テレビ研究における民族誌的 アプローチの再検討
A Methodological Review of the Ethnographic Approach to Television Research
祐成 保志
近年,テレビ視聴の多様化が進むなかで,従来の調査方法によって視 聴の実態をとらえることの困難が意識され,新しい方法としての「民族 誌的アプローチ」に対する関心が高まっている.本稿は,この分野での 古典といえるいくつかの研究から,英語圏における民族誌的テレビ研究 の視点と方法,およびそれに対する批判について検討する.このような 基礎的な作業を経て浮かび上がるのは,必ずしもマス・コミュニケーショ ン研究に限定されない,「テレビ研究の文脈」である.
1.はじめに
⎜ テレビ視聴の「文脈」
近年,テレビ視聴の「文脈」(context)に 関する議論が活発になっている.それと同時 に,テレビ視聴をとらえる新しい調査方法に ついての関心も高まってきた.
例えば,『放送研究と調査』(NHK放送文化 研究所)に掲載された「『テレビを見ること』
にどう迫るのか」(小林ほか,2005)というリ ポートは,科学的世論調査,すなわち「代表 性のある調査サンプルに,入念な概念的定義 を散りばめた質問と回答肢を提示し,それに 対する反応に統計学的操作を施して得られた 関係性を基盤に,第三者的分析者の立場から 理論を構築していく」(小林ほか,2005:51)
という方法の対極に「エスノグラフィック・
リサーチ(民族誌的調査)」を置き,その展開 を試みている.民族誌的調査の利点は,科学 的世論調査で抽象化・一般化を経て把握され るテレビ視聴の「外形的可視的形態」ではな
く,その「日常的・経験的特性」に迫ること ができるところにあるという.日本における 科学的世論調査・社会調査をリードしてきた NHK放送文化研究所の機関誌において,こ うした議論が展開されるところに,一つの方 法論的な転機を見ることができるのかもしれ ない.
小林らも言及しているように,日常の生き られる経験のなかでテレビ視聴をとらえるた めの視点と方法は,1980年代以降,イギリス を中心として展開された「カルチュラル・ス タディーズ」と総称されるメディア研究のな かで形成されてきたものである.R・シルバー ストーン(Silverstone,Roger),D・モーリー
(Morley,David),I・アン(Ang,Ien)らの 重要な論考が詳細な解題とともに翻訳され
(吉見編,2001),民族誌的なオーディエンス 研究についてのレビューが積み重ねられるな ど(小林ほか編,2003),英語圏での研究動向 にたいする見通しはかなりよくなっている.
ただし,実際に経験的調査を行う場合のモ
SUKENARI Yasushi 札幌学院大学社会情報学部
デルとなるべき民族誌的モノグラフのなか で,書籍として翻訳されたものはない.書籍 のごく一部分の翻訳や概説論文からは,調査 の具体的な手法や,得られた知見の細部まで を知ることは難しい.これは,われわれ自身 がいわば徒手空拳の状態でテレビに関する実 証的研究を模索するなかで痛感したことであ る .むろん必要に応じて原著をひもとけば 済むことではあるが,いわば調査の手引きと しての簡便さを求めるならば,容易にアクセ スできる状態に近づけておくことの意味は小 さくない.
本稿では,このような問題意識から,いく つかの重要な研究から,英語圏における民族 誌的テレビ研究の視点と方法を検討する.ま ず,テレビ視聴調査において「危機」が意識 され,それに対応すべくテクノロジーが進展 するなかで浮かび上がった逆説について考察 したアンの論考を取り上げ,テレビ視聴の文 脈が着目されることの意味を考える.続いて,
テレビ視聴の文脈のなかでももっとも重要な 家族の生活を主題化したモーリーの研究,お よび,よりマクロな文脈まで射程に収めたシ ルバーストーンの理論的考察に着目する.さ らに,こうした研究の背景として,現代社会 を対象とした人類学的研究の蓄積にも言及す る.一方で,民族誌的アプローチに対する批 判も登場している.そのなかからアンの議論,
および心理学の立場から行われたクービーら の研究を取り上げる.本稿が試みた基礎的な 再検討(それは網羅的・体系的とは言いがた いものであるが)を通じて浮かび上がるのは,
必ずしもマス・コミュニケーション研究に限 定されない,「テレビ研究の文脈」である.
2.テレビ視聴は「測定」できるのか
⎜ 技術革新がもたらす逆説 2‑1 オーディエンスの相対的自由
⎜ テレビ視聴の「戦術」的性質 アンは,『リビングルームの戦争』(Ang,
1996)の「新技術,オーディエンスの測定,
そしてテレビ消費の戦術」と題する章におい て,オーディエンスの測定そのものがもって いる困難について論じている .
視聴者の数,またはオーディエンスのサイ ズを把握しようとする試みは,産業側の要請 にもとづいている.テレビ局と広告主は構造 的相互依存の関係にある.すなわち,テレビ の視聴(消費)は「番組の視聴(消費)」と「CM の視聴(消費)」という二つの意味をもつ.こ の二つは互いにもう一方を前提としている.
このことは,テレビ番組の商品価値について 合意を図る上での不可欠な前提条件である.
そして,この合意はオーディエンスの測定を 間に挟むことによって成り立つ.しかし,測 定の目標であるテレビの視聴率(=視聴者数)
と,例えば映画の観客動員数とでは意味が まったく異なる,とアンは述べる.
まず,家庭はプライバシーと密接に関わっ ているがゆえに,外からはコントロールでき ない領域である.さらに,テレビは単に家庭 空間(domestic sphere)に物理的に設置され るだけでなく,そこで展開される生活のなか へ受容され,統合される.「テレビ視聴という 習慣を『日常化』(normalize)させるべく絶 え間なく続くとりとめのない(discursive)実 践が,それを取り巻いてきた(取り巻いてい る)」(Ang,1996:55).テレビは真空状態のな かで視聴されているのではない.
アンは,テレビ視聴がもっている「戦術的」
(tactical)な性質に着目する.それは,「無数 の予測不能で野放図なテレビの使い方からな る日常的実践」である(Ang,1996:55).この 戦術によって,テレビを正しく,意図通りに 見させようとする産業側の戦略は骨抜きにさ れる.テレビに関わる新しい技術の家庭への 浸透は,そのような戦術を拡散させることは あっても,弱めることはない.
「アメリカのNielsenやArbitron,イギリ
ス・欧州のAGBといった調査会社によっ て実行され,定着しているオーディエンス の測定は,『テレビのオーディエンス』の客 観的なサイズを割り出すことができるとい う仮定に基づいた調査実践である.しかし,
ケーブル,衛星放送,VTRといった新しい テレビ技術の導入により,テレビの供給構 造には変化が生じた.このことが,テレビ のオーディエンスが測定可能であるという 仮定を危機に陥れたのである.[…]このこ とは,『テレビを見る』という行為が概して 家庭のなかの(domestic)消費実践である という事実と関わっている.したがって,
それはこれまで想定されてきたような一次 元的(つまり測定可能)な行動などではな い.」(Ang, 1996:54)
映画と違ってテレビのオーディエンスは自 分の見たくないものから目をそらすことがで きる.テレビ視聴者は,テレビがついている ときも,家の中を歩き回ることができる.画 面を見続けさせる強制力はなく,いつでも自 分のしたい別のことへ注意を向けることがで きる.これは,テレビ視聴にもともと備わっ ている性質である.ここで,テレビがプライ ベートな場所で見られているという事実は,
産業側にとってはきわめて好都合だった.放 送・広告業界は,家庭での戦術に対して「計 算された無知」(Ang,1996:55)を働かせるこ とで,自らの利益を守ることができたからだ.
こうしたテレビ視聴者の「相対的自由」への 認識は産業のなかではタブー視されてきた し,ある時期までは,無視しようと思えば無 視できるものであった.
2‑2 不確実さの増大と新たな測定技術の模 索
オーディエンスの測定のために,主に二種 類の方法が用いられてきた.「日記式」と「メー ター式」である.メーターによるデータが示
すのはスイッチがついているテレビの台数に すぎないが,このデータが「総視聴率」(gross ratings)のベースとなる.一方,日記式は,
サンプルになった世帯の視聴者の積極的な協 力と,記入にあたっての訓練が必要であるた め,集めるのに手間がかかるものの,特定の 番組のオーディエンスについての基本的な属 性情報を得るために用いられる.
アンは,これらの方法が,ストレートな行 動主義的認識論の上に成立していると指摘す る.つまり,「『テレビ視聴』は単純で,一次 元的で,純粋に客観的で,他の行為と分離可 能な行為であると,暗黙のうちに定義されて いる」(Ang,1996:56).メーター式調査では,
実際に番組を見ているかどうか,ましてやそ の番組に対して人々がどのような感情や態度 を持っているのかは分からない.「オーディエ ンスの測定に関わる情報が視界から消し去っ たのは,視聴率の背後にある『生きられた現 実』についての考察である」(Ang,1996:56).
そこでは,「視聴率言説は,テレビの消費を,
一貫した視聴習慣とルーティンからなる組織 化された,訓練された実践へと変えてしまう」
(Ang,1996:56).典型的な視聴者像は,放送 業界にとっても広告業界にとっても好都合で ある.このような状況がテレビ放送開始以来,
何十年か続いた.
しかし,アメリカでは 1970年代半ばから,
テレビをめぐる風景が一変する.独立放送局 の増加,ケーブルテレビと衛星放送の登場.
1987年までに,49%のアメリカ家庭がケーブ ルシステムに接続し,27%の家庭が一つ以上 の有料チャンネルと契約していた.また,
VTRの普及率は 1987年には約 50%に達し た.選択肢の多様化に伴い,視聴率データの 妥当性が疑われるようになった.「その結果,
産業のさまざまな部門では,オーディエンス に関するより精密な情報を求めはじめてい る」(Ang, 1996:57)
こうして,従来の測定方法の限界は誰の目
にも明らかになった.例えば,チャンネル数 の増大は,日記式固有の問題を浮き上がらせ た.日記式ではもともと若年層がまじめに答 えない傾向があるので,若い世代をターゲッ トとするMTVなどにとっては不利になる.
また,リモコンによる「ザッピング」の広が りは日記式調査を困難にする.VTRを用い た「タイムシフト」や「ジッピング」(CMと ばし)は,注意深く組まれた放送スケジュー ルを揺るがせる.新しい技術を通して,テレ ビの消費がもともともっている戦術的な性質 が姿を現わしてきたのである.
より正確で詳細な情報に対する要求の高ま りに対する一つの解決策として,1987年に登 場したのが「ピープル・メーター」であった . メーター式と日記式の利点を融合するものと さ れ る こ の 方 式 で は,単 な る 電 源 のON/
OFFだけでなく,個人ごとの視聴を記録す る.視聴者は番組の視聴を開始するとき,リ モコンのような形をした携帯式キーパッドの ボタンを押し,見るのをやめたとき,再びボ タンを押す.サンプル世帯の成員全てに個人 別のボタンが割りあてられている.この方式 では,VTRも含めたテレビ視聴行動の全範 囲を射程におさめることができる.また,各 メーターと中央のコンピュータは電話線でつ ながれており,そこに蓄積された年齢,性別,
収入,人種,学歴といった基本的な属性情報 と視聴行動とを関連づけることができる.
もっとも,それまで見えなかった視聴行動 の細部を明らかにすると期待されたピープ ル・メーターも,決して完成度の高い測定法 ではなく,日記式と同様,かなりの程度対象 者の協力を必要とするという問題を残してい る.そこで,画面の前で誰が見ているか,そ し て 何 人 見 て い る か を 自 動 的 に 感 知 す る
「パッシブ・ピープル・メーター」の開発が急 がれるようになった.
家の中ではテレビをめぐる風景がますます 不確実になっている.そこで,不確実さを縮
小させるために,誰が何を見ているのかを四 六時中正確に記録し続ける測定技術が求めら れる.一見,このような技術革新は問題の解 決をもたらすように見える.しかし,アンは
「こうしたプラグマティックな解決策の底に は,認識論的なパラドックスが潜んでいる」
(Ang, 1996:60)と指摘する.
2‑3 視聴の文脈への関心
技術革新がもたらす逆説とは,新しい測定 技術の視線の下に置かれることで,行動の明 確さがかえって失われてゆくということであ る.ジッピング,ザッピング,タイムシフト といったもの以外にも,さまざまな「戦術的 作戦行動」(tactical manoeuvres)がある.
測定技術が向上すればするほど,それらを「な かったこと」にするのは難しくなる.
「結果として,テレビの電源がついているこ とが視聴と同じであるとか,テレビを見る ことが画面に注意を払っていることを意味 するとか,番組を見ていることがCMを見 ていることを示唆するとか,CMを見るこ とが実際に宣伝されている商品の購入につ ながるといった便利な仮定 ⎜ それは伝統 的なオーディエンス測定において基本的な ロジックであり,実利をともなう戦略でも あった ⎜ は,も は や 成 り 立 た な い.」
(Ang, 1996:61)
つまり,技術の限界は正確さが欠如してい るという点にあるのではない.テレビの消費 を,客観的に測定可能な変数に分解できるよ うな行為ととらえること自体に無理がある.
それはもともと不確実な要素に満ちたもので あり,「日常生活の文脈におけるテレビの使用 を測定することは,究極的には不可能」(Ang, 1996:61)なのである.
アンは,こうした問題を早くから提起して いた研究として,1970年代にR・ベッチェル
(Bechtel, Robert)らが発表したリポート
(Bechtel et al, 1972)を挙げている .彼ら の結論は,テレビを「見ている」状態と「見 ていない」状態を区別することはできない,
という挑発的なものだった.つまり,テレビ を見ている時間を特定するために,日記式調 査票に記入させたり,ボタンを押したりさせ るのは,原理的にはナンセンスだということ だ.他の行為から分離可能な「テレビ視聴」
なるものがそもそも存在しないとすれば,い かにしてそれを「測定」することができるの だろうか.
広告業界においても,視聴率に対する根本 的な懐疑が生じた.いくら詳細に視聴率を調 べてみても,CMの効果そのものは分からな いのではないか,という(考えてみればあた りまえの)疑いである.Arbitron社が開発し た「Scan America」のような「単一情報源」
(single source)方式は,サンプル世帯のテレ ビ視聴行動だけでなく,商品購入行動もあわ せて測定するというものである.これもまた 対象者の積極的な協力を求めるものである が,同一の対象者から消費に関わる膨大な情 報が得られるという点が大きな評判を呼んだ という.
消費の実態に迫ろうとする試みのなかで,
テレビ視聴を孤立した行動として概念化でき ないということが広く知られるようになる.
アンは,産業においても,質的(qualitative) な方法,あるいは広い意味での「民族誌的」
な方法への関心が高まっていると指摘する.
「このような民族誌指向は,通常の調査では 探りあてるのが難しい消費者行動の細部に わたる『実態調査』を行うために文化人類 学者を起用するという,アメリカその他の 広告調査業界で生じているより広い動向と 軌を一にしている.これは,批判的文化研 究において民族誌的方法が広まっていると いうことを踏まえると,興味深く,また考
えさせられる動向である」(Ang,1996:63).
テレビに関連する技術の進展と視聴率計測 技術の革新を通じて,日常生活のなかに埋め 込まれた行為としてのテレビ視聴の性質が明 らかになってきた.むろんアカデミックな調 査と商業的な調査では,その目的や役割が異 なっている.しかし,消費の実態に迫ろうと する産業側の模索は,オーディエンス研究が 培ってきた視聴の文脈への視点と重なりつつ ある.
3.視聴の文脈としての家庭
⎜ ジェンダーによる差異 3‑1 家族間の相互作用
モーリーの『ファミリー・テレビジョン』
(Morley,1986)は,民族誌的モノグラフの古 典として,オーディエンス研究を論じる上で,
必ずといっていいほど言及される文献であ る.『ネーションワイド・オーディエン ス』
(Morley, 1980)の限界を自ら乗り越えるべ く,家族のコミュニケーションに関する研究 を吸収しながら,家族関係がテレビ視聴のパ ターンにどのような作用を及ぼすのか,とい う問題設定を提示した.
モーリーの研究の出発点は,人々が自ら表 明する番組の好みと,実際に見ている番組が 食い違っているという事実である.それは,
番組の選択に,個人の好みだけでなく「他者」
の影響がおよんでいるためである.この場合 の他者とは家族に他ならない.
「要するに,私たちは,家庭生活の文脈のな かのテレビ視聴について議論しているの だ.家庭生活は,私たちすべてが知ってい るように,かなり複雑なものである.番組 を選択する視聴者それぞれを,完全自由市 場における合理的な消費者のごとく取り扱 うことができるなどと期待するのは,家族 のなかで暮らしている人々を対象にする限
り,実にばかげたことである[…].結局の ところ,多くの人々にとって,視聴はSean Cubittの言う『リビングルームの駆け引
き』の文脈のなかで生じている.」(Morley, 1980:19)
ベッチェルらのリポート以来,テレビを家 庭という自然な状況において研究する必要が 論じられるようになり,家族または仲間集団 を分析ユニットとした研究アプローチや,テ レビを前にした家族の相互作用に着目する研 究が広まった.モーリーは,こうした動向を 踏まえた上で,H・バウジンガー(Bausinger,
Hermann)の議論を参照しながら,家族との
コミュニケーションのなかでテレビが果たす 役割について考察している.テレビのスイッ チを入れることは,必ずしも「何かを見たい」
ということを意味しない.「誰とも話をしたく ない」ということを意味する場合もある.あ るいは,誰かとテレビを見ることが,テレビ の内容への興味からではなく,その誰かとの 共通の話題や接点を確保するための試みであ ることもある.
モーリーは,バウジンガーが示した家庭に おけるメディア消費に関する5つの留意点を 挙げている(Morley,1986:20).すなわち,
①他のメディア,あるいは「メディアのアン サンブル」を考慮に入れなければならない.
人々は,さまざまなメディアの内容を統合し ている.②メディアへの集中の度合いは時間 帯によっても変化しており,また,メディア のメッセージは他のメッセージと競合してい る.③メディアに関する決定は非メディア的 な条件や決定によってたえず左右されてい る.④メディアの消費は孤立した個人的なプ ロセスではなく,集合的なプロセスである.
⑤メディア・コミュニケーションは対面的な 個人的コミュニケーションと切り離すことが できない.メディアへの接触は話の種(mate- rials for conversation)となる.
⑤は,テレビの登場が「会話術」(art for conversation)を衰退させたという議論に対
する批判となっている.また,テレビが家庭 に対して与える破壊的な影響だけを考えるだ けでなく,テレビがどのように家族の会話の 中心や焦点を構成する働きをしているのかを 検証することができる.
「テレビを,家族の成員同士が出会うための アリバイあるいは文脈を提供するものとし てとらえることができる.彼らがいっしょ に見ているテレビ番組の内容が,会話のた めの共通の経験基盤(a common experient-
[i]al ground)の役割を果たしているにす ぎないことも少なくない.このような場合,
テレビは単なるエンタテインメント以上の 何かとして使用されている.それは,他者 との社会的相互作用に参入するための焦点 あるいは方法として用いられている.そし てテレビは,家族の相互作用を阻害するど ころか,家族内の相互作用の機会を作った り,互いに相互作用をする文脈を形成した りといった目的のために,つまり,会話の 参照点,前提,素材,内容を提供するため に用いられる」(Morley, 1986:22)
これまでテレビの「効果」に関する研究は 視聴者個人を調査単位としてきた.その前提 となっていたのは,テレビから個人への直接 的な効果を想定する「線形的」なモデルであ る.これに対してモーリーは,I・グッドマ ン(Goodman,Irene)による家族のコミュニ ケーションについてのシステム論的研究をも とに,テレビの効果が家族に媒介されており,
家族が個人とスクリーンの間で「フィルター」
として働くという論点を提示する.
テレビは,家族によって利用される.家族 は個人の総和以上のものである.視聴行動は ライフサイクルを含めた「家族生活過程」
(family process)と関連している.グッドマ
ンが着目するのは,行動の領域を統御する ルールまたは原則がいかにしてつくられ,協 議されるのか,という点である.ダイニング・
テーブルの食事習慣などと同じく,テレビは,
このプロセスを観察するにあたって適切な素 材を提供してくれる.しかも,家庭のなかで テレビが中心的な位置を占めるようになった 以上,テレビ視聴をめぐるルール設定,意志 決定,対立,統制といった現象は,家族生活 過程のなかでもとくに主要な局面を形成する ようになっている.
家族はルールによって統制されたシステム であり,その分析のためには家族生活の統制 原理を解明しなければならない.例えば,家 族においてはテレビ番組に関する「禁止ルー ル」が定められる.子どもに対する罰として テレビを見せなかったり,逆に,報酬として 見せてあげたりする.大人の間でも,妻に対 する腹いせに,夫がわざと妻の嫌いなスポー ツ中継を見たりする.仕事でいやなことが あって家族と話したくないと思えば,テレビ をつけることで家族の文脈から「チャンネル を切りかえる」(tune out)こともある.さら に,テレビに関わるルールや意思決定手続き は変化する.とりわけ,子どもの生育や家族 の必要に応じて更新される.
こうした視点によって,子どもに対するテ レビ番組の「影響」についても,別な論じ方 が可能になる.焦点は子ども「個人」ではな く,家族のなかで暮らしている子どもである.
したがって,家族内の役割がテレビ視聴にあ たえる影響こそが検証されなければならな い.この点に関して,モーリーはテレビ視聴 中の反応の度合いに関する研究結果を紹介し ている.それによれば,子どもは,アニメ番 組を見ているとき,他の家族からの呼びかけ に対する反応が鈍くなる.一方,父親はニュー ス番組を見ている時に同じように反応が鈍く なった.しかし,母親はどんなタイプの番組 を見ていてもすぐに反応し,親としての役割
を維持していた.家族の相互作用において,
母親には「管理人」「監視者」の役割が,父親 には子どもの「遊び仲間」としての役割が想 定されている.こうした役割の配分または行 為の規範を無視してメディアの効果を論じる ことはできないのである.
そもそも,テレビが家族の会話のための共 通基盤を形成するということは,テレビ視聴 が社会生活を代替するというより,むしろ補 完する役割をもっているということを意味す る.視聴者は社会関係から切り離された個人 としての消費者ではない.テレビ視聴それ自 体が社会的活動として行われている.「テレビ を見ることは,視聴者が生活を形づくる社会 関係,なかでも家族の,あるいは家庭におけ る関係の一部分(しかも本質的な部分)とし てとらえられる.」(Morley, 1986:31)
3‑2 テレビの「社会的使用法」
続いてモーリーが参照するのはJ・ラル
(Lull,James)の研究である(Lull,1980a).
ラルは 1970年代のベッチェルらの研究から,
家族のライフスタイルのなかのテレビ視聴を とらえるという姿勢を継承し,テレビの「社 会的使用法」を明らかにしようとする.
テレビはコミュニケーションを促進させる
「環境的リソース」(environmental resource) として用いられている.大人も子どもも,何 かを説明するときにテレビで見たものを引き 合いに出す.子どもは,大人の会話に加わる ときにテレビを使う.あるいは,テレビを使 うことで,長時間目を合わせることや,会話 が途切れることへの不安を緩和する.家族の 間で,いっしょに笑ったり泣いたり怒ったり 知的な刺激を受けることで連帯感が得られ る.会話が減ったように見えても,家族の親 密さは増している.そこではテレビの「内容」
は二の次であり,最も重要なのは,膝をつき 合わせてテレビの前に座るという事実それ自 体である.
ラルによれば,社会的使用法は,「構造的次 元」と「関係的次元」という二つの次元をもっ ている.構造的次元については,「環境として の使用」(背景の音,親しい関係,エンタテイ ンメントを提供する)/「制御するための使 用」(時間と活動,話題に区切りをつける)と いう二つの使用法を挙げている.関係的次元 は,「コミュニケーションの促進」(具体例,
会話の共通基盤の提供)/「協力・回避」(身体 的,言語的接触,家族の連帯感)/「社会的学 習」(役割モデル,価値の継承,情報の普及)/
「権限・統制力の誇示」(役割の設定と再強化,
出入りの監視)からなるが,それぞれの家族 によってどれを主に用いているかは異なる.
さらに,ラルは家族についての二つの類型 を示している(Lull,1980b).一つ目の「社会 指向家族」では,親は子どもに対して,他の 家族成員や友人とうまく付き合っていくよう に,対立を起こすよりも譲歩するように求め る.もう一つのタイプは「概念指向家族」で,
親は子どもが自分の考えを表現し,他人の意 見に挑戦するようなコミュニケーション環境 を整える.前者は他人の感情に,後者は考え の表明や議論に重点を置く .
それぞれのタイプの家族では,マスメディ アの使用法に違いがある.社会指向家族では 総テレビ視聴時間は長いが,ニュースの視聴 は低調である.逆に,概念指向家族ではマス メディアはまずニュースを得るためのもので ある.「現実逃避」やエンタテインメントの要 素は少なく,テレビ視聴時間も相対的に短い.
彼らはマスメディアで取り上げられている問 題に対する独自の視点を明らかにすることに 価値を置いており,それらに反対意見を述べ たり,論争を挑んだりすることも妨げない.
逆に,社会指向家族では調和が重視される.
子どもは自分の考えを表明することを控える ように言われる .
ラルの議論のポイントは,テレビ番組を選 択しているのは誰か,という問題である.人々
はしばしば自分で選んだのではない番組を見 ている.ラルの調査 では,テレビの番組選 択をコントロールする人物として,父親を挙 げる人がもっとも多かった.また,子どもと 母親はそのように父親を見ているが,父親自 身はあまり自覚していない.実際,父親はそ の妻の二倍以上,番組選択をコントロールし ている.子どもが父親に次いで電源のON/ OFFやチャンネルの決定を左右しており,
もっともテレビの操作に関与していないのは 母親である.家族内の力関係が示されたわけ だが,この点はモーリー自身の調査でも裏付 けられることになる.
3‑3 家族内の力関係とテレビ視聴
モーリー自身の調査は家族に対するインタ ビューから構成されている.『ネーションワイ ド・オーディエンス』では,インタビューは 家庭の外で行われた.それは「『自然な』視聴 の文脈」(Morly,1986:40)から引き離された ものだった.これに対して,『ファミリー・テ レビジョン』では,対象者の家庭でインタ ビューが行われた.対象は,南ロンドンのあ る地域から階層ごとに数家族ずつ選ばれた計 18家族である.まず両親にインタビューを行 い,後に子どもたちも議論に加わった.すべ て白人であり,労働者階級と下層中産階級に 分類される人々である.
モーリーの問題意識の中心は家族内の力関 係,とりわけジェンダー的な関係であり,調 査から得られた知見は次のように整理されて いる.番組選択に及ぼす力とコントロール/
視聴スタイル/計画された(されない)視聴/
視聴時間/テレビに関する会話/ビデオの使 用/「単独」視聴と後ろめたい愉しみ/番組の タイプに対する好み/チャンネルに対する好 み/全国ニュースとローカルニュース/コメ ディに対する好み.
例えば視聴スタイルでは,男性は,邪魔さ れず最初から最後まで見のがすことなく見た
いと言う.これに対して女性にとってテレビ は,何かをしながら見るものである.そもそ も女性は,同時に何もしないでただテレビだ けを見ることは時間の浪費であると感じてい る.また,男性は新聞などで事前に放送され る番組をチェックして見るものを決めるが,
女性でこのようなことをする人はごくまれで あったという.
視聴時間では,明らかに男性(夫)の方が 長い.「F 12女性『いつも言ってるの.あの 人はテレビ中毒だって.一日中見てるんだか ら.』」(Morley,1986:154)「F9男性『相当 な時間,テレビ(telly)を見てるよ.テレビ は家にいるときずっとついてる.夜中もテレ ビ見てるし,仕事から帰ってきたらスイッチ を入れるね.習慣みたいなもんだよ.』」(Mor- ley,1986:154)女性は続けてみている特定の メロドラマ(soap opera)を除いて,あまり テレビに関心を示さない.このことは,女性 の方が見ている時間が長いと答えるという通 常の調査結果と矛盾する.女性たちはテレビ の前やそばにいるのかもしれないが,他の家 事などをかかえているので,集中して見てい るわけではないということを示している.
自分一人でビデオデッキを操作する女性は 皆無であった.「F2[家族番号]女性『見た いものはあるんだけどビデオってよく分から ないの.あの子[娘]は私よりよく知ってる けど』」(Morley,1986:158).「F9女性『ビ デオは使えないわ.あの人のために〝未亡人"
を録画しようとしたんだけど失敗しちゃっ て.そしたらとっても怒るのよ.何をどう間 違ったんだかも分からなくて.…自分じゃで きないからいつもあの人に頼むんだけど.私 はいつも失敗するの.でも,一度も気にした ことないわ』」(Morley,1986:158).モーリー は,ビデオデッキが使えないのは技術的な問 題というよりは,それに対して疎外感をもっ ているからであると指摘する.なぜなら,女 性は家事に関わるテクノロジーであれば,か
なり複雑なものでも使いこなしているからで ある.そして,男性を頼りにすることで伝統 的な女性性を示すための「計算された無知」
であるという見方も示している.
ニュースに興味を持つのはもっぱら男性で ある.しかし,ローカルニュースが好きだと いう女性は少なくない.地域の事件や家庭内 の責任に関連するニュースには関心を示す が,トップニュースになるような中央の政治 や国際問題は自分とは無関係だと思ってお り,ニュースも見ない.「F9女性『ニュース が見たいときもあるわ.何かが起こったよう なとき,小さな男の子が行方不明だとか,そ の子の身に何かが起きたとか.そうじゃなけ れば見ない.ローカルだったらいいってわけ じゃなくて,ローカルで何かが起きていると きだけ.』[…]『〝ワールド・イン・アクショ ン" とか〝パノラマ" とか,そういうのは全 部耐えられない.いっつも戦争ばっかり.神 経に障るのよ.そうでしょ.』」(Morley,1986:
169)
われわれは,こうした家族のなかのテレビ 視聴についての細部にわたる記述から,さま ざまな示唆を得ることができる.もっとも,
『ファミリー・テレビジョン』に関しては,家 族関係の内側にのみ照準し,なかでもジェン ダー関係に特化した点,また,きわめて小さ く,また偏ったサンプルである点など,限界 や課題は多い.しかし,彼自身「パイロット 調査」と呼ぶように,この研究は問題意識の 明確化と視点の提示を目的としたものであ り,何らかの結論的な知見を得るためのもの ではないことに留意しなければならない.
4.テレビ視聴の人類学
⎜ ドメスティケーションとしての消費 4‑1 テレビはどんなテクノロジーなのか
シルバーストーンの『テレビと日常生活』
(Silverstone,1994)は,テレビ研究を現代社 会の総体的分析のなかに位置づけた野心的な
著作である.
彼のメディア論については,R・ウィリア ムズ(Williams,Raymond)の『テレビジョ ン ⎜ テクノロジーと文化形態』(Williams, 1974)を継承した「モバイル・プライバタイ ゼーション」という論点,日常生活を「home/ family/household」の重層と捉える視点,郊 外化とテレビの内在的な関係の指摘,など,
どれも日本のマス・コミュニケーション研究 の文脈のなかでたびたび言及されてきた.た だし,シルバーストーンのテレビ論がテレビ を対象とした研究であるのみならず,テレビ を通じて現代的な社会と文化の形態を明らか にする試みであるという点は改めて強調しな ければならない.まずテレビありきではなく,
現代社会における日常生活を把握するより大 きなプロジェクトのなかで,テレビに戦略的 に重要な地位が与えられている.
「ラジオは,1920年代以降『耐久消費財』と して知られることになる,自動車,バイク,
カメラ,家庭電化製品といった一群の製品
(第一義的には別の技術)のなかに場所を得 た.この一連の技術は,モダンリビングを 作り上げるおなじみの物質的かつ象徴的な 構造材(fabric)の開発と軌を一にして形成 された(ウィリアムズは注意深く因果論を 避けている).この構造材は,ウィリアムズ の観察によれば,二つの矛盾する,しかし 強固に結びついた傾向を持っていた.モビ リティ(もちろん自家用車が鍵となる)と 自足性を強める家族のためのホームであ る.」(Silverstone, 1994:53)
ウィリアムズが指摘したように,鉄道と街 灯というパブリックなテクノロジーに代わっ て,自動車に象徴される「いまだふさわしい 名称が与えられていない」ライフスタイル,
すなわち,「移動性が高いと同時に住居を中心 とする生活」(at once mobile and home
centered way of living)が出現する.それは また,余暇や週末といった特異な時間をも作 り出す.「放送」と「郊外」は,この移動性の 上昇と住居の中心化という強力な傾向の社会 的産物である.
こうしてテレビ研究は,マス・コミュニケー ション研究の狭い枠を超えて,余暇・週末と いう時間の形成,住居の延長としての自動車 の普及,住居の独立性の上昇と電子的コミュ ニケーションによる結合,電話を通じた主婦 のネットワーク,映画観客動員の減少とDIY への投資,メディアを通じた「家にいるとい う感覚」(at-homeness)の強化,といった社 会の時間的・空間的・ジェンダー的編成につ いての議論へと展開してゆく.
「もはやテレビを,それを支え,それに向 かって織り合わされてゆく技術,そして生 産・消費の両面においてより複雑な文化 的・産業的全体に統合してゆく政治経済的 構造を考慮することなしに,単なる文化装 置,文化産業として考察することはできな い.同様に,テレビのテクストを,潜在的 かつ現実的に社会的・文化的関係を変容さ せうるテレビのテクノロジーとしての性質 を考慮することなしに考察することはでき ない.」(Silverstone, 1994:80)
テレビ(放送と郊外の文化)は,例えば,
大型航空機の飛行や原子力の利用を可能にす る よ う な「遠 隔 技 術 シ ス テ ム」(tele- technological system)の一環として捉えら れる.テレビの自明性,つまり家の中でテレ ビを見るという出来事をあたりまえのものと して成立させる複合的なテクノロジーの考察 は,テクストのエンコード/デコードといっ た言語的・通信的なプロセスだけでなく,日 常生活への埋め込みという身体的(マテリア ル)なプロセスへと目を向けさせる.そこで,
人類学,とりわけマテリアル・カルチャー研
究と総称しうる知的蓄積を踏まえた「ドメス ティケーション」(domestication)の概念が 鍵となる .
「テレビのドメスティケーションは系統発 生的かつ個体発生的に理解されうる複雑な プロセスである.系統発生的には,テレビ のドメスティケーションについての記述 は,特定の社会的・政治的・経済的条件の もとでのテクノロジーとメディアの発生を 描く.[…]個体発生的には,テレビのドメ スティケーションについての記述は,ドメ スティックな関係における変化と持続を描 く.」(Silverstone, 1994:103)
シルバーストーンの言うドメ ス ティケー ションは,「家庭化」と訳されることもある.
しかしそれは,「家庭」という概念それ自体の 存立を問うような方法的視点である.系統発 生と個体発生という生物学のアナロジーで語 られているように,テレビというモノには社 会的な生命が与えられる.「ドメスティケー ションという言葉で示したいのは,野生動物 の家畜化(domestication)にも似たなにもの かである.…テクノロジーの歴史は,ある面 で ド メ ス ティケーション の 歴 史 で あ る」
(Silverstone,1994:83).私たちは野生の動植 物を馴化したように,モノを飼い馴らすこと で日常生活を形作る.ドメスティケーション は,人間からモノへ向かう一方向的な実践で はない.ドメスティケーション概念によって 焦点化されるのは,ともに社会的生命をもっ た存在であるモノと人の間で展開される双方 向的な「交渉」のプロセスに他ならない.
4‑2 消費の多層性と循環性
シルバーストーンは,テクノロジーのドメ スティケーションを「消費のダイナミズム」
として捉える.これは,『テクノロジーを消費 す る こ と:家 庭 空 間 の メ ディア と 情 報』
(Silverstone & Hirsch eds.,1992)に収録さ れた「情報コミュニケーション・テクノロジー と家庭(household)のモラル・エコノミー」
(Hirsch, Morley & Silverstone,1992)で提 示された論点を発展させたものである.新し いテクノロジーやメディア,あるいはテクス トの消費は,単なる受動的な許容ではなく,
家庭のモラル・エコノミーとの相互作用の現 場である.『テレビと日常生活』のなかで,シ ルバーストーンは,消費が以下の6つの局面 を も つ 循 環 的 な プ ロ セ ス で あ る と 論 じ る
(Silverstone, 1994:124‑131).
① 商品化(commodification)
商品の交換は資本主義の確立と維持の核心 にある.ただしそれは,消費者の創造的な働 きに対して開かれており,直線的・強制的で はなく循環的・弁証法的なプロセスである.
物質的・象徴的な人工物を生産し,フォーマ ルな市場で売買する産業・商業的プロセス.
社会の支配的価値や規範を表現するイデオロ ギー的なプロセス.同時に,消費が構造や商 品化そのもののパターンに作用を与える.消 費を循環として捉えることで,フランクフル ト学派流の文化産業決定論と消費者万能論の 双方が退けられる.
② 想像(imagination)
隠喩と神話のレトリックに依拠する広告・
市場システムのなかで欲望の対象として構成 される.しかし,広告と消費者の参加は苛立 たしい経験を引き起こす.それは消費それ自 体に限界があるからである.消費には失敗が つきものである.欲望は決して充足されない.
消費が特定の機能を充たすモノに対する欲望 に基づいておらず,差異への欲望,「社会的意 味」への欲望に基づいている以上,何が必要 であるのか(needs)は特定できない.
商品への夢の焦点は二つある.一つはそれ がもたらす理想の世界,もう一つは新しい意
味によって高められる現実の世界である.こ のうち無限の商品と夢の世界によって護られ ている前者は傷つかないが,日常生活に浸食 される後者は脆弱である.消費のエンジンに 燃料が補給されるのは,この矛盾があるから である.ただし,欲望をつくるのは広告だけ ではない.想像のプロセスもまた弁証法的な ものだ.商品は購入,そして所有とともに味 わう幻滅に先だって想像される.この意味で 購入には変形の働きがある.それは,幻想と 現実に境界を設定する活動である.
③ 領有(appropriation)
テクノロジーであれ,メッセージであれ,
商品は売買され,均質な交換の場から離れる とき,人工物は個人または世帯によって所有 される.領有を通じて,人工物は真正(authen- tic)な存在となり,商品はモノ=客体(object) となる.領有は,フォーマル・エコノミーと モラル・エコノミーの敷居をまたぐ瞬間だけ でなく,消費の全体的過程を指す.日々の消 費行為には,物質的かつ象徴的な大量生産物 に対する救いようもない依存が表現される が,同時に,マス・カルチャーに対する創造 的参加としての自由もまた表現されている.
もっとも,領有に関わる自由,すなわち消費 者による象徴的操作と価値付与への自由は,
広告とマーケティングの言説のなかに織り込 み済みである.また,変形的領有(transfor- mative appropriation)を達成する個人また は家庭の能力にはさまざまな制約があること にも注目しなければならない.
④ 客体化(objectification)
領有が所有すること(ownership)を通じて 具 体 化 さ れ る と す る な ら ば,客 体 化(ob- jectification)はディスプレイを通じて具体 化される.つまり,客体化は家庭の自己意識 や世界の中での位置を特徴付ける分類原理を 表わしている.これらの分類原理を通じて,
自己の地位の認識,およびそれへの要求が誘 導される.つまり,それぞれの家庭文化のな かで構成されるジェンダー,世代の差異が明 確化される.また,客体化は使用の場面,特 に住居(home)の空間的環境のなかでモノが 物理的に配置される場面において現れる.
客体化のダイナミクスはまた,空間の分化
(プライベート/共有/競合,大人/子ども/
男/女,等々)に深く関わり,「家庭の地形」
(domestic geography)に基盤を与える.ただ し,客体化はマテリアルなモノだけにとどま らない.テレビ番組をはじめとする媒介され たテクストもまた,等しくディスプレイのメ カニズムに組みこまれる.スターの写真を物 理的に貼り付けるだけではない.メディアの 内容も家庭のなかで客体化される.すなわち,
テレビ番組,ソープ・オペラの登場人物,
ニュースに出てくる事件といったメディアの 内容を説明する会話は,アイデンティティ確 認し,自己を表現するための素材となる.
⑤ 編入(incorporation)
テクノロジーは,設計者や売り手の意図を 超えた機能を持つ.当初期待されたのとは違 う機能を持つこともあれば,機能が失われる こともある.テクノロジーが機能を持つため には,家庭のモラル・エコノミーのなかに場 を見いださねばならない.とりわけ,日常生 活 の ルーティン の な か に 編 入(incorpora- tion)されねばならない.客体化が,第一義的 にはモラル・エコノミーの空間的な側面に関 わるとすれば,編入は時間的な側面に関わる.
なお,テクノロジーが家庭に編入されるとき,
家庭内の地位が再強化されるだけでなく,
ジェンダー・世代の差異が表面化する.10代 の若者はステレオ装置によって自室にサウン ドの壁をつくり,リモコンをめぐって争いが 生ずる.コンピュータの所有と使用は,家族 のジェンダー化されたテクノロジー文化を再 強化する.
⑥ 変換(conversion)
客体化と編入は家庭の内的構造に関する概 念であるのに対して,変換(conversion)は,
領有と同様,家庭と外部の世界との関係に着 目する.人工物と意味,テクストとテクノロ ジーが通過する境界線によって,家庭は近隣,
職場,仲間集団における地位を確認する.メ タファーとして適しているのは貨幣である.
「意味」は通貨のようなものである.換金可能 なものもあるが,そうでないもの(プライベー ト,パーソナルな意味)もある.
家庭のモラル・エコノミーは,潜在的によ そよそしい(alienating)性質を持った商品の 意味に働きかけ,変形させるための基盤を与 える.しかし,ホームの外部で流通する意味 を受け入れない限り,この調停(mediation) 作業はプライベートなままにとどまり,パブ リックな場では通用しない.つまり,所有は 変換の働きと表裏一体になっていなければな らない.テレビは日常のディスコースで流通 することによって,この変換の働きに重要な 役割を果たしている.すなわち,テレビを通 じて,意味を領有する経験の変換が可能にな り,テレビが導くパブリックな文化に所属す ることができる.
消費は,こうした6つの局面をもったサイ クルとして捉えられる.しかもこのサイクル は,公的空間や生産領域から切り離された私 生活の内部で生じているのではない.それは,
社会そのものを空間的・時間的に編成する働 きである.
「消費は現代の文化と社会にとって中心的 な原動力であり動員力である.消費は日常 生活における構造と主体の間で,潤滑油か つ接着剤として働く.個人,家庭,郊外,
そして産業技術体制は,消費を通じて連関 している.[…]消費を通じて,私たちはア イデンティティにとって有意義なものを明
らかにするだけでなく,たとえ脆いもので はあれ,時間と空間のなかに私的・公的と いう境界線を引く.この意味で,消費は個々 の家庭のモラル・エコノミーにとって作動 原理であるとともに,公的領域の価値や理 想へと統合する/から分離する連結メカニ ズムである.」(Silverstone, 1994:131)
シルバーストーンは,民族誌的モノグラフ の蓄積を踏まえたミクロな視点と,現代社会 の理論的把握に裏付けられたマクロな視点を 重ね合わせながら,オーディエンス研究にお いて展開されてきた「文脈」への視点を,社 会の編成原理そのものにまで拡大しようとす る.それは,メディア研究に一つの方法論的 な基礎を与えようとする試みであるといえよ う.
4‑3 マテリアル・カルチャー研究との接点 シ ル バース トーン は マ ス・コ ミュニ ケー ション研究の閉じたサークルの内側でその視 点と方法を導き出したのではない.彼が繰り 返し参照するのは,人類学者I・コピトフ
(Kopytoff, Igor)や D・ミ ラー(M iller,
Daniel)らによる「マテリアル・カルチャー」
(物質文化)研究である.近年,文化人類学で はマテリアル・カルチャー研究が活発化しつ つある .
人類学は考古学や美術史などともに,その 形成の当初からモノを資料として操作する技 術を蓄積してきた領域であるが,機能主義や 構造主義といった文化概念の理論的洗練とと もに,物質文化研究は後退した.これと逆行 するかに見える近年の傾向は,古いタイプの 研究への回帰というよりは,商品化の爆発的 な浸透,消費社会の出現という現代的な現象 に対する,文化人類学からの反応である.そ れゆえ,彼らのいう物質文化とは,現代社会 における商品,そしてそれらによって形作ら れる文化のことを指している(内堀編,1997).