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東日本大震災被災地における 民生委員の活動

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東日本大震災被災地における 民生委員の活動

―宮城県 X 町を事例として

本 多 康 生

1.問題の所在

2011年3月に発生した東日本大震災においては、阪神・淡路大震災など過 去の大規模自然災害と同様に、高齢者・障害者の死亡率が一般住民よりも顕著 に高いことが知られている(内閣府 2013)。東日本大震災の死亡者は19,335 人、行方不明者は2,600人で(消防庁 2015)、死亡者のうち65歳以上の高齢 者の割合が約6割(内閣府 2013)、障害者の死亡率は被災地住民全体の死亡率 の約1.7倍である(立木 2013)。

本稿では、地域の福祉活動の実践者として地域住民と行政とを繋ぎ、近年の 地域防災において災害時要援護者(1)支援の担い手の役割をも期待されている民 生委員・児童委員(以下、民生委員と表記)(2)の活動を、大震災被災地の宮城 県X町(図1)を事例として考察する。X町は宮城県沿岸部被災15市町村の うち、避難者の割合が最も高く、2011年3月19日時点で町民の約55.2%(9746 人)が避難所生活を送っていた。民生委員も約63%(29人)が津波により自 宅を流出させている。民生委員が、自らも被災した困難な状況の中で、発災時 から避難所生活、さらには応急仮設住宅(以下、仮設と表記)での生活に至る

福岡大学人文学部講師

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過程(3)でどのような活動を行ってきたのかを分析し、今後の課題を明らかにし たい。

民生委員は「民生委員法」(1948年制定)に基づき、地方自治体単位で地域 住民の中から厚生労働大臣に委嘱され、住民の立場に立って地域福祉活動(生 活相談、福祉サービス情報提供など)に無報酬で従事する非常勤の特別職地方 公務員である。戦前の済世顧問制度(1917年に岡山県で設置)や方面委員制 度(1918年に大阪府で創始)を源流とし、全国で約23万人が活動する。民生 委員は、児童福祉法(1947年制定)に基づき児童委員を兼ねている。主な活 動は、独居高齢者・障害者の見守り、生活保護世帯・母子家庭・児童・妊婦の 相談支援、住民からの生活相談全般などである。かつては、生活保護申請の際 の意見書の作成を中心に地域の名誉職であった民生委員の活動内容も、近年の 地域コミュニティの脆弱化、高齢者世帯・独居高齢者の増加、児童虐待や家庭 内暴力、引きこもりなど地域の社会問題の増加などにより、活動が多様化・困 難化している。さらに、2004年の全国的な風水害被害を契機とする内閣府の

「災害時要援護者の避難支援ガイドライン」(2005年3月)策定後は、高齢者 や障害者を初めとする災害時要援護者支援の要としての役割を要請されるな ど、社会的期待が増大している(全国民生委員児童委員連合会編 2014)。それ に伴って、負担の重さによる民生委員の引き受け手の減少や委員自身の高齢化 など問題が顕在化し、都市部を中心に欠員の増加が顕著になっている。

日頃から独居高齢者の訪問・見守り活動など住民の生活状況を把握し、地域 の福祉増進の担い手となり、災害時も重要な役割を期待される民生委員の活動 を、東日本大震災の被災経験を通じて検討することは、重要であると考えられ る。なお、東日本大震災では甚大被災3県において55人(岩手県25人、宮城 県23人、福島県7人)の民生委員が犠牲になり、要援護者の安否確認や避難 誘導等に従事して津波に巻き込まれた36人(岩手県13人、宮城県23人)が 公務災害に認定されている(『毎日新聞』2013年8月23日、大阪朝刊)。本稿

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岩手県 岩手県

X町

では、震災後のX町における民生委員の経験を考察し、被災地の民生委員活 動の現況と課題を明らかにする。

2.X 町の概要と被災状況

宮城県本吉郡X町は、県北東部に位置し、旧志津川町と旧歌津町の合併に よって2005年10月に成立した地方自治体である。面積は163.74kmで、北・

西・南西は北上山地の支脈の東南にあり、東は太平洋に面している。戸倉・志 津川・入谷・歌津の4地区(74行政区)で構成され、海岸部には多数の漁村 集落が立地している。震災前(平成22年3月末時点)の人口は17,815人、世 帯数5,365世帯、高齢化率は29.3% と、県平均22.2% よりも高く、人口減少 が続いていた(南三陸町 2011)。

入り組んだリアス海岸が続く三陸沿岸は歴史的に津波常襲地であり、X町で は明治以降、明治三陸大津波(1896年、死者:志津川441人、歌津799人)、 昭和三陸大津波(1933年、死者:志津川1人、歌津84人)、チリ地震津波(1960

図1 宮城県 X 町

ゼンリン地図より引用

(http : //www.its−mo.com/search/area//)。一部改変。

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年、死者:志津川41人)と、約30年周期で3度の大津波被害を経験してきた

(志津川町誌編さん室編 1989; 歌津町史編纂委員会編 1986)。

2011年3月11日午後2時46分頃に三陸沖の深さ約24kmを震源として東 北地方太平洋沖地震が発生し、X町では震度6弱を観測したものの、地震によ る建物等の被害はごく軽微であった。しかし、太平洋を渡った津波は約30分 で沿岸部に到達し、想定を大きく上回る15m超の津波によって、市街地・集 落・漁業施設・農地・基盤施設等に壊滅的被害をもたらし、戸倉・志津川の罹 災率は約75%、歌津の罹災率は約55% に達した(南三陸町2011)。被害状況 は、死者数620人(直接死600人(4)、災害関連死20人)、行方不明者数212人、

建物被害(全壊及び半壊数)3321棟(罹災率約62%)で、町役場を含め低地 にあった公共施設のほとんどが流出し、行政機能は一次的に麻痺するに至った。

被災直後の2011年3月19日には33箇所の避難所で最大9746人が避難生活を 送っていた(南三陸町ウェブサイト他)。2014年6月には町内外58箇所の仮 設で1,705世帯(入居率約88.1%)、町外みなし仮設で672世帯が避難生活を 送り(『河北新報』2014年9月4日朝刊)、2015年9月末現在も仮設入居率は 依然として7割を超えている。被災後の人口減少率(約21.4%)は県内で2 番目に高く、2015年9月末の町民は13,890人、4,615世帯である。

3.方法

X町民生委員児童委員協議会(以下、町民児協と表記)には、震災時に民生 委員・児童委員46人(うち4人が主任児童委員)が所属しており、民生委員 一人当たり1〜3行政区、58〜348世帯を担当していた。担当区内で登録され ている要援護者は0〜33人であった。46人の民生委員のうち、1人が津波によ り家族と共に自宅で死亡(戸倉地区)、29人が自宅流出(戸倉・志津川・歌津 地区)、3人が震災後に死去または他市に転出して委員を交代したため、2012 年7月時点で被災経験を持つ委員は42人であった。本研究では、町民児協会

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長・町役場保健福祉課・町保健センター・中心行政区の行政区長・町内障害者 施設管理者等への予備調査を実施した上で、町民児協に民生委員42人全員へ の調査を依頼し、調査の許諾を得た34人(うち主任児童委員3人)を対象と して、2013年5〜11月にインタビュー調査を行った(5)

調査対象者には、仮設・自宅・仮設商店街等において、被災経験と民生委員 としての活動について自由に語ってもらう非構造化インタビューを1〜3回実 施した。インタビューの所要時間は延べ100〜470分であった。調査対象の34 人の民生委員のうち、内陸山間部で津波被害のなかった入谷地区の7人を除く と、自宅が残った民生委員は8人だけであった。自宅が流出した民生委員の調 査時点の居住場所は、町内仮設9人、町外仮設2人、町外見なし仮設3人、町 外家族宅1人、町内再建4人であった。本稿では、震災後に民生委員活動を継 続するにあたって最も困難度が高いと考えられる、自宅が流出した民生委員の 経験に焦点を当て、インタビューデータの分析を行う(6)

まず4章では、災害時要援護者登録制度の中核を担ってきた民生委員の発災 時の活動を考察する。続く5章では、避難所で民生委員がどのような支援を行っ たのかを検討する。6章では、被災者が仮設に移ってからの民生委員の活動を、

小規模仮設と大規模仮設を比較しながら分析する。最後に7章では、X町にお ける震災後の民生委員の活動をまとめ、今後の課題を明らかにすると共に、被 災地の分析からもたらされる全国の民生委員活動への示唆を論述する。

4.発災時に民生委員はどう動いたか

X町は、宮城県沿岸部市町村の中ではかなり早く、2007年度から災害時要 援護者登録制度を開始した(7)。民生委員は同制度の要として、担当区内で発災 時に避難誘導や移動支援が必要な高齢者・障害者等を、民生委員からの働きか けや本人の希望によって災害時要援護者名簿に登録していた。同時に、発災時 における当該要援護者の支援を担う近隣住民や親戚等が、「地域支援者」とし

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て2人まで登録されていた。

民生委員は、平時には主に独居高齢者・障害者の見守り等を通じて、要援護 者の生活状況の把握に努め、様々な支援を行っていたが、災害時要援護者登録 制度においては、制度上、発災時の個々の要援護者の支援は、民生委員ではな く、実際に距離的・心理的に近しい関係にあり、自動車等での同乗支援も可能 な個別の地域支援者が実施することになっていた(8)。しかし、東日本大震災で は、発災時に担当区内やその近辺にいたX町の民生委員の多くは、地震発生 後に沿岸部への津波襲来を予測し、自力での高台避難が困難と推測された要援 護者への直接的な支援を実施していた。本章では、具体的な事例を挙げながら、

民生委員による発災時の災害時要援護者に対する支援行動を分析していく。

(1)災害時要援護者への支援行動

2011年3月11日午後2時46分頃に三陸沖で発生した地震は、X町では震 度6弱を観測し、かなりの縦揺れを伴うものであった。現地では2日前にも震 度4の前震が発生しており、その際に民生委員の多くは要援護者の安否確認を 実施し、ごく一部の地域の住民は津波に備えて避難所等に一時避難していた。

それと比べても今回の地震は格段に大きく、民生委員は「あんなのは今まで経 験したことがなかったね。揺れが強くて長かったですからね」(志津川、Gさ ん)、「地震の揺れがもうすごくてね。私は耐えられなくて庭でそのまま地面に へばりついた。これでは津波来るなって、今までと揺れが違うもの」(戸倉、A さん)と振り返る。そのため、民生委員は皆、沿岸地域への津波の襲来は不可 避と判断し、浸水予想域から高台の避難所へと避難を始めた。実際に、地震の 3分後には気象庁から津波警報(予想津波高:宮城県6m)が発表され、X町 は即座に防災無線で住民に高台避難を呼びかけた。町の地域包括支援センター からは、発災後に公用車が何台か出て、保健師やヘルパーが自力で高台避難が 困難な高齢者や障害者を道で拾って避難させた。

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志津川地区の中心の行政区を担当する民生委員のGさんは、発災時にはちょ うど自宅にいた。急いで要援護者名簿と下着類を入れたバッグを持ち出し、民 生委員のジャンパーを着て、隣の視覚障害の男性と自宅裏に住む認知症の高齢 女性に声を掛けた。それから、その女性を連れて徒歩で高台にある避難所の公 園に向かう途中、公用車に遭ったので、女性を乗せてもらい、先に避難させた。

「そういうのは〔町の規模が〕小さいから出来たことですよね。〔利用者の〕

誰がどこにいるとか、〔高齢の〕1人暮らしの人は、地域包括〔支援センター〕

でもわかっていて」と語る(志津川、Gさん)。隣の行政区を担当するHさん は、発災時は車で自宅に帰る途中だった。家に戻り、息子夫婦が学校に孫を迎 えに行っていることがわかったので、避難する前に周囲の要援護者に声を掛け た。比較的元気な高齢者も声掛けを手伝ってくれた。近所の地域支援者の若者 は、知的な障害のある女性が家の前で母親と道路にへたり込んでいるところを、

後ろから抱えて自分の車に乗せ、高台に避難させた(志津川、Hさん)。また、

浜に住む主任児童委員のPさんは、旅行に行こうと家を出たところで地震に 遭遇し、急いで夫の位牌など大事な物を家の2階に上げた。それからかねての 手筈通り、近所の高齢者達を5、6人連れて、避難経路を無視して最短距離を 通って、高台にある避難所の公園に隣接する保育所の講堂に避難した。「とに かく近道を歩きました。私に間をおかないでついてきてって言って、車がガン ガン通っているところを、夢中で大きな荷物を突き出して、車を止めて通りま した」(志津川、Pさん)。講堂から外を眺めていると、坂の下から土煙が上が り始めたので、津波が押し寄せて来たのがわかった。Pさんは山越えを決意し、

保育士達と共に園児達の手を引き、道がない中を先頭に立って木を掻き分けな がら逃げた。雪が降ってきて地面が滑り、子ども達の靴が脱げてしまったので、

拾ってビニール袋に入れ、急斜面は子ども達のお尻を押し上げたりしながら、

津波が町を襲うのを眼下に見つつ、山の中を数十分歩き、やっとの思いで全員 無事に小学校の避難所に辿り着いた。「保育所の津波の避難訓練は徹底してい

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て、震災のちょっと前にも訓練したと言ってました。子ども達も泣いたり戻っ たりしないで、一生懸命ついてきたら、おうちの人に会えるからと話すとちゃ んと聞いてくれて、上手に避難して立派だと思いました」(志津川、Pさん)。 また、海から1キロほど内陸にあり、津波で壊滅した行政区を担当するF さんは、避難場所に指定されていた平地の小学校跡の体育館から住民を自宅前 の高台の神社に避難させているうちに、迫ってくる津波に追われ、波に足をさ らわれそうになりながら、一番最後に階段を駆け上がって境内に辿り着き難を 逃れた。「早く神社に登ってって近所の人に声掛けてるうちに、〔先に上ってい た〕家内や母が神社の高台から、津波来てるよって〔叫んだんです〕。神社か らは〔1km先の〕防波堤を超えたのが見えたんでしょう。私がかろうじて階 段まで行った時には、もう足首まで波が来てるんです。その後ろは壁になって 来てる。だからもう際どかったんです。・・・・・・鳥居が波で持って行かれても振 り向いて見る余裕がなかった」(志津川、Fさん)。また、歌津の担当区外で山 仕事をしていたUさんは、大きな地震で家に戻った後、いつものように独居 高齢者の安否確認に出掛けた。海に近い場所だったが、10m以上の高台なの でまさか津波が来るとは思っていなかった。最初の家は逃げたのか留守で、歩 いて山手のほうを回って2軒目に行く途中で、海からばりばりと音がして、眼 下の街に津波が押し寄せ、やがて自宅がふわっと浮き上がって流されていった。

「大きい地震があった後に独居老人5、6人を訪ね歩くのは、いつもやってる ことですからね。でも、なぜかその日は軽トラックには乗らず、いつもと違う コースで歩いて〔見回りに〕行ったんです。そうでなければ、今話してないで しょうね」(歌津、Uさん)。

このように民生委員は、発災時に出来る範囲で要援護者に対する支援行動を 取っていた。甚大被災地区(9)の戸倉・志津川・歌津では、27人の民生委員の うち12人が高台や避難場所に避難する際に、近隣の独居高齢者に声掛けをし たり、徒歩や自動車で一緒に避難したりしていた。また、27人のうち、発災

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時に自宅にいたのは13人で、担当区外にいたのは9人、仙台市・石巻市・登 米市など町外にいたのは5人であった。自宅周辺にいた民生委員のほとんど は、老親など自らが要援護者と同居している場合や、自宅が高台・山間部で避 難しなかった場合を除くと、避難前または避難時に要援護者1〜4人の安否確 認や避難呼びかけなどの支援行動をとっていた。さらに、5人の民生委員(戸 倉1人、志津川2人、歌津2人)は、普段から見守りをしていた独居高齢者宅 を車や徒歩で見回る途中で津波に巻き込まれそうになるなど、担当区内の要援 護者への避難支援行動によって、危機的な状況に陥っていた。民生委員の間で は、発災時には自身や家族の安全を確保してから可能であれば支援することに なっていたものの、共助のリスクについては周知が十分ではなく、津波がいつ 襲来するかわからない状況では、防災無線が伝える気象庁の津波波高予測に 沿って、担当区の浸水状況を予測し、要援護者の安否確認を行うのは、民生委 員にとっては普段の民生委員活動の延長線上の自然な行為であった。

(2)優先順位をつける

発災時には「とにかくお年寄りや弱い人や独居の人達が頭から離れない」

(志津川、Eさん)と民生委員は口を揃える。町の災害時要援護者登録制度で は、「高齢要介護者」「独居高齢者」「高齢者世帯」「障害者」「その他」が「災 害時要援護者」として一括りにされていたが、民生委員は「要援護者」という 行政によるカテゴリーをそのまま利用しているわけではなかった。民生委員は 要援護者名簿をもとに要援護者の状況を把握しているのではなく(10)、地域にお ける日常の活動で情報収集しメモを作っていたので、頭に入っている情報に基 づいて支援行動を取っていた。

歌津の市街地を担当する民生委員は、高台の中学校へ徒歩避難する際に、近 所の独居高齢女性も一緒に連れ出したが、その女性は戸倉に嫁いでいた娘を津 波で亡くした。震災後に女性が「〔あなたに〕助けられた。本当に命の恩人だ」

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と、お礼に来たので、民生委員は「何もそんなんじゃないよ。逃げながら〔近 隣の高齢者宅を〕回って連れ出していったんだから」と答えた。このように民 生委員は自身の避難に合わせて共助を実行していたので、自身を危険にさらし ているという認識はなかった。さらに、「他は要援護者でもだいたい家族がい るので、まず家族が連れ出すと思いますでしょ。家族がいるところは、私たち はあまり関わらない。ああいう時は切羽詰まってますので」と語る(歌津、Q さん)。このように、担当区やその周辺にいた民生委員は、一律に支援するの ではなく、たとえ体が不自由な高齢者であっても、家族同居の場合は家族に任 せ、自身は普段から見守り活動をしている独居高齢者のもとに優先的に走った。

都市部では、災害時要援護者登録は、該当者が知人や地域住民に迷惑を掛け ることを恐れて登録を遠慮し、地域内にも実際の避難支援を担える体制がない ことから申請が進まず、そのごく一部しか登録されていないケースが見られた が(首都圏S市社会福祉協議会ヒアリング)、X町ではかなり実情に即した登 録がなされていた。ただし、要援護者は、特に高齢者世帯などでは実際には自 力避難が可能なケースのほうが多かった。そのため民生委員は、今回の震災の ように、近地津波で警報が出てから津波が襲来するまでの時間的余裕がない場 合は(11)、いつも気に掛けている独居高齢者にまず声を掛けようとした。民生委 員自身が認知症の要介護高齢者と同居している場合などは無理であったが(志 津川、Kさん)、避難までに少し余裕があれば、住民と協力するなどして近隣 の独居高齢者に声を掛け、自身の避難で余裕がない場合は、独居者の中でも特 に自力で避難することが困難な人をまず頭に思い浮かべて支援行動を取ってい た。さらに避難時に支援できなかった各要援護者に対しては、5章で述べるよ うに後日、町内の避難所を回って安否確認を行っていた。

災害時要援護者登録制度では、避難支援は地域支援者が対応することになっ ており、要援護者の中で優先順位は付けられていないが、このように民生委員は 地域の実情に即して判断し、発災時には自分で優先順位を付けて行動していた。

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(3)災害時要援護者登録制度をめぐる民生委員の葛藤

それでは、民生委員は震災を経験した現在、災害時要援護者登録制度につい て、どのように捉えているのだろうか。まず事例を一つ紹介したい。志津川と 歌津の境の行政区に住んでいた50歳代の女性は、発災後に高齢の両親の様子 を見に行き、津波に呑み込まれて亡くなった。この女性は両親の地域支援者に なっていた。津波の数日後に、民生委員が心配して女性の夫のもとを訪ねたと ころ、「どうもすみません。〔妻を〕助けられなくて」と夫は謝った。「ガーンっ てショックを受けて、その言葉がずっと引っかかって、この仕事辞めようかと 思ったんですよ。結局、地域支援者として行ったために亡くなったって、私は 解釈したんです。ずっと悶々として、〔地域支援者になることを〕頼んだ私が 悪いって。これが話せるようになったのは、随分経ってからです」(志津川、O さん)。この民生委員は、地域支援者になるよう自分が依頼したために女性が 海に近い実家に様子を見に行き、二次災害に巻き込まれて亡くなったと理解し、

女性の夫に対して痛切に申し訳なく思った。思い悩んだ末に、町役場の担当者 に辞めたいと話したところ、「あんたのせいでないから」と慰留され、次期

(2013年12月の全国一斉改選後)も引き受けることになった。

震災後は要援護者の住所等が大きく変わったため、役場では臨時職員を雇っ て要援護者の情報を収集し、要援護者名簿を更新しようとしている。だが、要 援護者登録の際に要援護者本人は遠慮して地域支援者を指名することは少な く、要援護者と地域支援者のマッチングは主に民生委員に委ねられているため、

今後の名簿の更新に対して、民生委員達は大きなストレスを感じている。「結 局、支援者を頼むのも、誰にでも頼めないし、〔隣同士が親しい場合や〕縁者 でないと頼めない」(志津川、Oさん)。特に市街地の民生委員の場合は、要援 護者の隣人に地域支援者を引き受けてくれるよう頼んだところ行政への反発か ら「一切知らない」と断られたり(歌津、Qさん)、要援護者の親族が同じ行 政区内にいても、要援護者より山手に住んでいる人には、海のほうに向かって

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支援に行くことになるので頼めず、地域支援者が空欄になったり(志津川、G さん)、形式的に別地区の親族や自分の名前を地域支援者に記載せざるを得な かった(志津川、Mさん; 志津川、Jさん)という困難な経験を語っている。

2013年の災害対策基本法の改正により、翌年度から市町村は名簿策定を義 務づけられたが、問題も指摘されている。たとえば、法改正の動きに対応して、

仙台市では行政が町内会に個別の地域支援者を定めないまま要援護者名簿を渡 し、避難支援を担うよう求めたことに対して、町内会は責任を負えないと反発 した(『河北新報』2013年1月11日朝刊)。また、同様の事例や、平時の情報 提供同意者が半数未満の自治体が多いことや、行政が情報共有に慎重で地域に 名簿を渡せない事例なども、しばしば報道されている(『静岡新聞』2016年1 月1日朝刊;『毎日新聞』2016年1月16日朝刊など)。これに対して、血縁・

地縁に代表されるインフォーマル・ネットワークの発達したX町では、多く の民生委員達は担当区の住民の家庭状況・生活状況を把握していたため、要援 護者の登録や、要援護者と地域支援者のマッチングは、都市部よりも容易であ り、これは大きなメリットであった。しかし今回の震災では、要援護者の安否 確認に行った家族や地域支援者の中に津波に巻き込まれたケースがあり、民生 委員の中にはそうした二次被害を生み出した倫理的責任を痛感し、自責の念や 精神的な負荷を感じている人もいる。地域の共助力を高める上で登録制度は必 要であるものの、制度を推進する要である民生委員への負担が大きくなってい るのが実状である。

民生委員達は、震災で地域支援者の登録が役立ったかは「微妙」、「今回は時 間がなかったので、機能したかは不明」「皆が逃げるので精一杯で、それどこ ろでなかったからわからない」と語る(戸倉、Cさん; 志津川、Mさん; 志 津川、Gさん)。それでは、地域支援者の登録は意味がないのだろうか。もち ろん、災害対策基本法で基礎自治体が要援護者名簿作成の義務を負うことに なった以上、制度を実践に生かせるよう、行政や民生委員だけでなく地域全体

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で努力すべきであろう。しかし民生委員は、要援護者登録制度の根底にある「要 援護者だから支援する」というのは、都会的な発想であると指摘する。「何十 年に渡って隣同士だからね。〔人の〕入れ替わりがないもの。特別に要援護者 だからとかじゃなくて、普通に声掛けたり大丈夫とかって〔助け合うのは〕、 皆近所で一緒に暮らしてる中でのことだから」と語る(志津川、Gさん)。

何世代にもわたって隣同士が変わらないX町の地域生活では、しばしば住 民同士は「お茶っこ飲み」(お茶を飲んで雑談)をする関係にあり、特別に意 識しなくとも互いに配慮している。その上で、行政がきめ細かく要援護者を把 握し、災害時だけでなく平時にもフォローするために登録制度は必要である。

また、日常的にそうした地域関係があるから、都市部のように災害時に支援者 に迷惑を掛けることを怖れて要援護者が登録を断ったり、「もういいから」と 民生委員の訪問を拒絶したりすることはあまりない(志津川、Gさん; 歌津、

Xさん)。都市部の見知らぬ関係においては、制度(要援護者登録制度、民生 委員制度)の後に支援―被支援関係が持ち込まれるが、X町では、民生委員・

要援護者・地域支援者間に、それらの役割以前に同じ地域住民としての信頼が ある。民生委員と見守り支援の対象である独居高齢者の間も、硬直した支援―

被支援関係ではなく、お裾分けをし合うような近所付き合いのある地域住民同 士の関係が前提となっている。

それを踏まえた上で、X町の民生委員は地域支援者の大切さを指摘する。「要 援護者は弱いっていうか、痛みを負うとか、そういった人でしょうけども、民 生委員だけでなく、地域の支援者と連携を取って、きちんとしておかないと。

民生委員は一つのポジションにはなりますけども、全部やれるわけじゃないん です」と強調する(志津川、Jさん)。民生委員は地域支援者と普段からコミュ ニケーションを取っていなかった今回の震災の反省を踏まえ、「改めて〔この 人の地域支援者になってと〕声を掛けると、また〔配慮が必要と〕気が付いた り」(志津川、Gさん)できるので、継続的に地域支援者に働きかけていくこ

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とが大切だと主張する。

たとえば、1960年のチリ地震津波後に復興住宅として長屋形式の町営住宅・

県営住宅が建設されていた行政区では、高齢で移動手段を持たない10名近い 要援護者が、同じ住宅に住み長年付き合いのある地域支援者の車に乗せられて、

ベイサイドアリーナなどに避難し、全員無事であった。「名前だけの支援者に なってしまう」(志津川、Jさん)ことなく、的確な支援行動が取られたのは、

普段の付き合いが重要であることを改めて裏付けている。そして民生委員が

「〔今回はうまくいったけど、〕支援者と日頃から意思疎通を取っとかないと。

私としては、支援者に「何かあった時にはお願いしますよ」って、声は掛けて いましたが、ただの一方的な話だけで、本当に理解しているかどうかの確認は まだ出来ていなかったんです」(志津川、Jさん)と反省するように、発災時 に要援護者の避難や声掛けにあたる地域支援者や若い住民との意思疎通を、民 生委員は普段から取っておくことが必要であると考えられる。そのためにはど うすればよいだろうか。

(4)自主防災組織と民生委員

ここで、震災前にX町がソフト面の地域防災対策の一つとして力を入れて いた自主防災組織について、論じたい。阪神・淡路大震災を機に自主防災組織 の重要性が再認識され、結成を促す行政の施策や環境整備によって、全国的に 組織化が進んでいる(消防庁 2011)。X町でも、2006年から各行政区に防災 備品購入時や自主防災組織結成時には補助金等を支出して組織化を促してき た。各自主防災組織(会)は1〜2行政区で構成され、主に行政区長(または 契約会長)を組織長として、震災前の組織率は7割以上に達していた。しかし、

災害多発地域のX町では、従来から自治会にあたる行政区や契約会が実質的 に自主防災組織の役割を果たしてきたため、町の補助金を受けるための形式的 な組織化に留まり、家屋が広範に流出した地域では、発災後に実質的に機能し

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たケースは稀であった。「震災後に動いたのは〔自主防災組織でなく〕契約会 だね」(歌津、Rさん)、「〔地域全体が〕被災したから、〔自主防災組織で〕決 めていた係も機能しなかった」(歌津、Uさん)と民生委員は語る。

さらにX町では、個々の行政区は自主防災組織作りにおいて、各々の立地 条件を踏まえて津波や火災など襲来する災害の種類を想定しつつ、全住民の避 難確認や避難所生活の維持を重視していたので、発災時の要援護者支援の視点 はさほど強く打ち出していなかった(12)。そのため災害時要援護者登録制度(平 時の名簿共有範囲は区長・民生委員・社会福祉協議会・警察・消防署)は、自 主防災組織とは無関係に成立していた。

行政は、将来的に自主防災組織に名簿を開示して要援護者支援の役割を持た せる意向であったが、民生委員が組織化の際の会合に参加していた自主防災組 織は少なかった。一部の行政区の住民は、毎年の避難訓練でも一応は要援護者 避難を想定した簡易担架やリヤカーなどの避難メニューを部分的に導入してい たものの、基本的に一人も犠牲を出さないための全住民の高台避難や避難所生 活に焦点を当てていた。たとえばチリ地震津波で被災した志津川の中心の行政 区では、町の防災訓練以外にも独自の訓練を実施しており、「夜間の〔津波に 備えて〕避難訓練を実施したこともあります。大きな住宅地図を作って、避難 場所で誰が来たとか、誰が来ないとか、区長さん達が色々チェックをして」と 民生委員は語る(志津川、Gさん)。防災訓練に民生委員が独自の立場で役割 を付与されることは少なく、多くの行政区では民生委員と自主防災組織の連携 も不十分であった。

そして、震災で従来の行政区の解体や弱体化が生じた。津波で壊滅した地区 の民生委員は、「〔震災後は〕みんなてんでばらばらだからね。違う仮設に分散 してしまったもの。かつての行政区は崩壊さ」とため息をつく(志津川、Kさ ん)。さらに伝統的に地域防災を担ってきた婦人会や婦人防火クラブに代表さ れる従来の地縁組織も、震災と高齢化によって、被災地区では解散が相次いだ。

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今後の防災集団移転(高台移転)や災害公営住宅の建設等によるコミュニティ の解体・再構築に伴い、自主防災組織の充実を図っていく方向性からは、要援 護者支援を重視する民生委員が参加する形での自主防災組織の強化が重要であ ろう。さらに、都市部と違い、名簿の共有に対して要援護者や地域住民の拒否 感が強くないというX町の特性や震災後の地域防災意識の高まりを生かし、要 援護者と地域支援者のマッチングや、要援護者と地域支援者との意思疎通を、

民生委員任せにすることなく、要援護者登録制度を自主防災組織の中に組み込 むことも必要であろう。

次章では、避難所で民生委員の活動がどのように行われたのかを考察する。

5.避難所で高齢者や障害者を支える

X町では、近い将来に99% を超える確率で起こるとされた宮城県沖地震等 に備え、震災時には78箇所の避難場所・避難所を指定していた。だが、想定 をはるかに超える津波によって、半数近い避難場所・避難所が浸水・流出した。

そのため、住民達はベイサイドアリーナ(志津川)、志津川小学校、志津川中 学校、志津川高校、入谷小学校、平成の森(歌津)、伊里前小学校(歌津)、歌 津中学校、民宿(戸倉)、各行政区のセンター(公民館)など様々な場所に避 難することになった。2011年3月19日には33箇所の避難所で9746人が避難 生活を送っていた。それでは、民生委員は、被災住民が集団生活を送る避難所 で、どのような活動を行ったのだろうか。

ベイサイドアリーナ、志津川小・中・高校、平成の森、伊里前小学校、歌津 中学校など色々な地区から避難者が集まった大規模避難所では、即座に自治会 が結成された。志津川小学校に避難したある民生委員は、班分けの際に、健常 者と一緒の生活が難しい高齢者や障害者を自身の周りに集めた。「することは 山ほどありましたね。特に高齢者の方のトイレ介助とかは、夜も本当に何度く るかわかりませんでした」(志津川、Gさん)。そして、他地区に住む精神障害

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がある知り合いの女性も同じ班に編入し、ストーブに載せたヤカンの管理を頼 んだところ、ポットの準備から昼食の用意まで懸命に手伝ってくれた。

他市町村では避難所に集団避難してきた障害者施設の障害者達が周囲の目で 居づらくなり、目立たない場所に移らざるを得なかった例もあり(NHK東日 本大震災プロジェクト 2014)、X町でも大規模避難所の殺気だった空気の中で は、「ちょっと訳わかんないことを言うとかって、家族の人が大きな声で怒っ ている声」も聞こえたと民生委員は語るが(志津川、Gさん)、この避難所では 民生委員のフォローもあって、障害をめぐるコンフリクトは顕在化しなかった。

確かに従来からX町では、都市部では偏見の対象ともなる精神障害者や知 的障害児者も匿名の存在ではなく、具体的な「誰々ちゃん」としてごく普通に 地域で受け入れられており、たとえば勝手に隣家のお風呂に入ったり食事をし ていても、接触を避けるのではなく、笑い話で済ませられるような関係性が多 くの地区で築かれていた(町内地域活動支援センター「風の里」ヒアリン グ)。だが、それはあくまでも平時の顔見知りの間柄に限られており、今回の 震災のように大規模避難所に様々な地区から避難者が集まり、知らない住民同 士がすし詰めになり、物資も空間も不足したまま共同生活を送った場合には、

精神障害や発達障害などを抱える障害児者が彼/彼女にとってごく普通の行動 を取っても、集団の和を乱す特異な行動と理解され、周囲から本人や家族が叱 責された事例もあった(歌津、Rさん)。

Gさんは要援護者へのそのような批判や問題の発生を防ぐために、特に配慮 が必要な人を自分の周りに集め、障害のある人にも積極的に仕事を割り振って 自主的に集団生活に参加させようと試みたのである。すると、周りの人達は頼 まれた仕事を懸命に手伝う障害者の態度を見て、危害を加えるような人ではな いと理解し、受け入れるようになった。さらに避難所には、家族や親戚の安否 を尋ねに来る人が沢山おり、Gさんは避難時に要援護者名簿と共に持ち出した 民生委員のジャンパーを羽織って、日中は安否確認に訪れた家族の応対をした

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り、避難者の相談にのったりして、支援活動を行った。

また、志津川で最も多くの人々が避難した大規模避難所のベイサイドアリー ナで、Hさんは2、3日ほとんど寝ずに民生委員活動を行った。体の具合の悪 い人を見つけると、ベイサイドアリーナの中で医療活動をしている保健師や看 護師に繋いだり、集団生活で不安を抱え途方に暮れている障害者家族に声掛け をして相談に乗ったりした。Hさんは、激務で体調を崩して町外の二次避難所 に移ったが、そこでも避難してきた知り合いの障害者家族に頼られ、被災を免 れた内陸自治体の支援学校に障害児を繋いだりしていた(志津川、Hさん)。

また、Yさんは自分の担当区の住民の安否確認のために避難所を回った時に、

顔見知りの高齢者や女性に手編みの帽子や古着を配った。家を流されて避難所 に逃げてきた人々は寒さに震え、お湯がなく身づくろいも出来ずにいたからで ある。「髪とかしてないから、もうすごい頭になってるんですよ。女の人は気 にしてるだろうから、帽子で少し隠せるかなって思って」と語る(歌津、Yさ ん)。

さらに民生委員達は、避難所生活が落ち着いてからは、普段から見守り支援 を行っていた高齢者をフォローアップのために訪ね、流されなかった家も回っ た。情報も錯綜し、担当区の要援護者が民生委員と同じ避難所に逃げていると は限らないので、担当の要援護者の安否を最終的に把握するには、数か月掛か ることもあった。

道が瓦礫で通れなくなって孤立した地区の避難所で活動していたFさんは、

情報伝達や庶務会計を担いつつ、民生委員として外部から自衛隊などの医療 チームが入ってくるまでに避難者の生年月日と病状や服用薬を聞き取り、紙が ないのでカレンダーの裏を使って、60人分の「カルテ」(服用薬記録)を自作 した。それを若者が持って、悪路の中を町の中心避難所のベイサイドアリーナ まで薬を取りに行ったが、十分な在庫がなかった。「皆、自分の薬を流されて るでしょう。ああいう時に一番必要なのはやっぱ薬だね。持病を持った人がこ

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んなにいるのかなって。多くの人が何かしら薬を飲んでるんだから」(志津川、

Fさん)。その後、各種の薬を携行した医療チームが到着し、命に関わる心臓 の薬を必要としていた高齢者からも感謝され、薬の大切さを再確認した。

しかし、自宅を流され、避難所で民生委員活動を懸命に遂行していた民生委 員達は、ほとんどが2週間弱で現場を離脱し、子どもや実家など家族・親族を 頼って仙台市など遠方に二次避難する結果になった。体調を崩したり、怪我を したり、自身の身体的・精神的限界を超えたためであった。

一方、各行政区のセンター(公民館)など主に当該地区住民主導の小規模避 難所の生活では、民生委員としての活動よりも、男性は行政区の現・元役員と しての役割、女性は主婦として炊事・食糧配給などの役割を求められ、それら を重点的に担っていた場合は、仮設に移るまで町内に留まった人も多かった。

たとえば、高台が多い土地にもかかわらず約3分の1の家が流出した行政区の 民生委員は、「地震が来て、各〔要援護者の〕様子を見に行かないといけない と思って〔見回りに〕動いたけども、避難所に入ってからは、〔避難所の自治 会の一員として〕生活全てに関わってたので、民生委員という意識はあまりな かったね」と語る(歌津、Rさん)。なぜなら、役場職員が常駐し、様々な地 域から避難者が集まったベイサイドアリーナなど大規模避難所とは異なり、小 規模避難所では主にその行政区(まれに自主防災組織)が中心となって、住民 同士で負担を分担して運営する必要があったからである。大規模避難所では震 災後比較的速やかに、被災を免れた入谷からの炊き出しのおにぎりや外部から の救援物資などが届いたが、各行政区内のセンターなど小規模避難所では、被 災住民が支援物資の受け取りから、配給、医薬品の手配、外部医療チームの受 け入れまで、全てのマネージメントを、避難所が閉鎖されるまで自分達で行わ ねばならなかった。

それに加えて、行政区のセンターに開設された小規模避難所でも、同じ地域 の顔見知りの住民でありながら、震災前には気づかなかった多様性のある人々

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が避難して来た。当初は大広間で雑魚寝であったので、夜中に奇声を上げて隣 の掛け布団を取ったりする高齢者や、認知症で徘徊する女性、留置カテーテル を下げた高齢男性など、震災前は家族と一緒に暮らし、家族によってケアされ ていた人々が家を流され、震災後は高齢の配偶者や息子夫婦、嫁など同居家族 がばらばらに親族を頼って行ってしまったために、支える人がいなくなり、一 人で最寄りの避難所に身を寄せるケースが相次いだ。健康な避難者でも生活し づらい避難所生活では、特別な配慮が常時必要な人は共同生活が難しく、孤立 してしまう。そこで、避難所の民生委員は、皆とは別の部屋で就寝できるよう 配慮したり、地域包括支援センターに連絡して施設に入所させたり、家族・親 族と連絡を取って引き取りに来てもらえるよう努力していた。また、従来は家 族と一緒に暮らしていたため、地域では知的な障害があることが目立たなかっ た人が、避難所で集団生活を送ることにより、本当は支援が必要な要援護者で あることがわかり、やがて体調を崩して外部医療機関に入院することもあった。

民生委員は、「〔避難所の共同生活では〕皆のペースで〔暮らすことになり〕、 今までのペースで暮らせないから」と語る(歌津、Rさん)。

東日本大震災以降、全国的に福祉避難所が急速に整備されているが、災害文 化が根付いていたX町でも(林・青木 2011)、行政区や自主防災組織の防災 訓練・防災対策の焦点は、津波による直接死を回避する高台避難や避難所での 非常食・燃料等の確保に当てられており、一般避難所での要援護者対策の事前 準備は遅れがちであった。大規模避難所では町の保健師や医師も避難していた ので、医務室の開設や配慮が必要な避難者は別室で生活するなどの対応も迅速 に取られたが、小さな行政区のセンター等に開設された避難所では、基本的に は住民の共助に委ねられたために、共同生活では避難者全員の生活を優先せざ るを得ず、要援護者や高齢者のことを第一に考える民生委員の役割は必ずしも 重視されなかった。

先述したFさんの避難所でも、やがて物資が大量に各方面から届くように

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なり、外部の医療チームの巡回診療も行われるようになると、住民全員の平等 を重視し、診療日をずらしてでも被災者に物資を分けることを優先しようとす る行政区の役員と、「病気の人や弱ってる人」の都合を優先する民生委員との 間で考え方の対立も生じた。「医療班がせっかく来てるのに、どっちが大事な んだと。援助物資の配布はいつだっていいんだから」と振り返る(志津川、F さん)。

高齢者や要援護者を重視する民生委員の視点と、緊急時に全住民・避難者の 福祉の平等を確保しようとする避難所運営の視点の対立や葛藤を防ぐために は、事前に自主防災組織についての討議や避難所運営マニュアル等を通じて、

民生委員に正式な役割(要援護者支援班の班長など)を付与し避難所運営に組 み込む必要があろう。そのことは、災害が生じた際に民生委員に過大な負担を 負わせることを防ぎ、避難所生活で配慮が必要な要援護者に対する一般住民の 間の事前認識の深化に繋がるだろう。

6.仮設生活移行後の民生委員活動の困難

ここまでは、発災時と避難所における民生委員による支援について論述して きた。本章では、前章までの議論を踏まえた上で、被災者が仮設生活に移行し て以降の民生委員活動について考察する。

(1)担当区の再編成

2011年5月から8月にかけて、被災者は従来の避難所から町内外58箇所に 建設された仮設住宅に移行した。それに伴い、担当区の再編成があり、民生委 員は、従来の担当区の残った家以外に、担当区内外の仮設や別の行政区も割り 当てられた。たとえば町の中心で約 270世帯のうち高台の10世帯ほどが残っ た行政区を例にとると、被災した民生委員は震災後は自分が居住する仮設の一 部と、近隣のやや大きな中学校の仮設と、さらに元の行政区に残った世帯を担

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当しており、担当区が飛び地になっている。もちろん、震災後の居住地が担当 区から遠いほど活動の困難度は増し、しかも新しく割り当てられた仮設に住む 人達のことはよくわからない。「もう混乱だよね。普通はそこに長くいる人が、

地域の色々なことを他の人より知ってるので、〔民生委員を〕頼まれるものだ から」(志津川、Gさん)。地域のことを知悉しているので民生委員を委嘱され ているはずであるにもかかわらず、震災後は地域住民の目線に立つことが難し いという、かつてないジレンマに逢着している。

歌津のある民生委員も、元の行政区に残された50世帯強に加え、別の仮設 の73世帯を担当するようになった。定期的に車で半時間掛けて元の行政区を 訪問し、高齢者の見守りをしている(13)。震災前のように頻繁に担当区を回れな いので、道で家族や知り合いに出会うと気がかりな高齢者の様子を尋ね、把握 に努めている(歌津、Tさん)。また、同様に元の地区を離れ仮設住まいして いるある民生委員は、民児協の地区定例会で、被災しなかった行政区の民生委 員が、認知症高齢者の徘徊や住民の入退院支援など担当区の家庭の事情を知悉 した事例報告をするのに感心しつつも、震災後は自身が「担当地域と離れてい るので、余計〔心理的に〕乖離を感じるなあ」と心情を吐露する。「被災地で もそのエリアにずっと住み続けてる人だったら目も届くかもしれないんですけ どね。私の場合は、何とか週1回ぐらいは〔元の地区を〕回って、これまで見 回っていた方に変化がないか、声掛けしてる状況です」と語る(歌津、Uさ ん)。

このように、被災した民生委員は、元の担当区の残った世帯も担っているが、

別地区で仮設暮らしの場合は、担当区を定期的に回るよう心掛けていても、随 時の生活状況把握は難しくなる。さらに、民生委員は児童委員を兼ねており、

子ども・子育て支援においては、これまで学校と連携して、不登校やいじめな どの問題が発生した際に家庭の状況を学校に伝え、一緒に対策を考える役割を 果たしてきた。だが、家族と同居していない独居高齢者の見守りと違い、特に

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子どもの家庭には民生委員は親の意向を無視して出入りすることは出来ないた め、担当区と離れて生活するようになると、常時の状況把握に努めることは困 難であり、「たまに子どもさんに何か問題があった時とか〔学校から家庭の状 況を〕聞かれたりしますけど、わからないことも出て来る」(歌津、Sさん)よ うになった。

つまり従来は、訪問や声掛けをして、直接当事者から情報を集めなくても、

区長などとも連携し、当事者の周囲や地域住民から支援が必要なケースの情報 が民生委員に自然と集まるようになっていた。したがって個々の民生委員に とって、地域での日常生活と民生委員としての職務は渾然としていて相即不離 であったが、被災で地域の状況や担当区が変わり、自らの日常生活と民生委員 活動が分離してしまったために、担当区の情報を集めることも難しくなった。

そのため、民生委員の活動の根幹である「住民の生活状態」の適切な把握(民 生委員法第14条第1項)が容易でない状況に陥ったのである。民生委員は、買 い物の途中などに要援護者や住民と出会った時は、世間話をするなど積極的に 声掛けをするよう努めているが、被災した民生委員の多くが自身の生活だけで なく、活動の継続に不安を抱えた状況であり、2013年12月の改選では20人 も交替することになった。

(2)地域力の低下と民生委員の職務の特性による負担や葛藤の増大

1章で述べたように、少子高齢化や家族・地域関係の希薄化に伴って、近年、

地域福祉を推進する民生委員の活動内容は多様化し、負担が増大している。さ らに被災地のX町においては、民生委員達は、無報酬であるのに震災後は「24 時間営業」(志津川、Gさん)になってしまい、より大変になったと強調する。

震災後は、しばしば民生委員の居住地と担当区が離れてしまっただけでなく、

鉄道の不通や代替バスの運行状況等によって交通手段が限られてしまい、住民 が必ずしも民生委員の都合に合わせてくれるとは限らないからである。たとえ

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ば、担当区の住民から行政に提出する扶養証明をすぐに出して欲しいと言わ れたり、高齢の親のことで施設に入居させるかどうかの相談を受けたり、仕事 帰りに県外から訪ねて来た家族に時間に関係なく応対したりすることも多く なった。

さらに、民生委員が新たに担当することになった、自身が居住する仮設にお いても、家族が近くにいない独居者の夜間緊急搬送に付添って、救急車に幾度 も同乗したりするケースも出てきた(志津川、Eさん; 志津川、Hさん)。従 来は独居高齢者であっても、民生委員を介して町社会福祉協議会が配布した緊 急医療情報キット「命っちくん」(受診医療機関や服用薬、連絡先など各種の 情報を封入した筒で、冷蔵庫に保管しておく)などで家族の連絡先は把握して おり、地域柄、家族や親族が近くに暮らしていることが多かったため、歌津の 山間部の一部以外では民生委員がそこまでサポートする必要がなかった。特に 震災までは、家族と同居の高齢者も多く、たとえ独居であってもしばしば親戚・

縁者が地域にいたので、何か困ることがあれば、血縁や手厚い行政の医療福祉 でカバーすることが出来ていた。だが、震災で各行政区のコミュニティが失わ れ、多世代同居型の家族・生活構造も変化する中で、仮設という人為的コミュ ニティにおいては、従来、行政のフォーマル・サポートネットワークの隙間を 支えてきた強靱な家族・親族縁や地縁といった地域力(14)が大幅に低下してい るため、民生委員や仮設自治会長などサポートネットワークの中核を担う人々 への負荷が増大している。「こういう時だからこそ民生委員に期待する声も挙 がるんだろうね。平和な時代だったら、手を差し伸べてほしいって言ったら親 戚とか近所の人とかいるじゃないですか。これまでの生活の続きだからね。こ ういう仮設だと、〔生活〕支援員とかそれなりの〔支援〕はあるだろうけど、

〔震災後は〕そういう需要で余計大変かなと思います。やっぱ〔民生委員の〕

力が〔必要になる〕」と民生委員は語る(歌津、Uさん)。

震災後に地域力が弱まり、住民の生活が大きく変化したことによって、民生

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委員の役割への期待も増している。しかし、民生委員自身も自宅が流出して、

仮設暮らしになったために居住地が変わったり、仮設の建設によって担当区が 大きく変化し、知らない地域を担当せざるを得ない上に、生活に余裕がない現 状では、活動は大きな限界を有している。そのために、仮設住民の見守り・声 掛けを担う生活支援員制度(15)(町社会福祉協議会が委託運営する被災者生活支 援センター)が、震災の約半年後に緊急雇用創出事業を用いて開始され、最盛 期には巡回型支援員130人強、滞在型支援員100人がそれぞれ担当仮設の巡回 を行っていた(本間 2013)。現在は、仮設入居者の自立を促すため人員は大幅 に縮小されたが、民生委員は日頃から生活支援員と情報交換を密に行い、2か 月に1回は会合の場を共にしている。

さらに震災前から存在する民生委員の職務の特徴そのものが、震災後により 葛藤を増幅している側面もある。なぜなら、民生委員は行政区長などと違い、

全ての住民に一律のサービスや連絡を提供しているわけではない。担当区の全 世帯の中でも、地域福祉的な側面から援助や見守り、相談を必要とする住民、

とりわけ独居高齢者や障害者を対象としている。そのために活動はしていて も、震災後の仮設住民からは、時折、「誰が民生委員かわからない」(志津川、J さん)、「〔あの人が〕民生委員だったんだ」(歌津、Uさん)という声が聞こえ てきたりする。ましてや、民生委員は活動の特性上、対象者が周囲から浮かな いように援助を提供しなければならない。いわば「黒子」として、当事者を支 えるのであり(16)、見守りや援助、生活保護への繋ぎなどで、周囲から蔑みを持 たれたり、地域で引け目を感じたりしないように「目に見えない形でやりたい」

(歌津、Uさん)し、相手のプライバシーに関わるため内情を深く知ることに なるので、相手の負担にならないように気を遣う。高齢者であっても家族がい れば、基本的には家族に任せ、訪問することで家族が周囲から変な目で見られ ないように気をつけている。

従来の一軒家であれば、隣と距離もあるが、仮設住まいではプライバシーが

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筒抜けになりやすく、訪問するにもセンシティブになる。そこで民生委員は、

生活支援員から仮設の情報を得ながら、特に配慮が必要な入居者に対しては定 期的に訪問して生活状況の把握に努めている。しかし、こうした民生委員活動 の趣旨と特性は一般には評価されにくく、一部の民生委員は援助対象ではない 住民から時に批判の声が聞こえてくることで葛藤を抱えている。「他の地区の 活動を聞いても本当に大変。目に見えない形でやりたいと思いつつ、それなり にやってても、そういう評価されない面もあるところに、ジレンマみたいなも のがある」と語る(歌津、Uさん)。

このようにプライバシーに配慮する民生委員の苦労を踏まえた上で、次節で は、まず小規模仮設の現況について論じ、続いて、問題がより顕在化している 大規模仮設の民生委員活動について考察を進めていく。

(3)大規模仮設における難しさ

小規模仮設は、基本的に当該仮設のある行政区の被災者が多く、大規模仮設 よりもコミュニティが形成されやすい。その一方で、津波被害がなかった入谷 地区や町外に建てられた小規模仮設は、色々な地区の住民で構成されたため、

当初は対応が難しいと考えられたが、震災後の新たなコミュニティが時間を経 て成熟したことにより、それほど目立つ問題は起きていないと民生委員は口を 揃える。もちろん、仮設住宅でしばしば問題になる、住民の生活時間のずれや 壁の構造上の薄さに起因する「生活音を巡る隣人との諍い」(戸倉、Aさん)

などは、時に起こるものの、基本的には良好なコミュニティが成立している。

民生委員と日常的に巡回する生活支援員との連携も順調である。

町外の小規模仮設に居住し、その仮設を担当する民生委員は、次のように語 る。「仮設住民のペースってあるよね。みんなに声掛けたら、はいってすぐ出 て行くような、そういうペースでの付き合いが多い。引っ込み思案の人とか、

ちょっとみんなに混ざるのがいやだとか、中にはそういう人達がいますけど、

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支援員さん達との話合いの中で、そういう人達にも声を掛けると、みんなが寄っ てくる。……人数が少ない仮設だから、今日早く行ったねとか、早く帰ってき たねとか、だいたい情報がわかるんです。暖かくなってくると、みんな夕涼み して話してますので」(戸倉、Bさん)。このように小規模仮設では、誰がいつ 出かけていつ帰って来たかなど個々の住民の様子がわかり、引っ込み思案の人 であっても、民生委員が生活支援員と相談しながら、行事や祭り、物資の配布 などで声掛けすると、顔を出してくれる。その結果、無理のない「仮設住民の ペース」で住民同士の付き合いができている。

それに対して、大規模仮設はどのような状況にあるのだろうか。大規模仮設 においても、色々な地区から集まった住民は、防災集団移転や住宅再建、災害 公営住宅への転出に伴って入居者が減少する中で、自治会の主催する各種の日 常行事やイベント・祭りを通じて親睦を深め、年々コミュニティの絆は深まっ ている(『河北新報』2015年8月23日朝刊)。だが、阪神・淡路大震災でも顕 在化した中高年男性のアルコール中毒など座視できない問題も生じている。

たとえば、担当区が津波で壊滅し、町外の大規模仮設に入居した民生委員は、

新しく担当となった自身の住む大規模仮設での活動の難しさを次のように指摘 している。「目が届かない部分が多分いっぱいある。引きこもりとか、なかな か見えない部分が出てきて、それが怖い。今までは出入りするのが見えたけど、

仮設は意外と見えるようで見えない。特に男性は出てこないから心配だね。先 日、ちょっと気になったお宅を訪問したら、いるよなって感じなんだけど、裏 から見るとカーテンも閉まっていて、わからない。でも障害の人達は、家族に さえ合図すればちゃんと出てくれる」(志津川、Hさん)。このように、大規模 仮設に居住する民生委員は、震災前の一軒家の時のほうが、住民の生活の状況 はよく見えたと指摘する。隣家と距離のある一軒家だと庭先から声を掛けたり もできたし、家族構成もよくわかっていた。だが、狭い仮設暮らしでは、皆が プライバシーに気を使ってカーテンも鍵も「ピシっと締め切って」おり、支援

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が必要な住民の生活に「どこまで目を配れるか」が心配である。

さらに、障害者よりもむしろ健常者のほうが気がかりと民生委員は考えてい る。特に男性の独居者の中には、震災で仕事や家族役割を喪失し、復興需要で 仕事の求人は沢山あっても、働く意欲を失っている人もいる。そうした場合は、

仮設内で人間関係を構築する意欲もないため、仮設の集会場の行事やお茶会に も参加したがらない。女性は引っ込み思案な人でも、誘えば外に出て来るが、

「男性は誘ってもなかなか出てこない」(歌津、Xさん)ことに、民生委員は 頭を悩ませている。また、小規模仮設では皆が集会場に出入りし、雰囲気も非 常に明るいが、大規模仮設では「あの人と仲が悪いから談話室(集会場)には 行かない」と民生委員の誘いを拒絶する人もいたりする(戸倉、Cさん)。そ れに対して、障害者の場合は家族と同居している人が多く、家族にさえきちん と合図をしておけば部屋の外に出て来るし、「〔仮設の〕狭い〔部屋の〕中で

〔たとえ障害に対する考え方が古い家族であっても〕障害だからって〔本人 を〕閉じ込めておけない」と民生委員は語る(志津川、Hさん)。

震災前は、多世代同居家族では障害児者の面倒を祖父母が見ていることが多 く、古い地域共同体の中で、高齢者の中には自分の子どもや孫の障害を大っぴ らにすることへの心理的な抵抗がやや見られた(町内地域活動支援センター

「風の里」ヒアリング)。だが、狭い仮設生活では多世代同居が困難になるこ とも多く、被災によって家族の生活状況も大きく変化したため、ボランティア やNPOによる障害児の預かりやデイサービスなどの活動が導入され(被災地 障がい者センターみやぎ 2014)、抱え込む傾向の強かった障害者家族が利用す るようになっている。また、家族と共に暮らす障害児の場合は、公的サービス、

特に行政の保健センターの保健師や支援学校との繋がりがあるため、孤立する ことはない。X町は小さな自治体で、保健師が障害児に対して乳幼児期からケ アやフォローアップを提供しており、震災後も他自治体からの応援保健師と一 緒に安否確認やフォローアップを実施した(町保健センターヒアリング)。こ

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れは、石巻市など大きな自治体では震災後に保健師の訪問確認が行われていな い(「被災地障がい者センター石巻」ヒアリング)こととは対蹠的であった。

さらに家族同居の身体・知的障害児者と同様に、独居か母親との同居が多い 精神障害者の場合も、震災前より出歩くようになっている。民生委員は、精神 的な障害のある人が仮設で生活することについて、当初は次のように心配して いた。「精神の方達もきついよね。新しい環境で暮らさなきゃならないじゃな いですか。〔震災までの地域では〕ずっと暮らしてるから、皆があの人がそう いう病気ってわかってるけど、新しい仮設に入ったら、また新しく〔関係を構 築〕しなきゃならないから大変」(志津川、Gさん)、「〔意味がわかりづらいこ とを〕言ったりするので、周りは先入観を持ってるっていうか。色々と厳しい こともあると思います」(志津川、Xさん)。しかし実際には、独居の精神障害 者の中には、仮設の集会場で開かれる催しで生活支援員の手伝いをしたり、民 生委員が高齢者宅を訪問時に置いてくる折り紙を準備して手助けをしたりする 女性もいる。精神障害者は震災後に再開した通所施設を利用しながら、民生委 員や生活支援員のサポートを受けて、概ね仮設の生活に適応できている(17)

このように大規模仮設の民生委員は、障害者が仮設で円滑に生活できている かを危惧する外部の声に対して、精神や知的障害のある人の場合は、「ちゃん と出歩いてデイサービスにも行って、利用しているので大丈夫」(志津川、H さん)、「一人暮らしでも障害のある人は言うこと聞くしいいのさ、素直だから」

(歌津、Qさん)と語る。

むしろ民生委員にとって、問題があるのは障害のない人である。資源ゴミの 日にアルコールの空き缶や瓶の量をみれば、入居者の飲酒量がわかるので、民 生委員は昼間から飲んでいることが多い人に対しては、巡回する生活支援員の 情報も参考にして、何気なく体調を気遣って「大丈夫?」と声を掛けたり、仮 設の自治会長に頼んで様子を見てもらったりもしている。そして、アル中の男 性が部屋で大声を上げたりするのは、「震災後のストレスがあるんだろうと思っ

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