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雑誌名 金沢大学歴史言語文化学系論集 史学 ・ 考古学篇

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アインジーデルン修道院の訴状 (1311 年): スイス 中央山岳地域における「境界紛争」史料

著者 田中 俊之

雑誌名 金沢大学歴史言語文化学系論集 史学 ・ 考古学篇

= Studies and Essays : History and Archaeology

号 9

ページ 29‑52

発行年 2017‑03‑25

URL http://hdl.handle.net/2297/47451

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アインジーデルン修道院の訴状(1311年)

− ス イ ス 中 央 山 岳 地 域 に お け る 「 境 界 紛 争 」 史 料

田 中 俊 之

I

本 稿 は 、 ス イ ス 中 央 山 岳 地 域 に 位 置 し 、 盟 約 者 団 国 家 ス イ ス の 核 を な し た 原 初 三 邦 の 1 つ シ ュ ヴ ィ ー ツ の 住 民 と 、 シ ュ ヴ ィ ー ツ 北 東 に 位 置 し 、 広 大 な 所 領 に 世 俗 支 配 権 を 行 使 し て い た ア イ ン ジーデルン修道院とのあいだで、長期にわたって争われた「境界紛争」に関して、1311年にアイ ンジーデルン修道院から提出された訴状 を題材に、史料邦訳と内容の整理を試みるとともに、

「境界紛争」を通して見えてくるものは何かを考察しようとしたものである。

「境界紛争」とは一般に、中世後期ならびに近世において、個々の渓谷共同体やゲマインデな どと修道院とのあいだで、領域の境界や用益権をめぐって争われた紛争の呼称である2。「境界紛 争 」 は ヨ ー ロ ッ パ 各 地 に 見 出 す こ と が で き 、 必 ず し も ア ル プ ス 地 域 に 限 定 さ れ な い 。 紛 争 の 原 因 と な り え た の は 、 不 明 確 な 高 権 ( 立 法 権 、 行 政 権 、 裁 判 権 な ど 正 当 支 配 の 行 使 権 ) 、 不 明 確 な 所 有 権 を と も な う 領 域 へ の 共 同 用 益 、 農 耕 か ら 牧 畜 へ の 切 り 替 え 、 人 口 圧 、 経 済 活 動 の 拡 張 、 入 植 な ど で あ っ た 。 今 日 の ス イ ス の 領 域 に 関 し て 最 も よ く 知 ら れ て い る の が 、 シ ュ ヴ ィ ー ツ 住 民 と ア インジーデルン修道院とのあいだの紛争である。

こ の シ ュ ヴ イ ー ツ 対 ア イ ン ジ ー デ ル ン の 「 境 界 紛 争 」 が ス イ ス 史 に お い て 意 味 を 持 つ の は 、 そ れ が 1 3 1 5 年 の モ ル ガ ル テ ン の 戦 い に 至 る プ ロ セ ス と 不 可 分 の 関 係 に あ る か ら で あ る 。

1291年8月1日のいわゆる「永久同盟」における原初三邦ウーリ、シュヴイーツ、ニトヴア ルデンの相互援助同盟をスイス盟約者団の起源と捉える動向は、学術的にも一般的にも広く定着

しているが3,1315年11月15日のモルガルテンの戦い、そして同年12月9日の「モルガルテ ン 同 盟 」 に お け る 原 初 三 邦 ウ ー リ 、 シ ュ ヴ ィ ー ツ 、 ウ ン タ ー ヴ ァ ル デ ン に よ る 相 互 援 助 同 盟 は 、

「 永 久 同 盟 」 の 延 長 上 に 位 置 す る 出 来 事 と し て 認 識 さ れ て い る と い え る 。 と り わ け モ ル ガ ル テ ン の 戦 い は 、 原 初 三 邦 ( 特 に シ ュ ヴ イ ー ツ ) が ハ プ ス ブ ル ク 軍 と は じ め て 戦 っ て 大 勝 利 を 収 め た と さ れ る 戦 い で あ り 、 そ の 後 の ハ プ ス ブ ル ク 家 と の 一 連 の 戦 闘 の 輝 か し い 緒 戦 と し て 、 初 期 盟 約 者 団の歴史において画期的な意味を持ったであろう4.

モ ル ガ ル テ ン の 戦 い の 直 接 の 原 因 は 、 1 3 1 4 年 1 月 6 日 に 始 ま る シ ュ ヴ イ ー ツ 住 民 に よ る ア イ ン ジ ー デ ル ン 修 道 院 へ の 侵 入 、 器 物 損 壊 、 修 道 士 お よ び 修 道 院 隷 属 民 の 監 禁 ・ 拉 致 な ど の 暴 挙 ・ 襲撃であった5.ハプスブルク家がモルガルテンの戦いに挑んだのは、この惨事ののち、アイン ジ ー デ ル ン 修 道 院 長 ヨ ハ ン ネ ス ( 1 世 ) か ら の 強 い 要 請 を 受 け て の こ と で あ り 、 修 道 院 長 が ハ プ スブルク家に出動要請したのは、ハプスブルク家が1283年にアインジーデルン修道院に対する 保護権(Schirmvogtei)を獲得していたからである6.またすでに1173年頃にハプスブルク家は シュヴイーツに対するフオークト権(Vogtrecht)を得ていたが7,1309年6月3日、国王ハイン

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リ ヒ 7 世 の 名 で ウ ー リ 、 シ ュ ヴ イ ー ツ 、 ウ ン タ ー ヴ ァ ル デ ン に そ れ ぞ れ 帝 国 直 属 を 承 認 す る 旨 の 特許状が発布されるや8、これに強く反発したとされる9。こうしてモルガルテンの戦いに至るプ ロ セ ス に 、 原 初 三 邦 ( 特 に シ ュ ヴ ィ ー ツ ) と ハ プ ス ブ ル ク 家 と の あ い だ の 対 立 関 係 と い う 図 式 が あ ら た め て 浮 上 す る こ と に な る が 、 こ れ に 1 3 0 8 年 5 月 1 日 の 国 王 ア ル ブ レ ヒ ト 1 世 ( ハ プ ス ブ ルク家)暗殺後の国王選挙におけるハインリヒ7世(ルクセンブルク家)対フリードリヒ(ハプ スブルク家)の王位争い、さらに1313年の国王ハインリヒ7世死後の国王選挙におけるルート ヴイヒ4世(ヴイッテルスバハ家)対フリードリヒ(ハプスブルク家)の王位争いを、国制史的 な観点からの根拠として位置づければ、モルガルテンの戦いに至るプロセスはハプスブルク家を 中心とした重層的、かつ専ら政治的な要因を抱えていたことになるだろう 0.

しかし、スイス盟約者団形成のプロセスはハプスブルク支配への抵抗、ハプスブルク家からの 解放・独立の歴史であるとする伝統的な歴史認識に基づいて '、ここでもハプスブルク家の動向 を中心に据えた政治的要因を前面に押し出しすぎると、それ以外の要素が持つ意味を倭小化して しまう。1314年のシュヴイーツ住民によるアインジーデルン修道院襲撃を「境界紛争」の文脈 で捉え直してみれば、ハプスブルク家との対立関係のみに依存しない新たな視点のもとで、1300 年前後のスイス中央山岳地域を眺望することができるのではないかと考えるのである。

近年、ロジェ・サブロニエは、とりわけスイス中央山岳地域を対象に、13.14世紀における 地域経済のあり方に新しい観点を持ち込むことによって、初期盟約者団の成立をめぐる議論に新 風を吹き込んだ12.サブロニエの研究をふまえて「境界紛争」の意味を再検討してみれば、1314 年のアインジーデルン修道院襲撃のより現実的な背景が浮かび上がってくる。「境界紛争」史料

としての1311年の訴状は、どのような現実を語ってくれるであろうか。

次章では、サブロニエが主張する13世紀のスイス中央山岳地域で生じた経済構造の転換を中 心に、13.14世紀における「境界紛争」の本質、その研究史上の意義について確認しておきた い。

Ⅱ.

最初にシュヴイーツ対アインジーデルン修道院の「境界紛争」の経緯を概観しておこう 3.

アインジーデルン修道院の起源は9世紀に遡るとされ、947年には国王オットー1世から修道 院長の自由選挙権とイムニテート特権を授与されているが 4、シュヴィーツ住民とのあいだの

「境界紛争」は12世紀になって確認できる。1018年、皇帝ハインリヒ2世は下シールタールの 森林とアルプタールを修道院に寄進していたが、すでに1100年以前には、ミーテンの分水嶺の 北側に位置するこの領域にシュヴイーツ住民による開墾進出が行われていたという。その後も継 続するシュヴイーツ人の進出に対し、修道院長ゲロは訴えを起こし、皇帝ハインリヒ5世は1114 年3月10日、947年の文書に基づいて修道院を厚遇する裁定をなした。国王コンラート3世も また1143年の紛争に際して、1114年の境界設定を確認した。しかしシュヴイーツ住民による境 界侵犯は止まず、新たな放牧地の利用、開墾進出、小屋の建設等を企てた。修道院はシュヴィー ツ住民の行動に反応し、13世紀初頭、当時、修道院の保護権を持っていたラッパースヴィル家の

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代 官 ら に 家 畜 を 差 し 押 さ え さ せ 、 小 屋 を 焼 き 払 わ せ た 。 だ が そ の 反 動 を ア イ ン ジ ー デ ル ン の 修 道 士たちは1217年に経験することになる。チューリヒガウのラントグラーフでもあったハプスブ ルク家のルードルフ2世は、1114年および1143年の裁定を覆してシュヴイーツ側に有利な裁定 を 下 し 、 今 日 の 2 つ の ゲ マ イ ン デ 、 オ ー ベ リ ベ ル ク と ウ ン テ リ ベ ル ク 、 な ら び に ア ル プ タ ー ル を シュヴイーツに帰属させたのである 5。その結果、修道院は所領のほぼ半分を失い、その大部分 をシュヴイーツ住民と共同利用することになったという 6。

さて、13世紀の過程で紛争は激しさを増した。シュヴイーツ住民は修道院領に侵入して新たな 領 域 を 「 開 拓 」 す る 一 方 、 修 道 院 側 は 再 三 、 国 王 に 訴 え 、 未 開 墾 地 に 関 す る 国 王 の 自 由 処 分 権 と それに由来する1018年の寄進文書の法的有効性によりどころを求めた。しかしシュヴイーツ側 は植民者としての権利を慣習法に基づき主張したのである。14世紀に入っても紛争は激化の一途 をたどる。修道院長は1309年、コンスタンツの教会裁判でシュヴイーツのラントアンマンと助 っ人たち十余人に対する破門(Exkommunikation)を勝ち取ったが17、シュヴイーツ側の抵抗の 結果、教皇がそれを破棄した18.1311年、チューリヒの仲裁裁判官(Obmann)老ルードルフ・

ミ ュ ル ナ ー が あ ら た め て 「 境 界 紛 争 」 を 仲 裁 し よ う と 試 み た が 、 そ の と き 修 道 院 側 か ら 提 出 さ れ たのが、本稿で検討する1311年の訴状であったと見てよい。ミュルナーは同年6月19日に、シ ュトウンデン、アルトマットの領域における修道院の土地を修道院に返却するよう命じたが 9、

シュヴイーツ側はやはりおそらく不服従を貫いたであろう。1314年のアインジーデルン修道院 襲撃は、不服従がさらに暴発した結果と受け取れる。紛争の決着は1350年、デイセンテイス修 道院長テューリング・フォン・アッティングハウゼンによる仲裁のもとで実現した20.そこで詳 細 に 取 り 決 め ら れ た 境 界 は 大 部 分 、 今 日 の シ ュ ヴ ィ ー ツ 管 区 と ア イ ン ジ ー デ ル ン の 境 界 を な し て いる。

以上の経緯をふまえ、ここで問題としたいのは、13世紀から14世紀に至る過程で紛争が激化 し て い っ た 要 因 に つ い て で あ る 。 こ れ に は ス イ ス 中 央 山 岳 地 域 で お そ ら く 1 3 世 紀 に 生 じ た で あ ろうある大きな経済的社会的変化が影響していると考えられる。

ア ル プ ス 中 央 山 岳 地 域 を 南 北 に 縦 断 す る ザ ン ク ト ・ ゴ ッ ト ハ ル ト 峠 ル ー ト が 開 通 し た の は 1 3 世紀初め頃であったとされている2'・アルプス以北・以南を最短距離で結ぶこのゴットハルト・

ルートの開通は、南北双方からの人・モノの流れを活性化することによって、周辺の住民に大き な経済効果をもたらすとともに、外部諸勢力の干渉.介入をも招くことになったと考えられる22.

サ ブ ロ ニ エ は そ う し た 状 況 下 に お け る 地 域 経 済 の 変 化 に 着 目 す る 。 サ ブ ロ ニ エ に よ れ ば 、 中 央 ス イス全域において、地域支配の主導権を握っていたのは修道院であった23.聖職者の共同体とし て の 修 道 院 は 、 教 養 、 宗 教 文 化 の 拠 点 で あ る と 同 時 に 、 世 俗 支 配 権 を 持 つ 土 地 領 主 と し て 経 済 的 ・ 社 会 的 勢 力 で も あ っ た 。 ス イ ス に お い て 当 時 の 経 済 活 動 の 基 盤 は 農 耕 と 家 畜 の 飼 育 で あ っ た が 、 丘陵・山岳地帯では三圃制は定着せず、四方に散在する広大な放牧地を利用して、牛、馬、鱸馬、

驍 馬 な ど の 大 型 家 畜 、 羊 、 山 羊 、 豚 、 家 禽 な ど の 小 型 家 畜 を 扱 う 家 畜 経 済 が 主 流 に な っ て い っ た といわれている24・その主導的役割を担ったのが修道院であった。スイス中央山岳地域では、修 道 院 は 1 3 世 紀 後 半 以 降 、 広 大 な 土 地 を そ れ ぞ れ 修 道 院 隷 属 民 に 貸 与 し 、 小 作 化 す る な ど し て 大

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推測させる。1311年の訴状を通じて、どのような具体的イメージを抱くことができるであろうか。

次章では、1311年の訴状の内容を検討し、紛争の特徴を整理しておきたい。

Ⅲ、

1311年の訴状は全46ケ条からなり32、その豊富な内容から、「境界紛争」の実態を知るうえ できわめて有益である。訴えの広範な内容からは、「境界紛争」においてアインジーデルン修道 院 が 被 っ て き た 個 々 の 被 害 の 詳 細 が わ か る と と も に 、 修 道 院 に 被 害 を も た ら し た シ ュ ヴ イ ー ツ 住 民 の 行 動 の 態 様 も 把 握 す る こ と が で き る 。

46ケ条全体を傭鰍してまずいえることは、一部に例外は見られるものの、ほぼすべての条文が 同 じ 形 式 の 文 言 で 始 ま り 、 同 じ 形 式 の 文 言 で 終 わ っ て い る こ と で あ る 。 冒 頭 、 末 尾 そ れ ぞ れ に お いて、表現のしかたや使われている単語、その入れ替え、省略、|│頂番などにいくつかのヴァリエ ー シ ョ ン は あ る が 、 定 式 化 さ れ た 表 現 が 使 わ れ て い る と い え る 。 す な わ ち 、 冒 頭 部 は 、 「 わ が 主 人 た ち ア イ ン ジ ー デ ル ン 修 道 院 の 修 道 院 長 と 修 道 士 た ち は 、 修 道 院 の 名 に お い て 、 4 人 の 仲 裁 者 な ら び に 仲 裁 裁 判 官 に む け て 、 シ ュ ヴ ィ ー ツ の 農 民 た ち に 対 し 告 訴 し 、 手 続 き を 行 う 。 」 で あ り 、 末尾は、「そこで彼ら(農民たち)が彼ら(修道院)に対し損害、襲撃、不法を処理し、(事態を)

改善するべきか、わが主人たちは法的手続きを取った。」、もしくは「そこでわが主人たち修道院 長 と 修 道 士 た ち は 法 的 手 続 き を 取 っ た 。 そ し て 仲 裁 者 な ら び に 仲 裁 裁 判 官 に 、 彼 ら ( 農 民 た ち ) が 彼 ら ( 修 道 院 ) に 対 し 損 害 、 不 法 、 襲 撃 を 処 理 し 、 ( 事 態 を ) 改 善 し 、 償 う べ き か を 誓 約 の も とに確認するよう求めた。」である。「(4人の)仲裁者ならびに(1人の)仲裁裁判官」とは、チ ューリヒの都市裁判所を指していると考えられる。1309年以降にも都市チューリヒはまつたく 私欲がないとはいえない紛争の仲裁の試みに着手した、とケスラーが述べているように33、チュ ー リ ヒ は 何 ら か の 利 害 を 念 頭 に 仲 裁 裁 判 所 と し て の 機 能 を 果 た し 、 ア イ ン ジ ー デ ル ン 修 道 院 に よ

る 告 訴 に 基 づ い て 、 そ の 内 容 を 定 式 化 し た 文 言 で 整 序 し て い っ た と 見 て よ い だ ろ う 。

各 条 文 の 冒 頭 と 末 尾 の あ い だ に 挟 ま れ た 部 分 が 個 別 の 訴 え の 内 容 と い う こ と に な る 。 第 1 条 に は 、 「 コ ン ス タ ン ツ に 訴 え 出 た 」 く だ り が 示 さ れ て い る よ う に 、 今 回 の チ ュ ー リ ヒ 都 市 裁 判 所 へ の訴えに至る直近の経緯が記されていると見てよかろう。アインジーデルン修道院とシュヴイー ツ 住 民 と の あ い だ の 「 境 界 紛 争 」 が 1 4 世 紀 に 入 っ て ま す ま す 激 化 し た こ と を 受 け て 、 す で に 述 べ た よ う に 、 1 3 0 9 年 に は 修 道 院 側 が シ ュ ヴ イ ー ツ 住 民 を コ ン ス タ ン ツ の 教 会 裁 判 所 に 告 訴 し た 結 果 、 シ ュ ヴ ィ ー ツ 住 民 に 対 し コ ン ス タ ン ツ 司 教 に よ る 罰 と し て 破 門 宣 告 が な さ れ た 。 し か し 翌 1310年には、教皇による異議が罰令を破棄させ、それによってシュヴイーツ住民との紛争はさ ら に 激 化 し た の だ と 考 え ら れ る 。 「 し か る に 農 民 た ち は 、 裁 判 所 に よ っ て 命 じ ら れ た 上 述 の 判 決 に服従しなかったため、われわれは消耗し」とは、そのことを指しているだろう。アインジーデ ル ン の 修 道 院 長 な い し 修 道 士 た ち は 、 さ ら に 激 化 す る シ ュ ヴ ィ ー ツ 住 民 の 不 法 行 為 を 目 の 当 た り に し て 気 力 を 削 が れ 、 「 消 耗 し 」 た の で あ る 。 こ の こ と が チ ュ ー リ ヒ 都 市 裁 判 所 へ の 告 訴 へ と 直 接つながったと見てよい。

以 下 、 個 別 の 事 例 に つ い て 形 式 あ る い は 内 容 に 関 す る 特 徴 を 見 て お こ う 。

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い く つ か の 条 文 で は 、 シ ュ ヴ イ ー ツ 住 民 に よ る 修 道 院 領 へ の 不 法 侵 入 、 家 屋 を 構 え て 住 み つ く な ど の 不 法 定 住 、 放 牧 な ど の 不 法 用 益 に つ い て 述 べ ら れ て い る ( 第 2 , 3 , 9 条 ) 。 例 え ば 、 第 2 条で言及されているのは、修道院長アンシェルム(在1233‑66年)の時代に、そうしたことが す で に 行 わ れ て い た が 、 そ こ は 修 道 院 隷 属 民 が 土 地 を 貸 与 さ れ た 小 作 人 と し て 定 住 し 、 放 牧 し て いた場所であり、これは権利の侵害に当たるがゆえに、シュヴィーツ住民の境界侵犯に対しては、

家屋の破却によって不法行為の停止を求めるとしている。第3条では、第2条の例(場所)とは 違 っ て 修 道 院 長 ア ン シ ェ ル ム の 時 代 に は ま だ 平 穏 で あ っ た が 、 今 や 第 2 条 と 同 様 に 権 利 が 侵 害 さ れ て い る と 訴 え 、 家 屋 の 破 却 を も っ て 処 理 す べ し と 求 め る の で あ る 。 修 道 院 長 ア ン シ ェ ル ム の 時 代が平穏であったことを比較の対象としている条文は他にも散見される(第3,4,5,9,13条)。

こ う し た 境 界 侵 犯 に 加 え 、 よ り 深 刻 な 問 題 と し て 浮 上 し て い る の が 、 多 く の 条 文 で 言 及 さ れ て い る よ う に 、 牛 、 馬 な ど の 大 型 家 畜 の 強 奪 、 さ ら に は 干 し 草 、 乳 製 品 な ど の 強 奪 で あ る ( 第 8 、 10,14,15,18,27,28,30,31、32,33,35,37,38,39,43条)。大型家畜や乳製品の強 奪は、修道院にとって大きな経済的損失となったであろう。なぜなら、サブロニエが主張するよ う に 、 修 道 院 に と っ て そ れ ら は ミ ラ ノ や チ ュ ー リ ヒ な ど の 諸 都 市 へ 輸 出 す る た め の 貴 重 な 商 品 た りえたからである34。例えば、第10,14,18条などには、強奪されたことによる損害額が明示 さ れ て い る 。 こ の こ と は 、 こ の 時 期 す で に 修 道 院 を 中 心 と し た 組 織 的 な 家 畜 経 営 が 軌 道 に 乗 り 、 輸出商業が活発化していたことを窺わせる。シュヴィーツやシュタイネンの農民たちによるこう した強奪行為は、修道院にとって看過できない問題であったのである。また修道院領での強奪に 加えて、修道院そのものの内部での強奪行為もなされていた(第22条)。

エスカレートしていく暴挙の極みは拉致(第17,42条)、殺人(第6,11,12,13条)であ る 。 拉 致 に 関 し て は 、 例 え ば 、 第 1 7 条 で 身 代 金 の 要 求 が な さ れ て い る 点 が 特 徴 的 で あ る 。 殺 人 に 関 し て は 、 例 え ば 、 第 6 条 の よ う に 簡 潔 に 述 べ る に と ど ま る も の か ら は 、 身 代 金 要 求 が 実 現 し な か っ た こ と に よ る と 推 測 さ せ る も の や 、 第 1 1 条 以 下 の よ う に 、 大 挙 し て 押 し か け て の 故 殺 を 想わせるものもある。

強奪など不法行為の具体的な行動、手段として明示されているもので特徴的なのは、牧草地の 柵、垣根、納屋を破って(第24,25,27,28,31,32、35,37,38,39条)、また暴力でもっ て(第5条)、武装して(第14,24,25,43,44条)である。これに加えて、「旗を掲げ」(第 10,14,43条)ての正々堂々たる暴力行為は、まさしくフェーデを想起させるものであろう35。

とりわけ、「旗を掲げ」ての行動は、農民側に正当性があると農民自身が認識している証しとも 解釈できる。

さ ら に 加 え て 特 徴 的 な 行 動 様 式 と し て 、 襲 撃 お よ び 不 法 行 為 を 大 挙 し て お こ な っ て い る 点 が 挙 げられよう(第10,11,13,14,19,24,25,27、28,29,30,38,44条)。例えば、第10 条では200人、第13条では300人、第24条では300人あるいはそれ以上、第25条では100 人以上とある。最低でも100人以上、多ければ300人以上に及ぶ規模で男どもが襲撃を仕掛けて

くる情景は想像を絶する36.

男 ど も が 襲 撃 を 仕 掛 け 、 士 地 を 荒 廃 さ せ る ほ ど に 荒 ら し 回 っ て い る 点 も 特 筆 す べ き で あ ろ う

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(第16,19,26条)。具体的には、家畜を連れてきて荒らし、草を食い尽くさせるという行為に よって荒廃がもたらされたと考えられる(第26,31条)。例えば、第26条にあるように、毎年、

一定期間、引き連れられてきた200頭、300頭規模の家畜によって牧草地が荒らされ、それが毎 日続く、あるいはそれが日に2回に及ぶことは、修道院にとって大きなダメージであっただろう。

こうした不法行為を主導するリーダー格の人間がいたことは、いくつかの条文に個人名が挙げ られていることからもわかる(第15,27,28,30,32,33,38条)。第15条には2人、第27 条、第28条には4人、第30条には1人、第32条、第33条には3人が特定されているが、第 38条に至っては36人にも及んでいる37.

さて、修道院側が訴えの根拠としているのが、昔も今もそこが修道院領であるという認識であ る。「修道院に帰属してきた」、「今なお当然ながら修道院に帰属している」などの表現がその認 識の表れであろう(第5、7,9,10,14,19,30条)。しかし襄撃を仕掛けてくる農民側にはそ の 理 屈 は 通 用 し な か っ た と い う こ と で あ る 。

同じく、修道院側が訴えの根拠としているのが、襄撃を仕掛けてくる農民側に合法性はなく権 利もないと修道院側が認識している点である。「合法でもなく権利もないのに」という表現が使 われている条文は、46ケ条のうち26ケ条に及ぶ(第4、7,8,10,15,19,20,21,24、25,

27,28,30,31,32,33,34、35,37,39,41,42,43,44,45、46条)。サブロニエは「合 法」を「裁判による決議」と具体的に捉えており38、それもふまえれば、農民の暴挙を糾弾する 根拠として、農民側の法的正当性の欠如を修道院側は声高に叫んでいるといえよう。しかし農民 側からすれば、修道院側の「合法でもなく権利もないのに」という主張は当たらず、みずからに 正当性がある認識していたと考えられ、その観点からすれば、農民たちは「合法と権利を振りか

ざして」修道院側に対し襲撃を仕掛けてきたということになるだろう。

禁制圏に言及した条文(第5、23,42条)、境域に言及した条文(第38,39,43条)がある が、修道院側がみずからの正当性を訴えたところで、農民側にとってはこれら法的境界も何ら歯 止 め の 意 味 も な さ な か っ た と い う こ と に な ろ う 。

Ⅳ、

スイス中央山岳地域において、ゴットハルト・ルートの開通を受けて活発化したであろう修道 院主導の地域経済は、それまでの地域の経済構造に大きな変化をもたらしたと考えられる。修道 院と近隣住民とのあいだで激しく争われてきた「境界紛争」が13世紀から14世紀へと激しさを 増したのは、そうした経済構造の変化に呼応しての質的変化のあらわれだったのではないだろう か。訴状ではしばしば修道院長アンシェルムの時代が引き合いに出されているが、それが13世 紀中盤にかけての時期だったとすれば、ゴットハルト・ルートの開通を受けて修道院主導の地域 経済が活性化してきた時期と符合する。それ以降、修道院は激しさを増すシュヴィーツ住民の暴 力 行 為 に 直 面 す る こ と に な る の で あ る 。

他方、シュヴィーツ住民側のますますエスカレートする暴力行為には、農民側にとっては大義 の証し、修道院側への異議申し立てとの意味合いを込めることができる。それは、新しい経済構

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造に乗り遅れた住民たちの危機感、脅迫感のあらわれであったと同時に、1309年に帝国直属の 地位を得たことによる自意識の高揚のあらわれであったと見ることもできるであろう39.

1300年前後のスイス中央山岳地域において、もしくは原初三邦ウーリ、シュヴィーツ、ウン ターヴァルデンにとって、何が問題であったと考えるべきか。そして何が三邦に相互援助同盟を 結ばせたのか。三邦は何に脅威を感じ、危機感を募らせたのか。直接ハプスブルク家との関係に 原因を求めるべきなのか。商業の拠点として地域経済の主導権を得ようとする都市、地域におけ る紛争の仲裁者としての機能を果たそうとする都市(ここではチューリヒを念頭に置いている)

を ど の よ う に 位 置 づ け る べ き で あ ろ う か 。 こ れ ま で つ ね に ス イ ス 史 全 体 を 覆 っ て き た 対 ハ プ ス ブ ルク闘争史観をいかに相対化し、これまで後景に退いていた別の要素にどのような意味を見出せ るかを考えたとき、「境界紛争」をめぐる地域における諸関係は、1つの視点を提示してくれてい ると考える。本稿では、ウーリ、シュヴイーツ、ウンターヴァルデンの全体を含めた地域につい てはもちろん、個々の論点を十分に深めて考察するには至っていない。引き続き検討を続けたい。

1活字化された原文は、Que"e"werkzz"・""tsteb""gderMhweiZe画schen〃〔妙"osse"scha"

A〃e"ロ"g正mqkzmde",Bd.2,bearb.vonSchie6,Traugott(vollendetvonMeyer,Bruno),Aaraul937, S.281‑291(Nr.579)に掲載。(以下、Qwと略記。)サブロニエによれば、原史料はアインジーデルン修道院 文書庫にA.BK.6という分類番号で所蔵されているという。Sablonier,Roger,PolitischerWandelund gesellschaftlicheEntwicklungl200‑1350.in:HistorischerVereindesKantonsSchwyz(Hg.),Die GeschiChtedesKKa"o"s」Mh"yz,Bd.1,Ztirich2012,S.256.QWによれば、原史料は3枚の羊皮紙が縫い 合わされたもので、長さは33.5‑35.5cm、幅12.5‑13.5cmで、両面に記述されている。その状態から種々 の 推 測 が な さ れ る が 、 そ れ は 例 え ば 、 訴 状 の 冒 頭 部 が 欠 落 し て い る 、 3 枚 の 羊 皮 紙 は 正 し い 順 番 で 縫 い 合 わ されていない、全体もしくは一部分が協議の過程で提出された、などである。他方、原史料は清書されたも の で は な く 、 草 稿 で あ っ て 、 そ れ は 、 わ か り づ ら く 、 時 間 的 な 連 続 性 と 一 致 し な い 配 列 で 説 明 さ れ て い る こ

とからわかるとする示唆もある。(QWI/2,S.281)

2「境界紛争」についてはさしあたり、Michel,Kaspar,Marchenstreit.in:StiftungHistorischesLexikon derSchweiz(Hg.),"おオoriSchesLexikonderjRh""e",Bd.8,Base12009,S.282f.を参照。

3 こ の 間 題 に 関 し て 、 日 本 で は 、 瀬 原 義 生 氏 、 森 田 安 一 氏 、 斎 藤 泰 氏 を 先 駆 的 研 究 者 と し て 挙 げ る こ と が できる。その代表的業績として、瀬原義生『スイス独立史研究』(ミネルヴァ書房、2009)、同『精説スイス 史」(文理閣、2015)、森田安一「物語スイスの歴史一知恵ある孤高の小国」(中公新書、2000)、斎藤泰「原 スイスの永久同盟文書‑1291年同盟文書と1315年更新文書一」「西洋史研究(新輯)」12(1983)141‑157 ペ ー ジ 、 同 「 原 ス イ ス 永 久 同 盟 の 国 制 的 意 義 」 佐 藤 伊 久 男 編 『 ヨ ー ロ ッ パ に お け る 統 合 的 諸 権 力 の 構 造 と 展 開』(創文社、1994)309‑345ページ、同「中スイス渓谷の皇帝特許状」『秋大史學』42(1996)1−28ペー ジ、同「スイス連邦の「起源」‑1291年同盟文耆とテル伝説一」「秋大史學』55(2009)1−25ページを挙 げ て お こ う 。 ス イ ス 史 研 究 の 新 し い 視 角 や 潮 流 に つ い て は 、 踊 共 二 ・ 岩 井 隆 夫 編 「 ス イ ス 史 研 究 の 新 地 平 一 都市・農村・国家」(昭和堂、2011)、踊共二編「アルプス文化史一越境・交流・生成」(昭和堂、2015)を 参照。また翻訳では、ウルリヒ・イム・ホープ(森田安一監訳)『スイスの歴史」(刀水書房、1997)、クリ ストフ・ビユヒ(片山淳子訳)『もう一つのスイス史一独語圏・仏語圏の間の深い溝一』(刀水書房、2012)

が参照されるべきである。

(10)

4モルガルテンの戦いを国制史的視点から簡潔にまとめた記述として、Wiget,Josef,Morgartenkrieg.in:

StiftungHistorischesLexikonderSchweiz(Hg.),HIStoriSchesZ,exiko"der・,Rhweiz,Bd.8,Basel2009,

S.725ff.

5詳細については、Kessler,Valentin,<<undmanschamtsich,solchgotteslasterlicheTatenzu berichten>>DerUberfallderSchwyzerLandleuteaufdasKlosterEinsiedelnl314‑einUberblick・in:

〃?"eiノan深nttsHiSmr海めe刀陥remsdesKa"to"s'Rhwwz,107(2015),S.40を参照。

6Michel,Marchenstreit,S、283.

7Michel,Marchenstreit,S.283.

8Wiget,Morgartenkrieg,S.725.QWI/2,Nr.480,S.231・232.特にシュヴイーツについて、ハインリヒ 7世は別文書で皇帝フリードリヒ2世、国王アードルフそれぞれの自由特許状を追認している。QWI/2, Nr.481,S.232‑233.なお、ニトヴアルデン、オプヴアルデンをあわせて、ウンターヴアルデンとなったこ とは周知のとおりである。

9Wiget,Morgartenkrieg,S.725.

10Wiget,Morgartenkrieg,S.725f.また、2つの国王選挙の経緯については、踊共二『図説スイスの歴 史」(河出書房新社、2011)31ページ以下を参照。本書はスイス史全体を眺望するうえで至便である。

1 1 そ の ス タ ン ス は 、 日 本 で は 瀬 原 『 ス イ ス 独 立 史 研 究 』 に と り わ け 顕 著 に 見 ら れ る 。

12代表的業績として、Sablonier,Roger,Gr加伽刀鐸ze"ohneEi(をFnossen.乃脆ik""dGese"scha"m (tr血neIgchwe吻口mZ30QBaden2008を挙げておく。サブロニエは、「永久同盟」文書の成立を1291年 8 月 1 日 と す る 点 に も 、 ま た ウ ー リ 、 シ ュ ヴ ィ ー ツ 、 ニ ト ヴ ァ ル デ ン に よ る 相 互 援 助 同 盟 と い う 点 に も 独自の観点・解釈から疑義を呈している。

13以下の叙述は、Michel,Marchenstreit,S.283に依拠しつつ、随時、他の文献を参照して補足している。

14Kessler,DerUberfall,S.40.

15QWI/1,Nr.252,S.118ff.瀬原『スイス独立史研究」61‑62ページ。

16Kessler,DerUberfall,S.45.

17Kessler,DerUberfall,S.45.QWI/2,Nr.499,S.243‑244.

18Kessler,DerUberfall,S.45.QWI/2,Nr.552,S、265‑266.

19QWI/2,Nr.600,S.302‑303はその判決文である。

20Kessler,DerUberfall,S.48.

21瀬原氏は、ザンクト・ゴットハルト峠の開通時期に関する3つの説、①10世紀初頭以前、②12世紀前 半、③13世紀の30年代を比較し、②12世紀前半とする説を採っている。瀬原『スイス独立史研究』67‑68 ページを参照。

22伝統的歴史観のもとでは、ハプスブルク家がその最先鋒に位置づけられたであろう。例えば、有名な1231 年の皇帝特許状をめぐるエピソードがその根拠の1つとなりえたであろう。斎藤氏は、1231年のほか、関連 する種々の皇帝特許状、国王書簡を翻訳し、解説を付している。斎藤「中スイス渓谷の皇帝特許状」12ペー ジ以下を参照。

23Sablonier,Gr血J""gszeitoh"eEi(な己"osse",S.63ff.

24Sauerlander,Dominik,Viehwirtschaft.in:StiftungHistorischesLexikonderSchweiz(Hg.), f過ちtoriSchesZ,exikon血z・jBhweiz,Bd.12,Basel2013,S.868,869ff.Sablonier,Roger,Innerschweizer Gesellschaftiml4・Jahrhundert・SozialstrukturundWirtschaft.in:HistorischenVereinderFtinfOrte

(Hg.),hnezgchwe"""dか肋e勘(をBnOsse"scha",Bd.2,Oltenl990,S.9‑233.ここでは、S.133‑153、特 にS.133ff.を参照。

(11)

25Sablonier,Gr""d""ggzeitoh"e"(をF"osse",S.66ff.

26Sablonier,Gr""d""ggzeitoh"e"(をP"osse",S.89ff.

27Stadler‑Planzer,Hans,GeschiChtedesZ,andesIMTbill:Ibnde"A"fngF"6iSz"rNe"zeit, Schattdorfl993,S.68ff.

28Stadler‑Planzer,GeschiChtedesLa"伽Sm鉱S.71.1275年については、QWI/1,Nr.1176,S.530‑532 を、1282‑89年については、原文はなく概要のみであるが、QWI/1,Nr.1396,S.642を参照。

29Stadler‑Planzer,Gesc〃な〃edesLa"fts["必S.71f.

30QWI/2,Nr.485,S.234‑236.仲裁者は、近隣諸村落のアンマン(騎士身分を含む)ら数名である。

31Stadler‑Planzer,GeschiCh6edesLandesIMS.72.

3 2 原 史 料 に は 4 6 個 の 番 号 は 付 さ れ て い な い 。 活 字 化 の 際 に 便 宜 上 振 ら れ た も の と 思 わ れ る 。 な お 原 史 料 では条文と条文のあいだに広めの空白があり、そこから切れ目が読み取れる。

33Kessler,DerUberfall,S.45.

34Sablonier,Gr""dα"gszeiroh"e"[むち"osse",S.67,84,91ff.,

35Blickle,Peter,FriedeundVerfassung.VOraussetzungenundFolgenderEidgenossenschaftvon 1291.in:HistorischenVereinderFUnfOrte(Hg.),limerscllweiZ""dか肋e〃(te"OSSe"sCha",Bd.1, Oltenl990,S.15‑202.ここでは、S.17ff.を参照。

3 6 襲 撃 は 個 人 レ ベ ル で は も は や な く 、 ラ ン ト レ ベ ル で の 集 団 行 動 に 発 展 し て い た こ と を 示 し て い る で あ ろ

3 7 特 定 個 人 名 が 挙 げ ら れ る と い う こ と は 、 集 団 内 で リ ー ダ ー シ ッ プ を 取 る こ と の で き る 人 物 を 限 定 で き る と い う 意 味 で 、 村 落 内 で の 階 層 分 化 を 読 み 取 る こ と が で き る 。

38Sablonier,Gr""d""gszeitoll"e莇吃B"osse",S.71.

39サブロニエは、1309年の帝国直属の地位の獲得にともなう帝国代官区への帰属が、特にシュヴイーツ の、少なくとも外部へのその後の政治的活力を強く決定づけたのではないかと見ている。Sablonier,Roger, PolitischerWandelundgesellschaftlicheEntwicklungl200‑1350.in:HistorischerVereindesKantons Schwyz(Hg.),DieGeschjbIItedesKa"to"sIEhw(yz,Bd.1,Ziirich2012,S.221.

【史料邦訳】

1311年3月14日−6月19日*

ア イ ン ジ ー デ ル ン 修 道 院 長 お よ び 修 道 士 た ち が シ ュ ヴ ィ ー ツ と の 紛 争 の な か 、 近 年 そ し て 修 道 院 長 ア ン シ ェ ル ム の 統 治 以 降 に 被 っ た 損 害 に 関 し て 仲 裁 者 た ち に 提 出 さ れ た 訴 状

(1)わが主人たちアインジーデルン修道院の修道院長と修道士たちは、修道院の名において1,

4人の仲裁者ならびに仲裁裁判官にむけて2、シュヴイーツの農民たちに対し告訴し3,手続きを 行う4。すなわち彼ら(修道院)は、ルベネン5ならびにその他の、上述の6領地においてシユ ヴィーツの農民たちから受けた損害と違反行為7について、それをめく課っては仲裁者たちが協議 し、(その結果が)仲裁裁判官に示されている8が、(本件はすでに)コンスタンツに訴え出た9 ものだった。そこでは農民たちの代理人10がシュヴィーツのラントおよびゲマインデの印章とも

(12)

ども欠席し '、それでもって彼ら(修道院)は正当な判決を得た 2。すなわち、彼ら(農民たち)

は同領地を修復する 3べきであるとし、彼ら(修道院)もまた正当な判決でもって(同領地を)

修復されるべきとされた。そしてまた正当な判決でもって、損害や不法行為14について銀400 マルク、彼らが受けた恥辱 5について100マルクを与えられるべきとし、そのために正当な判 決でもって、彼ら(農民たち)あるいは彼らの信頼のおける代理人16が損害と犠牲17を復旧す る18ことが、仲裁裁判所の名において19誓約でもって確認されるべきであるとされた。すなわ ち彼ら(農民たち)は彼ら(修道院)に対し損害を処理する2Oべきなのである。しかるに農民た ちは、裁判所によって命じられた上述の判決に服従しなかったため、われわれは消耗し2'、損害 はおよそ銀150マルク22になっている。そこでわが主人たち修道院長と修道士たちは法的手続 きを取った23.そして仲裁者ならびに仲裁裁判官に、彼ら(農民たち)が彼ら(修道院)に、上 述 の よ う な 損 害 を 処 理 す る べ き で あ る と す る 判 決 と 審 判 を 受 け 入 れ る べ き か を 誓 約 の も と に 確 認するよう求めた24°

(2)わが主人たちアインジーデルン修道院の修道院長と修道士たちは、修道院の名において、4 人の仲裁者ならびに仲裁裁判官にむけて、告知し25、手続きを行う。すなわちシユヴイーツ農民 たちは修道院長アンシエルムの時代に26エイテルシユタルデン27上方に住みつき28、下方に1 軒ならず住居を構えてとどまり29、さらに下方30、ブラツテン31にかけて32放牧していた。ま たブラツテンはさらに丘陵を越えて広がっていたし33、(そこには)ブラツテンのわが修道院隷 属民34が住んでいて、エイテルシユタルデン上方にかけて35放牧していたのだ。そこで、その 間に36農民たちが境界を越えてきた37場合38、家屋や小屋39を取り払い、そうして(事態を)

改善し40、処理するべきか、わが主人たちは上に同じく法的手続きを取った。

(3)わが主人たちアインジーデルン修道院の修道院長と修道士たちは、上に同じく告知し、手 続きを行う。すなわち修道院長アンシェルムの時代にはアインジーデルンの修道院隷属民はシュ タインバハ41、そこは丘陵から丘陵へと通じる42場所であったが、その下方で43平穏に44暮ら していたのであり、さらに上方からハツゲン45下方まで放牧していた。しかるにシユヴイーツ人 ども46は上述の細流に沿って、それを越えず47、上方から下方まで48放牧していたのだ。そこ で、その間に農民たちが境界を越えて住みついた場合、家屋や小屋を取り払い、そうして(事態 を)改善し、処理するべきか、わが主人たちは上に同じく法的手続きを取った。

(4)上述のわが主人たち修道院長と修道士たちは、上に同じく告訴し、手続きを行う。すなわ ち彼らシユヴイーツならびにシユタイネン49の農民たちは、合法でもなく権利もないのに50、

サムスターゲルン51にある領地を強奪した52.そこは修道院長アンシエルムの時代以降、修道 院の小作人たち53が平穏に暮らしてきた場所であった。農民たちはさらに上方、アルl、マッ ト54にかけて放牧していたのだ。そこで、くだんの農民たちが同領地を修復し、そうして(事態 を)改善し、償うべきか、わが主人たちは上に同じく法的手続きを取った。

(5)わが主人たちアインジーデルン修道院の修道院長と修道士たちは、上に同じく告訴し、手 続きを行う。すなわちシユテイレ.ヴアーク55から下方へ56、そしてデイツレンタールではさ らに上方、ハツゲンにかけて魚類57,猟獣58、猟鳥59のいる禁制圏60は、修道院長アンシエル

(13)
(14)

( 1 2 ) し か し て わ が 主 人 た ち は 上 に 同 じ く 告 訴 す る 。 し か し て く だ ん の 農 民 た ち は フ イ ン ス タ ー ゼ ー ヘ や っ て 来 て 、 し か し て 修 道 院 に 隷 属 し て い た オ ク ス ナ ー の ル ー ド ル フ と い う 名 の 男 を 殴 り 殺したのだ。

(13)しかしてわが主人たちは上に同じく告訴する。すなわちくだんの農民たちは300人でもっ てフオイアーシユヴアント81へやって来て、しかして修道院に隷属していたハーゼンタール82 の ヤ ー コ プ と い う 名 の 男 を 殴 り 殺 し た の だ 。

しかしてわが主人たちは告訴する83。すなわちくだんの農民たちがシユヴイーツなら びにシユタイネンからやって来て、修道院に隷属していたロタール84のペーターという 名の男を殴り殺したのだ。

(14)しかしてわが主人たち修道院長と修道士たちは上に同じく告訴する。すなわちシュヴイー ツ な ら び に シ ュ タ イ ネ ン の 農 民 た ち は 、 修 道 院 に 帰 属 し て き た 、 そ し て 今 も 帰 属 し て い る 土 地 の あるブンバハ85へ、300人の男どもでもって不法に、手に武器を持ち、旗を掲げ、やって来た。

そして彼ら(修道院隷属民)の家をたたき割って入り86、そこで見つけた87物を袋詰めして88 奪い、さらに彼らの家畜を駆り立て、200ポンドほどの損害を与えたのだ。そこで、彼ら(農民 たち)が彼ら(修道院)に対し損害を処理し、改善するべきか、法的手続きを取った。

(15)しかしてわが主人たちは上に同じく告訴し、手続きを行う。すなわちくだんの農民たちハ イ ン リ ヒ ・ シ ュ タ ウ フ ァ ッ ハ ー 、 ( ヴ ェ ル ン ヘ ル ・ ) レ ー デ ィ ン グ 、 彼 ら の 同 行 者 た ち は 、 フ ィ ンスターゼーヘやって来て、ホルツアハのところで5頭の馬89を、合法でもなく権利もないのに、

不 法 に 奪 い 取 っ た の だ 。 そ こ で 法 的 手 続 き を 取 っ た 。

(16)しかしてわが主人たちは告訴する。すなわちくだんの農民たちは丘陵に暮らす修道院隷属 民たちに対し、彼ら(修道院隷属民)の士地に襄撃をかけ、何がしかの損害90を与えたのであり、

彼らが確かに100ポンドの損害になると主張する91ぐらいに、毎年92荒廃をもたらした93のだ。

(17)しかしてわが主人たちは告訴する。すなわちくだんの農民たちは修道院隷属民ホルツアハ を捕らえ94、彼におよそ14ポンドを(身代金として)課した95。そこで法的手続きを取った。

(18)しかしてわが主人たちは告訴する。すなわちくだんの農民たちは丘陵の下方に暮らす上述 の人々に対し、ある時は96家畜97に、ある時は馬98に何がしかの損害を与え、特に、上述した ように、損害は100ポンドほどになったのだ。

(19)しかしてわが主人たちは告訴し、手続きを行う。すなわち彼(修道院長)がシュヴィーツ 人どもを王の面前に召喚し99、王が彼(修道院長)に命じたように、彼らはやって来た。そこで 王は彼ら双方に対し、裁判にむけ 00、仲裁裁判官1人を配すとともに、何びとも他人に、合法 でもなく権利もないのに、何らの損害もなさぬよう 0'命じた。しかしペーター・ロッホルフに 関しては、修道院に帰属してきた土地のあるルベネンヘの正当な裁きならびに王の命令に不服 従102であり、300人の男どもでもってその士地を荒らし回り103、合法でもなく権利もないのに 不 法 に 雲 撃 を 試 み た の だ 。 そ こ で わ が 主 人 た ち は 他 に 同 じ く 法 的 手 続 き を 取 っ た 。

(20)しかしてわが主人たちは仲裁者ならびに仲裁裁判官に手続きを行い、何が104彼らに起こ ったのか、また何を彼らがしたのか 05を知らしめる。すなわちくだんの農民たちは告知なく、

(15)
(16)
(17)
(18)
(19)
(20)
(21)
(22)
(23)
(24)

115「イーバハ」乃acll=IbachQWの注釈には、シュヴイーツの南側とある。(QWI/2,S.286) 116「荘園」"zeierhof

ll7「拒絶した」e"twer・t<entwern=abweisen,abschlagen,abwehren,verweigern,ablehnen ll8「2度」zwire"r=zweimal

ll9「5月」M"b"=Mai l20「以降」sithar=seither

l21「イーベルク」冊erg=Ibergシュヴイーツ領域内にある。

122「アムマン」amma"(郡長、村長)

123「それ以上」mez;me=mehr l24「保証された」vezyel'e"=zusichern l25「掘り返し」uibrache"<aufbrechen l26「牧草地の柵」tzXIB"=tur=Ttir l27「垣根」z "e=zdn=Zaun

l28「聖ヨハネの祝祭日」sa eノbha"s""t""=dult=Fest,Festtag,Jahrmarkt聖ヨハネの祝 祭日はクリスマスの半年前、6月24日とされている。この日に年市が開かれていることが窺える。

129「境界を越えて移動させた」助erなゴbe"hantQwの注釈には、ihrViehdaraufgetriebenとある。

(QWI/2,S.287)

130「頭」hひ〃e"=h6pt=Kopf

l31「ある時は2倍、またある時は3倍の数にも及んだ」num"zwe""F",da"ノ刀允driSge"

132「毎日2回」tegirbhzwire"t

l33「草を食い尽くした」asro"=abgrasen,abweiden

l34「家畜各頭ごとに」va"h肋渉ezeb66teQwの注釈には、vonMannzuMannあるいはfiirjedes StUckViehとある。(QWI/2,S.287)

135「納屋」罪〔加er=gadem=Verschlag l36「干し草」力伽=Heu

l37「同じ」sebe"=selben

l38「ミンスタータール」MInstertaIQwの注釈には、MinsterはSihlの強い渓流でSihl台地へ流れ 込むとある。(QWI/2,S.288)

139「乳製品」mzIZke"=molken=Molke

l40「スミツツリューテイ、ネグリスリューテイ、リーバーボッテイヌン」Smitsr・I加;N"IM""地 Lieber加mmmQwの注釈によれば、これらはおそらくアインジーデルンの西側、ベンナウの南側に見 つかるという。(QWI/2,S.288)

141「フープリューテイ」HMzrIMQwの注釈によれば、同じくアインジーデルンの西側、ベンナウ の南側に見つかるという。(QWI/2,S.288)

142「羊」jRhaab"<Schaf

l43「ゴルダウ」Goノ〃wwe=Goldau(QWI/2,S.288)

144「ウーヴェ」Owe=AuQWの注釈によれば、アインジーデルンの南西側にあるという。(QWI/2,

S.288f.)

145「家畜小屋」sweを召"Qwの注釈には、sweig=Viehhof,Sennereiとある。(QWI/2,S.288)あ るいは「(修道院の)小作人たちのところ」と訳せるか。

146「道具」9℃schirre=Gefa6,Werkzeug

l47「シヤッヘン」"Rhache"Qwの注釈によれば、アインジーデルンの北東側でSihl沿い。(QWI/2, S.289)

148「アルベック」AZbeggち=AlbeggQWの注釈によれば、ベンナウの南側。(QWI/2,S.289) 149「トリステル」ThSta='nistelQWの注釈によれば、アルベックの北側。(QWI/2,S.289)

(25)

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○二○八八一八八九 一一一 ロロロロートに□□ 八八 一一 ロロロロロロロ□ 7 期□ロロロロい.

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︵ 57 ︶ Scott Shackelford “Holding States Accountable for the Ultimate Human Right Abuse : A Review of the International Court of Justice’s Bosnian Geno- cide Case” Human

田田五 中中頁 前ョど ・豊な 掲最参 注判照 」堵フフ0.

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