〔資 料〕
わが国会計士制度の由来
鈴 木 勝 美
Ⅰほ し め に
もう10年以上も前のことである。他の研究目的のために雑誌を調べているうちに,つぎ
(1)
のような座談会の記事が目にとまった。
太田 日椿事件は明治何年ですか。
岡田 四十二年です。余程それ(※日糖事件のマクドナルドの発言)が又刺戟したろう と思うのです。
木村 四十二年に,そのために東京帝大に.商業学科が法科の申に設けられた。
岡田 あのマクドナルドというやつが憤概してね,株主総会へ行っで‥1だいぶ持って おったそうだ。「お前の国は野蛮国だからいかん。おれの国はアカクソタントとい
うものがあって,会社なんかちゃんと調べて,こういうこ.とは絶対に.ない」とい って,それがだいぶ実業家の頭にも,学者の頭にも,来たらしい。
このような談謂の内容から,明治42年に発生した大日本製糖事件なるものが,東京帝国 大学の法科の中に商業学科を創設せしめたことはもとより,さらに,その事件の影響によ
っ■て,わが国の会計士制度もまた設けられるにいたったのではないか,ということを,想 定しうるようにも思われる。そして,そこからまた,そのように考えることによって日糖 事件そのものがどのようなものであったかに興味が挽いて−くると同時紅,それが,想定し
たように・,果してわが国会計士制度創設の直接の端緒となりえたのであろうか,また,そ
の背景およびその会計士制度創設への影響の過程はどのようなものであったか,など,つ ぎつぎ革浮びあがってくる問題のために,関心は次第に.高まって‥いった。
そのようなわけで,本来の研究方向からすれば多少横道へそれること紅なりはしたが,
し1)「日本会計学の揺藍期を語る」太田哲三(司会)・岩田巌・岡田誠一‥木村禎橘・村
瀬玄 企業会計第4巻13耽(昭和27年)。なお,マクドナルド氏は,当時の英国大使で あり,大日本製糖株式会社の前途を嘱望してかなりの私財を投資していたもののよう である。
寛47巻 寛4・5・6弓 646 ー362一
これらの関心に従って資料を集めることにした。その結果,集めえた資料から,自分自身 ある程度まで,それら紅ついて納得することができるような気持になったのである。この ことは,もう10年以上も前のことである。ノそれを,今日紀要るまで発表しないままでいた
のは,主として次のような理由によるものである。すなわち,それほ,第1紅,発表する に.してほ,収集した資料に不満足な点があるため,後日その完全を期したいと考え.ていた こと,第2に.,しかも,調査しようとした問題が,当時私が行なっていた研究分野とは関 係が蒔かったため,当時としても,不充分と思われる点をさらに究明して小る余祐がなか
ったこと,の2点である。しかし,最近機会があって,集めた資料を見直してみると,当 時は綿密軋結びついていると考えられた資料相互がバラバラであるようにも思われ,この ように.発表しないでいることが,かえっで気掛に思われてきたのである。もとノより,かな
りの年月が超過したために,かえってそれら資料をより各観的に見ることができるように なったためもあるであろう。しかしそれよりも,当時は気付かなかったことであるが,こ れら資料のほかに私の免憶上に.残されたプラス・アルファなるものがあり,それが少しづ
つそこから消えつつあるように思われてきたのである。また,私の研究分野にしても,当 時と同じように.,今後もそのような問題の究明と直接的な関係をもってくることは考えら
れそうに.ない。まして現住地は,地域的にこのような資料を・収集するにしては比較的不便 であるので,以前に.もましてそれに.あてる労力も多大となるであろう。このようなわけで,
←方では,これ以上の気憶消失紅対する危惧のため紅,他方では,このさいまとめておく ことによって間接的に.は私自身の後日の役に立つこともあろうかと考えて,現在補足可能 なものは補足するに・してもより完全を期す機会は後日に譲って,ここ・隼一応発表しておく ことに.したのである。
ⅠⅠ大日本製糖事件
すでにあげた座談会狂おける談話紅よれば,いわゆる日糖事件紅おけるマクドナルド氏 の発言が,わが国会封士制度の創設に関して−も,かなりの影響を及ぼしたであろうこと ほ,容易匿.推測しうるところ・塵ある。ただ,事件はまた,その時代の特質を反映するもの ともいえる。したがっで,まずほじめ把,事件の経済的背景を明らかにしておく、ことにし たい。
\
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2.1経済的背景
維新以来,明治時代において起業熱が盛んであった時期ほ4度を数えるといわれる。す なわら,第1回目の起業熱が西南戦役前後に生じ,ついで明治19年の紙幣整理の実行を近 因として端を発したのが第2回目の起業熟の時期であり,さらに,日清戦争(明治27・8年)
ならびに日露戦争(明治37・8年)を因とする第3回・第4回目の起業熟の時期が続くわ けである。これら起業熟の時期の後には,必ず会社の倒産ないし不始末が頻発し,いずれ
(2)
の時期においても,その主役ほ株式会社であった。とくに日清戦争および日露戦争に.関連
(2)明治時代において起業熟と倒産が盛んであった第1,第2,策3回の時期の事情に ついては,妃林百合松「本邦合社制度ノ顔連(其ニ)(其三)」国民経済雑誌第十五巻
第四能,第五眈(大正2年),を参属されたい。第4回目については,これから述、べ・
ようとする日糖事件に.も関連するので,その当時の事情を多少なりともここでふれて おくことに.したい。
日清戦争後の起業熟によって■,いわゆる金融逼迫の時代が出現し,従ってまた会社 の倒産も続出するに/いたったという苦い経験から,その後の産業界に.おいては堅実経 営の方針が一般に/尊重されることになり,また資本家逮も極めて慎重な態度で事にあ たることとなった。そのために,日露戦争(明治37・8年)の戦勝によって大きな利 権を獲得したにもかかわらず,それが,日清戦争当時のような起業熟とはす−ぐに・は結 びつくことがなかった。ところが,「賠償金と四同紅亙る外債募集の残金と,この期に いたり活瀞となった外資導入等によって国内に資金がだぶつき,金融は益々緩漫とな り,金利は下落の−・途をたどるにいたった明治三九年も下期にいたって」(慶應義塾 大寧経済学愈編「日本における種臍轡の百年 下巻」日本評論新社,昭和34年,532−
3頁),「満鉄の創立と株式募集を一つの契機として俄後押えに押えられていた投機熱,
企業熟は−・時に爆発」(野田−・大著「日本会社史 明治編」又塾春秋,昭和41年,267 頁)し,第4回目の起業熱が再現するのである。すなわち,「企業の新設,拡張が続々
計画されると,それぞれは,この嵐の申では実体以上の影像を投資家に与え,人々は 争って株式を買い求め,株価はいたずらに暴騰していった。明治三十九年五.月から上 げに鹿じた株価は秋とろから奔騰につぐ奔騰で,明治四十年−・月のピ−・ク時まで八カ 月間紅,たとえば大阪株式相場ほ何と六倍以上に暴騰した。」(上掲苔「日本会社史」
271貢)のである。
ところが,このような好景気も,明治39年を頂点として,以後「企業の濫興と,軍 資の桃大,その他の歳出の増加は直ちに物償を魔員せしめ,それが輸入の激増を招」
(上掲番「日本における経済学の百年」534−5京)くことになったので,政府は「財
政緊縮,橡算の緊縮,税制の整備」(同上書,同真)を行ない,それにともなって景 気も下降し,株価もまた明治40年1月20日を境として暴落することとなった。そして
さらに,これに.追い討ちをかけるように.,明治40年10月のニュ−ヨ−ク市場の影響を 受けてわが国の輸出品の市価は暴落し,当時の輸出最重要部門であった繊維工業も大
\きな打撃を受けることとなった。こうして,その後明治43年頓に・なってようやく景気 の立ち直りがみられるまで,わが国の経済は深刻な恐慌に見舞われることになるので ある。
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・−β64一叫
して−松波仁一都民(東京法科大学教授)はつぎのように述べている。すなわち「今ヤ我国 ハ株式禽社全盛ノ時代ナリ日柄戦役後二最モ多ク勃興レタルモノハ株式愈社エンデ磯イデ
来リレ恐慌時代二最モ多ク禍害ヲ馬レタルモノノ\株式愈社デリ日露戦争後二点モ多ク勃興
レタルハ株式倉社ニシテ頼イデ来リレ不景気時代二鹿モ多クノ影響ヲ感汐クルモノ亦株式
(3)
合社ナリ.」と。そして,これら反動期のうち,とくに4回目の「日露戦争後の恐慌期ほ,
(4)
別にわが国産業絆済男の整理期といわれている程に陶汰の過程が激甚で」あった。当時,
大会社といわれた株式会社の中からも,その不始末がつぎつぎに暴露されていた点に,こ の期の特徴をみいだす・ことができよう。いわば,明治時代最大の産業動乱期において,こ
れまで急成長してきた株式会社の矛盾が,会社の不始末という表現をもって,具体的に社 会問題として指摘されるようになった時期であり,それを象徴すろものが,これから述べ
ようとする大日本製糖株式会社事件であったと考え・年れる。
2.2 日糖事件の内容
大日本製糖株式会社の不始末を当時の人はとくに日糖事件と称した。このこ.とほ,同じ ように日露戦争後の不況期を背景とし,それと相前後して生じた東京鉄道会社,大日本麦 酒会社,日本製満会社,大日本水産会社などの大会社の不始末よりも,それが,社会的に より大きな問題を投げかけたことを意味する。すなわち,大日本製糖株式会社は,当時の わが国経済界の代表者たる浪揮発叫・氏を相談役に.,そして元農務局長たる酒匂常明博士を 社長に,いわゆる名士を頭にいただき,しかも会社ほ成長産業として世人紅属望されなが
ら大欠損を生じたのみにとどまらず,代議士数十名を含む贈賄事件にまで発展し,さらに そのことが,当時の女子供の末にいたるまで知れわたったと云われるほど社会に.周知され
た点,他の会社の事情と異なるものがあったのである。
大日本製糖株式会社は,明治29年1月,日本精製糖株式会社と秘し,東京市外小名木川畔 に資本金30万円をもって設立された。その後その資本金は同年6月には60万円,32年3月 紅ほ200プラ円,38年にほ資本金400万円,払込資本金300万円,積立金80万円となった。そし てざらに.,明治39年11月に大阪の日本精糖株式会社を合併して資本金を一腰1,200万円に
(5)
増額し,同時に.社名を大日本製糖株式会社と改めるに至っている。したがって,不始末を
(3)「株式会社ノ敬遠及ビ立法」園民経済雑誌第七巻第二儲(明治42年8月)。
(4)前掲審「日本における経済串の百年 下巻」539賞。
(5)「日糖六十五年史」大日本製糖株式会社,昭35年,6−8支参照。
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曝露した明治42年1月では,資本金1,200フラ円,払込資本750プラ円の大会社に・なっており,
その精糖恩は当時の精糖業界の3分の2を占めていたといわれる。
このように.,成長会社であったと同時にり 将来もまた成鳥会社であることを誰れしも認 めていた大日本製糖株式会社が,それまで1割5分の配当を続けていたに.もかかわらず明 治42年1月にいたって,突如として払込資本の4割に.も当る約300万円の欠損金を計上する
こととなったのである。このような明治42年の1月にはいると,そ・の原因に・関する内情
(6)
は,当時の新聞に.おいても盛んにとりあげられるようになっているが,とく軋つぎのような
(7)
実業之世界結社長野依秀帽一・氏と大日本製糖株式会社専務取締役磯村音介氏との対談ほ,欠 損金を計上するにいたる経理の杜撰さがはっきり表現されている点興味深いものがある。
野依「ソレからアノ八十薗凶の違算と言ふのは,、r一層どうしたのですか。」
磯村「アレは君,昨年の下半期の時に,上半期まで一一倒五分配苫し得る様虹儲けて居 たものが,計算係のカで,下半期になって.,僅か十萬回しか利益がないと言ふから,
ソンな馬鹿な事は尤い。今グヅグッ言って居ると総合が開けぬから,一旬五分に・な る様に計算せして.置けと言ったのだ。と言ふと如何に・も乱暴の様紅聞えるけれ共其 の賓決してノウではない。果せる哉十二箇月間調べて見た所,商品の償梅見積り遥 ひの薦めに,六十鵠囲も出たと言ふのだ。」
野依「随分乱暴な詣ですね。ソノ帳簿の誤魔化しほ,岩と食倒の人より外何人も知 らんのですか。」
(6)たとえば,明治42年1月12日何の「時事新報」の「時事小言」欄に・ほ,「近頃暫業 界に忌ほしき事件が縛敬するのは誠に悲しむ可きことである。其中でも東京鉄道と大
日本製糖とは.不始末合社の南本山である。」(ふりがな省略,以下も同じ)という文章 で始まって,大日本製糖株式会社が,自ら700フラ円以上の社債その他の負債がありな がら,株券を担保にイ可100万円もの大金を,重役に・低利で融通して小る卓などをあげ,
「今度精糖株の暴落に.就ては到る彪に非常な迷惑を及ぼして居る。就中大蔵省が同禽 社の株券を納税の糖保に.耽っで増糖保の通人らぬのに弱って居るキ云ふ話だ元来合社 の櫓保に.其社の株券を用ふるのは間違だらう。撥保品が口を聞く様な場合には塘保品 の役に立たぬ。恰も借金を賀に置くと同じだ。大成省は供金を質に取る。役人の商暫 ほ此通り。」と指摘されている。
続いて,1月13日何の同紙には,「日糖の凄後策 其大株主の淡」として,「課税の 不均衡と運稗資金の歓乏」「重役の総入替」などの点が述べられている。
さらにまた,翌1月14日付の同紙紅ほ,「椅糖合社と富局」として,渋沢氏が大赦 篭局にはかり,若槻大蔵次官が日々桂疲相と協議したりして,いろいろ対策がたてら れているので,同社の前途をそれはど悲鱒することもない,というような内容が記さ れている。
(7)「訝業之世界」発六巻三助(明治42年3月)。
−β66−
第47巻 第4・5・6号 650 磯村「ソリヤ僕と舎封課長の外,何人も知らん。」野依「酒匂社長だの,秋山筒務だの言ふ人は,全然無能力者ですね。賓にアキレテ仕 舞ふ。ナゼ夫を外の重役紅知らして,能く取調べて見ないのですか。」
磯村「ダッチ今一・週間もすれほ,給食を開くと言ふ間際にソンナ・事を言って居てほ大 変だ。」
このような経理をしてきて,どうにもならなくなった結果が,明治42年1月の大欠損と して表現されるにいたった\ものと理解することができる。そしてさらに,このように.経理 しなけれほならなくなった業結不振の原因そのものについては,まず同年5月8日の「日
(8) 糖事件政審決定」において,事件に関連して生じた具体的な収賄状況が明らかにされた。
(9)
ついで,7月10日には「日糖重役審議決定」がなされ,そめ長い判決文の中に.事件の全貌
(81一 明治42年6月3日発行の「日本観瀦新誌」に.よれは,このような見出しのもとに,
「過般来世の耳目を皆勤せしめたる目糖検挙事件は五月八日に至り線審決定し全部有 罪の決定を受けたり今被告人の氏名並に収鵜額を示せは左の如し」として,現代議士 17名,前代議士3名,其他の者3名の氏名と,そのそれぞれの最高2フラ円から最低
400円の収賄金額が示されている。
し9〕明治42年7月12El何の「時事新報」にほ,このような見出しのもと紅,「大日本製 糖株式合社重役酒勾常明氏以下八名に係る私印盗用,私書侶造行使,詐欺取財押領
(委託金費消)、涜職法違犯被告事件は十日線審決定して各被告とも有罪の判決あり しよしは十一・日の紙上に記したが該決定書全文左の如し」しふりがな省略)とあり,
8名の重役の氏名・担当などをはじめとして,主文,理由,刑法の該当条文などが記 載されている。とくにその「理由」の部分には第1から第8までの項目があって,こ の事件の益内容が述べられている。しかし,何分にもかなりの長文でもあるので 日 糖事件の概要を知ることのみを意図して,以下それを要約レておくことにしたい。
第1磯村音介(専務取締役)は,明治41年の5月中紅遠藤省三(総務部経理課主任
\兼東京工場会封係主任)より半季の決算利益の報告を受けたが,その額が少ない ため軋,未納金を利益金のように装って1割5分の配当をし,かつ帳簿に虚偽の 記載をした。
第2 酒勾常明(取締役社長1,晋介,秋山…・裕(常務取締役),高津久右衛門(常務 取締役),伊藤茂七(取締役)の5名は,輸入原料砂糖戻税法改正法律案が議会 を通過しないときは,同会社の営業に.重大な影響を及ぼすものと考え,/J\切手21 枚を偽造し,同社預金申より現金を引出し,衆議院議員数名紅贈輿し,かつ残金 をその運動のため紅費消した。同時に,帳尊上,原料の買入値段を値増ししてそ れを切落した。
第3 音介,−−・裕,久右衛門,茂七,恒川新助(監査役)および福川忠平(監査役)
の6名ほ,糖莱に閲し次第に増税の偵向のあるのを察知し,将来の斯業の不振を 恐れ,官営説をとることとなり,議会に砂糖官営案を提出し通過せしめるよう努 力すべしという約束のもとに,議員に現金を贈興した。
第4 前項の官営問題の運動費は一・時茂七が立て替えていたので,上記6名はこれ/
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が示されることに.なり,「酒匂日糖社長自殺」に.よって,事件全体の悲劇的な幕が閉ぢるこ ととなった。他方,大日本製糖株式会社そのものは,それ以後の藤山雷太氏の登場によっ
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て新らたな再出発をみることになるのである。
/を会社の負担紅するため約束手形を偽造し,該手形の要部にほ会社及び役員用の 私印を盗捺した。
籍5 簡明,音介,−裕,久右衛門,茂七の5名ほ,明治41年中の衆議院議員選挙に 際Lr,同会社と懇意である候補者が当選すれば,議会に現われた会社の利害問題 に.閲し同情を得ることができると,その候補者に選挙費用を贈蝕しようと協議
し,小切手19枚を偽造し,会社の預金より現金を引き出し,別に.受け取った現金 と合わせたものより2名に贈興し,残額を蓄介・一・裕等自身の選挙運動費ならび に.これに関する費用にあてた。
第6 音介,一裕,茂七の3名ほ,共謀の上,音介等の選挙運動に・関して費消した金 円の内1刀5千円を,決鈴期に磯し会社の帳尊から抹消するために.,振替勘定な るもののように装い,それに利用するために約束手形を偽造し,会社及び役員用 の私印を盗捺し,かつ元帳に・虚鱒の記載をした。
第7 儒明,音介,一裕,久右衛門,茂七および忠平の6名ほ,典汰の上岡会社の利 益を計ると称し,未だ創立以来一層の利益の配当すらしていない東洋製糖株式会 社の株券を買収するため,社長以下4名の資格を詐って同会社預金中より現金を 引出してそれを行使した。
第8 音介,−裕,久右衛門,茂七,新助および忠平の6名は,従来から同会社紅特 別預金即ち預合と称するものがあって,同会社の旧株50円払込のもの1株を会社 に.差入れるときは金80円,新株1株に.対してほ20円を貸渡し,かつ1株に.対する 利益の配当は年1剖5分から2割以下であるのに,会社に支払うぺき金利は年7 分弱にて6ケ月の決筆期にこれを支払えばよい旨の申し合せがあるのをよいこと にして,ひとたび被告等の経済上に変動を来し預合に対する金円を鯛済すること ができないような悲境に陥ったときは,其株券は当然同会社紅所謂流れ込の結果 を生ずる危険があるにもかかわらず,同会社の株券および「禰ひ担保」の口実の
下に同会社以外の株券をも同会社に・差入れ金円を取り出し費消した。 さこう ▲ぴすとる こめあゝみ (10)明治42年7月12日の「時事新報」によれは,「酒匂日糖社長自殺 短銃にて掘撤を
射る 子女へ過言 璧き覚悟」し他のふりがな省略)という見出しの記事があり,また
′さかは その翌13日の「中外商業新報」隼は,「酒匂常明氏の『退割全文発表さる」という記
事が記載され,その説明の申で「氏ほ幹部外の馬越氏と知るのみで,孤立し,且つ十 数名の重役は互に・相識粧して殊に京阪繭合札封立の頃より肝胎相偲らすものども其幹 部を占めたり」と述べられている。
(11)上掲苔「日糖六十五年史」12京以降参照。なお,この酋の13真紅,「とりわけ当時,
わが国でも屈指の大会社といわれた当社の興廃は,単に一会社の問題でなく,わが国
−・般工業の消長匿関連し,ひいてはわが経済男・に影響するところも少なくない。また 株主中紅は外国人も多かったから.,もし万一破産するようなことがあると,国家の信 用に.もかかわる壷大事であった。実際に.,日糖事件に絡んで当時の株主の一人であっ た駐日外交団主席英国大使サ−・クロウド・マクドナルドほ時の紐理大臣桂太郎氏に 宛て,皮肉な手厳しい一木Lを突き付けてその整理解散を要求したということである。
溢澤男爵がいらばん憂慮されたのも,恐らく この点であったろう。,」と,前掲マクド ナルー7氏のことも述べられている。
第47巻 第4・5・6号
652 ーβ6β−
2.3 批判の方 向
このような大日本製糖株式会社の不始末が社会的ひろがりに.おいて騒がれるように.なる までは,同じように.会社の不始末を問題意識として持ちながらも,それに対する批判は,
(12)
より間接的な,株式会社制度の欠陥そのものを指摘するような内容であった。ところが,
この,いわゆる日糖事件以後は,批判の対象もより直接的なものに変るこ.ととなった。す なわち,当時の事件紅関連して批判の対象としてとりあげられたものほ,主として銀行・
株主・重役・監査役といったものであって,これらのうちいずれが悪いのか,といった,
かなり薗接的かつ単純なとりあげ方が,批判の主流を占めるこ・とに・なった,といってよい であろう。
ところで,明治40年には;普通銀行においても支払停止の不始末を生ずるもの多く,41 年未に.なってもなお銀行に対する不安の念が残っていた。したがっで,銀行側にもまた,
貸出紅はかなり慎重にならざるをえない実情があったのである。ところがまたその反面に 当時の「我国の諸事業合社ほ,探れば探る程,失髄を曝露す可く,疑へば疑ふ程,危険を
(12)たとえ媚,佐野善作氏(当時東泉高等商業学校教授)は,株式会社の欠点としてつ ぎのような3点をあげている(「株式合社を論ず」国民経済学雑誌第四巻第三耽,明
治41年3月)。
第一・合社一株主トノ関係上二現ノ\ル」軟点 此方面二於ケル欽点ノ垂ナ■ルモノエア リ日ク少数代表者(重役)ノ専横ヲ生汐易キコトロク各株主ノ負担卜其利益トノ 権衡ヲ失フノ虞アルコト是ナリ…‥l。
第二 食社卜社食一般トノ関係上二現ハルゝ欧点・t・彼等ノ、〟般株主が常二彼等ノ 行為ノ結果ヲ標準トレテ彼等ノ能力ヲ批評スルコトヲ知ルノミナヲズ彼等ノ、株主
ヨリ専心億社ノ利益ヲ増加センコトヲ委任セラレシモノト信ズルヲ以テ自ラ・一般 社食二対シテ公正・キ事ヲ行フノ念慮ヲ抱クコト薄ク・…。
第三 合社卜其使用人トノ関係上二現ハルゝ欧点 株式食社組織エアリテソ、個人組織 若クノ、組合組織二於ケルガ如ク雇傭者卜被備考トノ関係国満ナ・ル能ハズ蓋レ株式 組織ニアリテノ、ニ宅間人的関係二代フルニ冷然クル金鏡的関係ヲ以テスルノ結
果・・u。
また,青木徹二氏(当時慶応義塾大学教授)もつぎのように述べている(「合社種類 ノ要目J国民経顔雑誌第三巻第五傲,明治40年)。
・‥州現時ノ状態二於テ大企業ト音へバ草野上殆ンド株式合社ノ組織卜限ラレタルガ
如レ株式食杜ノ\資本吸集二便ニシラ大企業三通スルコト論ナキモ其構成複雑ニシラ商
法上厳格ナル拘束的法規ヲ設ケクルノ結果魯社経営ノ富局名ハ焼細ナル手繚二苦シメ ラレ一歩ヲ誤レバ忽チ・裁判沙汰卜馬り戎ハ株主総合無効ノ失態ヲ来シ或ハ株金沸込ノ 紛争ヲ生ズ之二於デカ組織ノ改良又ノ、新組織ノ新設若クハ輸入ヲ望ムノ念ヲ生ジ近時 圃逸ノ有限巽任愈社ノ組織ガ鼓吹セラルゝガ如キ亦一徹怒卜見ルベレ11…。
ー∂69−
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(13)
増加」するように思われたので,そのことが「外資輸入に・【大障害を起せしのみならず,
(i4)
内閣の銀行者と組も,事業合社に放資する糧,免除なるもの無しとの観念を懐く軋至」っ た。そのような純米,銀行ほ当時の事業億社の金融逼迫を看過することに・なり,あるい は,資金の袋出を行なって.も金利を高くし,大t1木製糖株式会社のように,運転資金の侶
(15)
入に対する金利が嵩んだこともそ・の不姶火の一周とされたことから,「日本の銀行は欧米諸
(16) (17)
圃の銀行とほ違って,掴産興業を閻」らない,とか,「高利貸」であるとかの批判も生ずる こ.とになった。
もとより,甘槻事件をはじめとする多数の会社の不始末の値接の原因ほ,会社の経営そ のものにあったといえる。したがって,その点からの批判も多くあったが,それらははば っぎの二つの点に分けることができよう。その一つは重役の兼任についてであり,他の一 つほ,重役における実業的気風の欠如ということである。
当時,実業界に多少の名望ある者は,すくなくとも四つか五つの会社の重役を兼任し,甚 だしい場合は30もの会社の重役を粗描していたといわれる。このことがとく紅問題となっ たのは,当時最高数の会社の重役を兼任して小たとわれる渋沢発一一氏が大日本製糖株式会 社の相談役となっており,しかもこの会社に不始末が生じながらその内惜を全く知らなか
(18)
ったことによる。当時の衆議院に.重役兼任予防策として「商事合社紅関する法律案」なるも のが提出されたこ.とからも,そのことが社会的に・いかに強く問題とされたか理解すること ができるであろう。しかしながら,このように当時重視された重役兼任の問題も,その後 それはどの急激な改沓がみられなかったことは,結果的に,経営者となりうる人物が当時 の社会紅も不足していたことを意味するものと考え.られる。
(13)(14)津村秀松「本邦事業禽社の失態を論ず」日本経済新誌,明治42年4月3日眈。
(15)其大株主の談「日糖の老後策」時事新報,明治42年1月13日。
(16)(17)雨宮敬次郎「暗黒なる営利倉社」Ⅰ・−】本経済新誌,明治42年5月3日眈。
(18)その批判はつぎのように述べられている。「されど世人は初より,磯村某を信用し たるに非ず。少くとも前の農務局長にして今の社長たる酒匂博士を信用したるなり。
吏紅我国経済界の代表者にして−,斯社の相談役たる漉輝男爵を信用したるなり。然る に此の事件起りて以来,是等二氏の言ふ所を聞くに,輿町会然輿り知らざりしとい ふ。之れ何たる無責任の言ぞ。社長にして知らず,相談役にして輿らずといふに・至て.
は,之れ何の魚めの社長なる可き。之れ何の馬めの相談役たる可き。吾人は我国経済 界の師表紅して,兼て商業道徳を説く人より,此の種の遁辞を聴くに及で,唖然とし て言ふ所を知らず。されど吾人は強て其の頻り知らざりしことを信用せむとす。溢輝 男爵にして,相談に凝らず,従て其の内情を知らざりしとせば,之れ全く人の罪にあ
らずして,職の罪なり,楚に重役兼任の罪たらずむばあらざるや。」(上抱論文「本邦
事業合社の失態を論ず」)
−37/)−
第47巻 第4小5・6号 654さらに重役に対する批判の主なものの他の一つはつぎのような点である。すなわちわが 国の会社では「事業そ窄ものの成功を楽しむという気風が少く,実実家は事業よりも金を 目的とし,それ以外の事業紅従事する人は評判名轡を目的とし,独立で事業を起すよりも
(19)
肩書や繹歴を利用して愈社の役員となって安楽に暮そうという気風」が支配的であるから,
(20)
「重役は多く誠意を欠く」こ.と紅なる,というのである。
ところが,他方,このように重役が事業の成功を念としないで配当を多くしようとする のは,株主の責任であるとする意見も強い。すなわち,「偶々誠貨なる重役ありて,積立金
を多くし以て,愈社の基礎を堅からしめむと欲せば,大株主は聯合して之を退け,配嘗金 を多くし以て−,株券の相場を高からしめむとするの重役を迎ふ。世に.重役征伐といふこと あり。其眞象を探れば,多くは此の種の動機に.基くものに外ならず。之を以て諸種の愈社 紅重役となりて,所謂紳士紳商と仰がれむと欲する者は,悪き事とは知りながらも,偏に 無法勾配嘗案を作り,遂紅不正の考課状を作製するに至る。之を以て自らを詐き,株主を
(21)
詐き,世間を詐き,共棲,遂紅破綻に了る。一」,その典型的な例が大日本製糖株式会社の場 合であるというのである。
このように 銀行・重役・・株主についていろいろ意見が出されたが,とく紅監査役に対
する批判は,当時のわが国の政府ならび紅財界主脳者達が,外資輸入の議要性とその前提 となる会社の信用回復の必要性から監査役の充実を望んでいたことと,その間題の具体的 なわ閲策として参考になる外部監査人の制度がすでに諸外国に現存することのために,本 稿の主題である会計士制度の創設へ発展することになったと考えられる。その展開の過程 を明らかに∴するために.,まずその基礎となる商法と,そこにおける株式会社の監査役の内 容を,つぎに.考察することに.したい。
ⅠⅠⅠ監査役の機能
すでに述べた,いわゆる日糖事件と相前後して,東京鉄道会社,日本製布会社,大日本 麦酒会社,大日本水産会社等々,当時大会社といわれた多くの会社の不始末も公けにされ
ることとなった。これ紅ついて,「如何にしで合社の不正を監視すべきや紅就さ農商務省其 笛局者は語て白く商法改正の監督権の下を脱し司法省が僅に消極的監督権を有するに.過ぎ
(19)(20)戸田港市「我国魯社事業の四大鉄鮎」日本経済新語,明治42年7月3日舞およ び同年8月3日耽。
(21)上掲論文「本邦事業合社の失態を論ず」。
わが国会討士制度の由来
・・−β7J−
655
ざれほ一般株主ほ禽社懲業の成綴及円状等に潤して.只櫻に取締役の報彗及監査役の保鐙に.
侶を置くの外なきに.水産及日糖の如きほ取締役,監査役が麗々しく署名して決算報告を発 表し而して今日の大失態を曝露せり事鼓に.至りては我商業道徳の幼稚なるを嘆息すると共
(22)
に商法改正が商業道徳の発達と伴はぎりしを嘆ぜざるを得ず」という見方がある。すなわ ち,商法における会社の設立が免許設立から自由設立ないし準則設立へ変ったことも会社
(23)
の不始末続出の重要な一俵卜をなしているものとされ,そのためにまた「公設検査所の設置」
の必要性も説かれている。そこでまず,免許設立から準則設立への転換紀聞達して−,商法 上の推移を一億しておくことにしたい。
3.1商法上の推移
(24)
わが国の商法は,/まず,ドイツ人ヘルマン・ロ1エスレル氏の草案を基礎粧して商法
(25)
(旧商法)が創設され,さらに.明治32年,それを・はほ全面的に改正して現行法が制定され
(22)(23)「愈杜監査方法に就て」日本経済新誌,明治42年5月3El波。
(24)志田紳太郎氏は,商法とロエスレル氏の関係についてつぎのよう紅述べている。「此 の如く太政官で商法典の編纂を急ぐこと紅廟議−・決したので,太政官法制部に商法典 草案の立案を命じ,法制部より猫逸人『ヘルマン㍉ロエスレル』に其原案の起稿を委 嘱したのである。同氏は大森省の『御宿』として財政政策及び国民経済政策上種々の 献策を馬し,東京帝国大挙の教師として行政や経済の講義を猪首する多忙の身であり ながら,精励能く法案起稿の大任を果したことは特筆すべき事智で,明治17年1月を 以て原案並に.逐候の理由苔を作成し撃ったのである。」(「日本商法典の編築と改正」
明治大学出版部,昭和8年,25−6貫)。
また,ロエスレル氏の商法草案軋「ロエスレル氏起稿.商法草案,上・下巻 司法 省」として■公表されて■おり,その上巻の「商法草案脱稿報告宙」にほ,「商法草案ハ 千八百八十・一年(明治十四年)四月ヲ以テ稿ヲ起レ千八百八十四年(明治十七年)−・
月ヲ以テ之ヲ終レリ即チニ年九箇月ノ日子ヲ牽シタリ」「本案ヲ猫逸商法二比スレハ 本案ノ條数千百三十三ニシテ猪逸商法ノ候数ハ九百十−・ニ止マル然レトモ狗逸商法ノ、
商法ノ仝偲ヲ網羅レタルモノニ非ス甚夕緊急ナル項目エソテ特別法律ヲ以テ定ムルモ ノ多レ」とある。
し25〕ロエスレル氏の原案に基づく商法典草薮が,法律取調香員会略則(十條)に.基づく 法律取調香員会の審議を経て確定された。そレでさら紅,明治22年6月7日の元老院 総会紅おいてそれが可決され,これを,明治23年4月27日に公布し,明治24年1月1
日より施行することと定められた。ところが,他方において,衆議院に提出された施 行延期法案が,明治23年12月16日紅同院を通過し,ついで同月22日員族院をも通過し たために,ノ施行は明治26年1月1日よりと改められることになった。そのように延期 された理由としては,「商法典の施行を延期する議案の討議に.現ほれたる所を見れば 或は法典の賓質を非難し或は徒らに外図法を模倣して我邦の慣習を無視せるを攻撃し
て居れども延期の理由の骨子たりしほ公布と施行の間僅かに八グ月を隔つるに過ぎ/
第47巻 発4・5・6弓
−β72−
656
(2¢)
た。この最初のロエスレル氏のや炎ほ,当時の欧洲における免許設立主義廃止の傾向に・よ り免許主義をとらず,【一定の規乱世.従うときほあえて政府に出願する必要はなく,裁判所ま たは公許人の奥印を受けるのみのいわほ準則主義をとつていた。ところが明治23年ならび 紅26年の虹‡商法では免許主義がとらかることに尤′った。これに.対してほ,「竃暗ノ政府へ
(27)
未ダ此進歩レタル制度ヲ採用スルノ雅鼠ナ・ク」というような批判もあったが,′そのことよ′
りもむしろ,「..t】王ン我カ国ノ商業末夕幼稚ニレテ随テ迂潤不備ナル禽社ヲ設立スルノ恐レア ルノミナラズ殊二株式愈社ノ如キハ罪.ニ株式ヲ以テ共存縛ヲ保スルモノナレバ許多ノ規定
ヲ以テ之ヲ検束スルニ非サレバ甚ダレキ危害ヲ醸生スルニ至ルモ知ルベカラサルニ由ルナ・
(28)
リ」という理由によって.,それをとることも当帖としてほやむおえ.ぬこ・とと思われていた もののようである。
旧商法でほこのように免許主義をとることになった結盟,日清蘭争前後,とくに明治2d
〜9年の会社設立熟の高か。た時代に.は,政府の免許が得られないこともあって,設立封 画時の会社数の半数しか設_正孝続を終えることができなか一三たという。しかし,それでも なお,従来の割合に比すれば,会社数ならびに.払込資本蘭匿おいて驚くべき膨脹をとげる
/ず,若し強いて櫨ちに之を施行するとせば人に商業礼儀の秩序を素臥弟ることと成る ゆへ, 其施行を延期して徐ろに施行すべきであると謂ふ鮎に・存して居る。」(上掲畜
「日本商法典の編案と改正」47頁)。
し261旧商法典に代っ七,現行商法典はつぎのように・して施行されるように・なった。∴すな わち,「現行商法典は明治26年勅命第11脱法典調査愈規則に依りて設けられた調査禽に・
於て,起草委員たる梅謙次郎,岡野敬郎及び田離芳の三法学博士の作成したる原案せ 審議且整理し・て出来上った草案(之を商髄修正炎と名づく)に・基づきたるものであっ て,帝Ⅰ或談合へ提出せられ貴衆両院とも殆ど何等の修正なく通過し明治32年3月9日 法律第48淑商法として公布せられ,商法施行法(商法典と同様法典調査合で起草し同 年同月同甘法律貨49眈として公布せられたもの)と共に・同年の勅令舞133貌に倣り同 年6月16日より施行せられ,同時に蕾商法典は第3編破産法を除く外廃止せられたの
である。」(上掲書「日本商法典の編某と改正」86頁)と。そして,その理由はつぎの ようなものであったという。「商法修正案理由書にHく」「裳二制定シタル商法ノ\民法
卜重複セル規定多ク間々之卜柏抵触セルモノアリ其他穏恩ヲ倣ク規定砂カラサルカ故
二其施行ヲ延期セラレタリ其後明治二十六年法律賀リL戟ヲ以テ第一一癖第六章発十二章
及ヒ雄三編ヲ修正施行セント雑・モ功ラ時勢ノ急二應センカ馬メ充分ノ修正ヲ施ササリ ンヲ以テ往々撤湖アルヲ免レス爾来政府ハ法典調査愈ヲ設ケ周密慎重ナル調査ヲ遂ケ 以テ本案ヲ編製レ盗二之ヲ提出スルニ至ル本案ノ、之ヲ懲法二比スレハ民法卜重複抵陶
セル規定其他不穏遷サル規定ヲ除キ吏二進ミテ哲法ノ欧鮎ヲ補ヒ大工改良ヲ加へ・タル 鮎妙カラスト信ス」し上同諮,97真1。
(271前掲論文「本邦合社制度ノ敬達(其三)」。
(28)坪谷薯四郎著「日本商法粋義」博文館,明治26年,142乱
わが国会計士制度の由来 ー37ごi一
657
(知)
ことになったといわれる。
このような会社設立数の増加ほ,また他面において−,「無限二増加スル株式倉社二村キデ 行政官靡ヲレアー々免許ヲ興へレムルハ殆ンド不可能ナリ,無数ノ免許申請二封ソテ叫・々 其事業ノ内容ヲ調査スルハ其ノ焼二耐ヱザルノミナ・ラズ,貰英男ノ暦状二哨キ行政官ニ/封
(こiO)
シテ之が正鵠ヲ得クル彪分ヲ求ムルハ不能ナリ」という意見が強くなり,これを主たる理 由として,現行商法制定のさい,免許主義から準則主義へ変更されることになったものと
(31)
考えられる。
かくして現行商法に.おいて:は準則主義がとられることに.なった。そして−,このように準 則設_正意義がとられる一斉,他方において大会社の不始末がつぎつぎに職務されるように
なると,会社に対する監査ないし鱒督ほ設立時ではなく,むしろそれ以後の運営時におい てより必要であるという考え方が支配的なものとなる。サーなわち,商法払おける準則設立
主義の採用に.よって,設立時においですら会社の不正を監督することができなくなったこ
(29)上掲論文「本邦合社制度ノ敏速(具三)」参臥なおそこにほつぎのような会社数並 びに.払込資本の推移が示されている。
会社数(内株式会社) 払込資本(内株式会社)
27年末 2,104(不明)148,353,118(不明)
28年末 2,458(1,135) 174,047,258(151,479,842)
29年末 4,596(2,58年) 397,564,532(357,524,152)
30年未 6,113(2,171) 532,522,377(4飢,495,716)
31年末 7,044(3,475) 621,676,458(560,025.000)
(301原田博拾著「株式脅社設立論」有斐閣畜房,大正九年,116京。
(3い 「修正案参考苔」に.よれば,五つの理由から準則主義をとること紅なったといわれ る(高窪喜八郎編「法律学説判例細覧,禽社編上」法律評論社,大正八年,581頁〕。
つぎに.それらの要旨をあげておく。
第一・有限茸任社員ほ,株式会社のみならず合資会社にも存在する。したかって,そ の存在を理由として株式会社のタ免許設立とすることは不公平である。
第二 各国とも免許設立を有害無益なる制度と認め,これを廃止する傾向にあるの で,わが国もこれ紅倣った方がよい。
第三現今我国の実業家は設立免許の制度を不必要なものとし,其の廃止を請願して いる。
第四 株式会社発生の初期には,それに関する知識・経験は実業家よりも官吏に・あっ たが,今日ではそうとも云えなくなってきている。
第五 設立の免許に.は多くの手続と月日を要するため,商業上の機会を失うおそれが ある。
なお,商法の候文としてはつぎのよう紅変化している。
(改正前)発雷五十六條 株式愈社ハ七人以上ヲ以テレ且政府ノ免許ヲ得ルニ非レノ、
之ヲ設立スルコトヲ得ス
(改正後)第百十九催 株式令社ノ設立ニハ七人以上ノ沓超人アルコトヲ要ス
第47巻 第4・5・6号 658
ー374−−
と,さらには,それよりもむしろ運営時の監査がより議要なものと考えられるよう紅なっ 七きたこと,のために,当時の会社不始末多発の対策として,会社外からする会計士制度 の必要性が強調されるようになったものと考えることができよう。
しかしながら,他面に.おいて,会社の内部に.もそのような監査を行なう機能をもつもの として監査役という機関がある。したがって,当時の監査役の役割は商法上どのように表 現されており,また現実にどのように.それが機能していたか,あるいはまた,そのような
制度がありながらなおかつ会社の不始末が多発したことに対する批判はどのようようなも のであったか,などの点をつぎに考察することが必要となるであろう。
3 2 監査役の機能
明治26年の旧商法と明治32年の現行商法との間の監査役の機能に.ほ,條数と表現上の変
(32)
化はあるものの,その実質的機能的内容に.は,それほど大きな相違は屠られない。すなわち
「其一取締役ノ馬ス業務ヲ監視スルコト其二計算ノ検査其三舎社ノ事業上必要エンデ且有 し32)旧商法における監査役の職務ならびに権限はつぎのようなものである。
第百九十二條 監査役ノ職分ハ左ノ如レ
第一・取締役ノ業務施行力法律,命令,定款,及絶食ノ決議三通合スルヤ否ヤヲ 監視スルコト
貨.ニ 計算書,財産目録,貸借封周表,事業報告番,利息ヌハ配嘗金ノ分配案ヲ 検査シ此事二閥レ株主絶食二報告ヲ為スコト
第三 愈社ノ為メニ必要又ハ有益卜認ムルトキハ組合ヲ招集スルコト 第百九十三候 監査役ハ何時ニチモ合社ノ業務ノ貿況ヲ尋問レ合社ノ帳簿及ヒ其全財
産ノ現況ヲ検査スルノ権利アリ
また,明治32年の商法では,つぎのような条文となっている。
欝百八十一億 監査役ノ、何時ニチモ取締役二億い/テ事業ノ報告ヲ求メ又ハ骨社ノ業務 及ヒ愈社財産ノ状況ヲ調査スルコトヲ得
策百八十二條 監査役ハ株主組合ヲ招集スル必要アジト謡メタルトキハ其招集ヲ偽ス コトヲ得比絶命二於テソ、合社ノ業務及ヒ合社財産ノ状況ヲ調査セレムル馬メ特 二枚査役ヲ速任スルコトヲ得
策百八十三傾 監査役ハ取締役力株主組合二提出セントスル書類ヲ調査レ株主組合・ニ 其意見ヲ報告スルコトヲ得
「修正案参考書」によれば,これら両者の候文の関係は,明治26年ゐ商法の192條 1号と193候に修正を加え.たものが明治32年商法の181條であり,同じく192傾3号に 修正を加えたものが182條であり,さらに192條2号に.該当するものが183催であると
される(上掲苔「法律学説判例線盟,含社編下」1222−7貢)。
なお,ロエスレル氏の商準草案では,監査役を設けるかどうかは会社の自由であっ た(ただし,取締役を頭取,専務取締役を業務櫓富者,監査役を取締役,とそれぞれ 辞出している)。
−375−
わが国会計士制度の由来
659
(33)
湛デルトキニ組合ヲ召集スルコト」があくまでも監査役の主要な役割になっていると考え られる。そしてまた監査役の聡椎は,「取締役・ニ封シテ制止樺ヲ有スルモノエアラズシテ只 其業務ヲ監査スルノミ若シ然ヲサレバ自力ヲ取締役ノ碓内二侵入シ商業取引上ノ溢滞ヲ来
(34)
タスコトナキヲ保セズ故二其権ハ監査視察二止ム」ところに.あるものとされる,いわば,監 査役は,取締役の行なった業務や取締役が株主紳会へ提出しようとする書類を監査できる
という,あたかも取締役より上位濫あるかのような印象を与えるものの,実質的には「監 査視察」というスタッフ的機能に止まるものといえる。しかも,現実の会社内においてほ 取締役の権力が強く,取締役の意向によって,監査役のこの「儲査視察」機能さえもゆが められるように.なっていた。すなわち「一・般商業愈社の通弊とも言ふ可きほ取締役なる者 が自己以上の信望と手腕とを有する者又は忌愕なく取締役の行為を指摘する底の硬骨者を
(35) (36)
監査役たらしむるを忌む」結果,「其名アリテ其実ナキ∬複式簿記ノ何モノヲ」しない ような監査人が多くなり,「監査役ハ単二取締役ノ説明二唯々諾々酒屋ヲ表シ貸借封照表ノ
(38)
貸借ノ教字平均スレバ其レニテ討静正シキモノ上馬スモノノ如シ」とされている。
かくして,商法に.おける免許設立主義から準則設立主義への変更に・よって,「各合社ノ定
(39) 款ノ規定其目的クル事業資本其組識等果レタ汲定ノ事業ヲ遂行スルニ適笛ナルヤ否ヤ」を 調査することも,あるいはそれと関連せしめて監督することもできなくなり,そのうえ会社
(40)
内部の監査役ですら頼ることができないままに,会社の不始末がつぎつぎに・生ずる事態に
直面することとなったのである。このような現実に対応しうる制度として,当時最も轟剣
(41)
に考えられたのが会社外から監査を行う会計士制度であった,ということができよう。
(33)(34)上掲苔「日本商法絆義」182−3頁。
(35)上掲論文「禽社監査方法に・裁て」。
(36)(37)(38)鹿野清次郎「我国ノ監査人二就テ」国民経済雑誌,第四巻第六統0
(39)上掲沓「法律寧説判例総覧,愈社編上」580貴。
(40)ノ このこと紅ついて,明治42年5月3日発行の「日本経済新誌」の「社説」(7頁)で はつぎのように述べられている。「株式合社にありて株主に代りて取締役を監督し,
以て株主の利益を保護するものは監査役なり。我国紅ては法律上は監査役の職責を明 定し之をして其大任を全うせしむるに庶幾しと雌も,其賓監査役は貰紅虚器を擁する
に過ぎず。従て株主は監査役を繹て具権利利益を擁護せんこと,猶木に・縁て魚を求む
るが如L・」と。
(41)上掲「合社監査方法に就て」ではつぎのように述べられている。すなわら「官靡の 監督なく又取締役の保謹も信ずるに・足らずとせば我資本家は恰も燈重なき大航海を為 すに.均しく其危険言ふ可からずされば財界の現状に鑑み英,米,彿等に行はるゝ公設
検査所の設立ほ焦眉の急務にしで‥」と。
第47巻 貸4・5・6弓
660
ー∂7(5■−
ⅠⅤ 会計士制度創設へ・の推移
明治42年前後は,会社の倒産や不始末が続出し,そのことが大きな社会問題ともなって 多くの批判が生ずることとなった。しかし,それらの批判ほあくまでも企業の信用の回復 を意図したものであったことほ往′鼓されなければならない。いわば,多くの会社の不始末
ほ経理面に.その原因があり,その経理面の不始末を大事に.至らぬ以前に監査する制度とし て諸外国に会計士制度なるものが現存した。したがって,このような原因と対策との結び つきが考えられなければならない限りにおいて−,わが国にも会言は制度が要請されること
になったのもまた当然といえよう。諸外国紅ある会計士制度の導入によって,企業の信用 は回復す・るものと考えられることとなっにのである。以下このような点について.考察して いくことにしよう。
4.1会釘士制度への要請と各国の調査
当時のわが国企業の信用状態について岡田博通氏ほつぎのように述べている。すなわら r ̄今ヤ我問キ於ケル大企業ノ鮭督ノ、大工其信用ヲ失墜シ資本家ヲシテ容易二放資セレメず
(12)
ラシムルモノアラントス是レ葦二園家ノ頭大事ニシテ\軽々二者過スべカラゲルモノナ・リ」
と。しかも,このような企業の信用失墜の原因は,経理面の粉飾にあると考えられた。す なわら,不始末のあった多くの会社は,「詐偽の決賀】報告を作り,備に.一層幡.分の配笛をな
(13)
せし,彼の大日本製糖令社と同一・筆法に出づるもの」とされたのである。
このように信用失墜の原因ほ詐偽の決訃報告であるとされる。もしそうであるとするな らば,続いてつぎ軋,そのような詐偽の決算報告を見過してきたのほ誰れの責任であるか,
ということが問われなけれぼならないこと紅なる。しかも,当然その宜任が問題になるの は,監査役である。しかし,この点に.ついてはすでに考察したように,監査役の「監査視
察」機能が果たされない傾向にあるとともに.,その機能を果す対象を構成する株主も,ま
た短期的な配当の高いことのみを良しとする風潮があった。いわば当時は,多くの会社が 有名無実の監査を行なっていたと同時に.,またそのような基盤に.もあったということがで
きよう。岡田氏はまたこれをつぎのように表現している。すなわち「商法上株式合社二エソ、
(42)農商務省商務局.「公計合計士制度調査書」明治42年11月25日発行,35貢。なお,こ の調査書は農商務省嘱託岡田博道民が調査報告したものであるとされている。
(43)前掲論文「本邦事業愈社の失態を論ず」。
わが国会計士制度の由来
661 −β77−
必ズ監査役ヲ設置スベキヲ規定レ其規定ハ表面上遵守セラルニ相違ナント雑ドモ彼等ハ殆 ド密計琴上ノ知識卜軍務上ノ経験ノ欠如レタルモノナ・レバ固ヨリ監査ノ質効ヲ奏スベクモ アラズ加之監査役ノ多数ハ株主中ヨリ選任スル者ナルヲ以テ勤モスレバ眼前ノ利益ニ・奔り 愈社ノ韓曹上命封上ノ故知ヲモ黙過スルコト少ナカラズ之レガ馬メニ監査役ノ職責ハ遂二 有名無賃二績り昏社ノ複雑ナル計静ヲ判別シ其財産及ビ業務ノ監査二任ズべキ監査役ノ、結
(14)
局瞬職ノ謝ヲ免レザルニ到ルナリ」と。
かくして,「近来株式愈社ノ内二合計の粉乳ヲ醸レ其不始末ヲ演ズルモノ繚々起ルニ及ピ 姶メデー般世人ノ注意ヲ喚起レ如何ニシテ此等ノ弊害ヲ矯正レ得べキヤノ問題二封レ政府
(45)
苫局者及ヒ両院議員ノ中エアリグ研究ヲ試ミントスルモノ漸ク起ルニ至」るようになり,
さらには「密計監査ノ確貰ヲ得ソト欲セバ計理士ノ敏速ヲ促ガスコト唯一ノ良法クルベキ
(46) (17〉
ナ■リ」という−一般的な結論から,政府ならびに各種研究団体紅よって各国会計士制度の調
(48) 査が活瀞に行なわれることにならた。
(44)上掲杏「公許愈割士制度調査書」35京。
(45)(46)鹿野柄次郎「計理士(ProfessionalAccountant)の必要に.就て」圃民経済雑 誌,第七巻第四戟(明治42年10月)。
(47)他面に・おいて,桑谷定逸民は「公共監査人の資格に・関する困難」として,第1紅「合 計に関する探博の知識と異常の熟練とを有する者」は「五千常人間中僅かに.一席名に 過ぎざる」点,第2軋† ̄各種の製造阪暫業者は固より,運送,保険業者の依頼にも應
じ,銀行,仲買業者の検査に・も従」うことのできるような「各磁螢其の事情に椅通す る者」を「今日那追に求めて之を得ぺしとするか_jという点,第3紅「経済法律の寧 理紅精明なると同時紅賓業界の内幕を洞悉せる者」ないし第4の「公明正大の資質と 筆問なる意見とを存する者」もまた得がたい点などをあ仇 さら・には,これらの点以
上紅わが国の実業道徳が余りにも低い点とくに投機的な「株主の覚醒」がより根本的 な問題であるとし,「公共的監査人は物に・戒るまい」という意見を表明している(同 名論文,商業界,第十二巻第三祝,明治42年9月)。このように,会計士制度の導入 を時期尚早とする意見も当時は根強く存在した。
(48)ここで往目しようとする調査は,私的なものほ当然それ以前からなされているの で,あくまでも公的なものである点注意されなければならない。その例として上掲の
「公許合引士制度調査苔」がある。ここにほ,英・米などのはか,伊太利,和蘭,自 耳義,彿蘭西,瑞典,猫逸などに・おける会計士制度の沿革が述べられでおり,さら紅 そのわが国への設定の必要とともに,「我国状ハ欧米諸国卜輿ナリ諸制度多クノ、法律
先キニ立チナ民之レ・ニ随フノ風習アリ故二合計士制度ノ如キ之レヲ自然的螢達二委セ
ズシテ宜γク絶健的公許ノ制二依ルヲ可ナリト信ズ」(37京)という点も指摘されてい
る0その他に・も・明治42年10月東京高等商業率校紅調査部が設けられ,大正2年7月 には第4回目の報告書が出されている。また,農商務省商工局から大正五年十二月付
(大正六年二月二十二日発行)で「計理士制度参考資料」が出され,欧米各国紅おけ る当該制度に関する主要な法令・規約などが訳出されている。