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東南アジアの旅を終えて

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東南アジアの旅を終えて 83

東南アジアの旅を終えて

小  林 威

 この3月末から4月下旬にかけて,東南アジアを旅行して来た。訪ねた国々は,台湾,

香港,ブイリピン,シンガポール,マレーシア,タイの6力国である。なにしろ短時日の うちにこれらの国々をめぐり,しかも首都しか見て来ないのだから,東南アジアを研究し て来たとは云い兼ねる。ただそれらの地点に足跡を印し,いくらか見聞を広めて来たのに

過ぎない。

 私は旅行申にi数人の大学教師を除いては,ほとんど有名人と会見して来なかった。その 理由は一つには,そういうチャンスがなかったこと。それよりも私の興味は,それら異郷

の地に住む庶民がどんな生活をしており,どんな考えを持らているかということであった。

この目的のために,私は主として庶民と多く言葉を交えた。私のねらいは,そう的を外れ ていなかったように思う。バンコックで会った予算局の課長は,タイの国民生活がかなり 向上しており,電気機器が普及しているように語った。しかし,一般の市民と話してみる と,電気冷蔵庫は普通の家庭にほとんど見られないことが判った。タイのように常夏で湿 気の多い国では,電気冷蔵庫の必需度は相当に高いといわねばならぬ。それにもかかわら ずこれが普及していないわけは,値段がべらぼうに高いためである。100リットルの冷蔵 庫が邦価30万円以上とのことである。これでは,庶民にとって高嶺の花であろう。このよう に,庶民の生活を知るには,庶民から直接に聞かねば実状を把握できない。

 しかし,私の目的は十分に果されなかった。それは言葉の障害である。香港でも,セン ガポールでも中国語が判らないことには,どうにもならない。従って私の取材範囲は,英 語を話せる人か,稀に日本語を話せる人かに限られた。これらの人々は,庶民の中でも幾 らか特殊の部に属する。この点からも,私の旅行は残念なことに実り少いものであった。

香 港

       1

 羽田を出発して4時間,機中でふるまわれたシェリー酒の快い酔い心地に軽く眼を閉じ

ていると,香港到着が間近いアナウンスがあった。機はどんどん高度を下げている。見渡

す限り白いもやっとした雲の聞から香港島の全景が見えてくる。旋回するにつれて,1クリ

ーム,白,灰色の高層建築がマッチ箱を立てたように突き出しており褐色の地肌に緑の帯

が,さっと流れていく。対岸の九竜半島へはいるころには,既に高度をかなり下げている

(2)

84

ので,路上を走る車がミニカーをばらまいたように動いて見える。赤い二階建のバスが暮 れか㌧る陽に輝きながら,ゆうゆうと走っていた。街路の両側には,灰色の低い建物が並 んでいる。家並みがきれると,様々な色が混じり合った住宅群が見え,奥の方には,これ また白軍の立派な建物があって,原色の洗濯物が窓にはためいている。やがて軽い衝撃と ともに,機は啓徳空港に着陸した。

 出国手続きをすますと,ポーターが早速荷物をもって駐車場の方へ行った。私は彼を待 たせて,当座の費用にと思って20米ドルを両替した。後で知ったことだが,空港やホテル での両替は一番率が悪い。空港では,ほんの僅かばかり両替した方がよい。外へ出ると,

宿から迎えの車が来ていた。チップを渡すと,ポーターは金を見て「サンキュー!」と勢 いよく云いながら去っていった。どうやら,チップを張りこみすぎたらしい。

 車の中へ軽くあいさつをしながら,大柄なチェックの服を着た中年の中国人が乗りこん できた。同宿の人かと思ったが,飛行機の乗客にしてはみすぼらしいし,かばん一つ持っ ていない。いぶかっていると,彼は名刺をさし出して,ガイドだと名乗った。なるほど,

よく喋る男だった。だがその聞きづらいこと,おびただしい。何んでも,戦争中にシンガ ポールにいて,日本語を覚えたとのことだった。同地を占領した日本軍は,後でも触れる が,相当ひどい虐殺を行なった。しかし目先の利く人間は日本軍に協力して,戦後シンガ ーポールから夜逃同様に行方をくらましたとのことだ。このガイド氏も多分その一人で,香 港に流れて来たのであろう。香港には大陸からの避難民はいうにおよばず,素姓の知れな

い者が沢山いる。それでいて大きな犯罪が起きないのは,英国管理の香港警察が非常に強 力だからである。

 ガイド氏は,もう20年も日本語を使わないから忘れてしまったと弁解したが,それなら それで別の職業をみつければよいのだ。こうして押込ガイドを働いているところをみると,

日本人の旅客が甘い汁を吸わせているのに相違ない。だが商売道具の言葉は,余りにもお 粗末だ。ぎつとこんな調子である。

 「ワタシ アンナイスル タイヘンヨロコブニホンジン ダィジョブホンコン 熱 田モシロイ ワタシト ユク スバラシイ」。何が大丈夫なのか,素晴らしいのか判らな い。始めて異郷に降り立った私は,やや緊張していたので,宿へ行って一人でゴロッと横 になりたかった。だが彼は容赦せずに,何んとかこちらの気を引立たせようと,口を動か

していた。

 九竜の市内へ入ると,ガイド氏は洋服を作らないかと勧めだした。彼の弟が近くで洋服 屋を開いており,一緒に行けばすごく勉強してくれる。案内してやった日本人から大変喜

こばれた。どに角,お買い得だから行ってみないかと,しきりに繰返す。私は益々この男 に信用がおけなくなったし,わずらわ,しくなった。

 後で知ったことだが,香港の商人は実に横の連絡が緊密にとれている。たとえば街を歩

いていて,どこの食堂へ行ったらよいか判らない時,タバコ屋で尋ねるとする。早速,で

(3)

東南アジアの旅を終えて 85一

は御案内醜しましょうということになる。えらく親切だと思うと,そのはずで,客を案内す ると幾らかのリベイトが手にはいるからである。これなんか中国人の合理性を如実に表わ したもので,彼等の論理に従えば次のようになる。私があの客をつれて行ったから,.あな たは何がしかの儲けをすることができた。だから私にお礼をするのが当然で・あるbそじて この鉄則は,日常茶飯の事らしい。デパートでさえも,客を案内「した中国人が売場の奥で 何か相談している風景を見た。

 割戻しを最も効果的にやっているのが,団体のガイ.ドである。彼等は観光客を店に案内・

して,売上げの5分を謝礼にもらっているとのことである。お客の欲しい店では,この率 をもっと上げる。そこが人情で,ガイドは割の良い店へ客をつれてゆく。時計なら,・この 店が信用おけます,万年筆はこの店が安いです,という調子に。先生に引卒された遠足の 小学生のように,一団となった旅行者は短時間のうちに,目星しい品物を買い漁る。ガイ ドは決して値引きの交渉をしない。そんなことをしたら,自分の取り分が減ってしまうか・

らである。

 私の車に闊回したガイドは,ホテルの中までのこのこ従いて来て,、室の中で案内料を説 明し始めた。私が僻易して黙っていると,今夜はネイザン通りを中心に,歓楽街を歩こう.

明日は自動車で香港島を一周してアバディーンの水上レストランで食事しよう,よかった ら小舟でレパルス湾を快走するのも乙なものだ等々,ここを先途とばかりにまくしたてる6、

こちらが相手にしょうがしまいがお構いなく,怪し気な日本語を並べたてるその執拗さは,

生に粘着する中国人の根強さを感じさせた。やっとのことでお引取り願ったが,どこから・』

嗅ぎつけるのか,その後もガイドの自薦が電話や直参で実に煩わしかった。

 旅行の行きしなに泊まった1ホテルは,日本航空に世話してもらったが,これは二流の 上であった。だから迎えの車にガイドが無断ではいってきたのであろう。帰国の途中に立 寄った時は,Pホテルにした。九竜で最大のホテルだけに,こんな非礼を受けなかったけ れども,ここの従業員の態度は妙に空々しい。こんな立派なホテルで働いているというエ

リット意識が慾勲無礼の中に見とられる。それでいてチップに非常に弱い。聞けば,香港 側のHホテル,Mホテルも同様だという。旅行者にとってなかなか快適な泊り場所は見つ からないものだ。

 漱石は明治33年9月8日に横浜港から英国留学の途に着いた。同月19日・に,彼は香港に 到着した印象を下のように記している。

 午後四時頃香港着,九竜ト云フ処二横着ニナル是ヨリ香港迄潜函エズ小蒸汽アリテ往復

ス馬関門司ノ如シ山内二層楼ノ甕ユル様海岸二傑閣ノ並ブ様非常ナル景気ナリ,十銭ヲ投

ジテ香港二至リ鶴屋ト云フ日本宿二至ル汚臓居ル可ラズ食後Queen s Roadヲ見テ帰船ス

船ヨリ香港ヲ望メバ万燈水ヲ照シ空二映ズル様綺羅星ノ如クト云ハンヨリ満山二宝石ヲ鎮

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86〕

メタルが如シdiamond及びrubyノ頸飾リヲ満山満港満遍ナクナシタルが如シ時二午後 九時

 漱石の乗った船がスター。フェリィかどうか知らないが,現在スター・フェリィは九竜

・香港間を結ぶ最大にして,最も便利な渡船である。早朝から深夜まで運航しているので,

利用者が多くヂここ数十年間無事故を誇っている。 このフェリィは1等船室が上甲板にあ り,1等と2等は乗船口が違う。 1等は25セント(約15円)で2等は10セントの船賃であ る。こんな僅かな差額なのに現地人の多くは2等へ乗るために,通勤時の2等入口はもの 凄い混雑だ。

 香港は夜景が素晴らしい。それもフェリィの上甲板から眺める景色が最も美くしい。そ れこそ正に,満山,順風加えて満岸宝石を鐘めたようである。近頃では岸辺近くに広告の ネ1オンが競い立っているめで,その眩ゆい光芒が一層景観を派手にしている。水面に映る 光が船の波に散り揺れる。

 香港の町並は,ネイザン道路やデヴー道路の一部を除いては,中国化された西洋の街だ と云えよう。中国の典型的景観として紹介されている赤塗りの寺院や城門は,郊外にしか 見られないが,とんな高層建築にしても,中国人の店があれば,それは中国独特の色彩に おおわれてしまう。酒の看板がある。雑貨屋の看板がある。料理屋の看板がある。医者の 看板があるげ宿泊所を意味する招待所の看板が出ている。これらの看板が,一一つの建物に,

あるいは横にゴあるいは縦に思い思いの方向にかかっている。色彩も調和とか統一なんて 考えておらない。人目1ヒつけばいいという調子に,自己主張している。屋上の近くには干 物竿がニヨッキと突き出て,洗濯物が陳列されている。

 目貫通りから横丁へ入ると,そこにはごみごみした露店や小さな店が並んでおり,たい ていが食物屋である。木のベンチや椅子に腰を下ろして汁を畷つたり,そばを食べたりし ている。肉とか魚とか野菜が屋台に雑然とおかれ,大きな鍋がたぎっている。よくまあこ んな所で食事をと感心するが;彼等は意にもかいしていないらしい。露店だから丼や皿は,

くみおぎのバケツでちょっとゆ窒ぐだけだ。そんな器で平気で中国人は食事している。客 は苦力がと恵うと,そうでもないらしい。官庁街の近くでも商店街でも,時分どきになる と,ホワイト・カラー族が集まってにぎやかに談笑しながら食事をしている。まだ白かっ たせいか,蝿は余りいなかった。

 香港に限らず,シンガポールでもバンコックでも東南アジア各地で,中国入の集まると ころでは,こう、いう光景が見られた。これで食当りの話を余り聞かないどころをみると,

栄養が徽菌に打勝つのかも知れない。

 横町を更に奥へ進んでゆくと,出店があり,道の両側に食料品や雑貨類を陳列している。

インド入が怪し気な宝石類を白布の上に並べている。わきではリンゴ箱に腰をかけて頭を

剃ってもらっている老人がいる。路上の本屋は,ペーパー。ブックを所狭しとまでに並べ

ているb古本なのか,薄汚れている。ほこり除けか,立読みを防ぐためかセロファンで包

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東南アジアの旅を終えて 87、

装したのもある。路上に新聞を拡げて売っている子供もある。私が長崎へ赴任して来た時,

薄暗い市場に雑然と商品をおいた店がひしめき合っているのに驚いたが,香港の方は,そ れに何層倍も輪をかけた雑然さである。中でも横綱格は食料品屋である。商品がうず高く 積まれて,その横に桶や樽やざるがおいてあるという調子だ。店先では大声で値切りなが

ら加斗している婦人がいる。

 庶民のこうした生活どは別の面が香港にある。世界各地で生産された商品が,この地に 氾濫して回り,大げさに表現すれば,世界中の品物で無い物は無いといえるほど,たくさ んそろっている。それらの商品が美くしく飾られ,まばゆい電燈光に照らされており,買 物天国の名に値いする。自由港のために関税がかけられていないため,却って本国で入手 するよりも廉価だといわれている。

 欧米人も貿い物をするようであるが,彼等に人気のあるものは現毛皮,宝石,織物,木,

製品等IDようである。商人の話によると・最も買いぶりのよい上顧客は日本人とのこζで あ為r、特にジヤルベック等の団体で来る煙期旅行者が・最上のお客さんだどいうことであ う?.成程・買.うわ・.軍うわ・壮烈な買いぶρである俳短時間のうちに目的物を買い漁うQ だかや,すさ論じいまでである。万年筆を無雑作に10本も買ったり,鰐庫製吊を買っオψ,

時計屋でオメガとローレックスを並べさせている。彼等は支払いに際してジ・きまって懐中 か5分厚い一万円ネレをと軌出す。 380円が1、米ドルに通用するので・闇ドルを買ってくる よりも布利だからであろう・こうして・円価の下落に・大いに貢献しているわけだ・出国 の際にどんな顔をして「所持金が2万円です」と口頭申告したのか拝見したくなる。日本 人の買物風景を見ていると・\腹立たしさを通りζセて馬鹿馬鹿しくなってくる。

 時計堅でr一レックスを数個一度に買った中年の男に・帰国の際に申告するのか溶いて みた。彼はこζも無げに・「碗の附根に巻いでおきますよ・税金を払ったら香港に来た甲 斐がないでレよ」と答えた。その隣では蜜月旅行で来た若禾婦が盛んにヒ冬イの品定φを していた。30万甲く1らいσ〜指環がお無に召したらしい。背の君が帰国の時を心配した。若 奥様は・二三とほほえんで答えていた。、「ブマの中にしまつちゃうから大丈夫」

天真三二である。羽田の税関吏が忙がしいのも無理はない。

       皿

 ホテルで知合うたアメリカ入は,アーサー・スト・一ンといったσ少し親しくなった頃」

私は軽口をた㌧いた。

 「僕たちの国は,あなたの息子さんに支配きれたことがあります。彼は,尊大で傲岸で 毅然としており,そして民主々義を我々の国土に植えつけてくれました」。

 「それから彼は, ピーナツにほおむられましたね。オールド ソールジャズ ネヴァL

ダイ ネヴァーダ.イ ジャス トーンリー フェー ダウェー」。終りの方を,歌いなが

らアーサーが続けた。気の良いアメリカ人である。彼は賜暇で南太平洋から極東方面を

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旅行しており,写真を撮ってそれを放送局に売りつける予定にしているとのことだった。

「うまく行けば,この旅行がただになるのだけれど」と,ニッコリ笑った。旅費を稼ぎな がら旅行をしているので,彼の関心ば普通の旅行者といくらか異なっていた。日本では,

海女の生態を是非撮りEたいということだった。

 アーサーに誘われて,アバディーンの水上生活者を見に行った。香港仔と書く アバディ ーンば香港島の西南部にある水上生活者の基地で,約15万人の水上生活者が集まると云わ れている。大陸からの密輸船も盛んに往来してお髄り,やや秘密の臭いがするところである。

夜の姫君が水上で商売するぞうである。

 我々・は小舟を雇って漁船の間を縫って行った。小さな入江だが,水上いっぱいに帆柱が 立ち並び,岸辺には既に帆を下ろした船がもやっていた。なんでも最盛時には,5千むの 船がこ\に集まるというこどだった。

 物売りの小舟が漁船に近づいて商売している。中には野菜と魚を交換している者もあっ た。木箱を積みおろしている船もあった。け だるい昼下りの海上で蛋民はせっせと働いて いた。サンパンと呼ばれる小舟も,ジャンクも家族がその中で暮らせるようになっている。

 あひるを飼っている船,中には仔豚を連れている船もあった。多くの船は水がめを備え ており・,石油煤炉や七輪などを積んでいた。アーサーは夫人を先導に,それらの船に向け てム…ヴイ幽・ガメラを一心に廻していた。驚いたことに」ストーン夫人は中国語がうまか っだ。アーサーは云った。「僕は旅行をする時に,妻にその国の言葉を習わせます。今度 の場合,香港では広東語が通じると聞いて大あわてでした。何しろ,彼女は最初マンダザ ン (北京語)を習っていましたからね⊥。聞けば,彼女は渋谷にある東京ラングまッジ

・スクール,通称長沼スクールのテクストを使って日本語も少し勉強したとのことだった。

 サンパンぱ幌張りのために,室内が薄暗い。小さな藤椅子を置いたり,食卓代りに木籍 を置いたり,畳一枚分ぐらいの板を置いたり,思い思いの居住設備がしてある。船の申で 一二が生活している,そんな悠長さが感ぜられた。しかしこの平和な光景の中に,武器弾.

薬の密輸を行なつでいる船もあるということだった。

 一隻だけ横の方もすっかり幌で蔽っている小舟があった。それを目敏くみつけたアーサ ーは,その船を指して行くように命じた。そのサンパンは普通のものと大して変りがなか ったけれども,舷側が全然開いていなかった。多くのサンパンは,屋根に幌を被せてある だけで,,光や風が横からばいってくるようになっているのに対して,.これはシートで舟を おおった恰好になっていた。夫人の通訳で,彼は船内を見せてくれるよう・に頼んだが〉.船 頭ぽ頑と.して応じなかった。幾ら辞を低くして要請しても将があかないので,、断念したが,

未だあきらめきれない調子で,アーサーは云った。

 「あの舟の中に何が隠されていると思いましたア」

 「多分,他人に見られたくない物でしょう。それにしても,あんな小舟で密輸しても多

寡が知れているのに⊥

(7)

東南アジアの旅を終えて

 「僕のにらんだところでは無線機械を積んでいるはずです」

 香港島のスター・フェリイ桟橋の東側には,アメリカの第七艦隊やイギリスの東洋艦隊 が碇泊 しているし,島内にはヴェトナム帰休兵がうろうろしてバーに屯うしている。アー サーの云うように,情報を打電する船かも知れなかった。或いは無線機械の密輸船かも知

れなかった。

 「このフィルムが幌を透して感光してくれたらなア。そうすれば,今度の旅費くらい簡 単に出るのに」

 「そんなフイルムが発明されたら,世の女性方は大恐慌ですよ。赤外線ブイルムがある から,花模様の水着を着るように,と云っているくらいですから」。私は混ぜかえした。

 ストーン夫人が,くりくりした眼を向け,小鼻にしわを寄せたので,我々は急いで話題 を変えた。このあと,夫妻は水上レストランで食事をして,夜の据物舟を撮影するとの話 だった。私は,ほかに用事があるので,彼等と別れた。

 翌日,九竜のスラム街見物を誘われた。私は底辺の人々がどんな暮し方をしているのか について以前から興味をもっていたが,薄気味悪くて,釜ケ崎や山谷を歩いたことがなか った。今度は旅行者の気軽さと,同行のいる気強さとが手伝って,簡単にオーケイした。

なんでも,カスバ同様に迷路がいりくんでいて,旅行者ではちょっと近寄れないところら しい。ボーイに響くと,目を丸くして,絶対にカメラを持って行かないように,できるだ け汚いなりをした方がよい,道を歩いている人聞や,停っている人たちと眼を合わせては いけない。こんな注意をしてくれた。

 現在,欧米諸国では都市のドーナツ現象が生じていると云われる。自家用車が普及した ので,住宅地帯が郊外へ延びてゆき,この波に乗り遅れた貧困者が都会の中心地に巣喰っ ているので,丁度都会のまんなかにぽっかり空間ができた状態になっている。九竜のスラ ム街は,それとは違って町の端れにあった。空港から少し外れた,かなり市の中心から離 れた場所に,貧窮者の一団がひっそりと,だが逞ましく生活していた。

 大陸から流れて来た難民や,定職のない人たち,暗い過去をもった男女,喰いつめた人 たち,阿片常習者,脳を侵された賎業婦たち。以外に思ったのは,屈強な若者がかなり多

く,着ているものはポロに近いけれども,顔色が生き生きとした青年もいたことだ6汗と 体息とにんにくや鎧えた臭いの混じり合った中に,彼等は生活していた。

 着ているものも,食べものも,およそ人間らしからぬ生活だ。私は市街地の露点の猴雑 に眉をひそめたけれども,スラム街の店に比較すると上等すぎる。何しろ,ここではまと

もでない物を売っている。つるの取れた眼鏡,よれよれのベルト,破れたもんぺ,穴のあ

、いた靴,着古したシャツ,そうかと思うとパリッとした札入れやハンドバッグもある。壮 観なのは食物屋であった。沸っている大副の中には,残飯を水で溶いたと覚しいスープが はいっており,吸殻がはいっていても決して不思議でないほど雑多な食物が混っている。

どう見ても,ひき蛙としか思えない大きな蛙,皮をはがれた猫,もっと小さいのはネズミ

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go

かも知れない,申し訳ばかりの水の中でうごめいているナマズの親分のような魚。傍らで は鶏の首を落として,その血を畷っている者もある。

 漱石は日本宿を「三門居ル可ラズ」と評したが,このスラム街を見たら何んと形容した であろうか。アーサーは冒険好きのアメリカ人宜しく,ズックの袋から8ミリを取りだし て廻している。彼がカメラを動かしている時は,一心になって身の危険に頓着しないので,

夫人が油断なく辺りに目を注いでいる。遂に我々は一群のバラックに辿りついた。それは 差掛小屋のようなもので・人間のすみかとは大分かけ離れたものだが・子供πちが陽気に 家のまわりを跳びまわっていた。

 アーサーの友人が附近で牧師をしているということなので,そこを訪ねた。世界のどん な辺鄙な場所へもでかけて布教する宣教師の努力と意欲は大したものだ。この牧師は時に は,スラム街の住民と共に生活したりすることもあるそうだ。彼等の中に融けこまなけれ ば,到底彼等を救うことができない。彼等は外部の者を,特に毛色の違った外国人を忌み 嫌うが,心と心が触れあうようになると,実に善良な人間が多いことがわかる。彼等は肉 体だけでなく・精神的にも餓え疲れはてている。彼等の良き友人として・相談相手とレて 尽くしたい。こんなことを,熱っぽい調子で牧師は語った。聞けばボルネオにも同じ教団 から派遣されている牧師がいて,その案内でサラワクの密林をストーン夫妻は越えて来た そうだρ牧師の案内で難民アパートを見学することになった。

 香港政庁はスラム街の解消に躍起となっており,鉄筋の高層建築のアパートを建てては,

貧困者を収容している。しかし貧困者の群は後を絶たず,続々とスラム街に集まって来て おり,流れこむ難民の数が多くて,いつになったら全部収容できるのかめどがたたない状 態だ。しかも皮肉なことには,残念ながらこの近代アパートが新たなスラム街を形成しつ つある状態がはっきり見とられた。

 .白栗の立派な建物。これがスラム街の住民の収容所かと疑うほど堂々たるアパートだ。

だが一歩中に入ったとたん,先程嗅いだのと同質の臭いが充満していた。各々の棟の各階 に一一ヵ所だけ炊事場があり,そこは洗面所や洗濯場を兼ねていた。便所に至っては,放射 状の建物の中央に各階一ヵ所存在するだけである。外観の立派さに比較して,内部のお粗 末さ,暮し難さは格別だった。どこの国でも役所の仕事はこんなものかも知れない。 6畳

ぐらいの広さの室に寝台が12箇ある。2等寝台同様に,縦に3段,4列ある。室内の汚臓,

乱雑に至っては記すに忍びない。何しろ,いちどきに多数の人間を収容しなければならな いのだから,こんな間取りになるのは無理からぬことかも知れないが,余りにもひどすぎ る。確かに,雨露を凌ぐには,差掛小屋よりは数十倍ましであろう。だが九竜の町端れ1こ,

政府の手により近代的で恒久的なスラム街が造られていることは,将来大きな禍根となる

のではなかろうか。暗然たる気持ちで,私はそこを辞した。

(9)

東南アジアの旅を終えて 9↑

1

 タラップへ一歩足を踏みだした途端,熱風が身体一面を包んで来たのに驚うかされた。

4月のマニラは真夏である。空港事務所はガランとしており,なんとなく薄暗い。まるで 昼間の魚市場のようであった。背の低い税関吏は,獲物をあさる鷹の眼付で荷物をかきま わす。それでも外国人に対しては,寛容のようで,私の横にいたブイリピン人は,鞄の中 味を全部台の上へあけられて仔細に点験されていた。香港と較べてなんという違いだろう。

香港では,酒,タバコ,麻薬を持っているかと問われただけで,パスした。開発め遅れて いる国では概して小吏が権力を笠に着ているが,ブイリピンもこの例に洩れなかった。し かも,そういう国はまた,国内の治安もかんばしくない。

 東京を出発する前日,私は友人からフィリピンへ行ったら十分に注意をするようにと警 告された。一時半みられた対日悪感情はさほど心配する必要はないが・無法者が横行して いて警察が十分に取締まれないから,危険だというのである。香港で知合った林さんは一 年半かりマニラに滞在したことがあるので,その体験をもとにして,いろいろ有益な注意 を与えてくれた。事情を知れば知るほど,マニラへ行くのが億劫になったが,既に席が予 約してある。ままよ,という気持ちで私は香港を後にした。機中で,東南アジアを数回旅

しているというアメリカ人と同席したので,マニラの事情について話してもらった。

 予約したホテル代がかなり高かったので,まずマニラの物価について質問すると,香港 と比較して一般物価水準はむしろ低い方である,ただし,外国の酒は高いから,自分は旅 行する時には必ず香港で酒を買って行くと云いながら,アタッシェ・ケイスを開いてくれ た。そこにはナポレオンが一本はいっていた。彼の話によると,世界で物価が最高の都市 が3っある。それは,東京,パリ,ジャカルタで,このうちでも東京の物価が一番割高だ

ということである。「東京の物価はニューヨークよりも高いのですかア」私は質ねた。ニ ューヨークの物価高は余りにも有名である。 「ニューヨークも高いけれども東京は概して それ以上です。ホテル代や食料品が特に高いように思われます。東京で暮らしでいる人な

らば,マニラでは暮らしやすいでしょう」こ\で言葉を途切って彼は続けた。「た買しマ ニラでは時折特別料金を徴収されますよ。物騒な料金をね」。

 人々の話を綜合してみると次のようになる。マルコス政権は余り有力でないので,治安 を取り締まり難い。警察力も犯罪の割に弱体であり,悪質な警官もいるようである。嘘の ような真の話がある。マニラの裏街で,ある旅行者が道に迷って途方にくれていたところ,

向うから警官が来た。しめた,と思って尋ねると,その警官はニッコリ笑って「私が案内

してあげるから一緒にいらっしゃい」と云いながら,どんどん先に立って歩き出した。安

心してついて行くと,街の片隅の薄暗がりで,急にピストルを突きつけて警官は重々しく

(10)

92.

云った。「ホールダップ」。こんな悪質の巡査は極く稀であろうが,一旦不祥事が発生す ると,囎は勿ちのうちに千里をかけめぐってしまう。

 警察に対する民衆の評価もまた,極めて低い。悪漢に襲われた市民が正当防衛で相手を 傷害した場合に,早く話をつけようと思えば,幾何かの金銭を握らせる必要があるそうだ。

マニラの街では,ホテルでも銀行でも大きな商店でも私警のガードがいる。 「そんなに物 騒ならば警察に頼んで護衛してもらったらいいでしょう」何も知らない私は云った。 「犬 に肉の番をさせでも土台無理ですよ」答が返って来た。

 旅行者にと「って鬼門の一つにタクシーがある。日が暮れてから一人でタクシーに乗ると,

思いがけない方向へ連れて行き,人気のない所で,雲助に早変りする運転手がいるそうで ある。なんでも,,ゴールド。タクシーとイエロウ。タクシー以外は気を許せないとのこと であるσ余談になるが,、一夕私はエスコルタという繁華街でタクシーを拾おうとした。私 はアメリカ人の忠告を忠実に守って,ゴールドとイエロウだけを探した。マニラの街には ジーフ。ニィといって,ジープを乗合形式に改造したものが右往左往しており,バスも沢山 走っている。.それでも交通機関が不足のようで,バスのステップまで人がぶら下がり,戦 争直後の東京の交通地獄が再現されている。タクシーも絶対数が少いので,その中から2 社のだけを選び出すというのは至難の技に近い。タクシーが少ないのは,自動車の価格が 高いからである。コロナが200万円,ベンツが500万円では,なかなかもとがとれない。

車代は日本と較べて遙かに廉いから,利用者が多い。利用者があっても車は殖えない。

 宵闇追る街角でゴールドとイエロウを探すならば1時聞から2時閥は待呆けをくわされ ることを覚悟しなければならない。確かにこの両社の運転手は礼儀正しい。行先を告げる と必ず「イエス。サー」と答えるし,こちらが日本人だと判ると,いろいろ日本の事情を 質問してくる。気持よく乗車できたのでチップをわたすと聡しわけなさそうに受取る。こ れ以外にも他に2社ばかり信用できる会社があるそうで,少し馴れると車を見て判断でき

るようになる。車体がポロなのは,2・3台しか持たない小会社のか個人タクシーに多く,

これらの車は雲助に早変りするものが多い。

 ホテルから来た迎えの車にカナダ人が乗っていた。彼は前日東京を発って香港経由で到 着したばかりだった。つい最近東京で雪が降ったニュースを聞き,とりとめもない雑談を した。彼が数回マニラへ来ていることを知ったので,私は「ここが非常に危険な街である と聞いたが」と水を向けると,彼は「ヴェリ・デインジャラス」と答えて,運転手をチラ と見てから声を低めて話し出した。彼は2回もタクシー運転手に追いはぎされたそうだ。

その掠奪ぶりは徹底したもので,腕時計から洋服,ズボンまではぎとり,,車外に放り出す

とのことである。精々金を出せとおどすくらいだろうと想像していた私は,認識を新たに

して,カナダ人のガッシりした体をしげしげと眺めた。 「こんな頑丈な人が身ぐるみはが

されるのならば,僕なんか一体どうされるのだろう』。被害者を横にして,私は暗然たる

気持になった。「タクシーには注意なさいよ」彼は繰返し云った。

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 私の宿泊したホテルF・はマニラ湾沿いのロハス公路に面しており,附近に日本大使館 やアメリカ大使館があるし,10分も歩けば官庁街がある。東京でいえば,溜池あたりに相 当する場所に建っている。白本人の常識からすれば,最も安全な場所である。こんな一等 地そも,旅行者にとっては甚だ仮初なところだから始末が悪い。現地を見ないひとには信

じ難いであろうが,次に私の体験を2つばかり披露してみよう。

 夕食をすませた私は,手持無沙汰だったので附近を散歩したかった。海岸には椰子が茂 り,嘲騒が自動車のエンジンの音に交ってかすかに聞こえてくる。既に昼間の暑さは消え 去り,夜の微風が寧ろやかに肌を撫でてゆく。私は人気のない夜の海岸を散歩するのが好

きだ。特に異国ともなれば,なんとなくロマンチック な気分になる。ぶらりと歩いて来よ うと思って私は気楽に階下へ降りて行った。

 まだ脊の口だったので玄関先は,出入りの客でぎわぎわしていた。外へ出ると守衛が寄 って来て,車を呼ぼうかと聞いたので,海岸のあたりを歩くだけだから結構だと断った。

すると彼はとんでもないという顔で,絶対に林の方へ行ってはならぬと云う。今時分にな ると,夕涼みを兼ねた零墨リがあの辺に群らがって来て,旅行者がカモにされるというの である。そこで仕方なく,散歩道がないかと尋ねると,ホテルに沿って歩くだけならば安 全だけれども,建物から離れてはいけないと答えた。「それでも貴男へ話しかけてくる者 があったら,決して返事をしないで黙っていて下さい」と彼はつけ加えた。彼の眼の届か ないところは保証できないというのである。こんなことが文明国の首都の中心地であるだ ろうか。私は些かあっけにとられた。5,6メートルも歩いた頃,数人の男たちに私はとり 囲まれてしまった。 「車に乗るんですか」「ナイト。クラブへ案内しましょう」「どこへ 行くのですか」「思い出に夜のマニラを零しんで下さい」言葉はていねいだが,無理やり

に私を自分たちの車に引きずりこもうとする。足を持たれたら胴上げされるところだうた。

 二進も三進もならなかった。その窮状を目敏く見つけた件の守衛がとんで来て,救って くれた。私は守衛に護られて角まで行き,そこから別の扉口の守衛に引継がれて,ホテル の売店へ行った。時に午後8時30分。

 ブイリッピンの特製品の一つに,パイナップル繊維とバナナ繊維がある。共にフイリッ ピンの絹と呼ばれており,その光沢から,その肌触わりから絹に似てはいるが,ごわごわ している。パイナップル(ピーニャ)の方は色が白くて羽二重に近いが,バナナの方は絹 紬に似た色合を持っている。女物のドレスやブラウスと男の外出着は,正装の場合,この 両繊維の製品だということだ。勿論昨今ではテトロンが日本その他から輸入きれて,合成 繊維の製品もあるが,バナナやピーニャの方には天然の良さがある。ブラウスは云うに及 ばず,男物のシャツまで刺繍してある。スワトウの刺繍は旧本でもよく知られているが,

マニラの刺繍はもっとあでやかで,見事である。なんでも工賃が安いために,ちょっとし

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た着物にもすぐ刺繍するそうである。

 私は話好きの売子にいろいろ説明してもらった後で,夜道が物騒ではないのかと訊ねて みた。すぐ裏にジープニイの停留所があって自宅の傍にも停留所があるから平気だが,夜 遅くなると恋人が迎えに来るから大丈夫だという返事だった。 「彼はいつも護身用にナイ

フを持っています。だから襲われても平気なの」と彼女は云った。「もしも彼が悪心を起 こして誰かを襲ったら?」私は問い返した。「そんなこと,絶対にあたしが許しません。

暗い過去を持った男と一緒に暮したら,惨めだしゃり切れないわ。あたし達は貧しくても,

強く生きてゆきます。幸い彼は定職を持っていますし……」。明確な答えである。こうい うしっかり者の若い女性が殖えたら,マニラの犯罪も幾らか少なくなるであろう。

 日曜日の午後,私は本学の河本教授と同道してルネタ公園に出かけた。ルネタ公園はマ ニラ湾のサウス。ポートに接しており,ホテルF・から約10分の距離である。1896年12月 30日に革命詩人リサールがこの地で処刑され,公園の中心にその記念碑がある。この公園 で現大統領のマルコス氏が就任式を挙げており,中央の花壇には美しい花々が咲き乱れ,

よく手入れがされていた。公園への途次,私たちは前日からどことなく姿を現わす二人組 につきまとわられたが,彼等を無視して歩いた。少し行くと,公園の横手に瀟洒な建物が あった。「士官クラブですよ」 と一人の男が話しかけて来た。「こっちへ来ると写真を撮 るのに良いですよ」。とっさに私の頭に次の光景がひらめいた。 『さあ,記念にあなた方 の写真をとってあげましょう。カメラを渡すと彼は逸早く逃走してしまう』。私は「ノー

。サンキュー」と云って足早に歩き始めた。士官クラブの写真を撮っても面白くないし,

次に何をされるか判らないからだ。彼は不服そうにしゃべりながら従いて来たが,私たち は彼を無視して公園へ向かった。私たちの行為は或いは彼の好意を踏みにじったものであ るかも知れない。しかしマニラでは,見知らぬ人間をいくら警戒しても警戒し過ぎること

はない。

 家族連れや若い男女の群で公園はいっぱいだった。日本製のカメラを持った若者が記念 写真を撮っているし,樹陰でジュースを飲んだり菓子を食べている人たちもいるし,市民 の平和な光景がそちこちに展開されていた。私たちも写真を撮ったり,学生ふうの若者と 話したりして,のどかな気分を大いに味わった。

 帰りしな,白塗りの車が寄って来て,どこへ行くかと訊ねた。返事を濁して歩くと,私 たちと同じ早さでのろのろ運転しながらついて来る。そこで反対側に歩き始めると,諦め たのか向うへ走り去った。一安心と思って帰って来ると,道をへだてたホテルの真前に先 刻の二人連れと白い車が待っていた。有無を云わさず彼等は私たちの前に立ち塞がり,自 動車の中へ押しこめようとした。私はひったくられそうになったカメラを胸に抱きレめて 相手のすきを見て逃げた。横断歩道までちょっと間がある。絶対絶命,私は自動車が疾走 するロハス公路へ躍り出て車の間を縫いながら,中央分離帯まで走った。無我夢中であっ

!ζが2スぐ一ドを繹めずに嘩り去る車に身脅さちレて牢きた心地がなか?た9私が繭から身

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河本氏が後からすり抜けたので,彼等は大事な獲物を逃がしてしまった。まさか通りへ躍 り出るとは思いも及ばなかったであろう。ふり返ると,彼等は面白そうに拍手をしたが,

その顔には無念さの表情がありありとうかがわれた。

 ブイリピン人は概して人なつこく明るい民族である。街に放置されている無法者をのぞ くと,精桿な顔だちに似合わず,大変つきあい易いし,話好きで,親切な人が多い。街で 車が拾えなくて困っていると,走り去ろうとする空車に突進してそれを止めてくれた青年

もいた。余り綺麗な車でないので躊躇していると,彼は御一緒しましようと云ってホテル まで安全に送りとどけてくれた。料理屋でビールを飲んでいると,サンミゲルはうまいか と聞いて話を始める人もいる。サンミゲルは唯一の現地資本によるビール会社である。パ イナップルはハワイに本拠をもつドウルが罐詰加工をやっているし,砂糖の精製はアメリ カ資本におさえられている。

 打ちとけてみると彼等は隔たりがないし,乙にすましているようないやみがない。無論,

暑い国柄のせいか,性質が生一本でガットなり易い面もある。それが悪い方に発揮されれ ば毎晩のように起こる街角の撃ち合いや,ナイト・クラブでの刺傷事件となる。昼間はフ ィアティ大学の工学部へ通学しているルーム・ボーイが遊びに来た時,セイコーの自動巻 腕時計をしていた。密輸品を1万5千円くらいで手に入れたそうだ。私はうっかり,日本 でならば1万円足らずで売っている,と云ってしまった。彼は物も云わずに∫その時計を 壁めがけて投げた。私は自分の軽率を恥じ,外国品は関税やその他の関係で高くなるがら,

君は決して高買いをしたのではない,むしろいい買物をした,と説明してやった。すると 彼ぽ時計を拾い上げ「あんなに乱暴をしてもちやんと動いていますよ6セイコーは良い時 計ですね⊥とニコニ」している。気にいらないと爆発するが,後は全然拘泥しない。まこ

とにさばさばしたものである。

 ホテルの食堂で美味しいブイリピン料理を勧めてくれと頼んだ時に,他のテーブルから もボーイがやって来て,これがいい,あれがいいと相談する。そして必ず口にあったかと 訊ねる。パンがおいしかったのでほめると,食堂主任が籠にいっぱい盛沢山に持って来て,

どれでもお好きなのをおとり下さい,という。この人懐こさは,われわれの常識から解せ ない点もある。私は香港でダンヒルの紙巻を買って持っていた。これは軽くて私の口にあ った1ダンヒルはマニラでも珍らしいとみえて,ボーイがしげしげと箱を見ている。「よ かったらどうぞ」というと「サンキュー」と答えて悪びれずにもらう。ほかのボーイもや

って来て,みんなねだって行く。とりすました日本のホテルの食堂のボーイからは,到底 想像できない図である。室つきのボーイは暇があると遊びに来て長話をしてゆく。こちら が変った品物を持っていると卒直に興味を示す。童心の純粋さが残っているのかも知れな

い。

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 こういう接客態度を別に奨励するわけではないが,日本人は余りにも未知の人間に不愛 想ではないのだろうか。我々が旅行する時に,知己同志ならば話に花が咲いてまことに楽 しいものとなるが,見知らぬ人とならば何時聞ものあいだ一言も話さない場合がよくある。

飛行機の中でも私は未知の同胞と同席するよりもアメリカ人と同席する方が気詰まりでな かった。下手な英語で応答し,相手の云うことを聞きとろうとするのだから,その努力と 緊張は大したものだが,却って同国人と一緒にいるよりも気楽だった。

 日本航空のスチュワーデスは常に微笑をたたえていて,サービスの良さに定評があるよ うだけれど,なんとなく澄ましていてよそよそしいことも,否定できない。オランダ航空 やマレーシア航空のスチュワーデスは不必要にニコニコしていないが,暇な時には客席に 座って話しかけて旅情を慰めてくれる。その態度が実にさり気ない。そして気が向けば半 時間も話している。厳しさの中にゆとりがある。

 屡々いわれていることであるが,人間関係のヨコの交際は,概してわれわれ日本人は余 り上手でない。ヨコの関係は社会性にとぼしい日本人には難かしいが,われわれが国際的 に活躍する場合には,どうしても踏み越えて行かねばならない関門だと痛感した。

IV

 ブイリピンはまだ基本的には農業国である。国民所得のうち製造工業の占める比率は2 割に満たない。人口の増加率は3.8パーセントでかなり大きい。この国の住民は9割がキ

リスト教信者,それもカトリック信者が多いのだが,不思議なことに,回教徒を真似て3,

.4人の妻を持っていたりする。ある公務員は4人の妻を持ち,子供が16誓いる。彼の父親 は19人子供をつくったそうである。こ,の調子では.甲斐性のある男は奥さんを沢山もち,

子福者となるが,あぶれた者はどうなるのか,その点は、とんと研究してこなかった。ブイ リゼンの:女性の数は男性の数の3倍というはずはないから,何んら・かの調節がどこかで行 なわれているに違いない。

 人口増加率が大きいのに対して,農業生産性は極めて低い。主産物である米の生産力は

」ヘクタール当り1トンで,これはアジアでも最低に属する。それでいて餓死者が出ない のは,果物が豊富に獲れるし,農地総面積が800万ヘクタール以上もあるからである。米 価は日本の半分にも及ばないが,民衆は米が高くてやりきれないと不平を洩らしている。

ある政府高官は米価を釣上げるために,米を備蓄して私利を肥やしていたそう、だ。この官 吏はそれが発覚して最近罷免されたとのことである。 「日本では政府と政党が毎年米の値 段を釣上げている」と語ると,ブイリピン人は信じられないという顔付きで私の顔をじつ

、と見た。私は,わが国の米の買上制度を簡略に説明しなければならなかった。

 ブイリピンの物価上昇率は,統計を調べていないので正確な数字をあげかねるが,一転

,民の話を信用すれば,この1年間に5割も上昇したとのことである。庶民の生活はこの物

極高1『圧.導さ群てや〉なひ辛いが,朴みπいな旅行者には,むしろ低物価に感じられたg確

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東南アジアの旅を終えて

97 かに機中のアメリカ人の云ったとおりだった。それは現在1ドル4ペソの交換率のためで

ある。2年前は1ドル2ペソの比率だったから,ペソの価値が半分に下落したわけだ。外 国人にはそれほどでないけれども,現地人は高物価で生活がかなり苦しい。

 フィリピンの国民所得成長率は最近数年間の平均が4。7パーセ.ントであ.る。この数字は アジア諸国の・うちでは大きい方に属す。戦後,新規必要産業免税法および基礎産業免税法 が制定され,輸入統制と相まって,国内産業が発達した。すなわち,電気機器,綿製品,

金属化学,印刷,ゴム製品等の工業が急速に発展した。しかし電気機器を例に、どると,

テレヴィジョン。セットでもラジオでも電話器でも殆んど外国製である。また街で見かけ た絵葉書は,西ドイツ製であった。これらの点から判断すれば,同国の工業製品の質は未 だ相当見劣りがあると云わねばなるまい。その反面,国内市場が狭小のために過剰生産と なっている業種もいくつかある。市場の問題が解決されれば,フィリピンの経済発展にと って大きな曙光が現われるようにみえるが,製造工業の分野に外国資本の投資比率が大き い点を勘案すると,同国の経済はかなり前途が厳しく,国民の生活水準の向上が容易でな いことがわかる。

 商業面にも外国資本が投下されており,アメリカと中国の投資が最も大きい。華僑は東 南アジアの全地域に亘って,商業活動を営んでおり,その地区に密着し,永住し,根を下

ろす着実さで,次第にこれらの地域の商業実権を把握するに至っている。フィリピンでは 1954年春小売業国民化法を制定したが,これは華僑の商業活動を抑制して民族化すること をねらいとしたものである。しかし一片の法律でもって華僑の商業活動を抑えようとして

も,そこには限界があろう。

 ブイリピンの労働人口は1,000万を超えるが,うち5パーセント弱が完全失業者である。

このほかに部分失業者,潜在失業者を加えると,かなり多数の労働者が職につけず,就業 者といえどもその6割は農林漁業等の第一次産業雇傭者である。

 国内市場がさほど開発されず,有利な商業部門には外国資本が進出し,高物価で失業が 多いために,マニラの街は未だに十分戦禍から恢復していない。裏街を車で通った時,廃 塊のような建物がずらっと並び,二階の窓から女が顔を出していた。「幽鬼の街」と私は 思わずつぶやいた。繁華な道路の一歩裏には,このような住宅街が多い。戦争は余りにも 多くの災害をこの国の人々に与え,その傷手からまだ立直れない人たちがたくさんいる。

 ブイリピン人は日本に対して,どんな感情を持っているであろうか。ある学生は次のよ

うに語った。「私たちは始め日本を大いに憎みました。私の叔父夫婦は日本軍に殺されま

した。しかし過去をいつまで根に持っていても仕方ありません。そのうちに奇妙な感情の

変化がおこって来ました。憎悪の念が薄れて日本への親愛の気持がだんだん芽生えて来た

のです。それは日本の経済発展が極めて目覚ましかったからです。私たちも日本のように

何時かは発展できる。戦後の日本は,そんな希望を私たちに抱かせました。でも今は,は

っきり云うと,日本は交際しにくいという感じです,アジアの中で一頭ぬきんでてレまい

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ました。余りにもエラクなりすぎました。しかし日本は,なぜ私たちに与えることをしな いのでしょう?日本はなぜ私たちに経済援助をしないのでしょう?金持ちが貧しい者に豊 かに与えてこそ,社会の幸福が増進するではありませんか。国際的にみてもそうです。私 は声を大にして叫びたい。ギヴ・ジェネラスリィ」

 「あなたの論理は物乞いのそれと変りないじゃないですか。なるほど日本の国民所得は 世界で5番目になったが,パー・キャピタでは20番にも入りません。日本人一人一人はそ

う裕福ではありません。それよりもあなた方は国内の治安を恢復して,安心して働らける

場を作るべきです。失業者に職を与えるよう努力すべきです」。私はこの言葉を云い出し

かねて,じっと彼の眼をみつめていた。

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