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南方熊楠と柳田国男

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(1)

南方熊楠と柳田国男 神社合祀問題をめぐって その一︑﹃南方二書﹄刊行まで

一 ︑

発 端

﹁山神オコゼ魚を好むということ﹂︵﹃東京人類学会雑誌﹄二九九号︑一九一

みて︑柳田国男が兄事の気持ちをこめた有名な手紙を熊楠に送ったのは一九一

芳   賀   直   哉

一年二月︶と題された南方熊楠の論文を

一年三月十九日のことである︒これが両

者の文通の発端であったが︑それより以前から︑互いに相手の名前と存在は知っていた︒これを示す両者の証言がある︒

柳田﹁これ︵﹃石神問答﹄︶を坪井正五郎博士にお贈りしたところ︑人類学会の方々へ紹介して下さった︒その中に紀

州田辺の南方熊楠氏へも贈るようにとすすめられ⁝⁝⊥︵﹃故郷七十年﹄︶

南方﹁小生合祀反対のことにて未決監に入監中︑貴下の﹃石神問答﹄さし入れもらい︑監中にて初めて読み申し候︒

また﹃遠野物語﹄はその後一読致し候﹂︵一九二年三月二十六日付柳田宛書簡︶

﹃石神問答﹄出版は一九一〇年五月︑﹃遠野物語﹄は同年六月であり︑熊楠の入監は八月であるから︑交渉のはじまる半

▲■

(2)

年以上前から互いに知ってはいたということになる︒柳田にしてみれば︑いかなる人物かは定かでないが︵もっとも︑

人類学会の知友より多少の情報はもっていたかも知れない︶︑自著を読んでくれて︑その上︑そこから引用までしてくれ

ている南方熊楠というひとが︑この度は﹁山神とオコゼ﹂に関する論文を書いているのをみて︑是非とも文通による教

示を願おうと思っても不思議ではない︒じつさい︑かれは﹁欣喜禁ずる能わず﹂とか﹁平日深く欽仰の情を懐きあり﹂

など最大級の賛辞をつらねて ﹁突然ながら一書拝呈﹂ におよんだのである︒

一方︑熊楠は前年夏の入監事件に動ずるどころか︑ますます合祀反対活動に力を入れ︑中央であれ地方であれ︑ある

いは外国であれ︑いくらかでも世論公道に対し影響をもつ人物に向けて合祀の非道を訴え︑ことの不真理を広く知らし

めたいと考えていたから︑柳田の登場は熊楠にとっても大きな意味をもつものとなった︒熊楠は︑中央の知識人を動か

し有力な援軍を得るべく︑チヤツカリと柳田に紹介の労と助力をうったえているし︑柳田も︑とまどいながらかれので

きる範囲でよくこれに応えたと言える︒

二︑合祀をめぐって

柳田第一信に対する返事のなかで︑熊楠は︑﹃一九〇九年秋より合祀反対にたち︑集めた材料を中村啓次郎代議士に託

して帝国議会において内相に二度質問をしてもらった︒かくして全国的にはほとんど中止となったが︑和歌山県では役

人神職らが自分のことを憎み︑おかげで十八日間ものあいだ監獄に入れられたが無罪となった︒長年坐ったままの研究

生活のゆえに足がおもわしくなく︑また身体の具合も悪い︒今年もまた議会で一層詳細なる調査に基づいた質問をさせ

ようとしたが︑その機会はなかった︒せっかく調べたものだから︑何とか用だてたい︒﹄と語り︑次のように記す︒

(3)

﹁貴下︑なにか然るべき新聞︑雑誌等へ︑右小生の議論の一部を御紹介下さるまじきや︒小生の調書はなかなかの長

文なれば︑貴下な︒誰なり︑その重要の点を選抜し出して下されたく候︒﹂︵一九=年三月二十一日付柳田宛書簡︶

いきなりこうである︒返事をもらって喜んだ柳田もさぞ驚いたのではないだろうか︒しかし︑柳田の第二信は︑熊楠

﹁神社合併過度のことにつき御熱心なる御抗議有之候ことは︑木下友三郎君よ︒承︒及びお︒候︒御意見書内相に御

示しなされ候とも︑よみ申さざるべきか︒それよりもぜひ御公表有之べく︑小生紹介の労は辞するところにあらず候

も︑永くともそのまま御出しなされ候よう願いたく︑その掲載に関する紹介はいかほどにも力め申すべく候︒﹂

ママ

︵同年三月二十三日付南方宛書簡︶

右の返書に力をえてすぐさま書かれた熊楠第二信は︑柳田の援助快諾に対する礼とともに︑﹃石神問答﹄﹃遠野物語﹄

についての既述のような経緯を告げ︑あわせて︑両書に関して所々に詳細な注釈を記しておいた旨を知らせるものであっ

た︒現に︑﹁詳細な注釈﹂のいくつかを抜き書きして添えている︒こうした懇切→寧な手紙をもらった柳田が︑逆に大い

に恐縮し喜び︑また畏れもしたであろうことは想像に難くない︒

能稿は長文の手紙のなかで︑合祀の具体的事例のいくつか︵例えば五月二十五日付書簡には︑父親の生まれ故郷に鎮

座する大山神社や那智山林︑田辺より熊野本宮大社に至る中辺路に点在する神社群にふれている︶を報告するばかりか︑

自分の反対意見が載った新聞を同封して送った︒した︒こうしたことをうけて︑柳田は六月十四日付第五信で次のよう

に 応

℃ て

い る

﹁御意見書は決して御節約に及ばず︑なるべく多くの材料を御具え給わるべく︑徳川候に取り次ぐは最も易々たるの

みならず︑訃計掛かか獣敵手猷敵い世か掛レかぐ掛︒一日も早く拝見仕りたく候︒﹃牟婁新報﹄のは近来稀観の快

(4)

文字︑熱心拝詞の上切抜き保存仕るべく︑この後は御不用の分何新聞雑誌にても皆給わりたく候︒ 中略

くはこれからの生涯を捧げて先生の好感化力の

︵ 同

年 六

月 十

四 日

付 南

方 宛

書 簡

︒ 傍

点 ︑

芳 賀

▲ ヽ

伝送機たらんと存じおり候︒﹂

柳田もずい分思いきったことを言ったものである︒傍点を付した二箇所のうち出版の方はこの後間もなく﹃南方二書﹄

が私家版として五十部製作され識者に配られた︒これは︑当時東京帝国大学植物学教授松村任三に宛てて書かれた二通

の長大な書簡を柳田が費用を出して小冊子に作らせたものである︒熊楠は︑中央の学者知識人らに書簡の形で合祀反対

意見を書くと︑それらを柳田に託して当人にわたるよう依頼することが多かった︒﹃南方二書﹄も右のような経緯で成っ

た合祀反対論であるが︑柳田は熊楠の意向を容れながらも自分の判断で然るべき人物に配布したのである︒送った相手

は︑旧紀州藩徳川家当主の徳川頼倫侯爵︑宮部金吾や白井光太郎ら大学関係者︑政府機関の大臣・次官のほか︑めずら

しいところでは森林太郎の名もみえる︒この小冊子の反響はどうだったかといえば︑当座はほとんど手ごたえなしの状

態だったことが次の十月十三日付の柳田の手紙からうかがえる︒

﹁﹃南方二書﹄五十部︑一冊をとどめ他は皆配本す︒−中略− 受取のはがきをよこさぬはまず官吏のみなり︒官吏に

はかかる悪癖あり︒他日人のさわぐにつけて思い出し︑またよむなり︑中には拙者に折々逢う故にその折に何かいわ

んと思い︑やがて忘れてしまうものあり︒役人に今少し物を思うひまを与えてやりたきものなり︒また単にありがと

うといい︑面白かったなどいう者あり︑返事の来ぬのよりなお心細し︒﹂ ︵同年十月十三日南方宛書簡︶

さて︑もう一方の決意﹁生涯を捧げて先生の好感化力の一伝送機たらん﹂は︑一場の社交辞令となってしまったこと

が今日の私達にはわかっている︒熊楠の﹁弁舌悪謹﹂が往々にして﹁度が過ぎ﹂︑己れは溜飲がさがっても相手の憎しみ

をますますかう式のけんか説法では問題の解決はおぼつかない︑特に相手が官吏の場合はなおさらであると︑官吏であ

(5)

る柳田は考えた︒この想いははじめから柳田の心にはあった︒とまどいつつも圧倒されていた柳田も︑次第に距離をお

いて熊楠をみるようになる︒民俗学上の方法・関心ばかりでなく︑神社合祀反対活動に対してもだんだん﹁ついていけ

なく﹂なるのである︒しかし︑対立が表面化するのはもう少し後である︒この時点では先の﹁生涯を捧げて⁝⁝⁝﹂は 柳田の本心であったろう︒

話をもとにもどそう︒六月十四日付書簡にみるような厚情あふれる申し出を遠慮するような熊楠ではないから︑かれ

は直ちに返事を書き︑柳田の要望どおり新聞掲載の反対意見を送っている︒

﹁拝啓︒御状拝見︒御望みに任せ︑﹃牟婁新報﹄のうち満足に話のつづきあり候分のみ昨夜撰出し︑三十一枚︑新聞郵 便一封として差し上げ候︒﹂︵同年六月十八日柳田宛書簡︶

この返事のなかで熊楠は︑地元田辺の闘鶏神社︵かれの妻の父はこの神社の神官︶境内の古樺が老朽木として代探さ

れそうになり︑自分が抗議して取り止めにさせた旨報告しているが︑続けて︑老朽と偽って伐木させようとした張本人

が﹁昨夜にわかに心臓症を発し危篤となりしも︑命はとりとめたが中風となった﹂と述べ︑﹁神罰﹂に言及している︒

﹁神罰などいうこと︑あるかなきか知れず︒しかし︑あるとしても差し問えなき限りは︑あまりに迷信迷信迷信と神

木を伐ることをまで恐れぬように世間を開け切らしむるも如何なるべきやと疑われ申し候︒−中略1小生ごとき神仏

を拝せず科学のみ修め来たりしものが︑反って古いことをさえずり一種の御幣をかつぎまわり︑神で糊口をする神官︑

詞職︑宮世話人︑氏子総代等が一切神を怖るるを迷信と卑暫する︑さかさまの世と相成りたるに候︒﹂︵同右︶

熊楠が﹁神罰﹂を本気で信じていたか疑問だが︑そのかれが︑合祀に乗じて悪事をなそうとした者たちが或いは横死

をとげ或いは病いにとりつかれるなどの﹁因果応報﹂譜を︑克明に記していることもまた事実である︒

熊楠の﹁送り物﹂を受けとって︑柳田の方も短く﹁エール﹂を再び送り返す︒

(6)

l ▲

′\

﹁新聞二括拝受︒昨夕はこれを拝読し︑かつ頂戴せしものと速断して切抜帖を作り申し候︒御了承下されたく候︒こ

の後も御稿掲載の分は直接御送付を煩わしたく︑毛利氏へ御話し置き下されたく候︒﹂︵同年六月二十一日付南方宛書

簡︶

三︑大樟樹保存及び神島保護に関して

﹁音にきく熊野檎樟日の大神も柳の蔭を頼むばかりぞ︒﹂

六月二十六日付の柳田宛手紙の末尾に記して送った熊楠の﹁和歌﹂である︒いつもは﹁ざれごとうた﹂を物するかれ

が︑今回ばかりは大真面目である︒これには理由がある︒文通開始より柳田は熊楠の合祀反対活動に大へん好意的に対

応しようとしている︒意見書を取りつぐ役割も快くひきうけ︑出版まで世話すると言ってくれた︒能稿は柳田のお蔭を

大いにこおむっているが︑問題は次から次へと出てくる︒この度も三重県阿田和の引作神社にある樺の大木が伐られよ

ぅとしているとの情報がはいり︑熊楠はこれを何とか保存できるよう地元で奔走するが︑また柳田に助力を申し入れ︑

中央より手をまわして有効策を打ってもらうよう頼むのである︒例の﹁うた﹂にはそんな想いが直裁的に出ているので

ある︒大樟樹のことを記した手紙に答えるかたちで︑柳田は短く次のように応じている︒

﹁阿多和の楠については小生能う限りの心配を致し候も︑なおそれにても中止の形勢なくばさらに運動致すべく︑御

注意なしおられたく候︒﹂︵同年七月二日付南方宛書簡︶

何が効を奏したかわからないが︑この後一カ月余りのちの手紙で︑幸いに大樺は知事によって伐木さし止めとなって

村民らが礼に来た旨を熊楠は報告している︒しかし他方では︑﹁一大危急の厄難﹂が起こったと特記し︑田辺湾に浮かぶ

(7)

神島の濫伐問題が新たに生じたことにつき詳しく述べる︒神島は熊楠には特別の関わりがある島となるが︑この時は﹁下

草をとると称し伐木しょうとした﹂ため︑熊楠はいき︒たったのである︒その前年も同じ濫伐の危機があったが︑知事

へ具申して取り止めさせていたのがここにきて再びもち1がったのであった︒この島には﹁鸞珠﹂という珍しい木があ

り︑その他﹁実に世界に奇特希有のものが多く﹂あるから︑是非とも天然自然のままの状態で保護しなければならない

というのが︑熊楠の一貫した考えであった︒そこでかれは次のように述べる︒

﹁昨今各国競うて研究発表する植物棲態学ec0−Ogyを︑熊野で見るべき非常の好模範島なるに︑わずかに三百円ぐらい

でこの島の下草︵実は下木︶を除き去り︑おいおい例の枯損木を生ずること︑上野公園の老杉林のごとく︑終にこの

千古斧を入れざりし樹林が滅絶して︑十年︑二十年後に全く禿山となりおわらんこと︑かなしむにあまりあり︒﹂︵八

月六日付柳田宛書簡︶

熊楠は︑神島の生態系がこわされ珍草木が絶滅することに危機感を抱いていた様子が︑書簡の内容からよくわかる︒

いつも頼む中村代議士は不在︑多くの人々は無関心であるなか︑熊楠にとって柳田の存在がいかに頼もしく映ったこと

か︒同じ手紙のなかでくりかえし繰返し﹁尽力﹂﹁お世話﹂﹁御奔走﹂を柳田に依頼している︒

﹁まことに毎々御苦労ながら︑貴下︑−中略−何とか御奮発の1︑右神島を当分な︒とも保安林また植物保護林とす

るよう︑御世話さっそく下さらずや︒﹂︵同︶

﹁前日の南牟婁郡の大樺などとてもものにならぬと思いおれども︑貴下の御世話にて物になりたるなれば︑何とぞ渋

筆御察読の上︑何様にも御世話願いたきことに候なり︒﹂︵同︶

﹁とにかく昨今急を要する場合ゆえ︑何分にも御奔走︑もし果たして保安林となり得ば︑小生安心のため電報︵一字

に て

︶ 下

さ れ

た く

候 ﹂

  ︵

同 ︶

いかよう

(8)

﹁小生は右のこと心配にて︑衆の耳目みな小生に集まりおり︑何も手につかず罷りあり候間︑何とぞさっそく御奔走

願 い

上 げ

候 ︒

﹂  

︵ 同

この﹁八月六日夜二時﹂に書かれた書簡は全文まさに哀願の手紙である︒熊楠がここまで腰を低くして何回もひとに

依頼する書簡は︑他の柳田宛はもとより別の人に宛てた手紙類のなかにも見あたらない︒熊楠は神島保護に余程傾注し

ていたのであろう︒しかも︑ことは急を要していた︒

熊楠の哀願に対し︑柳田はすぐに返書をしたためているが︑内容は割に﹁そっけない﹂ものである︒﹃事情はさっそく

山林局長の耳に入れますが︑中央より手をまわすことは面倒で︑いかにも穏やかでない﹄といったものである︒そして︑

﹃先生は何でも私の手柄のように思ってくれるが︑例えば大樟保存の件は知事が人物で当事者の意見を聞き容れてくれ

た結果であって︑私の勢力が及んだわけではないのです︒私の力を過大評価されては困ります﹄とでも言いたい口ぶり

の返事である︒もっとも︑柳田にすればあまりかいかぶられても本心こまるわけで︑﹁お前の力で早急に保安林指定をさ

せろ﹂と言われても︑行政のしくみを知る官僚である柳田はああ答えるほか仕方なかったとも言える︒たしかに︑熊楠

は相手の立場とか思惑迷惑など掛酌するような質ではなく︑勝手な思い込みで行動するから︑ついつい常識を外れる︒

しかし︑期待していただけに返事の内容には失望したにちがいない︒加えて︑柳田の返事には﹁何とかその地にて方法

をめぐらし給うべく候﹂とあった︒返書を見て熊楠もすぐさま応答の手紙を書いた︒﹁地方のことは地方で﹂はもっとも

なことであるが︑そこは在野学者のかなしさで︑柳田のように影響力のある人物が熊楠の近くには居なかったとみえる︒

﹃牟婁新報﹄社主の毛利とは日頃つき合いがあるが︑この時の書状にはかれのことを良く言っていない︒

﹁この毛利氏は大逆事件の調査中にも出でたるごとく注意人物にて︑ことには知事︑相良とは大敵なれば︑ピーなる

ことか分からず︒

中略 何ともならぬ坊主上りなり︒故に︑まずこんな人の言論は当県庁へは通らず︒

(9)

略−小生はその人を蔑卑し︑近ごろあまり親交せず︒﹂︵八月十二日付柳田宛書簡︶

毛利ではあてにならないので︑再考してくれて何とか骨を折ってほしい旨述べたあとで︑自分が直接交渉をすれば前

後見境をなくし暴力ざたにならないともかざらないと︑いつもの癖が出てずい分誇張して次のように書いている︒

﹁小生は深山を夜行したり︑無銭で外国を行ったり︑戦場を見物に行ったり︑そんなことには実に沈勇おびただしき

が︑前世の薫習にや︑墳細の人物が肝をなすを見れば︑業火直1三千丈で︑いきなり数百人ある中へ乱入したり︑頭

⁚ ∵

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ハ ∵

工 ︑

l 工

− 針

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︑ 不

慮 の

禍 を

招 き

︑ 半

年 や

七 カ

月 全

く 学

をなぐったり︑また膜腕組の人足を率い警察と市街戦をやっ

を中止すること多きはこまったものなり︒﹂︵同︒傍点芳賀︶

﹁警察と市街戦﹂とは穏やかではないが︑こうした類いの﹁筆のいきおい﹂は能稿の場合めずらしいことではない︒

神島のことを余程気に掛けていたのであろう︒この便にても再々保存方依頼をしている︒これに対する柳田の次便は︑

﹁名を下草刈取りに仮りて樹木を取らば︑これ命令の違反なれば︑警察の力にてこれを罰するの外さしあた呈段なし﹂

との文句ではじまるものであり︑その末尾は次のように結ばれている︒

﹁この手紙は田辺警察署長に御見せ下され候ても差支え無之候︒緊急の防止は致底警察官の力に依るの他なく候ゆえ︑

十分辞を低くして協力を御求めなさるべく候︒﹂︵いずれも八月九日付南方宛書簡︒傍点芳賀︶

警察と市街戦をやらかそうという相手に向かって︑頭をさげて警察に頼めと言っているのであるから︑受けとった熊

楠は﹁カチン﹂ときた︒生来の﹁役人嫌い︑官学軽蔑﹂の虫がむくむくと頭をもたげる︒熊楠に言わせれば︑警察など

というものは事大主義︑ことなかれ主義で︑﹁郡長などいうものを慣り︑なかなか手が及ばず﹂︑人民には過酷に権勢に

は甘いのが実状である1この点︑昔も今も変わらない−︒熊楠はまた返す刀で官学の徒を切る︒

﹁官学の徒は︑例の通り高山植物など比較的不急のことに手を出しながら︑直接当国ごとき神社合祀︑神森乱減を耳

(10)

一〇

が酸くなるほど聞きながら︑何もこれに言い及ぼさず︑実に困ったことに候︒﹂︵八月十二日付柳田宛書簡︶

余りに執拗かつ早急なる要望に︑柳田も困惑したことだろう︒また︑右にみたような︑柳田に言わせれば偏見にみち

た官学嫌い︑権力憎悪に対しても快く思わなかったろう︒しかし︑そうした不快の念や困億の情を見せることなく︑柳

田 は

や ん

わ り

と  

﹁ 忠

告 ﹂

  す

る ︒

﹁この後も小生及ぶだけは尽力仕るべく候につき︑一半御地榔何とぞ学問のためその御精力を利用なし下されたく候︒

もしこれがため︑盛年を消耗し給うがごときことあらば︑その情愛すべきこと決して神島の霊木の比に

あらず候︒ − 中略

箇々の問題で修羅を焼し給うはいかにも精力の不経済に候︒﹂ ︵八月十四日付南方宛書簡︶

神島保護や神社合祀反対活動より熊楠の研究の方が貴重であるとは︑この時期の柳田の本音であったろう︒しかし︑

熊楠はこうした比較法自体に不満である︒このあたりから両者の間に溝が生じてくる︒合祀そのものに関する見解の対

立ではなく︑反対活動にどうかかわっていくかの主体的なスタンスの問題で違和感を互いにもつようになる︒対立の直

接の原因は﹁民俗学の方法論と対象﹂についての考え方の相違であるが︑両者ともにそれ以前から﹁しっくりいかない﹂

という想いを抱いていたのではないだろうか︒しかし︑違和感と見解の対立が顕在化していくのは﹃南方二書﹄刊行後

のことである︒

熊楠と柳田との文通は三月にはじまったが︑その年の終わりまで僅か八カ月間におびただしい分量の書簡がやりとり

された︒ことに熊楠の書いた字数は柳田のそれに十数倍する︒前半の五カ月間の交渉を跡づけたわけだが︑後半の﹃南

方二書﹄刊行後も合祀をめぐる書簡のやりとりは続くし︑取り上げられ報告される件数も増してくる︒わずか一年足ら

ずの間に書いた分量としては︑この時期の柳田宛書簡はまったく特別である︒熊楠が生涯を通じ多方面のさまざまな人

(11)

物と文通したことは周知のとおりであるが︑短期間にこれ程多量の手紙をやりとりしている例は他にない︒なぜか︒ひ

とつには︑当時︑熊楠の関心がひとつの問題︵合祀問題︶に集中していたこと︑もうひとつは︑この間題に関してまた

とない協力者になってもらえそうな柳田国男という存在が能稿のまえに現われたということが︑理由である︒この二点

を抜きにしては考えられないと思う︒

熊楠という﹁縛られた巨人﹂1この実に適切な表現は柳田が与えているーとガップリ四つに組んだ柳田にとって

も︑このときの体験は実に骨の折れた大変なことだったのだろう︒このとき柳田は末だ内閣法制局の官吏であったから︑

手紙の返事を書く時間にも制約があったろうに︑よくぞここまでと思うほどに律義に対応している︒熊楠は豪放嘉落な

性格の反面︑せっかちで堪え性がないところがある︒そのことをよく示す一事が︑自分がすぐ返事を書くように︑同じ ことを相手に要求することで︑文通する相手が誰でも口やかましくそのことを言っている︒柳田との文通もはじめの頃

はほとんど三日間隔で手紙がやりとりされている︒

二人の書簡の応答を調べてみて︑おもしろいことに気づいた︒それは既に指摘したが︑熊楠はしきりに︑合祀推進派

の人物が﹁神罰﹂﹁崇り﹂にあったと平然と述べている点である︒かれは︑帰国して那智にいた頃に幽霊を見るなどの超

自然的現象を本気になって研究し︑自身も体験したと後で述べているくらいだから︑﹁神罰云々﹂についても大真面目に

語っている︒わたしが面白いと思ったのは︑こうした熊楠の﹁神罰讃﹂を柳田が全く真にうけなかったということであ

る︒この話題だけは柳田によって無視されている︒合理主義者柳田は︑嬉し気に報告される﹁神罰の実例﹂をどういう

想いで読んでいたのだろうか︒

(12)

③②①

注 柳田国男﹃故郷七十年﹄筑摩柳田全集別巻三︑三五四頁︒

南方熊楠選集別巻﹃柳田国男・南方熊楠往復書簡﹄九頁︒平凡社︒

熊楠が一九一〇年に執筆した﹁本邦における動物崇拝﹂追加︑及び﹁馬頭神について﹂には︑柳田の﹃石神問答﹄﹃遠野物語﹄から

の引

用が

みら

れる

︒︵

上掲

﹃往

復書

簡﹄

五頁

の解

説参

照︶

④ ﹃往復書簡﹄七頁︒以下の注は全て同書の引用頁数のみ記す︒

⑤ 八頁︒⑥ 四六−四七頁︒⑦一二九−一三〇頁︒⑧ 四九頁︒⑨ 五〇頁︒

⑭⑮⑯ 六二頁︒⑰ 六四頁︒⑱ 六五頁︒⑩ 引用文二箇所とも六八頁︒⑳ ⑩ 五一頁︒⑪ 五七頁︒⑫⑬ 六一頁︒

六九

頁︒

 ⑳

 七

二頁

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