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細 田 三 喜 夫

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Academic year: 2021

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(1)

詩經東山詩作者考 細  田 三  喜  夫

   鴎

我祖二東山一 惜々不y蹄

我來レ自・東 零雨共濠

我東日レ蹄 我心西悲. 制二彼裳本

勿レ士二行枚一

蝸々者蝦 蒸在二桑野 敦彼猫宿 亦在二車王 東山のたむろは 永かったな 露りの行軍は 雨ばかり 蹄りたい 心は故郷に飛ぶ ふだん着をこしらえて くわを執ろう ごろごろイモムシが クワの畑に おれもひとり

職車の下でごろ寝していた 果漁之實 亦施ゴ予宇一 伊威在・室 蠣蛸在レ戸 町腫鹿場 熔耀宥行 亦可レ畏也 僻可レ懐也    三 我祖二束些 婚々不レ蹄 我來レ自レ東

零雨其藻 軒には カラスウリが下b・ 手コムシは床にはい アシダカグモは戸ロに巣を張っている 庭にはシカが來て遊び ホタルもちらちら飛んでいる ひどく荒れている けれどもわが家は懐しい 東山のたむろは 永かったな 蹄りの行軍は

雨ばかり

1 胴

   闘嘱

我祖二東山一 惜々不レ蹄

我來レ自レ東 零雨其濠 東山のたむろは 永かったな 齢りの行軍は

雨ばかり 鶴鳴二干摯 婦嘆二干室一 洒二掃鴛窒醐 我征皐至 コウノトリはアリ塚に鳴き 妻は部屋に泣いていよう 部屋を掃除して⁝・⁝: ああ おれは蹄つたのだ

有二敦瓜噛苦一 ゆらり昌ガウリが

詩経東山詩作者考

(2)

詩経東山.詩作者考

蒸在二栗薪

自一一我不τ見 干レ今三年

     四 我狙東些 憎々不レ蹄

我來・自L東 零雨其酒

倉庚子飛 燈耀其朋 之子煙感 皇駁其ビ馬

親結二其綱一

九二+其儀一 早送孔嘉

其蕾如レ之墨 画の薪に おれは三年も 妻の顔を直なかったのだ 東山のたむろ.は 永かったな 選りの行軍は 雨ばかり ウグイスが飛んで 嫁入り季節の春が來た この娘の嫁入りには クリゲウマにマダラウマ       リ  セ 母拡手すからぴれを結う この娘の式が倍もおごそかになるように 新しい妻もいいだろう

けれども添いなれた妻はもっといい

これは詩維︑びん風の詩︒

﹁序﹂には︑

﹁東山は周公東征するなり︒周公東征し三年にして露りて婦士をねぎら

  セ  む   ぬ  う  り  も  む     う  カ  も  も  も  も  ら  う  る  も

う︒大夫これをほむ︒故にこの詩を作るなり︒一章はそのまったきを       が

       なみじ

いうなりQ二章はその思うをいうなり︒三章はその室家の女を望むを

いうなり︒四章は男女の時に及ぶを得たるを離しむなり︒君子の人に

おけるや︑その情を序しその勢をあわれむβよろこぶ所以なり︒よろ   こびを以て民を使うとき底︑民その死を忘るとは︑それただ東山か︒﹂   ︵傍点︑筆者︶  とあって︑周公東征三年︑蹄士をねぎらうたのを︑大夫がほめて作った  ものであるとしている︒ひとり序のみならす︑古來の注澤の多くはみな  然りである︒例えばわが中村暢齋は序にいうところをさらに敷えんして︑  ﹁この詩︑序によりて考うれば︑首章は師を全うして麟り死傷のうれい   なきをいう︒二章は軍士未だ餓りっかすして家を思うことをいう︒三   章︑室家の夫を思い︑四章の男女時に及んで嫁動せんこと︑みなその   心の願うところにして敢て詞にいいいださざることなり︒しかるを︐   上の人︑下の人︑これを歓びこれに感ずるの情︑いかにとや云うべきQ   蓋し︑古の下をねぎらう情︑おおむねみなかくの如し︒その上下の間︐   情志たがいに信ず・ること︑家人父子たる者の相語るといえども︑これ   にごゆることなし︒この故に︑その君︑世をたもたるる︑蓮工みな激   十百年︑ときわかきわにして︑一旦にわかにくすれほろぶるの患なか   りしなりQ﹂ ︵詩経示蒙句解︶ と述べ︑清原宣賢は︑  ﹁此詩は周公の東征した事を作てあるぞ︒周公の樋政元年に東征したぞ︒   東夷三監を征せられたぞ︒征は正也で︑行いてた§す心ぞ︒ゆくと云   心は︑かりに用るもあるぞ︒こ﹂はただす心ぞ︒三年して瞬られたぞ︒   東征の時につきあるいた者ども︑ 士卒みな可レ然者どもであらうそ︒       り   周公の心を以て心とした物どもであらうそ︒是をねぎらはる﹂ぞ︒是

  も   ら   カ   も  し   も  ら   セ   へ   も

  をほめて大夫が作たぞ︒L︵毛詩抄︶へ傍点︑筆者︶  としているQ   けれども︑序に述ぶるところも︑暢齋︑宣賢その他の古來の註に述ぶ  るとごろも︑おそらくはこの詩の本義ではあるまい︒若しも盧心坦懐に  この詩を讃むならば︑周桑乏か大夫とか上の者が下の士卒をねぎらうた

 めに作ったものではなくて︑むしろ身自ら長きせい族の苦しみを味わっ

2

(3)

た東征の一兵士が自らの維験を通してその身に泌みる哀感をそのままに

歌い出 したものとするの當れ・るを知るであろう︒

 何故であるか︒

 以下しばらくその理由を述べて見よう︒

 先ずこの詩の表現を見よ︒なんとその廃園の妙を索くして切實である

ことか︒若しもただ上の者が下の兵士をねぎらうために作ったものであ

るとするならば︑どうしてかかる表現が爲し得るであろうか︒必ずや身・

を以て戦場の苦しみを経験したところのいわゆる職場経験者でなくては

決してかかる表現を爲し得るものではない︒

 以下︑例を暴げて読明しよう︒

 先ず第一章︒       り  も  も   えんえんたるもの しょく

  ひさしく桑野にあり

  たいとして彼ぴとり宿して

  また車の下に在り ・

 クワ畑をごろごろしているものがある︒なんだと思って見たら︑イモ

ムシだ︒こいつはメスにはぐれて︑しかも永いこと︑ここにこうしてう

ごめいているのだ︒ところが︑そういうこの俺もこのイモムシと同じこ

とだ︒−妻と離れて永いこと︑職車の下にごろ寝していることだ︒

 ごろごろクワ畑にうごめくイモムシを見て︑われとわが身を顧みかつ いとおしんでいる︼兵士の姿︒そして彼の心は遠く馳せて故郷の妻の上

にあった筈である︒彼の背景には折から夕日に照らされた河南の大平原       カ  も  も がはてしもなくひろがっていた︒漢の鄭玄︵ジヨウゲン︶は﹁しょくえん

えん然としてひとり行きて︑久しく桑野におり︒勢話する者に似たるあ

り︒﹂といっている︒これを詩維修僻學においては﹁興﹂の体という︒

 第二章︒

  う  も

  からの實      ︐

      詩経東山詩作者考 また のきにはい 伊威︵イィ︶室にあり

も  も  も  ぬ  ゆ  カ

しようしよう 戸にあり

  ていたんたる鹿場︵ロクジヨゥ︶

  ゆうようだる直行︵ショウコゥ︶

  また漁るべし

  これ懐うべし

 鄭玄は﹁この五者は家︑頑なきときは︑すなわち然抄︒人をして感じ

思わしむ︒﹂といっている︒

 これは第一章において︑戦場にあって﹁わが心︑西に悲しむ︒﹂といい︑

イモムシを見ては妻を思った兵士が︑やがて節り着いたわが家の檬で

ある︒それは女手ひとつにまかされていたために荒れに荒れていた︒けれ

共︑その兵士はいうのである︒﹁また畏るべし︑これ懐うべし︒﹂と︒何       も  や  わ 故であろうか︒それは荒れたる淋しさのなかにもほのほのと感ぜらるる

暖かきものがあるからである︒懐しき妻待つわが家であるからである︒

 第三章︒       にが   敦︵タイ︶たる瓜の苦きあり

  ぴさしくクリの薪にあり

  我見ざるより

  今に三年

 毛傳には﹁敦はなお專々のごとし︒黙は貴きなり︒言うこころはわが

心苦しむ︑事また苦しむなり︒﹂といい︑鄭玄は﹁これまた言うこころは

つま

婦︑その君子の居るところを思う︒隆々ば瓜の繋がり綴るがごとし︒瓜

の辮ににがきものあり︒以てその心の苦しきに喩うるなり︑丞州は塵︑栗       まきりり は析なり︒言うこころは君子また久しく析薪せしめらる︒事においても

っとも苦しきなり︒﹂といっている︒また清原宣賢は﹁敦は瓜のはびこる

3

(4)

      詩経東山詩作者考

体ぞ︒あそこごこへはいかかって︑ほしいままの体ぞ︒瓜のなかごがに

がいそ︒すぐにもなうて︑あそこごこへいたは︑苦越そうなよ︒又にが

 きね

い實もあるは︑夫の苦勢したに似たぞ︒蒸はもろもろぞ︒士卒が苦勢す

る体ぞ︒薪をして︑夜のかがりにもするぞ︒鄭玄は久しく薪をきって居

たぞ︒﹂︵毛詩抄︶としている︒

 すなわち第︼句は妻の苦しき心を述べ︑第二句は夫の苦しき事を描い

ている︒つまり瓜のつるがはいまわっているのを見て︑兵士の妻はわが

夫が職場にあって韓々輻戦する苦しみを思っては心を痛めていると歌

い︑また兵士は兵士でいつまでも戦場においてまき割りを績けていると

歌っている︑としている︒

 さらにあとの二句については︑毛傳にも減量にも注はないが︑清原宣

賢は﹁夫の見参に入らぬ事が︑はや三年になるぞ︒これが夫を思うた心

ぞ︒﹂︵毛詩抄︶として︑これまた妻の心を爲したものとしている︒

 けれ共︑果してそうであろうか︒わたしはこれとは意見を異にするも

のである︒

 第一章の戦場における苦しさと第二章の戦い濟んでやがて蹄り着いた

わが家の荒れ果てた淋しさののちにやがてζの兵士の眼前に浮かびあが

るものは︑かつて戦場においてこの兵士をして﹁わが心︑西に悲しむ︒﹂

と嘆ぜしめたその妻准のである︒そして兵士はその妻の顔を寒し眼前に

見て﹁我見ざるより︑今に三年︒﹂と積り積った感慨を一書に吐き出すの

である︒  古來の解澤の如く鱒﹁夫を思う妻の心﹂とするよりも︑かくの如く﹁露

り見る妻の懐しさ﹂と解した方がはるかに實感を以て讃む者の心に迫る

ではないか︒いわんやすぐ前に﹁わが征ここに至る︒﹂とあるにおいては

尚更であるまいか︒おそらくその兵士はすぐに績けて﹁おれは露つたの

  も  ぬ  ら  う  ね  う  う

だ︒夢ではないのだ︒﹂と絶叫したに相違ない︒

 さて三年ぶりに露り見た妻の萎はどんなであったろうか︒おそらくは 三年の留守を守るその苦勢のためにいためつけられていたに相違ない︒ 而もそのとき兵士の眼前に懐しくも浮かびあがって來るもの一それは      あ 馴れ妻のウグイス飛ぶ春の日の婚禮の暗れ姿であったのである︒それが

最一

魔フ第四章である︒

 以上倣この詩の表現であるが︑つぎにこの詩全体の構成につ恥て考え

て見よう︒

 先ず誰しも氣・ずくことは全篇四章そのいすれもがその第一小節におい

て︑

  われ東山に潔きしょり

  とうとうとして麟らす

  われ東より來たるとき   ふる雨それ覧たりき

の同じ句が繰り返されていることである︒

 そもそもこれはいかなる意味があるのであろうか︒

 なお見てゆくと︑全四章はこの同じ句で始まって︑そのあとに︑第一

章においては︑

  敦として彼ひとり宿して

  また車の下に在り   ず       も  の と︑特配における苦しみを追懐し︑第二章においては︑

  また肥るべし

  これ懐うべし        も  し  う と︑ようやく蹄り着いたわが家を懐しみ︑第三章においては︑

  われ見ざるより

  今に三年       カ  カ と︑妻とさかりいし年月を述懐し︑最後に第四章においては︑

  その薪しきははなはだよし

  .その奮きはこれをいかん

4

(5)

      も  も と︑わが妻の嫁入ゆの姿を回想しながら︑馴れ妻をよしと歌い納めてい るのであるが.この最初の繰り返しは兵士の現實行動の描爲であり︑各

章の結びは兵士の回想もしくは感動の表現である︒すなわちこの名もな

き一兵士の嘆きの表現は︐各章ともその初めに現實的行動描爲をおき︑

そのあとに回想幻想をおいたことによって封比の美しさをなして︑樹U

暦その表現を深め︑その感動を大ならしめているのである︒

 而もそれだけではない︒

 第一︑第二︑第三の章は暗い悲しみに沈んだ表現であるのに︑それら

に績く第四章にいたっては︑ありし日の結婚の回想を描くことによって︑

凶韓喩えばうつ蒼たる森蔭から陽光サンサンたる春の野に出ずるが如

く︑パツと明るい表現をしているのである︒これは彼の繍謹におけるクル

ーペンスの謁法〃すなわち周園の描爲を暗くすることによって中心焦黙

を鮮やかに浮きあがらせるあの手法を思わせるものであり︑ことに最後

の第四章における﹁倉庚ここに飛ぶ︑ゆうようだるその羽﹂に至っては︑︑ 軍なる美しさを通り越して一種の妖しきまでの美しさをすら⁝帯びてい

る︒而してさらに最後に至って︑ ﹁その新しきははなはだよし︑その奮

きはこれをいかん︒﹂と現實感情を据えることによって︑全篇にドツシリ

とした安定感を與えているところに至っては︑實に心にくきまでの表現.

である︒これは︑いいだろうか悪いだろうかではなくて︑實にいいの意

味であること勿論である︒今日まで或は苦しみ或は悲しみ或いは嘆き來

つた兵士はここにおいてわが妻のもとに蹄り得て自由と亭和のうちにわ

れとわが身を見出すのである︒その喜び︑その明るさは果していかばか

りであろうか︒

 またこれを思想的に見るならば︑この詩は職絡って妻のもとに臨つた

喜びを歌ったものであろうのに︑而もその喜びは明るい喜びではなくて︑

深く胸の底に沈んだ喜びであるのは何故であろちか︒それは詩の技法の

見事さとともに︑苦しみにうちびしがれた者が喜びも喜びとして味わう

      詩経.東山詩作者考 ことができす︑ただ苦しみの窓を透してのみその喜びを見ようとする︑ さらにいうならば︑大いなる名倉の前に小さぎおのれのいのちをいとお しみっつ生きて行こうとする者に見らるる哲學的冥想と宗教的諦槻の故 であると思う︒  かく考うれば︑この詩の心は測々として尤む者の心に泊らすにはいな いと思うのであるが︑若しも果して庵りとするならば︑自ら戦場の苦し みを経験したこともなき上の者に果してよくかくの如き詩が爲し得るで あろうか︒ ﹁序﹂に述ぶるが如く︑ただ軍に上の者が下の者をぬぎらう ために作った詩が果してよくかくの如き實感のこもった詩であり得るで あろうか︒漸じて否である︒  ここにおいてか︑私は次の如く噺ぜざるを得ないのである︒  ﹁詩経東山の詩は名もなき一兵士の作った詩である︒周面の東征に従った名も  なき一兵土が自らの戦跡経験抽通してその身に窪みる哀感なそのままに歌い出  したヒューマニズムそのものの詩である︒﹂と︒        i中国文.学1

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