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島田昌彦島田昌彦

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﹁国語における副詞﹂について︑その依拠する文法体

系に従い︑様々な論考がなされている︒︵注1︶﹁副詞﹂

を︑他の品詞とは異なった分類基準の中におく﹁時枝文

法﹂の例を挙げるまでもなく︑﹁国語における副詞﹂の

品詞としての地位は安定せず︑現在︑﹁国語における副

詞﹂について共通理解されているものは多くはない︒こ

の小論は︑あいまいな点の多い﹁国語における副詞﹂を

取り上げ︑﹁国語における副詞﹂とは何であるか︑その

本質を探りつつ︑併せて︑﹁国語における副詞﹂の種類

と︑修飾語とは異なった機能を明らかにしようとしたも

のである︒ はじめに

国語にお

Iその種類と機能についてI

け る冒田

昭和妃年6月肥日︑内閣告示・内閣訓令された現代の

国語を書くために選定した﹁当用漢字音訓表﹂では︑そ

の﹁表の見方及び使い方﹂の﹁七﹂に︑﹁例欄の語のう

ち︑副詞的用法又は接続詞的用法として使うものであっ

て紛らわしいものには︑特に︹副︺又は︹接︺という記

号を付けた︒﹂︵傍線は︑筆者が付けた︒︶とあり詞﹁果

たして﹂﹁改めて﹂﹁挙げて﹂﹁極めて﹂など︑語末が

﹁て﹂で終わる﹁当用漢字音訓表﹂の例欄の語Ⅷ語に

︹副︺という表示をしている︒この﹁表の見方及び使い

方﹂は︑﹁副詞的用法﹂と言って︑﹁副詞﹂とはしてい

ないが︑試みに︑﹁当用漢字音訓表﹂の例欄及び付表の 現代の国語における副詞

島田昌彦

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語に掲げられた九千五百七十五語から︑同様の和語の

﹁副詞的用法﹂が存在するものを集めてみると︑六十六

語あった︒すでに︑﹁副詞的用法として使うものであっ

て紛らわしいもの﹂という記載の仕方には︑これが︑固

有の﹁副詞﹂というようなものではなく︑他の品詞に属

する語︵以下﹁他の品詞﹂という︒↑︶と関連を持つこと

が暗示されるが︑摘出した六十六語の他の品詞との関係

を﹁現代の言語感覚﹂に従って整理してみると次の表の

ようになった︒

︵表1︶

﹁当用漢字音訓表﹂の例欄に掲げられた副詞的用法に

使う語の現代の国語における他の品詞との関係︵注2︶

壷一議と湊係かある一室

形容詞と関係があ一危勺もの︒

形状言と関係があ一正③ものo

い靴細蝸嗣蛇叩噸蛎︒一日 名詫と湊一傍かbの︒ 表仮一語識ゆ念路︶卵 ︵注︶表中の傍線の部分は︑形状言としての用法を表す︒

副詞的用法に使う語の肥%は︑他の品詞と関係する︒

なぜ︑国語において︑﹁副詞﹂と目される語は︑整理

されたように9割近く︑他の品詞と関連を持つか︑﹁国

語における副詞﹂の本質にかかわる問題として︑まず︑

検討されなくてはならないだろう︒

﹁副詞﹂という品詞に関するすべての論考の中で︑共

通しているものは︑﹁副詞﹂︑は︑修飾語であることであ

る︒修飾語とは︑何であるか︑これについても様々な意

見が出されている︒︵注3︶まず︑修飾とは何であるか︑

修飾の機能を分析して︑包容と抽出と対立の三分類を措

定した森重敏氏︵注4︶や︑文章論の立場から︑修飾を

修飾と限定の概念に類別した小松光三氏︵注5︶の説な 2複合の語八珊語V

﹁修飾語﹂と﹁他の品詞﹂との関係

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どのいずれに従うにせよ︑国語における修飾とは︑修飾

という術語を使用するかぎり︑ある概念を持った語を︑

別の概念を持った語で規定するために︑ある概念を持っ

た語の上に︑それに関連する別の概念を持った語を重ね

ることにほかならない︒そして︑一般的に︑規定する語

を修飾語︑規定される語を被修飾語と名付けている︒

このような修飾語と被修飾語の基本的な関係にあっ

て︑我々は︑被修飾語の持つ︑無限小から無限大に至る

状況の有様を﹁雪の層﹂とか﹁若い女﹂・とかの﹁雪の﹂

や﹁若い﹂のように︑具体的映像ともいうべき﹁イメー

ジ﹂︵注6︶を生む言葉で表現し︑修飾する方法を一つ

の手段として取るのではないかと思われる︒なぜならへ

被修飾語の状況という三次元の世界の出来事︑すなわ

ち︑﹁肩﹂の本当の様子や︑﹁女﹂の実際の姿は︑現実

の我々の理解と表現を超えており︑理解や表現のために

は︑この三次元の世界の出来事を噛みくだいて︑絵画や

音楽のように︑平面という二次元や音という一次元のも

のにすることが︑要請されているからである︒

﹁雪の﹂とか﹁若い﹂とかの﹁イメージ﹂を生む言葉 は︑ある事象に付けられた記号であって︑記号という点においては︑二次元のものであるが︑我々が被修飾語の状況を﹁イメージ﹂を生む言葉に分解して表現する場合︑この世に存在しない全く新しい言葉を創造して︑それに対処するよりも︑さしあたって︑すでに存在している言葉を用い︑その﹁周知のイメージ﹂に頼るほうが︑表現における分析の仕方が的確になるとともに︑理解も容易であることは︑言うまでもない︒ここに他の品詞をそのまま修飾語に使用する修飾語の一つの姿が浮き彫りにされるとともに︑﹁当用漢字音訓表﹂から摘出された﹁副詞的用法を持つ語﹂が︑他の品詞と関係を多く持つ理由が納得される︒

ここで︑これまで述べてきたような修飾語が修飾語と

して成立する言葉の動的な機構について︑他の品詞との

関係︑特に︑多くの修飾語で︑その関係が指摘できる名

詞︑動詞︑形容詞との関係を中心において考察を進めて

みよう︒

名詞︑動詞︑形容詞が成立する言葉としての順序を理

解と表現の面から一般的に考えてみるに︑人間の自然な

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﹁ものの見方﹂から判断して︑この世に存在する事物を

表現する名詞が︑動詞︑形容詞より先に成立したことは

想像に難くない︒続いて︑名詞で表現される事物を区別

する特徴を表す言葉として︑その事物の動作や状態を表

現する動詞や形容詞が用いられ文を構成したものと思わ

れる︒次にこのような名詞︑動詞︑形容詞と修飾語の関

係について考えるに︑修飾語は︑当然のことながら︑文

を構成する骨格となっている名詞︑動詞︑形容詞の意義

を詳しく規定する言葉として文中に存在している︒以上

の名詞︑動詞︑形容詞と修飾語との基本的関係から判断

すると︑修飾語は︑名詞︑動詞︑形容詞という文の基本

構成にかかわる品詞に遅れて成立することになる︒

名詞︑動詞︑形容詞と修飾語の成立の順序についての

言葉としての関係から類推するに﹁つゆ﹂のような名詞

に関係のある修飾語︑﹁挙げて﹂のような動詞に関係の

ある修飾語︑﹁危うく﹂のような形容詞に関係のある修飾

語は︑これも当然のことながら文の基本構成にかかわる

名詞や動詞などの品詞を転用したものであって︑﹁露﹂

﹁挙げる﹂﹁危うい﹂という名詞︑動詞︑形容詞を基と 他の品詞を成立の基とする修飾語は︑被修飾語の状況を様々に﹁イメージ﹂化することができるとき︑その修飾語が生きているということであって︑我々は︑使用された他の品詞による修飾語から被修飾語の全体像を推量するわけである︒このような修飾語の中に︑﹁まっさかり﹂とか︑﹁しずかに﹂などのように︑﹁まつ﹂とか﹁か﹂などの接頭語や接尾語を添加した形態を持つもの して︑それらに遅れて成立したことになる︒これらの関係は︑名詞︑動詞︑形容詞と修飾語だけについて言えることではなく︑﹁正に﹂などの形状言を修飾語に使用することも同様のことと判断される︒

結局︑言葉のもつ﹁イメージ﹂に頼る修飾語は︑先に

述べた修飾の機能を効果的に果たす目的と︑修飾語の成

立の言葉としての自然な順序から考えて︑修飾語と関係

のある名詞︑動詞︑形容詞などの他の品詞を成立の基と

した派生語若しくは転成語であると仮説を立てることが

できる︒︵注7︶

修飾語の様々な形態

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がある︒これらの修飾語は︑その接頭語や接尾語の持つ

意義によって︑共通したある一定の状況を表現している

が︑これを修飾語という観点から理解すると︑これらの

修飾語は︑﹁あるものと等しいイメージ﹂若しくは﹁あ

るものらしいイメージ﹂を与えることになろう︒他の品

詞をそのまま用いた修飾を︑状況の具象化若しくは形象

化を図るものであるとすると︑これら接頭語や接尾語を

持った語による修飾は︑個別性を極力少なくし︑ある一

定の状況へ方向付けをするところがあるので︑状況の普

遍化を意図する修飾語であると考えられる︒

他の品詞やその中の接頭語や接尾語が添加した語のよ

うに︑既存の言葉の持つ﹁周知のイメージ﹂に頼る修飾

語とは別に︑現代の国語の修飾語に︑擬声語と擬態語が

ある︒擬声語と擬態語は︑いずれも︑被修飾語の状況を

﹁イメージ﹂ではなく︑﹁音﹂で表現しようとしたもの

である︒すなわち︑

雨がザアザア降る︒︵擬声語︶︲

手がザラザラにあれる︒︵擬態語︶〃

と︑雨の激しく降る有様︑手の滑らかならざる様子を︑ 音の感覚でとらえ︑文自体に生命感と立体感覚を与えようとしたものである︒これらは︑﹁雨の降る﹂こと︑﹁手があれる﹂ことの別の表現なので︑被修飾語の状況の感覚的複写を行った修飾語であると称してよい︒これら﹁イメージ﹂を超越した一群の語の働きは︑次のような他の品詞による修飾語と比較すれば︑一瞬で了解されるように︑表現する人の個人の感覚をそのまま生かし︑状況を個別的具体的に表現しようとした修飾語であると思われる︒

雨が一鮴嘩トピッチャンと一降るo

現代の国語における修飾語には︑言葉の﹁イメージ﹂

に頼る先に述べた2種類の修飾語と︑﹁イメージ﹂に頼

らず︑直接感覚に頼る擬声語︑擬態語が︑まず挙げられ

る︒このほか︑一般に考えられるものとして︑以上の3

種を二つ以上重ね﹁決して決して忘れない︒﹂とか﹁ぐ

副削剥引馴刺刺副回る︒﹂などと文自体に﹁強調﹂と﹁リ

ズム﹂を与える畳語︵替語も含む︒︶が存在する︒畳語

は︑同じ言葉をあえて2度以上繰り返すところに︑﹁強

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調﹂という感情の高ぶりと︑﹁リズム﹂という生命感が

表現される修飾語である︒結局︑現代の国語に存在する

修飾語の種類とその主な機能を述べると︑次のようにな

ス︾○1他の品詞に属する語

︵状況の具象化形象化を行う︒︶

2他の品詞に属し︑接頭語若しくは接尾語が添加し

ている語

︵状況の普遍化を行う︒︶

3擬声語・擬態語

︵状況の具体化を行う︒︶

4畳語八1.2.3の重ねV

︵状況の強調とリズム感を与える︒︶

国語には︑ここに掲げられたもの以外の修飾語は存在

しない︒そのことについては︑これら以外の修飾語が存

在すると仮定すれば︑どのようなものになるか想像する

だけで︑簡単に納得できる︒すなわち︑もし︑この4種

類以外の修飾語がありとすれば︑仰と②の他の品詞に属

する語でなく︑③の擬声語でも擬態語でもない語である 修飾語とは︑﹁雪の虜﹂﹁静かな朝﹂﹁ワンとほえる︒﹂﹁にこにこと笑う︒﹂の例を挙げるまでもなく︑被修飾語と直接的個別的に関連して用いられるものである︒すなわち︑修飾語が︑修飾語として機能するということは︑修飾語と被修飾語との関連を当然のこととして納得する意義と感覚の関連があることである︒その場合︑修 ことを意味するものであって︑それは︑もはや︑国語に属する言葉とは考えられないものである︒強いて︑その具体例を想像すれば︑誤った修飾語か︑我々が修飾語であると理解できない外来語や外国語や方言や流行語を修飾語に用いようとしたものであろう︒

次に︑この小論の目的である︑これまで述べてきたよ

うな修飾語と︑長い間︑多くの人に︑固有の意義と用法

を持つと考えられてきているいわゆる﹁副詞﹂と称せら

れている語とどのような関係があり︑また︑﹁副詞﹂と

称せられている語は︑どのような機能があるか改めて考

えてみよう︒

修飾語と副詞の相違

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いつか早晩ちとせを我はへにけむ

︵古今集畑︶

露の身のきえば我こそさきだため

をくれん物かもりの下草

︵新古今集剛︶これらは︑いずれも﹁水滴﹂の﹁イメージ﹂を前面に

したもので︑名詞を単に修飾語として用いたものであ

る︒ところが︑同じ時代︑竹取物語で︑﹁露も物空にか

けらばふといころし給へ︒﹂とか︑大和物語で﹁なをわ

れを露思はば︑この度ばかりは帰りね︒﹂とか︑源氏物

語で﹁つゆまどろまれず明かしかねさせ給ふ・﹂とかの︑

﹁水滴﹂の﹁イメージ﹂を土台としつつも︑その﹁水

滴﹂に伴う﹁僅か﹂という﹁心情﹂を中心においた連体

修飾語ではない表現が︑﹁露﹂に限定の副助詞﹁ばか

り﹂を添加した蜻蛉日記の﹁あさましうをかしけれど︑

露ばかり笑ふ気色もみせず﹂や︑落窪物語の﹁われゆるさ

ざらんこと︑露ばかりしてはいみじからん︒﹂という表

現と平行して用いられるようになってくる︒蜻蛉や落窪

の﹁ばかり﹂は︑程度や範囲を示す助詞であるが︑最初 に掲げた竹取︑大和︑源氏の﹁つゆ﹂の用例は︑まさしく︑この﹁露ばかり﹂という意味︑すなわち︑﹁ちょっと﹂という意味に用いられていると思われる︒

竹取︑大和︑源氏の三つの用例において︑﹁つゆ﹂は︑

﹁水滴﹂の﹁イメージ﹂を薄くし︑その﹁水滴﹂に伴う

﹁心情﹂を表面にして用いているわけであるが︑機能と

しても︑名詞を直接修飾する﹁露の命﹂﹁露の間﹂﹁露

の身﹂という個別的な修飾語から﹁僅か﹂という抽象的

な意義を持ったあらゆる語と修飾の関係を持ちうる普遍

的な修飾の機能を果たすものに変化したものと思われ

る︒すなわち︑﹁つゆ﹂は︑﹁水滴﹂に直接関連する

﹁命﹂﹁間﹂﹁身﹂とかの被修飾語との縁を薄くし︑

﹁水滴﹂の﹁イメージ﹂を土台とした﹁僅か﹂という意

義を持って自由に活動する可能性が与えられたわけであ

る︒徒然草にみられる﹁つゆおとなふ物なし﹂︵n段︶

﹁つゆたがはざらんと﹂︵畑段︶﹁つゆ忘るるにはあら

ねど﹂︵別段︶などの﹁つゆ﹂は︑今述べた自由な活動

の一つの表現として︑文法書が説く︑否定の文末表現を

とるいわゆる﹁陳述副詞﹂となったのであろう︒

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﹁露の命﹂﹁露の間﹂などの連体修飾語の用法から陳

述副詞と称せられる﹁つゆ﹂の用法への変化の過程を意

義と修飾の機能を中心に整理すれば︑次のようになろう︒

1連体修飾語の用法

︵例︶露の命

后娼銅謝幽︾︾迫十の+命

︵注︶可露そのものの命Lということで司露Lという実質

的意味を持って︑可命Lを個別的に修飾する:僅かL

という抽象的意味は︑﹁露﹂の背後に隠れて存在する︒

2副助詞﹁ばかり﹂が添加した用法

︵注︶可露Lに可ばかりLを添加し︑可僅かLという抽象

的意味で用い︑一文節として︑可笑ふ気色を見せずL

全体と関連する︒可露ばかりLは︑意義的には︑可僅

かLという1の可露のLの抽象的意味と同じであるが

︑修飾の機能においては︑可露のLが可命Lにだけか

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

︑■■■■■■■実質的穏鰍十ばかり一 ︵例︶露ばかり笑ふ気色を見せず

抽象的意味

︵僅か︶

十笑ふ気色を見せず ︵注︶可つゆLは︑可僅かしという抽象的意味を持って普

遍的に用いられ︑修飾の機能では︑﹁露ばかりLとい

う一文節に等しい働きを持って︑可おとなふ物なしL

全体と関連を持つ︒また︑ここの可つゆLの意義は︑

1の司露Lに可ばかりLを含んだものである︒

ここで︑今述べたように︑理論的に一文節に等しい機

能をもつ︑いわゆる﹁陳述副詞﹂の﹁つゆ﹂の文中での

用法をより詳しく考察してみよう︒

かけひしづく木の葉に埋もるる筧の雫ならでは

つゆおとなふものなし︒︵徒然草皿段︶

この﹁つゆ﹂は︑﹁露の命﹂などの﹁露の﹂の連体修

飾語と異なって︑﹁命﹂のような直接修飾する被修飾語

はない︒︵﹁なし﹂を修飾すると学校文法などで説く

が︑それが錯覚であることは︑次に述べる︒︶あえて被 かるのと異なる︒

3いわゆる﹁陳述副詞﹂の用法

︵例︶つゆおとなふ物なし

一実質的意味一

+おとなふ物なし

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修飾語を摘出すれば︑﹁︵露の︶命﹂﹁︵露の︶身﹂に

準ずる﹁つゆ﹂の下に省略された﹁つゆの間も﹂﹁つゆ

ほど﹂の﹁間﹂﹁ほど﹂などの名詞相当語と考えられ

る︒しかし︑実際の文章にはそれが表現されていない︒

あるべきものが存在しないために︑﹁つゆ﹂は︑修飾・

被修飾という文の基本構造から遊離するとともに︑併せ

て︑﹁つゆ﹂が何を修飾するか︑被修飾語について︑読

む人の自由な想像に任かせる効果が生ずる︒これは︑隠

されたなかに︑大きなものを想像する読む人の心理と連

動して︑予期せざる﹁強調﹂を生む︒これは︑﹁露﹂と

いう語が意義として個別的なものから普遍的なものに変

化するとともに︑﹁強調﹂という新たな機能を担うよう

になったと考えられる︒これが﹁陳述副詞﹂の﹁つゆ﹂

の文中の機能である︒

次に︑この﹁つゆ﹂の文中における意義を確認する

と︑先に述べたように︑この﹁つゆ﹂は︑単なる水滴の

﹁露﹂とは異なって︑﹁露﹂に﹁ばかり﹂とか︑﹁間﹂

とか︑﹁ほど﹂とかの意味を添加させた内容を持ってい

るものである︒これを別の言葉で表現すれば︑﹁つゆ﹂ は︑﹁露十ばかり﹂﹁露十の+間十も﹂﹁露十の+ほど+も﹂などという単語の群れを︑鉄を溶鉱炉で溶かすように︑溶かして︑一つに鋳なおした意義を持って存在していることを意味する︒すなわち陳述副詞としての﹁つゆ﹂は︑一単語と考えられているが︑その実際の意義は︑名詞︑動詞などで構成する一文節若しくは一文に等しい内容を包含して文中に用いられているわけである︒このようなものは︑もはや︑名詞︑動詞などと同列に取り扱わるべきものではなく︑違った次元に位置付けされるべきものであることがわかってくる︒ここに到って︑単に﹁つゆ﹂だけではなくこれまで﹁副詞﹂と称せられたものすべてについても︑根源からの再点検が必要となる︒

先に述べたように学校文法では︑﹁つゆ﹂は︑文末の

﹁なし﹂若しくは︑否定表現を修飾するものと考えてき

た︒しかし︑﹁つゆ﹂は︑次に述べるようにこの文の本

来的なものでなく︑後から添加されたものであり︑修飾

関係では︑﹁つゆの間も﹂﹁つゆほど﹂の省略された

﹁間﹂﹁ほど﹂などの名詞相当語と関係を持つので︑この

文において︑﹁つゆ﹂の被修飾語は存在しない︒この文

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詞﹂をまとめて﹁語の副詞﹂としたが︑これについて︑

吾人のいふ所の副詞は︑且蔚吾の義にあらずして

副用語たるものの義なれば︑副次的に用ゐらるるもの

すべてをさす︒随って語に先行する副詞といふものの

用法は用言に対してその示せる属性又は陳述を装定す

ることを主たる点とはすれども︑それよりもひろく︑

時として︑体言の装定をもなすことあり︒

とし︑﹁用言﹂又は﹁体言﹂を装定すると考えている︒

また︑﹁国語法要説﹂︵橋本進吉博士︶では︑﹁詞﹂の

分類表が掲げられ︑﹁用言を修飾するもの﹂の下に﹁副

詞﹂が置かれ︑その説明に︑

その中︑副詞は用言を︑副体詞は体言を予想し︑そ

の意味に依存する︒

とある︒これら国語の支配的な文法書は︑﹁副詞﹂は︑

いずれも︑﹁用言﹂若しくは﹁用言又は体言﹂だけを修

飾する単語であると考えている︒この考え方は︑近年の

多くの文法論に等しく流れている﹁修飾語﹂と全く等し

い﹁副詞﹂の機能に対する理解の仕方である︒

﹁副詞﹂は︑実際︑﹁用言﹂若しくは﹁用言又は体 言﹂のみを修飾しているのであろうか︒先に点検した﹁陳述副詞﹂の﹁つゆ﹂の用法を踏まえつつ︑広く﹁副詞﹂といわれている語の﹁修飾﹂の機能を明確にしてみよう︒

まず︑山田文法で︑﹁情態副詞﹂といわれている次の

﹁ひっそりと﹂の機能を考えてみよう︒

11

側すみれがひっそりと咲く︒︵注9︶

これまで︑例文の﹁ひっそりと﹂は︑動詞︑﹁咲く﹂

だけと関連を持ち︑それを修飾するものと理解され︑ま

た︑少し文を変えた②の例では︑﹁咲いて﹂又は﹁枯れる﹂

若しくは﹁咲いて枯れる﹂を修飾するものと考えた︒

11︲F

②すみれがひっそりと咲いて枯れる︒

これは︑これまでの文法論の用言を修飾するという定

義に反しないように︑つじつまを合わせたり︑連文節の

考えを導入したものであるが︑これだけでも︑﹁ひっそ

りと﹂が︑﹁露の命﹂﹁若い女﹂などの一定の意義の関

連を持って個別的に用いられている修飾語・被修飾語の

関係とは︑質的に異なっていることを明らかにしてい

る︒確かに︑﹁すみれがひっそりと咲く﹂の文において

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27

﹁ひっそりと﹂は︑﹁美しく﹂とか﹁きれいに﹂とかと

異なり︑まず︑﹁すみれが咲く︒﹂そのことの実質では

ない︒﹁咲く﹂についての本来的な修飾語とは︑﹁咲く﹂

の実質にかかわる﹁美しく﹂とか﹁きれいに﹂とかであ

って︑﹁ひっそりと﹂は︑意義上︑﹁咲く﹂という動作

を含めた﹁すみれ﹂の生存状態全体の表現であると考え

たほうが納得がいく︒

このことは︑側の文を変更して︑次のように﹁ひっそ

りと﹂を自由に文のあらゆるところへ位置付けうること

によってもよく理解できる︒

ひっそりとすみれが咲いて枯れる︒

すみれが咲いて枯れる︒ひっそりと︒

すなわち︑このことは︑﹁ひっそりと﹂がその位置を

変更しえない﹁露の命﹂﹁若い女﹂︵﹁命露の﹂﹁女若

い﹂という修飾の表現はとれないということ︒︶と異な

って︑文中のいかなる語とも︑特別の関係を持たないこ

とを意味するものであるとともに︑別の言葉をもって表

現すれば︑逆に︑﹁ひっそりと﹂は︑﹁すみれが咲いて

枯れる︒﹂全体とかかわりを持つことが証明される︒ ︵なお︑﹁美しく﹂は︑﹁ひっそりと﹂と同じように文の中で位置付けされるが︑この二者の相違については︑後に論ずる︒︶

このような﹁ひっそりと﹂の機能と意義について︑も

う一歩考察を深めてみよう︒﹁ひっそりと﹂は︑﹁露の

命﹂﹁若い女﹂などの﹁命﹂﹁女﹂に当たる被修飾語を

持たない︒それゆえ︑﹁露の﹂﹁若い﹂と等しい修飾語

としての機能はないと判断される︒これまで⑩の例文な

どで︑﹁咲く﹂に関係を付け︑﹁咲く﹂を修飾すると理

解してきたのは︑国語の特色である﹁文末決定性﹂にひ

かれ︑文を構成する語のすべてを文末の語に結び付けて

文を理解する一般的な方法と錯綜したためである︒で

は︑﹁ひっそりと﹂は︑文中でどのような機能と意義を持

つか︒確実なこととしていえることは︑﹁ひっそりと﹂

は︑先に述べたように︑﹁すみれ﹂﹁咲く﹂のいずれと

も個別的には関係せず︑﹁すみれが咲く︒﹂という客観

的事実に対する発言者の主観的な気持ちの表現になって

いることである︒すなわち︑﹁ひっそりと﹂は︑﹁すみ

れが咲く︒﹂という時枝文法における概念を表現する

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28

﹁詞﹂に相当する文を︑人間化し肉付けする﹁辞﹂に相

当するような機能を持って文中に存在していることを意

味している︒これは︑もはや︑﹁修飾﹂というより︑文

全体と関連を持つので︑シンタックスすなわち﹁修辞﹂

というにふさわしい機能であり︑意義でもある︒このよ

うな機能と意義を持った語を﹁修飾語﹂の範囲にとどめ

ることは︑分類をあいまいなものとするおそれが多分に

あり︑このような語に︑先に検討した﹁つゆ﹂と同じ

く︑﹁副詞﹂という術語を付け︑﹁修飾語﹂とは別のグ

ループにまとめることは︑至極当然の措置であると思わ

れる︒

いま︑いわゆる﹁情態副詞﹂と称せられる﹁ひっそり

と﹂について考察し︑﹁ひっそりと﹂が︑一つの文を

﹁詞﹂と考えた場合の︑﹁辞﹂に当たる語︵但し︑概念

過程は存在する︒︶であることを明らかにした︒このこ

とが山田文法でいう︑他の二つの﹁副詞﹂である﹁程度

副詞﹂﹁陳述副詞﹂についても︑敷術できるかどうか考

えてみよう︒

﹁程度副詞﹂及び﹁陳述副詞﹂と修辞 ﹁副詞とは何か︒﹂という副詞の本質を追究する問題

で︑その解決の陸路となっていたものが﹁程度副詞﹂で

ある︒﹁もっと右へ寄りなさい︒﹂﹁とても大勢の人出

でした︒﹂﹁Aさんはずっと欠席です︒﹂など﹁程度副

詞﹂が体言を﹁修飾﹂する事実の説明が付かなかったか

らである︒

しかし︑﹁程度副詞﹂の一般的用法は︑先の﹁ひっそ

りと﹂と同じく︑次のように︑用言という一単語にかか

わるものでなく︑文と言うべきものと関係するところに

ある︒

あなたは︑もっと相手の立場を考える人だと思ってい

た︒すなわち︑﹁もっと﹂は︑﹁相手の立場を考える﹂と

いう﹁情態﹂全体に対する発言者の主観的な程度の判断

が表されている︒これまで︑﹁程度副詞﹂は︑用言︑な

かんずく︑情態性用言との関係を主として考察され︑そ

の情態の程度を表現するものと考えられてきたが︑右の

例文から推量すると︑語や︑文や︑文章で表現される一

つの﹁情態﹂全体に対する﹁目盛り﹂とも言うべき︑発

(15)

29

言者の﹁情態﹂の程度の判断が﹁程度副詞﹂として表さ

れていると考えられる︒そして︑このような﹁程度副

詞﹂の用法の一部分として︑﹁もっと右﹂とか︑﹁とて

011111111111町ノ︑ノ︑ノ︑ノーも大勢﹂とか︑﹁ずっと欠席﹂とかの体言が表現してい

る﹁情態﹂の﹁目盛り﹂の機能があると考えることが論

理的である︒このように﹁程度副詞﹂の用法は︑﹁ひっ

そりと﹂などの﹁情態副詞﹂の同一線上にあり︑﹁程度﹂

という一種の状態を表現するものなので︑﹁情態副詞﹂

の中に含めることさえ可能である︒

﹁陳述副詞﹂も同様に考えられる︒現在︑仮定の文に

用いられる﹁もし﹂を材料として﹁陳述副詞﹂の用法を

左の文でもって明らかにすると次のようになる︒

もし︑天気がよければ出発する︒

まず︑﹁もし﹂は︑この文において︑それが存在しな

くても︑この文の基本的意義に変化がない︒これは︑先

の﹁つゆ﹂や︑今述べた﹁ひっそりと﹂﹁もっと﹂など

と同様である︒﹁もし﹂は︑それが添加することによっ

て︑﹁天気がよければ﹂という仮定の意味が一層明白と

なり︑あいまいな点が存在しなくなる︒この機能は︑ ﹁よければ﹂と一度の仮定表現をすればよいところを︑確実さを増すため︑もう一度表現する︑すなわち︑一度たたくだけで十分なところを二度たたく︑完全なる﹁強調﹂を意図するものであると判断される︒先に﹁陳述副詞﹂の﹁つゆ﹂でも述べたように︑﹁陳述副詞﹂に一貫するものは︑確認とも言うべき﹁強調﹂である︒

このような機能を持つ﹁もし﹂や︑決意を表現する文

に用いられる﹁必ず﹂などを﹁誘導副詞﹂と名付け︑常

に一定の叙述を要求する働きがあると考える説︵注加︶

があるが︑それらは︑﹁もし﹂や﹁必ず﹂などを文の構

成において︑本来的なものと判断するもので︑文全体に

対する発言者の気持ちを表す﹁副詞﹂の本質を見誤って

いる文を線状的にのみとらえる本末を転倒した考え方で

あると思われる︒なぜなら︑﹁必ず﹂の場合︑

必ず︑天気がよければ出発する︒

天気がよければ必ず出発する︒

天気がよければ出発する︒必ず︒

と﹁必ず﹂を﹁出発する﹂に後置することも可能であ

り︑﹁必ず﹂が﹁出発する﹂に対する誘導の役目を果た

(16)

30

すと言えるのは︑たまたま︑﹁出発する﹂の前に位置さ

れているものを後から理屈付けした結果論にすぎない︒

右の例文における﹁必ず﹂は︑文の基本構成に後から

添加されたものであり︑これまで述べてきた﹁ひっそり

と﹂や﹁もつと﹂と同じく﹁天気がよければ出発する︒﹂

という一文を﹁詞﹂と考えた場合の﹁辞﹂とも言うべき

発言者の主観的な決意の表現である︒そして︑その決意

は︑﹁天気がよければ出発する︒﹂・の﹁出発する﹂とい

う動詞の現在形と関連し︑﹁強調﹂の意義を明白にする︒

なぜなら︑﹁出発する﹂という現在の時制の動詞の機能

は︑単に︑現在だけでなく︑過去・未来を通した人間の

決意を表現するからである︒ここにおいて﹁出発する﹂

は︑﹁必ず﹂の決意表明と呼応し︑強い意志表示の効果

を持って文をまとめあげるわけである︒

結局詞﹁陳述副詞﹂と称せられる﹁副詞﹂は︑﹁誘導﹂

を中心として考えるべきものではなく︑一つの文に表さ

れる﹁打消﹂﹁疑問﹂﹁仮定﹂﹁推量﹂﹁当然﹂﹁願望﹂

などの意義を踏まえて︑それらの意義をより明確に示す

ため︑発言者が選択した﹁修辞﹂の言葉であって︑例え ば︑﹁打消﹂を﹁修辞﹂する言葉として︑﹁打消﹂という発言者の強い意志表示にふさわしい﹁少しも︑まったく︑決して︑ほとんど︑まさか︑まだ︑とても︑一向に﹂などの極端な主観的感情を表す副詞が存在すると考えるべきであろう︒このように考えることによって︑この﹁陳述副詞﹂も︑﹁情態副詞﹂﹁程度副詞﹂と同じ扱いをされるべきものとなり︑ここに︑このような﹁修辞﹂の機能を持つ﹁副詞﹂を一品詞︵但し︑他の品詞の意義と機能と同列に扱えない︒︶として掲げる意義が発生するわけである︒

いずれにしても︑﹁副詞﹂は︑修飾語・被修飾語の関

係における﹁修飾語﹂とは異なり︑語︑文︑文章で表現

される内容に対する発言者の主観的な気持ちを表現し︑

それゆえにまた︑文の修辞に関係し︑あえて︑術語を与

えるならば︑﹁修辞語﹂と称せられるものであろう︒

では︑なぜ︑長い間︑﹁副詞﹂の意義と機能につい

て︑誤解が存在したのであろうか︒それは言うまでもな

く︑現在の品詞論が︑体言と用言並びにそれを支える助

詞︑助動詞を中心にして成立しており︑﹁副詞﹂も︑体

(17)

31

これまで︑左のような形容詞の連用形を副詞と位置付

けることによって︑立てた文法理論の矛盾を回避しよう

とする考えがあった︒︵注皿︶

すみれが美しく咲く︒

そして︑その論拠は︑次のように説明されている︒

﹁これまでの文法論で︑形容詞︑形容動詞の連用形と

みとめられていたもののうち︑動詞︵あるいは形容詞︶

の意味を限定し︑文のなかで修飾語や状況語としては

たらくものは︑テキストでは副詞とみとめた︒このよ

うにした理由は︑問題の連用形以外の形容詞の形は︑ 言︑用言及び助詞︑助動詞の延長線で処理しようと常にしているからである︒すなわち︑﹁副詞﹂の意義や機能を体言や用言と同じ次元のものとし︑その範囲内で︑意義や機能の実態を追究しようとしたからである︒主語や述語となる体言や用言と文を構成するうえで同列なものは︑﹁修飾語﹂であって︑﹁副詞﹂ではなく︑﹁修飾語﹂であるあいだは︑﹁副詞﹂は存在しない︒

副詞の修辞と形容詞の修飾 名詞のさししめすものやことがらの属性︵性質や状態︶をさししめし︑文のなかでは規定語や述語としてはたらくが︑問題の連用形は︑そうではなく︑動詞︵形容詞︶をかざり︑これらのさししめす属性の属性︵ようすや程度など︶をさししめし︑文のなかで修飾語︵あるいは状況語︶としてはたらく点で︑質的なちがいがあるからである︒そして︑問題の連用形のこうした性格をもつ一群の単語がくつに副詞として存在す

るからである︒﹂︵鈴木一彦﹁日本文法形態論﹂︶

すなわち︑これまで形容詞の連用形と考えていたもの

だけを独立させて﹁副詞﹂とし︑

すみれがうつくしく咲く︒

すみれがひっそりと咲く︒

の﹁うつくしく﹂及び﹁ひっそりと﹂を同品詞に位置付

けしたのである︒

確かに︑修飾語﹁うつくしく﹂は︑﹁露の命﹂や﹁雪

の膚﹂の﹁露の﹂や﹁雪の﹂という﹁命露の﹂﹁庸雪の﹂

とかの表現がありえない修飾語と異なって︑被修飾語

﹁咲く﹂との関係は︑緩やかで

(18)

32

すみれが咲く︒うつくしく◎

と文中の位置を変更することが可能であり︑これは︑副

詞﹁ひっそりと﹂と等しい︒ただし︑このような機能が

﹁うつくしく﹂に存在するのは︑形容詞成立の歴史的経

過が関係する︑形容詞の﹁語性﹂にかかわるものであ

る︒というのは︑形容詞は︑ある事柄や動作︵﹁うつく

﹄うつし﹂の場合は︑﹁虚く﹂である︒︶の最大公約数的状態

を抽出した抽象概念を表す語︵注岨︶であり︑普遍性を

持つ抽象概念ゆえに︑被修飾語﹁咲く﹂の束縛は緩く︑

文中に自由に位置しうるためである︒これは形容詞の持

つ意義に基づく現象であると考えられる︒

では︑﹁うつくしく﹂と﹁ひっそりと﹂を区別するも

のは︑何か︒大きく一二つの要素が考えられる︒第一の要

素は︑これまでも︑﹁形容詞の連用形﹂と﹁副詞﹂を区

別してきた活用の有無である︒そして︑第二の要素は︑

﹁うつくしく﹂は︑あくまでも︑たくさんの事象の最大

公約数的抽象表現であり︑一方︑﹁ひっそりと﹂は︑

﹁すみれが咲く﹂という文によって表現されている事象 引到釧則叫削すみれが咲く︒に対する個別的具体表現である相違である︒第三の要素として挙げられるものは︑﹁うつくしく﹂と﹁ひっそりと﹂を使用する発言者の意識の違いである︒すなわち︑﹁うつくしく﹂は︑﹁すみれ﹂という表現対象に直接かかわる言葉で﹁咲く﹂を修飾する客観的な修飾語であり︑﹁ひっそりと﹂は︑﹁すみれ﹂を取り囲むすべての生活環境を踏まえての発言者自身の状況の判断の表現として存在する︒この第三の要素に至って︑形容詞の連用形と副詞は時枝文法における﹁詞﹂と﹁辞﹂のように越え難い溝を持つ︒

第三の要素については︑﹁形容詞の連用形﹂と﹁副

詞﹂が置き換えうる他の一例︑例えば︑次のような例で

納得されよう︒

まこちゃんはごはんを︷洲州州州川一たべた︒

すなわち︑形容詞の連用形の﹁おおく﹂は︑﹁おおく

の量﹂とか﹁おおくを語らない︒﹂とかの表現対象であ

る客観的具体的事物を表す時枝文法でいう﹁詞﹂の名詞

を生む方向の言葉で︑﹁たべた﹂を直接修飾するが︑

(19)

33

﹁たっぷり﹂は︑﹁まこちゃん﹂という子供に見合った

十分な量という︑発言者の﹁まこちゃん﹂の生活のすべ

てを考えた文全体を見渡した表現である︒﹁たっぷり﹂

を平易に表現する場合︑﹁多量に﹂という助詞﹁に﹂が

必要な︑発言者の判断や心情が示される﹁辞﹂の世界に

入る言葉で︑一文節と等しい若しくは︑一文節以上の機

能と意義を持って文中に存在する︒

﹁形容詞の連用形﹂と﹁副詞﹂には︑越え難い溝があ

る︒しかし︑﹁形容詞の連用形﹂は︑常に形容詞という

わけではない︒たくさんの﹁形容詞の連用形﹂が﹁副

詞﹂に転ずる︒この具体的な例を知ることも︑﹁形容詞

の連用形﹂と﹁副詞﹂との相違を明確にする一つになろ

う︒﹁当用漢字音訓表﹂の例欄の語で副詞的用法があっ

て︑まず︑形容詞と関係のある語を求めると﹁危うく

¥︵危うい︶﹂﹁大いに︵大きい︶﹂﹁辛うじて︵辛い︶﹈

﹁全く︵全い︶﹂の4語が摘出できる︒︵括弧内が関係

する形容詞である︒添付資料参照︶このうち︑﹁形容詞

の連用形﹂から派生若しくは転成してきたものは︑﹁危

うく﹂﹁辛うじて﹂﹁全く﹂の3語である︒このうち ﹁辛うじて﹂は︑﹁辛くして﹂の転じたもので︑他の語が添加したものなので︑別扱いするが︑﹁危うく﹂﹁全く﹂は︑﹁形容詞の連用形﹂がそのまま︑﹁副詞﹂に転成したものと考えられる︒

﹁危うく﹂について考察してみると︑現代の国語で︑

﹁危うく﹂以外の他の活用形が用いられることは︑多く

はない︒﹁危うい立場に立たされる︒﹂﹁危うい目に遇

う︒﹂という連体形を中心とした用法が残っているが︑

あぶあや

多くは︑﹁危ない﹂に替えられ︑﹁危うい﹂は︑死語に

なりつつある言葉である︒その中で︑﹁危うく﹂は︑他

の活用形に比較して多用されている︒それは︑﹁危うく﹂

を﹁危うい﹂の活用形から分離させ︑﹁危うい﹂とは異

なった独自の意味を持たせるとともに意図せざる﹁強

調﹂を生む︒それは︑﹁形容詞の連用形﹂と︑﹁副詞﹂

化した用法を比較すれば︑簡単に理解される︒

地位が危うくなる︒︵形容詞の例︶

事故に遇ったが︑危うく助かった︒

まず︑意義上︑形容詞の例は︑﹁あやうい﹂こと︑す

なわち﹁危険﹂そのものを意味するが︑副詞の例では︑

(20)

34

﹁危険﹂の意味は︑表現の背後に隠れ︑﹁事故に遇った

が︑助かった︒﹂という文意を踏まえ﹁ようやっと﹂

﹁すんでのことに﹂という発言者の事象に対するほっと

した気持ちの表現に用いられている︒ここには﹁あやう

い﹂こと︑すなわち﹁危険﹂の意味はなく︑﹁危険が通

り過ぎて︑ひと安心した時の人間の精神﹂すなわち﹁心

情﹂だけが表現されている︒これは︑﹁あやうい﹂の本

義とは︑完全に独立している︒そして︑改めて︑﹁危う

く助かる﹂という文は熟視すれば︑第一義的には︑﹁危

険で助かる﹂という意味でこのような文は意義的には存

在しない︒結局この﹁危うく﹂とは︑﹁危うく死ぬとこ

ろだったのにかかわらず﹂という意味で︑﹁危うく﹂の

周辺にあるたくさんの単語を吸収した意味をもって文中

で使用されている︒右の例にみられる﹁危うく﹂は︑使

用されている漢字も等しく︑発音も変わらないが︑例え

ば︑古典語の形容詞﹁よし﹂の終止形を副詞として用

い︑﹁たとい﹂﹁かりに﹂という意味に使う場合には︑

﹁縦﹂を使用する表記習慣があったり︑同じく古典語の

形容詞﹁痛し﹂の連用形を︑﹁たいへん﹂とか︑﹁すこ ぶる﹂とか︑程度のはなはだしき意義をもって﹁副詞﹂

いたに使う場合︑﹁痛う﹂という音便形にすることが︑しば

しば見られるが︑これらはいずれも︑﹁形容詞の連用形﹂

などと﹁副詞﹂とを別語として意識している証拠にほか

ならない︒戦後の国語施策に基づいた国語表記におい

て︑このような﹁形容詞の連用形﹂などを﹁副詞﹂とし

て用いる場合︑仮名書きすることが︑﹁当用漢字表﹂の

﹁使用上の注意事項﹂において決められていたが︑﹁副

詞﹂とは︑他の品詞とは︑一種異なった発言者の気持ち

を表す言葉であり︑そのような言葉の表現には︑人間の

感情のひだひだの表現に適している仮名書きが望ましい

と無意識のうちに判断されたからであろう︒

﹁全く﹂も同様である︒現代の国語において︑﹁全く﹂

は︑﹁全い﹂と関係のない別語と意識され︑﹁まことに﹂

とか︑﹁実際に﹂とかいう意味で用いられている︒この

ようなものを︑もとの﹁形容詞﹂から独立させ︑﹁副

詞﹂として取り扱うことは︑至極当然の措置であると思

われる︒

形容詞の連用形に接続助詞が添加して派生した﹁辛う

(21)

35

じて﹂も同様に考えられる︒まず﹁辛くして﹂が﹁辛

うじて﹂と発音上の変化を起こすとともに︑意味の上で

は︑﹁辛い﹂から離れ︑﹁ようやっとのことに﹂とか

﹁死ぬところであったが︑運よく﹂という意味を表す単

語を﹁辛くして﹂の中に包括するような機能を持って︑

文中に位置付けされる︒﹁辛うじて﹂は︑複合した﹁副

詞﹂であるが︑その意義と機能は︑一文に等しいものを

持つ︒

では︑なぜ︑﹁形容詞の連用形﹂を﹁副詞﹂と考える

文法論が成立していたのであろうか︒その第一の原因

は︑線状的一元論的文法理論が生む単語の機能の機械的

な分類整理であり︑第二の原因は︑国語学において﹁副

詞﹂が人間の感情を表現する微妙な意義と機能を持つも

のとして︑その微妙な意義と機能を取り上げて研究の対

象とすることに十分でなかったからであろう︒すなわち

﹁情態副詞﹂﹁程度副詞﹂﹁陳述副詞﹂と3分類で満足

するには︑﹁副詞﹂は︑あまりにも豊かすぎる﹁語性﹂

を持った品詞なのである︒

これまで︑山田文法が述べる﹁情態﹂﹁程度﹂﹁陳述﹂ に分類される﹁副詞﹂を中心にして︑その意義と機能を考えてきた︒次に︑この小論の四分類のすべてについて︑同様なことが言えるかどうか︑まず︑擬声語・擬態語について考えてみよう︒

﹁小川﹂などの流れを﹁さらさら﹂という擬声語で表

現する︒

春の小川はさらさら流れる︒

砂がさらさら手から落ちる︒

右の文における﹁さらさら﹂は︑﹁犬がワンとほえ

る︒﹂﹁蝉がミーンミンミンと鳴く︒﹂の﹁ワン﹂﹁ミ

ーンミンミン﹂とは︑性格が異なる︒というのは︑﹁ワ

ン﹂﹁ミーンミンミン﹂は︑﹁犬﹂及び﹁みんみん蝉﹂

のほえたり︑鳴いたりする声の単なる複写であって﹁犬﹂

及び﹁みんみん蝉﹂以外には用いられないあくまでも個

別的擬声語である︒これに対して﹁さらさら﹂は︑水や

砂のような流動するものが︑よどみなく流れる状態を広

く表現する普遍的な擬声語である︒そして︑右の文にお 擬声語・擬態語と副詞

(22)

36

いて︑﹁さらさら﹂は︑﹁春の小川は流れる︒﹂﹁砂が手

から落ちる︒﹂という客観的事実全体に対して︑発言者

が抱いた流動の感覚を﹁さらさら﹂と表現したものであ

って︑文中におけるこのような意義と機能は︑これまで

述べてきた﹁副詞﹂の意義と機能と同じものである︒検

定教科書問題で話題となった次のような小川の流れの表

現は︑小川の流れの単なる複写をした擬声語であって︑

普遍的に用いられる﹁副詞﹂ではない︒

ぴるぽるどぶるぼんぼちゃん

音はどこまで流れていくんだろう ぴるぽる横切ったり 顔を横向きにすれば︑どぶんどぶぶ荒い音前を向けば小さい音ださらさるるびるぼる大きな石をのりこえたり ぼんぼちゃん川はいろんなことをしゃべりながら流れていくなんだか音が流れるようだ さらさるるぴるぼるどぶる ︵D図書六年国語︶

擬声語・擬態語も︑名詞﹁露﹂が︑副詞﹁つゆ﹂にな

るように︑使用されている語や文でしか有効性がないと

いう音の単なる複写というべき個別的修飾から︑広く一

般の事象に当てはめられ︑普遍的な﹁修辞﹂の機能を果

たすとき︑﹁副詞﹂という一品詞名を与えられることに

なろう︒

これまで述べてきた修飾語と﹁副詞﹂の関係の中にあ

って︑接尾語が添加した語と﹁副詞﹂との関係は︑特殊

な様相を示す︒例えば︑﹁lか﹂という接尾語が添加し

た﹁しずか﹂﹁はなやか﹂などが︑﹁に﹂を伴って文中

で用いられる場合︑そのままで即刻﹁副詞﹂となる︒そ

れは︑﹁つゆ﹂や﹁危うく﹂が︑名詞﹁露﹂︑形容詞

﹁危ふし﹂の歴史的な発達の中で︑﹁副詞﹂として用い

られるようになったのと異なる︒例えば︑万葉集の

ますらを丈夫の行くといふ道ぞ

ますらを 接尾語が添加した語と副詞

おほるかに念ひて行くな丈夫の伴︵Ⅷ︶

(23)

37

の﹁おほるかに﹂は︑﹁丈夫の伴﹂の﹁丈夫の﹂が連体

修飾語として︑﹁伴﹂だけと関連するのと異なって︑ま

ず︑個別的修飾語はとらず︑文全体と関連を持ち︑﹁丈

夫の行くといふ道だからいいかげんに思って出掛けるな

丈夫である友よ﹂と文全体に対する発言者の気持ちを表

す︒なぜ︑このような接尾語が添加したものは︑瞬時に

して︑この小論における﹁副詞﹂の機能を発揮するので

あろうかO

ここで︑接尾語というものの本来の機能が問題とな

る︒国語において︑接尾語が︑品詞決定の大なる要素

となっていることは︑﹁おとなし﹂﹁すずし﹂﹁くるし﹂

などのシク活用のかなりが︑名詞︵﹁おとなし﹂は﹁大

人﹂に﹁し﹂が添加︒︶や形状言︵﹁すずし﹂は︑形状

言﹁すず﹂に﹁し﹂が添加︒︶や動詞の語幹︵﹁くるし﹂

は動詞﹁くるふ︵狂︶﹂の語幹﹁くる﹂に﹁し﹂が添

加︒︶に接尾語の﹁し﹂が添加したものであることによ

って理解できるが︑︵注岨︶︑接尾語は︑形容詞だけを

成立させるものではなく︑﹁︐くがる﹂﹁うぐめく﹂のよう

な動詞を生むもの︑﹁7くさ﹂︵﹁美しさ﹂﹁帰るさ﹂な ど状態・程度・方向を示すもの・︶﹁︐か﹂︵﹁すみか﹂﹁ありか﹂など場所を示すもの︒︶のような名詞を成立させるものがある︒このような点から類推するに︑名詞や動詞や形容詞を瞬時にして成立させる接尾語と同じように︑﹁lか﹂は︑それが添加した単語を﹁副詞﹂的に用いうる﹁歴史的慣行﹂が存在していると考えられる︒︵なぜ︑このような﹁歴史的慣行﹂が存在するようになったかは︑我が国の漢文導入の様相などが絡む問題で︑別に詳論する︒︶

このような﹁歴史的慣行﹂は︑今日でも生きており︑

﹁lか﹂﹁lやか﹂などのほか︑﹁ざっくり﹂﹁すっき

り﹂﹁たんまり﹂などの﹁り﹂︑﹁果たして﹂﹁決して﹂

﹁至って﹂などの﹁て﹂があるのでないかと考えられ

る︒﹁当用漢字音訓表﹂の例横に掲げられた﹁極めて﹂

﹁努めて﹂﹁次いで﹂などの﹁て﹂の添加した語で︑

﹁副詞的﹂に用いられる如語とは︑﹁極める﹂﹁努める﹂

﹁次ぐ﹂などの動詞の意義に付随する﹁心情﹂を分離さ

せて︑﹁副詞﹂として用いるため︑﹁さて﹂﹁かくて﹂

﹁かって﹂などの﹁副詞﹂の構成要素となっている接尾

(24)

38

語の﹁て﹂と同じように︑接続助詞の﹁て﹂を転成させ

たものであろう︒ところが︑この﹁て﹂は︑﹁行って﹂

﹁笑って﹂などの純粋な接続助詞と発生的に等しいため︑

﹁極めて﹂﹁努めて﹂﹁次いで﹂の﹁て﹂を﹁副詞﹂の

接尾語として︑固有の意義と用法を持つものとしての明

確なる把握をしえなかったと考えられる︒

現代の国語において︑多数の漢語の﹁副詞﹂が用いら

れている︒

会場が参会者でいつぱいになる︒

旅行したくてもだいいち金がない︒

右の例の﹁いっぱい﹂﹁だいいち﹂は︑.杯﹂﹁第

こという漢字が当てはめられる用例である︒しかし︑

漢語で直接示される.杯﹂又は﹁第ことは︑現代の

言語感覚では別語と意識されている︒.杯﹂又は﹁第

こは普通次のように用いられる︒

コップ一杯の水を飲む︒

第一の関門を突破した︒ 漢語の副詞 ﹁いっぱい﹂と.杯﹂︑﹁だいいち﹂と﹁第こに

は大きな相違がある︒まず︑.杯﹂及び﹁第ごは︑

連体修飾語となるが︑﹁いっぱい﹂及び﹁だいいち﹂

は︑文全体に関係する﹁修辞語﹂である︒そして︑意義

的にも︑.杯﹂﹁第こは︑具体的数量を示すが︑﹁い

っぱい﹂﹁だいいち﹂は︑比較的数量を示している︒こ

れらの﹁いっぱい﹂﹁だいいち﹂は︑・これまで考察して

きた﹁副詞﹂の﹁つゆ﹂や﹁危うく﹂と同じく︑漢語の

派生若しくは転成によって生じたものである︒現代の国

語表記の多くは︑その相違を漢字と仮名の使い分けで示

している︒

このような派生若しくは転成によって成立した﹁副

詞﹂とともに︑現代の国語には︑漢語そのまま︑又は︑

﹁に﹂を伴って︑﹁副詞﹂となるものがある︒

結局︑問題は解決しなかった︒

問題が︑非常に複雑になった︒

﹁結局﹂﹁非常に﹂は︑一定の語を個別的に修飾する

ものでなく︑文全体の修辞に関係するものであり︑発言

者の気持ちの表現であることは︑これまで述べた﹁副

(25)

参照

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