不確かな様相 : ヨウダとソウダ
著者 中畠 孝幸
雑誌名 三重大学日本語学文学
巻 2
ページ 26‑33
発行年 1991‑06‑02
URL http://hdl.handle.net/10076/6437
不確かな様相 ヨウガノとソウ.ガノ
キーワード ようだ、そうだ、様態
一
はじめに
現代日本語では、話し手が断定を避けて事柄を述べようとす
るとき、グロウ、ランイ、ヨウダ、ミタイダ、ソウダ、トイウ
などの概言のムードを表す形式が用いられる。話し手はこれら
の形式を用いることにより、推量、様態、伝聞といった意味の
うちいずれかを自身の言表の態度に込めることができる。前稿
の中畠(一九九〇)では、このうち推量をめぐってその差異が
問題となるランイとヨウダについ.て扱った?本稿では、様態を
表す形式としてヨウダとソウダを取り上げる。ここで考察する
のは「雨が降る粛引瑠」と「雨が降りそ割引瑠」、のように一見ヨ ウダとソウダが意味・用法の上で接近していLるかに見える場合
についてである。したがって、「雨が降車旬刊瑠」におけるよ
うな伝聞のソウダは本稿では扱わない。
ここでヨウダとソウダを取り上げるのは、無論、その意味・
用法が似かよっているからであるが、両者を比較したとき、そ 中畠孝幸
の差異が明らかな部分も多い。それは接続のしかたから必然的 に生まれる差といえる。す克わち、ヨウダは動詞・形容詞の基
本形(「降る」「やさしい」などの形)にもタ形(「.降った」
「やさしかった」などの形)にも付くが、様態のソウダは、動
詞の場合は連用形(「降り」の形)、形容詞の場合は語幹と、
付く形態が限られている。(注1)
動的事象を表す動詞を例にとり衰に示すと次のようになる。
この表からも分かる通り、ヨウダは事態が発生する前のこと
も事態が発生した後のことも述べられるのに対して、ソウダは
事態が発生する前のことしか述べられない。風間(一九六四)
は「未確認」という用語でソウダの性格を規定したが、事態発
生前の事柄が即ち話し手にとっては未確認の事柄となると考え
てよかろう。ソウダの「未確認」という性格は、このような接
続の制約に起因して生まれてくるものと思われる。
表中、空欄になっている事態発生後の事柄の場合には、ヨウ
ダに対応するソウダの表現は成り立ち得ない。この点が両者の
差異の明らかな部分である。ヨウダとソウダが近似し得るのは、
事態が発生する前の事柄(話し手にとって未確認の事柄)の場
合であるといえる。
ところで、一般的に知られていることであるが、ソウダは前
接するのが動詞であるか形容詞であるかによって意味に違いが
生じる。「雨が降り割引瑠」は未実現の事柄への予測を述べた ものであるのに対し、「あの人は嬉し旬刊瑠」は現存する事象
の様態を述べたものである。先宣掲げた表における「苫態発生
前」「事態発生後」という区分も、形容詞(あるいは静的事象
を表す動詞)の場合には当てはまらない。そこで、本稿では、 風間〓九六四)、森田(一九八〇)等に倣い、前接するのが
動詞の場合と形容詞の場合とに分けて考察を進めることにする。
なお、本文中、例文の文頭に付Jた?は、文として不自然と思
われる表現を指す。
二
動詞が前接する場合
ソウダに前接する動詞を動的事象を表すものと、静的事象を
表すものと五分けて考察する。まず、動的事象を表す動詞の場
合、ある予測をもとに現状を描写する表現となる。 (1)今にも倒れ旬刊瑚様子だった。 (「浅草」)
(2)流し特有のヌルヌルで、いまにも目づまりをおこし 旬刊旬刊。 〓主婦」)
「倒れる」「おこす」などの動詞がソウダに前接して、事態
を感知した時点の事物の様態を表す場合、ヨウダで置き換える
と不自然な表現になる。それは、森田(一九八〇)の言うよう
に、ソウダが「現状説明」に用いられる形式であり、「未来の
現象を予想し推量することが主眼ではない」からである。
動的事象をヨウダで予測する場合、ヨウダに前接する動詞が
基本形でテンス性をもつため、予測か、七草柄実現までの時間的
距離を表し得る。一方、ソウダで予測する場合には、前接する
動詞の連用形にテンス性はないから、そのような時間的猶予は
表し得ず、その事柄が実現するか実現しないかという判断だけ
を表すことになる。(1)(2)の例でヨウダを用いると、予
測から事柄実現までに時間的猶予が生じるため不適切となるの
だと考えられる。「雨が降る割引瑠」と「雨が降り旬刊瑠」も
時間的猶予をもった予測であればヨウダが、「今にも」などが
付けばソウダが用いられやすい、という傾向がある。
したがって、次の例のように事態を感知した時点の事柄のみ
を表すわけでない場合たは置き携えが可能となる。
(3)一連の一家永訴訟」が、文部省の検定行政にとって
一重いくびき」となる状況は、今後もなお続き割判叫。
(「朝日」八九・六・二七)
ところで、前接する動詞が動的事象を表すものであっても、
それが恒常的状態を表すような場合、ヨウダとソウダを入れ替
えることが不可能となる。「この町ではいつもこの時期にまと
まった雨が降る割引瑠」のヨウダはソウダで置き換えることが
できない。己然の恒常的状態は予測の対象にはなり得ないから
であろう。また、動詞に「ている」が付いて状態性を帯びたと
きも同様である。「雨が降っている割引瑠」と「雨が降ってい
割引瑠」とを比較すると、ヨウダを使った場合ほ何らかの方法
で事態を感知し確認済みであるのに対し、ソウグ虐使った場合
は未確認であり予測にすぎないという違いがある。(注2)
ソウダが未確認の事態を示すことから、次のように想像上の
あるいは末実現の事柄を仮想し、その帰結を予測して述べる場
合には、ソウダが用いられる。
(4)こんなことを言ったらしかられヨ叫。
(5)あの人なら引き受けてくれ割引瑠。
(6)やればでき可‥刊増。
条件表現の一たら」「なら」「ば」をはさんだ前件・後件を
みると、前件が表す仮想のもとで後件の実現が予想されること を表している。後件は実現するかもしれないし、実現しないか もしれない。いずれにしても未確認のままである。このような 仮想のうえに設定された予刺を表すときにはソウダが用いらわ る。ヨウダは適当ではない。
「たら」「なら」「ば」などを用いた条件節が先行しなくて
も、意味的に仮想を表す場合にはやはりソウダが用いられる。
次の例のソウダはヨウダで置き換えられない。 (7)ノイローゼではないか、と言われ号l刊瑠が、私は図
々しいたちで、…… (一霊長類」)
(8)新聞や航空評論家がミスだ、、、スだと騒ぐので、私も 圧倒され割引瑚のですが、…… (「事実」)
(9)紅茶キノコだの、ぶら下りだの、九‑ム・ランナー
だのと、次から次と試してみる口ではないかね、と疑
われ旬刊瑠が、…… (「弁解」)
さらに、予測が結局未実現のままで終わったことを(時に比
喩的に)述べるときには、次のように「そうになった」という
形式が用いられる。・
(川)私は、もうすこしのところで、「停めて頂戴」と言 い割引呵瑠「J叫。て (「霊長類」)
(‖)私はコックピットに入って取材中だったので、.前方 の視界いっぱいに迫」てきたその大自然の壮観さに、
歓声をあげそl‥刊同ヨ。
(「事実」)
(12)はじめての日、私は不意に恐怖にとらわれた。脳貧
血が起り刊引ddコ1瑠。 (「アウトサイダI」) いずれも、「そうになった」に前接する動詞「言う」「あげ
る〓.起る」で表される事象が実際には実現しないまま終わっ
ている。実現はしなくても、そのような帰結が十分予糾される
状態であったことを示すのが「そうになった」の機能であると
いえる。(注3)
「そうになった」の代りに「ようになった」を用いることは
できない。一そうになった」が未実現の事柄を表すのに対し、
「ようになった」は実現済みの事柄を表す。「しやべり旬刊叫
ヨ」は、しやべる一歩手前で終わっているが、「しやべる
割引に矧.1丹」は、しやべる行為が実際になされている。次に
「ようになった」が用いられている例をあげるが、いずれもあ
る事柄が実現済みである。
(‖)私は、いつの問にか友人とともに先生の家に出入り する引刊同瑚う瑠。 (「月夜」) (14)かれは理髪店を妻にまかせ、花屋を兼官する割引吋
ヨ。
(「実を」) (15)速記を勉強して、収入も得られるよー到相聞うたー。
(「月夜」) ここでみた「そうになった」と「ようになった」の違いは、
ソウダとヨウダにおける未確認と確認済みという明確な性格の
相違を反映している。
次に、静的事象を表す動詞(一ある」「いる」「できる」や 可能の⊥raこeru を語尾にもつ動詞など)が前接する場合で
ぁるが、これも基本的に未確認と確認済みの違いとして捉iる
ことができる。「この図書館にはあり割引瑠」と「この図書館
にはある割引瑠」で、実際に図書の検索などを行なったと理解
できるのは後者である。ただ、特に連体修賂の場合など」その
差異が薄れて、置虐換え可能になることがある。次の例がそれ
である。
(〓)庭の隅のかまどでは、三十代であろう人の良さそう
なおかみさんが、直径一メートルもある割引瑚鉄の大
錦に、お湯を沸かしている。 (「スペイン」)
(‖)ベラというのは英会話のことである。そのベラがで きる剥到州叫顔をして羽田へ走った。(一私のいる」)
(1a)スペースからいうと、まだ二、三人ほ乗れ判りつl瑚余
裕があるのに、警報が鳴った。 〓弁解」) ヨウダは連体修飾に用いられると比況の意味を帯びることが
多いが、これらの例においても、ヨウナを用いた場合は比況、
ソウナを用いた場合は予測という微妙な差は依然として残るよ
うである。
三
形容詞が前接する場合
「動詞+ソウダ」が、未確認の事柄に対する予測であるのに
対し、「形容詞+ソウダ」は話し手によって確認される事物の
様態を表す。もっとも、形容河の場合も二A「度の披は大き句引
瑠」「今年も出生率は低割引ガ」のよケに予測の意味をもった
使い方はあるが、動詞の場合との対比で特徴的なのは、「これ はおいし旬刊瑠」「あの人ほうれし匂うl瑠」のように眼前の事
態を描写する用法である。
ここで「形容詞+ヨウダ」と「形容詞+ソウダ」とを比願す
ると「外は寒い割引瑠」「外は寒割引瑠」のよ・γにその違いが 顕現しない場合も多いが、風間〓九六四)にあげられている
一こちらのほうがうまい割引瑠」「こちらのはうがうま旬刊瑠」
の例のように、事態を確認済みであるか(この例の場合、実際
に食べたか)、未確認か(食べていないか)の違いが表れる場
合がある。
「形容詞+ソウダ」が様態を表すという場合、形容詞が表す
ありさまが誰にとってそう感じられるのかということは、考え
てみる必要がある。たとえば「おいしそ割引由実ったりんご」と 「おいし旬刊周りんごを食べている」を比較してみると、前者
は話し手(あるいは一般の人)にとっておいしいことを表すの
に対し、後者は食べている当事者にとっておいしいことを表し
ている。このような区分は一見些細なことのように感じられる
が、たとえば一あの人は噴か旬刊瑠」の二義性(「あの人は心
が噴かいと思われる」と「あの人は噴かいと感じていると思わ
れる」)を説明するときに有効である。ソウダに前接する形容
詞の表す内容は誰にとってのものかという点から、そう感じる 当事者を仮にr感知当事者」と名付けると、「あの人は嘆かそl 引瑠」の二つの意味のうち前者は感知当事者が話し手であり、 後者は感知当事者が「あの人」であるといえる。
ここで、感知当事者が経であるかを特定するには、ソウダに
前接する形容詞が属性形容詞であるか感情形容詞であるかに注
目する必要がある。
(1g)
あの人はこわそl引瑠。▼
(川)
あゐ人はくるし笥m叫。
(l貞)における「こわそうだ」の「こわい」は国立国語研究
所(一九七二)で触れられている属性形容詞と感情形容詞の両
方の性格をあわせもつ形容詞であるが、ここでは属性形容詞と して用いられている。一方、(28)における「くるしそうだ」
の「くるしい」は感情形容詞である。ここで「こわい」の感知
当事者は話し手であり、「くるしい」の感知当事者は「あの人」
である。その違いは(19)(20)を次のようにすると、(22)
の実質的意味は変わらないが、(21)は意味が全く変わってし
まうことからも明らかである。
(21′)あの人はこわがっている割引ガ。
(22)あの人はくるしがっているよl引山付。 このことから、ソウダに前接するのが属性形容詞の場合は感
知当事者が話し手、感情形容詞の場合は感知当事者が話題の対
象である、と一般化できそうである。(感情形容詞であっても、 話題の対象が話し手であれば、話し手が感知当事者となる。た
とえば■わたしってそんなに嬉し句引?」の「嬉しい」は感情
形容詞であるが、話題の対象が「わたし」であるので、感知当
事者は話し手ということになる。)
さて、日本語の感情形容詞をめぐっては、その人称制限がよ
く問題にされる。「わたしはくるしい」とは言えるが、「あの
人はくるしい」という言い方はできず、ラシイ●ヨウダ●ソウ
ダ・ノダなどを付けてはじめ七適格な文になる、というもので
ぁる。ただ、それらの形式相互の違いについては・もう少し細か
な吟味が必要であると思われる。次の例をみてみよう。
(23)しかし、義妹にほそのブレスレットよりも夫の言葉
のはうが何倍も嬉しい召J叫。
(「弁解」) (23)で‑嬉しいようだった」を「嬉しそうだった」七する
と落ち着かない。「義妹は嬉しそうだった」は可能であるにも
かかわらずである。それはなぜであろうか。
次の文を比較すると、
(28)
あの人はくるし旬刊粛叫。 (24)?あの人はくるしい剖ぷ叫。
(22)
あの人はくるしがっている割到珊叫。
眼前にとらえた他者の感情・感覚について述べるときには、ヨ
ゥダは適切ではなく、もJヨウダを付けるとすれば、(22)の
ように外に表れた様態を表す表現に変えなければならない。
したがって、
(25)あの人は(家計が)くるしいよlうー瑠。 のように、(感情・感覚としてではなく)事態として述べるの であれば、ヨウダが付き得るということになる。
先の(23)の例で「嬉しい割引ヨ」とヨウダが用いられ
ていたのは、二義妹にとって)夫の言葉が嬉しい」という事
態を描写しようとしているからであり、「義妹が嬉しい」とい
ぅ感情・感覚を描写しようとしているのではないからであると
理解できる。
他者の感情・感覚は確認し得ないものであり、外に表れた事
態は確認し得るものである。したが(・て、未確認のことを表す
ソケダが他者の感情・感覚を表すのに用いられ、確認済みのこ
とを表すヨウダが外に表れた事態を表すのに用いられるのであ
ろうe 四
ま と め
ヨウダとソウダの相違について、両者の意味・用法が接近し
ている部分を中心に考察してきた。以上述べたことをまとめる
と、次のようになる。
(・1)ヨウダは何らかの形で話し手が確認した現実の事柄に
っいてそのありさまを述べる場合に用いられる。
(五)ソウダは想像上の事柄あるいは非現実の事柄を含め、
未確認の事柄についてそのありさまを述べる場合に用い
られる。
(五)ヨウダ・ソウダの確認・未確認という差は、「ように
なった」「そうになった」という形式の意味・用法の違
いや、感情形容詞が前線した場合の感情・感覚の捉え方
の違いからも説明することができる。
本稿では、ヨウダに近い、、、タイダについては触れなかったが、 口語で用いられる頻度の高さからいっても、その意味・用法の
特質について考察を蔑めを必要があると思われる。
(注1)ここでは簡潔に動詞と形容詞のみについて触れたが、 動詞に士三eruや⊥s)as…が付いた場合は動詞に準
じ、また、動詞に〜タイ、〜ヤスイ、〜こクイなどが付
いた場合は形容詞に準じる。いわゆる形容動詞は形容詞
に含める。
(注2)「雨が降っているようだ」と「雨が降っていそうだ」
については、「雨が降っているらしい」も含めて金田一 (完五三)でその意味の差異について説明が試みられ
ており、また、その説明の妥当性の検討が寺村(一九七
九)でなされているeしかし、明快な説明原理ほ得られ
ていないように思える。 (注3)言うになった1に限らず、一般に文末にタ形をとる
と、実現しなかったことを後から振り返って述べる表現
になることは多い¢「あやうくぶつかるヨ呵1瑠」
「あの人が帰る前に一目会い相羽う丹」「てっきり落選 するd倒づ瑠」「もっと勉強しておくペ割増うた‑」など の例において、傍線部に前接する動詞の表す事柄は実現 しておらず、現実には一ぶつからなかった」「会えなか った」「当選した±勉強しておかなかった」という逆 の実態があったと理解される。なお、寺村(一九七一) では「もう少しおそかったら助からなかった」などの例 をあげて、実際には起こらなかった過去の事濠を起こり 得たこととして推測するタ形の機能が述べられている。 そこでは「たら」「なら」一ば」などを伴った条件節が 先行する場合のみについて触れられているが、一そうに なった」や先にあげた傍線部の形式などを用いれば、必 ずしも先行する条件節は必要ないということがいえる。
【参考文献】
風間
力三(一九六四)「死にそうだ」と「死ぬようだ」
(『口語文法講座3 ゆれている文法』明治書院)
金田一春彦(一九五三)「不変化助動詞の本質」(『国語国
文』第二二巻二・‑三号)京都大学国文学会 国立国語研究所〓九五一)『現代語の助詞・助動詞
用法と実例‑1‑』秀英出版
(一九七二)『形容詞の意味・用法の記述的
研究』 (西尾寅弥執筆)秀美出版 寺村
秀夫(一九七一)「.タ̀の意味と機能」(『言語.学
と日本語問題』)くろしお出版 〔寺村(一九八四)所
‑ 収〕
(一九七九)「ムードの形式と意味(1)
‑
【例文を引用した資料】
概言的報道の表現
」