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前川忠良前川忠良

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(1)

(2)

一︑上部構造の概念とその相対的独自性

二︑文学に於ける上部構造論争

三︑上部構造の相対的独自性の源泉

(附)理解の為の図式佑

(3)

一︑上部構造の概念とその相対的独自性

マルクス主義哲学︑および経済学の分野における︑上部構造︑土台︑および上部構造の相対的独自性の概念は︑

スターリンの規定が一般的に受取られているようであり︑何らかの問題意識があったとしても︑部分

的な︑もしくは反マルクス主義的な批判が行われているにすぎないだろう︒現在マルクス主義哲学︑および経済学

は現実の酷しい批判に直面していると云うことが出来るし︑その意味ではマルクス主義哲学の再検討が最も重要な

課題としてとりあげねばならない︒経済学に於ても︑その方法論の再検討も極めて︑重要な課題と云えるだろう︒

先づ︑上部構造の概念を明確ならしめるためには︑一般的に受取られているスターリンの規定を問題にしなけれ

ばならないだろう口

上部出造の相対的独白性について

スターリンは上部構造について次の如く規定する︒

﹁土台というのは︑そのあたえられた発展段階における社会の経済制度である︒上部構造とは︑社会の政治的・

法律的・宗教的・芸術的・哲学的な見解と︑これに照応した政治的・法律的その他の機関である︒﹂と︒

マルクスの規定と比較するために︑衆知のマルクスの文章を一応掲げておく必要があこのスターリンの規定を︑

0マルクスは﹁経済学批判﹂の序言に於て︑

一定の・必然的の・彼らの生活の社会的生産において︑

彼らの意志から独立した・諸関係を︑すなわち彼らの物質的生産諸力のある一定の発展段階に照応する生産諸関係

を︑むすぷ︒これらの生産諸関係の総体は︑その社会の経済的椛造を︑すなわち法制上および政治上の上層建築がそ

(4)

のうえにそびえ立ち・一定の社会的意識諸形態(のg巳宮の冨号ロの四百回

0 4 2 2 8 Z

2

53 )

とろの・現実の土台を形成する︒物質的生活の生産様式は︑社会的の・政治的の・および精神的の・生活諸過程一 がそれに照応すると 般を制約する︒人聞の意識が彼らの存在を規定するのではなく︑むしろ逆に︑人聞の社会的存在が彼らの意識を規

定する︒社会の物質的生産諸力は︑その発展のある一定段階において︑そのときまでそれがそのうちで運動してき たところの現在の生産諸関係と・あるいはたYその法的表現にすぎない所有諸関係と・矛盾するようになる︒これ

ちの諸関係は︑生産諸力の発展諸形態からその桂桔に転化する︒そのとき社会草命の時代がはじまる口経済的恭礎

が変動するにつれて︑巨大な上回建築のすべては︑あるいは除々に︑あるいは急速に︑変革する︒かかる変革を

観察するにあたっては︑経済上の生産諸条件に起った物質的の・自然科学的に忠実に確・認され

る・変革と︑人聞がかかる衝突を意識するようになりかっこれと戦い決すると乙ろの法律的の・政治的の@宗教的

の・芸術的の・あるいは哲学的の・簡単にいえばイデオロギー的の諸形態 われわれはつねに︑

( Z o o

)

.

なければならぬ︒﹂(青木文庫実川実訳)

乙のマルクスの規定は種々解釈されがちな暖昧さを伴っているが︑これを細かく分析してみると次の三つの規定

が含まれていることがわかる︒

第一は︑生産力から規定された生産関係は︑一定の社会的意識諸形態が︑それに照応するところの・また法制上

および政治上の上部構造の現実の土台を形成するものとして︑換言すれば︑生産関係としての土台と上部構造及び

社会的意識諸形態とを規定する︒

第二は︑物質的生活の生産様式は︑社会的の・政治的の・および精神的の・生活諸過程一般を制約すると云う︑

(5)

生産様式と云う概念範暗に於ける意識︑換言すれば︑生産力と生産関係との統一としての︑社会学的な生活諸過程

としての意識の把握である︒そして︑生産力と生産関係が姪拾に転化し︑人聞がかかる衝突を意識するようになり

乙れと戦い決すると乙ろの意識をイデオロギーと云う用語で説明する︒

第三は存在と意識︑社会的存在と意識と云う︑より哲学的な︑及至は一般的規定である︒

先︒っこの三つの区分は︑分折対象を明確ならしめるために拙象の段階および内容が異なるととに注意すべきであ

社会的意識諸形態は土台1生産関

土台に完全に規定されるもの る︒また︑第一規定ではマルクスは︑上部構造と︑社会的意識諸形態を区別し︑

係に照応するものとしてとらえられ︑土台のうえにそびえ立つものは︑換言すれば︑

は︑法制上および政治上の上部構造だとしている点を注意しよう︒

上部品i造の相対的独自性について

上部構造と社会的意識形態との関係はどうなのかと云う疑問が起るが︑

なように︑生産様式が︑社会的の・政治的の・および精神的の・生活諸過程一般として︑

動一般として︑上部構造も︑社会的意識諸形態の特殊具体的な一形態であると云うことである︒

カウッキ

人 れ 聞 は の 第 意 、 二 識、の

的、規、 定

l

践、明 的、ら 活、か

1 h

ノ ギ﹂ 目

'LV

4 1 M

および上部構造は一つの比愉的表現であると考えることも出来よう︒

イデオロギー上の諸階層という一つの上部構造を必要J

hy

i J マルクスは︑他万﹁物質的生産における諸対立は︑

この上部構造の効呆は︑よかれあしかれ︑それが必要であるという理由で︑善であること︒﹂(﹁剰余価

この場合の上部構造は社会的意識諸形態と

値学説史﹂第一巻︑第二章第五節)と云うような用いかたをしている︒

してイデオロギー上の諸階層の一つとして第一規定で用いられたと理解する乙とも出来れば︑またイデオロギー

般として理解することも出来よう︒

二八五

(6)

マルクスは上部構造についての詳細な解説を行っていないので︑乙の異った表現を理解することが出来ないが︑

明らかにこの二つの内容は区別されねばならない︒われわれは︑法制上の︑政治上の意識形態としての上部構造の

概念を狭義に︑イデオロギー意識諸形態一般としての上部構造の概念を広義に於て理解する︒

および第一のマルクスの規定の意識諸形態全体に適用されるものとして理解されねば

(以後便宜上︑イデオロギーと意識諸形態との用語上の区別は用いずに︑狭義と広義に於て上部構造1 る上部構造の概念は︑第二︑

社会的意識諸形態を用いる︒)

狭義の上部構造の規定として︑法制上の・政治上の意識諸形態を何故乙こで注意せねばならぬことは︑

特別に区別したのか︑土台から規定されるものと︑

﹁法制上の・政治上の﹂と云う用語に対して︑ 土台に照応する社会的意識諸形態を区別したのか︑また第一の

﹁社会的の・政治的の・および精神

第二の規定では︑

マルクスが第二の一般的意識諸形態の規定として︑ その問題意識の上に︑マルクス理解の錠を求めよう︒

﹁政治的﹂として﹁社会的・精神的﹂と併記した場合にはそ 的﹂のと併記したと云う乙とであり︑

の政治的意識は単に国家権力の所有者の意識のみではなくして︑反政治権力意識としての政治意識を︑更に生産関

係と戦い決するところの反体制的革命意識を含んだものであると理解する︒

更にマルクスが︑第一規定に於て土台としての生産関係から規定された社会的意識諸形態の特殊丞要性をもつも

﹁上部構造﹂と比愉的表現をとったところの﹁法制上のおよび政治上の﹂それの場合に於てさえも一応

反法律的︑反政治権力的な意識をも含むものとして表現され︑

るものと考えられる︒しかしまた他面︑ 国家と云う概念が用いられなかった理由もそこにあ

﹁現実の土台に照応する一定の社会的意識諸形態﹂と区別したのは︑

(7)

﹁法制上および政治上の﹂を﹁国家の法律︑政治﹂と意味せるものとして︑ より強い意味での比愉的表現として︑土台にそびえたつ国家と云う形式の内容を示

上部構造と規定したと 重要性と云うとらえ方よりも︑

も考えうる︒その場合には反国家権力意識は︑比愉的上部構造の表現には含まれず︑

意識形態の中に含まれるものと理解する他はない︒これは最も狭義の理解であるが︑

ゆがめるおそれがあるのみならず︑恐らくマルクスの真意ではないだろう︒

一般にマルクス学界では︑この最狭義の上部構造l

土台に照応せる一定の社会的

これはマルクス体系の理解を

れて何の矛盾も感ぜられることなく通用している︒マルクスが比愉的表現に於て︑ 広義の上部構造H社会的意識諸形態論が︑混同さ

﹁法制上のおよび政治上の﹂意

識形態を上部構造として強調したとしても︑社会的意識諸形態リ上部構造リ国家とすることは︑

であると云う他はない︒

ここにおいて︑われわれは上部構造について二つの解釈を与えることが出来るが︑

上部出造の相対的独自性について

済学批判﹂序言に於ては︑上部構造の概念を意識諸形態の第一の拍象の概念に於て︑ 俗流唯物論の典型

何れにしてもマルクスは﹁経

従って︑土台は生産関係と云

う規定に於て用いられている︒そして︑それ以上の立ち入った分折は行われていない︒しかし︑広義に用いられた

ここに於ても

原則として広義に於て用いる︒また広義に於て用いられなければ︑ マルクス以後では一般に社会的意識諸形態や上部構造として広義に用いられているので︑

可能だからである︒ 上部構造の相対的独自性の概念の基礎づけは不 マルクスの意識諸形態の規定について︑かかる分折を行うことは︑少し言葉にとらわれすぎではないかと云う批

マルクスのこの用語上のニュアンスは極めて重大な意味が含まれているのではないかと判があるかも知れないが︑

二八七

(8)

二八八

判断されるからである︒

も一っここに付け加えておかねばならないことは︑マルクスが上部構造の概念を広狭の二義に用いたことは︑土

台もまた広狭の二義に用いて差支えないであろうと云うことである︒マルクスは第一の規定では︑上部構造を狭義

の土台の生産関係に規定されるものとして把握したが︑広義の意味として︑生産力と生産関係との統一としての生

産様式を土台として︑第二の規定に於ても用いることが出来ると云うことでもある︒むしろ︑広義に上部構造をと

らえるならば︑土台も広義にとらえるべきであり︑﹁経済学批判﹂序言のマルクスの表現のニュアンスは以上の如

く整理することが出来る︒

マルクスの規定とスターリンの規定を比較すると明らかに相異する︒スターリンは﹁政治的・法律的・宗教的・

芸術的・哲学的な見解﹂を上部構造︑だと規定しているが︑マルクスの第二規定として︑広義に規定したと云う限り 一般と︑生産関係から規定された社会的意識諸形態としての︑ マルクスが次元を異にしてとらえた意識諸形態

法制上および政治上の﹁上部構造﹂の用語を︑同一 では理解すること出来るが︑土台を狭義の生産関係としたことは︑

次元に於てとらえたことになり︑スターリンがマルクスの用語上のニュアンスの意味を理解しなかったと云うこと

従って︑土台を狭義の生産関係としたことは意識諸形態一般を︑生産関係侃百一の政治的な規定によって公式化す る結果となった︒更にスターリン規定において問題になることは︑上部構造を﹁これに照応した政治的・法律的そ

の他の機関である︒﹂としている点である︒

マルクスの上部構造と︑社会的意識諸形態の二つの概念は︑或る程度明確さを欠いでいることは事実であろうが

(9)

それはマルクスが具体的な人聞社会としての社会学的な体系化を志しながら︑

ことに大きな原因があり︑意識諸形態の問題に於ても︑ それは殆んど具体化され得なかった

生産様式に規定された生産諸過程一般に於ては解明されて

いないためである︒

逆にこのことが︑マルクス主義を経済主義的決定論に偏らせ︑意識諸形態の問題を生産関係決定論的公式主義に

走らせることになる︒それは更に社会科学全般に波及する︒

換言すれば︑意識諸形態の問題は︑先づ意識諸形態一般として︑生活諸過程の内容として把握されねばならない

し︑従って︑生産様式の生産力的側面と生産関係的側面として︑従って更に意識は人間主体の問題であるかぎり︑

意識一般として人間の社会的存在と自然的存在の二側面に於て規定されるものとして把握されねばならない︒換言

すれば︑人間の社会的存在と自然的存在の二側面は︑人聞が歴史的存在であるかぎりは︑人間の社会的荏在は︑

定の歴史的な生産関係に規定された存在であり︑人間の自然的存在は一定の歴史的な生産力に規定された在在であ

上部梢造の相対的独自性について

り︑人間社会が︑生産力と生産関係との矛盾の統一および運動としての生産様式を構成するのと同様︑人間意識も

社会的在在としての生産関係から規定された意識と︑自然的在在としての生産力から規定された意識の︑矛盾した

意識の統一と運動の過程として把握さるべきである︒

たしかにマルクスは社会的意識諸形態なる用語を用いて︑一般的意識諸形態や自然的人間的意識という用語を用

いていない︒それは︑現実的に存在しうるものは社会的規定を受けてしか存在し得ないためであり︑人聞が社会的

存在である以外には存在し得ないのと同様である︒しかし︑社会的存在としての人間は︑自然としての人間を否定

しているわけではない︒自然としての人間を内包した存在であり︑同様に現実に於ては社会的意識諸形態としてし

二八九

(10)

O

か存在し得ないとしても︑他面自然的人間的意識を内包しているのである︒マルクスは現実的形態として社会的意

識諸形態なる用語を用いたと理解する︒

マルクスは一般に理論的には︑自然的側面と社会的側面との矛盾した二側面の統一として︑そこに運動を内在せ

しめるものとして把握した︒しかし︑現実に理論的展開を誌みたものは︑資本論に代表される経済学に於てであっ

た︒それはマルクスの広大な0フランの一少部分にすぎなかっただろう︒そこに於ては︑具体的な現実からの抽象が

商品と云う現象的把握の段階にとどまる限りは︑いくらひねく廻してりみても商品の本質も︑従って︑資本主義の

内在的矛盾もとらえることは出来ないだろう︒商品は使用価値と価値の次元にまで抽象するととによって︑換言す

れば商品の自然的側面と社会的側面との統一として︑その矛盾の展開として︑

および資本主義の運動法則

は把握されるからである︒資本主義を対象とする社会科学が科学として︑従って︑論理的に︑本質的に︑展開され

ると云うことは︑その運動法則としての内在的矛盾を明白ならしめると云うことである︒それは︑資本主義の正し

い分折は人類の歴史の発展の一段階として把握されねばならないと云う乙とを意味する︒換言すれば︑社会は常に

自然的側面と社会的側面との統一として︑従って︑その次元にまで拍象化されて初めて論理的分折たり得ると云う

乙とであり︑社会科学が自然科学の分折と異って︑基本的に堅持せねばならない姿勢であると云う乙とである︒そ

れは極めて常識的なことと一般に受取られるかも知れないが︑マルクスが価値形態論に於て行った展開の態度は︑

尚今日に於ても要求されることである︒

例えば︑資本主義の矛盾として︑資本家階級と労働者階級の搾取関係を︑具体的な概念規定の範囲に於て抽象佑

が深化したとしても︑それは論理的展開としては不充分ではなかろうか︒又他方物の関係として︑物の運動として

(11)

把握することによって︑客観的法則としての社会科学の確立が行なわれうるとしても︑それは完全な競争が前提さ

れた上での均衡論ではない︒それらの物の関係乃至運動は人間の矛盾した意識を内包するものとして︑常に﹁在る

﹂ものを乗り越えようとする人間の主体的意識として︑社会的矛盾の運動として︑かつそれは資本主義が歴史的な

一過程にすぎないところの︑社会体制否定の意識を内包する社会的矛盾の運動として理解されて初めて︑論理的次

元に達することが出来るのではなかろうか︒それはいわば人間の存在を二側面に於てとらえ︑その存在に規定され

た人間意識の二側面に於てとらえることによってである︒

それは経済学に於ては次の如く云い得る︒資本主義の発展は商品生産の発展であり︑論理的には価値と使用価値

の矛盾の展開である︒商品の発展は︑商品としての商品︑貨幣としての商品︑資本としての商品︑(

一般的理解とは異なるが︑後日明らかならしめるだろう︒)として現われ︑かつ本来商品としての物質的生産物でな

かったものが︑商品生産の発展によって︑商品への転化が強制される︒それら労働力商品︑土地︑その他のものが

追加的に対象となる︒乙乙に資本としての商品の荷い手としての資本家階級と︑労働力商品としての労働者階級の

対立が︑資本としての商品の価値と使用価値の矛盾と︑労働力商品の価値と使用価値の矛盾が︑如何に人間の意識

商品の発展が︑人聞を労働力商品たらしめるが

労働力商品の価値と使用価値の矛盾の増大が︑人間の自己疎外の激佑を必然的たらしめ︑その爆発は人間復帰の要

初めて客観的に資本主義の結末を必然的たらしめるのである︒

意識の相対性と独自性を︑マルクスは︑人間の存在と意識について︑フオイエルバッハ批判の形態に於て展開し

(12)

二九二

﹁各個人と各世代とが所与のものとして見いだす︑生産力と資本と社会的交通形態とのこの総額こ

そ︑哲学者らが実体および﹁人間の本質﹂として表象してきたもの︑彼らが神としてあがめたり︑たたかったりし

てきたものの現実的な根拠であるo﹂として︑意識の相対性を主張する︒

マルクスのフオイエルバッハ批判

は︑他方意識の独自性を主張することによってその批判の主要な目標としていることは明らかであり︑意識の粗朴

な反映論を批判し︑人聞が他の動物とは異る存在として︑かつ欲望の増大と実現とによって︑意識的な生産を実現

するものとして把握している︒人間の存在はこの歴史の現実的基礎に規定されたと云う意味に於て︑人間の意識は

相対的でありながらも︑彼らが実践する歴史そのものであると云う意味に於て︑相対的独自性をもつのである︒

﹁従来のいっさいの唯物論の主要な欠陥は︑対象・現実・感性が︑ただ客休の︑または直観の形式のもとでピけ

とらえられて︑人間的な感性的活動︑実践としての主体的にとらえられていないことであるo

f

マルクス﹁フオイエルバッハにかんするテlゼ﹂)

ここに︑存在から規定される意識の相対的独自性の主張を見ることが出来るが︑相対的独自性と云う用語はマル

クスは用いていないのではなかろうか︒

スターリンの﹁言語学の諸問題﹂に於て展開された土台︑上部構造に関する問題意識は︑一部の人々によって土

台と生産力の混同︑土台と生産様式の混同等を明らかにすることによって︑上部構造の概念を明確にしたものであ

ると高く評価されているが︑既に指摘したように︑マルクスを誤って理解したのみならず︑多くの誤りをもたらし

たと云える︒それは日本に於けるもろもろの上部構造の論争の混乱に現われている︒またそれは上部構造の相対的

独自性を如何にとらえるかと云うことに問題は帰着する︒

(13)

他方エンゲルスは上部構造を如何に理解したであろうか︒エンゲルスは﹁政治的・法的@哲学的・文学的・芸術

的等々の発展は︑経済的発展に基礎をおいている︒みな︑相互にたいしても︑また経済的しかしこれらの発展は︑

土台にたいしても︑反作用を及ぼす︒それは︑経済状態が原因であり︑ひとり乙れのみが能動的であり︑他のすべ

てのものは受動的な結果にすぎないということではなくて︑究極においてつねに自己を貫徹する経済的必然の基礎

のうえにおける交互作用なのであるよ﹁経済的自動的作用があるのではなくて︑人間が自分で自分の歴史をつくる

のだが︑人聞を制約するあるあたえられた環境の中で︑すでに存在する事実的諸関係の基礎のうえで︑それをつく

るのであるよ(一八九四年シュタンゲンブルクへの手紙)と説明しているが︑エンゲルスはこ乙では土台を生産関

係として把握し︑更に︑与えられた環境の中で︑すでに存在する事実的諮問係の基礎のうえでと云うように︑それ

は作用︑反作用と云う相互作用として把握し︑相対的独自性と云う用語は用いていない︒そこでは︑資本主義的生

産関係の土台に規定された社会的意識諸形態であって︑人間の主体性は生産関係を否定するものとしてはとらえら

れていないと理解される︒いわば︑マルクスの第一の拍象の次元における把握である︒しかし︑

O年のシュ

ミットへの手紙では︑﹁問題は分業の見地からするともっと理解しやすい︒社会はそれに欠くことのできないある

極の共通の機能をつくりだす︒この機能をはたすように指定された人々は︑社会の内部における分業の一つの新部

門を形成する︒それとともに彼らは︑彼らの委託者にたいしても特殊の利害関係をもつようになる︒彼らは後者に

対して独立する︒そして││乙乙に国家がうまれるのである︒﹂﹁しかしまた︑それ自身に内在している︑すなわち

いったんそれに移設され︑さらに徐々に発展させられた相対的独自性のために︑生産の条件と行程とに対して反作

用を及ぼす︒﹂とし経済的発展にたいする国家権力の反作用を分折する︒

(14)

二九四

ここでは︑国家と経済との作用︑反作用を相対的独自性に於て説明している︒更に宗教︑哲学等のいっそう高く

空中にうかぷイデオロギー的領域に於ける反作用を相対的独自性をもつものとして説明していると理解される︒し

ここではマルクスの第二の規定の広義に於て︑土台︑上部構造が表現されているようであるが︑上部構造に

ついては︑それはふくぎつな体系であって︑そのさまざまな部分が土台に対して︑同じような関係にあるのではな

く︑密接につながったものと︑そうでない意識諸形態として理解されている︒従って︑相対的独自性をもっ政治的

運動の反作用として︑一方では国家権力の運動︑他方ではそれと同時に生みだされた反対派の運動を説明するが︑

それは経済的運動に影響を与えるものとしてだけしか説明されていない︒

これらのエンゲルスの文章を見た場合︑マルクスの社会的意識諸形態に対する分折のニュアンスは失わ

れていると判断される︒エンゲルスのシュタンゲンブルグへの手紙の冒頭では︑政治的︑法的︑哲学的︑文学的︑

芸術的等併列的にとらえ︑更に主として国家と云う形で相対的独自性を理解することにより︑意識諸形態を上部構

造として一本化し︑マルクスの第一の拍象の概念に意識諸形態一般の概念を押し込め︑更にマルクスの存在に対す

る意識の主体性を相対的独自性として︑暗示されたものを︑国家の相互作用的運動に押し込めて了ったと理解され

ても仕方がない︒換言すれば︑意識諸形態一般を生産関係からのみ規定されるものとし︑

れを越えるものとして用いらるべき相対的独自性の概念を︑ 生産関係を否定乃至はそ

(従って︑土台は生産様式)単なる相互作用の概念に

転落せしめている︒そこには︑マルクスの拍象の第一から︑第三に飛躍し︑第二の生活諸過程の内容としての︑社 会的の・政治的の・および精神的の一般的意識は問題の対象としては消えてなくなる︒いわば︑生産力視点を無視

することにより後述するように政治的な︑反体制意識としての革命の論理はその基礎を失うことになる︒

(15)

エンゲルスが概念の混乱の原因をなしていることを指摘するにとどめよう︒

一般に国家の相対的独自性と云うことが論ぜられ︑レーニンは国家の経済に対する反作用の解明を発展させたが

経済政策論に於ては︑通俗的には国家の相対的独自性︑換言すれば︑経済に対する上部構造としての国家の反作用

ここに通俗的にはと云う用語を用いた意味は︑後述の説明で白

が︑その主要な研究対象であると考えられている︒

ら明らかになるが︑結論として︑国家には相対的独自性はなく︑国家は経済に反作用を及ぼすにすぎないと云う考

えからである︒ただ国家に相対的独自性を認めるとするならば︑直接的に暴力として︑例えば︑(軍部の勢力)乃至

はその背長に於て(警察力)経済的関係に影響を及ぼすことが現実に於て起りうると云う意味に於てである口

1

法律は別個の範時に於て理解さるべきであると云う

志味である︒マルクスが経済学批判序説で︑意識諸形態として︑政治的のと云い︑法制上のおよび政治上のと表現

しても︑国家と云う用語を用いなかった志味もそこにあると判断される︒諸形態なる意味は︑政治︑芸術︑宗教哲

学その他の諸部門と云う意味であって︑マルクスの云う政治的のと云う意味は︑政治的意識を指すにすぎないので

はないか︒ましてスターリン規定における政治的・法律的機関を含めるに於ておやである︒従って︑マルクスの比

愉的表現に於て初めて法制上のおよび政治上のと云う形で﹁上部構造﹂が使用されたにすぎない︒それにしても決

して国家ではない︒国家と云う暴力機構は意識とは別個の問題である︒力は意識の実践に於て︑労働となり暴力と すれば︑暴力機桔としての国家と︑上部構造としての政治︑

なるところの︑実践手段にすぎない別個の範臨だからである︒

マルクスが上部構造の概念を如何に用いたかは︑広狭の両義として指摘したが︑詳細に展開してみせなかったこ

とは既に明らかであり︑マルクスにこだわることはかえって説明を複雑にする︒マルクスから以上の如く理解した

(16)

二九六

上で︑私見として展開する万が理解を容易にするだろう︒マルクスの上部構造の用語を比愉的に理解すれば︑国家

の経済に対する反作用としてのみ理解することも許されるだろうし︑エンゲルスは相対的独自性なる用語を国家の

反作用として用いながら︑他方では意識諸形態一般の問題として説明する︒その意味ではエンゲルスもこれらの概

念規定には明確を欠ぐと云うことが出来る︒

マルクスとエンゲルスの意識諸形態︑乃至上部構造に関する理解に相違があるとする主張には︑当然反論も成立

すると考える乙とも出来るが︑何れにしても︑適確な表現がなされていないことは事実だろう︒

一般に理解されているように︑意識諸形態u上部構造として︑私論を展開する万が理解されやすいだろ

ぅ︒すなわち︑上部構造の相対的独自性とは︑﹁志識諸形態は土台から規定されるが︑尚かつ狭義の土台リ生産関

係から規定されない相対的独自性をもっ︒意識諸形態は土台から規定される側面と︑相対的独自性として土台から

規定されない面をもっ︒それは政治意識としては反体制意識として現われるものとして理解する︒

﹁国家﹂の相対的独自性と国家の経済に対する反作用とは必ずしも︑同じ箱時に於てとらえられるものではない

だろう︑それは正しくは︑上部構造としての︑法制上︑政治上の意識の土台に対する相対的独自性の問題であり︑

他は国家の経済に対する作用︑反作用である︒

国家の経済に対する作用︑反作用とは︑具体的な国家の経済政策の比愉的表現であり︑換言すれば︑政治は経済

の集中的表現であるものとして︑経済的諸関係の国家権力を通した特殊な迎動形態を示すものに他ならない︒厳密 には経済的相互作用が政治に作用し︑国家権力を過して経済に反作用と云う形で︑経済的相互作用が変容されるに

(17)

反作用とは作用があって初めて反作用を起すものである限り︑何ら独自性をもったものとして考えられるもので はない︒それはマルクスが云うように政治は経済の集中的表現であるのみならず︑支配階級によるところの国家権 力(暴力)の行使である︒それは価値関係を変容せしめはしても︑生産関係を否定するものではないからである︒イ

デオロギ!としての政治意識は︑支配階級の意識としての︑資本主義体制維持と支配階級の利益追求のみならず︑

社会的には被支配階級の反体制意識をも︑合むものとして把握される︒従って︑国家乃至その権力的行使としての

政治は︑政治的意識としての上部構造の支配階級的側面である︒従って︑その限りでは︑国家の相対的独自性と一般

に云はわれるものは︑厳密な意味では政治の反作用としてしか理解できない︒その意味では逆に︑

(

階級の政治意識)には相対的独自性はないと理解するのが正しいだろう︒同様の意味に於て︑

定する法律︑また国家権力の行使としての政治は︑社会的意識諸形態として上部構造であっても︑相対的独自性を 国家の存在形態を規

持つものではなく他のイデオロギー諸形態とは必ずしも同じではない︒

マルクスが社会的意識諸形態として︑政治︑及び法律をあげながら︑国家と云う概念を用いなかったことは先に

注意を促したところであるが︑また﹁法制上﹂︑﹁政治上﹂のかかる特殊的な意味に於て︑狭義の上部構造として土

台から規定されるものとしてのみの表現に於て把握した理由も以上の点に見出されるのである︒従って︑反体制意

識としての政治的な意識は︑広義の上部構造に於て︑第二の規定に於て︑他の意識諸形態と併記された所以であるD

以上分折と主張の中から︑自らスターリン規定の誤りは明らかになって来る︒スターリンは上部構造を社会の政

治的・宗教的・芸術的・哲学的な見解と併記し︑土台は社会の経済制度とし︑それは生産関係を意味している口こも

れはエンゲルスの断片的規定を組合せたものであり︑或る意味ではエンゲルスの規定を踏襲したものであり︑

二九七

(18)

二九八

クスの暗示的表現にすぎなかった相対的独自性の問題を明確に規定しようとしたものであったが︑それは単に相互

作用としてのみ理解され︑かっ土台をマルクス狭義の生産関係として把握することによって︑公式的規定に転落し

人間に於ける意識的なものの価値を︑人間が自らの環境を変えて発展してゆくと云う︑主体的実践的側面の理論的

基礎を抹殺することになる︒そして更に﹁土台の特有の特殊性は︑それが経済的に社会に奉仕する点にある︒上

部構造特有の特殊性は︑それが政治的@法制的@美学的その他の観念によって社会に奉仕し︑社会のため︑ 照応する政治的・法制的・その他の機関をつくりだす点にあるo﹂として︑土台とは経済であり︑上部椛造とは政治

であるとする極めて通俗的な説法として︑土台も︑上部構造も社会に奉仕するものであると云う始末となる︒従っ

て土台に照応する政治的・法制的機関まで合めることとなる︒丁度文学作品は意識諸形態であっても︑その唯一日物ま

で︑上部構造に含めるのと同様の誤りである︒

マルクスの生産力・生産関係の規定が︑梅めて抽象的な哲学的論理的規定であると同様に︑土台︑上部構造の規 定は存在と意識の社会的分折として︑極めて拍象的論理的規定であって︑社会の分業からとらえられる相互作用の 概念とは異り︑抽象的論理的規定での相互作用であり︑従ってまた相対的独自性を合ひものでなければならないか

スターリンによれば︑﹁資本主義の土台は自分の上部構造を︑社会主義の土台は自分の上部構造をもっ

ている︒土台が変化し︑なくなると︑これにひきつづいて︑その上部楕造も変化し︑なくなり︑新しい土台がうま

れると︑これにひきつ守ついて︑それに照応した上部構造がうまれる︒﹂ことになる︒その怠味ではいわゆる上部構造

の相対的独自性等はないと云うことになる︒一般に上部構造の相対的独自性が認められながらも︑何故上部構造が

(19)

相対的独自性を持ちうるかについては必ずしも明らかではない︒

スターリンは﹁上部構造が土台によってつくられるのは︑土台に奉仕するためであり︑土台が一定の形式をとっ

てしっかりと固まるのを積極的に助けるためであり︑古い︑寿命のつきた土台を︑その古い上部構造もろとも根絶

しようと︑積極的にたたかうためにほかならないよと説明するが︑スターリン流に新しい土台(たとえば資本主義

的)と︑古い土台(たとえば封建的)とが︑封建社会の末期乃至は資本主義の初期に在在していたと考えることも

必ずしも不都合ではないだろう口従って︑これら異った土台に規定された︑異った上部構造が存在することは当然

考える乙とが出来よう︒しかしながら︑対立した土台が併存しようと︑それに規定された二つの上部構造があらう

と︑相対的独自性の問題とは関係のないことである︒何故なら︑二つの土台の変佑が︑二つの上部構造を規定し︑

照応させるにすぎないからである︒また︑上部桔造の夫々の特殊性を土台に密接であるか否かと云うことや︑夫々

の上部総造の発展の不均等性を説明したとしても︑土台と上部杭造との関係としての︑相対的独自性を説明した乙

とにはならない︒従って︑スターリンには︑相対的独自性を特に説明しているとは思われない︒

またエンゲルスが政治的・法的@哲学的・宗教的・文学的@芸術的などの発展は︑経済的発展に基礎をおいてお

これら上部梢造的な諸現象のすべては︑一定の相対的独自性をもっていると認めていると理解しても︑

﹁国家が現われるとともに︑経済から生まれながら︑同時にまた相対的独自性をもっていまた国家の説明に於て︑

その相対独自性をもっ力が何故︑何処から発生するかについての疑問に解答を与える力が発生するよと云っても︑

エンゲルスは︑その相対的独自性の源泉を﹁経済的運動は全体としてじぷんをつらぬくが︑ることにはならない︒

しかもまたこの運動そのものによってつくりだされ︑相対的独自性をもっ政治的運動の反作用をもうけなければな

(20)

0 0

一方では国家権力の運動︑他万ではそれと同時に生み出された反対派の運動が︑経済的運動に影響を与え

るのである口﹂と説明するならば︑それは何ら説明にならないと云う他はない︒資本主義生産諸関係は︑国家権力を

掌握しているところの資本主義階級に対して︑それと鋭く対立するところの労働者階級の存在は当然であり︑政治

はかかる経済的諸関係の集中的表現であった筈だからである︒反対派の政治運動もまた土台から規定されて生まれ

たものである限りは︑他方土台から規定されない独自性を相対的に持つと云う意味に於ける上部構造の相対的独自

性が説明されなければならないからである︒

マルクス︑及びエンゲルスは上部構造の相対的独自性の源泉についても︑明確な︑分折は残されていないと考え

hつ る

二︑文学に於ける上部構造論争

クチンスキーは﹁土台が文学の万を強力に発展させたか︑それとも経済学の方をであったか﹂を問題とし︑﹁私た

ちがマルクスやエンゲルスの︑または社会主義社会創出以前のレ│ニンやスターリンの著作をまなぷならば︑社会

主義社会の経済的上部構造︑つまり経済学が︑たとえば文学に関する科学の領域などよりも優先的に準備をととの

えられ︑細目にいたるまで考えが練られた︑ということを認識するだろう︒﹂と云っているが︑日本のマルクス学界

に於ても同様に︑上部構造の相対的独自性の問題が︑専ら︑国家政治の問題として考察されている︒このことはク

チンスキーが云うように︑緊急度が高いことがその理由であろう︒しかしながら︑上部構造の相対的独自性の問題

(21)

を︑土台と最も緊密な関係にある政治の問題に限って展開してゆくことは︑その分析を暖昧にする云う意味で極め

て危険であるばかりでなく︑事実極めて混乱した論議が横行していると考えられる︒それは逆に︑上部構造の相対

的独自性が一般的な形態に於て分折されていないことに原因があると云うことが出来る︒その意味では︑上部構造

の相対的独自性の本質的把握は︑逆に︑土台と最も関係の薄い部門に於て分折されてこそ︑より明白な形に於て把

握される筈である︒

マルクスは﹁経済学批判序説﹂の未尾に︑

ギリシャの芸術と英雄詩が一定の社会的発展諸形態

に結合していることを︑理解する点にあるのではない︒困難はむしろ︑それがわれわれにたいしてもなお芸術的享

一定の点においては︑規範として︑しかも到達しえざる規範として意義をもつことを︑理解する点に

だが子供の純朴さは彼を喜ばせなひとはふたたび子供になることはできない︑もしなったら馬鹿になる︑にろう︒

その純真さを再生産するために︑努力してはならないだろうかいだろうか?彼はふたたびより高い段階において︑

?子供のような性質の人には︑いかなる年令期においても︑子供の心の特質が︑その純真さをもって蘇えるもので

はなかろうか?人類がもっとも美しくのびた歴史的な幼年期は︑ふたたび復帰しないひとつの段階として︑なぜ永

久の魅力をあたえてはならない︑だろうか?扶の思い子供もいれば早熟の子供もいる︒古代民族の多くはこの範暗に

ぞくしていた︒正悟な子供はギリシャ人であった︒彼らの芸術がわれわれにたいして魅力をもっという事実はその

生長の基礎をなした社会階級の未発展なことと矛盾するものではない︒

魅力はむしろかかる未発展の結果であり

そしてそれはむしろ︑芸術がそのもとで成立し︑しかもそのもとでのみ成立することができたところの︑未熟な社

O

(22)

O

けっして復帰しえないという事実と︑不可分に結合しているのであるこという暗示めいた文章を残し

ているが︑それは極めて重要であるために︑長文のまま引用したが︑将に上部構造の相対的独自性の問題の錠の

つは乙こにある筈である︒

マルクス文学者が如何にこの問題を理解しようとしたか︒かつて︑

lチが提供した問題をふりかえってみる

(ルカーチ﹁リアリズム芸術の基礎﹂未来社)

芸術あるいは文学が上部構造であるかどうかの問題は吾国では一九五五年高橋義孝氏が︑ゲオルグ@ルカi

判という形で口火が切られた︒(中央公論十二月号﹁マルクス主義文学理論批判﹂)

﹁上部構造とはそもそも﹁土台と生滅をともにするもの﹄(スターリン)として規定されてはいなかったか︒土

ム口と運命をともにすると云う点にこそ︑

をもった一時代を越えて生きのびるものを︑ まさに上部構造の上部椛造たる所以のものがありはしないか︒特定の土台

﹁土台とその生滅をともにする﹄と云う点にこそ︑その本質的規定を

もつ上部構造と見るのは明らかに無理なことであると︒﹂つまり︑古典としての文学の如く︑その時代及び階級を越

えた持続的価値は世間一般に於て認められているところであり︑或る人はそれを文学の永遠性と呼ぷのに対して︑

﹁継承性﹂によって説明しようとしても︑当然文学が上部椅造であると云う規定と矛盾してはいないか

と云うことである︒

従って︑高橋義孝氏その他の観念的な文学論者は︑次の如く主張する︒文学は上部構造ではない︒いいかえれ

ば︑経済的な生産様式に規定されるものではなくして︑観念や感情の独自の発展から形成されるものであり︑逆に

芸術とは現実に対する不満の感情から生れ出た空想であり︑満たされない現実に対する代用満足の場合さえありう

(23)

る︒その他︑人類の生理的︑心理的条件に基く客観的な美の諸法則に芸術の永遠性を求める場合もある︒しかし︑

問題である乙とは︑芸術乃至文学も意識諸形態として上部構造であるとするマルクス主義の立場と︑時代を越え︑

階級を越えて生きのびて米た古典が︑吾々の眼前に厳然とあると云う事実である︒

これは矛盾していないだろう

か︒五口々がスターリンの如く上部構造を土台とその生滅をともにすると理解する限りでは矛盾しているし︑従って

スターリンの上部構造の規定は誤りであると云うことが出来る︒と

ルカーチはこれについて︑あらゆる時代にあって︑元々遠い過去の諸時﹁今日までの全歴史の経過のうちには︑

代の上部桔造であったところの文学作品︑芸術作品が︑或る重大な役割を演ずる︒

(

):

::

書物︑彫刻などの形で︑いわば過去の死んだ遺産をあらわす文学や芸術の作品の中から︑それぞれの階級は現在の

斗争の為に︑すなわち自己の土台を強め︑敵の土台を弱めるために︑有効に利用出来る見込のある作品を︑本能的

な確実さでとり出すのである︒:::もっともその場合︑

これらの作品は階級的目標に応じて解釈されるごと説明

(

lチ﹁リアリズム芸術の基礎﹂上部構造としての文学一四七頁)

ルカーチは上部構造のスターリン的規定に則りながらも古典としての芸術作品をその有効性によって説明しよう

としたのだが︑高橋氏はこれに対して︑﹁凡庸な作品は正規の夫をもった家庭婦人︑有夫の女︑すぐれた作品は娼

婦の如︑きものであろう口つまりすぐれた芸術作品は解釈可能性の束であり︑そういう作品の決定的条件は︑多義性︑

極端に云えばあいまいさ︑すなわち七面鳥的︑鶴的性格にあることになるだろう︒││けれどもすぐれた芸術作品

のそういう鶴的娼婦的性格と︑マルクスのいわゆる規範という性格とは︑如何にしても調和せしめがたい︒両者を

同一のものとして捉えることは︑われわれにとっては不可能なことであること批判される︒

O

(24)

O

この高橋義孝氏による﹁マルクス主義文学理論批判﹂に対して︑小田切秀雄︑(新日本文学一九五六年一月号)

除村吉太郎︑(中央公論一九五六年三月号﹁高橋義孝批判﹂)︑

(知性一九五六年三月号﹁芸術の生命﹂

多国道太郎(思想一九五六年四月号﹁上部構造としての文学﹂)

マルクス主義の立場からの主張が展

閲された︒ここでは文学論争を詳しく検討する余裕はないが︑除村氏は芸術作品が後世に生命を保ちうるのは︑決

してその娼婦的性格にあるのではなく︑﹁その最初の意味の方向において﹂その価値が受取られるからであり︑・:

‑:またそれ故に乙そ芸術作品の古典的価値が﹁規範﹂としての意義をもちうるのであると説明されても︑説得力は

ないと云う外はない︒

文学上部構造については︑ソヴエトに於ても一九五O年スターリン論文﹁マルクス主義と言語学の諸問題﹂の発

表後種々な形に於て展開されていた︒それについて︑山村一局次氏がソヴエトにおける﹁文学上部構造﹂論争として

紹介されており︑(思想一九五六年二月号)特に一九五五年︑

ご定の時代に創造された作 ながい世代にわたって生きのこるかという問題を研究しなけれピならないD不滅

性︑生きた力

l!

これはまさしく芸術に固有な特質である︒若干の科学的真理︑科学的な原理もまた未来のために

存続する︒だが科学の発展の新しいそれぞれの段階は︑ひじように多くの観念を投げすてる︒だが芸術において創

造されたものは生きつ*つける︒:::多くのものは時代による検討に持ちこたえられないが︑しかしなにかが価値と

して永久にのこる︒芸術においては進歩的であったものが生きのこると主張するものは正しい︒

けの理由では提起された問題にまだ答えをあたえるととは出来ない︒進歩的なものが生きつづけるととは︑科学に

あってもそうである︒他の諸上部構造のあいだで︑世代を越えて︑つねに新しい世代のひとびとに影響をあたえる

参照

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