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Title
長崎と米庵及び寛齋
Author(s)
市河, 三喜
Citation
商業と経済, 18(1), pp.7-46; 1937
Issue Date
1937-10-10
URL
http://hdl.handle.net/10069/27096
Right
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
長崎と米庵及び寛齋 東京帝國大學教授 文學博士
市河三喜
昨年十二月光恵崎に遊び武藤教授を顆校にこ訪れた畔、その應接室にこ一幅の書が掛けられてあっ吾。光庵の薯で﹁現浦敢翻 芸閣句江都耗招来芳書江芸開基萬椅玉雄捉鶴瓶外得知螢有銃火聖上といふ三行の行書である。武藤君は坑に江芸閥と光庵と の机係在知りたがって、先に同君が背かれ上江芸闇に二親する論文などを示され圭が、常時自分は江芸閥の名さへも知らす、 何のlインフォメーション在も提供する事が川来なかったが、一目の滞在の中に背の鹿人町のl跡か歩いて、官有飴年前祖父米 庵曾祀父兄癖が州次いで来遊し圭常時の非を偲び無限の感興毎晩匙されたのであっ圭。家に掃ってから亡兄が遺した祖先に二 田する記銀を捗頂してその長崎と机係わる部分ね抽出し紅めて九おのが本稿である。紙数の制限もめるので囲単に事案だけを 並べ圭に過ぎないが、少しでも常時の長崎を知る資料となれば幸である。 米庵は亨和三年︵契亥︶に年二十五歳で父に先だって長崎に遊んだ。見聞を廣める目的の外に、父寛賓の著全唐 詩蓮を唐人に樽へたい意向を持ってゐた。全唐詩逸とは、溝団の康輿四十六年に勅命によって福輯された﹁全唐 詩集﹂九百谷川萬九千普中に漏逸してゐる唐詩を集めたもので二二巻を成し百三十人の詩句を含む。原稿は十数 年前先密がHl∃牢骨に在る間に完成してゐたが、天明八年京都相団寺の大典躍師によって上梓せんとして相国寺の 長崎と米庵及び寛磐 七商 業 と 経 持 )¥ 火災の録中止せられ、後再び土木を企て﹄志を透け歩、蛍時はま、た原稿のま﹄であった。米庵はその原稿在持参 し た 。 叉出後に先立って、諸家の迭序、贈られた詩書室+ぜもって巻物を作り、京都に於て集めたものを第二巻とし、 長崎及び蹄路の物を第三巻として、西遊折攻と越しに。究費父子の交友巻知るに好い材料である。第一巻には松 平脚本翁会(四十八歳)の題字。林建費(三十六歳)の詩。柴野栗山(六十八歳)の文。これは五百字に近い長文で、中 に米庵の﹁才性軽使。風儀艶議。悶ヨリ之ヲ竪ム既一一愛スペシ﹂と云ひ﹁今新愛友ヲ皐グテ芭愛友一一薦ム﹂とし て 関 西 の 皆 川 、 中井、姫井、菅、煩の諸家を記してゐる。頼家は額兄弟と有って、 大口坪が重んぜられ、山陽は 其数年前栗山に謁したが、未克服中になかった時代を知り得る。谷文晃(四十一歳)は嵐山を主き、東海道の名 勝を皐け京都の風景を賞し、﹁昔日予之一一居一ル三年東山嵐山雲気幾幻ス。準端-一牧メ入レ依然米家墨献也。河君 素ヨリ此癖有リ。此ヲ潟、ン以-プ筏トス。柳カ日中ノ昆呆ナルノミ。 君 D M ニ 卦 シ テ 正 セ ﹂ 。 -弐 に 池 田 冠 山 ( 因 幡 支 封)の会序。松平需堂(後の伯者守)の詩。佐藤一芳(三十二歳)の丈に佐藤知一奔言と謹書してゐるのは文中の究費 先生に封する躍である。大窪詩仰(三十七歳﹀の詩﹁秋来何レノ地カ月宜カラずラン 0 宿ル所必ズ南面楼ヲ求メ ヨ﹂。と詠じてゐる。他に米庵の弟鏑木雲涼と鈴木英蕊の査が有り寛斎(五十五歳)の践が出設の前夜に認められ てゐる。叉旅行中は漢文躍で日記を書き、西征日来と題し、叉長短百首の詩を作って西征稿と命名した。 米庵は一手和三年八月十九日江戸を獲し三島に十日習って韮山に江川英毅(問一庵の父)を訪うた。殿府に二十四日
滞在したのは、牧野成傑が駿府奉行であった鍔で、この入の事は後に精しい。十一月五日に四日市に若し、四十 係日滞留したのは究資の門人なる菊地五山が同地に居て、全庶詩逸の出版について、協議室力した鍔である。か くして十二月二十日京都に入って、笠年文化元年四月まで留つに。その間に、皆川洪園、岸駒、伊東束所、橘南 渓‘件お践‘外多くの文人を訪ね、叉梶川(十一辺香問)と山崎本屋守護党元として全府詩逸の上梓を行ひ‘板木は江戸 に設建し、米庵は版本の幾部かを携へて、四月十六日に京都を裂し、西下しに。西遊折攻の第二巻は、題字を藤 原通芳郎ち花山院愛徳卿が苦し、・究に皆川洪悶(七十一歳)の迭序を置いた。文中全唐詩逸が出版に至るまでの由 来を精しく述べ一。子静君(寛斎)ノ勤ハ量全唐詩ノ女納氏ト謂ハザルペクンヤ。孔陽ハ其尖ノ士山ヲナサント欲シ -プ、能ク以テ刻錦、ン且逗ク長崎-一鷲シテ以テ西容-一億へント欲スルモノ。山豆亦孝ヨク労ヲ厭ハズト謂ハザルペク ンヤ﹂等五百字を費してゐる。叉伊東束所(七十五歳、仁一知の孫)の詩。岸駒(五十六歳)其子岸砕い山(二十三歳)松村 呉春(五十二歳)の主等が有り、伊津子琢の文中﹁彼ノ図-一迩スル詩ト子ノ得ル所ノ筆訣。之ヲ海外-一博フ、則チ是 子ノ此行ノ専士山ノ存スル所。以-プ賢-一吾園事ヲ培スニ足ル。然レドモ悔舶崎陽-一在ル者皆頁人也。共-一文辞筆札 ヲ論ズルニ足ル者無シ﹂。詩論市一一日論在聞かせても猫に小判であらう。むしろ富士山と楼を紹介しにら﹁彼買人眼-一 一丁字無キ者ト雄﹂理解出来るであらうと云って居るのは、蛍時の漢鼠一'者が、長崎の唐人+伊三区分して、唐商と 文雄の政存とに分ち、山崎商を一戦税することによって、宵目的庇崇拝に有らざる在示して快とする一例である。米 府は大阪から海路をとつにが、長崎に若くまでの記事は散飲して不明である。 長 崎 冒 と 米 ・ 応 及 び 克 繋 九
商 業 と 経 済 O 五月二日長崎に若しも八月十六日まで滞留した。宿所は始め松浦漆士吉川東一の家、次に大村藩士品川作十郎 方、更に外浦町(今の豚版のあるところ)の品川永左街門方であった。交友の名は五十名近く皐けられてゐるが、 最も親しく往来した者には通事が多い。通事は長崎の文化の代表者である上に、全山崎詩迩を清岡に倖へる目的の 銭にも、通事に親しむ必要か有った 0 ・ 又 米 庵 が 二 十 一 ム 印 刷 、 か ら 七 十 二 歳 ま で の 間 に 入 門 し た 子 弟 、 五 千 六 百 人 を 記 した及門録中、百人目から八人は長崎で得大門人で、古川束一、品川作十郎、 牟 多 口 大 倫 、 今 村 文 士 口 、 何 卒 郎、劉彦弐郎、内田孝之進、柳隆山の名が記されてゐる。交友の重なるむのを列車すれば、
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i E l J 4 4 7 ﹀ O 一 町 羽 川 ' F ト JI 削 州 劉 公 績 と 稿 し 、 F J b 吊 一 存 度 、 I h サf c
、1 J 一 1 一 文化五年暮命に伏て満洲認を修めた人。米海はこの人の手を経 て、全唐詩逸を張秋琴の手に渡し、清岡に侍へ得た。 一、今村金兵衛。オランダ小通事、文化五年暮命により和的カピタンに就てフランス壊を修める。共子文士口は米 庵に入門。家は銀屋町にあった。外に今村獄問郎の名も日記に見えてゐる。 一、彰城仁兵街。鳴瀧に別症を持ち、米賂が遊んでゐる。彦十郎。彦次郎の息守持つ。彦共郎は遊詑家守つい冗 c 一、遊詑宮崎次郎。名俊良。蹄化人劉束閣の後であって、劉・腕泉として知られ庇通事である。別症に梅を植ゑ芸問、 吟香館と云った。交友を好む汲手な人で、頼山陽の来遊の時も、古賀穀堂と二人を招いて、支那式の舟港を行つ たりしたが、文政二年三十四歳で残した。回能村竹田の師文書一銭中にも‘その楓爽たる人となりと、梅泉症の盛 (長を云ひ、竹田が文攻九年に長崎に遊び、秋琴と北ハに皮闘となれる総泉症を過ぎて貯然とした長文の記事がある。一、神代十右衛門。唐通事、米庵はこの人に案内されて八月十日に悟巽寺(浮土宗、終南山光明院)に行った。 稲佐に在り唐人の菩提寺で唐人六十一人が参拝に来た﹁中ニ名有ル者、劉培原、王竹一知也﹂と日記にある。 一、紳代太十郎。府大通事となり幕命に依り満洲一誌を習ひし人。 オ ホ # 一、鈍鹿助五郎。説九官の後である。鈍鹿氏が山崎地から持ち来った笠・で、堆朱を以て一陶亭閣を管に刻し、帽に詩 何を彫つにものは米庵の愛蔵品となつに。 一 、 柳 隆 山 。 ( 柳 屋 ) 唐 通 事 、 銀 屋 町 に 住 む 。 一、何幸二右衛門、問、幸十郎。 一、吉雄六四郎(時に六二郎とも書く)オランダ通事。 一 、 徳 見 茂 四 郎 ( 訪 堂 ) 長 崎 の 宿 老 。 一、腹巻安八、長崎合所の筆者。 一、末失忠介。出島の乙名、中野柳岡に臨一・び繭摩天文物理に精しく、不識の性で濁笑と披した。 一、橋林栄哲。其子宗健と共じシ
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ボ ル ト じ 路 一 ・ ん 冗 外 科 陸 回 。 米 庵 は 族 行 前 暫 ら く 健 康 を 害 し 、 長 崎 に 在 つ で も 常 に多病で、門人となった怠多口大倫に大柴胡を投薬してもらったり、間野三圭、胡兆新にも診療を乞うにが、脆 物を生じた時には楢林の手を煩はしてゐる。 一、石崎融忠。長崎の実家、庇給目利。 長崎と米庖及び寛寮商 業 と 経 済 一 、 吉 村 迂 努 。 名 正 隆 。 一、品川永左衛門。米庵を山仰せしのみなら中、高野比羅の別荘に招き、叉銭別に明紳宗の紺紙金泥の妙沙経を贈 つ に 。 米 庵 は 家 賓 の 一 と し て ﹁ 熟 臨 百 過 シ テ 措 法 -一 於 テ 甚 ダ 得 ル 虚 有 リ ﹂ と 立 日 ん で ゐ る 。 一、大槻元筒。税磐里、一克洋の子磐渓の兄である。従弟民治(平泉と披し、後に仙塁の務校の事回となる)と共に 去冬より来遊中であった。 一、望無動寺慈海(費磐山利生院と云ひ岩厚郷にあり呉 A 一 一 日 宗 ) 住 持 は 十 二 代 慈 お 。 一 、 清 水 寺 賢 恵 得 忍 律 師 合 同 世 一 一 一
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長崎山興成院高野卒郷にあり。 一、大徳寺山論文勝春。巽言宗、小島都にあり。各寺に部宅に招かれ、大徳寺では十二曲の扉風、天満宮の額等を書い た。大徳寺の和備は、米庵と同行して長崎を設し、出府して護持院で住持を寿命し、持軍に謁し時服を拝領しに。 清 人 と の 交 渉 。 一、胡兆新。名振、字新、披星池。姑蘇の入。官時自多紀桂山(際窓)が幕府に唐障の招附刊を請ひ‘成瀬長崎奉行が 程赤城に人選を依抑制したので、赤城、がその郷人である胡兆新を亨和三年春同道し来ったのである。胡兆新に恩一ぷ 錆長崎に汲遣されに幕皆小川文庵(竹鳴)、吉田長蓬ハ羽深)、千賀道栄(柳外)の三名は七月江戸丸信愛して未だ若 せ 宇 、 米 庵 は ﹁ 先 鞭 相 見 ル ﹂ ' r 一云ってゐる。米庵の日記中、胡兆新に関する記事は﹁五月二十七日品川作十郎伯母 病甚シ。唐皆胡兆新病ヲ者ル。余亦之ヲ翻ル﹂﹁七月二十二日格基ト翌一柿寺ニ至リ胡兆新-一過ヒ準設ス。程赤城亦 来 ル 。 北 ハ -一 卓 子 一 一 座 ス 附 時 蹄 ル ﹂ ﹁ 二 十 七 日 。 : : : 崇 福 寺 一 一 至 リ 胡 兆 新 -一 辺 ブ ﹂ 、 ﹁ 八 月 二 日 胡 兆 新 型 一 渦 寺 ニ 出 余 亦封 談 ス 。 赤 城 来 リ 出 グ 。 ﹂ ﹁ 七 日 : : : 崇 一 脆 寺 -一 至 リ 胡 兆 新 ト 封 話 。 筆 談 久 力 / ス ﹂ 1 九日:::兆新額字亦末究ヨリ来
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一 の 六 回 で あ る 。 胡兆新はこの日には一世一向山聖師寺(蹄宗臨涜汲山石原郷にあり)に、七の日には聖書山崇福寺(静宗臨済汲高野卒郷 に 在 り ) に 出 で λ 、日本人の療治をしたことは、而九百日に依つでも知られる。叉﹁額宇が出来た﹂とあるのは、﹁小 山 林 堂 ! 一 の 初 の す 立 を 依 相 し た も の で , A A l 余 の 令 官 一 新 の 入 口 に 拐 け で あ る 。 兆 新 は 蛍 時 五 十 九 歳 で 、 其 子 世 一 惑 が 米 庵 と 同 年 で あ っ た 府 川 、 特 に 脊 一 服 さ れ た と 云 ふ 。 性 行 は 疎 放 で 侠 白 紙 が あ り 、 名 皆 の 問 、 九 一 品 く , 来 日 は 蘇 州 の 皆 、 李 雲 海 に臨一・び,大小羊毛を用ゐ、水準合総の法を説いて、米山町の書道にも盆する彪が多かつに。後年米庵が兆新を賞す 文中に﹁落第の書生にて﹂と書いて居るのは、進士なるものがいかに重んぜられてゐるかの一例であって太田南畝 も江泰交の場合に其洛第を試験に閲する賄賂の弊にかやつけて、かへって清廉の士の如く賞し、しかも受験自身を 路 一 e才右ることの設践として居る。兆新は文化二年日本を去ったが、徒品川徐荷舟が長崎にあって、そのま同法在俸へ に。米山地とのやで一訴は、山崎紙の縁枠の中に蝶山花を現しにものを用ひ、数十枚有ったらしい。崎港準語によって見 ると、米崎が先づ持病の治療を乞ひ、兆新が﹁気-一際結多シ肝牌ノ調達ヲ主トシテ治ス﹂と云って成方釜を書いて 渡した。﹁川欝(切)金七分、製香附。白布。蹄身。牡丹皮。星山梶。柏子仁(生。研) 誠 一 と あ る 。 次に米賂が臨池之鮮ありと云って、準法、来、紙、硯等につき専門的な質問を次々にして、兆新が﹁此レ初態一・ 加砂仁完(五分妙)三帖 入門之論一一泊ギズ﹂等の答をなしてゐる。叉隣国詩話在小倉山民文紗中に見たが、詩集は出版され丈ゐるかと問 長崎と米庭及び究罫商 業 主 経 涛 四 ひ﹁然リ﹂と答へ、底鶴の銘が今猶存すと開く天之を護るや、僕未だ巽場本在見す得難きゃ否やと問ひ、竹原本砕伯、 江南銭江府金山之内ニ在リ。然レドモ模糊、摩川切ニ犠エズ。蔵古ノ家或呉原財二一本有リ、将来購党寄ツテ来ルペキ 也﹂ト答へてゐる。隠間詩集、府内鶴銘共に十年の後寛努が只一部づ﹄の渡来ロ聞か}入手して居るのを忠ひ合せると興 味がある。叉米庵は-寛努百絡を贈り、兆新が﹁金大人佳作調高格古風雅絶倫。妙極妙極﹂と賞してゐる、崎港肝不誌に は皆川洪闘が﹁胡ノ害悪カ-フズト維モ必シモ子ニ勝一フズ﹂﹁倣気アルニ、似タルハ立フニ其殿町能アルヲ負プヲ以テ然 ルカ。間ク所ノ如クパ胡ノ把準ノ法ヲ諾ぺ後二指ヲ庭シテ用ユル無カラント欲スル者何グソノ古一一伴ルノ甚シ キ。之ヲ要スル-一今西土凡百ノ事慨ネ古法ヲ失セリ。呉-一朗ナルカナ甲子冬十月十二日皆川阿部主﹂と迫害しに。 叉米庵が扇面に心経を常一目して﹁文化秋初十日米庵河三亥業体護者﹂としたものに兆新が﹁準法活効。神彩秀縫。 可謂於臨古者也、蘇門胡兆新﹂と評誌をそへ、叉白書の扇面をも贈った。叉米山地は西遊折攻の第三容の巻頭に兆 新 の 常 一 u を乞ひ﹁龍飛鳳舞﹂の四字を得た。米庵が兆新の書を重ん
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たことは、米庵が其作る唯一同の倣帯帖に牧めに長 崎に赴く入に透る手東の追啓に﹁唯一十一説とてきしてむつかしき事も無之候。足下御在崎中渡来の舶尚と御朴木認可有 之候。江芸閤徐荷舟ない乙居合せ候へば、せめてもの事に候。僕西遊之目、兆新僅に一年有僚の在館に相九百し、資 に奇混と奉存候。伊宇九などより書風下候へ主も、江、徐に比すれば一著高く相鐙候。去今十五年。憶建知夢中 事也﹂と云ふてゐる。太田南畝も手東にご庶皆胡兆新蛍春(文化二年)腕園、光絹三枚計遣し詩を主せ巾候。者は 殊の外美事なり。紛々一両買の叢にあら宇﹂と記してゐる。南畝は、米庵が八月十六日に長崎を去ると入・淫ひに九 月十日に来者した小川文庵以下の官障と同行、奉行に随行しにのであって、その家唯一日に﹁十一月六日ハ文化元年)病中胡兆新に見せ候は Y 宜かるべしと申もの之有り候問、源卒盛衰記小松内府の例をひきて断り申候。病中の豪気 是計は自設に候き。婦人は格別、官吏の身として、異園の梁服すべき事には之有るまじく相断り申候﹂と云って 小川文府に療治してもらってゐるが、立ハ文山地は兆新に入門の鋳に長崎に汲遺せられた欝師であるから甚光興味が ある 0 ・市畝は又﹁亦冬、乳の卒、日間借小川文府へ相談候慮、よく鯉をたべ候がよく候由。 一切聴からものたべ候 事あしく候。とかくうまくなき淡泊のものにべ候が宜候由申候。此皮参一居候唐皆胡兆新へ相談致し候慮、別紙の 通薬方、書附くれ申候。珍敷もの故、胡兆新直筆のまよ返上致候問、御蔵ひ置成さるべく候。よく/、、 k 時 四 E 者の文 官でなき男に御見せ成され、御用ひ成されて然るべく候﹂云々、叉﹁一躍和かなる療治故宜敷候。二七の日は長崎 崇一脳寺へ出て日本人の療治致候。右療治請候に薬をもり候事之無く、別紙の通り薬方を奥へ申候。日疋唐にての療 治は皆々如此の事の由。日本の障者の薬箱の便利なるを見て感心致候由に候﹂叉﹁一、市川氏より世一日航参候慮今日 は取込、食品氾し申さやノ、宜敷相初み申候。右府皆の事御話成さるべく候﹂とある。市川氏は寛一驚かと忠はれる。 市畝と寛粛は同年(蛍時五十六歳)で親交があり、寛一知が六十三歳の正月南畝及渡港玄封と合して﹁三人間甲子。 奥飲一瓶酒。算来年幾許。 一百八十九﹂と戯れ正月匂に相舎ふを例とした。 一 、 程 赤 城 。 姑 蘇 の 商 人 、 丸 山 凶 時 七 十 歳 で あ る 。 橘 南 渓 の 北 窓 改 一 談 中 に 、 天明二年七月長崎に来惑の時居合した 庇人に、程赤城、程益拙、張秋谷の名、を皐けて、程赤城は二十歳から六十俄歳に及ぶまで年々渡り来って、日本 食に刷れた鍔に、老年の放を以て隠居して二三年渡米守慶してみにが﹁飲食のことに唱えがにくて、叉近年、年 長崎と米応及び寛繋 一 五
商 業 と 経 湾 一 六 毎に渡り来ぬ﹂と記してゐる。米庵との交渉は七月二十二日の筆談中に米庵が蔵笠諮を見せ、叉制点準法等につき 二 三 の 問 答 を し て ゐ る 。 叉 米 庵 が 詩 を 書 い た 扇 面 に ﹁ 米 袈 陽 ノ キ 一 一 u法-一臨ンデ活句スト栴スペシ。健羨々々。七十 老人程赤城﹂と記した。叉西遊折攻の匁に﹁桑淫阜市す。嘉皮九年巧月七十老人程赤城﹂と書き、米山崎はこれを胡兆 新の弐に泣いた。其笠談は洪園に﹁程ハ国ヨリ論ズルニ足一フズ﹂と片附けられ、市畝は﹁程亦城は祭に出候、辰巳 屋の隠居によく似申候。さてノ ¥h 芥子坊主は見苦きものなりにと書いてゐる。反巳屋は小石川侍通院前の茶涜飯 屋で伊藤惣兵衛と云ふ祭践の時に女装する則騒な老爺である。 一、江芸悶とは合合し得なかったから、米府との交沙も究郊の下りに合せて記さう。芸閣の兄で荒川一家の江稼凶は、 米 庵 の 蹄 府 後 渡 来 し て 、 逃 詑 彦 弐 郎 か ら 米 施 の 話 を 問 、 去 、 、 残 念 が っ た と 一 式 ふ 。 こ の 人 は 泰 交 と 一 去 ひ 、 張 秋 以 ケ を 畑 頑とする、子九番姉、背吉放の財制で落第の令官生、文武にすぐれ、賄賂なくて落第した一人で、主の文鎮に大、品川、 な斧の顕在使って武を忘れない志を示し﹁夫故商貰の事にはうとく御座候。和漢共に可喫々々﹂と市砂が記し、又 ﹁ 大 き な る 漢 な り 。 髭 も う る は し く 見 ゅ ー 一 と も 云 っ て ゐ る 。 一、張秋琴、前出符士口披の焔主、同舶の江泰江が米庵と行注ひになって嘆いてゐるから、この人も米崎と而九百し 得なかった事が知れる。然し米出席から全庶詩逸を托された穎川仁十郎は、これを張秋琴に渡し秋琴は﹁悼ヲ回ラ スノ時之ヲ詩人周一士-一体へ吟味ノ儀、貴闘ノ才ヲ愛スル呉一一人ヲシテ仰企窮無力ラシムルヲ徴スルニ足ラン﹂と 書き送った。全唐詩逸の其後の経緯を記せば、張秋琴はこれ守携へ蹄って、呉江の翁成平海深に婚つに。北人が
支に飽泌飲に贈った。飽泳飲は其著知不足賛叢書中に加へゃうとして果さ歩、其子清渓が成し就けて、これを第 三十套となしに。時に道光三年我文攻六年であって、文化元年を去る二十年である。 翁成卒が版文を苦し﹁・:別チ日本ノ丈島一白ヨリ海外他邦ノ並プペキ所-一非ルナリ。ソレ全唐詩多キコト数高篇 ニ至ル。必ズ平時議ク胸中ニ以山シテ、而ル後俳書ヲ博覧シ、方一一夫人ノサ氷結某句ハ捜羅未ダ護サ J ルモノタルヲ 知リ乃チ摘録シテ之ヲ築成ス、 此レ登易事ナランヤ、然ルトキハ則チ河世寧ノ好草深忠従ヒテ知ルペシ﹂と云 ひ、叉﹁幸-一清渓ソ能ク父ノ志ヲ成シ、吾誕ヲシテ未ダ見ザル所ノ全一日ヲ見ルヲ得セシム誠-一大快事也 L と云ってゐ るのは寛一郊の詩逸出版の志を米庖が成しにのと封服して興味があると忠ふ。 此知不足 ' M 刈叢書第三十七九訟は、克に五年後、文玖十一年に柏来して、林活費の手から米庵に奥へられた。寛努は 文玖三年に死して、これを知るを得なかった。米庇は一史に再び翻刻して、菊池五山が其の来歴を践に書いに。駿府 奉行羽倉用九(筒堂)はこの践を除く事そ勧めた。その理由は、敗中に覚努が愛児の遠く行く申告止めんとして﹁詩 逸ノ俸ハル只感-一時ヲ待ツペシ﹂と云ったと書いた事。か、寛一驚も詩逸の俸はり炭まるを欲するの意あるに似て、 好名の巣を克一れないと云ふ意見である。究費自身は書簡の中にも詩抱一の出版と此れを唐土に渡さうとする強烈な 希望を苦し﹁而して余の多累なる計の出づる所を知るなし﹂と正直に云ってゐるのに、筒堂は﹁ソノ清客-一因縁シテ 以 -プ 彼 土 一 一 体 フ ル ハ 立 ソ ノ 士 山 ナ ラ ン ヤ ﹂ と 猫 断 し ベ 此 事 足 下 一 一 在 リ テ ハ 心 ヲ 掲 ス ノ 美 ア リ 、 先 生 一 一 在 リ 一 プ ハ 好 名 ノ 泉アルヲ充カレズ(中略)五山ノ怠ハ足下ノ美ヲ開制ハスニ過ギズシテ先生ヲシテ溺其果ヲ負ハシム。足下登心-一安 長崎と米庖及び究費 七
商 業 と 経 済 一 入 キカ﹂と米庵+伊え一只めてゐる。五山も其の黙に留意し米庵が﹁潜ニ一本ヲ謄寝シ﹂と書し叉張秋琴に詩逸を渡し﹁東 蹄ノ後一々其事ヲ自首ス O 先生亦既往一一局スルヲ以-プ太ダ之ヲ責メズ﹂とも書いてゐるのに、筒堂は再度手紙を 透ってこれを削らさうとした。簡堂を山陽は一服令ノ随一 aヲ好ム、今鞍ニ蹴人﹂と云ってゐるが、其の所謂漢墜者の 米庵漫抄二加の中より ミ E
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. 八 . , 国防な一面在窺ふに足りる挿話である。 米庵の日記中には交友との交渉以外に 長崎に関することは少い。只﹁六月九日 庶般三般入津﹂、﹁七月一日。阿蘭焔入 津﹂、﹁二十五日。久留米間役坪池八左衛 門ニ従ツテ蘭焔ヲ巡覧ス﹂﹁早天密行シテ 新地-一唐人荷物上グヲ見ル﹂等の記事と ﹁旅人改役若杉理三太ニ一致リテ此地遜賢 ヲ 止 口 グ 皐 ル ﹂ ﹁ 閑 歩 シ テ 丸 山 ニ 致 リ 妓 館 ヲ 巡覧ス。虎之助ト余ハ衣ヲ挽ツテ蹄リ大 倫 ハ 途 -一 登 楼 ス ﹂ ﹁ 五 月 十 五 日 佐 賀 侯 ( 鍋 島肥前守治茂)此地ニ来ル﹂等の諸事を見るのみである。米庵は叉心鶴見えを書き止めた紙片を後年日本詩・認の底本を裏返した紙に貼ったものが二巻残って居る。唐詩唐諾の問答に片仮名で唐音の振仮名をつけたもの、 一 か ら 十 までのアラピヤ数字、及﹁紅毛開園より寛政甲実に至って千七百九十三年﹂(貨は四年)とあるもの等が目を引く。 ( 持 凶 参 照 ) 。 庶 一 昔 の 振 仮 名 に は ﹁ 月 ﹂ に ﹁ Z ﹂ 或 は ﹁ イ エ ッ ﹂ 、 ﹁ 客 ﹂ に ﹁ ゲ ﹂ 、 ﹁ 按 ﹂ に ﹁ デ ィ ン ﹂ 、 ﹁ 門 ﹂ に ﹁ ム メ ン ﹂ ‘ ﹁ 米 ﹂ に ﹁ ム ミ イ ﹂ , ﹁ 進 ﹂ に ﹁ ツ チ ィ ン ﹂ ﹁ ツ イ ン ﹂ 、 ﹁ 本 ﹂ に ﹁ ベ ン ﹂ 或 は ﹁ フ ベ ン ﹂ ﹁ プ ベ ン ﹂ 、 ﹁ 小 ﹂ に ﹁ ス ヤ o ワ ﹂ 、 ﹁ ス ヤ 、 ウ ﹂ ﹁ 走 ﹂ に ﹁ ツ エ o ク ﹂ な ど h 九 百 て L あるのが注目に値する。これは蛍時の唐通事の聞に用ひられた振仮名であらう。 腕路は八月十六日大徳寺勝春と同行して長崎を設し、時津守経て大村に渡り観一音寺に泊る。宝日嬉野泊り。夏 に佐嘉を経て大宰府にもうで、博多に出て加で赤馬関に向ってゐる。其の後も海路をとったが、八月二十八日鹿老 渡島に風雨を避けてゐ大時、暴風雨で破舟し、米庵も自身の荷物と大徳寺上人の行李等を引上ける銭に終夜濡れ て働き、米庵は株般になって﹁身氷ノ如ク冷顔シテヤてス﹂と云ってゐる。日記帳も濡れて火に乾し鍔に一部焦け 大所が残ってゐる。米庵は海路に懲り、諸人と別れて頼春水を訪ふべく、甘藷頁般に便乗して庚島に向った。春 水の彪で、蛍時好銅中で名を憐二と稀してゐ大山陽と初封面をなし、米庵は先日濡れた震か風邪を獲して﹁愛熱 惑寒波咳之-一加ハル。平臥ス。令子憐二余ガ左右-一侍シ湯梁自ラ努スル殊-一厚シ﹂と書いてゐる。 春水は西遊折現に加へるべく﹁波涛ノ険ヲ凌ギ得テ長-一我門ヲ拘ク・:孝子山水ヲ愛ス廃接繁ヲ厭ハズ之ヲ牧メ 詩査トナシテ一袈家傘-一献ゼヨ﹂と書いて輿へに。時に五十九である。山陽は二十五歳で、米庵より一つ年下で ある。四百字に依る迭
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-謹書し﹁文化巾子軍隊前一目、安誠一極憐二奔草﹂と書いてゐる。﹁書司'論ズル猶山水ヲ 長崎と米庵及び寛成調 九商 業 と 経 済 二
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観ル知キ也﹂の書き出しで、富岳、大井の水、嵐山阿蘇汲山玄海紫浜の奇抜宏悶を庶土の諸書法に比した文であ るが、その中で﹁粂﹂の字の右の黙を快主にして、活時の天子光裕天皇の御名﹁粂仁﹂に封する傘敬冶現してゐるの は注目に侵する。 米 庵 は 弐 に 岡 山 の 事 館 に 我 授 瓶 一 井 一 克 哲 ( 五 4 I 五歳)な寺ね、京都大阪に一辺官して、奈良を兄物し、伊勢に出で、 点令官の後松坂で本居大平吾訪ひ、寂照寺に月仙ぞ苓ねた。其後三河で秋葉山に参拝して、文化元年十一月二十七 日江戸に蹄若した。 西 遊 折 唆 は 、 抑 制 父 子 の 弐 に 、 姫井及関西の儒家四五、共に月仙(六十四歳)の人物総研泣き、賎府来行牧成傑 (三十六歳)の詩、菊池五山(三十六歳)の悉序これに絞き、最後に米庵が説文化二年春に、以上の主主在三巻に表 装して旅行中の詩と記事を書き加へてゐる。この記事中長も興味を引くのは鹿老島で破精した下りに﹁聖母助ク 有 リ 舟 沙 一 一 深 フ ー 一 の 一 句 が あ る こ と で 、 ﹁ 聖 母 ﹂ は 今 日 芸 潟 で 祭 ら れ て ゐ る 焔 組 の こ と で 、 砂 川 時 成 東 人 一 服 建 人 と 北 九 に長崎にも輸入されて唐人町には郷組廟があった事が知られる。一見に十年の後菅茶山が米庵を訪ひ、 一 文 を 巻 尼 に書いた。それは十一日干前米庵が長崎の蹄路茶山を訪ふた時には、茶山が東部に遊んでゐたし、文化十一年に茶 山が江戸で米庵と曾ってゐる時には、究費が神遜で廉塾を事ねた事を記し﹁一合一離差相違フコト物アリテシカ セシムルガ如シ﹂と喫じ、究蔚の蹄期は十一月で、余の出裂は十月の設定だが未冗命令が無い﹁或ハ?ン相及ピテ 前時ノ雨参差ヲシテ碍ジテ今日ノ一園祭タラシメパ幸モ亦甚シカラン 0 誠 一 フ ズ 物 ア リ テ 我 意 ノ 如 ク ナ -プ シ メ ン ヤ否ヤ﹂と疑ってゐるが、これは幸に寛粛の蹄者が間に合って、茶山は﹁サキノ参差相違ヘルハ却ツテ一段ノ感況 ヲ 先 エ 時 一 品 へ パ 春 出 H 哲 ク 陰 リ 係 ス ト コ ロ 有 リ ト モ 時 後 ノ 事 月 ハ 賞 心 夏 -一 守 尋 常 -一 倍 ス ル ガ 如 、 ン ﹂ と 喜 ん 花 。 究資が五十五歳の時に長子米山が長附に遊び、次に次男で鏑木姓を名爪口る主家の単一耳淳も、文化三年二月に二十 五歳で大村議の古一附となって肥前に赴いに。一崎山務の皆川い漂泊軒が此年長崎に祇役して、廿一八の紀行中七月に大村 で砂一戸市仰と合談した記事と詩がある。手一回涼も兄に倣って諸家の筆蹟な集めて一巻な作り、寛斎がこれに践を書いて ゐる。﹁:・余亦之-一台グテ云ハク。汝、ガ.怪ントスル一路三千六百旦ハ蓋シ皆乃兄が曾遊セシ所-一遊プナリ。腕ラ ン日一々ソノ逃ヲ同志一一七ンコト猫乃兄が一二時ニシテ腕リシ如ク、燦然トシテ之ヲ余ガ目ノ前一一陳セムカ何プ 唯ニ汝兄弟ソノ四方ノ志ヲ浴グルヲ符ルノミナラン、余ガ足小山小ダ関ヲ蛤一士ア百七ズト雌モ、亦マサニ其間-一臥遜 シテ以テ生一小未ダ港グザルノ立ヲ慰ムペシ、芝前五樹コレヲ階庭-一生ズ。老父ノ志願、早ル。コレ勉メヨ。﹂叉其中 に﹁余甚ダ逃ヲ立いプ、狐怯ムラクハ多泉多病ニシテ所志ヲ港グルヲ符ズ﹂とあるが富山一掃への奉公は中々忙しく隔 年に富山に奉仕するので其序でに飛騨に入。能渡藤矯港まで行く等の機合は逸すること無く版行してゐるが、初 めて京阪に港ん冗のは致仕後の六.十一歳の時であった。 文化十年六十五成の時、究班川は長附に旋することが出来に。この年、牧野成傑が長崎奉行となったので、その 幕賓となって随行したのである。成傑は此時四十六歳にが、十五歳の時寛斎に師事してから常に視しく交り、詩 長崎と米庖及び克禁
商 業 と 経 済 交に達して治粛と扮した。寛一知の娘孝(又は幸)は行儀見習ひに牧野に奉公してゐ大。先年寛禁が京都に遜んがい動 機の一つは蛍時成傑が京都の町奉行であっ↑内気である。 寛粛は文化十年七月二十五日に江戸身愛して、中仙港在涌一り、九月七日に長崎に若いに。そして翠文化十一年 九月二十三日に長崎を去るまで、 一ク年の消息は、米海に寄せた長文の書簡約三十通と、清人との交沙を漢文で 記 し た ﹁ 現 浦 夢 徐 録 ﹂ に よ っ て 知 ら れ る 。 寛震の役向と日常口、書籍廿査の賂定が主なものであって、役所内の長屋から日々餓蚕に出仕し、倍加が入涼して、荷物吟 味の有ろ時は検使として出役すろのであつれ ' h o A A 川以外の外出口足将仲間までも禁じられておろので、寺院寺島白出に見物口 出来なかっれらしく、米庖が寺の聯額臨模た望一ん
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のに到しても、﹁さてちとむつかしく可有之候。其諒口、門外不出之内九ゆ へ、一と足も出候事成不中候。おかしき定法、不向由無限候﹂又﹁何か長崎と巾す所、色々望ケ問致事多く、そうはならぬ、 こうはならねな主六ケ敷所に御陵候。家中の衆の勤向、争つく鉛直も御気泣に御陸仮事にて候﹂と云って肘ろ o 牧野鋲墓は遠 山公から事務在引金綾子、府一年で又法山公に代つれトが、長崎孝行に附随し士川向として﹁鈍官民も託方の御説多く、代金皆立 替にて殆ん苫千金斗にも成中候﹂と同情して居ろo奉行は北(代リ珍重なけ川島先づ選み一取リ符ろから書籍等の所詞抑制出物口兎角 ﹁拙が手には決て入不申候。不文の御奉行の咋妻候と宜供と、常に中笑中候﹂と戯れ、又石帯の玉た買っては﹁是は錦査へ中上 候て口、直に被召上候問、郁内々御沙汰な Lo ﹂な主云って居ろ o その鎖芸も入手し土珍 H 川口﹁もし御老若なぎへ問へ伎と直に 取上られ候ゆへ大に可恐事。銀事深く心泣被成候問、御手前切、決て御世汰は御伽⋮川に御座候﹂と一宮ふ次第であつれト。 寛斎は役向柄庶舘へ月に一二度出入が自由で有った匁に、清人に多くの友人が出来た。唐館及庇人に関する事を手簡から抜卒すれば ﹁同十八日(八月)に拙老及涼古克庖秀峯同道にて唐館へ被選候。語辞三人案内致候内、頴川仁十郎も出候て、詑内三腕始め 諸邸内持た凡廻り、談竹庖なろ船主の舘にて酒食た供し候。入頃よリ滞暮に至り大興に有之候。竹庖なろもりは淑江田湖迂地の 産にて、供ぜろ泊は紹興にて酸ぜろ庭、淡泊にて口に遇、ことに放翁郷里の消なれ町一しほ賀美もあっく候。主他陸品一二、郡 部岩など持者もい士し、此方凶人も縦笠・いれし快挺無限。人物の出維なろ歎伏いれすことにて候。商買の輩狛如、士大夫の人 品惣像い土し候ます / k h 海外へ参リ度在仮事にて候﹂ 源吉以下は奉行の臣で寛斎の門人である。寛斎は紹興酒を飲んだ経験談を、後年太田南畝の記した酒戦国巻の 践 に 書 い て ゐ る 。 O 十月廿三日﹁営年は庇舘に書主之人一向無之候中へ、克庖芳架涼古島召山辺、大いに持筆・いれし候ゆへいづれも大に恥入、営 そは苦主之人是非同伴い士し可申と巾沙汰に候。誰か面白き人参候様にと繁み待
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候 Q ﹂寛禁口、米庖の鴻に、主、著す庇の試 宅帖の潟に、清人の政文た求めようとしておろので、特に文人の渡来た望んでねるのである o 試宅帖と以米庖が壁土生花堂 に命じて製らぜれ笠・在試みて顔民、卿以下数人の書た臨して一一附とし士ものであろ。 O 文化十一年正月五日渡﹁試宅帖も七日に底舘へ参候て相談可申候。乍去・少しも能書のものなく候ゆへ J 一 一 月 師 帆 に 庇 へ 中 港 、 胡兆新事存止に候はゾ見ぜ候て、抜書ぜ侠方可宜と鋪喜被仰候。是は大妙計にて候と中居候、都静山石と中者蘇州人にて丈阜 有之候問、此者へ相談候はゾ出来可申候、左伎は、日狛面白き物と成可申候﹂ ω 胡兆新の事は米庵の時に細説したが存命ならば蛍時六十九歳である。然し胡兆新の践は得られなかった。O
凶月六日﹁試宅帖、践者ぜ候程のす一同家来リ不中候。訳者人は部部活一人のみ、翁と甚懇立に候故、書かぜ山叩候得共恐筆にて 供 。 夫 故 先 日 述 て 被 泣 二 郎 の 内 一 部 は 弔 問 竹 山 胞 に 波 L 近中供。竹応一主の交は呉錫肱と中供人にて四日間の官に升伎が、営時は官岳 長崎と米庖及び寛賓商 業 と 経 湾 二 四 僻し淑江杭州四湖の傍に家居致し供。是は文オ準法も勝れ候ゆへ、此人に見付}存分に政丈島来日かぜ上可中出巾候。定て夏般 には参候事と鑓み中供。(中略)可恨は相憾の訳書文雅の人保⋮之のみに御陀候 o ﹂ O 六月十七日﹁此皮肉 J 加には江荷浦之弟江窓同名大相兄え候。詩舎に耽リ候人物にて候
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、外に京税琴参リ巾供。常夏日大に- m
も出来可申と梁み巾候﹂ 江志闘が邸ち江芸悶である。 O 七月六日﹁先促中沼候遇、此度は民秋琴江芸悶多リ侠 Q m v 川朔日に始て館内へ参リ逢巾供。雨入品H x m
柔の質にて筆談往来面白 事共也。杭琴は去年九心詩待遇百絶手にて翁ら存肘巾供ゆへ、開附も川来巾候。ザ一古関口詩書叫んハ宜院。此末法問中間利も可致由 約置巾候。第一奇事は去年滞在致候認竹応、格別懇なに致伐庭、此皮の舟促に淑江銭坊脇より尺版一一迎遣し、・殊に梁同書先 生 の 筆 跡 に て 陸 放 翁 の 町 一 一 川 持 れ い ぜ 候 直 師 和 服 巾 候 ω 是日翰林院侍説明士にて、老後銭塘に引箔肘候人也。今年九十一成長宗に て候。竹庖策℃懇意之由明快告。果て此即物誠に家政永保と孜大鹿供。﹂ 梁同書は字元穎、挑山舟、乾隆壬申の準士で湖出詩俸中にも共の詩と小俸を牧めてゐる、脱俗的な文人である。 試一宅帖に践を寄せたことは後に譲る。陸放翁の詩を書いたのは、究瀧川 J い か 陸 放 翁 に 私 淑 し て 居 て ﹁ 放 翁 放 資 ﹂ の 著 が あり、これを唐人法に示してゐるから、梁山舟は竹庵から惇へ開いた匁であらう。この舎一怖は米庵が日日平県内に出合 戒して、今は上野の博物館に納まってゐる。 O 七月二十七日﹁:::江芸閣参リ伐 ω 此人質民生子にも一向無心にて只々詩告のみ畑山み巾侠 0 ・ : : ・ 五 山 詩 話 見 ぜ 広 大 告 に 面 白 が リ日本は仙境と嵯嘆い士し候。五山へも御附可被下供。試宅叫凡ぜ巾供。政も川来中供。先度の部部肢政よリは甚簡古にて 宜供問、師宅不待此促に活中候。主訟は甚早速にて兆新など、は大注に御陪侠。夫故面白くもなく候也。しか L 其人忍落にて、日々の絞佳作ないと寄贈り数十紙土まり申候。医秋琴も詩は上手にて是又唱和い土し申候。是日誠に船主にて安買方に心 配 い れ ト し 仮 故 、 ザ 一 式 間 程 に も な く 候 。 主 帥 劉 世 柴 も 能 出 来 ・ 叩 候 ﹂ 五山詩話は、菊地五山桐孫の著、太田南畝の狂歌に文化の中頃のはやりものを一議んで﹁詩は五山、主は文晃に、 市立は米路、一勢者おかつに料理八百ぜん﹂と云ふのがある。其の詩話は文化四年から年々一加密出し、 此時
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巻 で あ っ た 。O
八月七日﹁江悲川書似山中迎紋付段々御中越之旨承知供。額聯山手判銭の舎の事並々申談可巾候﹂O
八月十七日﹁此町民秋琴より北(元試宅帖一覧之上詩一ね贈り遺伝。先頃の江芸閣と一同上木も候牛と存候問、急悦に送リ啓一巾 候(中時)今和は山川付も商一日方にて甚以込之成子に問へ巾供。しかし芸閣は一向に棋ひ不中、只々文雅之事斗にて肘候由。﹂ 次 に ﹁ 攻 捕 前 γ 偽録﹂によって唐人との交沙在調べると、O
都 静 山 石 古央玄部制街の人で、究資が長崎に若して間もなく交りを結び、寛斎の示しに古銭及秘蔵金石目守合一 した詩を贈り、究資も詩で答へて、小菊紙在贈つに。静山石は九月末蹄郷し十一月五日再び来朝した。沈秋昇に托 して手紙をやり、弐日一井合し栄一一成した。其後も詩の贈答が有り、文化十一年春には寛・鷲の答詩中に﹁慮々東風春 正好。官身不許者で紅﹂の何がある。三月六日に試宅帖の政密書いて﹁嘉皮十有九年:::唐姑蘇静岩都知抜於崎 陽館合之松石軒﹂と記して居ゐ。それと共に究蔚から借りてゐ大放翁孜賢倣具詩、古鑑譜をそれん ¥h 讃詞そ附し て↑退却し、試一公帖は一本を携へて腕庇しにい。叉夏加で来るであらう、と書いて、やがて腕図しにものとみえ る 。 長崎と米庖及び克繋 二 五商 業 J と 経 済 一 一 六 江叫一玄関と張秋琴、丈化十一年六月半、始めて寛斎がこの雨人に面合した記事は書簡中に精しいが、場所は舶主 の沈締泉、蒋春洲の家であって、其時の筆談が記録されてゐる。筆談は寛努が門﹁春洲兄不見数月。夏雲如焚。此 知卒安。恭賀恭賀﹂。の如く﹁多感多感﹂。とか﹁恕憐々々﹂。﹁感々﹂。﹁謝々﹂。等の語が多く散見する封話を以て 奮 知 の 沈 、 蒋 二 人 と 挨 拶 を 交 は し 、 ・ 次 に 初 封 面 の 二 人 に ﹁ 僕 姓 河 。 : : : 児 子 三 亥 襲 職 。 三 男 五 女 婚 嫁 品 目 皐 ﹂ 一 等 の 履 歴を演べ﹁仰望諸君不実老朽。怖垂示教。何幸知之﹂と挨拶してゐる。此に雨人が答へてゐる文は筆談でも﹁老先 生﹂﹁府幕﹂の如、ぎ言葉は只行を改めるのみなら宇一字上けて記した鄭重なものである。府間この雨人と劉夢浮と 三人が七夕の詩を示し寛努がこれに和し、叉芸閣は﹁一番春雨数畦関、崎水庇山慮 A N 栽 、 一 線 日 疋 太 平 興 園 長 、 踏 青 人白帯香来。印求斧正、後思一立芸関昇草﹂と書き叉寛粛の近作を見て﹁老去漸倹詩伴細。社少陵話。鍔老先生前 之 ﹂ と 賞 め 寛 訴 が ﹁ 不 敢 活 。 多 恥 々 々 ﹂ と ・ 賂 じ た 。 翌日寛粛は手紙を芸悶に透った。﹁始めて芝居に接したのだが苔識の感じ.かする。 所謂四海兄弟と深く喜び、 鳴謝に再趨したいが錦、門殿軍で残念である。拙作と五山堂詩話を御目にかける。五山は門人で、叉大深一天民、柏 木如亭、島一海外と共に江湖四才人と云はれてゐるから江戸の詩風骨御覧になって評をしてやって頂きたい、叉豚 児三亥が試一宅帖を作ったから御目にかけて一誌を乞ふ。これも老牛祇信之情。術乞亮祭。﹂と申し送ってゐる。 七月十八日に芸閣が﹁(五山)詩話之論。情理宋優。法帳之妙。神恰心臓問。因知海上仙山。自多資器﹂と返事して 奮作の詩二十二を贈った。その中には兄稼岡が日本に赴くのを怠って﹁崎陽苔港地。去突慎経営﹂と歌った詩もあ
る 。 其 の 後 も 常 に 詩 を 寄 せ て ﹁ 七 月 七 日 遊 下 筑 。 贈 女 校 # 十 一 日 花 琴 ﹂ ﹁ 十 六 日 恭 訪 金毘羅山﹂﹁二十一日謁秋葉山﹂ 等の印興を書き送り、叉寛蕗加が崎陽の客舎で冬至に作つに詩は﹁窓泊蝿得力﹂の何が暖い長崎を想はしめる詩で あるがこれにも利し、常に姑蘇後壊と名のって文通をした。 七月十七日に芸閣が試一宅帖の践を建つに。﹁米庵先 生詩書皆入利口問。悶其字。 可以想見立バ匁人。一九州其詩。亦能懸擬其性情。所謂筆下自成千古業者此也。甲戊七月 十七日。飢於崎館停雲楼之、松定問、姑蘇芸悶江大相識﹂印には﹁底上往園江市節度使三十一世孫﹂と彫つであ る
。
張 秋 琴 の 践 は 長 文 で ﹁ 足 ハ 蘇 米 ノ 主 -一 入 ル ' 一 と 云 ふ 如 き 讃 詞 に 満 ち て ゐ る 。 失に究科川が携へた生花堂製の準を、芸閣が試みてなに遁した錦、悉く贈つにのに針するの詩がある。 叉克一好は八月四日倣具詩を決一った。倣具詩とは文化二年頃に其愛玩品五十種につき一品毎に一絡を詠じた詩集 である。添へて怠った文は﹁老兄歯痛に忠むと開く。 想 ふ に 炎 涼 之 際 。 時気が上街しに震であらう。其後いか ゾ。倣具詩は吾作で座興に作った物、たが病床の消閑の用には立にう﹂と云ふ意で芸閣は答へて﹁歯病は梢緩ん記が 末、に全快しません。仰の通り肝火が上街したにけの事で安静にして詩書を作らねば卒復しましょう﹂と云ひなが ら平建詩冶作って﹁先生疑是我前身。詩立人情克迫同県。設到子編倣具詩。 一吟一歎一相親﹂と詠じた。八月十六日 に秋琴が亦倣具詩を立める詩密贈った。十五夜には銭草↓で安合が有って克一知は﹁去年の今夜は須磨の浦に在つに﹂ と一五ふ詩在賦し、通辞がこれ在庇館に持って行ったので江、張雨入が治利してよこしに。書簡中には﹁笠月は三夜 長崎と米庖及ぴ買禁 二 七商 業 と 艇 部 二 八 B Cも晴天にて賞し中候詩も有之候天民宅の月見不利替事と存出し申候﹂とある。究費は詩の贈答円以外にも唐人で 履歴の不明な人々を書き集めて泣いて墜歴等を質問したり叉只唐人を敬ふ詐りではなく芸悶に批判しても﹁唯先生 平日用ゐる所の用品'いが光彩を穫しないことが遺憾である。想ふに乞ふ者が門に盈て熔接に暇が無い故であらうか ら、墨汁を一七回差上る。唐突の界は御恕しを乞ふ﹂などよ迫感の無い親切を以て感針し叉全府詩逸や米庵が準法 を示す将却に出版しに略可法を貸した。九月三日に芸悶が略可法に肢を令官、労¥九月上旬究鷲が山崎館を訪うて諸子に 告別したので芸閣は園扇に詩巻越し秋琴は劉鶴山の山水一巻に詩を書いて銭別としに。 武践設授論文中白川城市翁公の五十の引が九年遅れて文化十二年に行口れ士時に江芸閉が賀河島奉呈 L 士 一 山 す か 演 ぺ て 何 人 が 其 川に斡旋し士から疑って居られろが、文化十一午九月から十二年度の奉行は遠山公で敏腕の問え口市いが文雅の人ではない。 特に芸閣は文化十一年秋その川に防凶して十二年初秋に又波来しておろから、その賀前中に﹁二月花開介芯珪﹂と一苫ひ﹁嘉究悶 陀円十春天﹂と有ろによって賀廷が早春でわろとすろなら町、その尽の州共立につミマ斡旋し土人は奉行牧野、比傑と挽定されろ o 白 川公口和々の法帖立ひ入れたも奉行に依頼しておろ。究震は八月七日の手紙に﹃一、江窓同公一五閑)点少仮出巾進伎に付段々御巾 越の旨承知致し侠縞聯等特銭の主の事並々中淡邸宅之節持品会巾べく供、錨奈へも御川中間供、いづれ遅日参リ面談致べく伐﹂ と書いておろが直接賀辛に踊れ士丈匂は無い。一方江戸では禦裁公の近侍で有力な田内月堂が米地の五友の一人であって長崎 へ披来の来日物につき問ひ合ぜの尽米府 J全部ね大事買もわろから、饗翁公に江芸悶の波来その名発為印泉さぜろ一回がこの方面 にも有つ士かも知れない。 江作一五閣は究努の束師後間も無く長崎を去つにことは、安一文化十二年二月に治龍彦次郎が寛一滑によこした年始朕 に﹁昨年冬般にも格別風流家も無之候。十一五閣はいづれ常夏は再渡の由巾越候 f 一とあるので知れる。それが宜現しに
とみえて、乙亥(文化十二年)桂月初八日の日附で芸閣が長崎から寛努へ官官を寄せ﹁今夏主ねて貴慮に赴いに。崎地 詩な知る者少くは無いが、共に精微に談論し得る者が甚竿で、胤の及、月の夕、戚然として紳馳せ、所謂美人在 天の一方に笠む忠ひがする﹂と書いて誌と共に贈って来大。其後の十一ー隠との交沙を辛ければ天保三年に時の長崎 走行牧野長門守成文が江戸に郎って羽倉筒堂守椛て米比に江主閣の書いた扇而を贈った 詩 は ー 唆 消 械 翻 ザ 一 玄 関 句 、 江 部 桜 絶 米 山 川 市 一 一 u ﹂とある。米山川はこの誌に﹁宋市川侍王雌深悦海外得知公有俄﹂の二句をそへて掛物に書き牧野に 贈った。この幅が﹁はしがき﹂に書いた武藤教授から一不された一一腕で本稿在認める機縁となったものである。この 牧野は成傑の親類であり仲介者羽倉筒堂は前に全唐詩逸の肢について云々し大人で、此所でも一 i 江子ノ詩ハ時 京ヨリ出 J アズ。ソノ河翁ノ苦-一比スルハ治ンド白ラ知一フずルナリ。然レドモ攻浦ト東部ト大小懸絶ス。江ノ河-一 遜ルモ亦此ノ如キノミ﹂と一おってゐる。 文玖六年に米山地の門人山内香与が長崎に遊び、 同八年師府して前年八月四日に江芸閣の令官いた詩在もにらし ー に 。 ﹁ 攻 油 逃 避 己 十 話 。 十 米 塗 西 抹 笑 文 場 。 師 門 瓜 義 還 如 咋 ( 謂 克 一 味 老 師 出 ) 、 家 問 一 e淵源後克 H日 。 香 写 児 印 好 才 子 、 欣 知 桃 李 列 門 地 。 旦 言 ム 本 町 一 叫 、 米 山 地 硯 兄 正 、 江 去 関 昇 稿 ﹂ と あ る 。 文 攻 九 年 に 話別難注意時傷。先生有徳世藤長。 米山地の門人本多佐渡守が長崎山本行となって七月に出穫しに時、香写は米府の紹介で神代太郎を通じ江作一五閣に透る 手紙を依抑制した。文中に﹁長崎の腕路田能村竹田と山陽在訪問して共に攻捕の事を談じ先生を憶つに。二人亦先 坐の芭知也﹂とある。然し山陽が長崎に逃んに文政元年には芸悶は師岡中で山陽が寸戯レニ校舎袖笑-一代ツテ江 長崎と米陥及び究資 二 九
,商,時五と経済 O 辛夷(十一再開)ヲ憶フノ詩﹂を作つ仁。抜書とは餐妓のことである。芸閣は文化十一年七月七日にも下筑に遊び女校 f u花琴に贈る詩に﹁同是寄人経昨容。脚須憐我、我憐仰﹂と詠じて、常には﹁寛一好老丈款正、香芸関昇稿﹂と書くの にこれは﹁老先生一晒 草稿﹂と認めてゐる。他の女校書の家で作った艶一腿な詩も散見して、芸悶が一艶一楠家で有 ったと云ふ話の一端を示してゐる。叉額火口坪は、文化十一年の十月以後に長崎へ来遊したことは、逃詑彦次郎の 笠年の年始肢に﹁先頃額高四郎部地に参られ唐舘にて相命日老先生の御母いこも致され候﹂とあるので知れるが、芸悶 の来唐と杏坪の来遊との前後は知り得ない。骨子、後天保元年に仙塁の主家菅井梅闘が、長崎から江芸閣の常一同胞を得 て 蹄 り 、 山 陽 が 其 践 に ﹁ 束 邸 孔 陽 一 一 示 サ パ 蛍 一 一 考 ウ ル 所 有 ラ ン ー 一 と 云 ひ 米 山 崎 が ﹁ 己 -一 子 成 ノ 限 ヲ 照 。 必 シ モ 余 ノ 管 見ヲ待タズ﹂と書いてゐる。 。談竹廃。劉長箔。沈純泉等の焔主については前に記しに以外に丈化十一年夏沈約'呆が江十一再開を同道した時に蛍 時蹄圏中の一説竹庵が梁山舟の書いた陸放翁の詩を究努に贈ったことは前に書いたが其時長おも犀角杯一封と扇二 柄を贈って来大。長箔は丑四番、水興披の畑頑で文化二年にも渡来してゐることが太田市畝の手紙の中に見える、 此等の人は郷静岩でも詩談以外は自ら唐尚何誰と令官いてゐる。 。陸三品、文化十年九月寛務が始めて庇館に活ん冗頃から長崎に居大陸師で、名は加金。山陽が来遊しに時は、 こ の 入 と 揚 小 絡 以 外 に は 共 に 談 宇 べ き 寸 前 人 が 無 く 、 立 パ 宅 設 も ﹁ 一 長 柄 疾 有 リ 百 方 怒 工 。 ス f 一と治療を乞ふたもので其中 に ﹁ 長 崎 一 一 有 ル コ ト 己 一 一 八 年 ﹂ と 見 え て ゐ る 。
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梁山舟、先に寛一驚の書簡の中で、談竹庵が梁山舟のす一日ゼ贈っ大下わでその略俸を記した。乾隆壬申の進士であ る。寛一驚束腕の翌年、文化十二年二月遊龍彦次郎が詮つに年始以の文中に﹁昨春王復初に御渡しの令郎米庵君御 帖、邸杭の上梁山舟へ見せ候慮、右帖は同人奔領いにし、此筒抜、並びに法帖一札山舟より令郎君へ差上呉候様と の秘にて、王復初持渡候につき、則此使に芳一上申候。御落手可被下候。﹂とあって右の口聞を送って来大。帖とは試 一法帖である。政支を上刻する時に、寛一知が北ハ俸を令官きそへてゐるが、肢を書いた時は九十二歳であると山舟の白 書にも見えてゐる。贈られた法帖は、山・丹の自筆にかミる、自家の引世論を上木したもで.米海は王鹿舟、朱閑雲 の主論と合せて清三家主論と命名して出版した。 成人との交際は﹁庇入と大懇意と相成り是計も長崎の一つ附と存られ候 L ﹁ 正 月 十八日山崎館に勾欄をかまへ泌戯有之、鋲蓋も御賢一有之、拙も参り申候。是等は生柱
涯の見物にて候 L ﹁笠十九日は御家老見物に被参候。拙老は柊別唐人懇意故、別段 被招、参り申候 ο 庇館の風流中々言語に悲し申さゾる事に候 L ﹁誠に近頃は唐人の 様に相成候心持にて、此度の蹄帆には同道致申度と皆々申候。奇遇なら守や。偏 に 鋲 去 の 厚 な に よ り 、 生 涯 乙 れ 無 き 山 中 本 事 を 極 め 候 L ﹁庇客皆懇訟に相成、日本詞も大に遁じ申候 L。叉﹁唐館の雲隠 に如岡箱有之候。無双に而白きもの也、 一寸申進候。まにぎし穴の上に、如此箱を m 山 一 候 。 此 上 へ べ っ た り と 肢 を かけ、せまき方は小使、ひろき方は大使、らく / ¥ h と致。奇妙々々。成館内不残此漣の雪隠なり。此事は清俗記 長崎 k 米庖及び寛成 M商 業 と 経 、 活 間にも無之珍設なり。如何如何﹂とあるのは謹厳な老渓忠一者の寛斎が若々しいキュ!リ才シティーを失ってゐな い例として興味深く忠はれる。 オランダに関しては文化十一年には阿繭陀使遣が勝軍に請する匁参府したが一月九日の愛足に通事に物品を托 しにのみで記事は﹁繭舶へ監察に罷り越し、緩々舟中一覚、前人へ接話、酒来設すも奇珍にて一々嘆奇候斗にて候﹂ ﹁繭舘へも皮々参候。カピタン部屋の娃殻は俗眼を驚かし候事にて候。 附子の般箆多くつるし、 有之候。中々俗 ながら面白きものも有之候﹂とある詐りである。 。日本人との交際は、唐館との交渉の﹁御内用向、御家老の外に拙老を以って談じ方仰せ付られ候ゆへ﹂品目通院等 である詐りでなく、門外不出の制も加はって活詑の如き米庵山陽等が長崎へ来れば、必中別培米で盛んな作文守聞く のを例とする汲手なる人物と親しくしても封而の機舎は常に役向上の交沙にのみ止ってゐたらしい。書簡中に散 兄する人名は、穎川仁十郎。同問郎太。神代多十郎。日付役平野小一一五共右術門。遊龍彦宍郎。中村作五郎。品川作 十 郎 。 今 村 金 兵 街 。 恵 助 。 以 上 は 背 米 山 崎 と 面 識 が 有 る の で ﹁ 度 々 参 り 候 て 御 町 中 候 ー 一 と 総 沢 一 し 令 官 い て ゐ る 。
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人の消息は只﹁末中川忠助と巾男中々而臼き人物にていろノ、古跡十日物等も間出し大度!一とあるのと腹容倫太が大村 まで出向へ、北、後合所役所詐来栄者小説となって御目通りが出来ーに。﹁直ちに受抑へゑ皮心願に候えども、飛越 に相成候事故.先づ一段御日渡し以上に相成り.北上にて一件仰付らるべくと巾仰趣訟に御座候!一とある位のもの ロ。品川作十郎父子は米海が宿泊しに担任の間柄放度々面舎を宅みながら共の機そ得なかったらしいのは通事でなく大村議士であった負かとも忠はれる。 。宍に購入品の事をお粛の入手しにか否かに関ら宇蛍時の渡来品として書簡中から拾って見ゃう。 常時の貿易欣態に関する記事は、十月の書面に﹁九月二十日阿関船出帆、並びに冬般で御説品の来るまでは総 て品薄にて﹂と報じ十月の邸般に程々注文を申しやり、十二月の書簡によると、十一月二十日過より唐般五般入 津、オランダも十月に入注しに。共に三月二十二三日頃に六般の舟残宇部帆し、一息舶は五月二十七日に若岸。引 絞十二家方三般参者候託氏方は未一一般も来不申候。﹂十二家方とあるのが物々交換用海産物の俵物請方ならば寛玖 年閉までは十一であった事が記録に見える。立べ後数を増したか寂し注ひかを知りえない。﹁阿繭陀も延々参るべ く 候 L ﹁咋主(七月六日)⋮呪府人跡紘一隻洋中に見へ候出逗見番より肘有之候。叉々参候事と存候 1 定て今夕者岸と 存られ候、﹂﹁阿前陀到若(七月二十日)﹂このオランダ舶は九月二十日頃出帆の珠定で銭去の邸府出裳が二十二日と 定められに。以上夏加冬焔で到若した貨物は﹁丸荷役、精荷役と申事有之、日々新地御蔵前にて唐人荷物吟味改 有之候。老拙険伎となり何日早朝より部晩迄出役いにし草臥はて﹂と云ひ、丸荷役は﹁総荷物御結殻入。精荷役 は荷物改切ほどき吟味﹂ と 説 明 し て ゐ る 。 これ等の品は公に一民り出す物は ﹁ 此 方 の 例 に て 、 去年渡来の品、蛍 秋 一 民 排 に 相 成 候 。 夫 故 山 町 m 瓦般の書籍は、江戸伺ひに成候ゆへ。未一向に頁出し申さ宇候。春の事と存られ侯﹂と 云ひ、叉二月の主一向には﹁詫冬持米の諸荷物、長平直段組も相演、此節尚人波しに相成候﹂と云うてゐる。 一只買の仲介者は﹁組依いこも、知日間五哉、つ﹄色々持来候て:::書籍の外は断じて買取まじく存候慮、左様もなら 長 崎 と 米 山 川 及 び 究 班 M
商 業 と 経 部 四 ぬものにて、色々見候内に心迷ひ,人々是にて日を設候様に成申候。鎖歪も同じく、粗併の物と合所の物と唐人 部屋のものと色々打混
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、御用字分は買入の頁買の如く‘日々債の高卑を論候事にて笑ひ申し候﹂﹁上下共買過候 て困る程の事に之れ有る可く候と笑ひ申候﹂其鍔の資金は﹁克受用金も四十金は渡り可申趣に御座候え共、 ス己 も 活暮来三月と九月と三度に御座候由。去ながら合所調物は不残掛買に相成、受用令にて引落申候由に御座候問、 書物初色々品々偽程引受け﹂其上三希堂帖なる高債な本を注文して﹁一部につき此方の金にて三十雨計之値段と 取沙汰いにし候。左候へば粥参り候ても、中々受用位にて申受は成申間敷候。廿一八外も色々申越候品多く候問、御 手蛍の六金位は一向引張足申間敷候。拙も道中筋上州にて存外にもらひ多く:::二雨程も入手いたし、元来の市 に合せ十一金程も有之候得共不足に候﹂資金難は誰も同じであり、しかも十一月が問であるから十二月前には皆 ﹁ 不 手 廻 ﹂ で ﹁ 甚 古 物 少 な で L ﹁ 御 家 中 一 統 込 り 申 候 ﹂ と あ る 。 こ の ﹁ 図 り ﹂ を ﹁ 込 り ﹂ と 書 く の は 若 い 時 か ら の 鮮 で あ る 。 其不足在補ふ方法として﹁:::一と荷物海運いたし遣申べく候。十ノ八九はうり物に候問、其方にて御さばき、 金 子 に 成 さ れ 、 早々此方に可被選候。其金子にて叉々調え物致し遣すべく候。 ニ返も往来候は h 宜しかるべし と存候え共左程にも相成問敷くや、せめて二返は打返し申皮候。其方にでも御了筒成され、丸山凶暮の虚御勘椛折、ほ しきものも蛍分見合せ、少しも多く此方へ金子御差下成さるべく候﹂と云ひ、掛物は﹁能々すばらや又は庄八なE
に御談しなされ﹂てするがよい。 金子差し下しは横綱(牧野銭塁﹀用人の飛脚御用便に頼、め等差回して木訟に入 用な物を最後に買ひ入れる﹁先づそれ迄は商人と思召、元手の御才質専一と存じ候﹂﹁誠に長崎へ参り候ては、欲心 没 々 と 相 成 申 候 に は こ ま り 申 候 ﹂ と 一 五 ひ 建 つ 仁 。 次 の 使 一 り に も ﹁ 少 々 づ λ も金子御才受御下し下さるべく候。左 もなくては笠の山に入りながらに御座候﹂なほ其外にも切に・送金を笠んにが文化十二年三月になって、五雨十雨 と合計三十雨程届いた頃には、書籍法帖の代金は江戸納めの事になったから、長平送金せ宇、そちらで貯えて置 いてくれと云ってゐる。 牧野銭去は常に寛一知父子守庇護して日忠一しい主帖を米悔の震に取って泣いてくれたりはしてゐるが、千金の御 立替金を諸公に背負ひながら‘寛努の分も江戸納めにしてくれにのには、厚意以外の事情も有つにらしく、去丸、寛 務が買入れて荷作し、愛会しようとした物が三月に入つでも御焼印を下さら守、引留られてゐて、六月でなくては 江戸に若かぬ。罪、惑に﹁少々諜合之有りー一とか﹁色々長崎有事は幾り有之候面談ならでは﹂とか云ふ何かの事情も有 つにかと忠はれる。然し寛一知としては依裕を坐じ﹁右金子にて、外に何かよか物を買ひ入れ申すべく候﹂と云ってゐ る。直段は﹁ A W H 所より出候日間々は珍奇多く、ことに下廉なる事計なく候。中々江戸にて忠ひ候とは大蓮ひとて、 n A 池など初めとして‘ 此方の直設地一向之無きはづの事品。 拙老とても申粂候。蹄候後内々に申問え申すべく 候。﹂とある。此亙池は奈惟惑と云ひ、文化三四年頃奉行土屋氏に従って、長崎に遊んに時、米庵が唐人に墜ぷ事 を勧めたので、胡兆新は腕間間後につにから、其弟子徐荷舟に墜んで蹄つにので、米庵が胡兆新の幸一日の﹁星池﹂と欺 し た 幅 を 贈 っ て 、 其 披 を 襲 用 さ せ た が 一 u家である。又﹁総て匹以付桜て内々の事人に云はれぬと思召さるべく候﹂の 訟を二三皮詑立し、船積みで設会する匁長持等に詰め物在して破損を防ぐ手数を云ひ、冬の玄海灘で破船が有つ 長崎、と米庖及び究務 五
商 業 と 経 済 一 六 たから、護送申告延ばすとか、叉﹁船積物本直段の外、運賃雑用一と樽に付一分づよ悶り申候問、排の節北九思召﹂竿 細かく認めてゐる
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書籍は第一に三希堂法帖の事が、非常に精しく説明されてゐる。三希堂とは乾隆帝が書家の粋を集めた帖で、 王義之、王飲之、王淘を巻頭に置く故に三希と命名したと帝の践にある。長崎へ若くと直ぐコニ希堂怖の事甚一六 んノ敷問へ巾候。鐙塁一部、白川御抑制、一部、拙願一部中退候﹂と云って、其代金三十雨の工而にか=ってゐるが、 現品は十月末日﹁劉長鈴が舟に、三希堂法帖一部光づ我来候。一談竹出町が舟には猫更持来候由:::左候へば彼是無 く拙老方へ申受候事、銭去も御承知に候。夫につきおかしき略之有り候﹂と云って、枠外、三希堂を取寄せて一覧し たが、呉成の三希堂ではない。 二箱にして六帖づ h 、 寸 二 怖 で 、 一 方 は 三 希 堂 撫 本 。 一 方 は 寄 暢 同 法 的 で 、 山 以 を読むと、元来三希堂帖は﹁御物にて中々人間に洛候ものにては之無く候﹂放に寄暢園奈氏が一部賜った物を多く の子孫に示す錦、其内を少々双均枝勃して六帖とし、いま一箱は、得暢闘で先祖奈准小恥から世間前の名家脳内元一船主 で を 六 帖 と し て 、 一所に子孫や同好に倖へたもので、土屋公(先年末行であつに人)の取寄せられにのも、此木、に と合所役人通辞も一エふ。異の三希堂は中々人間へ溶る初では無いのに、土屋公は御存知なく、更におしに物であ ることを﹁御泌し成られ候事、誠に可笑事に伎はや y や﹂と云って、帖内の目録をおしてゐる。前出三名家に続い て、諸途良、顔奨脚、柳公様、茶君謀、東波、米市、子品、士一民共 H H 其外を列車してゐる。入手しにら正月の阿前 使節上京の時に通辞にでも税む積りの所﹁法的少しずつ﹄も透度候得共、鑓主深ぎ御趣意有之候故、議巾泣候口問々は不残御預り相成、御部府之上配分可被成由に候問、其前には差越難く、色々の誇合中 A M一 筆 紙 に 査 し 難 く 候 。 ﹂ と 云 ってゐる。諸候へ問えて無理な注文品の殺到を恐れる等銭歪も﹁何かと色々御心遣も有之候﹂と云ふ・次第で、三希 堂の白川仰木翁公御頼みの分も詮ら?に押へて江戸で進ぜられゃうとして居られるので、山山本翁の近侍国内主税が、 米底の五友の一人ゆへ、三希堂の・米否を米山胞に手ねた。この田内は山陽と柴翁公の聞に立ち、日本外史の呈出に 主力した人である。﹁田内氏三希堂の事苓ねられ候由、御挨拶之旨至極宜しく存じ候。銭塁へも御・
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申候慮、よ しノ ¥h と仰せられ候。﹂と一去ってゐる。﹁御識に付渡来法帖書籍目録﹂として法帖は十二種、草木十一、書籍十八 積、外に持渡品十八種を部数も一生起してゐる。この内三部参候品にでも‘緯山、コ一墳、感鶴、方図(庵一説)蕪 湖 ( 燃 記 ) 、 同 州 型 放 ( 序 ) ( 出n m
本である)なか﹂不残三亥へ遣すべき旨仰せなされ、誠に御厚意難有事に御座候。人 帖は手前に所持之十字鎮去御存知、日記は下され中候。立パ思召にて御抑ひに成候事無用になさるべく候。星鳳(棲)は ふ台本中受候問、北方之本は御抑御克に存じ候。﹂と有る。人帖とは忠節の人の準践のみを、清人銭保の纂したもの で あ る 。 ﹁ 放 翁 全 集 入 手 の 事 、 天 民 五 山 へ 御 附 の 山 不 苦 候 ﹂ 非 、 外 の 買 入 目 録 は 、 山 南 暢 国 帖 、 墨 池 常 一 怖 、 快 写 常 一 帖 川 、 同立堂柏、王制堂帖、涼化帖、草字会、淵鑑。﹁比清合集全部調へ丘中候。経武之部、 和板に成候上は、前々の 直段より減し申べく候。此筒何却に候や。すはらやへ御間合下さるべく候。立外十ご一昨一、三組義疏も一員本有之候 え北ハ、区校一日川く倣ゆへ、兄合居中候。序に御問合せ御中越可被下候。経訓堂、問帖考正は渡り申さ示。夏舶に巾 泣 す べ く 倣 ﹂ 一 i 随凶詩集、北ハ方にも出候山、不思議に御座候。遠山公の時彦候沙汰も承ら中候。法的、山内人の子に 長崎 L ﹂米庖及び江藤 七商 業 と 経 済 八 渡り申さ作品る様に成され皮き由、多分の渡'りゆへ中々左様には成り巾さ中候 L ﹁ 松 陽 講 義 と 申 す 書 籍 一 秋 、 臼 疋 は 清 の陸基の著漣、極々かしにきす一日物なれ北八、経設甚而白く、且は詑基の宣車窓むべき物と存じ求め置候。序子に祭酒 へ御開宣下さるべく候 L 。祭沼は林遁務である。﹁銭鼎字源と巾令官、是まで知らぬもの、令官家第一の調法、部数も 多く渡り候間‘拙老も十部申受候。令官、法正傍ないとは存外債も貴く、二十匁僚にて候。其上渡のも少なく候問、三 部買取遣申候﹂。赤、外の債は三希堂の三十雨の外は﹁法帖之償、御問なされ皮由、ふんに存じ候得北八、御取替物に成 候問、憶に分 h v 粂候由、未百不明になら中候。大王畑堂一帖金一枚牛と問え中候。夫にて御ならし御考えなさるべ く候。何でも下料と忠召さるべく候。陸放念全集千疋斗と巾事に御座候 L 。 と云ふ調子であるのと、分明しに分 は﹁別紙御内覚、極秘の事﹂で知る事が出来ない。﹁御取替物﹂と一石ふは山崎貿易に於て銀の流出を愛る錦、加数商額 を定めた上、或程度の債格は物々交換を規定してゐたから、 それを指すこと﹄芯ふ。以上が冬加の入荷であっ て、夏婚で叉、帖七。一腕八九渡来﹁右残ら中銭塁御取置に取計ひ丘中候。御蹄府の上御一覧御計策なさるべく候﹂ これ等は﹁絡んバ妙々﹂であるから召上られることを恐れて御大老若年寄ないとの耳に入ることを警戒してゐる。叉 ﹁此間下廉なる十三経出候間買取申候。 小 口 手 す れ 候 北 八 、 現 今 の 板 よ り は い 宜 候 。 十六套償四雨二分にて手に入 候。斯様の事は稀れなる下直に御座候﹂﹁知不星野叢来日二十六査一部、其元分に一部のけ置申候。大凡八九金位と 存られ候。方債の事元大秘也﹂この知不足努叢書に、寛斎の死後全唐詩逸が牧められた事は、前に述べたが、究 賓がこの叢書に法目してゐ大事は失の手紙で知れる。﹁一、知不足努叢書の二十三四の峡に、 五行大義を牧入い
たし候践に、日本逸存叢書の中に得にりと飽以智書置き候。林氏は定て御承知とは存候得共、 一 す 申 選 候 。