1.はじめに
本稿の目的は、19世紀ドイツの演劇界で俳優、戯曲作家、演劇史家、演劇評論家として活 躍したエドアルト・フィリップ・デフリーント(Eduard(Phillip)Devrient,1801-1877)の
『ドイツ演技術史(GeschichtederdeutschenSchauspielkunst)』(1848-74)を対象に、その1830年頃 の朗詠術の変化について考察することである。デフリーントについては、ドイツ語圏の文学と 演劇研究において、ほとんど取り上げられることがない。また日本のドイツ文学と演劇研究に おいても、デフリーントを対象にした論考は皆無であり、彼の名前は浸透していない。本稿で はこのデフリーントの執筆した演技論を扱うに際し、初めに彼の経歴を手短に紹介する必要が ある。1
エドアルト・デフリーントは、1819年にベルリンで生まれた。彼の家系は、ベルリンやド レスデン地方において多くの著名な舞台俳優を輩出した由緒ある家系として知られている。デ フリーントの父親は実業家であったが、19世紀の代表的な俳優として活躍した叔父ルートヴィッ ヒ・デフリーント(LudwigDevrient,1784-1832)の影響のもとで、自らも演劇への関心を寄 せるようになる。1819年に商業教育を中断したデフリーントは、ドイツの伝統的な音楽団体 ジング・アカデミーに入学し、そこで高名な作曲家カール・フリードリッヒ・ツェルター
(CarlFriedrichZelter,1758-1832)の指導のもとで音楽を学ぶことになる。まずは歌手の才能 を発揮したデフリーントは、早くも18歳でジング・アカデミー主催のグラウンの受難曲『イ エスの死』(1755)の演奏会に出演し、歌手としての初舞台を踏む。だがこの人物を一躍有名 にしたのは、1829年の彼の友人メンデルスゾーン=バートルディ指揮による、バッハ『マタ イ受難曲』の歴史的な復活演奏会だった。2ここでデフリーントはイエス役を担当し、一躍脚 光を浴びることになる。
1831年に声の不調により歌手としての活動を断念したデフリーントは、1844年から1852年まで、
劇作家のルートヴィッヒ・ティークの後任として、ドレスデンの宮廷劇場の総監督(Oberregiesseur)
1830 年頃の朗詠術の変化について
-エドアルト・デフリーントの『ドイツ演技術史』を手がかりに-
山 崎 明日香
1これに関しては、次を参照した。Vgl.KarlRichter:PhilippEduardDevrient.In:NeueDeutscheBiographie. Bd.3,Berlin(Duncker& Humblot)1957,S.626f;AlainMichel:PhilippEduardDevrient.In:Killy Literaturlexikon.2.vollst・ndig・berarb.Aufl.Berlin,NewYork(WalterdeGruyter)2008,Bd.3,S.10f. 2この復活演奏会は、国王を始め、ベルリンの知識人ヘーゲル、シュライエルマッハー、ハイネなどが列 席した「全公共性」を帯びた祝祭であった。これに関しては、vgl.MartinGeck:DieWiederentdeckungder Matth・uspassion im 19.Jahrhundert.DieZeitgen・ssischen Dokumenteund ihreideengeschichtlicheDeutung. Regensburg(GustavBosse)1967;尚、デフリーント自身の報告も参照した。Vgl.EduardDevrient:Meine ErinnerungenanFelixMendelssohn-BartholdyundseineBriefeanmich.2.Aufl.Leipzig(J.J.Weber)1872,Rep.
LaVergne(KessingerPublishers)2010,S.41-68.
に招聘される。ティークの活動していた1825年から1836年のドレスデンは、ロマン主義者の集 う芸術都市として繁栄し、デフリーントはティークの活発な芸術活動の影響を受けていたことが、
彼の著作より読み取れる。デフリーントは総監督の就任期間中、「歴史コスチューム(Histoische Kost・m)」の慣行や、「台本読み合わせ(Leseprobe)」、また「通し稽古(Generalprobe)」など の厳密な試演の形式を導入したことで知られており、これらの伝統は、現在まで継承されている。
そして彼は、この宮廷劇場で、俳優、脚本家、文芸顧問(ドラマトゥルグ)、批評家としても活 動し、オペラや戯曲の上演のための多くの作品を執筆した。
多方面の才能を発揮していたデフリーントが、同じくドレスデン宮廷劇場で音楽監督を勤め ていた作曲家リヒャルト・ヴァーグナーの同僚であったことは注目に値する。二人は仕事を通 じて信頼関係を築いていた。そして1848年にドレスデン革命が起きると、デフリーントはヴァー グナー、カール・グッコウ、ハインリッヒ・ラウベ、ハインリッヒ・テオドール・ロッチャー などの演劇界の重要人物たちと同じく、劇場改革の潮流のなかで、市民層時代の新しい劇場構 想に取り組んだ。そのなかでデフリーントは、自らのドレスデン時代の劇場経験を生かして、
著作『新しいドイツの国民劇場(DasNationaltheaterdesneuenDeutschland)』(1849)や、大著
『ドイツ演技術史』を執筆し、19世紀における革新的な演劇論を大成した。これらの著作は旧 来の宮廷劇場的なモデルを離れて、国民劇場への移行を提案するものであり、またその国民劇 場の制度改革とその確立だけではなく、俳優の自立化と待遇の向上を訴えるものであった。
このように演劇人デフリーントは、旧来の劇場改革や国民的演劇の発展を構想しつつ、様々 な書物を執筆していた。そして、そのなかでとりわけ注目されている著作がある。それは、彼 が1851年に刊行した冊子『オーバーアマガウ受難劇』である。この冊子は、地方に埋没して いたアルプス地方の受難劇を国民的な演劇として紹介し、その認識をドイツ全土にもたらした。
これに関しては、従来まで様々な研究者が、デフリーントによってこの受難劇が発見され、さ らに地方的また宗教的な演劇であったこの受難劇が、国民的また民族的な文化遺産として価値 付けされたことを指摘している。3
その後、デフリーントは1852年にカールスルーエの宮廷劇場より劇場支配人として招聘さ れると、そこで新しい試み「古典作品とオペラ作品の連続上演(Klassiker-u.Opernzyklen)」
や「アンサンブル上演(Ensemblespiel)」などの上演計画についての模範的な様式を導入した。
デフリーントは、その間も革命によってチューリッヒに亡命していたヴァーグナーとの交流を 継続し、彼の新作オペラ『トリスタンとイゾルデ』のカールスルーエ宮廷劇場における初演の 実現計画に尽力している。4そしてデフリーントは、1970年に劇場での任務を終えるまで、ド 人文論叢(三重大学)第31号 2014
3デフリーントのオーバーアマガウ受難劇への関与と、その受容に関する貢献については、以下の文献に 詳しい。Vgl.FranzMuner(Hrsg.):PassioninOberammergau.DasLeidenundSterbenJesualsgeistliches Schauspiel.D・sseldorf(Patmos)1980;OttoHuber,HelmutW.Klinneru.DorotheaLang:DiePassions auff・hrungeninOberammergauin101Anmerkungen.In:MichaelHenkeru.a.(Hrsg.):・H・rt,sehet,weint undliebt・.Passionsspieleinalpenl・ndischenRaum.M・nchen(HausderBayerischenGeschichte)1990,S.
163-179,hierS.169;南道子「オーバーアマーガウ受難劇考察」:東京音楽大学『研究紀要』15(1991) 27~60頁所収、27頁。近年では研究者のEtienneFran・oisが、オーバーアマガウ受難劇とそのドイツにお ける国民的な「記憶の場」の形成過程を論じ、その契機となったデフリーントのオーバーアマガウ受難劇の受 容を重視している。Vgl.EtienneFran・ois:Oberammergau.In:EtienneFran・oisu.HagenSchulze(Hrsg.): DeutscheErinnerungsorte.Bd.3,2.Aufl.,M・nchen(C.H.Beck)2002,S.274-291,hierbesondersS.283.
4カールスルーエにおけるデフリーントとヴァーグナーの関係に関しては、次に詳しい。Vgl.WernerSchulz:
RichardWagnerundKarlsruhe.Karlsruhe(KarlsruheBadischeLandesbibliothek)1983.
イツ演劇の発展と振興に貢献したのである。
以上のように、デフリーントは、彼の生涯を通じて演劇とかかわり、ドレスデンでの総監督 やカールスルーエでの劇場支配人としての仕事だけではなく、ヴァーグナーとの相互的な影響 関係や、オーバーアマガウ受難劇の受容の功績において、ドイツ演劇の発展に少なからず影響 を及ぼした人物である。しかしながら、この人物は、受難劇の浸透という業績を除いては、演 劇論の研究分野において彼の著書は十分に考慮されてきたとはいえない。
本稿で取り扱うデフリーントの中世から20世紀のドイツ語圏の演技術を論じた『ドイツ演 劇術史』についても、留保付きで評価されることが一般的である。例えば、ドイツ語圏の演劇 論を概観的に論じたChristopherBalme(2001)は、このデフリーントの著作について、19世 紀の歴史的また伝記的な演技術の発展を記録した資料的価値には重要性を見出しているものの、
同時にそれを非体系的な著作であると判断している。5このような批判の背景には、デフリー ントの著書が学術知識に裏打ちされた体系的な論述形態に応じて執筆されているのではなく、
それゆえドイツ語圏の研究通史では考慮されにくかった事情が存在する。 しかし、Karl Richterの指摘するように、この著作は確かに演劇的な現象の細目に立ち入っていないものの、
資料収集的な著作物としては欠かすことのできない書籍である。6従ってこの著作の重要性を 見過ごすことはできないだろう。こうしたことから、例えばバロック時代から19世紀半ばま でのドイツとオランダの演劇を論じたGeorgeW.Brandt(1993)は、デフリーントの資料に 依拠しつつ、彼の叔父ルートヴィッヒ・デフリーントの演劇スタイルを紹介している。7また、
GerdaBaumbachの論考(2012)では、18世紀末の高名な俳優アウグスト・ヴィルヘルム・
イフラント(AugustWilhem Iffland,1759-1814)の演技形式を論ずるに際し、デフリーント が、宮廷劇場から国民劇場へと移行する文化的また社会的背景において、初の市民階級出身の 俳優として名望を得たイフラントを高く評価していた記述を参照している。8
本稿は、以上のように演劇分野の歴史的また伝記的資料として重宝されることの多かったデ フリーントの『ドイツ演劇術史』を取り上げる。9そしてこの著作の中からとりわけ1830年代 ごろの朗読術の変化について記述された箇所を考察する。従来の朗詠術を扱った論考は、1830 年前後の変化について十分に論じてきたとはいえず、本稿はデフリーントの著作のなかで述べ られた①ザクセン地方の朗詠術の音楽的な変化、②ウィーンの女優シュレーダーを中心とした 朗詠術の様式化について、当該分野の先行研究を踏まえながら考察する。なお、本稿は筆者の 現在の研究課題「19世紀ドイツ語圏における俳優の国民啓蒙的また言語教育的な役割の拡大 5ChristopherBalme:Einf・hrungindieTheaterwissenschaft.Berlin(ErichSchmidtVerlag)2.・berarbeitete
Aufl.2001,S.124.
6Richter,a.a.O.,S.626.
7GeorgeW.Brandtu.WiebeHogendoorn:GermanandDutchTheatre.1600-1848.New York(Cambridge UniversityPress)1993,S.304-306.
8GerdaBaumbach:Schauspieler.HistorischeAnthropologiedesAkteurs.Band1.Schauspielstile.Leipzig(Leipziger Universit・tsverlag)2012,S.31-37.
9本稿で取り扱うデフリーントの『ドイツ演技術史』に関しては、デフリーントが1850年まで記述を行 い、国立劇場支配人のヴィリーシュトールフェルト(WillyStuhlfeld)がそれ以降の時代の記述につい て補完と加筆を行った版を使用した。なお、略号はGSとし、頁数で引用箇所を示す。Vgl.Eduard Devrient:GeschichtederdeutschenSchauspielkunst.NeubearbeitetundbisindieGegenwartfortgef・hrtals
・IllustriertedeutscheTheatergeschichte・vonIntendantWillyStuhlfeld.Berlin,Z・rich(Eigenbr・dler) 1929.
についての研究」を遂行するための、予備研究的な論考として扱うものである。
2.1830年ごろの朗読術の変化
デフリーントの『ドイツ演劇術史』は、中世から20世紀までの演技術の歴史と発展につい て記述しており、それぞれの項目は年代順に区分されている。本章では1830年代の「文学の 演技術への影響」を扱った項目を対象に、とりわけ朗詠術の変化を考察する。
1830年前後は、諸外国の国民的な文学がドイツにおいて盛んに翻訳された時代である。周 知のとおり、イギリスのシェークスピアの古典的な戯曲作品や、スペインのバロック時代のカ ルデロンの聖体神秘劇、同じくセルバンテスまたロペ・デ・ベガの大衆的な戯曲作品が、ヴィー ラント、A.W.シュレーゲル、ティーク、アイヒェンドルフなどの著名なドイツ人諸作家の手 で積極的に翻訳され、舞台化された。これらはドイツ固有の国民文学の形成運動や、ロマン主 義的芸術とその概念の構築の試み、さらに劇場改革などの多様な潮流の中で、ドイツの文芸創 作の模範として紹介された。さらに18世紀から19世紀にかけてのフランスでは新古典主義的 演劇や、メロドラマの大衆演劇が好まれていたが、これらのジャンルがドイツ文化圏へ流入し、
著しい影響を及ぼした現象も忘れてはならない。
デフリーントの「文学の演技術への影響」の項目で扱われているのは、こうした諸外国の翻 訳文学と戯曲が、ドイツの劇的文学に及ぼした影響だけではなく、その影響が少なからず「形 式主義(DieFormseligkeit)」(GS,367)に陥っていた演技術にも反映していたとする現象で ある。しかしながら、デフリーントのこの評論のなかでは、しばしば主題からの逸脱や論理の 飛躍があるばかりではなく、考察の不十分な箇所が多く見受けられる。さらにデフリーントの この著作は、ドイツの国民的な演劇の確立と改革の実現のために、諸外国の影響を排除する必 要性を至る箇所で打ち出している。従って、この関連において、デフリーントが演技術の変化 の原因を、諸外国の文学的また文化的流入に帰そうとする意図を考慮する必要があるだろう。
この点を踏まえつつ、デフリーントによる次の朗詠術の変化についての興味深い記述を考察す ることができる。
もし詩的言語がしばしば重苦しい書き換えでありまた平凡な着想を回避するだけのもの であり、変転する韻文リズムの感覚的な印象が内的な単調さを隠し、またその音楽的なオ ペラの刺激に近づけることで聴衆を獲得するよう求められていたとするならば、そうした 俳優の朗詠術は、空虚でまた生気なく、単なる感覚的な音響効果であるように強いられて いるのであろうか。(GS,367)
デフリーントはここで、朗詠術が音楽的また感覚的な音響効果に接近していることを分析し ている。そして、その原因の一つに言語上の「音楽的なオペラの刺激に近づく」ことが挙げら れている。これに関して言えば、1920年代から1930年代にかけてのドイツでは、1921年のカー ル・マリア・フォン・ヴェーバーのジングシュピール『魔弾の射手』の大成功によりドイツの 民族オペラの確立が進展した。だがその一方で、イタリアのオペラやフランスのグランド・オ ペラの上演がいまだに支配的な時代であった。とりわけ作曲家スポンティーニ、マイアーベー ア、オーベール、ロッシーニによる大規模な編成のオーケストラと大人数の合唱団を投入した 人文論叢(三重大学)第31号 2014
スペクタクル性を重視するグランド・オペラの作品は、ドイツで興行的な成功を収めていた。
これに加えて、当時はオペラと演劇が一つの劇場で上演されるという演劇的な事情が存在し、
それゆえ演劇はオペラの演出から容易に影響を受けざるを得なかった。デフリーントは、こう した感覚性を重視するオペラの影響を、演劇における朗詠術の音楽的な変化に読み取っている のである。
さらに、ここで考慮することができるのが、1830年代の俳優を取り巻く金銭的な事情であ る。これはデフリーントの同じ著作で説明されている通りであるが、この時代の俳優たちは、
「年間給与(Jahresgehalt)」だけではなく、「出演報酬(Spielhonorar)」を得るようになってい た。(GS,376)この18世紀に生じた慣習「出演報酬」は、俳優が作品に出演する度に受け取っ た報酬である。10デフリーントはこの慣習によって、俳優が演劇作品だけではなく、報酬目当 てに当時流行していたジングシュピールに出演し、本来の俳優業から遠のいた傾向について指 摘している。こうした俳優を取り巻く事情を考慮すると、音楽的な環境に身を置かざるを得な かった多くの俳優によって、朗詠術がよりオペラ的また感覚的なものへと変化していたことが 推測されるだろう。
さらに下記の引用に示される通り、デフリ-ントは朗詠術の音楽的な変化に関する考察を続 けている。
「ノイバーのなかにアレクサンドリア格の韻律分析によって輝かしいものを見出そうと するならば、今や変転するリズムを伴う快い子供だましに執着するのであり、また観客を 多様な音色のカデンツの演奏会に耽けさせるのだ。そしてきまって朗誦的な悪習慣(die deklamatorischenUnarten)が、散文の語りにも転用されることになった。それどころか、
その音色の遊びがはるか昔に見習い達の行っていたような悪趣味な道具へと再び戻ること になったのである。すなわち、その朗誦的な悪習慣は、それぞれの言葉から力強くて穏や かな諸々の音色の変化を操らせたのであり、そして至る所で その悪習慣の望んだ本来 の語りの調子を好むのであるが 次のような「力」、「暴力」、「怒り」、「憎しみ」、「復讐」
などの言葉を、より強く激しい調子によって朗読した。またその反対に、「心」、「愛」、
「喜び」、「心情」などの言葉は、感動的なフルートの音色でもって朗読したのであり、そ うした補助の道具へと再び戻ることになった。(GS,367)
ここでデフリーントによって言及されたカロリーネ・フリーデリケ・ノイバー(Caroline FriederikeNeuber,1697-1760)は、18世紀前半にドイツの旅劇団を率いて活躍した女優であ る。彼女は、とりわけ1730年にドイツ語圏の舞台において新形式の演技術を提唱した重要な 人物として見なされている。11同時代においてゴットシェードがドイツの宮廷で上演されてい たフランスの新古典主義悲劇を積極的に模倣し、それを通じて新しい文学形式を構築すること を試みていたが、ノイバーもそれと同じく、この新しいフランス悲劇の形式を参照し、ドイツ の演劇と演技術を刷新することを目指した。その際に、この女優は、フランス人の俳優たちか
10Brandtu.Hogendoorn,a.a.O.,S.129f.
11カロリーネ・ノイバーと、彼女の朗詠術に関しては、次の文献を参照した。Vgl.MichaelJ.Sosulski: TheaterandNationinEighteenth-CenturyGermany.Hampshire(AshgatePublishing)2007,S.73f.
らフランス流の演技術や朗詠術を積極的に取り込み、さらに彼らの演劇実践や衣装についても 参考にした。MichaelJ.Sosulskiによると、ノイバーの朗詠術は、新しい朗詠術に不慣れな聴 衆には声が大きく壮大に聞こえ、またドイツ語のアレクサンドル格の詩を朗誦すると、ほとん ど誇張された一本調子の朗読に思われた。しかしながら、それはドイツにおける初めての悲劇 的な朗詠術として認識されたのである。12
その古典主義的フランス演劇の技巧的な朗詠術は、自然な感動の表現を重視する18世紀末の ゲーテやシラーを始めとするシュトルム・ウント・ドラングの演劇によって、その結びつきを断 ち切られることになる。13だが、1800年頃になると、ゲーテ自身によって再び方針転換されるこ とになる。ゲーテは当時彼の定めた厳格な演技術についての規則『俳優諸規則』(1803)を、彼 の側近たちに口述筆記させていた。そのゲーテの構想は、古代ギリシア時代の韻文を手本にして いただけではなく、同時代のライプチッヒの劇場で継承された俳優の朗詠術を同じく参考にして おり、それらを新しい概念「朗吟(Rezitation)」でもって彼独自の朗詠術(Deklamation)とし て打ち立てたのである。14だが、MartinKnustとKarl-HeinzG・ttertの指摘するように、ゲー テと彼の協力者シラーの打ち立てたこの「ワイマール・システム」に即した韻文芸術のための 新しい朗詠術は、同時代の人々から非常に規則的で、単調であり、また不自然に受け止められ たため、ゲーテが劇場から引退した1817年以降は、この韻文悲劇の朗詠術は、次第に衰退し てゆくか、もしくはチュービンゲンやライプチッヒの一部の劇場でその影響を留めるのみであっ た。15
デフリーントの上述の引用においては、こうしたノイバーのフランス古典悲劇を基にした重 厚な朗詠術ではなく、またゲーテの提唱した韻文芸術のための朗詠術が批判の対象とされてい るのではない。デフリーントによると、1830年代頃には、そうした伝統的な朗詠術が、次第 に変化を起こしていたことが示唆されている。これに関して言えば、1800年代初頭のザクセ ン地方のとりわけドレスデンで幅広く浸透していたのは、「朗誦(Deklamatorium)」と呼ばれ る朗読の表現形式であり、職業的な専門家から素人まで幅広い朗読家による朗読会が多く催さ れていた。それらの朗誦術は音楽演奏を伴い、バラードを中心として劇的な効果を出すことに 主眼が置かれていた。16とりわけドレスデンやライプチッヒを中心に活躍していた朗読家
(Deklamator)カール・フリードリッヒ・ゾルブリッヒ(CarlFriedrichSolbrig1774-1838) の朗読術が、大衆からの人気を博していた。17しかし、その朗詠術は、その後一部ドレスデン の俳優たちに継承されたものの、1830年頃になると徐々に文化圏から消え去ることになる。18
これらのドレスデンにおける朗詠術の事情を考慮すると、この都市で活動していたデフリー ントの考察には、当時流行していた音楽的効果を重視した朗詠術のことが、少なからず念頭に あったと思われる。そしてこうした朗詠術のワイマール形式から自由な形式への移行には、デ 人文論叢(三重大学)第31号 2014
12Ebd.S.74
13カール・ハインツ・ゲッテルト「1800年頃の朗読術 ゲーテの「俳優のための規則」を参考に」(大 杉洋 訳):ゲーテ自然科学の集い『モルフォロギア』第21号(1999)、17~31頁所収、22頁。
14MartinKnust:SprachvertonungundGestikindenWerkenRichardWagners.Einfl・ssezeitgen・ssischerRezitations- undDeklamationspraxis.Berlin(Frank&Timme)2007,S.89f;Vgl.ゲッテルト、同上書、26頁。
15Knust,a.a.O.S.90;ゲッテルト、同上書、26頁。
16Knust,a.a.O.S.85.
17Ebd.,S.86.
18Ebd.,S.86.
フリーントの述べるところによると、当時のゲーテの朗詠術に俳優が無理解であったことと、
俳優のための正しい朗読術の訓練校が普及していなかったことが、その理由として挙げられて いる。(GS,367)デフリーントは、こうした朗詠術の変化を批判的に捉えているものの、しか しながらここではこの現象を徐々に古い韻文芸術のための朗詠術から、新しい音楽的な韻律を 持った朗詠術への移行として認めることができるだろう。
そして、デフリーントはこのような1830年代の朗詠術の変化が、ウィーンのブルク劇場で も同時に起きていたとする。少し長くなるが、それを引用する。
ウィーンのブルク劇場では、市民的な作品と喜劇作品が、いまなお優美な自然さでもっ て非のうちどころなく演じられていた。だが奇妙なことに、まさにそのブルク劇場で、そ して劇場監督のシュライフォ―ゲルの目の前で、クレッシェンドの間延びした朗詠術の効 果が、古典戯曲の上演において現れ始めたのである。その効果は確かな効力によって過去 数十年間に及んで発展して広がり、この形式が存続することになった。この契機は、実に 女優ゾフィー・シュレーダーに帰せられる。彼女は自身の経歴の後半生において、俳優エ スラーか、もしくはあらゆる芸術家の中でほとんど唯一の名人として存在したが、最後に は彼女の素晴らしい朗詠術の効果が技巧(Manier)へと退化したのである。今や残念な がら次のことを経験が教えてくれる。それは、ヴィルトゥオーゾが技巧化され始めるやい なや、観客がそれをようやく最高の感激をもって喝采をおくることになったということで ある。というのは、真の美やつつましい自然さは、自然を超えた強い刺激と効果に達した 技巧(Manier)に比べると、賞賛されるための刺激をそれほど多くはもたらさなかった からである。その技巧は、喝采をあからさまに求める観客にとって、より楽に理解できる からなのだ。そうしてゾフィー・シュレーダーがウィーンで獲得した激しい賞賛によって、
彼女の芸術の仲間たちは彼女を模倣することに駆られた。ゾフィー・シュレーダー、アン シュッツ、クンスト、ロット、ゾフィー・ミュラー、彼らの力強くまた熱い才能は、感覚 的で感情豊かなウィーンの観客に応じており、その朗詠術の形式が、ワイマールから広がっ た冷たく形式的で単調な性格の朗詠術とは区別されたのである。(GS,367f.)
ここでデフリーントの挙げている女優ゾフィー・シュレーダー(SophieSchr・der,1781-1868) は、19世紀を代表する俳優の一人であり、ハンブルクの劇場やウィーンのブルク劇場を活動 の中心にして、卓越した演技術と朗詠術を習得していた女優として知られている。19古典劇の 登場人物を演じることを得意とするシュレーダーは、ゲーテのワイマール・システムの朗詠術 にも長けており、ゲーテの劇場とも出演契約を交わしていた。Ingeborg-UrsulaKellerによる と、シュレーダーのウィーンで完成された彼女の演技術は、ワイマールの演技術に結び付けら れたものだとする。20しかしながら、デフリーントの上記の記述によると、ウィーンのブルク 劇場では、この女優の活躍を契機として、次第に朗詠術が「形式化(manieriert)」してゆき、
19ゾフィー・シュレーダーに関しては、次の文献を参照した。Vgl.Ingeborg-UrsulaKeller:SophieSchr・der. Repr・sentantindesHamburg-WeimarerStilsinderdeutschenSchauspielkunst(NachgewiesenanderPublizistikder Zeit).Diss.Berlin(Ernst-Reuter-Gesellschaft)1961.
20Ebd.,S.89.
ゲーテの韻文芸術のための朗詠術と隔たりが生じていたことが指摘されている。デフリーント によると、シュレーダーの朗詠術の特徴は、母音の長音化である「拡張(Dehnung)」(GS, 368)によるものであるとする。そしてこのようなウィーンに特徴的な新しい朗詠術は、息切 れしやすくそれゆえ素早い語りではなくて、引き延ばす語りに頼っていた俳優イフラントに帰 せられるという。(Ebd.)これに関して言えば、20世紀に比較して19世紀の朗詠術は、ゆっ くりとした語り口調であり、また音域範囲が広く、ダイナミックで、音響的であり、そして大 きな対照性を成すテンポを取り、より高音域で語ることに、その特徴を見出せる。21従って、
これらの19世紀の朗詠術の特徴に照らし合わせると、シュレーダーの朗読にみられる「間延 び(Dehnung)」の特徴についても、この時代の朗詠術の特徴に一致していることが、理解で きるだろう。シュレーダーは自身の朗詠術を発展させまた時代に応じた様式化を行うことで、
ウィーンのブルク劇場に所属する他の俳優たちの朗読術の模範となったのである。
以上のように、ウィーンでは、シュトルム・ウント・ドラング以降のゲーテとシラーの韻文芸術 のための様式化された朗詠術から次第に離反していく現象が起きていた。だが、こうした現象は、
何もウィーンに限ったことではなかった。1830年ごろのドイツの各地方には様々な形態の朗詠術 が浸透していたが、とりわけ通用していた朗詠術は、上記で挙げた「ワイマール・システム」の 朗詠術だけではなく、すでに論述したザクセン地方を中心に好まれた朗詠術や、ドレスデンのルー トヴィッヒ・ティークに代表される高度に洗練された「劇朗読(Doramenvorlesung)」が存在し た。22ティークは、ライプチッヒの私邸にて自ら主宰する有名な朗読会を頻繁に開催していたが、
その参加者は貴族階級の崇拝者たちに占められ、半ば儀式としての体裁をなしていた。ティーク によるシェークスピアやカルデロンの戯曲作品の朗読術は効果を抑制し、様式上の手段に押しと どめ、ゲーテの朗読術とは正反対の「反演劇的」な朗読術の様相を呈していたという。23デフリー ントの考察からは、以上のような1830年代に特徴的な、地方における旧来の朗詠術からの離反 だけではなく、それが次第に様式化され、そして完成してゆく過程を窺うことができるだろう。
3.まとめ
19世紀初頭のドイツは、約300の領邦国家に分裂し、いまだに統一的な標準言語をもたな かった。その政治的また社会的な事情に応じて、1830年代のドイツの各地方で浸透していた 朗詠術も、同じく様々な様態を呈していた。各地方における朗読家や作家また俳優たちは、地 域の流行や趣味に応じた朗詠術を様式化しただけではなく、彼ら独自の朗詠術の形式をも生み 出したのである。しかしながら、ドイツの政治的また文化的ナショナリズムの風潮のもとで、
ドイツの統一的な言語の形成機運が高揚したことは、この朗詠術の発展にも少なからぬ影響を 及ぼした。Knustによると、ドイツ語の国民的な標準語の形成には、演劇の朗詠術が模範とさ れた。24すなわち、ドイツの舞台は、文化的に洗練された芸術言語である標準語に触れる機会 人文論叢(三重大学)第31号 2014
21Knust,a.a.O.S.94.
22Ebd.,S.87.
23ティークの朗読会に関しては、次の文献を参照した。Vgl.JochenStrobel:Dresden,BerlinundPotsdam.
In:ClaudiaStockingeru.StefanScherer(Hrsg.):LudwigTieck.Leben-Werk-Wirkung.Berlin,Boston(De Gruyter)2011,S.108-119,hierbesondersS.114.また、次も参照した。Vgl.Knust,a.a.O.S.90.
24Knust,a.a.O.S.82.
を、観客に提供する場に変貌していた。こうした劇場の機能の変化によって、19世紀を通じ て各地方に特有の朗詠術は、次第に統一されることになる。そしてこの流れは20世紀におい て、俳優のための体系的また教育学的な訓練校の設立とその取り組みのなかで、朗詠術の統一 性をさらに後押しすることになる。
こうした19世紀の一連の過程において、デフリーントの指摘する1830年代の朗読術の多様 な変化とその様式化は興味深い。外国文学の翻訳流入とその影響によるドイツの劇的文学の韻 律変化、当時は未分化であったオペラと演劇の上演の場の事情、より感覚的で音楽的な朗読へ の観客の趣向の変化によって、こうした朗詠術の変化が引き起こされていたのである。それは より誇張され、音楽的で、柔らかな変化であり、また散文にも影響を与えた朗詠術の音楽化と 呼べる大きな変化であった。そしてこの19世紀前半に生じた洗練された朗詠術は、同じくゲー テの朗詠術を批判し、俳優に朗読研究を推進していたライプチッヒとウィーンの劇場支配人ハ インリッヒ・ラウベによっても、さらに磨き上げられることになる。25
25Vgl.ゲッテルト、同上書、26~29頁。