政性がやって来品
はじめに
1先行研究から
1 .
1 r親焼の基本構造Jに見る、女性の斑換 1 .
2近代化の中で寵わって脅た日本の価値観
2川根本町在フィールドに据えて
2. 1
川根の嫁はどこから来るのか
2.2茶産業に見る、女性の動きの特徴
3 JII
棋本町における現悲の取り組み
3. 1緑のふるさと協力隊
3.2
ちゃっきり娘聾成講座
3.3
典大井サスペンスブリッジ密農事件
4京性がやって燕る
4. 1
かつて、獅の予のようにもらわれて脅た女性たち
4.2自らやって来た常性たち
制わりに
諸島場文献・諸島噌蹴料・捗嚇
H 伊
はじめに
フィールドワーク
閑 寂 蝿
ていた
1つだった。
ぞれは、どういう聞出で人びとは自分の所属する集団を離れて移動するのであろうかとい うことである。とりわけ、女性の移動は男性と異なる点が多いと私は考えている。
つまり、男性の場合は所属する集団を移動する時、多くの場合就学や労働といった明白 で分かりやすい理由がある。それは目的のはっきりした移動であり、目的が果たされた(も
Lくは果たされなかった)結果、再び別の場所へ移動することもある。
しかし、日本の場合では多くの男性にとっては婿養子にでも行かない限り、自分の所属 する「家族
jから日
JIの「家族」へ所属を変えるということは滅多にない
Qもちろん、女性も就 学や仕事のために自宅的に自分に見合った場所へ行くこともある。ただし、日本人女性に とっては「結婚
Jというものを契機じ自分の所属していた「家族
Jから月iJの「家肱
Jの一員とな り、住まいも勝っていくことが多い。犬婦で独なした探躍を持つ場合にも、姓は先方を名
あるといえるほ しかもその
目的のためよりも
にどのよう
あったり「何か い品ような
ろうか。
という
い品自では、
文化人類学では、それを次のように定義する。
「結婚とは
1つの取引形式
(transaction)と、その結果生ずる契約
(contract)であり、それによ って一定の人物一男性または女性、集団または個人、本人または代理人ーが、
1人の女性 への性的接近の権利に対する持続的要求権を確保し、当該女性は子供を産む資格を認、めら れるものJ[ W文化人類学事典~
1987:246‑248(W̲H̲Goodenough)]このような長々とした定義が必要なのは、結婚は文化の中で様々な形をとるからである。
例えば、一夫多妻が容認される社会もあれば日本のように一夫一婦制が民法で規定されて いることもある。さらに、結婚後一緒に暮らす場合もあれば暮らさない場合もある。日本 の場合ザ
l結婚後は同居し、相互に協力し合う義務を持っている。また、「嫁をもらう
Jとい
う表現があるように、嫁の所属が婿方へ移ることが多い。
日本において、かつて結婚は個人の行為というよりは、イエ(同じ家屋に暮らす、親族的なま とまりをさす)の存続のために行われていたという考え方もある。そのため、ある年齢になる と結婚をすることが男女双方にとって必須であり、義務でもあった。しかし、結婚がイエ よりも個人の問題とされる昨今の風潮の
It'で、それも変わりつつある。しかし、「結婚J と いう;文化が廃れると「家族J という文化にも影響が出てくる。
「結婚 j はまた、「生殖」と分かちがたく結びついているので、上手く機能しないと構成メ ンバーが補充されないという事態を招きかねない。つまり社会の存亡にも関わってくるの である。実際、未婚化と出生率の低迷の憂き目を見ている日本では、他人事ではない。ま た、その意味では、結婚はさまざまな社会的意味や意義を内包する人間の営みである。そ
して重要なのは、女性が「移動 j としづ形で重要な役割を果たしている点である。
そこで、実習では、「女性はどこからやって来るのか j という点から出発し、主に
1つの 地域(川根本町千頭地区)に目を向け、結婚だけに限らず女性が集団を移動する動機と過程、そ してよその集団から女性がやってくることでもたらされる効果と変化について述べてし、く。
1
先行研究から
L 1 r
親族の基本構造 j に見る、女性の交換
クロード・レヴィ=ストロースの代表的な著作に『親族の基本構造~ ( 1
978)がある。その 中で、彼は親族が形成する基本構造について、さまざまな資料から女性が集団を移動して いる事例とともにその法則性を述べている。
レヴィ=ストロースによれば、父系社会において女性は男性にとって非常に価値のある
存在であるがゆえに本来は自分の集団から外へ出したく無い存在である。女性は男性と労
働を
2分す る存在であり、また、子どもを生み、社会のメンバーを補充してくれる。特に
性別役割分業の進んだ社会では、仕事ははっきりと男女で分かれており、片方は他方の仕
事に完全に依存することになる。だから両性のいない集団は生活もままならないようにな
るので、彼女の父親や兄弟は基本的に娘や姉妹を男
Jfの集団の男へ手渡したくない。逆に母 系社会(限りなく仮説的な存在であるが)では、男女を反転させて説明できるのでレヴィ=ストロ ースは女性の集団関移動を語ることで、人間の社会構造の中で両性の移動を語ることがで きるとしている。
そこで、レヴィニストロースが最も問題にしているのが「近親婚の禁止
Jである。近親同 士での結婚は「インセストタブー
Jとも呼ばれ、最近ではチンパンジーなどの霊長類もその 社会構造の中でインセストタブーを避けるような動きがあることが分かつてきた。その説 明としては、生物学的な説明と社会的な説明の
2つが主に取り沙汰される。しかし、レヴ ィ=ストロースは「近親婚は遺伝疾患のリスクが高まるから自然界では避けられる
Jとしづ 生物学的な説明をきっぱりと否定している。「同族系統をつくりあげることは、最初の結果 として、動揺の時期を、もたらすが……それから、変異は次第に消えていって、恒常的で 不変な基型に到達する。・…・人聞社会で行われているような外婚は、盲滅的な外婚である」
(レヴィ=ストロース
1978:74)このように、生物学的に見れば、実は近親以外との生殖の方が劣性な遺伝子を身の内に 入れやすく、種としては危険なのだ。では、何故、多くの社会で近親同士の結婚は禁止さ れているのだろうか。
その答えは、結婚とは規則を持つ「文化」の中の
1つであり、自然の中に秩序をもたらして「集団が集団として存在することを保証すること」であるからだ。
r近親婚の禁止は、ある 干渉の形態、それも極めて多様な形態をとる干渉の形態である。しかしながら、これは何 ものにもましてぬきんでた干渉、より正確には「干渉そのものJ なのである
J(レヴ、イ=ストロ}
ス
1978: 1
00‑101)近親婚の禁止は、男たちに娘や姉妹たちを手放すことを強し、る。そして、他の集団から 女を得る必要に迫られるのだ。そこで女性の交換が行われる。例えば、自分の姉妹を嫁に 与える代わりに別の娘を要求する権利が発生し、また、自分の娘を与えた代わりに次世代(息 子やオイ)に嫁なもらうことができるようになる。互いの姉妹を交換しあうような場合、 Aと
Bだけで交換が行われるので「限定交換」と言う。また、この仕組みが複雑化して
3つ以上 のイエで、女性の交換が行われることを「一般交換J と言う。
このように価値のある女性を交換しあうことはまったく「贈与 j の体系と同じであり、そ こには贈与の仕組みと同じように互酬的な側面が生まれる。すなわち、与えられたものを 受け取り、等価を返すことで社会関係が安定するのだ。
また、女性に価値を与えることで身分の高いものはより多くの女性を持つことでその威 信を保ち、女性を持たない者よりも優位に立つということもできるようになる。結婚とい う制度、そして近親婚の禁止が見られることはどの文化でも同じだが、その方向性は親族 の規定や集団の選好に基づいているところもあり、さまざまな違いが見られる。
太古の昔は日本も広範囲なアジアからオーストラリアにかけての先住民に見られるよう
な原初的で単純な結婚原理に基づいて集団の間を女性が移動していた。しかし、近現代へ
至る道筋の中で世界の中でも特徴的な体系を作り上げていった。次に、日本の場合のイエ と結婚にまつわる価値観を述べる
O1.2
近代化の中で変わってきた日本の価値観
日本の場合を見てみると、
1つの家族というまとまりに対して武土イデオロギーと儒教 イデオロギーが結合した、独特の「イエイデオロギーJ があるとされる。これが小農経営体 制に結びついて家父長的性格が強い、「家志向型家族(家型家族
)Jが生み出された(長谷川
1997)。 そのことにより、どのイエでも長男は嫁をもらい、イエを相続させる息子を持つことが義 務的な'性格を持つようになる。イエの存続とは即ち先祖から受け継いだ家産、家業を次世 代へ継承させていくことで、あった。
しかし、そもそも日本のイエ制度というものの歴史はそれほど長くない。長谷川によれ ば、日本の農村について
3つの段階があったとされる
(1997:8‑10)。
最初の段階(江戸初期まで)では生産力が幼稚な自給自足の共同体社会で、人びとは閉鎖され た村落の中で団結して自然災害や外部の支配者から守るために相互に扶助しあっていた。
しかし、江戸中期から昭和中期くらいまでの問、自然の災害や外敵の脅威が薄れていっ た。すると人びとは村落の中で互いにイエ同士で、優劣を競い合い、財産をより蓄えようと するようになる。 I イエ」という単位が発達し、競合社会がやってくるのがこの時代だ。た だし、それも第二次世界大戦後から高度経済成長にかけて外部社会との連帯が増すことで 薄れてし、く。
戦後の日本社会では、尊重されるのはむしろイエよりも「個人」になり、隣人とは一見没 交渉的に見える。しかし
f地域の系列化が進み、系列化への希求が増伸してきて、人々の社 会への依存性はむしろ増加する
J(長谷川
1997)。
このような社会関係、イエと人との関わりが変化してきた中で、結婚そのもののあり方 が変わってきた。かつては閉鎖された村落の中で、女性たちは地理的に小さな範囲の中で 交換されてきた。それは日本中の各地の農村でそうであり、交通手段が主に徒歩や馬であ った時代ではそう遠くに嫁へ行くことは容易ではなかったことが理由にある。
また、それだけではなく、地縁・血縁に基づいた縁組みも多く行われたことも理由にあ る。それは、家族の成員の序列がはっきりした家父長制の場合、結婚相手は年長者である 家主が決めることが多いからだ。息子の嫁を選ぶ際、家長は家格のつりあう娘を選ぶ。ま た、娘の嫁ぎ先も同様にして決められる。その場合、閉鎖的な村では同じような家柄とい うと親戚の場合が非常に多かったのだ。これは、結婚後何かと扶助しあうのに都合が良く、
また、娘を手放す父親としては身内の家へ嫁がせた方が安心できるものあったという理由 もある。
しかし、こういったイエ制度の中の結婚も、戦後から高度経済成長期の日本の社会の巾
で変化した。
10
日%
90%
日日%
70
予
460%
50%
4
日%
30%
20%
10
対 日%
表
1恋愛結婚と見合い結婚の割合
c、ー民審F知E炉
恋霊結糊自婚宮
/AXγγ ./d寸盟十日
---~鎗P
九~
〆‑‑‑‑‑伊川弘、
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『事‑‑‑‑‑寸人
見合い結婚
~--....司k ‑ ‑ ‑ . ̲ ̲̲̲̲
‑+ 195C茸 1955茸 196C
斑
1965茸 197(茸 1975年 19昔日年 1935茸 199(障 199時 四 日 崎 目 前 年参考:国立社会保障・人口問題研究所第
13回出生動向基本調査
(2005年)守
これは、日本の恋愛結婚と見合い結婚の割合の変化を示したグラフである。見て分かる 通り、 1960~70 年ごろを境に、恋愛結婚と見合い結婚の割合が逆転している。 2005 年の時 点では、見合い結婚は
6.2パーセントまで減少している。
これは、男女の生涯未婚率とも無関係ではない。生涯未婚率とは、
50歳で
1度も結婚し たことがない人の割合のことである。それまで男女ともに
2.0パーセント未満だった生涯未 婚率は、
1970年代から上昇し始め、
1980年代に男性の生涯未婚率が急上昇する。
つまり、恋愛結婚の定着により、
98パーセントの人聞が結婚できていた時代が終わった。
そして、恋愛結婚の割合が
87パーセントで安定していることで、
10年後には恋愛結婚でき ない男性の生涯未婚率は約
25パーセントに上昇する可能性があるということだ。今、日本 人を取り巻く結婚の事情は「恋愛結婚 j が主流であり、「結婚は個人の自由 Jという価値観の 中で、「結婚するのもしないのも自由J という考え方がされている。そして、見合い結婚の 衰退で、男女ともに自力で相手を見つけられない人は結婚願望があっても結婚ができない 状態になっている。
かつては日本でもイエのために女性が交換され、ほとんど全ての男に女性が行き渡って いた。しかし、イエ観念の衰退と共に自由な
r1{間人J の競争になったとき、女性を獲得でき ない男性が確実に存在するのは当然だ、。それが今の日本の姿である。
これらの言説を元に、次は川│根本町での結婚と女性の移動について見てみよう。
2
Jl1根本町をフィールドに据えて
2. 1
川根の嫁はどこから来るのか
人の動きは、常に流動的だ。その中でもとりわけ労働に関して、人は仕事を求めて移動
することは明らかだろう。静問県御殿場では田植えを行う「早乙女J も他地域まで田植えの ために移動した。また、全国を花の蜜を求めて移動する養蜂家などが良い例である。
『本川根町史』には、)
11根本町の結婚相手の決定から結婚の成立について詳しく知るこ とができる。それによると、戦前まではどの集落においても結婚相手の選択は親によって なされることが多かった。嫁でも婿でも出す側は相手の生活力・家柄重視で、迎える侭
iは 働きぶり・性格・能力を見ることが多く、年回りはあまり重視しなかった。
通婚圏は比較的狭く、町内が多いが、在所内から選ぶことがあり、川根筋の中川根町・
川根町・金谷町・島田市のほか、山を越えた周智郡春野町
4・安倍郡井川村(現在は静岡市)・
藁科)11
沿い・静岡市・藤枝市・岡部町方面と峠越えの祝言もあった。沢聞では、ともに敬 満大井神社を氏神にしていることから千頭との婚姻も多かった。
結婚は近くの人どするのが良いとされ、近くの人と結婚するということは、真面白で村 の中の評判が良いということに繋がったからである。昭和
6(1931)年に大井川鉄道が開通し、
交通の便がよくなると駅
2つ
3つのところからも相手を選ぶようになった
縁談が成立すると、仲人が婿側と嫁側両方にいて、結納や道具送りを行った。結婚に伴 う家具・道具類を婚家に運ぶことを「道具送り j と言ったが、日本経済の発展と技術革新に 伴い生活文化が向上し、生活道具が増えたことで派手になったことが言える。また、昭和 以前にはショイコで運ぶしかなかったものが戦前にはリヤカーが利用され、昭和
30年代に は運送屋を頼んだり、やがて自家用車が登場し大量輸送が可能になった。
結婚式は自宅で行うことが多く、婿が嫁を迎えに行く。嫁迎えの行列は奇数で出向き、
帰りは嫁・親兄弟・親戚・近所等を引き連れ偶数で婿の家に向かう。これを「半白で行って 長目で帰る」と言った。また、式の当日婿や嫁を迎えるときに家紋入りの提灯を持って家の 前で、待っていたという。祝言の宴会は
1番座、
2番座目…ーと続き、盛大な家では
3Aに渡っ て行われた。
こうした家での結婚式は昭和
40年代頃から式場で行われることが多くなり、時間や人数 が制約され決められたものになっていった。
2.2茶産業に見る、女性の動きの特徴
調査をして特徴的だったのは、千頭地区では茶産業に密着した人の動きをしていること である。千頭を含めた茶産業で成り立つ地域では、茶摘みシーズンにどうしても入手がい る。そこで活躍するのが「よそから来る女性」で、男性は彼女たちを手放しで歓迎していた 趣がある。外部からの女性に対して千頭はかなり寛容な地であった。具体例として、「お茶 摘みさん」の存在がある。
「お茶摘みさんJ とは、戦前から戦後すぐまで行われていた女性の労働形態の一種で、
)11下の地域から茶園の手伝いにやってくる
10代後半から
20歳くらいの若い女性たちのこと
を指す。千頭地域では、多い家では
10人以上のお茶摘みさんを雇っていた。かなりの数の
女性が 3 月 ~4 月の茶摘みシーズンに千頭に来ていたと思われる。
お茶摘みさんは茶摘みシーズンの
1ヶ月、雇われた家に泊まりこみで茶摘みを行った。
家の離れや、母屋の一角で寝起きしていたらしい。地元の男性はお茶摘みさんが来ると連 れ立って遊びに行き、時には昼間のうちに話をつけておいて特定の女性のもとに忍んでい
くこともあったらしい。これを
f夜遊び」や「夜遣い
Iと呼んだ、。
そのなかで「茶縁 j と称される、茶摘みが縁での恋愛結婚もあった。
A
さん(男性
90歳)は「昔はテレピも映画もなく、他に娯楽がなかったからお茶摘みさんが 来ると夜這いをした。次の日の朝が早し、からと入れてくれない家もあった。女性も男性と 話すのが楽しみだった
jと語った。
ただし、これまでの静岡大学の川根本町をフィールドにした研究によれば、必ずしも夜 這いが楽しいものだったわけで、はないことが分かる。
2007
年の調査で笹原は「お茶摘みさんたちが嫌がって若者を閉め出す場合もある j と指摘 している
(2007:28)また、家人に夜這いを拒否されると報復として若者たちは庭の植木をひっ くり返す、茶農家の玄関の看板を村の交番のものと入れ替える、肥桶を家の前に置くなど の悪戯をした。またあるときはお茶摘みさんが渡っているつり橋をゆらして、橋を落とし てしまうこともあったという。
しかし、戦後以降若い女性の労働の場が広がり、お茶摘みさんは
60代以降の「かつて お茶摘みさんだった j 女性がほとんどになる。昭和
30年代には茶の品種改良・機械化・栽 培縮小に伴いお茶摘みさんは姿を消す。
女性だけでなく、男性労働力も経済成長に伴い流出した。そして歯止めがかからないま ま、今に至っている。
現在ほとんどの茶農家は規模を縮小し、今千頭では専業で、お茶をやっている家は無い。
3
J11根本町における現在の取り組み
産業構造が変化したことによって、千頭にはお茶摘みさんが来なくなった。このことは、
よそから千頭へ嫁いでくる女性がいなくなったということだろうか。
実は、日本の他の人口過疎地と同じく、千頭も「嫁不足」に苦しめられている。こうした 現状を踏まえ、川根本町ではいろいろな行事や計画を縮し、人口の流入を促進しようとし ている。それらの中で、本報告書が取り上げている結婚と結びつくと思われる計画として は、以下の事項をあげることができる。
3. 1
緑のふるさと協力隊
「緑のふるさと協力隊J は、「特定非営利活動法人地球緑化センター」が行う年間事業で、
1年間若者が農山村に住み込み、農業体験を行うプログラムである。
基本的にかかる経費は自治体持ちである。平成
21年度の川根本町の財政では、
162万円
の予算が組まれた。住居や生活費も自治体から用意される。それは若者たちの農山村での
暮らしをサポートすると共に、
1年通してその地域をよく知ってもらい、そこでの暮らし
になじんでもらうための努力だ。とのプログラムの特徴は、参加した若者の多くがそのま ま農村に住み着く傾向があることである。そして、多くの場合たた、住み着くのではなく、
仕事や結婚相手を見つけて受け入れ先の農山村の一員となる場合が多いことである。
川根本町もこのプログラムを採用し、これまで
3人の女性を受け入れた。また、
2010年 現在で第
4期生を受け入れている。プログラムを終えた3人は現在も川│根木町に住んで、い る 。
その中で第一期生の
Bさん、第二期生の
Cさんにお話を聞くことができた。
B
さん(北海道出身)は大学在学中に「緑のふるさと協力隊」に参加した。長期プログラムのた め、大学を休学しての参加だった。参加した理由は「大学で農学の勉強をしながらも、農家 の出身ではないため農山村を体験したくての参加 j だったという。
Bさんは農作業体験のか たわら、
1年間笛の練習をして徳山の盆踊りに参加した方だ。地元の農家の人と知り合って 遊びに行ったりしているうちに川根本町が好きになり、現在は川根本町役場に就職して働 いている。
第二期生の
Cさん(北海道出身)は、もともとお茶が好きで北海道でお茶の販売員をしてい た。しかし、北海道で、はお茶が採れないため、もっとお茶のことを知りたくて「繰のふるさ と協力隊」に応募した。本来派遣先を選べないプログラムだが、面接で
I}11根本町にしか行 きたくありませんJ ど述べて、見事川根本町に派遣された。
現在は川根本町の男性と結婚してお茶話めなどの仕事をしている。
Cさんは、「みどりち ゃん(緑のふるさと協力隊員)をやると、
1年間ちやほやしてもらえる j と語った。
ここで注目したいのは、「緑のふるさと協力隊」はできるだけ出身地とは遠く離れたとこ ろに派遣されるプログラムだということだ。それはこの事業が若者に農山村を再発見して もらうことが狙いであり、できるだけ自分の出身地とは違った気候・産業に触れることを 日的としているからである。そして、そのことによって地理的にも自分の出身地から離れ て、新鮮な目で農山村を見ることができるようになる。北海道からやって来た
Bさん、
Cさんにとって茶畑が広がる川根本町の風景は全く見たことがない光景だったろうし、言葉 や文化も大きく違った。言葉に関しては
2人とも
f最初は何を言ってるか全く分からなかっ た」と語ったし、
Cさんは「北海道ではカーブミラーを使ったととがなかった。とちらへ来て、
みんな先の見えない山道でどうして上手く止まって対向車を待つことができるのか不思議 だったが、カーブミラーを見ることを覚えてからは車の運転が楽になった」と車の運転をし ながら言った。
3.2
ちゃっきり娘養成講康
川根本町役場企画課が行っている年間プログラムに、「ちゃっきり娘養成講座 j というよ弘 前のプログラムがある。「ちゃっきり」とは、北原白秋作詞の静岡県民謡「ちゃっきり節
jか
ら採られた名称で、「茶切り
Jもしくは「ちゃきちゃきハサミでお茶を刈ること
Jという意味
がある。
事業の目的は県内の独身女性に農作業を始め、地元の人と交流を持つことで川根本町を 好きになってもらい、定住を理想にしている。募集は県内(原則)の
20歳から
45歳までの独 身女性に限られている。プログラムの内容は「ちゃっきり畑J と呼ばれる畑での各種野菜作 り、ハイキング、手探み茶、カヌー教室、干し柿作り、料理実習、椎茸の菌打ちなどであ る。毎月
1回 、
1泊
213でこれらの内容をこなしてし、く。参加費は
1人年間
5万円で、ある。
平成
21年度の川根本町の財政では、
113万円の予算が組まれた。
この事業のポイントは、集まった独身女性の農作業のサポート員に川根本町の独身男性 がつくことだろう。
1年開通して役場が出会いの場を提供することで、「縁むすび」事業とい
う目的を持っている。
毎年
15名の募集枠を超える応募があり、参加者・からの評判も良いらしい。中には
1年だ けはなく、何問も応募してくる女性もいるそうだ。また、県内に限らず、新幹線に乗って 首都圏からも参加者がし、る。参加者と男性の交流だけでなく、参加者同士の交流や、先述 の「緑のふるさと協力隊員(みどりちゃん
)Jとの交流もあり、緑のふるさと協力隊員の住居でち ゃっきり娘養成講座の宴会を行うこともあるそうだ。
ただし、まだ成果(定住まで至った例)はない。今後の展開に期待がかかっている。
3.3
奥大井サスペンスブリッジ恋愛事件
「奥大井サスペンスブリッジ恋愛事件」とは、商工会と観光協会が主催している観光事業 である。宿泊編、日帰り編、出会い編、特別編と、現在
4種類の企画がある。
この企画は商工会青年部で川根本町の魅力をどうすれば若者に伝えられ、何度も足を運 んでもらえる地になるかを考えた時に生まれた。企画のメインは、大井川にかかる「つり橋」
を観光の売りにするものだ。
「つり橋
Jは英語で「サスペンションブリッジ
Jで、「サスペンス」と響きが似ている。また、
揺れるつり橋を渡ることで「つり橋効果」をお越し、恋人たちの愛を確かめるととを「恋愛事 件」のストーリーにしている。そこで「奥大井サスペンスブリッジ恋愛事件
Jとしづ壮大な物 語を作り出し、協賛を得て発足した。
恒常的に行っている企画は「宿泊編」と「日帰り編 j の
2つで、これらは観光振興の側面が強い。「宿泊編」と「日帰り編」にはそれぞれパンフレットがあり、協賛の商
j苫でサービスを 受けられる「はし渡し券」がついている。また、宿泊編の場合は対象の宿泊施設に予約の
3日前までに申し込むとパンフレットが郵送されるので、それをチェックイン時に出すと渡 ったつり橋の数に応じてプレゼントやサービスが受けられるというものだ。
この企画に参加したカップ
9ノレがその後結婚すると、さらに特典がついてくる。この企画 の大きな狙いは「川根本町を、何度も足を運んでもらえる地にすること」であり、今は若い カップル向けの企画だけだが、そのカップノレが結婚して子供が出来たときのプランや、熟 年になった時のプランも考案中だという。
さらにそこから発生したのが「出会い編 j と「特別編 j である。
「出会い編 j は
iTOKIMEKI(ときめき)列車
2010Jとし、う名前で行われた、集団お見合いの企 画だ。男性は川根本町の町内在住者と在勤者
24名、女性は県内を中心に募集に応募した独 身女性
24名の計
48名だ、った。
2010年
9月19日に行われたこの企画では、参加者は奥泉駅から南アルフ。スあぷとラインに乗車し、
1対
1の自己紹介やノミーベキュー、ゲームを行っ た。この目、
7組のカップノレが成立した ( ) I 湘本町ホームベージによる)。
また、
2010年
10月
2日には「特別編Jとして大井川鉄道井川綜「奥大井湖上駅」で結婚式 のプロデユースが行われた。これは、結婚式を挙げたいカップルを募集し、前面プロデユ ースするというものである。新聞やテレビなどのメディアにも取り上げられ、「秘境駅」と して知られる湖上駅での結婚式ができることをアピールした。多くのファンを持つ大井川 鉄道で結婚式が挙げたいというカップノレが増えれば、ロマンスの地として多くの人を呼ぶ ことができる。また、これらの企画で地元のカップルが静岡市をはじめ、島田市や焼津市 などの近隣の大きな街で挙式をするよりも地元で式を挙げて地域経済に貢献することを促 進できる。
図
1奥大井サスペンスブリッジ恋愛事件のピラ 提供:JiI根本町商工会青年部 フローチャート(図
2)及び日帰り編のパンフレット(関
3)は巻末の資料編に収録している。
4
女性がやって来る
4. 1
かつて、猫の子のようにもらわれてきた女性たち
川根本町にやってくる女性たちは、かつて日本のイエ制度に基づき、イエのために親の
決めた相手のもとに嫁いで、来ていた。
実際にお話を伺った
Dさんは性
94歳)は、昭和
16(1941)年に結婚した当時にことを振り 返りつつ次のように語ってくれた。
昔は血族同士の結婚が多く、産まれたときに親が結婚相手を決めてしまうこともあっ た。実際、私のおばさんたちも高等科
2年を出て、
15,
6歳で泣く泣く嫁に行かされていた。
私が嫁に来た時は、まるで猫の子をもらうようしてもらわれて来た。千頭は、周りの家が 古くてびっくりした。
夫が
10人きょうだいで、お男さんが早くに亡くなったので夫のきょうだいたちの世話も したし、嫁にも出した。苦労は誰にも語ったことがないが、当時は「とんだところに嫁に来 てしまった。前世のパチが当たったJ と思った。
ここで注目すべきなのは、
I猫の子のようにもらわれてきた」という点だろう。「お茶摘み さんJ の箇所で出てきた
Aさん(男性
90歳)も、「戦前から戦後頃までは、財産や家柄などで 結婚の自由は束縛されていた。結婚のしきたりも違うものがあるので、あまり遠くからお 嫁さんはもらって来なかったJ と言う。
Dさんと同じように、小長井から
20歳の時に嫁い で来た
Eさん(女性
81歳)も、結婚は親同士の縁によっていた。
しかし、必ずしも女性たちは運命に受身だ、った訳ではないことが、少数の恋愛結婚をし た女性の語りからも分かる。
大正
15年生まれの
Fさん(女性
83歳)は、戦中に肺病を患って入院していた男性と看護が きっかけで知り合い、結婚した。その時父親に大反対されて「籍を抜いていけJ と怒鳴られ たという。
また、戦後から徐々に恋愛結婚が増えていたのを示すように、昭和
35(1960)年に家山の 女性と結婚した
Gさん(男性
76歳)は
f奥さんと出会ったのは、職場の先輩の家に遊ひやに行っ た時、その
2軒隣りにいたことがきっかけJ と語った。ただ、当時でもやはり結婚するには 家格があり、村内で恋愛すると噂になって結婚するしかなくなる場合もあったそうだ。恋 愛結婚の場合は、男性は相手の父親を説得しなければならなかった。
結婚式の形も、時代と共に移り変わった。昭和
56(1981)年に浜北の女性と結婚した
Hさ ん(男性
61歳)は、千頭で伝統的な形で式を挙げた最後の
1人だと言う。
Hさん以後は島田 市や静岡市などの大きな市街のホテルや結婚式場を使う場合がほとんどになり、ここ
30年 ほど地元で結婚式を行うカップルは現れていないそうだ。
ただ、
Hさんの場合も『本川根町史』に見られるような形を完全に踏襲した訳ではない。
結納品は貿った記憶が無く、誰かから借りて結納を行った。また、本来は嫁側にも
2人の仲人がいるはずだが、婿方の
2人だけ立てて省略した。「その辺は自分の裁量でj と言うの
だから、細かく照らし合わせていけば本当に「伝統的J と言えるか分からないところも出て
くるだ、ろう。
4.2
自らやって来た女性たち
さて、「猫の子のようにもらわれてきた」と語った
Dさんから、ほぽ
70年後に北海道から 嫁いできた「緑のふるさと協力隊
Jの
Cさんは、話を聞いた中で
1番最近に結婚した女性で ある。結婚式は焼津の海の見える式場で行った。彼女は
I(独身が長かったとともあり)静岡に嫁 にいくことは両親に何も言われなかった。ただ、実家が遠いこともあって、結婚式に嫁側 から出席したのは(両親と自分の
)3人だけに対して夫側の親族が本当に多くて驚いた。田舎の 農家に嫁ぐとはこういうことか、と思った
Iと、婿側の親族が勢ぞろいした結婚式の写真を 見せながら語ってくれた。 c さんは、「ずっと実家が農家の勤め人と結婚したいと思ってい たから、希望通りになって嬉ししリと言う。
このように、
1つの地域に注目してみると、女性の移動に関する変遷があったことが分か る。まず、結婚ひとつとっても、動機が多くは受動から能動へと変化している。また、女 性がやって来る範囲も拡大され、昔はせいぜ、し、「お茶摘みさんJ として川下から女性労働者 としてやって来る程度だったが、交通手段の発達などによって日本各地から観光客として、
嫁として、または「緑のふるさと協力隊」や「ちゃっきり娘」のような川根本町自体への興味 を持ってやって来るようになっている。
おわりに
今回、人の移動、特に女性の移動について報告書をまとめた。人の移動にはさまざまな 動機があり、かつては嫁としてイエのために否応無く交換されていたものが、恋愛結婚が 主流になることで女性にも選択が可能になり、相手選びの範囲も格段に広がった。
また、女性がやって来ることで親族集団は守られ、続いてし、く。しかし、「どこから」と いう点は地理的にも交通網の発達によって広がっているし、恋愛結婚の定着によって変化 している。かつては「集落の中」、「親戚の中」からやってきていた女性は今や「知らないイエ j 、
「遠いイエ」から、家格などとは関係なく「恋愛」でもってやって来る。
それは無機質な「女性の交換J としづ説明よりもむしろ有機的な人間同士の連帯と言う方 がふさわしく、自立した個人の主体的な行動なのである。
参考文献 赤松啓介
1993
~村落共同体と性的規範夜這い概論』 言叢社
1994~夜這いの民俗学』 明石書居
笹原ちひろ
2007 r
徳山の茶摘み文化から考える女性の出稼ぎJ ~平成 19 年度フィールドワーク実習 報告書』 静岡大学人文学部社会学科文化人類学コース
長谷川明彦
1997
~近代化のなかの村落 一一農村社会の生活構造と集団組織』 日本経済評論社 ロパート・
J.スミス、エラ・ L ・ウィスウエノレ(河村望、斉藤尚文訳)
1987
~須恵村の女たち 暮らしの民俗誌』 御茶の水書房 レヴィ=ストロース(馬湖東一、田島節夫監訳)
1978
~親族の基本構造』 番町書房
参考資料
石 川 栄 吉 梅 悼 忠 夫 大 林 太 良 満 生 正 男 佐 々 木 高 明 祖 父 江 孝 男 編 集
1987~文化人類学事典』初版弘文堂
日本人類学会
2009
~文化人類学事典』第 3 刷丸善 本川根町史編さん委員会
2003
~本川根町史通史編 4 民俗編
J参考
HPM & W