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経   済 政 策 本 質 論 ( そ の 二 )

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(1)

経   済 政 策 本 質 論

︵ そ の 二

−人間欲望充足の社会的条件−

前川忠良

一︑人間存在の二重性

二︑資本論ブランと商品の物神性

三︑欲望充足の二側面

四︑暴力の社会的役割

五︑社会発展と自由

六︑階級社会に於ける人間欲望・

結び

吾々人類がその永い歴史を辿り︑今日尚益々その発展が行われているという事実から︑吾々は︑それを可能ならし

めたものはあくなき人間の欲望であることを︑先づ理解することが出来た︒従ってまた︑人間の欲望乃至その実現そ

(2)

のものに︑人間の存在︑乃至社会発展の形態を規定する要因が含まれていると判断しなければならない︒即ち︑人間

の欲望乃至その実現の方法は︑或る程度までは生産力の増大という過程を通じて︑社会の生産様式を規制する︒

だがそれだけではない︒人聞の欲望乃至その実現の方法は︑より直接的に社会形態に影響する側面があると判断する

即ち︑人間は自然の生成物であるという意味に於て︑自然から規制されるが︑同時に社会的な存在であることは︑

人間欲望の実現が如何なる形態で社会に反映されるかを明らかにする必要があろう︒

又吾々人聞社会は単に経済的な諸関係のみではない︒経済的諸関係は人聞社会の重要な基盤であり得ても︑決して

y¥ 

その凡てではない︒倫理乃至暴力は社会の運動の一つの大きな要因としてとらえることが出来る︒五口々が正しい経済

政策理論に到達する為には︑政治権力として転化した暴力について明らかにする必要があろう︒経済学会に於ては︑

倫理乃至暴力は殆んど問題としてとりあげられていない︒本来経済政策は寧ろ極めて政治的であるにも拘らず︑政治

としての暴力の分析が行われず︑又本来経済政策論に属すべき独占資本主義論︑帝国主義論等が︑いわゆる﹁資本論﹂

的経済理論として把握されようとする誤った傾向がある︒例えば︑﹁資本論﹂プランに於て種々の論争が行われるが︑

吾々はマルクス﹁資本論﹂プランの何処に経済政策論を位置づけるかを明らかにすべきである︒五口々はその解明の錠

は︑商品の物神性についてのマルクスの説明を知何に理解するかによって与えられると判断する︒

又人間欲望の充足は︑その可能性としての自由の獲得の歴史であった︒吾々は人聞の歴史を見る時︑一方に於て生

産力の発展があると共に︑他方に於て自由の拡大という事実を見出すことが出来るむ

且つ︑重要な点は︑より具体的に社会を把握する時︑社会はその力関係によ三﹂現実化されていること︑即ち︑人

間の個々人の欲望の実現は︑社会の力関係によって決定され︑生産力の発展は個人に対してそのま︑直接に反映きれ︑

(3)

現実化されるものではない点である︒生産力の発展を以って重要な価値基準とすることは︑重大な誤りを内包してい

ると云わざるを得ない︒

一︑人間存在の二重性

エンゲルスは﹁生の生産なるものは︑その労働による自分自身の生活︑及び生殖による他の生命の創出により︑予

め二重な関係として︑(一方では自然的な︑他方では社会的な関係)現われる︒こ冶に社会的というのは︑それが如

いかなる目的かを間わず︑乙︑では多数個人の相互作用という意味であるよという︒人聞が個体として

は自然の産物という意味での自然的存在であり乍ら︑人間の性欲に基く男女関係乃至子供を含めた家族関係は同時に

社会的関係であり︑家族関係という最少の社会的単位を始源として︑血族的︑乃至地域的社会を形成する︒換言すれ

ば︑人間は生れながらにして︑自然的存在であると同時に︑社会的存在であり︑又人聞はこの矛盾の関係にあるこっ

の側面の統一物である︒人間はその意味に於て︑常に動揺する不安定な存在である︒

矛盾の関係とは︑人間の両側面の相互依存︑相互排反の関係であり︑自然的存在としての人間は社会的存在として

しか実現し得ず︑又社会的存在たりうる為には︑自然的存在でなければならないという関係であり︑同時に又︑自然

的存在を主張すれば社会的存在を否定せぎるを得ず︑社会的存在を主張すれば︑自然的存在を否定せねばならないと

いう関係をもっ︒

かくの如く人聞がこの矛盾の関係にある二つの側面の統一物であることは︑人聞が社会肯定と社会否定との矛盾し

た意識をもっということである︒即ち︑社会の矛盾の関係は︑人間の意識上の矛盾として反映される︒例えば︑資本

主義社会に於ては︑資本家は労働者なくして存在し得ないし︑労働者も又資本家なくしては労働者たり得ない︒然し

経済政策本質論(そのこ)

(4)

四 O 

乍ら︑資本家と労働者は価値生産物に対する分配に於て︑対立的な関係にある︒か冶る資本主義社会内に於ける矛盾

は︑人間個々人に反映される︒資本家は自然的存在としては︑換言すれば︑人間性豊かな人間として生きようとすれ

ば︑資本家であることを否定せねばならず︑逆に資本家として生きようとすれば︑人間性豊かな人間であることを否

定しなければならぬ︒資本家は社会的存在としての資本家である為には︑労働者の生命の維持を困難に陥れることが

明白であったとしても︑労働者を蹴首せねばならないだろう︒人聞の自己疎外は単に労働者のみの問題ではないので

又人間の存在の両側面は次の如︑き性格をもっ︒人聞の自然的存在としての諸性格は︑人間の歴史を通じて普遍的即

ち︑一般的な規定であり︑たぜ人間の発展に伴って多様化し︑複雑化して来たが︑尚基本的性格としては︑凡ゆる時

代を通じて是認せられうる性格をもっ︒人間の自然に対する認識の発展は︑自然の産物たる人聞に対する認識の発展

を同時に意味し︑人間は他の動物と対比せられて︑人類として把握される︒奴隷は奴隷であって人間でないという認

識は︑古代ギリシャの哲人を以ってしても認識し得なかったが︑彼は人間であるが︑文社会的には奴隷であるという

認識に発展する︒それは︑人間である以上は叩かるれば痛く︑子を失えば悲しく︑食うにこと欠げれば飽えるという

同じ経験認識を得ることとなる︒人間はその身分の如何んを間わず︑同じ人間であるという認識は︑人間平等の積極

的新しい価値と︑消極的ではあるが︑ヒュ

l

マニズ的イデオロギーとを発生せしめる︒人間の欲望充足という個人主

義的価値判断は︑自ら発展して︑人間平等乃至はヒューマニズムという社会的価値判断の基礎を形成することになる︒

以上の知く︑人間の自然的側面が︑人類の歴史に普遍的︑一般的に妥当するに対して︑人間の社会的側面の性格は

どうであろうか︒

人間は常に社会的存在であるということは︑具体的には︑人間は原始共産社会から︑奴隷制︑封建制︑資本主義︑

(5)

或いは社会主義と︑何らかの社会的形態の下に於ける社会人として存在して来たことを意味する︒之らの社会は本質

的には生産力の発展段階に規定せられて︑必然的に︑夫々特殊な性格を持った社会として現われる︒従って︑それぞ

れの杜会は︑それに独得な社会的発展法則を持つものである︒即ち︑人間の社会的側面の分析から得られる認識は︑

その社会のみに妥当する法則にすぎない︒例えば︑資本主義を如何に詳細に分析したとしても︑その社会の運動法則

即ち︑発生︑発展︑消滅の過程を分析し得たとしても︑資本主義を否定する法則は見出し得ないだろう︒

様式︑即ち︑資本主義社会の分析は︑資本主義の法則を把握するところの狭義の経済学を構成するが︑社会形態の発

展の法則を対象とする広義の経済学(又は社会学)は︑凡ゆる社会の生産様式に普遍的︑且つ一般的な︑法則によっ 一つの生産

て把握されねばならないだろう︒即ち︑広義の経済学の認識は︑人間の自然的側面の正しい把握なくしては不可能で

又吾々は︑人聞の自然的側面と社会的側面との相互の関係を分析する必要がある︒人間はこの両側面の矛盾の統一

として存在するが︑何れの側面が主要な側面であるかと︒人間は自然的存在であることを荷ひ手として︑初めて社会

的存在たり得る︒わかり易い例をあげれば︑商品の価値は使用価値を荷ひ手として現実化されうる乙と︑同様である︒

即ち︑マルクスの﹁出発点は当然に自然的規定性である︒﹂の説明にも明らかな如く︑人聞にとっては人聞の自然的側

面が主要な側面である︒しかし乍ら︑この自然的側面はそのま冶に於ては社会的寄在たり得ない︒自然的側面は一つ

それが社会的実在たり得る事は︑社会的規制を受ける限りに於てYある︒その社会的規制

一つの特殊な発展段階のそれであって︑社会的規制は夫々の社会形態によって異った性格をもつことは既に明

らかなことである︒人聞の自然的側面が主要な側面でありながら︑それは一つの潜在的可能性にすぎないという意味

を明確にする為に例をあぐるならば︑商品という社会的存在たり得る使用価値は︑使用価値としての使用価値ではな の潜在的可能性にすぎず︑

(

)

(6)

ぃ︒それは社会的一般的使用価値であり︑且つ︑価値生産物として社会に於て交換されるものでなければならない︒

水や空気は使用価値ではあっても商品たり得ない︒使用価値としての使用価値は商品にとっては一種の可能性にすぎ

ない︒一定の条件を充すことによって初めて商品たりうる︒人間の自然的側面も社会的側面によって初めて現実化さ

れうる︒人は資本主義社会に於ては資本主義の法則に規制されなければ︑社会人たり得ないが︑か︑る資本主義的社

会人が人間の凡て

はない︒商品となり得ない使用価値としての使用価値が存在するように︑社会人として具体化さ

J Y

れ︑社会化きれないところの人間の自然的側面が︑一つの可能性としては存在するのである︒それらの潜在的可能性

にすぎない人聞の自然的側面は︑社会形態が変化した場合︑具体的社会人として顕現することが出来るものであり︑

又自然的側面が主要な側面であるという乙とは︑社会的存在と自然的存在との矛盾が激化した場合には︑自然的存在

として人間は︑特殊な社会的存在を否定することにより︑人聞の自然的側面に照応する社会を打建てる乙とによって

自己に内在する両側面の矛盾を解決するにろう︒換言すれば︑社会的存在としての人間は︑その所属する社会の形態

か︑る社会的形態の一員としてのみ人間は社会的存在たり得る︒然し乍ら︑自然的存在として人

間の最低要求を否定されようとする時︑即ち︑人聞の自然的存在の限界以下に押えつけられようとする時︑人々はそ

の社会的形態を自然的人間の要求に一致させようとするだろうQ即ち︑人間個々人の社会的反抗か︑集団的暴力によ る社会形態の変革が行われる︒人間はその自然的存在を無視した社会的存在はあり得ないし︑社会的存在は自然的存 によって支配され︑

在を拘束し︑制限するにとどまり︑それを否定する

ζ

とは出来ない︒之に反して︑自然的存在は社会的存在から拘束 され乍らも︑基本的な自然的存在の否定点に於て︑社会的存在を否定することが出来るQ即ち︑社会変革によって︑

人聞の自己疎外が再び回復されることになるョつまり︑社会的仔在形態は変革しうるが︑自然的存在の人間の本質は

変革することはない︒従って︑本質的に人聞を規定するものは︑人間の自然的側面であることがわかるο

(7)

但し︑或る社会に於ける構成員相互間の相互依存と相互排反の性格は︑その何れが主要な側面であるかによって︑

社会内矛盾の性格が規定され︑又か︑る社会的存在が︑社会構成員の意識の矛盾に反映される︒

マルクスは資本論第一篇︑第一章商品の第四項に於て︑﹁商品の物神性︑及びその秘密﹂に関する分析を展開し︑

同時に人間疎外論を展開するが︑これについて︑学界に於て︑マルクスの資本論プランとの関聯に於て論争が行われ

マルクスは﹁商品は一見︑自明的な︑たわいない物のように考えられる︒然るに︑それを分析してみると︑形似上

学的の煩墳と神学的の気紛れとに充ちた至って奇怪な物であることが知られる︒商品は使用価値である限り︑その諸

性質に依って人類の欲望を充たすという見地から観察しても︑又は人間労働の生産物たる資格に於て初めてこれらの

性質を受けるという見地から観察しても︑いづれにしても︑何ら神秘的な点を有して居らぬ︒人類はその活動に依っ

て︑自然素材の諸形態をば自己に有用となるように変更するものであって︑これは感性的に明瞭な事実である︒例え

ば木材の形態は︑それで卓子を造る時に変更される︒それにも拘わらず︑卓子は木材という平常の有用物であること

に変りはない︒然るにそれは︑商品として現われるや否や︑有形的たると同時にまた超有形的なる一つの物となる︒

l l

その使用価値から生ずるものでなく︑

l

要するに商品の神秘的な性質は︑また価値決定の内容から生ずるものでも

ll

然らば︑労働生産物が商品形態を採るや否や帯ぶるところの謎的性質は何処から生ずるか?明らかに商品

形態それ自身から生ずるのである

Q 1

斯くして商品形態を秘密に充ちたものとする原因ほ︑要するに左の事実に存

1

することとなるのである乙即ち︑商品形態なるものは︑人間労働の社会的性質をば︑労働生産物の対象的性質として

経詰政策本質論(その二)

(8)

四 四

労働生産物の社会的なる自然性質y

かくしてまた総労働の社会的関係をば︑生産者の外部に存在する

各対象聞の社会的関係として見えしめるということがそれであるつ二 i商品の魔術的性質は︑商品を生産する労働独特

の社会的性質に起因するものである︒﹂一生産者の私的労働は事実に於て二重の社会的性質を受ける︒即ちそれは一方

に︑一定の有用労働として一定の社会的欲望を充たし︑かくして総労働の︑原生的に発達したる社会的分業組織の肢

体たる実をあげねばならぬ︒他方にそれは︑特殊の各有用私的労働が他の有用種類の各私的労働と交換しうるもので

あり随って値打の等しいものである限りに於いてのみ︑それに従事する生産者の種々多様なる欲望を充たすのであ

る ︒

乙の事は次の如く解釈しなほす乙とも又可能であろう︒人と人との関係が労働の社会的性格によって︑物と物との

関係として現われ︑かくの知き物と物との関係として吾々の自に映ずることは︑物の社会的関係によって︑逆に人闘

が規制せられる乙とを意味する︒という乙とは︑人間は商品を生産することによってのみ︑社会的存在として把握せ

られ︑かくの如く物の関係として現象する人聞の社会的側面は︑人聞の自然的側面を透か後方に押しやることによっ

て︑人聞の自己疎外が発展する︒

マルクスによって適確に把握され︑社会科学として経済学が資本論に於て結実

したのは︑単なる論理上の抽象ではなく︑具体的社会の実在そのものが︑商品生産社会として物神性によって抽象せ

られて存在し︑且つ純粋に物の関係の運動として現実が存在するからであり︑資本論は将にその反映として把握され

ているのである︒資本論冒頭に於ける商品の物神性の意義は︑かヨる社会的現実が︑商品生産という抽象を受けてい

る乙とを証明するものであり︑又論理構成としては︑人間の自然的側面の捨象と︑社会的側面に於け右経済外的なも

の﹀捨象が︑換言すれば︑人聞の自己疎外が乙︑に於て展開されているのである︒か冶る商品の物神性の支配として か︾る資本主義商品生産の特質が︑

(9)

握された資本主義商品生産の法則は︑純粋な経済理論としての体系の確立を可能ならしめたものであり︑論理的な重

要な前提をなすものである︒

かくてマルクスの物神性を明らかにすることによって︑資本論プランの問題も自ら明らかになるだろう︒

﹁叙述過程そのものにおける論理的﹁段階﹄構造として立体的にとらえられなければならな

い ︒

l l

ある一定の学問的体系を問題にする場合︑そこにおいて客観的法則性がいかなる論理的抽象の次元で把握さ

れているのか︑という認識論的角度からの追求が欠如するならば︑かの﹁上向法﹂の無媒介的あてはめによる学問的

体系の直線化がさげられなくなるのである︒いわゆる﹁プラン﹂論争が文献解釈主義的観念論のワクをふみこえるこ 即ち︑黒田寛一氏は︑

とができずに低迷している根拠は︑まさにか︑る認識論的究明が完全に没却されているからであること将に適確な批

)

(

何故︑商品の分析から初まり︑且つその物神性及び人聞の自己疎外が冒頭に展開されたかは︑極めて重要な意味が

含まれている︒このことは未完の章として予定された国家︑外国貿易︑世界市場の問題と同時に︑いわゆる資本論の

プランの問題に於て重要な意味を持つものであると判断される︒資本論プランの問題は考証学的な分析も重要には違

いないが︑資本論論理構造の面からの分析も重要である︒資本論として叙述せられたものと︑未完の章としての国家

外国貿易︑世界市場の問題とは︑抽象の次元を異にすると判断せ︑ざるを得ない︒逆に正確に云えば︑資本論が抽象化

せられた純理論的把握であるのに対して︑一般法則把握の為の上向の過程に於けるより具体化せられた次元として把

握さるべきものであって︑物神性の章が︑人間の関係が商品の関係として即ち価値法則が客観的に支配することを明

らかにする為には︑自然的諸条件︑ノ市場の広狭や特殊性︑地域社会に支配する経済外的な強制等が乙﹀に捨象される

ことを意味する︒之に対し︑未完の諸章の対象は︑一度物神性の章に於て捨象せられたものが︑より一般的な性格を

経済政策本質論(その二)

四 五

(10)

経 営 と 経 済

四 六

帯びて具体化せられる問題であり︑従ってこれらの諸章は単なる理論の発展ではなく︑経済政策一般論の対象として

すなわち︑国家という具体的地域社会の︑従って政策主体の介入した形態に於て︑又従って価値及び使用価値の面に

於て異った作用を展開する諸外国聞の貿易の問題として︑且つ将来の形態としての世界単一市場えの発展として︑一

歩具体化せられた一般法則の分析である︒

こ︑に云う一歩具体化せられたと云う意味は︑現実の社会に影響を及ぼすところの︑国家即ち︑地域的限定と国家

権力の存在︑使用価値視点を含めた自然地理的存在が︑その生産様式把握に於て考慮されるということであって︑時

間的な具象化として歴史的把握を意味しない︒即ち︑宇野教授のいうところの段階論は︑経済史的な分析を経済政策

の対象とするものであって︑決して経済政策一般論ではない︒少くとも資本主義経済政策論は資本主義政策に普遍的

な一般法則の把握でなければならないし︑段階論が歴史の問題であることは明らかであって︑これら特殊具体的段階

論から︑歴史的︑自然地理的抽象としての資本主義社会一般の国家︑外国貿易の問題乙そ経済政策一般論の対象でな

ければならない︒

即ち︑資本主義社会というより具体的形態に於てとらえられるところの政治経済的社会の一般的把握が行われた後

初めてより具体化せられ︑歴史的発展的に把握されるものとして︑宇野教授式の段階論が存在しうるのである︒

三︑欲望充足の一般的範式

人間の自然に対する認識の発展に伴って︑基本的欲望としての食欲︑性欲から︑人間的︑従って補足的欲望の発展

をもたらした︒人間欲望の内容の複雑化︑多様化は︑或る場合に於ては︑基本的欲望を犠牲にしても︑そこにより高

い社会的目的価値を見出すに至った︒すなわち︑愛情と意志である︒

(11)

か﹀る人間の欲望の最高の発展として把握されうる愛情も︑意志の発現も︑人間の歴史を説明することは出

来ないし︑最も一般的な価値実在として把握することも出来ない︒か︑る高度の欲望はあくまで補足的なものにすぎ

ないか︑例外的なものにすぎない︒吾々は人間の本質は基本的欲望に於て把握すべきであり︑補足的欲望乃至は副次

的価値は本来基本的欲望に基くものである︒

吾々人間はこれら欲望の充足の万法として二側面から分析することが出来る︒即ち︑自然的側面として生産力の発

展により︑より少き労力によって︑より多く︑より多様な欲望の充足を実現しようとするものである︒即ち︑一方は

物質的欲望の増大であり︑他方は閑暇乃至はそれの利用によるいわゆるレヂャ!の充足である︒生産力の発展は同時

にこの二つを実現させる︒即ち︑一方では新しい使用価値の造出に伴う新しい欲望の充足と︑単位労働力当り生産物

量の増大による︑物的欲望の多量なる充足を可能ならしめる事であり︑他は一生産物当り労働力の節約による閑暇の

次には人聞の欲望の充足を生産関係を利用することによって獲得しようとするものであり︑社会的側面として把握

することが出来る︒即ち︑生産については︑社会的分業︑協業により生産量を増大させる方法と︑配分については︑

社会的生産の果実の社会的配分の方法を自己に有利に導くことによって実現しようとするものである︒このことは社

会の人間関係の二面を表現している︒即ら︑社会構成員の人間相互関係の相互依存的効果による生産力の増大と︑相

互排反的側面の発現応よる個人主義的欲望の増大である︒

社会は相互矛盾の関係にある多数人の集合体であり︑又自然の産物は無限でないから︑人闘が生活し︑又より多く

の欲望を満たそうとすれば︑社会の人々の聞には︑協力︑妥協︑競争︑斗争等の社会関係が発生する︒人間の社会関

係を︑協力︑妥協の一面としてのみ把握することも︑又競争︑斗争の関係としてのみ把握する乙とも︑何れも誤りで

経済政策本質論(その二)

(12)

界、

ある︒それら社会の運動は︑基本的には人聞の欲望によって︑その時々によって異った表現をとる︒人聞の欲望の追

求は︑社会的関係としては︑或いは協力を︑妥協を︑或いは競争を︑斗争を︑夫々欲望充足の最大の方法を求めて変

然し乍ら︑五口々は︑協力︑妥協︑競争斗争が何れが基本的運動であり︑何れが副次的運動であるかを明らかにする

ことが出来よう︒即ち︑何れが基本的であり︑何れが副次的であるかは︑欲望の性格によって規定する乙とが出来よう︒

欲望は本来個人の感覚を基点とし︑個人は欲望充足の最大を目的とする限りは︑人間の欲望は本来個人主義的であ

る︒自然に対する人間相互の獲得競争が行われると共に︑人間の夫々の獲得物を再分配するところの︑人間相互間の

斗争が行われる︒

歴史的には生産力の発展が未熟な段階に於ては︑協業によらなければ︑欲望充足に充分な獲物は獲得することは出

来なかったが︑生産力が発展するにつれて︑一つの家族という生産単位によって︑個体の再生産︑種の再生産が可能

になるに従い︑私有財産制が発生すると共に︑競争乃至斗争が一般的形態となる︒

人間個体相互の競争は︑各人の生産力の夫々の発展と︑生産物の交換という形をとるが︑競争は必然的に両者の優

乙︑に経済力の相異は︑政治的社会形態として︑階級乃至階層を形成するに至る︒又人間個人の斗争は︑

暴力という物理的力によって行われる︒

暴力は自然としての人聞に具備せられたものであって︑社会に於ては武力斗争乃至は政治関係とし具体化する︒而

も︑暴力は人聞社会に対して︑オールマイテイとして君臨する︒斗争は暴力関係である︒即ち︑暴力に基く斗争の結

果両者間に優劣が明白となる︒経済的競争の結果の経済力の優劣は︑優者が武力を掌中に把握することによって︑又

暴力による斗争の結果は直接的に︑いわゆる支配︑被支配の階級関係を構成する︒

(13)

しかし乍ら︑か︑る競争︑斗争が明確な優劣の結果をもたらさない時︑人々は協力し︑妥協する︒即ち︑各個人の

欲望の充足が生産力の増大によらずして︑他人の欲望の侵害におくという人間相互の斗争は︑相互に当初の目的に反

した損害を受ける場合が多い︒斗争は自己に有利に展開する場合もあるが︑その逆の場合もさげられない︒斗争はそ

れが激化するに伴って︑欲望充足の増大という当初の目標を外れて︑勝つことのみが斗争の目的に変化する︒斗争に

勝つことは︑少くとも将来に於ける欲望充足の増大を約束するものとして理解されるからである︒且つ︑より以上の

斗争の結果は︑両者聞の生死を争うものになり︑相互欲望に対する斗争は自己の生命の維持の為の斗いに転化する︒

乙︑に至って︑斗争の結果が︑何れの側に於ても何ら有利な結果をもたらさない場合もあり︑夫々の目的に従って両

者聞の妥協を見る場合がある︒協力も︑妥協も社会の運動にとって一時的な安定をもたらす︒しかし乍ら︑欲望の最

大充足が人聞の本質的目的である限り︑競争︑斗争は社会の必然的運動であり︑協力︑妥協は一時的な仮象にすぎな

いだろう︒競争︑斗争という社会的運動形態が︑社会的生産力増大の表現形式であることが判明する︒

尚欲望の増大は生産力の発展を生み︑従って文分業の発展をもたらす︒肉体労働の種類に基く分業であり︑肉体労

働と頭悩労働との分業である︒原始社会に於ても祭紀行政担当者や戦士等の専門家が発生することによってか︑る分

業関係は次第に支配︑被支配の階級性を帯びる乙と︑なる︒

四︑暴力の社会的役割

吾々人聞が自然的存在であると同時に︑社会的存在であるということは︑既に明らかなことであるが︑五口々人類が

一つ血族的集団から発展して︑民族的︑或いは地域的︑或いは歴史的規定を受けて存在しているという乙とである︒

従って︑か︑る人聞社会は︑具体的には個々の集団として︑各地にその生活基盤をもって存在している︒すなわち︑

耕 一 諸 政 策 ・ 玄 ・ 富 ︑ 論 ( そ の

(14)

五 O 

民族的集団と生活圏としての地域的集団とであり︑之ら集団が何らかの共同生活を営む以上は︑各個人は好むと好ま

ぎるとに拘らず︑何らかの社会的秩序を伴っている︒そして又歴史の発展に伴って︑かくの如く社会形態は夫々の変

佑を伴って来た︒之ら社会形態は経済的生産関係としての特殊な生産様式と︑政治的秩序関係としての政治様式とを

もって構成される︒すなわち︑一定の生産関係はその政治的な秩序関係によって維持されている︒その政治的秩序関

係は法律関係として表明され︑暴力的制裁を背景としてその維持が保たれる︒かくの如く具体的な人間社会は︑常に

暴力的政治関係によって存在している︒たとえその社会が無階級的民主々義社会であろうとも︑空想的社会でない限

りは︑社会秩序としての暴力的政治を背景とせねばならない︒こ冶に用いられる暴力という用語は︑一般に印象づけ

られている如き︑悪の象徴としてのそれではなく︑人聞が利用しうる肉体的︑物質的︑従って︑物理的な或いは化学

的な力を意味する︒

吾々は暴力の人間社会に於ける地位を少し分析する必要があろう︒

吾々人聞は自然的︑肉体的存在として︑筋力︑腕力をもっ︒人間は害獣の襲撃に対し︑又自然現象の危機に際して

その肉体を活動させることによって︑個体及び種族の生存維持を計る︒五日々はそこに暴力の消極的役割を見る︒その

反面︑人間は積極的に筋力︑腕力を活動させることによって︑その欲望の充足を企てる︒人々はそれによって︑生活

資料を生産し︑又生産力を発展せしめる︒しかし又︑吾々人聞は社会的存在であることによって︑暴力︑乃至武力は

社会関係として具体化される︒すなわち︑欲望充足の為の他人に対する攻撃として︑或いは︑他人の攻撃に対する生

活︑生存の擁護として︑人間は暴力を駆使する︒たしかに︑暴力乃至武力は社会関係として具体化されるが︑それは

生きた人聞が本来所有しているところの物質的力の社会的発現である︒

従って暴力は一定の経済的︑生産関係に規定されるよりも︑自然的存在としての人間そのものから規定されるもの

(15)

として︑政治組織と区別されねばならない︒即ち︑政治的関係は経済的諸関係の反映として現われる︒且つ︑経済的

生産関係は歴史的には一定の生産力の発展に規定されて成立する︒

おいて︑一定の必然的の︑彼らの意志から独立した諸関係を︑すなわち彼らの物質的生産諸力の或る一定の発展段階 マルクスの一人間は︑彼らの生活の社会的生産に

に照応する生産諸関係をむすぷ︒これらの生産諸関係の総体は︑その社会の経済的構造を︑すなわち法制上および政

治上の上層建築がそのうえにそびえ立ち︑一定の社会的意識諸形態がそれに照応するところの︑生産諸過程一般を制

約するよという有名な言葉を引用するまでもない︒政治関係は一面暴力関係として現象するが︑政治関係即暴力関係

ではない︒生きた人聞に本来的に具備せられた物質的力が社会関係として暴力の形態をとり︑且つそれが政治関係に

とり込まれている事を意味する︒政治が経済に対して相対的独自性を持ちうるのは︑暴力が政治の一部の役割を荷っ

ているからに他ならない︒即ち︑政治は暴力をその背景として利用することによって︑政治が具体化せられる︒政治

的暴力は一方では︑経済的生産関係の秩序維持として役立てられると共に︑他方では︑例えば資本主義社会に於ては

価値法則を推進し︑或る場合にはそれを歪め︑又それを無視する

o r

が政治はあくまでも経済的生産関係に対して︑

相対的な影響を与えるにすぎない︒

之に反して︑暴力は︑状況によっては絶対的な独自性を持つものとして︑生産関係そのものを破壊する力を発揮す

る︒文資本主義社会内に於ても︑生産関係としての価値法則に対立するものとして現われる場合がある︒即ち︑暴力

によって︑各個人間の等価交換を容易に否定しその収奪を可能ならしめるのである︒

即ち︑生産力が本質的には︑社会的︑階級的立場を持つものでないと同様に︑暴力も本来社会的︑階級的立場をも

つものではない︒たY生産力が社会的生産関係によって現実化されるに対して︑暴力は社会的政治関係に規定されて

現実化する点である︒それは政治にとり入れられ︑経済的な︑従って政治的な支配階級の用具として採用されると同

(

)

(16)

五 二

時に︑場合によっては経済的支配階級に対立するところの︑被支配階級の暴力の役割を果す場合︑即ち︑生産関係そ

のものを破壊する場合もあるのである︒暴力という社会的関係は︑人間の自然的側面の最も素朴な具体的発現であり

それは人間の自然的倫理が社会的倫理を最も本質的に規定するものであるのと同様に︑暴力と倫理は全く反対の立場

にあり乍ら︑人間の自然的側面に本来的に具備するものとして︑それは階級的規制も︑歴史的制約もなく発現しうる

ものとして︑最も素朴な形態をとり乍ら︑直接的に社会的生産関係に介入して来る︒

又︑暴力機能は政治的諸関係と照応しがちだが︑一般に云われるように︑必ずしもそれと一致するものではない︒

それは絶対的独自性をもつものとして︑経済的諸関係に対立することが出来る︒諸国家聞の経済的対立は︑政治的対

立を生み︑更に武力による戦争に発展する︒最後の拠りどころとして︑最後を決定するものとして︑国際間題対決の

為に︑各国家は武力充実にその精力を集中する︒

エンゲルスは﹁反デュ

l

リング論﹂に於て︑暴力論を展開する︒即ち︑デュ

l

リングが﹁暴力﹂を﹁歴史的に基本

的なるもの﹂とするに対して︑彼は歴史に於ては経済関係の方が政治関係よりも基本的なものである︒ロビンソンは

﹁剣を手にして﹂フライデーを自分の奴隷とする︒しかしこれを成しとげるには︑ロビンソンはこの剣のほかに尚或

る物を要する︒奴隷は誰にでも役立つわけではない︒これを使用しうるには次の二つのものを人は有しなければなら

ぬ︒第一はその奴隷の労働に要する道具と対象物とであり︑第二はその奴隷の必要とする生活資料である

σ

だから奴

隷制度が社会の支配的生産方法となるには一定の社会的富の上昇がなければならない︑と︒

又エンゲルスは﹁暴力は単なる意志行為ではなく︑その活動には道具という極めて現実的な前提条件を必要とし︑

その道具のうち︑より完全なものは︑より不完全なものを征服するということ︑進んでこの道具は生産されねばなら

ぬということ︑またより完全なる暴力の道具︑即ち︑いわゆる武器の生産者はより不完全なるそれの生産者に勝つと

(17)

一言にして掩えば︑暴力の勝利は武器の生産を基礎として︑これはまた生産一般を基礎とし︑従って││

﹃経済的権力﹄を基礎とし︑一経済状態ーを基礎とし︑暴力の用いる物的手段を基礎とする︑ということこれであるよ

之らエンゲルスの所論は︑本稿の主張と相異するように見える︒たしかにエンゲルスの説明は暴力の一面にすぎな

い︒永い人間の歴史を見た場合には︑暴力よりも生産力が本源的に規定する︒一定の生産力の段階に於ける暴力行為

は︑指導者階級の交替︑乃至は権力の移行をもたらすことは出来るが︑生産様式そのものを変革する乙とは出来ない︒

暴力が経済的発展に対して歴史上知何なる役割を演ずるかという一般論に対して︑一定の社会内に於ける経済力と暴

力との具体的な関係とは問題が異なるのである︒エンゲルスの説明はその点で不適当である︒

たしかに一定の社会内に於ては︑一方の暴力組織としての政治が︑その社会秩序を維持しうるかぎりでは︑生産力

は暴力を左右するだろう︒だが︑社会秩序維持に反する暴力の力が強い時には︑即ち︑暴力と暴力の斗争︑権力と革

命力との斗争となる時には︑即ち最後を決定するものは経済力ではなくして︑暴力である︒その時には生産力や︑武

器は一方から他方に容易に奪取される︒

即ち︑生産力も武器も本来階級的なものではなく︑一つの手段にすぎないからである︒それの利用主体の相異によ

って︑それらは何れの性格をも持ちうるからである︒

即み︑政治権力は経済的主体の所有であり乍らも︑同時に政治の背景として存在する武力は︑それ独自の立場に立

つ潜在的な可能性をもっている︒従って︑政治権力に就いては︑経済的支配者と軍事的支配者は原則として同一の階

級に属し乍らも︑その主導権の所在は状況によって変化し︑又時としては両者は対立する二つの勢力に分裂する場合

が発生する︒第二次大戦前の日本の国家主権はこの両者によって構成されていたし︑政府に於ける文官と武官との勢

経済政策本質論(そのこ)

(18)

五 四

力争いは知何なる国に於ても見出される︒この場合に人聞の社会関係を直接的に︑又本質的に規定するものは暴力で

あり︑戦後後進諸国に瀕発している革命は︑常に軍事力を中心としたものであり︑それが経済的支配と結びついてい

ようといまいと︑軍事力を中心として革命が行われていることは歴史的現実である︒大衆の意識は物質的力に転化す

るという言葉は暴力を意味する︒

エンゲルスも一方では︑﹁未開人には掠奪は労働して獲るよりも容易であり︑日つ名誉であるとさえ認められてい

る︒以前はたぎ侵略に対する復讐の為︑文は狭くなった領土の拡張のために行われた戦争が︑今や単なる掠奪のため

に行われ︑日常の獲得部門となるこ(エンゲルス﹁家族︑私有財産及び国家の起源﹂)と説明し︑暴力の絶対的役割

と︑未聞社会に於ける軍司令官の役割を紹介している︒

武力について︑チャiルス・ビア

l

ドは次の如く指摘する︒(清水訳﹁政治の経済的基礎﹂)

一般に軍事的勢力の在しない場合には︑政治権力は自然的且つ必然的に財産を保有する者の手に渡るといわれるが

このテーゼが最も早く包括的な形でひろめられ︑実際政治に適用せられたのは︑イギリスと合衆国においてであった︒

これら両国の地理的な地位は︑攻撃乃至防禦のための巨大な軍隊の維持を不必要ならしめ︑文官の武官に対する優位

性が保たれた︒又マルクスは歴史を階級斗争に還元し︑唯物論的決定論を構成し︑その主要な経済学研究をイギリス

の資本主義を古典的実例として用いたUエンゲルスは社会現象としての戦争に若干の注意をむけたが︑彼らは共にか れの﹁経済人﹂を世界史における﹁軍事人﹂の役割を劃酌しつ冶述べることをしなかったcそして︑経済人は完全に

﹁軍事人﹂を圧倒し︑国家ば衰滅するで一心ろう︑人間の福祉のためにする物の管理が力による政治にとって代るだろ

うというマンチェスタ

l

学派の一般理念はマルクスに於ても変りはなかったし︑資本主義的自由放任の領域︑か広︿

なると考えたυそしてマルクス自身さえより社会主義えの転換がイギリスと合衆国とでは暴力的万法でなく︑立道的方

(19)

法によって行われる可能性があると考えていたのである︒だが︑現代世界の歴史は﹁軍事人﹂が﹁経済人﹂の犠牲に

於て国家を支配している場合が多い︒勿論︑軍事的な面をも含めての政治は︑経済的基礎を持たねばならず︑さもな

ければ滅亡せねばならない︒経済学を考慮に入れない政治学は占星術の域を出ない︒従って︑世界を震憾させるよう

な規模の革命や戦争は︑経済と政治との形式や機能に急激な変化を伴ったが︑軍事勢力が経済と政治との双万に対し

て勝を制したとしても︑それは自己自身の経済的基礎を確保しなければならず︑さもなければ︑不毛の権力の廃墳の

只中で潰滅する他はない︒経済と政治は人聞社会の初期から既に複雑にからみ合っており︑経済的諸変化は政治に影

響し︑政治上の諸変化は経済の諸制度や諸勢力に影響した︒

l

ドは大略以上の如くマルクス唯物史観を批判し︑世界史把握の軍事力無視を指摘するが︑

俗的浅薄さを見出すことが出来よう︒歴史の発展は確かに︑個別的︑具体的には軍事力乃至は政治によって変化した円

だが本質的に生産力の発展段階が政治形態を規定するという意味であるからである︒ マルクス理解の通

マルクスが社会科学を確立する上に於て︑歴史的にも︑従って論理的にも人間主体としての政治的側面が捨象され

たのであり︑か﹀るマルクスの抽象化がマルクス支持の人々にも︑マルクス批判の人々にも︑軽率に理解され︑マル

クス学者が経済主義︑客観主義的傾向を強くしたことは事実であり︑か﹀る意味に於て︑ビア!ドの指摘も決して無

意味ではない︒社会形態の変化︑乃至革命は︑一般に説明されているマルクス主義土台︑上部構造論では説明する乙

とは出来ないのであって︑再検討が必要であろう︒

五︑社会発展と自由

吾々は社会の生産力の発展に伴い︑社会構成員の個体と集団との関係︑社会の内包外延の関係に︑主要な二つの傾

(

)

五 五

(20)

向を見出すことが出来る︒

一つは社会そのものの拡大である︒生産力の増大は人口の増大を︑交通の発展は経済的交流圏の拡大をもたらし︑

経済的にも︑政治的にも︑地域的にも社会そのものが拡大してゆくという事実である︒

他の一つは個人の自由の発展ということである︒人間の欲望の追求が︑個人主義をその本質として持つ乙とは︑社 会の発展も又︑その根底に個人主義的傾向を内包していることである︒自由はか︑る個人主義的欲望追求の実現可能 性として考えられ︑社会的制約の反対概念として追求せられた︒その意味で人間の歴史は又自由の獲得の歴史でもあ

一般に﹁自由﹂なる概念は︑種々の解釈が行われている︒又マルクス主義に於ても︑極めて観念的な行きすぎた解 釈が行われる傾向が強い︒例えば︑ホワイトヘッドは﹁自由に対して加えられる諸制限は全く人間同志の敵対関係か

乙れは全く誤りである

o

=

g

Z 2 ω ︒ 同

E g ω

ご﹂と規定するが︑かくのら生じるものと考えられるのであるが︑

如く︑自由の概念を自然と人間との関係にまで拡張するのは逆に誤りである︒之らの誤りの原因はエンゲルスの規定

エンゲルスは﹁自由は自然法則からの独‑V.という夢のうちに存するのではなくて︑これら

この知識によってそれらの法則を一定の目的の達成にむけて組織的に働かせる可能性のうちに存す る︒それゆえ︑意志の自由とは︑主題に関する真の知識をもって決定をなしうる能力のことに外ならないよというが︑ の法則の知識と︑ に基因すると考えられる︒

乙﹀に説明されてある自由は意志の自由である︒エンゲルスもこの限りに於ては︑へ

l

ゲルの﹁自由とは必然性の知 識であるこという規定に強く影響きれていると云える︒吾々が問題にすべき自由とは︑か冶る観念的な﹁意志の自由

し一

﹁選択の自由﹂の規定ではない︒﹁自由﹂という概念は︑より具体的な︑社会的な人間関係の概念に極限さるべ きである︒それは歴史的に支配者に対して斗いとって来たものとして︑具体的な内容を以って理解すべきである︒

(21)

ルイスの如きは﹁人間は独りでは不自由である︒人は同輩との協力によって自由を手に入れる︒かくて社会のあら

﹁禁止﹄︑﹃義務﹄はそれによって人々が自由を手に入れると乙ろの当の手段なのである︒﹂

と説明するが︑それは甚だしいこじつけといわねばならない︒

たしかに︑自由は物質的︑及び精神的な人間的福祉︑満足︑願望の全体を手に入れることが出来ることを意味する︒ (ルイス﹁マルクス主義と偏見なき精神﹂)

﹁目的の実現可能性﹂であったとしても︑それは人間と自然との関

係を意味してはならないのである︒目的の実現可能性は一定の生産力の発展段階に於けるそれであって︑人聞が自分 即ち︑自由は人間欲望充足の重要な手段であり︑

の意志の通りに行いうることは︑欲望の最大充足の可能性を︑自由という社会関係的概念に於て把握することを意味

する︒その意味に於て自由は人間にとっては何ら絶対的な価値物ではない︒従って︑ルイスのように︑主観的目的そ

﹁自由﹂の概念をかくの如く歪曲する乙とは誤りである︒又彼の如く﹁自然法則を発見しのものを価値づける為に︑

て利用することから来る自由よりほかにいかなる自由も存在しない︒﹂とし自由をその必要性の認識とすることは︑殊

更に人聞の支配関係を陰蔽するものである︒奴隷が搾取される﹁必然性を認識し﹂たからといって︑又奴隷が解放さ

れる必然性を認識し︑かくの知く実践し努力することは何ら自由を意味しない︒吾々は奴隷が社会的束縛から解放さ

れた時︑それを自由の獲得という︒歴史的には自由は一つの具体的な主張であって︑必要性の認識乃至は遂行ではな

し 、

人聞の歴史が斗いとって来たものは︑欲望の最大の実現可能性としての社会的自由であり︑奴隷制からの︑封建的

束縛からの解放であった︒従って︑血族的︑地域的︑従って社会的な一切の束縛から解放される事乙そ自由であると

いえる︒自由は︑人間的な従って個人主義的な︑対社会的主張であり︑対社会的実践的概念である︒

自由は人間欲望の社会的表現である︒即ち︑必然性の認識と云う諦観的なものではなくして︑人間的な︑従って︑

経済政策本質論(その二)

(22)

五 J ¥

個人主義的な対社会的主張である︒だがそれは歴史の或る段階に於ては︑社会の一部の人々の欲望の社会的表現であ

り得ても︑他の人々にとっては欲望被収奪の社会的表現である場合がある︒リンカーンは﹁自由という一一一一口葉は︑各人

が勝手に彼自身と彼の労働の産物を処理することを意味するのに︑他の人々の場合には︑ある人々が勝手に他人と他

人の労働の産物とを処理することを意味するよと説明する如く︑自由も資本主義社会に於ては︑必ずしも欲望充足の

可能性を実現せしむるものとはなり得なかった︒

自由に限らず︑正義︑愛情等社会的倫理として評価され得るものも︑現実には生産力の発展の段階に規制せられ︑

変型されて現われる︒特に階級社会に於ける欲望の充足は︑社会的自由の程度によって段階づけられた︒社会の生産

様式は生産力の発展に規制されて︑原始共産社会から︑奴隷制︑封建制︑資本主義︑共産主義として︑その発展の必

然性に於て把握されるが︑人間主体の意志として一貫して見られるものは︑少くとも各段階の革命の主体的契機とし

てとらえられるものは︑人権乃至人間の自由の伸長である︒

然し乍ら︑人間は各個人の欲望の充足︑生活の維持の為には︑

会は人間の存在形式でさえあった︒ 一定の杜会を構成する必要があったし︑又か﹀る杜

即ち︑国家は社会の財産の諸形式︑所有権︑生産方法︑経済的諸制度を法文化し︑その一定の制約の下に於て︑社

会構成員の生活の自由な活動を認めた︒之ら社会的規範は法文化せられようと︑伝習化せられようと︑その制度維持

の為に︑一方では暴力を背景とした政治権力としての外的規範と︑他方では杜会構成員の個人的自制にまっところの

内的規範としての宗教や倫理道徳となって現われる︒之ら社会秩序維持の為の規範は社会構成員全体の立場を反映す

る場合もあるが︑社会が階級的度合を濃厚にするにつれ︑支配者階級的利害の上に︑社会的規範が決定されることに

なる︒何れにしても︑本来個人主義的人間の欲望の社会内実現は︑程度の差はあるとしても︑必ず自由の制限を伴う

(23)

然し乍ら︑かくの如き倫理としての自由の制限でなくして︑差別としての自由の制限は︑之ら権力機構が如何に強

力であったとしても︑人聞を完全に支配する乙とは出来ない︒むしろ︑人間は如何なる時代に於ても︑如何なる外的

制約の下に於ても︑自らの幸福は自らの意志と方法によって獲得しようと努力して来た︒動物にとっては未来は意識

として把握されない︒人間は少くとも︑未来に期待を持たない者は一日と雄も生きることは不可能であり︑古代ギリ

シヤの奴隷船の中の鞭うたれる生活の中でも︑将来の生活を夢みて︑現在の苦痛に耐えたし︑かくの如︑きたくましさ

が人聞社会の発展を可能ならしめたのである︒

国家による社会的規制は︑奴隷制︑封建制︑資本主義︑社会主義となったが︑国家という権力組織のない社会は現

実には存在しないことは明らかである︒フアツシズム国家であろうと︑民主々義国家であろうと︑

維持の為の国家は常に必要であった︒ 一定の社会秩序の

たしかに︑人聞の個人主義的傾向の増大は︑逆に経済圏の拡大に伴って︑社会構成員の血族的︑地域的︑従って又

有機体的共同意識の稀薄化をもたらした︒資本主義では将に国家は無用の長物と化し︑個人の利欲の追求が同時に︑

社会の秩序ある発展と一致するという幻想の下に出発し︑古典派経済学はこれを理論的に裏づけようとしたものであ

った︒又社会主義に於ける国家消滅論も一一種の幻想にすぎず︑社会が単なる経済的諸関係でない限りは︑国家の存在

を否定し得ないのである︒

即ち︑人聞の自由ほ生産力に規定された相対的な内容しか持ち得ないが︑自由の伸長は人聞の歴史の発展の万向で

あり︑現実の自由にしろ︑その反対概念としての国家にしろ︑その意味では相対的な規定にすシ己ない=自由の伸長が

人間欲望の可能性として把握されることは︑個人的自由が社会的倫理と完全に一致しうる可能性として把握すること

経済政策本質論(そのこ)

(24)

O

が出来︑その意味では自由は人聞社会の最高の倫理形態であるつ即ち︑国家が必要であるという生産力の段階に於て

は︑倫理としての自由の制限から︑個人的自由の無制限が社会的倫理と一致しうるところの生産力の段階まで発展し

うるのである︒そこに於て国家は消滅するピろう︒

六︑階級社会に於ける人間の欲望

社会に於ける人間の欲望の飽くなき増大は︑自らの意識の増大のみならず︑他人との競争とによって促進される︒

たとえ対等な関係にある人間同志と雛も︑その聞の競争︑斗争は必然的に優劣の差を生み︑支配︑被支配という関係

に発展する︒か︑る支配︑被支配という階級関係は奴隷制社会にせよ︑封建社会にせよ︑資本制社会にせよ︑次第に

個人主義的人権の拡大が見られるにしても︑尚十仔在する︒之れまで︑人間欲望一般として理解された幾つかの傾向は

かくの如き階級社会に於ては知何なる変容を受けて具体化されるであろうか︒

これら階級社会に於ては︑人間の基本的権利を主張し人間の欲望の追求が︑社会的関心となり得るのは︑主として

支配階級の人聞にとってのみである︒即ち︑被支配者階級の欲望は支配者にとっては問題として意識されないか︑乃

至は第二義的なものにすぎない︒むしろ生産力が一定とすれば︑階級的関係は敵対的な関係にすぎない︒即ち︑支配

階級がより一層の自由︑より大なる欲望の充足を心掛ければ︑心掛ける程︑奴隷のそれは逆比例的に低下せ︑ざる得な

いだろう︒かくの如く︑例え社会の生産力の発展が行われたとしても︑階級社会に於ては︑支配階級の目的の為にの

み意図せられるのであって︑生産力はこ冶に於ては階級的な性格をもって現われるのである︒

自由の獲得が︑身分上の︑従って生産関係上の欲望充足の可能性であるならば︑生産力の発展は︑物質的な欲望充

足の可能性にすぎない︒自由は資本主義社会に於ては︑被支配者階級に失職︑飢餓の自由を与える乙とがあるように

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