され
る (使14: 15‑17; 17: 22‑31)ss。
この説教が終わらないうちに聖霊が聴衆に下って説教が中断される (使10:
44‑451 11 : 15)。このことはペテロの説教の言葉の真正性の証明であると共に,
異邦人がキリストを信じて救われる可能性の証明である。聖霊降臨の事実を見 て,パウロはコルネリウスらに洗礼を授ける決意をするし(使10: 4648; 11 : 16‑17),エルサレム教会は異邦人の信仰の真正性を承認する(使l1 : 18)86.使 徒言行録の物語的文脈において, この出来事はペンテコステの日の使徒達への 聖霊降臨の出来事を街佛とさせる (使2: 1 14, 11 : 15を参照)。ペンテコステ の日の聖霊降臨の出来事がユダヤ人達への宣教の開始を意味する出来事であっ
たとすれば, コルネリウスらへの聖霊降臨の出来事は,異邦人の回心の可能性 を示す出来事であり,後にパウロやバルナパが展開する異邦人宣教の前提を形 成している。
第6節結論と展望
(1) ペトロのペンテコステの説教が,対話的要素を含む形の助言的言説であ り (但し,序論[2: 14b21]の部分には弁明的要素,叙述の部分[2: 22‑24]
には告発的要素もある程度存在する), |日約的な神学(預言の成就,罪責の指摘 と回心の勧め,神の使者のしるし) を背景としながらも,論証の方法としては ヘレニズム世界の演説に親近性を持つ。使徒言行録の中の演説をギリシャ・ロー マ世界の演説や修辞学の文脈の中に置いて考察する修辞学的釈義が,従来の歴 史的批評的釈義の成果に加えて, さらに新たな知見を加える可能性を持ってい ることが示されたのではないだろうか。
(2) 古代修辞理論のモデルは法廷的言説を中心に形成されており,助言的言 説や演示的演説についての理論モデルは未完成である印象を受けた(この両者 の構成要素とその配列についての議論すら十分でない)。このような状況である ならば,実際の演説を多数収集して分類した上で,古代修辞理論を再検討し,助 言的言説や演示的言説についてのより有効な分析モデルを形成する必要があ る。
(3) この説教については主に伝承史的な視点からの先行研究が積み重ねら れてきた。文学的視点からの研究は,R.C.Talmehillの物語批評からの研究が存 在し,後続の研究への一つの示唆を与えている87。しかし, この神殿説教の修辞 学的研究は,G.A.Kennedyによる新約聖書の修辞学的研究についての概説害 の中に簡単に触れられているだけで, まだ本格的な研究は存在していなかっ た88。従って,この考察はペトロの神殿説教の初めての本格的な修辞学的研究と いうことになる。
使徒言行録の修辞学的研究(1)
この研究と従来の研究との相違は,説教がなされた修辞的状況を重視し, こ の状況との関わりにおいて議論法の特色を分析しているところである。具体的 に言えば,修辞学的釈義の視点からすると,神殿においてユダヤ人聴衆に対し てなされたということが, この説教の内容と論旨の進め方に決定的に重要な影 響を与えている。ペトロの説教はユダヤの宗教的・政治的中心である神殿でな され,全イスラエルへの悔い改めを勧める性格を持っている (特に使3: 12, 19)。さらに,聴衆はすべてユダヤ人たちであるので,彼らの持っているメシア 待望と接点を持ち(ルカ3: 15; 20: 41; 23: 2,35,39),それと対決する形でイ エスが受難のメシアであるということが提示され,論証された(使3: 18)。し かも,受難のメシアという主題は,ルカ福音書中の受難予告(ルカ9: 21‑22,44;
17: 5; 18: 31‑34)や受難・復活物語(24: 26,46),使徒言行録中に配されて いるユダヤ人向け説教を貫く重要性を持っている (使2: 31,36,38; 3: 18, 20)89.神殿説教の修辞学的な釈義は,ルカ文書における受難のメシア論の重要 性の認識をもたらしたのであった。
(4) コルネリウス家でのペトロの説教は,使徒言行録における異邦人向けの 伝道説教としては最初のものである (使14: 1517; 17: 22‑31を参照)。演説 という点からすると, これは基本的には助言的言説であるが,回心の勧めが語 られる以前に聴衆に聖霊が下ったために,演説が中断するという特殊な事態が 生じている(使10: 44)。聖霊の降臨は,異邦人に対して福音の宣教をすること の正当性を立証すると共に,異邦人が回心してキリスト者となることが出来る 現実的可能性を示し,以後の物語の中で展開される異邦人へ宣教活動の物語を 準備している。
この演説が神を畏れる異邦人に対する伝道説教である修辞的状況は, この演 説が用いる議論の方法に影響を与え,キリストの復活という超自然的事実や(使 10: 41‑42)旧約預言者の証言が(使10: 43)論証手段として用いられている。
このことは修辞的状況と演説が用いる議論の相関関係の深さを示している90.