近代的社会構成 (技術 ・ 経済システム) による 文化・政治・道徳の領域の侵犯
著者 原 宏之
雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー
ル = The MGU journal of liberal arts studies : Karuchuru
巻 1
号 1
ページ 67‑80
発行年 2007‑03‑24
その他のタイトル Modernity's Nightmare ―Technology‑Industry System Eating Cultures, Politics & Ethics―
URL http://hdl.handle.net/10723/3128
近代的社会構成(技術・経済システム)による 文化・政治・道徳の領域の侵犯
原 宏 之
Ⅰ.ご冗談でしょう,きょうの世界?*
1,000兆円の債務残高で遺書を 残して死んだ政治の物語
1.グローバル化とネオリベラリズム あるいは政治の死
ネオリベラリズムとは,その歴史的構成をひと まずおけば,根本は「売れるものはなんでも売る」
(教育,医療保険,福祉,観光,文化,スポーツ……
など本来商品ではないものの商品化)と,「なに がなんでも売る」(多国籍企業のフリーゾーンで の監獄工場による低価格化)で語ることができる。
ネオリベラリズムはよくいわれるように,市場 原理により,ごく一部の富裕層(高山の頂上)と 大多数の貧困層(高山の麓)を生み出す。問題は,
なおかつ政府が社会保障をなかば放棄しているの であるから,最小限の生存の保障すらみとめられ ないことである。すべての価値が市場的な解釈に より「損益」に換算されることから,精神(善/
悪徳),政治(友/敵),美的(美/醜)などの他 の範囲の価値体系が占領されることにもなる。
現代のネオリベラリズムの世界では,戦争に替 わる 「総動員」 として,GDPへのよき貢献者
(高額な納税者で財政を助ける者,法人)が特権 的に扱われることになる。従来の集団労働が必要 だった時代ならばこのようなことは起こらなかっ たであろうが,いまではハイテクにより少数の管 理者が必要とされている。その結果,特権階級と 切り捨てられる弱者が生まれるようになるのだ。
またネオリベラリズム政権において基礎財政収支 や金融政策が重視されるのは,通貨レートを中心 とした為替市場上の対策が必要だからである。
するとなんのための「財政」であるか誰もがわ からなくなる本末転倒の状態が生じる。そこで政 治の死を口にすることも,あながち見当違いでは なくなるだろう。
□「定常化社会」か「収縮社会」か?
広井良典のいう「定常化社会」が魅力的である のは,「幸福」を感じられる社会という明確な目 的が設定されているからである。「代替社会モデ ル」の可能性として,力強いものである(ただし 筆者は,実現するにはより消極的な《近代》から の「撤退」が必要であるとも考えている)。いま 必要とされるのは,単なる反対・批判,つまり問 題点の指摘ではなく,土俵を一気に様変わりさせ るようなダイナミックな「社会モデル」の提案な のではないだろうか。
・ 本論文は以下の機会での話を,論文のための原稿 にあらためたものである。「有名〉になりたいから セレブ〉になりたいへ」(『論座』,2006年10月号),
宮沢章夫先生の講義ゲスト(東京大学教養学科表象 文化論分科,同年11月),加藤典洋先生ゼミのゲス ト(早稲田大学国際教養学部,同年同月)。
社会を覆うまやかしについて,わたしたちは気 づき始めたようでもある。「世界価値観調査」に おける「戦争が起きたら国のために戦うか」との 設問にイエスの回答をしたのは,中国が88.9%,
韓国74.4%,米国63.3%,フランス49.2%にたい して,日本はわずか15.6%である(『朝日新聞』
2006年8月6日付朝刊,日曜版別冊より,2000 年度の回答で調整,2005年はさらに低下してい る) だが「日本人であることに誇りを感じる」
程度はかなり高く60%弱であり,これは「郷土 愛」(/「愛国心」教育)の問題と関係するだろう。・・
そしてきわめて健全な傾向であるともいえる。
米国でも,たとえば学資を稼ぐためにイラク戦 争に行った若者たちのなかには,虐殺や強姦など 仲間の不当な暴力にショックを受けて,「逃亡」
して重罪に処せられるか,帰還兵として夜な夜な 悪夢にうなされる人生を浪費するかといった過酷 な二者択一に迫られている事実を,国民がよく知 ればこの数字はもっと減るかもしれない。だから こそ,「想像力」を助ける知識・情報の十全な供 給が必要なのであり,「世界の真実」を知ること から的確な判断力が養われるのであろう。
□デモクラシーは健全か?
問題は主権在民,すなわち「市民的不服従」や 投票による意見表明への意欲までもが,これまで は失われてきたことにある(選挙に関心をもたず 投票権を行使しないのは,「抵抗」ではなく《力 の思惑通りにそこに迎合することであり,究極的 にはゼネストのような意思表明による「不服従」
とは対極にある)。「税負担大であるが充実した福 祉」を望むか「福祉最低限で税負担小」を望むか との調査では,将来においては「福祉」が望まし いとの回答が46.7%で「税負担小」の27.4%を大 きく上まっている(「世界価値観調査」,2005年)。
高年層より若年層に多く見られる傾向として,
福祉や環境の問題(持続可能な発展)への関心が かなり高いのに,競争型社会(メガコンペティショ ン)を望ましいと考える点が指摘できる。最近で は解消されつつあるように思われるが,自己の実 存ベース(アイデンティティの確立/成功のチャ ンスへの志向)の問題が,社会的意識にまで浸透 していることの結果であろう。その際に,正当性 や公平といった倫理意識よりも,経済的成功といっ た市場的価値意識が迫り出して,判断を迫ってい ると考えることもできる。
世界の現状を考えるために,たった一日の朝刊 分の新聞記事を眺めてみても,ネオリベラリズム の席巻を語るに話題を欠くことはない(『朝日新 聞』,2006年7月31日付)。「邦銀 海外でも復 活」 海外資産残高が50兆円台を回復する見込 みということである 大規模な「公的資金導入」
の成果だろうか,それにしても医療費も払えない 民衆がたくさんいるというのに,あのときに支出 した税金は一向に社会保障のようなかたちでさえ 戻ってこないのであろうか。「タクシーの規制緩 和 誤りか?」 02年の規制緩和により競争が 激化したタクシー業界は,とても生活できない低 賃金ドライバーを増加させた一方,他業種から転 職する新規雇用者を大幅に増やしたと一定の評価 を与えているが,これこそ経団連の主張する「人 的資本の流動化」の最たるものではないだろうか,
業種を越えた永続的フリーターが増加するのであ る。海外でも大変なことになっている。「スペイ ンよ目覚めよ 脱『昼寝』ノススメ」 政府が
「雇用環境の近代化」のためシエスタを抑制しよ うとしているらしいが,冗談ではない,シエスタ は民族(共通の文化価値を有する集団)と風土か らの要請,つまり自然と共存するための工夫であ る これを生産性一筋の(アングロサクソン型)
近代的社会構成(技術・経済システム)による文化・政治・道徳の領域の侵犯
「公共時間」で解決しようというのか,(コミュニ ケーション人類学者の)E・T・ホールが聞いた らまさに「諸文明」の崩壊と嘆くに違いない。最 後に一面は「偽装請負 製造業で横行」の五段抜 き。またしても「偽装」である。
「経済成長」の神話が終わった後,近代デモク ラシーの,「政治」のギミックの限界点が来てい るのだろう。一方には死にものぐるいに「法治」
を徹底しようとの〈力〉があり 「建造物侵入」
や「器物破損」などの名目で,政治・思想犯ある いは「異常者」を取り締まる動向(落書き,ビラ 配り,また女装者の逮捕等)や「調書」をねつ造 してでも頭数としての冤罪者を生む機構,他方に は精神的価値(倫理)をはなから疑う無数の民衆 が放置されている。
2.「政治的なもの」をめぐって
独国の公法学者カール・シュミットが,「政治 的なもの」の概念を「友/敵」の区別に見たこと は有名である(『政治的なものの概念』)。政治と は日々の生活のなかにあるもの,二人集まれば生 じる関係の本質とさえいえるだろう。「敵」を自 らの生存を脅かすものとするならば,これは日々 の生活のなかで繰り返し生じてくる。つまり自己 の生存を脅かすものとそうでないものとの間に,
わたしたちは絶えず境界を設けて,「われ(われ)」
と「彼ら」を区別するのである。シュミットは政 争や権力闘争を真の「政治」から退け(あるいは
「内戦」にまで先送りし),国内と国外との「戦争」
という状態に政治の姿を見た。しかしながら,
「政治」がこのように単純なものだとしても,そ こに困難があるのは必ずしも「政治」が〈正義〉
と結びつかないからである。誰もが正しくないと 思いながらも,力強い不正な者があり,なおかつ そこに与して自らの生存が保証されるならば,多
くの者は正義の敵となるよりも「自己の生存の敵」
の友となる。対戦期以降のアメリカ合衆国の一国 主義の道理の通らぬ政策に追従する国々(日本は その一国である)を見れば,この事態はすぐに見 透かせるものである。
ところでシュミットは,(ネオリベラリズムが 経済的「自由主義」の帰結であることを考えれば 当然のことではあるが)すでに1930年代に現代 のネオリベラリズムの本質を突く問題を提起して いる。「自由主義的思考は,きわめて体系的なし かたで,国家および政治を回避ないしは無視する。
そして,その代わりに,二つの異質の領域,すな わち倫理と経済,精神と商売,教養と財産という 典型的な,そしてつねにくり返しあらわれる両極 のあいだを動揺するのである」。市場原理主義に よる,政治の死とあらゆる領域の価値観の支配を 指摘しているのである。しかし,まさにこの問題 となる経済について,またその発端である「内政」
については同書は多くを語ってはいない。エコノ ミーが元来「(共通善との精神的価値に基づいて)
家の(成員の生殺与奪を含む所有の)管理をする 法」であることからすでに,経済が家族との類似 で語られてきた国民国家の内政に深く関与するこ とがうかがえる。この点を明らかにしたのが仏国 の哲学者ミシェル・フーコーである(『安全・領 土・人口』未邦訳,高桑和己訳で筑摩書房より近 刊。なおここでの記述は同氏主催の研究会に多く を負っている)。
近代の転換期(それは国民が頭数すなわち戦争 や経済に動員される「人口」で数えられはじめて 固有名を失う準備段階である)に,内政の中心は 経済の管理の問題となる。国家が政治的実践の内 部に経済を導入し,ここから家族までの諸集団の 管理を行き届かせるのである。だから「友/敵」
概念に戻れば,近代は内なる擬政治としての「経 近代的社会構成(技術・経済システム)による文化・政治・道徳の領域の侵犯
済」と,外部の「敵」との外交・戦争からなる国 家を誕生させたということになる。またフーコー は絶対王政の古典主義から近代の国民国家への転 換期に,「殺す」(死刑)と「生きるがままにさせ る」のペアから,「生かせる」(安全保障)と「死 に突き落とす」(戦争動員)のペアへの統治性の 移行(生政治 『知への意志』等)を看て取っ たが,現在のネオリベラリズムは,社会保障を放 棄して,経済利益への動員に国民を集中されるの であるから,「生きるがままにさせる」と「死ぬ がままにさせる」のスペクタクル統治に移行した ともいえるだろう フリーターはイラクに送り 再教育すべしとの武部自民党幹事長の失言は,両 者が常に互換可能であることを表している。
□財政再建か社会の再建か?
先日発表された「骨太の方針2006」では,ま たもや基礎的財政収支の黒字化を口実に,一層の 財政支出の削減が唱えられた。さすがに「どこま で社会保障費を削るつもりか」との疑問が公言さ れ始めた。将来の地方の自治権拡大を睨んだ交付 税の削減も,いまや「倒産自治体」が出ているな か,まやかしであったことが暴露されつつある。
また小渕政権が公式に「恒久的」と約束したはず の定率減税もついに廃止された(住民税,所得税)。
「庶民はほっとおけばすぐ忘れる」とわたしたち をあからさまに侮辱し馬鹿にしきっている歴代政 権にたいして,どうして怒りを収めておけるのか,
わたしには不思議である。そもそも小泉政権が誕 生と同時に「財政再建」を主張したが,これは同 じ与党・自民党が90年代に相変わらずの土木中 心の「公共事業」投資による景気対策を連発して,
さらに失敗したことのツケである 政府の長期 債務残高は1,000兆円を超えている。誰も責任を とらないのだ。所信表明で語られたあの「米百俵」
の精神との逸話も,いまではさすがに欺瞞であっ たことに気づくべきである。そもそも「米百俵」
は喰えないからこそ将来の人材育成のために教育 を充実させた精神ではなかっただろうか。不良債 権処理や財政赤字の削減など,これまでの歴代政 権担当者たちの失策のつけであり,そもそも教育 とはかけ離れた狭義の経済政策のために,「米百 俵の精神」と慰められたわたしたちの苦痛はすべ て流用されて,なおも社会保障費削減の仕打ちを 受け続けているのである。「いざなぎ景気」 も
「バブル景気」も超えたなどといわれる景気局面 を誰が実感できるだろうか。そもそもわたしたち は生きることの幸せを見出さなければ,いくら稼 いでも意味がないのである。
3.オルタグローバル化の可能性
「ブラジルの夢」新たに
グローバル化に反対して,伝統(民族)や地域 や宗教に基盤を求めた共同体の強化(地域ナショ ナリズムや原理主義に陥る危険有),より大きな 枠組みでの経済ブロックの政治化などオルタグ ローバル主義(altermondialisme)と呼ばれる 動きや,またさらにオルタ世界主義(altermon- disme)と呼ばれる動きもある。よくよく十全な 知識と情報を得れば,今日の「代わりにあるべき 世界」とは,アメリカ合衆国とは別のやり方で生 きる方法にほかならない。
米国は「愛国者法」(その実態については,『華 氏911』でのマイケル・ムーアによるパロディを 参照)や通信や記録の傍受により自国内の無数 の可能的な「敵」の先制的な退治に躍起である 米国追従の日本は「共謀罪」法案の成立に失 敗した が,周知のように米国はそれと同じだ けのエネルギーを世界の監視にも注いでいる。南 米もその犠牲を強いられ続けた地域である。
近代的社会構成(技術・経済システム)による文化・政治・道徳の領域の侵犯
その南米が現在12カ国のうち7カ国で社会主 義政権をとっている。南米という地域の歴史性を 考えるならば,「公正」(いまの日本社会なら「格 差社会」 の是正と受け止められる) を掲げて 1970年選挙により大統領となったチリのアジェ ンデから,2003年ブラジルで労働者党選出大統 領となったルーラまでは,ひとつの意志により貫 徹しているように思われる。周知のようにアジェ ンデ社会主義政権は,自由貿易(という名の自国 経済の市場開拓)の障害と見られ,米国CIAの 謀略(暗殺・クーデターの教唆)により1973年 に転覆という短命に終わる。チリはこれにより悪 名高いピノチェト独裁政権の時代を迎える。その チリも,2006年の年頭にはバチェレ(社会党)
が女性大統領の座についた。しかしながら明確に
「新たな世界」のヴィジョンを打ち出しているの は,なによりもブラジルである。
ブラジルといえば,一昔前は多額の負債国であ り,「ファベーラ」(スラム)であり,汚職と賄賂,
またいまでもマフィアと国家治安当局が銃撃戦を 展開する国とのイメージが残るだろう 70年 代の「工業化」のなかで対外債務を増やし,80 年代財政赤字の米国による高金利政策のあおりで インフレ率が3000%近くになり経済は事実上破 綻,90年代にはIMF・世銀の融資策を受け入れ
「民営化」・「規制緩和」・「市場開放」を余儀なく されるが,他国に漏れず無駄な建設物が増えるだ けで経済格差が劇的に高まり社会の平穏は崩壊す る 。だが,ルーラとともにこの国は確実に新 たな社会への第一歩を歩み始めている(余談だが,
幼少から辛酸をなめ貧困を知り尽くした大統領は,
闊に訪問国で涙を見せたかと思えば今度はロッ ク歌手の物真似にはしゃぐような代譲りの首相よ りも冷酷に映るに違いないが,政治には冷徹が必 要なのだ)。
その核となるのが,「エタノール」(さとうきび を材料とする石油代替エネルギー)による経済戦 略である。さとうきび畑は多くの人手が必要なた め大規模な雇用創出となり,なおかつ「農業」従 事者の従来の習慣を維持できる。またその周辺に は,エタノールの加工工場ができて従業者たちの 地域コミュニティが形成される。この工場でさと うきびの絞り滓が燃やされエタノール燃料になる わけだが,その際に排出される二酸化炭素はさと うきびが栽培される際に光合成で吸収される(酸 素と交換される)ものであるから,増加量はない といわれる。まさに,循環型のビジネスモデルと して,理想的なように思われる ただしブラジ ル国家が進めるこのハイテク・ビジネスが,「遺 伝子組み替え」により効率化を図っているとの点 には懸念が残る 1973年にF・F・シューマッ ハー(『スモール・イズ・ビューティフル』)が指 摘したように,合成物質のような「自然が免疫力 を有さない人工物」が地球環境に与える打撃は深 刻であり,自然のサイクルから外れているために,
造り出したら消し去ることが事実上不可能である のに,安価な生産に適すために乱造された 放 射性廃棄物は2万5千年地上から隔絶して初めて 毒性が消えるといわれる だがそれでもデピー キングされたブロイラーの子孫を食べさせられる はめになるアグリビジネスよりは消費者として歓 迎すべきだ 。ブラジルの「アグリエネルギー 国家戦略」には,「労働者の公平な所得の分配」
と「地球環境の保護」を実現することが明記され ている(NHKスペシャル『ラテンアメリカの挑 戦』第二回,2006年8月4日放映)。なおも「経 済成長」を背景に,持続可能な発展を目指す国と しては,かなり魅力ある戦略と思われる。
そもそも天然ガスや石油といった化石燃料にも 恵まれたブラジルであるが,新時代の「エタノー 近代的社会構成(技術・経済システム)による文化・政治・道徳の領域の侵犯
ル」を戦略的に用いることで,インドや中国,さ らにアフリカとも連帯し,新たな地政学を生み出 そうと模索している。ルーラ大統領は,80年代,
90年代の失われた時代を忘れずに,「魔法は存在 しない」と主張し,自由貿易体制(ネオリベラリ ズムの政策)を共有すべしとFTFAの実現を強 く要求する米国を牽制している。
日本とは政治も風土も条件が異なるものの,ブ ラジルが資源の配分と所得の再分配という両立困 難な「政治(正義)」を実現しつつあることには 注目してもよいだろう。米国のブッシュJr大統 領は,年頭の一般教書演説で今後6年以内に「エ タノール」をビジネスモデルとして達成すると述 べているが,ここには「未来」をよそが握りつつ あることへの危機感があるだろう。そもそも石油 が枯渇した米国は1950~60年代の乱費消費社会 のつけを払い続けるためにヘゲモニーに懸命なの かもしれない。
4.《幸福》への離脱
わたしたちは,近代の舞台から退却し,市場経 済とも大規模開発とも無縁な,それでいて確固た る幸福を追求しようとする者たちの権利を確保し,
その権利を主張する者たちを承認しなければなら ない。映画『ザ・ビーチ』では,デカプリオ演じ る主人公リチャードが,誰も知らない美しい礁湖 にたどり着く。その礁湖は海洋からは見えず,ま た断崖絶壁から滝壺に飛び降りる試練を経なけれ ば出会うことができない。主人公は神秘的(超常 的)な現象からこの礁湖のある伝説の島の地図を 手に入れて,やがて礁湖と出会い,そこで原始的 であるが美しい海に癒されながら幸せな暮らしを 営む「近代社会離脱者」たちの小コミュニティを 知る。美しい話である。しかし,残念ながら現代 の世界地図に白地はまったくない 英国のシン
クタンクが「幸せ地球指標(HPI)」と称する調 査を行い世界の国々をランク付けしたところ件の OECD諸国は軒並み下位であり,環境と経済の バランスをとりながら「幸せ」を最高位で実現し ているのは南太平洋の小さな島国バヌアツ共和国 であった ,『朝日新聞』(2006年7月29日付)
の取材に現地のジャーナリストは「あまり宣伝し たくない」と語ったが,もっともなことである こうして隠された楽園はあっという間にイン モラルな群衆に占領されるのだ 。既存の国家 の領土外に新たなコミュニティを創設する余地は いまのところない。だからこそ,先ほど述べた新 たな「領域」は,地理的な概念として考えるだけ では不十分であろう。
わたしたち日本人の暮らす日本国を例にとって みても,経済格差だけではなく,この国家の平和 の担保といわれる米軍基地を押しつけられている 沖縄のような地理的・領土的問題もある。Cul- turalTyphoon2006(下北沢)の折,沖縄関係 のセッションが設けられ,自分のパネル・セッショ ンの後に立ち寄ったことがある。50歳前後の著 名な思想家(尊敬に値する方だ)の話の直後だっ た。沖縄に対する「責任」は,われわれの側の
「応答可能性」として,呼びかけられているとの 話であったらしい。そこで,沖縄関係の著作もあ る同年代のメディア研究者が憤りながら立ち上がっ た。「自分たちを安全な場においておきながら,
責任=応答可能性などという言い方はもうやめ るべきでしょう! 問題は,ここ《帝都》をど うするかですよ! 《帝都》を破壊するのかどう か……」。これに続き,話は琉球弧独立の可能性 などに流れていった。この思想家と,異議を唱え たもうひとりの思想家とのやりとりは,一瞬めま いを覚えるほどの異常な緊張感があった。わたし 近代的社会構成(技術・経済システム)による文化・政治・道徳の領域の侵犯
は,両者ともに正しい(善を求める)方向に向か いながらも,どちらも整合性のある戦略ではない と思い,正義のあるやなしやを思いつつ少々哀し い気もちになった。まずなによりも,こうした正 のひとびとを互いに対立させ啀み合わせることこ そが,ネオリベラリズムの戦略なのである。さら に「責任」とは,おそらく新たな社会モデルを具 体的に示すことにあるのだと思うと,異議申し立 てや国民国家批判のむなしさを感ぜざるを得ない。
そうであるのだが,問題の《帝都》なるものも,
いまやもはや具体的な地理的状況にのみあるもの ではなく,たとえワシントンを中心に発信されて いたとしても,世界中に分散され,無意識にデモ ス(民衆)の間に共有された価値としてあるのだ。
たとえば琉球弧の解放は,すてきな理想だと思 う。国家として独立するのではなく,それがある 領域であるのならば。だが,たとえば中国が領有 権を主張したときに,日本あるいは米国が,どの ような動機から,またどのような手段でこの地域 を守るのか だが,おそらくここで思考を止め てはならないのだ。
問題は,核武装もせず,いかに国際政治のなか でプレゼンスを発揮するのか。あるいは,いかに して憲法九条の精神を尊重して,まったく独自な,
これまでの国民国家の歴史になかった自律かつ積 極的平和活動の道を歩むのか,この二者択一にあ る。
Ⅱ.停滞するカルチャー
ポスト戦後の日本社会 1.80年代,物語の変容80年代というのは,ある意味で物語やことば を破壊した時代です。さまざまな話題があるので
すが,ひとつだけとりあげましょう。80年代は つねに70年代また90年代との関係で考えるべき です。80年代には『パルタイ』も『されどわれ らが日々』もありません。80年代の小説には田 中康夫のように,好景気の「明るい社会」を表現 する作家と,「明るい社会」の隅で個人的な内省 を続ける作家がいて,それが村上春樹だと思いま す。ある意味で,90年代以降ずっと若者たちの 間で続く「自分探し」を物語に昇華したのが,初 期三部作であり,『ノルウェーの森』であり,……
ということになりましょうか。
けれども,80年代は実は物語を必要としなかっ た時代なのです。自分たちが物語の主人公となる,
なれるかもと,思いはじめたのが80年代の民衆 生活なのです。竹の子族もそうですし,「おいし い生活」(糸井重里)のような名コピーに演出さ れた消費生活の場面もそうです。単純化すると,
一方に情報をかき集めながら武装する消費行動が 現れました。他方で,奇妙な場所で,村上春樹の ように内省する作家がいた。そして,いまは「自 己実現」の物語がフィクションであることがわか り,若者たちにとってはがれきのなかで「自己」
を求めているような冷たい時代だと思っています。
2.90年代,リアリティの回帰
90年代に,とりわけ戦後の終わりと考えられ る95年から,村上は社会に直にコミットしよう とする。これはより具体的に政治家として田中康 夫が実践することでもあります。ダブル村上など といわれた村上龍の,鬱屈とした感情が社会問題 と直結するかたちは,ある意味で「セカイ系」の 先取りです。そして90年代以降,村上龍が時代 にフィットしてゆくのに,村上春樹さんにはどこ か乗り切れない面があったように思います。時代 とのギャップです(『ねじまき鳥クロニクル』の 近代的社会構成(技術・経済システム)による文化・政治・道徳の領域の侵犯
不首尾)。ところが,見事な物語として,わたし たちに新世界(これは近代の収縮です。セルジュ・
ラトゥーシュ「収縮社会のために」(原訳),『世 界』2004年2月号)をかいま見させてくれた小 説,読者に希望を与える物語が,『海辺のカフカ』
で表現された。これはすごいことです。ジョニー・
ウォーカーやカール・サンダースといった「キャ ラ」が,まるで羊男のように,物語を彩っている。
間違いなく村上さんの世界であるのにどこか違う。
3.ジョニー・ウォーカーとぼくの思い出
ジョニー・ウォーカーの話をしましょう。いや,
個人的な回想をします。わたしの親父の話です。
父は旧制中学の最後の学年の世代です。会社員と なり,年間の休みは,夏休みの1日とお正月の2 日間だけ。これが他界するまで続きました。1970 年代末から土曜日は半ドンになりましたから,夏 休みの家族旅行を1泊2日でできるようになった のです。クリスマスには会社からバタークリーム のケーキをもらい一家で食べました。父の誕生日 には,会社が月餅をくれて,これもごちそうのよ うに喜んで食べました。その父がジョニー・ウォー カーを何回飲んだかは知りません。いつもはリザー ブというサントリーのウィスキーを飲んでいまし た。たまにお歳暮などで「ダルマ」をもらい,た いせつそうにちびちびと飲んでいました。『バブ ル文化論』のなかでジョニ黒(あるいはハーパー だったか……)の話が出てきますが,その値段の 低下ぶりは驚くべきことでした。わたしはたまに 仕事でルーマニアにいきますが,ブカレストの一 等地に巨大なジョニー・ウォーカーの看板があり ます。彼の地ではまだジョニ黒が,庶民の憧れと して残っているのです。あこがれは遠いものであ りますから,それは貧乏であることの象徴でもあ ります。なにもかも手に入るわけではない。
4.貧しさの想像力
拙著で宮沢章夫さんに爆笑された部分がありま す。「いまではパスタと呼ばれ,ニョッキ,ペン ネ,ラビオリなど小学生も食べているが,「バブ ル以前」には〈スパゲッティ〉しか日本にはなかっ た。かろうじてマカロニもあったが[…]」(143) という箇所です。
この話が笑えるかどうかで,おそらく年齢がば れてしまう。わたしは1969年生まれ,つまり昭 和44年。70年代前半に,かろうじて物心つきは じめていたので,「戦後」の雰囲気がある程度身 にしみているのだと思う。(小学校三年生のとき に「明太子」を食べて感激した)。
貧しさゆえの想像力というものがあるように思 います。80年代は,貧しさから解き離れて,流 行の渦を生きた。
不易流行はもともと俳句のことばです。宮沢章 夫のことば(『考える水,その他の石』,白水社,
2006年再刊)に引き寄せると「不合理なもの」
の世界のことばです。不合理といえば,大学では まず文学でしょう。いまの社会では,大学に入学 したら就職するためのスキルや資格を身につけな いといけない。モラトリアムなどとんでもない。
学生の間に企業で働く用意をさせられるのです。
近代的社会構成(技術・経済システム)による文化・政治・道徳の領域の侵犯
そんななかで,文学は「役に立たない」といわれ る。実際,文学部の人気はここ10年で凋落しま した。
けれども,「無駄なこと」をするほどの自由は ありません。大学の世界にまで,経済・技術(道 具)システムの「損/得」や「役に立つ/役に立 たない」という判断基準がはいってきてしまった わけです。
この不易の部分を, わたしは強引に 「共感 compassion」の源泉,あるいは「人間性」と解 釈しています。誰もが心動かされることがあると いうことです。
ある授業では,「DAYSJAPAN」を資料にし て,イラク事変,市民65万人が亡くなったとい われる戦争の写真を見せました。攻撃や拘留によ り亡くなった男の,孤児,妻や母など女性遺族が,
口を開けて泣き叫び,あるいはうつむいて涙を流 す写真です。中東は地理的にも遠い。日本には戦 争がないので,位相的にも遠いかもしれない。イ スラム教ですし,心情的にも政治的にも遠いと思 いがちです。この遠く離れた場所で泣き叫ぶ者た ちの「顔」を見て,わたしたちはなにか感じるで しょうか。もし感じるとすれば,それは想像力の 問題です(他者とは他人のことではない。自己の 客体化であったり,モノや動物であってもいっこ うに差し支えない。過去を見て,現在を認識し,
未来を想像するのはタテの想像力である。これに 交差するのがヨコの想像力。たとえば,わたしは いま研究室にいるが,自分がアフリカにいたなら ば,5年後の自分は,と想像すれば,そのときの
「自分」はこの想像しているわたしではない。客 体化された自分である。内山節は石臼にも想像力 があるという。それは使用された跡から見る,往
年の歴史のことであろう)。
貧しさゆえの想像力というものがあります。た とえば下駄の話。終戦直後に銭湯にはいるのは,
決死の覚悟が必要だった。唯一の財産といっても いい衣服は慎重に風呂敷に包み,湯船から見張っ ているが,下駄だけはどうにもならない。そこで 帰ろうとするとなくなっている。「盗まれた」と いわない。「取り替えられちゃった」といい,新 しいのをはいて銭湯から帰る(鴨下信一『誰も 戦後〉を覚えていない』,文春新書,2006年)。
貧しいから守るべき富もそうそうない。おおら かな時代であり,連帯があった時代の話です。
山田太一脚本の『男たちの旅路』というドラマ があります。そのなかの一話(第4部3話 「車 輪の一歩」 1979年11月24日放送)を教室で見 せたところ,ドラマが終わり照明をつけると,学 生が不動の姿で涙を見せているのです。
ドラマのなかにふたつの感極まるかのようなシー ンがあります。
せき髄に障害をもつ斉藤とも子演じる少女(前 原良子)が,踏切事故の危機を脱した後に,尿を たらしてしまうシーン。そのとき少女は,車いす を押す男性に「止めて!」と切実な叫び声を上げ ます。このときに,わたしたちは,女性であり,
障害をもち,それでも一般のひとのように生活し たい彼女の「はじらい」と「絶望」の両極との間 で張り裂けそうになる彼女の声を聞き取れますで しょうか?
聞き取れたとしたら,それはみなさんが,彼女 が演じる人物にアイデンティファイしているとい 近代的社会構成(技術・経済システム)による文化・政治・道徳の領域の侵犯
自己 → 他者
↑(同化)↓
←
(感じる)
うことです。つまり,わたしたちはその他者の内 面を想像して,その悲痛を自らのものとして引き 受けているのです。そのときに,わたしたちは彼 女自身であるとさえいえるでしょう。
もうひとつの印象的なシーンは,斉藤洋介演じ る川島敏夫という車いすの少年が,トルコ風呂に 出かけて,どこでも邪険に扱われ,結局のところ
「ふつうのひと」の欲望すら満たされない結果と なり,帰宅するシーンです。ここにはさまざまな 問題があります。ひとつは青年期特有の問題とし て,セクシュアリティの問題があります。『林檎』
でもこのテーマが大きく扱われていました。ワン ゲルの高尾山ハイキングの帰り,良夫はひとり新 宿二丁目に行き,「きもちいいマッサージ」を受 けます。「津田女子大」に乗り込んだ三人の視線 は,テニスコートの女子大生たちに注がれます。
自らもてないという「東洋女子大」の中島の,太 い足がローアングルから執拗に撮されます。これ らショッキングな映像は,普遍的な問題であり,
青年期の重要な問題でもあるセクシュアリティの 問題を,上品なベールでおおうことなく,むきだ しにし,野性的にまで,わたしたちの眼前につき つけるのです。こうしてわたしたちは,なにごと かを思考せざるを得なくなります。
さて,川島が泣き出すまでには,伏線がありま す。自らの母に,もっとも打ち明けにくい相手で ある者にたいして,トルコ風呂に行くための小遣 いをせびるところから話ははじまります。障害の ある自分を疎う父親が,その会話を耳にし,テレ ビを消して,ビールを食台に置き,「4万か,5万 でももたせておけ!」と叫ぶ。「でも,あなた」
という母に,この父は「金なんてなんとかなるさ,
俺が稼ぐ」と言い切る。こうした状況から,川島 はトルコ風呂に出かけるが,結局,はじきだされ る。帰ってきた川島は,「やだよこのこったらに
やにやして」という母に,「そりゃそうだよ,お かげさまでね」と陽気にふるまう。
なぜか? 障害者として邪険に扱われたことを 他人にさとられたくないプライドもあるでしょう。
でもそれ以上に,無理して自分を送り出してくれ た両親に,自分が満たされて満足しているんだよ と幸福な思いを演じたかったのでしょう。なぜか?
それは川島が両親の立場にたって,自分が親だっ たら,どのように息子が帰宅することを喜ぶかと 想像しているからでしょう。つまり,いたわって いる。自分が残酷な最悪の状況にありながらも他 者を気遣っている。だが,無理ができなくなり,
川島は泣き叫び出す。それは家族という「友」を 前にした人間の正直な感情であり,無理をした川 島は,理性によりこの感情を殺そうとしたのです。
そもそも川島が求めたのは,肉体的な性の欲望 というよりは,セクシュアリティという青年特有 のファンタスムにも似たものでしょう。
5.想像力を奪われた不幸な時代
1980年代の糸井重里「おいしい生活」は,天 才詩人のことばである。だが,これが日常で誰も が口にするようになると,コピーのシミュラーク ルだけの世界になります。貧しさを知っているか ら豊かさにうれしくなれる(80年代の明るい社 会)。けれども,現在は豊かであるはずなのに不 幸な社会にあります。
□80年代の「明るい社会」の背後で準備されていたこと ところで,わたしたちが「ジャパン・アズ・ナ ンバー1」などという文句のまやかしに酔ってい た頃,つまり1980年代の脳天気な社会に浮かれ ていた頃,世界システムの裏の面で準備されてい たのは,世銀・IMF体制でした。グローバル化・
ネオリベ体制の司令塔です。
近代的社会構成(技術・経済システム)による文化・政治・道徳の領域の侵犯
「不自由社会」 バカンスのない会社で,人生 の換わりにボーナスをもらう,あるいは月餅をも らう。大学自治の換わりに,グッズやぴかぴかの サークル室をもらう。司法,政治,システムのも じれ です。
宮沢さんはセゾンの皿は「情報を売る」のだと いうことばを引用しています。
時代は回転して,また元に戻った。「物流」は 強い。いま新たに戦力が投入されているアフガニ スタンで,戦争をよそに「コカコーラ」工場が出 来た。TF1の社長は,「われわれが売っているの はコーラであって,CMまでの間に視聴者の脳を リラックス,やわらかくして,売る」と発言して 物議を醸した。イラク事変の頃,最初は石油は金 儲けのひとつくらいにしかとらえていなかった。
だが,現在になり,米国は真剣に必死に「近代社 会」の維持のために,本気で石油が欲しいのだと 感じるのです。
仮に「かっこいい」の変遷を「べた」(70年代 以前)/「クール」(90年代)とすると,いまベタ なものが回帰しているのではないか。「べた」は
「熱い!」ものと関係している。宮沢さんにはス ノッブなかっこいいとべたなかっこいいの両面が あるように思われる。わたし自身は,ゴダールも 好きだが若松/足立も大好きだ。六本木WAVE そばの映画館でソクーロフの作品をはじめて知っ たが,ふだんは新宿にあった東映・昭和館(任侠 映画3本立て)でひまをつぶしていた。
拙著では書かなかったことを話題にしましょう。
「ニューアカ」,ニュー・アカデミズムですね。い ま大学,そして教育の危機が叫ばれている。世の 中はいまや危機だらけです。東京大学が,地方で の入試PRをはじめた。かつてでは考えられない
ことです。
せっかくの機会だから「ニューアカ」を語りた いと思いました。それというのも,みなさんが学 んでいる駒場キャンパスこそが,ニューアカの中 心地とみなされ,表象文化論こそがニューアカの シンボルとされてしまった時代が続いているから です。(これには誤解もあり,また時代的にずれ があるのですが,省略します)。たとえば本郷キャ ンパスの文学系の危機のあり方とは別の意味で,
駒場は危機を迎えています。駒場の文系のシンボ ルである「表象文化論」という塔が揺らいでいま す。表象文化論の学会が設立されつつありますよ ね。これもかつてでは信じられないことだった。
なんといっても,かつて民間企業である筑摩書 房から紀要を出すという離れ業をしていた専攻で す。紀要といえば,一部の関係者しか読まないの がふつうです。それが季刊誌として,大学外の一 般読者がお金を払って買っていた。これは「ニュー アカ」のひとつの傾向です。
ニューアカというと,通常は80年代の前半に 30歳よりも若かった若手がイメージされる(中 沢,浅田,四方田等々)。けれども,明らかにニュー アカのボスともいうべきひとがふたりいた。蓮實 重彦と柄谷行人です。(栗本慎一郎などみなさん 読まないでしょう,でも実は彼の『経済人類学』
はすごい名著であったりするのです)。一時期お ふたりとも批評家と名乗った。それぞれ文学・映 画/文学・哲学という領域をもっていたとすると,
文学》でふたりは重なっていた。その〈文学〉
でふたりを分かつものがあるとすれば,蓮實さん が強烈な独特な文体で,読みものとしてのパフォー マンスも展開していたのにたいして,柄谷さんは いわばゼロ度の文体,文体がない透明な論理とい うところで勝負していたことだと思います。さて,
ニューアカのブーム後,そして一般に批評が読ま 近代的社会構成(技術・経済システム)による文化・政治・道徳の領域の侵犯
れなくなった時代に,おふたりはどうしたか。も ともとの傾向のつづきとしては,柄谷さんは明ら かに政治性の実践の方へと向かいました。蓮實さ んは激烈なご校務もありましたが,映画の方に重 心を移したことになるのでしょうか。
ご存じの通り,蓮實さんの講演は,ほかに適う 人がいないほど,無敵の話芸をもっていらっしゃ います。わたしはそれこそ批評性だと思います。
柄谷さんは,社会の現状へと目を向け,カントや マルクスといった超古典から,社会にコミットメ ントしようとされています。
わたしがここで話題にしたいのは,「べた」で あることへの回帰という傾向です。カントとマル クスです。駒場,また表象文化論は,ニューアカ 的なスノッブなものとして誤解されてきた側面も あります。わけのわからない現代思想,わからな いほどかっこいいといった,それこそ得たいの知 れない傾向です。実際には,小林康夫さんなんて,
先日NHKの番組で爆笑問題の太田さん相手にやっ ていたように,レオナルド・ダ・ヴィンチなんても ちだして学問の基本を説明したり,「べた」な方だ と思うんですが……。「べた」というのは,昔の言 葉でいう「あつい」と共有するなにかがあります。
80年代には,これは抹殺された傾向です。全 共闘のように「あつい」ことを「べた」に口にす ると,危ないやつだと思われた(笑)。ねあか/
ねくらも重要だったけれども,非政治的であるこ とのスノビズムもあったと思う。太田さんも,べ たそのものです。お笑い芸人がまじめに政治を語っ てはいけないという傾向があった。「ひょうきん 族」の面々にしても,たとえば元ヤンキーの芸人 にしてもそれをパロディにしてしまう批評性があっ た。松本人志たちもそうです。ところが,太田さ んは『憲法9条を世界遺産に!』なんてやってし
まう。しかもそのパートナーが,ニューアカの旗 手であった中沢新一さんです。
このべたなものへの回帰とはなんなんだろうと 思うのです。先日,南米関係の見事な著書を書い た方からメールをもらいました。内容をぼくなり に理解すると,「駒場的スノビズムではなくて,
べたに政治を語る原はかっこいいな」というもの です。これは実はすごく嬉しかった。それという のも,ぼくは政治を語っているという自覚はない のですが,べたな方からべただといわれると嬉し いものです。その方がどれほどべたかというと,
あるシンポジウムで,「なぜぼくが映画と哲学を 同時に研究しているかというと,それはぼくが左 翼知識人だからです」といいきってしまう。
□いまの日本文化の問題
流行はつねに主流へのアンチテーゼとして生ま れる(パンク←テクノ←LAメタル)。
日本人が黒人のHipHopをやり,白人プロレタ リアのパンクをやるだけでは,「自分探し」は見つ からない。おそらく借り物の衣装では,自らの切 実さを表現できない。つまり熱くなれないのです。
Ⅲ.1980
年代論の後に1980年代末から,「ベルリンの壁」に象徴され るソビエト連邦圏内の共産主義国家が相次いで崩 壊した。冷戦後の世界を受けて,その直後から,
フランシス・フクヤマなど,(コジェーヴの読解 を経由して)ヘーゲルの影響を受けた資本主義世 界の支持者たちにより,「歴史の終焉」が唱えら れた。当時は,わたし自身は社会主義という選択 肢がなくなったからといって,それ即ち経済的自 由主義(端的に市場主義,あるいは経済主義と呼 近代的社会構成(技術・経済システム)による文化・政治・道徳の領域の侵犯
ぶべきだろう)の勝利,あるいはその正当性が認 められるとは思わなかった。
ところが,『バブル文化論』でもふれたように,
バブル崩壊後の1990年代は,サブカルチャーの 面でも,低調の時期を迎え,たとえばロック・ミュー ジックにしても,ニルヴァーナの死により象徴さ れるロック絶頂期の峠は過ぎたかのように思われ る。このことは,現在まで続き,いまでも「パン ク30周年」などとロンドン・パンクがもちあげ られたり,あるいは来日ミュージシャンの顔ぶれ も,エリック・クラプトンやチープトリックなど,
60年代から70年代までのロックを懐かしむこと で,気を紛らわせているようにしか思われない。
クラブ・ミュージックからヒップ・ホップまで,
既存のポップスと区別される音楽シーンが現れた ように思った者も多いかもしれないが,実のとこ ろそれはすでに80年代に始まっていたワールド・
ミュージックの掻き集めや,サンプリングやリミッ クスによる過去の名作の取り込みに過ぎない。
映画,ドラマ,アニメでも,『セーラー服と機 関銃』や『時を駆ける少女』,『スケバン刑事』な どのリメイクものが続いている。『ALWAYS 三丁目の夕日』の失われた昭和30年代の光景に 郷愁や,若い世代にとってはまったく未知という 意味で逆説的にも未来的な「過去」が,観客の涙 をそそった。
こうした現象はひとことでいえばクリエイティ ヴィティの喪失である。事情は日本だけではなく,
世界中の先進国で同じである。アメリカ南部の町 のパブレストランでは,ヒップ・ホップなどの最 新の音楽はバッファロー・チップスをつまみにビー ルを呷るBGMでしかないのに,30歳台よりも 老いた者なら誰もが覚えている「Idon・twanna loseyoutonight,baby♪」のサビで,大合唱が 起きるのである。
音楽の制作から販売までがデジタルとなり,受 容する側でもヘッドフォンがメインの聴き方となっ ている。あるいは,一般の筆書きでは歯の立たな いようなコンピューターによる絵画やデザインが もてはやされている。このようなテクノロジーの 変化が,このクリエイティヴィティの退行をもた らしたのだろうか。ベルナール・スティグレール は,現在の社会を「象徴の貧困」と呼び,主に技 術決定主義的,あるいは技術下部構造的な視点を とっている。仮に,科学の成果はただちにテクノ ロジーに応用され,産業により商品化,社会制度 化されるという意味において,スティグレールの 標的が産業に当てられていても,その原因はテク ノロジーに帰せられている。
ところで,世の中の変化はそう簡単なものでは ない。ここではサブカルチャーの例を挙げてきた が,宮台真司が「終わりなき日常」ということば でいち早く看破した若者にとっての社会のフラッ ト化は,経済から政治,そして文化と社会のあら ゆる面で,90年代以降明らかになった現象である。
ある方から「今後,社会が全体性を回復するこ とはあるのか」と問われたときに,わたしは即座 にカリスマのある宗教が現れたら一気にひとびと は信仰にのるでしょうと答えた。2005年の郵政 民営化が焦点の小泉政権下での総選挙は,疑似宗 教である。「なにかを変えてくれる」という信仰 が,無党派層の自民党支持を決定づけた。こうし た傾向にはもちろん理由がある。1990年前後に 超加熱受験競争のなかで大学に進学した世代は,
その後フリーターだ,ニートだと不況下で騒がれ ることになる。彼らはバブル崩壊後の社会の枠組 みの変化に直接の被害を受けたのである。また宗 教の兆候という点では,1990年代後半から2002 年頃を第一段階とし,いまもなお続く民衆の「ナ ショナリズム」と「国家主義」の傾向も,同列に 近代的社会構成(技術・経済システム)による文化・政治・道徳の領域の侵犯
見ることができるだろう。満たされない日常のな かで,北朝鮮や中国という敵に向かう昂揚感がそ こには見られる。ところが,実際にこうした動き にうまく乗せられている者たちは,現実に誰がい まの自分の苛酷な状況を強いているのかを見誤っ ているのである。たとえばそれは,国費の投入に より救済された大企業が新規雇用を避けたことで もあるし,政府が景気回復策に失敗を続けて,膨 大な財政上の債務を残したこともそうである。そ して,なによりも1980年代に,わたしたちがバ ブル景気で浮かれている間に,世界が,ネオリベ ラリズムによるグローバル支配を着々と進めてい たことがある。もちろんレーガン元大統領に始ま る世銀やIMFを使ったグローバル支配も,各国 の経済状況を過度に不安定にしたし,なおかつブッ シュ大統領による「テロとの戦争」に見られるよ うに,各国民レベルでの真の「自由」は過度に窮 屈になってきている。盗聴に始まり,非合法の拘 留,国内でもビラの投函による逮捕など,行政府 だけではなく,司法も行政も,ネオリベという名 の全体主義的になりつつある。
ところで,先ほど言及したフクヤマの『歴史の 終焉』を日本で広めたのは,現在では国家主義,
あるいは歴史修正主義の大御所として知られる渡 部昇一であった。こうして歴史の終焉から現在の ナショナリズムまで,またバブル崩壊から現在の ネオリベ体制までは,常に一貫しているのである。
こうしたなかで,わたしは近代が頂点を迎えた ことを認めつつも,近代を徹底的に総括する以前 に「ポストモダン」を提唱するのは,あまりにも 虫のよい話に思われるのだ。イデオロギー的には,
「右翼」と「左翼」の闘いは終わった。もしも今 後このことばを使い続けるならば,わたしたちは 語の再定義を行わなければならない。現代,共産 主義革命を信じている者はごく少数に過ぎないか
らである。また自由主義ということばも,明瞭に
「経済的自由主義」と呼ぶべきである。さて,ネ オリベは世界市場というグローバル化を前提とし,
実際そのように進みつつある。そのなかで,「マ ルチチュード」のグループのように,わたしたち はいつの間にかポストモダン期にはいってしまっ た,そこではごく少数のグローバルな支配者たち を除いては,みなマルチチュードであり,これが 新たなプロレタリアートなのだと唱える者たちも いる。わたしはこれに全面的に違和感をおぼえる。
それというのも,いつの間にかポストモダン期に いるとの事実確認は,なにが近代の理想を壊した のかを問わずにいるし,新たなプロレタリアート といっても,彼らが念頭におく先進諸国の低所得 層だけではなく,世界には貧困で雁字搦めにされ つづけてきたいわゆる「南」の極貧状態の者たち が近代の負の遺産としていつでもいた。また,
「マルチチュード」に異議を唱え,「南」を積極的 に擁護する「世界社会フォーラム」の中心メンバー たちとも,わたしは意見を違える。マルクスの分 析がどれほど明晰であっても,マルクス主義はも はや不可能だとの認識からしか,近代の反省と新 たな時代への再出発は始まらないであろう。
まず「資本主義」を(共産主義の全体主義より まし)といった否定的な評価ではなく,そのなか にどのように肯定的な評価が見出されるのかといっ た問題がある。また,1.技術―経済システムの損 得/有用・無用,2.政治・法システムの合法/非 合法,3.道徳システムの善悪,想像力(以上,ア ンドレ・コントスポンヴィルから借用,変形)
を前提に,こんがらがった社会をどのように建て 直すのかという課題が待っている。
(2006年12月20日論叢事務局受理)
近代的社会構成(技術・経済システム)による文化・政治・道徳の領域の侵犯